書き記していなかったが(意識的にではない)、先週(2/17~)に、週刊新潮1/31号野口悠紀夫の4頁分の文章(「日本経済の『円安バブル』は崩壊した」)を読んだことをきっかけにして同・戦後日本経済史(新潮選書、2008)の「はじめに」と最終章の「第9章・未来に向けて」を読んだ。この人の『一九四〇年体制』は旧・新版ともに当然に所持していて、基本的な趣旨は記憶している。
 適当に一部引用する。1.野口は上の週刊新潮誌上でいわく-<戦時期の要請から支配的になった「アンチ市場主義」が現在まで続いている。…「90年代以降の日本経済では、口先だけの『改革』は叫ばれたものの、金融緩和と円安政策に依存して本当の改革を怠った>。
 <市場主義>の徹底への「改革」の必要性を説いている。
 産経の2/21の記事によると、自民党の園田博之・小坂憲次・与謝野馨らの<財政再建派>の「勉強会」の後、園田は、「行き過ぎた市場原理主義に注意する必要がある」と述べたとか。
 「行き過ぎた」という形容は既に否定的評価を含んでいるし「原理主義」という言い方もそのような気配がなきにしもあらずだ。それはともかく、はて、どこまで、どの程度「市場」に委ねて国家介入・関与を避けるべきなのか。グローバリゼーションへの適合と国益保持との間の調整点はどこに。 自民党議員等の主張している「改革」とはそもそもこの問題をどう考えているものなのか(安倍前首相も主張していたが)。
 具体的には例えば、関西国際空港(株)への外資の出資規制の是非は? はてはて。分かりにくい。
 同じく産経の2/21の正論欄で屋山太郎は外資規制は国土交通省等官僚の「天下り」温存策だとして反対論。同じ日の別の記事に元通産審議官・坂本吉弘が登場して、本質は<国益・公共の利益>をどう守るかだとして賛成論。はてはてはて(野口悠紀夫の議論だと、反対論になるのだろうか)?。
 元に戻って、2.野口は同・戦後日本経済史の本文を次の文章で終えている-「しかし、…古い制度や思想との摩擦は、さらに大きくなるだろう。われわれは、長い混迷の時代を覚悟しなければならない」。
 最近とくに感じる憂鬱感、鬱陶しさをさらに増幅させる内容の文章だ(野口が悪いわけではないが)。憂色は濃い。日本と日本人についての多少は明るい展望をしっかりと感じつつ、老化し、死んでいきたいものだ。