秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

駒村圭吾

1316/憲法学者の安保法案「違憲」論は正しくない-4。

 一 つまみ食いになるが、西尾幹二・同全集第11巻-自由の悲劇(国書刊行会、2015.06)の「後記」で、西尾は「立花隆、加藤典洋、姜尚中、内田樹、藤原帰一、中島岳志、加藤陽子、保阪正康、香山リカ」の名を挙げ、「いわゆる『リベラル派』と称せられる一群の勢力」の者たちについて、つぎのように語っている(p.747)。
 「彼らは専門知に長け、世界を詳しく知っているが、現実の判断となるとウラ目に出る」。
 「彼らには学問上の知識はあるが、判断力はなく、知能は高いが、知性のない人たちなのだ」。
 もともとは外国人移民問題に関する西尾の論敵およびその「後続部隊」の者たちについての文章なのだが、<リベラル派>憲法学者・長谷部恭男に対する指摘としても読めなくはない。
 戦後教育の優等生としての長谷部恭男は、「専門知に長け」、「学問上の知識はあるが」、「現実の判断」・「判断力」はじつに乏しいのではないだろうか。安倍内閣による憲法解釈の変更の背後にある「現実」=安全保障環境の変化については別に扱う。
 二 日本共産党機関誌・前衛2015年7月号に、安保法案を批判する日本共産党・志位和夫の最近のテレビ発言類が資料として掲載されている。それによると、志位はいわゆる新三要件の第一の<存立危機事態>の認定について、こう述べて批判している。
 「明白な危険」かどうかを「判断するのは政府なんです」、「政府の一存で広がっていくわけですね」(p.54)。
 これがなぜ批判となるのか、さっぱり分からない。<存立危機事態>に該当するかを認定するのは「政府」であってなぜいけないのだろうか。最高裁(長官)であれば、あるいは国会(・両院議長?)であればよいとでも日本共産党は主張しているのだろうか。まずは「政府」が判断・認定せざるをえないのは当たり前のことだろう。
 にもかかわらず日本共産党が問題視しているのは、「政府」として安倍政権のような自民党中心内閣を想定しているからに他ならないだろう。そして、安倍政権は適切にこの具体的「判断」を行なわず、濫用するに違いない、という予断と偏見を持っているのだ。このような、思い込み・予断を前提にしているかぎり、まともな批判になるはずがない。もっとも、日本共産党からすれば、安倍晋三を首班とする内閣は、アメリカとともに「二つの敵」である日本の大企業(独占資本)の利益に奉仕する内閣なので、日本共産党の基本方針(綱領)自体が歪んでおり、まともなものではないことに由来することではあるが。
 このような、「時の政府」の恣意的判断によることとなるという批判は、日弁連会長・村越進の昨年の抗議声明にも見られる。いわく-「…等の文言で集団的自衛権の行使を限定するものとされているが、これらの文言は極めて幅の広い不確定概念であり、時の政府の判断によって恣意的な解釈がされる危険性が極めて大きい」。
 そしてまた、前回に述べたように、長谷部恭男の批判の仕方とも同じだと言える。長谷部が読売オンライン上の一文で最も強く表明していたのは、「現在の政府」あるいは「時々の政府」に対する不信だった。
 日本共産党(・党員憲法学者)のような教条的議論はせず、共産党中央からの<指示>とも無関係だろう長谷部恭男の<非共産党・リベラル>意識は尊敬しなければならないかもしれないが(?)、しかし、一見アカデミックな装いをもって語られる内容は、上のように日本共産党の<政治的>主張と同一だ。民主党や共産党の「政府」ならば信じられるかと問いたくなるような感情的な批判の仕方は「学問」とは言い難いだろう。
 なお、この欄に掲載しているが、2015.06.09政府見解は、新三要件は「いかなる事態においても、我が国と国民を守ることができるように備えておくとの要請に応えるという事柄の性質上、ある程度抽象的な表現が用いられることは避けられないところである」と述べたうえで、具体的「判断」について、さらにつぎのように述べている。
 「ある事態が新三要件に該当するか否かについては、実際に他国に対する武力攻撃が発生した場合において、事態の個別具体的な状況に即して、主に、攻撃国の意思・能力、事態の発生場所、その規模、態様、推移などの要素を総合的に考慮し、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性、国民が被ることとなる犠牲の深刻性、重大性などから客観的、合理的に判断する必要があり、あらかじめ具体的、詳細に示すことは困難であって、このことは、従来の自衛権行使の三要件の第一要件である「我が国に対する武力攻撃」に当たる事例について、『あらかじめ定型的、類型的にお答えすることは困難である』とお答えしてきたところと同じである」。
 三 長谷部恭男は憲法審査会で参考人として、今次の安保法案が拠る憲法解釈は①従来のそれとの<論理的整合性を欠く>、②<立憲主義を害する>、と述べたらしい。
 この①についてはすでに触れた。1972年政府答弁書が示した「基本的な論理」は維持されており、批判はあたらない。
 上の②は、長谷部が述べたという<法的安定性を害する>という批判と、まったくかほとんど同じだと見られる。
 結局のところ、長谷部恭男の頭の中では<集団的自衛権行使否認>=憲法九条の規範的意味、という観念がこびりついてしまっているので、<集団的自衛権行使容認>の解釈に変更することは憲法違反=立憲主義違反であり、したがって<法的安定性を欠く>ということになる、というだけのことだ。
 長谷部恭男が1972年以降の数多くの政府答弁・内閣法制局見解を丁寧に読んで堅く信じてきた(?)憲法九条の規範的意味、自衛権にかかる憲法適合的解釈、が崩されたがゆえに立腹し、長谷部の内心での「法的安定性」が揺らいでいる、のだと思われる。
 すでに書いたようなことだが、<よい子の僕ちゃんは政府が40年以上も集団的自衛権行使は違憲と言ってきたのでギリギリそうだろうと信頼しそう解釈してきたにもかかわらず、急にそれを変更してよい子の僕ちゃんの『憲法』の意味を変えるなんて、勝手なルール破りで、よい子の僕ちゃんの内心の(精神的)安定性をひどく害する>と喚いているようなものだ、と表現できる。<信じた私が悪いのよ>という類ではないか。
 政府の憲法解釈は変更しうる。産経新聞記者の中では信頼度の高い阿比留瑠比は産経新聞6/18付の紙面で、民主党・枝野幸男は2010年6月に朝日新聞のインタビューに答えて「行政における憲法の解釈は恣意的に変わってはいけないが、間違った解釈を是正することはあり得る」と語った、と記している。また、菅直人内閣官房長官・仙谷由人は当時に「憲法解釈は政治性を帯びざるを得ない。その時点で内閣が責任を持った憲法解釈を国民、国会に提示することが最も妥当な道だ」と語ったらしい。憲法解釈が一般に「政治性」を帯びるとは断じ難いだろうが、枝野、仙谷発言の基本的趣旨は、妥当なところだ。こうした<憲法解釈観>が奇妙であるならば、民主党内閣時代に憲法学者たちは批判の声を大きく上げるべきだった(そこで阿比留瑠比の文章のタイトルは「民主政権に甘かった憲法学者」となっている)。
 ところが、朝日新聞6/12によると、憲法学者・駒村圭吾(慶応大学)は、「1972年の政府見解はすでに『憲法の重み』を持っている」と発言している(聞き手・二階堂友紀)。これには驚いてしまった。こうまでただの政府見解の法的意味が高められては、その政府見解にとっては有難迷惑だろう。
 この駒村という憲法学者はおそらく、今次の法案を批判するために政治的・戦略的に1972年政府見解は「憲法の重み」をもつと言っているのだろう。そして、この政府見解を変更するためには、何と「憲法改正」が必要だとまで述べているのだ。
 一般論として、古い政府見解は新しい政府見解にもとづく法律の制定・変更によって、当然に変更される。政府見解よりも国会の憲法解釈の方が優位する。憲法改正を待つまでもない。
 朝日新聞に登場するのだから(朝日新聞が登場させるのだから)当然なのかもしれないが、この駒村圭吾がまともな憲法学者だとはとても思えない。かつての内閣の憲法解釈がなぜ「憲法の重み」を持つのだ。馬鹿馬鹿しいほどだ。 
 さらに続ける。  

0162/読売新聞5/20朝刊-「気鋭の改憲論者どこに」。

 読売新聞5/20朝刊に、前木理一郎という署名入りの記事「気鋭の改憲論者どこに」がある。それによると、こうだ。
 1.「全国憲法研究会」の5/12の研究集会(成城大)に行ったら、司会の駒村圭吾(慶応大学)が<憲法60年で還暦お祝いなのに「赤いちゃんちゃんこ」ではなく「経帷子」(仏式の際死者に着せる白い着物)を着さされそうな雰囲気だ>旨言った。「憲法改正を憲法が死ぬととらえるのは穏やかではないが、…憲法学界は「護憲」派が大多数を占めている」。
 2.有望らしい東京大学教授の石川健治(1962-)が論座6月号(朝日新聞社)で<9条2項を改正して自衛隊に正当性を与えた上で国民の自由を確保すできるだけの力量は…日本の議会政治にはいまだ備わっていない>と書いているのを読んでショックを受けた。
 3.55年生まれ組として注目されているのが松井茂記、棟居快行、安念潤司各教授だが、棟居は「9条は自衛隊の存在を前提としない文字通りの丸腰論で、とっくに賞味期限は切れている」と石川を批判する。但し、安念は「憲法〔学?-秋月〕の世界では改憲論者は、はっきり言って二流学者」と言った。
 以上のように述べたあと、「同業者から認められ、政府が手を伸ばしたくなるような気鋭の改憲論者の登場を心待ちにしたい」と締め括っている。
 小さな記事だが、なかなかよく現在の憲法学界の雰囲気を伝えている。いくつかの感想・コメントを記しておく。
 1.私は勝手に憲法学者の80-90%は護憲派(とくに九条改憲反対派)だと想像しているが、この記事は「大多数」と表現している。
 「憲法研究会」なるものは、例えば日本評論社から同会編の憲法改正問題という本(雑誌特集号?)を刊行して「護憲」のための主張をしている、護憲派ばかりが集まっている研究会だと推測される。
 2.石川健治のものを読んだことはないが(とくに「論座」など買うわけがない)、この人も東京大学教授なのか。日本の「議会政治」という<権力>側に対して強い又は執拗な<不信感>を持っているようだが、「議会政治」を支える国民一般もまた<信頼>しておらず東京大学という「高み」から<蔑視>しているのだろう。それにしても東京大学の憲法学教授には「左翼」が多すぎはしないか。いや「左翼」ばかりではないか。
 3.たまたま前々回にこの記事をきちんと読まないままで肯定的評価を書いた棟居快行教授が、この記事の引用が正確である限り、明確に9条(2項)を批判している。「とっくに賞味期限は切れて…」と私も思うが(占領初期の数年だったのではないか)、この表現は九条二項改正論支持を意味しているのではないか。とすれば、珍しい、まともな「改憲論」の憲法研究者ではないか。
 上では言及しなかったが、棟居は改憲論を支持すると政府・与党に引っ張られて「勉強できなくなる」から護憲派になっている者が多いのではないかとの「ユニーク」なことを言っているようだ。当人もきっと忙しくなるのはイヤなのだろう。だが、この見方は<ジョーク>の類だと思われる。というのは、護憲派の憲法学者もまた、労組・「市民」団体等々への九条護持のための講演やら研修やらで現在すでに忙しく、「勉強できなくな」っている可能性も十分あるからだ。
 ともあれ、「同業者から認められ、政府が手を伸ばしたくなるような気鋭の改憲論者」
が必要であることは間違いない。だが、現在までの憲法研究者の「養成」の仕方(主として指導教授が大学院で行う)からすると、大きな期待をすることはできず、私はほぼ絶望的だと何となく思っている。
 東京大学の小林直樹芦部信喜両教授のもとで何人の憲法研究者が育っただろう。東京大学に限らず、小林直樹、芦部信喜両氏のような九条改正反対の教授のもとで何人の憲法研究者が育っただろう。そして、そのような、「憲法研究会」に参加しているような彼らこそが、法学部学生に、あるいは高校までの教員免許を取ろうとする教育学部等の学生に「日本国憲法」を講義してきたのだ。
 現在の国や地方の「官僚」や学校教員に(さらにはマスコミ関係者にも)、そのような<憲法教育>が影響を与えていない筈はない。いつかも書いた気がするが、暗然たる思いがするし、指導的な憲法学者(故人も含む)の社会と歴史に対する「責任」はきわめて大きい、と感じる。

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