秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

邪馬台国

2155/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典⑥。

 八幡和郎が崇神天皇=「壱与」(卑弥呼の次世代)と同時代とするために346年を「基準」年としていることはすでに触れた。
 346年=神功皇后新羅出征年・応神天皇誕生年、だ。なお、日本書記に従うと、応神の誕生は、仲哀天皇の死の同年か翌年になる。
 A/八幡和郎・本当は謎がない「古代史」(ソフトバンク新書、2010)。
 この著によると、前回までには紹介を略したが、①346年と⑤崇神=「3世紀中頃(から後半)」までは、つぎのように「推理」される。p.131ー2。
 ②応神には兄がいるので父・仲哀天皇と「30歳以上は離れているとみるべき」だ。そうすると、仲哀の誕生年は、「310年代後半ごろ」だ。
 ③仲哀の父・ヤマトタケルは「若くして死んだらしい」ので、両者の年齢差は小さく、ヤマトタケルの「活躍」時期は、「4世紀初頭あたりということになる」。
 ④ヤマトタケルは父・12代景行天皇の「比較的若いころの子供のよう」だ。
 ⑤その景行天皇の祖父・10代崇神天皇の「全盛期」は「三世紀のなかごろということになる」。「そうすると」、崇神天皇は卑弥呼の後継者である「イヨの同時代人」ということになる。
 はなはだ漠然としていると思える。
 B/八幡和郎・最終解答・日本古代史(PHP文庫、2015)。
 このB著で八幡和郎は、崇神以降の「推定生年」および神武天皇以降の「推定即位年」を記した表まで示している。
 その際の根拠として、先の書の「346年基準」のほか、つぎを加えていると見られる。
 ①「若いころの子か年を取ってからの子かなどというあたりを加味」する。p.67。
 ②各世代の差を(仲哀ー応神36年のほかは)「25歳」とする(=25歳のときの子だとする)。p.79。仲哀ー応神を36年とするのは、応神には異母兄がすでに二人いたことからの推定だ。p.78。
 なお、③「系図」(+実在)は正しいとする、というのが前提。p.67。
 八幡による崇神以降応神までの即位年・出生年の推定(左)とすでに記した安本美典による推定(右)を比較してみよう。②の安本は、仲哀+神功皇后。
 ①15応神天皇-出生346年/即位380年頃。安本・在位402年~425年。
 ②14仲哀天皇-出生310年/即位4世紀中。安本・在位390年~402年。
 ③13成務天皇-出生265年/即位4世紀前。安本・在位386年~390年。
 ④12景行天皇-出生260年/即位300年頃。安本・在位370年~386年。
 ④11垂仁天皇-出生235年/即位3世紀後。安本・在位357年~370年。
 ⑤10崇神天皇-出生210年/即位3世紀中。安本・在位343年~357年.
 この項の前回までの比較表よりも詳しく、八幡によるその点は無視するが、微細に異なる点もある。
 安本推計については、同じく前々回④の記述を参照。
 そこで参照したのは、安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)だった。
 それとおそらく全く同じ表(と叙述)が、以下にも掲載されている。
 安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2003)。
 ともあれ、崇神天皇について、約100年の違いが出ている。
 この違いは、01/安本の「基準年」は応神出生=346年ではない。02/安本は一代(世代ではなく天皇在位の代)の差を<10~11年>と見る(詳細は省略)、03/安本は八幡が考慮しない要素も考慮する、ということにあり、決定的には01と02によるだろう。
 ところで、八幡和郎が上のように推定している主目的は、(最終的には邪馬台国大和説の否定(北九州邪馬台国僭称説)で)、卑弥呼・壱与の時代は崇神とほぼ重なっており、前者が大和王権の祖ではあり得ない、と主張することにある。
 上のBでこう書かれる。
 「壱与が女王だった時期が崇神天皇の在世中あたりだつたということはかなりの確率で間違いありません」。p.80。
 上のAでは、こうだった。p.132ー3。
 「邪馬台国は大和朝廷の前身だという可能性は、普通には完全に排除されるべきものだろう」。
 「4世紀に…朝鮮半島に軍事介入した大和朝廷は、邪馬台国に卑弥呼という女王がいて、洛陽の都に使いを送ったことをまったく記憶していなかったことは確かだ」。
 ところで、八幡和郎は、上のB(2015年)で、上の部分を含む表を見よとしつつ、つぎの<おそろしい>ことも書いている。
 「中国政府は、…〔中国の〕古代史の実年代についての公的解釈を統一しましたが、日本政府も是非するべきだと思います」。
 日本書記と古事記で一致がなく、また古代諸天皇の「実在」否定説も有力にあるにもかかわらず、八幡は、「日本政府も是非」、「古代史の実年代」を統一すべきだ、と主張するのだ。
 よほど、自分の推定に「自信」があるのに違いない。
 「『日本書記』の系図や統一過程は全面的に信用できる」。p.64の見出し。
 「崇神天皇から応神天皇までの実年齢を推定するのは簡単」。p.73の見出し。
 「古代天皇の実年代はこうだ!」。p.77の表のタイトル。
 異様であり、傲慢だとしか思えない。
 学者でも一致がないか、議論すらしていない事項について、八幡は「日本政府も是非」、「古代史の実年代」を統一すべきだ、というのだ。道徳・倫理についての<教育勅語>〔1890年)による緩やかな統制よりも、おそろしい提唱ではないか。
 ***
 八幡和郎は、学説上の根拠文献・参照文献を、上の点に特定しては、一つも挙げていない。
 八幡和郎の「頭の中」に関して、いぶかしく感じているのは、少なくともつぎだ。
 第一に、八幡は崇神天皇の「全盛」年を3世紀中頃とか3世紀中頃以降後半とかとも書いている。上のBでは「出生210年/即位3世紀中」とやや特定した。
 崇神天皇の在位年は日本書記によると(干支年の「翻訳」が必要だが)紀元前97年~紀元前30年とされるが、「繰り上げ」があって信頼性がないするのが通説だろう。
 一方、古事記の<分注・没年干支>によると解釈により258年と318年のいずれかだとされる(60年周期で干支は同一になる)。
 これを八幡は考慮していないようだといつぞやは書いたが、八幡の崇神出生210年という推定は、前者の258年(没年)にかなり近い。
 安本美典・倭王卑弥呼と天照大御神伝承(勉誠出版、2003)のp.190やp.205によると、那珂通世(紀年論先駆者)や水野祐(三王朝交替説論者)は記載がある場合の<古事記・没年干支>を信頼できるものと考え、前者は258年説、後者は318年説に立った、という。
 八幡和郎は、これらの説を知っている可能性がある。そのうえで、那珂説に傾斜して自らの出生年推定を導いているのではないか。
 第二に、その意味自体については争いがない<古事記・没年干支>によると、応神の父とされる仲哀天皇の没年は362年、応神天皇の没年は394年だ。八幡はこれについて何ら言及することなく、応神には兄がいたうんぬんだけ述べて、仲哀ー応神を36年とする。
 差は古事記によれば32年、八幡によれば36年。これは偶然だとは感じられない。八幡は、古事記による記載をある程度は信頼して「安心して」、両者は「30歳以上は離れているとみるべき」などと書いているのではないか。
 第三に、八幡は、各世代の差を(仲哀ー応神36年のほかは)「25歳」と想定する。在位期間と即位後の生存期間は同じ意味ではないが、父子直系継承の場合はこれら二つは同じだと見てもよいだろう。しかし、「25年」の根拠はいったい何か?
 上の安本美典著(2003年)によると、古代の天皇一代の長さについて、津田左右吉は20~25年(安本p.159)、直木孝次郎・井上光貞は20~30年(p.160)、那珂通世はほぼ30年(p.177)と想定して、各(実在)天皇の在位期間等を推定した、という。
 これらと八幡和郎が推論根拠とする「25年」もまたおおよそ一致しており、八幡はすでに何らかの学説・文献上の知識にもとづいて、「安心して」書いているとみられる。
 安本美典はこれを<長すぎる>とする。
 いずれにせよ、八幡和郎は、まるで自分の「頭」でだけ考察したかのごとく記述し、かつまたこれら学者たち以上に?傲慢にほとんど断定し、「政府」が古代の「実年代」を確定せよという趣旨まで書いてしまう。これは、異常・異様だろう。研究書の体裁をとらない新書・文庫では、何を書いてもよいのか。

2148/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典⑤。

 日本の天皇(さらに卑弥呼・天照大御神まで)に関する安本美典の「年代論」は、すでに言及している、つぎの一部にも書かれている。
 安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)。
 つぎの著にも、興味深い資料が掲載されているので、紹介しておこう。
 安本美典・新版/卑弥呼の謎(講談社現代新書、1988)。
 この著p.93以下によると、徳川幕府の各将軍、足利幕府の各将軍、鎌倉幕府の将軍・執権の「在位」年数の平均は、ぎのようになる。それぞれについて、各将軍等ごとの「補任・辞任」の年の一覧表(後二者については「月」も)掲載されているがここでは省く。
 最終的にはつぎのとおり。Bでは空位期間を含む/含めないの二つがある。
 A/徳川幕府・15代・1603~1867年-平均17.67年
 B/足利幕府・16代・1338~1573年-平均14.69年/13.50年
 C/鎌倉幕府・19代・1192~1333年-平均08.32年
 日本の3例の比較だが、時代が古くなればなるほど短くなっている。
 中国の「王」の在位年数の、世紀別平均年も掲載されている。根拠となる史料は、東京創元社・東洋史辞典の巻末「アジア各国統治表」のうちの「中国歴代世系表」上の、「即位・退位」時期のようだ。複数の王朝に分立している場合は、それら全てを合算して計算していると見られる。
 A/17~20世紀・15王・延べ334年-平均22.27年
 B/13~16世紀・33王・延べ476年-平均14.42年
 C/09~12世紀・96王・延べ1308年-平均13.63年
 D/05~08世紀・83王・延べ845年-平均10.18年
 E/01~04世紀・96王・延べ965年-平均10.05年
 時代が古くなればなるほど、短くなっている。計算の詳細な過程は書かれていないけれども。
 何のために安本美典がこういう作業をしているかというと、日本の各天皇の「在位」のおおよその期間を推論するためだ(なお、卑弥呼または天照大神の世代にまで及ぶ)。
 安本美典は、珍しく?、欠史八代も含めて、神武とそれ以降の天皇の「実在」を想定する。この点で、八幡和郎と同じだ。
 但し、安本はさらに神武以前の天照大御神までの「世代」数(5)も、日本書記に書かれているとおりだと仮定する。但し、日本書記上の生没年等の記事は(ある天皇以前は)全く信用しないし、直系継承ではなかっただろうともほぼ断定する。
 一方、八幡和郎による「崇神」=「壱与」までの推論の計算根拠は定かではなく、神武と崇神の間の代数については、「実在」か否かを疑っているフシもある。以下がその部分の叙述だ。下掲書、p.30ー31。
 「もし、神武天皇から数えて崇神天皇が10世代目というのなら、神武天皇はだいたい西暦紀元前後、つまり金印で有名な奴国の王が後漢の光武帝に使いを送ったころの王者だということになります。
 しかし、10代めというのは少し長すぎるので、実際には数世代くらいかもしれないとすれば、2世紀のあたりかもしれません。」
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2011)。
 八幡によると、崇神天皇は「3世紀中頃から後半」(上掲書p.30)。
 上の前半は神武~崇神をおよそ250-270年間とするようだ。かりに神武「全盛」期を紀元0年前後とし、崇神の「3世紀中頃から後半」を260年だとし、そして10世代・10天皇で割ると、一天皇在位平均は、26年になる。280年だとすると、28年になる。
 上の後半では、「数世代」=「3世紀中頃から後半」マイナス「2世紀のあたり」だ。
 かりに「数世代」=2~4世代で、かりに「3世紀中頃から後半」を260年、「2世紀のあたり」が110年、だとすると、260-110=150を前提として、1世代=150÷2~4で、平均は37.5年~75年、ということになる。しかし、「かりに」が多い。いずれにせよ、八幡和郎における「推論」・「推測」の計算根拠はよく分からない。

2139/「邪馬台国」論議と八幡和郎/安本美典④。

  八幡和郎が考えるように、邪馬台(ヤマト)国と大和朝廷・「天皇」・「日本」は連続していないとすれば、後者の皇統にある者たちがのちに「倭」とか「大倭」という語を国名や天皇の和風諡号に使ったのは、とんでもない間違いをしていたことになるだろう。
 その理由を論理的に想定できるのは、つぎの可能性だ。
 本当は「邪馬台国」も「卑弥呼」も自分たちとは関係がない、本当は遠い先祖や先輩たちでなかった。それにもかかわらず、天武・持統や日本書記編纂者等は<勘違い>をして、自分たちは魏志東夷伝倭人条に出てくる「邪馬台国」や「卑弥呼」の後継者だと思い込んだ。そして、この大いなる誤解のもとで、正規の文書や史書でも「倭国」とか「倭根子…」という語を使ってしまった。
 こんな大きな勘違いをしたのだろうか。しかし、中国(魏)の史書を見ただけで、自分たちは「倭国」の「倭人」たちの後裔だと思い込んでしまうものだろうか。
 それに、のちに「邪馬台国が滅びて数十年たったあと」で「その故地を支配下に置いた大和王権」は、その九州の土地で、大陸とやり取りのあった「女王の噂」など本当に「何も聞かなかった」のだろうか。
 八幡和郎は、「女王の噂など何にも聞かなかったというだけで、すべて問題は解決する」と言う。しかし、八幡によると崇神天皇は「壱与」と同世代なのだが、崇神の孫の景行天皇または崇神の曽孫のヤマトタケルが九州を支配したとき、その土地の人々の全てがはかつての「女王国」・「邪馬台国」に関する記憶を全く失っていたのだろうか。それほどまでに完璧な「邪馬台国の滅亡」があったのだろうか。
  シロウトの気楽さで、もう少し八幡和郎の「頭の中」を覗いてみよう。
 万世一系の天皇と邪馬台国は何の関係もないはずなので、八幡は論及する必要もないのだが、上記のとおり、崇神天皇は「卑弥呼」の後継者とされる「イヨ」の「同時代人」だとほとんど断定している。
 A/八幡和郎・本当は謎がない「古代史」(ソフトバンク新書、2010)。
 p.132-「邪馬台国の卑弥呼の没年は240年代とされ、そうすると崇神天皇はその後継者であるイヨの同時代人ということになる」。
 崇神天皇についての推測は、こうも記述されている。
 B/八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011)。
 p.30-「だいたい、崇神天皇は3世紀の中頃から後半にかけて活躍されたということになります」。
 p.46-「さらに、その景行天皇の祖父にあたる崇神天皇の全盛期は3世紀のなかごろと推定されます」。
 専門家でも学者・研究者でもない八幡和郎は、なぜこう大胆に書けるのだろうか。
 崇神天皇=「イヨ/トヨ(壱与・台与)」と同時代=3世紀の中頃ないし後半。
 このように八幡が「推論」する、その論理を辿ってみよう。これは紀年論・年代論だ。
  上のBも同旨だが、Aの方が少しは詳しいようなので、以下は、ほとんど上のAを検討対象にする。 
 崇神天皇でもどの天皇でも、歴史上存在しなかった天皇であれは、その在位期間を推測するのは当然に無駄なことだ。実在していたとしても生没年や践祚・即位と退位の年が文献等の上で明確でない場合にこそ、何らかの「基準」となる年を想定・固定して、そこから諸資料を通じて活動・在位の時期を<推論>・<類推>していくということになる。
 講談社の<天皇の歴史>シリーズ(全10巻、2011)にはどの巻末にも歴代天皇表が5頁にわたって掲載されていて、29代・欽明天皇以降については「在位期間」の年月日が記載されている。おそらく、欽明についての539年~571年以降は(月日省略)争う余地が全くないと考えられているのだろう。
 但し、26代・継体の507年即位というのもほぼ史実のように見えるし、稲荷山古墳出土の鉄剣の刻み文字から、21代・雄略天皇の活動年は471年を跨ぐ前後ということも、学界でもおそらくほとんど一致して承認されているかと思われる。
 不分明になるのは日本書記が記す天皇没年(これはふつうは次代天皇の践祚または即位の年だ)と全天皇についてではないが古事記が記載する没年(古事記没年干支)とが一致していない天皇からだ。
 それでも継体までは辛うじて「ほぼ一致」と言えるが、それ以前はかなり異なっている(允恭についての453年・454年、雄略についての479年・489年はまだマシだ)。
 崇神天皇については、日本書記では没年は紀元前29年とされ、古事記では(干支は明確でも60年毎に同じ干支になるので)318年説と258年説があるらしい。
 後者の258年というのは、八幡「推論」の結果とかなり近いが、八幡が干支年にこだわって上の後者を採用しているわけではない。
 さて、八幡和郎が確からしいとして「基準」とする年はいつなのだろうか。
 上のAによると、つぎのとおり。
 神功皇后の朝鮮半島への遠征年=応神天皇の出生年、346年。p.130-1。
 神功皇后による<三韓征伐>の記録・伝承を背景として、つぎの①と②の二つを根拠としていると見られる。そして、これらから、③の<推論>が行われる。
 ①<新羅本紀>によると、「倭人」が新羅の首都・金城を包囲したのは、346年と393年の2回。神功皇后の遠征年はこれらのうちいずれかだ、と八幡は考える。
 ②石上神宮にある国宝「七支刀」の刻み文字から、「369年」に百済王から倭王に送られたものだと分かる(この説が「多い」)。
 ③このときすでに「対百済外交」が行われていただろうから、①の346年と392年のうち、早い方の346年の「ことだろう」、とする。
 七支刀については、八幡自身によって「『日本書記』で神功皇太后に贈られたとされている」と説明されている。
 この日本書記の原文(但し、現代語訳文)は、つぎのとおり。秋月がつぎの著で確認する。
 新編日本古典文学全集/日本書記1・巻一~巻十(小学館、1994)、p.461。
 「〔神功〕摂政52年秋9月の丁卯朔の丙子(10日)に、…らは千熊長彦に従って来朝した。
 その時に、七枝刀一振・七子鏡一面をはじめ種々の重宝を献った。
 そうして謹んで、『…。…。この水を飲み、そうしてこの山の鉄を採って、永く聖朝に献上いたします。次いで、「百済王が孫の…に語って、……」と言いました』と申し上げた。これより後は、毎年相次いで朝貢した。」
 ここにある一振りの「七枝刀」が、現存する上の「七支刀」のことだと(たぷんほぼ一般的に)考えられているようだ。
 さて、出発点としての「基準」年はむろん最も重要なはずだが、このような論拠と推論でよいのだろうか。
 むろんよくは分からない。しかし、つぎの重要な疑問が生じる。
 第一に、神功皇后の遠征「年」を、倭人が「新羅の首都・金城を包囲」した記録が残るという、上の二つの年に限定しまうのは、それでよいのか。
 346年と393年の二つだけで、しかもこれらは47年も隔たっている。
 神功は、半島にまで身重で出征して帰国して現在の福岡県宇美町で応神天皇を生んだ、とされる。
 「新羅の首都・金城を包囲」していなくとも、神功皇后が半島にまで出向いたと理解してよい年は、ほかにもあるのではないか。
 当時の半島には百済・新羅・高句麗の三国があったが、高句麗に向かったかもしれないし、新羅への軍に同行したが首都を「包囲」するまでには至らなかった、ということもあり得るだろう。
 安本美典・神功皇后と広開土王の激闘(勉誠出版、2019)。
 上の安本著は、高句麗の「広開土王碑の碑文」には、つぎのことも書かれていた、という。p.95-96。
 01/391年-倭が「海を渡ってきて、新(?)羅を破り、これを臣民とする」。
 02/400年-倭が「新羅城のうちに満ちあふれていた」。
 03/404年-倭が「不軌にも帯方界に侵入」した。
 また、<新羅本紀>と日本書記には、八幡の挙げる393年のほか、つぎの情報も記述されている、という。
 04/402年-「王子の未斯欣が、倭の人質になった」。
 この04の新羅王子「未斯欣」は、上記の日本書記1p.431に出てくる「微叱己知」と同じ人物だろう。
 また、この「微叱己知」を「質」にした記事は、こういうことも書いている。神功皇后が新羅まで行っていることは(日本書記上でだが)明らかだ。
 05/402年?-新羅王を誅殺しようとある者が言ったが、皇后は「自ら降伏してきた者を殺してはならない」と言い、新羅王の縛を解いて、地図・文書等を収め、「矛を新羅王の門に立て」た。
 これら5件はいずれも、八幡が基準とする346年よりもかなり後のことだ。
 第二に、「七支刀」は神功皇后の時代に献上された、と日本書記は確かに記述している(摂政52年9月の条)。
 しかし、八幡自身がp.130で「これを贈られたのが本当に神功皇太后だったかどうかはともかくとして」と明記するように、誰がもらった刀なのかが、刀自身から明確になるわけではない。せいぜい「倭王」としか理解できないだろう。
 従って、七支刀が刻む年号=369年を手がかりとして、346年と392年のうち369年より前の346年を選択する、という八幡の推論方法が適切だとはとても思えない。
 なお、安本の上掲書p.256によると、古事記の「応神天皇記」に、百済・照古王が「横刀と大鏡」を献上した旨の記載がある、という。神功皇后ではなく応神天皇の時代に関する叙述だ。
 さて、346年=神功皇后の「活躍」年=仲哀死後十月十日で応神天皇を生んだ年
 これを「基準」とするのは、かなり危ないように見える。
  八幡和郎は上を「基準」年として、崇神天皇の「全盛時」は、「3世紀のなかごろということになる」、と推論結果を叙述する。
 「基準」年が大幅に間違っていると、推論結果も間違っている可能性が高いだろう。
 安本美典・邪馬台国と卑弥呼の謎(潮文庫、1987)。
 この書は末尾に、推古天皇~卑弥呼の間の、天皇在位・「活躍」期間を想定した安本による図表(・グラフ)がとじ込みで添付されている(厳密な数字化はされていない)。
 この1987年書での図表・グラフを現在の安本は放棄したわけでもなさそうなので、応神~崇神に限って、八幡和郎による想定と比較してみよう。*は、神功皇后と計。安本推定の細かな数字は、グラフに対する秋月の目視による。
 ①15応神天皇-八幡・出生/346年。  安本・在位/402年~425年。
 ②14仲哀天皇-八幡・出生/310年代後半。安本・在位/390年~402年*。
 ③12景行天皇-八幡・全盛/3世紀末? 安本・在位/370年~386年。
 ④10崇神天皇-八幡・全盛/3世紀半以降。安本・在位/343年~357年
 このとおりで、崇神天皇について約100年の開きが出ている。
 その結果として、八幡においては神武天皇は卑弥呼よりも前の(昔の)人物であるのに対して、安本によれば、神武天皇は卑弥呼よりも後の(新しい)人物になる。
 知的な「推論」過程・方法の差異に関心がある。もう少しつづけよう。

2107/「邪馬台国」論議と八幡和郎・西尾幹二/安本美典②。

 安本美典著の近年のものは、先だってこの覧で言及した神功皇后ものの一部しか熟読していない。その他の一部を捲っていると、興味深い叙述に出くわした。
 邪馬台国論議や古代史論議に関心をもつ一つの理由は、データ・史資料が乏しいなかで、どういう「方法」や「観点」で歴史・史実に接近するのか、という議論が内包されているからだとあらためて意識した。これも、文献史学と考古学とでは異なるのだろう。
 安本の学問・研究「方法」そのものについては別に触れる。
 ①「私たちは、ともすれは、…、専門性の高さのゆえに難解なのであろうと考える。こちらの不勉強ゆえに難解なのであろう、と思いがちである。
 これだけ、社会的にみとめられている機関や人物が、自信をもって発言しているのであるから、と思いがちである。
 しかし、ていねいに分析されよ。」
 ②「理系の論理で『理解』すべきものを、文系の論理、つまり、言葉による『解釈』にもちこむ」。
 安本美典・邪馬台国全面戦争-捏造の「畿内説」を撃つ(勉誠出版、2017)。p.241.とp.202。
 西尾幹二が「社会的にみとめられている人物」で「自信をもって発言している」ように見えても、「ていねいに分析」する必要がある。さすがに深遠で難解なことを書いている、などと卑下する必要は全くない。
  「理系の論理で『理解』すべきものを、文系の論理、つまり、言葉による『解釈』にもちこむ」というのは、この欄で私が「文学」系評論家・学者に対して-本当は全てに対してではないのだが-しばしば皮肉を浴びせてきたことだ。私自身は「文系」出身者だが、それでも、「論理」や概念の「意味」は大切にしているつもりで、言葉のニュアンスや「情緒」の主観的世界に持ち込んで独言を吐いているような文章には辟易している(江崎道朗の書は、そのレベルにすら達していない)。
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 西尾幹二は2019年の対談で「歴史」に対する「神話」の優越性を語る。しかし、そこでの帰結であるはずの<女系天皇否認>について、<日本神話>のどこに、どのように、皇位を男系男子に限るという旨が「一点の曇りもなく」書かれているかを、具体的に示していないし、示そうともしていない。
 西尾にとって大切なのは、「原理論」・「総論(・一般論)的方法論」の提示なのだろう。
 日本の建国・「国生み」の歴史についても、「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」と(章の表題としても)明記し、日本書記等を優先させよ、とするが、では日本書記等の「神話」によれば、日本ないし日本列島のクニ・国家の成立・発展はどう叙述されているかを具体的に自らの言葉でもって叙述することをしていないし、しようともしていない。
 日本書記と古事記の間に諸「神話」の違いもある。また、日本書記は、ある書によれば…、というかたちで何通りもの「伝承」・「神話」を伝えている。
 <日本神話>を尊重してすら、「解釈」や「選択」を必要とするのだ。そのような地道な?作業を、西尾はする気がないに違いない。そんなチマチマしたことは、自分の仕事ではないと思っているのかもしれない。
 西尾幹二・国民の歴史(産経新聞社、1999)第6章<神話と歴史>・第7章<魏志倭人伝は歴史資料に値しない>。=同・決定版/国民の歴史・上(文春文庫、2009)第6章・第7章。以下は、入手しやすい文庫版による。
 西尾の魏志倭人伝嫌悪は、ひとえに<新しい歴史教科書>づくりのためのナショナリズム、中国に対する「日本」の主張、という意識・意欲に支えられているのかもしれない。
 しかし、かりにそれは是としてすら、やはり「論理性」は重要であって、「暴論」はよくない。
 ・p.209。-「今の日本で邪馬台国論争が果てるところを知らないのを見ても、『魏志倭人伝』がいかに信用ならない文献であるかは立証されているとも言える」。
 ・p.209-210。-岡田英弘によると1735年<明史日本伝>はかくも〔略〕ひどい。「魏志倭人伝」はこれより「1500年も前の文章」なのであり、この項は「本当はここでもう終わってもいいくらいなのだ」。
 ・p.216。-「結論を先にいえば、『魏志倭人伝』を用いて歴史を叙述することははなから不可能なのである」。
 ここで区切る。日本の歴史研究者の誰一人として、魏志倭人伝は正確な当時の日本の史実を伝えており。それに従って古代史の一定範囲を記述することができる、と考えていないだろう。
 魏志倭人伝だけを用いて叙述できるはずはなく、また、その倭人伝の中の部分・部分の正確さの程度も論じなければならない。日本のはじまりに関する歴史書を全て見ているわけではないが、かりに「倭国」から始めるのが西尾大先生のお気に召さないとしても、魏志倭人伝のみに頼り、日本書記や古事記に一切言及していない歴史書はさすがに存在しないだろう。
 西尾幹二は、存在しない「敵」と闘っている(つもり)なのだ。
 上の範囲の中には、他にも、まことに興味深い、面白い文章が並んでいる。
 石井良助(1907-1993)の1982年著を紹介してこう書く。p.214以下。
 ・石井は「古文書に書かれている文字や年代をそのままに信じる素朴なお人柄」だ。「全文が書かれているとおりの歴史事実であったという前提に少しの疑いももたない」。
 ・「伝承や神話を読むに必要な文学的センスに欠けているし、『魏志倭人伝』もとどのつまりは神話ではないか、というような哲学的懐疑の精神もゼロである」。
 ・石井は「東京大学法学部…卒業、法制史学者、…」。「世代といい、専門分野といい」、「日本の『戦後史』にいったい何が起こったか」がすぐに分かるだろう。
 ・「文学や哲学のメンタリティを持たない単純合理主義者が歴史にどういう改鋳の手を加えてきたかという、これはいい見本の一つである」。
 以上。なかなか<面白い>。石井良助はマルクス主義者ではなかったが、津田左右吉流の文献実証主義者だったかもしれない。「法制史」の立場からの歴史叙述が一般の歴史叙述とは異なる叙述内容になることも考慮しなければならないのだが、それにしても、「文学や哲学のメンタリティを持たない単純合理主義者」等の人物評価はスゴい。書評というよりも、人格的価値評価(攻撃)に近いだろう。
 そして、西尾幹二にとって、いかに「文学や哲学のメンタリティ」、あるいは「哲学的懐疑の精神」が貴重だとされているかが、きわめてよく分かる文章だ。
 とはいえじつは、西尾のいう「文学的センス」・「文学や哲学のメンタリティ」・「哲学的懐疑の精神」なるものは、今日での世界と日本の哲学の動向・趨勢に対する「無知」を前提としていることは、多少はこれまでに触れた。
 「哲学のメンタリティ」・「哲学的懐疑の精神」と言えば響きがよいかもしれないが、その内実は、「西尾にとっての自己の思い込み・観念の塊り」だろう、と推察される。
 さて、後の方で、西尾は別の意味で興味深い叙述をしている。こうだ。
 p.220。神話と「魏志倭人伝」の関係は逆に理解することも可能だ。つまり、魏の使者に対して日本の官吏は<日本神話>=「日の神の神話」を物語ったのかもしれない。
 しかし、これはきわめて苦しい「思いつき」だろう。「邪馬台国」も「卑弥呼」も、「日の神の神話」には直接には出てこない。イザナキ・イザナミ等々の「神々」の物語=<日本神話>を歴史として「この国の権威を説明するために」魏の使者に語ったのだとすれば、「日の御子」と「女王国」くらいしか関係する部分がないのは奇妙だ。それに、詮索は避けるが、のちに7-8世紀にまとめられたような「神話」は、「魏志倭人伝」編纂前に、日本(の北九州の官吏が知るようになるまで)で成立していたのか。
 ***
 西尾幹二によると、「『魏志倭人伝』は歴史の廃墟である」。p.226。
 このようには表現しないが、八幡和郎のつぎの著もまた、日本ナショナリズムを基礎にして、可能なかぎり日本書記等になぞりながら、可能なかぎり中国の史書を踏まえないで、日本の古代史を叙述している。もとより、日本書記等と魏志倭人伝 では対象とする時代の範囲が同一ではない、ということはある。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない-新皇国史観が中国から日本を守る-(扶桑社新書、2011)。
 冷静に、理知的に歴史叙述をするという姿勢が、副題に見られる、現在において「中国から日本を守る」という実践的意欲、プロローグから引用すれば「皇室」とその維持の必要性を理解する「論理と知識を、おもに保守的な読者に提供しよう」という動機(p.17)、によって弱くなっている。
 この書物もまた、古代史およびそれを含む日本史アカデミズムによって完全に無視されているに違いない。この欄では、あえて取り上げてみる。

2106/「邪馬台国」論議と八幡和郎・西尾幹二/安本美典①。

 八幡和郎「邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話」ブログサイト・アゴラ2019年12月19日。
 西尾幹二・国民の歴史(産経新聞社、1999)第6章・第7章=同・決定版/国民の歴史・上(文春文庫、2009)第6章・第7章。
 西尾著の第6章・第7章の表題は各々、「神話と歴史」、「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」。
 上の八幡の文章を読んで予定を早める。八幡・西尾批判を行うとともに、この機会に、安本美典の見解・歴史(古代史)学方法論を自分なりにまとめたり、紹介したりする。
 可能なかぎり、別途扱いたい天皇の歴史・女系天皇否認論に関係させないようにする。但し、事柄の性質上、関連してしまう叙述をするかもしれない。
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 八幡和郎「万世一系: すべての疑問に答える」ブログサイト・アゴラ2019年5月31日によると、この人物が天皇の「万世一系」に関係することに「とり組み始めたのは、1989年」で、「霞が関から邪馬台国をみれば」と題する記事を月刊中央公論に掲載してからだった。
 1989年!、ということに驚いた。文脈からすると、邪馬台国論議をその年くらいから「勉強」し始めたというように、理解することができるからだ。ひょっとして、長く検討してきた、とでも言いたいのか。
 ***
 1989年、秋月瑛二はすでにいくつかの邪馬台国に関する文献に親しんでいた。
 井上光貞・日本の歴史第1巻/神話から歴史へ(中央公論社、1965/文庫版1973)は単行本で概読していただろう。文庫版も所持している。
 安本美典は、1988年までに、<邪馬台国の会>のウェブサイトによると、邪馬台国に関係するつぎの書物を出版している。*は、Amazonで入手できるらしい。
 ①邪馬台国への道(1967、筑摩書房)。
 ②神武東遷-数理文献的アプローチ(1968、中央公論社)。
 ③卑弥呼の謎(1972、講談社新書)。*
 ④高天原の謎(1974、講談社新書)。*
 ⑤邪馬台国論争批判(1976、芙蓉書房)。
 ⑥新考・邪馬台国への道(1977、筑摩書房)。
 ⑦「邪馬壱国」はなかった-古田武彦説の崩壊(1979、新人物往来社)。
 ⑧研究史・邪馬台国の東遷(1981、新人物往来社)。*
 ⑨倭の五王の謎(1981、講談社新書)。*
 ⑩卑弥呼と邪馬台国-コンピュータが幻の王国と伝説の時代を解明する(1983、PHP研究所)。*
 ⑪古代九州王朝はなかった-古田武彦説の虚構(1986、新人物往来社)。
 ⑫邪馬台国ハンドブック(1987、講談社)。*
 ⑬邪馬台国と卑弥呼の謎(1987、潮出版)。
 ⑭神武東遷/文庫版(1988、徳間文庫)。*
 ⑮新版/卑弥呼の謎(1988、講談社)。*
 ⑯「邪馬一国」はなかった(1988、徳間文庫)。
 以上。
 秋月は上記<会>の会員ではないし、邪馬台国論議に関与できる資格があるとも思ってもいない。
 しかし、正確な記憶・記録はないが、上のうち、③・④・⑥・⑨・⑫~⑯は所持しており(所在不判明のものも含む)、かつ読了していると思える。⑫は、事典的に役に立つ。⑭は②の改稿版。
 したがって、論議の基本的争点くらいは理解しているつもりだ。
 このような秋月瑛二から見ると驚いたのは、上の西尾幹二の書(1999年)も、八幡和郎の1989年以降の書物やブログ書き込みも、安本美典のこれら著書を全く読まないで、あるいは全く存在すら知らないで、書かれていると見えるということだ。
 古代史に関係する、専門家以外の著作の恐るべき傲慢さがある(もっとも古代史・考古学アカデミズムが、ごく一部を除いて安本の諸業績に明示的に言及しているわけでもない)。
 上の点は別に措くとして、西尾幹二は、魏志倭人伝の記載自体をまるで全体として信頼できないと主張しているようで、中国の「歴史書」よりも日本の「神話」を重視せよとナショナリズム満開で主張し、かつまるで古代史学者はもっぱら魏志倭人伝等に依拠していると主張しているようだ。これは西尾の無知又は偏見で、例えば安本美典の書物を見ればすぐに分かる。安本は、日本書記にも古事記にも注意深く目を通して、分析・検討している。
 一方、八幡和郎は、「邪馬台国」所在地論争について「北九州説」に立つようで、この点は安本美典(および私)とも同じだ。
 しかし、八幡和郎にどの程度の自覚があるのか知らないが、八幡説(?)はまるで性質が異なる。
 すなわち、通常とはかりに言わなくとも、有力な同所在地論争は、「邪馬台国」がのちの「大和朝廷」に発展したことを前提としている。簡単に言えば、「畿内説」に立てば、その地(大和盆地南東部)で成長したことになるし、「北九州説」に立てば、邪馬台国を築いた勢力が「東遷」したことになる(<神武東遷>。「東征」という語は必ずしも適切ではない)。
 八幡和郎の主張は、「大和朝廷」=「日本」国家の起源は、北九州にあった「邪馬台国」とは全く無関係だ、というものだ
 さかのぼって安本著等を見て確認しないが、このような考え方は昔からあった。八幡和郎はどの程度自覚しているのかは、知らない。
 上の12月19日「邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話」は、一定の前提に立って、「畿内説」論者はその前提をどうして理解できないのか、と記しているようなもので、説得力がない。
 八幡によると、北九州にあった邪馬台国が滅亡して「数十年たったあと」、畿内の大和政権が北九州も支配下においた。
 邪馬台国の所在地については中国の歴史書をふまえようという姿勢が(西尾幹二と違って)あるのだが、しかし、つぎのことは八幡和郎にとって「都合の悪い話」ではないか。
 ***
 魏志倭人伝(魏志東夷伝倭人条)によると、中国の使節がここまでは少なくとも来たらしい(これは八幡も肯定する)「伊都」国(現在の前原市辺り)は「女王国」に属し、「女王の都する」国は「邪馬台国」というとされる(女王の名が「卑弥呼」だ)。
 女王国と「邪馬台国(連合)」が同一であるかについてはなおも議論があるのかもしれない。しかし、個々の「クニ」よりも大きな「クニ」または「クニ連合」のことを「邪馬台国」と記載していることに間違いはないだろう(「邪馬一国」説は省略)。
 さて、なぜ、「邪馬台国」と記載されているのか
 話は跳ぶが、ソウルと大宮・大阪のいずれにもある「オ」という母音は、ハングルと日本語では異なる。韓国語でのソウルのソにある「オ」は、日本語の「オ」と「ア」の中間のようだ。
 したがって、ハングル文字での母音表記は大宮や大阪の「オ」とは異なり、コンピュー「タ」やティーチ「ャ」という場合の「ア」や「ヤ」と同じだ。
 何のためにこう書いているかというと、古代のことだから上と直接の関係はないとしても、つまりハングル・日本語と当時の中国語と北九州の言葉の関係は同じではないとしても、「邪馬台」は「ヤマト」と記すことのできた言葉であった可能性があるからだ。
 また、安本その他の諸氏も書いていることだが、当時の「ト」音には二種類があり、福岡県の「山門」郡は「邪馬台」と合わず、「ヤマト(大和)が「邪馬台」と合致する。
 また、「台」は、今日のダ、ドゥといった音に近いらしい(上で参照したアとオの中間的だ)。
 ダを採用すると「邪馬台」=「山田」となる。なお、朝倉市甘木辺りには「馬田」(まだ)という地名があったらしい。甘木という地名自体に「アマ」が含まれてもいる。
 この「邪馬台」と「大和(ヤマト)」の共通性・類似性を、八幡和郎は説明できないように考えられる。
 邪馬台国の成立・消滅のあとに成立・発展したはずの大和(ヤマト)政権は、いったいなぜ、「ヤマト」と称したのか?
 両者に関係がないとすれば、その「国名」の共通性・類似性はいったい何故なのか? たんなる偶然なのだろうか。
 八幡和郎は説明することができるのだろうか。
 八幡は知らないのかもしれないが、かつてすでにこの問題に回答することのできる説がぁった。
 正確な確認は省略するが、すでに畿内にあった大和(ヤマト)政権の強大さ・著名さにあやかって、本当は大和政権ではない北九州の「邪馬台国」が「ヤマト」という美名を<僭称>した、というものだ。
 これは時期の問題を無視すれば、論理的には成り立ちそうだ。
 しかし、八幡和郎は、この説も使うことができない。
 なぜなら、「邪馬台国」が北九州にあった時代、畿内にはまだ「大和(ヤマト)」政権はなかったと八幡は考えるのだから、「ヤマト」と<僭称>することはできない。したがって、中国の歴史書が「邪馬台国」と書き記したのは畿内政権と関係がないことになり、北九州の(伊都国の)人はなぜ、のちに成立する「ヤマト」政権と少なくとも類似した呼称を語ったのか、という疑問が残ったままだ。
 ***
 八幡和郎の論・理解の仕方の決定的弱点は「年代論」にあると思われる。天皇在位の年数をおそらくは平均して30年ほどに想定している。これ自体が、誤りの元になっているようだ。
 さらにいくつか、批判的に指摘しよう。

1692/安本美典・2017年7月著。

 「組織集団がある方向にむいている場合、その内部にいる人たちには、組織集団の文化の特異性に、気づきにくくなる。/思い込みと、ある程度の論証の粗雑さとがあれば、どのような結論でもみちびき出せる。当然見えるべきものが見えず、見えないはずのものが見えるようになる」。はじめにⅲ。
 「捏造をひきおこす個人、組織、文化は、捏造をくりかえす傾向があるといわれている」。はじめにⅹ。
 「素朴な人がらのよさを持っている方が、他の分野よりも多いような感じがする。/それだから困ってしまう。/信じたい情報だけを選び、それ以外は無視する」。p.346。
 「私は、…、捏造であるという『信念』を述べているのではない。…である『確率』を述べているのである。/それは、…私が…にあった『確率』を計算して述べているのであって、『信念』を述べているのではないことと同じである。/確率計算は、証明になりうる」が、「宣伝は、証明にならない。/この違いを、ご理解いただけるであろうか」。p.347。
 以上、安本美典・邪馬台国全面戦争-捏造の「畿内説」を撃つ(勉誠出版、2017.07)。
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 「信念」だけで、物事を判断してはいけない。信念とか、<保守の気概>とかの精神論は、理性的判断を誤らせ、人々を誤らさせる狂信・狂熱を呼び起こすに違いない。
 「宣伝」をしてはならないし、それを単純に信頼してもいけない。「宣伝」する者は、事実に反していることを知っていても事実・真実だと偽って「宣伝」することがしばしばある。とくに<政治的論評・主張の分野>では。<評論家・政策研究家>の肩書きの「宣伝員」を信頼してはいけない。
 自戒を込めて、安本美典の文章も読みたい。この人は古代史、かつ「邪馬台国」所在地論争について語っているが、<歴史>全般にかかわるし、現在の種々の<認識・報道・論評>にも関係するだろう。
 上の文章を、日本共産党員に読ませても意味がない。しかし、阿比留瑠比や小川榮太郞には、多少はぶつけてみたい気がする。
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 安本美典は、もう10年前には<卒業>したつもりでいた。
 しかも、しっかりと吸収して、「邪馬台国」北九州説をほとんど迷うことなく支持し、中心地だったとする福岡県甘木市(合併によりいまは朝倉市)も訪れた。さらに、甘木の奥のわが故郷(?)秋月地区も訪れた。
 卑弥呼=天照大神説もほとんど迷うことなく支持していて、実在の人物を反映しているとみられる卑弥呼=天照大神は、3世紀半ば頃の活躍だったと推測している。
 とすると、神武天皇等々の年代も、おおよそのことは判断できる。
 いつぞや皇室の系譜はどこまで実証できるかについて、神武天皇、さらには天照大神にので遡らせることはせず、継体以降は確実だが、とか記したが、実証はほとんど不可能にしても、神武天皇や天照大神「に該当する人物」または人たちはいたのだろうと感じている(但し、血統関係の正確さはよく分からない)。
 安本美典は<神武天皇実在説>なるものに分類されていることもあるようだが、日本書記記載のそのままのかたちで存在していたなどと主張はしていない(はずだ)。
 安本美典は記紀編纂時期までの<天皇の代数>くらいの記憶・記録はあったのではないか、とする。あくまで「代数」で、在位年数とか、在位時代の記述までそのまま彼が「信じて」いるわけではない(はずだ)。
 一定時期以前に関する記紀の叙述を「すべて」作り話とする大勢の学者たちに反発しているのであって、逆に「すべて」がそのまま真実だなどと主張しているわけではない(はずだ)。
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 ちなみに、櫻井よしこは、簡単に「2600年余の」皇統とか平気で書く。
 神武天皇は紀元前660年に「即位」とされているので、以降、1940年は<紀元2600年>だったわけだ。
 しかし、天照大神より後の(とされる)神武天皇が紀元前7世紀の人の可能性は絶無だろう。
 そう<信じたい>・<信念を持ちたい>人は、どうぞご勝手に、なのだが。
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 上のように安本美典を「ほとんど迷うことなく支持」したいのは、その理性的・合理的な説得性による。「確率」の高さの主張かもしれないが、そのとおりだろうなぁ、と感じてしまう。立ち入らないが、余裕があれば、詳細にこの欄で紹介したいくらいだ。
 10年ほど前までに安本の本は読み尽くした感があったので、しばらくはずっと手にしなかった。
 ところが、数年前から、ぶ厚い書物をまだ多く刊行していることに気づいた。これまでの書物をまとめた全集ものかと思ってもいたが、実際に入手してみると、そうではなかった。
 安本美典、1934年~。もう80歳を超えている。そして、上の書物は今年7月の刊行。
 すさまじい精神力と健康さだと思われる。
 この人の本を立てて並べてだけで、2メートルほどの幅になるのではないか。
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 西尾幹二・全集第20巻-江戸のダイナミズム(国書刊行会、2017.04)。
 この本の巻末に、江戸のダイナミズム・原書(文藝春秋、2007)の出版を祝う会の叙述があり(なお、2007年!、としておこう)、その中に「安本美典」の返信文も掲載されている。
 安本美典と西尾幹二は、刊行本を交換し合うような程度の交際はあったらしい。ある程度は「畑」が違うので、西尾の本で安本の名を見て、興味深く思った。
 西尾幹二、1935年~。 
 お二人とも、すごいものだ。
 秋月瑛二は80歳まで絶対に生きられないと決めて(?)いるので、異なる世界に住んでおられるようだ。いくら「信念」があっても、いくら「根性」があっても、致し方ないことはある。

0836/渡部裕明・産経新聞論説副委員長・11/14の「歴史的」大失態。

 一 奈良県の桜井市教委が、纒向遺跡内から大規模建物跡が発見された、と発表したらしい。
 産経新聞11/11は「卑弥呼の居館か」との大見出しを打って邪馬台国=近畿説の石野博信(香芝市二上山博物館長・元奈良県立橿原考古学研究所副所長兼附属博物館館長・関西大院卒)の「…卑弥呼の館の可能性はある」との言葉を伝え、辰巳和弘(同志社大教授)は「高床式建物はまさに卑弥呼の居室」と「明言」したと報道する一方で、邪馬台国=九州説の高島忠平(佐賀女子短大学長、元佐賀県教育委員会)は「大型建物跡は4世紀で卑弥呼の時代より50年以上も新しい」として「邪馬台国との関連を否定」した、と伝える。
 (なお、石野博信コメントは「可能性はある」というだけで断定するものではない。辰巳和弘コメントも「高床式建物」は「卑弥呼の居室」という一般論を示すだけで、今回発掘された建物跡の建物が「卑弥呼の居室」だったという趣旨ではないと解される)。
 産経新聞11/12は邪馬台国=近畿説の白石太一郎(大阪府近つ飛鳥博物館長、元奈良県立橿原考古学研究所所員、同志社大院卒)は邪馬台国所在地論争は「だんだん決着に近づいてきた」と「強調」した、と伝え、かつ赤塚次郎(愛知県埋蔵文化財センター調査課長、白石太一郎らとの共著あり)は「畿内説が有利になった」と「指摘」した、とする。
 同新聞は11/14から<卑弥呼いずこに・激論、邪馬台国>の連載を始めるが、第一回(上)に登場の、邪馬台国=近畿説だと思われる寺沢薫(橿原考古学研究所総務企画部長)は、「卑弥呼の宮殿として問題ないか」との先走った(幼稚な)質問に対して、単純な回答を避け、「卑弥呼が調査した辺りにいた可能性は高い」とだけ述べる。この部分を、記事は寺沢の顔写真の下にも引用している。
 11/15(日)に登場の七田忠昭(佐賀県教育・文化財課参事)は、邪馬台国=九州説の立場から「有明海沿岸が最有力」とし、纒向遺跡が示すのは「魏志倭人伝には登場しない別の勢力」ではないか、としている。
 11/16の第三回(下)はまだ読んでいない。
 二 以上、比較的長々と引用したのは、11/14の産経新聞「土曜日に書く/纒向遺跡と国家誕生」を書いた、産経新聞論説副委員長なる肩書きの渡部裕明の文章を奇異に感じたからだ。
 渡部裕明はこの文章(記事)の最後の方で「邪馬台国は大和で決着」との小見出しを付け、こう書いている。
 「邪馬台国九州説を唱える人はまだいる。しかし、それは学問的な発言ではなく、もはや『お国自慢』のレベルでしかないと筆者は感じている」。
 どのように「感じて」いようと勝手だし、それを全くの個人的・私的見解として公にするのも目くじらを立てることではないだろう。
 だが、産経新聞論説副委員長と明記したうえで、このようなことを書いてよいのか。内心で「感じる」ことや個人的・私的に語ることと、このような肩書きを付けて公式に活字にすることとの間には大きな懸隔がある。渡部裕明は、そう思わないか?
 第一に、自らの産経新聞に登場させている、邪馬台国九州説論者、すなわち、高島忠平や七田忠昭に対して失礼ではないか。「学問的な発言ではなく、もはや『お国自慢』のレベルでしかない」などと書いてしまうのは。
 なるほどこの二人は佐賀県に所縁があるのかもしれないが、それを言うならば、産経新聞が登場させている邪馬台国=近畿(畿内)説論者は、赤塚次郎を除く全員が「近畿」地域で仕事をしてきた者たちだ。
 第二に、この「産経新聞論説副委員長」氏は、いったいどの程度、所謂邪馬台国論争についての知識・素養があるのだろうか。
 同じ産経新聞社発行の月刊正論12月号は珍しく邪馬台国問題を取り上げ、黒岩徹「皆既日蝕が明かす卑弥呼の正体」を掲載しているが(p.232~)、この黒岩の文章は明確に邪馬台国=九州説を前提としている。そして、卑弥呼=天照大御神説でもある。
 まさかとは思うが、渡部裕明・産経新聞論説副委員長は、この月刊正論12月号の文章すら知らないまま、読まないままで、堂々と自信たっぷりに新聞紙上で邪馬台国=九州説は「学問的な発言ではなく、もはや『お国自慢』のレベルでしかないと…感じている」などと傲慢不遜な言葉を活字にしてしまったのではないか。
 長年の議論の蓄積があり、多様な論点がある問題について、いくら大(?)新聞の論説副委員長だとしても、上のように簡単に「決着」を付ける能力・資格などありはしない、と考える。
 三 素人の私ですら感じるのだが、産経新聞の11/12の一般記事が書く、纒向遺跡の中の「箸墓古墳」は「かつては4世紀の築造といわれたが、木の年輪幅の違いを利用して伐採年代を割り出す年輪年代測定法の成果などによって、3世紀の邪馬台国時代にさかのぼる可能性が高まった」、かかる研究により「今回の大型建物跡で出土した土器も、3世紀とほぼ特定できたという」こと自体が、まだ確立した学説にはなっておらず、争い・疑問があるところだろう。
 上の記事の文章すら正確には、「可能性が高まった」、「ほぼ特定できた」と叙述しているのであり、高まる「可能性」や「ほぼ…」というだけでは、何ら学問的に確立した考え方・認識にはなっていないことを認めた書き方だ。
 渡部自身も箸墓「築造の時期は、土器の編年や放射性炭素による年代測定などから3世紀半ばから後半と考えられるようになった。卑弥呼の没年と限りなく近づいた」と(こちらは断定的に)書く。
 しかし、これまた何ら学問的に確立した考え方・認識ではない。たしか国立歴史民俗博物館の研究者が見出したとかいう「放射性炭素による年代測定」方法なるものも、いかほどに科学的で信頼がおけるものかについて、専門家の間でも争いがあるはずだ。
 こんな曖昧な自社の記事や研究成果の影響を受けて、渡部裕明・産経新聞論説副委員長が、「箸墓」=卑弥呼の墓、今回遺跡出土の建物=卑弥呼の宮殿と「ほぼ」理解して、「邪馬台国は大和で決着」などという小見出しをつけたのだとすれば、大いにそそっかしいし、後世に、専門家でもないのに日本古代史上の問題に口を出して「結論」まで書いてしまった愚かなジャーナリストとして嗤われ続けるだろう。
 四 渡部裕明が書くように、纒向遺跡の地域=奈良盆地の東南地域が「ヤマト王権発祥の地」だったことは疑いなく、渡部が「もはや動かしがたいだろう」と書くまでもない。
 問題はそのあとに続けて、「邪馬台国(倭国連合)から古墳時代への移行はこの地〔纒向遺跡の地域=奈良盆地の東南地域〕で、直接的に行われたのである」と断定して書いたことだ。そのあとの一段落の文章(省略)では、こう言うための十分に説得的な根拠には全くならない。立ち入らないが、例えば、渡部は、記紀上の神話の記述、<神武東遷>伝承等、との関係をどう理解しているのだろう??

 五 箸墓=卑弥呼の墓説を有力視?させた、国立歴史民俗博物館の研究発表後に、安本美典・「邪馬台国=畿内説」・「箸墓=卑弥呼の墓」説の虚妄を衝く!(宝島社新書)は刊行されている(2009.09)。同・「邪馬台国畿内説」徹底批判(勉誠社、2008.04)もある。
 月刊正論12月号の黒岩徹「皆既日蝕が明かす卑弥呼の正体」は、安本美典の著作等を参考にしており、安本から「貴重な助言」を受けた、と明記している(p.239)。
 渡部裕明・産経新聞論説副委員長は大(?)新聞紙上に傲慢不遜な文章を書くのならば、安本美典の著作等も「参考」にしたらどうか(きっと一度も一冊も読んでいないだろう)。あるいは、安本美典の「貴重な助言」を受けて記事を執筆したらどうか。
 なお、安本は京都大学文学部・院卒、出身も九州ではない。<「お国自慢」のレベルでしかない>などと渡部が書けば、渡部自身が恥を掻くだけだ。
 六 日本史上の大問題に(箸墓=卑弥呼の墓説に関する朝日新聞と同様に)乏しい知識のみで簡単に決着をつけたつもりでいるのが「論説副委員長」なのだから、産経新聞紙上の「論説」のレベルの高さ(=低さ)も分かろうというものだ。何ともヒドく、情けない。

0588/安本美典『「邪馬台国畿内説」徹底批判』を全読了。ここにも朝日新聞が。

 安本美典・「邪馬台国畿内説」徹底批判―その学説は「科学的」なのか(勉誠出版、2008.04)は数週間前に全読了している。
 「邪馬台国畿内説」が成立し難いことは安本によってすでに以前から既得の知識になっている。だが、あらためて<学問>というもの、及び朝日新聞のヒドさを考えさせる本だ。
 厳しい批判の対象になっているのは、まず、白石太一郎
 濃尾平野に古墳が出たことをもって邪馬台国の「南」(畿内説だと「東」と読み替える)にあったという狗奴国と関連づけたのは白石太一郎。この白石にも依りつつ、朝日新聞の2004年2月17日~19日の3回連載は白石らの「邪馬台国畿内説」(濃尾地方狗奴説)を大きく取り上げた、という。
 旧石器捏造事件に言及して安本はいう-「考古学とは『自浄作用のまったくない学問』の別名なのか」(p.84)。
 白石太一郎の文章を長く引用して安本はいう。
 ・「乱暴かつ粗雑きわまる議論というほかはない」(p.87)。
 ・「…などの断言も、まったく信用できない。…そもそも異論を承知の上で、『疑いない』などと断言をする権威主義的な人の議論は、信用しない方がよい」(p.91-92)。
 ・「要するに、白石太一郎氏の議論は、検証や論拠を欠いた議論のオンパレードなのである」(p.92)。
 なお、朝日新聞は、1992年11/06、2001年2/02にも「邪馬台国畿内説」に大きく傾いた記事を出している(p.93-97、後者の執筆は、編集委員・天野幸弘)。
 また別の箇所で、安本はいう-「白石氏の議論は、検証可能な方法、事実をたしかめる方法、あるいは科学的な方法によっていない。/みずからの観念、あるいは、思い込みを優先するものである。…、白石氏のような、ことばだけの議論が許されるのなら、どんな議論でも成立する」(p.147)。
 第二の大きな批判対象になっているのは、樋口隆康
 安本によると、樋口隆康は、いくつかの古墳の発掘結果を「キッカケとし、あるいは材料として、すべてを『邪馬台国畿内説』の立場から解釈し、結びつけ、マスコミを通じての大々的な宣伝をくりかえすという挙に」出ている。結果の発表内容は、「事実についての解釈の相違という範囲をはるかにこえている。無根の事実をまじえるものとなっている」(p.155)。
 また言う-「誤りが指摘されていようと、くわしい批判が行われていようと反論は行われない。一切無視し、旧説を墨守して、みずからに都合のよいと思われることは、マスコミなどで何度でもくりかえしてPRする。…樋口隆康氏は、この種の非実証的・非科学的・空想的な議論を、くりかえして」いる(p.166)。
 かかる類の文章の引用はまだ多いが避ける。だが、次の指摘は、<学問風土>にかかわって、興味を惹く。
 「京都大学は近畿に」あり、「地の利」があって、「京大勢がリーダーになりやすい。現在、京大を中心とする考古学者たちは、どんなに論理的に無理があろうと、『三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡説』〔=邪馬台国畿内説〕に固執してやまない。強力な刷り込みが行われると、そうなるのであろう」。
 邪馬台国北九州説=東京大学、畿内(大和)説=京都大学というバカバカしい対立がある(あった)と随分前から読んでいたが、少なくとも京都大学については現在でも続いているようだ(アホらしい)。考古学では京都大学所属の小林行雄の存在が大きかった、立命館大学にいた古代史学者(邪馬台国畿内説)・山尾幸久も京都大学出身、というのもすでに持っている知識の断片だ。
 もっとも、安本美典自体が京都大学文学部出身だが(但し、歴史・考古学専攻ではなかった)、同大学出身で伝来的アカデミズムから自由な(毎日新聞→大学教授)岡本健一は、京大国史出身の原秀三郎から「京大の連中はオウム真理教だよ。秀才…が入ってきて、そこで三角縁神獣鏡を見せられ、小林イズムを徹底的にたたき込まれれば、おのずからああいうふうになってしまう」と聞いた、という(p.186)。
 元に戻って、三角縁神獣鏡(卑弥呼が魏から貰った鏡と畿内説論者は主張している)の成分調査(結果は畿内説に有利とも解釈できた)に関して、読売新聞2005年3/25夕刊が「ずさんな成分調査」との見出しで批判的記事を書いたが、朝日新聞は「完全な誤り」説をいっさい紹介しなかった、という(p.203-204)。
 この問題でも樋口隆康は「ご都合主義」を発揮したのだったが、安本美典の批判は朝日新聞にも向けられている。
 「この種の疑問を、これまでにもしばしば指摘されている樋口隆康氏などの発表を、なんのチェック機能もはたらかせず、部数数百万部といわれる新聞の一面で報じ、その後、何のフォローもしない、『朝日新聞』の姿勢などは、どんなものであろう。/私は『季刊邪馬台国』誌上に『朝日新聞社への公開質問状』をのせたが、かえってきたのは、きわめて不まじめな、木で鼻をくくったような回答であった。/情報を売る会社は、欠陥のある情報を、製造・販売しても、なんの責任も、とらなくてよいのか」。
 一部の「学問」関係者と一部の(朝日新聞等の)マスメディア関係者との間の<結託>が、古代史・邪馬台国をめぐっても存在するようだ。
 問題は、古代史・邪馬台国に限られない。近現代史についても、朝日新聞はれっきとした独自の<歴史観>をもち、学者を<選別>していることが想起されてよい。
 いつぞやマルクス主義又は親マルクス主義ではないと、少なくとも<反・反共>でないと政治学系の大学院学生の大学への就職は困難である旨を中西輝政が月刊諸君!上で率直に語っていて印象に残ったことを書いたことがある。似たようなことは、少なくとも関西での「考古学」分野でもあるようだ。安本美典は、以下のように書く。
 「はじめに邪馬台国畿内説ありき」。何故かというと、「そのように教育されたから」。何故「そのような教育が行われたのか」というと「京都大学を中心にして、…そのような教育システムができあがっているから」。「その教育システムからはずれれば、就職も生活も出世も不利となる可能性がある」(p.330)。
 また言う-「関西を中心とする考古学関係の新聞記者なども、『邪馬台国畿内説』の立場から教育をうけており、そこから発信される情報が全国紙にのる傾向をもつ」(p.331)。
 「全国紙」に、あるいは「全国」版に載せてもらうためには、理論的・学問的にはどうであれ、近畿地方での古墳発掘結果等の報道記事は<邪馬台国>問題と関連づけて書かれる必要があり、そのためには、それに有利なコメントをしてくれる学者・調査関係者が必要になる……。
 新聞記者、ジャーナリストも<堕落>したものだ。むろん、調査の補助金等を獲得するために<政治的>に動いている面があることを否定できないと思われる学者・(国立)橿原考古学研究所関係者も<堕落>している。
 南京事件、「百人斬り」競争、慰安婦「強制」連行、住民集団自決「命令」、東京裁判等々、<学者・研究者>と<マスメディア>の関係は、ある部分ではきわめて緊密だ。
 古代史・邪馬台国問題でも似たような状況にあるようで、ここにも陰鬱な気分にさせる原因の一つがある。いちいち気にしていると、生きていけないが。

0501/邪馬台国・三角縁神獣鏡問題と人文・社会系「学問」。

 産経新聞5/11の読書欄に安本美典・「邪馬台国畿内説」徹底批判(勉誠出版)の紹介(簡単な書評?)がある。その文の中に「最近は畿内説が有力になってきて、畿内にあったことを前提に議論がなされる傾向もみられる」とある。これは紹介者(書評者?)の自らの勉強・知識にもとづくものだろうか、安本が言っていることを真似ているのだろうか。
 安本の少なくとも安価な本(新書・文庫)はおそらく全て所持しており全て読んでいる。最も新しいのは、安本美典・「邪馬台国畿内説」を撃破する!(宝島社新書、2001)だろう。
 後半1/3は安本の従来の主張の反復及び補強だ。この本だけに限らないが、①邪馬台国所在地=北九州>現在の朝倉市甘木地区説、②卑弥呼=天照大神説、③神武天皇実在説、等はそれぞれ-素人にとってだが―説得力がある。
 ①について、甘木付近(と周囲)と奈良盆地西南部付近(と周囲)に同一又は類似の地名が同様の位置関係で存続していることの指摘は目を瞠らせた(上の本ではp.182-3)。
 ②について、天皇在位年数の統計処理を前提としてのヨコ軸=天皇の代の数、タテ軸=天皇の没年(又は退位年)のグラフ(上の本ではp.177)を延長すると初代(代数1)の神武天皇は280年~290年、その祖母とされる天照大神(代数でいうと、いわば-2)は240年頃になる、という指摘も、上の地名問題とともに安本の独自の指摘(発見?)だったと思うが、相当に説得力がある。
 中国の史書によると、卑弥呼は239年に中国に使者を派遣している。また、中国の史書によると卑弥呼の没年は247~8年らしいが、この両年に(二度)皆既日食があったのは事実のようで、安本は日本の史書による天照大神の「天の岩屋」隠れと再出現は天照大神の死亡とトヨ=台与(安本の上の本p.189はニニギの命(神武天皇の父)の母とされる「万幡豊秋津師比売命」ではないかする)の<女王>継承を意味するのではないか、とする。卑弥呼の死亡年頃に実際に皆既日食があり、天照大神の「天の岩屋」隠れの伝承が一方にある、というのは全くの偶然だろうか。
 上の③を補足すれば、現在は紀元2700年近くになるというのではなく、安本は、記紀上の在位年数や活躍年代の記載は信じられなくとも、北九州から大和盆地に「東遷」し、のちに神武天皇と称された、大和朝廷という機構の設立者にあたる人物がかつて(3世紀後半頃に)存在したこと、その後の支配者(=祭祀者?)の代数、くらいの記憶は7世紀くらいまで残っていても不思議ではない、とする。
 安本説によっても<王朝>の交替=血統の変更は否定されないが、勝手に自分の言葉(推測)で書けば、少なくとも継体天皇以降の天皇家の血統は現在まで続いているのではなかろうか(むろん、奈良時代の天武天皇系の諸天皇、南朝の諸天皇等々、現在の天皇家の直接の祖先ではない天皇も少なくない)。
 さて、安本の上の本の前半は最近の「邪馬台国畿内説」論に対する厳しい批判で、樋口隆康(この本の時点で橿原考古学研究所所長、京都大学卒)、岡村秀典(同、京都大学人文研究所助教授)らが槍玉に挙がっている。
 京都大学の小林行雄等が中国産(魏王から卑弥呼に贈られた)とした、そして京都大学系の人が同様の主張をしているらしい三角縁神獣鏡問題の詳細等には触れない。
 もともと安本美典は<マルクス主義は大ホラの壮大な体系>とか述べてマルクス主義(唯物史観・発展段階史観)歴史学を方法論次元で批判しており、津田左右吉以来の、記紀の「神代」の記述を全面否定する<文献史学>に対しても批判的だ。
 そしてまた、安本自身は京都大学出身だが(但し、日本史又は考古学専攻ではない)、樋口隆康や岡村秀典に対する舌鋒は鋭い。
 ・安本はかつてこう言ったらしい。-「京都大学の考古学の人たちは、オウム真理教といっしょ…。秀才ぞろいだけど…馬車馬のように視野が限られていた」。また、京都大学出身の原秀三郎(静岡大学)も次の旨言ったらしい。-「京大の連中はオウム真理教だよ。秀才の考古ボーイが入ってきて、そこで三角縁神獣鏡を見せられ、小林イズム〔小林行雄の説〕を徹底的にたたき込まれれば、おのずからああいうふうになってしまう」。(p.103)
 安本はこうも言う。-京都大学は近畿という地の利もあり「京大勢がリーダーになりやすい」。「どんなに論理的に無理があろうと」「三角縁神獣鏡説=卑弥呼の鏡」に「固執」する。「強力な刷り込みが行われると、そうなる」のだろうか(p.54)。
 ・安本は、岡村秀典についてこう書く。-「氏の論議の本質は、実証というよりも、空想である。科学的論証の態をなしていない。…著書で証明されているのは、およそ非実証的、空想的な内容であっても、圧倒的自信をもって発言する人たちがいるのだということだけである」(p.148)。p.102の見出しは、「カルトに近い『卑弥呼の鏡=三角縁神獣鏡説』」。 
 ・安本は、樋口隆康「ら」についてこうも書く。-「発掘の成果じたいは立派」でも、「多額の費用をかけた奈良県の…地域おこし、宣伝事業に、邪馬台国問題が利用されている面が、いまや強く出ている」(p.18)、「誤りと無根の事実とに満ちている」(p.20)、「この種の非実証的・非科学的・空想的な議論を、くりかえしておられる」、「氏の頭脳の構造は、どうなっているのであろう」、「与えられた先輩の説…を…八〇年一日のごとく、機会あるごとにくりかえす。念仏や題目を唱える宗教家と、なんら異ならない」(p.30)。
 以上は、たんに邪馬台国又は三角縁神獣鏡問題に関心をもって綴ったのではない。古代史学・考古学という<学問>にどうやら<人情>・<感情>・<情念>が入ってきているらしいということを興味深く感じるとともに、<怖ろしい>ことだとも思い、かつそうした現象・問題は古代史学・考古学に限らず、歴史学一般に、さらに少なくとも人文系・社会系の<学問>分野に広く通じるところがあるのではないか、という問題関心から書いた。
 政治学の分野で、マルクス主義又は少なくとも「左翼」程度に位置しておかないと大学院学生の就職がむつかしい(少なくとも、かつては困難だった)ということは、かつて月刊・諸君!誌上で中西輝政が語っていた。同様の事情は、歴史学、社会学、憲法学等ゝの法学(さらに教育学?、哲学?)についてもあるのではなかろうか。そして、そういうような研究者の育て方で、<まともな>学問が生まれるのだろうか。
 あたり前のことと思うが、安本美典は上の本でこうも書く。-「個人崇拝的な学説の信奉はよくない」(p.102)。
 もともと邪馬台国所在地問題については東京大学系-北九州説、京都大学系-大和説という対立があると知られており、個人レベルではなく大学レベルでの対立があるらしきことを、<非学問的な>奇妙な現象だと感じたものだった。大学レベルではなく指導教授レベルでもよいが、<非学問的な・個人崇拝>的現象は、広く人文系・社会系の<学問>分野に残っているのではないか
 若い研究者にとっては、大学での職を求めるために唯々諾々と?指導教授の学説ないし主張に盲従?していないだろうか。全面的にそうだとは推測しないが、何割かでもそういう現象があれば、その分だけはもはや<学問>ではなくなっているのではないか(「秘儀」の「伝達」の如きものだ)。
 なお、京都にあっても、同志社大学出身・同教授だった森浩一は三角縁神獣鏡問題でも安本説と同じで、かつ邪馬台国=北九州説。一方、京都大学出身の立命館大教授だった山尾幸久の同・新版魏志倭人伝(講談社現代新書、1986)は、京都大学系そのままの、邪馬台国=大和説。

-0052/「学界」外の者の発言でも正しいものはある-井沢元彦・安本美典ら。

 ○ 大学で「哲学」を講じている人の殆どは西欧の誰かの「哲学」の研究者(学者)で、「哲学学」者であっても「哲学者」ではなく自らの「哲学」を語ってはいないという印象があったが、少なくとも鷲田小彌太という人は違うようだ。
 鷲田小彌太・学者の値打ちをさらに80頁読み進む。
 西田(幾太郎)哲学は複数の異なる外国哲学の何でもありの受容(「借用」・「受け売り」)だ旨の指摘(p.23)にド胆を抜かれたが、その他、色々と考えさせられて刺激的だ。
 彼によれば、彼は25歳半ばからマルクス研究を始め40歳台でマルクス主義を「克服した」らしく、丸山真男政治学は「マルクス主義政治学の亜種」で、彼の弟子たちが学会から消えるに従い丸山の「名声」は弱まる(p.108)、等々。
 大学教授は「知識人」ではなく特定分野の「専門家」にすぎない、と思ったことがあった。
 ここでは「知識人」は社会のほとんどの諸問題に広い「教養と知識」を背景にしてマスメディアに発言する能力のある人とのイメージだった。
 これに関連して鷲田の上の本p.180は「大学教授の大半は、知識人とさえいえない」、「競争原理」が全く働かず、その「知識や技術」の「水準は問われない」からだ、と言う。つまりは私のいう「専門家」かどうかも「大半」は疑わしいというわけで、厳しい。
 アカデミズムとジャーナリズムの関係等の話も面白い(但し、立花隆の肯定的評価は承服できない。鷲田も立花・滅びゆく国家を読めば評価を変えるはず)。
 「かつてアカデミズムの権威が有効な時代があった。大新聞の論説が世論形成に与った時代があった。しかし、パソコンを媒介にしたこの社会では、個人発であるか、大学発であるか、大新聞発であるかで、情報価値に根本的差違はない」との指摘は全くそのとおり。
 知識・情報を大学・マスコミが独占しているはずがない。
 ○ しかし、妙なアカデミズムは残っているように見える。
 鷲田の本から離れるが、例えば、井沢元彦の研究・諸指摘(学界の「方法」的欠点も含む)を日本史学界はたぶん完全無視だろう。
 また、安本美典の古代史論、邪馬台国論は説得的な部分があると思うが、安本が日本史(古代史)プロパーではない(もともとは言語学、次いで心理学も)ことを理由に古代史学界はこれまた完全無視でないか。
 出自が何であれ、誰が述べようとも、正しいものは正しい。誰の問題提起でも適切ならば、適切なはずなのだ。鷲田によって「学界」の傲慢さも思い起こした。
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