秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

道家

2131/津田左右吉・日本の神道(1948)-第1章④。

 津田左右吉・日本の神道(1948)/同全集第9巻(1964)。
 第1章・神道の語の種々の意義。紹介のつづき。
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  「神」の語が形容詞として用いられることもある。なお、古典的シナ語では品詞の区別が語形に現れない。
 道家の「神人」の「神」は「道を得た人」の形容であり、シナを「神州」、天下・帝位を「神器」とするのも同じ。いずれも「宗教的意義での神」から転化したものだろう。
 後世でも同様だが、「道教」で「人の形を備えた」「神」への崇拝が始まったように、変化もある。これは「仏または仏教に伴って伝えられたインドの神に関する知識」が誘った趣もある。「仏そのものが神と称せられてもいた」のだから。そして、「仏を宗教的祭祀の対象」と見たからで、「シナにもとからあった神」との区別のために「胡神戎神」という語も作られた。六朝時代の仏教徒が主張した「神不滅」論では、「神」は「形」に対するものだが、現代的意味での「霊魂」の性質をも付与されていたようだ。
  以上のとおりだから、「神道」に種々の意義があるのは当然だ。
 「神」の語は「宗教的意義」をもって、「とくに祭祀の対象」として用いられたから、「祭祀祈祷」または広く「宗教」が自然に「神道」と称せられることとなる例は多く、「仏教もまた神道と言われてきた」。
 「神道」の語は「神を祭る道」、「神についての道」の意味だろうが、「神」を形容詞と見てもよいようだ。そして、形容詞として使われつつ、「宗教的意義」のない「神道」という呼称もある。「道家の道が神道と呼ばれたことがある」のもその例だ。道家が「虚静無為の境地にあるもの」を「神」と称したとすれば、「神道」は「神を説く道」かとも思われるが、「道家の道」=「神道」というのはむしろ、晋代に「易」と道家が結びついたことによるのだろう。
 呪術・その他の方術を「神道」と称するのは、「神」を「不可思議な働き」の意味で用いてその「術」を形容したものだ。
  日本書記で「日本の民族的宗教としての神の崇拝が神道と称せられている」のは、「宗教的意義での神道の名を日本に適用してもの」だ。「ただ、仏が神と言われ、仏教が神道と称されていた実例がシナには多く、日本でも仏が神と呼ばれたことがあるから、仏教に対立するものとしての従来の民族的宗教に神道の名を負わせたことは、この点から見て少しく異様の感があるようでもある」。
 だが、「久しい前からカミの語には神の字があてられていたのと、書記編述のころには、仏を神と呼ぶ習慣もすたれていたようであるのと、この二つの事情から、こういうことが行われたのであろう」。
  こうして「神道」との名称が用いられはじめたが、後世には日本語化して、「神の道」と言うようにもなった。もとの日本語に「神の道」という語があったのではない。「道」という語をこういう趣旨で使うのはシナに限られる。
 人が歩行する道の意味が転じて、「人の行為の規範」、「事物に対する理法」、そしてこれらに関する一定の「教説」、現代語での「主張」の如きもの、または「特殊の知識技術」を指すに至ったのであって、「神道」の「道」もそういう転化しての意味だ。
 日本でも後に、慈遍が「皇道」を、真淵が「神代の道、皇神の道」、宣長が「神の道、日の大神の道、日のみこのうけつたへます道」、「神のみ国」等を言うのは、シナの用例に倣ったものだ。真淵や宣長が「特に」こういう言い方をするのは、「道」を日本語で表現しようとしたからだろう。
 たんに「神道」でも大きな支障はないにもかかわらずこうした語を作った点に「彼らの国学者的態度がある」けれども、「そのじつ、こういう意義で道ということを言うのは、シナ思想を受け継いだものである」。彼らがこうした語を作ったのは「旧来の神道」を非として自分たちの主張は「違う」と示そうとしたのだろうが、「道の語を用いた」ことは、以上のように「考えねばならぬ」。
  「神ながらの道」という語は〔平田〕篤胤に由来するのかさらに〔本居〕宣長に由来するのかは不明だが、「宣長の門下のもの」が使い始めたようだ。
 「神ながら」の語は続紀上での宣明や万葉の歌にもしばしば出るが、これは「道の名でもなく道とすべきことでもない」。古典には「神ながらなる道」は決して見えない。
 篤胤は「惟神」、「神随」を「カミナガラ」に当てた。書記・孝徳天皇大化3年「惟神」の訓読みとその条の注記があるために、「カミナガラ」と「神道」に何らかの関係がある、またはこの語が「神道の中心観念」の表現であると憶測され、「神なからの道」の語が思い浮かばれたのだろう。そして、いったんこの語が出現すると「神道」と同じ昔から、いや「それよりも古く」からあったと世間で「錯認」され、「神なからの道」の語も用いられるようになった。明治初年の大教宣布の詔にも公式に、「惟神之大道」という語がある。
 しかし、「惟神」の二字は「カミナガラ」の語を写しておらず、独立した概念ではなくて、文章の主語はあくまで「神」で、「惟」は発語にすぎない。誤った訓み方が定着し、「後の学者もこれらのことに気づかず」、そうして「神ながらの道」という語が作られ、かつ「古い語」のように思われてきたのだ。
  ①「神道の名に種々の意義」があること、②それが元々は「シナの成語を適用した」ものであること、③それが「いかにしていかなる意義で日本に用い初められるようになった」かは、上記で「ほぼ明らかにせられたと思う」。
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 以上で、第1章は終わり。

2129/津田左右吉・日本の神道(1948)-第1章③。

 津田左右吉・日本の神道(1948)/同全集第9巻(1964」。
 第1章・神道の語の種々の意義。つづき。
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 「神道」という語はもともとは「シナの成語」なので、シナ語としての「神」の意味を補説する。まずは、「名詞」として使われる場合だ。
 第一に、「宗教的呪術的意義」でのみのがある。おおよそ「人力以上の力もしくは働きをもっていて、何らかの仕方で人の生活を動かす或るもの」で、動物・木石・血・骨とか、またはこれらに「内在する」もしくは別に「遊離して存在する」、「種々の精霊の類」だ。
 呪力あるもの、呪術・祭祀の対象となるもの、もある。
 ふつうは「鬼」と言われたらしい「人の死後に存在する霊魂(現代の用語例での)」も、「祖先崇拝の宗教的儀礼において祭祀の対象」となる場合は「神」と称されている。
 より文化が進むと、「農業神としての稷」を例とする「人文神」とでもいうべき「神」もあり、「稷」のほか「社」を「古人」と見るように「神の或るもの」を「古人」として解する考え方も生じた。
 また、「知識社会」の「説話」では、「ある種の神が人の形態をとったもの」、「人格を有する神」も全くなくはない。
 第二に、「宇宙の、あるいは宇宙そのものの、玄妙な力もしくは働き」を「神」と称する場合がある。「陰陽不測之謂神」も例かもしれない。老子の「神得一以霊」もこれだろう。
 これは第一の「神」を転化させて、それから「宗教的意義を除き去り、その代わりに一種の形而上学的意義を付与したもの」と見ることができ、「知識社会の思惟」による形成物だ。
 第三は、「人に存在するものとしての神」だ。今日の「精神」という語の由来になる。
 「形」・「形と気」または「形と心」に対して用いられ、「心者形之主也、而神者心之実也」等によく示されている。
  「形」とは「肉体」、「気」とは「生理的意義において肉体に生命あらしめるもの」、「心」とは「心理的働き」をするものだ。一方、「神」は、「心の奥にあって心を主宰し生命ある肉体を主宰する霊妙なる存在」として考えられたと見られる。
 ときには「神」と「心」は同じものと扱われていることもある。だが、「神の本義ではあるまい」。
 ここでの「神」にも「宗教的意義」はない。しかし、第二の宇宙の「霊妙な力もしくは働き」を「神」と称したのと同じく、第一の意義から転化したものと推察される。
 「礼記の祭義篇」に「気也者神之盛也」・「魄也者鬼之盛也」とあるのは「宗教的意義」での「鬼と神」を説いていて、「生命ある肉体の内」にあるものとして「神」を語るが、上記とは趣意が違う。「気」は「魄」に対する意味での「魂」を指すのか、混同しているかのいずれからしい。きっと「神」も「気」と同じ意味で、全体として「鬼と神の対立」を「魄と魂」のそれとして説いたのだろうが、「むりな付会」だ。
 上記の「形や気に対する神」は「宗教的意義においての魂」を意味するのではない」。
 もっとも、ここでの「神」は「宗教的意義」がない代わりに「道徳的意義」が付与されることがあり、「形と神」を対立させ、一方が片方を「制する」とか論じられるのは、「肉体的欲求を制御」する点に「神」の重要な働きがあるとの考えからだろう。
 他方では、「神」を「肉体に付いたもの」とする考えもあり、「養形」・「養生」の方法として「養神」が語られる。
 「道家」ではここでの「神」を、「虚静無為の境地」にあるものとして用いることが多い。例えば、「荘子」・「刻意篇」の、「純素之道、惟神是守、守而勿失、与神為一、…」。
 つぎに、形容詞として用いられる場合がある。
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 つづける。
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