秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

規制緩和

1071/岡崎久彦・真の保守とは何か(PHP新書、2010)の一部。

 「保守とは何か」に関する文章・議論を昨今にもいくつか目にした。以下もこれに関係する。
 岡崎久彦・真の保守とは何か(PHP新書、2010.09)は岡崎の2007~2010年のほぼ三年余の間の論考をまとめたもので、最後から二つめの「真の保守とは何か」(初出2010.05.18、新潮45)を読んでいただいても「本書を発刊した目的の半ばは達成された」と思っている、とされる(p.4-5)。
 書名にも採用されたこの論考で、まず注目を惹いた文章は、あえて引用すれば、つぎの二つだ。
 ①「どの程度政府の統制が望ましいか、民営化と政府の統制のどちらがいいかなどということは、どちらが民主主義の正統路線か、あるいは保守の本流であるかというような大きな問題ではない」(p.213-4)。
 ②「真の保守主義は、経済問題ではなく、外交、安保、教育などの面でその真価が発揮されるべきものである」(p.215)。
 これらは適切であるように思われる。基幹産業の全面的国有化を別にすれば、経済政策、あるいは「経済」への国家(政府)関与の程度・形態は、<保守か左翼か>という対立軸で決定されるものではないだろう。「保守」(主義)から見て、郵政民営化の是非が決定されるわけではないし、「規制緩和」の是非も同様だ。

 昨今問題にされているTPP参加問題にしても同様だろう。また、原発政策(推進・維持か廃止・脱か)についても言えるように思われる。現に、これらについて(自称)「保守」論者の中でも対立がある。そしてそれは当然であって、「保守」か否かによって、あるいはいずれが「真の保守」かによって決定される政策問題ではない、と言うべきだろう。
 岡崎の文章の中には、自民党の綱領や主張にも関係する、以下のようなものもある。
 ・小泉・竹中改革には「規制廃止、自由競争原理〔の重視〕」こそ「真の民主主義、保守政党」という主張があるようだが、「特に、郵政民営化」を考えると、日本の従来型制度をバークが批判した「人間の理性、あるいは浅知恵で急速に」変えようとし「すぎたきらい」はなかったか(p.213)。
 ・「経済の自由化」を謳うから「真に保守的」で、「規制を強化」すればただちに「社会主義的」とするのは日本政治では「ほとんど意味がない」(p.215)。
 「しすぎたきらいはなかったか」という郵政民営化に関する抑制的なコメントも含めて、基本的に同感だ。
 全面的な国家計画経済さえ選択しなければ、広義の「自由主義〔市場主義)」の範囲内で経済に対する規制強化も規制緩和もありうる。どの程度が具体的に妥当かどうかは国家によって、時代によって、あるいは経済(産業)分野ごとに異なるもので、一概にに断定できるものではない。そして、これらの問題についての解答選択は、何が「真の保守か」とは関係がない。無理やり、「思想」または「主義」の問題に還元させるのは、無意味な思考作業だろう。
 その他、以下のような岡崎久彦の文章も、読むに値するものだ。
 ・「岸、佐藤、福田の安保優先政策、親韓、親台湾政策に対抗する、経済優先、親中政策」が「保守本流」だとするのは、「高度経済成長の功を全部池田内閣に帰」そうとする、「フィクション」だ。

 ・「自称の保守本流」は「安全保障重視のタカ派保守」に対して自分たちは「経済優先のハト派保守だ」と言いたいのだろうが、もともと「安全保障と経済は対立概念ではない」。これを対立概念のごとく扱ったことから「一九七〇代以降の日本の政治思想の頽廃が起きた」(p.219-220)。
 <経済優先のハト派>が「保守本流」だとの意識・議論が(自民党内に)あったとは十分には知らなかったが(むしろ逆ではないか)、趣旨はよく分かる(つもりだ)。
 では、岡崎にとって「真の保守」とは何か。引用は少なくするが、以下のごとくだ。
 ・「国家、民族と家族を守るのが保守主義である」(p.224)。自民党は、明確な国家意識と家族尊重の姿勢を示し、「外交政策、安保政策、教育政策」をはっきり表明することが、「再生の王道」だ(p.225)。
 ・かかる「真の保守に立ち戻る」のでは「国民の広い支持を得られないという危惧」はあるが、「中間層はいずれにしても大きく揺れる」のであり、「固定層からの確固たる支持票を得ている政党」は強い(p.225)。

 ・「志半ばで病に倒れた安倍政権」の「戦後レジームからの脱却」こそが「保守主義」だ(p.229)。
 岡崎久彦のこの本は菅直人政権発足後、かつ3・11以前に刊行されている。そして、人柄なのかどうか、民主党、あるいは菅政権に対する見方が「甘い」と感じられるところや日本の将来をなおも?楽観視しすぎていると感じられる部分もある。
 だが、基本的には賛同できる内容が多い。
 この欄に書いてきたように、基本的には、「保守」主義とは「反共(反容共)」主義だと思っている。後者は「保守主義」概念のコアではないとの議論がありかつ有力なのだとすれば、「保守」という言葉にこだわるつもりはない。
 この点はともあれ、「保守」=「反共」という理解の仕方と、岡崎久彦の文章は矛盾しているわけではないと考えてよいだろう。

0296/小沢一郎とは何者か。同・日本改造計画(1993)を読む-その2。

 小沢一郎という人は、1.十数年前の考え方を今はすっかり変えてしまったか、2.変えてはおらず現在はウソをついているか、のいずれかだろう。
 大嶽秀夫・日本政治の対立軸(中公新書)p.59によれば、小沢・日本改造計画(講談社、1993)は<「新保守」の立場を鮮明にした>もので、その主張の中には、1.地元利益・職業利益によらない「党中心の集票」、2.「ネオ・リベラリズム」も含まれていた(7/17参照)。この2.の方に焦点を当ててみよう。
 小沢・日本改造計画p.4-5は、世界を含む時代と日本社会の変化に対応した「変革」の目標として「政治のリーダーシプの確立」、「地方分権」につぐ第三として「規制の撤廃」と明記し、「経済活動や社会活動は最低限度のルールを設けるにとどめ、基本的に自由にする」と書く。そして、次のように連ねる。
 「これらの究極の目標は、個人の自立である。個人の自立がなければ、真に自由な民主主義社会は生まれない。国家として自立することもできない…。国民の”意識改革”こそが、現在の日本にとって最も重要な課題といえる。そのためには…個人に自己責任の自覚を求めることである。
 十数年前に小沢はこのように主張していた。現在の彼は、国民・有権者に「個人の自立」・「自己責任の自覚」を訴え、国民に<意識改革>を求めているだろうか
 国家(政府)と国民(個人)の関係にかかわり、上の本p.185-6は、「個人を解放することを提案」して個人の「五つの自由」の最後に「規制からの自由」を挙げ、次のような叙述をしている。
 「個人に自由が与えられれば、結果的に選択肢の多い社会になる。多様な生き方が可能になる……不要な規制は一刻も早く撤廃すべきである。…要するに、まず国民を保育器から解放することである。もちろん、それによって国民は自己責任を要求される。しかし、それでよいと私は思う。自己責任のないところに、自由な選択など存在しない。…政治が個人の選択に口をはさむべきではない。政治に求められることは、国民にできあいの「豊かな生活」を提供することではない。…障害を取り除き、環境を整備することだ」(p.186-7)。
 また、次のような文章もある。
 「自由主義社会では基本的に自由放任であるべきだ。そのうえで、どうしても必要なところに必要最小限の規制があればよい」(p.244)。金融機関の「利用者にもある程度の自己責任原則を要求する。…自分の判断で選び、その結果に責任を負うようにするのである」(p.248)。「民間の知恵とアイディアと活力を生かすために、民営化努力は今後も続けていかなければならない」(p.249)。
 以上のような考え方は、大嶽の指摘のとおり、<ネオ・リベラル>=<新自由主義>と称してもよいものだ。そして、<空白の~年>のあとの橋本内閣以降、規制緩和・民営化という<ネオ・リベラル>志向が基本的な政策課題になってきた、と言ってよいだろう(厳密な議論はしない)。<規制緩和>・<民でできるものは民で>は小泉純一郎首相のキャッチコピーの如くですらあった。<構造改革>と言われることもある。
 具体的に日本における<規制緩和>・<構造改革>の問題・評価に立ち入ることはしない。問題は、上のように書いていた小沢一郎は、いま何を言っているかだ。
 小沢は、この選挙戦中に、<小泉改革のおかげで「格差」が拡大した>と明確に述べて批判していた。それを聞いて、私はかつての小沢の主張の基本的なところは知っていたので、奇異に感じ、<ウソをつくな>と思ったものだ。
 なるほど、小沢の1993年の著書には<格差拡大容認>とは書いていない。しかし、規制緩和・自己責任領域の拡大とはじつは、「格差」の発生・拡大に他ならないことは常識的に考えても明らかなことだ。
 小沢一郎は、「国民を保育器から解放」すべきと明言していたのだ。また、「政治に求められることは、国民にできあいの「豊かな生活」を提供することではない」とも明言していたのだ。
 国民を「保育器」から解放するとは(規制緩和等により)自己責任領域を拡大し、<国家の保護>を縮小させることだ。当然に既得権益は少なくなり、<格差>も発生する。そのような<格差>を埋めるのがごく簡単には社会保障政策ということになるが、小沢はかつて、政府に求められるのは「国民にできあいの「豊かな生活」を提供することではない」と明言していた。
 私は1993年の著書の考え方が小沢一郎の本音だろう、と推測している。彼の考え方はじつは、彼が逃げ出した自民党与党政権によって少しは実現されてきているのだ。
 しかし、小沢は民主党の代表だからこそ自民党を批判するために<格差の拡大>なんていうことを問題にしているのだ(<格差拡大>か否かの客観的認識の正しさを私は知らない)。選挙対策として、言葉だけの主張をしているわけで、私には何とも奇妙に、かつ小沢一郎を可哀想にすら思う。
 小沢はかつて主として外交・軍事面で<普通の国家に>と主張し(上の本第二部p.101以下のタイトルは「普通の国になれ」だ)、新党さきがけの武村正義が「小さくともキラリと光る国に」と応じたりしていたが(当時も今も、前者・小沢の方がまともだと考える)、あの頃は彼はまだ輝いていた。
 現在は民主党代表という「役割」を演劇・芝居の如く演じているだけではなかろうか。民主党の議席数の増加だけを自らの「役目」として、彼の元来の理念・主張と無関係に、精一杯頑張ろうとしているだけではないのか。
 もう彼も六〇歳代半ばで、心臓に疾患があるという<噂>もある。小沢の心境を想像するとき、ある程度は憐憫の情も、じつは生じる。
 しかし、小沢一郎は、本能的な<選挙>観にもとづいて、国民に自分の本来の理念・主張とは異なる<ウソ>をついていることは間違いない。
 何が<小泉改革による格差…>だ。何が<生活が第一>だ。笑わせるな、と言いたい。自らこそ、かつては<ネオ・リベラル>な主張をし、かつ政府に求められるのは「国民にできあいの「豊かな生活」を提供することではない」と明言していたではないか。さらに普通の国家」としての自立を強調していたではないか。
 ついでに言えば、彼の本来の「民営化」論は、民主党の支持基盤の重要な一つの公務員(労働組合)の利益と衝突するものだ。
 選挙戦術としての小沢一郎の発言に、この<政略家>の言葉に、騙されてはいけない。この<政略家>が率いる政党を支持し勝利させれば、日本に歴史的な禍根を遺すだろう。

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