「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
  都市計画法(昭和43年法律第100号)が言うところの「都市計画事業」のうち「市街地開発事業」には「収用」型と「権利変換」型の二種があって、前者は用地取得に関して土地収用法の適用を受け得る。概念論理的にはおそらく逆に、土地収用法の手続等による「収用」等のいわば<特権>的地位を受け得る事業を「収用」型と称するのだろう。
 そのような「市街地開発事業」の一つに、これまた都市計画法に言う「新住宅市街地開発事業」というものがあり新住宅市街地開発法(昭和38年法律第134号)という法律を基礎的実施法律とする。
 これは大まかには一定規模以上の区域にいわゆる大規模「ニュータウン」を造成・形成するものだが、取得した土地は最終的には道路・公園・学校等の公共施設のほかに住宅地として私人・民間人に譲渡され、私的な利用に供されることから、土地収用法を適用するに値するだけの「公共性」はどこにあるのかが問題になる。
 これは新住宅市街地開発法の制定時の一つの法的論点だったが、実質的には大都市圏域のある程度広い範囲の地域での健全で良好な「街づくり」に寄与するということで全体としての、あるいは総合的な「公共性」が肯定された、とされている。
 この新住宅市街地開発事業は原則とし都道府県が事業主体であり、都道府県の税が投入されるが、むろん、個別の事業ごとに国から事業主体としての都道府県に対して「補助金」も-その基礎は国の税収だが-も交付される。
 「補助金」類は、直接に国民・市民ないし私企業に対するものばかりではなく、都道府県・市町村等の「行政」に対しても交付され、どの程度に国民・市民の知識・素養になっているのかはいらないが、重要な政治的・行政的意味をもつ。
 今はきっとほとんど実施されていないかもしれない「ニュータウン」建設・整備事業は、少なくともかつて「大手民間ディベロッパー」によっても行われていて、完了しているものもある。但し、上に言及した諸法律の適用はない。都市計画法上の「開発許可」制度等々(急傾斜地建築規制等)による制約はあっただろう。
  行政が主体のものを公的事業、私企業が主体のものを民間事業と言っておくことにすると、完了して多数の住民が生活している「ニュータウン」を実際に見ていて、ふと気づいたことがあった。
 公的事業地にはむろん道路・公園・学校等があり(これらの一定のものを都市計画法等は「公共施設」と称する)、それはむろん予め事業計画図面の中に定められているからでもある。
 しかし、民間事業地の場合は、それら以外に、全ての場合ではないが、「宗教施設」が存在していることがある。公的事業は「宗教」とは無関係のもので、事業区域内に神社や寺院の建設を予定するとか、これらを「誘致」する土地をあらかじめ設定しておくというようなことはない(はずだ)。
可能なかぎり「宗教」との距離を置く、むしろ「宗教」はないものとして扱うというのが、基本的には戦後の「行政法制」と「行政」のかつてとは異なる姿になったものの一つかと思われる(もちろん、宗教法人法によるある程度の規制や「宗教」活動であるための収益に対する税法上の優遇といったものはある)。
 民間事業地の場合も「新しく」神主・仏僧も住む神社仏閣を設けることはほとんどないかもしれないが、しかし、一戸の住宅ほどではないほどの敷地に神道ふうの祠らしきもの(小さな本殿?)が設置され、「明神」だったか「権現」だったかの名を記した旗・のぼりがその敷地の周囲にかなりの数でたなびいていたのを実際に見たことがある。
 このようなことはおそらく、公的事業地の場合は想定し難い。
 民間事業には、計画する地域内にそうした施設のための土地をあらかじめ用意しておくことも、「宗教の自由」を前提としての「事業活動の自由」、「営業の自由」に含まれるのだろう。そのような施設が地域内にまたはすぐ近くにあることを嫌悪する者には、その<民間ディベロッパー>が開発して売り出す土地や家屋を買わない自由が当然にある。
  公的であれ私的であれ、伝来的な神社や寺院が全く存在しないか、「祠」的なものはあっても神官は居住せず社務所もないといった「ニュータウン」というものは、戦後の所産であるがゆえに(戦前にも同種のものはあっただろうが、別論とする)、いくつかの問題を発生させ得るし、現実に発生させているだろう。
 思いつく第一は、地区内の住民が死亡した場合の葬儀の問題がある。公的事業地でも「公民館」・「集会場」で葬儀が行われうるかもしれない。だが、「ニュータウン」の中に寺院がないとすると、仏僧による読経という便宜?は、伝統的または在来的な「タウン」・集落よりも提供され難い可能性がある。死者が出ることを想定して、近くのどこに葬儀場や葬祭業者があるかまで考慮して少なくとも公的事業の計画は策定されないのではないか。
 なお、似たような問題は、地震・津波等の自然災害によって多数の死者が出た場合にも生じる。
 神道墓地もあれば神道による葬礼があることも知っているが、多くの国民にはまだ、仏教式での「葬儀」あるいは死者への供養等が馴染み深いだろう。
 思いつく第二は、青少年の心理・意識・精神に対する影響、広くいえば<教育>の問題だ。つまり、神社・仏閣といった宗教施設が自分が生まれ育っている地域に何もなく、かつまた神社等の周囲にあることが多い叢林や森もない、という環境でほとんど青少年期を過ごした者と、我々の前世代の者ならば多いように思われる、神社・仏閣やそれを取り巻く自然環境の中で育った青少年と、全くの違いはないのだろうか。
 神社・寺院あるいは「宗教」の存在を(旅行によってではなく)日常生活の中で自然に知ることができず、学校や(若い両親が増えている)家庭では<戦後体制下らしく>「宗教」をについて教えられることが全くかほとんどない、というのは果たして<教育>にとってよいことなのだろうか。学校等では教えてくれない<不思議な世界>、<理性・理屈だけでは把握できない問題や現象がある」という認識や感覚は、やはり必要なものではないだろうか。
 神社・仏閣といった宗教施設が広い地域に全くかほとんどない「ニュータウン」育ちの子どもと、これらが適度にまたは多数存在する「街」・「集落」の子どもとで、違いは出てこないのだろうか。
 専門家でもなく、実証的な資料・文献を知っているわけでもない。
 こんなことを思いついたきっかけの一つはたぶん、某ニュータウン育ちの中学生がより下の世代の子どもを残虐な方法で連続して殺害したことで、加害者少年の「心理・精神」と<宗教的環境>の関係を考えてしまったことだ。むろん子細に調査してもおらず、特段の結論に達しているわけてもない。
 三 元に戻ると、生後に義務教育学校へと通学しつつ、途中にまたは近くに神社か寺院があった者は、現在でもだが多いだろう。だが、公的事業による「ニョュータウン」造成地の中にはそのようなものはなく、中学卒業まで当該「ニョュータウン」で通学等をしていれば、ほとんど神社・寺院に接することはない。これは、日本の歴史的伝統からは「離反」した現象だろう。そして、戦後の行政と教育における「宗教」の扱いの消極さ、あるいはでくきるだけ関わらない方がよい(「特定の宗教」のみの優遇や区別はできないから)という意識がそれを明確には問題視しない方向へと働いている。
  このような問題だけではない。
 「日本の歴史的伝統」とはそもそも何かが問題だが、戦後体制のもとで実質に失われつつあるような「歴史的伝統」、あるいは明治維新によって明治期に捨て去ってしまったような日本の(それまでの)「歴史的伝統」もあるだろう。宗教的施設の存在の近さを、あるいは日本的な自然の美しさと厳しさを、体感できないような大都会内だけでの生活では、日本に独特の歴史や精神を十分にまたは適切に感得できないだろうと思われる。
 継続している「天皇家」だけが、日本の「歴史的伝統」ではない。
 真摯に日本の「歴史的伝統」の保持が政治信条としての「保守」だと言うならば、<天皇>だけにそれをほとんど集中させるよう考え方や「運動」は、本当の保守派ではないだろう。
 日本会議が「運動」の対象としている論点以外にいくらでも、「日本の歴史的伝統」に関係する問題はある。他の点ではどっぷりと「戦後」体制に屈服し、どっぷりとそれに付着した世俗的生活をしつつ、特定の論点だけを肥大化させているのが、日本会議の「精神運動」であり、いずれあらためて書きたいが「精神的<癒やし>を感じていたい」運動だろう。