民主党政権誕生を屋山太郎が大歓迎している。
 イザ・ブログ上の屋山によると、「民意を反映した民主主義とは根本的に異なる」、明治以来の「官僚内閣制」が「終焉を迎えた」。そして、「民主党の『官僚内閣制』から『議会制民主主義』へ脱却するための仕掛けは実によく考えられている」らしい。
 また屋山は、「民意を汲み上げることを日本ではポピュリズムと非難する」が、「民意とほとんど無関係に政治が行われていることを国民が実感したからこそ、自民大敗、民主圧勝の答えを出したのではないか」、と書く。今回の結果は、上のような「実感」の答えではない、と私は思うが、この点はさておく。
 憲法上、国会が(法律が必要な場合は)法律を制定し、「内閣」を筆頭とする行政官僚が法律を「実施」する。国会議員を「政治家」と言うならば、憲法上、行政官僚よりも「政治家」の方が上、政治家が行政活動(・行政官僚)を監視し、とくに法律に従って適正に行政がなされているかを監督することは当然のことで、あえて言うまでもない。
 「官僚内閣制」という概念は-決して一般的ではないと思うが-法律自体が行政に「裁量」を認めていること、補助金のように具体的な事項を法律が定めなくてもよいとされる分野があること、法律を実施するための具体的細目等を定める政令・省令等々は内閣や所管大臣が定めるもので、実質的には補助部局たる事務次官以下(実質的には課長・課長代理・室長あたりが決定すると言われる)が決定していること、さらには法律案・法律改正案すら内閣に法案提出権がある(国会法)ことを根拠として、形式的・表面的には「内閣」提案でありつつ、実質的には事務次官以下(カッコ内、上と同じ)が決定してきた、といった現象を指しているのだろう。
 これを行政「官僚」ではなく「政治家」に取り戻す、<政治家主導>にする、というのが民主党の方針であり、屋山太郎が拍手を送っているものだ。
 しかし、いろいろと言いたいこともある。
 まず、国会と内閣の関係の問題と捉えた場合、<政治家主導>というならば、国会構成員であると同時に行政担当者となった大臣・副大臣等々、あるいはそれ以下の行政官僚が法律(改正)案を検討して国会に提案できるということ自体が奇妙とも言える、すなわち、法律(改正)案を国会に提案できるのは(一定数以上の)国会議員に限る(いわゆる「閣法」をなくす)という抜本的改正も考慮されるべきと考えるが(その方向での国会法改正は違憲ではないだろう)、そんな議論は(マスメディア上では)誰もしていない。
 法律(改正)案の検討のための審議会類を行政部局である「内閣」、「大臣」、各省「局長」レベルに置くことこそ、本当は奇妙で、国会こそが、国会議員=政治家こそが、字句改正の技術的なことも含めて法律(改正)案を形成・提出できる能力を身につけなければならないのではないか。また、そのような能力のある者こそが国会議員に選出されるべきではないか。
 次に、屋山は事務次官会議を廃止し重要案件を「閣僚委員会」で決することを是としているが、一省でも反対なら閣議決定にならないのは異常であることは認めるとしても、「閣僚委員会」なるものに実質的決定権を持たせた場合、本来は内閣で議決すべき案件の場合(現行法上は法律案の決定もそうである)、「閣僚委員会」が実質的に「内閣」の権限を奪ってしまう危険がある。閣議による自由闊達な議論こそ「内閣」制度の基本だとすれば、「関係閣僚」だけに限った「閣僚委員会」なるものは(法制化するのか?)憲法・現行法律に違反するこことなる、あるいは「内閣」での議論を-事務次官会議と同様に?-形骸化する可能性がある。
 第三に、これが最も言いたいことだが、「官僚」主導か「政治(家)」主導は憲法を離れていえば、システム(又は手段・方法)の問題にすぎず、それらのシステムを通じて形成される決定・判断・意思の合理性、他方に対する<優位>を何ら保障するものではない。
 てっとり早く言って、「政治家」主導は結構だとしても、その「政治家」主導で決められた政策等が国民等にとって<悪い>ものだったら、どうなるのか。民主党を中心とする「政治家」たちが決定し実行しようとしている諸政策は、「政治家」主導だ、と歓迎するほどに<よい>ものなのか。
 総じて、「政治家」主導の方がよい結果になるだろう、という見方はありうる。選挙で洗われる危険のない行政官僚ではない「政治家」は、次回の当選のために、行政官僚と違って「民意」を尊重して、政策判断・決定する、というのだろう。だが、むろん何が<よい・悪い>のかが問題なのではあるが、「民意」を尊重した政策判断・決定はつねに<よい>決定だとは絶対にいえない。
 むろん「民意」は何かの問題もある。全国の国民か特定の地域の国民か、現在の国民か将来の国民も含めてか、等々。
 要するに、<政治家主導>だからといって手放しで喜んで済む問題ではない。
 「官僚内閣制」→<政治(家)主導>は憲法上はタテマエとして当然のことで、実質論をするとしても、<政治(家)主導>だからといって長期的観点を含めた日本国民の利益となる保障は、論理的には、どこにもない。<政治家主導>によって何が具体的に決定されるかが問題なのだ。
 総選挙後の週刊朝日は表紙に「民主党革命」という語を使っていたが、<明治以来の大変革>というようなイメージは、おそらくは間違っている。スタイル・方法よりも(あるいはそれだけではなく)具体的政策の内容を議論すべきだ。