産経新聞3/23の書評欄で高杉良佐高信・田原総一朗への退場勧告(毎日新聞社、2008)をとり上げている。
 田原総一朗の評価について、高杉は佐高信と同じようで、「田原総一朗の見当違いの驕慢は続き、それに踊らされている人たちもいる。この本は、そんな田原へのレッドカード(退場勧告)である。もちろん、それは間違って彼を「ジャーナリスト」と思っている人たちへのイエローカードを含む」と書いている。
 田原の評価は私自身はよく分からない。だが、佐高信から見れば、たいていの者が批判・罵倒の対象になるのではないかと思うくらい、佐高信の立脚点は相当に偏っているので、佐高信による評価も高杉良の同調も、にわかに首肯することはできない。
 それよりも、高杉良が「権力に追従する者はジャーナリストではない。早々に退場すべきだ!」とのこの書の帯の惹句をそのまま肯定的に紹介・引用していることが気になる。
 <ジャーナリストは権力の監視役>とかの、教条的な、あるいはステレオタイプ的な権力観・ジャーナリスト観が、古くさいまま、そのまま提示されていると思えるからだ。
 「権力」をさしあたり「国家」と理解すれば、「国家」はつねに<悪>ではないしつねに<悪>になろうとする傾向があるわけでもない。<必要悪>という見方も間違っている。
 「追従」とは言わなくとも、優れた、又は適切な「国家」活動はジャーナリストも遠慮なく?讃えるべきだ(と私は思う)。
 加えて、現代の大衆民主主義社会においてジャーナリスト・マスメディア人が果たしている役割を見るとき、<有力なマスメディア(という「権力」)の監視>もまた、ジャーナリストの重要な仕事であるべきだ。そのような発想を、佐高信や高杉良は少しは持っているのか。
 少し飛ぶが、政府・与党等(・これらの政治家)に対しては遠慮なく監視し批判するが、<有力なマスメディア(という「権力」)>に対しては舌鋒を鈍らせる、という傾向がジャーナリストの中にはないだろうか。
 国家・官僚・政治家を批判し揶揄するのは<進歩的>で当然なことと考えつつ、一方で、偏った、問題の多い報道ぶり等をしていても、例えば朝日新聞(社)については、当該マスメディアから原稿執筆の依頼が来なくなることを恐れて、正面から批判することを避ける、という心性傾向をもつジャーナリストあるいは文筆家(売文業者)はいないだろうか
 物事は客観的に、公平に論じてもらいたい。佐高信がいう「権力」とはおそらく「国家権力」のことだろう。「国家」以外にも、「国家」に働く人々よりも実質的には「権力」をもつ「私的」組織・団体があることを忘れるな。
 <国民主権>のもとでは「国家」のために直接に働く人々-議員(政治家)・政府関係者(・官僚)等は主権者・国民の<従僕>であるとも言える。そして、「国民」の<気分>や<意見>を反映する、あるいは(場合によってはそれらを<誘導>してでも)創り出すマスメディアの「権力」は、「国家」・政府関係者・議員等よりも大きいとも言える少なくともそのような場合がありうる)のだ。
 本の内容を読まずだが(佐高信の本を読む気はない)、高杉良のあまりに単純な佐高への同調を異様に感じて、書いた。