秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

青林堂

1642/日本共産党・不破哲三の大ウソ35-「自主独立」?。

 久しぶりに、<日本共産党・大ウソ>シリーズ。
 不破哲三・古典教室第1巻(新日本出版社、2013)。
 この著の一番最後の章のそのまた最後を一瞥していて、さすがに日本共産党、不破哲三さん、自分の党に有利に言いますねぇ、と感じ入る部分があった。
 産経新聞の人々も、「日本会議」の人々も、きっとこんな本に目を通すことはないだろう。それどころか、所持もしていない。いやそれどころか、存在を知りもしない。
 不破哲三は、欧州の、正確には(かつて「ユーロ・コミュニズム」の牙城だった)イタリアとフランスの共産党についてこう言う。
 1960年に日本の共産党が「衆議院で一議席しか」なかったときに、「イタリアでは一〇〇を超える議席」をもち、フランス共産党は「野党第一党の地位」を持っていた。
 「いまではイタリアでは共産党がただの民主党に右転落してしまい、フランスでは共産党がいろんな理由があってかなり大きく落ち込んでい」る。p.282。
 以上は事実だから、最後のフランスの「いろいろな理由」は知りたいが、よろしい。
 問題は、これを日本共産党の自慢話に変えていることだ。
 イタリアやフランスの共産党は「ソ連崩壊の大波に、自主性を持っていなかった」ために「呑まれて」しまった。「ソ連流『マルクス・レーニン主義』以外に理論を持っていなかった」。そのなかで日本共産党は…。「そういう党は、いま資本主義の共産党のなかで日本にしかありません」。p.282-3。
 こういう状況の理由、背景は種々ある。日本共産党がよく頑張ったから、立派だったからだけでは少なくともない。
 <日本共産党がよく頑張ったから、立派だったから>というのも、きわめておかしい。
 第一に、この欄でかなり詳しく記したが、日本共産党・不破哲三がソヴィエト連邦を「社会主義国」ではなかった、すでにスターリン時代に道を踏み外して「社会主義国」ではなくなっていた、と言ったのは、1994年7月の党大会のことだ
 それまで、1991年のソ連共産党解散とソ連邦自体の解体があっても、その当時、一言も、ソ連は「社会主義国」でなかった、などと主張していない。
 スターリンを批判しソ連共産党も批判していたが、それまではあくまで、ソ連は<建設途上の>または<現存する>「社会主義国」だという前提のもとで、「社会主義国」あるいは「国際共産主義運動」内部で生じた、又は生じている問題として、スターリンやソ連共産党指導部を批判していたのだ。
 したがってまた第二に、この時点では、『マルクス・レーニン主義』を、日本共産党も掲げていた。
 文献資料的な根拠をすぐに見つけられないが、レーニン自体に遡ってソ連の「過ち」を指摘していたのでは全くなかった。
 <マルクス・レーニン主義>と言わないで<科学的社会主義>と言うべき、まだ<マルクス主義>は許せる、と不破哲三が言ったのは、この1994年よりも後のことでだ。
 「ソ連流『マルクス・レーニン主義』以外に理論を持って」いた、という言い方は、ほとんどマヤカシだ。
 日本共産党もまた、ずっと一貫して長らく「マルクス・レーニン主義」の党だったはずだ。
 また、かりに「ソ連流『マルクス・レーニン主義』」以外の理論を持っていたとして、「ソ連流」のそれを批判的に扱うのであれば、その中にレーニンそのものは入るのか入らないのかを明確にすべきだろう。
 ところが、日本共産党・不破哲三は、「ソ連流」の中にレーニンが入るとは、現綱領上も、絶対に言えない。
 レーニンは、基本的には、正しく「社会主義への」道を歩んでいた、とされているのだ(その論脈の中で<ネップ>も位置づけている)。
 不破哲三は言う。「科学的社会主義の理論を自主的に発展させ」た、「どんな大国主義の理論にも打ち勝」ってきた。p.282-3。
 ここに現在の日本共産党・不破哲三の、喝破されたくはないだろう、本質的な欺瞞がある。
 つまり、共産党相互間の問題、あるいは共産党の問題と、一方での「国家」の問題とを、意識的に、(党員向けにもワザと)混同させているのだ。
 <自主独立>とか<大国主義批判>とかは、1991年・ソ連解体までは明らかに、ソ連共産党との関係での、ソ連共産党(・その指導部)を批判するスローガンだった
 それを、1991年・ソ連解体後は、<ソ連型「社会主義」国家>自体を批判してきたのだ、と言い繕い始めた。
 <自主独立>とか<大国主義批判>は(ソ連(・中国)共産党ではなく)、<ソ連型「社会主義」国>を批判するスローガンだったかのごとく、変質させている
 これは大ウソであり、大ペテンだ。
 不破哲三は、平然とウソをつく。党内の研修講義の場でも、平然とウソをつく。 
 その証拠資料の一つが、この2013年9月刊行の書物だ。
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 自民党の田村重信らの書物に、日本共産党についての知識・認識不足があるのは、この欄ですでに記した。
 田村重信=筆坂秀世(対談)・日本共産党/本当に変わるのか?(世界日報社、2016)の田村発言の一部について。
 山村明義・劣化左翼と共産党(青林堂、2016.03)。
 これも、ひどい。
 この著で山村は、しきりと「マルクス・レーニン主義」という言葉を(最後まで)使っている。「左翼」はともかくも、日本共産党がこの概念・語を避けていること、むしろ禁止していると見られることを、この人は知らないままで、表記の本を出している。
 恥ずかしいことだ。<劣化保守>、あるいは<劣化・反共産主義>だと言いたい。
 しかも、山村自身が自分は<マルクス・レーニン主義>に詳しいのだと言っているのだから(しきりと匂わせているのだから)、苦笑してしまった。
 また、<劣化左翼>と<共産党>の区別を何らつけないで叙述していることも、致命的な欠陥だ。
 この本のオビには、<保守原理主義者>としてこの欄で取り上げた、「憲法改正」に大反対している、倉山満の<激賛>の言葉が付いている。
 倉山満が激賞・激賛するようでは、この本の内容もまた、すでに示唆されているのかもしれない。

1283/「保守原理主義」者の暗愚2-兵頭二十八・日本国憲法「廃棄」論。

 兵頭二十八が日本国憲法<無効>論者であることは早くから知っていたが、おそらく一回だけこの欄で触れただけで、無視してきた。その間も、月刊正論(産経)は冒頭の連載コラム(?)の執筆者として、けっこう長い間、兵頭を重用してきたはずだ。
 兵頭二十八・「日本国憲法」廃棄論(草思社文庫、2014)はそのタイトルとおりの主張をする書物だが、同時に憲法「改正」に反対する旨をも明確に語っている。
 ・「偽憲法〔日本国憲法〕を『改正』などしてはなりません。改正は、国民史にとって、とりかえしのつかない、自殺的な誤りです。偽憲法は、まず廃棄するのでなければなりません」。
 ・「改憲」〔=憲法改正〕は、1946年に日本人が天皇を守れなかった「歴史を意思的に固定する行為」で、それをすれば、かつての「全面敗北」の再現という「どす黒い期待」を外国人に抱かせてしまう。(以上p.11-13)
 ・「『改憲』〔=憲法改正〕しようと動きまわっている国会議員たちのお仲間は、じぶんたちが国家叛逆者であるという自覚がない」。
 ・主権在民原理に反する憲法・詔勅等の禁止を宣言する前文をもつ「偽憲法など、もう捨てるほかにない」。「改憲」によりそんな宣言を「有効にしようと謀るのは、ストレートに国家叛逆」だ。
 ・「…偽憲法に対するわたしたちの態度は、破棄であり、廃用であり、消去でなくてはなりません」。(以上、p.46-47)。
 ・有権者国民の「国防の義務」を定めない日本国憲法は「西洋近代憲法の共通合意」を否定するもので、「そもそも、最初から『違憲』なんです」。
 ・そんな「偽憲法の規定などを墨守して『改憲』を目指そうとしている一派は、囚人がじぶんの引っ越し先の新牢舎を建設しているだけだという己が姿に、じぶんの頭では気がつけないのでしょう」。(以上、p.276)
 このように憲法改正論者・同運動を強烈に?批判しているから、日本共産党や朝日新聞等々の憲法改正(とくに九条2項削除等)を阻止しようとしている「左翼」たちは、小躍りして?喜ぶに違いない。
 また、憲法<改正>によって「美しい日本の憲法」あるいは「自主憲法」を作ろうとしている「一派」?である櫻井よしこ・田久保忠衛・中西輝政・百地章等々や平沼赳夫等は、「改憲」を目指す政党である自民党の安倍晋三等々とともに、「国家叛逆者」であり、「じぶんの引っ越し先の新牢舎を建設している」「囚人」だと、罵倒されることになる。
 では、「改正」ではなく「廃棄」あるいは「破棄・廃用・消去」(以下、「廃棄」とする)を主張する兵頭は、「廃棄」ということの法的意味・法的効果をどのように理解しているのだろうか、また、どのようにして(誰がどのような手続をとって)「廃棄」すべき(又は「廃棄」できる)と考えているのだろうか。
 この問題についての兵頭の論及は、はなはだ少ない。上の書物の大部分は日本国憲法の制定過程の叙述だからだ。そして、「廃棄」ということの厳密な法的意味について明確に説明する部分はないと見られる。しかし、「廃棄」の方法または手続については、おそらく唯一、つぎのように述べている。
 「『そもそも不成立』であったことの国会決議が望ましい」。(p.47。なお、p.273でも「国会」での「不成立確認決議」なるものを語っている)。
 不成立であるがゆえに効力がない(無効である)ということと、成立はしているが瑕疵・欠陥があるために成立時から効力がない(無効である)ということは、厳密には同じではない。しかし、この点はともあれ、おそらく「廃棄」を<不存在>の確認または<無効>の確認(または宣言)と理解しているのだろう。
 しかし、驚くべきであるのは、その確認または(確認の)決議の主体を「国会」と、平然と記していることだ。
 この議論が成り立たないことは、日本国憲法「無効」確認・決議を国会がすべし(できる)とする日本国憲法「無効」論に対する批判として、すでに何度か、この欄で述べてきた。倉山満ですら?、この議論は採用できないとしている。
 繰り返せば、兵頭が戻れとする大日本帝国憲法のもとでは「国会」なるものはない。帝国議会は衆議院と貴族院によって構成されたのであり、「参議院」を両院の一つとする「国会」などはなかった。また、帝国議会議員と「主権在民」下での有権者一般の選挙によって選出される日本国憲法下の国会議員とでは、選出方法・手続自体も異なっている。
 兵頭が「帝国議会」ではなく「国会」という場合のそれが日本国憲法下のものであるとすれば、論理矛盾・自己撞着に陥っていることは明らかだろう。
 兵頭が毛嫌いしている「主権在民」原理のもとで成立している参議院を含む日本国憲法下の「国会」が、なぜ日本国憲法、兵頭のいう「偽憲法」を「廃棄」できるのか? 論理的にはひょっとすれば、「廃棄」と同時に自ら(国会)も消滅するということになるのかもしれないが、自らの親である憲法を子どもが否定することは、自らを否定することに他ならず、そのようなことはそもそもできない(絶対的に不能である)とするのが、素直でかつ論理的な考え方だろう。
 それにまた、「…が望ましい」とはいったいいかなるニュアンスを含ませているのだろうか。他にも、望ましくはないけれども「廃棄」できる方法または主体はあるとでも考えているのだろうか。
 このような、容易に疑問視できる兵頭の思考の欠陥(暗愚さ)は、つぎのような叙述において、さらに際立っている。
 ・「最高裁判所」は長沼ナイキ訴訟において「憲法九条の二項(の少なくとも後半部分)は無効である」と判断すべきだった。
 ・「日本国政府」の側から、「長沼ナイキ訴訟」のような裁判を起こし、「最高裁判所に」、「九条二項の文言は、…国際法、および自然法の条理に反し、制定時に遡って無効である」との「判断」を求めるべきだ。(以上、p.293)
 兵頭は上の部分の直前に、国家の自衛権という自然権を禁じる憲法は「最初から『違憲』に決まっている」と書いている。この点について立ち寄れば、集団的自衛権も含めて現憲法は禁止しておらず行使もすることも可能という憲法解釈が現内閣によって採られたことは周知のことで、その意味で現憲法は「自然権を禁じる」という理解は正確ではないだろう。
 が、しかし、重要なのは、日本国憲法は不成立とか当初から「無効」だとか兵頭は言っておきながら、平然と?、日本国憲法下のもとでその定めに従って成立している「日本国政府」とか「最高裁判所」の行動・役割を語っていることだ。唖然とするほかはない。
 兵頭は、日本国憲法は「無効」で「廃棄」すべしとしつつ大日本国憲法の復活とその改正を主張している(p.273-4)。一方で「日本国政府」や「最高裁判所」を語る部分は、日本国憲法の成立とその有効性を前提としていると理解する他はない。明治憲法下では「最高裁判所」なる司法機関はない(「大審院」があった。またその権能は現憲法下の最高裁判所と同じではない)。この概念矛盾又は論理矛盾に気づいていないとすれば、相当に暗愚であって、<保守原理主義>という<主義>を私が語るのも恥ずかしいレベルにあると思われる。
 さらに言えば、長沼ナイキ訴訟やその「ような裁判」について語る部分は、現憲法下の現在の訴訟制度を前提にするかぎり、まったく成立しえない、<空虚な>議論だと思われる。
 第一に、現在の最高裁判所は法律等の違憲審査権をいちおうは持つが、現憲法・その条項の一部が(国連憲章等に違反して?)「無効」だとの判断を示す権限を持たない。憲法は「最高法規」とされている。
 第二に、政府が最高裁判所に現憲法・その条項の一部の「無効」判断を求める訴訟などそもそもありえない。
 高校生に説くようなことだが、森林伐採を認める具体的行為を争う中で目的としてのナイキ基地建設が憲法九条に違反すると長沼ナイキ訴訟の原告たちは主張し、第一審判決はその憲法問題に立ち入ったのだった。憲法九条自体が何らかの上位法に違反して「無効」であると被告・国側は主張したのではなかった。従って、同様の裁判を「今度は政府側から起こす」などという発想自体が幼稚なもので、誤っている。
 ついでにいえば、具体的事件を離れて、政府が法律や個別的行為の合憲性又は違憲性の確認を最高裁判所に求めることのできる訴訟制度などは現行法制上存在していない。ましてや、現憲法・その条項の一部の「無効」の確認を求める訴訟制度が存在しているはずがない。そもそもが、「政府」自体が現憲法の有効性を前提にして成立していることはすでに述べた。
 このように、日本国憲法制定過程に関する叙述には興味深いものがあるとしても、現実の問題解決方法に関する兵頭の上記書物の考え方はまったく採用できないものだ。このような議論を「左翼」憲法学者が読めば、一読して大笑いしてしまうに違いない。それもやむをえないほどに、その論理・主張内容は幼稚で問題が多い(最近に言及した渡部昇一のそれも同様だ)。
 Japanism21号(青林堂、2014.10)の中の「左翼アカデミズムを研究する会」名義の文章の中に、以下のようなものがある。
 ・「大学における左派インテリの学術的業績の高さは、保守系知識人が束になってもかなわないレベルにあるといっても過言ではない」(p.119)。
 同様の感想を、残念ながら憲法に関する議論について持たざるをえないところがある。<保守派>論者・知識人は、「左翼」学者たちと同等以上にわたりあえる主張と議論をしなければならない。隙だらけの粗っぽい議論をしていれば、(身内が読むだけならばそれでよいかもしれないが)「左翼」が大嗤いして喜ぶだけだ。
 やや唐突だが、百地章、西修、八木秀次らの<保守>派憲法学者は(八木は憲法学者を廃業したのだろうか?)は、兵頭二十八、渡部昇一、あるいは倉山満らの日本国憲法<廃棄>論が理論的・概念的にも現実的にも成立し難いことを、月刊正論(産経)等においてきっぱりとかつ明確に述べておくべきだ。渡部昇一らに対する「自由」がないとすれば、もはや学問従事者ではありえないだろう。

1240/「アカデミズムの世界における左翼支配」の内幕-東京大学関係者 。

 一 ジャパニズム16号(2013年12月号、青林堂)に、表紙にはタイトルが載ってはいないが、「覆面インダビュー/元関係者が、『アカデミズムの世界における左翼支配』の内幕を明かす」というインタビュー記事がある。「アカデミズムの世界」とは、大学または学界と理解して差し支えないだろう。
 「覆面」の「元関係者」は「W」とイニシャル化されているが、本当であるとの保障はない。但し、「まさに東大で、そうしたことを感じましたね」などの発言があることからすると、この発言者は東京大学の教員・研究者を最近か近年に退職した人物であるようで、関心を惹く。
 何よりも、この元東京大学教員らしき人物の、上記のごとくタイトル化される発言内容は、この欄で私があれこれの文献を通じて指摘または推測してきたことと符合していることが注目される。断片的にしか指摘できなかったことを、この人はけっこう長く語っている。
 その他、「カトリック・キリスト教」や「仏教」界の「左翼」性への言及がある部分はほとんど知らなかったことだ。
 重要な記事だと思うので、今年、2013年の最後に、できるだけ忠実に紹介しておく。
 二 最初の質問に対する答えは、ほとんど全面的に支持または納得できる。全文は以下のとおり。
 「確かに、文系アカデミズムの多くの分野においては、左翼支配の構造が完全に出来上がってしまっていますね。研究者を育てる大学院は、学部までとは異なり、徒弟制のような形態のところが多い、そうなると、師匠である教授が左翼なら、弟子である学生も左翼にならないと生きていけない、教授の性格にもよりますが、左翼的な教授としては自分と同じくする手下を増やしたいわけですから、教授に逆らうような学生は、就職先(アカデミック・ポスト)を紹介してもらい辛い。そうなると、それに耐えられない学生は、脱落していく。結果、左翼学生だけが残り、研究職に就いていく。一般公募の公平な研究職採用試験にしても、採用側の教授に左翼思想の持ち主が多い訳ですから、結局『リベラル』な研究者の方が就職が有利です。文系アカデミズムの世界では、このような構造で、左翼が再生産されていきます、これも教授の性格によりますが、左寄りの教授が多い組織では、保守的な言論は抑圧される事さえありますね。私の印象では、国立大学では概して、歴史学、教育学、法学、社会学の分野で左翼が強いと感じますね」(p.56-57)。
 「歴史学、教育学、法学、社会学の分野で左翼が強い」とは、この欄で私が推測的に書いたことがある(中西輝政の発言によって、「政治学」にも触れたこともある)。なお、「左翼」の意味が厳密には問題だが、上の発言では「リベラル」と換言されていることも注目される。また、「左翼」とはおそらく(日本共産党員である場合はもちろんだが)、共産党シンパの他に、日本共産党またはマルクス主義・コミュニズム(共産主義)を批判・敵視しないという意味での、「容共」者も含んでいると考えられる。
 三 東京大学法学部の「内幕」にも言及があり、また「左翼」的宗教にも言及がある。この人物は同学部に所属したことがあるか、同学部の「内情」をかなり詳しく知りうる立場にあったように思われる(こんな発言をしている<反左翼>心情者であること等からすると前者ではなく、後者と推測できるかもしれない)。以下は要約的紹介で、「」は直接の引用。
 <「戦後の東大法学部は完全に左翼的言説が支配しています。『左翼の牙城』と言ってよい」。今の状況は知らないが戦後のかつての東大法学部には「キリスト教徒」でないと教授になれないとの「暗黙の了解」があったと聞く。中でも「無教会派のクリスチャン」。「つまり、戦後日本の法学界の言論・思想空間にはその背景に、左翼的なプロテスタント・キリスト教的なるものが存在しています」。「ですから当然、靖国神社に関する政教分離訴訟では、心情的にも『反靖国』の立場を取ります。実際のところ左派系の法学者は、靖国神社も含めて『神道』というものに対して無理解であるのみならず、嫌悪感さえ感じているようです」。戦後に保守系教授が東大教授から追放されたこともあり、「いまだに保守系の法学者は傍流」に追いやられてしまっている。かかる環境の下で育つ学生が法曹になるのだから「日本の文化伝統を無視した判例」が多発するのも当然だ。>
 なお、たしかに、靖国神社の宗教は「神道」で、<保守>派が靖国神社を擁護しているとすると、「左翼」とは<反神道>派でもあり、宗教の中でもキリスト教や仏教の中には「左翼」が浸透しやすい、と言えそうだ。
 四 東京大学の中での駒場と本郷の違いにも言及がある。
 <「本郷と駒場では雰囲気が異なります。本郷…の教授陣はイデオロギー的には幅が広く、左翼の方が数は多いですが、ノンポリの教授や、数は少ないが保守系の教授も」いるのに対して、駒場(教養学部)は「戦後はまさに『左翼の牙城』になって」しまった。「反ヤスクニ」の高橋哲哉も駒場所属だ。>
 以下は再び東京大学全体の話のようだ(但し、駒場が強く意識されているようでもある)。
 <学部学生の「中道化・保守化(脱左翼化)」は進んでいるが、「教授陣は相変わらず左寄り」で、「左翼系の教授たちは、神道に対しては『国家との厳格な分離』を要求しますが、キリスト教には甘いというダブルスタンダードが見受けられ」る。法人化前の純粋国立大学の時代にキリスト教会から譲り受けてのパイプオルガン設置の運動があり、実際に駒場に設置された。また、「左翼」=「反権威主義」ならばまだ辻褄は合うが、東大の「左翼」は「リベラル」を自称しつつも「権威主義的」だ。中沢新一の採用決定の撤回はその例。(中沢は「左側」の人かもしれないが)「権威主義的なプライドが、イデオロギーの親和性よりも優先されたんでょうね」>(p.58-59)。
 五 仏教にも言及がある。<「キリスト教だけでなく、戦後の仏教界も左翼イデオロギーが強い」。「『教団の公式なイデオロギー』としては左翼的(反靖国的)である宗派が多い」。「戦前の反省に立って」のようで、「仏教系大学の学者には、政治的な左翼的発言をする人も多い」。但し、「日本仏教は…日本の伝統文化(皇室)と結びついていますから、当然に保守的な人もいることはいます」。
 さらにキリスト教にも話題は続き、高橋哲哉・姜尚中はクリスチャンだという。
 仏教寺院の中にも「左翼」のものがあることはこの欄に記したことがあり、姜尚中が講座ものの講師を担当していた著名な寺院があることも知っている。これらは、その特定の寺院名を出していずれ書きたいと思っているので、ここでは立ち入らない。
 六 最後に、この世界の「正常化」の可能性についての質問に答えている。
 <「左翼再生産の構造」は出来上がってしまってはおり、「世間一般の流れからは遅れるとは思いますが」、「徐々に変わりつつある」。「保守の土壌はまだまだ脆弱で、左翼の土壌はまだまだ強靱」なので、「保守陣営」は結束し、「ようやく芽生えてきた『保守の灯』を消さない」ことが肝要だ(p.60)。>
 以上。大学・学界では「保守の土壌はまだまだ脆弱で、左翼の土壌はまだまだ強靱」であり、「ようやく芽生えてきた」「保守の灯」と表現されるほどのものであることを国民一般、大学生や将来に大学に進学しようと思っている者の親や家族は知っておいてよいだろう。
 この人が最初に言っていたことは適切な認識だと見られること、および「左翼が強い」分野の一つとして「法学」が上げられていたことも妥当と見られることは、最近に紹介・言及した、憲法学者・刑事法学者・某特定大学法学部の50名以上の教授たちによる特定秘密保護法反対声明・意見においても相当十分に例証されているものと考えられる。

1215/ジャパニズム14号の井上太郎「ヘイトスピーチと在日特権」。

 一 「ヘイトスピーチ」なるものに前回触れたのだったが、関連する文章に、井上太郎「ヘイトトピーチと在日特権」ジャパニズム14号(2013年8月号、青林堂)p.108以下があった。

 井上は言う-「日本でのヘイトスピーチは批判するが、南朝鮮の国家レベルの無礼な反日活動はスルーするマスコミの存在…」。「南朝鮮や在日朝鮮人に対し一切批判を行ってこなかった日本のマスコミにも、在日問題に関し責任は全くないといえるの」か。「ヘイトスピーチを生み出しているのは、日本だけを悪者にするダブルスタンダードのマスコミの存在と在日自身にもあるというのは間違った意見」なのか。

 韓国・韓国人等は日本・日本人に対して立派な「ヘイトスピーチ(+ビヘイビア)」をしているではないか、特定の(非左翼の)日本人だけを批判して一部の近隣諸国(国民も含む)を批判していないとすれば、NHKは偏向しており、「自虐的」なままだ、というのは前回に書いたことだったが、同旨の指摘が「日本のマスコミ」について発せられていることになる。

 また、日本のマスコミが「在日特権」を問題にせず、「在日」に甘いがゆえにこそ「ヘイトスピーチ」が生じているのではないかという論理も、私には思いつかなかったが、成り立ちうるもので、よく分かる。

 二 井上が上の論考で三段組み2頁以上にわたって列挙している「在日特権」はたしかにすさまじいものだ。

 「自治体」の裁量と書いているが(p.109)、生活保護は実施主体は地方公共団体であっても国の法令と「通達」等に依っているとみられ、特定範囲の「在日」には日本国籍はなくとも日本国民を対象とする生活保護法という法律を「準用する」という、国のかつての厚生大臣か局長かの一片の「通達」にもとづいて日本人に対するのとと同じ生活保護がなされているにすぎない。「全てに法的根拠はなく」という叙述は正しいと考えられる。

 詳細には知らないが、他にも法律上の根拠なくなされている「在日」優遇は多いようだ。これは「法治行政」の中に政治的・外交的・裁量的判断を持ち込むもので、一般的な行政スタイルとしても問題がある。

 民主党・小宮山厚労相の命令により、生活保護を受けている「在日」は申請しさえすれば国民保険料が免除され、「満額の国民年金」を受け取れるようになった、らしい(p.111)。これはベラボーな話ではないか。ただでさえ年金財政は苦しいというのに、こんな「在日」優遇は認められるべきではなかろう。憲法25条がプログラム規定としてであれ最低限度の文化的生活をする権利を認めているのは「国民」であり、生活保護のみならずその他の福祉行政についても国籍の有無で「区別」するのは、何ら憲法違反ではないし、かつ法律レベルの政策判断としても不合理なものではまったくない。

 「在日」を差別する(不当・不合理に区別する)必要はないし、そうしてはいけないだろうが、<国籍の有無による差別はいけない>とか<要求または抗議が激しいので穏便に>などという誤ったかつ事なかれ主義の発想で行政はされてはならないだろう。

 表現方法や言葉遣いが問題だ、「レイシズム」だ、などと論難する前に、NHKは「在日特権(優遇)」の実態をきちんと調査して、大越健介演番組でなくとも国谷裕子の7時半からの番組でもよいから、報道し検証してみたらどうか。という期待は、きっと甘すぎるかもしれないが。

1142/「広島型平和熱」→「自虐史観症候群」。

 短いコラムのごときものだが、ジャパニズム08号(2012.08、青林堂)の、中書島亘の文章(p.174-5)には同感する。
 「主に8月になると日本に限局して流行し、NHKやTBSあたりが感染源になることで知られる」感染症を「広島型平和熱」と呼んでいる。そして、この病気が慢性化すると「自虐史観症候群」という「根治不能な重病」に移行するので、この危険性を厚労省や国立感染症研究所は一刻も早く国民に周知徹底させるべきだ、と結んでいる。
 「広島型平和熱」とか「自虐史観症候群」とかの造語が面白い。
 今年はロンドン五輪のおかげで、例年ほどには感じなかったが、毎年8月が近づき、あるいは8月になると、NHKは「戦争」ものや「原爆」もののドキュメンタリーを多く放送するので、うんざりしてきた。もちろん、これらを扱っていることが理由ではなく、<扱い方>に理由がある。上の言葉を借用すれば、<自虐史観症候群>に陥るような番組作りがされているからだ。
 「平和」それ自体にむろん反対しないが、あの戦争について、<日本が悪かった>、<日本は(道徳的・道義的にも)間違ったことをした>という「史観」を基礎にして、国家系放送機関が、特定のイメージを撒き散らしてほしくないものだ。
 見ないようにしているから具体的な疑問を示せないが、戦争を体験した現在の老人(旧軍人を含む)の記憶を映像・録音に残そうとしても、現在のまたは<戦後の>戦争観(特定の、あの戦争についての見方)に影響されて、事実についての記憶やその評価は語られることになるのであり、戦争の経験者が語っているから、その評価も含めて、すべて<真実だ>ということには全くならない。
 NHKの中には、長井暁のような「極左過激派」もいたし、現在もいて、「広島型平和熱」を発症させ、蔓延させようとしているようだ。NHKはましな番組も作っているが、とくに、こと「戦争」がテーマになると、公正・中立ではなくなる。
 だからといって、民間テレビ局の方がマシというわけでもない。NHKのように金をかけて同種の番組を作り難いだけのことで、別の面では、NHKよりもはるかにタチが悪い。
 ところで、「広島型平和熱」でも、文章を読めば意味はわかるが、とくに説明を施さなくとも、8月を中心にNHKが放送している「反戦・反原爆」ドキュメンタリー類の悪弊を表現できる、もっと的確な用語はないものだろうか。

1046/親北朝鮮・酒井剛の「市民の党」と菅直人・民主党。

 菅直人が存外にあっさりと首相を辞任したのは、北朝鮮と関係の深い団体への献金問題が明るみに出て、この問題が広く騒がれ出すと「もうもたない」と判断したかにも見える。もう少しは「粘る」=しがみつく可能性があると思っていた。
 その献金問題につき、隔月刊・ジャパニズム第03号(青林堂)に、野村旗守「菅直人/謀略の正体-亡国首相の原点を読み解く」、西岡力「菅直人首相の北朝鮮関連献金問題の本質」がある。
 両者から事実を確認しておくと、菅直人事務所と菅直人代表・民主党東京都連は2007-2009の三年間に、「市民の党」(後記)の「派生団体」(西岡p.146)である「政権交代をめざす市民の会」に6850万円の献金をした。また、鳩山由紀夫・小宮山洋子等の民主党国会議員の政治団体も計8740万円の献金をした。「市民の党」自体へも、上記三年間に小宮山洋子等の政治団体から計1693万円の献金があった。これらを合計すると、6850+8740+1693で、1億7283万円になる。野村p.70は「民主党関係団体」から三年間で「計2億5000万円も」と書いている。
 「市民の党」 は本名・酒井剛、通称?・斎藤まさしを代表とする。この男は除籍前の上智大学で「ブント系ノンセクト」ラジカル、退学後に「日本学生戦線」を結成、逮捕された1977年に社会市民連合の江田三郎(・のち江田五月)の選挙を手伝う。1979年に毛沢東主義を標榜する「立志社」を設立しカンボジアのポル・ポト派支援運動を展開、同年に社市連と社会クラブが合同した社会民主連合の初代代表・田英夫の娘と結婚する。1983年、田英夫・横路孝弘らと「MPD・平和と民主運動」を結成。野村によると、「過激派学生組織と市民派左翼政党の合体」だった(p.71)。
 MPD→「大衆党」→「新党護憲リベラル」のあと、1996年に酒井(斎藤)は「市民の党」を結成、1999年の広島市長・秋葉忠利、2001年の千葉県知事・堂本暁子、2006年の滋賀県知事・嘉田由紀子、2007年の参議院議員・川田龍平らの選挙を「勝手に応援」して結果としてすべて当選させた。
 「市民の党」機関紙は1988年に北朝鮮にいた田宮高麿のインタビュー記事を掲載したりしていたが、2011年4月の三鷹市議選候補として、田宮高麿と森順子(松本薫・石岡亮両名を欧州で拉致)を父母とする、2004年に日本帰国の森大志を擁立(落選)。
 かかる政治団体に対して民主党が三年間で1億円以上を、菅直人(都連を含む)がその「派生団体」に約7000万円を献金していたとは、相当に「いかがわしい」。また、そのような献金をする人物が日本国家の首相だったという歴然とした事実に、愕然とせざるをえない。まがうことなく、日本は「左翼」に乗っ取られていたのだ。
 江田五月は衆院議長・法相を経験し、横路孝弘は現在の衆院議長だ。酒井(斎藤)という「いかがわしい」人物は<権力>の側にいて、議会・選挙を通じた「革命」を展望しているらしい。あらためて戦慄する。
 恐ろしいのは、菅直人ら民主党による「市民の党」への献金問題は(それ自体は違法性が明瞭ではないためか?)、産経新聞・関西テレビの某番組とチャンネル桜しか報道していない(野村p.71)ということだろう。違法ではなくとも、菅直人や民主党の「左翼」性または親北朝鮮ぶりを明確に示すもので、ニュース価値はあると思うが、日本の主流派マスメディアは、自らが「左翼」的だからだろう、民主党には甘い。
 この問題を月刊正論はどう取り扱っているかと見てみると、10月号(産経新聞社)に、野村旗守「市民の党代表『斎藤まさし』の正体と民主党」、西岡力「拉致と『自主革命党』、そして『市民の党』の深い闇」と、同じ二人の論考が載っていた。ひょっとすれば、こちらを先に見ていたかもしれない(なお、北朝鮮の「自主革命党」に森大志は所属していた(いる)とされる。ジャパニズム上掲・西岡p.149-150におぞましい「綱領」?が紹介されている)。
 ところで、ジャパニズム第03号には、毎日新聞にも定期的に寄稿している西部邁の連載ものもある。さすがに「左翼」の文章ではないし、「民主主義を振りかざしてきた戦後日本は、多数制原則という民主主義のギロチンによって、おのれの首を刎ねようとしている」(p.168)という表現の仕方も面白い。
 但し、末尾にある「菅直人」の名前をもじった文章などは、言葉遊び的な要素の方が強い感じで、とても好感はもてない。

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