秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

離党

2581/R・パイプス1994年著第9章第一節②。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。
 ——
 第一節・共産党の官僚主義化②。
 (09) 1920年にすでに、組織局が地方の党職員を指名することは一般的だった。彼らが運営すべく選出される、その地方党組織に諮ることのないままで。(注15) これは〈naznachenstvo〉、「任命制」と称されるようになった。
 数世紀にわたって官僚の支配と上からの指令の雨に慣れてきた国では、このような成り行きは正常に見え、これに対する反対は少なく、あっても影響力がなかった。//
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 (10) 理想主義的な理由で入党した共産主義者は疑いなくいたけれども、大多数の者は、党員であることによって得られる有利さのために入党した。
 党員たちは、19世紀には郷紳(〈dvorianstvo〉)の地位と結びついていた特権、すなわち政府の執行的(「責任ある」)地位に就けるという保障を享受した。
 トロツキーは彼らをダイコンと呼んだ(外側は赤く、内側は白い)。 
 共産党の階層で十分に高い者たちは、現金の手当のほかに食料配給の追加を受け、専門店舗を利用した。
 彼らは、逮捕や訴追から事実上は免れていた。これは無法のソヴィエト社会では決して小さな特権ではなかった。
 ソヴィエト政府は、帝制時代の実務を凌ごうとして、1918年に早くも、党職員は職務の遂行として行なった行動については訴追されない、という原則を打ち立てた。(注16)
 帝制時代には、直接の上司との意見不一致という理由だけで役人は裁判に付されることがあり得た。これに対して、共産党の役人は、「党で占めている等級に対応する党組織が知り、承認したうえでのみ」逮捕され得た。(注17) 
 レーニンは、このような実務に熱心に反対し、共産党員が間違った行動をしたならば他者よりも厳しく罰せられるべきだ、と主張した。だが、慣習を変えるには、彼は無力だった。(注18) 
 支配の最初から、法を超越する共産党の地位は、その党員たちへも移し換えられた。//
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 (11) 法的免責と結びついたこのような権力は、不可避的にその濫用を生じさせた。
 第8回党大会(1919年)が始まると、党職員の汚職や彼らの民衆からの離反に関する不満が語られた。(注19)
 共産党のプレスの紙面は、党職員が清廉という最も基礎的な規範を破っているという記事で埋められた。
 いくつかから判断すると、共産党幹部たちは、18世紀の奴隷所有者のごとく振る舞っていた。
 かくして、1919年1月、共産党のAstrakhan 機関は、Kliment Voroshilov の訪問に関して報告した。この人物はスターリンの戦友で、Tsaritsyn の第1十軍の司令官だった。 
 Voroshilov は豪奢な〈shesterka〉、6頭の馬に牽引された馬車で現れた。随行員たちの10台の馬車、トランク、樽その他の物品を高く積み上げた50ほどの荷車が、続いた。
 このような突然事には、地方の住民は訪問する賓客に対して全ての態様の人的サービスを行なうことが要求され、拒否すれば拳銃で威嚇された。(注20)//
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 (12) このような不面目な振舞いを終わらせるべく、党は1921年に、遅くと1922年早くに、粛清(purge)を実施した。
 表向きは内戦中の緩やかな受入れ手続で入党した出世主義者に向けられていたが、本当の攻撃対象は、他の社会主義政党、とくにメンシェヴィキから移ってきた者たちだった。レーニンは、共産党の隊列の中に民主主義思想その他の異端思想を注入しているとして、メンシェヴィキを非難していた。(注21)
 多くの者が除名された。
 そして、とくに不機嫌になった労働者たちなどに自発的に離党した者があって、党員数は、65万9000から50万に下がった。そしてさらに、40万人以下になった。(*) 
 このときに、「党員候補」の指名が制度化された。彼らは、入党資格を得る前に見習い期間を経験しなければならなかった。
 つぎの粛清(purge)では、より多くの者が除名されるか離党し、党のほとんど半分が変転した。(注22)
 こうした過程によって党はメンシェヴィキや他の「小ブルジョア社会主義者」を取り去ったかもしれなかった。しかし、腐敗した共産党員をそうしたのではなかった。
 共産党の特権的地位と法的責任からの完全な自由に内在しているがゆえに、権力の濫用は継続した。
 かりに市民が投票者または資産所有者のいずれかとして自分に関する事務処理を是正させる手段をもたないならば、また加えて、かりに党員は法的責任を免れているならば、行政集団は自制的になるか、居座り続けるか、あるいは自己満足の集団になってしまうだろう。
 党の倫理を監督するために1920年に設置された統制委員会は、党職員はその業務の遂行について自分たちを任命した者に対してのみ説明責任があり、「党員大衆」に対してはではない、ましてや国民全体にではない、と感じている、と報告した。(注23)
 これは、帝制時代の役人たちに広くあった態度を引き継いだものだった。(注24) //
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 (脚注*) 1922年9月の党組織部署のスターリンへの報告書は、地方によっては1921-22年に離党者が6.8から9.2パーセントに及んだ、と記した。: RTsKhIDNI, F. 558, op. 1 delo 2429.
 Kalinin によれば、党を去った者たちの大半は農民や労働者だった。RTsKhIDNI, F. 5, op. 2, delo 27, list 9. 
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 (13) さらに悪いことに、党自体が官僚機構を腐敗させ始めた。
 1922年7月1日、組織局は、無害に感じさせる、「積極的党労働者の生活条件の改善について」という裁定を下した。これはもともと、省略した形で公にされた。(注25)
 この裁定は、党役人の給与体系を定めた。数百(新)ルーブルが受領される。家族手当、超過勤務手当が加えて支払われる。これで、全部では、基礎俸給の二倍になる。—この額は、工業労働者は平均して10ルーブルを得ていたときのものだった。
 上級の党官僚はさらに、代金を支払うことなく、追加の食料配給を受ける権利があった。他にもちろん、住居、衣服、医療、そして一定の場合には、運転手付きの自動車。
 1922年夏、党の中央機関に採用された「責任ある労働者たち」には、補足の食料配給が行われ、一月あたり26ポンドの肉、2.6ポンドのバターが配られた。
 彼らは、布張りで蝋燭の灯った特別の鉄道車両で旅行した。一方で庶民たちは、幸運に切符を入手できても、混み合った三等の客室か貨物車に詰め込まれた。(注26)
 最高級の役人には、外国の保養地で一ヶ月から三ヶ月の休暇または静養期間をとる権利があった。その費用は、党が金ルーブルで支払った。
 1921年11月、少なくとも6名のトップ・レベルの共産党員はドイツでの医療を受けていた。その一人(Lev Karakhan)は、痔の手術のためにドイツへ行った。(注27)
 このような利益の割当ては、スターリンの書記局が決定した。彼が採用したそこの職員は、600人いた。(注28)
 1922年の夏には、特別の恩恵を受ける者の数は、1万7000を超えた。
 同年の9月、組織局はその数を6万に増やした。//
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 (14) 党指導者たちは、別荘をもつ資格があった。
 田舎の家屋を得た最初の人物は、レーニンだった。彼は、1918年10月にモスクワの南西35キロメーターのGorki に、かつては帝制時代の将軍の資産だった屋敷を手に入れた。
 他の者たちも、レーニンに倣った。
 トロツキーは、ロシアで最も贅沢な不動産、Akhangelskoe を手に入れた。かつて、Iusuoov 王子の屋敷だった。
 スターリンは、Zubalovo の石油王の田舎家屋を自分のものにした。(注29)
 レーニンはGorkiで、GPUが操作する6台のリムジン車を自由に使用した。(注30)
 彼は自分のためには稀にしかそれを利用しなかったけれども、家族や友人たちのために利用させるのに反対ではなかった。例えば、妹とブハーリン家族がほとんど確実に休暇のためにクリミアへ旅行する私的車両には、彼らの旅の早さを上げるべく軍事列車が随行するように指示したように。(注31)
 劇場またはオペラに行ったとき、新しい指導者たちは、当然のこととして、皇帝用だった特別席を占めた。//
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 後注
 (15) Refail[R. B. Farbman]in Desiatyi S"ezd, p.97.
 (16) I. Zaitsev in Novyi den', No. 16 (1918.4.12), p.1; RR, p.63.
 (17) Konstantin Shteppa in Simon Wolin & Robert M. Slusser, The Soviet Secret Police (1957), p.86-87.
 (18) Lenin, PSS, XLIV, p.398; XLV, p.53.
 (19) E. g., N. Osinskii in Vos'moi S"ezd RKP(b): Protokoly (1959), p.27-28, p.164-7; A. A. Solts in Desiatyi S"ezd, p.57-58.
 (20) Kommunist (Abstrakhan), No. 6 (1919.1.11). Izvestiia, No. 12/564 (1919.1.18), p.4 が引用。
 (21) Lenin, PSS, XLIV, p.122-4.
 (22) "Aleksandrov", Kto upravlaet Rossiei ? (1933), p.28.
 (23) Solts in Desiatyi S"ezd, p.60.
 (24) RR, p.61-p.75. 〔RR=R. Pipes. Russian Revolution〕
 (25) A. Podshchekoldin in AiF, No. 27/508 (1990.7.7-13), p.2.
 (26) Alexander Berkman, The Bolshevik Myth (1925), p.43.
 (27) RTsKhIDNI, F.2, op.2, delo 1005.
 (28) S. K. Minin in Desiatyi S"ezd, p.92.
 (29) Svetlana Alliluyeva, Twenty Letters to a Friend (1967), p.26-27; Dmitri Volkogonov, Triumf i tragediia, I/I (1989), p.190.
 (30) Lenin, PSS, LIV, p.649, p.266.
 (31) TP, II, p.444-7.  
 ——
 第一節②、終わり。③へ。

0806/資料・史料-1961.08.14日本共産党神戸大学学生細胞の離党声明。

 資料・史料-1961.08.14日本共産党神戸大学学生細胞の離党声明
 
昭和36年8月14日

 //声明「社会主義への前進をめざして」
 日本共産党神戸大学学生細胞の離党声明 1961年8月14日
 一.われわれ日本共産党神戸大学学生細胞は所属党員の総意によって一九六一年八月九日をもって日本共産党と訣別し、全国的に結集されつつある新しい運動と組織に参加することを決定した。

 一、われわれの目的は、反独占民主主義革新の道をつうじて日本における社会主義革命の実現をめざす新しい共産主義前衛の確立にある。
 一、われわれは、第八回全国大会で満場一致決定されたといわれる「綱領」に以下のべる大要三点で根本的に反対である。
 1 アメリカ帝国主義の対日支配の変化に目をむけず、いぜんとして日本を「従属国」におしとどめることによって再起した日本帝国主義の危険な役割を正しく評価しえない現状規定における致命的なあやまちをおかしている。
 2 現代の新しい内容に規定される国際共産主義運動の理論的到達点---平和共存、民主的改造等現代革命の展望の新しい解明---を理解していない。
 3 したがって、当面する革命を〝反米帝独立″を主軸とする〝人民の民主主義革命″と規定することによって労働者・人民の反独占・民主主義・社会主義の要求とエネルギーを広汎な統一戦線に結集することを妨げている。

 一、このように重大な対立のある綱領論争が中央幹部によって不当に抑圧されていることは多く述べられているところであり、少数意見をマルクス・レーニン主義の共通の土台の上で展開できない今日、原則的な党内闘争ではこれらの矛盾は解決することは不可能になったとわれわれは考える。

 一、われわれ神大学生細胞は中央幹部による党勢拡大の呼びかけをまつまでもなく、六全協後の苦しい状況の中から真に大衆的な細胞の確立をめざして活動してきた。
 われわれは一九五六年の全学連再建に参加し、「層」としての学生運動を統一戦線の観点から発展させ、トロツキズムの危険を早くからみぬき、それとのたたかいを通じて大衆闘争の展開に成功していった。
 この間、われわれか中央幹部の革命戦略に関する誤った見解、大衆闘争の政策・指導に対して、全党的な立場にたって批判してきたことは言うまでもない。そしてわれわれは、その批判を党の発展に結合するため大衆闘争の中でつねに検証していったのである。
 これこそが、神大細胞を今日存在せしめた理由であり、情勢の新しい変化にみずからを適応させえたゆえんなのである。
 中央幹部の学生運動に対するセクト的指導----〝独立″の課題を第一義的任務として自治会の方針としておしつけるような----と無能力は、学生の要求と学生運動からますます遊離してゆく結果をもたらすであろう。

 一、現在、日本帝国主義の新たな段階に登場した池田内閣の巧みな攻撃の前に日本の革新勢力は重大な転機に直面している。この局面の打開は大衆的前衛のイニシァティヴによってこそもたらされるのであり、なによりも日本独占体、国家独占資本主義制度全体に有効に対決しうる政策と行動が要求されているのである。
 一、全国の学生細胞の同志諸君にわれわれは呼びかける。敵階級とのきびしいたたかいはわれわれに一刻のちゅうちょも許さないであろう。日本共産党の内部革新もそれが自己目的化されたとき、すでに党を人民の上におく誤りにおちいるのである。
 今こそだいたんに、かつ慎重に行動を起すときがきたのだ。
 全国的に結集されつつある新しい運動と組織に加わろう。
 右、八月総会の決議にもとづき声明する。
 一九六一年八月十四日
 日本共産党神戸大学学生細胞//

 *コメント* ネット情報が出所だが、詳細はメモしておらず不明。以下の「解説」が前に置かれていた。
 「(1961年)七月二三日、日共第八回党大会を目前にして、立命大第一細胞は党中央に対し党内民主主義に関して抗議の非常事能宣言を発表。党大会終了後、神戸大細胞 (八月九日)、神戸外大細胞(八月一三日)、立命大第二細抱(八月二一日)などで相ついで集団離党が発生した。
 集団離党したグループは『春日新党』への結集を全国の学生細胞に呼びかけ、その後全国的に離党・除名処分などが頻発し、いわゆる構改派としての独自の組織結集が進行していった。」
 

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