秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

読売

中西輝政の憲法<改正>論。

 中西輝政・中国外交の大失敗 (PHP新書、2014.12) の最終の第八章のタイトルは「憲法改正が日中に真の安定をもたらす」であり、その最終節の見出しは「九条改正にはもはや一刻の猶予もならない」だ。そして、「九条改正という大事の前では、集団的自衛権の容認など、取るに足らない小事」で憲法九条を改正すれば「集団的自衛権の是非などそもそも問題にはなりえない」等ののち、「日本人はいまこそ一つの覚悟を固めて」、「日本国憲法の改正、とりわけ第九条の改正」にむけて「立ち上がらなければならない」等と述べて締めくくられている。
 このように中西輝政は憲法「改正」論者であり、<改正というべきではない、廃棄だ>とか<明治憲法に立ち戻ってその改正を>とか主張している<保守原理主義>者あるいは<保守観念主義(観念的保守主義)>者ではない。
 ではどのような憲法改正、とくに九条改正を、中西は構想または展望しているのだろうか。中西輝政編・憲法改正(中央公論新社、2000)の中の中西輝政「『自己決定』の回復」の中に、ある程度具体的な内容が示されている。
 すなわち、「九条の二項を削除し代わりに、自衛のための軍隊の保有と交戦権の明示、シビリアン・コントロールの原則と国際秩序への積極的関与に、それぞれ一項を立てる、というのが私の提案である。そして慎ましい『私の夢』である」(p.98)。
 そして、このような「九条二項の逐条改正を『最小限目標』とすべきである」ともされている(p.96)。
 この中西の案はいわば九条1項存置型で、同2項削除後の追加条項も含めて、基本的には、自民党改正案(第二次)や読売新聞社案とまったくか又はほとんど同じもののようだ。
 注目されてよいのはまた、「一括改憲」か「逐条改憲」かという問題にも言及があることで、「戦略」的な「現実の改憲」の容易性(入りやすさ)が意識されている。
 中西によれば、私学助成、環境権、プライバシー権など(の追加による逐条改憲)は「入りやすく」とも「『自己決定』の回復」とは到底いえず、一方、一括改憲は「改憲陣営の分裂を生じさせる」可能性があり、「何よりも時間がかかる」(p.96)。
 昨年末に田久保忠衛の論考(月刊正論(産経)所収)を読んで、ただ憲法改正を叫ぶだけではダメで、どの条項から、どういう具体的内容へと改正するのかを論じる必要がある、<保守派の怠惰>だと書いたのだった。しかし、中西輝政はさすがによく考えていると言うべきで、上のような議論を知ると、中西輝政を含めた<保守派>全体にあてはまる指摘ではなかったようだ(この中西編の著も読んだ形跡があるのだが、少なくともこの欄で取り上げたことはなく、-よくあることだが-中西論考の内容も忘れていた)。
 なお、上の2000年の中西論考は、中西輝政・いま本当の危機が始まった(集英社、2001)p.214以下、およびその文庫版(文春文庫、2004)p.196以下にも収載されている。
 とくに中西輝政と西尾幹二の諸文献、諸論文を、読む又はあらためて読み直すことをするように努めている。この稿はその過程でしたためることになった。

1304/西修・…よくわかる!憲法9条を読む-4。

 西修・いちばんよくわかる!憲法9条(海竜社、2015)を読んでの感想は、最後に、改憲派あるいは憲法九条改正を主張する論者においても、その改正の具体的内容についてはおそらくは基本的な点についてすら一致が必ずしもない、ということだ。これは西修の責任ではない。但し、読売新聞社案、産経新聞社案の作成に関与し、「美しい日本の憲法をつくる会」の代表発起人の一人であることから、もう少し何とかならなかったのか、という気もする。
 最大の論点は、現九条1項を基本的にそのまま残し、2項のみを削除・改正ないし追加するかだ。西修自身は、全体をかなり分解した改正案を考えているが(上掲p.115-)、現1項の趣旨をより明確化した文章に変えたうえで現2項を全面的に改めるもので、基本的趣旨・構造自体は現1項存置型に近いもののように解される。西修案は、同・憲法改正の論点(文春新書、2013)p.186でも示されている。
 明確に1項存置型の読売新聞社案と産経新聞社案とは基本的に同じだという西修の説明もあるが、産経新聞社案「起草委員会委員長」だった田久保忠衛は「第一項も含めて全面的に改める」こととしたと明記していることはすでに何度か記した(田久保忠衛・憲法改正/最後のチャンスを逃すな!p.172-5(並木書房、2014))。また一方では、既述のとおり、田久保忠衛は「美しい日本の憲法をつくる会」の共同代表の一人だが、同会による「改正案骨子」は現九条について「9条1項の平和主義を堅持するとともに、9条2項を改正して、自衛隊の軍隊としての位置づけを明確にします」と述べて、現1項は存置する考え方であるような主張をしている。
 櫻井よしこ=民間憲法臨調・日本人のための憲法改正Q&A(産経新聞出版、2015)はこの点についてどう書いているだろうか(なお、西修は民間憲法臨調の「副代表・運営委員長」のようだ)。
 まず、「例えば、第9条2項だけを改正し、1項は残す」としているのが目につき(上掲、p.36)、「例えば」とあるところからすると、この考え方も一案にすぎないものと理解されているように読めなくはない。
 しかし、改憲諸案で現1項の<侵略戦争>放棄の趣旨部分を提案するものはないと書き、1項を存置しても「平和主義の原則」は変わらない旨も記している(p.35)。
 また、<第9条を改正すると、「平和主義の理想」を捨てることになりませんか?>という質問を設定しつつ、「第9条2項を改正して軍隊を持っても、第9条1項に掲げられた『平和主義の理想』を捨てることにはなりません」という回答を述べ、その説明をしている(p.54-55)。
 こうしてみると、この本の考え方は、現九条1項は基本的に残したうえで2項を改正又は削除して「軍隊」保持を明記する、というもののようだ。
 とすると、田久保委員長ら「起草」の産経新聞社案はやはり最も異質な改正案の文言になっている。 
 奥村文男は産経新聞5/17の「憲法講座」94回で自民党案と産経新聞社案を比較して、「両者の基本的視点は共通ですが、自民党草案は、現9条1項を踏襲した上で、自衛権の発動を認めるとする点で、回りくどい表現が気になります。この点では、産経案の方がより簡明です」と述べて、産経新聞社案が最良であるかのごときコメントをしている。しかし、各改正案を見てみれば、このような評価は、「簡明」さの問題はさておき、決して多数に支持されているわけではないと思われる。
 このように諸改正案を見てみると、西修案にも見られる「簡明」さは魅力的ではあるが、結局のところ、現に政党の中で唯一九条改正案を提示し、今後も改憲運動の中心になるだろう自民党の案を基本として九条改正を議論する、あるいはそれに向けて運動するのが妥当だろうと考えられる。
 政権政党でもある自民党の案は、たんなる「私」企業である新聞社の案や学者等の「私案」とは異なるレベルのものと理解されるべきで、同列に並べて比較するのはもともと適切ではない。
 細かな文言等々について種々の議論が-おそらくは「美しい日本の憲法をつくる会」の役員の内部でも-あるのだろうが、私的団体間や個人間の議論ではなく、九条に関する自民党改正草案を支持するか、あるいはどのようにそれをよりましに修正するか、という議論をした方が生産的だと思われる。また、かりに九条にかかる自民党改正草案が支持されてよいのだとすれば、それを採用して各団体や論者の主張・意見としてもよいのではないか、と考えられる。
 九条の改正の具体的内容について些細なあるいは細かな、字句をめぐるような、不毛な・非生産的な議論は避けるべきだろう。 

1265/産経新聞社案「国民の憲法」について2-天皇条項の一部。

 現憲法一条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」、と定める。
 「象徴」ではなく「元首」化をという議論についてはさておき、後段は、とくに「主権の存する」は、いわゆる「国民主権」(昔風には主権在民)を憲法上明記するために、やや無理して挿入された、とも説明されてきた。この条文以外に、<国民主権>を規定する明文は現憲法にはない。
 この「象徴」天皇制度の規定をふまえて、現憲法二条が「皇位は、世襲のものであ」ると明記していることは、占領期の憲法という特殊性を考慮すれば、刮目すべき重要なことだったと言える。なぜなら、日本の敗戦という結果にもかかわらず、日本の長い伝統に近い<世襲天皇>制度を明記して容認しているからだ。竹田恒泰がどこかで言っていたように、天皇制度が廃止されて<共和制>になっていたことを想像すると、それよりは優れた選択を現憲法はしている(GHQもそれを認めた)ことになる。連合国のうちかつてのソビエト連邦が戦後日本の憲法を企図したとすれば、あるいは原案作成に強く関与していれば、このような条項は採用されなかっただろう。
 さて、<世襲による象徴天皇制度>は憲法上のものであり、かつそれは「主権の存する日本国民の総意に基く」ととくに規定されているのだから、制定時の理解・解釈はさておき、それとは独自に成立しうる憲法解釈として、現一条(+二条)は現憲法上の重要な<原理>として、憲法改正の限界を画す、つまり、憲法改正によっても変更・削除することはできない、と理解することも不可能ではないと考えられる。このように解釈すれば、憲法改正によって、<世襲による象徴天皇制度>を廃止することはできない。もし廃止しようとすれば、それは法的には非連続の一種の<革命>になる。
 だが、以上は成り立ちうる解釈だとは思うが、戦後の憲法解釈学において、現一条(+二条)は憲法改正の対象にできない、という議論はまったくなかったように見える。それよりも、逆に、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」のだから、「主権の存する日本国民の総意」によって変更する、そして廃止することもできる、と解釈されてきた。この点を意識または強調して、将来の天皇制度廃止を展望する論者は、明言しないにせよ、現在の憲法学界には多いのではないか、と推測される。
 しかし、そのような解釈しか成り立たないのではないことは上記のとおりだ。<憲法制定権者である憲法制定時の国民の総意>にもとづくと明記されているのだから、将来の国民もこれに拘束される(改正・廃止はできない)と解釈することが、さほど荒唐無稽なものだとは思われない。一条の上記部分の通例のまたは多数の解釈は、<政治的>色彩をやはり帯びているように考えられる。
 ところで、産経新聞社・国民の憲法(2013)のうち、同社案「国民の憲法」と自民党改正案の違いを記した部分には、天皇条項について、つぎのような叙述がある(p.139)。
 自民党案には「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という部分が残ったままで、これは「あたかも国会の議決で天皇の地位を自在に改変できるかのような誤解を招きかねない」。そして、この条文を使って「天皇制廃止」を「堂々と主張する憲法学者もいる」ので、「このような誤解を生み出す記述は削除し」た。以上、抜粋引用。
 この文章・論理は奇妙だ。少なくとも二人の憲法学者が起草委員会には加わっていたはずなのだが、このような叙述をお二人とも了解しているのだろうか。
 根本的に言って、「主権の存する日本国民の総意」=「国会の議決」ではありえない、ということはほとんど自明なことで、ほとんど誤解を生じさせない、と考えられる。誤解する一部の者には誤解だと説明すれば足りる。それに、この条文を使っての「天皇制廃止」論は憲法改正によるそれを展望していると容易に想定できるのであり、国会の議決=(ほとんどが)法律、による「天皇制廃止」を主張する憲法学者など皆無なのではないか。そのような議論・主張を読んだことは一度もない。
 以上のとおりで、憲法(改正)レベルの問題と法律(改正)レベルの問題の混淆が、上の叙述にはある、と見られる。
 ひょっとすれば、明言はしていないが、「主権の存する日本国民」という理解に対する反発・懸念が産経新聞社「国民の憲法」立案者にはあるのかもしれない。たしかに「主権」概念の法的意味と効用は議論されてよいものの、そのまま残しておいてさしたる弊害は生じないものと私は考える。むしろ、これを残すことによって、<世襲による天皇制度>は憲法改正の対象にはできないという解釈を導くことが不可能ではないことは、上述のとおりだ。なお、読売試案2004年は「その地位は、国民の総意に基づく」、として「主権の存する」との部分を削除しているが、産経新聞社案に比べれば、はるかに現行の上記条文を残す自民党案に近い。この点でも、産経新聞社案は異質だ。
 さらにいうと、産経新聞社案「国民の憲法」によれば、「天皇制廃止」の主張は排撃され、、「天皇制廃止」は不可能になるのだろうか。そんなことはない。同案によれば(117条)、各議院の過半数議員の賛成による国民への提案にもとづく国民投票での国民の過半数の賛成でもって憲法改正が可能である。産経新聞社案「国民の憲法」上の天皇条項は、なんと現憲法によるよりも容易に改正される(廃止される)ことになっている(「憲法改正の限界」に関する明文はないようだ)。「天皇制廃止」を「堂々と主張する憲法学者もいる」ので上記部分を削除したというが、削除したところで、憲法改正による「天皇制廃止」を「堂々と主張する」ことを封じることはできないのだ。
 以上、二回めの、産経新聞社案「国民の憲法」についての感想とする。
 なお、産経新聞社・国民の憲法(2013)の奥付の前の頁には、産経新聞社の名のもとに小さく、「近藤豊和、石川水穂、湯浅博、石井聡、安藤慶太、榊原智、小島新一、溝上健良、田中靖人、内藤慎二」と記載されている。この人たちが(おそらくは起草委員会メンバーではなく)この本を執筆・編集しているのだろう。したがって、完全に産経新聞社の名のもとに隠されているわけではない。だが、今回に言及した部分も含めて、個々の部分の文章作成の(内部的な)責任者の個人名は明らかでない。

1264/産経新聞社案「国民の憲法」について。

 田久保忠衛の名も出しつつ、<憲法を改正しよう>と主張するだけでは意味がない、と前回に書いた。
 これに対して、田久保忠衛は、改正の優先順位も政治的な戦略・戦術にも触れていないが、産経新聞社の「国民の憲法」起草委員会の委員長として、改正の具体的内容は検討・議論して、公表している、と反論するかもしれない。
 そのとおりで、産経新聞は「国民の憲法」(憲法改正要綱)を公表している。そして、産経新聞社・国民の憲法(2013.07、産経新聞社)の中には、自民党改正草案との違いを(わずか3頁だが)叙述している部分もある(p.138-140)。従って、かりにその部分を田久保が執筆しているか、または了解しているのだとすると、田久保が産経新聞社案と自民党案との違いをまったく説明していないというわけではない。
 以上のかぎりで田久保に対する批判的コメントは一部取消させていただく。もっとも、上記書物は「国民の憲法」の個々の条項に即して自民党案を採用しなかった理由を述べてはいない。上の3頁の中で触れられているのは、のちに触れる基本的スタンスの他は、天皇条項・現九条・前文のみだ。
 それに、あらためて上記書物を手がかりに産経新聞「国民の憲法」要綱を見てみると、基本的なよく分からない点があり、また奇妙に感じる点もある。
 まず第一に、この産経新聞「国民の憲法」案の発表主体はいったい誰なのか。どうやら、上記委員会ではなく、産経新聞社という会社法人(新聞会社)そのもののようだ。上記書物の「はじめに」の執筆者(署名)は「産経新聞社」になっている。そして、この書物は「起草委員会の議論をもとに…編集」したものだとされているが、「国民の憲法」案を最終的に完結的に作成したのは田久保を委員長とする起草委員会なのか、それとも起草委員会の議論の過程に産経新聞社の社員・記者たちがすでに関与したのか、も分かりにくい。起草委員会なるものの性格・位置づけにかかわるが、おそらくは上の後者で、起草委員会の「事務局」としての社員・記者たちがすでにかなり関与したように推測される。そして、その産経新聞の社員・記者たちの固有名詞・人名が「産経新聞社」の名の中に隠されていることも特徴の一つだろう。
 このような曖昧さは、読売新聞社の<読売試案2004年>の作成過程とはかなり異なっている。
 読売新聞社編・憲法改正-読売試案2004(2004.08、中央公論社)によると、この試案が読売新聞社の名によるものであることが明らかだが、この書物の「はじめに」は同社の「調査研究本部長」が執筆し、「おわりに」は同社「調査研究本部」員が執筆して、それぞれ固有名詞(個人名)まで明らかにしている。また、読売試案の作成には(社外の専門家の助言等を得たかもしれないが)「起草委員会」なるものがかかわっているわけではない。
 つぎに第二に、時期的に私が産経新聞を定期購読しなくなって以降のことだったことに原因がある勉強不足のためかもしれないが(もっともネット上で改正案作成の動きや結論の公表があったことは知っていた)、あらためて産経新聞「国民の憲法」案を見て、大きな違和感を抱いたことがある。
 それは、自民党案との違いとして記述されていることでもあるが、「現行憲法をゼロベースで見直して」いて、自民党案や、さらに読売試案とも違って、現憲法の条項との関係がはなはだ分かりにくいことだ。現憲法の△条を改めて「…」とする、という書き方をしておらず、現憲法の「構成」や各条項とは無関係に、一体として、「新」憲法案が提示されていることだ。
 この点について、上記書物p.138は、自民党案は現憲法を「下敷き」にしているので「現行憲法の抱えるさまざまな欠陥をそのまま引き継い」でいる、と述べている。論理的に見て、「下敷き」にしていれば必ず「欠陥を引き継ぐ」ことにはならないとは思うが、それは別としても、現実の憲法改正(の発議と国民投票)のためには、産経新聞「国民の憲法」案ははなはだ使いづらい。
 なぜならば、憲法改正とは、現憲法の全体を一挙に廃棄・廃止して、新しい憲法を一括して創出する、というものではないからだ。
 ここで、憶測にはなるが、ひょっとすれば産経新聞「国民の憲法」案は、渡部昇一らの現憲法「無効」論や石原慎太郎の現憲法「破棄」論の影響も受けて、現憲法の全体に新しい「自主」憲法がとって代わる、というイメージで作成されたのではないか、という疑問が生じなくはない。
 総選挙における<次世代の党>の衰退とも関連させて、現憲法「無効」論・現憲法「破棄」論についてはあらためて触れる予定だ。ともあれ、現憲法と「新」憲法案のどちらがよいと思うか、というかたちで一括して憲法改正の発議と国民投票が行われるはずがない。確認しないが、憲法改正手続法もまた、そのようなことを想定していないはずだ。
 より具体的に、あるいは個々の条項に即して、例えば(自民党案によれば)現九条2項を削除して九条の二(国防軍の設置)を新設することに賛成か反対かで、あるいは(読売試案2004年によれば)①現九条1項を一部修正する、②現九条2項を削除して、別内容の条文に代える、③新たに別の条を追加して「自衛のための軍隊」保持可能等を明記する、のそれぞれについて、またはこれらだけを一括して賛成か反対かで、国民投票は行われるはずだ。
 産経新聞「国民の憲法」案の個々の条項を見て、かつ優先順位さえ決定すれば、上のような技術的?問題は解消できる、というのが産経新聞社案の意図なのかもしれない。しかし、現憲法との比較対照表を作れない(作っていない)案は、かなり分かりにくいし、上記のような(革命的?な一挙の)一括的「改正」をイメージしているのではないか、との疑問が生じなくはない(そうした気分がまったく理解できないわけではないが、非現実的で、却って「改正」を遅らせる)。
 さらに第三に、ここで書いてしまっておけば、産経新聞社の上記書物における現憲法九条1項の理解はいぜんとして奇妙だ。すなわち、p.140は、現九条1項は「主権の行使に制限を課している」、「不徹底で不完全」なものだ、と記している。
 しかし、自民党改正案も読売試案2004年も、基本的には現在の現九条1項の条文をそのまま残すこととしている。
 歴史的由来のある「国権の発動たる戦争」等の意味が理解しやすいものではなく、大きな誤解も招くことになっているのは確かで、<侵略戦争>の否定の趣旨を書き直すことは考えられてもよい(そうした趣旨の規定に対する、<侵略戦争>否定は「主権の行使に制限を課す」不適切なものだ、との批判はあたらないだろう)。
 しかし、産経新聞「国民の憲法」案よりもより長い時間と議論を経て作成されたとみられる自民党の最新改正案や読売試案2004年が現九条1項を基本的にはそのまま維持しているのと比較すると、同じく<保守派>の中では異質な案になっていることを、田久保忠衛や産経新聞関係者は意識・自覚しておいてよいと思われる。
 なお、産経新聞社の上記書物は、自民党案は「戦争放棄の規定(9条)をほぼ踏襲している」と書いて疑問視している(p.139)。しかし、(侵略)戦争放棄の規定は「9条」ではなく、同条1項だ。法学者ではない北岡伸一でもしているような理解を、どうやら産経新聞関係者および上記起草委員会は採用していないようだ。不思議で仕方がない。
 とりあえず、憲法改正の仕方・内容に関して若干のことを述べた。最優先されるべきは、現九条2項の廃止(削除)と実質的に自衛隊を正規の「軍」と認めることとなる条項の新設だ(法律改正により名称等々の変更が必要だが)、と考えている。「自衛軍」でも「国軍」でもよいが、「国防軍」で差し支えないのではないか。
 憲法の専門家ではない者が書いていることだが、憲法改正にむけての議論に小さな渦でも生じさせることがあれば、幸い。

1263/具体的・建設的で戦略も意識した議論を-憲法改正をめぐる保守派の怠惰。

 月刊正論1月号(産経新聞社)に、田久保忠衛「衆院選で忘れてはならぬ/憲法改正のラスト・チャンス」がある(p.158-)。産経新聞の憲法改正案起草委員会の一員だった人物(かつ国家基本問題研究所の幹部)が憲法改正の必要性を説き、衆院選の重要な争点とすべき旨を主張してるのだが、これを概読して、2010年11月03日の産経新聞「正論」に掲載された、やはり田久保忠衛の「憲法改正の狼煙上げる秋がきた」を読んで感じたのと似たようなことを感じた。
 当時感じたことは、この欄の2013.08.12投稿でも繰り返されている-「問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。/この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ」。
 当時は民主党政権下だったので現在とはやや状況は異なるが、発議自体に各議院議員の2/3以上の賛成が必要であることに変わりはなく、これが達成されている状況にあるとは、衆議院に限っても明確には言い難い。
 また、国会議員の構成は民主党政権下に比べれば改憲のためにより有利にはなっているだろうが、そもそも憲法「改正」の具体的内容は改憲派(あるいは「保守派」)において明確になっているのか、という根本的問題がある。
 田久保は月刊正論1月号で現前文・現九条の改正と緊急事態対処条項の三つに少なくとも触れているようだが、田久保には尋ねてみたいことがある。
 まず、産経新聞社「国民の憲法」草案起草委員の一人として、すでに公表されていた自民党の憲法改正案を知っていたはずだが、産経「国民の憲法」案・要綱と自民党改憲案はまったく同じではないはずのところ、なぜ両者には違いがあるのか?、自民党の改憲案をそのまま採用しなかった具体的理由は何なのか?
 これくらいのことを明らかにしてくれていないと憲法改正のための具体的な議論はできないのではないか。
 また、憲法改正は-いずれまた触れるだろうように、明治憲法を全体としてそのまま復活させるという主張を採用しないかぎり-現憲法全体に対して改正案全体を提示して、全体について一括して支持するか否かを国民投票によって決する、というのではない。一箇条(の改正または新設)のみについて一回の記載か、複数の条項についての改正案(新設を含む)に即して複数回の(賛否の)記載を国民に問うのか、というやや技術的な(とはいえ現実には重要な)問題もあるが、いずれにせよ、改正が優先されるべき個々の条項について改正(・新設)の賛否を国民に問うことになるはずだ。
 しかして、田久保はいったい現憲法のどの条項から改正を始めるべきだと考えているのか。この点も明らかにしてくれていないと、憲法改正についての具体的な議論はできない。
 田久保忠衛に限らない。月刊正論2月号(産経新聞社)に、八木秀次「見え始める憲法改正への道筋」という魅力的なタイトルの論考があるが(p.58-)、総選挙結果の政治評論家的分析が3/4を占め、憲法改正に関する、上のような疑問に答えるところはない。ただ一つ、「憲法改正を政治日程に載せるためには1年半後の参議院選挙で改憲派の議席を確保しなければならない」等の、率直に言って改憲派ならば誰でも書けるようなことを書いているにすぎない。
 たまたま田久保忠衛と八木秀次の名を出したが、①両議院に2/3の改憲派を生み出し、国民投票でも国民・有権者の過半数の支持を得るための戦略・戦術、②すでにある改正案もふまえて、具体的にどのような内容の条文にするかのより突っ込んだ検討(ちなみに、櫻井よしこは「国防軍」ではなく「国軍」でよいと、どこかに書いていた)、③そもそもどういう順番で、改正案を国民に提示していくのか、についてのきちんとした検討、はいずれも、改憲派(「保守派))において、決定的に遅れているか、まったくなされていない。
 実に悲観的(・悲惨的)で危機的な状況にある、とすら言える。改憲派の論者たちは、本当に、真剣に、現憲法を変えたい、「自主憲法」を制定したい、と考えているのだろうか。
 このような状況では、安倍晋三首相が、憲法改正について具体的なことを語ることができないのも、当然だ。適当に何かを論じ、書いていれば済む立場に、安倍首相はいるわけではない。発議に必要な要件を彼は痛いほど理解しているだろうし(96条改正問題にもかかわる)、また、具体的な改憲条文を示した上で国民投票にかける必要があることも、どの条項から始めるべきかという問題があることも、当然に強く意識しているはずだ。
 にもかかわらず、安倍首相の問題意識・問題関心に応え、具体的にサポートする議論を改憲派(「保守派))が行ってきているとは思えない。
 優先順位にしても、公明党の「加憲」論に配慮して、安倍首相は緊急事態対処条項から始めたいのでは、という憶測記事を新聞で読んだことがあるが(何新聞だったかは忘れた)、かかる程度の<優先順位>論すら、改憲派(「保守派))は何もしていないのではないか。現九条か、前文か、緊急事態条項か、それとも「環境権」か?
 改憲派(「保守派」)の怠惰だ。
 もともと自民党は安倍晋三が言うとおり、「自主憲法の制定」を悲願としてきたのだから、改憲派(「保守派」)が、たんに、<憲法を改正しよう>と主張しても、訴えても、ほとんど意味はない。いいかげんに、それだけの主張や議論はやめるべきだ。
 ついでに言うと、周知のとおり、憲法改正反対(とくに現九条2項護持)の政党・運動団体があり、憲法学者の大半は<護憲派>とみられるところ、現96条改正や現九条改正に反対する憲法学者等の主張・議論に、改憲派(「保守派」)は適確に反駁してきているだろうか。
 例えば、昨2014年に、東京大学の現役教授・石川健治は朝日新聞に「乾坤一擲」の長い文章を載せ、京都大学の現役教授・毛利透は読売新聞紙上で護憲の立場で論考(・インタビュー回答)を載せていたが、これらに、迅速に改憲派(「保守派」)は反応し、これらを批判したのだろうか。
 <憲法改正を>だけ叫ぶのはいいかげんにしてほしい。具体的かつ建設的で戦略も意識した議論が、そして<護憲派>に対する執拗といってよいほどの批判が、必要だ。

1262/憲法九条2項改正と北岡伸一による朝日新聞の批判的分析。

 一 自民党の憲法改正案において、現憲法九条の全体が削除または改正されるのではなく、現1項はそのまま残されて新9条の全体になるとともに、新たに九条の二を設けて「国防軍」の設置が明記されることになっている。
 現在の第二次案ではなく「自衛軍」としていた第一次案の時期のものだが、自民党本部の担当者だった者による、田村重信・新憲法はこうなる(2006.11、講談社)p.120-1は現1項の趣旨をイタリア・ドイツ等の憲法(・基本法)も有し、「国権の発動たる戦争」とは1928年パリ不戦条約に由来する表現で<侵略戦争>を意味し、それを放棄・禁止するものであっても「自衛権に基づく戦争」を放棄・禁止するものではない、と明確に説明している。
 上の趣旨を理解していないかに思えた産経新聞社説があったので上の点を(そのときは上の田村著を知らなかったが)この欄で指摘し、かつ<「九条を考える会」という呼称はゴマカシだ、正確に<九条2項を考える(護持する)会>と名乗るべきだ>という旨を書いたことがある(2012.03.15)。
 前回にやや厳しい感想を述べた柳本卓治の文章も、上の点を明確に意識して書かれてはおらず、現九条=日本的「平和主義」について、<左翼>がふりまいているデマ宣伝に部分的には屈している印象がある。
 現九条の2項のみの削除・改正を主張しているにもかかわらず九条全体を削除・改正しようとしていると<すりかえ>をして改憲派を反平和主義者・好戦論者のごとく批判するのは、悪質なデマゴギーに他ならない。
 二 12/23に朝日新聞の<慰安婦報道検証・第三者委員会報告書>が公表された。その一部を成すと思われる各委員の個別意見において、北岡伸一は以下のように、適切に朝日新聞を批判している。日本共産党・「九条の会」のみならず、朝日新聞もまた、上のようなデマ宣伝を展開してきたからだ。
 朝日新聞には「言い抜け、すり替えが少なくない。/たとえば憲法9条について、改正論者の多数は、憲法9条1項の戦争放棄は支持するが、2項の戦力不保持は改正すべきだという人である。朝日新聞は、繰り返し、こうした人々に、『戦争を放棄した9条を改正しようとしている』とレッテルを貼ってきた。9条2項改正論を、9条全体の改正論と誇張してきたのである。要するに、他者の言説を歪曲ないし貶める傾向である」。
 北岡は、読売新聞12/26のインタビュー記事でも、「憲法9条についても、1項の『戦争放棄』は支持するが、2項の『戦力不保持』は改正すべきだという人に対し、戦争放棄を改めようとしているとレッテルを貼って批判する」と述べている。
 このような北岡伸一の朝日新聞批判は適切であり、こうして活字になった九条1項と2項をきちんと分けての議論を初めて読んだような気がする。
 <九条を世界遺産に>という運動があった(ある)ようだが、その運動者・活動家はおそらく九条2項を念頭に置いているのだろう。ちなみに、潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(2007.04、PHP)という書物があるが(読了)、正確な趣旨は、「憲法九条2項は諸悪の根源」なのではないか。憲法学者・百地章もかつては憲法九条改正という言い方をしていたかにも見えるが、近年では正確に九条2項改正と記述していることを、この欄でコメントしたことがある。
 三 ところで、北岡伸一の上記朝日新聞紙上の文章は朝日新聞の問題のある傾向の第6点「論点のすりかえ」の例として書かれている。それ以外は、第一・「粗雑な事実の把握」、第二・「キャンペーン体質の過剰」、第三・「物事をもっぱら政府対人民の図式で考える傾向」、第四・「過剰な正義の追求」、第五・「現実的な解決策の提示の欠如」、である。
 北岡に対しては<保守>派からの批判もあるようだが、朝日新聞批判の著・文章は数多くあると見られるところ、北岡の上のような、決して長くはない文章における体系的・総合的な?整理・分析は、的確で、なかなか優れていると感じられる。以上の諸点はすべて、かつての<進歩的文化人>と同様に社会主義・共産主義への憧憬を残した、目的のためならば歪曲・虚報も許されるという心情の「記者」たちによって構成された<政治団体>だからこそ生じている傾向・問題点であるかもしれないが。

1199/安倍首相は河野談話を見直す気がどれほどあるのか。

 慰安婦問題・河野談話については、この欄でも何度も触れたはずだ。
 今年ではなく昨年の8/19、産経の花形記者・阿比留瑠比は「やはり河野談話は破棄すべし」という大見出しを立てて、産経新聞紙上でつぎのようなことを書いていた。

 ・①「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」。②慰安婦の「募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」。これらが河野談話の要点(番号は秋月)。

 ・「関与」、「甘言、強圧」の意味は曖昧で主語も不明確だが、この談話は<日本政府が慰安婦強制連行を公式に認めた>と独り歩きし、日本は<性奴隷の国>との印象を与えた。

 ・「日本軍・官憲が強制的に女性を集めたことを示す行政文書などの資料は、いっさいない」。談話作成に関与した石原信雄によるとこの談話は「事実判断ではなく、政治判断だった」。
 ・この談話によって慰安婦問題は解決するどころか、「事態を複雑化して世界に誤解をまき散らし、
問題をさらにこじらせ長引かせただけではないか」。
 以上はとくに目新しいことはないが、最後にこう付記しているのが目につく。安倍晋三は、「今年」、つまり今からいうと昨年2012年の5月のインタビューでこう述べた、という。

 「政権復帰したらそんなしがらみ〔歴代政府の政府答弁や法解釈など〕を捨てて再スタートできる。もう村山談話や河野談話に縛られることもない」。

 この発言がかつての事実だとすると、第二次安倍政権ができた今、「もう村山談話や河野談話に縛られることもない」はずだ。

 安倍晋三第二次内閣は「生活が第一」を含む経済政策・経済成長戦略や財政健全化政策の他に、いったい何をしようとしているのだろうか。初心を忘れれば、結局は靖国参拝もできず、村山談話・河野談話の見直し・否定もできず、支持率を気にしながら<安全運転>をしているうちに、第一次内閣の二の舞を踏むことになりはしないか。「黄金の三年」(読売新聞)は、簡単にすぎてしまうだろう。

 さらに、橋下徹が慰安婦問題について発言した今年5月、自民党議員、安倍内閣、そしてついでに産経新聞は、いったいいかなる反応をしたのだっただろうか。

1179/憲法改正に関するTBS・NHKの「デマ」報道-2013年5月。

 〇5/03だったと思うが、NHKのニュース9は、外国の憲法改正手続の例としてアメリカ、ドイツ、韓国の三国のみを紹介していた。いずれも、現在の日本と同様かそれ以上に厳しい手続を用意している(そして、にもかかわらず頻繁に改正されている)例としての紹介だった。
 諸外国の憲法改正手続について詳しくはないのだが、アメリカとドイツは連邦国家で、各州の意向の反映方法という問題があるので、日本と直接に比較するのは適切ではない。残る韓国一国だけで、世界の趨勢などを知ることができるわけがない。
 と感じていたら、読売新聞5/11朝刊橋本五郎がこう書いていた。
 「改正条項を変えることに反対する人は、米国では両院の3分の2以上の賛成と4分の3以上の州議会の承認がなければ修正できないと強調する。フランスでは両院の過半数の賛成と国民投票で改正が可能であることを決して言わない」。
 念のために高橋和之編・新版世界憲法集(岩波文庫、2007)を見てみると、フランス1958年憲法89条2項が定める憲法改正手続は、政府・議員提案の場合の両院の議決につき2/3以上の要件を課しておらず、国民投票による承認が必要とのみ定める(どちらについても数字ないし割合の定めはなく過半数による議決と承認を意味していると解される)。なお、大統領が憲法改正議会に提案する場合には議会による3/5以上での承認が必要であり、かつこの場合は国民投票に付されない、とも定めている(89条3項)。
 要するに、基本的には、フランスでは両院議員の過半数で発議され、国民投票による過半数の承認で憲法が改正されることになっているようで、橋本五郎の言及内容は誤ってない。
 そうだとすると、なぜ大越健介らのNHKのニュース9はなぜフランスの例を紹介しなかったのだろう、という疑問が生じる。そして、答えは、NHKニュースは橋本のいう「改正条項を変えることに反対する人」によって作られている、そういう特定の立場に立っているということですでに<偏向>している、ということだ。
 くれぐれも注意する必要がある。すなわち、NHKの報道を信頼してはいけない。

 〇5/11夕方のTBS「報道特集」の憲法改正問題に関する取り扱い方は、自民党「日本国憲法改正草案」中の「表現の自由」に関する条項、より正確には現行の21条に2項として「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは認められない」を追加していることを批判することだった。
 キャスターやレポーターは次のように言って論難していた。<表現の自由の保障は大切だ、「公の秩序を害する」の意味が不明確だ、誰がそれを決めるのか>等。
 自民党の上の案が最善だとはまったく思わないが、しかし、TBS「報道特集」による上のような批判は適切ではなく、憲法についての無知をむしろさらけ出すものだ。
 わざわざ書くのも恥ずかしいようなことだが、TBS「報道特集」は、現行憲法のもとでは(自民党改憲案とは違って)「表現の自由」は無条件・無制約に保障されている人権だと思っているのだろうか。
 そんなことはない。直接に関係する21条だけではなく、包括的な「人権」規定とも言われる(従って「表現の自由」についてもあてはまる)12条・13条をきちんと読んでみたまえ。
 12条「国民は」「この憲法が国民に保障する自由及び権利」を「濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のために利用する責任を負ふ」。13条「…幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、…国政の上で、最大の尊重を必要とする」。
 現行憲法のもとでも、「表現の自由」は「公共の福祉」による(内在的な)制約を受けていることは明らかなのだ。この点をより明確に、やや異なる表現で21条自体に追記しようとするのが、自民党案だろう。
 現行憲法21条についても<表現の自由の保障は大切だ、「公共の福祉」の意味が不明確だ、誰がそれを決めるのか>という批判はいちおうは成り立つのであり、自民党改憲案についてだけ言えることではまったくない。なお、最高裁を頂点とする司法部が最終的には法律制定その他の国家活動の合憲性を審査して「決める」ことは常識的なことで、「誰がそれを決めるのか」という疑問を発すること自体も、担当者の無知または「幼稚さ」を示している。
 要するに、TBS「報道特集」は、さすがにTBSらしく、何やら深刻ぶりつつ自民党による憲法改正の動きに対していちゃもんを付けておきたかったのだろう。かりにそれはよいとしても、もう少し憲法についてきちんとした知識・素養にもとづいて「報道」しないと嗤われるだけだ。<陰謀・謀略のTBS>は、しかし、そうした姿勢を正すことはないのだろう。
 〇6年前にこの欄に書いたことを読み返していて、憲法学者・阪本昌成の言説を次のように紹介していたことを思い出した。元の雑誌(ジュリスト1334号)で再確認することなく、もう一度掲載しておく。  平和主義」ではなく「国家の安全保障体制」と表現すべき。九条は「主義・思想」ではなく国防・安全保障体制に関する規定だからだ(p.50)。/「平和主義」という語は「結論先取りの議論を誘発」するが、「平和主義」はじつは「絶対平和主義」から「武力による平和主義」まで多様だ。
 「平和主義」という言葉を単純に使っている朝日新聞等の護憲派(九条2項削除反対派)の人々は、上の短い部分だけでもきちんと読みたまえ。
 「平和主義」の中には現九条2項も入るのかを明確にすべきだし、武力・軍隊の保持による「平和」追求もまた「平和主義」であることを知らなければならない。

 阪本昌成はまた自らの著書の中で次のようにも書いていた。「平和主義」を現憲法の三大原理の一つなどと単純に理解してはいけない。

 <阪本は、「日本国憲法の基本原則は、「国民主権・平和主義・基本的人権の尊重」といった簡単なものではな」く、次の6つの「組み合わせ」となっている、とする。/1.「代議制によって政治を行う」(代議制・間接民主主義)、2.「自由という基本的人権を尊重する」(自由権的基本権の尊重)、3.「国民主権を宣言することによって君主制をやめて象徴天皇制にする」(国民主権・象徴天皇制)、4.「憲法は最高法規であること(そのための司法審査制)を確認し、そして、「よくない意味での法律の留保」を否定する」(法律に対する憲法の優位・対法律違憲審査制)、5.「国際協調に徹する安全保障をとる」(国際協調的安全保障)、6.「権力分立制度の採用」(権力分立制)。> 

1178/中国共産党機関紙「人民日報」5/08論文と朝日新聞。

 中国共産党機関紙「人民日報」は5/08に沖縄(琉球)が日本に帰属することを疑問視する論文を掲載したらしい。沖縄は日本が「侵略」して獲得したのだと何かを読むか(NHK番組を?)観て「大発見」をしたかのように感じた「左翼」連中はかかる中国共産党の動きを当然視するのかもしれないが、ケヴィン・メアがしばしばテレビで発言していたように、中国は尖閣諸島などという小さな部分ではなく、いずれは沖縄(本島を含む諸島)を「取り」に来るだろうということの明確な兆候だ。
 予想されていたとはいえ、重要なニュ-スであるに違いなく、遅くとも5/09には各新聞は報道したのだろう。但し、NHKがこの「人民日報」5/08論文の件を報道したかどうかは定かではない。少なくとも重要ニュ-スとしては伝えなかったと思われるが、かりにスル-させたのだとすれば、NHKの決定的な「偏向」・「反日」姿勢を明らかにするものだ。
 さて、5/10の読売新聞・産経新聞の社説はこの論文にうかがえる中国共産党そして中国政府の姿勢を厳しく批判している。
 読売は、「沖縄の『領有権』/中国の主張は誇大妄想気味だ」と題する社説のほか、毛沢東はかつて沖縄は日本領土であることを前提とする発言をしていた旨の別の記事も載せている。
 朝日新聞、毎日新聞はどうだったか。
 朝日5/10社説は「歴史認識-孤立を避けるために」、「裁判員ストレス-証拠の調べ方に配慮を」の二本で、前者は韓国・パク大統領が米国という第三国の首脳の前で日本を批判したことにつき「それほど日本への不信感が強いということだろう」と書いて擁護するとともに「安倍政権の責任は大きい」などと書いてホコ先を安倍内閣に向けている。論文のことを知ってはいるのだろうが、中国の沖縄領有姿勢に対する危惧・懸念など全く示していない。大きな問題ではないと考えているとすれば、その感覚は麻痺しており、相も変わらず中国政府代理新聞・中国エ-ジェント新聞であることを示している。

 毎日新聞の社説は「東アジアFTA-自由貿易圏を広げよう」、「弁護士の不祥事-身内に甘い体質を正せ」の二本で、やはり中国・沖縄問題を扱っていない。第二朝日新聞という位置づけでやはり間違いないのだろう。
 沖縄問題を(沖縄「県民」の立場で)頻繁にとり挙げているくせに、中国共産党が「示唆」している沖縄にかかる、基本的な領土問題を扱わないとは、朝日新聞とともに異様な感覚だろう。
 かくして、憲法問題も参院選挙も、読売・産経対朝日・毎日に象徴される、国論を大きく二分した闘いになるのだろう。前者が勝利しないと(相対的にであれ多数国民に支持されないと)、日本の将来はますます悲観的なものになりそうだ。

1170/読売新聞の憲法9条解釈の説明と宮崎哲弥の憲法論と…。

 〇読売新聞4/17朝刊の「憲法考1」はさすがに?適切に現憲法9条の解釈問題を説明している。
 まず、9条1項でいう「国際紛争を解決する手段として」の戦争は「政府・学説(多数説)は侵略戦争と解釈する。自衛戦争は放棄していないことになる」、と的確に説明している。この点をかなり多くの国民は誤解している可能性があり、産経新聞の社説ですらこの点を知らないかのごとき文章を書いていた。
 「自衛権の行使」ではなく「自衛戦争」も現憲法上許されないのは9条2項による。この点にも読売は触れている。自民党の改憲草案も9条1項は残し、同2項を削除し、「国防軍」の設置を明記するために9条の2を新設(挿入)することとしている。
 改正されるべきなのは現9条全体なのではなく、9条2項であることを、あらためて記しておく。

 つぎに、読売の上記記事は、現9条2項の冒頭の「前項の目的を達成するため」(いわゆる芦田修正)につき、これを「根拠に自衛のための戦力保持を認めれば簡単だったが、政府はそうしなかった」、と説明している。これも適切な説明であり、学説(多数説)もそうではないか、と思われる。
 いわゆる芦田修正の文言を利用すれば、9条1項で禁止される侵略戦争のための「戦力」等のみの保持が禁止されることとなり、自衛戦争目的に限定された軍隊の保持は許容される(禁止されていない)こととなるのだが、そのようには芦田修正(追加)文言は利用されなかった。
 芦田修正文言を知って、将来の軍備保持の日本側の意欲を感じたGHQは「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という現66条2項を挿入させたと言われているが、自衛目的ですら「軍」の保持が禁止されれば「軍人」・「武官」は存在しないはずなのであるから、「文民」を語るこの66条2項は奇妙な条文として残ったままになった(どの憲法教科書も奇妙な、または苦しい説明をしているはずだ。「文民統制」うんぬんは後付けの議論)。
 結果として、芦田修正(追加)文言は、政府や多数学説において実際には意味がないものとして扱われることになった。常識的な日本語文の読み方としては、じつはこちらの方が奇妙なのだが。
 ともあれ、上の二点くらいは広く国民の常識となったうえで現憲法9条の改正問題は議論される必要があるだろう。

 〇宮崎哲弥が週刊文春4/25号(文藝春秋)の連載コラムで朝日新聞4/11天声人語を使って橋下徹の憲法観を紹介し、賛同するかたちで「憲法とは、国家が国民を縛るためのものではなく、国民の名において『国家権力を縛る』ためにあるのだ。私はこの一〇年、あらゆるメディアで、口が酸っぱくなるほど繰り返しこの原理を説いてきた」と書いている(p.123)。

 宮崎が批判している例を読んでいて、かつて社共(といっても分からない者が増えているかもしれない。日本社会党と日本共産党)両党に支えられた京都府知事・蜷川虎三が唱えて府庁舎にも垂れ幕が懸かっていたらしい「憲法をくらしの中に生かそう」も、間違った憲法観にもとづくものだったような気がしてきた。
 それはともかく、宮崎哲弥(や橋下徹)の理解に反対する気はとりあえずないが、「私はこの一〇年、あらゆるメディアで、口が酸っぱくなるほど繰り返しこの原理を説いてきた」とはご苦労なことで、またそれほどに自慢・強調するほどのことなのか、という気もする。
 
 また、朝日新聞・天声人語の<法律は国家が国民を縛るもの>という理解は誤りであることを過日この欄で書いた、この点に宮崎は触れていない。

 さて、親愛なる宮崎哲弥にあえてタテつくつもりはないが、<憲法は国民が国家を縛るもの>という理解の仕方も、何とかの一つ覚えのように朝日新聞の記者等がしばしば述べてはいるが、多少は吟味の必要がある。

 第一に、あえて反対するつもりはとりあえずはないが、上のような理解は「近代憲法」観とでもいうべき、欧米産の憲法理解を継承しているのであり、日本には日本の独自の「憲法」理解があっても差し支えはない、と考えている。欧米の憲法観が国家や時代を超えて普遍的なものだとは私は思わない。
 第二に、<憲法は国民が国家を縛るもの>というだけの-最近にテレビ朝日系報道ステ-ションに出ている朝日新聞の者が(何とかの一つ覚えのように?)述べて憲法現96条の改正に反対する根拠にしていたようでもあるが-単純な理解では済まないような気がする。
 これだけの言辞からは、(上の朝日新聞の解説委員?のように?)それほど大切なものだから簡単に変えてはいけないとか、現憲法99条により公務員には(大臣・国会議員を含む)憲法尊重擁護義務があるから大臣等は憲法改正を語ってはいけないととかの、誤りであることが明白な言説が出てこないともかぎらない。

 当然にもっと書く必要があるが、長くなったので、次の機会に回す。

1161/日本維新の会54議席と橋下徹らへの佐伯啓思の評価の適切さ。

 旧たちあがれ日本の日本維新の会への合流について、維新の会の純粋さ・新鮮さがなくなった、政策があいまいになった、等の批判もあったようだ。しかし、私は、橋下徹グループと石原慎太郎グループの合流・新しい日本維新の会の結成は、結果としてもよかったことだ、と思っている。
 橋下徹はもともとは全選挙区に候補者を立てるとか過半数の獲得を目指すとか言っていたが、これらは橋下一流の建前的「ホラ」のようなものだっただろう。そして、衆議院議員選挙で(合流後の)日本維新の会が民主党の57に次ぐ(ほぼ並ぶ)54議席を獲得したことは、第三極の失速とも言われた中での、大きな成果だっただろう。
 小選挙区での当選者が大阪府下に限られていたことをもって、全国的な広がりに欠けた、という論評もある。だが、選挙区では自民党2564万、民主党1360万に対して日本維新の会は694万で大きく劣ってはいたものの、比例区では、自民党1662万に次ぐ1226万を獲得して第二党であり、民主党の963万を大きく上回った。
 54という議席のかなりの部分は、比例区での獲得票の多さによる。そして、この全国的な(東日本を含む)比例区票の獲得は大阪中心の橋下・松井グループだけでは不可能で、石原慎太郎のネームバリューや(もともとたちあがれ日本が持っていた)全国的に散在する「保守」への期待によって可能になったものと思われる。繰り返せば、もともとの、橋下・松井グループだけの日本維新の会では、54議席の獲得は無理だったに違いないと思われる。
 そして、54という数は決して小さくはない。この欄の11/30付で「来月の総選挙の結果として憲法改正派2/3以上の勢力が衆議院の中にできるとは想定しがたい(この予測が外れれば結構なことだ)」と書いたのだったが、自民党と日本維新の会を合わせて、348も、みんなの党まで含めると366と、2/3をゆうに超える(3/4をも超える)議席を獲得してしまった。これで憲法改正(・自主憲法制定)が一挙に近づいたとはもちろん考えないが、理念的・理論的には改憲派の政党がこれだけの議席を衆議院で持っていることの意味は、決して軽視してはならないだろう。
 ところで、すでにこの欄の11/24と11/25で11/22の産経新聞上の佐伯啓思「正論」に言及したが、「大衆迎合の政治文化問う総選挙」というタイトルを掲げた同欄で佐伯啓思は、「今回の選挙の基本的な争点」は「あまりにポピュリズムや人気主義へと流れた今日の政治文化に決着をつけうるか否かでもある」と(も)述べていた。
 佐伯啓思にまじめに質問したいものだ。そのように述べていた佐伯啓思において、今回の総選挙の経緯と結果は、いったいどのように総括され、評価されているのか? 「大衆迎合の政治文化」は、あるいは「あまりにポピュリズムや人気主義へと流れた今日の政治文化」はさらに拡大したのか、それとも少しは(あるいは大いに)是正されたのか?
 この問いに答えることは、全国紙の11/22付で上のように述べた言論人の<責任>なのではないか。
 たまたま読んだ読売新聞12/30朝刊の中で、細谷雄一(慶応大学教授)は、「反原発や反増税などポピュリズム(大衆迎合主義)とも思える政策」という表現を用いて少なくとも「反原発や反増税」は「大衆迎合主義」の政策だったという見解を示し、これらの政策を掲げた政党は支持を得られなかった、とも述べていた。
 佐伯啓思にまじめに質問したいものだ。佐伯は11/22に「橋下徹氏の唖然とするばかりの露骨なマキャベリアンぶり」という言辞も使っていたのだが、日本維新の会、あるいは自民党の原発、増税、憲法等々についての諸政策は「大衆迎合主義」に陥っていたのかどうか。
 石原慎太郎グループとの合流前の維新の会の主張が<脱原発>寄りだったことは否定できず、それには飯田哲也(のち日本未来の党代表代行)等から成る大阪府市(?)エネルギー戦略会議の見解の強い影響があったと思われるが、石原グループとの合流後は、よい意味でこの点は曖昧になったと私は思っている。
 佐伯啓思は、「(政治)改革」という「大衆迎合主義」(・ポピュリズム)の流れの中に橋下徹や維新の会がある、という捉え方をこれまでし続けてきた。
 このような評価はそもそも適切だったのか。中高年層に「痛み」を求めることもあることを明言し、決して「大衆」受けはまだしそうにない「憲法」問題にも論及する日本維新の会は、そして橋下徹は、決して「大衆迎合主義」者・ポピュリストではないのではないか。
 真摯な言論人・研究者であるならば、佐伯啓思にはぜひ、上の問いに答えてもらいたいものだ。

1102/月刊正論編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言④。

 何度めになるのだろう、産経新聞4/06の「正論」欄で田久保忠衛が憲法改正の必要を語っている。そのことに反対はしないが、憲法改正(九条2項の削除、国防軍保持の明記を含む)の必要性をとっくに理解している者にとっては、そんな主張よりも、いかにして<改憲勢力>を国会内に作るかの戦略・戦術、そういう方向での運動の仕方等を語ってもらわないと、「心に響かない」。
 両議院の2/3以上の賛成がないと憲法改正を国民に発議できないのだから(現憲法上そのように定められているのだから)、いくら憲法改正の必要性を説いても、国会内での2/3多数派形成の展望を語ってもらわないと、厳しい言い方をすれば、ほとんど空論になるのではないか。
 現在のところ、憲法改正の具体的案文を持っているのは自民党で、さらに新しいものを検討中らしい。憲法改正にも現憲法第一章の削除を含む、かつての日本共産党の<日本人民共和国憲法案>のようなものもありうるが、自民党のそれは、九条改正・自衛軍設置明記等を含むもので、「左翼的」な改正ではない。
 自分が書いていながらすっかり忘れていたが、1年余り前に(も)、月刊正論編集長・桑原聡を、「月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは」と題して、批判したことがあった。
 月刊正論の昨年2011年の4月号の末尾に、自民党を「賞味期限の過ぎたこの政党」と簡単に断じていたからだ。桑原聡は同時に、「かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、<賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」とも明言していた。
 自民党については種々の意見があるだろうが、「はたして、かかる立場を編集長が明記することはよいことなのかどうか。それよりも、その<政治的>判断は適切なものなのかどうか」、という観点から批判的にコメントしたのだった。背景には、編集長が替わってからの月刊正論は編集・テーマ設定等が少しヘンになった、と感じていたことがあったように思う。
 一年前のこの言葉の考え方を桑原聡がまったく捨てているとは思えないので、彼にとっては、自民党は基本的には、「多くを期待できない」「賞味期限の過ぎた」政党のままなのだろう。
 しかし、産経新聞(社)は「国民の憲法」起草委員会まで設けたのだが、現在のところ、産経新聞社の見解に最も近い憲法改正を構想しているのは、自民党なのではないか。
 将来における<政界再編>によってどのようになるかは分からないが、憲法改正に向けての動きが進んでいくとすれば、現在自民党に所属している国会議員等が担い手になることは、ほとんど間違いはないものと思われる。
 しかるに、桑原聡のように、自民党を「多くを期待できない」「賞味期限の過ぎた」政党と断じてしまってよいのか
 桑原聡はこのように自民党を貶し、かつまた橋下徹を「きわめて危険な政治家だ」と明言する。この人物は、いったいどのような政党や政治家ならば(相対的にではあれ)肯定的・好意的に評価するのだろうか。ただの国民でも雑誌・新聞の記者でもない、<月刊正論>の編集長である桑原聡が、だ。
 読売新聞4/08安倍晋三が登場していて、橋下徹は憲法改正に向けての大きな発信力になるので期待しているといった旨を書いて(答えて?)いた(手元になく、ネット上で発見できないので厳密に正確ではない)。

 憲法改正の内容を橋下徹・大阪維新の会は具体的・明確にはまだ明らかにしていないが、国会議員連盟もあるらしい、憲法改正のための国会発議の要件を2/3超から1/2超に改正することには橋下徹は賛成している。憲法改正の必要性自体は、彼は十分に認識していると思われる。
 桑原聡は憲法改正には反対なのだろうか。大江健三郎、香山リカ、佐高信、立花隆らと同じく<護憲派>なのだろうか。
 そうではないとしたら、橋下徹を「きわめて危険な政治家だ」となぜ簡単に断じてしまえるのか。不思議だ。<異常な>感覚の持ち主の人物だとしか思えない。
 なお、佐々淳行産経新聞2/24の「正論」欄で、「橋下徹大阪市長に申す。国家安全保障問題、国家危機管理の問題こそが国民の龍馬ブームの源であり、物事を勇気を以て改めてくれる強い指導力を貴方に期待している国民の声なのだ。国政を担わないのなら、今の八策でもいいが、命をかけて、先送りされ続けた国家安全保障の諸問題を、貴方の『船中八策』に加え、国策の大変更を含めて平成の日本の国家像を示してほしい」、と書いている。
 この文章の途中で、「船中八策」には「一番肝心の安全保障・防衛・外交がそっくり抜け落ちて」いると批判もしている。
 このような佐々淳行の批判もよく理解できる(九条については、橋下徹は世論の趨勢を測りかねていて、個人的見解を明確にする時期ではまだないと判断しているように私は推察している)。

 だが、佐々淳行は最終的には<期待>を込めた文章で結んでいるのであり(最末尾の文章は「…など橋下市長の勇気ある決断を祈っている」だ)、きわめて穏当だと感じられる。
 大人の、まっとうな<保守>派に少なくとも求められるのは、橋下徹に対する、このような感覚・姿勢ではないだろうか。
 逆を走っているのが、月刊正論(産経)の現在の編集長・桑原聡だ。
 こんな人物が産経新聞発行の政治関係月刊誌の編集長であってよいのか。
 川瀬弘至という編集部員が、イザ!で月刊正論編集部の「公式ブログ」を書いているのに気づいた。この川瀬の文章の内容の奇妙さにも、今後は言及していくつもりだ。

1094/朝日新聞を応援する「産経抄」と産経・憲法改正起草委員会。

 一 産経新聞3/20の「産経抄」が、朝日新聞にエールを送っている。
 例の巨人軍契約金問題に触れ、巨人軍の「有望選手を獲得するための、なりふりかまわぬやり口は、野球ファンには常識だ」と断定したあと、「報道のメスは高校野球にも及ぶのか。夏の甲子園大会を主催する、朝日ならではの追及に期待したい」、と締めくくっている。
 読売巨人軍を擁護する気はないし、問題もあるかもしれないが、上のような書き方は、あまりにも一方に偏った、不公正なものだろう。
 朝日新聞が、巨人軍の親会社がライバル社である読売新聞社であるがゆえにこそ、この問題を大きく取り上げたのは、ほとんど明瞭なことなのではないか?
 それに、朝日新聞が執拗な「政治団体」でもあって、例えば2005年には安倍晋三・中川昭一という二人の政治家に打撃を与えるために<NHKへの圧力>という捏造報道を―NHK内の「極左」活動家ディレクターの告発をきっかけとして(ひょっとすればそれを誘導して)し続けた―関係記者・本田雅和は解雇されなかったし、NHKもそのディレクター・長井暁を馘首しなかった―、等々の<デマ>を撒き散らしてきたのは、少なくとも産経新聞の読者には「常識だ」ろう。

 産経抄子は朝日・読売の対決という、どう見ても少なくとも五分五分の言い分はそれぞれにありそうな問題について、何と、あっけらかんと、朝日新聞の側に立つことを明らかにしたのだ。
 呆れる。
 二 上の小記事が原因ではないが、3月末で産経新聞の購読を止めた。
 「よりましな」新聞であることは分かっているが、重要な文章はネット上で無料でコピーできることが大きい。他の新聞に比べて、数年前までの、例えば「正論」や「昭和正論座」その他の論説委員執筆コラム等々がネット上で追いかけられるのは有り難い。
 朝日新聞などは、若宮啓文の重要なコラムを読み逃しても、遅れればネットで(無料では)読めないし、そもそもネット上に掲載していない可能性もある。
 というわけで、3月末と決めていたのだが、産経新聞が<憲法改正起草委員会>を組織したとの報道があって、ややぐらついた。毎日の紙面で、その動向を知っておく必要があるのではないか、と。
 話題を憲法改正案起草に変えれば、「委員」5人の顔ぶれを見て、感じることもある。
 法学者・法学部出身者が多い(全員?)のはよいのだが、79歳、77歳、71歳、69歳、65歳では、あまりにも「年寄り」しすぎではないか?
 しかし、これは現在の法学界、とくに憲法学界の反映かもしれない。50歳代であれば十分に、しっかりした憲法改正論を語れる者がいても不思議ではないのだが、そのような適材がいないのだろう。少なくとも、産経新聞社の求めに応じて「委員」になるような適当な学者がいないのだろう。
 憲法改正に賛成することが、あるいは憲法改正を語ることすら、はばかられるような学界の雰囲気があるに違いない、と思われる。
 産経新聞紙上にもかつての改憲案の作成機関等が紹介されていたが、「憲法学界(学会)」こそがそのような検討をしていたとしても不思議ではないにもかかわらず、そのようなテーマで議論したことは一度もないのだろう。ついでに言うと、日本弁護士連合会(日弁連)もまた<よりよい憲法>を目指した案を作成してもまったく不思議ではない団体だが、日弁連が憲法改正を(それに反対はしても)議論したという話は聞いたことがない。
 (憲法等の)法学界も専門法曹・弁護士会も、憲法改正を一種のタブーにしてきた、という、まことに見苦しく情けない現状がある。それを話題にすること自体が、憲法九条を改正したがっている<保守・反動派>を助けることになる、という意識が、論壇やマスコミ界以上に強いものと思われる。「黒い羊」と断定されれば、就職もできず、あるいはまともな?法学部には就職(・転職)できない、という<経済・生活>にかかわる、サンクションも機能していると思われる(これは「左翼ファシズム」がほとんど成立してしまっている、ということでもある)。
 そのような怖ろしい「部分」・業界?もある中で産経新聞社が憲法改正へと棹さすのは結構なことだ、ととりあえず言っておこう。
 前回に触れたように現九条1項にはそれなりの由来・歴史が伴っているのだが、<侵略戦争はしない>ことはもはや当然のこととして、せいぜい前文で抽象的かつ簡単に触れるくらいにして、現九条1項のような(たしかに紛らわしくはある)条項は残存させないのも、一つの案かもしれない。
 なお、橋下徹・大阪維新の会は憲法改正を「タブー」視していないことは明らかだ。自民党等の中にいるだろう「保守」派は、差異・不明部分のみを強調するのではなく、共通している部分にも目を向けておく必要があるだろう。
 元に戻れば、やはり産経新聞の購読は止めている。したがって、「産経抄」の文章に言及したのは、今回が最初で最後になる可能性が高い。

1093/産経新聞と現憲法九条1項-「侵略」戦争のみを放棄。

 一 あらためて現憲法九条の解釈問題に触れる。
 というのは、産経新聞社の憲法九条関係の「専門」記者または論説委員の知識・勉強不足を、再び感じることがあったからだ。
 先月の2/05と2/20の二回、<芦田修正>にかかる石破茂と田中某防衛大臣のやりとりに関連したコメントを記した。
 そのときはあえて立ち入らなかったのだが、産経新聞の2/09社説「芦田修正/やはり9条改正が必要だ」には、九条1項と2項の関係についての、不思議な文章もあった。
 すなわち、「歴代内閣は自衛隊は『戦力』ではなく必要最小限度の『実力』とみなしてきたが、極めて分かりにくい解釈である。/芦田解釈を認めないまでも、このような考え方を政府は一部受け入れており、安全保障の専門家ですら合憲の根拠が奈辺にあるかを把握するのは容易でない。/戦後日本はこうした解釈により、『武力による威嚇又は武力の行使』の放棄と『陸海空軍その他の戦力』の不保持を規定する9条の下で自衛隊の存在について無理やりつじつまを合わせてきた」。
 「…政府は一部受け入れており」も、意味が不明だ。とくに
奇妙なのは最後の一文で、自衛隊に関して、1項の「武力による威嚇又は武力の行使」の放棄と2項の「陸海空軍その他の戦力」の不保持を「無理やりつじつまを合わせてきた」という説明の仕方は、私には趣旨が理解できない。自衛隊の存在は、九条1項とは関係がない、あるいはそれと抵触しておらず、もっぱら九条2項の「軍その他戦力」概念との関係が問題になるにすぎないからだ。
 1項は「戦争」放棄条項と称されることが多い。この社説の言うような、「武力による威嚇又は武力の行使」の放棄を少なくとも第一義的な目的としたものではない。そして、これと2項の矛盾?を「無理やりつじつまを合わせてきた」とはいったいいかなる意味なのだろうか、社説執筆者は憲法九条(1項と2項の関係も含む)の「政府解釈」をきちんと理解しているのだろうか、という疑問をもった。
 この点では、翌日の読売新聞社説の方がはるかにマシで、簡潔ながら要点をおさえていた。すなわち、「原案は9条1項で侵略戦争を放棄し、2項で戦力不保持を明記していた。2項の冒頭に「前項の目的を達するため」を挿入した。/これにより、自衛の目的であるならば、陸海空軍の戦力を持ち得るとする解釈論が後年、生まれることになる。/だが、政府解釈は、芦田修正を自衛隊合憲の根拠としてこなかった」。詳細にここで立ち入らないし、ある程度はのちに述べるが、この読売社説の文章は奇妙ではない。
 問題はおそらく、端的に言って、現憲法九条1項の理解にある。読売社説はすでに原案で「侵略戦争を放棄し」と書いているが、産経新聞においては、この点自体があやしい。すなわち、九条1項は「すべての」戦争を放棄していると、とりあえずは読んで(解釈して)しまっているのではないか。あるいは、表面的な字面に惑わされて、九条1項にいう「武力」概念と自衛隊の存在との間に問題がある、とでも安直に読んで(解釈して)いるのではないか。
 二 九条1項は自衛目的の戦争を含むいっさいの戦争(等)を放棄している、という理解(解釈)は憲法学者の中にもあるし、吉永小百合もまた、これを前提とする文章を、岩波書店刊行のブックレットに書いている。
 月刊WiLL4月号(ワック)の雑談話中の久保紘之も、ある意味では通俗的解釈については正確に、「前項の『戦争放棄』を補強して、そのために『戦力放棄』をすると読まれた」、芦田修正の含意は一部の者の「密教」となり、「民衆レベルでは『戦争も戦力も放棄』が顕教となっ」た、と語っている(p.100)。九条1項の意味や政府解釈等をどの程度正確に理解しているかは疑わしいが。
 また、産経新聞3/14付の投書欄には、「民衆」の一人の次のような主張が掲載された。じつは、この投書の内容を読んで、この文章を書きたくなった。
 投書者は、次のように言う。―自民党の憲法改正原案が「『国権の発動としての戦争を放棄する』との現行憲法第9条を維持している」のは残念だ、これを残すと「自衛のための戦争さえも」否定する根拠になりはしないか。現9条の「戦争放棄条項」を破棄すべきだ。
 こういう主張の投書を産経新聞が掲載したということはおそらく、投書欄担当者は<一理ある>と考えたからだろう。
 この投書者も(産経新聞の担当者も?)、9条の「戦争放棄条項」によって「すべての」・「いっさいの」(自衛戦争を含む)戦争が放棄されている、またはそのように解釈される可能性がある、ということを前提にしている。
 三 この欄にすでにいく度か書いてきたことなのだが、憲法学界の「通説」らしきもの、及び「政府解釈」をいちおうはきちんと知っておく必要があるだろう。
 現在の東京大学の憲法学教授・長谷部恭男の教科書はつぎのように叙述している。-9条1項について「通説は主として国際法上の慣用に基づいて、『国際紛争を解決する手段として』の戦争、〔…武力威嚇・武力行使〕の放棄は、侵略目的による戦争〔等〕の放棄を意味するにとどまるとする」(第4版、p.61)。
 ここにいう「国際法上の慣用」を含めて、現役教授4名による現憲法注釈書である別の本は次のように書いている。-「通説によれば、九条一項が『国際紛争を解決する手段としては』永久に放棄するとした戦争は、一九二八年の不戦条約が『国際紛争解決ノ為戦争に訴フルコトヲ非トシ』て放棄した『…戦争』を意味する」、従って「少なくとも」「自衛戦争・自衛行動や軍事的制裁措置までは放棄していないということになる」(高見勝利執筆、同ら・憲法Ⅰ第4版(有斐閣、2006)p.165)。
 これらにいう「通説」と(憲法制定時は別としても)警察予備隊や自衛隊設置等のあった一九五〇年代以降の「政府解釈」とは同じだ、と理解して差し支えない。なお、かつての宮澤俊義や現在の樋口陽一は「すべての」戦争放棄と解釈した、または解釈したがっているので、「通説」と同じではない。
 以上のように、九条1項におけるキーワードは「国権の発動としての戦争」ではなく(これは「戦争」と同義かほとんど等しい)、「国際紛争を解決する手段としては」にある。そして、この語句による<限定>があるがゆえに、自衛戦争(自衛のための戦争)を九条1項は放棄(否認)していない、とするのが学界の「通説」であり(といっても厳密には諸説があるのだが、上の二著はあえて「通説」と言い切っているので従っておく)、「政府解釈」でもある。
 ではなぜ「自衛(目的の)戦争」も否定されるかというと、それは九条2項の存在による。すなわち、1項のみでは「自衛戦争」は否定されていないが、2項によって「…軍その他の戦力」の不保持が明記されているために、自衛目的であれ「戦争」を行うための「戦力」を保持できず、従って「自衛戦争」を行うことが実際には不可能だ(否定されている)、ということにになっているのだ。

 <芦田修正>の語句は、結果としてはまたは実質的には無視されて解釈されている、と言ってよいと思われる(この点は詳論を要するが、省略する)。そして最近に書いたことを繰り返せば、「自衛」のための「戦力」も保持できないが、自衛権はあり、「自衛」のための最小限度の<実力行使>はできる、そのための組織が(「戦力」ではない)自衛隊だ、ということに、「政府解釈」によれば、なっている。
 国民・「民衆」レベルで、「国際紛争を解決する手段としては」という語句に着目することを期待するのは無理かもしれない。しかし、天下の大新聞?・産経新聞の社説等の執筆者あたりだと、上の程度くらいの知識を持っておくべきだろう。アホ丸出しとまでは書かないが、産経新聞2/09社説は、上のような趣旨を理解して書かれたのだろうか。また、3/14の投書欄担当者は、上のようなことを理解したうえで、一読者の投書を掲載しているのだろうか。
 四 数年前に桝添要一が責任者またはまとめ役となって作成された自由民主党の改憲案においても、現憲法九条1項はそのまま残されていた。現九条2項は削除され、現在の九条1項が「九条」全体に変わり、そのうえで、新たに「九条の二」が設けられて「自衛軍」の保持が明記されていた。今回の自民党の憲法改正原案もまた、これを継承していると考えられる。
 すなわち、<侵略戦争>はしない(放棄する)、という意味で、(自民党においてすら?)現九条1項はそのまま残されるのだ。
 この点を正確に理解したうえで、改憲案に関する報道もなされるべきだろう。
 すでにこう書いたことがある―「九条を考える会」という呼称はゴマカシだ、正確に<九条2項を考える(護持する)会>と名乗るべきだ、と。岩波書店あたりを実質的に事務局としていると推察される「九条を考える会」は(むろん奥平康弘という憲法学者を含む呼びかけ人たちは)、上のような「通説」や「政府見解(解釈)」を知っているにもかかわらず、九条1項の意味をあえて曖昧にし、九条1項がすでに「すべての」戦争を放棄し、そのための具体的な手段として九条2項がある、という(九条1項だけですでに「戦争」一般が放棄されているという)通俗的な、「民衆」レベルでの<美しい?誤解>によりかかって、会の名称とし、運動をしているのだ。
 改憲政党の自民党ですら、現九条全体の破棄・削除を主張しているのではない。改憲政党の自民党ですら?「侵略戦争」を是としているのではない。自民党が主張しているのは、現九条の全体ではなく、後半・2項の削除(と「自衛戦争」可能な自衛軍保持の明記)だ。少なくとも大手新聞社の憲法担当の関係者は、この程度のことは<常識として>知っておくべきだろう。
 産経新聞には、古森義久、黒田勝弘、湯浅博等々の、「正論」欄メンバー以上に博学でかつ現実的な議論のできそうな人物が少なからずいることを知っている。それにしては、憲法あるいは憲法九条関係の記事は、どうもあやしく、お粗末であるような気がする。
 投書者に責任はないだろう。だが、上のような投書を投書欄の最右翼に掲げる感覚は、必ずしも適切ではないように思われる。現憲法九条の解釈論議をまき起こしたいという趣旨ならば理解できなくはないが、自民党の改憲原案への疑問としては正鵠を射ていない。産経新聞社には、憲法九条を含む憲法諸条項の「政府解釈」(多くは内閣法制局見解)をまとめた本(刊行されている)や少しは分厚い憲法の注釈書・教科書のいく冊かも置かれていないのだろうか。そうであるとすれば、まことに空怖ろしい。
 お分かりかな? 産経新聞社の関係者のみなさん。一ブロガーにこんな書き方をされるとは、少しは恥ずかしいのではないか?

1083/憲法九条の解釈と産経新聞と軍隊と法ニヒリズム。

 自衛隊の憲法上の根拠に関する国会質疑についての報道ぶりをこの欄で疑問視したのは2/05の未明だった。
 その後、産経新聞社説が2/09に、読売新聞社説が2/10にこの問題を取り上げ、産経新聞紙上の「正論」欄では2/09に坂元一哉が「芦田修正が自衛隊合憲根拠なら」と題してこの問題に言及している。他紙の状況は確認していないが、少なくとも社説では取り上げていないようだ。
 上の3つに共通するのは、①いわゆる芦田修正は政府の解釈する自衛隊の合憲性の根拠ではない、②「やはり」憲法改正(軍としての明記)が必要だ、ということだ。
 そもそも自衛隊担当大臣が憲法上の根拠をまともに答弁できないのは異常なのであり、坂元の言うように「昔だったら国会が止まりかねない失態」だ。このことに関する感覚が麻痺しているのではないかと先日は言いたかったのだが、産経社説の冒頭は「自衛隊と憲法の関係があまりに複雑すぎて、ほとんどの国民は理解できないだろう」から始まっている。別の機会に言及する点も含めて、大?新聞の産経新聞の社説子がこう書き始めるとは、(「国民」に代えてはいるが)情けないことだ。田中某大臣の勉強不足のみに焦点を当て、質問者・石破茂の憲法解釈の適否について触れなかった自社の記事への「釈明」のように読めなくもない(官房長官が芦田修正は政府解釈とは異なると述べたらしいが、少なくとも同じ記事の中に書いてはいない)。
 さて、自衛隊が憲法九条2項でいう「戦力」ではないということは、九条2項が「陸海空軍その他の戦力」と表現しているように、自衛隊は「陸海空軍」ではないこと、「軍(隊)」ではないとされていることを意味する。「戦力」というとやや曖昧になってしまうが、現在ある自衛隊は「軍隊」ではないと日本政府は解釈し続けていること(そして司法審査の対象ではないとする最高裁の姿勢・判決によって、このような解釈は肯定されていないが、否定されてもいないこと)をきちんと確認しておく必要がある。
 私の見るところ、このような解釈の長年にわたる「通用」は、少なくとも次の二つの弊害をもたらしているようだ。
 一つは、戦車が「特車」と言い換えられるといった例をよく耳にするが、自衛隊は「軍隊」ではないとされているために、まともな軍隊ならば有しうる(与えられる)はずの種々の権限が制約されている。
 詳細に立ち入る余裕も能力もないが、田母神俊雄はこの点を、軍隊ならばネガティブ・リスト以外のことを全てできるが、自衛隊はポジティブ・リストに明記されていることしかできない、と説明していた。
 かつての幕僚長の言うことだから、結論的にはおそらく的確な説明なのだろう。「軍隊」ではないがゆえの、法律との関係での制約があるのだ。
 もっとも、<軍隊ならばネガティブ・リスト以外のことを全てできる>という説明は、結論的・感覚的には誤ってはいないのかもしれないが、結局のところ、法律による抽象的かつ包括的な権限・権能の付与が「軍隊」の場合は通常(どの国でも)憲法または法律によって行われている、ということであり、軍隊であるがゆえの「国際法」上の権能だという説明ではないように見える。なぜなら、ある国の、ある武力・実力組織が「軍隊」であるか否かを決定することができるいかなる国際機関も存在しないと思われるからだ。
 したがって、違いは要するに国内法(憲法上の存在ではない日本では法律)上の扱いの違いなのであり、自衛隊を「軍隊」とは理解してこなかった日本の法律は、<抽象的かつ包括的な権限・権能の付与>をしてこなかった、ということなのだろうと思われる。このあたりは、軍事・防衛法専門家(いるとすれば)のきちんとした説明を聞きたいものだ。
 二つは、一種の「法ニヒリズム」の根拠・背景になってきた、ということだ。軍隊(・自衛隊)の存否、その法的な根拠は国家にとって最重要事項のはずだが、日本政府自体の憲法解釈が大まかに言って朝鮮戦争勃発の前後によって変わってきたことによって、<憲法解釈などどのようにでもなる>という印象を多くの国民に与えたことは否定できないように思われる。また、世界で第何位の実力があるというようなかたちで紹介されることもある自衛隊の装備・能力が(上に触れたような制約があるとはいえ)、常識的な用語としての「軍その他の戦力」ではない、とするのは、必ずしも容易に理解できるものではない。
 憲法と自衛隊に関する説明・授業を聞く小学生・中学生たちは、何と感じるだろうか。<(日本の)大人たちはゴマかしている>と感じないだろうか。
 もともと欧米的な「法・権利」意識が日本(国民)にそのまま根付くものなのかという問題はあるのだが、そうした基本問題以前のところで、憲法をはじめとする法(法令等)に対する「不信」のようなもの、それを伝統的・歴史的な意識に支えられた自然の「法」意識へと育てず、憲法等の「法」を(どのようにでも解釈・運用できる)<技術的な道具>視してしまうような意識・心理の重要な背景の一つは(最高裁の姿勢もその一つだが)九条・自衛隊に関する政府の解釈でもあったように考えられる。
 さらに論及したいことがあったが、長くなったので別の回に委ねる。

1054/三橋貴明・大マスコミ/疑惑の報道(2011.09)より。

 何らかの雑誌論考・新聞記事・単行本等の内容を素材にして何らかのコメントを書いてきているが、読書録的な利用を意図すると言いつつも、コメントの内容がある程度はイメージできてからでないと、この欄に書き込もうとはしなかった。
 コメントの文章化にはある程度の時間とエネルギーを要するので、コメントがいっさいない、紹介だけのエントリーもすることにした。
 コメントしたくなるのは、多くは批判的・消極的な感想を持った場合なので、コメントを全くしないのは、多くの場合、肯定的・積極的に評価している文章等だ、ということになるだろう。
 〇三橋貴明・大マスコミ/疑惑の報道(飛鳥新社、2011.09)より。
 ・田母神俊雄が会長の…は、昨年9月7日の尖閣衝突事件への抗議行動として「一〇月一六日に東京都内で反中国の大規模デモを実施した」。主催者発表で3000人超の国民が参加したが、「読売新聞、毎日新聞、日経新聞は一切報じなかった」。
 上の三紙は、この集会・デモに対する「『中国外務省の懸念』のみを報じた」。
 「国内の報道機関が『国内の事件』についてまともに報じず、それを『外国人』の発言により知る。これは、報道統制が行われていた、かつてのソ連や東欧の状況そのままである」。

 「かつての共産独裁国家と同じ状況が、……日本で生まれてしまった。……政府に命じられたためではない。マスコミ自ら、共産独裁国家と同様の報道統制を行ったわけだ」。(以上、p.23-26)。
 ・「日本の新聞各社は『新聞特殊指定』という政府の規制により守られている。…マスコミ式『護送船団方式』というわけである」。金融機関のそれを散々に批判していたが、「そういう自らも政府におんぶ抱っこで生き残りを図っているわけである」。
 だが、「護送船団方式という意味では、新聞産業よりもテレビ産業の方が凄まじい」。放送免許という「規制」により保護され「既得権の電波を利用して収益を上げているテレビ局」が報道番組で、日本は市場競争不足、政治家の既得権つぶせ等と論じているのだから、「もはや笑うしかない」。「日本国内で最も『国家の保護』を受けている産業は、間違いなくマスコミなのである」。(以上、p.43-44)。

1023/菅直人と朝日新聞の低劣・卑劣・愚劣ぶり-あらためて。

 何ともヒドイものだ。これほどとは。
 一 菅直人は7/13に、「脱原発」=「将来は原発がない社会を実現する」と記者会見で述べたが、閣僚等から疑問・批判が出ると、7/15に、「私の考え」、「個人的な考え方」だったと釈明?した。
 内閣総理大臣たる者が、英語で「首相」と書かれ、桐の紋まで刻まれた台に自ら積極的に立って行った記者会見(記者発表)での発言を、わずか二日後に「私(個人)」の考えの表明だった(政府方針ではない)と後退させてしまうとは。
 この人は自らの内閣総理大臣たる地位を何と理解しているのだろう。首相としての記者会見(発表)の場で、内閣総理大臣担当者たる立場を離れた「私(個人)」の考えを表明できるはずがないではないか。
 かりにそれが閣内や民主党内で支持されていないこと(または唐突感も含めて疑問視されていること)が判明したとすれば、<私的>だったと逃げるのではなく、首相見解そのものを撤回・変更するというのが、スジというものだろう。
 こんなことが罷り通るのならば、菅直人の中部電力への浜岡原発停止要請はいったい何だったのかと言いたくなる。
 内閣総理大臣による行政指導だったのか、それとも、内閣総理大臣を担当している菅直人個人の<私的>要請(・願望)だったのか? 後者ならば、中部電力はまともに取り上げ、まともに検討する必要はなく、結果として従う必要もなかった。その後に今回のような閣内・民主党内での疑問・批判が出なかったから、たまたま(私的・個人的ではない)内閣総理大臣による要請(行政指導)になったのだとすれば、怖ろしい<政治・行政スタイル>だ。
 思いつきで適当なことを(ウケが良さそうで支持率がアップしそうなことを?)発言しておいて、反対論・疑問論が大きいと見るや、「私(個人)」の考えでしたとして逃げることが可能だとすれば、ヒドい、とんでもない、呆れるほどの<政治・行政スタイル>だ。
 この一点だけを取り上げても、菅直人首相とそれが率いる内閣の不信任に十分に値する。
 産経新聞はほぼ同旨で、7/16社説の大文字の見出しを「首相の即時辞任を求める」と打った。首相が辞任すれば、当然に菅直人内閣は瓦解する。
 産経とともに菅の7/13発言の内容にも疑問を呈していた読売新聞は、7/16社説で、<私的(個人的)>見解への転化をさほど大きくは問題視せず、その代わりに、主としてその発言内容自体をあらためて批判している。
 いわく、「そもそも、退陣を前にした菅首相が、日本の行方を左右するエネルギー政策を、ほぼ独断で明らかにしたこと自体、問題である。閣僚や与党からさえ、反発の声が一斉に噴き出したのは、当然だ」。「その発言は、脱原発への具体的な方策や道筋を示さず、あまりに無責任だった」。「首相は、消費税率引き上げや、環太平洋経済連携協定(TPP)への参加などを掲げ、実現が危ぶまれると旗を降ろしてきた。同様の手法のようだが、今回は明らかに暴走している」。
 二 何ともヒドイのは、菅直人だけではない。朝日新聞も、(やはり)ひどい。
 菅首相の7/13記者会見の内容につき
、「国策として進めてきた原発を計画的、段階的になくしていくという政策の大転換である」とし、「私たちは13日付の社説特集で、20~30年後をめどに「原発ゼロ社会」をつくろうと呼びかけた。…方向性は同じだ。首相の方針を歓迎し、支持する」と社説で明確に支持し、大歓迎した。
 そして内閣や民主党の全体的支持を得られるかどうかに懸念を示しつつも、最後は
「いまこそ、与野党を問わず、政治全体として脱原発という大目標を共有して、具体化へ走り出そう」と結んでいたのだ。
 とあれば、7/15の<私的(個人的)見解>との釈明後に、この問題をあらためて社説で取り上げて不思議ではないし、むしろ取り上げるべきだろう。
 しかし、朝日新聞は逃げた。トンズラを決め込んだ。7/17社説の見出しは、「福島の被災者―「原発難民」にはしない」と「レアアース―WTOを通じた解決を」の二つで、読売・産経が取り上げた重要な問題をスルーした。
 「いまこそ、…政治全体として脱原発という大目標を共有して、具体化へ走り出そう」と大見得を切ったところが、わずか二日後での(閣内・民主党内事情による)挫折?に、さすがに恥ずかしくなったのだろうか。いやいやそんな純情な朝日新聞ではない。要するに、自分たちに都合の悪いことには触れない。それだけのことだ。

1014/<宰相不幸社会>の宰相・菅直人の意識は?

 読売新聞6/23社説は、「最小不幸社会」を目指したのに<宰相不幸社会>になった、と面白いことを冒頭に書いている。
 さて、菅直人が何を考えている、どういう神経の持ち主なのかはよく分からないが、良いように?解釈すれば、次のように思考しているのかもしれない。以下は、6/02午前中の、鳩山由紀夫との間の「確認書」からヒントを得た推測だ。
 確認書の第二項には「自民党
政権に逆戻りさせないこと」とあったはずだ。これは政権交代を否定するものだとしてすでに言及したが、あらためて表現を見ていると、「逆戻り」との言葉が使われているのに気づく。
 これは、自民党政権に交代するのは「逆戻り」、すなわち、時代の進歩または発展の方向には向かわない、<反動的>な逆の方向だ、という認識を前提にしているものと思われる。
 菅直人に限らず鳩山由紀夫もそうなのだろうが、そして民主党に投票した有権者の少なくない部分も、<自民党はもう古い・遅れている>、<民主党は新しい・進んでいる>というイメージを持っているように思われる。
 このように単純には言えないはずだが、朝日新聞等々の有力マスメディアはこのようなイメージを、2009総選挙の前に撒き散らしたのだ。
 菅直人自身、自民党政権に戻ることは時代・社会の進歩の方向とは逆の方向だ、自分は<時代の流れ>に添った、その方向上にある首相だ、という意識を強く持っているのではなかろうか。
 むろん、上はたんなる幻想、誤った<左翼的>観念にすぎないのだが。
 いま一つ、菅直人を支えているのではないかと思われる意識がある。それは、小沢一郎のように<きたなくはない>という自己認識だ。
 菅直人は、良いように?理解すれば、自分は自民党とは違って<進歩>(歴史の発展方向?)の方向に添っており、かつ小沢一郎(・一派)とは違って<クリーン>だ、という意識に支えられて、なお<延命>しようとしているのではないか。
 以上は、より良く解釈しすぎている可能性はある。たんなる権力亡者かもしれず、自分を客観的に観れないだけの人物なのかもしれない。だが、それらに加えて、上のような二種の意識も最低限度は混じっているようにも思えるのだが…。

0991/古田博司「時代の触角/親中メディアの生理的イライラ」(歴史通3月号)。

 歴史通3月号(ワック)の古田博司「時代の触角③/親中メディアの生理的イライラ」(p.200-)によると、日本の全国紙のうち朝日・毎日・日経は1960年代に「黙って」・「素知らぬ顔で」反米・親中へと変化した、読売は2006年に「鋭角的に」そう変化し、産経は非親中のまま、らしい。これにNHKの親中ぶりを合わせると、大手メディアの<親中>体制は強固だ。

 NHKは在日エジプト人の200人ほどの集会を丁寧に放送し、別の某民放局(忘れた)は在日リビア人のそれよりも少ない数の活動を追っていたが、昨秋の尖閣事件を契機とする他ならぬ日本人の東京での数回にわたる数千人規模のデモ・集会をほとんど無視した。だが、菅直人内閣の支持率の急落の最大の原因は私にはこの尖閣問題への対処のヒドさ(国民に生じた基本的な平和・安全自体への危惧)にあったと思える。大手メディアの報道ぶりと庶民的<世論>の感覚はかなりズレているのではないか。

 古田論考には他にも興味を惹く叙述がある。詳しく反復しないが、親中べったり派の毎日新聞の元・現の記者として、石川昌、中野謙二、辻康吾、金子秀敏という固有名詞を挙げている。そして、「尖閣事件以来、毎日の『スター』はずっとイライラし続けている」のだそうだ。

 古田によると日中友愛の<理想・幻想・空想>は「ウソの団子三兄弟」または「想兄弟」。これに該当する兄弟たちは、東京新聞の清水美和、慶應大学の国分良成、みずほ総研の細川美穂子、東京大学の苅部直(「事後のピエロ」)、慶應大学の添谷芳秀

 「わが日本国ではリベラルと親中が六〇年代に進歩的文化人らにより接着されてから、ずっと剥がせないまま、インテリのマジョリティを作り上げて今日まで来てしまった」のだが、古田は、自分たちで剥がせなければ「際限なくウソ」をつき続ける他はないとして、若干の例も挙げている。
 この古田論考をとり上げたくなったのは、次の最後の一文にある。「東アジア情勢の変動が国内政治にどう反映するか、いよいよ楽しみになってきた今日この頃である」。

 「いよいよ楽しみになってきた今日この頃である」。日本の将来を悲観し、悲痛に思い詰める必要はない。菅直人政権の右往左往ぶり、支持率急落(最新の某調査で20%以下!)、衆議院解散を求める世論の増大(事態の改善方向の第一位意見)に対して、朝日新聞はこれからどう菅・民主党政権を擁護し、自らのかつての主張との齟齬を取り繕うだろうか、「いよいよ楽しみになってきた今日この頃である」、という気分で日々を過ごすことにしよう。

0931/中国(中共)御用新聞・朝日の真骨頂=11/06朝日新聞社説。

 11/06の全国紙各紙の社説は興味深い。毎日を除き、いわゆる<尖閣ビデオ>全面公開について触れている。朝日を除いて、要点のみ引用。

 産経-「ビデオ映像は、中国漁船の違法性を証明する証拠として、本来なら政府が率先して一般公開すべきものだった。遅きに失したとはいえ、菅首相は国民に伝えるべき情報を隠蔽した非を率直に認め、一刻も早くビデオ映像すべての公開に踏み切るべきだ」(最末尾)。
 読売-「尖閣ビデオ流出/一般公開避けた政府の責任だ」(タイトル)。「政府または国会の判断で、もっと早く一般公開すべきだった」。「中国人船長の逮捕以降、刑事事件の捜査資料として公開が難しくなった事情は理解できる。だが、船長の釈放で捜査が事実上終結した今となっては、公開を控える理由にはならない。/中国を刺激したくないという無用な配慮から、一般への公開に後ろ向きだった政府・民主党は、今回の事態を招いた責任を重く受け止めるべきだ」。
 日経-「迫られる尖閣ビデオの全面公開」(タイトル)。「政府には、漁船衝突ビデオについて、重要な善後策がある。映像の全面公開である」。「政府は刑事訴訟法の規定を盾に…公開できないとしてきた。しかし同規定の趣旨は、最高裁判例によれば①裁判に不当な影響を与えない、②事件関係者の名誉を傷つけない―の2点にある。/中国人船長がすでに帰国した現在、証拠ビデオを公開しても同規定の趣旨には反しない」。従って「公開しようと思えば、法律的には必ずしも不可能ではなかった。それでも一貫して公開に後ろ向きだったのは、日中関係への配慮という政治判断が働いたからだろう。/結果論からすれば、そうした対応は誤っていた」。

 異彩を放ち、さすがと思わせるのは、朝日新聞社説だ。政府の情報管理に不満を述べたのち、こう書く。

 朝日-「流出したビデオを単なる捜査資料と考えるのは誤りだ。その取り扱いは、日中外交や内政の行方を左右しかねない高度に政治的な案件である」。

 だからどうなのか、次のように続ける。

 「政府の意に反し、…ネットに流れたことには、驚くほかない。/ビデオは先日、短く編集されたものが国会に提出され、一部の与野党議員にのみ公開されたが、未編集の部分を含めて一般公開を求める強い意見が、野党や国民の間にはある」。
 「もとより政府が持つ情報は国民共有の財産であり、できる限り公開されるべきものである。政府が隠しておきたい情報もネットを通じて世界中に暴露されることが相次ぐ時代でもある。/ただ、外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある」。

 「流出により、もはやビデオを非公開にしておく意味はないとして、全面公開を求める声が強まる気配もある。/しかし、政府の意思としてビデオを公開することは、意に反する流出とはまったく異なる意味合いを帯びる。短絡的な判断は慎まなければならない」。

 「ビデオの扱いは、外交上の得失を冷徹に吟味し、慎重に判断すべきだ」(最末尾)。

 なんと、上掲3紙社説と異なり、「全面公開」に消極的であり、有り体にいえば<反対>している。
 朝日社説子によると「仮に非公開の方針に批判的な捜査機関の何者かが流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反する行為であり、許されない」。つまり、漏洩者=流出者は、もちろん<英雄>ではなく、酌量の余地のある公務員法形式的違反者でもなく、れっきとした「許されない」人物なのだ。

 なぜ朝日新聞は「全面公開」に反対なのか。朝日は正当にも(?)<尖閣ビデオ>は単なる「捜査資料」とは理解していない。その取り扱いは「日中外交や内政の行方を左右しかねない高度に政治的な」案件だとし、「外交上の得失」を冷静に吟味せよ、と主張している。

 ここにこの新聞の本音が示されている。

 民主党政府の本音(対中配慮)を的確に把握しつつ、その本音(対中配慮)を支持し、貫け、と主張しているのだ。

 もう少しいえば、民主党・仙石らと同様に、<尖閣ビデオ>の「全面公開」によって「日中外交」が気まずくなること、つまりは中国(政府・共産党)が不満を高めることを怖れているのだ。

 「映像を公開し、漁船が故意にぶつけてきた証拠をつきつけたとしても、中国政府が態度を変えることはあるまい」とまで書いている。「全面公開」してもマイナスの方が大きい(可能性がある)し、「中国政府が態度を変えること」はないから無駄だろうとまで言っている。

 要するに、朝日新聞は、民主党政府はこれまでどおりに、中国(政府・共産党)の意向を配慮せよ、と主張している、ということに尽きる。

 「態度を変え」ようが変えまいが、すべき主張はきちんとしておくべきだと思われるが、相手の顔色を見て主張の仕方を変えよ、言っているに等しい。そのことによって、日本の利益がどうなろうと関係はなさそうだ。それが、朝日のいう「外交上の得失を冷徹に吟味」することなのだ。

 朝日はこういう主張を、どの外国との関係でも行うのではあるまい。上のような主張の中には一般論としては全面的には誤ってはいない部分が含まれてはいるが(その意味でもじつに巧妙だ)、今回の事件が、そして<尖閣ビデオ>が、中国(政府・共産党)を一方当事者とするがゆえにこそ、そのように主張しているに他ならないだろう。

 古くからもつDNAは生きたままだ。日本の有力な新聞の中に、このような、自国(日本)よりも中国(政府・共産党)の利益・意向を優先する新聞がある。

 たんなる政治的見解の相違というよりも、この新聞社(・幹部・論説委員・政治部や国際部の記者たち)は、とっくに中国(政府・共産党)に籠絡されているのだろう。あるいは端的に、事実上は、中国(政府・共産党)の支配下にあると言ってよいのだろう。

 注-「真骨頂(しんこっちょう)」=「そのものの本領(本来の姿)」(新明解国語辞典)。

0870/山内昌之・歴史の中の未来(新潮選書、2008)。

 山内昌之・歴史の中の未来(新潮選書、2008)は、著者の各種書評類をまとめたもの。
 新聞や週刊誌等の書評欄という性格にもよるのか、批判的コメント、辛口の言及がないことが特徴の一つのように読める。

 1.寺島実郎・二〇世紀から何を学ぶか(新潮選書、2007)は民主党のブレインとも言われる寺島の本だが、好意的・肯定的に紹介している(p.63-64)。これを私は読んでいないし、寺島の別の本に感心したこともあったので、まぁよいとしよう。

 2.関川夏央・「坂の上の雲」と日本人(文藝春秋、2006)については、「楽天的な評論」と形容し、「プロの歴史家たる者」は関川の「司馬ワールドの解析」を「余裕をもって」眺めればよいと書いて、おそらくは「プロの歴史家」の立場からすると疑問視できる叙述もある旨を皮肉含みで示唆している。だが、全体としては好意的な評価で抑えており、これもまぁよいとしよう。
 3.だが、中島岳志・パール判事(白水社、2007)について、この書の基本的趣旨らしきものを全面的に肯定しているように読めるが(p.180-1)、小林よしのりの影響によるかもしれないが、この評価はいかがなものだろう、と感じる。いずれ、所持だけはしている中島著を読む必要があるとあらためて感じた(こんな短い、字数の少ない、研究書とはいえないイメージの本でよく「賞」が取れたなという印象なのだが)。

 4.渡邉恒雄=若宮啓文・「靖国」と小泉首相(朝日新聞社、2006)の書評部分には驚いた。

 山内昌之自身の言葉で、次のように書く。
 「…分祀は不可能と断定し日本の政治・外交を混迷させる現在の靖国神社の姿には、大きな疑問を感じざるをえない」(p.182)。

 以下もすべて、山内昌之自身の考えを示す文章だ。

 靖国神社に「戦争の責任者(A級戦犯)と戦死した将兵が一緒に祀られている。これは奇妙な現象というほかない。…兵士を特攻や玉砕に追いやったA級戦犯の軍人や政治家に責任がないというなら、誰が開戦や敗戦の責任をとるというのだろうか」。
 小泉首相の靖国参拝は「近隣諸国から抗議を受けるから」ではなく「日本人による歴史の総括やけじめにかかわるからこそ問題」なのだ(p.182)。

 このような自身の考え方から、渡邉恒雄と若宮啓文の二人の主張・見解を好意的・肯定的に引用または紹介している。

 山内は<神道はもっと大らかに>との旨の若宮啓文の発言に神道関係者はもっと耳を傾注してよいとし、二人の「新しい国立追悼施設施設」建設案を、批判することなく紹介する(p.182)。さらには次のようにすら書く。

 「良質なジャーナリズムの議論として、日本の進路とアジア外交の近未来を危惧する人に読んでほしい書物」だ(p.183)。

 何と、渡邉恒雄と若宮啓文の二人が「良質なジャーナリズムの議論」をしていると評価している。

 前者はうさん臭いし、後者は日本のナショナリズムには反対し、中国や韓国のナショナリズムには目をつぶる(又はむしろ煽る)典型的な日本の戦後「左翼」活動家だろう。

 この書評は毎日新聞(2006.04.23)に掲載されたもののようだ。まさか毎日新聞社と読売・朝日新聞におもねったわけではないだろう、と思いたいが。

 また、そもそも、「A級戦犯の軍人や政治家に責任がないというなら、誰が開戦や敗戦の責任をとるというのだろうか」との言葉は、いったい何を言いたいのだろうか。

 第一に、山内昌之も知るとおり、東京裁判が「日本人による歴史の総括やけじめ」ではない。A級戦犯を指定したのは旧連合国、とくに米国だ。かつ、とくに死刑判決を受けた7名の選択と指定が適切だったという保障はどこにもない。山内昌之は「戦争指導」者は「A級戦犯」死刑者7名、またはA級戦犯として処罰された者(のちに大臣になった者が2名いる)に限られ、それ以外にはいないと理解しているのだろうか。かりにそうならば、東京裁判法廷の考え方をなぜそのまま支持するのかを説明する義務があろう。

 そうではなくもっと多数いるというならば、山内がいう「開戦や敗戦の責任」をとるべき「戦争指導」者の範囲は、山内においてどういう基準で決せられるのだろうか。その基準と具体的適用結果としての特定の人名を列挙していただきたいものだ。
 これは日本国内での戦争<加害者>と<被害者>(山内によると一般「兵士」はこちらに属するらしい)の区別の問題でもある。両者は簡単にあるいは明瞭に区別できるのだろうか? 朝日新聞社等の当時のマスコミには山内のいう「責任」はあるのか、ないのか?、と問うてみたい。また、<日本軍国主義>と<一般国民>とを区別する某国共産党の論と似ているようでもあるが、某国共産党の議論を山内は支持しているのだろうか?

 第二に、「A級戦犯」とされた者は「開戦や敗戦の責任」を東京裁判において問われたのか? この点も問題だが、かりにそうだとすると、「A級戦犯」全員について、とくに絞首刑を受けた7名について、各人が「開戦」と「敗戦」のそれぞれについてどのような「責任」を負うべきなのか、を明らかにすべきだ。「開戦」と「敗戦」とを分けて、丁寧に説明していただきたい。

 新聞紙上で公にし、書物で再度活字にした文章を書いた者として、その程度の人格的(学者・文筆人としての)<責務>があるだろう。

 第三に、山内昌之は「責任」という言葉・概念をいかなる意味で用いているのか? 何の説明もなく、先の戦争にかかわってこの語を安易に用いるべきではあるまい。

 ともあれ、山内昌之は「靖国神社A級戦犯合祀」(そして首相の靖国参拝)に反対していることはほとんど明らかで、どうやら「新しい国立追悼施設施設」建設に賛成のようだ。

 5.山内昌之といえば、昨年あたりから、産経新聞紙上でよく名前を目にする。

 産経新聞紙上にとくに連載ものの文章を掲載するということは周囲に対して(および一般読者に)一定の政治信条的傾向・立場に立つことを明らかにすることになる可能性が高く、その意味では<勇気>のある行動でもある。

 だが、上のような文章を読むと、確固たる<保守>論客では全くないようで、各紙・各誌を渡り歩いて売文し知識を披露している、ごくふつうの学者のように(も)思えてきた。

 1947年生まれだと今年度あたりで東京大学を定年退職。そのような時期に接近したので(=学界でイヤがらせを受けない立場になりそうだから)、安心して(?)産経新聞にも原稿を寄せているのではないか、との皮肉も書きたくなる。

0716/西尾幹二「日本の分水嶺―危機に立つ保守」(月刊正論6月号)を読む-1。

 月刊正論6月号(産経)の西尾幹二「日本の分水嶺―危機に立つ保守」(p.96-)は、NHKスベシャル「JAPANデビュー/第一回」にもさっそく言及している。
 具体的批判内容はともあれ、西尾のユニークなのは、こんな番組が罷り通る<背景>を洞察していることだ(とりあえず結論的にはp.101-2)。
 少し遡れば(p.100-1)、NHKの中枢にはどういう人物がいて「何が起こっているの」か、と西尾は問い、「共産主義イデオロギー」になおしがみつく者たちと「今の時局に便乗し、中国のために(あるいはアメリカのために)日本を押さえ込む再占領政策を意識的に」推進せんとする者たちの二種が「重なり合い、不分明に混ざり合っているケースが考えられ」る、とする。
 前者は日本(資本主義・自由主義)「国家」を敵視し、貶めて弱体化を目指すので、もともと後者と共通する基盤があると言える。そして西尾も言うように、「自国破壊に道徳感や清浄感」を覚える「不思議な心理」に陥っている者たちは、朝日新聞・NHKに限らず、「官界にも、司法界にも、学界や教育界にも、いたる処に蟠踞している」(p.101)。
 だが、と西尾は続ける。中核は「共産主義イデオロギー」で、欧米では共産主義と「何度かに分けて…ケジメをつけて」きたにもかかわらず、日本では、大学のマルクス主義系歴史や経済学や哲学の教授たちは九〇年代前半こそ「穏和しく」していたが、その後は「環境学だの平和学など女性学だのといった新分野の衣装を纏って」、政府審議会委員等になったり大学人事を占拠している。かかる状態等を「マスメディア」が問題にすることはない。「メディアを支配しているのは依然として旧党員、ないしはそのシンパだから」だ。
 以上のことに、全くと言ってよいほど異論はない(他分野ほどは目立たないかもしれないが、歴史学・経済学・哲学のほかにマルクス主義系「教育学」と「法学」も加えてよい)。日本は、(日本人が何かと参考にしたがる)欧米に比べて、「共産主義イデオロギー」が占める比重が<異様に>大きいのだ。NHKの最近の問題番組もかかる状況の中に位置づけうる。

 このあとの西尾の指摘が、まずは興味深い。
 「あからさまウソ」を「ためらいなく」放送するNHKの「自信は何か」。田母神俊雄論文問題で月刊WiLLと月刊正論を除く「すべての言論界を蔽った同一音調」=「田母神叩き」は、「どこかに司令塔があるのではと思わせるほど不自然」で「言論ファシズムの匂い」がある。「ウソを声高に語るNHKの今度のシリーズ」にも「同じ匂い」がある(p.101-2)。
 とりあえずは、<鋭い嗅覚>と言うべきではないか。
 だが、「どこかに司令塔があるのではと思わせる」という関心から導かれる最終的な西尾の推測は、考えさせはするものの、はてはてという感じで、なおも説得力が十分ではない。
 西尾の推測に至る論述はこうだ(p.102-3)。
 1.東欧の「自由化」と全く同様のことは東アジアでは起こらず、親中(・親韓)派はむしろ強く生き延び、「教科書、拉致、靖国のいわば歴史問題」は解決していない。「南京、慰安婦、竹島、尖閣、チベット、核問題」も加えて、困難の度は増している。
 2.安倍晋三首相は中国・韓国、とくに前者との「関係修復」を率先したが、「どこか外から(恐らく米国と中国の両方から、そして日本の財界から)強い要請を受けて企てられた気配」がある。2007年4月に靖国参拝を済ませていたが、「不思議なのは中国が騒がなかったこと」だ。その後の福田・麻生首相も「民族問題にはほぼ完全に背を向け、安倍氏の敷いた路線」を歩んでいる。
 3.安倍も麻生も「村山談話や河野談話」を振り捨てられないのは、「米中」による「再占領政策」の「轍の中にはめこまれて」しまったからだ。NHKのスペシャル番組は、見事に、「米国と中国という旧戦勝国の要請に応え」、日本国民にあらためて「罪の意識」を植え付けようとしている。
 つぎが、結論的推測。
 4.上の米中の「再占領」政策の「大筋に日本で最初に着手したのは安倍晋三」。「背後で支えているのは恐らく…中曽根康弘」。NHKは「必ずしも左翼だけ」ではなく、「日本の保守の方針」に忠実
でもあるのだろう。
 こう書かれると、<左翼>・<保守>の概念もますます混乱してくる。結局は、日本のかつての<保守>は「左翼」化して「民族」問題を放棄し=ナショナリストでなくなり、「米中」による「再占領政策」に追随している、という趣旨なのだろう。そして、その文脈の中で、安倍晋三、(福田、麻生、そして)中曽根康弘の名前が出てくる。
 上記のとおり、この推測は俄には納得し難い。安倍晋三は<戦後レジームからの脱却>を掲げ、(対中は勿論)対米「自立」を目指したのではなかったのだろうか。むしろ、その点は、アメリカ(の少なくとも一部)に警戒感を与えたのではなかったのだろうか。そのかぎりで、アメリカは、渡辺恒雄=読売新聞もそうだったと勝手に推測しているが、2007年参院選での安倍晋三=自民党の<後退>をむしろ望んでいたとも推測される。そのかぎりでは、心情的には朝日新聞と同様の立場にあったアメリカの有力政治家・学者もいたと思われるのだが。
 というわけで、西尾幹二の主張は真面目に考えると、じつに大きな問題提起・論争提起だ。だが、繰り返すが、あれあれ、はてはて、ととりあえずは感じる他はない。
 上記の西尾幹二論考は、ご成婚50年会見の際の天皇(・皇后)陛下のご発言に関連して、八木秀次とは異なる、将来の天皇(・皇室)制度論にも言及している。別の回にしよう。

0683/奇妙な東京地裁2009.03.12判決と朝日新聞、東京弁護士会・岩井重一、山田洋次・斉藤貴男。

 一 奇妙な判決が3/12に東京地裁で出たようだ(東京地裁2009.03.12判決)。
 産経新聞3/14社説によると、東京都日野市の都立七生養護学校で「性器の付いた男女の人形やコンドームの装着を教えるための男性器の模型などの教材」を使っていたことを視察して知った(確認した?)東京都議会議員が都議会で批判し、視察に立ち会った都教委が上記のような教材を没収した。
 「これに対し当時の教員ら31人が性教育の内容を批判され、教材を没収したのは不当として都と都議のほか、この視察を報じた産経新聞を相手取り計3000万円の賠償を求めた。判決は産経新聞への訴えは棄却し、都教委による教材没収などについても却下した」。だがこの判決は、「都議が教員を威圧的に批判した」などとして「旧教育基本法が定めた『不当な支配』にあたる」との判断を示し、一部訴えを認めた」。つまり、関係都議は原告らに対し、何がしかの損害賠償金を支払え、というわけだ。
 上記の教材につき、読売新聞3/16社説は「性器の付いた人形」としか書いていない。朝日新聞3/14社説もほぼ同様で、「性器がついた人形などの教材」としか書いていない。
 この判決の評価は、上の三紙でいうと、判決を批判する読売・産経と支持する朝日に分かれる。
 朝日新聞社説は、教育は「不当な支配」に服してはならないと教育基本法(改正前)が定めたのは「『忠君愛国』でゆがめられた戦前の教育への反省からだ。その意味を改めてかみしめる司法判断が示された」と大上段から振りかぶって書き始め、(判決の紹介か社説子の見解か不明だが、同じなのだろう)都議が「高圧的な態度で…難じた」、「これは穏当な視察ではない」、「不当な支配」にあたる、と断定する。そして「きわめて妥当な判断」と東京地裁判決を持ち上げている。その中で、「都議らは『政治的な主義、信条』にもとづいて学校教育に介入、干渉しようとした」と明記していることも注目しておきたい。また、「外部の不当な介入から教育の現場を守るべき教育委員会が、逆に介入の共犯だと指摘されたに等しい」とも書いている。
 朝日新聞社説の、歴史に残る大弁舌の一つとして長く記録されてよいだろう。
 養護学校という特有性があるとしても、小学校・中学校で、上記のような教材を使う「性教育」行うことが適切であるかは当然に問題にされてよい。
 読売新聞社説は「当時は、『男らしさ』や『女らしさ』を否定するジェンダー・フリーの運動とも連携した過激な性教育が、全国の小中高校にも広がっていた」と書いている。あえて指摘しておく必要はないかもしれないが、上のような性教育は<ジェンダー・フリー>論・運動を背景にしている。読売社説は続ける-「小学校2年生の授業で絵を使って性交が教えられるなどした。/性器の付いた人形が、都内80の小学校で使われていたことも明らかになり、国会でも取り上げられた。文部科学省が全国調査し、自治体も是正に取り組んだ。/都議の養護学校視察は、こうした過激な性教育を見直す動きの一環として行われたものだ」。
 読売社説も産経社説も指摘又は示唆しているように、かかる(性)「教育」方法を批判することが「不当な支配」にあたるとされ、視察時の都議発言が名誉毀損とされて不法行為責任(損害賠償責任)を負わされるようでは、地方公共団体の議会議員がその職責の一つとして「教育行政」を監視することは不可能になる。
 読売はいう-「政治家が教育現場の問題点を取り上げて議論し、是正していくこと自体は、当然のことと言えるだろう」。産経はいう-「同校の当時の性教育には保護者の一部からも批判が寄せられていた。保護者の同意、発達段階に応じた教育内容など性教育で留意すべき内容から逸脱したものだ。/これを是正しようとした都議らの行動を「不当」とするなら議員の調査活動を阻害しかねない」。
 朝日は、「都議らは『政治的な主義、信条』にもとづいて学校教育に介入、干渉しようとした」と書いた。これを読んで、思わず、「笑っちゃう」という気分になった。特定の「政治的な主義、信条」にもとづいて「性教育」をしていたのは、原告ら教員たちそのものではないか。
 朝日新聞社説子という常識・良識とは異なる基準を持っている者にとっては、自己の見解、主義・主張と異なるそれらだけが「政治的な主義、主張」となり、そのような「主義」にもとづくものだけが「不当な支配」になるのだろう。原告ら又はその教育方法(教材選択等)と「外部」又は「上部」の組織(日教組・自治労・市民団体等)との関係は定かでないが、原告らは、「外部」又は「上部」の組織によってこそ「不当な」支配・介入を受けていたのではないか。そうだとすれば、朝日新聞社説の主張とは逆に、都教委は「不当な支配」から教育を守ったことになる。
 どのような主張のやりとりがなされたかはほとんど知らない。だが、一部にせよ(つまり原告らが請求した額より少ない)「損害賠償請求」を認容した東京地裁の裁判官たちはいったいどういう感覚・良識の持ち主なのだろう。裁判官たちもまた「戦後民主主義」教育・「男女対等」教育の子であり(しかもその中での優等生であり)、放っておけば自然に<左傾化>していることを、この判決も示していると思われる。この判決の裁判長の氏名は矢尾渉
 二 怖ろしいと思うのは、原告団長は日暮かをるという元教諭であるらしい、こうした原告らの訴訟を弁護士団体が応援していたようであることだ。
 「2005年1月24日」に東京弁護士会は東京都教委・同教育長あてにつぎのような文章を冒頭におく文書を発している。
 「東京弁護士会 会長 岩井重一
  警 告 書
 東京都教育委員会(以下「教育委員会」ともいう。)は、2003年9月11日東京都立七生養護学校(以下「七生養護学校」という。)の教員に対して行った厳重注意は、『不適切な性教育』を理由にするものであって、このことは子どもの学習権およびこれを保障するための教師の教育の自由を侵害した重大な違法があるので、これらを撤回せよ。
 教育委員会は、同委員会に保管されている七生養護学校から提出された性教育に関する教材一式を、従来保管されていた七生養護学校の保管場所へ返還し、同校における性教育の内容および方法について、2003年7月3日以前の状態への原状回復をせよ。
 教育委員会は、養護学校における性教育が、養護学校の教職員と保護者の意見に基づきなされるべき教育であることの本質に鑑み、不当な介入をしてはならない。」
 裁判官以上に弁護士たちは<左傾化>していることは、「人権派弁護士」なる呼称がかなり一般化していることでもわかる。
 法的な専門職集団の一つが、「子どもの学習権およびこれを保障するための教師の教育の自由」を侵害するとして、都教委の側のみを一方的に批判しているのだから、この国(日本)はすでにかなり危うくなっている。この文書の責任者、「東京弁護士会 会長 岩井重一」の名前も永く記憶されてよいだろう。
 なお、東京弁護士会の2004年度の副会長・橋本佳子はその一年を振り返って、「とても楽しく充実した1年でした。イラク自衛隊派遣反対の会長声明、……、都の国旗国家〔ママ-正しくは「国歌」だろう〕強制や七生擁護〔ママ-「養護」〕学校性教育処分問題その他いくつもの意見書や警告書などなど、委員や職員の皆様と取り組んだ思い出がいっぱいです」と書いている。
 さらに、東京都議・都教委と原告らの対立に関しては、後者の側に立った<運動>もあった、ということも指摘しておく必要があるだろう。
 詳細には知らないが、上の東京弁護士会の「警告書」は、「当会が受理した2004年1月7日付申立人山田洋次、小山内美江子、斉藤貴男、川田悦子、堀尾輝久、蔦森樹、朴慶南ほか総数8125名にかかる『子どもの人権救済申立』」をきっかけにして発せられている。
 誰かが又は何かの組織・団体が、8125名の氏名を「集めた」又はそれだけの人数を「組織」したのだ。
 「山田洋次、小山内美江子、斉藤貴男、川田悦子、堀尾輝久」は<左翼>の有名人だから明示されているのだろうか(蔦森樹、朴慶南の二人は私は知らない)。山田洋次は日本共産党員又は積極的支持者と見られるご存知の映画監督、元日本共産党員とも言われる川田悦子は薬害エイズ訴訟原告だった国会議員・川田龍平の母親、堀尾輝久は「著名な」左翼・教育学者(岩波新書あり)。
 こうしてみると、この訴訟は石原慎太郎東京都知事を先頭とする?東京都の教育行政とそれに抵抗する「左翼」の闘いの一つで、根っこは、君が代斉唱拒否・不起立問題、それらを理由とする教員に対する懲戒処分に関する訴訟等と共通するところがあることが判る。
 そうだとすると、当然に、そうした<闘い>・<運動>を知って、あるいは背景にして、上記の朝日新聞の社説も書かれていることになる。
 あらためて書いておく。朝日新聞は「ふつうの」新聞ではない。朝日新聞(社)とは、「新聞」の名を騙る<政治(運動)団体>だ。

0628/読書メモ-宮沢俊義・辻村みよ子・長谷部恭男、新聞記事、岡村行夫、田原総一朗。

 2008年秋の読書メモのつづき。
 〇宮沢俊義、辻村みよ子、長谷部恭男の憲法に関する本のいくつかの一部。
 部分的にはすでに論及した。書きたい素材はまだあるし、詳しく読んでおきたい部分もある。どの著書にせよ、全体を精読する気はない(そんな時間的・エネルギー的余裕はない)。
 昭和戦後<進歩的>知識人の一人として無視できないと思われる宮沢俊義(<左翼ファシズム>の種を蒔いた人物の一人)の考え方、現世代に継承されている<左翼>思想の系譜、をたどってみたい、という問題関心から。辻村みよ子はまだ「左翼教条的」だが(近年のフェミニズム文章を含めて)、長谷部恭男は掴み所がむつかしい、との印象がある。
 なお、近日ネットをサーフィンしていると、辻村みよ子・長谷部恭男の二人は、「日本学術会議」のメンバーであることがわかった。この会議の趣旨はよく知らないが、法律にもとづく公的機構(団体?)であることにおそらく間違いはなく、学界、少なくとも憲法領域の学界(または法学全体?)では<左翼ファシズム派>が相対的多数というよりも「圧倒的に支配」しているものと思われる。故渡辺洋三樋口陽一らの<高笑い>が聞こえてきそうだ。
 〇新聞記事も含めれば、例えば、産経新聞11/07の「社説検証/空自トップ更迭」
 これによると、先日言及した新聞社説のほか、読売や日経の社説も田母神論文公表を批判し更迭を支持しているようだ。
 読売新聞の11/12社説のタイトルは「『言論の自由』をはき違えるな」で、同日の朝日新聞社説の「『言論の自由』のはき違え」と偶然にも?ほとんど同じ。日経11/12社説のタイトルは「田母神氏だけなのか心配だ」。
 こう見ると、まだマシなのは産経新聞だけだ。しかも産経新聞は発行部数最小の全国紙なので、新聞社説だけを見ると圧倒的に(部数だけでいうと90%以上?)<朝日新聞派>が勝っている。
 <左翼ファシズム>の成立と支配を私が感じてもやむをえないだろう。だが、社説を読者全員が読むわけではないし、読んでも支持しているとは限らない、ということが救いではある。だがだが、と再び逆接詞を使うと、見出しだけを見て世論の相場・「空気」を読んでしまう人も多いと思われるので、やはり憂い、危惧する。<左翼ファシズム>の周縁は、「空気」のようなもので成り立っていると考えられるからだ。
 〇産経新聞は<左翼ファシズム>の蔓延にきちんと抗しているだろうか。
 11/30朝刊2面の岡本行夫「中国は穏やかになってきた」は、田母神俊雄論文を「検証に耐えられない論拠で綴られた…」と否定的に評価し、「村山談話を修正しろという議論」に冷ややかだ。かつ「日本は成熟した国だ。そろそろ中国の悪口を言うのも、過去の話ばかりするのもやめて、前を見ないか」と主張している。後者の根拠らしきものとしては、岡本が中国で講演した際の聴衆の反応しか挙げられていない。
 聴衆の中に中国共産党員もいるかもしれないが、同党の幹部や政府当局の姿勢と「聴衆」のそれとを混同してはいけない。
 この外務省出身の「外交評論家」の上のような文章を載せているようでは、産経新聞に対しても、当然に<左翼ファシズム>の影響は及んでいる、と感じざるを得ない。<暗い>世の中だ。
 〇
田母神俊雄論文自体は、新聞広告(アパの?)として掲載されているのをまず読んだ(たぶん11月上旬)。仔細に記憶してはいないが、ほとんどがすでに知っているか読んだことのある事実や主張が並んでいて、とくに違和感もないが、とくに新鮮み、斬新さを感じたわけでもなかった。
 最大の感想は、内容というよりも、<日本は侵略国家ではなかった>という主張・見解をたったあれだけの字数で書いてしまうのは、現在の日本の状況では不適切かまたは危険で、多くの人は理解できないのではないか、ということだった。審査委員の渡部昇一花岡信昭らなら理解できても、朝日新聞の見解・主張に染まっているような、つまりはGHQ史観・東京裁判史観(ついでに「自虐史観」)を「空気」の如く信頼している人々にとっては、突然に異質な空気と匂いをかがされたようなもので、違和感や反発感情をもつだろう、と思われる。
 そして、具体的な反証を自ら挙げることはしない新聞社説や論評が実際に大量に出てきたのだった。
 くり返せば、田母神俊雄論文は、月刊正論1月号(産経)に掲載されているものでは、全部で二段組・たった6頁にすぎない。これだけの分量の文章で、<日本は侵略国家ではなかった>という主張・見解を大多数の日本人に対して十分に説得的に語るのは、現下の日本ではまず困難だろう。
 朝日新聞は「実証的データの乏しい歴史解釈や身勝手な主張」(11/02社説)と、岡本行夫は「検証に耐えられない論拠で綴られ」ていると(上記)、また田原総一朗は「実証的データの乏しい身勝手な解釈」と朝日社説を盗用したようなフレーズで(月刊現代1月号p.297(講談社))、田母神論文を批判した。
 田母神論文が完璧な「実証的データ」を示しているとは思われないし、まして歴史学界の「通説」に添っているものではないだろう。
 だが、秦郁彦(・11/16のテレビ朝日系サンプロでの田岡俊次・高野孟)らの批判が当たっていないこと、田母神の主張・認識に相当の根拠のあることは、中西輝政「田母神論文の歴史的意義(月刊WiLL1月号(ワック))がかなり具体的・個別的に説明している(のちに中西が批判に反批判できるようなものだったからこそ私には田母神論文にはさほどの新鮮み・斬新さを感じなかったのだと思われる。要領よく近年の歴史認識の変化又は変化させうる史料を整理し、それに基づいて簡潔にまとめた、という感じだった)。
 要するに、田母神論文に対して「歪んだ」とか「実証的データの乏しい」とかの批判を加えている者たちは、最近の研究や新資料の内容について、<勉強不足>なのではないか。
 換言すれば、<日本はかつて一時期、道徳的・道義的に悪いことをしました>という歴史認識・歴史観で凝り固まっていて、柔軟な、あるいは真実探求心を残したままで歴史を振り返るという姿勢を全く失っているのではないか。こうした姿勢を、<思考停止>とでも言うのだろう。
 以上すべて、<生業>とは無関係の(新聞・雑誌も含めた)読書。まだあるが、きっとすでに忘れてしまっているものもあるに違いない。

0588/安本美典・「邪馬台国畿内説」徹底批判を全読了。ここにも朝日新聞が。

 安本美典・「邪馬台国畿内説」徹底批判―その学説は「科学的」なのか(勉誠出版、2008.04)は数週間前に全読了している。
 「邪馬台国畿内説」が成立し難いことは安本によってすでに以前から既得の知識になっている。だが、あらためて<学問>というもの、及び朝日新聞のヒドさを考えさせる本だ。
 厳しい批判の対象になっているのは、まず、白石太一郎
 濃尾平野に古墳が出たことをもって邪馬台国の「南」(畿内説だと「東」と読み替える)にあったという狗奴国と関連づけたのは白石太一郎。この白石にも依りつつ、朝日新聞の2004年2月17日~19日の3回連載は白石らの「邪馬台国畿内説」(濃尾地方狗奴説)を大きく取り上げた、という。
 旧石器捏造事件に言及して安本はいう-「考古学とは『自浄作用のまったくない学問』の別名なのか」(p.84)。
 白石太一郎の文章を長く引用して安本はいう。
 ・「乱暴かつ粗雑きわまる議論というほかはない」(p.87)。
 ・「…などの断言も、まったく信用できない。…そもそも異論を承知の上で、『疑いない』などと断言をする権威主義的な人の議論は、信用しない方がよい」(p.91-92)。
 ・「要するに、白石太一郎氏の議論は、検証や論拠を欠いた議論のオンパレードなのである」(p.92)。
 なお、朝日新聞は、1992年11/06、2001年2/02にも「邪馬台国畿内説」に大きく傾いた記事を出している(p.93-97、後者の執筆は、編集委員・天野幸弘)。
 また別の箇所で、安本はいう-「白石氏の議論は、検証可能な方法、事実をたしかめる方法、あるいは科学的な方法によっていない。/みずからの観念、あるいは、思い込みを優先するものである。…、白石氏のような、ことばだけの議論が許されるのなら、どんな議論でも成立する」(p.147)。
 第二の大きな批判対象になっているのは、樋口隆康
 安本によると、樋口隆康は、いくつかの古墳の発掘結果を「キッカケとし、あるいは材料として、すべてを『邪馬台国畿内説』の立場から解釈し、結びつけ、マスコミを通じての大々的な宣伝をくりかえすという挙に」出ている。結果の発表内容は、「事実についての解釈の相違という範囲をはるかにこえている。無根の事実をまじえるものとなっている」(p.155)。
 また言う-「誤りが指摘されていようと、くわしい批判が行われていようと反論は行われない。一切無視し、旧説を墨守して、みずからに都合のよいと思われることは、マスコミなどで何度でもくりかえしてPRする。…樋口隆康氏は、この種の非実証的・非科学的・空想的な議論を、くりかえして」いる(p.166)。
 かかる類の文章の引用はまだ多いが避ける。だが、次の指摘は、<学問風土>にかかわって、興味を惹く。
 「京都大学は近畿に」あり、「地の利」があって、「京大勢がリーダーになりやすい。現在、京大を中心とする考古学者たちは、どんなに論理的に無理があろうと、『三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡説』〔=邪馬台国畿内説〕に固執してやまない。強力な刷り込みが行われると、そうなるのであろう」。
 邪馬台国北九州説=東京大学、畿内(大和)説=京都大学というバカバカしい対立がある(あった)と随分前から読んでいたが、少なくとも京都大学については現在でも続いているようだ(アホらしい)。考古学では京都大学所属の小林行雄の存在が大きかった、立命館大学にいた古代史学者(邪馬台国畿内説)・山尾幸久も京都大学出身、というのもすでに持っている知識の断片だ。
 もっとも、安本美典自体が京都大学文学部出身だが(但し、歴史・考古学専攻ではなかった)、同大学出身で伝来的アカデミズムから自由な(毎日新聞→大学教授)岡本健一は、京大国史出身の原秀三郎から「京大の連中はオウム真理教だよ。秀才…が入ってきて、そこで三角縁神獣鏡を見せられ、小林イズムを徹底的にたたき込まれれば、おのずからああいうふうになってしまう」と聞いた、という(p.186)。
 元に戻って、三角縁神獣鏡(卑弥呼が魏から貰った鏡と畿内説論者は主張している)の成分調査(結果は畿内説に有利とも解釈できた)に関して、読売新聞2005年3/25夕刊が「ずさんな成分調査」との見出しで批判的記事を書いたが、朝日新聞は「完全な誤り」説をいっさい紹介しなかった、という(p.203-204)。
 この問題でも樋口隆康は「ご都合主義」を発揮したのだったが、安本美典の批判は朝日新聞にも向けられている。
 「この種の疑問を、これまでにもしばしば指摘されている樋口隆康氏などの発表を、なんのチェック機能もはたらかせず、部数数百万部といわれる新聞の一面で報じ、その後、何のフォローもしない、『朝日新聞』の姿勢などは、どんなものであろう。/私は『季刊邪馬台国』誌上に『朝日新聞社への公開質問状』をのせたが、かえってきたのは、きわめて不まじめな、木で鼻をくくったような回答であった。/情報を売る会社は、欠陥のある情報を、製造・販売しても、なんの責任も、とらなくてよいのか」。
 一部の「学問」関係者と一部の(朝日新聞等の)マスメディア関係者との間の<結託>が、古代史・邪馬台国をめぐっても存在するようだ。
 問題は、古代史・邪馬台国に限られない。近現代史についても、朝日新聞はれっきとした独自の<歴史観>をもち、学者を<選別>していることが想起されてよい。
 いつぞやマルクス主義又は親マルクス主義ではないと、少なくとも<反・反共>でないと政治学系の大学院学生の大学への就職は困難である旨を中西輝政が月刊諸君!上で率直に語っていて印象に残ったことを書いたことがある。似たようなことは、少なくとも関西での「考古学」分野でもあるようだ。安本美典は、以下のように書く。
 「はじめに邪馬台国畿内説ありき」。何故かというと、「そのように教育されたから」。何故「そのような教育が行われたのか」というと「京都大学を中心にして、…そのような教育システムができあがっているから」。「その教育システムからはずれれば、就職も生活も出世も不利となる可能性がある」(p.330)。
 また言う-「関西を中心とする考古学関係の新聞記者なども、『邪馬台国畿内説』の立場から教育をうけており、そこから発信される情報が全国紙にのる傾向をもつ」(p.331)。
 「全国紙」に、あるいは「全国」版に載せてもらうためには、理論的・学問的にはどうであれ、近畿地方での古墳発掘結果等の報道記事は<邪馬台国>問題と関連づけて書かれる必要があり、そのためには、それに有利なコメントをしてくれる学者・調査関係者が必要になる……。
 新聞記者、ジャーナリストも<堕落>したものだ。むろん、調査の補助金等を獲得するために<政治的>に動いている面があることを否定できないと思われる学者・(国立)橿原考古学研究所関係者も<堕落>している。
 南京事件、「百人斬り」競争、慰安婦「強制」連行、住民集団自決「命令」、東京裁判等々、<学者・研究者>と<マスメディア>の関係は、ある部分ではきわめて緊密だ。
 古代史・邪馬台国問題でも似たような状況にあるようで、ここにも陰鬱な気分にさせる原因の一つがある。いちいち気にしていると、生きていけないが。

0581/戒能通孝と朝日新聞・本多勝一-日本無罪論と南京「大虐殺」否定論にかかわって。

 小林よしのり・パール真論(小学館、2008)は読み終えていない。だが、すでにいろいろと知らなかったことを書いてくれている。
 1 日本の被占領が終わった日・1952年4月28日に、バール判事・田中正明編・日本無罪論-真理の裁き-が出版されたが、翌5月28日の読売新聞紙上の書評欄で、戒能通孝は、この出版を「誠に奇怪とし、遺憾とする」、「この題名」では「絶対に通用させたくない」と書き、さらに「本書のようなインチキな題名」の本が一掃されるのを「心から切望したい」とまで述べた(p.190)。
 「この題名」とは<日本無罪論>というタイトルを指す。
 小林は、この題名がパールの意向に添ったものであったことを論証的に叙述している。
 あの戦争についての<日本有罪>論が当時の知識人をいかに強く取り憑いていたかの証拠の一つでもあろう。
 戒能通孝は、記憶のかぎりでは(あの)岩波新書で入会権について書いていた。
 ちなみに、戒能通厚(1939~。東京大学→名古屋大学→早稲田大学)は通孝の実子で、この人は元民主主義科学者協会法律部会々長(理事長?)だったらしい。親子そろっての日本共産党員かと思われる。
 2 朝日新聞の(あの)本多勝一は、1972年に、既連載の「中国の旅」を単行本化した。同年に田中正明は、「日本無罪」を題名の一部とする、編書を含めて三冊目の本を出版した。小林よしのりによると、「日本人が自ら東京裁判史観を再強化」しようとする本多勝一の本のキャンペーンを「黙視するに忍びなかったからに違いない」(p.205-6)。
 メモしておきたいのは以下。
 田中正明は1985年に、『松井石根大将の陣中日誌』を出版した。小林によると、陣中日誌を公表して南京「大虐殺」の虚妄を示す決定的な史料にしたかったようだ。
 この田中書に対して、板倉由明が『歴史と人物』という雑誌上で一部の「改竄」を指摘した。不注意(誤読)の他に、主観的には善意の、意図的「改竄」(原文の修正)もあったらしい。
 板倉由明は田中正明個人に対しては「悪意も敵意もなかった」。歴史家としての客観的で正当な指摘も多かったのだろうと思われる。
 ところが、この板倉由明論文が載る雑誌の発売日の前日11/24に、朝日新聞は、「『南京虐殺』史料に改ざん」という見出しの「8段抜きの大々的な記事」を載せ、翌11/25には「『南京虐殺』ひたすら隠す」という見出しの「7段の大きな記事」を載せた。執筆した記者は、本多勝一。南京「大虐殺」否定論に立つ田中正明の本を徹底的に叩くものだった。
 小林よしのりは言う-「朝日新聞が2日連続でこれだけ多くのスペースを割いて、たった一冊の本を批判した例など前代未聞」だった(p.209)。
 朝日新聞および本多勝一は田中正明の基本的な主張に反論できず、板倉由明論文を利用して「田中個人の信頼性をなくそうという意趣返し」をやった(p.209)。
 小林よしのりのこれ以上の叙述の引用等は省略するが、朝日新聞はこの当時とっくに異様な<左翼謀略政治団体>だったわけだ。
 <売国奴>という言葉は好きではない。だが、一人だけ、本多勝一にだけは使ってもよい、と思っている。

0490/「政治謀略」新聞・朝日と現憲法九条二項。

 朝日新聞(社)が<政治運動>団体であるのは明瞭だが、読売新聞や産経新聞もまた<政治的>主張をしており、その<政治>性だけでは、他の新聞社と区別し難い。そこで、<謀略を使った政治活動をする新聞>という意味で、朝日新聞のことを、今後、「政治謀略」新聞・朝日と称することにする。
 ごく最近でも、映画「靖国」に対して自民党国会議員・稲田朋美が「圧力」を加えたがために上映中止映画館が出てきたとのイメージをばら撒く「政治謀略」報道をした。また、5年前には、そもそもが自社の本田雅和と民間<市民>団体(とくにその役員・朝日出身の松井やより)との「距離の近さ」をこそ問題にすべきだった事例にもかかわらず、安倍晋三・中川昭一という政治家がNHKに「圧力」を加えたとの捏造報道をし、それが断定し難くなるや、政治家とNHKの「距離の近さ」に問題をすり替えたりして、結局は、安倍晋三・中川昭一が何か圧力的行為をして<関与>したらしいというイメージをばら撒く「政治謀略」も行った。
 そういう新聞社が行う世論調査の数字がいかほど正確なのかは疑問だが(いかようにでも操作できるし、朝日なら操作するだろう)、5/03朝刊は憲法九条改正反対が66%との大きな見出しを打った(少し読めば憲法全体について改憲か現在のままかでいうと改憲派の数字の方が多い)。朝日新聞だから<誇らしげ>でもある。
 この数字や「政治謀略」新聞・朝日の記事を見ていて思ったのは、では、現在ある自衛隊と憲法九条との関係を国民は、そして朝日新聞はどう理解しているのだろうか、ということだった。<現在の自衛隊は憲法九条(二項)に違反すると思いますか思いませんか>という問いを発して回答を得ないと、憲法九条(二項)問題についての世論調査は完結したものにならないだろう(他に日米安保条約・米軍駐留の合憲性という問題もあるが、以下では触れない)。
 憲法九条二項は「…、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記する。自衛隊は、素直に又は常識的に判断して、「陸海空軍その他の戦力」ではないのか? だとすると、現在の自衛隊は違憲の存在で、<九条を実現する>ためには、自衛隊を廃止するか、合憲の範囲内のものへとその「武力」を削減しなければならない。自衛隊の存在自体が違憲なら、それのイラクへの派遣が違憲であることは論じるまでもなくなる。
 しかるに、朝日新聞はこの点を曖昧にしたままだ。自衛隊は違憲と判断しているなら、なぜ、その廃止又は縮減を堂々と主張しないのか? 「日本国憲法―現実を変える手段として」という見出しの5/03社説を書くのなら、「現実を変える」ために、自衛隊の廃止・縮減をなぜ主張しないのか? それとも、現在の自衛隊は合憲だ(=「陸海空軍その他の戦力」ではない)と判断しているのか? これを曖昧にしたまま、九条二項の条文だけは改正させない、というのが朝日新聞の主張ならば、それは<謀略性>を隠した幼稚なものだ。
 東京大学元教授の樋口陽一は、<現実を変えないという発想が現在では「現実的」>旨の驚くべき(九条)護持論を述べ、東京大学現教授の長谷部恭男は<解釈改憲ですでに済んでいるのにあえて条文改正する必要はない>旨のこれまた驚くべき主張をしている。
 「政治謀略」新聞・朝日は、これらの呆れた九条護持論に乗っかっているのだろうか。
 このような、現在の自衛隊は合憲と判断した上での(呆れた)九条護持論に立っているのだとすると、九条(とくに二項)が改正されれば(二項が廃止されて自衛隊が自衛軍・国軍だと正式に認知されれば)戦争になる、というのはとんでもないマヤカシの議論だということが明確になる。<九条が改正されても戦争にならないと思っている人へ>などとの一般国民の無知・知識不足につけ込んだ謀略的宣伝が犯罪的なデマであることが明瞭になる。
 自衛隊は実質的にはすでに「…その他の戦力」なので、それを自衛軍・防衛軍・国軍等と何と称しようと、その本質が変わるわけではない、と考えられる。集団的自衛権の問題には立ち入らないが、<自衛・防衛>のためにのみ戦争又は交戦できることに変わりはない(そのような「正しい」戦争はある)。また、九条二項が改正されなくとも実質的には「戦争」は発生しうるのであり、現在まで直接に自衛隊と日本国家が「戦争」に巻き込まれていないのは九条二項があるためでは全くない。核兵器をもつ米国軍が日本に駐留していて、他国が日本に対する<侵略>戦争を仕掛けられないためだ。
 九条二項を改正して、自衛隊を正規の自衛軍・防衛軍・国軍と認知すべきだ。<大ウソ>をつき続けるのはいい加減に止めなくてはならない。自衛隊を正確に軍隊と位置づければ戦争の危険が増大するなどというのは、とんでもない妄言で、<日本には「軍隊」はない>という<大ウソ>に満足して現実をリアルに認識しようとしない観念主義者、「軍隊」はないのだから「戦争」も起こりえないと考える<言霊>主義者だろう。
 日本に<自衛>・<防衛>のための正規軍を持たせず、有事の際には個々の国民の(竹槍でも持った?)ゲリラ的抵抗に委ねる、などという発想は、それこそ国民の「平和に生存する」権利・「安全」権を国家が保障することを妨げるものだ(日本「軍」は<侵略>しかしないと考えるような反日本主義者・自虐者とは、議論がそもそも成立しない)。
 朝日5/03の記事の中で辻井喬(作家、西武グループの経営者)が「徴兵制、海外派兵」等(もう一つは「侵略戦争」だったか?)の三つの禁止を明記することも考えられるとか語っていた。この発言は現二項を前提とする(改正しないままの)ものだろうか、それとも自衛隊の「軍」としての認知を前提とする発言なのだろうか。たぶん前者なのだろう(辻井喬は九条の会賛同者の一人だ)。だが、「徴兵制、海外派兵」(「侵略戦争」も?)のように「兵」(「戦争」も?)という言葉を使っており、これは自衛隊が少なくとも実質的には「軍隊」であることを肯定している用語法だと考えられる。
 九条二項の改正によって自衛隊の自衛・防衛「軍」として正式に認知することには反対しつつ、一方では自衛隊が「軍」であることを前提とするが如き「徴兵制、海外派兵」等の概念を用いることは自家撞着だと、(言葉には繊細なはずの)辻井喬は感じないのだろうか。
 同じことは、朝日新聞にも、九条(二項)改正に反対しつつ、現在の自衛隊は合憲だと考えている人々にも言える。
 戦後の<大ウソ>(の重要な一つ)を改めないといけない。政府や大マスコミが<大ウソ>をつき続けて、子どもたちに<ウソをついてはいけない>と教育できる筈がない。
 それにしても、「政治謀略」新聞・朝日の、憲法九条をめぐる観念遊戯・言葉遊びぶりは顕著だ。5/03社説の最後に「一本調子の改憲論、とりわけ自衛隊を軍にすべきだといった主張」という表現をして批判しているが、「自衛隊を軍に」することによって、いかなる<悪い>変化が生じると考えているのか、具体的にきちんと述べるべきだろう。現在の自衛隊が合憲と考えているなら、「自衛隊を軍に」しても実質的・本質的には変わりはない(集団自衛権、国際協力については別に論ずべき点があるだろうが、基本的には異ならない)。少なくとも<悪い>方向に変わることはありえない(「軍」としての法的整備をすればイージス艦衝突事故は避けられ、海外で被害を受ける日本国民の「武力」救出等も可能になるとすればむしろ<よい>方向への変化が生じる)。一方、朝日が現在の自衛隊は違憲と考えているなら、上記のとおり、その廃止・縮減を堂々と主張すべきだ。
 朝日新聞は、重要なポイントを意識的に誤魔化しているように思われる。意識的にではないとすれば、言葉・観念の世界に酔っている<アホ>だ
 現憲法の条項のままだと、現在のような<ねじれ国会>のもとでは(与野党の調整・協議が功を奏さず、対立したままであるかぎり)一部以外の法律は全く成立しない(国会が立法できない)、という異様な状況が現出する。この問題に触れて、読売新聞5/03紙上の座談会では2人が、衆議院による再可決の要件を2/3から1/2に改正すべきとの発言をしている。このような、現実的な議論は朝日新聞紙上には見られなかったようだ(むしろ衆議院の地位を高めることに反対の世論の方が多いと報道していたが、現状をきちんと把握したうえで質問し回答しているのか極めて疑わしい)。
 「政治謀略」新聞・朝日<言葉・観念遊戯>新聞・朝日、がある程度の影響力をもち続けるかぎり、日本の将来は暗い。朝日新聞だけを読んでいる国民は現実を正しく又は適切に把握することができない。この旨を、今後も何度でも繰り返すだろう。

0469/2006.10.19読売新聞朝刊の社説と記事。島森路子とは何者か。

 これまた一年半ほど前に記したものだが、時機遅れながらこの欄にも多少は修正して掲載しておく。
 2006.10.18の安倍・小沢党首討論を(録画はしたが)見ていないものの、TVニュースや今日の新聞を見るかぎり北朝鮮問題について深まった議論はなかったようだ。
 但し、翌日10/19朝刊の読売新聞社説は小沢一郎が周辺事態法の適用を批判した(民主党執行部の見解でもあるようだ)のに対して、では民主党は「国連決議に基づく活動にどう取り組むべきだというのか。具体的に示すべきだ」と、民主党自身の具体的対応方策の提示がなかったことを「無責任」等と批判し、「あらゆる法令を検討する」のは「当たり前」として明瞭に安倍を支持する。少なくともこの点については読売社説は適切だ。政府が可能な方策を予め限定する必要はないし、法律の解釈は制定当時の状況や理解の仕方に全面的に拘束されるわけでもない。それに、周辺事態平和安全確保法(2000改正)1条の「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等…周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」(=「周辺事態」)が現在(又は近い将来に)生じていない(又は生じないだろう)ということの証明・説明こそが困難であるように見える。また、周辺事態船舶検査法(2001施行)による、国連安保理決議に基づく「船舶検査活動」自体は、武力を背景とせず強制力もないものにすぎないのだ。これらの法律の適用になぜ今から反対するのか、民主党はやはり現実の情勢の客観的把握よりも党略・政争を優先させているように思われる。
 というような読売自身の社説や私の感想からすると、読売4面掲載の党首討論の評価に関する川上和久氏(明治学院大)の小沢50点、安倍60点は首肯できるが、島森路子(某雑誌編集長らしい)の小沢70点、安倍20点という評価は異常だ。
 この島森路子という人は「九条の会」の呼びかけへの賛同者であり 
、同編集の雑誌は憲法前文に関する特集を組んで鶴見俊輔(「九条の会」呼びかけ人の1人)、香山リカ筑紫哲也らの発言を紹介している。 想像するに、民主党は憲法改正一般に反対ではないので、島森の上の評価は民主党支持の立場からというよりも、改憲の姿勢を明確にしている安倍首相に対する元来持っていた反感が表れたもので、敵の敵として登場した小沢をとりあえず高く評価しておいた、というものだろう。
 それにしても、読売が、党首討論を評価する者(コメント者)のわずか2人のうち1人として、上のような「考え方」がすでに明瞭な島森路子を選ぶ必要があったのか、きわめて疑問だ。読売政治部記者の知識不足だったのではないか。もっとも、読売は、<左>へもウィングを広げようとしているのかもしれない。

0466/北朝鮮という「国家」のイメージ形成の思い出。

 思い出すに、北朝鮮という国の異常さを知ったのはたぶん1992年に崔銀姫=申相玉・闇からの谺―北朝鮮の内幕―(上・下、文春文庫、1989)を読んでだ。北朝鮮の映画を「向上」させるために韓国の映画監督・女優夫妻を金正日の指令で「拉致」したというのだから、その「人間」・「個人」無視の精神には唖然とした。続いて、1994年頃に姜哲煥=安赫・北朝鮮脱出(上・下、文藝春秋、1994、単行本)によって北朝鮮の印象は決定的になった。デマの可能性はあったが、これだけの全てを捏造することはできず、少なくとも大半は真実だろうと感じ、こんな国がすぐ近くに存在していることについて信じ難い思いをした。これらを出版した文藝春秋の勇気?は称えたい。
 他にも、関川夏央・退屈な迷宮―「北朝鮮」とは何だったのか(新潮社、1992、単行本)等の若干の本も読んでいて、平均的日本人よりは北朝鮮の実態を知っていただろう。従って、日本人拉致問題には詳しくはなかったものの、2002年の09/17に金正日自身が拉致の事実を認めたとき、驚天動地の思いではなかった。この国なら何でもする、と感じていたからだ(むしろ認めたことの方に驚いた)。
 北朝鮮の歴史の知識もすでに持っていて、種々の金日成・金正日伝説は「ウソ」らしいと知っていた。市井の一日本人が若干の文献から「ふつうの感覚」でそう思っていたのに、より多くの情報に接する可能性があるはずの日本社会党等々の政治家たちが北朝鮮に「騙され」、日本共産党もまた「疑惑の程度に応じた」交渉を、などと能天気なことを言っていたのはこれまた信じ難い。社会主義幻想と朝鮮総連との接触の成した業だっただろうか。今でも北朝鮮にはできるだけ甘く、米国や日本政府にはできるだけ批判的又は揶揄的に、という姿勢が垣間見える人々がいるしメディアがあるのは困ったものだ。
 そうしたメディアの代表は朝日新聞だが、読売新聞論説委員会編・読売VS朝日・社説対決/北朝鮮問題(中公新書ラクレ、2002)の中で作家・柘植久慶いわく―「一方の朝日新聞の社説となると、悲惨なくらい過去の主張や見通しの外れているのがよく判る。これは…空想的社会主義と共産主義諸国に対してのダブルスタンダードが、ベルリンの壁の崩壊とソ連―社会主義の終幕によって、一気に価値を喪失したから…」、「地盤沈下の著しい左翼政党―共産党や社民党と同じように、朝日もまた地盤沈下の同じ轍を踏む危険性が大きい」(同書「解説にあたって」)。本当にこうなっていればよいのだが。

0444/朝日新聞3/29の社説執筆者は「全くの無能者」か「狂人」。

 朝日新聞3/29の社説執筆者は全くの無能者か「狂って」いるのではないか。
 朝日新聞が沖縄集団自決「命令」訴訟にかかる前日3/28の大阪地裁判決について結論を支持する社説を書くだろうことは予測できたことだが、あまりのヒドさに驚いた。
 こういう社説は司法(裁判)担当の社説担当者が書くのが通常だろうが、政治(+歴史認識)担当の執筆者が書いたかに見える。
 精神衛生にも悪いので、できるだけ簡単におさえる。
 1.冒頭の第一文-「慶良間諸島」で「起きた『集団自決』は日本軍の命令によるものだ。/そう指摘した岩波新書『沖縄ノート』は誤りだとして、…元守備隊長らが慰謝料などを求めた裁判…」。
 さっそく間違いがある。大江健三郎は抽象的に「日本軍の命令による」と書いたわけではない。「日本軍の…」ではなく<特定され得る元軍人の命令>なのだ。
 2.関連して、第七段の第一文-「『沖縄ノート』には座間味島で起きた集団自決の具体的な記述はほとんどなく、元隊長が自決命令を出したとは書かれていない」。
 後段は、よくもまぁ社説で、という感想だ。氏名を明示していなくたって、簡単に他の情報と結合して特定できれば同じこと。こんな単純な常識もこの執筆者は持ち合わせていないらしい。
 また、前段は、だからどうなのだ、と言いたい。大江健三郎は、「元守備隊長ら」が「命令」を発した<悪人>だ、ということを前提として、沖縄を再訪する当該元軍人の「心理」を小説家らしく勝手に捏造した(創作した)のだ。「集団自決の具体的な記述はほとんどなく」て、何ら不思議ではない。
 3.最後の段の二文-「教科書検定は最終的には『軍の関与』を認めた。そこへ今回の判決である。集団自決に日本軍が深くかかわったという事実はもはや動かしようがない。」
 これで社説を締め括るとは<狂気の沙汰>だ。
 既に書いたが「軍の関与」の有無はこの訴訟の争点ではない。にもかかわらず「集団自決に日本軍が深くかかわったという事実はもはや動かしようがない」とまとめて、安心し、判決によっても裏付けられた、と思っているなら、アホとしか言いようがない。
 「集団自決に日本軍が深くかかわった」か否かという問題設定ならば、私とて、何らかの意味での、何らかの程度での、「集団自決」と「日本軍」の関係を否定はできない。すなわち、端的にいって、戦争中のこと、<敵軍>が眼前に上陸してきたときのこと、なのであって、「集団自決」が戦争・戦時中のことであれば、日本軍と全く無関係だ、とは言えないだろうからだ。
 だが、そのことと、特定の旧日本軍人が特定の住民(島民)に対して集団自決「命令」を発したかどうかは全く別の問題だ。
 上のことを朝日新聞の社説執筆者は理解できていない。全くの無能者に思える。あるいは理解できてもそのことを記したくないのだとすれば、何らかの<怨念>に囚われた<狂人>ではないだろうか。
 もちろん、そのような<無能者>か<狂人>の執筆者は、判決が「自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない」、「自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できない(としても…)」と述べていることに、全く言及していない。判決理由文(<要旨>であっても)を読めない(理解できない)馬鹿=<無能者>であるか、読んでいても意識的に(自分たちに都合の悪いことは)無視してしまうという、<倒錯した変人>であるに違いない。
 4.第八段-提訴の「背景には、著名な大江さんを標的に据えることで、日本軍が集団自決を強いたという従来の見方をひっくり返したいという狙いがあったのだろう。一部の学者らが原告の支援に回ったのも、この提訴を機に集団自決についての歴史認識を変えようという思惑があったからに違いない。」
 もっともらしいこの文章に、朝日新聞の<体質>も表れているだろう。社説にこんな<推測>を書くこと自体いかがかと思うが、法的問題あるいは歴史的事実の問題を<政治的>にしか捉えることができないのだ。最も<うす気味悪く>感じたのは、この部分だった。むろん、<正しい>「歴史認識」の確認(<誤った>「歴史認識」の是正)を「一部の学者ら」が追求するのは、一般論としても何ら非難されるべきことではない。
 こんな社説が数千万人に読まれ、何がしかの<空気>を作っていることを想像すると、日本の現状と将来に諦念にも似た<空恐ろしさ>を感じる。
 なお、この判決に関する読売新聞の社説はしごく「まっとう」だった。読売は、社説だけはまだしっかりしている。
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