秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

週刊現代

2255/西尾幹二批判004-佐藤優・籠池泰典。

 
 佐藤優が週刊現代(講談社)2020年4月7号で、籠池泰典(森友事件参照)の書物(文藝春秋、2020年2月)を読んで、つぎのようなことを書いている。
 佐藤優のおそらく直接引用によると、籠池泰典は奈良県庁職員だった頃に「目の前に興福寺があり、東大寺や春日大社といった由緒正しい神社仏閣も間近に位置し、この国の伝統文化の息吹を日々感じることができた」。
 この部分に着目して、佐藤優はこう述べる。
 神社仏閣に日本の「伝統文化の息吹を感じる」という認識が重要だ。彼においては「神仏が融合して神々になっている」、「このような宗教混淆は神道の特徴だ」。
 彼は、「神道と日本文化を同一視している」。
 「実はここに『神道は日本人の習俗である』という言説で、事実上、国家神道を国教にしてきた戦前・戦中の宗教観との連続性がある」。
 「神社非宗教という論理に立てば、キリスト教徒でも仏教徒でも日本人であれば習俗として神社を参拝せよ、という結論になる」。
 佐藤はこのあたりに、かつて一時期は明確に日本会議会員(かつ大阪での役員)だった籠池についての「草の根保守」の意識を感じとっている。
 日本会議うんぬんは別として、上の佐藤の叙述は、じつはかなり意味深長であり、奥深い。あるいは、明瞭には整理されてないような論点を分析している。
 神道と仏教はそれぞれ別個の「宗教」だとの書き方をこの欄でしたことがあるのは現在の様相・建前を前提としているからで、江戸時代・幕末までの両者の関係・異同は分かりやすいものではなかったことは承知している。
 また、<神仏分離>の理念らしきものが生まれた一方で、伊藤博文は大日本帝国憲法制定の際に、「神道」は「宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し」く、日本国家の「機軸とすべきは独り皇室あるのみ」としたのだった。この点はすでに、以下の著に主としてよってこの欄で紹介した。
 小倉慈司=山口輝臣・天皇の歴史09/天皇と宗教(講談社、2011)。
 こうして「神道」は仏教と並ぶような(本来の?)「宗教」性を認められず、「宗教」に該当しないとされたがゆえに、実際には戦後すぐに生まれてすぐに消滅した観念であるらしい「国家神道」の状態が(上の佐藤によると)「事実上」生じたのだった。
 ともあれ、佐藤優は上の籠池著の紹介・書評を、籠池の印象に残ったというつぎの別人(日本会議大阪の役員)の言葉と、つぎの自らの言葉で結んでいる。
 <籠池さん、日本会議というタマネギの皮を剥いでいくと最後に何が残ると思います? 芯にあるのは神社なんです。>
 「国家神道が静かに蘇りつつある現実が、本書を読んでよく分かった」。
 
 西尾幹二は、岩田温との対談で、2019年末にこう発言した。月刊WiLL2019年11月号別冊、p.225。①~⑤は秋月が付したが、一続きの文章・発言だ。
 「①日本人には自然に対する敬愛の念があります。②日本には至るところに神社があり、儀式はきちんと守られている。③…、やはり日本は天皇家が存在するという神話の国です。④決して科学の国ではない。⑤だからそれを守らなくてはなりません。」
 全体として奇妙な論理でつながっているが、ここではとくに、①→②の「論理」が興味深い。
 ①日本人には「自然に対する敬愛の念がある」、②日本には「至るところに神社があ」る、という二つは、どのようにして、何故、こう<論理的に>結びつくのだろうか?
 ②の原因が①であることを肯定したとしても、①であれば当然に②になる、という論理的関係はないはずだ。
 日本人以外の人々もまた、アジアの人々も、たぶんキリスト教以前のヨーロッパ人も、「自然に対する敬愛の念」(かつ同時に<畏怖>の念)は持って来ただろうと思われる。
 それが、太陽・月、風雨、山海等々の「自然」の中で生きなければならなかったヒト・人間の自然の、素直な感情、<宗教意識>と称してよいようなもの、だったと考えられる。
 仏教徒も(あるいは日本的仏教らしい<修験道>者も)、「自然」を敬愛しかつ畏怖してきただろう。
 にもかかわらず、西尾幹二においてはなぜ、①日本人には「自然に対する敬愛の念がある」<から>、②日本には「至るところに神社があ」る、という発言の仕方になるのだろうか。深読みすると、「自然に対する敬愛の念」は当然に「神社」につながる、と理解され得るような発言の仕方になるのだろうか。
 既述のように、西尾幹二は「宗教」という語も、また「神道」という語すらもいっさい用いない。「神社」は「神道」の施設であることは常識、周知のことであるにもかかわらず。
 そして、上の佐藤優の表現を想起すると、西尾幹二においても戦前・戦中の「国家神道が静かに蘇りつつある」という現象が見られるのではないか、と感じられる。
 むろん、「日本会議」との関係を否定したい、あるいはそれを推測もされたくはないだろう西尾幹二が、その旨を明言するはずはない。
 しかし、「自然」→「神社」→「天皇」という上のような関係づけ(の単純な肯定)は、「国家神道」的であり、かつ(どのように西尾幹二が否定しようとも)日本会議と共通性または親近性がある。
 西尾幹二は、<最後の身の置き所を見つけておきたい、という境地>にあるのだろう、というのが、秋月瑛二の見立てだ。それが日本会議ではなく、産経新聞社・ワック等の<いわゆる保守>情報産業界隈であるとしても。
 
 追記。明治初年のいわゆる「学者の統治」の時期(上の山口輝臣らp.194-。これは「国学者の優越」時期のことだ)、萩藩=毛利藩の萩城下で起きたのが、隠れキリシタンの処遇に関する<乙女峠の惨劇事件>だった。一般には知られていない、明治初年の「状況」を知ることのできる事件と思われるので、この欄でいつか紹介したい。
 ***
 上に萩としたのは誤りで、乙女峠の所在は、正しくは石見国津和野藩。訂正する。/7月22日に後記。

1253/月刊WiLL10月号と週刊現代9/06号ー朝日虚報と青木理ら。

 月刊Will10月号は背表紙「朝日『従軍慰安婦』大誤報」、表表紙に大きく「朝日新聞の『従軍慰安婦』は史上最悪の大誤報だった!/総力大特集120ページ」と朝日問題に大集中。もっとも、朝日がしたのは大きな「誤報」にすぎないのか?、日本国家と先輩同胞を貶めたいがゆえの意図的な(真実性が多少はあれば真実だと確信しての)<虚報>、<捏造>ではないのか、という問題は残る。
 ともあれ、朝日慰安婦検証報道に対する姿勢によって諸雑誌等のメディアの<性格>もかなり明らかになりそうだ。NHKは、この朝日新聞の一部訂正記事を放送したのだっただろうか。2000年に「女性戦犯法廷」での天皇有罪判決というパフォーマンスを一番組にしたのは長井某というNHKの「左翼」ディレクターだったが。
 週刊現代9/06号は「『慰安婦報道』で韓国を増長させた朝日新聞の罪と罰」と題して特集。例のごとく表紙からする印象に比べれば短いが、「識者30名」のアンケート結果は面白い。面白い、というのは、「識者」の中での<左翼>の存在が明確になっているからだ。
 アンケートは①朝日の検証記事は「納得のいく内容」だったか、②朝日「誤報」は「日韓関係悪化の一因」か、③朝日は「誤報の説明責任を果たした」か、の三つで、それぞれについて、いいえ、はい、どちらでもないの回答が用意されているようだ。そして、「識者30名」の選抜の仕方が適切かどうかという問題はさておくとして、30名中21名が、それぞれについて「いいえ、はい、いいえ」と回答している。この回答がふつうの、まともな感覚の持ち主の反応の仕方だと思うが、9名の回答はそうではない。上のいいえではなくはい、及びいいえではなくはいをいずれも-2、どちらでもないを-1としてマイナスを計算すると、次の結果になる。
 ①前田哲男-6、①岡留安則-6、①北原みのり-6、④青木理-5、⑤香山リカ-4、⑥斉藤貴男-2、⑥江川紹子-2、⑥小倉紀蔵-2、⑨服部孝章-1。前田哲男は近年、集団的自衛権や沖縄等、近年に軍事に強いらしき「左翼」としてよく名前を見る。マイナスは少ないが、江川紹子は少なくとももともとは親日本共産党の新聞記者だった。
 これらは明確な「左翼」だろうが、この順位では1位ではない青木理は、週刊誌本文によると、朝日新聞による検証記事の掲載は「歴史修正主義の風潮がかつてなく蔓延」して「反日」的動きに対するバッシングが強くなった状況に「耐え切れず」に「追い込まれた」もので、「日本社会が大きく変質していることを象徴的に示す」「事件」だ、と述べている。簡単には、<右派からの攻撃に耐えきれなかった、という右派増長という時代・社会の反映だ>と考えているようだ。これを読んで、青木理の頭の中の<倒錯>ぶりに(あらためて?)感心せざるをえない。
 かりに朝日新聞の報道が客観的事実を内容とするものだったとすれば、あるいはそのことに自信があれば、<右派からの攻撃に耐えきれない>というほどにナイーヴな神経を朝日新聞(の記者たち)がもっているはずはないだろう。こういうふうに青木理という<倒錯>者は朝日新聞を擁護するのだ。転嫁・曲解・相殺・無視という論法(湯浅博「潔さに欠け、往生際が悪すぎる」、月刊Will10月号p.64以下)による「検証」の仕方にみられる朝日新聞の神経のずぶとさ、厚顔無恥ぶりは何ら変わっておらず、朝日新聞が理由なく<右派からの攻撃に耐えきれず>屈服するはずがない。
 -1にすぎないが、服部孝章も、朝日報道が日韓関係悪化の一因になったことは認めつつ、朝日新聞よりも、「加害責任を明示しない安倍政権サポーターや商業主義に傾いてムードを煽るマスコミ」の方が責任は重い、とコメントしている(週刊現代p.45)。これまた、「商業主義に傾いてムードを煽る」<保守・右派>マスコミに責任を転嫁している(又は朝日よりも重い責任があるとする)ようで、不思議な議論だ。立教大学にはなかなか立派な「教授」がいる。
 今後の、9月上旬あたりまでに刊行される雑誌類の朝日新聞<慰安婦検証記事>への対応にさらに注目したい。すでに多くは明らかになっているのだが、「左翼」論者があぶりだされ、雑誌編集者の「左翼」度=親朝日新聞度が試されるだろう。

1114/未読の多数の書物に囲まれてBSフジで西部邁を観る。

 〇机・椅子の周囲に現在積まれている書物。順不同。
 ①竹内洋・革新幻想の戦後史(中央公論新社) ②西尾幹二・壁の向うの狂気―東ヨーロッパから北朝鮮へ(恒文社21) ③産経新聞取材班・親と子の日本史 ④船橋洋一・同盟漂流(岩波)、⑤内田樹ほか・橋下主義〔ハシズム〕を許すな!(ビジネス社)、⑥古谷ツネヒラ・フジテレビデモに行ってみた!(青林堂)、⑥b/ケストラー・真昼の闇黒(岩波文庫)、⑦産経新聞論説委員室・社説の大研究(扶桑社)、⑧宮野澄・最後の海軍大将・井上成美、⑨水田洋・社会科学の考え方(講談社現代新書)、⑨佐伯啓思・反・幸福論(新潮新書)、⑩不破哲三・現代前衛党論(新日本出版社)、⑪中島義道・人生に生きる価値はない(新潮文庫)、⑫小林よしのり編・国民の遺書(産経新聞出版)、⑬田母神俊雄=中西輝政・日本国家再建論(日本文芸社)、⑭田母神俊雄・ほんとうは強い日本(PHP新書)、⑮高橋たか子・高橋和巳の思い出(構想社)、⑯月刊正論5月号、⑰月刊WiLL6月号、⑱Japanism第6号、⑲月刊ヴォイス5月号、⑳撃論第4号、21林敏彦・大災害の経済学(PHP新書)、22池田信夫・原発「危険神話」の崩壊(PHP新書)、23佐藤優・はじめての宗教論〔右巻〕(NHK出版)、24ダワー・容赦なき戦争(平凡社)、25中島義道・ヒトラーのウィーン(新潮社)、26秦郁彦・靖国神社の祭神たち(新潮選書)、27杉原誠四郎・日本の神道・仏教と政教分離/増補版(文化書房博文社)、28石平・中国人大虐殺史(ビジネス社)、29坂本多加雄・象徴天皇制度と日本の来歴(都市出版)、30上杉隆・新聞・テレビはなぜ平気で「ウソ」をつくのか(PHP新書)、31石光勝・テレビ局削減論(新潮新書)、32不破哲三・「資本主義の全般的危機」論の系譜と決算(新日本出版社)、等々等々。
 整理し忘れのものもあれば、読むつもりで放っていたものもある。また、多少とも読んで、何がしかの感想・コメントくらいは書けたのに、書けないままになってしまっているものがすこぶる多い(言及しても不十分なままのものも含む)ことにあらためて気づく。
 〇西部邁がBSフジ(プライムニュース)の憲法特集の中で喋って(喚いて?)いた。年齢にしては頭の回転は速そうだし、間違ったことを語っているわけでもないように見えた。
 橋下徹をどう思うか旨の問いに、大した関心はないとしてまともに答えていなかったのが、興味深かった。西部邁は週刊現代3/17号(講談社)でも、橋下徹の政策論に批判的に言及してはいるが、<西部邁・佐伯啓思グループ>の総帥?のわりには、中島岳志、藤井聡、東口暁、佐伯啓思のような、「決めつけ」的な警戒論・批判論を展開してはいない。
 そのことともに、上の週刊誌の末尾には「あの世のほうがよほどに真っ当そうだ」との老人?の言葉があるが、自分の言いたいことをいうが、自分の言うようにはならないだろう、自分の主張を大勢は理解できないだろう、という日本の現実についての<諦念>または<ニヒル>な気分が濃厚であることも印象的だった。
 そのような末世的気分からは、自らの発言の優先順位に関する思考、現在の日本の状況(政治・論壇・国民意識等)を動かすことのできる重要なテーマは何で、些細な論点は何か、という戦略的な?判断は抜け落ちてしまうのではなかろうか。
 視聴者大衆への具体的な影響への配慮よりも、とにかく自分が正しい(または適切だ)と考えることを喋りまくるのでは、却って、何が言いたいのかが不鮮明になるおそれなきにしもあらずだ。
 西部邁とともに、私もまた、多分に、ニヒリスティックな気分なのだが、私とは異なり著名な<自称保守派>論客には、戦略・戦術も配慮した発言や論考を期待したいものだ。

0858/週刊現代4/10号の山内・立花の対談と青木理の「歪狭」な論。

 週刊現代4/10号(講談社)。表紙に「小沢は害毒である」、「何をしてんだか、民主党。」とあって、前号よりも<反民主党>的だ。
 表紙の前者と「ソ連共産党と化した民主党政権。この国はいま危ういところにいる」を見出しにつけた、立花隆=山内昌之の対談がある(p.36以下)。
 ソ連共産党うんぬんは、山内昌之の次の発言から取っているようだ。
 思い浮かぶのは「ソ連共産党」。「民主集中制のソ連共産党、つまりボリシェビキ最大の特徴は、書記長に全権が集中するシステム…」。「スターリンの権限が集中した書記局のアパラチキ(機関員)が、歯車のように決定をふりかざして…新参ボリシェビキを完全支配する」。これが「スターリン支配政治体制を成立させる土壌」にもなった。民主党幹事長室・周辺議員は「民主党を変質させるアパラチキのように見えて仕方がない」(p.39)。
 民主党の権力構造、そして国家全体の政治構造が一党独裁の「社会主義」国に似ているところがあるのは、私もかつて指摘したとおり。だが、本当の「民主集中性」・「共産党一党独裁」は今の民主党のような程度ではないことも言うまでもないだろう。前原や枝野はまだ小沢批判的な発言を公にできている。本当の「社会主義」だと、かつてのソ連共産党だと、そんな自由はなく、前原らは地位を失うか、<粛清(流刑または殺戮)>されている。
 この対談で立花隆は、「民主党が官僚をうまく使わないことが国家を危うくしている」(p.41)、「政治家主導のお題目は唱えるが、官僚を主導できるだけの政治家が少なすぎる…」、「司を動かせば官僚機構は動くのに、事務次官なんかいらないみたいなことを言うから…国家機構全体が糸が切れたタコ状態になっている」、「財政破綻もひどいが、官僚無視による国家のシステム破壊、アイデンティティ破綻の方がずっとずっとひどい」(p.42)と、まともなことを言っている。<護憲・左翼>の立花隆にしてすでにそうだ。
 国家基本問題研究所理事・屋山太郎は、<官僚主導>か<議会制民主主義>かなどを先の総選挙の最大の争点に見立てて、民主党を応援し、その政権誕生を歓迎し、何度でも書くが、<大衆は賢明な選択をした>とまでのたまった。
 2010年4月時点でもそう思っているのかどうか、どこかで書いてほしいものだ。なおも<政治家主導>第一主義は正しいと考えているならば、上記の理事はやめた方がよい。あるいは、櫻井よしこらは屋山を理事から<解任>すべきだ。
 対談は全体としては、山内昌之のペースで、こちらの口数の方が多い。ほとんどかつての蓄積にのっかっただけの立花隆の老いをやはりある程度は感じる。
 そういう週刊現代だが、4/03・4/10号によると、魚住昭、森功、岩瀬達哉、青木理によるリレー連載欄があり、日垣隆の連載があり、斎藤美奈子が登場し、井筒和幸の映画批評があったりで、明確な<左翼>な分子を含む売文業者等をたくさん抱えているのが分かる。
 4/10号で、青木理は、高校授業料無償化に関する「朝鮮学校外し」を、次のように批判している。
 「酷い感情論だ。いや、…社会が最低限守るべき理念を根本から腐らせる、単なるレイシズムではないのか」、「これほどに歪狭な愚論がもっともらしく語られてしまう日本のムードも、酷い憂鬱を禁じ得ない」(p.61)。
 何とも「酷い」、凝固した「左翼」が、こんな<感情論>をそのまま活字にできる<日本のムード>に「酷い憂鬱を禁じ得ない」。
 週刊現代・講談社の編集部の心底を見た思いもする。<反民主党>で今は売れる、と全体としては判断しているのだろう。しかし、青木理のような文章もちゃんと載せておく、ということを忘れない。
 青木理は「現在、国公立大学のほとんどが朝鮮学校出身者の受験資格を認めている」ことを根拠の一つとしている。
 だが、このこと自体に問題があることを想像はしないのだろうか。国公立大学(私立も基本的には同様だが)の受験・入学資格は基本的・原則的に日本の高校卒業者(・予定者)に限られる。おそらくは<その他、日本の高校卒業と同等程度の学力をもつと認められる者>という例外があり、これをタテにとった朝鮮(高級)学校側の運動と圧力(?)によって、個別的にではなく概括的に、朝鮮(高級)学校卒業(・予定)者の受験資格を認めてきているのだろう。ここには、面倒なことは避けたい、とか、あるいはひょっとして北朝鮮に「寛大」な措置をして「友好」的・「進歩」的に見られたいとかの、日本の国公立大学の弱さ・甘さが看取されるように思われる。
 彼ら朝鮮(高級)学校卒業(・予定)者はいわゆる<大検>に合格しているわけではない。とすると、本当は事前に個別に試験をして、受験資格があるかどうかを見極める必要があると思われる。しかるに、「朝鮮学校出身」というだけで例外的な受験資格を認めていることの方こそが本当は問題にされてよいように思われる。
 下らないことを書く「左翼」分子に、講談社は原稿料(これはひいては読者・購入者も負担する)を支払うな、と言いたい。 

0857/週刊現代4/03号(講談社)の山口二郎の言葉。

 サピオ=小学館=週刊ポスト、かつての月刊現代=講談社=週刊現代、という対比もあって、週刊ポストよりも週刊現代の方がより「左翼的」という印象があった。だが、最近は、表紙からの印象のかぎりでは、週刊現代の方が<反民主党>・<民主党批判>の立場を強く出しているようだ。
 もっとも、NHKを含むマスメディアの<体制派>は、民主党を批判しても、決してかつての自民党政権時代には戻らせない(とくに安倍晋三「右派」政権の復活は許さない)という強い信念・姿勢をもって報道しているように見える。
 上の点は別にまた書くとして、週刊現代4/03号(講談社)。
 山口二郎「私は悲しい。鳩山さん、あなたは何がしたかったのですか」(p.40以下)がある。
 「民主党政権・生みの親」とされる北海道大学教授が民主党・鳩山政権を辛口で批判している。
 批判はよいが、「…25%削減を打ち出した温暖化対策は鮮烈だったし、八ツ場ダムの凍結も画期的でした」(p.41)、通常国会冒頭の鳩山の「施政方針演説は、まことに立派なものでした。官僚の作文ではない、血の通った言葉だった」(p.43)とか書いているのだから、山口二郎はまだ大甘の、頭のピントが外れた人だと思われる。「小沢さんは日本政治を最大の功労者の一人であると、今でも信じています」とも言う(p.42)。
 「八ツ場ダムの凍結」はたまたま民主党の選挙用「マニフェスト」に具体名が挙げられていただけのことで、特定の案件について、いかなる基準で公共工事の凍結・継続が決められたか、およびその判断過程は明らかにされていない、と思われる。そのどこが「画期的」なのか?
 「最初の民主党ができた頃から、民主党政権を作ることが夢でした」と真面目に(?)語っている山口の心理・精神構造には関心が湧く。こんな人がいるからこそ、マスメディア(のほとんど)も安心して自民党叩き・民主党称揚の報道をしたのだろう。
 山口二郎は、北海道大学関係者にとって、<恥>なのか、それとも<誇り>なのか。
 その山口も、まともなことも言っている。
 ・民主党の「政治主導」の諸措置により「政務三役だけやたらと忙しく、他の議員はヒマ…」、「格好だけ政治家が前へ出て…その実、まともな政策論議ができていない」(p.41)。
 ・小沢一郎が「幹事長室に陣取って……自民党的な利益誘導政治をしている」(p.42)。
 これらは、<保守>派評論家とされ、国家基本問題研究所理事の屋山太郎よりもまっとうだ。屋山の判断力が、山口二郎・旧社会党ブレインよりも劣っているとは、情けない。

0047/講談社-週刊現代・月刊現代-はどこかおかしくないか。花田紀凱コラム。

 イザの電子版上には出ていないようなのだが、産経4/07のたぶん1週に一度の連載、「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」で扱っている三点のうち二点めが興味を惹いた。
 花田紀凱(-かずよし、とは初めて憶えた)はこう書く。-<『週刊現代』(4月14日号)のトップ記事、「『危険な総理』の大暴言を柳基洪韓国国会議員が怒りの告発、『安倍晋三首相は国会議員100人を前に韓国をキーセン国家と言い放った』」には大いに異議がある。/冒頭に安倍総理のその発言が掲載されているが、どう読んでも至極まとも。しかも「キーセン国家」という表現は使っていないし、発言自体10年前の勉強会のもの。あえて今、この発言をことごとしく取り上げ、<暴言総理は、さっさと退陣してもらうのが日本のためだ>などと安倍総理を非難する理由がない。/韓国国会議員の告発というが、誰がこの発言を件の韓国議員に教えたのか。『現代』、朝日の手法をまねしたのでなければいいのだが。

 
週刊現代4/14号を読んではいないが、おそらく月刊WiLL編集長の花田紀凱の指摘は適切だ。
 週刊ポスト(小学館)に対して、週刊現代は以前からずっと反政府のスタンスをとり続けているようだ。安倍内閣が新発足する頃には、月刊現代に「安倍内閣倒閣宣言」とやらの論稿(題は正確には確認していない)を立花隆に書かせていた。出版元の大講談社は、小学館や文藝春秋等々との関係で自らを差別化するために敢えて「反政府」よりの姿勢を社全体の編集方針として採用しているのだろうか。
 いろいろな立場・意見があるのは結構なことだが、上のような「商売」のための社の方針決定だと、いずれは読者から捨てられるだろう。また、上に花田が指摘しているように、10年前の発言(それも正確ではなさそうだ)を持ち出して安倍首相の退陣を主張するとは、また韓国議員の告発の形をとっているとは、「朝日の手法」に似ていて、マスコミとして恥ずかしいことだと思っていただく必要がある。

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