秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

遠山茂樹

1594/三谷博・明治維新を考える(2012)と櫻井よしこ。

 「光格天皇の強烈な君主意識と皇統意識が皇室の権威を蘇らせ、高めた。その〔皇室の〕権威の下で初めて日本は団結し、明治維新の危機を乗り越え、列強の植民地にならずに済んだ。」
 櫻井よしこ・週刊新潮2017年2月9日号。
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 全部を読んだわけではないが、ふと印象に残る叙述を見つけることがある。
 仲正昌樹(1963~)のつぎの二つも、そうだ。なお、この人の書物はたいていは所持している。
 仲正昌樹・精神論ぬきの保守主義(新潮選書、2014.05)。
 仲正昌樹・松本清張の現実と虚構(ビジネス社・B選書、2006.02)。
 三谷博(1950~)のつぎの本も、きわめて興味深い。この人の書物も、かなり所持している。
 三谷博・明治維新を考える(岩波現代文庫、2012.11/原書・有志舎、2006)。
 櫻井よしこのように、明治維新・明治天皇・五箇条の御誓文を単純素朴に「讃える」悲痛な人もいて、何とも嘆かわしい。櫻井よしこが旧幕府を<因循固陋>・<非開明>とイメージし、「機能停止」に陥っていた(週刊新潮2013年10月10日号)と理解するのも、何とも嘆かわしい。
 この人は<明治維新>についてきちんとその関連歴史を<勉強>してみようという気がたぶん全くない。だから、「無知」をさらす。あるいはそもそも、そうイメージするのが「保守」だと思い込んでいる。
 三谷・上掲書p.219-220は、日本共産党員だったとみられる遠山茂樹の明治維新に関する書物に論及したあとで、最後の方で、自分の論として、つぎのような旨を言う。
 ①明治維新における「復古」とは、現状の「全面否定」で、「保守」とは正反対の、「進歩」・「革命」の発想に近い
 ②「復古」の行き先が「神話的伝承の世界」だったことは、明治維新の「復古」・改革に「かなりの自由度」を与えた。明治政府が「文明開化」・「ヨーロッパ化」を「臆面もなく」追求できた条件の一つは、この「空虚さ」にあった
 別途の議論が必要だろうが、櫻井よしこや「日本会議」が追求しているらしい「日本の国柄」らしきもの、「天皇を戴く日本」というものには、じつは何の<価値>もない、と秋月瑛二は考えている。
 すなわち、<日本の天皇・皇室>は、いざとなれば、共産主義とも両立しうる。あるいは、逆の言い方をすると、日本の共産主義者たちは、いざ必要とあれば、<日本の天皇・皇室>の存在をも利用する。
 <天皇・愛国>の主張だけでは決して、反共産主義の主張にはならない。
 かくして、三谷博の上記に関連させると、明治維新の「復古」対象としての「神話的伝承の世界」が、何の<価値>もない「空虚」だった、ということもじつによく分かる。
 神話世界・天皇中心政治の中に、いかなる「価値」をも取り込むことができたわけだ。
 つい数年前まで尊皇と「攘夷」を唱えた者たちが、「臆面もなく」、開国・文明開化の政治路線を歩んだ。
 明治維新を主導したともされる薩長(土肥)勢力とは、いったい何だったのか。
 櫻井よしこが高く評価する光格天皇も、天皇・皇室と幕府に関する基本的考え方については、孫の孝明天皇と変わらなかったと思われる。
 孝明天皇は対幕府協調・「公武合体」路線、あるいは世俗政治・行政は原則的に幕府に任せるという「大政委任」の考え方で、幕府を潰そうとは考えていなかった。
 幕府内にも優秀な官僚たちはいた。井伊直弼もそうだっただろう。彼らこそが「開国派」(通商条約締結・施行)で、これに天皇・皇室側が注文をつけた最初は、岩倉具視を含む「一部の公卿たち」の働きかけによっていた。井伊直弼は、水戸藩士らの「テロル」に遭った。理由は<違勅>だったのだろう。
 「開国」的動きを掣肘し、それを「反幕府」の運動へと変形させようとしたのは、-旧幕府側にも善良な?ミスはあったが-長州藩や「一部過激公卿」だった。のちの著名人物、「元勲」たちがいっぱい出てくる(薩摩藩は最後の局面で幕府をつき離す。そしてここにも「元勲」たちがたくさん生まれる)。
 その結果として、<暴力>・大きな「内戦」を伴う政権体制の基本的な変化=「革命」的なものになってしまった。
 徳川時代の最初・家康に「復古」したのでは、江戸幕藩体制を否定できない。鎌倉時代戻っても武家政権になるし、平安時代も<藤原摂関政治>だった。となると、奈良・飛鳥の<律令制度>をさらに遡って、「純粋な」日本の往古にたち戻らなければならない。神武天皇時代の初心・初業への「復古」なのだ。
 かくして、体制否定の論理または「イデオロギー」が、<天皇>親政、<神武天皇創業という日本の古代に立ち返る>ことだった、と思われる。だがこれはおそらく、元々は一部の者のみが考えていたことで-長州にある程度の「信者」はいたが-、孝明天皇没後の1867年くらいから「公」になり、多くは<後づけ>で用いられたのではないかと想定している。旧時代とは異質という意味での「新しい」ものである必要があった。
 今から見ての当時の最終盤の現実的な争点は、幕府機構または「徳川家」を残すか否かだった。
 幕府機構は解体しても、旧幕臣や徳川氏も協力する新体制、というのも、想定しえただろう。
 それをすら、つまり「徳川氏」の政治関与すら絶対に許せない、と考えた者たち・集団がいた。彼らには、<天皇第一>(これは反幕府・幕府解体につながる)の「原理」は必要だったかもしれないが、攘夷も、開国も、「基本政策」問題は全て、おそらく関係がなかった。権力奪取の後で、種々の重要な政策問題に付け焼き刃的に対処せざるを得なかった。
 だから、より漸進的な変革はありえた、と考えられるが、現実は、より血が流れる、より多くの人が殺戮される「革命」的なものになった。当初の<理念宣告>を貫くために、神仏分離・廃仏毀釈等々の「無理」もしなければならなくなった。
 明治維新の「復古」とは「革命」に近い、という三谷博の理解も、十分に納得できる。
 現在の日本の「特定」の「保守」派らしき人々が、明治維新をかつての日本の素晴らしい事象のごとく描くのは、どこかおかしいのではないか。エドマンド・バーク的な「保守主義」の立場にたてば、むしろ批判的立場にいても不思議ではないのではないか。
 あるいは、彼らは<保守革命>という、劇的な変化を夢想しているのではないか、とも思われる。それは、日本共産党的「左翼」・共産主義者たちと、発想は変わらない。
 いずれにせよ、明治維新に関する「歴史認識」いかんもまた、鋭く問われている、と言えるだろう。明治維新に関する上の簡単な秋月の叙述は、粗雑な、思いつきの文章にすぎない。



0266/大学の歴史・社会系ではまだ共産主義系が多数派!?

 この1年間で、いや8カ月と区切ってもいいのだが、最も印象的で、最も衝撃的な情報は、月刊諸君!2007年2月号(文藝春秋、2006.12末発売)の伊藤隆・櫻井よしこ・中西輝政・古田博司による「「冷戦」は終わっていない!」との「激論」の中の次のような文章だった。
 伊藤教え子たちがいろいろな大学に就職…聞くのですが、大学の歴史・社会科学系では実はまだまだ共産主義系の勢力が圧倒的多数なんですね
 中西近年、むしろ増えているのではないですか。現在は昭和20年代以上に、広い意味での「大学の赤化」は進んでいると思います
 伊藤「…戦後第一世代と異なるのは、そうした左翼シンパのひとりひとりはほとんど無名の存在だ…。いま大学にいるのは遠山(茂樹)井上(清)の孫弟子の世代なんです。だから誰も彼らが左派系だなんて気づかない。そんな連中が教授会の多数派をしっかりと握っている大学が多い
 中西「…石母田(正)の怨念の籠もり籠もった歴史学…。家永遠山の歴史観にも共通した特徴ですが、彼らの影響を受けた研究者たちが、いま日本の歴史学会の多数を支配している…。大学はなかなか変化しないんです」(p.50-1)。
 伊藤隆は歴史学者であり、歴史学界を主な対象として語られているようだ。だが、中西輝政は政治学・経済学界についても丸山真男大塚久雄の名を出したのち次のように言っている。
 中西研究対象を選ぶ段になると、学会での地位や就職が絡みますからナーバスに…。直接、左派知識人に批判的なことをやると、大学への就職が難しくなるという有形無形のプレッシャーはいまだにものすごく強いですからね」(p.53)
 <大学の自治>の下での<学問の自由>の現状はおそらくこうなのだろう。国家ではなく「左派」によって<学問の自由>が事実上侵害されている。そしてかかる現象は―特段の言及はないが―歴史・政治・経済学以外の法学・社会学等々にもある程度はあるものと思われる。
 「左派」すなわち共産主義・マルクス主義の影響を受けた、又はこれを「容認」する大学研究者(教員)が人文・社会系では「多数」のようだとは、私のある程度は想像する所でもあったが、こう明確に語られると、慄然とする。彼らが執筆した人文・社会系の(日本史・世界史・政治経済・現代社会等の)中学・高校の教科書で学んで、上級官僚や法曹が、そして若い国会議員が育ってきているのだ。
 上の<激論>の中で中西輝政は指導教授の高坂正堯が時々「きみたちには悪いねぇ」(早く就職させられなくて)と大学院学生たちに言っていた、「高坂先生は…七〇年代までは学界で異端視されていて、その門下生と知れると、ほとんどお呼びがかからなくなる。私たち大学院生は…「高坂門下」ということで大いに差別される」等と発言しており(諸君!2月号p.52)、中公クラシックスとなった高坂正堯の本・宰相吉田茂(中央公論新社、2006)の緒言で、中西寛(現京都大学法学部)は高坂正堯の吉田茂を肯定的に評価する論文・著書に関連して、「マルクス主義や進歩派知識人による保守政治批判が大多数だった」「当時においては、学者や知識人にとって保守政治家を批判する方が肯定的に評価するよりもよほど安全だった」と記している。
 「左翼」/マルクス主義者/日本共産党員の強い分野では、事実上の「思想統制」が(国家によってではなく)行われていたし、現在も行われている可能性があるわけだ。
 「思想統制」にはあたらず、その逆だろうが、東京大学出身者でもない樋口陽一はなぜ東北大学から東京大学(法学部)に迎えられたのか、同じく上野千鶴子はなぜ京都の某女子大から東京大学(文学部社会学科)に迎えられたのか。その<思想傾向>は、一般世間以上に、大学の世界では所属大学の変更も含む<人事>にかなりの影響を与えていそうだ。

0152/朝鮮戦争に関するマルクス主義歴史家の「哀れ」。

 朝鮮戦争は南北どちらが先に攻撃を仕掛けて開始したかという問題につき、松本清張・日本の黒い霧「謀略朝鮮戦争」(松本清張全集30のp.386以下、初出、1962?)は曖昧にしつつ、南による北侵説の余地を多分に残している。
 だが、中国共産党の影響を受けている可能性を否定できない、朱建栄・毛沢東の朝鮮戦争(原著1991、岩波現代文庫、2004.07)すら、p.22で、朝鮮戦争は「北朝鮮が発動したことについて、もはや疑問を挟む余地はなくなった。そして金日成が スターリンの支持を取り付けて、その軍事的援助を得て、…開戦計画を練っていたことも明らかになった」と記すに至っている。
 また、児島襄・朝鮮戦争1(文春文庫、1984。初出1977)は明瞭に「北」による「南侵」説だったが、元赤旗平壌特派員で2005年に共産党を除籍された萩原遼・朝鮮戦争(1993、文藝春秋)刊行の頃までには、この戦争が、朱建栄の言うように、米国・韓国軍の北侵によってでなくスターリンと毛沢東の了解のもとで北朝鮮軍の南侵により始まったことは関係史料から明らかになっていたと思われる。
 しかるに、第一に、マルクス主義歴史学者の井上清・昭和の50年 -新書日本史8(講談社現代新書、1976.09)p.139-140は、「米軍が、日本を基地として朝鮮戦争をおこした」、「6月25日、李承晩軍は38度線で北側を攻撃し、北は大反撃に出た。こうして朝鮮戦争がはじまった」と述べ、著者と講談社は1992.12の第9刷になってもこれをそのまま発売している(私の所持している範囲で指摘する)。
 第二に、亀井勝一郎との間で<昭和史論争>を引き起こした遠山茂樹=今井浩一=藤原彰・昭和史(新版、岩波新書、1959)の56刷は1995.05に出ているのだが、同p.276も「6月22日」アメリカは「極東において積極的行動に出ることを決定した」、「25日、北朝鮮軍が攻撃してきたという理由で、韓国軍は38度線をこえて進撃を開始した」と記述している。
 上述のように、1990年代初頭には(旧ソ連の関係史料が公開されたことにより)朝鮮戦争は<北朝鮮による侵略>により始まったことは明らかになっていたのに、上の二つの本の著者たちと講談社、岩波書店という日本有数の?出版社は、歴史の真実を歪曲した、端的には「ウソ」を書いている歴史本を90年代の前半以降も販売し続けたのだ(ひょっとして2007年の現在でも?)。執筆者は勿論だが、出版社にも「良心」又は(大多数の研究者等が承認する又は史料により疑いがなくなった)歴史的事実への「謙虚さ」が必要だろう。名誉毀損等の具体的な被害者はいないとしても、歴史の「偽造」は、長期的には、又は国家的観点からは、遙かに<罪深い>ものだ、と考えられる。
 ところで、出版元や内容から日本共産党員だろうと推測される鈴木正四・戦後日本の史的分析(青木書店、1969)を古書で持っているが、その「まえがき」は「もっとも全面的な、もっとも客観的な学問の立場であり方法であると思うから」、「労働者階級の立場、マルクス主義の方法と観点にもとづいて書かれている」と勇ましく宣言している。そして、p.114で朝鮮戦争について次のように言う。-「絶対」と言いたいところを学問的な表現で「少なくともいわば1万中の9999まで、アメリカが戦争をおこした疑いがきわめてこいという結論にたっした」。
 同じく古書で買った、藤原彰・日本帝国主義(1968、日本評論社)も結論は同じだ。
 出版された時期、当時は旧ソ連の史料を知ることは困難だったことを考慮しても、今から見るとこれらマルクス主義歴史家の叙述は、何やら<哀れ>を誘う。<取り憑かれ>とは怖ろしいものだ。

0102/日本共産党は「反党分子」がいる団体とは共闘しない(らしい)。

 宮地健一のHP(「共産党問題、社会主義問題を考える」)で知ったのだが、日本共産党は7月の参院選の比例区には、今まで25人立候補させていたのに、5人しか候補を立てないらしい。25人でも5人でも、日本共産党票をどれだけ集められるかだが、前回程度の430万票だと前回と同じ4人は困難になり、下回ると3人になる可能性がある、東京選挙区の候補が当選しないと、当選者は計3で、非改選者を含めて9名から7名になる、という。宮地氏の言葉だが、「ますます泡沫政党化する」わけだ。
 上の最悪予想のとおりだと、3年ごとの各回の当選者数は、15→5→4→3。どう見ても<減少>、<衰退>傾向にあるとしか判断できないことになる。この最悪予想がアタることを、期待しておきたい。
 同じ最新のファイルに、日本共産党が「平和共同候補実現運動」又は「共同候補・共同リスト市民運動」に敵対し、共闘しない理由が4点に整理・分析されている。私の関心を最も惹いたのは第四点の、「批判・異論分子が参加する市民運動・団体の社会的排除の必要性」だ。
 その部分には、「共同候補・共同リスト市民運動」参加者の中に元日本共産党員等の「批判・異論分子」がいることが、具体的な固有名詞でもって紹介されている。
 私は知らない名前もあるが、全て列挙して記録しておこう。
 針生一郎中里喜昭(この2人は民主主義文学同盟員で1982年の「核戦争の危機を訴える文学者の声明」の「お願い人」)、吉田嘉清草野信男(1984年、原水協で「反党活動」)、丸木位里丸木俊夫妻(中核派滝田をかくまった容疑で査問・除名)、古在由重(1984年、原水禁運動にかかる「分派活動規律違反行為」で除籍)、霜多正次(1983年の民主主義文学同盟問題で「反党活動」・除籍)。
 改行して、川上徹(既述の元「全学連」委員長、元民青同盟幹部、「新日和見主義」者として査問を受けつつも離党はしなかったが、1990.09の「古在由重先生を偲ぶつどい」を企画し事務局側の一人となった。日本共産党は家永三郎、久野収、加藤周一、遠山茂樹、川本信正らとともに呼びかけ人になっていた党員に「手を引け」と「個々に指令した。ほぼ全党員がやめたのに、川上徹だけが、指令を拒否」。「規律違反で除籍した反党分子を偲んだ規律違反」として「査問し、除籍」)。
 さらに、「市民の風」と「平和共同候補実現運動」代表呼びかけ人の加藤哲郎(一橋大学教員)、呼びかけ人の田口富久治(名古屋大学名誉教授)、柴山健太郎(労働運動研究所)(川上徹も呼びかけ人の1人)。
 全く知らなかったが、加藤哲郎と田口富久治は、『日本共産党の七十年』が名指しで批判しているらしい。
 田口富久治といえば、私が大学生の頃はマルクス主義政治学者で、しかも日本共産党員と見えた(当時はそのとおりだったようだ)現役の大学教授だった(名古屋大学)。
 読んでいないが、田口は『マルクスと丸山真男の間で』とかいうような本を近年刊行していたかと思われる。かつて所属し、熱心に活動した政党(共産党)から「敵視」されるとは、いかなる気分だろうか。
 日本共産党の内部問題だとはいえ、<冷酷>な政党だという印象は拭えるはずがない。除籍した「反党分子」の死に際して積極的に「偲んで」はいけないのだ(「反党分子」の死は喜ぶべきことで、唾でも吐きかけよ、というのが同党の-正規ではないにしろ事実上の-方針・指令だろうか)。その組織原則・「民主集中制」によるのだろう。
 なお、有田芳生も新日本出版社に勤務中に何か「問題」を起こして日本共産党員を辞めた筈だ。上記の「平和共同候補実現運動」等にはもはや関与はせず、テレビ・コメンテイターをし、テレサ・テン等に関する本を書いたりしているようだが、強制的な離党だったかどうかも含めて、ヒマなときにネットで調べてみよう(彼のHPにある程度は書かれていた記憶がある)。

-0010/61年めの記念日に二度めの日記でつぶやく。

 睡眠を経て、午後4時すぎ。終戦記念日の読売社説を読んで、朝日の13日の社説は読売の一部のパクリのごとくだと感じた。読売のように1年以上の検証を社内ですることなく、朝日は社説で唐突に、「責任」の有無や程度を一部の個人についてのみ言及したのだ。といって、読売社説に全部納得しているわけではない。朝日の世論調査報道のごとく、100%「侵略」戦争だったと100%の現国民が考えているわけではない。プラス面又は「自衛」面がかりにあったとすれば、論理的には「責任」者でなく「功労」者を検証すべきことになる。読売は「侵略」戦争一色史観なのか。
 小泉首相、午前早くに靖国参拝。昨年に比して方式がより本格的なのは、今年、靖国参拝違憲損害賠償請求訴訟につき最高裁が(合憲としたわけではないが)不法行為法(国賠法)上保護されるべき損害なしとして棄却したことが大きいと推測される。
 新聞社、半藤・秦・保阪等々が戦中史・戦後史について積極的に発言しているが、肝心のわが日本史学界(近現代史学界)=アカデミズムの人たちはいったい何をしているのか。かつて亀井勝一郎氏が批判して論争が生じた岩波新書・昭和史(1959、1995.05-56版)は1995年の増刷だが、依然として朝鮮戦争は南が北侵の旨記述する(p.276)。
 ソ連の同意と中国の了知のもとでの北の南侵が明瞭になっているのに、岩波と遠山茂樹・藤原彰等には「学問」的良心がなく、「知的退廃」がある。名誉毀損損害賠償訴訟を起こされなければ「嘘」の記述でも垂れ流して売るのだろう。このような人たちを指導教授とする親マルクス主義的研究者が多く育っていると思われ、「正常」化にはあと何世代か要するようで未来はただちには明るくない。
 松本健一は経済学部出身、故坂本多加雄氏は法学部出身。もっとも、非マルクス主義の通史シリーズもいくつかあるようで状況は少しは変わった。かつてヒットした中公の日本の歴史シリーズは直木孝次郎・黒田俊雄・井上清など「左翼」の多さが歴然としていたように思う。
 鈴木正四・戦後日本の史的分析(青木書店、1969)は「労働者階級の立場、マルクス主義の方法と観点」で書くと「まえがき」で宣言しつつ朝鮮戦争につき「少なくともいわば一万中の九九九九まで、アメリカが戦争をおこした疑いがきわめてこいという結論にたっした」と述べていた(p.114)。日本共産党員らしき研究者の体たらくを、今や嗤い、憐れむのみだ。

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