秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

西尾幹二全集

2701/加地伸行の妄言と西尾幹二。

  「本人編集」の西尾幹二全集(国書刊行会)が刊行され始めたのは、2011年の秋だった。
 出版元は当時、宣伝用の冊子またはパンフを作成したのだろう。
 その内容を、現在でもネット上で読める。
 爆笑?気味にでも面白く読めるのは、加地伸行の「推薦の言葉」だ。加地のこのときの肩書は、「大阪大学名誉教授/立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所長」。
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  全文の引用も能がない?ので、一部は省略・要約して、加地伸行の西尾幹二全集への「推薦の言葉」を紹介する。ほんの少しは<歴史的>意味があるかもれない。一行ずつ改行する。
 「西尾幹二氏は多作である。
 全集全二十二巻もの刊行が可能な著述家は、現在、ほとんどいない。」
 多方面に常に発言する「コメンテイターなる評論家」はいる。/
 同じように見えても、西尾は「決定的に異なる」。
 コメンテイターは「依頼者の意向やその場の雰囲気に合わせ」るので、「以前の発言と矛盾した発言をしても平気だ。世に迎合する者の常」だ。/
 「西尾氏は異なる。
 すぐれた学問的業績があり、それに基づいた確乎とした保守思想を有し、その一定の立場から発言するので、いかなる方面に対しても的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない。
 不動にして一貫した姿勢、これは思想家であればこそなしうることである。」/
 「言わば、西尾氏は太陽である。
 太陽として輝いている。

  〔以下、二文略〕
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  すさまじく面白いのは、反復になるが、こうだ。
 西尾幹二は、「すぐれた学問的業績があり、それに基づいた確乎とした保守思想を有し、その一定の立場から発言するので、いかなる方面に対しても的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない」。
 加地伸行は、本当にこう考えていたのだろうか。いやきっと、そう思い込んでいたのだろう。
 だが、2011年時点にせよ、「すぐれた学問的業績」があったとは到底思えない。加地はいったい西尾のどの著作を思い描いていたのか。
 「確乎とした保守思想を有し、その一定の立場から発言するので、いかなる方面に対しても的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない」。
 これは全く事実に反する。例えば日本会議・椛島有三に対する西尾幹二の態度は揺れ動いた。
 「的確な見解を出し得、かつその内容に矛盾がない」。
 こんなことはない。西尾幹二が平気で前言と矛盾することを書いてきたことは、この欄で再三触れた。政治に屈服することがあり得ることも、西尾は早い段階で自分自身で書いていた。
 「依頼者の意向やその場の雰囲気に合わせ」るので、「以前の発言と矛盾した発言をしても平気だ。世に迎合する者の常」だ。
 こういう世のコメンテイター類に対する加地伸行の批判は、そのまま西尾幹二に当てはまる、と言って間違いではない。
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  西尾幹二全集全22巻は、2024年当初の時点で未刊のようだと、最近に知った。
 それに加えて、加地伸行がどうやら今でも月刊誌の巻頭に毎号に短文を掲載しているらしいことも、興味深いことだ(最近号で確認してはいない)。
 加地伸行の「教養・知識」、そして人生は、いったい何のために役立ってきたのか。
 老齢の妄言家の文章をしきりと掲載する出版社・雑誌があるとは、日本はなんと<贅沢な>国のことだろう。苦しんでいる人、困っている人はいくらでもいるというのに。
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2681/西尾幹二批判074—第8巻③。

  西尾幹二全集(2011〜)の最も「グロテスク」なところは、各巻の「後記」にある。
 とりわけ、それぞれの巻にすでに収載している自らの文章の一部を、決して少なくない範囲で「後記」の中で再び引用し、掲載していることだ。
 この「くどさ」、「執拗さ」には、唖然としてしまう。
 顕著な例は、第8巻(2013年9月刊)の「後記」だ。
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  西尾は上の「後記」の最初の方で、こう書いている。
 「本巻は10年余に及ぶ体験的文章であり、一つの精神のドラマでもあるので、時間の流れに沿ってそのまま読んでいただければ有難く、余計な解説をあまり必要としないだろう。ひとつながりの長編物語になっている」。p.787。
 この点でもくどく、同じ趣旨の文章がもう一回出てくる。
 「前にも述べた通り、本巻は一冊まるごと長編物語であり、いわば10年間にわたる一つの精神のドラマでもあるので、ここからの展開は素直に順を追って読んでいただければそれで十分であり、本意である」。p.794。
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 しかし、「時間の流れに沿って」、「素直に」読んでもらえればよく、「余計な解説をあまり必要としないだろう」というのは、あくまで表面的な言辞(あえて言えば「ウソ」)で、執拗な「読み方ガイド」や「自らによる要点の指摘」をくどくどと行なっている。
 (1) 西尾は当時の臨時教育審議会の動向への批判等を「後記」で再びあれこれと書いたあと、その趣旨はこの巻(第8巻)には全体を収載していない別の書物に書いたとし、その著の「序にかえて」だけを収載したこの巻(第8巻)のその部分(293-299頁、ふつうの大きさの活字・二段組で計7頁)の、そのまたその一部(1985年)を、「後記」で、わざわざ二箇所に分けてそのまま引用している。第8巻「後記」、p.791-3。
 最初は、小活字で、13行。「本書293-294ページ」と最後にある。
 つぎは、小活字で、19行。「本書296-297ページ」と最後にある。
 「本書」293-299頁を、あるいは293-294頁と296-297頁を読めば済むことを、西尾は「後記」でもう一回記載しているわけだ。その再掲部分は、それが最初に書かれた1984年ではなく、最も重要な部分だと西尾が全集刊行の時点で判断した部分なのだろう。つまり、2013年の時点での「判断」が入っている。
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 (2) 西尾の「後記」は、編集上の注記なのではなく、主としては2013年時点での「回顧」論考になっている。
 そして、(1) と同様に、すでにこの巻に収載している1992年の著の一部を「後記」の中で長々と引用している。第8巻「後記」、p.796-7。
 小活字で、6段落、35行。「本書649-650ページ」と最後にある。
 なぜ、こんなことをするのか。西尾は、こう記載している。
 「論理的に…最も深く考えてもらいたいという箇所」を「あえて抜き出し、お示しする」。
 「大量のページ数の多さに紛れてどこが私の主張の重点ポイントかを読者が見失うのを恐れてのことである」。
 西尾幹二は、とても親切であり、あるいはとても心配症なのだ。
 しかし、同時に「グロテスク」でもある。
 別の巻に収載している文章の紹介・引用ならば、まだ理解できなくはない。だが、西尾は、この巻に収載の文章についても、読者の理解、解釈に委ねようとはしない。別言すれば、読者を信用していないのだ。「私の主張の重点ポイントかを読者が見失う」のを懸念している、と明記している。
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 (3) 以上にとどまらない。西尾はこの巻の「V」の一部(1992年)を、長々と「後記」中で再引用している。第8巻「後記」、p.798-800。
 小活字で、5段落、40行。「本書666-668ぺージ」と最後にある。
 これは、第8巻「後記」時点での西尾のコメントを挟んで、さらにつづく。第8巻「後記」、p.800-1。
 小活字で、1段落、5行。「本巻668ページ」と最後にある。
 小活字で、1段落、4行。「本巻669ページ」と最後にある。
 小活字で、1段落、3行。「本巻669ページ」と最後にある。
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  緒言または後記で全集各巻の編集者が記述すべきことは、その巻に収載している個々の論考類が最初にどこに発表され、のちにどのように単行本にまとめられたのち、その巻ではどのように配置されているか等を、一覧表的に正確に明らかにしておくことだろう、と思われる。
 しかし、編集者・西尾幹二は、この点で不十分で、不親切であることは、すでに書いた。→批判070—第8巻①。
 一方で、この人は冗舌にも、小活字の計約120行も費やして、同じ巻に収録した文章を「後記」で再び引用している。いささか<異様>ではなかろうか。最初に読んだときだろう、私が所持するこの巻の「後記」の余白には、「くどい」と書いたサインペンでの文字が二箇所にある。
 「時間の流れに沿って」、「素直に順を追って読んでいただければそれで十分であり、本意である」と言いつつ、読者が「大量のページ数の多さに紛れてどこが私の主張の重点ポイントかを読者が見失うのを恐れて」いるのが理由だ、というわけだ。だから、<くどくどと>何度も書きたくなっている。
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  こういう<グロテスクさ>は、たんに「饒舌すぎる」とか、「くどすぎる」とかの印象以上の重大な問題を胚胎している。
 すなわち、1980年代や1990年代にすでに発表した文章の一部だけを2013年にことさら再度引用することは、かつての文章の意味・趣旨を数十年後の2013年になって実質的には<改変>した、<修正>した、ということになっているのではないだろうか。
 なぜならば、1984-85年や1992年の最初の発表時にあえて選べば重要な箇所だと西尾自身は考えていた部分と、2013年に振り返って西尾がそう判断する部分は、同じではない可能性があるからだ。
 西尾は、2013年刊行のこの巻で、「私の主張の重点ポイント」とか、読者に「最も深く考えてもらいたいという箇所」とかと記している。
 その「箇所」や「ポイント」がかつての初出時での思いと全く同一でないとすれば、そうした「箇所」・「ポイント」だけを新たに指摘して引用することは、実質的には2013年時点で「加筆修正」の一種をすることに他ならないのではないか。
 西尾幹二は、なぜいけないのか、文章の書き手は同じ自分だ、と言い張るのかもしれない。
 しかし、1980年代半ばや1990年代初頭と2013年とは、時代が大きく異なる。そのあいだには、ソ連邦の解体、「新しい歴史教科書をつくる会」の発足と分裂、西尾『皇太子さまへの御忠言』の刊行等々があった。西尾幹二自身が、かつての『教育文明論』(全集第8巻のテーマ)の時期と同じ考えを持っているはずはない、と推察するのが、むしろ常識的ではないだろうか。「教育」をめぐる状況も、20年以上のあいだに変わらなかったはずはない。
 このように、西尾幹二は、全集の「後記」の執筆を通じて、かつての自分の論考類の意味・意義の修正・変更を図っている可能性がある。西尾幹二の自分編集による同・全集とはそのようなものだと(今回は各巻への主題の「作為的な」配分には触れていないが)、読者・利用者は注意しておかなければならない。
 ——

2667/西尾幹二批判070—全集第8巻①。

 西尾幹二全集(国書刊行会)について、「グロテスク」とか「複雑怪奇」と評したことがある。以下の巻に即して、これを見てみよう。
 西尾幹二全集第8巻・教育文明論(国書刊行会、2013。全804頁)。
 ——
  目次を概観し、さっそくに「後記」を見てみる。
 冒頭に、こうある。p.787。
 「『教育文明論』という題で編成した本全集第8巻は、私の45歳から55歳にかけての10年間、…私が情熱を注いだ教育改革をめぐる論考の集大成である」。
 『教育文明論』という単著がすでにあるのではないことが、分かる。
 しかし、上の文章にはすでに、「大間違い」または「ウソ」がある。
 西尾は1935年生まれなので、「私の45歳から55歳にかけての10年間」とは、ほぼ1980年から1990年の10年間を意味しているはずだ。
 しかし、この巻に収載された個々の論考類には、上の範囲を逸脱しているものがある。決して、ごく一部ではない。
 「I 」の中にまとめられている6つの小論考の発表年月は、順に、1974年3月、1976年8月、1978年4月、1978年6月、1979年3月、1979年5月。
 「VI」の中に収められている3つの論考の発表年月は、順に、1991年1月、1993年3月、1995年5月。
 全てが1980年〜1990年の範囲を超えている。なお、「I 」の表題が「…を書く前に…考えていたこと」であることでもって釈明することはできないだろう。「I 」もまた、この「巻」の一部だからだ。
 さらに、上の「後記」冒頭の文章には、驚くべき「大ウソ」がある。
 計16頁ある「後記」の最後の方の15頁めになってようやく、各個別論考、最初に収載した単行本、そしてこの全集との関係についての記述が出てくるのだが—後述のとおり、この点こそ「異様」なのだが—、そこで初めにこう書かれている。
 「…以外の文章を収録した単行本名と各作品名を記すと次の通りである」。
 「…」で記載された文章(単著)は、そのままこの巻に収載した、との趣旨なのだろう。
 「…」の部分に記された単著の名、本巻での符号、当初の発行年月は、つぎのとおりだ。発行年月は「後記」には記載がなく、この巻での最終頁に記されている。
 ①『日本の教育 ドイツの教育』、「II」、1982年3月。
 ②『教育と自由』、「V」、1992年3月
 何と、かつての単行本を単独の「II」・「V」との数字番号を当ててそのまま収録したらしき二つの単行本のうち一つは、「私の45歳から55歳にかけての10年間」に刊行されたものではない。
 また、以下で「C」と略記するものについて、上二つに似た紹介をすれば、こうなる。
 C=『教育を掴む』、「III」の一部と「IV」、1995年9月
 この1995年9月は刊行年でそれに収録した個別論考類の発表年ではない。しかし、これに収録されたと各論考類の末尾に記載された①〜⑤のうち、②〜⑤の発表年は、それぞれ1991年1月、1991年4月、1991年4月、1991年5月だ。
 いずれにせよ、これらも1990年よりも後に書かれている。
 ——
 西尾は、かつての自分自身の書物や文章がいつ書かれて発表されたかをきちんと確認しないままで、「後記」を書いているのだ。「大まかには」、「おおよそ」といった副詞を付けることもなく。
 以上は、西尾幹二の文章は「信頼することができない」ことの、まだ些少な一例だ。
 ——
  西尾は「後記」で、こう書いている。
 「本巻は10年余に及ぶ体験的文章であり、一つの精神のドラマでもあるので、時間の流れに沿ってそのまま読んでいただければ有難く、余計な解説をあまり必要としないだろう。ひとつながりの長編物語になっている」。p.787。
 くどくも、同じ趣旨の文章がもう一回出てくる。
 「前にも述べた通り、本巻は一冊まるごと長編物語であり、いわば10年間にわたる一つの精神のドラマでもあるので、ここからの展開は素直に順を追って読んでいただければそれで十分であり、本意である」。p.794。
 しかし、第一に、こうした趣旨を西尾自身が破っており、「余計な解説」以上のことを彼自身が「後記」で書いている。この点は、別の回で扱う。
 第二に、「そのまま」「素直に」読んで、とか、「いわば10年間にわたる一つの精神のドラマ」だといった文章自体が、2013年時点での、自分のかつての書物や論考についての読者に対する「読み方ガイド」であり、2013年時点での「誘導」になっている。
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  上のことも西尾の自己「全集」観を示していて、重要だろう。 
 だが、全集の読者・利用者が「編集者」に期待するのは、上のような<贅言>をくどくどと記すことではなく、最初に発表した論考、それらを収載してまとめたかつての単行本、この全集の巻での掲載の仕方の関係を、きちんと、丁寧に明らかにしておくことだろう、と思われる。全集の「緒言」・「まえがき」または「後記」・「あとがき」類は、そのためにこそあるべきだろう。
 だが、西尾の「全集」観は、自分の「全集」については、明らかにそうではない。
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 計16頁の「後記」の15頁めを見てようやく分かるのは、この巻に収められている主要部分は上記の二つの単行本であることのほか、ほとんどの文章(「作品」)は三つの単行本にかつて収録されていた、3つだけはこの全集が初めて収録した、ということだ。
 しかし、第一に、これら三著(上記の二著以外)に収録されていたものは全てこの巻にあるのか、それとも別の巻に入っているものもあるのかは、明記されていない。
 かつまた、第二に、これら三著に収録されていたものが、全集のこの巻でどのように配置されているのかは、「後記」のこの箇所では全く記されていない。
 したがって、この巻の読者は、目次と「後記」のこの箇所(p.803-4)を自ら照合させて、かつての収録関係を理解するしかない。
 ①最初に発表した雑誌や新聞等々の特定、②それらをかつて刊行したどの単行本にすでに収録したのかの特定は、一覧表的に明らかにされておくべきだと思うが(それが「全集」の第一の役割だと思うが)、西尾「全集」のこの巻では、なされていない。かつての一冊の著書をそのまま全集の一巻とした例外的場合を除いて、その他の各巻と同様に、<複雑怪奇>な「構造」になっている。この巻での個々の論考等の末尾には、①しか記載されていないのだ。
 ——
 秋月において、この「複雑さ」を解消する作業を行なってみよう。一部についてに限られる。
 「I」、「III」、「IV」はこの巻での番号、「A」、「B」、「C」はかつての単行本(各々、1981年、1985年、1995年刊)、①・②・…はこの巻の「I」等の中の順の番号(この巻にはこれらの数字は目次にもない)。この巻に「初出」のものもある。
 「I 」①〜③→全集に初出。④・⑤→「A」、⑥→「B」。
 「III」①〜⑯→「B」。⑰〜⑳→「C」。
 「IV」①〜⑤→「C」
 以上。
 なお、つぎのコメントが「後記」に付されているものがある。
 「III」③—「(『…』に改題して収録)」。
 これはどういう意味だろうか。「…」の部分はこの巻にはないからだ。
 おそらく、この巻では元に戻したが、「B」に収録したときは「…」と改題した、という意味なのだろう。表題自体が、最初の発表時、過去の単行本時、全集収録時で異なり、「B」でだけ異なる、というわけだ。
 一方、個々の論考類の出典について、全集のこの巻に、それらを掲載した末尾に「改題」と明記しているものがある。
 例、「III」④、同⑤、同⑥、同⑨、同⑬、同⑰。
 これらはおそらく、全集収録時ではなく、上の④〜⑬はかつての単著「B」に収録する際に、上の⑰はかつての単著「C」に収録する際に、「改題」した、という意味なのだろう。
 「改筆」と明記されている場合もある。「III」⑮。
 おや?と感じさせるが、おそらく、全集収録時ではなく、かつての単著「B」に収録する際に「改筆」した、という意味なのだろう。
 全集に収載するときに、かつての「B」で示した出典や「改筆」の旨を、全集時点でも何ら変更なく<そのまま>使って示しているわけだ。
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  以上は、読者・利用者に対する「編集者」としての「親切さ」または「丁寧さ」の欠如だ、と論評できるだろう。「複雑」であり、「紛らわしい」ことの原因になっている。
 しかし、それ以上に<いいかげんさ>を感じさせるところが、「後記」にはある。
 第一に、上に言及した、各論考等とかつての単行本との収録関係に関する箇所(p.803-4)には、<「IV」①〜⑤→「C」>という旨の記載が、いっさい存在しない。
 第二に、この巻の「III」の内容の紹介の一部として、「後記」に、「臨教審の答申が出るたびに『毎日新聞』がそのつどつききりで私の批判的所見を掲載した。四度に及ぶ同紙の答申直後の私の記事を全部収めて、記録としておく」と書いている。p.791。
 これは相当に恣意的だ。なぜなら、まず、「III」の中にはもう一つ(5つめ)の「毎日新聞」寄稿文がある(⑳)。ついで、「III」の中には、「日本経済新聞」と「サンケイ新聞」への寄稿文も一つずつある。さらに、「IV」のなかには、「産経新聞」、「読売新聞」、「朝日新聞」への寄稿文が一つずつある(「IV」③〜⑤)。
 西尾はおそらく、当時に「毎日新聞」に多数寄稿したことを、2013年に振り返って思い出したのだろう。その結果として、他の新聞については「後記」に書かなかったわけだ。
 また、「文藝春秋」と「月刊正論」の名だけ出しているようだが(p.791)、実際には「諸君!」、「中央公論」、「週刊文春」等もあるので、決して網羅的に言及してはいない(言及するか否かは読者・利用者には分からない「恣意」によるのだろう)。
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 ところで、ここでの主題から逸脱することを承知のうえで書くが、この当時に西尾幹二が寄稿した(執筆を依頼された)新聞や雑誌等の名を見ていると、興味深いことに気づく。
 すなわち、政府関係の「臨教審」や「中教審」の答申に批判的だった西尾幹二は、幅広く、多様な情報媒体に登場していた。「毎日新聞」や「朝日新聞」は当時にどういう基本的性格の新聞だったかを詳しく正確には知らないけれども、やはりどちらかと言えば「左翼的」だっただろう。
 このような状況は、1996-97年のいわゆる「つくる会」設立と西尾の初代会長就任後から全集のこの巻発行の2013年頃のあいだにこの人が寄稿した新聞や雑誌等とは、大きく異なっていた、と思われる。
 言い換えると、およそ1980年前後から1990年代の初頭まで、西尾幹二は決して「保守」を謳う評論家ではなかったように推察される。
 「反共産主義」者またはマルクス主義に無知でそれに影響を受けなかった「非共産主義」者だったかもしれないが、この時期の西尾はまだ今日的に言う「保守」を標榜していなかった、と思われる。
 のちの2020年刊の同・歴史の真贋(新潮社)のオビに言う「真の保守思想家」というものとは大きくかけ離れていた、と言ってよいだろう。
 1990年代後半には「保守」の立場を明確にし、「つくる会」会長として協力団体の「日本会議」ともいっときは良好な関係を築いた。
 「私の45歳から55歳にかけての10年間」(「後記」冒頭)を2013年に振り返って、西尾幹二は以上のようなことを全く想起しなかったようであることも、じつに興味深い。
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 つづく。

2466/西尾幹二批判042—ニーチェ「研究」。

 一 西尾幹二全集第4巻・ニーチェ(国書刊行会、2012)を一瞥して驚くのは、これがニーチェの「思想」を直接に対象にしたものではなく、いわば詳細な「評伝」にすぎない、ということではない。
 そうではなく、その「評伝」も、『悲劇の誕生』の成立の頃までで、「未完の作品」(p.763)だ、ということだ。R・ワーグナーとの決別とワーグナー批判も出てこない。
 西尾はせめて『ツァラトゥストラ』の直前までは進めたく、準備をしていたが、果たせなかった、と書く。そうだとすると、『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』、『偶像の黄昏』、『反キリスト』は視野に入っておらず、読解不可欠の作品ともされる『力(権力)への意志』に関する「評伝」的研究も、全くされていないことになる。
 なお、この巻の書以前の最初の紀要論文(静岡大学)は第2巻に収載されており、第5巻・光と断崖—最晩年のニーチェ(2011)では表題に即した文章も収められて「権力への意志」を表題の一部とするものもある。しかし、後者でも、「権力への意志」とは何を意味するか等々の内容には全く触れていない。
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  西尾幹二がニーチェの専門家ではなく、ニーチェ全体の研究者でもないことは、以上のことからも明らかだ。
 また、一部の著作を対象にしてすら、ニーチェの「思想」または「哲学」そのものを研究した者でもなかった。
 西尾は自分を肯定的に評価する文章を全集内に残しておくことが好みのようで、上の第4巻の「後記」には同巻所収の書(1977年、42歳の年)を対象とする論文博士の学位授与(東京大学)にかかる審査報告の要旨(1978年)を、他人の文章ながらそのまま掲載している(p.770-。末尾のp.778にも、1977年著のオビの斎藤忍随による推薦の言葉をそのまま掲載している)。
 興味深いのは記載されている審査員だった5名の教員の構成で、独文学科3名(うち一人は、東京大学に残った、西尾と同学年だった柴田翔)、仏文学科1名、哲学科から1名だ。
 これからも明瞭であるように、西尾のニーチェの一部に関する(未完の)書物は、「文学」であり、少しは関連していても、「哲学」研究書ではない。
 また、西尾には『悲劇の誕生』以外にもニーチェの作品の翻訳書がかなりあるが(第5巻参照)、「翻訳」することとニーチェの「思想」を「研究」することとは大きく異なる。
 むしろ、ニーチェの「文学」的研究や「翻訳」に相当に没頭していた人物が(例えば、『悲劇の誕生』翻訳は1966年(31歳)、『この人を見よ』翻訳は1990年(55歳))が何故、いかにして日本史、天皇・皇室、日本の政治、そして国際情勢にまで「口を出す」評論家または<物書き>になっていったのか、に関心が持たれる。アカデミズムからの離反(退走?)でもあるのだが、この点は、別にも触れる。
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  西尾幹二はニーチェ『悲劇の誕生』はのちにまで自分の考え方に影響を与えた旨書いている(全集のいずれかの巻の後記のどこか。よくあることだがその箇所を失念した)。
 下記の対談書で長谷川三千子は、西尾・国民の歴史(1999)の最後は「ニヒリズムで終わっている」という批判があったとして、それを「的はずれ」だとする。
 的確でないのはそのとおりだろうが、そもそもニヒリズムなる高尚な?考えを西尾が示すはずがない。
 「人間の悲劇の前で立ち尽くしている」との自覚をもって本書を閉じるのは遺憾だ。
 この最後の文は、要するに、「悲劇」という語句を西尾が使いたかった、というだけのことだろう。
 ニーチェ『悲劇の誕生』成立までの評伝を最初の書物として42歳の年に刊行した西尾にとって、「悲劇」は20歳代、30歳代を通じて最も目にし、原稿用紙に書いた言葉だったかもしれない。
 そしてまた、<悲劇の前で立ち尽くす>ということの意味を理解してもらおうという意思など全くなく、「文学」的に?、何やら余韻を残して終わっているだけのことなのだ。
 なお、『悲劇の誕生』は、ギリシャ悲劇の消失を嘆き、ワーグナーがその楽曲と歌劇でもってそれを再生(再誕生)させたとしてワーグナーを賛美した著作だ。
 この書の影響は国民の歴史(1999)刊行の翌年にもまだあるようで、同著にはニーチェの名は出ていないはずだが、つぎの本の一部で、ギリシャに関しては、ニーチェにいわせれば」として、長々と1頁余を使って紹介する発言をしている。
 西尾=長谷川・あなたも今日から日本人—『国民の歴史』をめぐって(致知出版社、2000年7月)、90-91頁。
 この部分は、明言はないが、『悲劇の誕生』の一部を要約したものだろう。
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  西尾幹二がどれほどニーチェを読み、理解しているかを疑わせる、ニーチェ関連のこの人の文章は数多いと推察される。但し、この人は、唐突に「ニーチェは神は死んだと言いましたが」と、日本に関する文章の中で挿入する大胆さと勇気だけは、持っているようだ。この点はこの欄ですでに触れた。
 ニーチェは初期にはワーグナーを称賛していて、「年下の友人」のつもりでいたが、のちには決裂し、批判すらするようになる。
 まだこの欄に掲載していないが、F. M. Turner の書物ではワーグナーとのbreak やsplit という単語が使われている。
 このワーグナーとの分裂を、西尾はまさか知らないことはないだろう。
 しかし、小林よしのりによると、彼の『戦争論』〔1〕に関する「つくる会」のシンポジウムはこうだった、という(2002年の小林の離会=脱退より前)。
 新宿・厚生年金会館での「つくる会」シンポジウムは2000人超が詰めかける「熱気」となった。「しかも調子に乗りすぎた西尾幹二が、オープニングのBGMに…ワーグナーの『ワルキューレの騎行』をかけたものだから、異様な雰囲気である」。
 西尾幹二は最近にも、ニーチェは自分にとって特別の意味を持つと明記している。ニーチェとワーグナーの関係くらいは知っているはずの人物が、上のようなことをしたというのは、不思議なことだ。
 小林よしのり・ゴーマニズム戦歴(ベスト新書、2016)、p.220。「西尾幹二」の名はないが、同、p.270 でも触れている。
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2464/西尾幹二批判040—「つくる会」運動②。

  西尾幹二個人編集の同全集17巻・歴史教科書問題(国書刊行会、2018)の大きな特徴は、「つくる会」の一定時点以降の自分の文章をいっさい(但し、明記に矛盾する例外がある)収載していないことだ。
 個人全集にはおそらく珍しく、著者自身が各巻にけっこう長い「後記」を付しているが、この巻ではその冒頭で真っ先に、西尾はこう明記する。
 「本巻は『新しい歴史教科書をつくる会』が創立されてから、会長や名誉会長の名で私が総括責任者であることを公言していた約十年間の私の発言記録である」。時期的には、1996年12月から2006年1月まで、の約9年余りにあたる。p.747。
 ただちに生じる疑問は、なぜ上の時期、会長・名誉会長だった時期に限るのか、だ。その論理的必然性は全くない、と言えるだろう。
 なぜか。それは、「後記」の中で「『つくる会』の内紛と分裂」と西尾自ら簡単に書いている(p.759)ものに触れたくなかったからだろう。
 2006年1月以降、西尾が「つくる会」や歴史教科書問題について何ら文章を発表していない、というのであれば、それもやむを得ないかもしれない。
 しかし、秋月ですら、「つくる会」の内紛と分裂について語る文章または発言を含む、つぎの二つを所持している。
 ①西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 ②西尾=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009年12月)。
 「つくる会」の分裂が歴史教科書問題と無関係である筈がない。いわゆる「保守的」な歴史教科書が二種出版される事態が発生し、それは現在まで継続しているからだ。
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  西尾幹二は、自分史(自分の歴史)の中に「つくる会」の内紛と分裂を含めたくないのだろう。
 これと全く無関係だったならば、その合理的理由はある。
 しかし、その内紛と分裂に、西尾自身が不可分に、密接に関係していた。
 そしてまた、その問題と関係のない文章だからだろう、歴史教科書には関係する、2006年1月以降の文章を上の第17巻に収載することを堂々と行なっている。
 ①「同会創立二十周年記念集会での挨拶(代読)」(2017.1.29)。p.710-。
 これは容赦してよいかもしれない。では、つぎはどうか。
 ②「高校の歴史教育への提言」(西尾=中西輝政・日本の『世界史的立場』を取り戻す(祥伝社、2017)の西尾執筆「まえがき」)。p.717-。
 これは西尾が会長・名誉会長として、その期間内に書いた文章ではない。
 にもかかわらず、上に引用した「後記」冒頭の明記とも矛盾して、堂々と?収載している。
 結局は、西尾の「個人編集」の嗜好に依っているわけだ。
 西尾が、自分の「つくる会」との関係について、読者が理解してほしいと望むように、「解釈」の素材を取捨選択して収載している。なお、上の①『国家と謝罪』収録文章のうち、重要なものは割愛して、名誉会長退任挨拶状だけは載せている。
 これはおそらく、西尾幹二の「歴史」観と無関係ではない。この「歴史」には「自分史」も含まれる。
 客観的「事実」に接近するのは少なくともきわめて困難で、結局は残された「文章」によって「解釈」されるほかはない、従って、当事者である自らが「つくる会」・歴史教科書問題との関係を証する文章を選んで全集に残すことによって、その「解釈」を(ある程度、または相当程度)操作することができる、と考えているのではないか。
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  ニーチェ『この人を見よ』の冒頭の一節の最後に、こうある。
 「私の言葉に耳を傾けてくれ! 私はこれこれの者であるのだから。
 どうか、私のことを勘違いしないでもらいたい!」
 訳は、丘沢静也・光文社古典新訳文庫によった。
 これを利用させていただくと、西尾はさらにこう言いたいのではないか。
 私の「つくる会」や歴史教科書問題とのかかわりは、全集第17巻に収載した文章の範囲で、それらのみを素材にして理解してもらいたい。どうか、私のことを勘違いしないでくれ!
 なお、文章の取捨選択はもとより、どのような順番で体系的に?それらを並べるかも、「個人編集者」である西尾は十分に留意して、2018年時点での「構成」を行なっている。
 さらに、「後記」では各文章の「読み方」まで親切に?ガイドし、一部にはその「評価」をも自ら書いている。
 どうか、私のガイドに従って、私が指示する留意点に沿って読み、私がすでに書いているように「評価」してほしい、というわけだ。
 「どうか、私のことを勘違いしないでもらいたい!
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 四 付/上の内紛・分裂の経緯は、今後少しは立ち入るが、私にはよく分かっていない。
 上に掲げた西尾=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009年12月)にここでは限って、これに関係する西尾幹二のこの時点での発言を、以下に記録しておく。「」内は、そのままの引用だ。全て西尾発言。一文ずつ改行する。段落最後には//を付す。
  「保守はカルト汚染を克服できるか」との見出しの項。p.262-。
 ある若い人からこう聞いた。「ある若い方が日本青年協議会という団体の青年部に入って修行しようとしたときに、西洋の思想家の名前などを挙げると、思いが足りないと言って叱られ、それからいろいろ日本の思想家のことを言っても思いが足りない、あの人たちはだめだと言って、硬直したドグマをたたき込まれるんですね。
 葦津珍彦先生、三島由紀夫先生、小田村寅二郎先生、谷口雅春先生のご意志を受け継ぎ、天皇国、日本の再建を目指しますということを宣明させられて、そして次なることを強いられると。//
 いつ何時も天皇陛下が今、何を考え、何を思っていらっしゃるかを考えて、日々、生き抜いていけと説き、それこそが天皇陛下の大御心に従った正しい生き方であると、若い人たちに説いている。
 平和時にこんなことを強いるのはおかしいと思った。
 こういうのって天皇陛下ご自身が迷惑にお感じになるはずです。…」//
 「いまだにそんなことをやっているグループがあると、目を覆うばかりですが、これが日本青年協議会、これは日本会議の母体で、日本会議はこれの上部団体ですから、今でも日本青年協議会は存在し、組織は日本会議と一体です。
 同じ場所にあるんです。
 日本会議と称する一つの団体が何を考えているのか、と不思議でならないですね。」//
 彼らは自分の正体を「隠しているんですね。
 自分たちが隠れて、偉い先生、裁判官とか、大学教授とかを表に並べて、そして実権を握っている事務局は後ろに隠れていて操作しているんです。
 神社本庁も操られているかもしれない。
 それが保守運動を壟断するから困る。
 『新しい歴史教科書をつくる会』なんてえらい被害を受けた。
 ひそかに会の幹部に生長の家活動家が送り込まれていましてね。
 新田均、松浦光修、勝岡寛次、内田智の四人で、それにつくる会の事務局長だった宮崎正治がいて、宮崎が日本青年協議会に関係あることは知っていましたが、彼らがみんな生長の家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
 このうち松浦氏ひとりは生長の家活動家ではなかったと聞いていますが、四人が一体となって動いていたことは間違いありません。
 宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られにかかり、ついに撹乱、分断されたんです。
 悪い連中ですよ。」//
 「『つくる会』にもぐりこんでいた生長の家活動家の内田智氏は弁護士で、彼らが引き起こした『怪メール』事件を私が雑誌に公開したら、いきなり口座番号を書いてきて五〇〇万円を振り込め、と法律家らしからぬ非合法スレスレの脅迫をしてきました。
 そのあと『国家と謝罪』という評論集に私が彼らへの批判文を載せたら本を回収せよ、と版元の徳間書店を威嚇しました。
 怪メールといい、脅迫といい、言論以外のめちゃくちゃなことをする連中であることを読者の皆さんにお知らせしておく。
 これが日本会議の連中のやることなんです。//
 問題は周辺の名だたる知識人が彼らの不徳義を叱責するのではなく、『国民新聞』その他で彼らとぐるになって騒いでいる情けなさですね。」//
  「神社本庁よ、カルトと同席するなかれ」との見出しの項。p.278-。
 「私がうすうす感じていた私とは異質な世界に住む異質な人々を、詳しく丁寧に教えていただいて、ありがとうございました。
 世の中の大半の人は日本会議や国民文化研究会や日本政策センターのような保守系のカルト教団のことは名前も知りません。
 私もずっとそうでした。…」//
 「私は個人尊重の人間で、運動家にはなれません。
 宗教団体に近づいたこともありません。
 そんな私が一時期とはいえ教科書改善運動に関わったのは矛盾であり、失敗でもありました。」//
 「教科書に関わったために右のような保守系団体の関係者に次第に知己ができ、催しものにも参加したことがありますが、馴染めないのはなぜだろうかとずっと考えてきました。
 なにしろ関係する知識人、言論人には特殊な教条主義の匂いがあり、幹部やトップがずっと同一で交替しないのも異様さを感じさせます。…
 私は左の政治団体運動が嫌いだったわけですから、ほぼ同じ理由で、右の政治団体運動にも好意を抱くことはできません。」//
 「民主党が政権についた…。…日本会議はどうするのでしょう。
 ことに地方では他に頼るべき保守的組織がないので、日本会議に無考えで参集する人が多いようですが、日本会議は人を集めて号令を発することは好きでも、汗をかくことを好まないタイプの人が多いとよくいわれるのもむべなるかなと思います。
 私は平田さんの説明で正体がよくわかったので、残された人生の時間に彼らとはいっさい関わりを持たないでいきたいと思います。」//
 ——
 以上。

2460/西尾幹二批判039—「客観」と「主観」。

  西尾幹二について「真顔で論ずるのは、所詮、愚か者の所行」かもしれないが(批判038参照)、秋月瑛二には、西尾の著作と人間を真面目に論じる十分な理由がある。
 二項対立思考で単純に「反共産主義」=「保守」と理解したのは一般論として間違いではなかったかもしれないが、2007-8年頃に日本で「保守」を標榜していた雑誌や論者が上の意味での本当の「保守」だったかは極めて疑わしい。
 今日の<いわゆる保守>は日本共産党と180度の真反対に対峙しているのではなく、多分に共通性もあり、30〜20度しか開いていないのではないか旨を、すでに一年以上前に秋月はこの欄に書いた。
 保守派の中でもすぐにこの人物は信用できないと感じた者はいるが、西尾幹二は相対的にはまだマシな論者だと—じっくりと読むことなく—判断してしまっていた。2015年の安倍内閣戦後70年談話の歴史理解の基本的趣旨は村山談話と、翌2016年の安倍首相・岸田外相による日韓・慰安婦問題の「最終決着」文書の趣旨はいわゆる河野談話と、基本的には何ら変わりがないことを、櫻井よしこや渡部昇一らと違って、西尾は気づいていたと思われる。
 月刊正論(産経新聞社)のとくに桑原聡編集代表のもとでの異様さはかなり早くに気づいていたが、江崎道朗のヒドさを知って<いわゆる保守>そのものに疑問を持ち、ようやく決定的・最終的に西尾幹二から離反したのは、まさに2018年末の同全集17巻・歴史教科書問題(国書刊行会)を見てからだ。
 約10年間も、西尾の「レトリック」に惑わされ、じっくりと読解することなく、肯定的にこの人物を評価していたことを、極めて強く、恥じている。
 何と馬鹿な判断をしてしまったことか。痛恨の思いだ。
 すでにある程度は書いたし、これからも書くが(999回まで番号がある)、個々の文章の紹介や分析等を通じて、この人の「本性」・「本質」を指摘して、秋月瑛二自身の自己批判の文章としなければならない。
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  前回の批判038の最後に、個人全集第17巻には「自分史の一種の『捏造』、『改竄』が見られる」と書いた。
 具体的にその点に言及する前に、「自分史」という言葉にも含まれている「歴史」というものの捉え方自体にも、西尾には独特なところがある。
 別に論及するが、近年の単著の冒頭で、歴史は「文献」から明らかになる旨を書いて、遺跡や埋蔵物等々の「物」自体も史料になり得ることを完全に無視している。ニーチェ的「古典文献学」によると、「文献」だけが歴史叙述の素材なのだろうか。
 小林秀雄の『本居宣長』や『古事記伝』を読んで本居宣長を理解したつもりになったり、本居の「古事記伝」を読んで古事記を読んだつもりになった人がいるかもしれないが、西尾幹二もその手の一人ではないだろうか。
 こんなことを書くのも、西尾幹二・国民の歴史(原書1999)の最初の方で日本の「神話」に言及していながら、古事記や日本書紀という言葉は出てこず、この人はこの両書をきちんと読まないままで、日本の「神話」と中国の「歴史」書の同等性等を抽象的に論述するという大胆不敵なことをしている、と考えられるからだ。
 また、上の全集第17巻(2018)の「後記」の最後の方に、つぎの部分がある。
 この巻に収載した三つの文章には「ごく初歩的な歴史哲学上の概念が提示」されていると自ら書いたあと、こう続ける。
 「歴史は果たして客観たり得るのか、主観の反映であらざるを得ないのか」。
 80歳を過ぎて、このような「ごく初歩的な」問いを発していること自体に、また何やら深遠な「歴史哲学上の」?問題を提示しているつもりであるようなことにも、西尾幹二という人物の決定的な「幼稚さ」が表れている。
 何冊もの歴史叙述書を書いてきた研究者が、絶えずこのような問題に直面しつつ、苦悩しつつ執筆しているだろうことは、容易に推察できる。
 外国のものだが、R・Pipes のロシアに関する歴史書や、L・Kolakowski の「思想史」の書物でも、それを感じることがある。
 では、西尾幹二は、第一次的な史料・資料を用いた歴史書をいったい何冊書いてきたのか。歴史叙述書自体の執筆をしたことがないのだから(同・国民の歴史は歴史散文または歴史随筆、よくて歴史評論だ)、第一次史資料を豊富に用いた歴史書を一冊でも書いているはずがない。
 にもかかわらず、西尾幹二は何故、上のような「大口を叩ける」のだろうか。不思議でしようがない。
 ————
  秋月瑛二が15-16歳のころ、つぎのような問題を友人の一人に語ったことがある。
 上にある青空はそれを見て、意識して初めて「ある」=「存在している」ことになるのであって、それなくして「ある」=「存在している」とは言えないのではないか?
 とりあえず「青空」には拘泥しないことにしよう。
 素朴に、または単純幼稚に問うていたのは、今または後年になって振り返ると、「存在」するから「意識」するのか、「意識」して初めて「存在」するのか、という問題だ。
 別の概念を使うと、「客体」が先か「主体」が先か、という問題だ。
 あるいは「客観的事実」と「主観的意識」の関係の問題だ。
 「歴史」とは「過去」に関する一定の態様・様相だ、と差し当たり言っておくことにしよう。
 西尾幹二が上で何やら深遠な問いであるかのごとく「大口を叩いて」いるのは、「過去」の様相・態様は「客観的」な事実として認識・理解(これら二語の意味も問題にはなる)できるのか、それとも「主観」の反映にすぎないのか、だ。要するに、結局は、「存在」と「意識」の関係、「客体」と「主体」の関係の問題がある、というだけのことだ。
 これを人類または人間は古くから思考し、または「哲学し」てきたのであり、単純素朴には、15-16歳の秋月瑛二ですら抱いた疑問・問題だったのだ。
 それを、80歳を超えた西尾幹二が未だ設定されていない問題であるかのごとく、少なくとも西尾には未だ不分明の「歴史哲学」!!上の問題として、書いている。
 さすがに、歴史書を執筆したことがない、「哲学」書をろくに読まないで「物書き」になってしまった人物だけのことはある。
 ————
  最近に試訳したフランスの歴史学者のF・フュレの文章(英訳書)に、唐突につぎが出てきた。
 <ニーチェにあるのは、事実ではなく、解釈だけだ。
 三島憲一は下掲書のニーチェ部分を担当し、小見出しの一つに「『解釈』だけが存在する」と掲げ、最小限の一部だけ再引用すると、ニーチェはこう書いた、とする。141頁。
 「…実証主義に対してわたしは言いたい。違う、まさにこの事実なるものこそ存在しないのであり、存在するのは解釈だけなのだ。」。
 今村仁司.三島ほか・現代思想の冒険者たち—00現代思想の源流/マルクス.ニーチェ.フロイト.フッサール(講談社、新装版2003)
 この言明はもちろん、「客観的事実」と「主観的解釈」の問題にかかわる。
 西尾幹二は、このようなニーチェの考えの影響を、今でもかなり受けたままではないだろうか。
 ついでに、つぎのことも書いておこう。
 西尾幹二はナショナリストであり、「日本」主義者だ、と書いて、おそらく本人も異議を唱えないだろう。
 しかして、ニーチェは(19世紀後半の)ドイツの、少し広くして西欧の、もっと広く言えば欧米の「思想家」(とされる人物)だ
 そのようなニーチェについて、日本ナショナリストの西尾幹二は、いったいどういう精神・神経でもって、2020年に、堂々とつぎのように書けるのか。
 恥ずかしくないのだろうか。矛盾をいっさい感じないのだろうか。
 2020年刊行、『歴史の真贋』あとがき(新潮社)。
 私は「ニーチェの影響を受けた」。
 「ニーチェが私の中で特別な位置を占めていることは、否定できない」。
 ———
 追記/ なお、根本的には、客観的「存在」が先にあり、それを人間は諸器官を通じて「意識」する、と現在の秋月は考える。意識、認識する「主体」が消滅しても、過去の事実も含めて、「存在」は消滅しない。かかる<素朴実在論>?で、少なくとも一般的な平凡人には何ら差し支えないだろう。
 かつての同じ15-16歳の時代を思い出すと、じっと自分の左の手のひらを見ながら、この手、この掌は「自己」の一部なのか、と思い巡らしたことがあった。「自己」、「自我」はこの手、この掌にはない、と感じていたからだ。また、世界をこう三分していた。①自分の自己、②他人の自己、③これら以外の外界。
 <私小説的自我>でもって生きてきたらしい西尾幹二は、80歳を過ぎた現在、こうしたことを、どう考えているだろうか。
 ——

2289/西尾幹二批判013。

 前回に取り上げた遠藤浩一を聞き手とする西尾幹二の発言をあらためて読んでいると、面白い(=興味深い)箇所がある。
 月刊WiLL2011年12月号(ワック)、p.247。
 西尾幹二の他の人物論評の仕方として、別の点も、とり上げてみよう。
  西尾は上で言う。大江健三郎の「文学の根源的なところ」には「私小説的自我の幻想肥大かある」、と33歳のときに書いた、と。
 興味深いのは、つぎだ。
 「幻想的な自我は石原慎太郎氏も同じ」と書いた。
 石原慎太郎はどちらかと言うと<保守>派とされるが、こういう批判・揶揄?は、西尾幹二において<保守>派に対しても向けられていたわけだ。
 ついでの記載ということになるが、「幻想的な自我」をもつという石原慎太郎は、西尾幹二よりもはるかに、注目されるべきで、将来もまた注目されつづけるだろう、と秋月瑛二は評価している。
 石原慎太郎=曽野綾子・死という最後の未来(幻冬社、2020)。
 昨年秋には、この欄で言及していないが、上の曽野綾子との対談書を購入して読んだ。
 石原慎太郎(1932〜)。国会議員、複数の大臣、東京都知事、政党(日本維新の会)代表。
 これだけで西尾幹二とは全く異なる。政治的・社会的「実践」の質・程度は、<つくる会>会長程度の西尾の比ではない。
 さらに加えて、作家・小説家、芥川賞受賞者。これまた、西尾幹二が及びもつかない分野だ。
 さらに、量・数だけではあるいは西尾の方が多いかもしれないが、石原慎太郎には、政治・社会評論もある(全7巻の全集もある)。
 加えて、<宗教>への傾斜を隠しておらず、<法華経>に関する書物まである。読んでいるが、いちいち記さない。
 異なるのは、出身大学・学部のほか、石原慎太郎には、産経新聞・月刊正論グループへの「擦り寄り」など全くない、ということだろう。
 アメリカで西尾は無名だが、石原慎太郎はある程度は知られているだろう。かりに同じ反米自立派だとしても、西尾とは比較にならない。
 石原慎太郎は、全ての広い活動分野について、<左派>側からも含めて、その人物が総合的に研究・論評されるべきだろう。
 ところで、「私小説的自我の幻想肥大」は、西尾幹二に(も?)見られはしないか? 既に見たように、2011年に西尾自ら「私小説的自我のあり方で生きてきた」と明言し、遠藤浩一は「私小説的な自我の表現こそ、西尾幹二という表現者の本質ではないか」、と語ったのだ。
  出典をいちいち探さないので正確な引用はできないが、西尾幹二は、古い順に、明らかに以下の旨を書いた。記憶に間違いはない。
 ①<(この時代は)左翼でないと知識人にはなれなかった、と言われますが、…>。
 ②<保守派のN氏(原文ママ—秋月)は、左翼でないと知識人とは言われなかったのです、と言っていた(言っていましたが、…)。>
 ③<西部邁氏は、左翼でないと知識人とは見なされなかったのです、と言ったことがある
 ③は西部邁の死後に追想を求められて、発言(執筆)したもの。 
 「左翼でないと知識人にはなれなかった」とは西部邁が大学入学直後に日本共産党(当時)に入党し、<左翼>全学連活動家となったことについて西部自身が言っていたことのようだが、西尾幹二に個人的・私的に言ったかどうかは別として(その点も気にはなるが)、のちに<保守>派に転じた?西部邁にとって、少なくともどちらかと言えば、触れられたくはない点だったように推察される。
 そして、彼の生前にはせいぜい「N氏」でとどめていたのを、西尾はその死後に、この発言主の名を明瞭にした、暴露したわけだ。
 これはいったい、西尾の、どのような<心境>・<心もち>のゆえにだろうか。
 西尾は、西部邁、渡部昇三らに対するライバル心を、<左派>論者に対する以上に持っていた、と推測できる。端的に言って、<同じような読者市場>の競争相手になったからだ。そして、その<ライバル心>を、ときに明らかにしているのだ。
 なお、櫻井よしこに対してすら、その<ライバル心>を示していることがある。櫻井よしこ批判には的確なところがあることも否定はできないけれども。
  2019年6月〜7月にこの欄で「西尾幹二著2007年著—『つくる会』問題」と題して何回か「西尾幹二著2007年著」=『国家と謝罪』(徳間書店、2007年)の一部を紹介したのは、明記しなかったが、つぎの理由があつた。
 それはすでに刊行されていた『西尾幹二全集17・歴史教科書問題』(2018年)が、西尾が「つくる会」結成後の会長時代の文章に限って収載していることを奇妙に(批判的に)感じたからで、実質的な分裂やその理由・背景に関するこの人の文章を、とくに『国家と謝罪』の中にまとめられている文章の一部を、この欄に掲載して残しておこうと感じたからだ。
 <個人>全集であるにもかかわらず、設立前から「会長」時代のものに限る、という、西尾個人の<個人編集>の奇妙奇天烈さには、つまり『国家と謝罪』等に収録したものは無視し、実質的分裂の背景・原因にかかる歴史的記録にとなり得るものは除外する、という<個人編集>方針に見られる異常さには、別にまとめて触れなければならない。
 <つくる会>運動については、きちんとした総括が必要であって、西尾は立派なことだけをしました、という『全集』編集方針は、「歴史」関係者の(そのつもりならば)姿勢としても、間違っているだろう。現在の<運動>関係者(とくに実務補助者の方)は気の毒に思っているが、割愛する。
 上のことはともあれ、今回指摘しておきたいのは、八木秀次に対する批判の「仕方」だ。八木秀次の側に立つわけでも、彼を擁護したいわけでもない。
 西尾は、No.1994で引用・紹介のとおり、こう八木を批判する。 
 ①「現代は礼節ある紳士面の悖徳漢が罷り通る時代」だ。「高学歴でもあり、専門職において能力もある人々が」社会的善悪の「区別の基本」を知らない。「自分が自分でなくなるようなことをして、…その自覚がまるでない性格障害者がむしろ増えている」。「直観が言葉に乖離している」。「体験と表現が剥離している」。「直観、ものを正しく見ることと無関係に、言葉だけが勝手にふくれ上って増殖している」。「私が性格障害者と呼ぶのはこうした言葉に支配されて、言葉は達者だが、言葉を失っている人々」だ。
 ・「私は八木秀次氏にも一つの典型を見る」。
 この①は、「性格障害者」という言葉と<レッテル貼り>がひどいが、まだマシかもしれない。では、つぎはどうか。
 ②「他人に対しまだ平生の挨拶がきちんと出来ない幼さ、カッコ良がっているだけで真の意味の『言論力の不在』、表現力は一見してあるように見えるが、心眼が欠けている。
 言葉の向こうから語り掛けてくるもの、言葉を超えて、そこにいる人間がしかと何かを伝えている確かな存在感、この人にはそれがまるでない。
 ・「そういう人だから簡単に怪文書、怪メールに手を出す」。
 以上の②のような人物批判「方法」は、特定の人物についての本質分析論かつ本質還元論と言ってもよいもので、<本質的に〜だ>、そして<本質的に〜の人間だから、〜という過ちをおかしている>という批判の「論法」・「方法」だ。
 これではいけないし、八木秀次は、のちの人生を通じて、西尾と「和解」する気には決してならなかっただろう。
 今回に書いたのは、西尾幹二という人間の「本質」、「個性」、「人柄」に垣間見える<異常さ>・<歪み>と言ってもよいものだ。
 そうだから、という論証の仕方を、あるいは<人間本質分析論>かつ<本質還元論>的叙述を一般的にする気はない。但し、一回だけ参考材料とてして紹介しておくことにした。
 ——
 追記しておくと、<右翼的・保守的>だから「敵」(味方)だ、逆に<左派的・リベラル的>だから「敵」(味方)だ、というのは、上に記したよりもはるかに単純または純粋に、徹底して、<本質>あるいは基本的立場(・立ち位置)を理由として(それを見究めたつもりになって)、脊髄反射的に、論評・評価(敵か味方か)・結論を決めてしまうようなもので、アホらしいことだ。
 このような発想・推論しかできない人々が、なぜある程度は生じるのか?
 それは、<自分で考えて立ち入って判断するのは面倒くさい>、<簡単に回答を得たい>、<楽をしたい>という、「脳細胞の劣化」・「自分の脳に負担をかけたくない」という、それなりに合理的な?理由があるものと思われる。
 人間には、少なくともある程度の範囲の人々にとっては、問題・論点にもよるが、<簡単なほどよい>、<少しでも自分自身の判断過程を省略したい>という「本能」が備わっている。

2280/西尾幹二批判010・『国民の歴史』②。

  前回(批判009)の補足。
 西尾が書いているとおり、『国民の歴史』の「14」は表題自体が「『世界史』はモンゴル帝国から始まった」となっていて、最初から19頁め(全集18巻版)に、こうある(p.289)。
 「以上、『モンゴルと中国の関係略史』(一)(二)は岡田英弘氏から直かにご教示いただいて記述したが、文責は私にある」。
 「文責」、つまり文章化・要約・作文は西尾にあるが、計5頁ほどの「内容」は岡田英弘に依っていることを認めている。長々とした一連の文章群の内容は西尾幹二自身によるものではない。
 二 『国民の歴史』の「6 神話と歴史」から、気になる点をさらにいくつか挙げておこう。まず、第一。
 その11「神話の認識は科学の認識とは逆である」p.128(全集版)にこうある。
 「すでに神を感じない社会」に生きる我々が「神々によって宇宙が支えられていると感じる古代社会の言葉と感性と同じはずはない」。
 何となく読み過ごしてしまいそうな文章だが、このような「古代」の人々の「感性」の理解・認識は適切なのだろうか。
 つまり、彼らはほんとうに「神々によって宇宙が支えられていると感じ」ていたのだろうか? 西尾の一見「深遠な」言明は、じつは「適当に」発せられていることが少なくないのではないか。
 古代の人々はどういう「感性」で生きたのだろうと想像することは、私には楽しい。しかし、「神々」の意識・感覚はかなり高度なもので、なかなか発生しないのではないか、と考える。
 生きていること、そのための呼吸と心臓の鼓動を意識し、死とそれが訪れるとやがて身体は腐敗していくことを知っていたに違いない(なお、もっとのちの日本の文献によく出てくる「もがり」は再生・蘇生しないことを確認するための儀式だったように思われる)。
 また毎日昇って消えていく太陽、およそ(今でいう)一月ごとに形の満ち欠けを変えながら「この地」を回っている月、日の出・日の入りの太陽の位置が寒暖の季節ごとに異なりおよそ(今でいう)一年ごとに同じになることを、早くから知っていただろう。
 さらに、むろん、生きていくために「水」・「食料」が必要であることも。「空気」(中の酸素)はひょっとすれば所与のものとして意識しなかったかもしれないが、海中や高山では生き難いことは知っていたはずだ。
 これはヒト・人間をとり巻く「自然」にかかわることであって、いつの時点から「神」なるものを意識したのかは、よく分からないことだ。
 だが少なくともヒト・人間は、縄文時代の人々も、「神々によって宇宙が支えられていると感じ」てはいなかっただろう。「宇宙」=地球全体の感覚はまだないはずだ。「宇宙」=「自然」という意味では「宇宙」を感じていただろうとしても。
 繰り返すが、「神」という意識・感覚の発生はかなり高度の精神作用を必要とするのであって、古代の人々が何となく自然に身につけるようなものではないのではないか。むろん、「必然」ないし「規則・法則」的なことと「偶然」・「事故」的なことの区別くらいのことは当然に意識し、知っていただろうが。
 第二。西尾はもっぱら「言葉」と「文字」の関係一般に着目して、日本文明(縄文原語)と中国文明(漢字)を記述しているように見えるが、私の関心は他にもある。
 日本書記における「年」の表記の仕方には十干十二支を利用したもの、「天皇」の在位年数を利用したもの、年号(大化等)を利用したものの三種あるとされる。最初の<十干十二支>は、令和日本の現在でもなお用いられることがあるが、どのようにして、いつ頃から、日本列島の人々は利用し始めたのだろう。中国からの「輸入」以後でないとすると、それまではいったいどのようにして「年数」を数え、記憶・記録していたのだろうか。
 西尾の著書には、これに関する叙述はないのではないか。のちのちの、<陰陽五行説>についても。これらは、「仏教」・仏教典の一部にあるのではないはずだ 。
 より重要な第三は、以下。
 既述のとおり、「6」章の節名を利用すれば、この章での西尾幹二の出張したいことの重要な一つは、章名とともに以下にあると理解しても決して誤りではない。 
 ・「歴史と神話の等価値」。・「すべての歴史は神話である」
 しかし、この書物(全集版)が刊行された2017年とまさに同じ年に、西尾幹二は、つぎのように明言している。そして、翌年2018年刊行の全集の別の巻(17巻)に収載している。一文ずつ改行する。
 「歴史の根っこをつかまえるのだとして、いきなり『古事記』に立ち還り、その精神を強調する方が最近は目立ちますが、…そのまま信じられるでしょうか。
 神話と歴史は別であります。
 神話は解釈を拒む世界です。
 歴史は諸事実のなかからの選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由をどうしても避けられませんが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。
 神話は不可知な根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません
」。
 西尾幹二全集第17巻・歴史教科書問題(国書刊行会、2018年)p.715、「『新しい歴史教科書をつくる会』創立20周年記念集会(2017年1月29日)での挨拶文」の一部(原出、月刊正論2017年4月号)。
 西尾幹二に真面目に訊ねたいものだ。『国民と歴史』のうちの6章「神話と歴史」に関する叙述と上の「挨拶文」の内容は、矛盾しているのではないか。少なくとも、どういう関係に立っているのか。
 つづけて、第四
 西尾幹二のために、「助け船」を出すことはできる。すなわち、歴史と神話の関係・異同に関する言明は真反対のように見えてもいわば<レトリック>であって、主眼はそれぞれの「解釈」の方法の違いの指摘にあるのだ、と。
 たしかに『国民の歴史』には、こういう文章もある。18巻、p.129。
 「神話を知ることは対象認識ではない。どこまでも科学とは逆の認識の仕方であらねばならぬ」。
 「認識とは、この場合、自分が神の世界と一体となる絶え間ない研鑽にほぼ近い。」
 後者の「自分が神の世界と一体となる」は、前者の「神話」を前にしては<解釈の自由はない>という指摘と似ているとは言える。
 しかし、前者は(西尾によくあることだが)突然に「科学」という言葉・概念を持ち出し、「歴史」=「科学」(の一部)という前提に立っているようだが、「歴史」、「科学」等の概念の丁寧な説明はない。そして「逆の認識の仕方」とだけ述べて、<解釈・選択の自由がある>という旨を明確に語ってもいない。
 少なくとも、同じ2017年の発言と刊行書の内容の間の齟齬・矛盾を指摘しても、何ら厳しすぎることはないだろう。
 なお、<「神話」は解釈を許さない>という言明がなぜ、どのように根拠づけらるのか?
 これは、バカバカしいので、省略する。「神々」の時代も含めて、それ以降についても、日本書記、古事記の種々の「解釈」がなされており、議論があることは、高校生でも知っていることだろう。西尾幹二の「解釈」にはこの人に独自の(ほとんど誰も理解できない我流の)意味があるのだろうか。
 第五。そもそも、日本書記、古事記は、全体として「神話」なのか。
 西尾幹二は上の二つとも「神話」だという前提に立って、中国の「歴史」書との「等価値」性を指摘し、後者も広義では「神話」だとする。
 しかし、そもそも論として、日本書記、古事記のいずれも、全体として「神話」だ、という認識は決定的に誤っているだろう。
 よく知られるように、日本書記は計30巻から成るが、そのうち巻第一は「神代上」、巻第二は「神代下」とされ、巻第三以降・巻三十までが「天皇」を中心とする叙述になっている(神武〜持統)。   
 今日の目で見て、「史実」とは感じられないような叙述があるのだとしても、作者・編纂者は、巻第三以下は真面目に?日本国家の「歴史」書だとして記述したと考えられる。そして、彼らが「神」の時代の「話」=「神話」だと明瞭に意識して記述したのは、巻第一・第二の「神代」だけだ。
 これに関連して、日本書記の今日の「解説」者は、こう記す。
 「巻三以下巻三十まで、すべて天皇名で標題とすることは、明らかに中国史書の『帝紀』に相当するわけで、『日本書記』という書名は『日本書の帝紀』の意であることも首肯できる」。「ただ異なるのは、巻一・二が『神代』となっている点である。中国の史書は『神代』を語ることはないからである」。
 この文は巻第三以下を「人皇代」と称してもいる。
 日本書記・上(小学館日本古典文学全集、1994)「解説」の西宮一民担当部分
 一方、古事記は上つ巻・中つ巻・下つ巻の三部に分かれるが、中つ巻が神武〜応神、下つ巻が仁徳〜推古の各天皇の時代を叙述しており、上つ巻が日本書記の用語では「神代」に当たる。
 こう区別されているところを見ると、また内容から見ても、上つ巻だけは「神たちの時代」と意識されているとしても、それ以下は、作成者の「主観」においては古代の日本「歴史」だった可能性が高いものと思われる。
 このような日本書記、古事記を、例えば仁徳天皇以下も含めて、西尾幹二はすべて「神話」だ、ということから出発しているわけだ。
 全てが「史実」を記述しているとは秋月も考えないが(なお、安本美典は熱心な応神天皇実在論者だ)、「史実」であって、またはそれをかなり反映していて、決して簡単に「神話」だと認定できない部分をいずれも含んでいる、と考えられる。これは、常識ではないか。
 しかるに、西尾幹二は最初からこれらが「神話」だとしている。それから出発している。
 日本書記も古事記も実際には、全くまたはほとんど「読んだことがない」西尾の面目躍如というところだろう。
 西尾幹二はこれらの「歴史」書性をできるだけ否定しようとしする戦後「進歩的」歴史学に、最初から屈服している、とも言える。
  ついでに、ということになるが、上に二の第三で引用した2017年の「挨拶文」の一部は、一部を除き(古事記うんぬんの部分)全く同文で、対談中の発言であるはずの以下でも用いられている。
 実際の対談後の「原稿化」の過程で追加されたように思われる。
 西尾幹二は、一つながりの文章群を<使い回し>ているのだ。一粒で二度おいしい。<古事記>への言及は欠落しており、元来は別の論脈の中での文章だ。
 「神話は歴史と異なります。
 「歴史は…、諸事実の中から事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてはわれわれはそういう自由はありません。
 神話は不可知の根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません
」。 
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」月刊WiLL2019年4月号(ワック)
 西尾幹二という人物は、こういう<文章の使い回し>を(こっそりと)平気で行う人物だ、と知らなければならない。言いたいことがたまたま?同じだから、という釈明は成立しない。

2256/池田信夫ブログ018・西尾幹二批判005。

 
 池田信夫ブログ2020年7月14日付は同20日予定の「ブログマガジン」の一部のようなので、全文を読んでいるわけではないが、すでに興味深い。
 タイトルは「『皇国史観』という近代的フィクション」
 ときに、またはしばしば見られるように、紹介・論及する書物に書いてあることの紹介・要約なのか池田信夫自身の言葉・文章なのか判然としないが、片山杜秀・皇国史観(文春新書、2020年4月)を取り上げて、池田はまずこう書く。そのままの引用でよいのだが、多少は頭の作業をしたことを示すために箇条書きするとこうだ。
 ①「万世一系の天皇という概念」ができたのは明治時代だ。
 ②「天皇」は「古代から日本の中心だったという歴史観」は徳川光圀・大日本史に始まるが、一般化はしていなかった。
 ③その概念・歴史観を「尊王攘夷思想」にしたのは「19世紀の藤田東湖や相沢正志斎などの後期水戸学」だ。
 ④明治維新の理念はこの「尊王攘夷」だったという「話」は「明治政府が後から」つくったもので、「当時の尊王攘夷は水戸のローカルな思想」だった。
 ⑤この思想を信じた「水戸藩の武士は天狗党の乱で全滅」、長州にこれを輸入した「吉田松陰も処刑」。そのため、戊辰戦争の頃は「コアな尊王攘夷派はほとんど残っていなかった」。
 ⑥「水戸学」=尊王攘夷思想の最大の影響は、徳川慶喜(水戸藩出身)による「大政奉還」というかたちの「政権」投げ出しだったかもしれない。
 ⑦これは「幕府の延命」を図るものだったが、「薩長は幕府と徹底抗戦した」。
 以下、省略。
 こう簡単にまとめて叙述するのにも、幕末・明治期以降の「神・仏」・宗教・「国家神道」や戦後の神道の「宗教」化あたりの叙述と同様に、かなりの知識・素養・総合的把握が必要だ。
 片山なのか、池田信夫なのか、相当に要領よくまとめている。
 仔細に立ち入らないが、上のような叙述内容に、秋月瑛二も基本的に異論はない。
 少し脱線しつつ付言すると、①水戸藩スペア説・水戸出身の慶喜が一橋家養子となっていたため「最後の」将軍になった、という偶然?
 ②「大政奉還」は全面的権力放棄ではなく(1967年末には明治新政府の方向は未確定で)、とくに「薩長」が徳川家との全面対決と徳川権力の廃絶を意図して「内戦」に持ち込み、勝利してようやく<五箇条の御誓文>となった(ついでに、この第一項は決して今日の言葉での「民主主義」ではない)。
 ③尊王攘夷の「攘夷」は<臆面>もなく廃棄されたが、それは「長州ファイブ」でも明らか。-上に「コアな尊王攘夷派ほとんど残っていなかった」とあるのは、たぶん適切。
 
 明治維新を含んでの、上のような辺りに関する西尾幹二の<歴史観>を総括し分析するのは容易ではない。これは、日本の歴史・「天皇」についての理解の仕方全体にも当然にかかわる(容易ではない原因の一つは、同じ見解が継続しているとは限らないことだ)。
 だが、西尾幹二にも、明治期以降に「作成」された、あるいは本居宣長等以降に「再解釈」された「歴史観」・「天皇観」が強く反映されていることは明瞭だと思われる。
 <いわゆる保守派>によくある、明治期以降の「伝統」が古くからの日本の「伝統」だと思い込んでしまう(勘違いしてしまう)という弊害だ。
 西尾幹二自身も認めるだろうように、「歴史」の<認識>は少なくともある程度は、<時代の解釈>による。明治期あるいは大日本帝国憲法下の「歴史観」(=簡単には「皇国史観」)という一つの「解釈」に、西尾幹二も依拠しているものと思われる。
 この点は、いくつかの西尾の書物によって確認・分析するだろう。
 上のブログ叙述との関係でいうと、池田信夫が、①藤田東湖ら「後期水戸学」の尊王攘夷思想は「ローカルな」ものだったが、②明治政権が明治維新の理念に関する作り「話」として「後から」作った、③但し、真底から?これを実践したわけではない、と述べている部分は(最後の③は秋月が創作した)、西尾幹二とかなり関係している。
 「自由」を肯定的意味でも用いることのある西尾幹二によると、藤田東湖の父親の藤田幽谷は、こう叙述される。あくまで、例。
 ①藤田幽谷が幕府と戦ったのは「あの時代にして最大級の『自由』の発現でした」。
 ②「徳川幕藩体制を突き破る一声を放った若き藤田幽谷…」。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)、p.205、p.379。前者に先立つp.181~に「後期水戸学」に関するかなり長い叙述がある。
 また、つぎの著は本格的に?、藤田父子を挟んで、水戸光圀から天狗党の乱までを叙述している。
 西尾幹二・GHQ焚書図書開封11-維新の源流としての水戸学(徳間書店、2015)
 このように西尾は藤田幽谷・東湖を高く評価している。但し、つぎの書には「水戸学」関係の叙述は全くないようなので、西尾が藤田幽谷・東湖らに関心を持ったのは、どうも2000年-2010年より以降のことのように推察される。
 西尾幹二・決定版/国民の歴史-上・下(文春文庫、2009/原著1999)。
 (ところで、西尾幹二全集第18巻/国民の歴史(国書刊行会、2017)p.765によると、「新稿加筆」を行い、上の「決定版」の三文字は外した、という。西尾『国民の歴史』には、1999年・2009年・2017年の三種類がある、というわけだ。「最新」のものだけを分析・論評の対象にせよ、ということであるなら、まともな検討の対象にはし難い。<それは昔書いたことで、今は違う>という反論・釈明が成り立つなら、いったん活字にしたことの意味はいったいどこにあるのか?)。
 さて、西尾幹二によるとくに「後期水戸学」の評価にかかわって、つぎの疑問が生じる。
 第一。西尾幹二は別途、「豊穣な」江戸時代、「すでに近代だった」江戸時代という像も提示していると思われる。
 西尾幹二・江戸のダイナミズム(文藝春秋、2007)。/全集第20巻(2017)。
 この書は本居宣長をかなり扱っている。しかし、珍しく「索引」があるものの、「水戸学」も「藤田幽谷」・「藤田東湖」も出ていない
 それはともかく、江戸幕藩体制を「突き破る」精神・理念を提供したという後期水戸学・藤田父子への高い評価と、上の書の江戸時代の肯定的評価は、どのように整合的・統一的に把握し得るのだろうか? 必ずしも容易ではないように思えるのだが。
 第二。池田信夫ブログにあるように、「尊王攘夷」思想が現実化された時期があったとしても、ごく短い時代に限られる。
 したがって、藤田幽谷ら→明治期全体、という捉え方をすることは全くできない。ましてや、藤田幽谷ら後期水戸学→「近代日本」という(少なくとも直接の)連結関係もない。
 余計ながら、明治時代こそ、現在の西尾幹二等々が忌み嫌う「グローバリズム」へと突き進んだ(またはそうせざるを得なかった)時代だった。「鹿鳴館外交」とはいったい何だったのか。
 したがって、今日において藤田幽谷らを「称揚」することの意味・意義が問われなければならない、と考えられる。西尾において、この点はいかほどに意識的・自覚的になされているのだろうか。
 そんなことはどうでもよい、と反応されるのかもしれない。とすれば、いかにも「西尾幹二的」だ。

1431/西尾幹二全集第16巻(国書刊行会、2016)。

 一 西尾幹二全集のうちの一つの巻を購入・入手しての愉しみは、明らかに未読のものや著者の後記、そして月報を読むことだ。
 その中に、西尾幹二は文学部出身にしては「社会科学的」だ、とか言われたことがある、というような趣旨のものがあった。最新刊行のものの中ではないので少し刊行順に遡って捲ってみたが、その趣旨の記述を再 ?発見できなかった。
 西尾は別に、文学部出身者が日本の<保守>論壇の多数または有力派を形成してきたとか語って、そのことを誇りにしているかのごときことも書いていた(と思う)。
 小林秀雄、福田恆存、江藤淳…と並べると、そうかもしれない。ここで並べるのはイヤだが、渡部昇一もそうらしい。
 だが、文芸(文学)評論家的<保守>論者は日本の<保守>派のしっかりとした形成にとっては悪影響をもたらした、少なくとも日本に独特の議論の仕方を生じさせた、と感じているので、上の趣旨の文章には違和感をもった。
 但し、西尾幹二自身は、<文芸(文学)評論家的保守>ではない。
 「評論家」では小さすぎるし、「思想家」というのも必ずしも妥当ではないだろう。
 というのは、教育政策、労働(移民)政策等々への発言も目立っているし、「新しい歴史教科書をつくる会」の初代会長という<実践家>でもあったからだ。
 「歴史家」と言ってしまうのも、その対象は日本に限らず世界に広がっているが、狭くとらえすぎるだろう。
 佐伯啓思、西部邁らの「思想家」タイプと比べても、西尾幹二の大きさ・広さは歴然としている。櫻井よしこ、八木秀次ら、そして渡部昇一とはまったく比べものにならない。
こんなことから<人文系と社会系>の差違について述べたかったし、また、西尾幹二のような論者と「専門家」という者の違いについても思い巡らしたかったのだが、別に扱おう。
 なお、追記するが、上のように記したからといって、秋月は西尾幹二の全ての主張・認識等に100%賛同しているわけではなく、100%「信頼して」いるわけでもない(そんな人物は一人もいない)。かつての皇太子妃関連の主張には異を唱えたこともある。原発に関する考え方もたぶん同じではない(秋月瑛二はすべての人物や組織から「自由」だ。それは、いかなる人物・団体の<支援>もなく「孤独」であることも意味している)。
 二 西尾幹二全集第16巻(2016、12)の「後記」を少し捲ったあと最初に読んだのは、「嗚呼、なぜ君は早く逝ったのか」と題する坂本多加雄の逝去・葬儀に関するものだった。「インターネット日録」掲載のもののようだが、知らなかった。
 坂本死去の2002年の頃の論壇等々の雰囲気を知って、テーマからするとやや非礼かもしれないが、興味深い。
 秋月もまた、坂本多加雄の少なくとも単行本化されている書物は、かなり高価だった中古本の<象徴天皇制度と日本の来歴(1995)> も含めて、ほとんどを所持し、一読はしているのだ。
 興味深い、というのは、けっこう著名な人物名が出てくるからでもある。
 伊藤哲夫、高森明勅、中川昭一、粕谷一希、北岡伸一、杉原啓志、ら。
 また、この当時の<保守>的活動の内容の一端をかなり生々しく知ることができるからでもある。
 坂本多加雄、52歳。この人の<反マルクス主義>の歴史観および歴史叙述観は、ひょっとすればこの欄に紹介したかもしれない。そして、西尾幹二の文章とともに、人の死ということをあらためて考える。
 のちに、遠藤浩一も亡くなった。いずれも、交際相手として選ばれるはずもない凡人の私の、個人的な知り合いでは全くなかつたのだが。
 この人たちが存命であれば、<保守>論壇の現状は、少しは良くなっていたような気がする。しかし、そう想ってみても、現実を変えることはできない。
 そのつぎにおそらく「後記」を読み直した。主として<路の会>のことだ。
 また、「月報」が挿入されていることに気づいて読んだ。書き手の名もその内容も興味深く、思わず集中してしまった。
 これらの感想、種々思うことは、この回には書けそうもない。

1430/西尾幹二全集第15巻(国書刊行会、2016)。

 西尾幹二全集第15巻(2016)の内容のほとんどは「わたしの昭和史」で(全集では「少年記」)、二冊の新潮選書(1998)で読んだことがある。
 いつか忘れたが読んだあとは、こんな記憶力とそれを呼び覚ます資料は自分にはない、したがって自分には書けない、という思いと同時に、1935年生まれの、私のいう<特殊な世代>、あるいは国民学校・小国民世代の人物が、よくぞ「左翼(的)」にならなかったものだ、という感想が生じた。
 もしあらためて読めば何かのヒントがあったのかもしれず、著者がこの問題に触れているのかもしれないが、読み返す余裕はたぶんない。
 1960年の時点、著者がちょうど25歳の頃に「左翼」でなかったことは上記単行本のp.505でも記述されている。
 すなわち、同年に樺美智子が死亡したのちの東京大学での演説会で日本社会党国会議員が「虐殺」うんぬんを述べていたとき、「私〔西尾幹二〕があれは虐殺ではない、圧死だと口走った」とある。
 このあと「口走ったとたん、巨漢の柏原〔柏原兵三、のち芥川賞作家-秋月〕の大きな掌が私の口をふさいだ」、彼は「私が殺されるのを恐れたからだった」、と続いて、生々しい。
 ともあれ、「虐殺抗議」のプラカートを先頭に掲げたデモの写真を見たこともあり、当時の各大学での(樺美智子もその一員だったが)「左翼」的雰囲気を想像することもできる。だが、西尾は明らかに「左翼」ではなかったようだ(なお、同じ文学部の同期入学生に、大江健三郎がいたはずだ)。
 そして、それはなぜ ?、いかにして<保守>論客に ?という感想が生じるが、それは全集をよくよく読み込めば判るのかもしれない。
 ところで、上の柏原某も出てくる文章はこの全集版で初めて読んだのではない。だが、示されている月刊正論1995年2月号で読んだのでもないとも記憶していて、やや不思議だ。
 この上の文章は<少年記>とは別の「付録/もう一つの青春」の一部で、私は上の部分のみを憶えていたかに見えるが、今回に(といっても昨2016年の刊行直後に)読んで印象に残ったのは、一つに、大学院学生の西尾は、当然ではあるのだろうが、研究の対象等の自らの将来に思い悩んでいた、ということだ。
 「私は相変わらず何を書くべきなのか、あるいは何が書けるのかも分らず、学校と自宅の間を往復し、文学と思想の広大な海を漂流していた」。(余計だが、「美しい」文章だ。p.504)
 もう一つは、大学院に進学したのちの「指導教官」を、当時にすでに故人ではあるものの、氏名を明示して、「私はその思想、研究業績を軽蔑していた」と明記していることだ。この「指導教官」は「日本の典型的な『進歩派』文学者」だったらしい。
 それで西尾は「ニーチェを師として選んだ」ようだ。
 さて、個々の人間の人生にはいろいろな偶然的な出逢いがあるものだ。西尾幹二にとっても、若き学生時代のいくつかの偶然はのちのちの西尾幹二が生まれる原因の一つだったことには違いなく、「指定された」という「指導教官」もまた、その一つだっただろう。
 さらに発展させれば、西尾は拒否したようだが、「指導教官」が日本共産党の党員学者だったり、明確な親共産党の者だったりすれば(そんなことは大学院の学生レベルでは通常はあらかじめ判っているものではないだろう)、西尾のように実質的に離れれば別として、その「指導」を受ける学生は、どのような学者・研究者に育っていくのだろうか、と想像して、暗然とする。
 そういう特定の教師・学生の特殊な「身分関係」は-それは学生にとって「就職」という生活・生存にかかわる-、今日まで、容共・「左翼」的な人文社会系学者・研究者たち(大学教授たち)の誕生に、大きく寄与してきたのではないか、と推測される。
 -と、かなり西尾の全集それ自体からは離れたことまで書いてしまった。

1136/西尾幹二「私の保守主義観」と中島岳志。

 一 西尾幹二全集第3巻(国書刊行会、2012.07)所収の、「私の保守主義観」(p.45~、初出・1964)を読む。以下は、私なりの要約。
 ・「保守的な生き方というものはあっても、保守主義という特定の理論体系は存在しないし、また存在すべきではない」。
 ・「革新派」の「進歩主義」のごとき、特定の「主義」を、「保守派」は掲げるべきではない。ドグマを奉じた集団形成、イデオロギーによる現実裁断は「保守主義」と言えない。
 ・「未来への明確な見通し」により「世界や歴史を理路整然と説明」するのは「革新派の身上」で、「保守派は革新側に規定されてはじめて、自分が保守派であることを意識する」。
 ・E・バーク以来、「保守主義とはつねにそういうもの」で、彼はフランス革命に「急進的な自由主義の暴走」を見て批判・抵抗した。「革新思想」は「社会主義に衣装をかえていった」が、「保守主義」の本質的あり方に変化はなかった。「保守主義とは、一個の抽象的理論なのではなく、革新側が主張する特定のドグマや世界観に対し、そのつど具体的な状況に応じて提出される懐疑であり、批判であり、警告のことば」なのだ。
 ・「保守と革新」、「反動と進歩」という対立概念は「革新側」が過去の裁断のために作った標語で、「保守派」は関知しない。対立図式により規定するには現実は手に余るものであることを、「保守派」は知っている。
 ・「保守的な生き方・考え方とは、自己についても、世界についても、割り切れないものを割り切ろうとはしない態度、理論より理論の網目からもれたものを尊重する態度」、「楽観的な合理主義に虚偽をかぎつける本能」だ。
 ・「保守派」は「進歩を否定しているのではない」。ただ、「進歩」を最高の価値・究極の目的とする「観念的な未来崇拝」に与しないだけだ。
 ・「保守主義は進歩や改革を否定しているのでは決してない。むしろその逆である」。日本では、「もっとも自覚的であるべきはずの革新主義がもっとも無自覚な偶像崇拝のとりことなり、もっとも近代的であるべきはずの知識階級の意識が、実業の世界に生きる人々にくらべてはるかに遅れているのが現状」だ。
 ・「自由な、現実的な姿勢」で対処することが必要で、それを「保守的」と呼びたい者は呼ぶがよい。肝要なのは「呼称ではなく態度、理論ではなく理論をあつかう主体の姿勢」だ。
 以上、1960年安保騒擾時に見られたような「革新勢力」・知識人の「固定観念と集団陶酔」等への批判等は割愛したが、基本的な内容はこのようなものだ。
 私は「保守」について、思考方法ないし態度ではなく一定の「価値」の選択・選好だと書き、それは今日の日本では<反コミュニズム=反共>だ、という旨を記したことがある。
 かかる考え方は西尾幹二のそれとは異なるようでもある。しかし、西尾は「革新思想」は「急進的自由主義」から「社会主義に衣装をかえていった」という叙述もしているように、「革新派(左翼)」に規定されて意識される、<反革新(反左翼)>としての「保守派」の主張内容は、今日では(今日でも)基本的には<反社会主義=反共>だろう、と思われる。それは(反マルクス主義と当然に同義であるとともに)、反日本共産党でもあり、反中国・反北朝鮮でもある。あるいは、「革新派(左翼)」によって、歴史認識や政策を含む「そのつど具体的な状況に応じて提出される」種々の論点について、「自由な、現実的な姿勢」でもって対決、あるいは反論していくことでもある。
 したがって、西尾の考え方と私のそれが全く乖離している、矛盾しているとは、感じていない。
 二 ところで、中島岳志は某雑誌(表現者)上で「私の保守主義」なるものを語って、中島なりの「保守主義」理解を<理論的・体系的に>提示しようとしているようだ。また、中島岳志は、橋下徹を「保守」ではないと断じるとともに、「保守主義」の立場から演繹した<反原発>の主張も(同じ雑誌上で)しているように理解できる。
 中島岳志は、何らかの「保守主義という特定の理論体系」を前提としているように解される。そして、そのような前提的発想は、そもそも西尾幹二のいう「保守的な考え方」ではないのではないか。
 中島岳志は、月刊・論座2008年10月号(朝日新聞社)で、つぎのように語ってもいる(p.33)。
 ①「保守とは、人間の理性によって社会を進歩させることは不可能だという立場」だ。
 ②「保守主義本来の発想」は、「伝統や慣習、常識、共同性、といった人智を超えた所与のものに依拠する方が、世の中の秩序は安定し、よりましな社会が漸進的に続いていくんだ」、というものだ。
 三 「保守主義」と言わなくとも「保守的な考え方」は「態度」・「姿勢」にある旨を強調する西尾幹二の上の叙述にもいくばくかの疑問はあり、西尾幹二が参照していると見られ、類似点のある福田恆存「私の保守主義観」同・評論集第5巻(麗澤大学出版会、2008、初出・1959)p.126以下に、岩田温・政治とはなにか(総和社、2012)は従わず、一定の内容・価値を「保守」概念に意味させている(とりあえずは詳しくは紹介しない)。
 四 上の点はともあれ、中島岳志の述べる上の①は、<理性による社会の進歩は不可能>とするのが「保守」だ、というもので、これは西尾幹二の理解とも(そして福田恆存の理解とも)異なっている、と思われる。
 西尾幹二において(但し、1964年)、「保守主義は進歩や改革を否定しているのでは決してない。むしろその逆」なのだ。その「進歩や改革」に「人間の理性」は不要だとは言えないだろう。
 中島岳志は、「保守」という「主義」を想定している点で西尾幹二・福田恆存と異なっていると考えられ、また、「保守」の理解が(その態度・心性に着目するとしても)あまりに単純すぎるか、過度に一定の面を強調しすぎている。
 また、中島岳志は上の月刊・論座の座談会の中で「保守」への不満を述べ、(<中国や韓国への感情的反発>に偏った)日本の「保守」を変えようとしたいらしき発言をしてもいるのだが(なお、中島岳志は憲法現九条改正に反対する-p.37)、そのような日本の「保守派」の現状批判と変革について、彼自身がその「理性」を働かせているはずなのだ。
 また、中島岳志は日本の「保守」は「設計主義的」すぎるとも批判しているが、「保守主義」という主義・理論に立って日本の「保守派」や原発問題等についてあれこれと論じること自体も、ある意味では<設計主義的>だと思われる。
 要するに、まともな?「保守派」・「保守主義者」らしく振る舞っているようである中島岳志は、じつは本質的に「保守派」ではない、のではないか。
 こうした疑問または結論は、すでに何度か述べたことがある。

1125/西尾幹二が「『気分左翼』による『間接的な言論統制』」を語る。

 西尾幹二全集第2巻(国書刊行会、2012)に所収の「『素心』の思想家・福田恆存の哲学」は2004年の福田恆存没後10年記念シンポでの講演が元になっているようで、月刊諸君!2005年2月号(文藝春秋)に発表されている。全集の二段組みで48頁もあるので(p.359-406)、本当に月刊雑誌一回に掲載されたのかと疑いたくなるような長さ・大作だ。
 内容はもちろん福田恆存に関係しているが、西尾幹二の当時の世相の見方等を示していて相当に興味深い。講演からは8年ほど経っているが、今日でもほとんど変わっていないのではないか。
 6頁め(p.364)にある「『気分左翼』による『間接的な言論統制』」という節見出しが、目につく。「間接的な言論統制」には「ソフト・ファシズム」というルビが振られている。「気分左翼」も「間接的な言論統制」も、福田恆存かかつて使った語のようだ。
 なぜ目を惹いたかというと、私は「何となく左翼」という語をこの欄でも使ったことがあるし、田母神俊雄の「日本は侵略国家ではない」論文に対する政府(当時は自民党政権)や<保守>論壇の一部にすらよる冷たい仕打ちに対して<左翼ファシズム>の成立を感じ、この欄でもその旨を書いたからだ。
 「何となく左翼」(意識・自覚はしなくとも「左翼」気分のメディアや人々)による「左翼」的全体主義がかなり形成されているのは間違いないと思われる。
 メディア・世間一般ではなく、特定の学界・学問研究分野では、より牢固たる「ファシズム」、<特定のイデオロギーによる支配>がほぼ成立しているのではないかとすら思われる(日本近現代史学、社会学、教育学、憲法学等)。
 さて、西尾幹二の叙述(福田恆存ではなく西尾自身の文章)を以下に要約的に紹介しておく。
 ・昭和40年の福田恆存「知識人の政治的言動」は「現在ただいまの日本を論じているに等しい」。「今の日本を覆っているのはまさに思想以前の気分左翼、感傷派左翼、左翼リベラリズムと称するもののソフトファシズムのムード」だ。「政府、官公庁、地方自治体、NHK、朝日、毎日、日経、共同通信、民放テレビ等を覆い尽くしているもの」がある。福田恆存にいう「間接的な言論統制」だ(p.366)。
 ・「真綿で首を絞められるような怪しげなマスコミの状況に今われわれ」はいる。それは「平和というタブー」に由来し、「最初はアメリカが日本全土に懸けた呪いであり、やがて革新派が親米的政権に同じ呪いをかけて身動きできなく」なった。これが「今の日本の姿」で、「呪いは全国を覆い尽くして」いる(同上)。
 ・2004年には経済界の一部が首相に靖国参拝中止を言いだし、「共産国家の言いなりになるように資本家が圧力をかけている」。NHKは1992年頃まで「政治的撃論の可能なメディア」だったが、今や「衛生無害」の「間接的な言論統制」機関になっている。文部省はかつては「保守の牙城」だったが、いつしか「次官以下の人事配置においても日教組系に占められ、”薄められたマルクス主義”の牙城」になっている(同上)。
 ・「男女に性差はないなどという非科学的奇論、ジェンダーフリーの妄想が…官僚機構の中枢に潜りこ」み、地方自治体に指令が飛び、「あちこちの地方自治体で、同性愛者、両性具有者を基準に正常な一般市民の権利を制限する」という「椿事」が、「従順な地方自治体の役人の手で次々と条例化されて」いる。「全国的な児童生徒の学力の急速な低落は、過激な性教育と無関係だとはとうてい言えない」だろう(同上)。
 ・「官庁の中心が左翼革命勢力に占領」されるという事態を福田恆存は予言しており、福田が新聞批判を開始した頃から「日本は恐らくだんだんおかしくなり」、福田の予言の「最も不吉な告知が、今日正鵠を射て当たり始めているのではないか」(p.367)。
 以上。もう少し、次回に続けよう。 

1122/西尾幹二全集第2巻(2012.04)のごく一部。

 西尾幹二が福田恆存を追悼して書いた文章の中に以下の部分がある。
 「マルクス主義を一種の身分証明のように利用して、反米・反政府を自明のよう語りながら、しかも日本共産党の過ちをも批判するという当時のどっちつかずの知識人の姿勢は、恐らく今なおリベラルの名で語られる政治潮流とどこかでつながっている。/福田氏が闘った相手はまさにこれである」。
 「現実を動かした強靱な精神―福田恆存氏を悼む」西尾幹二全集第2巻(第三回配本)所収p.299(国書刊行会、2012.04。初出は1994.11)。
 福田恆存の初期の評論「一匹と九十九匹と」に言及して「当時」と言っている。福田のこの評論は1946年(昭和21年)11月に書かれ、翌年3月刊の雑誌に発表されている(福田恆存評論集第一巻所収p.316以下、麗澤大学出版会・2009.09)。
 いつぞや、反自民・非共産で、後者よりの「左翼」が現在の日本の学者・知識人にとってもっとも安全な立ち位置だ、という旨を書いたことがある。
 さすがに現在では「マルクス主義を一種の身分証明のように利用して…」とは言い難く、<反自民・「左翼」ぶりを身分証明のように利用して、かつ日本共産党そのものとも一体化せす(同党に批判的な眼も向けつつ)…>とかに、少しは表現を変える必要があるだろうが、「リベラルの名で語られる政治潮流」の姿は、西尾幹二が上のように書いてから20年近く経っても、さらには福田恆存の「当時」から60年以上経っても、本質的には変わっていないようだ。その点が興味深く、ここに引用する気になった。
 西尾幹二が初めて読んだ福田恆存の評論は「芸術とは何か」で1950年のもの、60年安保騒擾の際に西尾の救いとなったのは福田の「常識に環れ」らしく、これは1960年のものだ(それぞれ、福田恆存評論集第一巻、第七巻に所収)。
 他にも有名な「平和論の進め方についての疑問」(福田恆存評論集第三巻)などに、西尾は言及している。
 読んだことがあるものもある。あらためて、多くの福田恆存論考をじっくりと読みたいものだ。そう思わせる「評論」が今日では少なくなっていると思われる。西尾幹二の書くものもまた、私には一部の内容・主張に不満があるが、数少ない「評論家」であることは間違いないだろう。 

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