秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

赤旗

1309/日本共産党は「河野談話」を全面擁護し「性奴隷制」を認定する論点スリカエで朝日新聞を応援する。

 先に(この欄の6/02で)「慰安婦」にかかる歴史関係団体声明と日本共産党・小池晃等の発言の対応関係を見たのだったが、小池晃等の発言は、当然のことながら日本共産党の公式見解の範囲内のものだ。また、歴史関係団体声明が、日本共産党の見解に添ったものであることもほとんど明らかだ、と考えられる。
 以下、志位和夫・戦争か平和か-歴史の岐路と日本共産党(新日本出版社、2014.10)を、諸資料を載せているものとして用いる。
 日本共産党幹部会委員長・志位和夫は、2014年06月02日に「日本軍『慰安婦』問題アジア連帯会議」でこう述べた。しんぶん赤旗2014.06.04掲載。
 ・河野談話「見直し」論は、①「日本軍『慰安婦』問題の一番の核心部分である『慰安所』における強制性」=「性奴隷」にされたことに「ふたをして」、「強制連行があったか否か」に「問題を矮小化」し、②「強制連行を裏付ける公文書があったかいなかに、さらに問題を二重に矮小化する」。
 ・安倍政権に以下を要求する。①「性奴隷制」の「加害の事実」を認め、謝罪すること。②軍「慰安婦」問題がなかったとする論に対して明確に反論すること。③被害者に賠償すること。④子孫に伝えるため、この問題に関する「歴史教育」を行なうこと。
 2014年03月14日に「内外記者」からの質問に答えるかたちで、志位は以下のことを述べた。しんぶん赤旗2014.03.17掲載。
 ・「日本軍『慰安婦』制度」は、「軍の統制・監督下の『性奴隷制度』」で、「性奴隷制度」の中でも「最も野蛮でむき出しの形態のもの」だった。
 ・河野談話否定論に対しては、「今日発表した見解」で反論を尽くした。
 「今日発表した見解」とは、「歴史の偽造は許されない-河野談話と日本軍『慰安婦』問題の真実-」と題する相当に長文の、志位の以下のような見解だ。しんぶん赤旗2014.03.15掲載。以下は、基本的な構造のみ。
 ・河野談話はつぎの五つの事実を認定した。①「慰安所」と「慰安婦」の存在、②「慰安所」の設置・管理への「軍の関与」、③「慰安婦」とされる過程が「本人の意思に反して」いた=「強制性があった」、④「慰安所」における「強制性」=「強制使役の下におかれた」、⑤日本人以外の「慰安婦」の多数が朝鮮半島出身で、募集・移送・管理等は「本人の意思に反して行われた」=「強制性があった」。
 ・河野談話「見直し」派は上の③のみを否定して談話全体を攻撃する。本質・最大の問題は、「本人の意思で来たにせよ、強制で連れて来られたにせよ」、軍「慰安所」に入れば「監禁拘束され強制使役の下におかれた」「性奴隷状態とされたという事実」だ。
 ・上の③の事実認定には根拠がないという批判は成り立たない。
 以上で要約的紹介を終える。
 明瞭であるのは、日本共産党が③の問題から④の問題へと、つまり<女性の人権侵害>の問題へと論点をスリカエていることだ。これはのちの日本共産党・山下芳生発言にも見られた。そして、2014年8月に朝日新聞が行なったことでもある。朝日新聞の記事をまとめた者たちは、この日本共産党・志位和夫の見解をおそらく知っていたものと思われる。そして、それを十分に参考にしたのではないか。
 ④については、「本人の意思で来たにせよ、強制で連れて来られたにせよ」と、入所自体は「自由意思」であった場合のあることを肯定していることは興味深い。、
 それはともかく、河野談話の原文に比べて日本共産党・志位の表現はより悲惨な印象を与えるものになっている。すなわち、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいもの」だった。→軍「慰安所」に入れば「監禁拘束され強制使役の下におかれ」、「性奴隷状態とされた」。
 また、もともと、河野談話のいう、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいもの」だったという簡単な一文が正確にまたは適切に「慰安所」での「慰安婦」の状態を叙述しているか、という問題があるだろう。はたして、志位のいうように「監禁拘束され強制使役の下におかれた」というものだったのか。
 つぎに、上のように日本共産党・志位は③で「慰安婦」とされる過程が「本人の意思に反して」いた=「強制性があった」とまとめているが、この部分の河野談話の原文は、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」、というものだ。
ここにも見られるように、また志位も「強制性があった」とだけ述べているように、第一に、「慰安婦」とされる過程がすべて「本人の意思に反して」なされたとは河野談話は述べておらず、「本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあ」ったと言っているにすぎない。割合としての「数多く」なのか、絶対数が少なくないという意味なのかも曖昧だ。第二に、河野談話は「官憲等が直接これに加担したこともあった」と述べているだけで、「慰安婦」とされる過程の「強制性」が全体として日本軍(・国家)の行為を原因とするものだとは述べていない。また。「官憲等」と「等」を付けて、「加担」者が日本軍(・国家)だと断定しているわけでもない。
 要するに、河野談話は、1.一般的に「強制」性を認めたものとは言い難い、2.その「強制」なるものが全体として日本軍(・国家)の行為によるものだったと述べているわけでもない。
 日本共産党・志位は、「慰安婦」となる過程は<軍による強制>と明言しないでたんに<強制性があった>と述べつつ、じつはすべてが<軍による強制>があったという印象・イメージを生じさせようとしている。概念操作・論理展開において、<卑劣>なところがある。
 むろん、河野洋平もいけない。談話発表後に、朝日新聞の記者によるものだったのだろう、<強制があったと認めるのか>という質問に、<そのように理解してもらってけっこうだ>旨を答えてしまったのだから。
 この③の部分の重要な基礎だった吉田清治証言の内容を、朝日新聞は2014年08月に事実でなかったとした。ここで紹介した志位見解はこれよりも前の時期に語られている。そして、前回に記した小池晃発言は、吉田清治証言が崩れても③の事実が否定されはしないと、これまたほとんど朝日新聞と同様に、<強弁>していることになる。
 なお、「強制」=<悪>という語感でもって「強制」という概念が使われているようだが、法律にもとづく(適法な)「強制」もあれば、一般的・包括的な<自由意思での合意・契約>にもとづく個別の「強制」の受忍というものもある。このあたりは改めて記してみたい。「強制」という概念の整理も必要だ、とかねてより感じている。

1004/<日本は沖縄を侵略した>という戦後教育第一世代。

 朝日新聞を長年にわたって購読し、一時的には「義理で」などと言い訳しつつも日本共産党機関紙・赤旗(日曜版も含む)を読み、そしてNHKや一般の民間放送の報道・特集番組はときに観るが、しかし岩波・世界も産経・正論も含めて月刊論壇誌を読んで少しは詳細に世界や日本の動向を勉強したり思考したりすることはなく、世界観・社会観といえば戦後初期の学校教育の影響や1960年前後に関与した「安保反対」騒擾の頃の<反体制>的雰囲気をそのまま引きずって、<反戦・平和と民主主義>(これは昨今では反自民党・親民主党の気分になる)に染まっている、というような人々は、大江健三郎(1935-)や渡辺淳一も含めて、少なくはない(大江健三郎の場合はたんに「染まっている」のではないが)。

 この世代、小林よしのりのいう「小国民」世代、ほぼ昭和一桁後半生まれを中心とする世代は、現実の「戦争」を具体的・詳細に知っているわけでもないのに、戦中・戦後の<苦しい>体験を有していることから、それを知らないより若い世代に対して何がしかの不思議な優越感をもって?、戦争というのはこんなに悲惨なのだよ、といった説教をしたがる傾向もある。渡辺淳一(1933-)は、週刊新潮(新潮社)誌上で、しきりとそのような作業をしている。

 「戦争」を、先の対米戦争(・対中戦争?)と同一視して、日本軍国主義悪玉史観というかつてのGHQの基本方針による教育の強い影響を引きずりつつ、「戦争」一般=悪、という歴史観・社会観?をもって、こういう人々は、当然に「反戦」=善、と考える。日本国憲法9条(2項)護持の方向に傾き、改憲論者に「右」・「保守・反動」というレッテルを貼って、自らは良心的・進歩的・合理的な人間の一人だと考えがちなのも、こういう人々だ。渡辺淳一は、例の田母神俊雄論文に対して、脊髄反射的な嫌悪の感情を上記週刊誌で吐露した。

 このような人たちの中には、NHKの「スベシャル」との名の付いた歴史回顧の特集番組を見て、<日本は沖縄を侵略したのだ>などと大発見のごとく主張したりする者もいる。もともと日本軍国主義悪玉史観あるいはいわゆる「自虐」史観を持っていることもあって、中国や朝鮮半島諸国には<甘い>のがこの世代の人々の特徴だが、<日本は沖縄を侵略したのだ>という認識・理解・主張が、尖閣諸島や西表列島の侵略や、現在の沖縄県(琉球)の日本からの独立を画策していることの間違いのない共産中国(中国共産党の支配する中華人民共和国)の政策・意図を助けるものである、ということの認識はまるでない(なお、論旨は同じでないが、撃論第1号(オークラ出版、2011)所収の、中川八洋「”風前の灯火”尖閣諸島と国防忘却の日本」(p.6-)、藤井厳喜「震災日本だからこそ考える改憲と核」(p.21-)等々参照)。おそらく彼らの多くは、中国がそんなことをする筈がない、考えている筈がない、と思っているのだろう。<反・反共>意識は旺盛ながら、共産主義・コミュニズムに対する警戒心はきわめて薄いのもこの世代の特徴だ。

 この世代は、戦前から戦後への時代転換をうまく切り抜けた、あるいは<新しい時代精神>に巧みに?迎合した、いわゆる戦後<進歩的文化人・知識人>の教育・指導を受けた、戦後第一次の世代の者たちだ。

 彼らの影響・指導を受けたのが、ほぼその次のいわゆる<団塊>世代になる。この世代を<全共闘>世代ということもあるが、<全共闘>運動の影響を強く受けた者は実際には大して多くなく、多く見積もってもせいぜい1割だろう。だが、周辺には、彼らの言うことも分かる的な、<全共闘>シンパまたはそれよりも弱い<全共闘>容認派も、大学出身者に限ればだが、半分近くはいたかもしれない。積極的な支持者または組織員の一人が仙石由人で、菅直人や鳩山由紀夫は容認派だっただろうか。

 こういう<団塊>世代が生じたのも(そして怖ろしくもそれが現在の日本政治の中心に居座っている)、その前の、戦後<進歩的文化人・知識人>の教育・指導を受けた戦後第一次世代の者たちがいたがゆえであり(この世代は、後続世代に比べて、日本社会党支持率が一貫して高かった)、現在の日本国家と社会に対する世代的責任は、「団塊」世代よりも大きいと言わねばならないだろう(もっとも、GHQによる占領とそれに迎合した進歩的文化人・知識人よりは小さいのは確かだ)。

 「世論調査では共産党の支持率はせいぜい二~三%にすぎないのに、教科書になると九〇%を超える割合で共産党に近い見解が教えられている」(伊藤隆「日本がもっと好きになる育鵬社教科書」月刊正論(産経新聞社)2011年6月号p.228)。

 こういう怖ろしい現実があるのも、親コミュニズムあるいは容共の心性を持った日本人がなお多数派を占めているからだと思われ、その典型が、ここで言及した、戦後教育を受けた<容共>(反戦・平和の)第一次世代で、この世代がなおもしぶとく存在し、後続世代の者を性懲りもなく<説教>しようとしたりしているからだと思われる。

 西尾幹二等々、例外のあることは承知している。そのような一部?を除いて、早々に時代の舞台からご退場願いたいものだ。

 これまで書いてきたことと基本的趣旨は同じで、まるで新味はないが。

0805/日本共産党・宮本賢治による丸山真男批判(1994.01.01、1994.03.27)。

 資料・史料-日本共産党・宮本賢治による丸山真男批判(1994.01.01、1994.03.27)

 1、宮本賢治への『赤旗』新春インタビューでの丸山眞男批判部分…『赤旗』1994年1月1日号、『日曜版』1月16日号
 //学問の世界での日本共産党の働き―「丸山理論」への本格的批判

 それとの関係で、私たちは理論的にどう前進したか、思想や理論の問題ではどうかということも考えてみる必要があります。昨年は、学問の世界でも、日本共産党が、有数の働きをした一年だったと思うんです。
 まずいえるのは、丸山眞男の日本共産党にも戦争責任があるという、近代政治学の立場からの日本共産党否定論にたいする批判、反論です。丸山氏の議論は、たまたま、日本共産党が「50年問題」で混乱している時期に世間を風靡(ふうび)した学説です。これにたいして、日本のインテリゲンチアのなかで若干のしっかりした人は学問的にも「丸山理論」を承服しないで、正論の立場から奮闘し彼を批判したことは十分記憶されなければならないと思います。しかし、当の日本共産党が、ああいう状況だったために、十分に反論しきれなかった。
 私も、1957年の鶴見俊輔氏らとの対談で「共産党の戦争責任」なる主張を正面から批判していますが(『中央公論』対談「日本共産党は何を考えているか」、『宮本顕治対談集』〔新日本出版社、1972年〕所収)、党としてそれにきっちり反論するというような状況にはなかったわけです。その後、党として丸山氏の議論が歴史の階級闘争の弁証法を理解しない誤ったものという批判はおこなってきました。志位和夫同志の「退廃と遊戯の『哲学』」(1986年)でもそれに言及しています。
 そういうなかで、昨年、初めて丸山眞男氏にたいする全面的、本格的な批判が「赤旗」評論特集版(1993年5月31日号)で展開されました。さらに、『前衛』(1993年12月号、「丸山眞男氏の『戦争責任』論の論理とその陥穽」)で批判しました。若い人が一生懸命論文を書いて、しかもただ丸山氏の「共産党戦犯」論の批判だけでなく、彼の学説の背景、彼に影響をあたえたドイツの学者の学説はどういうものかを調べて、丸山氏はドイツでさえいえなかったようなゆがめた共産党批判を行っているということまでをちゃんと書いています。堂々たるものです。
 「赤旗」評論特集版の長久理嗣論文―「社会進歩への不同意と不確信、『葦牙』誌上での久野収氏の議論について」も、集団的労作ですが、「共産党の戦争責任」をうんぬんした丸山眞男氏の議論をはじめて本格的に批判したものです。丸山氏の議論というのは、要するに、日本共産党は侵略戦争をふせぐだけの大きな政治勢力にならなかったのだから負けたのだ、したがって、侵略戦争をふせげなかった責任がある、“負けた軍隊”がなにをいうか、情勢認識その他まちがっていたから負けたんだと、そういう立場なんです。これにたいして長久論文は、世界の歴史の決着はこの問題でどうついたかをはっきりさせました。
 日本共産党の存在意義そのものにかかわることですが、戦後の憲法論争や世界史の結論からみれば、日本共産党の立場こそ先駆的だったのです。けっして日本共産党は負けたのではありません。歴史をつうじて、第二次世界大戦の結末をつうじてあきらかになったことは、日本共産党が先駆的な展望をしめしていたということです。しかも実際の勝ち負けという点から見ても、日本共産党はいわば大きく日本国民を救ったといえる、日本歴史の新しい主権在民の方向と展望を示す、そういう基礎をつくったんだということを書いたのです。
 これは当然の結論ですが、これが丸山氏の議論のいちばんの盲点になっていました。日本共産党は非転向といっても、みんな捕まり、軍旗とともに投獄された、結局、負けたじゃないか、というような誤った議論を論破する仕事を若い人をふくめて集団的におこなってきたのは、戦前史における日本共産党の役割をめぐる日本の学問のゆがみを正すことに貢献したといえます。//

 2、宮本賢治の第11回中央委員会総会冒頭発言での丸山批判部分『赤旗』1994年3月27日号

 //新しい理論的探究――丸山眞男の天皇制史観への反撃
 わが党はいろいろな新しい理論的な探究もいたしましたが、その一つが、丸山眞男の天皇制史観の問題です。この丸山眞男・元東大教授の天皇制史観はなかなかこったもので、それを近代政治学として裏づけているものであります。つまり、天皇制は無責任の体系である、責任がとれない体系であるというものです。それだけならともかく、その天皇制に正面から反対した日本共産党にも、実は天皇制の「無責任さ」が転移しているのだというのが、丸山の天皇制史観の特徴であります。
 これは、1950年代に展開されたもので、党中央が解体状態で統一した力をもたなくて、こういう党攻撃にたいしても十分な反撃ができなかった、いわば日本共産党が戦闘能力を失うという状況のなかで、丸山のような見解が学界を風靡(ふうび)したわけであります。何十年かたちまして、日本の現代論についてみると、党から脱落したりあるいは変節したような連中が、丸山眞男の天皇制論をもってきて、いまだに自分たちの合理化をやっているということがわかりました。革命運動のなかに天皇制的精神構造があるというようなことをいいまして、いろいろな攻撃をくわえてきたわけであります。
 丸山眞男の一番大きな誤りは、歴史を大局的に見ることができないということです。戦時中に日本共産党がかかげていた「天皇制反対」とか「侵略戦争反対」反共攻撃、ただ日本共産党が大衆をどう動員したかということではなくて、ひろく世界の戦争とファシズム反対という、世界の民主主義の潮流と合致していたのです。戦後の日本も世界もその方向に動かざるをえなかった。そこに日本共産党の先駆性があるわけです。
 それを彼は、日本共産党の幹部たちも雄々しくたたかったけれども、結局は、「敗軍の将」であって、「政治的責任」を果たさなかったと攻撃している。「死んでもラッパを離しませんでした」という木口小平の話のような結果ではないかという嘲笑(ちょうしょう)をした。そういう丸山の理論にたいして、50年代当時は十分な反論ができませんでしたが、いまはちがっております。
 何十年かたっておりますが、やはり非常に大事な問題です。しかも学界ではその後、丸山眞男をこえるような天皇制論をだれもやっておりませんから、これが一番の権威になっているのです。したがって、さきほどあげた丸山眞男の一番の盲点を中心とした反撃が大事です。『前衛』では昨年の十二月号に若い党の研究者がしっかりした論文を書きましたが、五月号には丸山の天皇制史観に焦点をあてて学問的にも充実した別の若手研究者の論文が発表されようとしております。//

 (*出所-宮地健一のウェブサイト内)

0216/嶋1971・たしかな野党を応援し続ける勇気を!というブログ。

 「嶋1971☆たしかな野党を応援し続ける勇気を!」というブログサイトがある。
 日本共産党系サイトのようだが、内容に逐一立ち入らない(立ち入ると無駄な字数と時間が要る)。但し、その「プロフィール」に含まれている<大ウソ>に触れておきたい。
 まず、「日本共産党の支持者」、「「代々木レッズ」のサポーター」と自己紹介する。
 そして「1996年から国政選挙も地方選挙も日本共産党を地道に応援支持」、「2002年以降、選挙の時だけ投票するのではなく、選挙の無い時でも全戸ビラ配布や、自分の住むマンションを回っての署名活動などをがんばっています」、「2002年10月から「しんぶん赤旗」日刊紙配達を始める。/2003年4月から「しんぶん赤旗」日曜版の配達・集金を始めて現在に至る」等と書いている。
 さて、私の常識的感覚によって指摘しておくが、日本共産党の単なる支持者・サポーターが同党のための<全戸ビラ配布>・<赤旗配達・集金>を行うはずがない(また日本共産党もそんな人に配達・集金を任せない)。民青同盟員ならばそういう活動を行う可能性はある。しかし、この人は民青同盟員となれるための年齢制限を超えている筈だ。
 ということはこの「嶋1971」氏は日本共産党員に他ならず、自己紹介でウソをついている。党員であることを隠したい事情があるだろうことは理解できなくはない。だが、ハンドルネームを利用していること、執筆内容からしても党員であることの推測は容易にできること、等からして、ウソをつく意味は全く又は殆どない、ということに気づくべきだ。
 したがって、<逃げ道>を作っている次の文もウソだ。→「私は支持者とはいえ日本共産党の主張・政策に共感を持つ時も持たない時もあるので、必ずしも「私の考え=日本共産党の考え」ではありません」。
 「プロフィール」欄に他にいろいろ書かれている日本共産党<幻想>にも立ち入らないが、一点だけ言及する。
 「1991年に崩壊した旧ソ連では
ソ連共産党が国政で政権を握る事で国民多数が抑圧された」という過去・既成事実はありますが…/
今までの日本では「日本共産党が国政で政権を握る事で国民多数が増税で苦しめられた」という事はなかったでしょう。だから「共産党」という党名だけでビビる必要はないと思います。
 この部分の問い(らしきもの)と回答?は対応していない。又は、回答は回答(釈明・開き直り)になっていない。
 なぜなら、「
今までの日本では「日本共産党が国政で政権を握る」」ことなど一度もなかったからだ。従って日本で「共産党が国政で政権を握る」ことによって「国民多数が増税」で影響を受けたということ自体もともとありえなかったことなのであり、経験(歴史)による反論は回答(釈明・開き直り)に全くなっていない。
 さらに<増税一般が悪か>と問い糾したくもなったが、やめておこう。
 日本共産党に未来はない。「嶋1971」さんも、すみやかに活動をやめ、すみやかに離党して、かけがえのない、一度しかない人生を、意味のあることをして生きていただきたいものだ。

0203/日本共産党とその追随者に未来はない。フランス共産党にも。

 産経6/05の、時事通信配信の小さな記事に視線が止まった。
 3日付の仏紙ルモンドによると、「党勢衰退で深刻な財政難に陥ったフランス共産党糊口をしのぐため、所蔵するピカソの絵画作品などの売却まで検討している」らしい。
 どの程度確かな情報かは分からないが、仏共産党が衰退から消滅へと近づいているとすれば、不思議ではない。そして、所蔵している元党員だったピカソの絵が高価で売れるとなると…。
 わが日本共産党には、そういう財政難は-表向きは-なさそうだ。代々木の一等地?にあるらしい同党本部の建物を売りに出す日がいつか必ずくる、と予想している。<いつか>がいつ頃かが問題だ。
 日本共産党の大きな収入源が赤旗(本紙と日曜版)の売り上げであることはよく知られている。
 日本共産党を支持しているわけでもないのに、友人又は知人に頼まれて、<義理で>又は<つきあい>で日曜版くらいなら、と講読している人びともいるかもしれない。そういう人に是非言いたいが、まともに日曜版を読まず、日本共産党の影響は受けなくとも、しかし、赤旗日曜版の代金を日本共産党に支払うことによって、同党を支援し、協力し、同党の存続に手を貸していることに変わりはない。できるだけ早く、できるならば穏便に、赤旗講読を中止すべきだ。
 日本共産党とその追随者に未来はない。

-0020/日本共産党に睨まれると恐いが、良心と正義はこちら。

 朝日新聞や北朝鮮・中国問題については毎月の月刊誌に論文・ウォッチング記事が出るが、日本共産党(や社民党)については必ずしもそうでないとの印象がある。日本共産党を継続的に批判的にフォローする連載記事・企画をいずれかの雑誌は載せてほしいものだ。
 サイトでは、ずばり「共産党問題、社会主義問題を考える」とのタイトルの詳しいものを初めて見つけた(まだまだネット利用が足らない)。
 このサイト内の分析によると、機関紙赤旗の本紙・日曜版合計の発行部数は、1980年からの「25年間で、最高時の355万部から、187万部減り、減紙率52.7%になっている」。また、1990年からの15年では本紙は「54万部から、24万部減り、…減紙率44%」、日曜版は「232万部から、94万部減り、減紙率40.5%」、併せると、「東欧革命以降の15年間」で本紙と日曜版読者のいずれもの「ほぼ40%以上が、共産党に愛想をつかして、離れていったのである」。
 なるほど、筆坂秀世・日本共産党(新潮新書、2006.04)p.190が「共産主義社会などまったく将来への展望がないのだから…」と本音を語っているのも分かる。だが、安心?してはならない。500万票近く、投票者の7%という数字は決して小さくない。
 川上徹・査問で印象的なのは、1972年1月(と読める。いずれにせよ、査問より以前の正月)に彼が見た宮本顕治に関する叙述だ。p.21以降-「私の眼は、…大きな人影を見つけだした。その人影が放つ視線を避けながら、…人物の周囲をぼんやりと眺めた。……それまで人間の視線を恐ろしいと感じたことはなかった。背筋を冷たいものが走る、…自分が受けた感覚は、それに近いものだったろうか」。査問中に待たされて「あのときの視線を思い出していた。その視線は、周囲の浮かれた雰囲気とは異質の、じっと観察しているような、見極めているような、冷ややかな棘のようなものであった」。
 この宮本の「視線」を想像すると気味が悪い。宮本は川上が将来の自分とその仲間への障害、妨害、対立「分子」になる可能性がないかどうか、「じっと観察し」「見極めて」いたのではないか。そして、他の同様の人物とともに、「新日和見主義」なる語・内容ともに不分明な「主義」をでっちあげて早々に「危険」の芽を摘み取ろうとし、「成功」したのでないか。実質的に宮本独裁だったことを証明しもする。
ギャラリー
  • 2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
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  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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