秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

読売

0334/嘘つき朝日。

 前日の記事につづいて10/03の朝日・天声人語は書いた。
 「…沖縄は怒った。抗議の県民大会は11万人でうねった。…」
 数字に主催者発表との注もない。こうして、主催者又は当事者の言い分をそのまま<紹介して>既成事実化するのは、本多勝一、過去の朝日新聞と同じ。
 かかる「嘘つき朝日」と業務提携をするらしい読売新聞社は、きっと自らの墓穴を掘っている。

0329/中西輝政・月刊WiLL11月号論文は読まれるべき。

 中西輝政・月刊WiLL11月号論文「『悪魔の密約』-小沢一郎と日本共産党」は読まれるべきだ。
 内容は日本共産党関係だけではない。
 安倍首相辞任の背景には1.米国の北朝鮮に関する意向、2.日本共産党の衆院候補擁立方針の変更(=「密約」あるいは小沢と共産主義勢力の「結託」、民主党内部への日本共産党勢力の浸透)がある、とする。
 さすがに中西輝政だ。「左」又は朝日新聞等にはステレオタイプ的な議論・論調が多いが、「右」の方にだって教条的・ステレオタイプ的なことを言い、書く人もいる(今ひとり名を挙げたくなったが、書かない)。中西輝政の議論・主張は新鮮だ。
 内容の紹介・引用は、断片的な以下のものにとどめる。
 「痴呆的ポピュリズム」(p.30)。大嶽秀夫に中公新書・日本型ポピュリズム-政治への期待と幻滅-(2003)というのがあり、主として小泉純一郎(とマスコミ等)を扱っているが、未読ながら上杉隆・小泉の勝利・メディアの敗北(草思社)というのもあるらしい。
 これらのいずれかでも読めば、マスコミの有権者への影響力はなく有権者は<自主的かつ合理的に>投票しているなどという呆言又は寝言をいう人、とりわけ産経新聞社の中にもいるようであるマスコミ人は、いなくなるはずだ。なお、中西輝政はこの言葉を、安倍辞任表明に対するマスコミ論調について用いている。選挙結果をただ尊重すべきだとのみ唱えていた者は、「痴呆的ポピュリスト」とでも称されるべきだろう。
 余計ながら、口先だけならともかく、本気で「国民の目線で」などと言っている政治家は信頼できない。大衆に迎合して、大衆の中に埋没しようとする者が、国民大衆の中からの<選良>であるはずがない。とても書ききれないが、<大衆民主主義>下の<大衆迎合主義>の誤り・危険性は何度でも強調するに値する。
 「今の日本のマスコミは、それすらわからぬほどに劣化している」(p.32)。コメント省略。
 「朝日新聞を先頭」とするマスコミの「反安倍キャンペーン」は政権発足以前から始まっており、「しばしばなりふり構わぬ常軌を逸したものになった」(p.34)。このことを朝日新聞関係者は認めないだろうが、産経新聞社の記者にすらこのことを認めない者がいるのだから、読売新聞等々、そして一般国民のかなりの部分はこのことを理解できていない可能性が高い。
 北京・東京・ワシントン(ニューヨーク)を通じた「反靖国」の強い陣営があり、「その中心となっているのは間違いなく朝日新聞だ」(p.36)。コメント省略。
 「朝日が全社を挙げて『反安倍の報復戦』に動いていたことも明らか」。このことを朝日新聞関係者は認めないだろうが、産経新聞社の記者にすらこのことを認めない者がいるのだから、読売新聞等々…(以下同文)。
 小沢一郎-「共産党と組んででも、という今の凄みを帯びたマキャベリズム」、「一切の価値観を排したニヒリズム」、「悪魔的政治家」(p.45)。すごい形容だ、とだけ述べて、コメント省略。
 最後にしておくが、以下の二つは、共産主義、そして日本共産党を断固として警戒しなければならないことを教える。
 ①旧社会党出身の民主党議員グループの人脈は「日本共産党につながっている」。旧社会党の者が「パイプ役」となり、「小沢一郎…は共産党と非常にスムーズに合意ができ」た(p.41)。
 ②「社保庁労組の中」の「共産党フラグ」が「連合につながる部分にも非常に大きな影響力を持っている」、「年金問題の本当の帰趨を握っているのは、今も共産党につながる勢力」だ(p.41)。
 朝日新聞の背後又は一部で、民主党の背後又は一部で、日本共産党(員)が<暗躍>していると見ておく必要がある。これは私の文。

0328/読売は朝日新聞と同じ?-時田英之・渡辺恒雄。

 時田英之なる人物が執筆している読売9/19の「2007思潮9月」(論壇の総括・時評のようなもの)を読むと、この新聞が決して「保守」ではないことがよく分かる。産経などよりもはるかに朝日新聞に近く、朝日の同種の記事・論壇評論欄として読まされても区別がつかないほどだ。
 上の印象への過程の説明は省略する。
 いずれにせよ、「保守」とともに曖昧な「リベラル」という概念を使っておくと、朝日は<リベラル左派>であるのに対して、読売は、少なくとも時田英之は、せいぜい<リベラル右派>なのではないか。
 読売の個々の記事・コメント類にはこれまでも批判的に言及したことがある。だが、読売新聞内の論壇の評論・分析者がこれでは、ますます、この新聞は信用がおけない(産経が信用できると言っているわけではない)。
 読売は、社説は(朝日と違って)けっこうまともなのだが、他の一般記事は朝日・毎日らと大して違いないのではないか。
 朝日新聞社全体の論調と<闘う>という迫力をこの新聞社から感じることはできない。だから、朝日との棲み分けを狙っているのではないか、との邪推?も生じてくる。
 ところで、週刊新潮9/27の櫻井よしこコラムは読売批判、そして渡辺恒雄批判が厳しい。渡辺は、安倍が靖国参拝すると読売1000万部の力で「倒す」旨を発言したらしい。
 渡辺が元日本共産党員だったことを理由にするつもりは全くないし、櫻井も言及すらしていない。正しく<思想>を変更すること=マルクス主義から脱却することはよいことだ。
 だが80歳を越えた老人の影響力がまだ残っているようでは、天下の読売も情けないものだ。心ある読売人は恥ずかしくないのか。

0326/日本新聞協会の「談合」。

 読売9/06によると、日本新聞協会は9/05に、読売・渡辺恒雄会長・主筆と元朝日社長・中江利忠の2人に、12年ぶりに「新聞文化賞」受賞者に選定した、という。
 産経にも同趣旨の記事はあるが、上の旨は見出しにしていない。読売は渡辺・中江の顔写真、渡辺のコメントつき。
 読売と朝日の81歳と77歳の老人に仲良く?12年ぶりに授賞とは、当然に、読売と朝日を中心とする新聞協会内部での事前の「寝回し」・「談合」があったことだろう。
 元朝日の中江利忠が「言論・新聞事業を通じて社会文化に顕著な功績があった新聞人」(かかる人物に「新聞文化賞」は贈られるらしい)と言えるのか。読売新聞はその点に何ら触れていないし、渡辺のコメントも自分の受賞を喜ぶばかり。
 渡辺・中江両人のカラー顔写真を並べて掲載するようでは、読売は朝日新聞に対するいかなる批判的な意識も姿勢も有していない、と疑われてもやむをえないだろう。
 読売は<狂気>の朝日新聞社とともに新聞業界を二つに収斂させて支配したいのか。嘆かわしい。

0322/御厨貴さん、遠藤弦さん、よくも簡単に言えますね。

 御厨貴という東京大学所属の政治学者は、失礼ながら、頭がよさそうではない。又は、特定の偏った<主義>のもち主のように見える。この人は読売9/13にこんなことを書いている。
 「安倍さんは選挙期間中、『私を選ぶか、小沢代表を選ぶか』と演説した」、「安倍首相は、本来ならば参院選惨敗の直後に辞めておくべきだった」。
 安倍(まだ現首相)が上のように発言したのは事実だ。このことを朝日新聞の社説は、安倍退陣を強く要求する理由の一つとして明記した。産経新聞の一部の記者も同旨のことを述べた。
 古い話題だが、しっかりと思い出しておく必要がある。安倍の発言・演説内容は事実で、それは首相選択選挙としての安倍対小沢という闘いならば自分に有利だろうとの安倍氏の判断があったからだろう。しかし、この点を安倍は最後まで又は一貫して強調したわけでは全くなかった。それはもともと参院選(第二院のかつ半数の改選)が首相・政権選択選挙では全くない、ということを彼が意識または知悉しているがゆえだっただろう。
 マスコミ論調もまた、安倍首相かそれとも小沢首相かという選択の選挙、少なくとも自民党政権か民主党政権かという選択の選挙として位置づけて報道したのか。全くちがっていた。朝日新聞を中心とする「サヨク」メディアは<逆風三点セット>を煽ったのであり、安倍の基本的理念(憲法改正等々)の是非すら、重要な争点または対立軸としてはとり挙げなかったのだ。
 従って、選挙後も、安倍の目指す基本的方向が否定されたわけではないとの論評・分析があったし、それは「民意」の適切な認識だっただろう。
 しかるに、選挙に自民党が大敗してみれば、まるで<安倍政治>全体が否定されたかのムードを朝日新聞等々は作りだした(憲法改正反対を明言し主要な争点とした社民党・共産党が議席を減らしたことは大きな話題とはされなかった)。その一つとして、この「サヨク」新聞が利用したのが、上記の安倍発言だったのだが、このいわば情報<策略>に、意識的にか、無意識でか、御厨貴という人は加担するか、屈服している(産経の一部の記者も同様)。
 本当に首相として「安倍を選ぶか、小沢を選ぶか」を最大の争点とした選挙だったなら、安倍・自民党は勝利していただろう。確かなデータは手元にないが、(わからない・無回答が第一位だったかもしれないが)首相として誰がふさわしいかの世論調査において、安倍は小沢を一貫して上回っていた。安倍対小沢なら、安倍は確実に勝っていた。
 自民党を大敗させた「民意」は、安倍・自民党与党内閣ではなく小沢・民主党内閣を作れ、というものでは全くなかった、と考えて、まず間違いはない。多くの人が、民主党に投票した者も含めて、民主党が勝てば、小沢・民主党政権ができる、などとは考えていなかったはずだ。
 読売新聞9/14一面に、同政治部記者・遠藤弦は書いている。-「安倍路線は、参院選で『ノー』を突きつけられた」。ここでの「安倍路線」の意味内容にもよるが、読売の記者が一面でこんなに簡単にサラッと書いてしまうのだから、怖ろしいものだ。
 読売新聞の多数の政治部記者もまた<戦後体制>にどっぷりと浸っているのだろう。朝日新聞記者と同じ(朝日の場合は意図的に誤っているのだが)認識に結果として立っている。
 「安倍路線」が否定されたと自民党員・議員たちが理解して、安倍カラーとは異なる、加藤紘一が支持するような人物が自民党総裁・首相になれば、自民党はますます弱体化し(本来の保守層は離れ)、日本国家も(中国や北朝鮮とは仲良くなるかもしれないが)ますます衰亡の道、「自立」性喪失の道を歩むだろう。
 何かに櫻井よしこは書いていた-自民党は、左にブレれば負ける。一時的に民主党から浮動層の支持を奪い返してもほとんど無意味だ。大衆=衆愚の人気とり政党が二つもできるようでは、日本は本当に「危ない」。

0317/産経・山本雄史記者への質問と助言・4。

 一 産経・山本雄史のブログ上にはまだ、<秋月氏に答える>、<…に反論する>というタイトル又は内容の文章は掲載されていない。但し、コメントに対して8/06付で「返信」はしているようだ(私の質問等1は8/4夜)。私もこれまでのものも含めて「コメント」欄に記述してみようか? そうすれば「返信」を頂戴できるだろうか?
 二 山本自身の発言(記述)内容を補足しておく。
 安倍首相につき-⑧会見のやりとりを見て「安倍首相はあまりにもズレているように思」った、⑨「国民の審判を安倍首相は本当に受け止めているのか、会見の受け答えをみていて…そう思った」。⑩「地位と権力にしがみついている印象、安倍首相の一連の発言や態度などから十分に感じられると思う」。
 他マスコミの報道および産経新聞の紙面につき-⑤「産経紙面は、赤城大臣の事務所費問題、発覚2~3日は驚くほど報道量は少なかった…。選挙前にこういう問題が発覚すること自体は、十分ニュースであると私は思っていたので、もう少し産経も報道した方が良かったのでは」と感じた、⑥「安倍首相の理念がなぜ国民に伝わらなかったのか、メディアだけの責任ではない」。
 前回小沢一郎について触れた部分を①として、小沢につき-②「小沢氏のどぶ板っぷりは見事だったと思います」。
 三 ところで、山本はまだ入社6年余りの20歳代の記者らしい。経験も経験の抽象化・理論化も基礎的な文献等による勉強も不十分であるに違いない。
 大学を卒業して就職した人々の中の一部にありがちなのは、大学を卒業したくらいでは、そして就職試験に合格したくらいでは社会人として実際に生活し仕事をするいかほどの能力も資格もないにもかかかわらず、<一人前>の社会人になったように<錯覚>してしまうことだ。この<錯覚>がマスコミ人の中に出てくると、大変なことになる。
 山本のブログ文やコメントへの返答を読んでいても感じる。この人は、大きな錯覚をしているのではないか?、政治(も)担当の記者になって一般人・平均的国民よりも適切に<政治>を語れる資格・能力があると、<傲慢>にも<錯覚>しているのではないか?、と。入社6年余程度で一体何が語れるというのだ。そして既に質問もした中に含意させたつもりだが、<政治>に関して、いかほどの知識・見識があり批判・分析能力(を生んだ経験・勉強の蓄積)があるというのだ
 そもそもの問題は、大した力量もない「若造の」政治(も)担当記者が、首相の出所進退という大きな政治問題について、<感覚>または<思いつき>程度で、諸問題を十分に考慮することなく、結論的なことを書いてしまった(少なくとも示唆した)ということにある、と思われる。今回のような内容の<感想>程度のものは本来はいくら個人的に感じたことでも<記者ブログ>に適当に書くのは適切ではなかった(少なくとも、まだ山本には早すぎた)、と私は思う。そのことによって、この私の一文もその一つだが、かなり多くの人に余計な(反発を含む)エネルギーをかけさせている。
 叙述の内容・結論自体よりも前に、日本政治上の重要なかつ現実的だった争点について、<感想>程度のものを<適当に>書いてしまったこと自体にまず問題があり、そのことを職業人・山本雄史はまず反省すべきだろう。
 書いたときは産経読者やイザ!読者はともかく、一般国民レベルでは圧倒的に支持される筈の思い・感想・主張だと感じていたかもしれないが、その後の反応を知ってこの人はようやく自らの軽率ぶりを少しは反省しているのではなかろうか(と期待する)。自民党敗戦の責任は安倍首相にはないとの意見の方が多いという世論調査結果を示している新聞もあるのだ。(山本の本意とは異なる主張らしい)産経のみならず、読売も日経も続投を明瞭に支持したのだ。ネット上で、この人は一種の「ピエロ」になっている。恥ずかしく感じているだろう(と期待する)。
 四 以上のように書くとやや筆致も鈍るが、予定どおり、前回につづく第四点に入る。
 第四に、山本雄史記者は7/30のブログ文で(安倍政権が?)「労働組合批判を繰り返すのは得策ではない」との「見解も示してきた」、と簡単に書いている。この「労働組合」とは社会保険庁の労働組合のことだろう。
 さて、まず瑣末で技術的な知識の問題かもしれないが、1.非現業公務員らには労組法上の「労働組合」はなく職員団体しかない、2.社会保険庁の職員はかつて都道府県に置かれた機構に勤務しながらも身分は「国家公務員」とされた(所謂「地方事務官」制度)、3.分権改革関連法令によって同制度は廃止されたにもかかわらず、職員団体(世間で不正確にいう労組)は2007年4月までは都道府県のそれに属するとされ、上部団体は所謂「自治労」(かつては日本社会党系。今は民主党系らしい)だった。
 上の3.に関して、読売8/06朝刊には興味深い記事がある。すなわち、2000年の分権改革法令施行後も2007年まで国の機関である筈の社会保険庁職員1万人を都道府県職員と同じく自治労傘下にすることを2000年の分権改革関連法令で認めたことについて、1999年に当時の社民党・村山富市元首相から「自治労が困っている…」と言われたので自民党・自由党に働きかけた結果だ、と公明党の草川昭三(今回、比例区で落選)が明らかにし、「内心忸怩たるものがある」と「悔や」んでいる、という。
 私も書いたことがあるのだが、社会保険庁職員(団体)の労働慣行のヒドさは、「地方事務官」制度とその廃止(=正規の国家公務員化)にもかかわらず職員団体は「自治労」加入を認めたことと無関係ではないだろう、と理解している。
 さて、今日の草川昭三のコメントはともあれ、その上の段に1.2.3.と記述したようなことを、「労働組合批判を繰り返すのは得策ではない」と何気なく書いた山本雄史は知っていたのだろうか。そんな知識はなかっただろうと想像するのだが、いちおう質問しておく。イェスかノーかで答えていただきたい。
 こういう細かな?ことよりも問題にしたいのは、山本雄史は、労働組合というもの、その上部団体の「自治労」、そしてそうした上部連合組織を指導した<労働運動>理論について、山本氏はどの程度理解し、どのように評価しているのか、ということだ。
 現在は民主党支持の労組・労組全国組織の幹部は今はもはや、内心でも日本をソ連のような社会主義国にしようとは思っていないだろう。ソ連はもはや存在しないからだ。また、存在する社会主義国(中国・ベトナム等)のように…ともさすがに公言はできなくなっているだろう。
 だが、詳細は知らないが、かつて「自治労」等が支持した、逆にいえば「自治労」等が<指導>を受けた日本社会党には(欧州の社会民主主義政党とは異なり)マルクス主義者(・社会主義者)が有力なグループとして存在しており、一時期は明瞭に日本の「社会主義」化を本気で狙っていた。むろんそうした社会党左派をさらに理論指導する知識人・大学教授もいた。
 かかるかつての時代と現在はむろんだいぶ異なっているだろう。だが、「社会主義」化を公然と標榜しないにせよ、反「資本主義」感覚、反「自由主義」感覚さらには-適当な言葉がないので困るのだが-<反日・自虐的>感覚は、一部の職員団体・労働組合やその上部団体の幹部には脈々とまだ受け継がれている、と私は考えている。自治労とは関係ないかもしれないが、今回も当選した民主党の岡崎トミ子の行動、かつて社民党にいた田嶋陽子のアホらしい(ピエロ役の)発言内容等を思い起こせばわかるだろう。
 そこで、憲法九条改正には賛成らしい山本雄史に質問する。労組の一部をかつて決定的に支配し、かつ現在もその可能性のあるコミュニズム(マルクス主義・社会主義)の<問題点と怖さ>をどのように認識しているのか。たんにもはや古い、支持しない、という回答だけでは困る。<問題点と怖さ>をできるだけ長く叙述してご回答いただきたい。
 この質問は、前回に述べた第二点とも関係している。
 山本雄史は安倍首相や安倍内閣にはなぜか厳しく、朝日新聞等や労組にはなぜか「甘い」のだ。簡単に表現すれば-再び適当な概念がないので困るのだが-この人はなぜか、<左に甘い>のだ。
 こういう心情は珍しくもないが、産経の記者としては珍しいのではなかろうか。だからこそ関心が涌く、何故にこんな心情が形成されたのだろうか、<左翼>の核心に(亜流・亜種も含めれば現在も)あるマルクス主義の<問題点と怖さ>をこの人はきちんと理解しているのだろうか、という関心が。
 ぜひ、質問に答えていただきたく、せつにお願い申しあげる。まだ触れていない重要なテーマは次回に。

0313/安倍首相続投は朝日新聞への正しい敵愾心からではないか。

 読売8/02夕刊によると、参院選投開票日7/29の夕方、森元首相・青木参院議員会長・中川幹事長の三人は自民党40未満だと安倍首相退陣で一致した、その後安倍首相に伝えると「首相は色をなして反論し、続投に強い意欲を示した」ので、三氏も最終的に支持した、という。同8/03朝刊によると、上の記事に関して、安倍首相は「その話は誰にも聞いていない」と答えたらしい。
 むろん分からないが、事実のような気がする。そして、青木あたりからリークされた情報ではないか。それはともかく、事実だとすれば、次のような感想が生じる。
 第一に、勝手な推測、それこそ憶測になるのだが、安倍晋三の朝日新聞に対する敵愾心だ。これで首相を辞任してしまったのでは朝日新聞(の策略)に負けたことになってしまう、と強く感じていたのではなかろうか(本当は「感じておられた」と敬語をつけるべきかもしれない)。そして、朝日新聞と安倍の関係を十分に?知っている私には、そういう感情が生まれることはじつによく理解できるのだ。
 むろん、加えて、(形式的にはともかく)敗北の実質的な責任の大半が自分にあるわけではない、自分の「路線」・「基本的考え」が否定されたわけではない、という強い思いもあっただろう。
 安倍首相自身ではなく諸閣僚の発言・行動が問題にされ、<イメージ>の悪さへとつながったことは否定できないだろう。そしてまた、そういう部分に焦点をあてて報道して<反安倍>・<反自民>を煽る朝日新聞等のマスコミに対する――表立っては言えないのだが――強い不満もあったのではないか、と思われる。
 第二に、上のような三人のいったんの合意が事実ならば、次のような推測は誤りであることが歴然とする。
 すなわち、一部には、安倍首相続投判断について、<自民党の長老どもが次の衆議院選も考え、衆院選にも惨敗しても安倍に全ての責任を押しつけ、失脚させる、と構想している可能性はある。安倍首相は「半ば晒し者で罰ゲームと同じ状況かも」>と想像する向きもあるようなのだ。
 このような憶測にはもともと、「自民党の長老ども」とはいったい誰々か、そんな悪?知恵を働かせることのできる「長老」はいるのか、という疑問がある。「長老」かもしれない森氏・青木氏は、上によるといったんは<続投なし>で一致している。
 さらに、安倍首相を「半ば晒し者」にしたまま「衆院選にも惨敗」させて失脚させる、などという余裕がそもそも自民党にあるのか、という基本的な疑問がある。
 陰謀史観的で面白いが、上のような推測は、些か「深読みし過ぎ」で、推測者は些か<変わった思考趣味>の方ではなかろうか。

0312/安倍首相続投と世論-朝日新聞の策略は完遂ならず。

 安倍首相続投に関する各社の世論調査の結果を、産経・阿比留瑠比の8/01ブログが紹介しており、全紙を読まない(読めない)者にとっては有り難く、有益だ。
 それによると、支持(評価)する・支持(評価)しないの順での%は次のとおり。
 読売-44%・45%。
 東京-44%・50%(コンマ以下四捨五入)。
 朝日-40%・47%。
 日経-36%・50%。
 自民党支持者に限っての続投支持率は、読売で74%、朝日で77%、日経73%
 テレビでは続投疑問視のコメントが完全な多数派の印象だったし、朝日新聞の社説は「安倍続投・国民はあぜんとしている」とのタイトルまで打ったのだが、阿比留も指摘するように、世論は続投批判が多数派では必ずしもない。少なくとも大多数派ではない。
 朝日新聞は上の数字に関しては特段の見出しをつけなかったようだが、きっとガッカリしているだろう。30%対70%、悪くても40%対60%くらいの数字が出るだろうと想定(期待)していたのではないか。不支持が47%では、「過半数が…」との大きな見出しをつけるわけにもいかない。残念ながら、朝日新聞・若宮啓文らの<策略>は、最終的には挫折した。彼らは最終目的を達成することはできなかった。
 そして朝日には、野党が過半数取っても国会は混乱せず大丈夫、むしろ「正常化」だ、などと社説でいったん書いた重みが今後のしかかることになるだろう。
 自民党支持者の数字もほぼ3/4が支持で、自民党支持者が安倍首相を決定的に見離しているわけでもない。
 これらの数字は、民主党に勝たせ過ぎたという感想にもよるのかもしれないが、自民党支持者に限らず、(朝日新聞にとっては極めて残念なことだろうが)もともと安倍首相に自民党敗北の責任の過半があるとほぼ一致しては考えられていない、そういう印象は大多数にはもたれていない、ということを示しているのではなかろうか。
 だが、上の数字のような世論の「空気」を自分は「読め」ず、安倍首相は空気を読めるか>と問題にしている新聞記者がいる。産経の、山本雄史という、政治部所属らしい記者だ。この人の書いていることはかなりの問題点を含むので、別に(本格的に)扱う。

0308/民主主義はつねに「正しい」結論を出すか-読売7/31河野博子コラムに寄せて。

 7/29の夜から翌日未明にかけてのテレビ放送を観ていると、安倍首相が続投表明をしたあとで、それを疑問視する発言・コメントが多かったように思う。
 それもいちおう<政治評論家>を名乗っている者がそういう発言をすることは別に不思議ではないのだが、奇妙に思ったのは、番組のキャスター類(要するに司会進行役が基本のはずだ)やさらにはあろうことか番組のふつうのアナウンサーまでもが、何か喋らないと時間が潰れなかったのか、平気で安倍首相の行動・判断を批判又は疑問視する発言をしていたことだ。翌日の彼らの発言・コメントも含めておいてよい。
 日本のテレビ局のキャスターやアナウンサーはいつからそんなに<エラく>なったのか。いつから<政治>を論評できる資格を実質的にでも身に付けたのか。
 <しろうと>が生意気にあるいはエラそうに電波を使って多数視聴者に<したり顔>で語っているのだから、じつに滑稽であるととともに怖ろしい、日本のマスコミの姿だと感じた。それも政権側を、あるいは敗戦した側を批判しておけば<多数大衆に受けて>無難と考えたのか、政権側を批判するのが<進歩的・良心的・知的>で、そのようなコメントの方が格好良い又は自分をエラく見せられると考えたのか、上述のような内容の発言・コメントなのだから、度し難いバカバカしさを感じた。
 ヘンなのは民放各局だけではない。30日に入ってからの島田敏夫というNHKの解説委員の発言・解説的コメントは、録画していないので正確に再現できないが、少なくとも私から見れば、相当に<偏り>のあるものだった。視聴率が低くてあまり注目されていないが、日付が変わってからのNHKの政治がらみのニュース解説には??と感じさせる奇妙なものがあると感じていたが、島田敏夫なる人物のコメントも奇妙だった。
 また、島田および上で触れた民放各局のキャスター類にも共通することだが、そして今に始まったことでもないが、内閣総理大臣という国家機関を担当している者に対する慰労の念などこれっぽっちもなく、内閣総理大臣担当者に対する儀礼的でもいい敬意すらなどこれっぽっちも示さず(むろん首相への直接の質問者は最低限の丁寧さはあったとは思うが)、安倍と呼び捨てているような雰囲気で、あれこれと批判・疑問視しているのも奇妙に感じた。
 そのような人たちは内閣総理大臣たる職務の重要性・大変さを理解したうえで発言しているのか疑問に思ったものだ。大衆注視の舞台の上で何かを<演技している>のが政治家ではない。演技かゲームプレイの巧さ・下手さをヤジウマのような感覚でプレイヤーと対等な感覚で論評する、というのが国政選挙にかかる発言・コメントではないだろう。
 元に戻れば、7/31午後7時半からのNHK・クローズアップ現代国谷裕子の言葉・雰囲気もヒドいものだった。
 安倍続投が気に入らない、問題にしなければならない、何故自民党内で続投批判が大きくならないのか、という関心に立脚して彼女は喋っていた。原稿が別の政治記者によって書かれているとすれば、その政治記者の気分をそのまま画面上で伝えたのかもしれないが、明らかに公平さを欠く報道の仕方だった。画面に登場した政治記者の方がまだ冷静又はより客観的だったのが救いだったが、ともあれ、NHKの報道等の仕方・内容は決して安心して観れるものだけではないことは十分な注意を要する。政治記者クラブの世界の意識・雰囲気は一般国民又は心ある国民のそれらとは相当に異なっている可能性がある、と想像しておくべきだろう。
 最後にもう一点指摘したいのだが、次のことをあらかじめ一般論として述べておきたい。
 民主主義理念にもとづく有権者国民の投票の結果は、<正しい>または<合理的>なものだろうか? 答えは勿論、一概には言えない、だ。選挙結果は歴史的に見て<正しい>または<合理的>とは言えなかった、と評価されることは当然にありうる。
 民主主義はつねに正しい又は合理的な決定を生み出す、というのは幻想だ(だから私は直接民主主義的制度にはどちらかと言うと反対だし、限られた範囲での住民投票制度の導入にも政策論として消極的だ)。多数の者が<参加>したからより<正しく>又はより<合理的に>決定できる(た)、と考えるのは一種の<幻想>にすぎない。
 民主主義はあくまで手続又は方法なのであって、生み出される結果の正しさ・合理性を保障するものではない。ここで民主主義を「選挙」と言い換えてもよい。くどいが、「民意」がつねに<正しく><合理的だ>と理解すれば基本的な誤りに陥る。
 このような観点から、読売新聞7/31夕刊編集委員・河野博子の「行動を起こす」と題するコラムを読むと、なかなか興味深いし、素朴な誤りに取り憑かれていると感じる。
 この人は次のように書く。「有権者の投票」という「アクション」が「自民党大敗をもたらした」。「年金、政治と金の問題、閣僚の問題発言に、国民は肌で「これはおかしい」と感じ、反応した。頂点に達した不信がはっきりした形で示された」。これをどう今後に生かすかが問題で簡単ではないが、「しかし、信じたい。人びとのアクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていくのだ、と」。
 これは読売新聞に載っていたのであり、朝日新聞ではない。この河野博子が何を分担担当している編集委員なのか知らないが、上の文章はヒドい。
 第一に、「有権者の投票」という「アクション」とその結果を100%肯定的に評価している。読売社内にいて、一部マスコミ(つまり朝日新聞等)の<異常な反安倍報道ぶり>に何も気づかなかったのだろうか。また、読売は社説で選挙結果に伴う衆参のねじれ等から生じる混乱等に<憂慮>も示していたのだが、そんな心配は、上の河野コラムには微塵もうかがうことができない。
 第二に、今回の結果をもたらしたような「アクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていく」と結んでいる。ここでも言うまでもなく、選挙結果の肯定的評価が前提とされている。
 さて、この河野という人物は、選挙の結果=「民意」はつねに<正しい>又は<合理的>なものだ、という素朴な考え方にとどまっいるのではないか。このような考え方が<正しい>又は<合理的>なものではないことは上に述べた。
 上で書くべきだったが、ヒトラーは合法的に・民主主義的に政権を獲得し、合法的に・民主主義的に実質的<独裁>政権を樹立した。民主主義は結果の正当性を保障しない。
 朝日新聞と同様に今回の選挙結果を、投票までの種々の要素をヌキにして結果としてはそのまま<正しい>ものと判断しているなら、読売から朝日に移籍したらどうか。
 第二に、「アクションの積み重ねが世の中を、一つ、一つ変えていく」などというのは、失礼ながら、少女の描く政治幻想とでもいうべきものではないか。
 問題は「アクション」の中身なのであり、いくらつまらない、あるいは有害な<アクション>が積み重なっても「世の中」は良くならないのだ。「世の中を、一つ、一つ変えていく」とは、文脈・論旨からすると<良い方向に変えていく>という意味だろう。
 こんなふうには、絶対に言えない。何かのアクションの積み重ねによって世の中が良い方向に変わるのなら、こんなに簡単なことはない。改良・改善の方向への動きを阻止・妨害する「アクション」も生じうることは、一般論としても明らかではないか。多言はもうしないが、この筆者は単純素朴な<進歩主義者>なのかもしれない。
 読売新聞の解説委員までもが(と言っておく)上に簡単に紹介したような文章を書いて活字にしてしまうところに、日本のマスメディアの大きな恐ろしさがある。
 読売新聞の解説委員はなんと、要するに、今回の投票のような国民のアクションの積み重ねで世の中は良くなる、と書いたのだ。朝日新聞等のおかげで論じられるべき争点は論じられず、結果として「安倍改革」・「安倍政治」の進行を滞らせることになったのが、今回の選挙結果なのではないか、読売新聞自体もこのことをある程度は理解し、憂慮し、警告を発しているのではないのか。河野博子コラムは読売全体の論調からも外れている。

0306/朝日等マスコミにより操作された投票行動-参院選結果をうけて。

 2007年7月の参議院選挙は、「安倍改革」と日本の国家的自立を妨害し、遅らせ、どの程度になるかは今は解らないが、日本の政治に大きな混乱をもたらした結果を生んだものとして、歴史に残るだろう。
 一年半前に自民党に衆院で300以上/480の議席を与えたのと(ほとんど)同じ有権者が今度は自民党を「大敗」させる。大衆民主主義とは、そして「衆愚政治」とは、かくも<気まぐれな>有権者を主人公にしているのだ。
 <無党派層>といえば少しは格好がよいが、要するに<浮動層>であり、<定見がない>層だ、と言ってもよい。もっとも、<定見>を持てないのは有権者にのみ責任があるのではなく、<政治の対立軸>を明瞭に示すことのできない政党・政治家の責任も大きい。
 自民党もある程度はそうだが、民主党とはそもそも基本的にいかなる理念をもつ政党なのか。この<寄せ集め>政党は統一的に何を目ざしているのかがさっぱり分からない政党だ。この党の勝利は自民党>安倍政権への<不満・怒り>の受け皿になったということだけが理由で、民主党の何かの基本的政策が積極的に国民多数の承認を受けた、などと今回の選挙結果を理解することは大間違いだろう。
 次の衆院選で民主党は政権交代を目指すのだという。開票時にテレビに出てこれない健康状態の小沢一郎がそのときまで代表を務めていることはおそらくないだろう。それどころか、この政党はそれまでに、分裂・瓦解するように思われる。たんに<反自民党>という性格だけでは、長く維持・継続できる政党だとは思われない。安保防衛・憲法問題で全体が一致できる基本的政策を立てられる筈がない。ということは、いずれ、内部に種々の亀裂が走り始める、ということだ。それなくして、万が一にでもたんに<反自民党>というだけの政権ができてしまえば1993年の細川護煕政権の二の舞で、再び<空白の~年>を経験しなければならなくなる。日本にそんな時間的余裕はない。
 さて、とりわけ<気まぐれな無党派層>による投票をプラスして民主党が勝利した原因は、<気まぐれな無党派層>を対象とした周到な<策略>にあった、と思われる。
 それは簡単には、朝日新聞+民主党・小沢一郎+社会保険庁労組(2007.04前後で名称は異なる)による策略だ。
 朝日新聞が、自民党というだけではなく安倍晋三率いる内閣だからこそ<私怨>をもって、安倍退陣に追い込むほどに自民党を大敗させてやろうと考えていたのは明瞭なことだ(この点はこれまで何度も書いた)。これに、安倍氏個人への<私怨>はないものの、仲間の毎日・日経や東京新聞、地方の県紙を支配する共同通信も結果として協力したものと思われる。
 小沢一郎は見事に<年金問題>を最大の争点化した。これに呼応して「消えた年金」という不正確なフレーズを用いて有権者大衆を惑わせたのは朝日新聞を筆頭とするマスコミだった。消えたのは年金そのものではなく、年金関係文書(記録)だった。
 また、民主党は社会保険庁労組から情報が入手できるという有利な立場にあった。民主党の長妻某議員が熱心に調査してうんぬん…という記事又は主張もあるようだが、社会保険庁労組内部の民主党を支持する活動家民主党員そのものである可能性も高い)から、政府・厚労省・社会保険庁上層部も知らないような具体的・詳細な情報が入手できたのだ。だからこそ、細かい数字に関する国会質問も可能で、政府側の方が遅れをとっている印象(事実そうだったかもしれない)を与えることができた。
 そのような情報を民主党に流した社会保険庁労組から見れば、屋山太郎が指摘していたように、選挙結果までの一連のできごとは(但し、安倍首相は退陣しないだろうが)、社保庁労組による<自爆>と表現してよい面がある。より正確には<安倍内閣道連れ自爆>であり、<安倍内閣との無理心中>の試みだ。
 所謂<年金問題>の発生前に、すでに安倍内閣は社会保険庁解体・職員非公務員化「日本年金機構」法案を国会に提出していた。昨年までにとっくに社会保険庁の金の使い方・仕事ぶりには<すこぶる>付きのヒドさがあることが明らかになっていたからだ。
 いったん解体され、新機構に再雇用される可能性が疑わしい労組活動家は焦ったに違いない。どうせ解体され、あるいは少なくとも公務員としての「甘い」仕事ぶりを続けられなくなることが必至と悟った彼らは、自分たちの仕事ぶりのヒドさをさらに暴露すると共に(あれほどとは殆どの人が気づいていなかった)、それと引き替えに国民の批判を行政権の長=安倍首相→自民党に集中させることを策略したのだ。
 この策略に朝日新聞が飛びついたのは言うまでもない。
 むろん、安倍内閣の側にもつつかれてよい問題はあった。閣僚の諸失言、事務所経費問題などだ。だが、こうした(本質的でない些細な)問題を大きく取り上げたのは朝日新聞等のマスコミだ。閣僚の講演会・演説会には、問題発言が出ないかと待ち受けている朝日新聞の記者又は朝日新聞に頼まれた者が<常在>していたのではなかろうか。
 税金が出所でもない事務所経費の問題は異常な取扱い方だった。政治家の活動の中には公にはしたくない形でかつて地方公務員について問題になったような食糧費・交際費支出にあたるものを伴うものもあると思われる。一円以上の領収書を全て公開することにして、いつどこの店にいた、場所にいた、ということが分かってしまえば政治家としての活動はしにくくなるのは目に見えているのではないか。この後援団体代表等(政策・情報提供者でもよい)にはこれだけの金銭を、別の後援団体代表等(政策・情報提供者でもよい)には異なるこれだけの金銭を使った、ということがすべて明らかになって、政治家・国会議員として円滑に仕事ができるのだろうか。地方自治体の行政公務員について以上に、そうした側面があることに留意すべきだろう。
 朝日新聞は、橋本五郎のいる読売新聞でもよいが、自社の記者の情報収集のための経費支出について、一円以上の領収書をすべて国民に開示することによって、すべて明らかにしてみせることができるだろうか。
 一方で、民主党に不利になるような情報は大きくは取り上げられなかったと思われる。某議員への朝鮮総連からの献金問題小沢一郎の政治資金による不動産保有問題小沢一郎の国会出席(記名投票参加の程度)の少なさ問題等々だ。この最後の問題は、かりに朝日新聞が反小沢の立場・政略を採っていれば、第一面に大きく載せて批判的に取り上げたのは間違いないのではないか。
 かくして年金・政治とカネ・格差等の民主党が争点としたいテーマがそのまま新聞に大きく取り上げられ、テレビニュースで語られるようになった。
 朝日新聞は選挙前の少なくとも二ケ月間、反安倍の<政治ビラ>を毎朝・毎夕、700万枚も蒔き続けた。毎日・東京等、共同通信支配の地方紙も合わせれば、その倍はあっただろう。毎日千数百万枚である。これにテレビ報道が加わる。
 産経新聞は他マスコミの報道ぶりの異様さを感じたのだろう。終盤で<何たる選挙戦>との連載記事を1面上に持ってきた。
 読売新聞はどうだったか。投票日7/29の1面左には橋本五郎・特別編集委員の「拝啓有権者の皆さんへ」を載せていちおうまともなことを言わせている。社説も朝日に比べればはるかに良い。だが、1面右を見て唖然とする。大きく「参院選きょう投開票」とあるのは当然だろうが、そのすぐ右に白ヌキで大きく「年金」「格差」「政治とカネ」と謳っているのだ。これをこの三つが(最大の)争点なのだと(読売は考えている)と理解しない読者がいるだろうか
 橋本五郎が何を書こうと、社説で何を主張しようと、文章をじっくりと読む読者と、1面は見出しを眺めた程度の読者とどちらが多かっただろうか。少なくとも過半は、「参院選きょう投開票」のすぐ右に白ヌキの「年金」「格差」「政治とカネ」の三つの言葉のみを見たかそれの方に影響を受けたのではないかと思われる。そして、読売新聞の読者でも民主党に投票した者は相当数に上るだろう。
 読売7/30社説で「国政の混迷は許されない」と主張している。読売の社説子や論説委員に尋ねてみたいものだが、読売新聞自体が「国政の混迷」を生み出すような、少なくともそれを阻止する意図のない、紙面づくりをしたのではないか。もう一度書くが、投票日の読売の1面最右端の見出し文字は白ヌキの「年金」「格差」「政治とカネ」の三つの言葉だったのだ。
 よくもまぁ翌日になって、「国政の混迷は許されない」などと説教を垂れることができるものだ、という気がする。
 読売は、いったい何を考えているのか。官僚界・一部知識人を通じて<反安倍>気分が少しは入っているのではなかろうか。何と言っても1000万部を誇る新聞紙だ、その影響力は大きいと思うが、結果としては、朝日新聞と似たような役割を(少なくともかなりの程度は)果たしてしまったのではないか。この新聞社が安倍内閣をどう位置づけ・評価し、日本国家・社会をどういう方向に持って行きたいと考えているのか、私には、少なくとも極めて分かりにくかった。まっとうな<保守>路線と<大衆迎合>路線とが奇妙に同居しているのではないか。
 昨夜の開票作業に伴う各放送局・マスメディアの報道・コメントぶりを一部ずつ観ながら、ある種の滑稽さを感じざるをえなかった。自分たちこそが醸成した雰囲気によって大まかなところでは予想していた結果を、たんに確認し、なぞっているだけではないか。まるで、シナリオ・脚本のある芝居のようだった
 事実はマスコミによって大きくも小さくも伝えられ、場合によっては全く報道されず、あるいは歪曲して伝えられる
 朝日新聞が報道している<事実>を<朝日新聞的事実>と称するならば、<朝日新聞的事実>の報道が全くなされなくなるか、又は<朝日新聞的事実>を無視し信用しない有権者が大多数を占めるようにならないと、似たようなことが繰り返される可能性がある。
 そもそも国政選挙とは<タレントの好感度(「イメージ」の良さの順位による)投票のようなもの>なのか。そのような投票行動に国民を煽り立てたのは誰なのか。
 とりあえず、選挙後第一回はこのくらいに。

0303/参院選投票1日前-伊藤哲夫発言に寄せて。

 日本政策研究センター(「歴史と国益の視点から日本再生を目指す、戦うシンクタンク)」のサイトの7/11上に、「安倍晋三か?小沢一郎か? これが参議院選挙の焦点だ①~③」が掲載されている。発言者は所長の伊藤哲夫(よくは知らない)のようだ。
 私の理解に近いと思われるので、私自身の頭の整理も兼ねて要約しておく。
 1.「今度の選挙が本当に「政権選択」の性格を帯び」ているなら、争点は<安倍か小沢か>になるはずだ。「農水相の事務所費問題や、防衛相の不適切発言」、「政治とカネ」の問題は「本質的な問題なのだろうか」。「年金問題は本質的問題だと言う人がいるかもしれない。だが、政権を選ぶということは「日本の将来を選ぶ」ということで、「小沢民主党に日本の将来を任せて大丈夫なのか。小沢民主党が安倍自民党のしていることよりも間違いなく日本を良くできる保証があるのか。そういうことをもっと議論しなくてはならない」。
 2.「
少なくない人々が「自民党にお灸をすえてやらなきゃいかん」と感情的になっているのかもしれない」が、「「将来の日本」ということを考えた場合に、感情にまかせて「今度は民主党だ」ということで本当にいいのか」。
 3.「安倍政権の評価については、評論家の宮崎哲弥氏が…朝日新聞にコメントを寄せている」。彼は「要するに、今は非常に不評判だけれども、後になって振り返ってみると安倍政権の評価の方が高くなるに違いない。実際それだけのことをしている」と言っている。
 4.「9カ月、客観的に安倍政権が何をやってきたのか」をみると、「改正教育基本法を成立させ、防衛庁を防衛省に昇格させ」、「海洋基本法国民投票法教育改革関連3法を成立させ」、「社会保険庁改革関連法年金時効停止特別措置法公務員制度改革関連法を成立させた」。
 「
これら一連の重要法案はいずれも歴代政権が先送りにしてきたものだ。まず教育基本法は、昔からずっと改正が言われてきたが六十年間棚上げされたままだった。国民投票法も、憲法制定以来六十年、必要な法整備を完全に怠ってきた。防衛省への昇格は、昭和30年代から言われてきたことだがこれも先送りにされてきた。海洋基本法にしても、他国は94年に国連海洋法条約が発効したのを契機に国内法を整備したにもかかわらず、日本は必要な法整備を怠って完全に後れをとっていた。このように、安倍政権は歴代政権が先送りしてきた課題に真正面から取り組み、必要な法整備を成し遂げた」。
 5.「年金問題は、直接的には安倍政権が引き起こした問題ではない」。「一番の問題はずさんな事務を生み出してきた社会保険庁の体質」だ〔このテーマについては別に<年金騒動の本質は改革潰しにある>との特集が組まれている-秋月〕。
 「民主党は、この年金問題で具体的提案をするよりも、とにかく抵抗して法案〔「社会保険庁解体」法案・公務員制度改革関連法案-秋月〕を葬り去ろうとした」。これは「「改革潰し」で、その裏には改革に反対する自治労という労働組合(民主党の有力な支持団体)の意を迎えようとして、そういう行動をとったとしか思えない部分がある」。
 7.外交面では、「拉致問題を最重要課題と位置付けて北朝鮮に圧力をかけ」、「就任直後中国を訪問」して「「主張する外交」を積極的に展開」した。
 「より重要なのは、…「自由・人権・民主主義・法の支配」という価値観を前面に押し立てた「価値観外交」を展開していることだ」。
 8.安倍首相は、「ハイリゲンダム・サミットの時も、一月の欧州歴訪の時も、欧州各国の首脳に対して」、中国に自由・民主主義・人権はあるのかと問うた。「そのような国が、本当にアジアの中心的な指導国家になれるのか、いったい何を指導するのか」というふうに問い掛けた。「首脳たちは…アジアで最も重んじなければならないのは日本であるということに気付いたのだ」。また、安倍首相は「EUの対中武器禁輸の緩和に釘を刺し」、「拉致問題の解決に、より一層の協力を訴え、支持を取り付けた」。
 9.「価値観外交の二番目の眼目」は、麻生外相がの言う「自由と繁栄の弧」だ。この「「自由と繁栄」のモデルは日本であって、中国ではないという意味も」込められている。また、「オーストラリアやインドとの関係強化にも積極的に乗り出している」(「日豪安保共同宣言」締結、初の「日米印の海軍共同演習」)。
 10.三番目に、「価値観外交は」、「13億の中国人民全体を視野に入れた関係でなければならない」という認識にもとづく「中国共産党一党独裁政治の下で悲惨な状況に置かれている中国人民に対するメッセージであり、中国共産党政権に対する無言の圧力」なのだ。
 「謝罪していればそれで事が済むとしてきた日本外交にとって、これは革命的転換」だ。
 11.「安倍政権の内政の特徴は、二つある」。「
一つは「古い自民党をぶっ壊す」と言った「小泉構造改革路線」の継承・発展」だ。
 「もう一つは、これはより重要なことだが、…価値観を基礎に置いた政治、価値観を基軸とした国造りをやろうとしているということだ。…
そのことが一番はっきりと現れているのが、憲法改正を堂々と打ち出したことだ」。「何よりも重要なのは、教育改革を重要政策と位置付けていることだ」。さらに安倍首相は、「「国益を重視する」…「官僚制民主主義」から本来の「議会制民主主義」へ。さらに官邸がリーダーシップを発揮する民主主義に変えようとしている」。「安倍改革は価値観のない改革ではなく、国益を柱に据えた改革を指向している」。
 12.マスコミはある時期まで安倍政権を「タカ派政権」「危険な安倍政権」というイメージで伝えていたが、「昨秋の訪中以降は」、「経験不足の無力な政権」「指導力のない安倍首相」という「イメージで伝えるようにシフトしてきた」。「マスコミは、そういう形でアピールした方が政権の弱体化に効果的だとして、戦略的にそういうイメージを伝えていると思う。これまではそれが一応の成功を収めている」。
 しかし、「安倍首相は指導力を発揮している」。「普通の政権ならば、教育基本法を通したところでもうヤレヤレ」だが、「教育改革関連3法」を「間髪入れず」に提出・成立させた。また、「公務員制度改革にあたって安倍首相は、事務次官会議を飛び越して〔=この会議での全員合意なくして-秋月〕この案件を閣議決定してしまった」。「屋山太郎氏は「ここを打破したことは歴史的な重大事。官僚たちは真っ青になっている」と評価している」。
 安倍首相は「官僚内閣制」を破り、「有権者に選ばれた政治家主導の政治、真の民主主義政治の実現に向かって、首相はリーダーシップを発揮している」。「指導力がない」というイメージは、「所詮マスコミが作り上げた虚像」だ。
 13.「拉致問題」につき「手詰まり感」とか「目に見える成果がない」とかの評価もあるが、「じゃあ、どうすればいいのか」、「またコメを送ればいいのか」。
 「昨年7月、北朝鮮のミサイル発射を受けて、日本政府は当時の安倍官房長官の主導で、万景峰号の入港禁止という独自の経済制裁を発動した。また安倍政権発足直後の昨年10月には、北朝鮮の核爆発実験を受けて経済制裁を強化し、万景峰号だけでなく北朝鮮籍船舶の入港禁止措置をとった。これらの措置により、ミサイル部品などの持ち出しの大半は阻止できるようになった。また、…昨年11月からは、ぜいたく品24品目の禁輸措置をとっている。それと同時に、安倍首相が官房長官の時代から始めた厳格な法執行により、朝鮮総連の脱税行為をはじめとした不正行為を厳しく取り締まっている」。
 14.「ここで安倍改革をストップさせ、小沢民主党に交代して何かいいことがあるのか」。「小沢民主党は改革の方向性すら決められない。憲法改正にしても、教育改革にしても、本気で議論したら民主党そのものが壊れてしまう」。
 「参議院副議長を務めていた民主党議員は朝鮮総連傘下団体からヤミ献金を受けていた。また、民主党の参議院議員会長は日教組に強制カンパをさせて当選している。さらに、ナンバー2の代表代行は「南京大虐殺」を積極的に認めているし、女性議員たちは「従軍慰安婦」への国家賠償を先頭に立って要求し、朝鮮総連を議員会館に招き入れ抗議集会を開かせていたこともある。こういう政党に、果たして日本の国益を担うことができるのか」。
 15.「保守層の中には、慰安婦問題、歴史認識問題、拉致問題等々について、安倍首相の対応が気に入らないと批判する人がいる」。「けれども、そういう人たち聞いてみたいことがある。「じゃあ、あなたは小沢さんでいいんですか。小沢さんが政権を握った方が日本がよくなる。慰安婦問題でも前進する、拉致問題も解決する、歴史認識も小沢さんの歴史認識の方がいい。そういう保証があるんだったら示していただきたい」と」。
 16.「日本は…一夜にして変わることはない。現に自民党の中は抵抗勢力の方が未だに多い。それが表面化していないのは、参議院選挙が終わるまでは抵抗を止めておこうというだけ…。また、官僚の世界は自民党内よりももっとひどい。…社保庁は自治労に牛耳られてきた。それに象徴されるように、霞ヶ関や地方自治体といった日本の行政実働部隊を握っているのは、いまだ共産主義・社会主義勢力だ。その現実に目を開いて、…「日本のための構造改革」を進めなければならない」。
 以上。少しは解らないところもあるが、あらためて安倍内閣は<ただものではない>内閣であることが解る。これらをきちんと報道していないマスコミは、何らかの政治的意図・謀略をもっているか、安倍内閣の政治的意義・価値を理解できない<無知蒙昧>かのいずれかだろう。
 ただ、私は100%安倍内閣の政策を理解できているわけではない。とくに、米国下院での慰安婦決議問題についての政府の対応はあれでよかったのかとの疑問を今も持っている。
 だが、小沢・民主党よりも遙かに優れていることは明々白々だ。これだけは100%明瞭だ。
 民主主義(民主制)とは大衆政治であり「衆愚」政治だと言うが、思い出すと、記者クラブでの立派な会場での7党党首討論会における、記者たちの質問はひどかった。
 読売新聞橋本五郎は最初の質問で何と赤城農相の事務所経費問題を話題にしたのだ。その他、「ニュース性」に重点を置いた質問を3-4人がしていたが、誰一人、日本国家を基本的にどのようにしたいのか、どういう基本的方向に導きたいのか、という質問をしなかった。「大きな政府」か「小さな政府」かも問題にしなかった。憲法問題を重要視した質問もなかった。
 小沢民主党代表に対して、かつて所属した政党かつかつて連立した政党と対決する気持ちはどのようなものかと尋ねた記者はいなかった。
 すでにマスコミ、この場合は新聞社の記者クラブの記者自体が、<衆愚>の一部になり下がっているのだ。
 こうしたマスコミを見ると日本の未来は決して明るくない。だが、絶望する必要もない。心ある国民、「日本」を守り抜こうとする国民が多数いることを信じる

0275/読売7/10夕刊の猪木武徳コラム-日本社会の病の一因は「言論」。

 読売新聞7/10夕刊猪木武徳のコラムには面白い文章がある。タイトルは、「年金問題などに見る社会不安」「言葉の軽さ「病」の一因」だ。
 猪木は言う-かつて外国のエリートに平均すると負けると言われた日本のエリートの「欠落を、高い資質をもつ堅実な一般国民が補」うという「相補関係」があったが、年金問題・朝鮮総連疑惑にどを見ると、そうした関係が「危なくなってきた」。手軽な解決策はない。
 そしてこう結ぶ-「現実を直視せず、美しげな言葉で事の本質をはぐらかしてきた日本の言論にこそ、この社会の病の一因があると思うのである」。
 「日本の言論」とは朝日新聞をはじめとする新聞・テレビ等のマスメディア、月刊雑誌上の<論壇>などだろう。これらを上の一文は批判していることになる。
 参院選挙を前にしてあらためて感じるのだが、日本のマスメディアや<論壇>は正常に機能にしているのだろうか。
 「日本の言論」などとは全く無関係に日々の生業にいそしみ、暮らしている人びとこそが現実的でかつ健常な・良識的判断を下せる、とすら思う。
 但し、テレビニュースの話題や新聞の見出しを一切見ないという人は殆どいないだろう。とすると、やはり、各マスメディアの<政治的意図>は印象又は雰囲気として人びとの<感覚>に残らざるをえない。
 大衆民主主義制度下において、「現実を直視せず、美しげな言葉で事の本質をはぐらかして」いるかもしれない<マスコミ>の怖さを、あらためて感じる。

0265/2/27君が代伴奏命令拒否懲戒処分取消訴訟最高裁判決。

 やや旧聞だが今年2/27、君が代伴奏命令拒否懲戒処分取消訴訟で東京都側の勝訴が確定した。最高裁判決を支持したい。この判決に関しても、関心を惹くことはある。
 1.原告音楽教諭は「君が代は、過去の日本のアジア侵略と密接に結びついて」いると考えているらしい。簡単に「過去の日本のアジア侵略」と理解してよいのか、いつから「侵略」になったのか既に満州事変からかさらに日清・日露戦争もそうだったのか、原告はきちんと理解しているのだろうか。始まりの時点に誤りがあれば、またそもそも全体として「アジア侵略」と称し得ないものであれば、原告が前提とする理解・歴史認識自体が誤りであることになる。
 2.かりに1.の前提が正しいと仮定して、そのことと君が代とがどういう関係があるのか。君が代が「アジア侵略」と「密接に結びついている」という感覚は、前者が後者の象徴として用いられたということなのだろうが、理解し難い。読売の要旨によると藤田宙靖裁判官は「君が代に対する評価に関し、国民の中に大きな分かれが存在する」と書いたらしいが、かかる認識は妥当だろうか。かりにそうだとしても、国民代表議会制定の法律によって国歌を君が代と明定していることとの関係はどうなるのか。擬制でも、国民の多数は君が代を国歌と見なしていると理解すべきではないのか。過去の歴史を持ち出せばとても現在の国歌たりえないものは外国にもいくらでもありそうだ。
 ともあれ、原告は戦後の悪しき歴史教育の、あるいは「一部の教師集団が政治運動として反「国旗・国歌」思想を教員現場に持ち込んできたこと」(読売社説)の犠牲者・被害者だともいえる。その意味では実名は出ていないが気の毒な気もする(尤も、仲間に反「国旗・国歌」思想を吹き込む積極的な活動家だったかもしれないが)。
 3.判決は学習指導要領を根拠にしており、従って私立学校についても今回の判決はあてはまりそうだが、公務員であることを理由とする部分は私立学校教員にはそうではない。懲戒処分取消訴訟という行政訴訟の形もとらないはずで、私立の場合はどうなるのかは気になる。但し、学校長の命令が特定の歴史観・世界観を否定したり強要するものではないとする部分は私立学校の場合でも同じはずで、命令拒否を理由とする何らかの懲戒は私学でも許されることになるように思われる。尤も、これも採用又は雇用時点での契約にどう書かれるのかによるのかもしれない。
 60年以上前のことで多大のエネルギーを司法界も使っている。南京事件も「慰安婦」問題も一体何年前の出来事なのか。今だに引き摺っているとは情けないし、痛憤の思いもする。

0233/読売新聞・加藤譲の「単純・素朴」な反権力者感覚。

 読売新聞6/19夕刊の大阪本社編集委員・加藤譲の夕景時評というコラムの題は「二宮金次郎の復活」で、京都府下の二小学校に二宮金次郎(尊徳)像が再建された、京都市立小で石像等が残るのは約3割、新設は「極めて珍しい」とし、小田原市の尊徳記念館の「思想や生き方が改めて見直されている」との言葉も紹介している。
 その続きの最後までの文はこうだ。
 「徳育の教科化が言われる。が、拝金、格差、年金漏れ、税金の私物化や無駄遣い…。「美しくない国」に言われる筋合いはない。政治家や官僚らこそ金次郎の実像から学んだらどうか。
 二宮尊徳にひっかけて
「政治家や官僚」に「徳」をもてと説く(又は風刺する)真っ当なコラムのようでもある。しかし、私には気にかかることが残った。
 第一に、「
政治家や官僚らこそ…」という言い方はあまりに単純すぎはしないか
。上のように皮肉を言われる(風刺される)ような政治家・官僚ばかりではなく、まっとうな政治家や官僚たちもいる筈だ。
 こう批判すると、<いや「
拝金、格差、年金漏れ、税金の私物化や無駄遣い」という部分で、そうしたものに関係している「政治家や官僚ら
」に限っている>と反論又は釈明されるのかもしれない。
 だが、そのような限定は上の文では極めて分かりにくい。逆に「政治家や官僚ら
」の全て又は殆どが「拝金、格差、年金漏れ、税金の私物化や無駄遣い」に関係しているかの如きニュアンスもある。
 ここで私が指摘しておきたいのは、じつは上の「政治家や官僚ら
」は一般化しすぎだ、といった細かな話ではない。
 戦後ずっと、このようにして、「政治家や官僚ら
」という<権力者>たちはマスコミ(・マスメディアから)ごく簡単に批判され、風刺され、場合によっては馬鹿にされ、罵倒されてきたが、それでよかったのか、という問題提起だ。
 上の文は明らかに「政治家や官僚ら
」をターゲットにした批判だ。こんな何気ないコラムを含む新聞・週刊誌等の記事によって、「政治家や官僚ら」は過剰に批判された、過剰に貶された、その結果として、必要以上に政治家・官僚不信が増大した。戦後のマスコミは、まともな政治家・官僚を正当に評価せず、ほとんど彼ら「権力者」の批判、風刺、揶揄ばかりをしてきた。そうしたマスコミの風潮こそが、過剰な政治家・官僚不信を生み、誰がやっても同じとの「政治不信」あるいは国政選挙における2/3に満たない投票率等の原因となった--と私は考えている。
 第二に、上に述べたことと関連はするが、「政治家や官僚ら
」という<権力者>を批判・風刺・揶揄しておけば読者の共感を得られ、又は少なくとも反発を食らうことはないだろうとの、マスコミ関係者にみられる読者・視聴者「大衆」への<迎合>・<おもねり>の感覚・姿勢が「透けて」見える。
 読売新聞は好みの新聞の一つだが、この読売新聞とて、第一に指摘した点とこの点では他の新聞と変わりはなさそうだ。あるいは、慎重に考えることなく、文章を推敲することなく筆を措いた加藤譲の意識の奥底に、読者「大衆」に「政治家や官僚ら
」を批判する言辞を示しておけば<大丈夫>だという、単純素朴な(私には誤っていると思える)<ジャーナリスト>感覚があるに違いない、と思われる。
 第三に、読売新聞社は、又は同大阪本社は、さらには加藤譲という人は、「政治家や官僚らこそ金次郎の実像から学んだらどうか」と自信を持って言える資格が本当にあるのか。朝日新聞社等と比べて、経営、記者の資質等に問題は少なそうでもあり、具体的な何かを私は指摘することができないが、上のように他者(政治家・官僚)を簡単に批判できるほどに、読売新聞、同大阪本社の人びとは全員が<道徳的>に立派で、加藤譲もむろん二宮尊徳の如き<徳>をもつ人物なのか。
 天に唾吐くことにならないように願っている。
 なお、上掲の文の中には安倍首相の「美しい国」への皮肉らしきものがある。読売新聞が安倍首相を支持し、彼の著「美しい国へ」を積極的に評価する義務はないので、この点はとくに問題視しない。
 以上、<こんなことに目くじらを立てなくても>と感じられそうな文章になったが、<目くじらを立てて>いるわけではない。日本のマスコミ人・新聞関係者の傲慢さ・無責任さについての日常的で潜在的な感覚が、ふと呼び覚まされたのだ。

0212/原武史・滝山コミューン一九七四(2007)の佐藤卓己による書評。

 6/10の読売の書評欄が採り上げているので、数日前の産経の書評欄を読んで関心をもったのだろう、原武史・滝山コミューン一九七四(講談社、2007)を既に購入している。だが、殆ど未読だ。
 読売新聞の書評は佐藤卓己(京都大学)という1960年代生れの人が書いている(原武史氏も1962年生れ)。
 それによると、1.学校(小学校・中学校だろう)生活での「班のある学級」は「ソ連の集団主義教育理論に基づき、日教組傘下の全生研(全国生活指導研究協議会)の運動から広ま」ったらしい。
 世代は違うが、私の小学生時代のたぶん3-6年のときにはクラスがいくつかの「班」に分けられ、「班長」とかもいた。中学校時代はもう「班」はなかったと(明瞭な記憶ではないが)思う。
 小学校時代の「班」単位の学級作りがソ連・日教組の影響だとは知らなかった。日教組・「左翼」が強い学校・地域では全くなかったと思うが、それでも日教組(ひいてはソ連)の影響があったのだろうか。「班」への分割を基礎にすることは必ずしも「左翼」的理論に基づくものとは限らないと思うので(大きな単位を小さく分割することは会社でも町内会でも行われている)、自分の体験の根源の「理論」がどこにあったのかはなおも釈然としない思いもある。
 2.次の文は目を惹く(対象の本ではなく書評者の文章)。「共産主義の理想が世間一般で通用したのは、一九七二年連合赤軍事件までだろう。だが、全共闘世代が大量採用された教育現場では、少し遅れて「政治の季節」が到来していた」。
 一九七二年を重要な区切りの年として注目するのは、坪内祐三・一九七二(文藝春秋、2003)にも見られる。この年(35年前だ)の7月には佐藤栄作長期政権が終わって田中角栄新内閣が発足した、という点でも大きな区切りだろう。
 だが、第一に、上のようにこの年までは「共産主義の理想が世間一般で通用した」とまで書くのは、事実認識(歴史認識)としては誤りだろう。日本社会党が健在で現在よりも「左翼」的雰囲気に溢れていたのは間違いないが、「世間一般」で「共産主義の理想
」が通用していたわけでは全くない。日本社会党(+日本共産党)支持の雰囲気の多くは<反自民党>・<反政権党>の雰囲気で、一部を除いては、「共産主義の理想」などを信じてはいなかった、と思われる(もっとも現在に比べれば、そういう「信者」が多かったことは確かだろう)。
 第二に、「連合赤軍事件」(たぶん浅間山荘事件のこと)以前の学生運動を担った世代を簡単に「全共闘世代」と称することが(この書評者に限らず)多いが、1970年前後の学生運動の少なくとも半分を支配していたのは「全共闘」派=反日共系(反代々木系)ではなく、日本共産党・民青同盟であったことを忘れてはいけない。既に記したし、今後も書くだろうが、「全共闘」派に対抗したからこそ、日本共産党・民青同盟は従前よりも、また1970年代後半以降よりも、多数の学生・青年の「支持」(>入党)を獲得できた、という因果関係があると思われるのだ。
 だが、第三に、「教育現場」では「少し遅れて「政治の季節」が到来していた」というのは、なるほどそうかも知れないと思う。
 かりに1946~1950年の5年間に生まれた者を<団塊(世代)>と称するとすると、この世代が小学4年(10歳)~高校3年(18歳)だったのは、1956~1968年で、1970年代半ば以降の「政治の季節」の中にあった教育を受けてはいない。
 とりとめもなく書いているのだが、<団塊世代>が高校までの教育を受けていた時代には、<南京大虐殺>も<従軍慰安婦>もなかった。朝日新聞の本多勝一がのちに「中国の旅」という本(1972)のもとになる中国旅行と新聞連載をしたのは1971年だった。
 中学や高校でどういう日本史を勉強したかの記憶は薄れてしまっているが、1970年代後半あるいは1980年代以降の社会科系科目の教育内容よりも、<団塊世代>が受けたそれの方がまだ<自虐的>ではなかった、つまり相対的にはまだ<真っ当>なものではなかっただろうか。滝山コミューンとの本は未読だが、簡単に紹介されているような、1960年代生まれの人が体験した「教育現場」は私の感覚では相当に<異様>だ(但し、地域差があると見られることも考慮は必要だろう)。
 3 書評者は言う。「戦後教育の欠陥は「行き過ぎた自由」などではない。集団主義による「個人の尊厳」の抑圧こそが問題だった」。
 この部分は議論が分かれるところで、簡単にはコメントしにくい。私は「戦後教育の欠陥」は「行き過ぎた自由
」というよりも「行き過ぎた個人主義」ではなかったか、と思っている。ということは、「個人の尊厳」が尊重され過ぎた、ということでもあり、書評者の理解とは正反対になる。
 
<集団主義による「個人の尊厳」の抑圧>だったとはとても思えない。とりあえず疑問だけ提出しておこう。
 書物本体ではなくそれの短い書評文にすぎないのに、何故か執筆意欲をそそるものがあった。

0190/朝日新聞は日本の「障害」だ、「はき違えてもらっては困る」。

 朝日新聞については、稲垣武・朝日新聞血風録(文藝春秋、1991)、井沢元彦・虚報の構造・オオカミ少年の系譜-朝日ジャーナリズムに異議あり-(小学館文庫、2003。初出1993-95)、小林よしのり=井沢元彦・朝日新聞の正義(小学館文庫、1999)、古森義久=井沢元彦=稲垣武・朝日新聞の大研究(扶桑社、2002)等の批判的分析を読んだ。
 月刊WiLL、諸君!等には毎号、朝日新聞の報道ぶりを批判するコラム等が掲載されている。
 また、稲垣武・「悪魔祓い」の戦後史(文藝春秋、1994。文春文庫版1997)、同・「悪魔祓い」の現在史(文藝春秋、1997)等々が批判の矛先の重要な一部としている。これら稲垣の二著の副題はそれぞれ、「進歩的文化人の言論と責任」、「マスメディアの歪みと呪縛」だ。
 横田滋が「親の代から」とっていた朝日新聞を「8月末で解約」したと抗議文で書く原因となった有名な1999年8/31社説「「テポドン」1年の教訓」の一部はこうだった(読売論説委編・社説対決北朝鮮問題(中公新書ラクレ、2002)p.154~に全文あり)。
 「日朝の国交正常化交渉には、日本人拉致問題をはじめ、障害がいくつもある。/しかし、植民地支配の清算をすませる意味でも、朝鮮半島の平和が日本の利益に直結するという意味でも、正常化交渉を急ぎ、緊張緩和に寄与することは、日本の国際的責務といってもいい」。
 
当時家族会事務局長だった蓮池透によれば、読んで「頭にきて」すぐに朝日新聞社に電話をしたら、論説委員は出せない、返答が欲しければ返信用封筒に切手を貼って同封せよと対応された、「障害」とは「邪魔」の意味かの質問に、拉致に関する北朝鮮の態度が正常化交渉再開の「障害」になっている旨が本意であり誤解されれば残念だ、と文書回答してきたが、2002年12/27の北朝鮮報道検証の特集企画の中では、「障害」とは「乗り越えなければならない、つまり解決されなければならない課題という意味」をこめて用いた、と「障害」の意味を一転させた、という(諸君 !2003年01月号p.38-39)。
 石原慎太郎東京都知事が「不法入国した多くの三国人、外国人」との表現を使ったとき、朝日新聞2000年4/13社説は「不法入国した…」との限定があったことを無視し、かつ「三国人」という語の歴史に無知なままで、差別語の「三国人」を使うのは「恐ろしいほどの無神経さ」だと罵倒し、「都知事というポストは、気ままな政治信条の表現の場ではない。…はき違えてもらっては困る」とまで書いた(読売論説委編・社説対決50年(2001)p.276-)。
 何度も書いてきたようなことだが、朝日新聞はいったい何様なのか。「恐ろしいほどの無神経さ」に驚く。そして、「はき違えてもらっては困る」と言いたい。

0183/中西輝政・諸君!2007年6月号の共産主義の「謀略」論。

 月刊諸君!6月号(文藝春秋)の中西輝政「日本の最高機密を狙う「軍事大国・中国」の黒い影」は情報・インテリジェンスに関する連載ものの一つだ(5月号の内容も既に紹介した)。
 中西が「共産主義の置き土産」としての「歴史的通底」を感じる、というのは、次のような諸事件を指す。
 ・上海日本領事館員がハニートラップにかかっての自殺、・海上自衛隊「イージス艦」の最高機密漏洩の乗員の中国人妻問題による発覚、・「デンソー」の中国社員による高度秘密技術の持ち出し、・「ヤマハ発動機」の中国軍関係企業への違法輸出、・北朝鮮工作員の日本人妻の殺害と二人の子供の北朝鮮への拉致(渡辺秀子さん事件)、・東京都内の貿易会社が30年以上北朝鮮の対日工作拠点だったことの発覚、・反プーチン活動中の元スパイのロンドンでの暗殺(リトビネンコ事件)。(p.214-5)
 これらにつき、日本政府(・自民党等)は、外務省は、そして日本の民主党等の野党は、いったいどのような発言又は質疑を、国会においてしてきたのか。松岡前農水相の「なんとか還元水」問題と中国への軍事又は技術情報の漏洩や北朝鮮の工作(・拉致)による被害の問題と、いったいどちらが日本にとって重大な関心事なのか
 外交・防衛では「票」にならないと思っているのか、野党も<大衆受け>しそうな話題のみを取り上げ、国益・公益を忘れて政争の材料にしている、というのは言い過ぎだろうか。中川八洋の言を俟つまでもなく、日本の国会はとっくに衆愚政治の場と化し、ワイドショー的関心を惹くテーマを多くとり挙げているのではないか。
 中西の論稿に戻って、氏によれば、共産主義(国)による情報活動には次の三範疇がある。1.単純なスバイ(情報の窃取)、2.諜報・秘密工作目的の「提携」・「交流」等の名目での(表向き合法の)経済活動、3.世論操作・政策歪曲・社会運動(「市民」運動)を「裏から秘密裏に推進」する活動(p.216-7)。
 一方また共産主義者(国)において、「民主主義国において、…表向き共産党との関係を否定して様々な活動に従事することの大切さは早くから認識されていた」。そして、正式に「党員」になるのではなく(又は「党員」を籠絡するのではなく)、「秘密の要員を、政府や社会の要所に送り込んでゆく手法」は広く採用された。
 また、フランスの情報史家によると、資本主義国の共産党の内部には、通例「三つの異なる組織」がある、という。1.公然と「共産党」を名乗る組織、2.財政・経済面で「党」を支える目に見えない秘密組織、3.50年代まで活発だった「非合法機関」。同史家は、1980年代でも上の3.に属する「秘密党員」の大きな勢力がフランス国軍の内部に依然として存在していた。
 中西も言うように、日本共産党の場合はどうだったのか、という問題がある。日本共産党は戦前の早い時期に公然活動ができないほどに殲滅された筈だが、それは上の1.のことで、実質的に共産主義に寄与する2.や3.の実態については、すなわち日本共産党の「地下組織」や「秘密党員」の問題については、殆ど解明されていないままだという。
 私が勝手に推測するに、有能な国家官僚や大学教員の中に「もぐら」(秘密党員)が逮捕もされずに存在していて、戦後になって、意識・考えが変わったなどとして「進歩的」・「革新的」活動を公然とし始めたかつての「秘密(日本共産党)党員」もある程度いたのではなかろうか。
 以下の紹介は省略するが、日本と日本人は「情報戦争」というものについての感覚を殆ど持っていないようであることを痛感する。防諜法(スパイ防止法)すら存在しないことは、中西によれば日本が<最も安全ではない国>の証左だという。
 中西は最後にこう書く。「戦前日本の、あの厳しい防諜法制の完備していた時代でさえ、内閣や軍部中枢や外務省、「朝日新聞」などの代表的メディア、果ては宮中の内部にさえ、ソ連・コミンテルン・中共の諜報網が手を伸ばしていた…。それほど、共産主義の秘密工作というものはすさまじいものがあった」。今の日本に必要なのは「国家中枢やメディア界の実態に対する国民的関心であり、…諸外国並みの監視システムとのう・ハウ」で、「堅実な知識」にもとづく「インテリジェンス・リテラシー」の向上だ。(p.224)
 民主党の角田義一議員に対して朝鮮総連系団体から違法な献金がなされていたことが先々月あたりに明らかになったが(政治資金規正法違反だ。朝日新聞等は松岡勝利前農水相の事務所経費へと少なくとも同等以上の関心を向けたのか、極めて疑わしい)、その某議員は献金の事実を認めただけで、それ以上の釈明も情報提供(説明)もしなかった。実質的に北朝鮮から何らかの便宜・利益供与を受けて<知らず知らず>にでも親北朝鮮意識をもつに至っている者は民主党に限らず存在するだろうと思われる。
 (なお、読売5/29社説は松岡農水相自殺を受けてこう書く。-「今国会は、事務所費ばかりが問題になっているが、民主党の角田義一前参院副議長が北朝鮮と密接な関係のある団体から献金を受けていた事実は、はるかに重大だ。こうした問題の究明が、きちんとなされていないのは解せない」。)
 政界だけに限らず、北朝鮮や中国の<働きかけ>はメディア界にも及んでいると見るのが妥当だろう。
 5/6のブログで安倍晋三首相の2005年時点の発言を紹介しているが、その中に、「国際女性戦犯法廷」で検事役を務めたのは「黄虎男」という北朝鮮の工作員だと2005年01/13のテレビ朝日・報道ステーションで指摘すると、コメンテイターの朝日新聞編集委員・加藤千洋は不審そうに、彼は金正日の「首席通訳」なのに「工作員なんですか?」と質問し、かつ自分は彼と「面識がありますとも言った、という部分がある。
 朝日新聞の加藤千洋は北朝鮮工作員某と「ふつうの人物」として「面識」を持っていたのだ。このことは、北朝鮮工作員たちが多額の金品でもって朝日新聞の編集委員等を「誘惑」して北朝鮮寄りの記事を書かせることを直接には意図しておらず、ごくふつうの常識的な人物として「知り合い」になることから<接触>を始めることを示しているだろう。
 むろん現実に日本国内で種々の<工作>をしているのは北朝鮮だけではなく、当然に中国もだ。
 明確な根拠資料は私には勿論ないし、政府やメディアにおいても恐らくそうだろうが、朝日新聞等の<中国寄りの>・<中国に都合の悪いことは書かない>・<中国政府・中国共産党の意向に合わせた>報道姿勢は、完全に自主的にそういう選択をしているのだろうか。間接・間々接あるいは「やわらかい」接触も含む、<働きかけ>とも言えないような(表向きは「ふつう」で「社会通念の範囲内」の)<付き合い>が(中国共産党員と公言していない者も含む)中国人と朝日新聞等との間にはあるのではなかろうか。
 以上はむろん推測にすぎないが、朝日新聞の<媚中・反日>報道姿勢は、そのような推測もしたくなるほどのものだ。
 「人の心をめぐる争奪戦(心理戦)こそ、諜報活動の最も高次元のもの」だ(p.215)。種々のブログを見ていて、かかる「諜報活動」(<情報戦争)の一環として組織的に運営されているのではないかとも思えるサイトもある。そして、奇妙に、又は気味が悪く、思うことがある。

0180/朝日新聞社に3.56億円の追徴課税(更正処分)。

 読売5/30夕刊によると、朝日新聞社は2006年3月期までの三年間で計約8億3000万円の申告所得洩れを東京国税から指摘され、重加算税も含めて法人税等計約3億5600万円の更正処分(追徴課税)を受けた、という。
 「申告漏れ」とは「所得隠し」で、重加算税賦課処分まで受けているのだから、納税者として明らかに「違法」な行為を行ったことになる(「見解の相違」と言いつつ、朝日は法的に争うつもりはないようだ)。
 3.5億円以上の結果的には<脱税>を意図していたと認定された、そういう会社であるのに、<どの面下げて、故松岡勝利前農水相の事務所経費の使途の不透明さを追及していたのか。
 故松岡氏の光熱水費の使途にその金額から見て不分明さ・不自然があったのはおそらく確かだろう。
 だが、現行政治資金規正法が光熱水費については領収書の添付を義務づけていない以上、「違法」な記載ではなかったし、現に警察等によって取り調べられたりはしていない。かつ、その金額は数年間合計しても1億円を大きく下回る筈だ。
 松岡氏の<自殺>問題についてはいずれ何か書くが、3.5億円以上の法律上の納税義務を履行しないでおいて、<政治(家)とカネ>を論じる資格が朝日新聞にあるのか。
 かりにまともな新聞社ならば(そうは思っていないが)、まずは、<新聞社とカネ>、例えば、地方総局設置の自動販売機の販売手数料収入は「所得」でないのか、グループ企業出向社員の給与の本社負担分の一部のグループ企業からの戻し入れの減免は朝日本社の所得とどう関連するのか、講読者からの中途解約された場合の手数料は販売店から払い戻しを受けるべきではないのか、といった諸点をきちんと検討し、解決してからにしていただきたい。

0178/芦部信喜・憲法学Ⅰ憲法総論(有斐閣)も常岡せつ子を支持しない。

 現憲法九条二項は憲法改正の限界を超えるとするのが「通説」だという<大ウソ>を朝日新聞に投書した自称・憲法学者らしき人(常岡せつ子)がいたことは既に触れた。
 <大ウソ>であることの根拠はすでに十分に示し得ていると思うが、さらに追記しておこう。
 すでに名を出した故芦部信喜に、同・憲法学Ⅰ憲法総論(有斐閣、1992)という、先日言及したものよりも詳しい別の本がある。
 この本は、憲法改正の限界につき無限界説と限界説、限界説の場合のその具体的内容を殆どは客観的に坦々と叙述しているが、平和主義・九条二項については次のように自身の見解を明瞭に述べている。
 「国内の民主主義(人権と国民主権)と国際平和の原理は、不可分に結び合って近代公法の進化を支配してきたと解されるので、平和主義の原理もまた改正権の範囲外にあると考えなければならない。ただし、平和主義と軍隊の存在とは必ずしも矛盾するわけではないので、憲法九条二項の戦力放棄の条項は理論的には改正可能とみるべきである」(p.78。「人権と国民主権」を「国内の民主主義」という語で統合するのは解り難く、民主主義原理から「人権」が出てくるのではないと阪本昌成なら批判しそうだが、立ち入らない)。
 この本は現在も発売され、(私が確認したかぎりでは)少なくとも2005年までは増刷されている。
 上記の自称・憲法学者らしき人は、上の文を全く見ていないか、前半だけを見たのだろう。
 芦部信喜は「平和主義と軍隊の存在とは必ずしも矛盾するわけではない」と正しく明瞭に述べ、「憲法九条二項の戦力放棄の条項は理論的には改正可能とみるべきである」と自己の意見としてこれまた明瞭に述べていたのだ。
 憲法学界のことをむろん詳細には知らないが、この元東京大学教授の主張とは反対の意見が「通説」だとは、通常は考えられないのではないか。現に、芦部信喜氏が指導した世代の一人の辻村みよ子氏、その中間の佐藤幸治氏、という有力と見られる人の教科書が、上記の自称・憲法学者らしき人の言う「通説」とは異なることを叙述していることはすでに紹介したとおりだ。
 上記の自称・憲法学者らしき人は朝日新聞に訂正する投書をすべきではないか。または朝日新聞の「声」欄担当者は異なる意見の投書を掲載して実質的に修正しておくべきだはないか。そうしておかないと、これまた過日紹介した天木直人氏のブログのように、著名な(?)知識人(?)までが、「そうだ、これが通説なのだ」などと言って、誤った知識にもとづいてハシャぐことになる。
 ところで、読売新聞社は、1994年、2000年、2004年と憲法改正試案を発表してきている。読売新聞社編・憲法改正読売試案2004(中央公論新社、2004)の安全保障の部分を見てみたが、現憲法九条二項を全面改正(削除)して、1994年試案では「自衛のための組織を持つことができる」、2000年試案では「自衛のための組織」を「自衛のための軍隊」と改め、2004年試案もこれを維持している。
 かりに憲法九条二項が憲法改正の対象のならない(そもそも改正できない)とするのが憲法学界の「通説」ならば、そのことに何かの言及があっても不思議ではないが、上記の書物にはいっさいそうした部分はない。改正可能であることを前提として、新しい法文を試案的に提示しているのだ。
 (また、読売試案に対して、憲法改正の限界を超えるというという観点からの強い批判意見が出された、という記憶はない。)
 なお、のちに発表された自民党新憲法草案と比べると、第一に、自民党案は「自衛軍」とし、読売案は「自衛のための軍隊」と表現する、第二に自民党案は「自衛軍を保持する」とし、読売案は「自衛のための軍隊を持つことができる」とする、という違いがある。第二点は、自民党案では自衛軍保持は憲法上の義務(又は当然予定されたこと)になり、読売案では義務にならない(すなわち、<持たないこともできる>ことになる。保持が憲法によって許容はされているので、法律レベルでの判断に委ねられる)、という違いをもたらす。

0162/読売新聞5/20朝刊-「気鋭の改憲論者どこに」。

 読売新聞5/20朝刊に、前木理一郎という署名入りの記事「気鋭の改憲論者どこに」がある。それによると、こうだ。
 1.「全国憲法研究会」の5/12の研究集会(成城大)に行ったら、司会の駒村圭吾(慶応大学)が<憲法60年で還暦お祝いなのに「赤いちゃんちゃんこ」ではなく「経帷子」(仏式の際死者に着せる白い着物)を着さされそうな雰囲気だ>旨言った。「憲法改正を憲法が死ぬととらえるのは穏やかではないが、…憲法学界は「護憲」派が大多数を占めている」。
 2.有望らしい東京大学教授の石川健治(1962-)が論座6月号(朝日新聞社)で<9条2項を改正して自衛隊に正当性を与えた上で国民の自由を確保すできるだけの力量は…日本の議会政治にはいまだ備わっていない>と書いているのを読んでショックを受けた。
 3.55年生まれ組として注目されているのが松井茂記、棟居快行、安念潤司各教授だが、棟居は「9条は自衛隊の存在を前提としない文字通りの丸腰論で、とっくに賞味期限は切れている」と石川を批判する。但し、安念は「憲法〔学?-秋月〕の世界では改憲論者は、はっきり言って二流学者」と言った。
 以上のように述べたあと、「同業者から認められ、政府が手を伸ばしたくなるような気鋭の改憲論者の登場を心待ちにしたい」と締め括っている。
 小さな記事だが、なかなかよく現在の憲法学界の雰囲気を伝えている。いくつかの感想・コメントを記しておく。
 1.私は勝手に憲法学者の80-90%は護憲派(とくに九条改憲反対派)だと想像しているが、この記事は「大多数」と表現している。
 「憲法研究会」なるものは、例えば日本評論社から同会編の憲法改正問題という本(雑誌特集号?)を刊行して「護憲」のための主張をしている、護憲派ばかりが集まっている研究会だと推測される。
 2.石川健治のものを読んだことはないが(とくに「論座」など買うわけがない)、この人も東京大学教授なのか。日本の「議会政治」という<権力>側に対して強い又は執拗な<不信感>を持っているようだが、「議会政治」を支える国民一般もまた<信頼>しておらず東京大学という「高み」から<蔑視>しているのだろう。それにしても東京大学の憲法学教授には「左翼」が多すぎはしないか。いや「左翼」ばかりではないか。
 3.たまたま前々回にこの記事をきちんと読まないままで肯定的評価を書いた棟居快行教授が、この記事の引用が正確である限り、明確に9条(2項)を批判している。「とっくに賞味期限は切れて…」と私も思うが(占領初期の数年だったのではないか)、この表現は九条二項改正論支持を意味しているのではないか。とすれば、珍しい、まともな「改憲論」の憲法研究者ではないか。
 上では言及しなかったが、棟居は改憲論を支持すると政府・与党に引っ張られて「勉強できなくなる」から護憲派になっている者が多いのではないかとの「ユニーク」なことを言っているようだ。当人もきっと忙しくなるのはイヤなのだろう。だが、この見方は<ジョーク>の類だと思われる。というのは、護憲派の憲法学者もまた、労組・「市民」団体等々への九条護持のための講演やら研修やらで現在すでに忙しく、「勉強できなくな」っている可能性も十分あるからだ。
 ともあれ、「同業者から認められ、政府が手を伸ばしたくなるような気鋭の改憲論者」
が必要であることは間違いない。だが、現在までの憲法研究者の「養成」の仕方(主として指導教授が大学院で行う)からすると、大きな期待をすることはできず、私はほぼ絶望的だと何となく思っている。
 東京大学の小林直樹芦部信喜両教授のもとで何人の憲法研究者が育っただろう。東京大学に限らず、小林直樹、芦部信喜両氏のような九条改正反対の教授のもとで何人の憲法研究者が育っただろう。そして、そのような、「憲法研究会」に参加しているような彼らこそが、法学部学生に、あるいは高校までの教員免許を取ろうとする教育学部等の学生に「日本国憲法」を講義してきたのだ。
 現在の国や地方の「官僚」や学校教員に(さらにはマスコミ関係者にも)、そのような<憲法教育>が影響を与えていない筈はない。いつかも書いた気がするが、暗然たる思いがするし、指導的な憲法学者(故人も含む)の社会と歴史に対する「責任」はきわめて大きい、と感じる。

0140/読売2007.05.12の橋本五郎記事による憲法学界の状況に寄せて。

 読売5/12朝刊の橋本五郎・特別編集委員の記事はなかなか面白い。この人は今年の1月に、東京大学の憲法学者の長谷部恭男と読売紙上で対談していた。
 憲法改正手続法成立見込みの時点で、「「抵抗の憲法学」を超えて」という大見出しのもとで、現在の憲法学界の状況を紹介・コメントするもののようだ。
 1.現在岩波書店が出版している講座・憲法全6巻のうちの第一巻の「はしがき」にこう書いてある(直接の引用ではない)のを読んで、「違和感を覚えた」という。
 <「戦後憲法は紙屑だ」と言い放っている人たちが「押し付け憲法」であることを根拠に現憲法を葬り去ろうとしている>。
 こんなふうに書かれれば、改正試案を発表している読売の立場もなかろう。従って、改正試案を世に問うたのは「「押し付け憲法」だからというのではない。「紙屑」だと思ったからでもない」、と橋本は反論?している。
 上の<>を「はしがき」を書いたのは第一巻の編者だと思われ、そうだとすると、東京大学の法哲学の教授の井上達夫、ということになる。
 岩波書店(および日本評論社)が出す憲法の講座ものが<公平>・<客観的>である筈がない雑誌『世界』の出版社らしく当然に<偏向>している、と私は思っているので特別の驚きはなく、やっぱりと感じるのだが、本当に法学部の(しかも東京大学の)教授が上のようなことを書いているのだとすれば、空怖ろしいことだ。まともな神経ではない。まともに現実が見えていない(安い古書になれば購入を考えよう。なお、長谷部恭男もいずれかの巻の編集者の筈だ)。
 2.1966年に故芦部信喜東京大学教授(憲法学、1923-99)は、自衛隊違憲論+改正反対論は「政治に対しても国民に対しても、訴える力が非常に弱くなってきている。学説と国民意思が離れすぎてしまっているのではないか」と書いたらしい。
 東京大学法学部には自衛隊についての<違憲合法論>を示した、旧日本社会党ブレイン(と思われる)小林直樹(1921-)がいて、こちらの方は明確な「左翼」だった。世間的には小林直樹ほどは目立っていなかった芦部信喜も、最近に代表的な憲法概説書ということで彼の本の憲法九条の部分を読んでみると明らかに「左翼」だ(いずれ、彼の議論も俎上に乗せるつもりだ)。
 晩年に書いたもののようだが、芦部信喜氏は、評論家ふうに「訴える力が非常に弱くなってきている。学説と国民意思が離れすぎてしまっている」
などと書ける立場の人物ではなかったのではないか。すなわち、訴求力をなくし、学説と国民意思を乖離させた責任の一半は、東京大学教授だった自らにこそあるのではないか。
 同じ1996年に、よくは知らないが芦部の「弟子」(芦部を指導教授とした)らしい高橋和之(現在、東京大学法学部教授・憲法学、1943-)は、自衛隊違憲論を唱えた「大きな代償」として次の2点を挙げた、と橋本は書いている。
 1.<憲法学者は非現実的すぎるという印象を国民に与え、憲法学者の発言の説得力を低下させた>、2.<現実が憲法規範通りにいかないのが通常のことだという意識を国民の間に蔓延させた>。
 私も橋本とともに、「その通りだと思う」。私は日本の憲法学者の殆どを信用していない。おそらくは殆どの憲法学者がフランス革命を平等・人権等のための「素晴らしき市民革命」と理解しているはずだ(あるいは、そういう「囚われ」から抜け出ていない筈だ)。
 3.「特別編集委員」というのは専門雑誌も読むようだ。ジュリスト最新号(有斐閣)で、佐藤幸治・京都大学名誉教授(1937-)は、<憲法学の役割は「批判」・「抵抗」だけでなく「創る」・「構築」も重要だ>旨書いているらしい。高橋和之も、「制度設計」を議論しないで他人の創った制度を「批判」するだけでは「憲法学として半分しかやっていないような気がする」と、「抵抗の憲法学」からの脱却を述べているらしい。
 これらは誤りではなく、適切だ。しかし、私に言わせれば、今頃にこんなことを言っていたのでは遅すぎる。それに高橋の「…しかやっていないような気がする」とは一体何だろう、「ような気がする」とは。
 ジュリスト最新号を購入して、全体をきちんと読んで、再び触れるかもしれない。
 橋本は読売の改正試案発表の動機のようなものを次のように述べている。
 ア「国民の大多数が認知している自衛隊を憲法学者の多くが違憲…と学生に教え」、「政府は自衛隊を…「実力は持っているが…戦力ではない」などと、綱渡りのような解釈でしのいできたのはおかしいのでないか」。
 イ「国連平和維持活動」等の果たすべき国際的責務を「憲法9条があるからできないというのは本末転倒で」、「憲法上きちんと位置づけるべきではないのか」。
 これらはまことに尤もなことだ。ふつうの人間の「常識」・「良識」に合致するのではないか。
 しかるに、過日と同じことの繰り返しになるが、自衛隊は憲法上の「戦力」ではないとの「大ウソ」をつき続けて、<現実が憲法規範通りにいかないのが通常のことだという意識を国民の間に蔓延させた>ままにしようとしているのが、朝日新聞社(若宮啓文)・九条の会等々の面々に他ならない。憲法学者の多くは、正気に戻って、こうした面々を応援・支持することを即刻止めるべきだ。

0130/「きわめて執拗な悪意と恐ろしさ」-朝日新聞社。

 読売夕刊5/09によると、4/24発行の週刊朝日の今西憲之らによる記事<長崎市長射殺事件と安倍首相秘書との「接点」>について、安倍首相の公設秘書2人と元公設秘書1人、計3人が、朝日新聞社、週刊朝日編集長、記者らを相手に総額約5000万円の損害賠償、記事取消し、謝罪広告を求めて、この日、東京地裁に提訴した。朝日の広告のみでなく、記事本体も対象にしている。
 安倍首相事務所の5/09の談話がよい。読売によると、こうだ。
 「根拠薄弱な記事でも、〔安倍〕首相に関することであれば、躊躇なく掲載する判断が朝日新聞社でまかり通っている事実に、きわめて執拗な悪意と恐ろしさを感じる」。
 この通り、朝日新聞は安倍首相に「きわめて執拗な悪意を持っている。彼が若いときから<保守的>活動をしていたことに目をつけていたのだろうが、再度書くと、成功しなかった2005年1月からの<NHKへの圧力>キャンペーンは「きわめて執拗な悪意と恐ろしさを感じ」させるもので、かつ訂正も謝罪もしなかった。
 朝日新聞社は日本国家そのものに対しても「
きわめて執拗な悪意」を持っているに違いない。教科書書換え検定の虚報、「従軍慰安婦」の虚報を放って日本を貶めて、虚報であると分かっても、訂正も謝罪もしない。
 安倍首相が進め、日本を<強く>する憲法九条二項削除等の憲法改正に、この新聞が賛成するわけがない。
 構図は明白だ。安倍政権を長期化させること、憲法改正すること-朝日新聞、そして日本共産党が主張していることとは反対の方向に進むこと、これを選択すると少なくとも相対的には日本はうまくいく。これが戦後の歴史的教訓だ。

0128/フランス共産党の得票率は1%台。

 読売新聞5/09朝刊の「フランスの針路・中」にこういう一文があった。
 <かつて「ユーロ・コミュニズム」の旗手だった共産党の場合は、同党の候補の得票は2%にも及ばず、4位にも食い込めなかった。
 フランスの新聞や雑誌を購読しているフランス通なら知っていたことかもしれないが、フランス共産党に関する情報は一般的には入手し難い。
 上によると、仏大統領選挙の第一回投票に仏共産党も候補者を立てていたが得票率は2%以下、つまり1%台だった、というわけだ。
 かつてミッテラン(社会党)が大統領になった頃は社共連合政権とか言われ、共産党の政権への影響力がどれ程になるかが話題になったものだが、昔日の感がある。1%台というのは、政治への現実的影響力はない、見てよいだろう。
 それに比べて、とまた似たようなことを書いてしまうが、日本共産党は5~10%の票を獲得する(地域によっては約20%もある)。
 同じ先進資本主義国で何故、と再び思うのだが(米・英・独には共産党はなく、類似の政党があっても1%未満の得票率だろう)、やはり、共産党そのもの又は共産党系とはいえないが、しかし明確に反共産主義でもない、朝日新聞社や岩波書店等の出版社、某や某等々のテレビ・キャスター、(「かくれ」であっても)親マルクス主義の大学教員たち(彼らは「教え子」を生み出す)などが日本共産党の回りをとり囲んで、同党を防御しているからだ、と思われる。
 上のような<とりまき>が一斉に親マルクス主義を捨て、反共産主義の立場を明確にして共産主義と「闘う」に至れば、日本でもあっという間に、日本共産党は0~1%台の得票率の政党になってしまうだろう。
 これも、すっぱりと過去と断絶できない<日本的>現象というべきか、日本の<変化>は欧州・フランスと比べると随分遅い。

0123/5/06のサン・プロに朝日・若宮啓文登場-<文学少女>的。

 昨日のサンデー・プロジェクトは珍しく生で見た。読売、毎日、朝日の論説委員長・主幹の三人が登場して憲法改正問題を論じていたが、録画によって確かめてみると、最初の発言の機会の、朝日・若宮啓文の言葉はこうだった(質問者は田原総一朗)。
 「九条はそのままにしようということですから、九条に関しては護憲です。ただすべての憲法をこのままで何が何でもということではないという意味では、改憲ではないけど、何が何でも護憲というのではないかもしれないけど、しかし九条に関しては今の方がよい、こういうことです。」
 湾岸戦争のようなことが起きたとき、日本は参加するのか? 「平和安保基本法を作ろうという趣旨は、九条はやはり、日本の、きわめて特殊かもしれないけれど、世界に対するメッセージとして、こういう憲法を持ってるんだというのは、資産ではないか。これからいろんな意味で日本が世界のために、世界は大変ですよ、地球のためにいろんな分野で貢献していくうえで、やっぱり九条は持ってた方がよいと、それは国民の多数の意見にもかなうのでないか。
 とくにね、読売新聞もそうだし自民党の案もそうだけれど、九条を変えて自衛軍隊にしようというわけですね。軍隊を持つというのは、そりゃまぁ自衛隊はかなりね軍隊に実体は近いかもしれないけれども、あえて軍隊にしようというのはね、世論調査をやっても、かなり低いんですね。だから、さっき朝日新聞の調査で自衛、ごめんなさい、九条を改正してよいという人は33%ですね。33の中にもね、自衛軍にしたいという人も勿論います。いるけれども、今の自衛隊を九条に位置づけるくらいはいいじゃないか、その方が解りやすいという人もいるわけです。自衛隊はだいたい定着しているのだから。」
 「まぁそこのところはむつかしいところだけど、僕らの判断として、やはり九条はメッセージ性が強いから、このまま変えないでおいておこうと。その代わり、自衛隊の役割は、憲法の意も体して、こういうものだというようなものを基本法で作ったらいいんじゃないかと。」
 太田光の「憲法は世界遺産だ」を社説で取り上げたが、遺産だと思っている?-「遺産というともう終わっちゃった古びたものというんで、遺産という表現がいいかどうかわからないけど、しかし、戦争が終わったときに、日本人の多くも、もうこりごりだ戦争はと思った、アメリカはアメリカでもう日本にこういうことはさせまいと思った。そういうものが合致して、いわば押しつけだけじやなくてね、日本人の多くの意思と合致して、いわば共同で作った、そういう意味での奇跡だと言ってるわけね、彼は」。
 安倍さんたちは占領軍の押しつけだというが、そうじゃないと、占領軍の思惑もあるけれど、日本の側にもそういう熱い希望があった、と?
 「そうです。もちろん、占領軍の強い意思によって、原文が書かれたのは事実だけれども、日本人の多くがこれを非常にホッとして受け入れたわけですよ。そのことを忘れて、何か押しつけられたんだから、いつまでもこれを持っているのが占領体制の継続だというのは、僕はちょっと……。」
 のちの発言もとり上げるとより正確になるだろうが、これだけでも朝日新聞の見解はほぼ分かる。
 第一に、九条維持論の中には違憲の自衛隊を解体又は縮小して、九条という憲法規範に現実を合わせようという<積極的九条実現論>という立場がありうるが、朝日はこの立場ではない。
 朝日(若宮)は「自衛隊は…軍隊に実体は近いかもしれない」ことを肯定しており、「自衛隊はだいたい定着している」とも言っている。現状に大きな変更を加える意向ではないことは、樋口陽一長谷部恭男両教授の考え方と同じか近似している。
 にもかかわらず、九条は変えないと言っているのだから、自衛隊は憲法上の「軍隊」又は「戦力」ではないというウソを今後もつき続けましょう、というのが朝日の考え方だ。言葉の上だけは<日本は軍隊を持っていないのだ>と思って安心したい、又は自己満足したいのだろう。だが、再三書いているが、国家の基本問題について欺瞞を維持することは、国民の、とくに若い世代の規範意識、道徳観念を麻痺させ、損なってしまう。朝日は今後も「大ウソ」大行進の先頭に立つつもりのようだ。
 第二に、「九条はメッセージ性が強いから、このまま変えないでおいておこう」という言葉があるが、「メッセージ性が強い」とはいったいいかなる意味か。リアルな現実ではなく、雰囲気・イメージ・印象を問題にしているとしか思えない。
 また、世界の国々や人々が日本は九条二項を含む憲法を持っていることを知って、可愛いよい子だと頭を撫でてくれるというのか。そして恍惚としていたいのか。<文学少女>的嗜好は、いい加減にした方がよい。
 第三に、憲法制定時の日本人の意識につき太田光の考えも持ち出して何やら言っているが、正確ではない。
 すぐあとで読売の朝倉敏夫がかりに憲法制定過程の初期はそうだったとしても、それは現在に改憲を批判することの根拠にはならないと適切に批判していたが、それはともかく、憲法制定過程の知識が十分ではないようだ。
 1.多くの日本人が「戦争はもうこりごりだ」と思ったのは事実かもしれない。だが、多くの護憲論者には論理・概念のごまかしがあると思うのだが、多くの日本人が「もうこりごりだ」と思った「戦争」は「戦争」一般ではなく、「あのような戦争」、すなわち昭和に入って以降の特定の戦争の如き戦争のはずなのだ。日本語には定冠詞・不定冠詞というのがないのだが、日本人がコリゴリだと感じたのは、theが付いた、特定の「昭和戦争」の如き戦争だろう。冷静に考えて、自衛戦争を含む「正しい」戦争まで一般に毛嫌いしたのだ、とは考え難い。
 2.占領軍自体が、のちに九条(二項)を桎梏視し始めた、という経緯が語られていない。新憲法の審議過程ではまだ<冷戦>構造の構築は明瞭には見えなかったが、1947年に入るとそそろ見え始め、1949年の東西ドイツの分裂国家誕生、共産中国の誕生、1950年の朝鮮戦争開戦によって決定的になった。
 <戦争放棄>、元来の意味での九条二項の趣旨につき占領軍と多くの日本人が一致したとかりにしても、それはせいぜい1946年末までくらいだろう。
 立花隆は九条幣原喜重郎発案説に傾いているようだが、万が一かりにそうだったとしても、幣原以外の日本人は知らなかったとすれば、<日本人が提案した>との表現は誤りだろうと思われる。幣原が秘密に個人的に伝えたものにすぎない。
 占領軍は、1947年以降に<冷戦>構造が明確になるにつれて、日本に九条二項を「押しつけた」ことを、失敗だった、と反省し始めただろう、と私は思っている。そのような政策の失敗(社会主義国陣営の動向に関する見通しの甘さに起因する)を覆い隠すためにマッカーサーは米国に帰国後、九条は幣原が提案したと書き遺した(証言した?)のだと思われる。
 要するに、九条二項は、すみやかに占領軍と米国にとっても邪魔な条項になったのであり、占領軍と多くの日本人の意識が万が一合致したと言えるとかりにしても、それはほんの一時期にすぎない。本当に双方が強く合致していたなら、警察予備隊も保安隊も自衛隊も生まれなかっただろう。
 <夢>を語り得た「ロマンティックな」かつての一時期の存在を根拠に、現在の重要な判断を決しようとするのはきわめて愚かなことだ。
 テレビを観ていて、読売の朝倉主幹の落ち着き・自信と対照的に、朝日・若宮がややエキセントリックな雰囲気を示しつつ緊張している様子を十分に(私は)感じることができた。朝日・若宮は、自社又は自分の主張が、非現実的な、言葉に必要以上に拘泥する、半分は<夢想>の世界を生きている<文学少女>的なものであることを、心の奥底では自覚しているのではあるまいか。

0121/長谷部恭男・東京大学教授の「志の低い」護憲論。

 護憲派(とくに九条護持派)憲法学者の議論を知る必要があり、すでに水島朝穂と樋口陽一には簡単に触れたが、東京大学の現役教授・長谷部恭男についてはまだだ。
 長谷部の教科書も新書本も入手はしているが、未読だ。その他の彼の考え方を窺わせるものを紹介しつつ、コメントしよう。
 長谷部の講演録冊子「憲法を改正することの意味―または、冷戦終結の意味」(自由人権協会、2005)も所持している。これもまともに読んでいないが、講演冒頭と九条改正論に関する質問への回答部分だけは見た。
 それによると、少なくとも考え方の一つとして、長谷部は今の政府解釈(自衛目的の最小の実力保持は可能)を前提とすると、改正しても現状は全く又は殆ど変わらず、時間・エネルギーを無駄にするだけだ、旨を述べている。これも護憲論だろうが、興味深いことに(同じ大学だと<伝染>するのか?)、すでに言及した樋口の「解釈改憲」容認論(と私は理解する)と似ている。
 より正確に長谷部氏の議論が分かったのは、読売新聞の今年1/10と1/17の「憲法学の今」と題する対談記事によってだ。
 1/10で彼曰く、自衛隊の存在は憲法九条違反という「主張は間違いだと思う。そして、1.「非武装こそ人類の理想」 等を主張する人は「特定の価値観で公的領域を占拠しようとして」いる、2.国家が「常備の実力組織をもつのは当然」、九条は「実力組織はなるべく小さくする」という原理だ。
 「価値多元説」に立って「立憲主義の大前提と矛盾する」とする1.は、「公的領域」に関する「特定の価値観」による主張を全て非難・排斥するもので、憲法関連事項も含む「公」的主張は全て許されなくなりそうだ。「特定の価値観」を自分は表明しないとの逃げ道でなければよいのだが。
 護憲派と目されている筈の長谷部が公然と自衛隊合憲の旨を語っているのに驚いたが、上の2.で「なるべく」などと言っていては憲法の法規範的効力を殆ど否定している(又は持たせることを諦念している)に等しいのではないか。
 この人はやはり「解釈改憲」で十分との立場のようだ。そうだとしたら、改憲でも積極的護憲でもない、どちらかというと「志の低い」グループに入る、と考えられる。
 1/17と併せて読んで、長谷部の「理論」はほぼ解った。
 1.「9条を変えたからといって実体が何か変わるわけではない」。
 2.「改憲のために必要とされる審議時間や国民投票などのコストと利益を比較すれば、変える必要があるといえるか」。
 3.憲法には「原理」と「準則」があり、頻繁にでも変えてよいのは後者だ。
 これらのうち1.は明確な誤りだ。解釈改憲には限界がある。軍隊のようで軍隊ではない、という「大ウソ」から訣別し、ヌエの如き組織を正規軍にするだけでも「実体が何か変わる」と言うべきだ。
 2.も誤りだし、不適切だ。長谷部は条文改憲論者でないという意味では護憲論者の一人なのだろうが、反対論というよりもかかる不要論では、既述のように「志が低い」。
 それに、国家の基本問題の審議・国民投票に「コストと利益」の比較分析をするなどはとんでもない間違いだ。かりに利益がどうであれ、民主主義には「コスト」が要る。長くとも3年に一度は参院議員選挙と衆院議員選挙がある(今年も参院選がある)。「コストと利益を比較」してこれらは止めるべき又は再検討すべきと長谷部は主張するのだろうか。長谷部は同じ欄で、逆に「コストと利益を比較」すれば疑問視できる空想的提案をしている。
 長谷部は言う。「国家が費用を出し、国政選挙の前に人々が地域の公民館や学校に集まって「選挙の争点は何であるべきか」を一日かけて討論する、といった制度を作ることも考えられる」。
 かかる討論会?の全国的・全国民的開催は、憲法改正国民投票よりも多大のコストを必要とし、利益はより少ないのではなかろうか。
 穿ち過ぎかもしれないが、長谷部のコストを持ち出しての改憲不要論は、どうしても条文改憲させたくないための苦し紛れの理屈のように見える。憲法改正につき「コストと利益を比較」するという発想自体が率直に言って「想像を絶する」
 3.も疑問だ。かりに「原理」と「準則」に分けられるとして、平和主義(侵略戦争否定)は前者かもしれないが、「軍隊」の扱いはどちらなのかを長谷部は明確に語っていない。かりに前者であるとしても、一切変更してはならない論拠も述べていない(憲法改正の「限界」内のもののみを「原理」と称しているのではあるまい)。
 さらに、現憲法には例えば69条による場合以外に内閣総理大臣は7条(の天皇への助言)を利用して衆院を解散できるのかという解釈上の議論がある不明瞭な問題もある。他にもありうる。これらが全て例えば「権力分立」に関する「原理」上の問題で改正を避けるべき、という結論にはならない筈だ。
 こうして見ると、長谷部は要するに条文改憲をさせたくないのであり、そして条文改憲の内容に関する自己の意見を表明することを避けたいのではないか。つまりは、あれこれとときに難渋な表現を使いつつ「逃げている」のではないか
 上の方で言及した自由人権協会発行の冊子の中で長谷部は、今のままの9条では「わかりにくい」との意見はあろうがそれは9条に限らず21条の表現の自由でも同じだ、などと言っている。今回の座談中でも「国家のやるべき事」は「たくさんある。それを全部憲法に書かねばならないのか」と似たようなこを言っている。
 だが、人権と「公共の福祉」の関係を具体的に又は詳細に憲法に書けないのは当然だが、自衛のための「軍隊」という正規の「戦力」を保持するか否かは憲法に書ける事項だし、むしろ明記しておくべき事項だ。
 頭が良さそうで「良心的」でもありそうな?この長谷部という東京大学の先生、しかも憲法学の教授は一体何を考えているのだろうか。
 対談相手の読売新聞の橋本五郎によると、同じ東京大学の憲法専攻教授・高橋和之は日本の「憲法学者は非現実的である」等と述べているらしい。さらにその他の憲法学者の発言(とくに憲法改正に関する)に関心を持つことにしよう。

0112/日本統治協力者の子孫の財産没収をする韓国、協定無視の北朝鮮。

 読売5/02夕刊によると、韓国の大統領直属の某機関は李完用等の日本統治協力者「親日派」9人の子孫から計(日本円で)4億8000万円の財産を没収することを決定した、という。
 民族・国家にとっての歴史的「悪玉」をのちの国家・政府が「公定」してしまうというのも異常だが、その「悪玉」たちの子孫から財産を没収するというのもきわめて異常だ。
 祖先に「犯罪者」がいたとして、その罪が子孫に及ばないのは近代又は「個人主義」の時代では当然のことだろう。ましてや、1910年の日韓併合条約の署名者等は「犯罪者」なのか。
 韓国には憲法裁判所があるが、すでに根拠法律について合憲判断をしているのだろうか。日本であれば、このようなことを認める法律は、平等原則違反、合理的理由のない財産権の侵害として、簡単に違憲と判断されるだろう。
 上に関する記事の隣に、米国ライス国務長官の、北朝鮮に対する「忍耐力は無限ではない」等の、麻生外相・久間防衛相との会談後の記者会見要旨が載っている。
 産経の同日夕刊によれば、北朝鮮は2月の六カ国協議での二ヶ月以内にとの「約束」を履行せず、履行期限の4/14をもう二週間過ぎたらしい。
 そもそも北朝鮮という国家の指導部に「約束(協定)を守る」という観念など全くないのではなかろうか。これまた異常だ。
 何やらいつも怒っているようなブログタイトルのizanamiはきっと、上の二つの国の「異常さ」を「異常」とは感じないのだろう。
 izanami氏に対してizanamin氏が反論ブログを開始された。izanamiの方は読む気はしないが、izanamin氏の方はときには訪れるので、頑張ってほしい。
 私もizanami大批判を専用ブログで毎日繰り広げたいところだが(関係文献も沢山所持しているので資料には困らないだろう。ハンドルネームは「izanamia」でどうか?)、時間的余裕がないし、もう一つブログページをこのイザ!に持てるのかどうか分からない。

0100/池津洋一・虚報-朝日新聞「NHK番組改編」報道-(新風舎文庫)に接して。

 すでに旧聞に属するが、NHKを被告として2001.01.30にNHK教育テレビが放映した「女性国際戦犯法廷」を報道する番組の「取材協力団体」が起こした損害賠償(慰藉料)請求訴訟の東京高裁判決が2007.01.29に出て、NHKの敗訴だった。
 その結論はともかく、傲慢さと欺瞞に満ちていて、怒りを覚えるほどだったのは翌2007.01.30の朝日新聞社説だった
 そもそもNHKが放送しようとしていた内容は、例えば天皇の戦争責任を肯定する某過激派団体の集会を、あるいは昨秋の佐高信らの週刊金曜日の集会をそのまま、何ら批判的コメントもなく放映するようなものだった。そして、元朝日新聞記者=松井やよりも含む主催民間団体(その集会には北朝鮮関係者も登場した)に親近感を持っていたに違いないNHKの担当ディレクター=長井暁が制作していたものだった。
 最終的には昭和天皇に対して一般的な戦争責任の故ではなく「対女性性犯罪」者として「有罪判決」を下すという偽法廷のやりとりの内容がそのまま放映されれば、客観的または常識にみて放送法3条2項に違反するもので(「政治的に公平」違反、「事実をまげない」違反、意見対立問題には「できるだけ多くの角度から」論点明確化違反)、NHKの、一般的には放送局、さらには報道機関の「政治的中立」性を著しく侵すものだった。
 上のごとき内容を知ったNHK幹部=松尾武放送総局長等が事前に是正・改変しようとしたのは当然のことだ。朝日の社説は松井やより等が主催・参加した「女性国際戦犯法廷」との集会がどのようなものだったかには全く触れていない。
 朝日社説は「NHKは国会議員らの意図を忖度し、当たり障りのないように番組を改変した」と冒頭に書いて、NHKの「政治への弱さ」をさも得意そうに批判している。だが、この件でのNHKの問題は、昭和天皇に有罪判決を下す偽法廷集会を放送しようとした長井暁というディレクターがいたこと、上層部が放映直前になるまで内容を知らず是正(改変)が遅れたこと、にある。その限りでは、当然にNHKは批判されるべきだ。
 そして、その遅れた是正(改変)の時期が安倍晋三・中川昭一両氏とNHK幹部が会った時期に近いことに着目して、両政治家の「圧力」によりNHKの番組が「改変」されたとのストーリーを4年後に考え出し、二人を批判し政治的に失墜させようと図ったのが朝日新聞だったのだ。朝日は2001年1月以降の頃には、政治家による政治的「圧力」の存在には何ら言及していなかった。本田雅和は01.03.02に「直前に大改編」と批判する記事を書いたが、この時は<政治家の介入>には全く触れていなかった。
 朝日社説は「NHK幹部は番組への強い批判を感じ取ったのだろう。…予算案の承認権を国会に握られている。それが番組改変の動機になったと思われる」と書く。「思われる」としか書けないのは自信がないからで、判決の認定によるわけではなく、当該NHK幹部も否定している。
 この朝日1/30社説の最大の欺瞞は次の文だ。
 朝日の報道につき「政治家とNHK」から事実につき反論があったので「検証を重ね…一昨年秋、記事の根幹部分は変わらないとしたうえで、不確実な情報が含まれてしまったことを認め、社長が「深く反省する」と表明」した。
 今回の判決の要点の一つは、「政治家による圧力」の存在を認定しなかったことだ。にもかかわらず、上の文はこの点を曖昧にしつつ、「記事の根幹部分は変わらない」との見解を確認的に述べて、実質的に判決の事実認定に反する主張をしている。自分たちに都合の悪い事実の隠蔽・誤魔化しがここにもある。
 ネット情報に依拠しておくが、本田雅和高田誠両記者による2005.01.12の朝日の記事の政治家関係部分はこうだ。
 リード-「中川昭一・現経産相、安倍晋三・現自民党幹事長代理が放送前日にNHK幹部を呼んで「偏った内容だ」などと指摘していたことが分かった」、「外部からの干渉を排した放送法上、問題となる可能性がある」。
 本文-2001年1月「29日午後、当時の松尾武・放送総局長…らNHK幹部が、中川、安倍両氏に呼ばれ、議員会館などでそれぞれ面会した」、「両議員は「一方的な放送はするな」「公平で客観的な番組にするように」と求め、中川氏はやりとりの中で「それができないならやめてしまえ」などと放送中止を求める発言もしたという。NHK幹部の一人は「教養番組で事前に呼び出されたのは初めて。圧力と感じた」と話す」等。
 上の記事に中川・安倍両氏、NHK幹部・松尾氏は事実に反すると抗議したが、朝日は訂正も謝罪しなかった。今回の判決は上の事実を逆に否定しているにもかかわらず、その点を曖昧にしか触れず、再述になるが、朝日にとっては都合の悪い筈のことを巧妙に誤魔化しているわけだ。
 朝日社説は「社長が「深く反省する」と表明」したなどと書いて、さも潔かったかの如き印象を与えているが、社長がのちに詫びたのは取材方法や「不確実な情報」も含んでいたことに対してである。「記事の根幹部分」については訂正も謝罪もしておらず、むろん「反省」もしていない。
 多少は関心を持っている人なら知っているこの辺りを明瞭に書かないまま、「この問題は朝日新聞が05年1月に取り上げ」などと社説に自慢げに書ける神経の人物がいるとは信じ難い。
 政治家二人が「放送前日にNHK幹部を呼んで…と指摘していた」というのは事実ではないだろう。この事実が判決によって認定されなくともヌケヌケと「記事の根幹部分は変わらない」と強情になお言い張り、まるで朝日が潔い態度をとったかの如く偽装しているのが、今回の社説だ。騙せるかもしれないのは、朝日新聞のみを講読し、かつ社説の<雰囲気>のみを感じている読者だけだろう。
 多少は多面的・総合的にこの問題に関心をも持っていた読者を、そして歴史の真実を、瞞着することはできない。何度でも言う、朝日新聞よ、恥ずかしくないのか
 そのような朝日のもともとの記事について、「真実と信じた相当の理由はある」等として一昨年秋の検証を実質的に支えた外部者の委員会メンバーは、次の4名だった。
 丹羽宇一郎・伊藤忠会長、原寿雄・元共同通信編集主幹、本林徹・前日弁連会長、長谷部恭男・東京大学法学部教授(憲法学)。
 この人たちは自らに疚しさを感じるところはないのだろうか。「真実と信じた相当の理由はある」としても、結果的には「真実」でないことが明らかになったことを書いてしまっているのであれば、それは訂正され、謝罪されるべきではないのか。
 朝日1/30社説には他にも奇妙な点がある。
 「今回の判決は政治家の介入までは認めるに至らなかったが、NHKの政治的な配慮を厳しく批判したものだ」。このように理解したいのだろうが、今回の訴訟はNHKと「取材協力者」間のもので、後者の法的地位こそが主たる争点だ。朝日は訴訟の第一の争点が何だったか自体を誤魔化している。
 「政治家の介入までは認めるに至らなかったが」と副文でさりげなく自社に都合の悪い部分に触れ、「NHK-裁かれた政治への弱さ」との見出しとともに、「NHKの政治への配慮」の有無が最大の争点だったと言わんばかりだ。これは朝日の主観的かつ「政治的」な理解の仕方に他ならない。
 一方で、読売社説と比べるとよく解るが、法的争点だった編集権と「取材協力団体」との関係、後者の「期待権」の存否及び侵害の有無については、言及が少ない。
 読売は冷静に、「政治家の介入」否定の旨の事実に二次的に触れてはいるが、一次的には、「メディアが委縮してしまわないか心配だ」、「報道の現場では、番組や記事が取材相手の意に沿わないものになることは、しばしばあ」り、「編集幹部が手を入れたり、削ったりする」のは「「編集権」の中の当然の行為だが、それすら、「期待権」を侵害する」のか、今回の判決では「期待権」の「範囲が…NHK本体にまで拡大された」等と疑問視し、最高裁の判断を持つ姿勢を示している。
 どちらが報道機関らしく、どちらが「政治運動団体」らしいだろうか。朝日は、自社に都合のよい部分を強調し悪い部分を巧妙に隠蔽しようとする「政治運動団体」だ。
 ……上のようなことを改めて書きたくなったのも、池津洋一・虚報-朝日新聞「NHK番組改編」報道-(新風舎文庫、2006.04)に接したからだ。
 この本は事実関係に関する資料として役立つとともに、内容も説得的、論理的でもあるように思える。
 上で書いた以上にNHK幹部と政治家二人の関係・会話や本田雅和の取材方法等々が詳細に叙述されている。改変開始の時期とNHK幹部と政治家の接触の時期(前者の方が早いこと)も指摘して、上で紹介した社説の、「NHKは国会議員らの意図を忖度し」とかNHK幹部は番組への強い批判を感じ取ったのだろう」とかの勝手な<推測>が成立し得ないことも示している。
 上記の4人の委員会の「検討」作業には全く言及がないのは残念だが、その代わりに、上では言及しなかった、2005.08.01発売の月刊現代誌上の「魚住昭レポート」のかなり長い批判的分析もある。
 著者・池津もまた、私と同様、朝日新聞の姿勢はジャーナリズムではなく「運動家」のそれだと言い切っている。
 「朝日新聞の態度にこそ現在のジャーナリズム、マスメディアの深刻な病理と頽廃を見ざるを得ない。…事実を伝えるよりも報道する側の価値観、信条から見て好ましいもの、正しいものを流布し、その結果、産み出された世論の力で彼らの価値観や信条に反する対象を否定し屈服させる…。その点は、…取材した側の思い込みの産物でしかなかったという事、…にもかかわらず朝日新聞は…自身にとって不利に展開するこをおそれ政治家が介入したという当の番組の内容は問題ではないと言うことによって読者の目をそらそうとしているところにはっきりと現れている。そして、…このような態度をとるのは、かつての従軍慰安婦問題の発端となった記事が全くの詐術であったことが暴露され、その結果、虚偽の報道を行って世論をミスリードしてでも自己の価値観、信条に反する対象はこれを否定し、あるいは屈服させるべきであるという誤った使命感にとらわれている事が…気づかれるのをおそれているからではないか。/…それはもはやジャーナリズム、マスメディアの態度ではなく、むしろある種の政治運動、社会運動の運動家のそれである」(p.199-200)。
 そう、そもそもが、NHKの番組の内容だった慰安婦問題=「戦時性犯罪」問題に火をつけたのも、吉田清治(「詐話師」)を少なくとも一時期は信用し、吉見某教授らの協力を得た朝日新聞そのものだった。
 池津洋一(1958-)の本は税込みでわずか682円(古書ではない)の、好著だ。

0067/中国にオボエのメデタイ政治家・河野洋平と村山富市。

 温家宝中国首相の国会演説への諸コメントにつき、加藤紘一のものは、安倍首相の名を出して暗に彼を批判しており、まるで野党の議員のコメントのようだ。他の諸コメントも楽観視しすぎ、褒めすぎだと思うが、多分に「外交辞令」も含んでいるものもあると見るべきだろう。
 読売4/12夕刊によると、温首相が演説中で名前を出した日本の政治家は、河野洋平と村山富市の二人のみらしい。中国にとってオボエのメデタイ政治家が日本にとって素晴らしい政治家かというと、それはない。お二人は、決して勘違いをなさらぬように。

0045/集団自衛権行使ー憲法九条にかかわる内閣見解こそ変更すべきではないのか。

 潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP)は集団自衛権行使否認の不都合な例を先日紹介した以外にいくつか挙げている。
 一つは、テロ対策特別措置法による活動の場合だ。  この法律にもとづき海上自衛隊はインド洋に補給艦・護衛艦を派遣し、多国籍軍の何百という艦船に燃料を補給していて、飛行しながらの高い技量を要する補給活動は諸外国から高い評価を受けているらしいのだが、インド洋上で「戦闘行為」が発生した場合、日本の海上自衛隊は補給活動はむろん直ちに中止し、避難する等をして「危険を回避」することになっている、という。「戦闘行為」になり<味方の>多国籍軍のいずれかが攻撃を受けても援助攻撃をすることはできず、戦闘する多国籍軍を尻目に「逃げて帰るのは日の丸を掲げた海上自衛隊だけである」(p.81-83)。これはテロ対策特別措置法がイラク特別措置法と同様に自衛隊の活動を「武力による威嚇又は武力の行使に当たるものではあってはならない」と定めているからであり、その背景には、自国を守るためだけの最小限の武力行使しか許されないとの憲法九条の解釈がある。
 安倍内閣は現在、集団自衛権行使に関する個別事例の検討をする予定で(4/06読売にも出ている)、先日触れた1.同盟国を攻撃する弾道ミサイル、上に記したような2.海上自衛隊と並走する艦船が攻撃された場合、等が含まれる。但し、これらの場合に正面から集団自衛権行使を認めるのではなく、「警察権」の行使とか、海上での同盟国の「戦闘行為」が正当防衛的な場合は海上自衛隊の反撃も「本格的な自衛権」の行使とまではいえず、従って集団自衛権に該当しない、とかの解釈又は理屈を考えているようだ(上の読売の記事による。イザ記事にはこの点は明確には書かれていない)。
 潮匡人は月刊正論5月号(産経)で、安倍首相の本・美しい国へ(文春新書、2006)の中で、安倍が上の2.のような事例には集団自衛権が行使できないので「自衛隊はその場から立ち去らなければならない」と書いて集団自衛権の問題と捉えていることを示して、<集団自衛権の行使ではなく~に該当するので反撃可能>というような解釈又は理屈を採用することを予め批判している。
 憲法九条二項の改正によって自衛隊が正規の軍隊になれば恐らく、米国との関係でも多国籍軍との関係でも対等な軍隊となり集団自衛権行使も当然に可能なのだろう。問題は憲法改正前に、米国や多国籍軍のいずれかが攻撃を受けた場合に「拱手傍観」して放置又は逃げ去るべきなのか、だ。
 潮匡人の方に説得力があると思うが、内閣・行政権としての連続性というのは、実務上いかほどに重たいものなのか、よく判らない。

0044/大江健三郎・岩波が4/04に文科大臣へ珍妙な理屈をつけて沖縄戦教科書記述修正を抗議した。

 4/05の読売にはないが産経には小さく載っている。イザには探したがないようなのだが、沖縄戦中の住民集団自決につき日本軍「強制」の記述を修正した文科大臣に対する抗議の声明を、岩波書店と大江健三郎が4/04に連名で発した。のち、郵送するらしい。
 抗議する自由はむろんあるが、気になったのは、その理由だ。報道によるかぎり、理由の少なくとも一つは、「元指揮官側の主張のみを取り上げて」修正したこと、もう一つは「集団自決に軍の命令があったことは多くの文献などで明らか」だということ、らしい。
 これらを読んで、一瞬奇妙な感覚に駆られた。そしてその正体に気づいた。慰安婦問題に関する議論との対比だ。日本軍の慰安婦「強制連行」はあったとする論拠との関係だ。
 岩波と大江健三郎はおそらく<「従軍慰安婦強制連行」はあった>と考えているだろう。だが、日本軍・官憲による「強制連行」があったというのは、元慰安婦「側の主張のみを取り上げて」認定しているのではないのか。また、慰安婦「強制連行」がなかったことは「多くの文献などで明らか」なのではないか。逆の言い方をすれば、慰安婦「強制連行」があったことはいかなる「文献などでも明らか」ではないのではないか。
 上のように対比すると、岩波と大江健三郎はおそらく、ダブル・スタンダードを用いている。所謂「ご都合主義」だ。
 彼らの代理人弁護士・秋山幹男(よく見る名前で所謂「大物」だろう)は「日本軍の関与を否定する証拠も出ていないのに…」と批判している。不存在の証明はなかなか至難だが、不存在の証明ができないと存在したことになる、と主張しているのだろうか。日本軍・官憲による慰安婦「強制連行」の不存在の証明ができないと「強制連行」があったことになる、と言うのだろうか。珍妙な立証責任配分論語らないで貰いたい。

0032/朝日新聞の意識的?無知と異様さ-沖縄集団自決命令教科書修正三社説比べ。

 教科書検定による沖縄集団自決命令に関する記述の修正に関して、朝日、読売、産経の三紙を簡単に比べてみた。中でも、なぜ修正がなされたのかを、どう認識しているかに焦点を絞ってみた。
 朝日はこう書く。-「文科省は検定基準を変えた理由として「状況の変化」を挙げる。だが、具体的な変化で目立つのは、自決を命じたとされてきた元守備隊長らが05年、命令していないとして起こした訴訟ぐらいだ。/その程度の変化をよりどころに、教科書を書きかえさせたとすれば、あまりにも乱暴ではないか。」
 読売はこう書く。-「今回、文科省が着目したのは「近年の状況の変化」だったという。/ 70年代以降、軍命令の存在を否定する著作物や証言が増えた。一昨年には、大江健三郎氏の著書に命令した本人として取り上げられた元将校らが、大江氏らを相手に名誉棄損訴訟を起こしている。/生徒が誤解するおそれのある表現は避ける、と規定した検定基準に則して、今回の検定から修正要請に踏み切った。妥当な対応だったと言えよう。」
 産経はこうだ。-「集団自決の軍命令説は、昭和25年に発刊された沖縄タイムス社の沖縄戦記『鉄の暴風』に記され、その後の刊行物に孫引きされる形で広がった。/しかし、渡嘉敷島の集団自決について作家の曽野綾子さんが、昭和40年代半ばに現地で詳しく取材し、著書『ある神話の背景』で疑問を示したのをはじめ、遺族年金を受け取るための偽証が基になったことが分かり、軍命令説は否定されている。/作家の大江健三郎氏の『沖縄ノート』などには、座間味島や渡嘉敷島での集団自決が、それぞれの島の守備隊長が命じたことにより行われたとする記述があり、元守備隊長や遺族らが、誤った記述で名誉を傷つけられたとして訴訟も起こしている。/軍命令説は、信憑(しんぴょう)性を失っているにもかかわらず、独り歩きを続け、高校だけでなく中学校の教科書にも掲載されている。今回の検定で「沖縄戦の実態について誤解するおそれがある」と検定意見がつけられたのは、むしろ遅すぎたほどだ。」
 一目瞭然なのだが、朝日は1.訴訟提起しか挙げない。勉強不足=無知なのか、それとも意識的にか。ついで読売は、1.訴訟提起に加えて、2.否定・疑問視する著作物・証言の増大を挙げている。正確だ。
 産経は、読売の2.の部分を詳細に書いている。とくに「遺族年金を受け取るための偽証」だったことを受給者遺族が明らかにしたことが、この件では意味が大きいと思われる。
 こう比べても、朝日新聞はやはり異常だ。「集団自決―軍は無関係というのか」というタイトル自体、冷静さを失い昂奮しているようで、みっともない。
 朝日は最後に「国民にとってつらい歴史でも、目をそむけない。将来を担う子どもたちにきちんと教えるのが教育である」と書く。これに異存はない。しかし、「国民にとってつらい」かどうかは別として、その「歴史」自体が虚偽または不正確なものだったとすれば、そのような偽りの「歴史」を「将来を担う子どもたちにきちんと教え」ては絶対にいけない。

0027/掛谷英紀・学者のウソ(2007.02)を3月半ばに読む-フェミニズム批判。

 ソフトバンク新書というのが新発行されたものの関心を惹くテーマ・執筆者のものが僅かだった。しかし、掛谷英紀・学者のウソ(2007.02)は、3月半ばに一部を読み終わっただけだが、なかなか良い本だ。読んだ順に記すと、第一に、脱税企業に関する新聞記事の量と当該新聞紙上の広告主との関係につき、仔細は省略するが、「朝日新聞についてはスポンサーへの配慮が記事にまで影響を及ぼしている可能性がきわめて高いことがわかる。一方、読売新聞にはスポンサー・非スポンサー間で有意な差は見られなかった。私は個人的には読売新聞をよく思っていないが、脱税事件の報道に限ると、同新聞の報道姿勢は評価に値する」(p.139)との結論が興味深い。朝日がスポンサーを配慮せざるを得なくなっているとすれば、それは経営的には必ずしも順調でないことを意味する、とつながれば、私にはますます好ましい情報なのだが。
 第二に、知る人ぞ知るの話かもしれないが、私は知らなかった。p.144-5によると、上野千鶴子は自閉症は母子密着が原因と主張したが生まれつきとの説が有力で、自閉症児の親たちから差別助長と抗議を受け、最初主張した本と同じ出版社の「「マザコン少年の末路」の記述をめぐって」の一部に謝罪文を掲載した。これを読んだ某「自閉症児の親の会」の会員いわく-上野からは自閉症に無知識だったのでうっかりしていた、ごめんなさいと素直に謝って貰ったらすっきりしたが、また彼女には「弱者の味方」のイメージもあり期待したが、謝罪文を読んで「「二度と自閉症にかかわるものか」という上野さんの姿勢が感じられ、その落差が激しくて…」。
 著者・掛谷は、次のように書く。「上野氏は弱者の味方のふりをするだけで、…持論を補強するために弱者を利用しているにすぎない」ことにこの母親は気づいてなかったのだろう。「上野氏がなくしたいのは、差別でも性差別でもなく、性差の存在(性の区別)そのものである」。著者は自信をもって断定している。
 上の第二で言及した「事件」はありうることだと納得できるが、第三に、つぎの諸指摘は断定的・明瞭でありすぎるために、その内容に驚きとじわりとした恐怖を感じる。掛谷いわく-フェミニストの殆どは「学歴エリート」だが、人間を男女の二つに分け、「女性全体を弱者と見立て」た上で、「弱者集団である女性への援助を名目に、女性集団の中の強者であるエリート女性のみに手厚い政策的援助が行くように誘導する」。「男女共同参画では強者の女性を援助して弱者の女性への福祉は切り捨てている」。フェミニストは専業主婦を「税金泥棒呼ばわりする」が、「現行の税・社会保障制度で一番得をするのは、…夫婦とも中・高収入を得ているエリートカップルの世帯」だ。「男女共同参画社会は、…高学歴夫婦世帯に対して集中的に福祉を施している。これでは格差がさらに拡大される」(p.155-p.160)。
 私が挟めば、フェミニスト、弱者のふりをし、「女性という人権」を振りかざして、少数の高学歴(かつとくに配偶者のいない)女性の利益のために政府にゆすり・たかりをしている圧力集団の参謀ではないか。その中の参謀長クラスが上野千鶴子だと思われる。
 第四に、少子化の原因としての妊娠・出産の減少は、女性の社会進出と無関係ではない、外での仕事が魅力的だと、又は外で働く必要があれば、女性が出産・育児を厭う場合もあれば、希望してもできない場合もあるだろう、だからある程度はやむを得ない、時代の流れなのかな、と何となく思ってきたのだが、この本を読んでかなり変わった。フェミニズムこそが少子化、人口減を招き、将来の日本を危うくしている根本的思想なのではないか、と。
 不勉強を曝すが、現在の政府の少子化対策は、働く女性の支援、つまり働きながらでも安心して子育てできる、同じことだが子育てしながらも安心して働ける環境の整備らしい。つまりはゼロ歳児から預けられる保育所も含めての、保育所の増設だ。これは、子育てしながら安心して働ける環境を整備すれば出生率は回復する、又は増加するとの「理論」又は「予想」にもとづく。そのために10年間、毎年2-3000億円の公金を厚生労働省は使った。しかるに、現実は出生率が増加していない。政策効果は出ていない。
 掛谷の本p.56以下によれば、上の「理論」・「予想」は誤りで、赤川学・信州大学教授が、同・子どもが減って何が悪い(ちくま新書)で、1.男女共同参画が進めば=女性が働きやすい環境が整備されれば出生率が上昇するとの「理論」の根拠とされるデータには「捏造」があり、OECD加盟国全27国の統計では「女性の社会進出が進むほど出生率は低下する」こと、2.28-39歳の有配偶者女性ではaフルタイム従業、b本人の収入、c都市居住、の三変数が「出生率の低下に有意に寄与している」、つまり「都市でフルタイムで働く高所得女性ほど出産しない」こと、を示した。男女共同参画は少子化を促進しても抑制することはない、ということだ。こちらの方に説得力があると、私には感覚的に思える。だが、フェミニスト又は女性学者等はなお、男女共同参画推進こそが少子化対策になると主張している、という。
 政府の少子化対策施策は昨年の猪口邦子大臣提言等で子育て家庭への経済的支援(育児手当、児童扶養手当類)の増大へと少し舵取り方向を変えるようだが、従来の男女共同参画社会論者はその見解=「男女共同参画を進めれば子どもが増える」を変えようとせず、「開き直っている」というわけだ。
 掛谷は上の赤川学の理解を支持しつつ、そのような学者ら=上野千鶴子、田嶋陽子、白波瀬佐和子、樋口美雄等を批判し、故意の、確信犯的な「学者のウソ」と断じる(p.73等)。また、女性学会とその周辺学会は「間違った情報を発信し続けて」おり、「日本女性学会のホームページをみると、…学会ではなく政治団体なのではないかと思うような情報発信が多い」としている(p.69)。
 男女平等も男女共同参画も基本的なところでは概念・理念として誤っているわけではないだろう(但し、男女平等は男女の差異の無視・否定と同義ではない)。だが、具体的な政策・施策の次元では、どうやら誤りのジェンダー・フリー論が幅を利かせ、政府の審議会類を乗っ取
ってきた気配がある。掛谷によると、フェミニストは「日本女性学会」等に巣くって政治的主張を展開しているようだ。
 p.66-67に紹介の上野千鶴子の、人口現象の原因を突き止めることは「できない」、少子化対策は「極端に言えば、やってもやらなくても同じ、とも言える」との発言は、掛谷の言葉どおり、「よく考えると、ものすごい」。関係学問の力を否定し、政策効果のなさを自認しているのだ。学問とは何かを、政策・政治との関係を考えてしまう。一般論的すぎるが、政策・政治に「悪い」影響を与える学問はなくてよい。あるいは、そのようなものは政治的主張ではなく社会系の「学問」と本当に言えるのかどうか。
 掛谷はまだ30歳代で、分かりやすい、しっかりした文章も書く。今後の活躍に期待したい学者だ。マルクス主義学者の「ウソ」に殆ど言及がないのは残念だが、年齢・世代、理系出身等からしてやむをえないだろう。それと、「学者のバカ」というタイトルは折角の好著には少し軽すぎだ。もっといい表題だったら、より売れるのでないか。

0024/歴史の国際的捏造、日本国家に対する最大級の侮辱、朝日新聞・中国共産党の高笑いを許すな。

 在米日本大使館の北野充広報担当駐米公使は、(1)旧日本軍の関与の下で女性の名誉と尊厳を傷つけたと認める、(2)同問題でおわびと反省を表明した河野談話を継承する、安倍晋三首相もこの方針を維持する、と説明して、慰安婦問題と北朝鮮の日本人拉致問題を同一次元で論じているとして日本非難の社説を掲載した米ワシントン・ポスト紙に反論したという。
 馬鹿なことをしている。前々から感じていたことだが、安倍首相の意向と、<とにかくとりあえず穏便に>という(いつもながらの?)日本外務省の方針とは食い違っているのではないか。すでに十分に謝罪しているから決議しないでくれというのは、愚の骨頂だ。情けなくなる。
 朝日新聞は、3/27星浩コラム等々、慰安婦「問題」の経緯も争点も、そして米国下院の決議案に賛成か反対かも曖昧にしている。おそらくは決議案採択をきっと朝日は歓迎するつもりなのだろう。その点、読売新聞は、同日3/27朝刊に「基礎からわかる「慰安婦問題」」とのほぼ一つの面を使った適切な解説記事を載せており、朝日と比べて圧倒的に誠実であり、姿勢が明瞭だ。
 あらためて上の読売の記事中の米下院決議案の外務省仮訳を見ると、責任を公式に認めて謝罪せよと要求したあと、「日本国政府による強制的売春である「慰安婦」制度は、その残忍さと規模において、輪姦、強制的中絶、屈辱的行為、性的暴力が含まれるかつて例のないもので…20世紀最大の人身売買事業の一つであった」と述べ、「(日本国政府)が日本帝国軍隊による「慰安婦」の性的奴隷化や人身売買は決してなかったとのいかなる主張に対しても明確かつ公に反論すべきであることを決議する」と結んでいる。
 米国下院は、そしてアメリカ人は、こんな下品な言葉が出てくる決議を公式にしようとしているのか侮蔑したい気分にもなるし、月刊WiLL5月号の堤堯・久保紘之対談の一部のように、かつての米軍兵士は戦地や占領下日本で「特殊慰安施設」に「関与」しなかったのか、と糾したくもなる。
 だが、問題は、この案の背後にいる主として反日中国系団体・中国政府(中国共産党)による歴史の偽造を、日本人が、日本政府が黙視してよいか否かだ。中国が仕掛けている「情報戦争」、「国際世論誘導戦争」の一環と見なしておく必要がある。
 繰り返す必要はないだろうが、私自身の言葉で書いておくと、上の決議内容は、事実ではない。日本国政府はを「人身売買事業」をしていない。「日本帝国軍隊による「慰安婦」の性的奴隷化や人身売買」もなかった。
 よくありそうな誤解は、軍が慰安所や慰安婦募集事業者に何らかの形で「関与」したことをもって、軍又は政府の「関与」を肯定し、やはり悪いことをしたのではないか、というものだ。例えば「inkyoさん」は3/27に次のように書く。
http://inkyo.iza.ne.jp/blog/entry/140920/
 「安倍さんは、《「心の傷を負い、大変な苦労をされた方々に心からおわびを申し上げている」》と詫びながら、軍の関与を否定している。当時の政府が慰安所の設置や募集に関し一切関与していないのであれば、狭義の関与は否定できるかもしれないが、軍人の規律を守り防諜防止等の観点から、日本政府が慰安所の設置等に関与しているのであれば、広義・狭義の理屈は理解されない。それより、慰安所を設置しないと軍の規律が守れないとするなら、日本人としてその方が恥ずかしい。たとえ、戦時下で異常な心理状態になるとしても。
 私もまた、「当時の政府が慰安所の設置や募集に関し一切関与していない」とは思わない。また、「慰安所の設置等に関与している」こともあっただろうと思う。慰安所の存在を当然に知っていただろうし、衛生面での配慮等々もしただろう。慰安所経営者に対して注意・警告又は場合によっては要望をしたこともあっただろう。
 だが問題は、上のような事実の存否及び当否にあるのではない。上のような「関与」と決議案にいう「人身売買事業」あるいは慰安婦の「強制連行」とは全く別のものだ。問題は、日本政府又は軍が、慰安婦にすべく女性を「強制連行」したのかどうか、そうした意味での「強制」的契機を含む「人身売買事業」をしたのか否か、なのだ。通常の理解力があれば、「広義・狭義の理屈」は分かるはずなのであり、これをおそらく意識的に曖昧にしているのが朝日新聞であり、広義のものがあれば狭義のものもあったに違いないとの(じつは根拠のない)前提で書かれているのが米国下院決議案だ。
 「inkyoさん」は「慰安所を設置しないと軍の規律が守れないとするなら、日本人としてその方が恥ずかしい」と書くが、慰安所・慰安婦の存在自体が「悪い」ことだったかどうかは、戦地という場所的特性や「公娼制度」が存在した時代だったこともふまえて、別に議論すべきものだ。この点につき詳しいのは、秦郁彦・慰安婦と戦場の性(新潮選書、1999)だろう。「inkyoさん」は何歳の方か知らないが、こうした本を読んで「勉強」してみたらどうか。
 同じ読売3/27によると、下村官房副長官が「強制連行について軍の関与はなかった」と述べたことに対して、民主党の鳩山由紀夫は「歴史をもっと勉強してほしい」等と述べて批判した、という。「歴史をもっと勉強」する必要があるのは、鳩山由紀夫自身だ。民主党の中にも、松原仁(いまは無所属だが、西村真悟)等、歴史が分かっている議員もいるだろう。思わぬ形で、鳩山由紀夫の無知さ・不勉強ぶりを知った。

0010/佐高信が何故読売新聞紙上で城山三郎氏の追悼文を書くのか?

 城山三郎が79歳で逝去(1927-2007)。広田弘毅に関するもの等二、三の小説を読んだことがあり、悪い印象はない。だが、読売の朝刊は、なぜ佐高信などにけっこうな字数を使った追悼文を書かせたのか、奇妙だ。佐高信といえば週刊金曜日の代表編集人で、昨秋11/19には皇室をパロディーにした集会も主催した。最近の同誌は警察による朝鮮総連関係団体への捜索を「朝鮮戦争前夜」を思わせる「異常さ」と書き(同誌取材班名義)、朝鮮総連の「弾圧糾弾」との主張と歩調を合わせていた。
 読売がなぜこんな人物を使うのかが解らない。読売はときどき奇妙な記事を載せ、主張をすることがある。
 佐高信は最後の方で、城山は叙勲を固辞した、「その意味するものをくみとってほしいと願う」と書いて佐高自身の「左翼」ぶりを存在証明している。城山氏のその態度が何を意味するのか私はよくわからないが、反天皇、反権力、反国家を意味するのだとすれば、そのような作家を読売は大きくとり上げて死亡・追悼の記事を載せるべきではなかろう。それに城山の小説に関する私の記憶では、反天皇、反権力、反国家の姿勢は感じられなかった。
 佐高の文の中で注目してよいのは、広田弘毅、石田礼助、井上準之助という城山の小説のモデルとなった人たちを「あるいは少数派かもしれないが、誇るべき日本の財産である」と明記していることだ。この中の広田弘毅は言うまでもなく所謂東京裁判の所謂A級戦犯として、たしか軍人以外では唯一人、死刑(絞首刑)になった人だ。佐高信がこれまで及び今後、広田弘毅を含めた所謂A級戦犯を批判し、貶めるような文章を書いていないか(書かないか)、監視しておく必要がある。
 内館牧子・女はなぜ土俵にあがれないのか(幻冬舎新書、2006)の最初57頁と最後の33頁を読了。主張はごく自然で納得できるし、最後に示してある改革案にも賛成だ。それにしても、第一に、この大相撲の土俵に関する「女性差別」問題らしきものも、議論を煽り、「女性」を応援したのは、この本で読むかぎりは、やはり?朝日新聞であることが分かる。朝日は混乱・錯乱を好み、表向きは「差別」反対なのだ。第二に、大阪府の太田房江という女性知事は大した人物ではないことも分かる。戦後教育の優等生、東京大学卒、元上級通産官僚では、日本の歴史・伝統・「国技」に関する特別の知識も教養も身につけていないのだろう。法律にもとづく男女共同参画行政もしている筈で、よく分からないが、フェミニズムに抵抗感がない可能性もある。これらは東京都知事候補・浅野史郎と同じだ…。

-0070/山崎正和―平和を守るために何をできるかを考えよ。

 本の他に新聞・雑誌、さらにテレビ番組についても感想等を書いていくと、とても約1000字では足りず、時機を失してしまう。かといって本格的な「ブログ」サイトを維持していく時間的余裕はなく、たぶん能力もない。
 10月29日(日)午前のサンプロの録画の後半を観たが、朝日が「安心」するような安倍首相の「君子豹変」につき櫻井よしこや岡崎久彦に不信又は戸惑いを番組制作者(テレビ朝日だ)は語らせかったのかもしれないが、見事に失敗していたのが面白かった。中川昭一の核武装検討発言も、それと矛盾するかのごとき安倍の発言をフリップでいったん示していながら、塩川、山本も含めて全く当然のことという雰囲気になった。あとで制作者と田原総一朗は少しは後悔したのでないか。スタンスは全く同じではないが、櫻井と岡崎の発言の趣旨はよく分かった。いずれも了解の範囲内だ。
 それにしても、北朝鮮の核実験に関する諸々の問題、周辺事態法適用問題、教育基本法改正問題等もあるのに、「村山談話」と安倍の「歴史認識」の変化?といったテーマを設定する(そしてひょっとして安倍に厭味を言おうとする)とは、テレビ朝日も田原も、いま何が大切な問題かを忘れているのでないか。
 読売1~2面の山崎正和の論稿は予想外に非常によい。この人のは昔、柔らかい個人主義とかを少し囓った程度だが、ここまでハッキリと書ける人とは思ってなかった。
 「ほんとうの危機はこれからである」、法的問題も含めて議論すべき課題が多々ある、憲法のいう「『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼』しようにも、それのできない国が目前にある」、「『国の交戦権』を否定したくとも、相手がかってに宣戦布告をしたと認定してくる状況がある」、「『水と平和はただ』という通念を改め、平和を守るために一人ひとりが何をできるかを考えなければならない」、「治安のために市民的自由をどこまで犠牲にできるか、論議を深める必要がある」等々。その通りだ。
 今までとは質的に異なる安全保障環境の時代に入っていることを多くの人々が認識すべきでないか。リアルな把握ができず、観念と言葉を弄び、自分たちの面子がとりあえず立てばよいと考えている(朝日のような)人々を除いて。産経社説は<従軍慰安婦強制連行>肯定の93年「河野談話」の見直しを主張する。この中の「一部マスコミ」は朝日新聞で、これまた内容的に異論はない。

-0068/美智子皇后と日本の文化勲章を拒否した大江健三郎。

 先月の10/20に美智子皇后は72歳になられた。その日は偶然三紙を読めたが、美智子皇后に関する記事の大きさ(広さ)は目分量で、産経を5とすると読売は4、朝日は1だった。皇室への態度の違いが反映されていると見るべきだろう。
 皇室といえば、大江健三郎が明確に語っていないとしても、かつての自衛隊や防衛大学校生に関する発言から見て、彼が反天皇・皇族心情のもち主であることは疑いえない。ノーベル文学賞を受けた1994年に文化勲章受賞・文化功労者表彰を拒んだ際に「戦後民主主義」者にはふさわしくない、「国がらみ」の賞は受けたくないとか述べたようだが、彼は要するに、天皇の正面に向かい合って立ち、天皇から受け取る勇気がなかったか、彼なりにそれを潔しとはしなかったからではないか。明確に語らずとも、怨念とも言うべき反天皇・皇室心情をもって小説・随筆類を書いてきたからだ。
 だが、「戦後民主主義」者を理由とするのは馬鹿げている。大江にとって天皇条項がある「民主主義」憲法はきっと我慢ならない「曖昧さ」を残したもので、観念上は天皇条項を無視したいのだろうが、「戦後民主主義」にもかかわらず天皇と皇室の存在は憲法上予定されている。
 敗戦時に10歳(憲法施行時に12歳)で占領下の純粋な?「民主主義」教育を受けた感受性の強く賢い彼にとって天皇条項の残存は不思議だったのかもしれないが、憲法というのは(法律もそうだが)矛盾・衝突しそうな条項をもつもので、単純な原理的理解はできないのだ。
 「国がらみ」うんぬんも奇妙だ。彼が愛媛県内子町(現在)に生れ、町立小中学校、県立高校で教育を受け、国立東京大学で学んだということは、彼は「国」の教育制度のおかげでこそ、(間接的な)「国」の金銭的な支援によってこそ成長できたのだ。「国がらみ」を否定するとは自らを否定するに等しい。そんなに日本「国」がイヤなら、中国にでもキューバにでも移住し帰化したらどうか。
 大江は一方ではスウェーデン王立アカデコーが選定し同国王が授与する賞、かつ殺人の有力手段となったダイナマイト発明者の基金による賞は受けた(スウェーデン王室は17世紀以降の歴史しかない)。さらに、2002年には皇帝ナポレオン1世が創設したフランスの某勲章を受けた、という。
 天皇が選定の判断に加わっているはずもない日本の文化勲章のみをなぜ拒否するのか。その心情は、まことに異常で「反日」的というしかない。その彼は月刊WiLL12月号によると9月に「中国土下座の旅」をし、中国当局が望むとおりの「謝罪」の言葉を述べ回った、という。「九条を考える会」の代表格の一人がこうなのだから、この会の性格・歴史観もよくわかるというものだ。


-0064/高山正之・歪曲報道(2006)-マスコミの広告主は? 

 高山正之・歪曲報道(PHP、2006)を一昨日読了。
 朝日等々の「偉業」のいくつかを新たに知ったし、「義憤」めいたものも改めて湧いた。
 逐一紹介するとキリがないが、2005/05/18のテレビ朝日・報道ステーションではかつての北朝鮮帰還事業を「壮大な拉致」とする「当時の関係者」発言に対し、古館伊知郎は日本での「迫害」と「差別」で「たまらず北に帰る気になったのでしょうか」と言い、朝日新聞社派遣?の加藤千洋はしたり顔で「そうです」とだけ答えた、という(p.94-95)。
 馬鹿言っちゃいけない。朝日も<北は地上の楽園>と喧伝したマスコミ煽動者の一つでないか、と書きたくなる。
 それにテレビでは「スルー」とか言うらしいが、例えば中国に都合の悪いことは書かないという、「ボツ」化・「ネグり」という消極的な虚報も朝日はしばしばしているようだ。
 TBSへの怒りも甦る。知らなかったが(又は忘れたのか)、「成田闘争」の頃、中核派のために「警察の検問を受けない報道車両」で武器を運び込もうとした、という(p.47)。
 TBSはオウムの殺人や過激派の暴力の「協力者」だ。発言内容の一部カットとかの「偉業」もよく知られているが、ニュース23の放送元?であることも含めて、今も放送局でいられるのが信じ難い。
 というような感想も抱かせる本だが、各件の内容は詳細ではないし、少なからず各件の(社説等の)年月日が記載されておらず、資料として用いるには難がある。<朝日新聞「偉業」大全>といった詳細な記録集をどこか・誰かが発行しないだろうか(朝日に限らなくてもいいが)。
 衆院補選の翌日23日に菅直人・亀井静香・辻元清美の3人が同じ選挙カーの上に並んで立っている映像を見た。
 のちに思い出してしまったのは、そのグロテスクさのゆえにだろう。元警察官僚で当初は自民党福田(三塚)派だった亀井が、いくら小泉憎しといえども社民党と「共闘」することはないのではないか。
 詳細な知識はないが、政治「思想」は安倍晋三とも似ているかもしれない、弁も立つ有能な政治家(のように見える人)がこのまま「働き場」をなくすのは勿体ない。余計かもしれないが、国民新党代表代行とかに縛られて民主党候補を支持しているようでは将来は暗い。
 今日の読売新聞社説は、教育基本法改正案の審議に関して他の野党(共産党・社民党!)と同一行動をとる民主党を「かつての社会党と何も変わらない」と厳しく批判する。「日本を愛する心」を盛り込んだ改正案をもつ政党がいったい何をしているのか。

-0055/某韓国人から金日成は3人いると1980年代に聞いてから。

 北朝鮮という国の異常さを知ったのはたぶん1992年に崔銀姫=申相玉・闇からの谺―北朝鮮の内幕―(上・下、文春文庫、1989)を読んでだ。北朝鮮の映画を「向上」させるために韓国の映画監督・女優夫妻を金正日の指令で「拉致」したというのだから、その「人間」・「個人」無視の精神には唖然とした。
 続いて、1994年頃に姜哲煥=安赫・北朝鮮脱出(上・下、文藝春秋、単行本)によって北朝鮮の印象は決定的になった。デマの可能性はあったが、これだけの全てを捏造することはできず、少なくとも大半は真実だろうと感じ、こんな国がすぐ近くに存在していることについて信じ難い思いをしたものだ。これらを出版した文藝春秋の勇気?は称えたい。
 他にも若干の本は読んでいて、平均的日本人よりは北朝鮮の実態を知っていただろう。従って、日本人拉致問題に詳しくはなかったものの、2002年9月17日に金正日自身が拉致の事実を認めたとき、驚天動地の思いではなかった。この国なら何でもする、と感じていたからだ(むしろ認めたことの方に驚いた)。
 北朝鮮の歴史の知識もすでに持っていて、種々の金日成・金正日伝説は「ウソ」らしいと知っていた。
 市井の一日本人が若干の文献から「ふつうの感覚」でそう思っていたのに、より多くの情報に接する可能性があるはずの日本社会党等々の政治家たちが北朝鮮に「騙され」、日本共産党もまた「疑惑の程度に応じた」交渉を、などと能天気なことを言っていたのはこれまた信じ難い。社会主義幻想と朝鮮総連との接触の成した業だったろうか。今でも北朝鮮にはできるだけ甘く、米国や日本政府にはできるだけ批判的又は揶揄的に、という姿勢がかいま見える人々がいるしメディアがあるのは困ったものだ。
 そうしたメディアの代表は朝日新聞だが、朝日を批判する本又は論文・記事を一部抜粋して引用していくだけでもこの日記は続けていけそうだ。
 読売論説委編・読売VS朝日・社説対決北朝鮮問題(中公新書ラクレ、2002)の中で作家・柘植久慶は言う。
 「一方の朝日新聞の社説となると、悲惨なくらい過去の主張や見通しの外れているのがよく判る。これは…空想的社会主義と共産主義諸国に対してのダブルスタンダードが、ベルリンの壁の崩壊とソ連―社会主義の終幕によって、一気に価値を喪失したから…」、「地盤沈下の著しい左翼政党―共産党や社民党と同じように、朝日もまた地盤沈下の同じ轍を踏む危険性が大きい」(同書「解説にあたって」)。

-0054/中国・南京大虐殺記念館、本多勝一に授賞。河野洋平へは?

 やや旧いが、週刊新潮10/12号p.47によると、中国「南京大虐殺記念館」が9/24に元朝日の本多勝一他1名に「特別貢献賞」を授与した、という。
 所謂東京裁判で触れられていたが70年代に「南京大虐殺」を呼び醒まして教科書に記載されるまでに至らしめたのは本多勝一だった。受賞を彼は喜んでいるだろう。だが、中国共産党の支配と「南京大虐殺記念館」は永続するだろうか。真っ当な歴史認識をもつ新政権と社会が支那に生まれれば、記念館の外観・30万受難者を刻む大きなメダル・楯を伴う今回の受賞は紛れもなく「売国」=「反日本人」の証となるのでないか。
 動きに関する多少の情報は読んだかに思うが、読売新聞の本日5/16社説によれば、米下院の一委員会が「従軍慰安婦」にかかる日本非難決議案を議決したという。外務省はいったい何をしていたのか。読売のタイトルどおり「日本政府はきちんと反論せよ」。
 この事態は、1993年05月に宮沢内閣官房長官・河野洋平(現衆院議長)がきちんとした証拠もなく「慰安婦強制連行」を実質的に肯定する談話を発したことに遡るだろう。
 江沢民の時代だったので一部で「江の傭兵」とまで言われたらしい河野は、今からでも誤りを日本国民に詫び全世界に発表すべきだ。それとも朝日新聞のように、広い意味での「強制性」はあったと誤魔化して平然と議長席に座っているのか。
 朝日新聞・日本共産党等々もそうだが、戦後日本が行き着いた現状については自民党の責任も大きい。
 1994年に自社さ連立政権が成立したことには、与党復帰という政治的願望があったにせよ、マルクス主義者・社会主義者を忌避しない河野洋平が自民党総裁だったことも与っているはずだ。こんな人を抱え込みかつ要職に就かせるのだから、かつての自民党も骨・芯がない。社会主義と戦う強い意思を持たない者が自民党内にいくらでもいたのだ。
 福岡県筑前町教育長が昨日、教師による自殺生徒への「いじめ」を明確に肯定していたのが記憶に残ったが、今日校長は「いじめ」は認めつつ自殺との間の因果関係を否定する(少なくとも肯定しない)姿勢に変更?した。
 因果関係を肯定すれば町には明らかに遺族に対する損害賠償責任が発生する。訴訟で不利となる発言を慎むようにとの法律的「助言」が誰か又はどこかの機関からあったのではないか。

-0053/北朝鮮危機-李英和・強硬には超強硬!が適切。

 鷲田の本をほぼ読了。「岩波の総合雑誌『世界』や『思想』は、すでに死に体である。朝日新聞社が次々に試みる総合誌、オピニオン誌も、ばたばたと消える」(p.186)。これが事実ならいいのだが。
 「世界」や「論座」の(「諸君」や「正論」もだが)販売実数はどうすれば分かるのだろう。朝日が出すらしい何とか「新書」も売れ行き低迷で「消え」てほしいものだ。むろん、朝日的なテーマ設定、執筆者人選が行われるに決まっているから。
 数日前に気づいていたが、朝日新聞10/12社説「ニュー安倍・君子豹変ですか」はヒドい。若宮啓文なのかどうか、こういう文を書く人の人格・品性を疑う。立ち入りたくもないが、「首相になると一転、ソフト路線で支持率を上げ、参院選を乗り切る。地金を出すのは政権が安定してから……。そんな邪推をする人」こそ社説子で、かつ「邪推」でなく、思い切り叩き罵倒するために「期待」しているのでないか。
 そういえば読売編集の社説対決・読売対朝日が中公新書ラクレで3冊出ている。朝日が自らの社説に自信があるなら、朝日の「新書」で読売又は産経の社説と比較分析して公にしたらどうか。
 朝日新聞10/13社説は「日本が先行して厳しい措置をとったことで中韓など関係国との足並みが乱れては逆効果になる。単なる国内向けのパフォーマンスと勘ぐられないためにも、関係国間の結束を第一に考え…」と安倍内閣の決定にケチをつける、「あっち」向いたことをのたまう。中韓日の足並みが揃うわけがない。バカではないか。
 読売新聞10/15社説は「日本の安全を損ねる憲法解釈」と題して、1.集団自衛権行使不可の(従前の)政府解釈や2.武器使用基準の再検討を提言している。内閣は最高裁判決の解釈には実質的又は事実上拘束されるが、1.の基礎の解釈を示した内閣法制局はたかが内閣の補佐機関で、内閣を永続的に拘束するはずがない。憲法改正は間に合いそうにないが、現行法制に事態対処のためには不備があるとすれば、当然に改正又は新法制定すべきだ。朝日よりも読売の方が適切・冷静なのは言うまでもない(読売を全面支持はしないが)。
 午後のTV番組で田嶋陽子は北朝鮮に「アメリカと話し合う」機会を与えるとの意見を示した。
 ヒトラーに対するチェンバレン(英国)の宥和政策の失敗、北朝鮮へのクリントン政権の穏和的姿勢の失敗を見ても、絶対化・一般化は無理としても、「強硬」姿勢には「超強硬」姿勢で対応・制裁すべきだろう。

-0043/裁判官も戦後「民主主義」・「個人主義」教育を受けた。

 2006年9月21日の東京地裁判決で奇妙に思ったのは、以下。読売朝刊掲載の「要旨」による。
 1.「日の丸、君が代は明治時代以降、第二次世界大戦終了までの間、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられたことがあることは…歴史的事実であ」る、
 2.法律上の国旗・国家となった現在でも「価値中立的なものと認められるに至っていない」、
 という2点を、掲揚・斉唱への反対者を保護すべきとする論拠にしていることだ。
 これらは裁判官のいわば「歴史認識」を示している。
 だが、前者については、イギリス、アメリカ、スペイン、フランス等々によるかつてのアジア・アフリカ「侵略」の際に各国の国旗等が用いられたが、これら諸国の公的行事でこうした歴史のゆえに国旗等を忌避する「自由」は認められているのだろうか。
 後者は国会制定法よりも現実を優先する発想だ。
 かかる判決を見るにつけ、裁判官にも「占領軍史観」とか「東京裁判史観」とか「日教組史観」とかいわれる原告たちと同じ「史観」が入り込んでいることに気づく。裁判官たちは、戦後日本の教育のある意味では最も優秀な生徒なのだ。法律(と現実との関係)を勉強ばかりしていれば、日本の戦争・戦後史・国歌・国旗に関する知識が教科書レベルのものにとどまり、常識的感覚からは奇妙な判決も出てしまう。私的生活の範囲内なら別として、公立学校の公的行事に教育公務員の「思想・良心の自由」を認めれば場合によっては掲揚・斉唱の際に教師全員が起立しないことがあってもよいことになるが、それで生徒たちへの公教育責任を果たしたことになるのか、生徒たちに悪影響を与えないと言い切れるのか。
 みの判決は、はしなくも日本の規律と秩序の崩壊傾向、タガのはずれ進行を示す判決になった。むろん、別異に解する判決もある。
 読売は社説で判決に反対、秦郁彦・保阪正康の反対意見、マルクス主義歴史学者・大江志乃夫の賛成意見を掲載。
 産経は「これでは公教育が成り立たない」等と社説で反対。
 朝日は賛成、毎日は「解説」も併せて読むと賛成。この問題でも<国論>は分裂している。
 公立学校の入学式等での国家斉唱の際座り込んだままの入学生がいた場合に「注意」もできないのか。教員の中に起立しない者がいたとして「注意」もできないのか。義務づけと指導では拘束力の有無という差違はあるが、「内心の自由」への介入という点では同じで、「注意」すら本判決だと違憲になりうる。
 何と日本は「自由」で「個人」が尊重された国なのだろう。

-0039/戦後教育の最優等生・「保守的」立花隆。

 古いが読売新聞9月5日25面-「8月末、米紙の中国人助手が懲役3年を宣告され、シンガポ-ル紙の香港駐在記者にも懲役5年の判決が下された」。
 本日読売3面-「自由主義社会の『有害』なサイトを遮断し、検索語句を制限しているほか、膨大な数のサイバ-警察が…不穏な動きを検索、追跡しているという」、「公安当局は今月6日から8日にかけて、…320以上の違法サイトとネットコラムを閉鎖、1万5000の『有害』情報を削除した」。
 いずれも中華人民共和国に関する報道だ。
 かかる中国の現在を日本の1960年~1964年あたりの時期に相応していると「直感」したのが、あの「大評論家」・立花隆だった。2~5歳に北京にいたとはいえ、荒唐無稽・抱腹絶倒等々と表現できるスゴい分析だ。
 立花は、小泉に対して、中・韓へのひざまずいての「ドイツ」式謝罪も要求する(同・滅びゆく国家p.204等、2006)。杜撰にも中・韓の区別もしていないが、戦後補償・「謝罪」に関する日独比較の基本文献をこの人は読んでいないのでないか。
 この人は、皇室問題では愛子様、女系・女性天皇を支持する(p.112~)。執筆時期から見て宥恕の余地はあるが、しかし、皇太子夫妻が第二・第三子を望まれるなら「高度生殖医療技術の利用に正々堂々と踏み切るべきだ」、「不妊治療に踏み切れば、対外受精で…妊娠することはほとんど約束されている」とほとんど知人夫妻にでも言うがごとく「助言」するに至っては、どこかおかしいと私は感じた。
 上のように活字で明記してしまう感覚は国家・国民統合の「象徴」に対する敬意の欠落の表れで、さらにおそらくは天皇・皇室という「非合理」なものを「国民の総意」で廃止したいというのが彼の本音だろうと推測される。
 立花は教育基本法の改正にも憲法の改正にも反対の旨を明言している。
 勝手に推測するに、「戦後民主主義」のもとで立花(橘隆志)は十分に「成功した」、今のままでよい、という「保守的」気分があるのでないか。現教育基本法の条文を抜き出してこれで何故いけないのかと問う姿勢からは、(中国には存在しない)表現の自由、「個人主義」、反体制的風潮の存在の容認といった「戦後」の恩恵を彼は十分に受けたと感じていることを示しているように思う。

-0029/「国内の左翼の策動」。あてはまるのは朝日新聞と誰々?

 米国は1日に模擬弾道ミサイル迎撃実験をして成功し、2日に北朝鮮は自国攻撃目的等と非難した。北朝鮮が核実験に成功し日本に向けて4、5発を誤りなく発射すれば、迎撃しないかぎり、日本と日本人はなくなる。かかる情勢への関心を全く示さず、「平和ボケ」の、ありきたり議論を展開していたのが、立花隆だった。
 読売1-2面の岡崎久彦寄稿は立花や大江とは違う「リアル」な認識が背景にある。靖国「問題」は「国内の左翼反体制運動から端を発し」た、消えた問題が再燃した「発端は例外なくすべて国内の左翼の策動である」とズバリ指摘している。朝日新聞社等の、と具体例を挙げないと意味不明の読者がいるのではと心配するが、朝日新聞等の「策動」者、高橋哲哉氏等の「策動」加担者はどう読んだだろう。
 かつては新聞社は報道機関と考えていたが、安倍晋三総裁・総理阻止の明瞭な姿勢とそのための布石等々を見ても(教科書、従軍慰安婦、NHKへの政治家圧力「問題」もそうだが)、少なくとも朝日新聞だけは「策動」団体(「謀略」団体と言う人もいる)と言ってよいと思う。正面から「安倍総裁の実現に反対する」、「福田総裁の実現を希望する」とかの見出しの社説を堂々と書けばまだましだが、皮肉・あて擦り・暗示が多いのが「卑劣」でもある。言い古されたことかもしれないが。
 荷宮和子・若者はなぜ怒らなくなったのか(中公新書ラクレ、2003)は「団塊と団塊ジュニアの溝」との副題が気を引いたが、「あとがき」を先ず読んで、この人自身の表現を借りると、この人は「アホである」(p.245)

 多少中身を見ても概念定義・論理構成不十分。
 同・なぜフェミニズムは没落したのか(同前、2004)を既所持で第一章まで読んでいたが、この人自身の表現を借りると、この人は「アホである」(p.277)。活字文化のレベルはここまで落ちている。何の学問的基礎・専門知識もなく、喫茶店のダベリを少し体系化しただけのような本が出ている。
 そんな傾向を全否定はしないが、中公ラクレ編集部の黒田剛司氏は自社の名誉・伝統のためにも執筆者の再検討を。2冊ともたぶん100~300円で買った古書なので大した打撃ではないが、読んだ多少の時間が惜しい。小浜逸郎・やっぱりバカが増えている(洋泉社、2003)の証左かも。が、「バカがこれ以上増えませんように」(前者最末尾)だとさ。

-0027/防災の日。安倍晋三は憲法改正・教育改革を鮮明に?

 初めての月変わり。昨日は勤務先のあと「軍艦」、古書店と回ってまた10冊ほど増えた。
 読売朝刊、盧武鉉大統領不支持率75%と。これで交替させる制度が憲法上ないとは、5年の任期保障は長過ぎということではないか。いろいろ読むところによると「異常」な政権で、まともな韓国々民の「苦労」も思いやられる。
 安倍晋三は第一に憲法改正、第二に教育改革(教育基本法改正等)を政策にするとか。朝日・岩波や「進歩的文化人」との正面対決が予想される。長年にわたって対決を避けてきた与党(自民党等)にこそ弱腰で問題があったもいえる。だが、ひところと違って護憲派「進歩的文化人」も小粒になってきた。大江健三郎が最大の「左翼」デマゴ-グ、いや失礼-イデオロ-グと位置づけられている印象もある。同じ作家の井上ひさしも迫力はないし、奥平康弘はその分野(憲法学)では大物だとしても一般的な通用力はない。要するに「カリスマ」がいない。といっても、激しいゲリラ戦的抵抗はあるだろう。
 靖国問題(ちくま新書、2005)を書いた高橋哲哉が日本評論社から「憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本」と題する本を出している。当面読むつもりはないが、何ともひどい、詐術的な題名だ。「憲法が変われば戦争になる」という(それこそ議論が必要な)命題を前提として措定しているのだから。
 著者はまともな「論理」を語れる学者なのか。日本評論社も少なくとも特定分野については歴史的に有名な「左翼」出版社で、この出版社についても今後何か書くだろう。
 渡部昇一他・日本を虐げる人々(PHP、2006)によると、保阪正康の「昭和戦争」(読売用語)観は、GHQ・東京裁判と同じらしい。なるほど、靖国神社を批判し、朝日が保阪に投稿を求めるはずだ。同・あの戦争は何だったのか(新潮新書)は未読のままだが。
 終戦後に生まれた「団塊」世代者としては占領の実態は従来よりもきちんと知っておきたいと思っていたのだが、占領(東京裁判もこの時期)を語ることは「あの戦争」の評価・理解、「戦後」史全体の評価・理解にかかわることが判ってきて、まことに重たい。朝日新聞的、かつての教科書的知識のままでいるのと比べれば、はるかに幸福ではある。

-0011/ロシアとどうなる?、買った本は全部読めるのか?

 ターミナルに出て10冊以上古書を買う。他に計10冊以上、配達された。
 読売社説。「ところが、…対中外交をどのように構築していくべきかについて首相は説明」せず-尖閣・油田・潜水艦等々外交上の問題は彼国が生み出しているのであり、社説子は小泉にいったい何をせよというのか。A級戦犯につき首相は「戦争犯罪人であるという認識…と国会で答弁」-この答弁は不用意で、取消し又は撤回されるべき、あるいは<東京裁判上の>との限定を施すべきで、この答弁は将来の議論の前提とされてはならない。
 同紙13面の保阪正康の文章-ここでも松平永芳宮司につきA級戦犯合祀の根拠を「特異な歴史認識」と批判している。が、東京裁判も「戦闘状態」の中でのものという理解は、講和条約発効まで米国等は日本を「敵国」視していることになるので十分に成り立ちうる。東京裁判の検察側証人は利敵行為をしていたことにとか、吉田内閣は占領軍の傀儡だったことにとかの批判は、批判の仕方として適切ではない。
 a物理的な戦闘終了=降伏文書交付まで、b「占領」期、c独立(といっても日米安保条約付きだったが)以降、の三期があるわけで、bを前後のどちらに近いものと見るかの問題である。そして、bはcよりはaに近いとの見方は十分に成立しうると思われ、「特異な」とかの批判はややエキセントリックに感じる。保阪はA級戦犯合祀に反対で、その「理論的」根拠を否定したいのだろうが、A級戦犯等を国内法的には「犯罪者」扱いしなくなったこととの関係はどう説明するのか。
 喫茶店で朝日を読んだ。靖国参拝問題のスペース多し。ついでに、加藤紘一自宅火災記事は1面中下。朝日に問うてみたいのは、戦争指導者としてのA級戦犯の合祀さえなくなれば問題はないのか?だ。B、C級戦犯には、映画「私は貝になりたい」にも見られるように一般人・庶民出身も多数含まれる。しかし、(B、C級戦犯も対象とした)東京裁判の全尊重という社是からすると、B、C級戦犯の合祀と彼らの靖国での慰霊・追悼も怪しからんということになるはずだ(中国の言い分も同じ。なお、B、C級戦犯の中には南京100人斬り競争したとの虚報による2軍人も含まれる)。どこか奇妙だとは思わないのだろうか。
 まあ、いい。朝日新聞には、重要な問題については朝日の主張と反対の主張を採択すべきとの歴史的教訓を生かせるべく、今後も健闘してもらわなければ困る。

-0010/61年めの記念日に二度めの日記でつぶやく。

 睡眠を経て、午後4時すぎ。終戦記念日の読売社説を読んで、朝日の13日の社説は読売の一部のパクリのごとくだと感じた。読売のように1年以上の検証を社内ですることなく、朝日は社説で唐突に、「責任」の有無や程度を一部の個人についてのみ言及したのだ。といって、読売社説に全部納得しているわけではない。朝日の世論調査報道のごとく、100%「侵略」戦争だったと100%の現国民が考えているわけではない。プラス面又は「自衛」面がかりにあったとすれば、論理的には「責任」者でなく「功労」者を検証すべきことになる。読売は「侵略」戦争一色史観なのか。
 小泉首相、午前早くに靖国参拝。昨年に比して方式がより本格的なのは、今年、靖国参拝違憲損害賠償請求訴訟につき最高裁が(合憲としたわけではないが)不法行為法(国賠法)上保護されるべき損害なしとして棄却したことが大きいと推測される。
 新聞社、半藤・秦・保阪等々が戦中史・戦後史について積極的に発言しているが、肝心のわが日本史学界(近現代史学界)=アカデミズムの人たちはいったい何をしているのか。かつて亀井勝一郎氏が批判して論争が生じた岩波新書・昭和史(1959、1995.05-56版)は1995年の増刷だが、依然として朝鮮戦争は南が北侵の旨記述する(p.276)。
 ソ連の同意と中国の了知のもとでの北の南侵が明瞭になっているのに、岩波と遠山茂樹・藤原彰等には「学問」的良心がなく、「知的退廃」がある。名誉毀損損害賠償訴訟を起こされなければ「嘘」の記述でも垂れ流して売るのだろう。このような人たちを指導教授とする親マルクス主義的研究者が多く育っていると思われ、「正常」化にはあと何世代か要するようで未来はただちには明るくない。
 松本健一は経済学部出身、故坂本多加雄氏は法学部出身。もっとも、非マルクス主義の通史シリーズもいくつかあるようで状況は少しは変わった。かつてヒットした中公の日本の歴史シリーズは直木孝次郎・黒田俊雄・井上清など「左翼」の多さが歴然としていたように思う。
 鈴木正四・戦後日本の史的分析(青木書店、1969)は「労働者階級の立場、マルクス主義の方法と観点」で書くと「まえがき」で宣言しつつ朝鮮戦争につき「少なくともいわば一万中の九九九九まで、アメリカが戦争をおこした疑いがきわめてこいという結論にたっした」と述べていた(p.114)。日本共産党員らしき研究者の体たらくを、今や嗤い、憐れむのみだ。

-0007/「中国は社会主義の衣をまとった封建国家」-立花隆は?

 日曜とはいえ勝谷某と比べて12時間遅い(早い)生活リズムになって、体の調子がどこかおかしい。今日は2+1の計3冊届いた。このあと、5日ぶりくらいに最寄りの繁華街を散策し古書店にも入ってみよう(歩ける遠さではない)。
 読売の昨日の朝刊2面に、中国南東部地方で台風のため少なくとも104人死亡、行方不明190人とある。日本で水害数百人の死者となれば大騒ぎだが、治水のインフラ不備等の中国では珍しくもないのだろう。6面の「ドイモイ20年」との連続囲み記事中には、ベトナム「共産党の支配は大きく傷ついている」、「公正な社会の実現は、はるかかなただ」等とある。今でも社会主義・共産主義幻想を残している人々はいるのだろう。20世紀に関する歴史学上の最大の課題はなぜコミュニズムはある程度の期間、ある程度の地域で成功したのかだ、というのが私見方だ。帝国主義でもドイツ・ファシズムでも日本軍国主義でもない。
 立花隆・滅びゆく国家(2006.04、日経BP)は少なくとも一部に中国への「愛着」と「幻想」を示しており、かつての立花作品の愛読者としては幻滅した。逐一コメントしていくには、多すぎてこの欄は相応しくない。
 この本と同様に月刊誌・週刊誌等への連載寄稿をまとめたものに、最近では櫻井よしこ・この国をなぜ愛せないのか(ダイアモンド社、2006.06)がある。表面的に比べてみると、北朝鮮・拉致問題への言及が立花本には一切なく!、櫻井本には当然にある。精読していないが、立花本には(小泉は靖国参拝で中国を「挑発」するな旨言うくらいだから)中国批判、将来の中国への憂慮を示すフレーズはないのでないか。
 どちらが売れているのだろうと、某ネット販売サイトに今朝の未明に入って見てみたら、櫻井本5534位に対して立花本は80684位、しかも立花本の「カスタマーレビュー」の見出しに(だけでも)「立花隆にしてこれか」、「真に滅びゆくのは誰?」、「知の巨人?」などがあった。某社の販売数がどの程度全体を反映しているのか確たる知識はないが、それでも読者は「健全な」反応をしていると感じた。
 これまた読みかけの北村稔・中国は社会主義で幸せになったのか(PHP、2005)は中国を「社会主義の衣をまとった封建国家」としている。黄文雄・それでも中国は崩壊する(ワック、2004)などもある。ソ連と同様に中国共産党の支配もいずれ破綻するのが「歴史的必然」のように思うのだが。

-0003/61年も経って決着がつけられない民族なのか。

 昨晩は某大規模店舗の見学を兼ねての同施設内の歩行を「散歩」代わりにしたための運動不足か、レストランに入っての帰宅後の体重測定では、数日前の日中散歩後と比べて1.5kgも増えていた。まずい。
 昨日は古書2冊のみだったが、今日は古書・新本併せて10冊以上が届いた。「栗本慎一郎の脳梗塞になったらあなたはどうしますか」(2000、たちばな出版)を一部読んでいると、脳梗塞ももはや他人事ではないという気がしてくる。読売編集の「検証戦争責任1」(2006.07、中央公論新社)は4刷のものが手に入った。今日あたりの新聞では、大増刷・第5刷の広告を見たように思う。
 読売の作業を、某著名人はチマチマした本質的でないものと批判していた。それはともかく、60年以上前に終わった戦争の見方・総括とも関連して、いまわが国はいわば<国論の分裂>状態にあるようだ。忙しく仕事をし、一紙程度の新聞とテレビを漫然と見ていたかつてはさほど強くは意識しなかったのだったが。
 岩波新書がすでに少なくとも2冊ある「憲法再生フォーラム」や、吉永小百合様を巻き込んでの、岩波の冊子がすでに少なくとも3つある「憲法9条を考える会」などは、すでに近い将来の<決戦>を意識して活発に?活動しているようにみえる(どの程度彼らの主張が読まれているかは知らないが、新田次郎の次男坊による短い、イヤ読みやすく内容の濃い本に完敗していることは間違いないだろう)。
 一方、憲法問題をも含んでいるだろうが、「日本教育再生機構設立準備室」なるものができ、08月05日には「八木秀次ともに日本の教育再生を考える夕べ」とやらが開催され、安倍晋三官房長官から祝電を受け、櫻井よし子等が「激励の挨拶」をしている。分裂・消滅した「…つくる会」的団体の再結集・再構築のように見える。
 国論分裂過多で右往左往して亡国したかつての某国のようにならないためにも、言論リーダーたちの責任は重い。いや、この秋月瑛二の責任だって??!!
 秋月瑛二も給与生活者なので、本来の仕事がある。今日もした。ある仕事の前半の実質的に40%はほぼ終わり、後半に突入しているが、明日には終えてしまいたいものだ。
 どうやら今日は散歩なしに終わりそうな気がする。まずい。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2096/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07②。
  • 2096/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07②。
  • 2096/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07②。
  • 2096/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07②。
  • 2095/西尾幹二の境地・歴史通11月号②。
  • 2092/佐伯智広・中世の皇位継承(2019)-女性天皇。
  • 2085/平川祐弘・新潮45/2017年8月号②。
  • 2085/平川祐弘・新潮45/2017年8月号②。
  • 2083/団まりな「生きているとはどういうことか」(2013年)。
  • 2083/団まりな「生きているとはどういうことか」(2013年)。
  • 2083/団まりな「生きているとはどういうことか」(2013年)。
  • 2081/A・ダマシオ・デカルトの誤り(1994, 2005)②。
  • 2080/宇宙とヒトと「男系」-理系・自然科学系と<神話>系。
  • 2066/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)②。
  • 2047/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)②。
  • 2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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