秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

賀屋興宣

共産主義の脅威と言論人。

 一 共産主義の脅威について、言論人の多くは触れたがらない。
 むしろ多少左翼的な姿勢を-それも過度ではなく-とることが、いまの世をわたる一番安全なみちであって、これはちょうど戦争前の昭和10年ころに、多少右翼的な姿勢を示すことが安全な処世術だったのと、似ているであろう。
 そういう態度を保っているかぎり、ジャーナリズムは衛生無害とみなしてくれる。
 しかし衛生無害の処世家で世の中が充満するとき、国はほろびるのである。
 流れに抗して、だれかがあえて憎まれ役を買って出なければならない。
 二 以上の5文は引用で、賀屋興宣・このままでは必ず起る日本共産革命(浪漫、1973)の冒頭にある序言の一つ、村松剛「共産主義はメシア宗教の一つ-序にかえて」の一部だ。
 2016年から見て40年以上前の文章だが、日本における「共産主義」と「言論人」の状況はほとんど変わっていないのではないか。
 1970年初頭の日本共産党の「民主連合政府」構想とその未遂、1990年代初めのソ連崩壊等にもかかわらず、日本共産党は延命しつづけており、「日本共産革命」(民主主義革命と社会主義革命という二段階の革命)の構想を党綱領を維持したまま、有権者から600万票(2016年参院選・比例区)を獲得している。
 三 保守派と言われる、または自称する言論人・論壇人の中ですら、「反共産主義」を鮮明にしている者はごくわずかにすぎない、という惨憺たる状況が現実にはある。
 いくら中国を、あるいは中国共産党の現在を批判しても、それはなぜか、日本共産党に対する批判にはつながっていない。意識的に日本共産党を名指しすることを避けているごとくですらある。
 いくら朝日新聞を、あるいは朝日新聞の「歴史」報道を批判しても、それはなぜか、日本共産党とその「歴史認識」に対する批判にはつながっていない。朝日新聞は日本共産党の「歴史認識」を知らずして、「歴史」に関する報道・主張をしているとでも思っているのだろうか。
 朝日新聞と日本共産党との関係に関心をもつ者は少なく、多くに見られる朝日新聞批判にもかかわらず、意識的に日本共産党を名指しすることを避けているごとくですらある。
 日本共産党に対する批判に向かうべき回路から別の回路へと、それ自体は必ずしも誤っているわけではない議論・主張であっても、それらを逸らす、大がかりな仕掛けができあがっているようだ。
 秋月の見るところ、産経新聞の主流派も、多数派の「保守」論壇人も、その大がかりな仕掛けに嵌まっており、かつそのことを意識していない。
 四 当然のごとく、自由民主党という政党の圧倒的多数派も、大きな仕掛けの中に入ったままだ。
 共産主義者は、権力維持のために、または権力掌握のために、要するに目的達成のためならば、何とでも言うし、何でもする。
 上のことは、維持したい「権力」を持った政治家にも多少ともあてはまるように思われる。
 権力の維持のために、権力維持期間を長くするために、元来は有していた「歴史認識」を言葉の上では-言葉・観念だけの過去に関する問題だと思って-捨ててしまう政治家が出てきても不思議ではない。
 もちろん、そのような政治家に「おべっか」して寄り添う出版社や論壇人もいる。阿諛追従。
 惨憺たる状況だ。
 五 賀屋興宣(1989~1977)は、1937年近衛文麿内閣の大蔵大臣、1941年東条英機内閣の大蔵大臣、いわゆるA級戦犯の一人で、終身刑判決により10年間収監されたのち、1955年に事実上の釈放、1958年総選挙で当選して衆議院議員、1963-64年池田勇人内閣法務大臣、1972年「自由日本を守る会」を組織。

0631/若宮啓文-「市民」概念愛好に理論的根拠なし、<左から>の東京裁判批判。

 一 若宮啓文(朝日新聞)という人は、元論説主幹とかで何やらエラそうに見えるが、いかほどの見識をもち思考の鍛錬を積んだ人なのか。
 馬脚を現わす、という表現がある。これにピッタリの次のような文章が2003.11.30に書かれている。若宮啓文・右手に君が代左手に憲法(朝日新聞、2007)による。
 「市民と国民はどう違うのか」。「市民運動と国民運動」を比べると分かり易い。前者は「国家や行政への対抗心がにじむ」のに対して、後者は「政府のきもいりなのが普通」。「市民革命はあっても国民革命」はほとんど聞かない。一方、「地球市民の連帯」という言葉ができるのは、「市民」が、「職業ばかりか国家や民族を超える概念だから」だろう(p.28)。
 「市民と国民はどう違うのか」、この問題設定はよい。だが、すぐさま感じる。この人はアホ、失礼、馬鹿ではないか。
 「市民」や「国民」という概念・議論にかかわる幾ばくかの文献に目を通したことが一度もなさそうだ。
 国家等への「対抗心」が滲む「市民運動」概念に対して、「政府きもいりが普通」の「国民運動」概念。「市民」概念は(「国民」と違い)<職業・国家・民族>を超えている。
 こうした<感覚的>理由で、この人と朝日新聞は「市民」がお好きなのだ。なるほど「市民運動」は朝日新聞と若宮にとってたいてい<左翼>運動であり、朝日新聞と若宮が嫌いな「国家」を避けたい、「国家」を意識から外したいためにこそ、「地球市民」という言葉を愛好しているのだ。
 もう一度、馬鹿ではないか、と言いたい。しかも、「市民革命はあっても国民革命とはほとんど聞かない」などと書いて、まるで<歴史(近代史)>又は「市民革命」という概念の(「左翼」が理解する)意味を理解できていないアホさ、いや無知かげんを暴露している。
 上のことから若宮は(この当時)民主党は「市民政党」から「国民政党」になっていると不満を呈し(p.26-27)、「市民派感覚を生かすことは大事」で、菅直人は「市民派首相」を目指すべきだ、という(p.29)。
 この「市民(派)」へのこだわりは、「反・国家」意識、「反・日本(国家)」意識がすこぶる強い、ということだろう。この「国家」嫌いの若宮は、自分が日本「国民」であるという意識がないのではないか、あるいは自分がそうだということを当然に知ってはいても、日本「国民」意識を嫌悪しているのではないか。お気の毒に。
 二 全部を読む気はもともとないが、若宮啓文・戦後保守のアジア観(朝日新聞社、1995)の前半を通読して感じる一つは、東京裁判(通称)の①A級戦犯容疑者全員がきちんと裁かれなかったこと、②A級戦犯のうち被処刑死者以外の者がのちに「釈放」され政界復帰等をしたことに対する、若宮啓文の<悔しさ>だ。
 上の①の代表者は岸信介。②は、賀屋興宣・重光葵ら。そして、①の免責や②の「釈放」は<冷戦構造>・<東西対立>の発生による米国の方針変換による旨を何度か書いて(p.48など)、明示はしていないが、A級戦犯者が「戦犯」でなくなったわけではないこと、罪状は消えるのではない旨を強く示唆している。また、明言はしていないが、岸信介も訴追されるべきだった旨の感情が背景にあることも窺える。
 そしてまた、東京裁判の罪状の中心は対米戦争開戦の責任で「アジア侵略の責任」ではなかった等々と書いて(p.92など。この部分の見出しは「東京裁判の欠陥」)、いわば<左から>、東京裁判を批判している、又はその限界を指摘している。
 若宮啓文によれば、東京裁判それ自体は何ら法的にも問題はなく、被告人の選定や訴追事由に問題があった、つまりもっと多くの「戦争責任者」を裁くべきであり、「アジア侵略」の観点も重視して被告人を選定すべきであった、ということになるのだろう。また、生存「A級戦犯」者を刑期どおりにきちんと拘禁し続けるべきであり、簡単に?(といっても日本社会党議員を含む、「戦犯」者の「釈放」運動があったのだが)一般社会に「釈放」すべきではなかった、ということになるのだろう。
 なかなか面白い東京裁判論だ。もっときちんと拡大して被告人を選定し裁いておいてくれたら、そして刑(死刑を除く拘禁刑)の執行を判決どおりに行っていれば、戦後の「保守」は実際よりも弱体になっていたのに、というような感情が見え隠れしている。
 さすがに、<左翼>・<自虐>だ。米国の助けを借りてでも、<悪いことをした日本の要人(軍人・官僚・政治家)>を徹底的に裁き、排除しておきたかった、というわけだ。
 若宮啓文の文章はあまり読みたくない。精神衛生にはよくない。だが、また読むことがあるだろう。

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