〇忘れかけていたが、「投稿」欄を見て思い出したので、再び触れる。
 月刊WiLL4月号(ワック)掲載の藤井聡「橋下『地方分権論』の致命的欠陥」について<アホ丸出し>と批判して、具体的指摘もした。表現はいささか下品ではあるが、評価に変わるところはない。
 月刊WiLL5月号(同)を見ると、「藤井氏提言に感銘」と題された一読者の投稿文が掲載されている。それによると、投稿者は藤井の「姿勢に心強いものを感じ」ているそうで、とくに次の文を引用して「国家的見地からの国民の利益、幸福を願う思いを強く感じた」と書いている(p.322)。
 「中央集権は悪でも何でもないし。地方分権が善でも何でもない。国家・国民のためには中央集権あっての発展・成長が多々あり、双方のバランスが大切である」(じつは原文と同一ではないが、ほぼ同じ文章が刊WiLL4月号p.202)にある。
 感銘を受けるのはけっこうなことだが、しかし、「双方のバランスが大切」、原文では中央集権と地方分権の「不適切なバランスが悪」で「両者の間の良質なバランスが善」だ、と藤井が言っていることは、誰でも言える、当たり前のことにすぎない
 一般論として橋下徹や大阪維新の会が「中央集権は悪」で「地方分権が善」などとは主張していないはずだ。そのように誤解される部分があるとすれば、それは、日本という国の、戦後の現在という時点での、国政を担う特定の集団(国会議員や国の行政官僚等)を念頭において、<地方分権>の方を重視した主張をしているにほかならないからだろう。
 この点ですでに上の藤井の文章は橋下徹批判になっていないのだが、既述のように橋下徹らは中央集権=国の役割を否定し、「国家」を解体しようとてしいるわけでもない。外交・防衛・通貨発行権等を橋下らは語っていたかと記憶する。
 というわけで、拙劣な・不勉強の藤井論考だけを読んで、橋下徹らの考え方・政策を誤解する人たちがいるとすれば、困ったことだ、言論人の一人のはずの藤井聡の責任は大きい、と感じる。
 加えて、同じ投稿者は次のように書いているが、藤井に影響を受けたのかもしれない―従って藤井の責任が大きい―誤った考え方だ、と思われる。
 すなわち、「地方分権論、道州制の強化は、ますます地方を窮地に追い込むこと必定である。そのような事態にならないよう…」。
 上記のとおり必要なのは「バランス」なので、一般に、「地方分権論、道州制の強化」が排斥されることにはならない、と思われる。
 問題は「強化」の具体的程度・中身にある、と言ってもよい。
 民主党のいう「地方主権」論には、「主権」概念の使用について問題があるが、「地方分権」自体は、現憲法に「地方自治」という章(第八章)があるほどに法的に根付いた(はずの)もので、一般的に批判することはできない(問題はその程度だ)。
 また、道州制にしても、もともとはたしか関経連という財界・経済界が主張した、「保守(・反動)」の側からの「地方自治」破壊論とすら(少なくとも「左翼」からは)目されたもので、「国(国家)」の役割を否定したり無視したりする議論ではまったくない(問題はその具体的な制度設計だ)。
 「地方自治」を重視し「地方」に権限・財源をより多く配分しようとする議論が、自民党政府時代に、ある程度は<政治的に>(つまり憲法解釈論を部分的には超えて)とくに「左翼的」学者によって少なからず唱えられたことは承知しているが、そのような時代と同じように<地方分権>論を「左翼」的だと反発するのは、「左翼」・民主党が国政を担っている時代には、必ずしもそぐわないだろう。
 あるいは逆に、民主党政権だからこそ、橋下徹らは<地方分権>の方を重視するような主張の仕方をしているのだ、と理解することが、少なくともある程度はできる。
 問題は、現実の時代・政治状況を前提として議論されなければならない。一般論としていえば藤井の書くとおり「バランス」が問題なのであり、片方の「強化」も、その具体的意味・内容が明らかにされていないかぎり、論評の仕様がない。上記のとおり一般に、「地方分権論、道州制の強化」が排斥されることにはならないはずで、このような誤解を与えたとすれば、藤井に責任があると言えるだろう。
 〇具体的な国、時代、政治状況を前提にしてはじめて<地方分権>論等の是非も議論できることは、外国の例を見ても分かる。
 古い知識だが、ミッテラン大統領までのフランスはきわめて中央集権的で(=パリ中心で)、「県」知事も戦前の日本と同様に国の任命の国家公務員だったはずだ。現在は多少は地方分権の要素が増大したとされている。
 一方、隣国のドイツはドイツ連邦共和国という国名のとおり連邦制をとる。ということは、連邦のもとに「州(・邦・国)」=ラント(Land)があり、その下に市等の基礎的自治体(Gemeinde)がある。そして、「州」ごとに憲法があり、州ごとに(州法律としての地方自治法にもとづいて)異なる基礎的自治体制度(狭義の地方制度)があり、例えば市長の選び方も州によって異なり、また教育事務は連邦ではなく州が行い、連邦には教育(文部科学)大臣はいない。若干の例を挙げただけだが、フランスと比べれば、もともとドイツは<地方分権>的だ。
 そして、アメリカも同様だが、連邦制を採っているということは、上に州(国)が憲法まで持つ(そして州法律まである)と書いたように、ドイツは、日本でいわれる<道州制>以上に、<分権>的なのだ。
 でははたして、ドイツにおいて国家=連邦は「解体」されているだろうか。そんなことはないことは誰でも知っているだろう。
 地方分権や道州制が、あるいはその強化が「国家」全体を解体させるとか弱体化させるという議論は、一般論としていえば、謬論(誤った見当はずれの議論)にすぎない。
 イギリスもまた「連合王国」と言われるように、少なくともイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという、「国家」の中の「国(・州)」で成り立っていて、日本よりも―ドイツと同じく日本よりも人口は少ないが―<分権>的だ。だからといって、イギリスに中央政府がないとか、「国家」が全体として解体または弱体化しているというわけではない。

 このように若干の国を見ても地方(分権)制度は多様なのだが、それぞれの国の歴史、地理的条件、成り立ち等に由来するもので、「国家」全体の観点からしても、どれが最も優れている、ということにはならない。
 〇大学理科系学部出身の藤井聡はおそらく、上のような具体的なことも何ら知らないで、月刊WiLLの論考を書いている。
 今の日本の、具体的状況の中で、地方分権も「道州制」も議論する必要がある(都道府県制度は明治以降の長い歴史をもつが、いずれ「道州制」に向かわざるをえない時期が来るのではないかと、おそらくは橋下徹と同様に私も予想している)。
 ついでながら、最近に論及した雑誌・撃論+の中の小川裕夫「検証/橋下改革は本当か?」には東京都に独特のシステムとしての「都区財政調整制度」への言及がある。これが<大阪都>においてもそのまま適用されるかどうかは問題だが、ともあれ、藤井聡は「都区財政調整制度」なるものとその内容を知っているのだろうか。専門家面するならば、この程度の知識は持った上で、地方自治・地方分権・大都市制度等に関する文章を書いていただきたいものだ。