秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

西尾幹二

2187/西尾幹二の境地-歴史通・WiLL2019年11月号別冊⑤。

  言葉・概念というのは不思議なもので、それなくして一定時期以降の人間の生活は成り立ってこなかっただろう。というよりも、人間の何らかの現実的必要性が「言葉・概念」を生み出した。
 しかし、自然科学や医学上の全世界的に一定しているだろう言葉・概念とは違って(例えば、「脳」の部位の名称、病気の種類等の名称のかなりの部分)、社会・政治・人文系の抽象的な言葉・概念は論者によって使用法・意味させているものが必ず一定しているとは限らないので、注意を要する。
  面白く思っている例えば一つは、(マルクスについてはよく知らないが)レーニンにおける「民主主義」の使い方だ。
 レーニンの「民主主義」概念は多義的、あるいは時期や目的によって多様だと思われる。つまり、「良い」評価を与えている場合とそうでない場合がある。
 素人の印象に過ぎないが、もともとは「民主主義」は「ブルジョア民主主義」と同義のもので、批判的に用いられたかに見える。
 しかし、レーニンとて、-ここが優れた?政治運動家・「革命」家であったところで-「民主主義」が世界的に多くの場合は「良い」意味で用いられていること、あるいはそのような場合が少なくともあること、を十分に意識したに違いない。
 そこで彼または後継者たちが思いついた、または考案したのは、「ブルジョア(市民的)民主主義」と対比される「人民民主主義」あるいは「プロレタリア民主主義」という言葉・概念で、自分たちは前者を目ざす又はそれにとどまるのではなく、後者を追求する、という言い方をした。
 「民主主義」はブルジョア的欺瞞・幻想のはずだったが、「人民民主主義」・「プロレタリア民主主義」(あるいは「ソヴェト型民主主義」)は<進歩的>で<良い>ものになった。
 第二次大戦後には「~民主共和国」と称する<社会主義をめざす>国家が生まれたし、恐ろしくも現在でも「~民主主義人民共和国」と名乗っているらしい国家が存続している。
 似たようなことは「議会主義」という言葉・概念についても言える。
 マルクスやレーニンについては知らない(スターリンについても)。
 しかし、日本共産党の今でも最高幹部の不破哲三は、<人民的議会主義>と言い始めた。
 最近ではなくて、ずいぶん前に以下の著がある。
 不破哲三・人民的議会主義(新日本出版社、1970/新日本新書・1974)。
 「議会」または「議会主義」はブルジョア的欺瞞・幻想として用いられていたかにも思われるが(マルクス主義「伝統」では)、日本共産党が目ざすのは欺瞞的議会主義ではなく「人民的議会主義」だ、ということになった。現在も同党の基本路線のはずだ。
 <民主主義革命・社会主義革命>の区分とか<連続二段階革命>論には立ち入らないし、その十分な資格もない。
 ともあれしかし、そうだ、「たんなる議会主義」ではなく「人民的議会主義」なのだ、と納得した日本共産党員や同党支持者も(今では当たり前?になっているかもしれないが)、1970年頃にはきっといたに違いない。
  しかし、元に戻って感じるのだが、これらは「民主主義」や「議会主義」という言葉・概念を、適当に(政治情勢や目的に合わせて)、あるいは戦術的に使っているだけではないだろうか。
 <反民主主義>とか<議会軽視=暴力>という批判を避けるためには、「人民民主主義」・「人民的議会主義」という言葉・概念が必要なのだ。
 たんに言葉だけの問題ではないことは承知しているが、言葉・概念がもつ<イメージ>あるいは<印象>も、大切だ。
 人間は、それぞれの国や地域で用いられる<言葉・概念>によって操作されることがある。いやむしろ、常時、そういう状態に置かれているかもしれない。
 自明のことを書いているようで、気がひける。
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 四 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通・月刊WiLL11月号別冊(ワック)。
 p.222で、西尾幹二はこう発言する。
 ・「女系天皇を否定し、あくまで男系だという一見不合理な思想が、日本的な科学の精神」だ。「自然科学ではない科学」を蘇生させる必要がある。
 ・日本人が持つ「神話思想」は、「自然科学が絶対に及び届くことのない自然」だ。
 ここで西尾は、「自然科学」(または「科学」)と「日本的な科学(の精神)」を対比させている。
 これは、レーニンとて「民主主義」という語が~と上に記したように、西尾幹二とて?、「科学」という言葉・概念が<良い>印象をもつことを前提として、ふつうの?「自然科学」ではない「日本的な科学」が大切だと主張しているのだろう。
 民主主義または欧米民主主義とは異なる「日本的民主主義」というのならば少しは理解できなくはない。しかし、「自然科学」またはふつうの?「科学」と区別される「日本的な科学」とはいったい何のことか?
 これはどうやら日本の「神話(思想)」を指す、又はそれを含むようなのだが、しかし、このような使用法は、「科学」概念の濫用・悪用または<すり替え>だろう。
 ふつうの民主主義ではない「人民民主主義」、ふつうの議会主義ではない「人民的議会主義」という語の使い方と、同一とは言わないが、相当に類似している。
 五 西尾幹二・決定版国民の歴史/上(文春文庫、2009/原著・1999)。
 これのp.169に、つぎの文章がある。この部分は節の表題になってもいる(p.168)。
 「広い意味で考えればすべての歴史は神話なのである」。
 つまり、「神話」は、<狭義の歴史>ではなくとも<広義の歴史>には含まれる、というわけだ。
 「神話、言語、歴史をめぐる本質論を以下展開する」(p.166)中で語られているのだから、西尾としては重要な主張なのだろう。
 あれこれと論述されていて、単純な議論をしているのではないことはよく分かる。
 しかし、上の部分には典型的に、「神話」と「歴史」の両概念をあえて相対化するという気分が表れていると感じられる。
 つまり、「歴史」概念を曖昧にし、その意味を<ずらして>いるのだ。
 こうした概念論法を意識的に用いる文章を書くことができる人の数は、多いとは思えない。
 言葉・概念・文章で<生業>を立ててきた、西尾幹二らしい文章だ。
 相当に単純化していることを自覚しつつ書いているが、このような言い方を明瞭な形ではなくこっそりと何度でもするとすると、こうなる。
 ああ言えばこういう、何とでも言える、という世界だ。
  <文学>系の人々の文章で、フィクション・「小説」・<物語>と明記されて、あるいはそれを当然の前提として書かれているものならばよい。
 そして、いかに読者が「感動」するか、いかほどに読者の「心を打つか」が、そうした文章または「作品」を評価する<規準>となる、ということも、フィクション・「小説」・<物語>の世界についてならば理解できなくはない。
 しかし、そうではなくノン・フィクションの「学問」的文章であるならば、読者が受けた「感動」の質や量とか、どれだけの読者を獲得したか(売れ行き)の「多寡」が評価の規準になるのではないだろう。
 何となしの<情感>・<情緒>を伝えるのが「学問」的文章であるのではない。
 <文学>系の人々の文章も様々だが、言葉の配列の美しさとか思わぬ論理展開とかがあっても、それらはある程度は文章の「書き手」の巧拙によるのであって、「学問」的著作として評価される理由にはならない。
 これはフィクション・「小説」・<物語>ではない、「文学」つまり「文に関する学」または「文学に関する学」でも同じことだろう。
 何となく<よく出来ている>、<よくまとまっている>、<何となく基本的な趣旨が印象に残る>という程度では、小説・「物語」とどこが異なるのだろうか。
 <文学系>の人々が社会・政治・歴史あるいはヒトとしての人間そのものについて発言する場合の、評価の規準はいったい何なのか。
 長い文章を巧く、「文学的に」?書くか否かが規準ではないはずだろう。
 長谷川三千子もきっとそうだが、西尾幹二もまた、日本の社会・政治、あるいは「人間学」そのものにとっていかほどの貢献をしてきたかは、全く疑わしい、と思っている。今後も、なお書く。
 江崎道朗、倉山満ら、上の二人のレベルにすら達していない者たちが杜撰な本をいくつか出版して(日本の新書類の一部またはある程度は「くず」の山だ)、論理的にも概念的にも訳の分からない文章をまとめ、「その他著書多数」と人物紹介されているのに比べれば、西尾幹二や長谷川三千子はマシかもしれない。
 しかし、学者・「学術」ふうであるだけ、却ってタチが悪い、ということもある。
 <進歩的文化人>ではない<保守的文化人>と自認しているかも知れない論者たちの少なくとも一部のいい加減さ・低劣さも、いまの時代の歴史の特徴の一つとして記録される必要があるだろう。

2165/<売文業者か思想家か>。

 竹内洋・メディアと知識人-清水幾太郎の覇権と忘却(中央公論新社、2012)。
 これの中身も、全部かつて読んだはずだ。清水幾太郎の言論活動を批判的にたどっているのだろう。
 読売・吉野作造賞受賞第一作。
 単行本に付いている上の紹介よりも興味深いのは、オビ上のつぎの言葉だ。
 <売文業者か思想家か>(オモテ)。
 <この私にしても、まあ、一種の芸人なのです。まあ、笑わないで下さい>(ウラ)。
 後者は、確認しないが、清水幾太郎が書いたか発した言葉なのだろう。
 しかし、竹内洋自身は、<売文業者か思想家か>。そのどちらでもない、大学教授なのか。少なくとも「思想家」だとは思えない。大学教授だとしても、江崎道朗の本のいい加減さを指摘できないようでは、頼まれ仕事を良心的に行っているとは思えない。
 故西部邁は、<売文業者か思想家か>。自分自身はきっと<思想家>だと思っていたのだろうが、しかし同時に<売文業者>でもあっただろう。
 西尾幹二は、<売文業者か思想家か>。自分自身はきっと<思想家>のつもりでいるだろう。そう自称はしなくても、そう思われていたい、と思っているに違いない。西部邁も江藤淳も、西尾幹二にとっては、「気になる」<保守派知識人>のライバルで、西尾の文章の中にはこの二人に対する<皮肉・嫌み>もある。そして、いかんせん、読者の反応や売れ行きを気にする<売文業者>でもある。
 江崎道朗、櫻井よしこ。明らかに「思想家」ではない。そして政治目的のための<売文業者>にすぎない。
 八幡和郎? 「思想家」ではないのはもちろん、「知識人」ですらない。
 ***
 なぜ<売文業>が成り立つか? 文章・知識・情報に関する「出版・情報産業」が「業」として成立し得るだけの<市場>が、日本にはあるからだ。
 そのような社会または国家は、世界のどこにでもあるのではない。
 たまたま人口や地域の規模、そしてほとんど「日本語」だけによる情報交換が成り立っている、日本は、そのような社会・国家だからだ。決して、世界に一般的でも、普遍的でもない。
 少なくとも江戸時代・幕末までの日本の「知識人」は、自分または所属団体(藩等)の「功名」のために文章を書き本を出版したかもしれないが、金儲け=生業としての「功利」のためには<思索・思想作業>をほとんど行わなかったように見える。相対的には純粋に、自分は<正しい>と考えていることを書いただろう。偽書、売らんがための面白物語の例が全くなかったとは言わないが。
 現在の日本の<評論・思想>界の低迷または堕落は、それがほぼ完全に「商業」の世界に組み込まれてしまっていることにあるだろう。
 その中でうごめいているのが、雑誌や書籍の「編集者」・「編集担当者」という、あまり広くは名前を知られていない、「情報・出版産業」の有力な従事者だ。
 テレビ番組を含めれば、(とくに報道・情報)番組製作の「ディレクター」類になる。
 雑誌・書籍の「編集者」・「編集担当者」(あるいはテレビ番組の「ディレクター」)。これらによって発注され、請け負っているのが、日本の現在の自営・文筆業者あるいは「評論家」たちだ。大学・研究所に所属して、それからいちおうの安定した収入があるか、江崎道朗、小川榮太郎等のように「独立」・「自営」しているかによっても、「売文」の程度とその中身は異なるに違いない。

2150/西尾幹二の境地-歴史通・月刊WiLL2019年11月号別冊④。

  西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通・月刊WiLL11月号別冊(ワック)。
 西尾発言、p.219。
 「女性天皇は歴史上あり得たが、女系天皇は史上例がないという認識は、今の日本で神話を信じることができるか否かの問いに他なりません。」
 ①「神話」とだけ言い、日本書記や古事記の名を出さないこと、また②「神」という語が付いているが、神道等の「宗教」にはいっさい言及しないこと。これらにすでに、西尾幹二の<言論戦略>があると見られる。これらには別途触れる。
 上の、神話→女系天皇否認、というこの直結はほとんど信じがたいものだ。
 かりに神話→万世一系の天皇、を肯定したとしてもだ。
 しかし、神話→女系天皇否認、ということを、西尾幹二は2010年刊の書で、すでに語っていた。
 西尾幹二・GHQ焚書図書開封4/「国体」論と現代(徳間文庫、2015/原書2010)。
 文部省編・国体の本義(1937年)を読みながら解説・論評するふうの文章で、この中の「皇位は、万世一系の天皇の御位であり、ただ一すじの天ツ日嗣である」を引用したのち、西尾はこう明言する。p.171(文庫版)。一文ごとに改行。
 「『天ツ日嗣』というのは天皇のことです。
 これは『万世一系』である、と書いてあります。
 ずっと一本の家系でなければならない。
 しかもそれは男系でなくてはならない
 女系天皇では一系にならないのです。」
 厳密に言えば文部省編著に賛同しているか否かは不明であると言えるが、しかしそれでもなお、万世一系=女系天皇否認、と西尾が「解釈」・「理解」していることは間違いない。
 ひょっとすれば、2010年以前からずっと西尾はこう「思い込んで」きて、自分の思い込みに対する「懐疑」心は全く持とうとしなかったのかもしれない。これは無知なのか、傲慢なのか。
  万世一系=女系天皇否認、と一般に理解されてきたか?
 通常の日本語の解釈・読み方としては、こうはならない。
 しかし、前者の「万世一系」は女系天皇否認をも意味すると、この辺りの概念・用語法上、定型的に理解されてきたのか?
 結論的に言って、そんなことはない。西尾の独りよがりだ。
 大日本帝国憲法(1889)はこう定めていた。カナをひらがなに直す。
 「第一條・大日本帝國は萬世一系の天皇之を統治す
  第二條・皇位は皇室典範の定むる所に依り皇男子孫之を繼承す」
 憲法典上、皇位継承者を「皇男子孫」に限定していることは明確だが、かりに1条の「萬世一系」概念・観念から「皇男子孫」への限定が自動的に明らかになるのだとすると、1条だけあればよく、2条がなくてもよい。
 しかし、念のために、あるいは「確認的」に、2条を設けた、とも解釈できなくはない。
 形成的・創設的か確認的かには、重要な意味の違いがある。
 そして、結論的には、確認的にではなく形成的・創設的に2条でもって「皇男子孫」に限定した(おそらく女系天皇のみならず女性天皇も否認する)のだと思われる。
 なぜなら、この旧憲法および(同日制定の)旧皇室典範の皇位継承に関する議論過程で、「女帝」を容認する意見・案もあったところ、この「女帝」容認案を否定するかたちで、明治憲法・旧皇室典範の「皇位」継承に関する条項ができているからだ。
 「万世一系」が「女帝」の否認・排除を意味すると一般に(政府関係者も)解していたわけでは全くない。
 明治憲法制定過程での皇位継承・「女帝」をめぐる議論は、以下を読めばほぼ分かる。
 所功・近現代の「女性天皇」論(展転社、2001)。
 とくに、上掲書のp.25~p.45の「Ⅰ/明治前期の『女性天皇』論」。
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2149/西尾幹二・あなたは自由か(2018)⑥。

 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 西尾幹二に、<あなたは自由か>と問う資格があるのだろうか。
 西尾には、<あなたの「自由」とはどういう意味か>、と問う必要がある。気の毒だ。
 ①p.81-「幼くして親元を離れて上野駅に集まった『金の卵』の労働者たち」は、「一人前の大人」・「社会人」となるよう徹底的に叩き込まれた。「生きて、働いて、成功しなければならなかったのです。/彼らこそほかでもない、最も自由な人たちでした。」
 ②p.205-「完全な自由などというものは空虚で危険な概念です。素っ裸の自由はあり得ない。私は生涯かけてそう言いつづけてきました。」
 ③同上-「藤田幽谷は天皇を背にして幕府と戦いました。あの時代にして最大級の『自由』の発現でした。」
 ④同上すぐ後-「私たちもまた天皇を背にして、<中略>…グローバリズムに、怯むことなく立ち向かうことが『自由』の発現であるように生きることをためらう理由があるでしょうか。」
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2146/岡田英弘著作集第三巻・日本とは何か(2014)①。

 岡田英弘著作集第三巻・日本とは何か(藤原書店、2014)。
 これのうち、第Ⅰ部/<日本の歴史への基本的視点>のうちの「倭国をつくったのはだれか」より。
 ・「『日本書記』に特徴的な記述の第一は、紀元前660年に最初の天皇・神武が即位して日本が生まれ、日本は紀元前7世紀以来、天皇によって統一されていたとしていることにある。
 これが嘘であることはだれが見てもわかるのだが、『日本書記』のそもそもの目的からすると、そのようにしなければならなかった。」
 ・…。「こうした構成がとられたのは、舒明系統の流れをくむ日本の皇室が、みずからの尊厳を正当化するという目的があったからだ。神武以来の、架空の「万世一系」の系譜をつくり、みずからの王権の古さと由緒の正しさを主張すること、ここにこそ『日本書記』編纂の目的があった」。以上、p.31。
 ・「日本が建国される以前の日本列島には何があったか。
 先に触れたが、そこには「倭国」と呼ばれる有力な王国があった。
 この倭国はけっして日本列島を統一していなかったし、倭国王が列島のなかの唯一の王だったかどうかはきわめて疑わしい。
 7世紀のシナの史料『隋書』や『北史』の「倭国伝」をそのまま解釈すると、倭国は日本列島を統一するような国ではありえなかった」。以上、p.32。
 ・「紀元57年の「漢委奴国王」の金印に触れた記事が、『後漢書』の倭伝にある。
 …。倭人の代表を「王」に任命したということは、倭人が今後漢の皇帝と交渉しようとする場合、その窓口にいる倭人の「王」を通さなければならない、という「お墨付き」を与えたことになる。
 奴国は博多湾にあり、韓半島に渡る出発地だった。倭人社会の出入口に位置する場所の酋長に「王」の称号を与えて、いわばシナの名誉領事的な地位を授けたのである」。p.43。
 ・「それから50年経った107年に倭国王・帥升が歴史に現れる」。
 その頃の後漢王朝は内外ともに混乱していた。「困難な情勢を乗り切るために後漢が演出したのが、倭国王・帥升の使いだった。 
倭国王の使者は、107年に生口(奴隷)を従えて洛陽に現れ、倭国王が自身で来朝して皇帝に敬意を表したいと申し出た。…。
 「王」の使者の来朝は、シナの政治の安定に重要な意味を持った。
 朝貢を受けた皇帝には、異種族を感化する徳がある、という証明にもなるからである。
 この朝貢は、あくまでシナ側の都合によって演出された事件だった」。以上、p.44。
 岡田英弘、1931~2017。
 少なくとも近年の西尾幹二の「取り憑かれ」ぶりよりは、冷静だ。

2135/猪木武徳・自由の思想史(2016)②。

 猪木武徳・自由の思想史-市場とデモクラシーは擁護てきるか(新潮選書、2016)。
 この書の第3章第4節p.89~p.91は、「自由」につき、Freedom とLiberty の区別・差異に立ち入っている。
 すでに紹介したように、西尾幹二はこう書いていた。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)、p.35。
 ・「ヒトラーが奪うことのできた自由は『公民の権利』という意味での自由であり、奪うことのできなかった自由は『個人の属性』としての自由です。
 『市民的権利』としての自由と、『個人的精神』としての自由の二つの概念の区別だというふうにいえば、もっと分かりやすいかもしれません。」
 ・「この二つの自由を区別するうえで、英語は最も用意周到な言葉です。
 すなわち、前者をliberty とよび、後者をfreedom と名づけております。」
 このように大胆に?書く根拠は何か。
 ヒトラーうんぬんは別として、このような両語に関する結論的理解は誤りだろう。
  西尾幹二によると、A・スミスにおける「自由」は前者なのだそうだ。
 その根拠として明記されているのは、つぎの一文だけだと思われる。p.36。
 ・「アダム・スミスは、私の友人の話によると、『自由』という日本語に訳されていることばにliberty だけを用いているようです。
 それはそうでしょう。経済学とはそういう学問です。」
 また、西尾幹二によるliberty とfreedom の区別・差異である「市民的権利」/「個人的精神」は、つぎのようにもやや敷衍されている。
 p.38。「奴隷」にはliberty がなかつたが、freedom はなかったと言えるのか。
 p.43-44。エピクテスが語った「自由」は「アダム・スミスのような経済学者がまったく予想にしていなかった自由の概念」で、「freedom の極限形式といってもいい」。
 p.44。ヒトラーやスターリンによる「社会の全成員からliberty (公共の自由)を全面的に奪い取ってしまう体制下では、freedom (精神の自由)も死滅してしまうのではないか」。
 p.36。「人の住居」を「快適、立派に」整えたり、「子どもの成長を妨げる悪い条件をなくして、伸び伸びと発達できる環境を与え」る、というのは「liberty の問題」で、「真の生活」を送るか否かや「子どもが成長するか」は、「freedom の問題」です。
 以上の西尾「説」につては、すでに基本的に疑問視してきた。
 ①アダム・スミスの原著の英文を見た上で、経済活動の「自由」について「freedom 」が使われている、と疑問視した。「経済学者」だから「経済的自由」だけしか語っていないと想定するのは大きな間違いで、前回に触れたように猪木著によると、A・スミスは「自殺の自由」に論及している。そもそもが、A・スミスを「経済学者」と限定すること自体が誤っているだろう。
 なお、西尾幹二が、いかに専門家らしくとも「私の友人の話」だけをもって、A・スミスは「経済学者」だから彼の言う「自由」は「liberty 」だと断定してしまっているのは、その思考方法・手続において、とても<元研究者>だは思えない。
 さらに、「私の友人」=星野彰男(p.29)は、本当に上のような「話」をしたのだろうか。
 ②F・ハイエクの著の英語原文によるfreedom 、liberty の用法を見て、西尾のようには明確に区別されて使われていないだろう、ということも確認した。
 ③仲正昌樹・今こそアーレントを読み直す(講談社現代新書、2009)が両語の語源に立ち入って、こう記していることも紹介した。
 ・英語のFreedom はゲルマン語系の単語。free、freedom はドイツ語の、frei(フライ)、Freiheit (フライハイト)に対応する。
 ・英語のLiberty はフランス語を介したラテン語系の単語。そのフランス語はliberté だ(リベルテ)。
 そして、H・アレントの原著を見ても単純にfreedom をアメリカ革命が、liberty をフランス革命が追求したとは言えそうにないが、しかし、少なくとも、西尾幹二が言うように「英語は最も用意周到な言語です」などと豪語する?ことはできず、むしろ相当に「融通無碍な」言語だろう、とも記した。
 ***
 西尾幹二の書いていることはウソだから、簡単に信用してはいけない
 猪木武徳が絶対的に正しいとは、秋月自身が言葉の語源探求をしているわけではないから言わないが、こちらの方がはるかに信憑性が高い。なお、福田恆存の名も出てくる。
 猪木武徳・上掲書p.89-p.91は、こう書いている。猪木は、西尾幹二があげつらう「経済学者」だけれども。
 ・シェイクスピアの悲劇<ジュリアス・シーザー>で、シーザーが「お前もか、ブルータス」と言いつつ倒れたあと、暗殺者の一人はこう叫んだ。
 -「自由だ!、解放だ!、暴政は滅んだぞ!」〔福田恆存訳〕。
 ・上の「自由」は原文では「liberty 」、「解放」は「freedom 」。劇中の山場で同義語を二つ並べる可能性は低いので、シェイクスピアの時代から、両語は「使い分けられている」。
 ・上の台詞と直接の関係はないが、「社会思想」や「経済思想」でのこの区別を学生に問われると「まずとっさ」の答えは「freedom はゲルマン系の言葉、liberty はラテン語起源、基本的には同じ」となるが、これでは答えにならない。
 ・「語源辞典」=Oxford Dictionary of English Etmology を見ると、「fri の部分」は「拘束されていない。外部からのコントロールに服していない状態」を指す。「世帯の長と(奴隷としてではなく)親族上の結びつき(tie)の認められる成員」の意味と記されている。
 これに対し、「liberty はラテン語系のliber から来ている」ものの、その意味は「世帯における本来的に自由な成員」を指す。よって、「liberty は親権(privilege, franchise)を意味する言葉」だったという。この場合の「自由な」というのは「特権をもった」という意味だ。
 ・そうすると、「リベラリズム」がイタリア哲学史学者〔Guido De Ruggiero〕により「特権の普遍化」として把握されることと一致する。その著<ヨーロッパのリベラリズムの歴史>〔英訳書/The History of European Liberalism〕は、「特権を持っていた王が、その特権を貴族・地主層・僧侶にも与え、そして民主化の波とともに市民、すなわちブルジョワ階級にもその特権が広がるという動きこそがリベラリズムの進展であったとする理論」を中核とする。
 ・'Liberty! freedom! Tyranny is dead' を福田恆存が「自由だ!、解放だ!、暴政は滅んだぞ!」と訳しているのは、「まことに的確な名訳」だ。但し、つぎに出てくる 'enfranchisement' は「特権の付与、参政権の付与」の意味なのでたんに「万歳」と訳すのは「不満が残る」。もっとも、替わる「妙案」があるわけではない。
 以上のとおりで、<liberty /freedom >には、西尾幹二の言う<市民的(公民的〕自由/個人的自由>、<物的・経済的自由/精神的自由>、<物的条件づくり/「真」>等の対比とは全く異なる次元の区別・差異があるようだ。<制度的自由/自然的自由>ならまだしも、<物的・経済的/精神的>とするのは間違いの方向に進んでいる、というところか。
 西尾は、少しは恥ずかしく感じないだろうか。
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 だいぶ昔に、ドイツで、"Er ist liberal" (「…リベラール」)という言葉をじかに聞いたことを思い出した。
 このliberal はどういう意味だろうと感じたのだったが、おそらく政治的感覚・立場・見地の意味で<どちらかというと左翼>の意味だろうと思い出してきた(と、このことも思い出した)。
 リベラル(リベラリズム)とは欧州では元来の「自由主義」=保守だがアメリカでは「リベラル」=進歩・左翼だという説明を読んだこともある。しかし、欧州のドイツでそのとおりに用いられているわけではないだろう。
 自由民主党(FDP=Freie Demokratische Partei)という「中道」政党にFrei が使われているが、上の言葉を聞いたのちに、ドイツ社会民主党(SPD)を支持している、そういう意味だろうと(日本に帰国してから)理解した。たぶん、誤っていない。
 ドイツ人はfrei のみならずliberal という言葉も使っているのであり、その語からきたdie Liberalitätというれっきとした名詞もある。これらは英語(またはフランス語)からの輸入語かもしれないが、少なくとも英語だけが「用意周到」なのではないだろう。
 以上は、「言語学」ではなく、本文とたぶん直接には関係のない「政治的」雰囲気の言葉の世界の話だ。

2134/猪木武徳・自由の思想史(2016)①。

  猪木武徳・自由の思想史-市場とデモクラシーは擁護できるか(新潮選書、2016)。
 オビに「自由は本当に『善きもの』か?/ギリシア哲学から現代の経済思想まで」等とある。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)と比べて読むのも、面白いだろう。
 前者は「選書」、後者は「新書」だが、前者計p.239まで、後者計p.396で、活字の大きさも後者が小さいので、文章・文字の総量は後者がはるかに上回る。
 内容や質は? 以下に書く。
 猪木著の「まえがき」で、こんなことが書かれる。
 ***
 <太った奴隷よりも飢えて自由の方がよい>旨のイソップ寓話がある。
 しかし、「隷従し」、「拘束を受けても」、「十分食べたい」という欲望が人間にはあるのではないか。
 「精神的な欲求としての自由を、いかなる価値よりも優先させるべき理由、そして人間の本性と両立しうる原理の根拠をどこに求めればよいのだろうか」。
 自由の実現には苦痛も伴う。「人間は、自由と不自由のコストとベネフィットを考慮することがあるのではないか」。
 「精神的な欲求としてだけではなく、『制度としての自由』には、さらに本質的な問いが潜んでいる」。
 以下、省略。
 ***
 すでに、勝負あり、だ。その背景は世代・年齢差(10年)にあるのではなく、基本的には、<文学・思想>分野か<経済・思想>分野かという、素養・「教養」の由来にあるだろう。
 西尾幹二は、「精神的な自由」、「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」を最重視しているかのごとくだ。人間も生物であることを完全に無視している。
 猪木武徳においては、まず「精神的自由」は最重要の価値なのかと問題設定される。
 「十分食べたい」という欲求は人間の本性(nature)に合致している。これを無視することは、少なくとも一切無視することは、絶対にしてはならないだろう。
 西尾幹二はすでに「人間」ではなくなっているのかもしれない。あるいは生物・動物であることを忘却している、そのふりをしているのかもしれない。
 猪木は第3章の冒頭(p.77)で、アダム・スミスに言及しつつ、「自殺」=「自由意思による死」の問題を彼は論じている、という。西尾はこれに論及していないはずだ。
 しかし、これも、「自由」の、しかも難解な「自由」に関する問題だ。<自殺>・<自由意思>一般の問題には立ち入らないが、ここで想起するのは、ジョン・グレイ(John Gray)が言及していた、ソ連の強制収容所体験者の回想記・<北極コルィマ物語>のことだ。紹介部分の一部を、省略しないで、そのまま引用する。
 J・グレイ/池中耿訳・わらの犬(みすず書房、2009)、p.104。
 「意味と名のつく一切を奪われた収容者に、生きつづける理由はなかった。
 しかし、多くは、時にみずからの選択で命を絶つ機会が訪れても、その機会を捉えて行動するだけの気力、体力を残していなかった
 『死ぬ気が萎えないうちに急がなければならない場合もあった』。」
 旧ソ連のでも、ナツィスのユダヤ人強制収容所でもよいのだが、被収容者の「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」とはいったい何だろうか。
 「死ぬ自由」すら選択できない、その「気力、体力」すら残っていない、という人々にとっての「精神的な自由」とは、いったい何だろうか。
 安全な場所に身を置いて、優雅に「精神・こころ」の大切さを説く高慢と偽善を許してはいけない。

2132/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史14①。

 西尾幹二=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012年12月)。西尾発言、p.11。
 「歴史的に見ても日本の皇室は女性に対しては常に一貫して民間に開かれていたいうこと。…、皇統という "鎖の輪" に民間の女性がぶら下がっているという形で続いてきた」。
 「歴史上、女性の天皇が8人いますが、緊急避難的な "中継ぎ" であったことは、つとに知られている話です。そうしますと男系継承を疑う根拠は何もない」。
 上の部分の「緊急避難的な "中継ぎ" 」には編集者によると見られる小文字の注記があり、8名の女性天皇名を記載するとともに、こう書いている(p.13)。
 「いずれも皇位継承候補が複数存在したり、幼少であったことからの緊急避難的措置で、すべて男系の寡婦か未婚であった」。
 女性天皇否認ではなく、<万世一系>の「神話」について、西尾幹二が同年にこう書いていたことに気づいた。
 西尾幹二・天皇と原爆(新潮社、2012年1月)。p.142、p.145-6。
 「なぜ天皇は唯一のご存在で、ご高貴であるかについて合理的な説明などあってはいけません」。
 「要するに神武天皇以来ずっと続いているのも神話なんであって、神話だから信じるんです。不合理ゆえに信ずるというのが信仰の本質ですから、天皇という問題は、日本人の信仰に深く関わっています」。
 「大東亜戦争は、天皇を中心とした信仰のもとに戦った宗教戦争だったんです」。
 「日米戦争は、アメリカの強い宗教的動機と日本の天皇信仰とがぶつかり合った戦いにほかなりません」。
 ここで西尾は、特定の(であるはずの)「信仰」・「宗教」という語を明記している。
 こう明確には必ずしも発言、執筆はしてこなかったことについては、別に書く。
 つぎの書も、「おもに保守的な読者に提供しよう」とするからか、上のような<万世一系>論、<女性天皇「中継ぎ」>論を、支持するものになっている。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011年9月)。
 しかし、まず(推古、皇極=斉明は「中継ぎ」ではない)、持統以下、桓武以前の女性天皇のうち、持統・元明・元正は「緊急避難的」「中継ぎ」の女性天皇だったということも、現在のごく一部にあるらしい「都市伝説」のようなものだ。
 現在の女系否認・女性「中継ぎ」論者たちがいう<男系男子>絶対優先ならば、持統・元明・元正は天皇になり得ていない。
 <男系男子>継承一般ではなく、「特定の男子皇族」への継承が優先されたのだ。
 天武-①草壁皇子-②文武-③聖武。いずれの継承のときにも、<男系男子>皇族・天皇就位資格者は、他にもいた。のちに天智天皇の孫の老人・光仁を天皇にするくらいなら、いくらでも候補者はいた。この点は、天武の親王とその母親等について、一覧表または系図関係をきちんと調べて、いずれまた書く。
 現在の女系否認・女性「中継ぎ」論者たちでも間違いなく困るのは、聖武-孝謙(女性)という皇位継承だ。
 聖武天皇(701-756、在位724-749)の妃となった光明皇后は、聖武との間に718年、阿倍内親王(のち孝謙天皇)を生み、727年、皇子を生んだ(「基王」または「某王」)。この皇子(男子)はただちに皇太子とされたが、728年に1年も生きずに死んだ。この子の供養のために聖武が発願して創建した寺院がのちに東大寺に発展した、という(場所は現在地と異なる)。
 以上は、つぎの書に依っている。なお、吉川は「基王」につき「某王」説に立つ。
 吉川真司・聖武天皇と仏都平城京/天皇の歴史02(講談社、2011)。
 その後光明皇后は男子を生まなかったようだ。しかし、聖武天皇の別の夫人・県犬養広刀自との間に、男子・安積親王が、「基王」の死と同年に生まれていた。母親の違いはあるが、聖武からすれば第二皇子・次男になる。なお、この安積親王の同母の姉が、のちにいったんは光仁天皇の皇后となる井上内親王(聖武天皇の第一皇女)。
 この当時、「長屋王」という皇族がいた(684-729)。天武の孫・高市皇子の子、母は持統・元明の妹の御名部皇女、妻・吉備内親王の父は草壁皇子、同じく母は元明天皇。
 持統の血が入っていないことを別とすれば、光明皇后はもともとは藤原氏の娘(「藤三娘」)で皇族外だったので、「血統」だけでいうと、長屋王の方が聖武天皇よりも上回るとすら言える。
 長屋王の684年出生が正しいとすると、「基王」が死去したとき、44歳前後だ。皇太子の姉、のちの孝謙(718-770)はこのとき、10歳前後だった。聖武天皇は、27歳前後。安積親王は生まれたばかり。
 かりに<男子>を優先すれば、時期次第では長屋王が聖武天皇の後継者の有力な候補になり得るとともに、安積親王の立太子や皇位継承を長屋王が主張し、支援することも十分に考えられただろう。
 しかし、現実には、聖武の子の阿倍内親王=孝謙天皇という<女性>が継承した。
 729年の<長屋王の変>で、「謀反」があるとする「誣告」を契機として、長屋王が妻・吉備内親王とその間の3人の子(全員が男子)および別の男子(計4王子)とともに揃って「殺された」または「自害させられた」ことが大きいだろう。744年、直系男子の安積親王も16歳ほどで死んでいる(暗殺説がある。728-744)。
 このあたりは、八幡和郎もまた、少しは叙述に困ったようだ。p.91。
 ・「皇位継承は混沌としました。/ここで起きたのが長屋王の変です」。
 ・720年の藤原不比等死後「長屋王が最大実力者になりました」。
 そして、<長屋王の変>の背景について、こう推測する。p.91。三千代とは光明皇后の母(県犬養橘三千代)。
 「基皇子を呪詛したとか光明子の立后に反対したともいいますが、阿倍内親王への継承を確実にするために、聖武天皇、皇后、三千代の誰かが主導したのでしょうか」。
 この一文のあたりは、はなはだ興味深い。
 第一に、「安積親王」という直系男子皇族への言及がない。第二に、長屋王による「謀反」は「誣告」=ウソだった、つまり長屋王は無実・無罪だったとするのが定説とみられるが(吉川真司も同じ)、これを断定的には記していない。
 注目されるべき第三は、「阿倍内親王(女性=孝謙)への継承を確実にするため」という推測にとどめている動機について、非難・批判めいたニュアンスがまるでないことだ。
 そして、さらにこう書く。p.92。
 「女帝の即位は、それまではいずれも正統な皇位継承者につなぐためのものでした」。
 ここでの「正統な皇位継承者」とは何か、誰かは当然に問題になるが、続ける。
 「孝謙天皇の即位は、そうした見通しを持ったものではありませんでした」。
 この明記は重要だ。しかし、ここでも非難・批判めいたニュアンスはまるでない。つまりは、男系男子への「中継ぎ」だとは言えないこと(これは実際にも、のちに判明する)を、既成事実としてなのかどうか、八幡和郎もまた肯定していることになるだろう。
 この孝謙=称徳の例を、きわめて僅かな例外と見なすことはできない。西尾幹二らが、「女性の天皇が8人」が「緊急避難的な "中継ぎ" であったことは、つとに知られている話です」と言うのは、まっ赤なウソなのだ。なお、こう評しているのは、他の女性天皇についてはそうだった、と認めている趣旨ではない。
 ****
 八幡のつぎの書は、上の著の1年前のものだが、上で指摘した点を、より断定的に強調している。
 八幡和郎・本当は謎がない「古代史」(ソフトバンク新書、2010)。p.226-7。
 「長屋王の排除は対立する藤原氏の陰謀のようにいわれるが、不比等と長屋王との関係は良好で次女(ただし母は三千代ではない)を嫁がせているくらいだ」。
 「長屋王の失脚は、あまりに権勢が強くなりすぎて四方から総スカンをくっていたことが原因であり、そこに聖武天皇のあとの阿倍内親王(孝謙天皇)の即位を視野に入れたときに、長屋王と吉備内親王との間の王子たちが競争相手となるのを嫌った阿倍内親王の父母、すなわち聖武天皇、光明子らの意志が反映されて排除したものだろう」。
 これらの全ての言葉を否定はしないが、専門の歴史研究者ではないにもかかわらず、「長屋王の失脚は、あまりに権勢が強くなりすぎて四方から総スカンをくっていたことが原因であり(、…反映されて…)」と、八幡はよくも書いたものだ。
 なぜこんなに傲慢になれるのだろう。そして、この点だけではないが、なぜ、古い時代の事象・事件について、ときどきの「天皇」の側、当時の「政権」側に立った叙述をし続けるのだろう。
 なお、八幡はこの書では、長屋王は「殺された」=「自害させられた」のではなく、「自殺」した、と記述している。p.224。
 「この翌年に、長屋王が謀反の疑いをかけられ、妃の吉備内親王(文武・元正の同母姉妹)とともに自殺するという事件が起きた(729年。長屋王の変)」。
 「疑い」をかけられて「自殺」するのと、「誣告」を根拠に(実質的に)「殺された」というのでは、意味が全くというほど異なっている。前者は、八幡和郎「説」。

2130/池田信夫のブログ016-近代啓蒙・西尾幹二。

 池田信夫ブログマガジン2020年1月20日号は「『不自然なテクノロジー』が人類を救う」と題して、この欄で別の著の一部を紹介したスティーヴン・ピンカー〔Steven Pinker〕/橘明美=坂田雪子訳・20世紀の啓蒙(草思社・2019)〔S. Pinker, Enlightment Now: The Case for Reason, Science, Humanism and Progress(2018)〕を紹介するふうだ。
 但し、池田はこの著については「本書のアメリカ的啓蒙主義に思想的な深みはない」とするだけだ。
 そして、むしろ、啓蒙主義によって「人類は幸福になった」とし、科学技術(テクノロジー)は「平和と安全」をもたらした、として、「原子力」の安全性や「環境」の改善等を強調する。
 ***
 この文での「啓蒙主義」・「西洋文明」・「テクノロジー」等の厳密な意味は問題になりうるとして、また西尾幹二がいかなる気分・「主義」で文章を書いていたかは正確には知らないとしても、以下の西尾の文は、おそらく明らかに「啓蒙主義」・「西洋文明」・「テクノロジー」に反対・反抗したい<気分>を示しているだろう。すでに、ある程度は言及した。
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通2019年11号再収載。p.222。
 ・女系天皇否認は「日本的な科学の精神」だ。
 ・「自然科学ではない科学」が蘇らない限り、「分析と解析だけでは果てしない巨大化と極小化へとひた走って」しまう。
 ・「自分たちの歴史と自由を守るために自然科学の力とどう戦うか、それが現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」だ。
 なお、この対談には岩田温のつぎの発言もある。
 ・「皇室は、近代的な科学に抗う『日本文化の最後の砦』であり、無味乾燥な『科学』では言い尽くせない複雑な人間社会の擁護者であるともいえ」そうだ。
 これらは総じて、天皇・皇室あるいは日本の神話を「近代科学」・「自然科学」の対極に見ていて、後者を疑問視・批判するとともに、「日本」を対峙させる。
 西尾幹二には、「社会科学」を軽蔑するかのごとき、つぎの文章もある。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 ・「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことができない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
 これらには「近代」も「啓蒙」も出てこないが、岩田は別論として西尾幹二は、もともとは西欧から生まれた「近代啓蒙主義」にもとづく、またはそれに連なる人文社会系学問および「自然科学」(生物心理学から宇宙論まで)を批判するという<気分>をもつことが明らかだと思われる。
 <批判>あるいは「限界の指摘」どころか、西尾は「自然科学の力とどう戦うか、それが現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」だとか、「社会科学的知性」が扱わない「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」がある、というのだから、明治期以降に日本も「継受」してきた(和魂洋才?の)「自然科学」・「社会科学」を<否定>するニュアンスすらがある。
 これは困ったものだ。「血迷っている」、と評してよい。
 近代啓蒙、「ヨーロッパ近代」なるものに自分も影響を受けていることを肯定しつつ、所詮は西欧・欧米の「精神」にもとづくものなので、簡単に別の言葉を用いれば、それらにおける「自由と民主主義」=(自民党の名の由来でもあるLiberal Democracy)を「日本」的に修正する、「日本化」することに秋月もまた反対ではなく、むしろそう主張してきた。「自然科学」はよく知らないが、<人文社会科学>の「欧米かぶれ」は今だにひどすぎる、と感じている。日本の「人文社会科学」(ここでは狭義の「文学」を除く)はより自主的で「日本的」なものにしなければならないだろう。
 その意味では、「日本」は「西洋」とも「東洋」とも違うのだろう。
 しかし、西尾幹二のように、「日本文化は西洋と東洋の対立の中にあるのではなく、西洋と東洋がひとまとめて、日本文化と対立している。そういう風に私は思っています」(上の前者)と発言するのは、「日本・愛国」主義の月刊WiLL(ワック)読者のお気に召すかもしれないが、「血迷った」空文であり、観念的被害意識の発露だ。
 ***
 反近代・反啓蒙には大きく二つがある、とも言われる。
 一つは「右翼」からのもので、「近代科学」の進展や世界規模での交流についていけず、「民族」・「一国家」、あるいは「非科学的」かもしれない「精神」的なもの・宗教・「神話」等への執着を示す。
 もう一つは「左翼」からのもので、「近代科学」の進展や世界化は<資本主義の発展>だと見なし、「資本主義」のもとでの科学技術の発展・「大衆文化」の成熟は<資本主義的欺瞞>のもとにあり、「真」の人間の成長にはむしろ有害だと見なす。
 わずかの文章から簡単に推察することはできないが、西尾幹二の近年の上に引用した文章には、上の二つの<気分>が、いずれもある。
 皇室・「日本」・「神話」の重視は、上の「右翼」的反近代論だと言える。
 一方、すでに№2124〔2020.01.17〕に書いたように、「自然科学」と戦うのが「現代」の最大の課題だとか、「社会科学」は(「条件」づくりではなく「真に」)重要な「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」の問題には役立たないとかの旨の言明は、擬似マルクス主義「左翼」である<フランクフルト学派>の「反啓蒙」論(・「反経験主義」)に相当に似ている。
 池田信夫は上記の本文の中で、一般論としてこう記す。
 「啓蒙主義に対して『美しい自然を人間が汚してきた』というハイデガーやアドルノのようなロマン主義は、いつの時代にも絶えない。
 『人類は破滅の道を歩んでいる』とか『西洋文明はもう終わりだ』といった暗い予感は、啓蒙主義より人気がある。
 しかし、西洋文明は終わらない。
 反啓蒙主義者が『帰るべき自然』と考えているものは、西洋文明が自然破壊を破壊し尽くした後に生まれた農耕社会なのだ。」
 「ハイデガーやアドルノののようなロマン主義」とフランクフルト学派は同義ではない。しかし、上の「西洋文明」を(西洋から発達した)「資本主義文明」あるいは「自由主義経済のもとでの文明」と読み替えると、上の「ロマン主義」やフランクフルト学派の基本的な論調と西尾幹二の「気分」はかなり似ている。西尾は、<大衆とは異なる鋭敏な知識人>の一部がかつてそうだったように、現況に「暗い未来」を感じとっているかのようだ。悪化しているとして現況を嘆く(ふりをする)のは「知識人」には「人気」があることかもしれない。
 むろん、両者が全く同じだとは言わない。西尾にはジョン・グレイ<わらの犬>が皮肉っている<道徳主義>・<人格主義>・<教養主義>が多分にある。これらは現代では日本でも相当に廃れている。
 そして、上の点はどの程度にフランクフルト学派論者に当てはまるかは分からないが、西尾はこうしたもの(=人格・教養等)が尊重された(と彼が思っている)時代への「ノスタルジー(郷愁)」があるようだ。
 しかし、<処方箋>を示すことなく、具体的な政策論を展開することもなく、「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」の問題が大切だなどと幼稚に言っているだけでは、何も始まらない。
 西尾が資本主義社会と社会主義社会を「相対化」して、共通する「現代」文明の(あるいは共通する「真の?自由」の喪失の)病弊があると言いたいようであることは別に触れることにしよう。
 ***
 思い出したが、西尾幹二は<いわゆる保守派>には珍しい<反・原発>論者だ。ろくに読んでいないから確言できないが、原発・原子力の<安全性>に関する非イデオロギー的・科学技術的議論を行っているのではなく、中島岳志にような「『保守』精神」論から出発したり、独自の「現代文明」論・「現代の科学技術」論を基礎にしているのだとすれば、ろくな結論と論理構成にはなっていないだろう。
 ***
 「各自の、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由の問題」を扱わなければならない、という旨の西尾幹二の高邁な?一文は、おそらくは現に生きている日本を含めた世界じゅうの人間たちのほとんどを「軽蔑」・「蔑視」するものだ。
 「物質」あるいは「物的条件」よりも「こころ・精神」が大切、という主張は一部の宗教家や哲学者によって歴史上、幾度となく語られてきた。西尾が特段新鮮なことを述べているわけではない。
 そもそもは、「脳科学」・「進化心理学」等々は、西尾幹二が知る以上にはるかに、人間の「精神」・「意識」・「こころ」に迫ろうとしている。アメリカが中心のようだが、近代啓蒙の基盤なくして、この分野での急速な進展は生じなかっただろう。
 この点は別として、キリがない話なので池田信夫の上の文章から手がかりを得て書くと、原発によるのであれ何であれ、「電気」エネルギーの助けがなければ、西尾幹二の住居の暖房も冷房もたぶん機能しない。「停電」・電力供給の停止の怖さを、西尾は想像したことがあるのか。「水道」事業もまた、長い歴史をもつ人間の技術的工夫の結果だ(一部は近代以前に遡り、一部では現在なお整備されていない国々が地球にはある)。「死亡率」は戦争・内乱によるのを含めるのかどうか知らないが、「幼児死亡率」とともに各段に下がったと思われる。これは医学・人間生物学・栄養学・薬学等およびこれらに関係する技術的開発の、さらには医療制度(医療保険制度を含む)等の社会制度(・法制度)のおかげでもある。
 常識的なことなのでキリがない。それでも西尾は、自分だけは「こころ」だけで生きているつもりで、いや「こころ・精神」が大切だ、と言い張るのか。「自然科学」と戦う、というその「自然科学」の成果を、西尾自身がタップリと享受している。
 エネルギー供給、交通手段の確保・運営、生活必需品の生産・販売等々、「より快適な条件で生物として生きていく」ために、多くの人々が働いている。
 台風・豪雨等の前や最中には、道路・河川・建物等の安全確保のために「働いて」いる多くの関係者がいる。災害によって生命を失う人もいる。西尾は、冷笑するのだろうか、いや「生命」よりも身の「安全」よりも、「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」の方が大切だ、と。
***
 「社会科学」もまた、人間で構成される「社会」を対象とするかぎり、その人間の「意志・意思」の決定の過程・ありようは、重要な研究対象となる。<合理的意思決定>論、<意思の自由>論(例えば刑法上の「責任能力」の議論)、<人間・日本人一般または各人の「心理」>等々は、人間一般の又は個別の人間の「こころ」の問題に直接または密接に関係する。経済学も経営学も法学も歴史学も同様。
 キリがないので、この点は別に機会があれば、書こう。
 西尾幹二は、「ふつうの、まともな人間のこころ」を持つのか?

2124/西尾幹二の境地・歴史通/WiLL2019年11月号③。

 一 「神話と歴史」の関係・区別を論じ、前者の優先性・優越性を語る点で、つぎの二つで西尾幹二は共通している。
 A/西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL2019年11月号別冊(ワック)、p.126-。月刊WiLL2019年4月号の再収載。
 B/西尾幹二・国民の歴史
(産経、1999)-第6章・第7章。
 さすがに、20年間を挟んで、と感じられるかもしれないが、少しばかり吟味すると、一貫しているわけではない。例えば、Bには歴史も「とどのつまりは神話ではないか」との「哲学的懐疑心」が肯定的な意味で語られていて(p.157)、神話と歴史の<相対性>もむしろ強調されているように読める。
 一方、Aでは両者を峻別して「神話」の絶対的超越性を説いているがごとくだ。-「歴史はどこまでも人間世界の限界の中」にあるが、「神話は不可知の根源世界で、…人間の手による分解と再生を許しません」(p.219)。
 Aが<女系天皇否認>のための前提として語られているアホらしさには、すでに触れた。日本書記等がかりに<万世一系>の根拠になっても、<女系否認>の根拠には全くならない。
 この点はさて措くとして、20年間も同じ考え方でおれるはずがない、等々の釈明は可能だ。20年間も同じテーマについて全く同じことを書いていたのでは「進歩」がない。
 しかし、西尾幹二のつぎの著は、「歴史」をどう語っていただろうか。
 C/西尾幹二・保守の真贋-保守の立場から安倍政権を批判する(徳間書店、2017)。
 
保守ならば、当然真っ先に心の中に響き渡っている主張低音があるはずである。……そして、これらをひっくるめて<五、歴史>。」p.16。
 上で省略した一~四は、つぎだ。1・皇室、2・国土、3・民族、4・反共(反グローバリズム)。従って、西尾幹二によると、これら四つを「ひっくるめたもの」が<5・歴史>となる。
 西尾のこの著では、「保守」の「要素」を総括したものが、「歴史」だ。さほどに「歴史」という観念・概念は重視されている。
 そして不思議なことに、全部を詳細に読んだわけではないが、この「歴史」と「神話」の関係・区別には論及が全くかほとんどない。
 上のA、2019年の対談では「歴史はどこまでも人間世界の限界の中」にある等々と語って、<女系天皇>問題は、今日の日本で「神話」という「超越的世界観」を信じることができるか否かの問題だ、などと壮言しているにもかかわらず。
 西尾は、2017年著との関係について、書物や対談の趣旨から判断して「歴史」を同じ意味で使っているわけではない。自分の著作を全体として見て評価・論評してもらいたい、と釈明するかもしれない。しかし、上の二つ(AとC)での「歴史」概念の差異は著しい。そして、書物等、従って執筆時期や読者層を考慮して、この人物は、上の釈明があてはまっているとかりにしても、<それぞれに、適当に>同じ基礎的な言葉・概念を使い分けている、ということが明らかだ。
 そのつど、そのつど、上に挙げた要因によるのはむろんのこととして、同一の書の中ですら文脈に応じて、同じ概念を異なる意味・ニュアンスをもつものとして使う、ということにこの人物は習熟しているのだ。
 D/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 この書で、基本概念としての「自由」は揺れ動いている。そして、書物としてまとめる際に追記したかに見えるp.115-p.119は、ほとんど意味不明のことを喚いている。気の毒だ、見苦しい、と感じるほどだ。
 二 A/西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL2019年11月号別冊、p.222。ここに天皇論や「歴史」論ではない興味深い発言がある。
 ・「日本的な科学の精神」が「自然科学ではない科学」として「蘇る」必要がある。「分析と解析」だけではダメだ。
 ・「現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」は「自然科学の力とどう戦うか」だ。
 ・日本人が愛するのは、自然科学が与えている知性では埋めることのできない隙間」だ。
 ヨーロッパの庭園・建築物と日本の違いを話題に挿入しているが、より詳細な意味が語られているわけではない。しかし、おや?、と思わせる。
 これと似たこと、または通じることを、西尾は上のD・あなたは自由か(2018)でも書いている。p.37。近年に共通する「思い」に違いない。
 「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことができない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
 「自然科学」ではなくここでは「経済学」を含む「社会科学的知性」を排除しようとしている。少なくとも、「自然科学」とともに「社会科学」もまた、西尾幹二の「意識」またはその言うところの「自由」の問題を解決することはできない、ということだろう。
 ここでの「社会科学的知性」とは、すぐ前に「条件づくりの学問」という語があるように、生活条件の整備・向上のための「学問」・「知性」を意味させているようだ。この叙述の前には、子どもの成長を妨げる条件を排除する環境の整備だけでは「真の」成長にならない、人の住居を快適にしても「真の生活」にはならない、という旨の文章がある。p.36-。
 簡単に言えば、西尾には<物的条件>の整備ではなく<精神・こころ>が重要なのだ。「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」こそ(だけ?)が。
 この著に関する論評はこの欄の別の項で扱っているので、子細には立ち入らないが、以上の部分やこの著の第2章<資本主義の「自由」の破綻>を読了しても感じるのはつぎだ。
 第一は、西尾幹二の、もともとあったに違いない<反欧米主義>だ。
 上のAのp.223にこうある。「西洋と東洋がひとまとめて、日本文化と対立している。そういう風に私は思っています」、とある。
 この<反欧米主義>とはもう少し言えば、<近代啓蒙主義>あるいは<ヨーロッパ近代>に対抗・反対しようとする<日本(・愛国)主義>だ。
 さらに言えば、<資本主義の「自由」の破綻 >という章題にも現れていると見られる、<反・資本主義>、<反・自由主義経済>の気分だ。別に言及するが、かつてソ連・社会主義諸国内にいて拘禁された者たち(ソルジェニーツィンら)の、解放されて「西側」諸国に接した際の「西側・自由主義」への批判・皮肉を長々と紹介したり言及したりしているのは、西尾の<反・資本主義(自由主義)>の気分をおそらくは明瞭に示している。
 この<反・資本主義(自由主義)>の気分は、当然に、西尾は断固として否定するかもしれないが、少なくともかつての「社会主義」への憧憬・「容共」気分と共通することとなる。
 この欄でレシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流の試訳をしていて<フランクフルト学派>に関する部分を終えているが、上に記したような西尾の文章部分を見ながら、コワコフスキ紹介によるこの<フランクフルト学派>(アドルノ、ホルクマイアー、ブロッホ、マルクーゼら)のことを想起せざるを得なかった。
 <フランクフルト学派>は「左翼」だとされる。そして、むろん簡単に要約できないが、資本主義のもとでの「科学技術」の進展や「大衆文化」の醸成に批判的で、「より高い(higher)」文化が必要だとした。近現代「科学技術」、そして「啓蒙(主義)」に対する強い懐疑・批判を特徴とする。
  西尾幹二の「自然科学」批判は、フランクフルト学派の近現代「科学技術」や「近代啓蒙(主義)」に対する批判・攻撃と(少なくとも気分として)共通性がある。
 西尾は、例えば以下の文章を、どう読むだろうか。
 「フランクフルト学派の哲学者たち」が「現実に提示しているのはほとんど、エリート(élite)がもつ前資本主義社会の文化へのノスタルジア(郷愁)だった」(№2032)。
 「ホルクハイマーとアドルノの新しさは、この攻撃を実証主義と科学に対する激しい批判と結びつけ、マルクスに従って、悪の根源を…〔要するに資本主義経済-秋月〕のうちに感知することだ」。
  「フランクフルト学派がもつ主要な不満」は、「資本主義が豊かさを生み、多元的な欲求を充足させ」るのは「文化の高次の(higher)形態にとって有害だ」、ということにある(№2025)。
 彼らは「『大衆社会』やマス・メディアの影響力の増大を通じた、文化の頽廃、とくに芸術の頽廃を攻撃した。また、大衆文化の分析と激烈な批判の先駆者たちで、この点では、ニーチェの継承者であり、エリートの価値の擁護者だった」(№2004)。
 第二に、<物的条件>の整備ではない<精神・こころ>の重要性、「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」を西尾幹二が語るときの、その基礎的な<哲学>・<人間論>の所在だ。「唯我論」だとは言わないことにしよう。最近にこの欄で紹介したつぎの文章だけ、再び掲げておく。
 <自分の著書(初版)への「宗教的、文化的右派」からの批判には、無視されると思っていたので、驚いた。①「心は脳の産物」、②「脳は進化の産物」という現在の「心理学者や神経科学者」には当然の前提が、「彼らにとって急進的かつ衝撃的だった」。
 スティーヴン・ピンカー/椋田直子訳・心の仕組み-上(ちくま学芸文庫、2013)の「2009年版への序」(№2116/2020.01/07)。
 西尾幹二はまだ17世紀の<デカルト・心身二元論>の段階にいるのではないか旨、すでに記したことはある。

2119/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史13①。

 先月から今月、全部を読み終えた書に、以下がある。早いもの順。
 1.本郷和人・権力の日本史(文春新書、2019/2010)。
 2.大津透・神話から歴史へ/天皇の歴史01(講談社、2010)。
 3.小倉慈司・山口輝臣・天皇と宗教/天皇の歴史09(講談社、2011)。
 最初の二つに関しても、感想・メモを記せば何回もにかはなる。
 すこぶる面白くて勉強になったのは、3.だ。
 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(英訳初版・計三巻、1978)の邦訳書がないことを知って衝撃を受け、日本の<文科系>ないし<人文社会系>情報界・学界への諦念を持ったのが2017年だった(諦念、「そんなものだろう」という気分は変わっていない)。
 上の小倉・山口・天皇と宗教(講談社、2011)は、「衝撃」となったというよりも自分の無知・不勉強を感じた。そして、現在の「右翼」・一部「保守」の言い分の単純さ・幼稚さ・誤謬をあらためて強く思い知らされる。
 とりあえず、備忘のために目次構成をメモしておく。
 小倉慈司・山口輝臣・天皇と宗教/天皇の歴史09(講談社、2011)。
 第一部/小倉慈司(1967-)・「敬神」と「信心」と-古代~近世。
  第1章・国家装置としての祭祀。
   1/大嘗祭の成立、2/令制前の大王の祭り、3/律令制と地方神祇制度の整備、4/伊勢神宮と斎宮、5/神社制度の変化、6/宮中祭祀の諸相。
  第2章・鎮護国家と玉体安穏。
   1/新たなイデオロギーの導入、2/王法と仏法、3/天皇と出家
  第3章・「神事優先」と「神仏隔離」の論理。
   1/「神事優先」の伝統、2/「神仏隔離」の成立、3/神祇から仏教へ
  第4章・天皇の論理-象徴天皇制の原像。
   1/内省する天皇、2/皇室宗教行事の変容。
  第5章・皇室の葬礼と寺院。
 第二部・山口輝臣(1970-)・宗教と向き合って-19・20世紀。 
  第1章・祭政一致の名のもとに-19世紀。
   1/天皇とサポーター、2/祈りの力、3/学者の統治、4/維新と、その後。
  第2章・宗教のめぐみ-19世紀から20世紀へ。
   1/キリスト教との和解、2/第三の道、3/明治天皇の「御敬神」、4/天皇のいる国家儀礼。
  第3章/天皇家の宗教。
   1/皇族に信教の自由はあるのか?、2/宮中に息づく仏教、3/天皇に宗教なし?。
  第4章・国体の時代-20世紀前半。
   1/天皇に絡みつく神社、2/天皇制vs.国体、3/兄の格律、弟たちの反抗、4/国体を護持し得て。
  第5章・天皇制の果実-20世紀後半。
   1/国体の行方、2/象徴を探して。
 以上。
 このように紹介してもすでに、中身が単純ではないこと、もっぱら「神道」に焦点を当てたものでもないこと、は分かる。
 神道または仏教に関するのみの歴史書、天皇を中心とする政治の歴史書や概観書では得られない、概略的な知識が得られる。二人の厳密な意味での共著ではなくいわば「連著」だが、大きな断続感はないのが不思議だ。
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 以下の叙述は、本当に<あほ>であるか<無知>だろう。
 ①櫻井よしこ・週刊新潮2019年1月3日=10日号。
 「神道の価値観」は「穏やかで、寛容である。神道の神々を祭ってきた日本は異教の教えである仏教を受け入れた。
 **既述のように、「仏教伝来」以前の「神道」とは何か。日本の「神々」はなぜ「神道の神々」なのか。また、神道は「穏やかで、寛容」という形容は、西尾幹二によると<新しい教科書をつくる会>分裂時直前に日本会議の誰かが言ったらしい、<八木(秀次)くんはイイやつですよ>という形容と、いかほどに違うのか。なお、荒ぶる、怒れる、あるいは「祟る」神もある、ということは、常識的なのだが。
 ②櫻井よしこ・月刊正論2017年3月号、p.85。
 「古事記」は「日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴」を明確に示している。
 **「古事記」が示す「神道の特徴」とは何か。古事記編纂時代に意識されていた<神話>は「神道」なのか? 既述のように、なぜ日本書記ではなく古事記なのか?
 ③櫻井・同上p.85。
 「神道には教義がありませんから、神道は宗教ではないという人もいます。しかし神道は紛れもなく日本人の宗教です」。
 **櫻井のいう「宗教」とは何か。日本書記・古事記編纂時点でもよいが、「宗教」の意味するところは何だったのか。なぜ、<日本化した仏教>をいっさい無視するのか。
 ③平川祐弘・新潮45-2017年8月号。
 「日本では古代から天皇家」は「祭祀」、すなわち「民族宗教のまつりごと」を司どってきた。「天皇家にはご先祖様以来の伝統をきちんと守って、まず神道の大祭司としてのおつとめを全うしていただきたい」。
 **天皇が歴史上一貫して「神道の大祭司」だったかのごとくだが、その際の「神道の大祭司」または「神道」とは何か。
 櫻井よしこや平川祐弘らが「神道」、「宗教」といった基本語彙・概念の意味を探求することなく、勝手に?論述していることは明瞭だ。
 上の小倉=山口著への言及は今回はできるだけ避けるが、小倉著部分には、櫻井や平川らにとっては刺激的な叙述がある。以下は、わずかな例にすぎない。
 1.「天神地祇」=「神祇」(神=天神、祇=地神)」という言葉は中国古文献や「百済本紀」等にも出てくる。「古代朝鮮」にも「神祇信仰」はあった。2.七世紀以降に(大宝令>「神祇令」等により)「神祇信仰」を核とする国家構想が生じた。3.仏教上の「仏」は当時の日本人にとって新しい「神」だった。4.律令国家時代、まだ「神道」という語はない。
 そもそもが「神道」の意味の確定・探求なくして、「蕃神」=仏教との違いやその「大祭司」の意味も全く明からにならない。天皇・皇室と「仏教」との関係の濃淡は時代により異なるが、仏教との関連(仏教による国家鎮護・玉体安穏等)が一切否定された時代はなかっただろう(あるとすれば、これに近いのが戦後の現在かと思われる)。
 既述のことだが、櫻井よしこの「無知」ぶりは、以下にも歴然としている。
 ④櫻井よしこ「発言/有識者リアリング」2016年11月14日<天皇の公務負担軽減に関する有識者会議第4回>。
 ・現行憲法とその価値観が「祭祀」を「皇室の私的行為」と位置づけたのは、「祭祀」は「皇室本来の最も重要なお役割であり、日本文明の粋」であるにもかかわらず、「戦後日本の大いなる間違いであると私はここで強調したい」。
 ・「国事行為、公的行為の次に」に来ている「優先順位」を、「実質的に祭祀を一番上に位置づける形で」整理し直すべきだ。
 上の山口著部分でも触れられているが、天皇・皇室の祭祀を天皇の国事行為の列挙(7条)の中の「儀式を行ふこと」(第10号)に含めず、かつ「神道」=「宗教」の一つと解して20条(とくに3項-<政教分離>を前提にすれば、櫻井よしこがいかに「大いなる間違い」だと喚いても、上のようにならざるを得ない。おそらく間違いなく、櫻井は現行憲法7条10号や20条の条文すら見ていない。
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 日本会議派諸氏のアホぶりはともかくとして、多くの感想が生じ、多くの知的刺激が得られる。
 第一に、山口輝臣の最後あたりの述懐・「好奇心」にも共感するところが大きい。
 <権威>的だけだったとしても江戸時代の天皇には一定の権能があり(それ以前も応仁の乱期を除けば同様だろう)、奈良時代はもちろん、<院制>期にも天皇や前天皇には「権力」そのものがあった。明治憲法下では「統治権の総攬」者だった。現憲法下では、国事行為以外の「国政に関する権能」を持たず、かつ「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」。先だっての外国賓客等を前にしての「即位礼」での新天皇の言葉も、内閣が承認したもので、内閣が作成したと言って過言ではないだろう。「即位」式は「国事行為」だったのだ。なお、従って、<古式>・<伝統的>ではあっても、「神道」式には(可能であっても)法的にはできない。
 国家と国民統合の「象徴」である(にすぎないこと)は古来からの天皇の本来的な地位と意味として、ずっと一貫してきた、とはとても思えない。<万世一系の天皇>と称揚して、いかほどの意味があるのだろうか。天皇条項の積極的・能動的な改正案を提示するならば別として。
 第二に、(律令制前の素朴信仰-)長い神仏両立・習合体制-明治期に入っての「神道」への純化(-「国家神道」)-戦後の公的な「神道」行為の否定(「私的行為」化)、というのはきわめて単純な理解の仕方だ、誤りだ、ということがよく分かる。
 とくに明治改元後の「神仏判然」・「神仏分離」が徹底せず、現在以上にはるかに、天皇・皇室は「仏教」との関係が深かったことが、山口著部分で分かった。このことは、別途紹介するに値する。
 八幡和郎がかつて存したと理解しているらしき<皇国史観>とはいったい何だったのか。存在していても1937年の文部省<国体の大義>以降だろうが、山口によると、この文書自体がなおも「仏教」を排除・否定していない。
 なお、現在でも、①「後七日御修法」という仏事は現在も行われ、②泉涌寺等への「下賜」は継続し、④「師号宣下」も同様で、法然800年「遠忌」の2011年には「法璽大師」が新たに贈られた、という。p.350。
 第三に、天皇・皇室制度に関する政治家の意識として興味深いのは、つぎの記述だ。旧憲法28条(「信教ノ自由」の原則的保障)に関する枢密院での議論を、伊藤博文はこう述べて終結させた、という。これは山口による原文引用ではなく、要旨紹介だろう。p.241。
 <人は100年も生きられないのだから、そんなことはその時々の政治家が考えればよい!>
 「明治の元勲」すらこうなので、政治家ですらない現在の日本の政治運動の活動家や「評論家」類が、自分または自分たちの「利益」のためにだけ<天皇・皇室>に関して論じても、何ら不思議ではない。

2115/福田恆存「問ひ質したき事ども」(1981年)。

 福田恆存「問ひ質したき事ども」(1981年)/福田恆存評論集第12巻(麗澤大学出版会、2008)所収、p.107-p.155。
 日記ふうの文章で、興味深いことが書かれている。論述の順に従う。秋月の現在の関心によるので、以下の他にも取り上げるべき論点があることを、否定するものではない。
 福田恆存の文章の引用部分は、勝手に<新仮名づかい>に改めている。
 1/サンケイ新聞「正論」欄編集者。 
  ・この一年、「正論」欄に私への執筆依頼がない。「正論」メンバーの数は78人で1人およそ年に3-4回に書くが、「私が1年間、何も書かぬというのは変である」。
  ・私は「要するに、吾々は皆、売文業者なのだ」から読者の気分も想定して覚悟した方がいいと思いながらも、「心安だてに」某人に、「S氏」が「誰々には書かせるなと言っており、その表に私は挙げられているそうですよ」と軽口を叩いた。
  ・昨年に「正論」の新旧担当者と逢ったとき、旧氏は<そんな馬鹿なことはない、新年に機会を待っているのだろう」と言い、新氏も<正月3日か5日にお願いしようと思っている>と言う。しかし、用意して待っていたが音沙汰がない。新氏の苦衷を想像した-「S氏は大ボス」で、その下に立っていると被害はない。
  ***サンケイ新聞は改憲派を宣言しているのに「正論」欄には殆どそれが出ない、不思議だ、から始まる。自分(福田)は書きたいのに、というのが伏線。「大ボス」-「編集担当者」の関係というのは、現在でもあるのではないか。
  2/日本文化会議の討論会での江藤淳・基調報告。
  ・Voice1月号に去年(1980年?)9月23日のこの討論会の記事がある。<日本存立の条件と目標>が主題。
  ・江藤淳の基調報告「交戦権不承認が日本を拘束している」。これは「おかしい」。
  ***ここにも<日本文化会議>の活動が出てくる。
 最後の「おかしい」とは批判的な言葉で、江藤がアメリカまで行って資料を収集するまでもない等々とクレームをつけている。上掲書で6頁にわたるが、省略。
 3/渡部昇一批判-福田の清水幾太郎批判が契機。
  ・清水幾太郎・戦後を疑う(講談社、1980)を批判したら、多くの者が「嫉妬心から文句を付けた」と勘違いしたらしい。が、「私という人間と嫉妬という感情とは、およそ縁がない。嫉妬に限らず、羨望、虚栄心の類いは負の情念であり、余り生産的ではないからであろう」。嫉妬をうんぬんする「羞恥心や自意識」をみな持っているだろうと思っていたら、間違いだった。諸君!(1980年?)12月号の渡部昇一・西義之・小田晋の三氏の座談会は、「私の清水批判を読んでいないか、読んでも真意が解らなかったか、そのどちらか」だ。
  ・渡部昇一発言-「あの清水さんがいまは親米派になっている。ぼくは、『ああ、いいこっちゃ』と思いますがね。『何だいま頃帰って来やがって』という受け取り方はどうなんでしようか。主義の前に私情が先立っているような気がする」。
  ・渡部は「冗談を言ってはいけない」。1960年の清水ではなく、「戦前」と「今」と「何度となく変わった清水」を問題にしている。清水・わが人生の断片(文藝春秋、1975)にも「書き漏らして」いる清水の「真の姿」を問題にしている。渡部のごとく「ああ、いいこっちゃ」では済まされない。
  ・渡部昇一発言-「話題」は「すべて清水幾太郎」で、防衛について「議論も出来ない状態がいや」だ。「そのムードを打ち破ってくれただけでも価値がある」。
  ・「とんでもない話だ」。清水「核の選択」は忘れかけられている。防衛について「議論も出来ない状態」というものはどこにもなかった。「あったとすれば、渡部氏にとってだけであろう」。
 ・渡部昇一発言-「節操の美学」というならば「回心の美学」もある。「聖アウグスティヌス」のように「コロッとひっくり返っ」た聖人もいる。「何回も」は困るが「一回はいいんです」。
  ・清水の「変身」には「節操」という道徳などない。小田晋も「聖アウグスティヌス」と違って「徐々に少しずつ、回心」しており、「節操の美学」か「知的生産性」かという選択もあった、と「おづおづ反論している」。「『節操の美学』などと、大げさなことをいうりはやめてもらいたい」。
  ・私は<日刊福井>に「売文業者をたしなめる」を書いて、渡部昇一を「評した」。-「アウグスティヌスは回心後」、「己が過ちの告白と神の賛美に終始し」た。清水のように「派手に自己美化など試みていない」。「アウグスティヌスと清水氏を同日に論ずる頓狂な男が何処にいる」。
  ・「右の一事に限らぬ。最近の渡部氏のやっつけ仕事には目に余るものがあ」る。「いづれその公害除去に乗出す積りだが、ここではただ一言、渡部氏に言っておく。なぜあなたは保守と革新という出来合いの観念でしか物を考えられないのか。右なら身方、左なら敵という考え方しか出来ないのか。その点、吾々を保守反動と見なす左翼と何処も違いはしない」。「左翼と、左翼とあれば頭から敵視するあなたは、所詮は一つ穴の狢であり、同じ平面上で殴り合い、綱引きをやっている内ゲバ仲間としか思えない」。「あなたの正体は共産主義者と同じで、人間の不幸はすべて金で解決出来ると一途に思詰めている野郎自大の成上り者に過ぎぬではないか」。
  ・渡部昇一発言-「清水さんの商人の血は意外に大きい」。「商人というのは、売れるならば」去年反物屋で今年ブティックでも「いっこう構わないと考える」。それは「自分の才覚のあらわれなんだ」
  ・「よくも、まぁ、こんなことが言えたものだ。これでは清水氏の『回心』も、一回はいいと言いながら、二回でも三回でも認める気と見える」。
  ***「戦後知識人・文化人」(「進歩的」か「保守的」かを問わず)を語る場合に、清水幾太郎は外せない。それはともかく、ここでの福田による渡部昇一批判は、のちの渡部昇一を知っても、適切だと思える(1980年に渡部は50歳)。
 福田は渡部昇一と「左翼」は「所詮は一つ穴の狢」だとし、「あなたの正体は共産主義者と同じ」とまで言っている。櫻井よしこと不破哲三の共通性・類似性のほか、日本会議と日本共産党の共通性・類似性もまた、この欄で記したことがある。
 福田恆存は、かなり本質的な点を見抜いていたように見える。
 上の最後に出てくる「商人」論は、渡部昇一自身が文章書き「商人」=「売文業者」だ(だった)とということを示唆的にだが明瞭に示している、と読める。
 直接に接したことがあるからなのか、岩田温も、こんな渡部昇一を「尊敬」していたのでは、ロクな学者・研究者、評論家になれはしないだろう。まだ若いのだから少しは「回心」した方がよい。
 所持していないが、西尾幹二は最近に渡部昇一との共著か対談書を刊行したらしく(またはその予定で)、<渡部氏との違いがよく分かると思う>という旨を、たぶん自分のサイトに書いていた。こんなことを書いていること自体が、大きくは<渡部昇一と同じ世界>にいる(いた)ことを、西尾自身が述べていることになると思われる。櫻井よしこらは「保守の核心層」ではないと批判しながらも、西尾は日本会議・櫻井よしこらが形成する<いわゆる保守>の世界に(その端っこにでも)、身を置いておきたいのだろう。神話論まで持ち出しての<女性・女系天皇否定論>はその証し。

2109/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史12。

 「多くの日本人は、今日でもややもすれば、日本文化なるものの最初からの存在を肯定し、外国文化を選択し同化しつつ今日の発達を来したと解釈せんと欲する傾きがある。
 この誤謬は随分古くからあって、国民的自覚が生ずると同時に、日本人はすでにこの誤謬に囚われていたと言ってもよい。
 維新以前の日本文化起源論とも云うべきものは、最後にこの立論の方法でほとんど確定せられていた。
 日本が支那文化を採って、それに従って、進歩発達を来したということは、だいたいにおいて異論はない。
 もっとも徳川氏の中頃から出た国学者達はこれにさえも反対して、あらゆる外国から採用したものは、すべて日本固有の何よりも劣ったものであり、それを採用したがために、我国固有の文化を不純にし、我国民性を害毒したと解釈したものもあった。
 今日では、その種の議論は何人も一種の負け惜しみとしてこれを採用しないが、しかし、自国文化が基礎になって、初めから外国文化に対する選択の識見を備えていたということだけは、なるべくこれを維持したいという考えがなかなか旺盛である。」
 内藤湖南(1866~1934年)は1924年初版・1930年増補の<日本文化史研究>で、上のように述べた、とされる。
 小路田泰直・「邪馬台国」と日本人(平凡社新書、2001)、p.154-5。一文ごとに改行した。
 「日本文化なるものの最初からの存在を肯定し、外国文化を選択し同化しつつ今日の発達を来した」というのは、おそらくは今日の<日本会議>運動の基礎にある考え方であり、信念だろう。
 西尾幹二が2019年に日本「神話」の歴史に対する<優越>性を語るのも、この始原としての<日本神話>=<日本文化>の、とくに当時の中国に対する<優越性>、少なくとも<自立性>を前提としているのかもしれない。
 また、「自国文化が基礎になって、初めから外国文化に対する選択の識見を備えていた」という理解の仕方を内藤湖南は皮肉っているのだが、櫻井よしこのつぎの文章は、日本の「神道」の基礎の上にその「寛容」さをもって「仏教を受け入れた」のだとしている。まさに、内藤湖南がかつて皮肉ったようなことを述べていることになるだろう。
 櫻井よしこ・週刊新潮2019年1月3日=10日号。
 「理屈ではない感性のなかに神道の価値観は深く根づいている。その価値観は穏やかで、寛容である。神道の神々を祭ってきた日本は異教の教えである仏教を受け入れた。
 その寛容さを、平川〔祐弘〕氏は……と較べて、際立った違いを指摘するのだ。」
 また、内藤の上の文章は江戸時代の「国学」も批判しているが、これまた櫻井よしこのつぎの一文をふまえて読むと、きわめて興味深い。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号。
 「壮大な民族の物語、日本国の成り立ちを辿った古事記は、…、日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示しています。」
 櫻井よしこは日本書記ではなく、(似たようなことが記述されていても)古事記を優先または選択する。
 これは、「国学」者・本居宣長が<純日本性>・<日本固有性>を求めて、日本書記ではなく古事記を選好したことを、おそらく継承しているのだろう。
 日本<神話>といえば漠然としているが、上の一連の<日本会議>的思考と理解の仕方は、つぎのように意外に単純な(・幼稚な)かつ大雑把なものかもしれない。
 日本(・民族)の素晴らしさや固有性・本来性=日本の長い伝統=日本<神話>とくに古事記=天壌無窮の神勅=天皇=万世一系=女性天皇否認。
 最後の部分は、西尾幹二によると<神話>→天皇→女系否認だから、このようになる。
 ところで、白鳥庫吉(1865~1942年)は、上掲書p.120によると、日本<神話>に出てくる(「高天原」・)「夜見」国・「幽界」について、こう書いている。
 「この高天原・夜見国なりが神典〔日本書記〕に見えるばかりで、…観れば、この幽界は太古から国民の信念にあったものと見做すのは困難である。
 思うにこれは、仏教と接触してかの国にいう極楽地獄の思想が影響したのではあるまいか。
 ……、海国に龍城があり、またそこに如意玉があったということは、明らかに仏書から得た知識でなければならぬ。<中略>
 もしもこの考察に誤りがないとすれば、神典の作られたきには仏教が伝搬せられていて、その作者の資料になったということができる。」
 かりにこの白鳥の考察が適切だとすれば、日本書記等の中の「神話」にも、6世紀半ばから後半とされる<仏教伝来>による仏教の影響を受けて作成されたものがあることになる。
 安本美典が邪馬台国=高天原の場所・地名を探求していることを知っていたりするので、さすがに白鳥庫吉を全面的に信頼するとは言わないが、日本神話それ自体が<純粋に日本>的なものではない、つまり中国あるいは東アジアの「伝承」や「物語」の影響を受けているだろうことを一切否定することはできないだろう。
 いかに「日本神話」に根源・始原を求めようとしても、核のない玉葱のごとく、中心は真空で、あるいはそこに空気があってもあっという間に霧散する、そのようなものかもしれない。
 また、「神道」がもともときちんとあって、その「寛容」性のために仏教も伝来できた、という櫻井よしこの「思い込み」も子どもダマしのようなものだろう。
 櫻井は、仏教伝来以前の「神道」とはどのような内容の(と言っても「教義」を確認することはできないのは常識に属する)、どのような儀礼・祭礼のものだったかを、きちんと説明すべきだろう。また、そもそもは、「古事記」=「神道」に立ち戻ることが、なぜ<保守>なのか、という言葉・概念の問題もある。
 内藤湖南、白鳥庫吉の時代からほぼ100年、人間の、あるいは日本人の「知」というのはいかほど「進歩」または「向上」したのだろうかと、感慨を覚える。この二人を絶対視する意図は全くないけれども。
 似たような論点を、明治期後半と、あるいは江戸時代の本居宣長等々と同様に、今日でもあれこれと(櫻井よしこには「単純化」が著しいが)、論じているわけだ。
 かくして、とやや跳ぶが、今年の天皇即位の儀式に「神道」ではなく「中国」風の印象を受けた、とこの欄に私が書いたことも直観的には適切だったように思える。
 天皇・皇室の「内々」の儀礼はともかく、即位の儀礼は、少なくとも文献・絵画等で辿り得るかぎりでの(奈良時代か平安時代初頭の)、決して日本(または「神道」)に固有で純粋なものではなく、仏教かその他の中国思想・儀礼かはともかく、<異国>の雰囲気がすでに混じっていた、それを(純粋な「日本」式または神武天皇の即位礼の様式を確認・創造することができないだめに)明治天皇もまた引き継がざるをえなかった、そして、今上天皇も、ということになるのではないかと思われる。
 聖徳太子の時期から天武・持統の時代に日本は独自の文化性を確立し、主張し始めた、と<日本会議>派の人々は理解したいのかもしれないが、律令制そのものが中国風であり、漢風諡号もまたその後に「継受」または「創造」された。<神仏習合>はすでに、しっかりと根を下ろしていた。
 日本を蔑視する、日本人であることを恥じる、という気は秋月瑛二には全くない。
 ただ、「史実」に知的関心がある。
 最近にあらためて思うのは、日本会議等の「右翼」や一部「保守」派は、明治維新以降約150年の日本の歴史、明治憲法と終戦までのわずか56年間の「明治憲法(・旧皇室典範)体制」を、長い長い日本の「伝統」と意識的に、または無知であるがゆえに、取り違えている、ということだ。
 太政官を筆頭とする律令体制は、形骸化してはいたが、じつは形式的には、明治維新期初頭まで継続していたのではないか、と思われる(きちんとは確認・検証しないで書く)。
 7世紀末ないし8世紀初頭(701年・大宝律令)から<武家政治>を経て19世紀後半まで、何と明らかに1100年以上だ。
 この1100年以上の(少なくとも表面・形式だけは)中国を「模範」とした、少なくとも「影響」を強く受けていた時代と、あるいは<神仏習合>の長い時代と、上の150年や56年の時代とは、どちらか日本の「伝統」なのだろうか。長い「伝統」を否定して切断した、そして神武開闢時代まで「国家」理念を遡らせた画期こそが、明治維新・明治新政府の樹立だった。それは<革新>であって、<保守>でも何でもない。
 また、ナショナリズム発揚ではあるが、ナショナリズムの利用は共産主義・社会主義国家でもあったことで(また、日本共産党もある意味では正確に反米ナショナリズム政党で)、西尾幹二・保守の真髄(徳間書店、2017)の理解するように「共産主義=グローバリズム」では全くない、ということは別に論及する。
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 小路田泰直・「邪馬台国」と日本人(平凡社新書、2001)は、「邪馬台国」関係で本棚(というよりも広大な?書庫)から発見したもので、著者の40歳代の書らしく元気がよい。
 「邪馬台国」関連でも面白く、白鳥庫吉(その指導を受けたのが津田左右吉)と内藤湖南の各々による北九州説と畿内説の主張も、各々の「東洋史学」の立論の論脈で位置づけられる必要があることが分かる。
 また、小路田に従えば、明治期以降の敗戦時まで、①(純)日本主義、②アジア主義、③皇国史観、という歴史観の変遷が見られるらしい。②は「大東亜」戦争となり③に直結するのだろう、きっと。
 いずれにせよ、「皇国史観」の時代が、明治期以降をすべて占めていたわけでもない。
 八幡和郎は「新皇国史観」という語を2011年の書の副題に使っていたが、今どき「皇国史観」という語を使うこと自体が<軽率すぎ>、この人物は「歴史」に本当は無頓着であることを示しているだろう。
 小路田(歴史学者、1954-)による歴史学界・アカデミズム(のボスたち?)批判もすこぶる面白いが、機会があれば触れる。

2108/「邪馬台国」論議と八幡和郎・西尾幹二/安本美典③。

 専門家として叙述する資格も、意図もない。同じ立場にあるはずの、八幡和郎らの所説に論及する。
  <魏志倭人伝>は3世紀後半ないし末に執筆されたとされるので、数十年または100年程度は前のことも含めて、「倭」に関して叙述している。
 その中には「対馬」、「一大(支?))=壱岐、「末盧」=松浦、「伊都」=怡土(糸)、「奴」=儺・那〔福岡市の一部〕といった現在に残る地名と符合するものもあるので、そのかぎりで、少なくともこうした地域の地理や人々の状態を、全てが事実ではなかったにせよ簡単にでも記載していることは間違いないだろう。これら地域に限らず、「倭人」全体についてもそのようなところはあるが、逐一には挙げない。
 7世紀後半から8世紀前半にかけて執筆・成立した日本書記・古事記等がいかに紀元前660年の神武天皇即位やそれ以前の「神話」を記述しているとしても、<魏志倭人伝>よりも400年以上のちに書かれたものだ。
 <魏志倭人伝>が全体として「歴史資料に値しない」(西尾幹二)などとは言い難いのはほぼ常識的なことだ。
 なお、西尾は、<魏志倭人伝>からは「互いに無関係な文書が、ただ無造作にのりづけにして並べられているという無責任な印象を受ける」ようで、「書き手の陳寿という人物のパーソナリティはなにも感じられない」等とする。
 歴史叙述者は自分の「パーソナリティ」を感じさせなければならないのだそうだ。
  <魏志倭人伝>には、「倭人」、「倭國」、「倭地」、「倭種」、「倭女王」、「親魏倭王」、「遣倭」・「賜倭」〔倭に遣わす・賜る〕、等の「倭」という語が出てくる。
 <伝>は2000字ほどの漢字文で長い文章ではないので「倭」という漢字を数えてみると、見落としがあり得るのでやや曖昧にして、計19-20回ほどだ。
 この「倭」=ワ・ウァが当時の魏の人たちまたは執筆者・陳寿が勝手に名づけたのか、当時に北九州にいた人の対応によるのか(ワ=当時の言葉でのの「輪」(ワ)ではないかとの「推測」もある)はよく知らない。
 どちらにしても、<魏志倭人伝>という当時の中国の史書は日本を「倭」と呼んだ。
 一方、日本書記の中にもまた、しばしば「倭」という語が出てくる。
 ネット上に日本書記の漢文全文が掲載されていて、「倭」で検索することもできる。
 それによって検索してみると、計算間違いがあり得るのでやや曖昧にすると、およそ190回も「倭」がヒットする
 著名なのは、崇神天皇(10代)の項(巻第五)に出てくる、つぎだろう。
 「倭迹迹日百襲姫命」、または「倭迹迹日姫命」。なお、「倭迹速神浅茅原目妙姫」というたぶん別の姫命の名もある。
 垂仁天皇(11代)の項〔巻第五)には、つぎの人名も出てくる。
 「倭姫命」(古事記では「倭比売命」)、「倭彦命」(古事記では「倭日子命」)。前者は垂仁の皇女で、後者は崇神の弟のようだ。
 崇神の項には「倭大国魂神」という神の名も出て来る。「天照大神」とともに最初は宮中でのちに外で祀られた、という。確証はないだろうが、現在にも奈良盆地内ある大和神社(やまと-)は、北にある石上神宮や南にある大神神社ほどには全国的には知られていないが、この「倭大国魂神」を祀っている、とされている。ちなみに、「大和」という名からだろう、境内に、戦艦大和の模型を設置する小さな建物がある。
 その他、「倭京」=藤原京以前の飛鳥の宮廷、「倭国造」=現在の奈良県の一部の国造、もある。
 以上よりも関心を惹くのは、地名または国名としての「倭」だ。
 例えば、神武天皇(初代)の項(巻第三)の中に、「倭国磯城邑」という語がある。現代語訳書によると、この辺りの文章は、「その時…が申し上げるのに、『倭の国の磯城邑〔ルビ/しきのむら〕に、磯城の八十梟帥〔ヤソタケル〕がいます。…』と」。
 宇治谷孟・全現代語訳/日本書記・上(講談社学術文庫、1988)、p.98。なお、この現代語訳書は、原文の「倭」を全て忠実に「倭」とは記載していない。
 ここでの「倭」は、文脈からすると、現在の奈良県・かつての大和国の意味だろう。現在でも「磯城郡」がある(かつては桜井市全域、橿原・天理・宇陀市の一部を含み、現在は、田原本・川西・三宅の各町が残る)。
 一方、「倭」が上よりも広域を指す語として用いられていることもある。
 例えば、かなり新しい時期のものだが、天武天皇(40代)の下巻(巻第二十九)に、こう出てくる。日本書記の執筆・編纂者が、まだこうも記述していたことは注目されてよいだろう。
 天武3年「三月…丙辰、対馬国司…言、銀始出于当国、即貢上。由是、…授小錦下位。凡銀有倭国、初出于此時」。(旧漢字体は新体に改めた)。
対馬で初めて「銀」が産出して、これが「倭国」で最初だ、というのだから、ここでの「倭国」は、天武・持統天皇時代に<支配>が及んでいたかぎりでの、日本全体のことだと理解することができるだろう。
 また、「大倭」も、例えば天武天皇時代にも使われている。但し、「大倭・河内・摂津・山背・…」と並列させて用いられていることがある。天武4年の項にその例が二つある。この「大倭」という語の、日本書記全体の検索はしない。
 さて、日本書記(や古事記)での「倭」は何と読まれていたのだろうか。現在の諸現代語訳のルビ振りが当時の読み方を正確に反映しているのかどうかは分からないが、おそらく間違いなく<ヤマト>であって、<ワ>ではないだろう。
やまとととひももそひめのみこと(倭迹迹日百襲姫命)」、「やまとひめのみこと(倭姫命)」という具合にだ。
 地域または国名としての「倭」もまた、<ヤマト>だと考えられる。
 そして、国名を漢字二文字にするという方針のもとで「倭」→「大倭」という変化が行われた、と推察される(紀ー紀伊、等も)。この「大倭」を、「倭」という卑字?を嫌ってのちに改めたのが、「大和」=ヤマトだ。倭→大倭→大和、こう理解しておかないと、「大和」という文字は「ヤマト」とは読めない。
 以上は推察まじりだが、おおよそは一般に、このように考えられていると見られる。
 そして、この「大倭」または「大和」が、いつの頃からだろうか、聖徳太子の時代の頃から天武・持統時代または日本書記等の編纂の時代までに「日本」という国号へと発展したのだろう。「日本」という語・概念の成立の問題には立ち入らない。
 以上は何のために記したかというと、八幡和郎の考え方を批判するためにだ。
  八幡和郎の邪馬台国・大和朝廷(王権)分離論は、八幡独自のものでも何でもない。
 八幡和郎が邪馬台国の「卑弥呼」時代と大和朝廷(王権)の時期的関係をどう見ているのかは定かではないが、これは後者の「成立」とか「確立」とかの時期、そしてこれらの用語の意味にもかかわっている。
 しかし、神武天皇は卑弥呼よりも前、崇神天皇は卑弥呼よりもあと(の次の「台代」)の時代と考えていることは間違いない。なお、卑弥呼は3世紀半ばに活躍したと見られている。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない~新皇国史観が中国から日本を守る~(扶桑社新書、2011)。
 ・「神武天皇はだいたい西暦紀元前後、…になります」、しかし、崇神との間が10代でなく数世代だとすれば「二世紀のあたりかもしれません」。p.30-p.31。
 ・「崇神天皇は、その〔卑弥呼の〕後継者である台代の同世代人とみられます」。p.47。
 また、最近の、八幡和郎「邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話」アゴラ2019年12月19日は、こう書いている。
 ・「大和政権が北九州に進出したのは、邪馬台国が滅びてから半世紀以上経ってからのことだと推定できる」。/とすれば、「北九州に邪馬台国があったとしても統一をめざして成長する大和政権と接点がないのが当たり前だ」。
 八幡は神武天皇の実在を否定していないが、大和王権の実質的創建者を崇神天皇と見ているようなところがあり(この点で(神武-)崇神-応神-継体王朝という王朝交替説と部分的に類似する)、その孫・景行天皇とさらにその子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)時代に王権の支配領域の範囲を著しく拡大したというイメージを持って書いていると推察される。従って、上の「北九州に進出」や「統一をめざして成長する大和政権」は、崇神とその後の数世代をおそらく想定しているのだろう。
 安本美典のつぎの本は、北九州説・畿内説と上の二つの前後関係を主な基準として邪馬台国と大和朝廷(王権)の関係に関する学説を10に分類している。
 安本美典・邪馬台国ハンドブック(講談社、1987)。
 これによると、八幡和郎のように<邪馬台国=九州説>に立つ説も、大和朝廷「成立」の時期を邪馬台国以前と見るか以後と見るかに二つに分かれる。
 前者の中には前回にこの欄で触れた<僭称説>も入り、本居宣長等が唱えた。しかし、八幡和郎によると邪馬台国の人々は(魏の使者も)大和王権の存在を知らなかったはずなので、八幡和郎説?はこれに該当しない。
 一方、後者には、津田左右吉らが入る、とされる。以上、とくにp. 231。
 いずれにせよ、八幡説?は新奇でも独自でもない。
 しかし、その説が論理的にみて成立し得るのだろうか、が問題だ。
 つまり、前回も<邪馬台国>の「邪馬台」と大和朝廷の「大和(ヤマト)」の共通性または類似性を指摘したが、大和政権(・王権・朝廷)が「邪馬台国」の存在を知らない、または知らなかったとすれば、なぜ、大和政権を継承したはずの天武・持統天皇、元明天皇ら、そして記紀執筆者・編纂者は、「倭」あるいは「大倭」という語を、日本書記等で用いているのだろうか。
 日本書記には、なぜ、<魏志倭人伝>にいう「倭国」と同じ「倭」という語が、先述のように100回以上も出てくるのか?
 日本書記において、天武3年(674年)に関する記載として、既に紹介した「凡銀有倭国、初出于此時」とある場合の「倭国」は何のことか。
 「迹迹日百襲姫命」、「姫命」等々はなぜ「倭」と冠せられているのだろうか。なお、日本書記ではヤマトタケルノミコトは一貫して「日本武尊」のようだが、古事記では「倭建命」と記載されている、とされる。
 八幡和郎は、つぎのような名文?を、2011年に活字として残した。上掲書、p.49。
 ・「邪馬台国とか卑弥呼とかという名も、中国側での呼称で、本当にそういうクニや人物の名前だったかは不明です」。
 たしかに、100%明確ではないのだろう。八幡によれば、「中国側」が勝手に「邪馬台国」とか「卑弥呼」とか称したのであり、北九州の人たちがそう呼称したわけではない、ということになるのだろう。
 中国の史書を「信頼できない」とする1999年の西尾幹二著の(悪い)影響を受けていなければ幸いだ。八幡もまた、「媚中」史観を持たないためには、1700年以上前の3世紀の中国語文献を簡単に信用してはならないという「主義」者なのかもしれない。
 しかし、「邪馬台」と「ヤマト」の共通性・類似性は全くの偶然だとは思えないし、「卑弥呼」も、勝手に魏の使者が名づけたのではなく、固有名詞ではない「日御子」・「日巫女」・「姫御子」といった語に対応するものと理解する方がより自然だろう。
 そんなことよりも、以下に述べるように、日本書記の執筆者は遅くともその成立年までに、「邪馬台国」・「卑弥呼」という呼称をすでに知っていたと見られることは、重要なことだ。
 かりに大和政権と邪馬台国が無関係だったとすれば、大和政権の継承者たちは、邪馬台国や「卑弥呼」に言及する中国側文献などは無視するか、言及しても否定するか何らかの意味で消極的な評価を加えるだろう。
 しかし、日本書記自体が、神功皇后に関する項で、<魏志倭人伝>にこう言及している。漢字原文を引用するのも不可能ではないが、宇治谷孟・上掲書p.201-2による。
 「39年、この年太歳己未。-魏志倭人伝によると、明帝の景初3年6月に、倭の女王は…を遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。<中略>/
 40年、-魏志にいう。正始元年、…を遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。
 43年、-魏志にいう。正始4年、倭王はまた使者の…ら、8人を遣わして献上品を届けた。
 この日本書記の記載から明らかであるのは、第一に、<魏志倭人伝>を見て読んでいる以上、「邪馬台国」・「卑弥呼」が登場して、それらについて書かれていることも知っていた、ということだろう。
 第二に、「倭」、「倭王」、「倭の女王」と書かれていること自体を、何ら不思議にも、不当にも感じていないように見える、ということだ。
 第三に、ここでの「倭の女王」を明らかに「卑弥呼」のことだと理解している。神功皇后の項で、上の文章をわざわざ挿入しているからだ。したがつて、「卑弥呼」=神功皇后という卑弥呼論が、日本で初めて説かれている。
 第三は、<年代論>に関係するので、ここでは(まだ)立ち入らない。
 この第三点を除く、上の二つだけでも十分だろう。
 さらに加える。
 ①<魏志倭人伝>ではなく高句麗(当時)の「広開土王(好太王)碑」の中に、文意については争いがあるのを知っているが、ともかくも「倭が海を渡った」旨が、「倭」を明記して刻まれている。当時の高句麗もあるいは広く朝鮮半島の人々は、今の日本のことを「倭」と称していたことが明らかだろう。広開土王は391-2年に即位した、とされる。大和王権の崇神天皇よりも(八幡和郎はもちろん安本美典においても)後代の人だ。
 ②日本書記編纂には知られておらず、存命中だったかもしれない本居宣長の知識の範囲にもなかっただろうが、のちの江戸時代になって、「漢委奴國王」と刻んだ金印が博多湾の志賀島で発見された。「委奴」については、ヤマト、イトという読み方もあるようだが、どうやら多数説は「漢のワのナの国王」と読むらしい。
 これまた、中国側の「勝手な」呼称なのかもしれないが(紀元後1世紀中のものだとされることが多い)、「倭」または「委」というクニとその中の「奴」という小国の存在が認められていたことになる。かつまた、当時の北九州の人々も(王を含めて)それをとくに怪しまなかったようでもある。
 以上、要するに、日本人の書いた文献、つまり日本書記(や古事記)に出てくる「倭」というのは、<魏志倭人伝>における「倭」、「卑弥呼」が女王として「邪馬台国」にいた「倭国」と連続したものだと理解するのが自然だと思われる。
 そうでなければ、日本書記の中に「倭」が上のようにしばしば登場するはずがないのではないか。
  上で書き記し忘れた、より重要なことかもしれないが、、諸代天皇・皇族の名前自体の中に、「倭」が使われていることがある。 
 日本書記では、和風諡号の中の「ヤマト」にあたる部分は「日本」という漢字を用いている。以下は、例。
 孝霊天皇(7代)=「大日本根子彦太瓊天皇」(おおやまとねこふとにのすめらのみこと)。
 開化天皇(9代)=「稚日本根子彦大日日天皇」(わかやまとねこおおひひのすめらのみこと)。
 しかし、古事記では、それぞれ「大根子日子賦斗迹命」、「若根子日子毘々命」だとされる。「日本」と「倭」は、交換可能な言葉なのだ。
 また、日本書記でも、「倭根子」を登場させることがある。
 ①景行・成務天皇(12-13代)の項(巻第七)、宇治谷孟・上掲書p.154。
 景行天皇が「八坂入媛」を妃として生んだ「第四を、稚倭根子皇子という」。
 ②孝徳天皇(36代)の項(巻二十五)。漢字原文。宇治谷書には、「倭」が省略されている。。
 2年2月15日、「明神御宇日本倭根子天皇、詔…。朕聞…。」
 =「明神〔あきつかみ〕として天下を治める日本天皇は、…に告げる。…という。」宇治谷孟・全現代語訳/日本書記・下(講談社学術文庫、1988)、p.168。
 ③天武天皇の項・下(巻第二十九)。
 12年1月18日、「詔して、『明神御八洲倭根子天皇の勅令を…たちよ、みな共に聞け。……』といわれた」。=宇治谷孟・上掲書(下)、p.294。
  以上のとおりで、繰り返せば、日本書記(や古事記)に出てくる「倭」というのは、<魏志倭人伝>における「倭」、「卑弥呼」が女王として「邪馬台国」にいた「倭国」と連続したものだと理解するのが自然だ。
 従って、八幡和郎の言うつぎのようには「解決」できるはずがない。
 八幡和郎・前掲アゴラ2019年12月19日。
 「邪馬台国が九州にあったとすれば、話は簡単だ。
 邪馬台国が滅びて数十年たったあと、その故地を支配下に置いた大和王権は大陸に使者を出した女王の噂などなんにも聞かなかったというだけで、すべて問題は解決する」。
 このようには「すべて問題は解決する」ことができない。
 厳密には「その故地を支配下に置いた」時点での大和王権ではなかったかもしれないが、その大和王権の継承者である天武・持統天皇や日本書記編纂者は、<魏志倭人伝>を、そして「卑弥呼」という「大陸に使者を出した女王」の存在を知っており、「卑弥呼」=「神功皇后」という推理までしている
 これは<魏志倭人伝>の内容の信頼性を少なくともある程度は肯定していることを前提としており、西尾幹二や八幡和郎よりも、1300年ほど前の日本人の方がはるかに、<魏志倭人伝>やそこで描かれた「倭」、つまりのちに「日本」となった国の歴史について、知的・誠実に、向かい合っている、と言えるだろう。
 1300年ほど後の西尾や八幡の方が、知的退廃が著しいのだ。その理由・背景は、<日本ナショナリズム>=<反媚中史観>なのかもしれないが、「卑弥呼」・邪馬台国の頃の3世紀の歴史を考察するに際して、そんな<政治的>気分を持ち出して、いったいいかなる成果が生まれるのだろうか。
 年代論等は、さらに別に触れる。
 八幡和郎は(かつての故地だったと当然に知らないままで)大和政権はある程度の戦闘を経て、北九州を支配下においた、というイメージを持っているようだ。しかし、他の地域はともかくも、九州・邪馬台国の有力地である筑紫平野(有明海側)の山麓の勢力と激しく闘った、という記録はなく、かつての故地だったからこそ円滑に支配領域を拡大した(あるいは元々支配していた)という旨の指摘も、確かめないが、読んだことがある(たぶん安本美典による)。荒唐無稽にも<磐井の乱>(6世紀前半)を持ち出して、旧邪馬台国の後裔たちの反抗だとは、八幡和郎は述べていないけれども。
 八幡和郎は、「邪馬台国」論議の蓄積を十分に知らないままで、勝手な記述をして、「皇室」やその維持の必要性について「理解していただく論理と知識を、おもに保守的な読者に提供しよう」とする「傲慢さ」を、少しは恥ずかしく思うべきだろう。

2107/「邪馬台国」論議と八幡和郎・西尾幹二/安本美典②。

 安本美典著の近年のものは、先だってこの覧で言及した神功皇后ものの一部しか熟読していない。その他の一部を捲っていると、興味深い叙述に出くわした。
 邪馬台国論議や古代史論議に関心をもつ一つの理由は、データ・史資料が乏しいなかで、どういう「方法」や「観点」で歴史・史実に接近するのか、という議論が内包されているからだとあらためて意識した。これも、文献史学と考古学とでは異なるのだろう。
 安本の学問・研究「方法」そのものについては別に触れる。
 ①「私たちは、ともすれは、…、専門性の高さのゆえに難解なのであろうと考える。こちらの不勉強ゆえに難解なのであろう、と思いがちである。
 これだけ、社会的にみとめられている機関や人物が、自信をもって発言しているのであるから、と思いがちである。
 しかし、ていねいに分析されよ。」
 ②「理系の論理で『理解』すべきものを、文系の論理、つまり、言葉による『解釈』にもちこむ」。
 安本美典・邪馬台国全面戦争-捏造の「畿内説」を撃つ(勉誠出版、2017)。p.241.とp.202。
 西尾幹二が「社会的にみとめられている人物」で「自信をもって発言している」ように見えても、「ていねいに分析」する必要がある。さすがに深遠で難解なことを書いている、などと卑下する必要は全くない。
  「理系の論理で『理解』すべきものを、文系の論理、つまり、言葉による『解釈』にもちこむ」というのは、この欄で私が「文学」系評論家・学者に対して-本当は全てに対してではないのだが-しばしば皮肉を浴びせてきたことだ。私自身は「文系」出身者だが、それでも、「論理」や概念の「意味」は大切にしているつもりで、言葉のニュアンスや「情緒」の主観的世界に持ち込んで独言を吐いているような文章には辟易している(江崎道朗の書は、そのレベルにすら達していない)。
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 西尾幹二は2019年の対談で「歴史」に対する「神話」の優越性を語る。しかし、そこでの帰結であるはずの<女系天皇否認>について、<日本神話>のどこに、どのように、皇位を男系男子に限るという旨が「一点の曇りもなく」書かれているかを、具体的に示していないし、示そうともしていない。
 西尾にとって大切なのは、「原理論」・「総論(・一般論)的方法論」の提示なのだろう。
 日本の建国・「国生み」の歴史についても、「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」と(章の表題としても)明記し、日本書記等を優先させよ、とするが、では日本書記等の「神話」によれば、日本ないし日本列島のクニ・国家の成立・発展はどう叙述されているかを具体的に自らの言葉でもって叙述することをしていないし、しようともしていない。
 日本書記と古事記の間に諸「神話」の違いもある。また、日本書記は、ある書によれば…、というかたちで何通りもの「伝承」・「神話」を伝えている。
 <日本神話>を尊重してすら、「解釈」や「選択」を必要とするのだ。そのような地道な?作業を、西尾はする気がないに違いない。そんなチマチマしたことは、自分の仕事ではないと思っているのかもしれない。
 西尾幹二・国民の歴史(産経新聞社、1999)第6章<神話と歴史>・第7章<魏志倭人伝は歴史資料に値しない>。=同・決定版/国民の歴史・上(文春文庫、2009)第6章・第7章。以下は、入手しやすい文庫版による。
 西尾の魏志倭人伝嫌悪は、ひとえに<新しい歴史教科書>づくりのためのナショナリズム、中国に対する「日本」の主張、という意識・意欲に支えられているのかもしれない。
 しかし、かりにそれは是としてすら、やはり「論理性」は重要であって、「暴論」はよくない。
 ・p.209。-「今の日本で邪馬台国論争が果てるところを知らないのを見ても、『魏志倭人伝』がいかに信用ならない文献であるかは立証されているとも言える」。
 ・p.209-210。-岡田英弘によると1735年<明史日本伝>はかくも〔略〕ひどい。「魏志倭人伝」はこれより「1500年も前の文章」なのであり、この項は「本当はここでもう終わってもいいくらいなのだ」。
 ・p.216。-「結論を先にいえば、『魏志倭人伝』を用いて歴史を叙述することははなから不可能なのである」。
 ここで区切る。日本の歴史研究者の誰一人として、魏志倭人伝は正確な当時の日本の史実を伝えており。それに従って古代史の一定範囲を記述することができる、と考えていないだろう。
 魏志倭人伝だけを用いて叙述できるはずはなく、また、その倭人伝の中の部分・部分の正確さの程度も論じなければならない。日本のはじまりに関する歴史書を全て見ているわけではないが、かりに「倭国」から始めるのが西尾大先生のお気に召さないとしても、魏志倭人伝のみに頼り、日本書記や古事記に一切言及していない歴史書はさすがに存在しないだろう。
 西尾幹二は、存在しない「敵」と闘っている(つもり)なのだ。
 上の範囲の中には、他にも、まことに興味深い、面白い文章が並んでいる。
 石井良助(1907-1993)の1982年著を紹介してこう書く。p.214以下。
 ・石井は「古文書に書かれている文字や年代をそのままに信じる素朴なお人柄」だ。「全文が書かれているとおりの歴史事実であったという前提に少しの疑いももたない」。
 ・「伝承や神話を読むに必要な文学的センスに欠けているし、『魏志倭人伝』もとどのつまりは神話ではないか、というような哲学的懐疑の精神もゼロである」。
 ・石井は「東京大学法学部…卒業、法制史学者、…」。「世代といい、専門分野といい」、「日本の『戦後史』にいったい何が起こったか」がすぐに分かるだろう。
 ・「文学や哲学のメンタリティを持たない単純合理主義者が歴史にどういう改鋳の手を加えてきたかという、これはいい見本の一つである」。
 以上。なかなか<面白い>。石井良助はマルクス主義者ではなかったが、津田左右吉流の文献実証主義者だったかもしれない。「法制史」の立場からの歴史叙述が一般の歴史叙述とは異なる叙述内容になることも考慮しなければならないのだが、それにしても、「文学や哲学のメンタリティを持たない単純合理主義者」等の人物評価はスゴい。書評というよりも、人格的価値評価(攻撃)に近いだろう。
 そして、西尾幹二にとって、いかに「文学や哲学のメンタリティ」、あるいは「哲学的懐疑の精神」が貴重だとされているかが、きわめてよく分かる文章だ。
 とはいえじつは、西尾のいう「文学的センス」・「文学や哲学のメンタリティ」・「哲学的懐疑の精神」なるものは、今日での世界と日本の哲学の動向・趨勢に対する「無知」を前提としていることは、多少はこれまでに触れた。
 「哲学のメンタリティ」・「哲学的懐疑の精神」と言えば響きがよいかもしれないが、その内実は、「西尾にとっての自己の思い込み・観念の塊り」だろう、と推察される。
 さて、後の方で、西尾は別の意味で興味深い叙述をしている。こうだ。
 p.220。神話と「魏志倭人伝」の関係は逆に理解することも可能だ。つまり、魏の使者に対して日本の官吏は<日本神話>=「日の神の神話」を物語ったのかもしれない。
 しかし、これはきわめて苦しい「思いつき」だろう。「邪馬台国」も「卑弥呼」も、「日の神の神話」には直接には出てこない。イザナキ・イザナミ等々の「神々」の物語=<日本神話>を歴史として「この国の権威を説明するために」魏の使者に語ったのだとすれば、「日の御子」と「女王国」くらいしか関係する部分がないのは奇妙だ。それに、詮索は避けるが、のちに7-8世紀にまとめられたような「神話」は、「魏志倭人伝」編纂前に、日本(の北九州の官吏が知るようになるまで)で成立していたのか。
 ***
 西尾幹二によると、「『魏志倭人伝』は歴史の廃墟である」。p.226。
 このようには表現しないが、八幡和郎のつぎの著もまた、日本ナショナリズムを基礎にして、可能なかぎり日本書記等になぞりながら、可能なかぎり中国の史書を踏まえないで、日本の古代史を叙述している。もとより、日本書記等と魏志倭人伝 では対象とする時代の範囲が同一ではない、ということはある。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない-新皇国史観が中国から日本を守る-(扶桑社新書、2011)。
 冷静に、理知的に歴史叙述をするという姿勢が、副題に見られる、現在において「中国から日本を守る」という実践的意欲、プロローグから引用すれば「皇室」とその維持の必要性を理解する「論理と知識を、おもに保守的な読者に提供しよう」という動機(p.17)、によって弱くなっている。
 この書物もまた、古代史およびそれを含む日本史アカデミズムによって完全に無視されているに違いない。この欄では、あえて取り上げてみる。

2106/「邪馬台国」論議と八幡和郎・西尾幹二/安本美典①。

 八幡和郎「邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話」ブログサイト・アゴラ2019年12月19日。
 西尾幹二・国民の歴史(産経新聞社、1999)第6章・第7章=同・決定版/国民の歴史・上(文春文庫、2009)第6章・第7章。
 西尾著の第6章・第7章の表題は各々、「神話と歴史」、「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」。
 上の八幡の文章を読んで予定を早める。八幡・西尾批判を行うとともに、この機会に、安本美典の見解・歴史(古代史)学方法論を自分なりにまとめたり、紹介したりする。
 可能なかぎり、別途扱いたい天皇の歴史・女系天皇否認論に関係させないようにする。但し、事柄の性質上、関連してしまう叙述をするかもしれない。
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 八幡和郎「万世一系: すべての疑問に答える」ブログサイト・アゴラ2019年5月31日によると、この人物が天皇の「万世一系」に関係することに「とり組み始めたのは、1989年」で、「霞が関から邪馬台国をみれば」と題する記事を月刊中央公論に掲載してからだった。
 1989年!、ということに驚いた。文脈からすると、邪馬台国論議をその年くらいから「勉強」し始めたというように、理解することができるからだ。ひょっとして、長く検討してきた、とでも言いたいのか。
 ***
 1989年、秋月瑛二はすでにいくつかの邪馬台国に関する文献に親しんでいた。
 井上光貞・日本の歴史第1巻/神話から歴史へ(中央公論社、1965/文庫版1973)は単行本で概読していただろう。文庫版も所持している。
 安本美典は、1988年までに、<邪馬台国の会>のウェブサイトによると、邪馬台国に関係するつぎの書物を出版している。*は、Amazonで入手できるらしい。
 ①邪馬台国への道(1967、筑摩書房)。
 ②神武東遷-数理文献的アプローチ(1968、中央公論社)。
 ③卑弥呼の謎(1972、講談社新書)。*
 ④高天原の謎(1974、講談社新書)。*
 ⑤邪馬台国論争批判(1976、芙蓉書房)。
 ⑥新考・邪馬台国への道(1977、筑摩書房)。
 ⑦「邪馬壱国」はなかった-古田武彦説の崩壊(1979、新人物往来社)。
 ⑧研究史・邪馬台国の東遷(1981、新人物往来社)。*
 ⑨倭の五王の謎(1981、講談社新書)。*
 ⑩卑弥呼と邪馬台国-コンピュータが幻の王国と伝説の時代を解明する(1983、PHP研究所)。*
 ⑪古代九州王朝はなかった-古田武彦説の虚構(1986、新人物往来社)。
 ⑫邪馬台国ハンドブック(1987、講談社)。*
 ⑬邪馬台国と卑弥呼の謎(1987、潮出版)。
 ⑭神武東遷/文庫版(1988、徳間文庫)。*
 ⑮新版/卑弥呼の謎(1988、講談社)。*
 ⑯「邪馬一国」はなかった(1988、徳間文庫)。
 以上。
 秋月は上記<会>の会員ではないし、邪馬台国論議に関与できる資格があるとも思ってもいない。
 しかし、正確な記憶・記録はないが、上のうち、③・④・⑥・⑨・⑫~⑯は所持しており(所在不判明のものも含む)、かつ読了していると思える。⑫は、事典的に役に立つ。⑭は②の改稿版。
 したがって、論議の基本的争点くらいは理解しているつもりだ。
 このような秋月瑛二から見ると驚いたのは、上の西尾幹二の書(1999年)も、八幡和郎の1989年以降の書物やブログ書き込みも、安本美典のこれら著書を全く読まないで、あるいは全く存在すら知らないで、書かれていると見えるということだ。
 古代史に関係する、専門家以外の著作の恐るべき傲慢さがある(もっとも古代史・考古学アカデミズムが、ごく一部を除いて安本の諸業績に明示的に言及しているわけでもない)。
 上の点は別に措くとして、西尾幹二は、魏志倭人伝の記載自体をまるで全体として信頼できないと主張しているようで、中国の「歴史書」よりも日本の「神話」を重視せよとナショナリズム満開で主張し、かつまるで古代史学者はもっぱら魏志倭人伝等に依拠していると主張しているようだ。これは西尾の無知又は偏見で、例えば安本美典の書物を見ればすぐに分かる。安本は、日本書記にも古事記にも注意深く目を通して、分析・検討している。
 一方、八幡和郎は、「邪馬台国」所在地論争について「北九州説」に立つようで、この点は安本美典(および私)とも同じだ。
 しかし、八幡和郎にどの程度の自覚があるのか知らないが、八幡説(?)はまるで性質が異なる。
 すなわち、通常とはかりに言わなくとも、有力な同所在地論争は、「邪馬台国」がのちの「大和朝廷」に発展したことを前提としている。簡単に言えば、「畿内説」に立てば、その地(大和盆地南東部)で成長したことになるし、「北九州説」に立てば、邪馬台国を築いた勢力が「東遷」したことになる(<神武東遷>。「東征」という語は必ずしも適切ではない)。
 八幡和郎の主張は、「大和朝廷」=「日本」国家の起源は、北九州にあった「邪馬台国」とは全く無関係だ、というものだ
 さかのぼって安本著等を見て確認しないが、このような考え方は昔からあった。八幡和郎はどの程度自覚しているのかは、知らない。
 上の12月19日「邪馬台国畿内説の人々が無視する都合の悪い話」は、一定の前提に立って、「畿内説」論者はその前提をどうして理解できないのか、と記しているようなもので、説得力がない。
 八幡によると、北九州にあった邪馬台国が滅亡して「数十年たったあと」、畿内の大和政権が北九州も支配下においた。
 邪馬台国の所在地については中国の歴史書をふまえようという姿勢が(西尾幹二と違って)あるのだが、しかし、つぎのことは八幡和郎にとって「都合の悪い話」ではないか。
 ***
 魏志倭人伝(魏志東夷伝倭人条)によると、中国の使節がここまでは少なくとも来たらしい(これは八幡も肯定する)「伊都」国(現在の前原市辺り)は「女王国」に属し、「女王の都する」国は「邪馬台国」というとされる(女王の名が「卑弥呼」だ)。
 女王国と「邪馬台国(連合)」が同一であるかについてはなおも議論があるのかもしれない。しかし、個々の「クニ」よりも大きな「クニ」または「クニ連合」のことを「邪馬台国」と記載していることに間違いはないだろう(「邪馬一国」説は省略)。
 さて、なぜ、「邪馬台国」と記載されているのか
 話は跳ぶが、ソウルと大宮・大阪のいずれにもある「オ」という母音は、ハングルと日本語では異なる。韓国語でのソウルのソにある「オ」は、日本語の「オ」と「ア」の中間のようだ。
 したがって、ハングル文字での母音表記は大宮や大阪の「オ」とは異なり、コンピュー「タ」やティーチ「ャ」という場合の「ア」や「ヤ」と同じだ。
 何のためにこう書いているかというと、古代のことだから上と直接の関係はないとしても、つまりハングル・日本語と当時の中国語と北九州の言葉の関係は同じではないとしても、「邪馬台」は「ヤマト」と記すことのできた言葉であった可能性があるからだ。
 また、安本その他の諸氏も書いていることだが、当時の「ト」音には二種類があり、福岡県の「山門」郡は「邪馬台」と合わず、「ヤマト(大和)が「邪馬台」と合致する。
 また、「台」は、今日のダ、ドゥといった音に近いらしい(上で参照したアとオの中間的だ)。
 ダを採用すると「邪馬台」=「山田」となる。なお、朝倉市甘木辺りには「馬田」(まだ)という地名があったらしい。甘木という地名自体に「アマ」が含まれてもいる。
 この「邪馬台」と「大和(ヤマト)」の共通性・類似性を、八幡和郎は説明できないように考えられる。
 邪馬台国の成立・消滅のあとに成立・発展したはずの大和(ヤマト)政権は、いったいなぜ、「ヤマト」と称したのか?
 両者に関係がないとすれば、その「国名」の共通性・類似性はいったい何故なのか? たんなる偶然なのだろうか。
 八幡和郎は説明することができるのだろうか。
 八幡は知らないのかもしれないが、かつてすでにこの問題に回答することのできる説がぁった。
 正確な確認は省略するが、すでに畿内にあった大和(ヤマト)政権の強大さ・著名さにあやかって、本当は大和政権ではない北九州の「邪馬台国」が「ヤマト」という美名を<僭称>した、というものだ。
 これは時期の問題を無視すれば、論理的には成り立ちそうだ。
 しかし、八幡和郎は、この説も使うことができない。
 なぜなら、「邪馬台国」が北九州にあった時代、畿内にはまだ「大和(ヤマト)」政権はなかったと八幡は考えるのだから、「ヤマト」と<僭称>することはできない。したがって、中国の歴史書が「邪馬台国」と書き記したのは畿内政権と関係がないことになり、北九州の(伊都国の)人はなぜ、のちに成立する「ヤマト」政権と少なくとも類似した呼称を語ったのか、という疑問が残ったままだ。
 ***
 八幡和郎の論・理解の仕方の決定的弱点は「年代論」にあると思われる。天皇在位の年数をおそらくは平均して30年ほどに想定している。これ自体が、誤りの元になっているようだ。
 さらにいくつか、批判的に指摘しよう。

2104/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書,2018)⑤。

 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)の検討のつづき。<二つの自由>問題。この書の出版・編集担当者は、湯原法史。
  仲正昌樹・今こそアーレントを読み直す(講談社現代新書、2009)。
 この書の第三章第2節の表題は「二つの自由」で、概略、こんなことが書かれている。
 ・アレントは「外的障害物」の除去で人々は「自然な状態へと自然に回帰する>という考えを内包する「解放」=liberation の思想の拡大を警戒する。
 ・彼女には、外的抑圧がなく物質が欠乏していないことは「自由な活動」の前提条件として重要だが、解放=自由(freedom)ではなく、「自由」とは、古代ポリスの市民たちによるような、「物質的制約」に囚われず「公的領域」で「活動」している「状態」のことだ。
 ・暴力による抑圧から「解放」されても、政治的共同体の「共通善」の探究を忘れれば「自由」ではなく、そのための討論の中に人間の「自由」が現れる。
 ・アレントには「自由」は「活動」と不可分で、アトム化し「動物化」している個人にとっての「自由」は無意味だ。私的生活に満足し「公的事柄に関心」をもたない者は「本来の自由」、「公的空間での自由」から訴外されている。
 ・私的生活への沈潜が「自由」だとするのは経済が支配する資本主義社会の「幻想」だ。経済的利益の追求は「本来的自由」につながらないとの考えは、F・ハイエクとは相容れない。
 ・アレントは、左派運動でも「政治討論」への参加の契機となり「公共性」を生み出すのであれば積極的に評価する。「政治的評議会」のごときものによる「自治」は望ましい。問題は、「革命的評議会」的なものが「いったん権力を握って硬直化し、単一の世界観・価値観で社会を統一的に支配しようとする」ことだ。
 ・彼女にとって、人々の間の「価値観の多元性」は公的「活動」の成果だ。「共通善」がナチズムやスターリン主義のごとき「特定の世界観・価値観」へとと実体化して人々を拘束すると奇妙なことになる。
 個人の孤立的生活と画一的な集団主義のいずれにも偏しない、「共通善」をめぐって「活動」する人々の「間」に「自由の空間」を設定することが肝要なのだ。
 以上のかぎりでは、フランス革命はliberty を、アメリカ革命はfreedom を目指したという趣旨は明らかではない。別の項も含めての、深い読解が必要なのだろう。
 同じことは、Liberty とFreedom の両語とフランスやアメリカが出てくる辺りを、H. Arendt の原書も参照しながら一部を引用・紹介してみても言えるだろう。
 邦訳書と原書の両方を折衷するが、フランス革命、アメリカ革命が直接的・明示的にあるいは簡潔に短い範囲で語られているわけでもなさそうだ。
 ハンナ・アレント/志水速雄訳・革命について(ちくま学芸文庫、1995)、p.221以下(第4章/創設(1)-「自由の構成」)。
 ・「公共的な自由(public freedom)を夢見た人々が古い世界に存在したこと、<中略>は、結局のところ、復古の運動、すなわち古い権利と自由(liberties)の回復する運動を、大西洋の両側で、一つの革命へと発展させた事実だった」。
 ・「革命の究極的目標が自由を構成すること(constitution of freedom)、<中略>であることに、アメリカ人はやはりロベスピエールに同意していただろう」。邦訳書、p.221。
 ・「というよりもむしろ逆で、ロベスピエールが『革命的政府の原理』を定式化したとき、アメリカ革命の行路に影響されていた」。
 ・アメリカでは、「解放(liberation)の戦争、つまり自由(freedom)の条件である独立ための闘争と新しい国家の構成との間に、ほとんど息抜きする間がなかった」。以上、邦訳書p.221-2。
 ・「反乱の目的は解放(liberation)であり、一方で革命の目的は自由の創設(foundation of freedom)だということを銘記すれば、政治学者は少なくとも、反乱と解放という激烈な第一段階<中略>に重点を置き、革命と構成の静かな第二段階を軽視する傾向にある、歴史家たちの陥穽に嵌まるのを避ける方法を知るだろう」。
 ・「基本的な誤解は、解放(liberation)と自由(freedom)の違いを明確に区別することが出来ていないことにある。
 新しく獲得された自由(freedom)の構成を伴わないとすれば、反乱や解放(liberation)ほど無益なものはない。」 以上、p.223-4。
 ・「革命を自由(freedom)の創設ではなく解放(liberation)のための闘争と同一視する誘惑に抵抗したとしてすら、<中略>もっと重大な困難が残っている。新しい革命的憲法にの形式または内容に、革命的なものはもとより、新しいものすらほとんど存在しないからだ。」
 ・「立憲的統治(constitutional government)という観念は、<中略>決して革命的なものではない。それは、法によって制限された政府や憲法上の保障を通じての市民的自由(civil liberties)の保護を多少とも意味しているにすぎない。」
 ・「市民的自由(civil liberties)は私的福利とともに制限された政府の領域にあり、それらの保護は政府の形態に依存してはいない。」
 ・「僭主政のみが<中略>立憲的な、つまり法による統治を行わない。しかしながら、立憲的統治の諸法が保障する自由(liberties)は、まったく消極的(negative)なものだ」。この中には投票権も含まれるが、「これらの自由(liberties)は、それ自体で力なのではなく、権力の濫用からの免除にすぎない」。
 ・「革命で問題にされたのが立憲主義のみだったとすれば、その革命は、『古代の』自由(liberties)を回復する試みだとなおも理解され得る、穏健な最初の段階に忠実にとどまっていたかのごとくだっただろう。
 しかし、実際はそうではなかった。」以上、p.224-5。
 ・19-20世紀の大激動を見ると、二者択一のうちの第一の選択は「ロシアと中国の革命」で、「自由(freedom)の創設」を達成しない「終わりなき永続革命」であり、第二の選択はほとんどのヨーロッパ諸国と旧植民地で、「たんに制限された統治」にすぎない「新しい『立憲的』政府の樹立」だった。p.226。
 ・19-20世紀の憲法作成者たちと18世紀アメリカの先駆者たちには「権力それ自体に対する不信」という共通性があったが、この「不信」はアメリカの方が強かった。アメリカにとっては「制限された政府という意味での立憲的統治」は決定的ではなく、「政府の大きすぎる権力に対してもつ創立者たちの怖れは、社会内部で発生してくるだろう市民の権利と自由(liberties)がもつ甚大な危険性を強く意識することで抑制されていた」。
 ・ヨーロッパの憲法学者たちは、「一方で、共和国創設の巨大かつ圧倒的な重要性を、他方で、アメリカ憲法の実際の内容は決して市民的自由(civil liberties)の保護にあるのではなく全く新しい権力システムの樹立にあるということを、理解することができなかった」。以上、p.229-p.230。
 ・アメリカ創設者の心を占めたのは「制限された」法による統治の意味での「立憲主義」ではなかった。主要な問題は権力をどう制限するかではなく、どう樹立するかだった。
フランス革命での「人権宣言」によってもこの辺りは混乱させられている。諸人権は「全ての法による政府の制限」を意味せず、諸権利の「創設」自体を指すと理解された。
 ・<万人の平等>は封建世界では「真実革命的に意味」をもったが、新世界ではそうでなく、「誰であれ、どこの住民であれ」「万人の権利」だと宣告された。
 もともとは「イングランド人の権利」の獲得だったが、アイルランド人・ドイツ人等を含む「万人」が享受すること、つまりは「万人」が制限された立憲政府のもとで生活すべきであることを意味した。
 ・一方でフランスでは、「まさに文字通りに」「各人は生まれたことによって一定の権利の所有者となっている」ことを意味した。以上、p.331-p.332。
   かくのごとく、なかなか難解で、アメリカではfreedom 、フランスではliberty という単純な叙述がなされているわけではなさそうだ。
 それでもしかし、liberty-liberation よりもfrredom に重きを置いているらしいことは何となく分かる。
 かつまた、西尾幹二の「二つの自由論」とは質的に異なっていることも明確だ。むろん、ハンナ・アレントの語法、概念理解が欧米世界で一般的であることの保障はどこにもないのではあるが。
  以上のことよりも、仲正昌樹の上掲書は「二つの自由」の語の基礎的な淵源に言及している、その内容に注目される。それによると、こうだ。
 ①英語のFreedom はゲルマン語系の単語。free、freedom はドイツ語の、frei(フライ)、Freiheit (フライハイト)に対応する。
 ②英語のLiberty はフランス語を介したラテン語系の単語。そのフランス語はliberté だ(リベルテ、自由)。これに直接に対応する英語の形容詞はなく、liberal は「自由主義的な」という意味だ。
 なお、秋月が追記すれば、フランス語でのliberté に対する形容詞はlibre (リーブル、自由な)だ。
 かくして、西尾幹二がこう書いたことのアホらしさも、相当程度に明らかになるだろう。 「二つの自由を区別するうえで、英語は最も用意周到な言語です。
 すなわち前者をliberty と呼び、後者をfreedom と名づけております。
 フランス語やドイツ語には、この便利で、明確な区別がありません。

 この記述は、おそらく間違っている。
 英語はフランス語やドイツ語よりも融通無碍な言語で、いろいろな系統の言葉が入り込んでいる。あるいは紛れ込んでいる。ゲルマン・ドイツ系のfrei, Freiheit も、ラテン・フランス系のliberté もそうだ。それらからfreedom やliberty が生じたとしても、元々あったかもしれないFreiheit とliberté の違いを明確に意識したまま継受したとはとても思えず、また両語にあったかもしれない微妙な?違いが探究されることはなかったのではないか、と思われる。
 決して英語は、「最も用意周到な言語」ではない。多数のよく似た言葉・単語があって、おそらくは人々はそれぞれに自由に使い分けているのだろう。かりに人によってfreedom やliberty の意味が違うとしても、英語を用いる全てまたはほとんどの欧米人にとって、その違いが一定である、とは言い難いように考えられる。
 それを無理矢理、西尾幹二のように、例えばF・ハイエクともH・アレントとも異なる意味で理解してしまうのは、日本人の一人の<幼稚さ>・<単純さ>によるかと思われる。
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 ところで西尾幹二は、すでに紹介はしたのだが、こんなことを書く。p.37。
 「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことができない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
 なかなか意味深長かもしれないが、西尾幹二という人間の<無知>を端的に示してていると考えられる。よほどに、「各自」という中の「(西尾)個人の」、「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」を守りたい、大切にしたいのかもしれない。それは「社会科学的知性」では扱うことができず、<文学・哲学のメンタリティ>があって可能になる、と言うのだろう。
 率直に言って、間違っている。気の毒だほどに悲惨だ。別に扱う機会をもちたい。

2100/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史09。

 現上皇の「おことば」(2016年)を契機とする退位・譲位に関する議論について、本郷和人はこう書いた。
 「じつは、いわゆる右といわれている思想家や研究者のなかには平気でウソをついている人がたくさんいます。
 歴史的な背景や前提に対して無知なためにウソをついている人もいれば、なかには知っていてわざとウソをついているのでは、という人もいます。」
 本郷和人・天皇にとって退位とは何か(イースト・プレス、2017)。
 また、小島毅は、下の書物を執筆し始めた動機を、こう書いた。
 「一部論者によって伝統的な天皇のあり方という、一見学術的・客観的な、しかしそのじつきわめて思想的・主観的な虚像が取り上げられ、『古来そうだったのだから変えてはならない』という自説の根拠に使われた。
 そうした言説に対する違和感と異論が、私が本書を執筆した動機である。」
 瞥見のかぎりで、渡部昇一(故人)は明示的に批判されている。
 小島毅・天皇と儒教思想-伝統はいかに創られたのか?-(光文社新書、2018)。 
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 1465年~1615年、150年間。応仁の乱勃発二年前~江戸時代初頭・大阪夏の陣。
 1615年~1865年、250年間。大阪夏の陣~明治改元3年前・第二次長州征討。
 1865年~1915年、50年間。明治改元3年前~第一次世界大戦2年め・対中21箇条要求。
 1865年~1945年、80年間。明治改元3年前~敗戦。
 1889年~1945年、56年。明治憲法発布~敗戦。
 1868年~2018年、150年。明治改元~2019年の前年。
 1889年~2019年、130年。明治憲法発布・旧皇室典範~2019年(令和1年)。
 1947年~2017年、70年。日本国憲法施行~2019年の前々年。
 日本の現在の「右翼」や一部「保守」は、①明治改元(1868年)~敗戦(1945年)の77年間、または②旧憲法・旧皇室典範(1889年)~敗戦(1945年)のわずか56年間、あるいは③皇位継承を男系男子だけに限定する旧皇室典範(1889年)~現皇室典範(~2019年)の130年(明治-令和の5元号にわたる)が、<日本の歴史と伝統>だと勘違いしているのではないか?
 古くから続いているのならば変えなくてよいのではないか、というウソに嵌まって<女系容認論>を遠ざけていた、かつての私に対する自戒の想いも、強くある。
 江戸幕府開設(1603年)~明治改元(1868年)は、265年。上の②56年、①77年、③130年よりもはるかに長い。この期間もまた日本(・天皇)の歴史の一部だ。
 応仁の乱勃発(1467年)~本能寺の変・天王山の闘い(1582年)、115年。この期間も長い。そして、天皇・皇室の諸儀礼等はほとんど消失していた(江戸時代になって<復古>する)「空白」の時代だったことも忘れてはならないだろう。
 あるいは、1221年の承久の乱(変)や1333年の後醍醐天皇・建武新政(中興)から数えて、江戸幕府開設までの約380年、約270年を挙げてもよいかもしれない。江戸時代を含めていないが、上の①~③よりもはるかに長い。これまた、日本の歴史の重要な一部だ。
 もちろん、1221年までにでも、おそらくは1000年ほどの<ヤマト>または<日本>の時代がある。
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 日本の現在の「右翼」や一部「保守」論者は、無知・無能者かまたは「詐話師たち」なのだろう。
 明治維新により<神武創業の往古>に戻った? 笑わせてはいけない。
 2017年初めの月刊正論編集部によると、「保守」の4つの「指標」のうちの第一は「伝統・歴史的連続性」だつた。
 月刊正論2017年3月号(産経新聞社、編集代表・菅原慎太郎)、p.59。
 上でも少しは示したが、明治維新と明治憲法体制は、それまでの日本の「伝統・歴史的連続性」を断ち切ったものではないか? 明治期以前にも、歴史の(例えば<神仏習合>の)はるかに長い「伝統・歴史的連続性」があったのではないか? 明治期に戻ることが「伝統・歴史的連続性」の確保なのか?
 2017年9月の西尾幹二著によると、「保守」の「要素」には4つほどあるが、「ひつくるめて」、「歴史」なのだそうだ。そして、「歴史の希薄化」を西尾は嘆いている。
 西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017)、p.16。
 西部邁・保守の真髄(講談社現代新書、2017)に意識的に対抗するような書名や、この時点での「歴史」なるものの評価、つまり上から1年半後に2019年になってからの「可視的歴史観」に対する「神話」優越論についてはさておき、「歴史の希薄化」を行って単純化し、ほぼ明治期以降に限定しているのは、西尾がこの著で批判しているはずの、安倍晋三内閣を堅く支持する「右翼」・日本会議派ではないか。
 以上は、西尾幹二に対しても、八幡和郎に対しても向けられている。
 八幡和郎は2019年になってからも、月刊正論(産経)の新編集代表の写真を自らのブログサイト(アゴラ)に掲載したりして、月刊正論等の<いわゆる保守系>雑誌に身をすり寄せている。例えば、下の著もひどいものだ。いずれより具体的に指摘する。
 読者層のウィングを「右」へと広げたつもりなのか。下の著は「保守」派の「理論的根拠」を提供するというのだから、これまた笑ってしまった。
 八幡和郎・皇位継承と万系一世に謎はない-新皇国史観が日本を中国から守る-(扶桑社新書、2011)。

2099/所功・近現代の「女性天皇」論(2001)。

 所功・近現代の「女性天皇」論(展転社、2001)。
 今日での皇位継承論というのは現行の皇室典範(法律)の維持・改廃に関する議論とほぼ同じだ。
 男系限定・女系否認か女系容認かは現代日本の世論・政治的論議を分ける最大の分岐点などとは考えていない。広い意味での「保守」の内ゲバのようなものだと思ってきたから、切実な関心を持ってきたわけでもない。
 しかし、男系限定・女系否認論者の、つまりは日本会議系の論者の「ウソつき」ぶり、政治的な党派づくりぶりを気味悪くは感じてきた。
 というわけで相当に遅くなってはいるが、上掲の所功著を手にして一瞥して、なるほどと非常によく分かることがある。
 2001年段階での所功の主張・見解だと断っておくが、「あとがき」によると、所のこの時点での「今後とも皇位世襲の原則を確実に保持」するための提言は(この目的は現憲法と合致する)、「皇位継承資格者の範囲を、可能なかぎり広げる」ことで、つぎの三つ(必ずしも相互排他的ではないとみられる)が考えられる、という。上掲書、p.198。
 「内親王(および女王)が一般人と結婚されても、皇族身分に留まることができるよう女性宮家を作り、その皇族女子(男系女子)のみを有資格者に加える」。
 「その女性宮家の所生(女系の男子)まで含める」。
 「旧宮家の所生男子を皇籍に復して男性宮家を増やす」。
 この③も加えられているので、この点では櫻井よしこ・西尾幹二らと異なるところはない。
 但し、①や②の主張が、女系否認論者には「許し難い」「敵」と見られているのだろう。
 天皇・皇族の「公務」負担の軽減という観点からすると、結婚した内親王(女王)が皇族でなくなるのを避けて、婚姻後も「皇族」の一員として天皇・皇室の「公的」行為を補佐する、というのも考えられる。
 そのかぎりだけの「女性宮家」容認論というのは、制度設計としては成り立つと思われる。婚姻相手の男性をどう処遇するかという問題は残っているものの。
 このように漠然とは思い、女性宮家容認は女系天皇容認の先兵理論だなどという批判の仕方をいかがわしく感じてきたが、上の①は少なくとも女性天皇容認、②は女系天皇容認の見解だと分かる。
 だからといって、これら所功の見解に反対する必要もない。
 女系天皇断固否定論には、例えば西尾幹二が「神話」を持ち出したり、あるいはほぼ一般的にかつての女性天皇を「中継ぎ」または「応急避難的」だったとして歴史を歪曲する等の欠陥がある。
 この問題についてかつての日本・天皇の歴史が決定的な手がかりを提供するものではないとしても(それぞれにときどきの現実的問題として対処しなければならない)、しかし、今日の女系天皇否定論とは違って、明治期の皇室典範の制定過程では女性・女系天皇容認論もあり井上毅らの否定論で決着したことなど、明治期にも多様な議論があったらしいことはきわめて興味深い。当然ながら、かつての女性天皇の存在・発生理由についても、検討が行われた(これは敗戦後に現憲法に併せて現皇室典範を制定した-男系の男子限定では旧皇室典範と同じ-ときも同様)。これらをこの書は記しているようだ。
 まだきちんと読んでいないが、こうしたかつては存在した、かつての女性天皇の存在・発生理由を含めての検討を、おそらくは今日の男系限定・女系否認論者は行っていないだろう。男系男子にかつては限定することのできた事情(上掲書p.197参照)についても同じ。
 <男系限定・女系否認>論だけが<真の保守>、女系天皇容認につながる議論をするのは天皇制度廃止論者だ、「左翼」だ、などと喚いているのは、知的でも理性的でもない。せめて、明治維新後の旧皇室典範制定までにあった議論くらいは、今日でも(その維持・改廃を問題にするかぎりは)行う必要があるだろう。
 というわけで、この書は全部、きちんと読んでみる。一瞥のかぎりで、かつての各女性天皇の存在・発生の経緯について、秋月とは異なる理解が政府関係者によって語られたりしているようであるのも、シロウト論議ながら、検討する価値があるというものだ。

2095/西尾幹二の境地・歴史通11月号②。

 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL11月号別冊(ワック)。月刊WiLL2019年4月号の再収載。
 この項の前回①(№2074)に記したように、西尾幹二の原理的考え方は、「神話」>「歴史」>「自然科学」、という公式だ。
 これが何のために使われているかというと、タイトルに「皇室の神格と民族の歴史」とあるが、今日での皇室論、そして皇位継承論、そして男系継承論=女系否定論を主張するためにある。
 西尾幹二によれば、「女系天皇を否定し、あくまで男系だ」とするのが「日本的な科学の精神」であり、「自然科学ではない科学」であって、通常の「自然科学」とは「戦う」必要がある。p.222。
 また、「女系天皇は史上例がないという認識は、今の日本で神話を信じることができるか否かの問い」に他ならず、「神話は歴史と異なる」。歴史観として言えば、通常の歴史観=「可視的歴史観」ではなく「超越的歴史観を信じる」か否か、の問題だ。p. 219。
 そして、最も簡潔には、つぎのことを言いたいのだろう。
 「126代の皇位が一点の曇りもない男系継承である…」。p. 219。
 西尾の「神話」崇敬論・「日本の科学」論・「超越的歴史観」からすると、次のとおりなのだ。
 <126代の皇位は、一点の曇りもなく、男系で継承されてきた。
 かりに西尾の「神話」崇敬の立場にたつとして、はたしてそうなのか、というのが前回の最後に指摘しておいたことだ。
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 西尾は「神話」という言葉を使い、単純な?「歴史」と区別して前者の優越性を説く。
 そのとおりだとかりにして、そこでいう「神話」とは、対談の主旨・論脈からして、日本(民族)の「神話」であることはおそらく論じるまでもないだろう。
 つまり、日本の「神話」、<日本神話>のことを意味させていると理解しなければ、西尾の論旨を理解することができない。
 とすると、問題は、つぎのようになる。
 <日本神話>は、「女系天皇を否定し、あくまで男系」と語っているのか?
 <日本神話>からして、「126代の皇位が一点の曇りもない男系継承である」と言えるのか?。
 気の毒なことだ。一種の悲劇だろう。
 第一。<日本神話>として通常は理解されているのは、日本書記と古事記(その他の風土記類)の中にある「神話」とされている部分だ。
 日本書記と古事記の記述の全てが「神話」なのではない。
 以下、つぎの著をとりあえず瞥見する。
 宇治谷孟・全現代語訳/日本書記-上・下(講談社学術文庫、1988)。
 竹田恒泰・現代語/古事記〔ポケット版〕(学研、2016)。
 ほとんど常識的なことを、以下に書く。
 日本書記と古事記の記述の全てが「神話」なのではない。
 前者は全30巻から成るが、巻第一・巻第二がそれぞれ「神代上」・「神代下」とされ、巻第三がのちにいう「神武天皇」=初代天皇の項だ。
 常識的な理解だろうが、巻第一・巻第二が「神代」についての「神話」なのであって、巻第三以降のいわば<人代>は「神話」的部分を継承または包含しているとしても、執筆者または編纂者は<歴史>のつもりで叙述しているものと解される。本当の「史実」か否かは別の問題。なお、西尾は神武以下8代を含む「126代」を真実と信じて疑っていないようだ。
 後者は大きく三つの「巻」に分かれていて、「上つ巻」・「中つ巻」・「下つ巻」がある。
 これらのうち「上つ巻」の最後の節・項が「天孫降臨と日向三代」で、「中つ巻」の最初の節・項は「神武天皇」(「下つ巻」の最初は仁徳天皇)。
 常識的な理解では、これらのうち「上つ巻」だけが、そのまま<日本神話>を構成する。
 さて、上を前提として西尾に問おう。
 これら二著(=記紀)の「神話」部分、つまり「神代」や「上つ巻」の叙述において、「126代の皇位が一点の曇りもない男系継承である」ことは、いったいどこに書かれているのか??
 そもそも初代天皇自体が厳密には「神話」ではないこととして叙述されていると見られ、日本の「神話」=記紀等の「神話」部分が<皇位継承の仕方>を記述していないのは、明々白々だろう。
 第二。つぎに、一歩かあるいは百歩か譲って、かりに日本書記や古事記の全体を「神話」だと理解することしよう。
 前者はいわゆる「壬申の乱」の時代も含んでおり、最後の巻第三十は「持統天皇」に関する記述だ。後者の最後はそれよりも早く、「下つ巻」の最後は「推古天皇」に関する節・項だ。
 ついでに竹田恒泰の「解説」によると、古事記が「推古朝」で終わっているのは、古事記完成の元明天皇の「当時には推古天皇の次の舒明天皇以降が『現代』と考えられて」いたかららしい。上掲書、p.488。
 さて、日本書記と古事記の上記のそれぞれの範囲内の、いったいどこに、「126代の皇位が一点の曇りもない男系継承である」ことが書かれているのか?
 日本書記と古事記の各全体を見て、これらが皇位継承について「女系天皇を否定し、あくまで男系」だとしていると、なぜ判断することができるのか。
 気の毒なことだ。一種の悲劇だろう。いや笑い話だ。
 西尾は、こう釈明または反論するのかもしれない。
 いや、これらの「日本神話」の趣旨の<解釈>によって導くことができる、と。
 この反論・釈明は西尾にとっては成り立たない。
 なぜなら、西尾は「一点の曇りもない」と明記している。
 かつまた、そもそもが西尾にとって、「神話」を前にしては「解釈の自由」はないのであって、「人間の手による分解と再生」を許さないものなのだ(対談、p.219)。
 記紀の各全体の<趣旨>とか<解釈>とかを、西尾は持ち出すことができない。
 第三。さらに、かりに日本書記や古事記の記述を全体として「日本神話」だと理解するとして、それらの「解釈」によって、皇位継承につき「女系天皇を否定し、あくまで男系」だ、と主張することができるのか?
 これもまた、否定せざるを得ない。推古の前までの大王または天皇は全て「男」であることや、持統の前までを含めても女性天皇の数は少ない(推古、皇極=斉明。+のちに皇位に就いていることが否定されたが神功皇后)ことをもって、上のことの根拠にすることはできないだろう。
 以上、三段階をとって、記した。①記紀の本来の「神話」部分には天皇・皇位の問題すら出てこない。②記紀全体が「神話」だとしても、皇位継承の仕方は「一点の曇りもない」ほどに明瞭には記述されていない。③全体が「神話」だとしても日本書記・古事記から、<女系>否定の趣旨を「解釈」することはできない。
 皇位継承の問題も含めて、日本書記と古事記の間には記述内容に違いがある。また、それぞれについて、「解釈」の余地があり、実際に種々の議論が学説等においてなされている。
 これらを別に措くとしても、「神話」論から出発する西尾の見解・主張は根拠のないものだ。西尾の「信念」・「信仰」を披瀝したものにすぎない。
 もともとは、日本の歴史・「伝統」が現在または将来の皇室・皇位に関する議論の決定的な根拠になるわけではない。西尾もこれを認めているからこそ、<論陣>を張っているのだろう。<新しい伝統>は形成され得る。
 しかし、そのような限度であっても、秋月には妄言・虚言だと思われる「信念」を露骨に活字にしてほしくないものだ。
 境地・心境といえば響きはまだよいが、西尾幹二はなぜ、このような「信念」を強弁する<境地・心境>に至ったのか
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 下は歴史通/WiLL11月号別冊(2019)より。
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2092/佐伯智広・中世の皇位継承(2019)-女性天皇。

 西尾幹二発言・同=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012)、p.11。
 「歴史上、女性の天皇が8人いますが、緊急避難的な"中継ぎ"であったことは、つとに知られている話です。そうしますと男系継承を疑う根拠は何もない。」
 西尾幹二発言・同=岩田温(対談)「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL2019年11月号別冊(ワック)。
 「126代の皇位が一点の曇りもない男系継承であるから…」。
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 公然とかつ平然と歴史の大ウソが日本会議関係者等の「右翼」または「一部保守」派によって語られているので、皇位継承の仕方、女性天皇への継承の背景等に関心をもって、かなりの書物に目を通してきた。
 つぎは相当に役立つので、ほとんど引用することによって、紹介する。
 書名は<中世>を冠しているが、中身は「古代」も含んでいる。著者は1977年~、京都大学博士、帝京大学文学部講師。
 佐伯智広・中世の皇位継承-血統をめぐる政治と内乱(吉川弘文館、2019)。
 主として「女性天皇」関係部分から引用する。実質的に第一章の<古代の皇位継承>から。代数は明治期以降作成の皇統譜上、宮内庁HP上のもの。
 (なお、この第一章<古代の皇位継承>は、以下の「節」からなる。
 1/「万世一系」と女性天皇。
 2/古代の女性天皇の重要性
 3/父系と母系が同じ重みをもつ双系制社会。
 4/兄弟姉妹間での皇位継承。
 5/相次ぐ「皇太弟」。)
 ①「最初の女性天皇」の推古(33代)は欽明(29代)の娘、敏達(30代)の妻で、夫の死後、「オオキサキとして天皇とともに統治権を行使していたと考えられている」。
 「オオキサキ」は推古の頃に成立した地位で、推古は用明(31代)、崇峻(32代)にも「引き続きオオキサキとして統治に関与していた」。
 「この統治実績が」推古の天皇擁立に「重要な役割を果たしたと考えられている」。
 ②推古は「単なる中継ぎなどと評価できない、正統の皇位継承者だった」。
 ③推古に続く女性天皇の皇極=斉明(35代・37代)、持統(41代)、元明(43代)、元正(44代)も、「即位以前から統治実績を積んでおり、中継ぎという消極的な立場ではなく、正統の皇位継承者として即位している」。
 ④孝謙=称徳(46代・48代)もこれら「女性天皇の伝統の上に即位しているのであって、必ずしも、男子不在による苦し紛れの即位というわけではない」。
 ⑤光仁(49代)は聖武(45代)の実娘・井上内親王を妻とし、その子の他戸親王を皇太子としていたので、「皇統は、当初、母系を通じて受け継がれるよう設定されていたのである(実際には、<中略>廃太子され、実現せず)」。
 ⑥「天皇の外戚の地位」の重要化の「それ以前の皇位継承において女性や母系が重視されたのは、古代日本が双系制社会、すなわち父系(男系)と母系(女系)の双方の出自が同等の重みをもつ社会だったからだ」。
 ⑦7世紀後半から8世紀にかけて、「父系制社会へと緩やかに移行したと考えられている」。
 ⑧「関連して注目されている」が、「大宝令」(701年)では、「女性天皇の皇子女も、男性天皇の皇子女と同様に、親王・内親王とすることとされていた」。
  「このことは、女性天皇の皇子女も皇位継承権を有する存在だったことを意味する」。
 日本の律令は「男系主義」を採るが、「その中に残された双系制社会の名残が、この女性天皇の皇子女に関する規定であった」。
 ⑨「男系主義の浸透」で称徳以降、女性天皇は長く出現しない。
 江戸時代の明正(109代)・後桜町(117代)は、「皇位継承者たる男子不在の状況で擁立された、まさに『中継ぎ』の天皇であった」。
 ⑩その他の古代での皇位継承の特徴は、「兄弟姉妹間での皇位継承」や「皇太弟」の設立がかなりの範囲で行われたことだ。
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 以上。
 上の⑤に関する秋月の注記。
 井上(いがみ)内親王は光仁の皇后の地位を廃された。その子・他戸(おさべ)親王(聖武天皇の孫、父は光仁天皇)とともに、「殺された」とみられる。
 のちに光仁の子で高野新笠を母とする桓武天皇の同母実弟・早良(さわら)親王=「崇道天皇」も「殺されて」、崇道神社(京都市上高野・京都御所の東北方向)の唯一の祭神となった。
 井上内親王・他戸親王は、早良親王らとともに、御霊神社等での「八所御霊」の中に入っている。
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2091/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書,2018)④。

 西尾幹二は、もしかすると(vielleicht)、自身を「思想家」だと考えている(または考えてきた)のかもしれない。
 というのは、つぎの書のオビか何かの宣伝文に、自分の名で、<新しい思想家出現!>とか書いていたからだ。
 福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)。
 少なくとも<民主主義対ファシズム>史観の虚妄性・偽善性については秋月よりもはるかによく知っていて、英・独・仏・ロシア各言語を読めるというのだから優れた人であることは認めるが、「新しい思想家」とまで称賛されたのでは、福井もさすがにいい迷惑・有難い迷惑だと思ったのではなかろうか。
 そして、「新しい思想家」が出てきた、というからには、西尾幹二自身が「古い」、現在の「思想家」だと自認しているのではないか、と感じたものだ。
 上の疑問が当たっているかどうかは別として、西尾幹二は、哲学・思想分野に詳しいようでみえて、実のところどの程度の素養・蓄積があるかは疑わしいと思っている。
 哲学・思想にも法哲学(・法思想)、経済哲学(・経済思想)、政治哲学(・政治思想)等と様々ある。講座・政治哲学(岩波書店)も刊行されたことがある。
 これらの夾雑物?を含まない「純哲」=「純粋の哲学」という学問分野もあるらしく、哲学(または思想)分野のアカデミズム(学界)もある。
 この欄で既に触れたように、岩波講座/哲学〔全10巻〕(2008-2009)新・岩波講座/哲学〔全16巻〕(1985-1986年)が、各時代の哲学(哲学学)アカデミズムの総力挙げて?刊行されている。
 アカデミズム一般を無視するとか、岩波書店だから嫌悪するとかの理由があるかのかどうかは知らない。だが、西尾幹二の書の長い<主な参考文献>の中には<世界の名著>(中央公論社)<人類の知的遺産>(講談社)のいくつかは挙げられているにもかかわらず、上のいずれも挙げられず(個別論文を含む)、本文の中でも言及されていないようであるのは、不思議で奇妙だ。哲学(・思想)にとって、「自由」(と必然)は古来からの重要主題であり続けているにもかかわらず。
 上の<講座・哲学>類には「自由」に関係する論考も少なくない。
 また、この欄で既述のように、<岩波講座・哲学/第5巻-心/脳の哲学>(2008)は、デカルト以来の「身脳(心身)二元論」の現在的段階と将来にかかわるもので、当然に人間・ヒトの「自由」や「自由意思」に関係する。
 西尾幹二が「自然科学」を拒否して「哲学・思想」という「精神」を最も尊いものとし、哲学は「万学の女王の玉座」(上の講座本の「はしがき」冒頭)に位置していると考えているとすれば、100年くらい、少なくとも40年ほどは時代遅れだろう。
 また、「物質」を対象とする「自然科学」ではない「哲学・思想」という「精神」を人間・個性にとって最も尊いと考えているとすれば、そのわりには、多様な「哲学・思想」分野にさほど通暁しているわけではないことは、日本の哲学(哲学学)アカデミズムの状況をほとんど知らないようであることからも分かる。
 いまや、フッサールの某著を引き合いに出すまでもなく、学問分野としての「哲学そのものの存立基盤が脅かされている」、とされている(上記「はしがき」ⅶ)のだが。
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 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 もう一度、第1章後半の、Freedom とLiberty の違い問題に言及する。
 西尾は、こう書いている。あらためて抜粋的に引用する。p.34-p.56。A・スミス言及部分にはもうほとんど触れない。
 p.34。/「世には二つの『自由』があります」。
 p.35。/「ヒトラーが奪うことのできた自由は『公民の権利』という意味での自由であり、奪うことのできなかった自由は『個人の属性』としての自由です。
 『市民的権利』としての自由と『個人的精神』としての自由の概念上の区別だというふうにいえば、もっと分かりやすいかもしれません。」
 「ヒトラー独裁体制」の下での「ドイツ国防軍の内部」の動き等は「まだ、『公民の権利』『市民的権利』の回復のための戦いであり、どこまでも前者の自由の概念」に入る。
 「強制収容所の苛酷な条件においても冒すことのできない人間の内的自由」があった、という場合の「自由の概念は『個人の属性』としての、あるいは『個人的精神』としての自由の概念を指しています」。
 「この二つの自由を区別するうえで、英語は最も用意周到な言語です
 すなわち、前者をliberty とよび、後者をfreedom と名づけております。
 フランス語やドイツ語には、この便利で、明確な区別がありません。
 フランス語のliberté には、内面的道徳的自由をぴったり言い表す一義性は存在しません。」
 liberté は「邪魔されないこと、制限されないことを言い表す以上のもの」ではありません。
 p.36-。/逆に、「ドイツ語のFreiheit には、二つの自由概念の両義性を含んではいますが、やはりどうしても後者の自由概念、内面的道徳的自由のほうに比重がかかりがちです」。
 人間が住居を快適にまたは立派に整えたり、子どもの成長を妨げる悪い条件をなくすのは「liberty の問題」で、「真の生活」が行われることや子どもが「成長」することは「freedom の問題」で、これら「二つの概念上の区別をしっかりと意識しておく必要があるでしょう」。
 「ところで、私の友人の話によると、アダム・スミスは、『自由』という日本語に訳されていることばにliberty だけを用いているそうです。
 それはそうでしょう。経済学とはそういう学問です。」
 「住居をいかに快適に整えるか、子供の教育環境をいかによくするか、が経済学の課題と等質です」。ここから先は、快い住居での「真の生活」やよい環境での「子供の成長」は、「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域」に入ってくる。「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題です」。
 p.37。/「サイバーテロなどコンピュータ社会に特有の不安」からいかに免れるかは「所詮liberty の自由概念の範囲です。」
 「liberty の領域が広がるか、制限されるのかの問題」ではなく、「まったくそれと異なる自由概念、精神の自由の問題をここであらためて示唆していることを強調しておきたいと思います」。
 p.43-。/〔p.38-p.42で長々と引用した〕エピクテトスが論じたのは「アダム・スミスのような経済学者がまったく予想もしなかった自由の概念ではないでしょうか。freedom の極言形式といってもいいでしょう」。 
 p.44-/「ヒトラーやスターリンの20世紀型テロ国家」は社会の全成員から「liberty (公共の自由)を全面的に奪い取って」、「freedom (精神の自由)も死滅してしまうのでないか」。21世紀でもなお、これら国家と同質の「全体主義的強権体制は中国、北朝鮮その他」ではまだ克服されていない。
 ハンナ・アーレントの「全体主義」。ナチス、ソ連、毛沢東、…。
 p.45-。/「敵の内容が移動していくことが全体主義が終わりの知らない運動であることの証明で、…体制の敵に何ら咎め立てられる『個人の罪』が存在しないことが特徴です。
 ここでは敵視されない人々はliberty を保障されます」。
 p.56。/一方、V・E・フランクル・夜と霧(邦訳書1956年〕〔p.47-p.55に長い紹介・引用あり〕から言えることは、「人間はliberty をことごとく失っても、freedom の意識をまで失うものではないということ」です。
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 紹介、終わり。
 こうぬけぬけとかつ長々とliberty とfreedom の違いを語られると、思わず納得していまう人もいるかもしれない。しかし、西尾幹二の<思い込み>にすぎない。
 どのようにすれば、このように自信をもって、傲慢に書けるのだろうか。
 既述のように、このように両者を単純に理解することはできない。A・スミスもF・ハイエクも、liberty とfreedom を西尾の理解のように単純に対比させて用いたのではないと見られることは、すでに記した。
 また、西尾のいう二種の「自由」以外に、種々に分類・体系化される「自由」が日本国憲法上保障されるとされていることもすでに示した。
 話題を移せば、そこでの諸「自由」は西尾に従えばどのように、liberty とfreedom に分けられるのだろうか。
 精神・内心の自由はfreedom で、それ以外はliberty なのか? いや、宗教の自由や学問の自由も「内面的道徳的自由」であり、その他全ての「自由」はこれを基礎にしたfreedom だとも言えそうだ。そうすると日本国憲法上の「自由」はすべてfreedom だ、ということになる。
 そして、西尾のように公共生活条件の整備がlibertyという自由概念の問題だとするのは、相当に違和感の残る概念用法だ。freedom 享有の基盤づくりを、再び「自由」=liberty いう必要はないし、そのような用法は日本にはない。また、freedom 享有の基盤づくりに際して問題になるのがliberty の概念だというのも、きわめて難解で、こうした用法は避けた方がよいだろう。
 要するに西尾の概念用法をある程度は「理解」することができるが、しかし、了解・納得できるものではない。西尾幹二の<思い込み>にすぎない。
 なお、平川祐弘と同様に、「文学」系知識人らしきものによる「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性」に対する侮蔑意識が明記されているのは、まことに興味深いことだ。
 物質・生活条件整備ではなく「心」・「精神」・「内面的道徳性」が、こうした人たちにとっては尊いのだ。ある意味で、この人たちは物質・身体と心・精神を峻別する16-17世紀のデカルト的意識状態にまだいるのではないだろうか。
 人間、日本人の生活条件よりも、自分の「精神」・自分の「独自性」こそがおそらく尊いとされるべきなのだろう。なぜならば、自分たちは、衣食住に関係する多数の仕事を行っている「庶民」ではなく、水・エネルギー供給・交通手段等々の利益を享受しているとしても、それに感謝することもなく、高見で「きみは自由かね」と問う資格のある「知識人」だと自負しているのだろう。そのような「文学」畑の人間が、建設的な政策論議をろくに行うことができないで、「教養」と「精神論」だけしか示すことができずに、情報・出版産業界での非正規文章執筆自営業者となり、その数と影響力によって日本を悪くしてきた。
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 さて、この問題に再度触れようと思ったのは、西尾が第1章の参考文献としてハンナ・アレントのものを挙げていることに気づいたからだ。
 さらにそのきっかけは、池田信夫blog/2009年5月19日で、つぎの書を紹介し、論及していたことだった。
 仲正昌樹・今こそアーレントを読み直す(講談社現代新書、2009)。
 池田によって紹介される、仲正のH・アレント・<革命について>の理解はこうだ。
 アレントはフランス革命を否定しアメリカ独立革命を肯定したが、「彼女はliberty とfreedom を区別し、前者をフランス革命の、後者をアメリカ独立革命の理念とした」。
 「Liberty は抑圧された状態から人間を解放した結果として実現する絶対的な自然権だが、Freedom は法的に構成される人為的な概念で、いかなる意味でも自然な権利ではない」。
 すでに、西尾幹二の両語の理解と質的に異なることは明らかだろう。
 仲正昌樹の上掲著の<二つの自由>以降は難解だが、おおよそは池田の紹介のようなことが書かれている。
 ハンナ・アレント/志水速雄訳・革命について(ちくま学芸文庫、1995/原邦訳書1975)にさらに、原書、Hannah. Arendt, On Revolution(1963)も参照しつつ、立ち入ってみよう。
 (つづく)

2090/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書,2018)③。

 このテーマでの前回②で憲法概説書として「あくまで一例」を示したつもりだが、岩波書店刊行のものであることを気にする人がいるかもしれないので、(日本国憲法に即しての)憲法学における「自由」の分類・体系化の試みの例を、もう一つ示しておこう。
 佐藤幸治・日本国憲法論(成文堂、2011)。佐藤は英米系の憲法論に詳しいはずだが、消極・積極・能動といった分類はドイツの学者のそれを思い起こさせる。一種の「美学」・「アート」だから、「自由」の分類・体系化に絶対的なものはない。
 目次構成から見ると、つぎのとおりだ。一部につき省略や簡略化をする。
 第二編・国民の基本的人権の保障。
  第1章・基本的人権総論。
  第2章・包括的基本的人権。
   第1節/生命、自由および幸福追求権。
   第2節/法の下の平等。
  第3章・消極的権利。
   第1節/精神活動の自由。p.216~。
    1/思想・良心の自由。
    2/信教の自由。
    3/学問の自由。
    4/表現の自由。
    5/集会・結社の自由。
    6/結社・移転の自由。
    7/外国移住・国籍離脱の自由。
   第2節/経済活動の自由。p.299~。
    1/職業選択の自由
    2/財産権
   第3節/私的生活の不可侵。p.320~。
    1/通信の秘密
    2/住居などの不可侵
   第4節/人身の自由および刑事裁判手続上の保障
    1/奴隷的拘束・苦役からの自由
    2~6/<略>。
  第4章・積極的権利。〔生存権、等々〕
  第5章・能動的権利。〔参政権、等〕
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 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 この書が、「自由」として「個人の属性」・「個人的精神」にかかわる<精神的自由>に限ろうとしているようであることを、特段批判するつもりはない。<精神的自由>・<精神活動の自由>といっても、上記も示すように、決して同一内容ではないのではあるが。
 従って、猪木武徳・自由と秩序-競争社会の二つの顔(中公文庫、2015/叢書2001)のような経済学者による、<自由>を冠する書物を無視していても、問題視できないだろう。
 但し、「自由」論は、Liberty 系列かもしれないが、「リベラリズム」とか「リバタリアニズム」に関係しており、例えば以下の<新書>・<文庫>を秋月の広大な?書庫から見つけ出すことができる。
 森村進・自由はどこまで可能か-リバタリアニズム入門(講談社現代新書、2001)。
 仲正昌樹・「不自由」論-何でも「自己決定」の限界(ちくま新書、2003)。
 井上達夫・自由の秩序-リベラリズムの法哲学講義(岩波現代文庫、2017/双書2008)。
 こうした現代的?議論に西尾幹二は関心がないのかもしれない。それに、上の三つは、法学部出身者か、法学部に在職している人たちの書物だ。このことも、とくに疑問視することはしない、
 もちろん、以下の書物にも関心はないのだろう。
 ジョン・グレイ/松野弘監訳・自由主義の二つの顔-価値多元主義と共生の政治哲学(ミネルヴァ書房、2006)。
 =John Gray, Two Faces of Liberalism (2000).
 そして、巻末の計14頁に及ぶ「主な参考文献」から見ると、<歴史>、<思想・哲学>分野の文献が多い。
 但し、疑問をもつのは、<思想・哲学>での「自由」を表題の一部とする著名かもしれないものを欠落させている、ということだ。邦訳書があって所持しているものに限る。
 H・ベルクソン=中村文郎訳・時間と自由(岩波文庫、2001)。
 このベルクソンの書は、自由意思の存否を検討する中で茂木健一郎も触れていた。
 また、L・コワコフスキの大著は、このフランスの哲学者は、スターリン体制の中で「ブルジョアア」哲学者で「観念論」の代表者として扱われた、とかなり長く言及していた。
 また、L・コワコフスキがフランクフルト学派に関する叙述の中で言及していた中には、つぎの書もあった。
 エーリヒ・フロム=日高六郎訳・自由からの逃走(東京創元社、1952)。
 西尾は第2章の中で「自由が豊富に与えられることは自由をもたらしません。人間は大きな自由に耐えられない存在なのです」と書く(p.76)。L・コワコフスキは1978年(英訳)の書でこのE・フロムの著にも言及し、彼の考え方をこう簡単に叙述している。
 「我々は自由を欲するが、自由を恐れもする。なぜならば、自由とは、責任と安全不在を意味しているからだ。従って、人間は権威や閉ざされたシステムに従順になって、自由の重みから逃亡する。これは、生まれつきの性癖だ。破壊的なもので、孤立から自己諦念への、偽りの逃亡だけれども。」-本欄№2027/2019年8月16日参照。
 タイトルに用いているかだけが重要なのではないとしても、上のベルクソンとE・フロムのニ著は、「自由」に(も)関係するほとんど必須の哲学文献ではないのだろうか。   
 リベラリズムやリバタリアニズムを扱うべきだったとは思わないが、<時間と自由>、<自由からの逃亡>くらいは参照しいほしかったものだ。これは、「ないものねだり」だとは思われない。
 ともあれ、西尾幹二が挙げる「主な参考文献」が本当にきちんと吸収され、この書に利用されているのかを疑うとともに、よくは分からないが、重要な文献が参照されていないのではないかと思える。
 西尾は第1章関係文献として、H・アレント〔アーレント〕の全体主義論・全三巻の邦訳書を挙げている。西尾のこの書に関してまだ第1章にとどまって、ハンナ・アレントにも次回では言及する。

2088/遠藤博也・<法の多元性>(1987年)。

 法律に違反すれば罰せられる(刑罰として)、というのが最もよくある「法」または「法律」のイメージかもしれない。
 また、<憲法は国民が国家を縛るもの、法律は国家が国民を縛るもの。ベクトルが違う>という奇妙なことを真面目に書いていた某新聞もあった(朝日新聞社説、2017年頃)。
 法の多様性、ということに関して。つぎの著を紹介しよう。
 遠藤博也・行政法スケッチ(有斐閣、1987)。
 遠藤博也、1936~1992年、享年55歳。1970年~(1992年)、北海道大学法学部教授。
 上の書は、1985-86年の雑誌連載をまとめたもの。
 この書の章の表題の中に、<二つの法・裁判-裁判と強制・公法と私法>、<三つの法根拠>、<五つの法過程>といったものがある。
 すでに一部見られるが、この書は「数字」にひっかけて?構成されている。すなわち、第18章まであるが、各章が1~18という数字に関係・関連する話題を取り上げている。
 といっても、書名から感じられるかもしれないような<行政法随筆>ではなく、専門性は相当に高いので、平川祐弘、江崎道朗、伊藤哲夫等々が読んでもほとんど理解することができないだろう。
 と書いているうちに、各章の表題を書き写しておきたくなった。
 第 7章の「七(7)」は意外にむつかしかったようで、下記のとおりになっている。
 第16章も苦しく、16=4×4で、むしろ「44」から出発している。
 第14章は表題にはないが日本国憲法14条(法の下の平等)に関係させている。
 第17章は日本国憲法17条に入っていき、現実の国家へと及ぶ。但し、冒頭に、江崎道朗や櫻井よしこらが詳しいはずの聖徳太子・十七条の憲法への論及が計6~8頁もある。
 第18章は苦しい<お遊び>ではなく、「数字」に関する優れた哲学的考察?も語られている。
 なお、<行政法(学)>分野に特有な話題だけではなく、以下でも言及するように、「法」・「法学」・「法律」一般に共通する論点も少なくない。
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 第 1章/一つの行政-統一的法と内部・外部の法。
 第 2章/二つの法・裁判-裁判と強制・公法と私法。
 第 3章/三つの法根拠-制定法・法の一般原則・当事者自治。
 第 4章/四つの基本原則-公共性・権限分配・権利尊重・公正手続。
 第 5章/五つの法過程-行政先攻の基本構造。
 第 6章/六つの法局面-適法・違法概念の相対性。
 第 7章/なぜか行政行為の諸分類-行政行為の分類に関する代表的学説。
 第 8章/八つの行政委員会-行政委員会による準司法手続。
 第 9章/民法709条と憲法29条。
 第10章/時効一〇年-安全配慮義務と守備ミス型の不作為の違法。
 第11章/11時間めに来た男-「特別の犠牲」の基準と適用。
 第12章/一二の法律-公共施設周辺(地域)整備法。
 第13章/行訴13条・請求と訴え-取消訴訟の訴訟要件と実体的請求要件。
 第14章/武器平等の原則-行政争訟手続における当事者間の公平の確保。
 第15章/取消判決の効力-取消判決の形成力と拘束力。
 第16章/行訴44条・仮の救済-行政に関する訴訟における仮の救済制度。
 第17章/一七条の憲法-憲法構造と現代行政国家の現実。
 第18章/一八番(おはこ)・本書のまとめ-分類と体系における数の不思議
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 <法の多元性>に関係する部分は多数あるが、最も直接に関係するのは、第6章・六つの法局面(p.117~)だ。
 遠藤博也著のこれによると、-特別に新奇なことが書かれているのではないが-つまりは3×2の計6種の「法」が語られている。
 冒頭部分に、こんな一般論が記述される。
 「法はなかなか複雑なものだから、あちらこちらから多面的、多極的に観察しなければならないわけである。ひとくちに行政が違法だとか、適法だとかいっても、それが具体的にいみするものが、場合によって違っている。」
 具体的に遠藤は、つぎの各種「法」を挙げる。
 A/「内部の法」と「外部の法」
 B/「主観的法」と「客観的法」
 C/「適法性に関する法」と「責任に関する法」
 三つの観点から二つずつに区別されているので、3×2で、計6の「法」あるいは「法局面」が語られているわけだ。
 以下、遠藤著に依拠しないで、自由勝手に書いてみよう。
 上のうちAの二つは、かなり<行政法(学)>的だ。その他の法(学)分野にはない公務員法(国家公務員法という法律等々)や行政組織法(内閣法、国家行政組織法という法律等々)にかかわるからだ。前者は一般の<労働法>の一分野かもしれないが、公務員が行政機関の担当者(たる人間)である点で、なお特有性がある。
 これに対して、BやCの各二つは、かなりの法(学)分野にも関係する。
 Bの二つは、現日本国憲法上の「司法」権概念に直接に関係する。
 つまり、思い切り簡略化せざるを得ないが、憲法上固有の意味での「司法」とは、私人ないし国民の「権利義務に関する」(それらの存否や内容等に関する)具体的紛争を裁断する(そして権利を保護する)作用(・機構)と、圧倒的に解釈・理解されていて(むろん個々の事案での争いはある)、たんに「法」または「法律」等に違反するか否かという「客観的」問題についてのみ判断する作用(・機構)ではない、とされているからだ。この点で、異なる基本法制を採る国もある(例、ドイツ)。
 この区別が分からないことには、<ふるさと納税>制度をめぐって泉大津市が国・総務省(地方自治・地方税所管)に対して訴訟を提起したということの意味等も、<辺野古・公有水面埋立>をめぐって沖縄県(・知事)と国(国土交通省等)が長い間争っていることの意味等も、正確には理解できない。国地方係争処理委員会なる行政機関の法的位置づけも。
 民法上の法的紛争で訴訟の対象となるものも、当然ながら私人の<権利義務に関する>(それらの存否や内容等に関する)具体的紛争だ。たいていはこの制約をクリアするが、なかには「司法」権の対象性自体が否定されることもある。
 <権利義務に関する>はしばしば<主観的>と表現される。「主観性」ともいう。ドイツ法から継承したものかもしれない。但し、<~に関する>という表現自体には、なお曖昧なところがあるだろう。
 Cの二つはむしろ、民法や刑法(民事法や刑事法)の分野でとくに語られるものだ。
 各「法典」との関係での適合性または「違法」性なるものと<責任>の負わせ方はどう関係するのか。後者は、<民事法上の責任>や<刑事法上の責任>のことだ。<民事上の責任>の中で主要なものはおそらく「不法行為による損害倍賞」責任であり、<刑事法上の責任>とは主として「刑罰」(を受けて「責任」を果たすこと)だ。
 藤原かずえ(kazue fgeewara)がこれらの「法的」責任に関する議論を全く知らないままで麻生太郎・財務大臣等の「責任」を-何やら知ったふりをして<造語>までして-「論じて」いたことは、この欄ですでに触れた。
 かりに<責任をとる>=<辞任する>と理解していたとすれば、呆れるほどの「無知」だ。
 行政・公務員の分野でも、政治的・行政的なものではない「法的」責任と言いうるものがある。不法行為責任の一種が民法・不法行為法の特別法だと一般には解されている国家賠償法という法律による「損害賠償責任」だ。また、公務員個人が公務員であるがゆえに刑事法上の特別の犯罪の「責任」を課されることもあるがあるし(収賄罪、暴行陵虐罪等)、公務員法制にもとづく「懲戒責任」、いわば「懲戒罰」(こんな専門用語はないだろうが)を受ける責任、正確には各種<懲戒処分>を受け得ることも、公務員としての一種の「責任」だろう。同様の懲戒は私企業でもあるが、公務員法制上に根拠があることや争訟の手続・方法が民間企業の場合とは異なる。
 といったわけで、「法」は単色・単様ではない(上の記述や遠藤著がこれを全て説明しているわけでもない)。
 「法学士」たちには以上はかなり常識的なことだろうが、とくに「文学」畑の知識人または「知識人らしく勿体ぶっている人」たちにとっては難解かもしれない。
 平川祐弘にもそうだろう。西尾幹二も、2018年の著<あなたは自由か>(ちくま新書)で、「自由」を論じながら、あるいは「自由」に関する随筆らしき文章を書きながら、現行法制にもとづく国民・私人の「自由」の実態・現実、法制・法学・法哲学・法思想、そして政治哲学・思想上の「自由」論には全く、またはほとんど立ち入っていない。
 それでもって「自由」論を扱えるのが奇妙で、不思議だ。それでも、日本の現在の情報産業界では通用するらしい。
 A・スミスも当時のイギリス等の取引や貿易に関する具体的法制または制度や慣行をふまえていたように思えるし、F・ハイエクも「法」について頻繁に言及している。知られるように、書名からして、Law やLegislation を用いるものがある。マルクスも、レーニンも、「法学」をいちおう修業しているのだから、「法学士」にも様々な人物がいるのはむろん承知しているけれども。
 なお、遠藤博也の個別論文に、同「行政法における法の多元的構造について」田中二郎先生追悼論文集・公法の課題(有斐閣、1985)がある(あった)。こちらの方が、さらに専門性が高い。上掲書にも出てくるが、「既判力」とか「権限の重複・競合」とか書かれていても、上に名を挙げた人々には、何のことかさっぱり分からないに違いない。

2080/宇宙とヒトと「男系」-理系・自然科学系と<神話>系。

 野村泰紀・マルチバース宇宙論入門-私たちはなぜ<この宇宙>にいるのか-(星海社新書、2017)。
 以下は、「まえがき」p.4-p.5 から。野村泰紀、1974年~、理論物理学。
 「我々が全宇宙だと思っていたものは無数にある『宇宙たち』の中の一つにすぎず、それら多くの宇宙においては……に至るまで多くのことが我々の宇宙とは異なっている。
 また我々の宇宙の寿命は無限ではなく、通常我々が考えるスケールよりはるかに長いものの、有限の時間で全く別の宇宙に『崩壊』すると予測される。」
 本書の目標は「マルチバース宇宙論の核心部分」を紹介することだが、「まだ発展途上」であるし、「ひっくり返すような…展開」もあり得る。
 「これは、科学の宿命である。
 科学では、もし旧来の理論に反する新たな事実が出てきた場合、我々はその理論を新たな事実に即するように修正するか、または場合によっては理論自体を破壊しなければならない。
 科学は、理論の構成過程等における個人的信念を別にすれば、最終的には信じる信じないの世界ではないのである。」
 団まりな・細胞の意思-<自発性の源>を見つめる-(NHKブックス、2008)。
 以下は、まず「まえがき」p.10-p.11から。団まりな、1940~2014年、発生生物学・理論生物学。
 「私たちの身体の素材である細胞は、自然科学の対象物として人間の前に登場しました。
 一方、自然科学は、物理学と化学が先行したために、物質の原子・分子構造を解明するものとの印象を、人間の頭に強く植えつけました。」
 このため、「細胞を究極的に理解するとは、細胞の分子メカニズムを完璧に解明することだ」という「教義」が「今も現役で、細胞に関する学問を支配しています」。
 「しかし、細胞はいわゆる物質とは根本的に違います」。
 「細胞をその内部構造や分子メカニズムとして理解」することは人間を「解剖」して「その部分部分の分子構成を調べる」のと同じで、「人間がどのように喜怒哀楽に突き動かされ、ものを思い言語を使ってそれを伝え合い、科学技術を創造し、高層ビルを建てるか、ということについては何一つ教えてくれません」。
 つぎは、同「あとがき」p.218から。
 人間の「細胞」は「膨大な種類の数の化学反応の、想像を絶するほど複雑なバランスの上に成り立って」おり、この「システム」を「分子メカニズムとしてとらえ尽くすことはできません」。
 「細胞を私たちと同じ生き物と認め、共感をもってこれに寄り添うこと」は「擬人的でも、情緒的でも、非科学的でもなくできる」ことを私は「本書で実例をもって示したつもりです」。
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 上の二つを読んで、興味深いことを感じる。
 最大は、「理科」系学問あるいは「自然科学」といっても、対象分野によって、「科学」観はかなり異なるだろう、ということだ。これは理論物理学と生物学、あるいは<宇宙>を対象にするのと<ヒト(という生物)>を対象にするのとの差異かもしれない。いずれも秋月自身と無関係ではないことは、私もまた太陽系の地球上の生物・動物の一種・一個体であることからも、当然の前提にしている。
 また少しは感じるのは、すでに紹介・一部引用した日本の「いわゆる保守派」の論客?である西尾幹二と岩田温の発言が示す<無知>と<幼稚さ>だ。
 西尾幹二は、「女系天皇を否定し、あくまで男系だ」という「日本的な科学」ではない「自然科学の力とどう戦うか」が「現代の最大の問題」だと極言し、岩田温は、、「皇室は、近代的な科学に抗う日本文化」の「最後の砦」だとし、かつ「無味乾燥な『科学』」という表現も用いる。
 西尾幹二=岩田温/対談「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL11月号別冊(ワック、2019)。  本欄№2074を参照。
 はたして、自然科学や「近代的な科学」はこの両人が語るように戦う対象だったり、「無味乾燥」なものだろうか。J・グレイはこうした幼稚さとは質的に異なる、数段上の<近代科学>・ヒューマニズム批判に達しているようだが。
 「理科」系または「自然科学」分野の研究者を私は個人的に知らないわけではないのだが、上の例えば団まりなは、その文章内容からして十分に「人間らしい」。A・ダマシオもまた、人間の「愛」、「喜び」、「絶望」、「苦悩」等々について語っていた。
 むしろ、「物質」よりも「精神」を尊いものとし、もっぱら言葉と観念で「思索」する<文学>畑の人間の中に、人の「心」や「感情」に関して、じつは「冷たい」・「非人間的な」者もいることも知っている。むろん、「理科」系と「文科」系の人間タイプをこのように一概に分類し、断定しているわけではないけれども。
 以上の感想に含めてはいないが、「科学」という言葉・概念の用い方が一定していない可能性はもちろんあるだろう。
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2076/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書,2018)②。

 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 この本の、筑摩書房の出版・編集担当者は湯原法史。
 上の書・第一章のいわば第二節の表題は、「Liberty とFreedom の違いについて」。p.29。
 著者は、<あなたは自由か>と高飛車に発問するためには、英語に「Liberty とFreedom」の両語があることに触れざるをえないと考えたのかもしれないし、あるいはこの両者の「違い」を手がかりにして、何らかのことを語りかったのかもしれない。
 しかし、この節には、看過できない過ちがある、と見ざるをえない。
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 冒頭でアダム・スミスのいう「見えざる手」によって「自由が広がるのではなく、私たちの市民的権利が知らぬままに脅かされ、不自由にいつのまにか覆われてしまう現代のもう一つの別の側面」があり、それは「コンピュータ社会」での「秩序の喪失、異常の出現」と軌を一にするのではないか、という旨の問題意識が示される。p.30。
 ここでは、前回でも触れた、「アメリカを先頭とする」資本主義・「自由主義経済」あるいは現代に発展する<科学技術>に対する不信・不快感・不安感がやはり示されているのだろう。
 しかし、現代の科学技術または「自然科学」を敵として戦おうしても無意味だ、技術、自然科学それ自体が一般に「悪」なのではない、ということは秋月のコメントとしてすでに記した。
 さて、アダム・スミスに論及する中で西尾はA・スミスにおける「自由」の原語に関心を示し、表題にしているここでのテーマについて、つぎの結論を見出す。p.35。
 ・ヒトラーが奪った「自由」は「公民の権利」という意味でのそれで、奪えなかった「自由」は「個人の属性」または「個人的精神」としてのそれだ
 ・英語は用意周到な言葉で、「前者をliberty とよび、後者をfreedom と名づけております」。
 ヒトラーうんぬんは別として、このような両語に関する結論的理解は誤りだろう。
 西尾幹二によると、A・スミスにおける「自由」は前者なのだそうだ。
 その根拠として明記されているのは、つぎの一文だけだ。
 友人・星野彰男がA・スミスの「見えざる手」に関する専門書を送ってくれたのだが、「アダム・スミスは、私の友人の話によると、『自由』という日本語に訳されていることばにliberty だけを用いているそうです」。
 そして、高名な?日本のいわゆる保守派知識人の西尾幹二は、つづけてこう書く。
 「それはそうでしょう。経済学とはそういう学問です」。
 この部分は、相当に恥ずかしい(はずだ)。
 友人の、いかなる態様かは不明な「話」を根拠にして、A・スミスの邦訳書も原書も紐解くことなく、こんなに簡単に言い切ってしまっている。そりゃそうだ、「経済学」なのだから、「個人の属性」または「個人的精神」の意味でのfreedom を用いているはずがない、というわけだ。
 しかし、秋月でも簡単に目にすることができる原著(英文)には、つぎの語が多数出てくる。
 freedom of trade
 これは、Adam Smith, The Wealth of Nations =An Inquiry into the Nature and the Causes of The Wealth of Nations. から探したもので、「取引の自由」と訳されると思われる。「trade」に「取引」以外の日本語をあてるとしても、「freedom」は「自由」としか訳しようがないだろう。
 その他、上の著には、こんな英語もある。他にもあるかもしれない。
 freedom of commerce、freedom of the corn change、freedom of exportation
 A・アダムスはスコットランド人だったかもしれないが、本来はスコットランド語ではLiberty に当たる言葉を英語に訳して?Freedom に変えた、ということはないだろう。
 というわけで、「個人の属性」・「個人的精神」に関係しなくてもfreedom は使われている。
 西尾自体の文章の中に「経済市場の自由競争」という言葉が出て来る。p.33。
 ここでの「自由競争」は、英訳すると、liberty が選ばれなければならないのか?
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 西尾幹二は懸命に?つぎのように、言う。
 既述のサイバー・テロもコンピュータ社会も「所詮はliberty の自由概念の範囲」の問題だ。ここでは「まったく異なる自由概念、精神の自由の問題」を示唆していることを「強調しておきたい」。p.37。
 そうであるならばなぜ、この書物を第一章第一節の表題である「サイバーテロの時代にどんな自由があり得るか」で始めるのか、という感想・疑問が生じる。
 この書はときどきの随筆を何とか一つの主題をもつように集めたものであるかもしれない。
 「あなたは自由か」と上から目線で問いながら、そこでの「自由」概念自体が、微妙に揺れ動いている。
 秋月によれば、「Liberty とFreedom の違い」に立ち入って両者を異質のものと判断するから奇妙になっている。
「自由主義」(経済学)者といえばF・ハイエクの名を思い浮かべる人が多いだろう。
 この人はウィーン生まれだが(<オーストリア学派>とも呼ばれる)、邦訳されている著作のほとんどは英語で執筆しているのではないか、と思われる。
 瞥見したのみだが、F・ハイエクにおける、「Liberty とFreedom」の使い方には、つぎの例がある。
 F・ハイエク・自由の条件Ⅰ~Ⅲ/西山千秋=矢島釣次監修(春秋社、新版2007)。
 =F. A. Hayek, The Constitution of Liberty(1960).
 第一部/自由の価値。=Part Ⅰ/The Value of Freedom.
 第二部/自由と法。=Part Ⅱ/Freedom and the Law.
 第三部/福祉国家における自由。=Part Ⅲ/Freedom in the Welfare State.
 F・ハイエク・法と立法と自由Ⅰ~Ⅲ/西山千秋=矢島釣次監修(春秋社、新版2007)。
 =F. A. Hayek, Law, Legislation and Liberty(1960).
 第一部(PartⅠ)第三章第2節〔表題〕/自由は原理に従うことによってのみ維持でき、便宜主義に従うと破壊される。=Freedom Can Be Preserved Only By ….
第一部(PartⅠ)第五章/ノモス-自由の法。=Nomos: The Law of Liberty.
 これの第6節の中の文章(邦訳書Ⅰp.108.)-「各個人の『生命、自由および所有地』をも含めた…財産は、個人の自由を対立の欠如と妥協させるという問題にたいして、これまで人間が見出した唯一の解である」。=Property, in which --- not only --- but the 'life, liberty and estate' of every individual, is the only solution men have yet discovered to the problem of reconciling individual freedom with absence of conflict.
 西尾幹二が主張?するような、「Liberty とFreedom の違い」の理解の仕方を採用することができないことは明らかだろう。経済活動の「自由」と個人の精神的「自由」に両者が対応しているのでは全くない。
 秋月瑛二の幼稚な理解でも、liberty とfreedom は異質なものではない。L・コワコフスキ著の試訳をしていると両者が出てきて後者の方が多いが、異質の「自由」として語られているのではない、と解される。
 たしかに西尾が示唆するようにliberty は「市民(権)的自由」というニュアンスがあり、freedom は<一般的>であるのに対して、liberty は国家・市民社会の対比を前提とした、「国家」に対する(との関係での)「自由」という意味合いをもつようにも感じる。だが、後者は前者を含む、または基礎にしている、ということは否定できないのではないか。
 しかし、これも断定はできない。なお、<公民的(市民的)自由>には、civic freedom や civic rights という語が使われていることもある。civic でなく、civil —もある。
 ***
 なお、西尾は「自由」として経済活動の「自由」と個人的精神的「自由」の二つしか想定していないようにも見えるが、前回に私見の分類を示した中に簡単に書いたように、「自由」はそんなに単純に分類できるものではない。
 日本の憲法学の教科書・概説書類は、日本国憲法を念頭に置きつつ、「自由」を種々に分類・体系化していて、定説はない、と見られる(むろん、条文別の形式的分類は-改正がなければ-動かないだろう)。
 あくまで一例にすぎず、私が書いた「行動の自由」というのもないが、つぎの教科書・概説書は、つぎのように「自由」を分類・体系化している(同「目次」による)。
 芦部信喜=高橋和之補訂・憲法/第五版(岩波書店、2011)。
 A/精神的自由権(1)-内心の自由。
  1/思想・良心の自由。
  2/信教の自由。
  3/学問の自由。
 B/精神的自由権(2)-表現の自由。
  1~3/表現の自由の意味・内容・限界。
  4/集会・結社の自由、通信の秘密。
 C/経済的自由権。
  1/職業選択の自由。
  2/居住・移転の自由。
  3/財産権の保障。
 D/人身の自由。
  1/基本原則。
  2/被疑者の権利。
  3/被告人の権利。
 以上。
 他にも、9条から「平和に生きる自由」、13条から「プライバシー(私事)の自由」や「自己決定」の自由などが導かれ得るかもしれない(これは秋月の勝手な叙述)。
 西尾幹二は、このように多岐にわたる「自由」が論じられ得ることを知っているのだろうか。
 この人が関心を持つのは、「精神的自由」のうちの「思想・良心の自由」、それにもとづく「表現の自由」に限られているのかもしれない。
 そして、意識・気分を「不快」・「不安定」にする<科学技術の進展への不安>から免れるいう意味での「自由」、自分には知識がない「自然科学」なるものに脅かされているという<不安>から免れるいう意味での「自由」であるのかもしれない。
 しかし、<信仰・宗教の自由>も、<集会・結社の自由>も、<職業選択の自由>も、<人身の自由>もある。これらはむろん、「個人的精神」と密接な関係がある。
 ***
 ともあれ、西尾幹二が所持していても不思議ではないA・スミスの原著で確かめることなく、知人の「話」を聞いてA・スミスの(invisible hand に関連する)「自由」はliberty だとして、これをfreedom と区別し、かつ後者を「個人の属性」・「個人的精神」にかかわる「自由」だということから出発しているようでは、この書物に大きくは期待することができない。
 あれこれと揺れ動きながら随筆をとりまとめたような書物を、それでも現時点でさらに読んでしまった。
 今回の記述には、なおも追記したいことがある。

2074/西尾幹二の境地・歴史通11月号①。

 月刊WiLL2019年4月号(ワック)に、つぎの対談が掲載されたようだ。
 西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」。
 これが、歴史通/WiLL11月号別冊(ワック)に再掲されている。
 前者を読んでいないので知らなかったが、後者を読むと、今年の初めに西尾幹二が考えていたことが分かり、興味深いとともに、いささか驚き、また呆れる。
 その西尾発言部分を、まずは引用する。一行ごとに改行する。
 「女性天皇と女系天皇の区別」はかなり理解されてきたようでもある。<中略>
 「女性天皇は歴史上あり得たが、女系天皇は史上例がないという認識は、今の日本で神話を信じることができるか否かの問いに他なりません
 大げさにいえば、超越的歴史観を信じるか、可視的歴史観しか信じられないかの岐れ目がここにあるといってもいいでしょう。
 126代の皇位が一点の曇りもない男系継承であるからといって、今や…情勢が変わったのだから政治世界の条件は少しは緩めて寛大にしてもよいのではないかと考える人が急速に増えているようです。
 しかし残念ながらそれは人間世界の都合であって、神々のご意向ではありません。//
 神話は歴史と異なります。
 日本における王権の根拠は神話の中にあるのであって、歴史はそれを支えましたが、歴史はどこまでも人間世界の限界の中にあります。
 歴史は…、諸事実の中から事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてはわれわれはそういう自由はありません
 神話は不可知の根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません。
 ですから神話を今の人に分かるように絵解きして無理なく伝えるのは容易な業ではなく、場合によっては危険でもあり、破壊的でもあるのです。//
 例えば、女系天皇の出現を阻止するのは…今や無理であり、…女性宮家を創設して、…が合理的で、男系継承一点限りの原則論ではもはややっていけない、と囁く声が保守派の中からさえ聞こえてきます。
 それでいいのですか。」
 ここで、いちおう区切る。
 これまでのところで、原理的な問題として西尾幹二が取り上げているのは、<神話と歴史>という問題だ。そして、明確に、前者を尊いものとしている。
 池田信夫は「天皇が『万世一系』だとか、男系天皇が日本の伝統だと主張するのが保守派ということになっているが、これは歴史学的にはナンセンスだ」と書いているが(同11月11日ブログマガジン)、ひょっとすれば?、「歴史学的にはナンセンス」であることは、西尾も容認するのかもしれない。
 しかし、西尾幹二は、「歴史学」が示す「可視的世界観」に立ってはならず、「人間世界の限界の中」にある「歴史」によらず、また「人間世界の都合」によらないで、「神々のご意向」に添わなければならない、という見解を主張しているようだ。
 なぜなら、「歴史」には「事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由」があるが、「神話を前にしては」「そういう自由」はない。
 「神話」と「歴史(学)」と関係は、一般論として、興味深い主題ではある。
 ごく最近に読んだジョン・グレイの書物の一部は、近代人文社会科学は「ヒューマニズム」を基礎としており、それはまた一種の「信仰」であり「迷信」だ、と主張しているとみられる。
 むろん、J・グレイの方が、西尾幹二よりも視野が広く、思索は深い。
 まだこの欄で紹介していないが、つぎの書物には、つぎのような印象深い一文がある。
 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)=John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)、邦訳書p.85。
 「曇りのない知見は、歴史、地理、物理学など、広い分野に学んで身につくものである」。
 西尾幹二の知見は、幼稚な秋月瑛二の目から見ても、「曇りのない知見」だとは思えない。
 以上はさておき、「歴史(学)」の対象には「神話」も含み、またJ・グレイの示唆するように「歴史(学)」もまた何らかの「宗教」(近代ヒューマニズム、近代啓蒙主義にもとづく人文社会系学問)を基礎にしているとも言えるから、西尾のように「神話」と「歴史」を対比させること自体が、なおも説得力を欠くところがあるだろう。
 しかし、それにしても、公然たる、明確な「神話」優越論だ。
 これが、日本人、あるいは世界も含めてもよいが、人間多数の支持を受け得るとは考え難い。
 「神話は不可知の根源世界で、全体として一つであり、人間の手による分解と再生を許しません」と何やら深遠なことを言っているようでもあるが、じつはほとんど無意味だ。
 「人間の手による分解と再生」を許さないのが「神話」であり、人間はそれに従うほかはない。これを西尾は「可視的歴史観」と区別される「超越的歴史観」と称しているようだ。要するにこれは、「神話を信じるべきだ」、という主張だ。
 世界観、人間観、人生観として、これは成り立つ可能性はある。キリスト教も含めて、真に敬虔な「宗教信者」は、たぶんそう考えているのだろう。
 だが、論じるまでもなく、そして残念ながら、普遍的な、または日本と日本人に不変の「世界観、人間観、人生観」として西尾が勝手に他者に押しつけることができるものではない。西尾幹二の「虚しい思い込み」にすぎない。
 この点ではまだ、岩田温のつぎの言葉の方が冷静だ。
 「神話をすべて信じろというのは現代人にとって難しいでしょうが、神話を敬う態度は必要だと思います」。上掲書、p.220。
 秋月もまた、「敬う」と表現できるかは別として、日本書記であれ古事記であれ、日本と日本人の歴史を考察するにあたって、これらのうちの「日本神話」を無視してはならないと思っているし、「事実」・「史実」ではないものがあると注記しつつ諸記述・諸「物語」を学校教育の場にも導入すべきだと思っている。
 しかし、むろん「神話を信じる」べきだ、という前提に立っているのではない。
 なお、上に引用部分にはないが、西尾幹二は、原理的・基本的な論点として、つきの主張を行っていることにも注目される。以下、引用。上掲雑誌p.222。
 「女系天皇を否定し、あくまで男系だという一見不合理な思想が、日本的な科学の精神です。
 自然科学ではない科学が蘇らない限り、…へひた走ってしまいます。
 それが行きつく先はニヒリスムです。<一文略>
 自分たちの歴史と自由を守るために、自然科学の力とどう戦うか。
 現代の最大の問題で、根本にあるテーマです。」
 ここでは私は、「ニヒリズム」観念には関心がない。
 興味深い一つは、「自分たちの歴史と自由」の大切さを説いて、ここでは(「神話」ではなく)「歴史」を重視していることだ。西尾幹二における諸概念の使い方には、そのときどきの、文章の流れの中に応じたむら気に対応して、結構いいかげんなところ、がある。
 それよりも決定的に重要だと感じられるのは、最後にある、「自然科学の力とどう戦うか」、これが「現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」だ、という主張・見解だ。
 むろんこれも、西尾幹二の独自の主張の一つにすぎない。
 すでに言及した部分を含めて言えば、西尾幹二は、こういう図式を描いているようだ。
 「神話」>「歴史」>「自然科学」
 これまた面白い理解の仕方だ。J・グレイによると「曇りなき知見」を得るためには「物理学など、広い分野」を学ぶことが必要なのだが、西尾によると、「自然科学」と戦うことが必要なのだ。J・グレイとは真反対にあるとも言える(なお、この人物は<容共>主義者ではない)。
 岩田温もこれにほぼ追随していて、「皇室は、近代的な科学に抗う日本文化」の「最後の砦」だとか、「無味乾燥な『科学』」だとか発言している。上掲雑誌、p.224。
 ここに、はしなくも、日本の「文学」系人間に特徴的であることが多い無知蒙昧さが明瞭に示されている、と秋月は感じる。人間である日本人を理解するためには、人体・脳等々を学問対象とする「医学」、その基礎にある物理学、化学等々、そして脳神経生理学、進化生物学等々もまた必要なのだ。
 これら現代「自然科学」を無視しては、さらには「戦う」などという姿勢・感覚では、日本人も、その歴史も、西尾幹二もときに用いる「日本精神」なるものも、理解することができない、議論することすら不可能だと思われる。
 さて、以上は全体をいちおう一読したあとでの原理的、基本的な論点の所在の指摘だ。
 とりあえず問題になるのは、しかし、つぎにあるだろう。
 万が一「神話」と「歴史」(と「自然科学」)の関係が西尾が考えるようなものだとして、つまり西尾の見解にかりに従うとして、つぎの問題がただちに生じる。
 西尾のいう「神話」とは少なくとも日本書記上の「神話」だろう。あるいは古事記も含んでいるかもしれない。
 そして、第一に、日本書記(8世紀初頭成立)が記述する「神話」は、「神々のご意向」として、上に西尾の言葉を引用したような意味での「神話」としてそのまま「信じる」必要があるのか。あるいは「信じる」ことができるのか?
 第二に、「126代の皇位が一点の曇りのない男系継承である」ことは、日本書記(+古事記)が記述する「神話」に照らして、疑い得ないものなのか?
 岩田温は西尾に迎合して?、つぎのように語る。上掲雑誌、p.220。
 「人の世を扱う歴史には人間の自由があるが、神話には人間の自由がないとのご指摘、大変勉強になります。
 確かに歴史は解釈の余地がありますが、神話はその神話を受け入れるか、受け入れないかという二者択一を迫られます。」
 大いに「勉強」すればよいが、西尾の「神話」・「歴史」の対比とともに、これは少なくとも日本書記(+古事記)につては<妄言>・<誤謬>だ。
 ①日本書記と古事記では、記述内容が異なっている場合も少なくない。
 ②日本書記の記述は「解釈」を許さないほどに「一義的に明確な」ものではない。「神話」であっても、あるいは「神話」部分だからこそ、「受け入れるか、受け入れないかという二者択一を迫られる」ような意味明瞭な記述にはなっていない。
 日本書記の記述にだって、「解釈」の争いがあることがある。これは、ほとんど常識ではないか。
 西尾と岩田の二人は、いったい何を喚いているのだろうか。とりわけ、<日本の「保守派」知識人>西尾幹二は、いったい何を考えており、いかなる境地に達しているのだろうか。
 (つづく)

2072/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史06。

 一 産経新聞2019年10月21日付は、自民党有志「日本の尊厳と国益を護る会」提言を報道する中で、こう記述している。ネット上による。一文ごとに改行。
 「皇統は126代にわたり、父方の系統に天皇をもつ男系で維持されてきた。
 女性天皇は10代8人いたが、いずれも父方をたどると初代の神武天皇に行き着く男系だ。
 女性天皇の子が即位した『女系天皇』は存在しない。」
 これが日本会議諸氏・櫻井よしこや「126代」と明記した西尾幹二らの見解として書かれているならばよい。
 驚いたのは、これが、「沢田大典」という署名のある産経新聞記者による「地」の本文の中にある、ということだ。
 産経新聞社または産経新聞記者は、日本の(天皇の)歴史をこう確定的に記述する、いかなる資格・権限があるのだろうか。歴史の「捏造」ではないか。せめて、<~と言われている>くらいは追記しておくべきだ。
 日本書紀には代数の記載はなく(近年の<日本書記>現代訳文の書物には参考として日本書記原文にはない代数を記載しているのもあるが紛らわしい)、「大友皇子=弘文天皇」の記事はなく、一方、女性の「神功皇后」の記事は(神武等々と同じ扱いで)いわば一章を占める。
 冒頭の「皇統は126代にわたり」という数字自体、明治期以降の<決定>にもとづくものだ。
 また、「初代の神武天皇」という記述自体、<日本書記によれば>という話で、<史実>性は疑わしい。
 「女系天皇」の存否や「神武」以降の不連続性の可能性には立ち入らないが、明治維新以降、戦前までの<国定・公定>歴史解釈を現在の全国民が採用して「信じる」義務はない。
 しかるに、産経新聞の記者は何を考えているのだろう。
 堅い読者層の中に<天皇・愛国・日本民族>の「右翼」派が多いからといって、歴史を勝手に「創造」してはいけない。朝日新聞の「虚報」・「捏造」ぶりと本質的にどこが違うのか。
 二 池田信夫Blog/2019年11月7日付(全部は11/11の電子マガジン配信予定らしい)は、こう書く。こちらの方が適切だろう。但し、以下は一部省略しているが、「儒教の影響」だとする等の専門的知見は、私にはない。
 「天皇家をめぐる論争では、天皇が『万世一系』だとか、男系天皇が日本の伝統だと主張するのが保守派ということになっているが、これは歴史学的にはナンセンスだ。
 万世一系は岩倉具視のつくった言葉であり、『男系男子』は明治の皇室典範で初めて記された原則である。」
 「それまでの政権は万世一系どころか、継体天皇以前は王家としてつながっていたかも疑わしいが、そのうち有力だった『大王』が『天皇』と呼ばれた。
 中国の建国神話をモデルにして『日本書記』が書かれ、8世紀から遡及して多くの天皇が創作され、天皇家が神代の時代から世襲されていることになった。」
 「武士が実権を握るようになると、天皇は忘れられた。
 それを明治時代に『天皇制』としてよみがえらせたのが、長州の尊皇思想だった。
 それは『王政復古』を掲げていたが、実際には新しい伝統の創造だったのだ。」
 三 <古式に則り>という言葉を最近によく聞くが、その<古式>の全てではないにせよ、明治期以降の<古式>・儀礼方法であることが多いだろう。
 先月10月22日の「即位礼正殿の儀」を、テレビでたぶん全部視ていた。
 最近の関心からは、<神道>的色彩がどれほどあるかに興味があった。
 所功(ところ・いさお)らによると京都御所には「宮中三殿」はなかったらしいから、「宮中三殿」中での賢所等での天皇の儀礼は、大正天皇からなのだろう。しかし、これは<神道>的・式なのかもしれない。もっとも、神道式とは特定できない<天皇・皇室に独自の儀礼>かもしれない。「神道」の意味・範囲にもかかわる。
 一方、<高御座>で言葉を述べられる等の「国事行為」は、当然に特定の「宗教」色があってはならずせいぜい<日本の伝統>に即して、ということに理屈上はなると思われる。
 だが、素人の私の感触では、「日本」独特というよりも、「中国」(むろん過去の)の影響・色彩を強く感じた。
 なるほど十二単衣等は「平安王朝」的かもしれないが、前庭に立っていた「幟」の様子・色彩や「萬歳」と明らかに明確に漢字で書かれた旗などは、日本の「みやび」・「わびさび」等々の<和風>とは離れた<中国>風に感じた。高御座の建築様式自体も、どちらかというと神社ではなく寺院に見られるように感じた。これが仏教的なのか、道教なのかあるいは儒教ふうなのかは正確にはよく分からない。
 ひるがえると、明治天皇の即位の場合はどういうふうだったのだろうか。
 新政府が安定した(戊辰戦争勝利)後だったのか否かも、確認していない。
 しかし、まだ<神武天皇創業>以来の「日本的」儀礼の仕方が確定されていない時期だとすると、<即位の礼>が純粋に<日本的>ましてや<神道式>であったかどうかは疑わしいだろう。そして、この明治天皇を含めてそれ以降の大正天皇等の<即位の礼>の様式を、今回も採用したような気もする。
 上のことは、<即位の礼>に関することで、天皇の死後の葬礼・墳墓の性格となると、つぎのように、話は異なるようだ。
 四 この欄で、京都・泉涌寺に関係して、室町時代から江戸末期の仁孝天皇までとは異なる、つまり<仏教式>ではない葬礼と陵墓が明治天皇の父親の孝明天皇について行われたようだ、と書いた。№.1982、2019/06/18。
 専門家がいずれの分野にもいることは分かっているので「大発見」のつもりで記したのでは全くない。
 きわめて興味深く感じたので、孝明天皇陵については陵墓の方式自体が九重仏塔を持たない「円墳」のようだと書いたのだった(一般には立ち入れないので、既存の写真に頼るしかなかった)。
 しかし、推測が妥当であることを、上記の池田信夫Blog が挙げているつぎの書物によって確認することができた。
 小島毅・天皇と儒教思想-伝統はいかに創られたのか?-(光文社新書、2018)。
 こう書かれている。
 「文久年間に在位していた孝明天皇は、…慶応へと改元されたその二年の年末、12月25日(グレゴリオ暦では1967年1月30日)に崩御する。
 翌慶応三年にはその陵墓が、じつに1000年ぶりに山稜形式で造営された。
 陵墓に埋葬され、かつ国家管理の聖地とされたのは、明治政府の陵墓政策を先取りするものだった。」
 この「山稜」というのは、南向きで南側に拝礼場があると見られる、<後月輪東山陵>のことで、現在も京都市東山区・泉涌寺の東の丘の中腹にある。
 先だっては記さなかったが、それまでの天皇は「仏式」でかつ「火葬」のあとで納骨されて葬られている(かつ真西の方向を向く)のに対して、孝明天皇については(「神道」式か否かは不明だが少なくとも)「仏教式」ではなくかつ「土葬」の陵墓のようだ。
 しかも、上の書物によると、「じつに1000年ぶりに山稜形式で造営された」、とある。
 これまた、<新しい伝統の創造>だっただろう。
 もっとも、かつての「山稜形式」は「神道」式と称し得るものであるかについては、疑問が残る。
 いわゆる前方後円墳(伝仁徳天皇陵、伝応神天皇陵が著名)が「神道」式なのかというと、おそらくこれを肯定する学者・論者は存在しないのではないか。
 この問題は、「神道」というのはいったい何だったのか、いつ頃どのように形成され、意識されたのか、といった疑問にかかわる。
 櫻井よしこは、神道の「寛容」性のゆえに仏教伝来を許した、という旨を明記している(別に扱う)。聖徳太子の時代頃の「仏教伝来」以前にすでに確たる「神道」があった、という物言いなのだが、果たして本当か? 
  天皇家と「神道」に(神武天皇以来?)強く密接な関係がある、天皇家の「宗教」はずっと神道だ、と主張するならば、古代天皇は「神道」式で葬られたのか? その儀礼や墳墓の様式は?
 尊いはずの初代・神武天皇陵の場所が特定されて整備され、近傍に橿原神宮が造営されたのは、いったいいつの時代にだったのか? まだ150年ないし120年ほどしか経っていない。
 「初代の神武天皇」と「史実」のごとく平気で書く産経新聞記者・沢田大典は、そのような「初代」天皇の「墓」の所在地が<2000年以上>も不明なままだったことを、不思議とは感じないのだろうか。「古い」ことだから仕方がない、では済まないと思われる。
 このあたりは、あらためて触れることにする。

2054/福田恆存における「史実」と「神話」-1965年。

 福田恆存「紀元節について」同評論集第8巻(麗澤大学出版会、2007)。
 これの初出は、雑誌・自由(自由社)1965年4月号。
 福田恆存は「建国記念日(2月11日)」設置に反対する「左翼」に反対し、旧紀元節の復活に賛成していたのだが、上の中でこう明確に記述している。
 福田恆存の主張・論評類の全体を知らないと、<神話と歴史>・<物語と史実>に関するこの人の正確な考えは分からないだろう、ということは承知している。但し、なかなかに面白い、興味深いことを上の論考で主張している。
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 福田は「二/史実」の中で、反対論者は「史実」に反するという、と述べて、こう続ける。一文ごとに改行。旧かなづかいは現在のものに改めさせていただく。
 ・「私たちは絶対天皇制の時代に育ちましたけれども、伊邪那岐命・伊邪那美命の話をほんとうの話と思ったことは一度もない。
 天照大神のこともほんとうだと思ったことはない。
 神武天皇のことでもほんとうのことだと思ったことはない。
 歴代の天皇が100年も200年も生きているなどという馬鹿げたことはないのですから、そんな馬鹿なことを先生が学校でむきになって教えても、本気にしない。<中略>
 だから戦前の歴史教育は間違っていたと言いますけれども、それはあまりに国民を馬鹿にするものです。」p.120。
・「『日本書記』についていえば、当時の大和朝廷が、国の基が固まったという一つの喜びを、将来この国がりっぱに伸びていくというようにということで、自分たちの仕事を権威づけ、仕事が後に末長く栄えていくようにと祈る気持ちで、当時の歴史編纂官に命じて書かせたものであります。
 そして作者は日本の紀元を、そう言いたければ、あえて『でっち上げた』のです。」p.122。
 ・戦前の天皇制と当時の大和朝廷は「全く違った」もので、「いまの気持ちからその当時の気持ちを推察するのは間違い」だが、1月1日=新暦2月11日を「日本の紀元」とすることに問題はない。かつての「日本人の心理的事実を史実とみなしての上の根拠」だが、「その日が最も根拠があると思う」。p.123。
 ・「記紀の話は事実としては作り話であっていいわけです。
 しかしなぜ作り話が一定の効果をもったかが問題なんですね」。p.124。
 ・「どういう気持ちで日本人が日本民族の紀元を定めたのか、こうありたいと願ったその当時の人々の気持ち、それを受け継いだ明治政府の気持ち、そしいうものを全部否定してしまうのは、日本国の歴史は歴史上くだらない歴史であった、敗戦に至るまだ全部だめだったということで、日本人の過去を全部抹殺してしまうことになります」。p.124-5。
 ・「紀元節が史実に反するとかなんとか言うのは、全くの言いがかりで、その本当の反対理由は、日本の過去を全部過ちの連続としてとらえたいという戦後の歴史観が危うくなりそうだと不安感の悲鳴にすぎません」。p.126。
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 福田恆存、1912年生~1994年没。
 相当に鋭いのではないか。論旨も、ほとんどよく分かる。
 幼稚にまとめれば、「史実」ではなくとも「当時の人間の心の動きだとか、価値観だとか」(p.123)が史実以上に大切なことがあるのだ。
 ともあれ、喫驚するほどに、福田恆存は日本書記または記紀が記述する<日本神話>の「史実」性を否定している。だが、いっさい無視するのでもなく、そこに示された当時の(ということは天武=持統天皇系の皇室になるが)人々の「感情・価値観」を大切に理解すべきだ、という旨を言っている。
 まことに、冷静で、知的な<保守>の考えだと思われる。
 このような認識や議論の仕方は、天皇<万世一系>論、天皇<男系継続>論(女系否定論)等についても、大切だと思われる。あるいは当てはまり得るものだと思われる。例えば、「記紀」がこれらの問題に関する主張の根拠になるわけがない。
 このような人が、現在はほとんどいなくなった。福田恆存の没後に数年だけ経過して<日本会議>が設立され(1997年)、まるでこの団体が<保守>の代表だと見なされるようになった観があるのは、日本にとって大きな悲劇であり厄災だった。
 <日本会議>は反共・自由主義という意味での「保守」ではなく、「日本」と「天皇」にだけほとんど執心する「右翼」団体だ。
 この日本会議に批判的であったはずの西尾幹二が2019年には見事に、上の福田恆存とは真逆に<神がかり>的になって、<日本の神話を信じるか、信じないか>の対立だ、などと血迷い事を述べるに至っていることは、別に触れる。

2047/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)②。

 茂木健一郎・脳とクオリア-なぜ脳に心が生まれるのか(日経サイエンス社、1997)。
 9/12に全読了。計313頁。出版担当者は、松尾義之。
 <第10章・私は「自由」なのか?>、p.282~。
 まえがき的部分によると、「万能の神」のもとでも人間に自由意思があることは自明のことだったが、いわゆる「人間機械論」がこの「幻想」を打ち砕き、<人間的価値>の危機感からニーチェやサルトルの哲学も生まれた。
 ここで「人間機械論」とは、茂木によると、人間の肉体は脳を含めて「自然法則に従って動く機械」にすぎないとする論で、彼によるとさらに、「私たち人間が、タンパク質や核酸、それに脂質などでできた精巧な分子機械であるという考えは、現在では常識と言えるだろう」とされる。
 「心」も「自由意思」も、「自然法則の一部であるということを前提として」、茂木は論述する。
 単純な「文科」系人間、あるいは人間(とくに自分の?)の「精神」を物質・外界とは区別される最高位に置きたい「文学的」人間にとって、回答は上でもう十分かもしれず、以降を読んでも意味がないのかもしれない。茂木健一郎とは<考えていることがまるで違う>のだ。
 しかし、同じ人間の(しかも同じ日本人の)思考作業だ。
 読んで悪いことはない。かつまた、その<発想方法>の、「人間の悪、業を忌憚なく検討する事も文学の機能だ」と喚いていた小川榮太郎とはまるで異質な発想と思考の方法の存在を知るだけでも、新鮮なことだ。
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 茂木健一郎の設定する最初の問いはこうだ。p.285。
 「果たして、自然法則は、自由意思を許容するか?」
 この問題は、「自然法則が、決定論的か、非決定論的か」と同じだ。
とすると、「私たちの意思決定のプロセスを制御している神経生理学的な過程、すなわちニューロンの発火の時間発展を支配する自然法則が、決定論的か、非決定論的か」ということになる。
 「ニューロンの時間発展を支配」する自然法則が「決定論的」であれば、「自由意思」はなく、「非決定論的」であれば、「自由意思」はある。p.286。
 なお、「自然法則が決定論的」であるということは、その自然法則にもとづいて私たちが将来を「知る」ことができることを必ずしも意味しない。p.287。
 現在の状態を完全に「知る」のは不可能なので、将来の状態の予測にも誤差が生じる。「カオス」だ。しかし、「カオスの見られる力学系は、時間発展としては、あくまでも決定論的」なのだ。p.288。
 このあと茂木は、「量子力学」への参照に移る。
 量子力学上は、「ある系の現在の状態から、次の瞬間の状態を完全に予測することはできない」。計算可能なのは「確率」だけで、この「不確定性」は「系自体の持つ、本来的な性質」であって、「量子力学は、本質的な非決定性を含んでいる」。
 しかし、「電子、光子」などの「ミクロな世界」について意味がある量子力学の「非決定性」を、ニューロン発火過程に適用できるのか?
 このあとの論述は「文科」系人間には専門的すぎるが、第一に「シナプスの開口放出に含まれる量子力学的な不確定性」が「自由意思」形成に関係するとする学者もいるとしつつ、茂木はそれに賛同はせず、かつ量子力学の参照の必要性は肯定したままにする。
 第二に、量子力学にいう「非決定性」というものの「性質」が問題にされる。p.292-。
 そして、茂木健一郎が導くとりあえずの、大きな論脈の一つでの結論らしきものは、つぎのとおりだ。
 ・量子力学の「非決定性」といっても、それには「アンサンブル〔集合〕のレベルでは決定論的」だ、という制限がつく。
 ・「量子力学が、自由意思の起源にはなり得たとしても、その自由意思は、本当の意味では『自由』ではない。なぜならば、量子力学は、個々の選択機会の結果は確かに予想できないが、アンサンブルのレベルでは、完全に決定論的な法則だからだ。」p.294。
 ・「アンサンブル限定=個々の選択機会において、その結果をあらかじめ予想することはできない。しかし、…全体としての振る舞いは、決定論的な法則で記述される。」
・「個々の選択機会」について「その結果を完全には予測できない」という意味で、「自由意思」が存在するように「見える」が、同じような「選択機会の集合」を考えると、「決定論的な法則が存在し、選択結果は完全に予測できる。」
 ・「現在のあなたの脳の状態をいくら精密に測定したとしても、予想するのは不可能」だ、というのが量子力学の「非決定性」だ。しかし、「あなた」のコピーから成る集合〔アンサンブル)全体としての挙措は、「完全に決定論的な法則で予測することができる。」p.295。
 というわけで、分かったような、そうではないような。
 「個々の選択機会においては、自由があるように見えるのに、そのような選択機会の集合をとってくると、その振る舞いは決定論的で、自由ではない」(p.296.)と再度まとめられても、「自由」や「決定」ということの意味の問題なのではないか、という気もしてくる。
 もっとも、茂木健一郎は、より厳密に、つぎのようにも語る。
 ・選択機会の集合(アンサンブル)に関していうと、「現実の宇宙においては、可能なアンサンブルがすべては実現しないことが、事実上の自由意思が実現する余地をもたらすという可能性」がある。p.297。
 ・「宇宙の全歴史の中で」、「まったく同じ遺伝子配列と、まったく同じ経験」をもつ人間が「二度現れる確率は、極めて少ない」。このような「個性」ある人間による選択なのだから、ある「選択機会が宇宙の歴史の中で再び繰り返される確率は低い」。こうして、私たちの「選択」は生涯一度のみならず「宇宙の歴史の中でただ一回という性質を持つ」。とすれば、選択機会のアンサンブルの結果は「厳密に決定論的な法則」で決定されるとしても、その「選択機会が宇宙の全歴史の中でたった一回しか実現しない」のでその結果は「偏り」をもつ。しかもこれは「量子力学が許容する偏り」であり、この「偏り」を通じて、「事実上の自由意思が実現される可能性」がある。
 このあと、茂木は、現在の(1997年の)量子力学の不完全さを指摘し、今後さらに解明されていく余地がある、とする。
 さらに、もう一つの大きな論脈、<認識論的自由意思論>が続く。p.302-。
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 ここで区切る。小川榮太郎はもちろんのこと、西尾幹二とも全く異なる、人間の「自由」に関する考察があるだろう。
 1997年の著だから茂木自身の考えも、脳科学も、さらに進展しているかもしれない。
 まだ、紹介途上ではあるものの、しかし、秋月瑛二の想定する方向と矛盾するものではない。
 簡単に言えば、自然科学、生物科学、脳科学等によって、人間の「心」、「感情」、「(自由)意思」についてさらに詳細な解明が進んでいくことだろうが、人間一人一人の脳内の「自由」はなお残る、ということだ。あるいは少なくとも、いかに科学が進展しても、生存する数十億の人間の全員について、その「思考」している内容とその生成過程を完璧に把握しトレースすることは、「誰も」することができない、ということだ。
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2045/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書, 2018)①。

 「自由」について最近に最も考えるのは、「意思は自由か」または「自由な意思はあるか」だ。この問題はもちろん、「意思」とは何で、その他の精神的行為または精神的態様とどう区別されるものなのか、に関係する。
 ヒト・人間の脳内の諸作業・態様の中に、「こころ」あるいは「感情」はどこにあるのか、どうやって成立しているのか、と類似の問題だ。
 「自由」か否かを論じること自体がヒト・人間として<生きている>ことの証左であり、さらに、たんなる覚醒状態・意識の存在だけではなく、より高次の「思考」を必要とするものだ。
 というわけで、たんなる覚醒状態・意識の存在とは次元が質的に異なるが、「自由」か否かを論じること自体が、<生きている>ことを前提にしていることは変わらない。
 上のことはつまり、<死者>には「意識」はなく、自分は「自由」か否かを考えたり、思い巡らしたりすることはできない、ということだ。
 「自由」か否かを論じるのは、<生者>の贅沢な遊びだ、ということにもなる。
 上に述べていることは、ヒト・人間には、<死から逃れる自由>=<死からの自由>は存在しない、という冷厳たる事実を前提にしている。
 さらに言おう。ヒト・人間は、生まれ落ちるときまでに自己の体内に宿していた<遺伝子>から自由なのか。直接には両親から受け継いだ、個性がある程度はある<生物体>としての存在から、ヒト・人間は「自由」なのか。否。
 さらに言えば、ヒト・人間は、生後の社会・環境から<無意識にでも>与えられる影響から、完全に「自由」でおれるのか? 否。
 「あなたは自由か」とずいぶんと<上から目線>の発問をして、書物の表題にまでしている西尾幹二には、まず上のようなことから論じ始めて欲しかったものだ。
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 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 この本の、筑摩書房の出版・編集担当者は湯原法史
 上の書は、空気中の酸素を取り込んで炭水化物等を分解してエネルギーにしなければならない人間、酸素を多分に含む血液を脳を含む全身に送る心臓というポンプを必要とする人間、酸素を含む空気を体内に吸い込むための肺臓の存在を必要とする人間、といったものを全く意識させない、<文学的>、<精神主義的>ないし<教養主義的>自由論のようだ。人文(ないし人文・歴史)関係評論家の、典型的な作品かもしれない。
 もっとも、いちおうは精読したのは、全380頁以上のうちの57頁まで(第一章だけ)。
 しかし、上の範囲に限っても、注文を付けたい、または誤りを指摘しておきたい点がある。
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 その前に、さらに私の「自由」論の序説らしきものを、上記に加えて綴ってみよう。
 組織(・団体)や国家の「自由」(これらを主体とする「自由」)は度外視する。
 第一。①何からの「自由」か。英語ではしばしば、free from ~という二語が併せて用いられる。<from ~>の~は重要なことだ。
 ②何についての自由か。
 ア/内心・政治信条・宗教(信仰)・思想等。
 イ/行動。この行動の「自由」を剥奪または制限するのが、刑法上の<自由刑>だ。
 ウ/経済活動。つまり、商品の生産・販売・取引等々。商品には物品のみならず「サービス」を含む。
 これらは、帰属する共同社会または国家により、法的・制度的な<制約>が異なる。
 第二。冒頭に「自由な意思」の存否の問題に言及したが、<身分から契約へ>を標語としたかもしれない「近代」国家・社会は、「個人の自由」について語るときに「個人の自由な意思」の存在を前提としている(正確には、あくまで原則または理念として)。
 <個人の自由意思>の存在を想定することなくして、法秩序は、そして社会秩序は、成立しない(またはきわめて成立し難い)ことになっている。
 以下は、典型的な法条だ。説明は省略する。あくまで一部だ。
 A/刑法38条「①罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。
 ②重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。
 ③法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。」
 同39条「①心神喪失者の行為は、罰しない。
 ②心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」
 B/民法91条「法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関しない規定と異なる意思を表示したときは、その意思に従う」。
 同93条「意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。
 同95条「意思表示は、法律行為の要素に錯誤があったときは、無効とする。ただし、表意者に重大な過失があったときは、表意者は、自らその無効を主張することができない」。
 こうした基本的な?法条に、西尾幹二の上掲著は言及していないようだ。きっと関心もないのだろう。
 茂木健一郎・脳とクオリア(日経サイエンス社、1997)、p.282。
 茂木は上の箇所で、「自由意思」の存在が「犯罪者を処罰する」根拠になっている、等と述べて、「自由意志」論(第10章<私は「自由」なのか?>)への導入文章の一つにしている。
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 さて、西尾幹二・上掲書の短い読了部分(第一章)には、大きく二つの論点がある。
 紹介・引用しつつ、感想・コメントを記す。
 全体としてもそうなのだろうが、部分的な論及はあるとしても、そもそも「自由」をどう理解するのか、「自由」をどう定義しておくのか、が叙述されていない。
 たんなる身辺雑記以上の「随筆」でもない、少なくとも人文・歴史関係評論家の作品?としては、これは困ったことだ。基本的概念の意味がほとんど分からないまま、<賢い>西尾幹二が読んだ多数の文献が挿入されながら、あれこれと、あちこちに論点を少しは変えながら記述される長い文章を読んでいくのは、なかなかの苦痛でもある。
 それはともかく、先ずは、<いわゆる保守>評論家には見たことがない指摘または「怖れ」が(第一章)前半に叙述されているのが、気を惹いた。
 その最初は、カー・ナビやサイバー・テロに触れたあとのつぎの文章だ。p.10。
 ・「生活はほとんど便利になりますが、なんだか背筋の寒くなる、不気味な時代が始まりつつあるように思えました」。
 アメリカのエシュロンや「情報戦争」に触れたあとでは、こう書く。p.19。
 ・「私たちは今、これまでに知られていない、新しい不気味な一つの大きな檻の中に閉じ籠められているような異様な生活感覚の中で生き始めているように思えてなりません」。
 こうした部分はどうやら、この著の基本的なテーマらしい。
 つまり、そういうふうに変わってきているのに<あなたはあなたが自由でないことに気がついているか>(オレは気づいているぞ)ということが、書名も含めて、主張したいことらしい。同様のことは、「あとがき」でも述べられている。
 西尾が「不気味」だと感じるのは、「敵の正体が見えない」ことだ。「サイバーテロ」は誰がいつ襲うか、分からない。
 ここで西尾は旧東独の「秘密警察」(STASI)へと話題を広げる。
 「敵」が誰か分からず、スパイは家族や友人たちの中にもいた、という「かつての全体主義社会」の実例は、「いつ襲ってくるのか分からない敵の正体の見えにくさ、自由の不透明さ」において、現代へのヒントになる、と言う。p.20。
 それはそれとして参考になるかもしれないが、つぎの文章に刮目すべきだろう。このように「展開」させていくのだ。p.24。
 ・「旧共産主義体制のことを私はことさらに論(あげつら)っているのではありません。
 西側のコンピュータ社会が旧東側の、"少年少女スパイ育成社会"にある面では似てきているという新しい発見に、私が戦いているということを申し上げておきたい」。
 同じ趣旨は、つぎの文章ではさらに明確になり、強調されている。p.26。
 ・「世界の先端を行くアメリカのコンピュータ社会は、全体主義体制にある面で似てきているということの現れではないでしょうか」。
 ・「…倒錯心理、常識の喪失において、両者はどことなく共通し始めております」。 
 アメリカの<コンピュータ社会>は、「ある面では」、「どことなく」、共産主義諸国と「似てきて」いるのだ。
 この点が、西尾がこの辺りで指摘して強調したい点に他ならないと思われる。
 そして、日本社会もまた同じだと明記されている。
 端的には、こう書かれる。p.28。
 ・「新旧の共産主義体制にも、現代のアメリカ社会にも、そして日本の社会にもどことなく共通している秩序の喪失、異常の出現」がある。
 最後の締めくくりの文章はこうだ。p.28。
 ・「私たちの生きている今の世界は、どこか今までとは異なった異質な歪みを時間とともにますます肥大化させているように思えてなりません」。
 ***
 こうした西尾幹二のこの部分での叙述の特質は、以下の二点の指摘・表明だろう。
 ①<科学技術>の進展に対する不信感や恐怖。
 ②「現代」社会の欠陥・問題は<共産主義諸国>でもアメリカ・日本でも共通している。
 西尾の用いる「ある面では」とか「どことなく」という表現の意味こそが決定的に重要だと思われるが、そこにこの人は立ち入らない。
 あくまで<文学的>、<感覚的>だ。
 翻って西尾のこうした叙述を読むと、つぎの感想が生じる。
 第一に、<いわゆる保守>か「容共・左翼」かという対立には関係がなさそうだ、ということだ。<現代>批判では「左翼」的かもしれないし、アメリカを先頭に立つ「敵」と見立てているようであるのは「ナショナリズム・右翼」的かもしれないが。
 第二に、<科学技術>の進展に対する疑問や恐怖は、外国も含めてすでに多数の哲学者・歴史研究者等が議論してきたことだと思われる。
 ある者たちはそれを「資本主義」の行き着く先と見なし、(疎外労働によって?)「人間」を「非人間」に変えていく、と考えた。フランスの戦後の哲学者には、こんな主張もあっただろう。
 だが、<科学技術>の進展それ自体に<諸悪>の根源を見る、ということはできない。
 <科学技術の進展と人間の「自由」>というのは、より論じられるべき問題だ。
 結局は一つに収斂するかもしれないが、一方にはIT・AI(人工知能)等の言葉で示されるコンピュータ関連技術の発展があり、一方には脳科学・脳神経生理学等の発展が明らかにしつつあるヒト・人間の「本性」の研究がある。
 これらと社会・国家・人間の関係をもっと論じるべきなのだろう。
 しかし、西尾幹二は<怯えて><憂いて>いるだけで、処方箋を提示しない。それは<文学>系の自分の仕事ではない、と考えているのかもしれない。
 L・コワコフスキがフランクフルト学派の一人に放った厳しい一言を思い出す。記憶にだけ頼り、少しは修正する。
 <現代的科学技術の進化に戦き、かつて「知識人」としての特権を味わうことができた古い時代へのノスタルジー(郷愁)を表明しているだけ>だ。
 第三に、アメリカ・日本が「共産主義」・「全体主義」体制と「似て」きた、「共通して」きた、という指摘にも、十分な根拠が提示されていない。そもそもが、西尾幹二は「共産主義」をどう理解しているのだろう。
 このようにして東西陣営の「共通」性・「類似」性を指摘するのは、ソ連解体時に「容共・左翼」論者も行ったことだった(ソ連にもアメリカにも「現代」特有の病弊がある、と)。
 西尾において特段に意識的ではないのかもしれないが、アメリカを中心ないし先頭とする「現代」文明を批判するのは、中国・北朝鮮等の現代「共産主義」諸国を免罪することとなる可能性がある。
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 一回では済まなくなった。もともとは、<茂木著②>の前書きのつもりだったのだが。

2037/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)①。

  茂木健一郎・脳とクオリア-なぜ脳に心が生まれるのか(日経サイエンス社、1997)。
 これを10章(+終章)まで、計p.313までのうち、第3章のp.112 まで読み終えている。他にも同人の著はあるようだが、これが最初に公刊した書物らしいので、読み了えるつもりでいる。この人の、30歳代半ばくらいまでの思考・研究を相当に「理論的」・体系的にまとめたもののようだ。出版担当者は、日本経済新聞社・松尾義之。
 なお、未読の第10章の表題は<私は「自由」なのか?>、第9章の表題は<生と死と私>。
 ついでに余計な記述をすると、西尾幹二・あなたは自由か (ちくま新書、2018)、という人文社会系の書物が、上の茂木の本より20年以上あとに出版されている。佐伯啓思・自由とは何か(講談社現代新書、2004)という書物もある。仲正昌樹・「不自由」論(ちくま新書、2003)も。
  上の著の、「認識におけるマッハの原理」の論述のあとのつぎを(叙述に沿って)おそらくはほとんど「理解する」ことができた、または、そのような気分になったので、メモしておく。
 この書には「心」の正確で厳密な定義は、施されていない。
 但し、「意識」については、G・トノーニとおそらくは同じ概念使用法によって、この概念を使っていると見られる。これを第一点としよう。詳細は、第6章<「意識」を定義する>で叙述する、とされる。
 第一。p.96(意識)。
 ・「覚醒」時には「十分な数のニューロンが発火している」から「『心』というシステムが成立する」。
 ・「一方、眠っている時(特に長波睡眠と呼ばれる深い眠りの状態)にも、低い頻度での自発的な発火は見られる。/しかし、…意識を支えるのに十分な数の相互作用連結なニューロンの発火は見られない。したがって、〔深い〕睡眠中には、システムとしての『心』が成立しないと考えられるのである」。
 これ以外に、以下の五点を挙げて、第一回のメモとする。
 第二。p.86〔第1章・2章のまとめ〕。
 ・「私たちの一部」である「認識」は、つまり「私たちの心の中で、どのような表象が生じるか」は、「私たちの脳の中のニューロンの発火の間の相互作用によってのみ説明されなければならない」。
 ・「ここにニューロンの間の相互作用」とは、「アクション・ポテンシャルの伝搬、シナプスにおける神経伝達物質の放出、その神経伝達物質とレセプターの結合、…シナプス後側ニューロンにおけるEPSP(興奮性シナプス後側膜電位)あるいはIPSP(抑制性シナプス後側膜電位)の発生である」。
 第三。p.100〔ニューロン相互作用連結・クラスター〕。
 ・「相互作用連結なニューロンの発火を『クラスター』と呼ぶことにしよう」。
 ・A(薔薇)の「像が網膜上に投影された時、網膜神経節細胞から、…を経てITに至る、一連の相互作用連結なニューロンの発火のクラスターが生じる」。
 ・「このITのニューロンの発火に至る、相互作用連結なニューロンの発火のクラスター全体」こそが、A(薔薇)という「認識を支えている」。すなわち、「最も高次の」「ニューロンの発火」が単独でA(薔薇)という「認識を支えている」のではない。
 第四。p.90-〔ニューロンの相互作用連結〕。
 ・二つのニューロンの「相互作用」とはニューロン間の「シナプス」の前後が「連結」することで発生し、これには、つぎの二つの態様がある。
 ・「シナプス後側ニューロンの膜電位が脱分解する場合(興奮性結合)と過分解する場合(抑制的結合)」である。
 ・「シナプスが興奮性の結合ならば、シナプス後側のニューロンは発火しやすくなるし、シナプスが抑制性の結合ならば、シナプス後側のニューロンは、発火しにくくなる」。
 ・簡単には、「興奮性結合=正の相互作用連結性、抑制的結合=負の正の相互作用連結性」。
 第五。p.102-〔「抑制性結合」の存在意味〕。
 ・「少し哲学的に言えば、不存在は存在しないことを通して存在に貢献するけれども、存在の一部にはならない」。
 ・「抑制性の投射をしているニューロンは、あまり発火しないという形で、いわば消極的に単純型細胞の発火に貢献」する。
 第六。p.104-〔クラスター全体による「認識」の意味=「末端」ニューロンと「最高次」ニューロンの発火の「時間」と「空間」、「相互作用同時性の原理」)。
 ・「物理的」な「時間」・「空間」は異なっていても、<認識>上の「時間」は「同時」で、「空間」は「局所」的である。
 ・「認識の準拠枠となる時間を『固有時』と呼ぶ」こととすると、「ある二つのニューロンが相互作用連結な時、相互作用の伝搬の間、固有時は経過しない。すなわち、相互作用連結なニューロンの発火は、…同時である」。
 ・「末端のニューロンから、ITのニューロンまで時間がかかるからといって」、私たちのA(薔薇)という「認識が、『じわじわ』と時間をかけて成立するわけではない」。
 ・「物理的空間の中で、離れた点に存在するニューロンの発火」が生じて「認識の内容が決まってくる」という意味では、「物理的空間の中では非局所的だ」。
 ・「物理的空間の中では…離れたところにあるニューロンの発火が、相互作用連結性によって一つに結びつきあって、…一つの認識の要素を構成する」。
 ・「つまり、相互作用連結によって結びあったニューロンの発火は、認識の時空の中では、局所的に表現されている」。
 ***
 注記ー秋月。
 ①「ニューロン」とは「神経細胞」のことで、細胞体、軸索、樹状突起の三つに分けられる。軸索,axon, の先端から「シナプス」,synapse, という空間を接して、別のニューロンと「連結する」ことがある。(化学的)電気信号が発生すると、軸索の先端に接するシナプス空間に「伝達化学物質」が生じて、別のニューロンと連結する=信号が伝達される(同時には単一方向)。
 ②ニューロンは「神経」のある人間の身体全身にあるが、脳内には約1000億個があり、それぞれの一つずつが約1000個のシナプス部分と接して、一定の場合に別のニューロンと「連結」するとされる。G・トノーニらの2013年著によると、約1000億個のうち「意識」を生み出す<視床-大脳皮質>部位には約200億個だけがあり、生存にとっては重要だが「意識」とは無関係の<小脳・基底核>等に残りの約800億個がある。なお、人間一人の「脳」は、重さ1.3-1.5kgだという。

2033/池田信夫のブログ013-A・R・ダマシオ①。

 日本共産党の機関紙や同党出版物、同党員学者等の書物、その他「容共」であることが明確な学者・評論家類の本ばかりを読んでいると、広い視野、新しい知見をもてず、<バカ>になっていく。少なくとも、<成長がない>。
 西尾幹二が例えば、①日本会議・櫻井よしこを批判するのは結構ではあるものの、日本会議・櫻井よしこをなおも当然に?「保守」と理解しているようでは、②かつての日本文化フォーラム・日本文化会議に集まっていた学者・知識人は「親米反共」の中核であっても「保守」ではないと認識しているようでは(例、同・保守の真贋(徳間書店、2017))p.160)、むろん改めてきちんと指摘するつもりだが、「保守」概念に混濁がある。そして、西尾が「保守」系の雑誌だとする月刊正論、月刊WiLL、月刊Hanada 等やそれらに頻繁に執筆している評論家類の書物ばかりを読んでいると、広い視野、新しい知見をもてず、<バカ>になっていく。少なくとも、<成長がない>。
 池田信夫の博識ぶりはなかなかのもので、デカルト、ニュートン、ダーウィン、カント等々に平気で言及しているのには感心する。むろん、その理解・把握の正確さを検証できる資格・能力は当方にはないのだけれど。
 進化・淘汰に強い関心を示したものを近年にいくつか書いていたが、もっと前に、 アントニオ・R・ダマシオの本を紹介していた。
 2011年6月26日付/アゴラ「感情は理性に先立つ」だ。
 ここでは反原発派の主張に関連して<論理と感情>の差違・関係を問題設定しつつ、つぎに、紹介的に言及している。
 アントニオ・R・ダマシオ/田中三彦訳・デカルトの誤り-情動・理性・人間の脳(ちくま学芸文庫、新訳2010・原版2000/原新版2005・原著1994)。
 「感情はいろいろな感覚や行動を統合し、人間関係を調節する役割を持っているのだ。
 感情を理性の派生物と考えるデカルト的合理主義とは逆に、感情による人格の統一が合理的な判断に先立つ、というのが著者の理論である」。
 「この場合の感情は個々の刺激によって生まれる情動とは違い、いろいろな情動を統合して『原発=恐い』といったイメージを形成する」。
 「…感情は身体と結びついて反射的行動を呼び起こす、というのが…『ソマティック・マーカー仮説』である」。
 「感情が合理的判断の基礎になるという考え方は、カントのカテゴリーを感情で置き換えたものとも解釈できるが、著者は近著ではスピノザがその元祖だとしている。
 身体が超越論的主観性の機能を果たしているというのはメルロ=ポンティが指摘したことで、最近ではレイコフが強調している」。
 原発問題を絡めているのでやや不透明になっているが、それを差し引いても、上をすんなりと理解することのできる読者は多くはないだろう(「近著」というのはダマシオ/田中三彦訳・感じる脳-情動と感情の脳科学・よみがえるスピノザ(ダイヤモンド社、2005))。
 この2010年刊の新訳文庫を計400頁ほどのうち1/4を読み了えた。その限度でだが、上はダマシオ説の正確で厳密な紹介にはなっていない、と見られる。
 但し、池田のいう<感情と理性>、<感情と合理的判断>の差違・関係にかかわるものであることは間違いない。
 そして、人間関係における個人的<好み・嫌悪感>や「対抗」意識が、あるいは<怨念>が「理屈」・「理論」を左右する、あるいは物事は<綺麗事>では決まらない、といった、実際にしばしば発生している(・発生してきた)と感じられる人間の行動や決定の過程にかかわっている。
 (この例のように、「感情」と「理論」・「判断」の関係は一様ではない。つまり、前者の内容・態様によって、後者を「良く」もするし、「悪く」もする。)
 ややむつかしく言うと、<感性と理性>、<情動と合理性>といった問題になる。
 まだよく理解していないし、読了すらしていないが、アントニオ・R・ダマシオの上の著の意図は、池田の文を受けて私なりに文章化すると、このようになる。
 この問題を脳科学的ないし神経生理学的に解明すると-つまりは「自然科学」の立場からは、あるいは「実証」科学的・「実験」科学的には-、いったいどのようなことが言えるのか。
 著者自体は「新版へのまえ書き」で、こう明記する。文庫、p.13.
 「『デカルトの誤り』の主題は情動と理性の関係である。
 …、情動は理性のループの中にあり、また情動は通常想定されているように推論のプロセスを必然的に阻害するのではなく、そのプロセスを助けることができるという仮説(ソマティック・マーカー仮説として知られている)を提唱した」。
 ここで、「通常想定されている」というのは、感情・情動は理性的・合理的判断を妨げる、<気分>で理性的であるべき決定してはいけない、という、通念的かもしれないような見方を意味させていると解される。
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 ところで、上にすでに、「感情」・「情動」・「理性」・「推論」・「合理」という語が出てきている。
 第四章の冒頭の一文、文庫p.104は、「ある条件下では、情動により推論の働きが妨げられる-これまでこのことが疑われたことはない」、だ。
 こうした語・概念の意味がそもそも問題になるのだが、秋月瑛二の印象では、人文社会系の論者(哲学者・思想家)では基礎的な観念・概念の使い方が多様で、たとえ「言葉」としては同じであっても、論者それぞれの意味・ニュアンス・趣旨をきちんと把握することができなければ、本当に「理解」することはできない。
 つい最近では、ルカチとハーバマスでは「実践」の意味が同じではない、というようなことをL・コワコフスキが書いていたのを試訳した。試訳しながらいちおうはつねに感じるのは、「認識」とか「主体」とか「外部」とかを、L・コワコフスキが言及している論者たちは厳密にはどういう意味で使っているのだろうということだ(それらをある程度は解き明かしているのがL・コワコフスキ著だということにはなるが、すでに十数人以上も種々の「哲学者」たちが登場してくると、いちおう「試訳」することはできても、専門家でない者には「理解」はむつかしい)。
 これに対して、あくまで印象だが、自然科学系の著書の方が、一言でいうと<知的に誠実>だ。あるいは<共通の土俵>の程度が高い。
 つまり、それぞれの学問分野(医学(病理学・生理学、解剖学等々)、物理学、化学、数学等々)で、欧米を中心とするにせよ、ほぼ世界的に共通する「専門用語」の存在の程度が、人文系に比べてはるかに多く、(独自の説・概念については「ソマティック・マーカー仮説」だとか「統合情報理論」とか言われるようなものがあっても)、自分だけはアカデミズム内で通用しないような言葉遣いを、少なくとも基礎的概念についてしない、という<ルール>が守られているような感がある。
 したがって、日本で、すなわち日本の(自然科学)アカデミズムが翻訳語として用いる場合も、一定の(例えば)英語概念には特定の日本語概念が対応する訳語として定着しているように見られる。
 「意識」=conciousness、というのもそうだ。Brain は「脳」としか訳せないし、それが表象している対象も基本的には同じはずだろう。
 では、「感情」・「情動」・「理性」・「推論」・「合理(性)」等々の、もともとの英語は何なのか。
 なお、アントニオ・R・ダマシオはポルトガル人のようだが、若いときからアメリカで研究しているので、英語で執筆しているのではないかと推察される(ジュリオ・トノーニら・意識はいつ生まれるのか(亜紀書房、2015)の原著はイタリア語のようだ)。

2012/池田信夫のブログ010-天皇・「万世一系」。

 菅義偉官房長官は天皇位は「古来例外なく男系男子で継承してきた」=女系天皇はいなかった、との政府見解(政府の歴史認識)を明言しているが、これは「正しい」または「適切な」ものなのか。①「古来例外なく」とはいつからか。②「男系」・「女系」という意識・観念はその「古来」からあったのか。
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 池田信夫ブログ2019年5月5日付「『男系男子』の天皇に合理的根拠はない」。
 ・愛子様への皇位継承に反対する人々は「かつて『生前退位』に反対した人々と重なっている」。
 ・<男系男子継承は権威・権力を分ける日本独特のシステム>と言うのは「論理破綻」しており、「権威と権力が一体化した中国から輸入したもの」
 ・「江戸時代には天皇には権威も権力もなくなった」。
 ・「天皇家を世界に比類なき王家とする水戸学の自民族中心主義が長州藩士の『尊王攘夷』に受け継がれ」、「明治時代にプロイセンから輸入された絶対君主と融合したのが、明治憲法の『万世一系』の天皇」だった。
 ・旧皇室典範が男系男子としたのは「天皇を権威と権力の一体化した主権者とするもの」で、古来のミカド…とはまったく違う「近代の制度」だった。
 ・日本の「保守派には、明治以降の制度を古来の伝統と取り違えるバイアスが強いが、男系男子は日本独自の伝統ではなく、合理性もない」。
 ・「男系男子が『日本2000年の伝統』だというのは迷信」だ。
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 この池田ブログ・アゴラ5月5日付は丁寧に、「男系男子は権威と権力を分ける日本独特のシステム」は八幡和郎の意見ではないとして、「訂正版」と銘打つ。
 但し、「権威と権力を分ける」は別として(この「権権二分論」は西尾幹二にも見られる、西尾を含めての<いわゆる保守>または「産経文化人」の有力主張だ)、八幡和郎の<万世一系>に関する見解・意見の重要部分は、つぎの文章でも明らかだ。
 八幡和郎「万世一系: すべての疑問に答える」アゴラ2019年5月31日付。
 ・日本が外国と異なるのは「万世一系の皇室とともに生まれ」、独立を失ったり分裂したことがないとされることだ。
 ・「女系天皇を認めるべきだという議論…」、「こうしたトンデモ議論…」。
 上の両者をつなげると、八幡和郎は「万世一系の皇室」に肯定的であり、かつそこには「女系天皇」を含めていない、と理解してよいだろう。
 そうすると八幡和郎はおそらくは、池田信夫のいう「明治以降の制度を古来の伝統と取り違える」「男系男子」論という「迷信」に(2000年とまでその歴史の長さを見るかは別として)嵌まっていることになる。
 「皇統」はこの<男系男子>天皇で続いてきた、かりに「女性」天皇はいてもかつて「女系天皇」は存在しなかった、というのは、現時点以降の皇位継承のあり方について、可能なかぎり「女性」天皇も認めない、それにつながる可能性のある「女性宮家」の設立も認めない、という<いわゆる保守>派の主張の有力な「歴史的」根拠になっている、と見られる(これは、現行皇室典範(=明治憲法期のそれと同じく男系男子論を採用)を改正する必要は全くない、という主張で、この部分については現行皇室典範に触るな、という主張でもある)。
 八幡和郎には、つぎの書物もある。一つだけ。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2012年1月)。
 熟読していないが、上に触れたことと併せてこのタイトルも見ただけでも、八幡の意見・見解が池田信夫とはかなり異なることは十分に推測することができる。
 上に記した、かつて日本に「女性」天皇はいても「女系天皇」は存在しなかった、というのは、例えば典型的には、<いわゆる保守>派の中でもまだ相対的には理知的だと感じてきた西尾幹二についても明言されている「歴史認識」だ。
 西尾幹二発言・西尾幹二=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012)p.11。
 「歴史上、女性の天皇が8人いますが、緊急避難的な"中継ぎ"であったことは、つとに知られている話です。そうしますと男系継承を疑う根拠は何もない。
 なお、この発言の頭書の見出しは、<女系容認は雑系につながる>。
 また、「緊急避難的な"中継ぎ"」の部分についての編集者らしき者による注記は、「いずれも皇位継承候補が複数存在したり、幼少であったことなどからの」緊急避難的措置だった、と記している(同上、p.13)。
 男子継承の理念?を最優先すれば、複数の男子候補のいずれかを選ばざるを得ないのではないか、と思うのだが。また、文武(男子)は何歳で即位したのか?。
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 さて、いくつか、コメントしておきたい。
 まず手近に上の西尾発言、というよりも<いわゆる保守>の公式見解・公式歴史認識らしきものについて。
 ①過去の全ての「女性」天皇について、上の意味のような「緊急避難」的措置だったことを、8天皇ごとに、具体的かつ詳細に説明する必要がある。
 「女性」天皇による重祚の例が2回あるが、その各回についても、背景事情を詳しく説明すべきだ。
 西尾幹二はむろんのこと、男系男子論者(この点についての皇室典範改正不要論者)がこれをきちんと行っているのだろうか。
 <男系男子論>(これは日本会議・同会議国会議員連盟の主張のようでもあるが)を「社是」としているらしき産経新聞社(あるいは同社関係雑誌・月刊正論編集部)は、これをきちんと行ってきているだろうか。
 また、日本史学界を全幅的に信頼しはしないが、上の「歴史認識」は学界・アカデミズムではどう評価されているのかも気になる。
 ②そもそも皇位継承について、「男系」と「女系」の区別は、明治維新以降はともかくとして、皇室関係者その他の各時代の論者・社会の各分野で、どの程度明確に意識または観念されてきたのだろうか。
 ア/聖武天皇皇后(光明子)が初めて「民間」(といっても藤原氏)出身らしいのだが、そうすると、それまでの皇后は、そしてのちに「女性」天皇となった前皇后は(なお、全「女性」天皇がかつて皇后だったわけでは必ずしもない)、当然に「皇族」だった。
 とすると、全ての「女性」天皇は、その父親が天皇だったかを問わず、全て「男系」ではある。
 イ/一方で、例えば持統天皇(天武天皇皇后)の子や孫で天皇になった人物は、男女を問わず、天智・天武の血統であっても、持統天皇の皇統?にあるという意味では、「女系」天皇だと観念または理解して、何ら誤っていない、と思える。なお、高市皇子・長屋王は持統の子・孫ではない。
 ウ/具体的にいえば、孝謙天皇・称徳天皇(同じ一女性)は、いかなる「緊急避難」的必要があって、二度も天皇位に就いたのか?
 西尾幹二は、これらを実証的に、歴史的に、説明できるのだろうか。
 エ/すでに書いたことだが、少なくとも奈良時代後期の光仁天皇までは、天皇は「男系男子」でなければならないなどという観念・意識はまったく支配的ではなかった、と思われる。
 まだ十分に確認していないし、母親の地位・「身分」が問題にされたことも承知はしているが、持統天皇就位のとき、年齢的にも問題のない<男系男子>はいなかったのか。これは、奈良時代の全ての「女性」天皇について言える。また、わざわざ男系男子の淳仁天皇を廃して孝謙が称徳としてもう一度天皇になったのは、いかなる意味で「緊急避難的な"中継ぎ"」だったのか。「つとに知られている話」とはいったい何のことか。
 西尾幹二は、あるいは日本会議派諸氏、あるいは八幡和郎は、これらを実証的に、歴史的に、説明できるのだろうか。
 おそらく明らかであるのは、<男系男子>を優先するなどという考え方あるいは「イデオロギー」は、この当時はまだ成立していなかった、少なくとも支配的ではなかった、ということだ。男系男子の有資格者がいたにもかかわらず「女性」天皇となった人物がいるだろう。
 なお、高森明勅と大塚ひかり(新潮新書、2017)のそれぞれの「女系天皇」存在の主張には言及を省略する。元明ー元正。元正の父は草壁皇子で天皇在位なし。元明は持統の妹。
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 少し遡った議論を、一度行っておこう。
 第一。今後の皇位(天皇位)継承のあり方につつき、日本の「古来の」伝統的に立ち返ることが一般的に非難されるべきことであるとは思えない。
 しかし、将来・未来のことを「歴史」や「伝統」だけで決めてしまってよいのか。
 そのような発想を、「伝統」や「歴史」を重視するという意味では、私自身もしたことはある。しかし、かりに、または万が一「男系男子」で継承が「伝統」・「歴史」だったとしても、将来をもそれらが未来永劫に日本国民を拘束するとは考えられない。
 かりに天皇制度の永続を最優先事項とするならば、「女性」天皇はむろんのこと「女系」天皇も認めないと、そもそも天皇制度を永続させることができなくなる、という事態の発生の可能性が全くないとは言い難い。
 かりにそうして「女系」天皇が誕生したならば、それは、日本は従来とは異なる(しかし「天皇」制はある)新しい時代に入った、ということになるにすぎない、と考えられる。
 こういう発想に対して、「男系男子」論者は、おそらくこう言うだろう。
 そんな天皇は「本来の天皇」ではない、「天皇制度」が継続されているとは全く言えない、と。
 そのとおりかも知れず、気分はよく分かる。しかし、そう主張し続けることは、男系男子が皇位を継承しなければ「天皇」とは言えない、「天皇制度」ではない、と言っているに等しく、これは、<天皇制度の廃止>を実質的には主張している、または同意していることになる。
 偏頗な「男系男子」論は、じつは<天皇制度の廃止>をも容認する議論に十分につながってしまう。
 第二。こういう議論に対して、「男系男子」論者はおそらくこう主張するのだろう。
 天皇(男性)に側室・私妾を認めて男子が誕生する可能性を拡大する、と主張はしない、だからこそ皇室・皇族の範囲を拡大して皇位継承資格のある男子の数・範囲を広げることが喫緊なのだ、と。いわゆる<旧宮家・皇族復帰論>だ。
 しかし、ここで絶対に検討しておくべきであるのは、<旧皇族復帰>を現実化する、つまり法制上の「皇族」を拡大することの現実的可能性だ。
 つまり、「旧皇族または旧宮家」(この範囲には議論の余地はある)にどの程度の人数(男子)がおり、彼らが(いたとして)どういう「意思」であるかの問題は全く別の問題として、<旧皇族復帰論>を現実化するためには、皇族範囲を定めている皇室典範(法律)を改正する必要がある。または新しい特別法を制定する必要がある。
 要するに、上の方向で皇室典範(法律)が改正される現実的可能性がいかほどあるか、だ。
 しかして、「法律」であるがゆえにその改正には両議員の国会議員の過半数の同意を必要とする(特例等は省略)。そして、現在および今後の日本の国会は、上のような趣旨の皇室典範(法律)改正・特別法制定を議決する可能性が、いかほどにあるのだろうか。
 西尾幹二はつぎのことも、新天皇・新皇后に「お願い」している。
 西尾「新しい天皇陛下にお伝えしたいこと/回転する独楽の動かぬ心棒に」月刊正論2019年6月号p.219。
 「安定した皇統の維持のために、旧宮家の皇族復帰、ないしは空席の旧宮家への養子縁組を進める政策をご推進いただきたい」。
 まさか西尾幹二が皇室典範は天皇家家法であって天皇(・皇后)の意向でいかようにも改正できると考えているとは思えないが、天皇(・皇后)に一定の皇室「政策」の推進を求めるのはいささか筋違いで、八木秀次によって「国政」介入の要請と厳しく批判される可能性もある。建前論としては国会・両議員議員に対して行うべきものだ。
 第三。この機会に少しだけ立ち入れば、「旧宮家の皇族復帰」等の趣旨でかりに皇室典範改正の基本方向が国会で賛同を得たとしても、検討する必要がある、そして必ずしも簡単に解決できそうにない法的論点がいくつかあると思われる。
 例えば、①対象者(旧宮家の後裔たる男子)の「同意」は必要か否か。必要であるとすると、「同意」しない者は対象者にならないのか。
 ②高度の「公共」性(天皇制度の安定的継続)を理由として、対象者(旧宮家の後裔たる男子)の「意思」とは無関係に、(一方的・強制的に)「皇族(男子)」と(法律制定・改正により)することはできるのか。その場合にそもそも、高度の「公共」性(天皇制度の安定的継続)を理由として、これまで皇族でなかった対象者の「身分」を変更することが<基本的人権>の保障上許容されるのか(皇族になるまでは一般国民だ)。
 ③「身分」変更に伴う、財産権等々にかかわる細々とした制度変更をどう行うか。
 上の①と②は、たんなる「法技術」の問題ではない。
 さらに、より「そもそも」論をしておこう。
 第一。池田信夫のように、「明治以降の制度を古来の伝統と取り違える」「男系男子」論という「迷信」について語る者もいる。
 いかなる「歴史認識」が(むろん運動論・政治論ではなく)より歴史学的ないし学問的に「正しい」かは、相当程度において、日本書記(・古事記)を信じるか・信頼するか、どの程度においてそうするか、に関係する。
 これは、二者択一の問題ではなく<程度と範囲>の問題だ。相対的に、秋月瑛二よりも、八幡和郎や西尾幹二のそれへの「信頼度」は高いようだ。
 しかし、古代史一般について言えるだろうが、「信じる」程度の問題になってしまうと、いずれが「正しい」かの議論にはならない。「神話」という「物語」を微妙に「史実」へと転換している部分がある西尾幹二についてもこれは言えると思われる。
 「信仰」の程度で、重要な問題の決着をつけては、あるいは重要な問題の根拠にしては、いけないのではないか。あるいは、よくわからないこと、信憑性の程度がきわめて高くはないことを、現在時点での問題解決の「歴史的」根拠にしてはいけないのではないか。
 なお、孝謙・称徳天皇あたりの「話」になると、続日本記等の記述の信頼性の程度の問題が生じてくる。
 公定または準公定の史記に相当に依拠せざるを得ないことは当然かもしれない。
 しかし、天武以前に関する(壬申の乱を含む)日本書記の記述を天武・持統体制?の意向と無関係にそのまま理解することはできないのと同様に、光仁・桓武天皇期以降の続日本記等の叙述や編纂が、平安京遷都以前の歴史につき、必ずしも公正には記していない可能性があるだろう。
 こんなことを感じるのも、孝謙・称徳天皇に関する記述・「物語」は先輩の?天皇に対するものとしてはいささか冷たい部分があるように、素人には感じられるからだ。
 なお、八幡和郎は変化も交替もなかったかのごとく叙述しているが、奈良王朝と平安王朝?の違いとその背景については(意味の取り方にもよるが)、関心がある。八幡が想定するよりももっと複雑な背景があると見るのが、より合理的な史実理解でありそうに見える。
 第二。皇位継承の仕方・あり方は(かりに「歴史」・「伝統」が有力な論拠になるのだとしても)、日本書記等での記述の仕方を含めて、ときどきの時代の史書がそれをどう理解していたか、も当然に配慮しなければならない。
 明治期以降の櫻井よしこらのいう「明治の元勲たち」が日本古代からの皇位継承の仕方・あり方をどう観念・理解したのかは考慮すべき一つの事項にすぎず、「明治以降の制度を古来の伝統と取り違える」のは、思考方法としても全く間違っている。
 <天皇親政の古来の在り方>に戻ったとし、仏教、修験道等を「神道」の純粋性を汚すものとした、明治新政府とその後の薩長中心藩閥政権等々が、日本古代からの皇位継承の仕方・あり方を本当に客観的または冷静に分析し理解し得たとは、とても思えない。
 昭和に入ってからの<国体の本義>に書いてあることが全てウソまたは欺瞞または政治的観念論だと主張はしないが、「天皇」に関する叙述・論述をそのまま信頼することもできない。これは当たり前のことだろう。そして、「万世一系」もまた、明治憲法が用いた術語であることを知らなければならない(むろん、その趣旨の論は江戸時代等にもあったかもしれないがどの当時から「体制」のイデオロギーではなかったように思われる)。
 第三。江戸時代の「女性」天皇についても上記の「緊急避難的な"中継ぎ"」の意味は問題になり得る。その点は別としても、しかし、歴代の天皇の大多数が男子(男性)だったことは間違いないようで、なぜそうだったかは別途論じられてよいだろう。
 池田信夫は冒頭掲記の文章の中で、「日本で大事なのは『血』ではなく『家』の継承だから、婿入りも多かった。平安時代の天皇は『藤原家の婿』として藤原家に住んでいた。藤原家は外戚として実質的な権力を行使できたので、天皇になる必要はなかった」と書いている。
 但し、その後の時代も含めて、武家等が「天皇」になる必要はなかったとしても、その天皇はなぜほとんど男子で継承されてきたのか、という疑問はなお残る。
 簡単な論述には馴染まないが、結局のところ、人間・ヒトとしてのオスとメス(男と女)の違いに求めるしかないのではないか、と私は思っている。むろん、ただ一つの理由、背景として述べているのではない。
 中国の模倣も少しはあったかもしれない。しかしそもそもは、「天皇」になることがいかほどの特権だったかは時代や人物によっては疑問視することもでき(例えばかりに同族が天皇位に就いていて自分の生活・財産が保障されていれば、あえて「天皇」になる必要はないと考えた候補者もいたかもしれない)、また「女性」天皇が少ないことは女性蔑視思想の結果だとも思えない。
 妊娠・出産はメス・女性しかすることができない、というのは古来から今日までの、日本人に限らない「真理」だろう。このことと「天皇」たる地位の就位資格と全く無関係だったとは思われない。むろん代拝等によることによってあるいは摂政・代理者によって祭祀行為や「執政」等々をすることはきるのだが、日本史の全体を通じて、妊娠し出産し得るという身体性は、天皇という「公務」執行の支障に全くならなかったとは思えない。むろん100%決した要因ではないだろうと強調はしておくが、この要素を無視できないのは当然のことではなかろうか。
 これは女性「差別」でも何でもない。むしろ「保護」をしていたのかもしれない。
 第四。天皇の問題だけではないが、日本の「文化」・「文明」の独自性・特有性は、日本人の「精神」・「こころ」・「性格」等によるのではなく、大陸や半島から「ほどよく」離れた、かつ東側にはさらに流れ着く島等がないという列島という地理関係とそこでの自然・気候等の「風土」によるのだろうと思っている。天皇という制度の継続もこれと全く無関係とは感じられない。
 「民族」・「日本人」が先ではなく、人が生きていく列島の「地理的条件」・「自然」・「風土」が先だ。
 前者という「観念」的なものを優先させるのは、この列島にやって来たヒトたち・人間たちの本性とは決して合致していないだろう。

2006/「文学」的観念論ノート。

 ***
 古都保存法という法律がある。これは略称または通称で、正確には<古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法>(昭和40年法律1号)という。
 この法律2条1項はこう定める。「この法律において『古都』とは、わが国往時の政治、文化の中心等として歴史上重要な地位を有する京都市、奈良市、鎌倉市及び政令で定めるその他の市町村をいう」。
 京都、奈良、鎌倉各市およびその他の「政令で定める」市町村が、「古都」とされる。
 この政令である<古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法第二条第一項の市町村を定める政令>(昭和41年政令232号)によると、 政令で定める「古都」とはつぎの市町村だとされる。
 「天理市、橿原市、桜井市、奈良県生駒郡斑鳩町、同県高市郡明日香村、逗子市及び大津市」。
 さて、鎌倉のほか天理、逗子各市および斑鳩町にはたぶん、かつて天皇・朝廷の所在地はなかった筈だ。それに、かつて「都」があったはずの大阪市が列挙される中に入っていない。
 とこんなことを議論しても無意味だ。「都」の一種だと概念論理的にはいえる「古都」について、「都」それ自体の意味とは無関係に、上の法律は「わが国往時の政治、文化の中心等として歴史上重要な地位を有する」特定の市町村だと定義しているのだから。
 ***
 <大阪都>構想に関して、竹田恒泰や西尾幹二らは、「都」は一つだけだ、東京とは別に大阪「都」というのは本来?おかしいと、歴史学的に?または文学的に?主張し、または感想を述べているらしい。
 言葉・概念をすぐに<文学的>に解してしまう文学(部)系「知識人」・「評論家」あるいは「物書き」(文章執筆請負業者)の弊害が顕著だ(もっとも竹田は法学部卒のはずだが)。
 現行の地方自治法(昭和22年法律67号)は「普通地方公共団体」の中に都道府県(・市町村)が、「特別地方公共団体」の中に「特別区」等があることを定めているが、都道府県の各意味、いずれが都道府県にあたるのかの特定を行っていない。
 そして、3条1項で「地方公共団体の名称は、従来の名称による」とだけ定める。
 したがって、明治憲法公布時の「府県制」(・「市制」・「町村制」)のほか1943年の東京「都制」という名称の各法律によるものをそのまま継承することとしている。
 特別区というのは戦後・地方自治法上の制度で、同法281条1項は「都の区は、これを特別区という」と定める。
 今日まで「都」の名称を継承したのは(昭和18年以降の)東京だけで、上の「特別区」の区域は実質的には東京都だけにあり、また旧東京市(昭和18年まで)の区域に該当するものだった。
 しかし、どこにも「都」の定義はなく、「都」とは将来的にも「東京都」に限る、という旨の規定はない。
 2012年(平成24年)に、略称<大都市地域特別区設置法>、正式名称<大都市地域における特別区の設置に関する法律>(平成24年法律80号)が公布された。
 この法律によると一定大都市地域での「特別区」の最終設置権限機関は「総務大臣」だ(3条)。住民投票(選挙人の投票)等を経ての関係自治体の<合意>で決定されるのではない。
 また、「特別区の設置」とは、「関係市町村を廃止し、当該関係市町村の区域の全部を分けて定める区域をその区域として、特別区を設けることをいう」(2条3項)。
 そして、「都」という語・制度との関係について、こう定める。第10条。
 「特別区を包括する道府県は、地方自治法その他の法令の規定の適用については、法律又はこれに基づく政令に特別の定めがあるものを除くほか、都とみなす。」
 現在「都」ではない「道府県」も、これにより、法制上は「都」となる(そうみなされる)。
 また、確認しないが、例えば大阪府を大阪都と名称変更することについては、すぐ上の厳密な規定ぶりからして、上掲の地方自治法3条1項「地方公共団体の名称は、従来の名称による」との抵触を回避するために、別の特別法(法律)が総務大臣の最終決定と同時か一定期間経過後に必要になるのかもしれない。
 いずれにせよ、「都」は東京に限られるのではない。
 天皇陛下がおられる、皇居のある東京に限るべきだ、と主張するのも自由勝手だが、そんな議論は現実の政治・行政上は、とっくに否認されている。
 ところで、大阪府下に「特別区」をおくといういわゆる<大阪都構想>が橋下徹・大阪維新の会で唱えられたとき、そんなことは法律を改正するか新法律を制定しないと、つまりは国・中央の立法機関の国会がそれを認めなければ、実質的には政府・与党がそれを了解していなければ実現する可能性はゼロであることは分かっていたので、政策的議論、行政政策・地方制度(とくに大都市制度)としての優劣の議論はさておき、そもそもその現実的な実現可能性について疑問をもったものだ。
 ところが何と、2012年(平成24年)というのは年末に安倍晋三第二次内閣が誕生した年だが、自民党等の賛成を得て、上記の法律が成立してしまったので、驚いてしまった。
 これはたんなる「理論的」、「政策論的」優劣の問題ではない。
 上記のとおり法律成立がただちに<大阪都>容認を意味するのではないが中央政界、とくに自民党の同意を取り付ける、という橋下徹らの<政治力>または<人間力>によるところもすこぶる大きかっただろう。
 現行の、「生きている法制度」を変更する・改正するというだけでも大変なことなのだ。むろん、その新しい法制を利用して、元来の「理念」を現実化するのも大変なことはその後の経緯が示している。
 橋下徹はしばしば、学者先生の<空理空論>を批判し揶揄しているが、その気分はよく分かる。
 東京にだけ「都」という語は使うべきだ、「都」は一つに決まっている、などとのんきに?書いたり、発言しているだけでは、世の中は変わらない。
 ***
 天皇・皇室に関する日本国憲法を含む現行法制を全く無視して、あるいは無視していることも意識しないで、奇妙なことを、例えば加地伸行(1936-)は語りつづける。
 加地伸行「宮中にて祈りの御生活を-新しい天皇陛下にお伝えしたいこと」月刊正論2019年6月号p.255.は、かつての現天皇・現皇后に対する自らの罵詈雑言にはむろん?少なくとも明示的には触れることなく、つぎのように書く。
 「伝統を墨守する」方法は「ただ一つ」、「皇居の中で静かに日々をお暮らしになり、可能なかぎり外部と接触されないこと」。「庶民や世俗を離れ、可能なかぎり皇居奥深く在されること」。「宮中におかれて、専一、祈りの御生活」を。
「国事行為の場合には他者との面会もやむをえないが…」とも書いているが、またもや加地の幼稚な天皇観が表れているだろう。
 「祈り」とは何か。幼稚な彼は「祭祀王」という語を用いず、「祈り」と宗教・神道との関係にも触れることができない。
 加地伸行は一度、「内閣の助言と承認」を必要とする、上にいう「国事行為」の列挙を日本国憲法7条で確認しておく必要がある。
 そして、「可能なかぎり」「外部と接触」せずに「皇居奥深く在され」て「祈って」いただきたい、というのは日本の天皇の歴史全体を通じても現憲法に照らしても、特殊な天皇観だということを知らなければなない。
 さらに書けば、この人物はかつての自らの皇室関係発言を「恥ずかしく」感じてはいないのだろうか。
 なぜ、「新天皇」への言葉の原稿執筆依頼を平然と引き受けることができるのだろうか。何についても語る資格があると思っているらしき「古典的知識人」のつもりらしい「名誉教授さま」の神経は、凡人たる私にはさっぱり分からない。

1994/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題④。

 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)所収の同「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。
 西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ③のつづき。直接の引用には、明確に「」を付す。原文とは異なり、読み易さを考慮して、ほぼ一文ごとに改行している。
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 2006年4月30日「理事会」での鈴木尚之「演説」の、西尾幹二による「一部」引用。これをさらに秋月によって「一部」引用する。
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 ・「西尾先生宅に送られた4通の怪メール(FAX)」の「一通〔往復私信〕は私が八木さんに渡したものである。
 もう一通〔怪文書〕は、3月28日の理事会に出席していなければ絶対に書けない内容のものであり、4通はすべて関連している内容のものである。
 八木さんは<諸君!>で『私のあずかり知らないことである』ととぼけているが、そんなことで言い逃れできるはずがない。
 これもまた、八木さんの保守派言論人としての生命に関わることである。」
 ・2006年4月4日午後2時に「私と会った産経新聞の渡部記者は、『鈴木さん、申し訳ありません』と」「謝り、『とにかく謀略はいけません、謀略はいけません。八木・宮崎にもう謀略は止めようと言ったので、もう謀略はありませんから……〔……は西尾による引用原文ママ-秋月〕。私は、産経新聞を首になるかもしれない』と言ったのである」。
 ・この産経新聞の渡部記者は「同じことを藤岡さんにも言った」とのことがのちに明らかになり、「このことを知って私は、八木さんに『産経の記者があなたにどんな話をしているのかわからないが、藤岡さんに話したことと同じことを私にも言っているのだから、これはもう重大なことですよ。最悪のことを考えて対処しないと大変なことになりますよ。とにかく記者は顔色をなくして私にこう言ったのだから。謀略はいけない、謀略はいけないと』。
 そのとき八木さんは、『謀略文書をつくったのは産経の渡部君のくせに……〔……は西尾による引用原文ママ-秋月〕。彼は、1通、いや2通つくった。これは出来がいいとか言ってニヤニヤしていたんだから……〔……は西尾による引用原文ママ-秋月〕』とつぶやいたのである」。
 ・「以上のことは、4月30日の理事会で、特別の許可を得て私がした報告の内容である」。
 「八木さんを糾弾するために言ったのではない。
 八木さんが、このような『禁じ手』を使ってしまったことを反省し謝罪しないかぎり、八木さんに保守派言論人としての未来はないという危機感を持ったから」だった。
 「それでも八木さんは、謝罪することなく、『つくる会』を去って行った」。
 ***
 (以下は、西尾幹二自身の文章-秋月。)
 ・「この鈴木氏の手記から見ても、怪文書事件には八木、宮崎、渡部の三氏が関与していた疑いを拭い去ることができない(渡部記者は新田均氏のブログにこの証言への反論を載せている)」。
 「八木氏が、もしこれを『私はやっていない』『他の人がやったのだ』と言いつづけ、与り知らないことで嫌疑をかけられることには『憤りを覚える』などと言い募るとすれば」、…と同じ「盗人猛々しい破廉恥漢ということになる」。
 ・付言しておくと、「怪文書事件のほんとうの被害者は私ではなく、藤岡信勝氏である」。
 「公安調査庁の正式の文書を装って」、氏の経歴の偽造、日本共産党離党時期の10年遅らせ等の文書が「判別した限りで6種類も、各方面にファクス」で送られた。
 理事たちは「本人に聞き質すまで」混乱して疑心暗鬼に陥った。しかも氏の「義父を侮辱する新聞記事」まで登場して「私の家にも」送られた。「はなはだしい名誉毀損であり、攪乱工作である」。
 ・「現代は礼節ある紳士面の悖徳漢が罷り通る時代」だ。「高学歴でもあり、専門職において能力もある人々が」社会的善悪の「区別の基本」を知らない。
 「自分が自分でなくなるようなことをして、…その自覚がまるでない性格障害者がむしろ増えている」。
 「直観が言葉に乖離している」。「体験と表現が剥離している」。「直観、ものを正しく見ることと無関係に、言葉だけが勝手にふくれ上って増殖している」。「私が性格障害者と呼ぶのはこうした言葉に支配されて、言葉は達者だが、言葉を失っている人々」だ。
 ・「私は八木秀次氏にも一つの典型を見る。
 他人に対しまだ平生の挨拶がきちんと出来ない幼さ、カッコ良がっているだけで真の意味の『言論力の不在』、表現力は一見してあるように見えるが、心眼が欠けている。
 言葉の向こうから語り掛けてくるもの、言葉を超えて、そこにいる人間がしかと何かを伝えている確かな存在感、この人にはそれがまるでない。」
 ・「そういう人だから簡単に怪文書、怪メールに手を出す。
 今度の件で保守言論運動を薄汚くした彼の罪はきわめて大きい。
 言論思想界がこの儘彼を容認するとすれば、…を難詰する資格はない」。
 ・「それなのに八木氏らをかついで『日本再生機構』とやらを立ち上げる人々がいると聞いて、…ほどに閑と財を持て余している世の人々の度量の宏さには、ただ驚嘆措く能わざるものがある。」
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 見出しなしの最初の段落のあとの、<怪文書を送信したのは誰か>につづく<言葉を失った人々>という見出しのあとの段落が終わり。つづける。

1992/池田信夫のブログ007-西部邁という生き方②。

 池田信夫のブログ2018年1月23日付「『保守主義』に未来はあるのか」は、なるほどと感じさせた。かなり遅いが、在庫を少しでも減らしたい。
 池田によると、西部邁・保守の真髄(講談社現代新書、2017)を読むと、西部は20年ほど前から進歩していない。西部の「保守主義」には「思想としての中身がない」。以下も、要約的紹介。
 西部の「保守主義」の中身は「常識的で退屈」なので、「『反米保守』を自称して」あらゆる改革に反対するようになった。それは「文筆業として食っていくために『角度』をつけるマーケティングだったのかもしれない」。
 「保守すべき伝統」、「国柄」、「民主主義」…、「最後まで読んでも、それはわからない。…中身は陳腐な解説だ」。
 要するに彼は、「アメリカ的モダニズム」を批判しても対案のない「右の万年野党」だった。「保守主義はモダニズムの解毒財」としての意味はあったが、それ以上のものでなく、「彼に続く人はいない」。
 ***
 最も印象に残ったのは、「文筆業として食っていくために『角度』をつけるマーケティングだったのかもしれない」、かもしれない。
 勤め先・大学を辞職したあと、彼は自分と家族?のためにも文字通り「食って」いく必要があり、それは当然としてもさらには、手がけた雑誌を継続的に出版していく必要等もあった。
 第三者的想像にはなるが、そのためには活字上もテレビ上も、可能なかぎの<目立つ>必要があった。私はたぶん使わない言葉だが、やはり「マーケティング」が必要だったのではないか。
 そして、西部邁にかぎらず、何らの組織(大学・研究所)に属していない<自営業>の物書き・評論家類には、名誉心・顕名意欲に加えて、程度の差はあれ、こういう<本能>はあると思われる。
 脱線するが、上の著と並んで、西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017)が出た。このタイトルは、ライヴァルの?西部の本を意識したものでは全くなかっただろうか。また、その内容(「いわゆる保守による安倍内閣批判」)は、いかほどの影響があったのかはともかく、「保守」の論としては「角度」がついている。
 そもそも上の西部著を所持すらしていないのだから、その中身・西部の「思想」はよく分かっていない(別の書について「保守」というにしては反共産主義性が弱いか乏しいというコメントをしたことがある)。
 但し、池田の上のコメントは、ある程度は「近代」批判の佐伯啓思にも当たっているような気がする(近年はとんと読まなくなった)。
 ところで、西部邁死去後の諸文の中で最も記憶に残っているかもしれないとすら思うのは、産経新聞紙上(だと思われる)の、桑原聡の追悼コメントのつぎの部分だった(記憶による)。
 <「保守論壇」の中心部分にいた人ではなかった(又は、「保守論壇」の「周辺部」にいた人だった>。
 すぐに感じたのだろうと思う。
 では、桑原聡のいう、<「保守論壇」の中心部分・中央>にいるのはどのような人々か?
 桑原聡、そして月刊正論、そして産経新聞社にとって、それは櫻井よしこ、渡部昇一らではないのか。日本会議派または、親日本会議の論者たちだ。
 そして、何とも気味が悪い想いをもったものだ。中央、中心の「保守」とは、何の意味か。

1985/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題③。

 記録しておく価値があるだろう。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)所収-初/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。
 西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。
 いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ②のつづき。直接の引用には、明確に「」を付す。原文とは異なり、読み易さを考慮して、ほぼ一文ごとに改行している。 
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 ・「謀略好きの人間と付き合っていると身に何が起こるか分らない薄気味悪い話である。」/この一文は前回②と重複。
 *以下の第三節に当たるものの見出しは「怪文書を送信したのは誰か」(秋月)。
 ・「まさか、と人は思うかもしれないが、恐るべき巧妙な仕掛けがもうひとつあった」。
 「怪文書中の『藤岡は<私は西尾から煽動メールを受け取ったが反論した>と証拠資料を配りました』における『証拠資料』は理事会には勿論配られなかったが、私の自宅には件の怪文書と同時に送られて来ていた」。
 ・「『証拠資料』とは私と藤岡氏との間に2月3日に交された『往復私信』である。
 私は会の事務局長代行の鈴木尚之氏のことを取り上げ、『鈴木氏はあなたの味方ではないですよ』『あなたは会長になるのをためらってはいけない』の主旨のファクスを送り、その紙の空白に藤岡氏が『鈴木氏は自分の味方である』『自分は会長になる意志はない』と簡単に反対意見を記した返信を再びファクスで送ってきた」。
 この『往復私信』は私と藤岡氏しか知らないはずである。
 ところが、怪文書の作成者はこれを知っているどころか所有している。
 しかも怪文書とともにこれを私に送りつけてきた。」
 ・「私はギョッと一瞬たじろぐほど驚いた。
 一体怪文書の作成者は何者で、藤岡氏からどうしてこの私信が渡ったのか。」
 ・「私は早速藤岡氏に問い質したところ、『鈴木氏は自分の味方である』という個所を読ませたくて、鈴木氏に渡したというのである。
 一方、鈴木氏は藤岡氏に会長を狙う意志がないことを示して安心させるために、ここだけのこととして八木氏に渡した。」
 ・「その際、誰にも渡らないように、ほかの人に渡すとすぐに八木氏からのだと分る印がつけてあるから、と注意して渡した。
 他への流出を恐れて渡されたこの『印がついた西尾藤岡往復私信』がなんと不用意にも、『証拠資料』として怪文書と一緒に、私の自宅に送られてきたのだ。
 とすれば、『福地はあなたにニセ情報を流しています。…、小泉も承知です。岡崎久彦も噛んでいます。CIAも動いています』の例の怪文書の送り主はほかでもない、八木氏その人だということになる。」
 ・「この間に起こった鈴木氏のあせりや問い合わせ、八木氏の電話のたじろぎ、沈黙などはいま全部省略する。
 印があることが確認された三度目の電話で八木氏はやっと認め、謝り、犯人は自分ではない、新田氏に転送したと逃げたのである。」
 ・「この間のいきさつは『SAPIO』(6月14日号)にも書いたが、ここでは新情報として4月30日の理事会で当の鈴木氏が行った長い演説を後日まとめた手記の一部を紹介する。鈴木氏は次のように語っている。」
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 さらにつづける。

1971/中西輝政+日本会議編著(2008年)。

 中西輝政+日本会議編著・日本人として知っておきたい皇室のこと(PHP研究所、2008年)という書物がある。計300頁余。
 西尾幹二の2007年著・国家と謝罪(徳間書店)は「新しい歴史教科書をつくる会」の<分裂>時の様子に触れていて、その中には中西輝政がどっち付かずの立場をとったことを少しは批判的または皮肉っぽく書いている。
 上の2008年の書物の体裁・編者名からして、中西輝政が日本会議と<一体>になっていたように見られることが明らかだ。
 この本の執筆者は、当時の国会議員の島村宜伸、平沼赳夫、下村博文、萩生田光一の4名を除いて、以下のとおり。表紙に掲載されている氏名の順ではなく、実際の執筆順による。肩書き、所属は当時。
 三好達(日本会議会長)、中西輝政、大原康男(國學院大学)、阪本是丸(國學院大学)、松浦光修(皇學館大学)、田中恒清(神社本庁副総長・石清水八幡宮)、中條高徳。
 椛島有三(日本会議事務総長)、江崎道朗、宇都宮鐵彦。
 江崎道朗は「皇室の伝統を受け継がれる天皇陛下-占領・戦後体制という逆境の中で-」と題する項を執筆しているが、肩書きは、つぎのとおりだった。
 日本会議専任研究員。
 この肩書きで文章を書いていた人物が、その後10年も経たないうちに月刊正論(産経新聞社)の毎号執筆者になっていることを、読者は(すでに多くが承知のことかもしれないが)意識しておいてよいだろう。
 この書物の編者等を見ていると、椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)が、その巻末の参考文献に西尾幹二のものを(中西輝政との対談書も含めて)一冊も掲げず無視し、中西輝政のものは十分に掲げて紹介していることも理解できる。
 日本会議の名前を挙げて批判的に書いていた西尾幹二と違って、中西輝政は上に「どっち付かず」と形容した以上に、日本会議と<協調>していたのだ。
 西尾幹二の2007年著は引き続いて原文引用で紹介するとして、西尾幹二は2009年の本では、(この欄ですでに紹介したが)つぎのように語っていた。
 西尾幹二=平田文昭・保守の怒り-天皇・戦争・国家の行方-(草思社、2009.12)。 
 「宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人の幹部と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られかかり、ついに攪乱、分断されたんです。//悪い連中ですよ。
 こう語っており、近年にも日本会議や櫻井よしこらは<保守の核心層ではない>と明記していた西尾幹二が最近には日本会議の軍門?に結局は下っていたとすれば、大笑いだろう。
 日本会議は戦後日本の「保守」思想、「保守」運動を継承している団体では決してない、ということは別に書く。いくつかの関連資料はある。
 ついでながら、中西輝政が若いときの指導教授だったのは高坂正堯だったはずだが、中西は高坂の思想・基本的発想方法を継承しているのかどうか。むろん、「師」と「弟子」は研究者として別人格だから、継承していないからといって、非難されるいわれはない。

1966/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題②。

 記録しておく価値があるだろう。
 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。
 いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ①のつづき。一部ずつ引用。直接の引用には、明確に「」を付す。但し、原文とは異なり、読み易さを考慮して、一文ごとに改行していることがある。一部の太字化は、秋月による。
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 ・「しかもここには古いしがらみをもつ党派的な人間関係もあった。
 前出の四人組と宮崎前事務局長は、松浦氏を除いて、若いころ旧『生長の家』の右派系学生政治運動に関係していた古い仲間であるという。
 執行部側は知らなかったが、いつの間にか別系列の党派人脈が会にもぐりこんでいたのである。
 彼らの結束が固いのも道理である。
 この学生政治運動には日本会議の事務総長椛島有三氏、日本政策研究センターの所長伊藤哲夫氏も参加していたという
 (後日分るが、郵政解散で議席を失い、安倍首相の肝煎りで自民党参院選候補に戻って、ひとしきり話題になった衛藤晟一氏も旧い仲間の一人であった)。
 がっちりとスクラムを組んだ彼らの前近代的仲間意識の強さにはただならぬものがあることをやがて知る。」
 ・「私は、八木氏はかねて遠藤浩一氏や福田逸氏に共感を寄せていたので、近代西洋思想に心を開いた人で、いわゆる国粋派ではないと思っていた。
 新田氏は、<中略…>ゼミで彼の先輩に当るという。
 要するに八木氏は思想的にどっちつかずで、孤立を恐れずに断固自分を主張するという強いものがそもそもない人なのである。
 会議でもポツリポツリとさみだれ式に話すだけで、全体をリードする人間力がなく、雄弁でもない。
 応援してくれる人がいないと一人では起ち上がれない弱々しい人だ。
 『僕には応援してくれる人がたくさんいます』という科白をわざわざ先月号の原稿の最後に吐くことに稚気を感じる。」
 ・以上は、2005年末頃~2006年1月17日の、「私〔西尾〕が退会した前後にいたる出来事」にもとづく。
 〔*以下の第二節に当たるものの見出しの原語は「怪文書を送信したのは誰か」(秋月)。〕
 ・「八木氏は藤岡氏の日共〔日本共産党-秋月注〕離党平成13年というガセネタのメールを公安調査庁に知人がいて確証を得たとして、あちこち持ち歩き、理事会の反藤岡多数派工作と産経記者籠絡の言論工作に利用した。
 つづいて私が退会して2ヶ月たった4月1日夜私の自宅に、次に掲げる薄気味の悪い怪文書を証拠資料と共に番号のつかないファクスで送ってくるものがいた。
 この脅迫めいた文書を作成し送信した者が八木氏であるかどうかを決めつけることはさておき、氏でなければ書けない内容も含まれ、少なくとも八木氏に近い人々による共同作業であったことだけは確かで、これには後述するような新しい証言がある。」
 ・「その頃なにかと理事会情報を私に伝えてくれたのは、福地惇氏だった」。
 福地氏は、「元文部省主任教科書調査官(歴史)」、「東大教授の伊藤隆氏の教え子」である。
 *以下、<怪文書>内容(秋月)。
 「福地はあなたにニセ情報を流しています。
 伊藤隆に言い含められて八木支持に回りました。」
 理事会で西尾幹二を相手にしないようにしようと言い出したのは「福地です」。
 「『フジ産経グループ代表の日枝さんが私に支持を表明した』と八木が明かすと会場は静まり返りました。
 宮崎は明日付で事務局に復帰します。」
 藤岡信勝は<西尾からの煽動メールに反論した>との「証拠資料を配りました」。
 彼は「代々木党員問題はうまく逃げましたが、妻は党員でしょう」。
 「高池はやや藤岡派、あとは今や全員八木派にならざるを得なくなりました。
 八木はやはり安倍晋三からお墨付きをもらっています。
 小泉も承知です。
 岡崎久彦も噛んでいます。
 CIAも動いています。」
 ・「私〔西尾〕が深夜読んで十分に不安になる内容であった理由を以下説明する。
 私は『小泉も承知です』の一行にハッと思い当ることがあった。」
 2005年12月25日の理事会の帰り際に「八木氏」は私〔西尾〕の新著「『狂気の首相』で日本は大丈夫か』を非難がましく言い」、「官邸は」西尾に「黙っていない、って言ってますよ」と「脅かすように告げたことがある」。
 ・「『誰が言ったのですか』」、「『知っている官邸担当の政治記者です』。」
 「『それはいつですか』。聞けば私のこの本の出る前である」。
 「そういうと『先生はすでに雑誌に厳しい首相批判を書いていたでしょう。西村〔真悟〕代議士がやられたのは『WiLL』での暗殺容認のせいらしい』」、「『私はそんな不用意なことを書いていないよ』」。
 ・2005年「12月25日は八木氏がにわかに私にふてぶてしく、居丈高にもの言いする態度急変の日だった」。
 「彼は安倍官房長官(当時)に近いことがいつも自慢だった。
 紀子妃殿下のご懐妊報道の直前、日本は緊張していた。
 あのままいけば、間違いなく『狂気の首相』が満天下に誰に隠すところもなく露呈してしまう成り行きだった。
 国民は息を詰めていた。
 制止役としての安倍官房長官への期待が一気に高まった。
 八木氏は安倍夫人に女系天皇の間違いを説得する役を有力な人から頼まれたらしい。
 まず奥様を説得する。搦め手から行く。」
 ・「八木氏はこの抜擢がよほど得意らしく、少なくとも二度私は聞いている。
 彼は権力筋に近いことをなにかと匂わせることの好きなタイプの知識人だった。」
 ・「右の怪文書の最後のCIAは関係あるのかもしれない深い謎だが、岡崎久彦氏の名は、いや味である。
 私の教科書記述のアメリカ批判内容を岡崎氏によって知らぬ間に削られ、親米色に替えられ、私が怒っていたことを八木氏はよく知っていたからである。」
 ・「伊藤隆氏が、つくる会理事退任届を出すに際し、過去すべての紛争の元凶は藤岡氏にあったとのメッセージを公開したことは、関係者にはよく知られている。
 伊藤氏の藤岡氏への反感は根が深く、伊藤氏が元共産党員であった、私などには分らぬ近親憎悪の前歴コンプレックスがからんでいる可能性は高い。」
 ・伊藤氏の大学の教え子の福地惇氏と八木氏・宮崎氏は2006年3月20日に会談した。
 「福地氏を反乱派の仲間に引きこむためである」。
 伊藤氏の反藤岡メッセージと「公安が保証したという藤岡党歴メール」を福地氏に見せて「このとき多数派工作を企てた」。福地氏について、「3月末の段階ではまだそういう期待もあった」。
 「こうして4月1日私に深夜送られて来た怪文書の最初の二行は、八木一派の工作動機を暗示している願望にほかならない」。西尾・福地間を「裂こうとする願望」も秘められている。
 ・「西尾がすでに退会しているので、クーデターの目標は藤岡排除の一点に絞られつつた」。
 西尾の口出しも排除したいが、「しかし何といっても藤岡が対象である」。
 「その執念には驚くべきものがあった」。
 ・私は「深夜の怪文書の一行目『福地はあなたにニセ情報を流しています』を信じてしまい」、理事会欠席の私に「親切な理事の一人が福地氏のウラを教えてくれた」のだと思った。
 「そういうことをしてくれる人は田久保忠衛氏以外にないと思い、氏に夜中に謝意をファクスで伝えた。
 翌日電話で全くの誤解だったことが明らかになり、田久保氏と二人で大笑いになった。
 しかしよく考えれば笑えない話である。」
 あのまま…ならば「3月28日の理事会はこういうものだったと死ぬまで信じつづけることになっただろう」。
 ・「謀略好きの人間と付き合っていると身に何が起こるか分らない薄気味悪い話である。」
 <つづく-秋月>

1963/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題①。

 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 記録しておく価値があるだろう。上掲書の一部。p.77~。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。西尾幹二、71歳の年。
 八木秀次論というよりもむしろ、いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>にかかわって。
 一部ずつ引用。直接の引用には、明確に「」を付す。但し、原文とは異なり、読み易さを考慮して、一文ごとに改行していることがある。
 ----
・諸君!2006年5月号の八木秀次氏の私(西尾)に関する文章は「私の虚栄心をくすぐってくれた題である。これにリードがついて『執拗なイジメの数々…私〔秋月-八木のこと〕は林彪のごとく<つくる会>を去っていくしか術はなかった』と氏の行動が表現されている」。
 ・「一人の男として、会のトップに立つべき人として、足を引っ張られたとか、イジメられたとかは口が裂けても言ってはならないはずだが、全文を読み終ると、八木氏はこのリードの通り弁解めいた弱音をさらけ出し、〃ボクちゃんはイジメられたけど正しかったんだよお〃と訴えているように読める。」
 ・私(西尾)は2006年1月17日に<つくる会>の名誉会長を辞任した。
 「振り返れば、前年〔2005年-秋月〕の12月初旬、八木氏は突然、私に対して態度が大きくなり、ふてぶてしくなり、あっと驚く非礼があり、執行部の中心にいた彼が『宥和』を図ると称して執行部に反対する四人組(新田均氏、勝岡寛次氏、松浦光修氏、内田智氏の四理事)+宮崎正治・前事務局長の反乱側にひそかに寝返ったのである。
 執行部会議に名誉会長、すなわち西尾は出て来るべきではないと彼が私に面と向かって言ったのは12月25日だった。
 私は困難が発生したから乞われて執行部会議に臨時に出ていただけなのに、そういう言い方だった。
 執行部を中心とした良識派は八木氏の急激な変貌ぶりに危機感を覚え、守りを固めた。」
 ・私(西尾)は2006年1月16日の理事会で「『お前はなぜそこにいる』という意味の重ねての無礼な反乱側の挑発に腹を立て、名誉会長の称号を返上した」。
 ・「…渡りに船でもあり、辞任に不満はないが、クーデターは許せないと思った」。
 「平時に」理事会にも出ないが、大事なのでと執行部側から出席を求められ、「名誉会長の最後の義務だと思ってやりたくもない務めを果たしていた」。
 「しかし何度もいうが、会の精神を変えてしまうクーデターは許せない」。
 ・「というのは、単なるポストをめぐる争いではなく、会を教科書をつくる会ではなく、なにかまったく別の違ったものに変質させてしまう考え方をもつ人々による計画的簒奪であることが、後日少しずつ分るようになるからである。」
 ***
 ・「すでに反乱側の少数派は12月の段階で会を乗っ取ろうとし、事務局まで割って、執行部側の事務局員をイジメて追い出そうとしていた(実際に二人追い出された)。
 今思えば11月半ばから八木氏の会長としての職務放棄、指導力不足は意識的なサボタージュで、彼によってすでに会はこの早い時期に分裂していたといえる。」
 ・八木氏は先月号=2006年5月号で「悲劇の主人公を演じている」が、「六人のうち私と藤岡氏を除く三副会長、遠藤浩一、工藤美代子、福田逸の諸氏のうち工藤、福田の両氏を副会長に指名したのは八木氏その人だった」。
 「彼はその三副会長に背中を向け、電話もしない。
 六人の中で孤立したのではなく、他の五人から自分の意志で離れて『四人組+宮崎』派にすり寄ったのである。
 しかも何の説明もしなかった。
 三副会長は怒って辞表を出した。
 それでも八木氏は蛙の面に水である。
 都合が悪くなると情報を閉ざし、口を緘するのが彼の常である。」
 ・言いたいことはガンガン言えばよい。「しかし彼は黙っている」。
 「語りかける率直さと気魄がない。
 それで後になって自分は置き去りにされていたとか、自分の知らない処でことが進んでいたとか繰り言をいう。
 すべてそういう調子だった。」
 ・「今考えると、サボタージュを含むすべての行動は計画的だったのかもしれない。
 しかし前記の論文では自分はイジメられて追い出されたという言い方をしている。//
 自分がしっかりしていないことを棚に上げて、誰かを抑圧者にするのはひ弱な人間のものの言い方の常である。」
 <つづく-秋月>

1962/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史04。

 「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 欧米の概念用法に従う必要はないとしても、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>の政治運動は決して「保守」ではなく、欧米では「右翼」または「極右」と称されると見られる。
 これまた日本独自のことを欧米に比較して単純に比較して言うことはできないとしても、「君主」が存在する国家で、それを<戴き>、その永続を願うことは<保守>派だとは決して言えないと思われる。むろん、別の趣旨・意味または論脈で「保守」(的)という語は用いられている。
  産経新聞社の要職にあるのかもしれない桑原聡は、月刊正論(同)の編集代表時代に、こう書いた。2013年12月号末尾。
 ①「保守のみなさん、…、内ゲバのような貶し合いは左翼にまかせ、おおらかに共闘していきましょうよ」。
 ②「自信をもって、…天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」
 この当時は上の①に反発を感じたが、振り返ると、上の②で桑原聡が表現する「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたい」という考えまたは気分が、この人物が理解する<保守>なのだろう。
 これは、「保守」派または「保守主義」か。
 「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」というのは、いったいいつの時代のことを想定しているのか。「神武」天皇以来、「わが国の在りよう」は同一または同質だとでも理解しているのであるとすると、恐ろしい。
 ひょっとすれば、明治維新以降、明治天皇の代以降のみが、桑原聡にとっての「保守」すべき「日本」なのではないか。明治維新以降の、とりわけ1945年での断裂と連続について議論すべきところは多々あることは別としても。
 櫻井よしこは、「これからの保守に求められること」と題する小文で、つぎのように書いた。月刊正論2017年3月号84-85頁。一文ごとに改行。
 「五箇条の御誓文と十七条の憲法には重なる部分があります。
 この二つは驚く程普遍的な価値観によって支えられています。
 それが日本の日本たる基本であることを認識していることが、保守の基本ではないでしょうか。」
 これこそが櫻井よしこの「保守」宣言であり、「保守」理解なのだが、「日本の日本たる基本」を示す「それ」が何か不分明であるものの、それはどうやら「五箇条の御誓文と十七条の憲法」が示す「普遍的な価値観」らしい。
 やれやれ、何の専門家でもない櫻井よしこがこうして上の二つを結びつけて、なるほどと感心するのは、江崎道朗等々の<日本会議>の熱心な会員くらいではないか。
 前天皇(上皇陛下)の譲位問題をめぐって、現憲法等の諸条項の文言すら知らないままで上の問題を論じ、<政教分離>条項も知らないままで<祭祀>の憲法上の位置を高めよとか書いていた、「あほ」の一人である櫻井よしこの「歴史認識」など、誰が信頼できるだろう。
 この人物は安倍晋三戦後70年談話を田久保忠衛と一緒にいったん称賛し、中西輝政らの強い批判があることを知るや、「歴史認識」として問題はあるかもしれないが、「政治的文書」として支持すると(雑誌文をまとめた翌年の書物の追加注記で)、のうのうと言い放った人物だ。
 この櫻井よしこによるとどうやら、聖徳太子の時代(いや、正確にはこの人物らしき者による文章)といちおうの権力交替後に発せられた(<倒幕の密勅>の時点でスローガンとして表現されていない)明治新政権の理念(らしき)文書には、一貫性・連続性あるいは同質性があるらしい。
 日本共産党が種々主張しているのと同じで、<何とでも言える>。
 江崎道朗著のおかげでこの聖徳太子・「十七条の憲法」問題にはずっと関心をもっているので、いずれ何か書くだろう。
 いずれにしても、櫻井よしこにおいても桑原聡と共通しているのは、どうやら<明治期以降の日本>の歴史的伝統こそが(それは神武天皇・聖徳太子以降連続しているのかもしれないが)きわめて高く評価されている、ということだろう。
  菅義偉官房長官は、将来の皇位継承問題について、「古来例外なく」男系男子で継承されてきたことを「重く」受け止めつつ検討したい、とか発言していたようだ。
 ここでいう「古来」とは、いったい、いつ以来のことか。
 秋月瑛二によると奈良時代後半以降、最年長で就位したらしい光仁天皇以降のことで、それ以前は少なくとも、含まれない。
 だが、神武天皇以来、と明言する者もいるようだし、櫻井よしこもまた、2600数十年とか、120数代の、とか明記していた。
 秋月は元号という制度に反対していないし、また「建国記念の日」の設定にも反対しなかった。後者についていうと、「神武」天皇が旧暦1月1日に就位したので新暦ではなどという「話」はウソであるに決まっている。
 それでもあえて「建国」を話題にしたいならば「物語」として、<そういうことにしておく>ということに殊更に反対しようとは思わないだけだ。
 厳密にいえば、現在日本の成立・「独立」はサンフランシスコ講和条約の発効日である4月28日ではないか、とも考えられる。これに立ち入らない。
 すでに記したように、通説的な理解に従うとすると、少なくとも孝謙(・称徳)天皇の存在自体が、男系男子「一系」論と矛盾している。
 しばしば奈良時代等の「女性」天皇は男子・男系につなぐための「つなぎ」・「中つぎ」だと説明されるが(とくに男系男子論者によって)、この主張は少なくとも称徳(・孝謙)天皇には当てはまらない。持統天皇にも当てはまらないだろう。江戸時代の明正天皇(女性、17世紀)には当てはまるとしても。
 元に戻ると、「神武」天皇に当たる現在の皇室の始祖はいたのだろうが、系図的に明確なものではなく、あくまで<日本書紀によると>という条件を付けなければならない。
 神武天皇陵は明治維新以降にいくつかの候補の中から決定され、その近くに「橿原神宮」が明治期に建立された。平安神宮は明治憲法下で平安京遷都1100年を記念して設立された。明治神宮は当然ながら大正時代のもの。
 皇室ゆかりの平安期以前からの、などというものでは全くない。これらは、少し立ち入ってみれば<常識>の範疇だろう。こうした明治期以降のものにだけ日本の「伝統」を感じてしまうのは、性急すぎだし、誤っている。
 余計なことをまた書いたが、欠史八代につき神武天皇から父親-男の子という直系継承の連続を語る日本書紀をそのまま「信じる」ことができるわけがない。この点で、在位(・生存)期間は捏造(作為)だろうが「代数」に限っては正確な記憶があったのではないかとする安本美典説は、この代数論は安本説にとって重要だが、少数説なのだろうか。
 ある意味では、日本書紀(・古事記)をそのまま、または原則として「信じる」、「信じようとする」のが日本会議等の<天皇崇敬派>かもしれない。
 しかし、日本書紀(・古事記)等々の古文献の信憑性の範囲や程度は専門家・研究者に任せるべきで、「右」も「左」もだが、政治的に全肯定または全否定することで歴史を歪曲してはならない。政治目的・運動目的のために、日本の歴史を「利用」すべきではないだろう。
 神武天皇以来のとか、皇統2670年、125-6代とかいうのは、全て「ウソ」だ。たんなる「お話」にすぎない。
 櫻井よしこは平気で代数を明記していたが、その数字自体が明治期になった確定されたもので、疑わしかった大友皇子(天智天皇の子)は一代(=弘文天皇)とされ、神功皇后は天皇ではなかったとされ、また南朝ではなく北朝が<正嫡>の皇統だとされた。
 上の論点のいずれについて争っても、代数は違ってくるのであって、「信じれば正しい」というものではない。
 なお、日本会議等は<天皇崇敬派>だというのは、彼らのいう「観念」としての天皇や天皇の歴史についての「崇敬」であって、現実に前天皇(上皇陛下)や今上陛下(・雅子皇后)についてはとても「崇敬」者たちとは言い難い(少なくともかつてそうだった)ことはまた再び記録しておきたい。
  やれやれという気がしたのは、西尾幹二が、こう書いていたことだ。同・ウェブサイトによる。産経新聞2019年3月1日付「正論」欄。
 つぎはまだマシかもしれない。平安時代後期以降の視野を限るとすれば、という条件をつけてだが。
 「皇室は何度も言うが精神的権威であって、政治的権力ではない。昔から…武士の誇示する政治力や軍事力を自ずと超えていた。」
 まだマシだが、しかし、最近に、鎌倉時代には「東」の武士権力と「西」の天皇・公家権力が土地の領主支配としても並列していた、という文献を読んだ(あるいは、一瞥した)。
 ともあれ、つぎはマズいだろう。
 「125代続いた天皇家の血統というものが世界の王家の中で類例を見ないものであり、…」。
 明治期の正嫡論争等を知っているはずの西尾幹二は産経新聞「正論」欄に政治的に媚びているのではないだろうか。善解すれば他国と比べてのレトリックかもしれないし、「125代続いたとされる」が編集者にによって「続いた」との断定文に事実上一方的に変えられた、ということも、前例からにするとありうるのではあるが。
 日本は神の国です、と言うのと、日本は神の国と言われています、では、まるで意味が異なる。
 八幡和郎は、つぎの叙述に関するかぎりで、秋月瑛二よりも日本書記等への信頼度が高く、皇室あるいは天皇制度に対する信頼度・崇敬度も、私よりもやはり高いようだ。
 八幡和郎・最終解答/日本古代史(PHP文庫、2015年)。
 「『日本書記』『古事記』は、系図や出来事がそのままでも、神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』すれば外国文献や考古学的成果と矛盾はないのです。」
 この文章は「神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』」をするのでよい、とするが、いちおうは説得力ある、スジをたどれる叙述ならば全て「史実」と理解してしまうという懸念・危険があるように思われる。この人によると、「継体」天皇即位期に「対立」はなかった。
 そもそもは、天武天皇(・持統天皇)とその後継者期に編纂・作成されて何らかの政治的(とくに自分たちを正当化する)目的・意図をもって記述されていることを見逃してしまうおそれがあるのではないか。
 具体的な内容を読んではいない。但し、別の主題だが明治維新や明治時代への八幡の評価は、秋月瑛二よりも高いようだ。そのこともあってたぶん、月刊正論(産経)に文章を書いたりしているのだろう。
  奈良時代の女性天皇について、持統天皇を「祖」とする<女系天皇>といったことを元々は書きたかったのだが、つぎの文献に気づいた(新たに買い求めたのではなく広大な書庫?で見つけた)ので、これらをもう少し読んでからにしよう。
 遠山美都男・古代の皇位継承(吉川弘文館、2007)。
 大塚ひかり・女系図でみる驚きの日本史(新潮新書、2017年)。
 追記/前回に仲哀天皇-応神天皇の継承の否定説として井沢元彦の名を挙げたが、安本美典も、その結論および実際の父親の特定も同じ説のようだ。
 こんなことに、櫻井よしこ、江崎道朗、椛島有三らは興味がないだろう。

1938/日本の「保守」・西尾幹二の2008年頃の主張。

 西尾幹二・皇太子さまへの御忠言(ワック、2008年)はきっとアホらしくて所持していない。
 万が一入手していたとしても(そしてどこか隅にあるとしても)、捲って読んだことはない。
 今のところ、特段の突発事がないかぎり、本年2019年5月1日に現在の皇太子が天皇に、現皇太子妃・雅子様が皇后になられる。
 この時期だからこそ今のうちに、<保守>派の少なくとも一部がかつて皇太子や同妃についてどう発言していたかをあらためて記録しておいてよいだろう。
 西尾幹二はどちらかというと肯定的にこの欄で言及することが多かったが(これもこの一年以上はやめている)、その天皇・皇室論のうちの現皇太子・同妃<批判>だけは賛同できなかった。
 冒頭に書いたとおり単行本は読んでいないが、ときどきの関係論考は読んだことがあって、この欄でも明確に批判または疑問視してきた。
 あらためて彼の文書を読み直す余裕はないので、自らのこの欄へのかつての記載から振り返ってみる。
一例になるだろうが、①2008/11/08付の、<0615/西尾幹二の月刊諸君!12月号論稿を読む。やはりどこかおかしい>によると、西尾幹二は月刊諸君!(文藝春秋)2008年12月号にこう書いた。
 「私が危惧するのは、いまのような状態をつづければ、あと五十年を経ずして、皇室はなくなるのではないかということです。雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。というか、明確に拒否されて、すでに五年がたっている。…皇太子殿下はなすすべもなく見守っておられるばかりなのではないか。これはだれかがお諫めしなければならない。…、言論人がやらなきゃいけない」。
 この当時に秋月がすでに指摘しているが、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける」との指摘はおかしい。
 「宮中祭祀」なるものがいつの頃からかあったとして、皇太子も、ましてや皇太子妃も、その<主体>ではあり得ない。
 また、上の「なさる」が参加する、関与する、という趣旨だったとしても、「宮中祭祀」への参加・関与が皇太子妃の「公務」とはどこにも定められていない。
 ②2008/06/13付の本欄<0548/取り返しのつかない、一生の蹉跌、ではないか-中西輝政・八木秀次・西尾幹二>によると、西尾幹二は月刊WiLL2008年5月号(ワック)につぎの旨を書いた。
 1.小和田家が皇太子妃を「引き取るのが筋」だ。(=おそらく皇太子との「離婚」が前提。)   
2.「秋篠宮への皇統の移動」との提言も「納得がいく」。(=つまりは現皇太子は、次期天皇としてふさわしくないという見解の表明だ)。
 こうなると、論及する気もなくなる<アホらしい>ものだった。
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 今回はこの程度にするが、この頃、<保守派>の少なくとも一部は何を血迷っていたのだろうか。
 上の②の表題にも出てくるように、西尾幹二、中西輝政、八木秀次は、<一致団結して>ではないが、それぞれに皇太子妃・雅子様を批判し、現皇太子の天皇就位資格を疑問視していたのだ。
 八木秀次も入っていることからすると、日本会議は(むろん正規の決定などしていないにせよ)このような論調に反対だった、八木のような主張を阻止しようとした、とは言い難い。容認していたのだろうと推察される。
 中西輝政、八木秀次の主張・発言内容には今回は触れないが、「平成」が終わろうとしている今、これら三人は、かつてのそれぞれの自分の主張・発言の内容の<適否>について、現時点での何らかの「総括」が必要なのではないか。
 なお、重視していなかったので当時はあまり取り上げなかったが、「アホ」の一人の加地伸行も当時に西尾幹二の主張を支持する論調だった。そして、のちに2016年になって明確に、皇太子・皇太子妃に対する<罵詈雑言>を吐く。その際の対談相手は、西尾幹二だ。
 その内容を分かり易く?列記したのが、以下だった。
 2017/07/16付の、<1650/加地伸行・妄言録-月刊WiLL2016年6月号>。
この上の最後の秋月の文章は以下。
 「この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ」。

1782/西尾幹二と「日本会議」-2009年対談書。

  西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017.09)の中に、平田文昭との対談の一部が「『日本会議』について」と題して、2頁分だけ収載(再録)されている。
 その元になっているのは、つぎの、p.280~p.282。
 西尾幹二=平田文昭・保守の怒り-天皇・戦争・国家の行方-(草思社、2009.12)
 この本を昨秋に広大な書庫(?)で探してみたが見つからないので購入したところ、いつだったか、同じこの本が二冊あることに気づいた。すでに所持していたのだ。
 西尾幹二全集だけは巻順に並べて(飾って?)いるが、他の同著書類は一箇所に集めているわけではないし、さすがに対談書までは所持していないのかと思っていた。
 さて、上の2017年著に再収されている部分ではないが、「日本会議」について、元の対談書には興味深い部分もある。
 その辺りにさらに関心をもったのは、ネット上で、この西尾幹二=平田文昭の対談書を、「正誤表」をつけて修正してるのに、出版停止にも絶版にも、修正版の新しい本の刊行もしていないと、それこそ罵倒している文章を見つけたからだった(たぶん昨秋)。
 おそらくは第一刷以降に挿入された一枚の「正誤表」によって西尾幹二発言についての「正誤」訂正の前後を正確に比較してみると、つぎのとおり。
 Aは「正誤表」による修正前、Bは修正後。冒頭に「家」とあるのは「生長の家」で、「生長の」が省略されている。<後日追記ーちょうどページの切れ目だった。>
 違いを明確にするために、ここでは敢えて、原書および「正誤表」とは異なり、一文ずつ改行する。この点と一部の太字化、下線、色づけは秋月によるものであることを明記しておく。
 A「家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
  宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人の幹部と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られかかり、ついに攪乱、分断されたんです。
  悪い連中ですよ。」
 B「家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
  このうち松浦氏ひとりは生長の家活動家ではなかったとも聞いていますが、四人が一体となって動いていたことは間違いありません。
  宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人の幹部と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られかかり、ついに攪乱、分断されたんです。
  悪い連中ですよ。」
 以上が(改行を除き)正確な引用で、訂正の前後の違いは、上のBの太い黒字下線の一文が追加挿入されているにすぎない。
 (なお、椛島有三は、現在も日本会議事務総長。
 「四人」とはp.263によると「新田均、松浦光修、勝岡寬次、内田智」で、Bにだけ(正誤表では)出てくる「松浦氏」とは松浦光修であることが分かる。「宮崎事務局長」とは、同頁によると、話題にしている時期の<新しい歴史教科書をつくる会>事務局長だった宮崎正治。) 
 こう見ると、この訂正は松浦光修のために(?)厳密さ、正確さを期したものであって、第一刷本を絶版にするほどの「誤り」では、社会通念上は、または常識的には全くない。
 もっとひどい書物はいくらでも出版、流布されている。
 かりに問題があれば「松浦氏」が仮処分等の申し立てをして法的に争えばよいだけで、わざわざ「正誤表」をつけて発行しているのだから、まだはるかに良心的な方だろう。
 しかるに、私の目を惹いたネット上の書き込みは何だったのだろう。
 現在も掲載されているのかは確認しないが、一枚の「正誤表」が封入されているこだけをもって、それによる訂正・追記の内容に立ち入ることなく、上記の西尾幹二=平田文昭の対談書の全体を非難し、貶めようとするものだ。
 そして、納得がいく。これをネット上に書き込んだのは、椛島有三を事務トップとする「日本会議」または同会もしくは椛島有三に親近的な組織・団体の活動員なのだろう。
 この対談書が「日本会議」に正面から批判的である(西尾幹二もそうだが、平田文昭の方がより厳しい)ことが<気にくわなかった>に違いない。
 2009年時点で「日本会議」や椛島有三等が公式にどういう対応をこの対談書の中身についてしたのかは知らないが、ネット上での書き込みの内容は-このとおり秋月瑛二の貴重な時間をのちに費やさせるごとく-相当に陰湿で、「気味が悪い」ものだった。
 なお、私には特別の関心はないが、上の訂正の仕方だと、<新田均、勝岡寬次、内田智>の三人は「家活動家」だと書かれて、事実誤認だとは考えなかったように見える。おそらく、きっと。

1716/中西輝政はかなり異常②-西尾幹二との対談本。

 西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」を取り戻す(祥伝社、2017)。第二章のp.106。
 西尾幹二がアメリカについて「絶え間なく戦争をする。今度も危ない」と発言したのを受けて、中西輝政はこう言う。
 「そこにこそアメリカという国の本質や生命力の根源がある。私はトランプ政権は戦争をする政権だと思います。ただ、米中でやるんだったら、できるだけ日本を巻きこまない形で、日本から離れたところでやってもらいたいですがね」。
 この中西の発言はいったい何だろうか。冗句・冗談だと理解したいが、それにしては明確に言い過ぎている。
 この中西発言は、<一国平和主義>あるいはアメリカが起こす戦争に日本が巻き込まれるという平和安全法制に対する日本共産党その他の日本の「左翼」の議論と、どこが違うのか。
 中西は2015年平和安全法制に反対せず、その前から日本の集団的自衛権の容認と行使(憲法解釈および法律上の)を主張してきたはずだが、<改説>でもするのか。
 特定の意味での日米同盟の実在は認知せざるをえないだろう。そしてまた、東アジアでの米中の実力・軍事衝突に、日本が「巻き込まれない」可能性があるとでも、中西は本当に考えているのだろうか。
 少しずつさかのぼる。まず、p.103-4。
 中西によると、欧と米は「根っこから違う」、アジア人のほうが、アメリカ的なものとの共通部分があるようにさえ思う」。 
 これはかなりの共通想念を覆すものだ。本当に中西の指摘のとおりだろうか。
 p.101。西尾幹二がアメリカにおけるトランプ当選の意味を何度か言及しているのをおそらく受けて、中西輝政は、こう言う。
 「ポリティカル・コレクトネス」的な「近年の偽善的なリベラリズムに彼は反撥しているのだ、という人がいますが、私の見るところ、それもたぶんトランプ一流の偽装」だろう。「宗教ポピュリズムの世俗版のような大衆運動を起こす」のが自己目的で、「それから、トランプ個人の権力欲、それ以上ののものは何もない」。
 「トランプ個人の権力欲」うんぬんは別として、この部分は、明言されていないが、西尾幹二の見解・理解との決定的な対立点だ。
 中西は他にも、トランプとクリントン、共和党と民主党との違いを無視するか相対化する発言をしきりに行っている。
 p.89で西尾は、いずれも「アメリカ=帝国」という意識はもつとしつつ、上の二つの差違を問題にしているが、p.90で、中西はこう言う。
 ・トランプについての「始めからの私の見方」は、「徹底した金持ち優遇の古いネオコンの、さらにより乱暴なバージョン」だ。
 ・メキシコ国境に壁、日本も核武装をは、「どちらも就任すれば、うやむやにしてしまう」だろう。
 ・「そもそも、トランプが勝とうと、ヒラリーが勝とうと、私には、もともとそんなことはたいして興味がなかった。…、いまのアメリカは孤立主義に行くしかないのです」。
 中西輝政の発言は櫻井よしこによるトランプに関する些末な言及よりは本質を衝こうとしているようで面白くて刺激にはなる。
 しかし、トランプとヒラリーの闘い、つまり共和党と民主党の戦いに「もともとそんなことはたいして興味がなかった」と言ってしまうのは、日本の「知識人」としてもやや異様だが、<保守>派論客を自認しているとすれば、かなり異常だろう。
 こんなふうに考えていると、現在のアメリカを理解できないだろう。
 もっとも、中西輝政はもっと高い次元で「世界史」的にアメリカを観ているのだ、と主張するのかもしれないが、それはそれでもよいとして、問題は、疑問は、そういう主張が、いまの現在、いまの日本で、いかほどの意味・意義を持ちうるのか、だ。
 なお、念のため。中西輝政はかなり異常だと評するのは、この対談本の読んだかぎりでの部分についてであり(その後も想像はつくが)、私の言う<保守>の立場の発言としては、という意味だ。

1714/中西輝政はかなり異常だ-西尾幹二との対談本。

 西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」を取り戻す(祥伝社、2017)。第二章まで読んだ。~p.106。 
 前回にこの本はトランプ等のアメリカ現代政治には言及していなさそうと予想したのは誤っていて、第二章「アメリカの正体」の主眼は、むしろこれだった。
 中西輝政による2015年安倍談話批判は冷静で論理的とも感じたが(それでも、自説の無視・軽視という経緯に対する腹立ちもあるだろうと想像したが)、この書での中西輝政の<狂信的な>アメリカ観・トランプ観には驚いてしまった。
 そして、前回にこの人の「共産主義」感覚を疑問視しておいてよかった、とも感じた。
 また、前々回(11/27)に西尾幹二の最近の論考(産経新聞「正論」欄)について、「ほとんどすんなりと読めた」と何気なく記したのだったが、重要な意味を持っていたことにも気づいた。なぜなら、この西尾の文章は、トランプ・アメリカ大統領のアジア歴訪を好意的に、少なくとも批判的・糾弾的にでなく、記述したものだつたからだ。
 櫻井よしこは、立ち読みした週刊新潮(新潮社)の最新号で、相変わらずトランプ批判を繰り返している(しかし、なぜかトランプに100%同意した安倍晋三を批判することは依然として全くない)。トランプのアジア歴訪は、とくに対中国は「大失敗」だった、とする。そして、相も変わらず、アメリカは信用できない→日本はしっかりしよう→そのために憲法改正を、と何とかの一つ憶えのように繰り返している。その際に、相も変わらず、他人の文章・言葉(今回も?田久保忠衛)の引用・抜粋・要約で紙数の過半を埋めるという<技巧>を使っている。
 桜井のもち前の技巧、他人の文章・言葉を自分の言葉・考えのように用いる・語ることのできる能力というのは、他人の原稿を自分の考え・自分が収集した情報のごとく読んでいた、テレビ・キャスターという過去の履歴と関係があるのではなかろうか。
 余計なことを、つい書いた。一年前にこの欄で、トランプ当選は「精神衛生」によかった、と記したことがある。トランプに対する印象は、西尾幹二のものの方が、私のそれ にはるかに近い。
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 前回に記し遺した中西輝政発言に対する違和感、あるいはコメントを要するとの感触は、とりわけ、つぎのようなものだ。
 p.56。詳細な引用は省くが、中西は、アメリカの奇妙な国際法思想、国際法秩序への挑戦の歴史なるものに言及する。そして、こう言う。
 「ですから、いまの中国のやっていることも、世界史的に見れば、けっこう通用性のあることなのです」。
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 一般に、全ての社会・政治事象は、何らかのかたちで連関し合っている。社会・政治事象は、自然現象ともまた関係し合っている。大地震もその他の自然災害も人間社会に政治に大きな影響を与える。豊作・豊漁といったもの、あるいは天照大神の岩隠れ(神隠し)伝承と皆既日食の事実との関係のように、自然界では珍しいが異常のことでなくとも、人間の政治・社会に強い影響を及ぼすことがありうる。
 自然現象ですらそうなのだから、人間界の「政治」現象は地域・国家が異なっても、何らかの関係を相互に持ち合っている。
 Aがあり、一方でBがあって、それらが対立・反発し合っている、というとき、どちらが根本・究極の原因にせよ、両者が成立した以上は、相互に何らかの影響を及ぼしうる。
 「いまの中国」の原因は「アメリカの歴史」にある、と中西輝政は言っているのと同じだ。
 「いまの中国のやっていることも、世界史的に見れば、けっこう通用性のあることなのです」。 
 このこと自体は、「世界史的に見れば」誤りではないのかもしれない。中西によると、「国際法秩序に異を唱える」ことによる「パクスアメリカーナ」の構築に対する反撥、あるいはそれの摸倣が「いまの中国のやっていること」らしい。「世界史的に見れば」。
 しかし、こう発言して指摘することの、実際的、実践的意味もまた問われなければならない。
 悪辣なアメリカがあった(ある)から、今の中国もある。こう中西は言っているのと同じではないか?
 これは、厳密な主観的意図はともかく、現実的な機能としては、現在の中国を(共産党中国を)擁護する議論だ。
 現在の中国を引き合いに出してまで、アメリカの歴史を批判している。
 中西輝政とは、そのような「学者」なのだ。
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 今回は第二章にまで立ち入れなかったが、「アメリカ憎し」の発言は、第一章以上に烈しい。<狂信的>とまで形容したほどだ。
 西尾幹二はほとんど聞き役で、何とか共通点・同意できる点を見出そうとするかのごとく、まだ冷静に(言葉数は少ないが)発言している。
 中西輝政の現在のアメリカ政治観・トランプ観には、唖然とするものがある。とても「保守」派とは評し難い領域にまで入ってしまっている。また別の日に。
 なお、中西の反アメリカ姿勢を批判しているから秋月は<親米>だ、などという二分法、二項対立図式の単細胞的思考をする人が多いから困る。私は、<対米自立、*日本的な*自由・民主主義の必要性>くらいは、何度でもこの欄で述べている。

1713/西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」…(2017)。

 西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」を取り戻す(祥伝社、2017)。
 対談や座談会の内容を文字にした、安易に造られる書物が多すぎる、とは断定しないでおこう。
 何しろ、相対的にはきわめてマシな、優れていると感じている「保守」派論客の対談本なのだから(司会は柏原竜一)。
 まえがきを2017年3月に西尾幹二が書き、あとがきを10月に中西輝政が書き、同11月付で出版されている。この時期に、西尾と中西の二人は何を語るのか。
 目次全体を眺め、一章まで読了した(~p.70)。
 西尾幹二によると、日本国民の「歴史認識を永いあいだ分裂させ、歪めてきた当のもの」である<世界史に日本がなく、日本史に世界がない>という「変則状態」の「欠を埋め、ここで自覚を新たにしたいというおもい」で起ち上がり作成された書物だ、という。p.4。
 司会者・柏原竜一は「問題提起-『西洋近代』のいかがわしさ」と題する第一章の冒頭で(しかし、本書全体の意図のごとく)、こう言う。
 「昭和における日本人の精神性の覚醒を正しく位置づける」ためにも、「大局から、『近代』というもの、『西洋近代』というものを見直す必要がある」との問題意識で、(二人に)「対談をお願いする」ことになった。
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 まだ70頁までしか読んでいないが、大きな期待は持てそうにない、と直感的に思った。
 目次から、章名および節(に当たるもの)の名・タイトルにどのような言葉・概念が並んでいるかを見てみる。
 日本-14。最多のようだが、これは当然かもしれない。
 アメリカ-11、近代・西洋近代・西洋文明・欧米・ヨーロッパ-計8、中国-1。
 ロシア(・ロシア革命)・ソ連-ゼロ。共産主義・コミュニズム・マルクス主義・社会主義-ゼロ。
 あくまで目次上のタイトルで使用されている言葉・概念だ。
 しかし、この書のおおよその内容を掴む手がかりにはなるだろう。
 今年はロシア革命100年。だが、この書に関するかぎりでは、西尾幹二も中西輝政も、ロシア革命や「共産主義」の「世界史的」意義・意味、その今日に至るまでの日本に対する「日本史的」意義・意味には、とんと関心がないように見える。正確に再述しておく-「…かぎりでは」、「…ように見える」。
 中西輝政は、いつぞや「ネオ共産主義」という言葉を使って、まるで現在に現実としてある「共産主義」国家・「共産主義」体制は、<元来の・本来の>共産主義とは異なるとでも理解しているかのような文章を書いていた。この人にとって<真の>または<本来の・元来の>「共産主義」とはどういうものなのか。したがってまた、西尾との対談でもこれを(たぶんほとんど)話題にしないのは当然かもしれない。
 中西は、とっくに「マルクス主義の過ちは証明されている」ので、これ(マルクス主義・共産主義等)に拘泥するのは、遅れている、旧い発想だ、と考えているようにも思えた。
 このような発想は、じつは「日本会議」と同じだ。
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 「近代」あるいは「欧米・ヨーロッパ近代」への懐疑・疑問・批判をテーマとする書物は、すでに多数ある。
 かつて私もよく読んだが、佐伯啓思がしてきた仕事のほとんどは、これだ。あるいはこれの繰り返し、しつこいまでの反復、だ。
 そして、大切なこととして指摘しておきたい。「近代」あるいは「欧米・ヨーロッパ近代」への懐疑・疑問・批判は、マルクス主義者・共産主義者もまた、共有する。
 彼らは、「市民革命」思想らしきものを都合よく利用しつつ、<自由と民主主義>をブルジョアジーが被支配者を「欺瞞」するための道具だとも考えた(考えている)。
 <西洋近代>の嫡出か鬼胎かはともかく、<近代>は共産主義もまた生み出したし、一方で共産主義は<近代>を克服しようとした(とする)考え方・運動だ。
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 多くの<西洋近代>懐疑・批判書と違って、二人のこの本は、アメリカを主対象とし、アメリカ批判を主とするもののようでもある(しかし、トランプ等々、アメリカの現代政治を扱っているのでもなさそうだ)。
 オビに、こうある。
 「戦後日本を縛りつけているものは何か?/いまも世界を支配する歴史の亡霊。その体現者・アメリカの正体を暴く!」。
 この対談書によるかぎりで、西尾幹二と中西輝政にとって、現時点で「大局的には」、中国共産党体制よりも北朝鮮よりも、アメリカの方が<歴史的に?>大切な、重大な関心事なのだろう。
 しかし、素朴につぎのように考えてしまう。
 二人が語るアメリカ(の歴史等)とロシア(・ソ連)や中国等との関係はいったいいかなる<世界史的>関係にあるのか。日本史を語る際にも、少なくとも幕末以降の日本・ロシア関係、そして何よりも第一次大戦中のロシア革命(1917年)や終戦後のコミンテルン(1919年)との関係は重要な関心事でなければならないだろう。いやすでに北一輝にも見られるように、ロシア革命以前から、マルクス主義(・思想)の影響は日本に強くあったのだ。
 また、つぎのようにも思う。
 反アメリカ、あるいは「アメリカの正体を暴く」というだけでは、基本的には佐伯啓思ら多数の者がしてきた仕事の、新味のあるらしき、焼き直しにすぎないだろう。
 また、日本共産党もまた<反アメリカ>のナショナリスト政党だということを、あらためて強く指摘しておかなければならない。アメリカを批判的に考察し、「アメリカの正体を暴く」、というのは、決して日本共産党が嫌がることではない。
 この政党は十分に、民族主義的・対米自立の「自主・独立」、そして「愛国」政党でもある。
 さらに、北朝鮮がいまだに「アメリカ帝国主義」と称しているのも、中国が決してアメリカと全面的には同調しないのも、根源的には、その「共産主義」性、あるいはマルクス主義(・思想)がある。反資本主義・反「帝国主義」の心性を、彼らは失っていない。
 日本共産党についても同じ。アメリカを歴史的に批判することは、少なくとも一面では、あるいは一部は、日本共産党等の日本の共産主義者および「左翼」もまた喜びとするものであることを、強く意識しておく必要があるだろう(この点は、佐伯啓思の<左翼との通底性>にもかかわる)。
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 さて、第一章。
 <「近代」とは何か>はでたらめのタイトルのごとくで、キリスト教に関する話が多すぎる。
 国家と宗教の分離、そこでの宗教について話題にするな、とは言わない。しかし、とりわけ、中西輝政の、「ピューリタニズム」に関する話が長すぎる。
 この機会にと、中西は最近に勉強?(研究?)したことを披瀝したかったのかもしれない。新しい知識も(いかほどに確かなのかは分からないが)、得られる。
 しかし、大発見のごとく勇んで強調するほどのことなのか。それで?、とも尋ねたくなる。
 中西輝政が上についてきちんと発言したいのならば、<欧米・ピューリタニズムと日本>とでも題する本格的な、300-500頁から成る専門的研究書を執筆・刊行して、世に問うていただきたい。
 もう一つ、中西輝政の発言には、気になる部分がある。別の日に。

 

1712/西尾幹二・人生について(新潮文庫)より。

 西尾幹二・人生について(新潮文庫、2015。原書、2005)p.201~3。
 「自分の死を意識したときに不思議でならなかったのは、死をさえ意識しているこの自分の『意識』がとつぜんあとかたもなく消滅してしまうということである。それはことばでは言い表わすことのできない恐怖、宙に向かって大声で叫びたくのをぐっとこらえているような恐ろしさである」。
 「病気が襲来したときの、死に随伴する肉体上の苦痛というようなものは、たとえどんなに大変でも、自分が消滅するという恐怖に比べれば、決して重大事ではない。少なくともこの二つは別のものである」。
 「死後の生命の存続というものがもし信じられるのなら、それほど楽なことはないであろう。しかし私は、私の身体が亡びると共に個体としての私も消滅し、『自分の意識』もいっさい消えてなくなるのだという以外の考えを持つことがどうしてもできない」。
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 上は50歳代で癌の告知を受けた著者・西尾が60歳代初めに書いた文章のようだ。
 その体験がないと、このような精神の経験もないだろう。また、知識人に特有の自己認識と自己表現の強い希求が背景にあるようにも思える。後者の点に立ち入るのはさて措き、上のような認識・感覚は納得できる。
 つい最近に福岡伸一の本に触れる中で、死後の「意識」・「霊魂」は存在しないだろう、亡き両親等と「交信」したこはもはや全くないのだから、というようなことをこの欄で記した。
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 興味があるのは、このような認識に至った人、あるいは至ったことのある人と、そうではないおそらくはより多くの人との間に、どのような人生観、人間観、そして社会観、世界観の違いが生じるのだろう、ということだ。
 ありていに、急に世俗っぽく言えば、<保守>の人と<左翼>の人で、違いはあるのか。「保守」派とされる高名な(誰とも名は浮かばないが)人と、「左翼」で弁証法的唯物論者?ともされる共産主義者・日本共産党員との間に、「死」に関する認識・感覚に違いはあるのだろうか。あるとすれば、どのように違うのだろうか(たんに<傾向>にすぎなくとも)。
 福岡伸一についても関心をもつのは、この人のように「生命」の本質を理解しようとしている人は、世俗の社会・国家についてはどういう考え方に至るのか、だ。
 この人はフェルメールが好きらしい。やはり人の個体としての<個性>はあるのだ。つまり個々人の嗜好・好みだ。
 私も、エゴン・シーレよりも、アルフォンス・ミュシャ(ムハ)よりも、フェルメールの絵の方が好きだ。ときに、フェルメールの絵の静穏さよりも、クリムトの絵の一部にある激しさに惹かれたりするけれども。
 絵画や音楽は別として、さらに、この福岡という人は、急に世俗っぽくなれば、<保守>派を支持するのだろうか、<左翼>を支持しているのだろうか。それとも、そうした政治的・社会的な対立は、人の意識の錯乱と錯誤の分岐点やその内容・程度の問題であって、ヒト・人間にとっては本質的な問題では全くない、「趣味」の問題だろうか。
 俗人である秋月瑛二は、こんなことも福岡伸一に尋ねたくなるし、さらにこの人の本も読みたくなる。
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 上のような西尾幹二の文章の内容に、ほとんど完璧に共感する。同じように考え、かつ文章化することのできる、立派な人だと感じる。
 しかし、むろんそのことは、西尾幹二の政治・社会に関する主張や叙述に全面的に賛同することを意味しはしない。
 一番最近に同氏のネット上で読んだ雑誌(または新聞)論考ー追記・産経「正論」欄ーのそのままの紹介は、ほとんどすんなりと読めた。
 だが、西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017.09)となると、簡単にはコメントできない。おそらくいったん全て読んでいるが、同感するところもあるし、気になるところもある。
 かりにこの本の感想を書き始めれば、とても一回では足りない。

 

1711/「日本会議」20周年。

 日本会議(事務総長・椛島有三)の設立は1997年で、昨11月25日に20周年記念集会とやらを行ったらしい。
 何を記念し、何を「祝う」のか。政党でもないこの民間団体の元来の目標は何で、その目標はどの程度達成されたのか。もともと設立の「趣旨」自体に疑問をもっているので、この点はさて措く。
 もっとも、この団体の機関誌は、この20年間に行ってきた活動実績を20ほど列挙して、<実績>としている。
 その一覧表を見ていて、少なくともつぎの大きな二つの疑問が湧く。
 第一、この20項目の列挙は、誰が決めたものなのか。同じ機関誌に代表・田久保忠衛と追随宣伝者・櫻井よしこの対談があるが、この二人は20項ほどの<実績>に何も触れていない。
 おそらく間違いないこととして推定されるのは、この実績一覧表は、「日本会議」内部のおそらくは正式の決定手続を経ないで、椛島有三を長とする事務局(事務総局)によって選定されている、ということだ。
 「日本会議」の諸役員先生方は、それでよしとするのか?
 民間団体の意思決定手続・20年の総括文書(・活動実績一覧表つくりを含む)決定手続に容喙するつもりはないが、この団体の内部には、<万機公論に決すべし>という櫻井よしこが誤っていう「民主主義そのもの」は存在していないようだ。
 20年間も事務局長(総長)が同じ人物であるというのは、西尾幹二もどこかで複数回指摘していたように、異常であり、気味が悪い。
 類似のものに気づくとすれば、ロシア・ソ連共産党のトップ在任期間の長さ(とくにスターリン)、中国共産党のトップの在任期間の長さ、そして日本共産党のトップの在任期間の長さだ。
 これらの党では、いまは日本共産党は少し違うが、共産主義政党はトップのことを書記長・総書記・第一書記・書記局長とか称してきた。「事務総長」とよく似ている。
 日本共産党のトップは、1961年以降、宮本顕治・不破哲三・志位和夫の三人しかついていない。56年間でわずか3人だが、平均すると20年に満たず、何と椛島有三の方が長い。
 いや、「日本会議」には代表がいて、という反論・釈明は成り立ちえない。
 そのことは、上記対談で代表・田久保忠衛が「あらためて設立趣旨を読んでみますと…」などとのんびりした発言をしていることでも分かる。
 やや唐突かもしれないが、現在の中国で、上海市長と共産党上海市委員長(正確な職名を知らない。共産党上海市総書記)とどちらが「偉い」のか。上海大学の学長と、上海大学内の共産党のトップ、いわば党「事務総長」の、どちらが「偉い」のか。
 椛島有三一人で事務局長・事務総長を20年。「日本会議」の役員先生方は、これをどう感じているのか。
 長谷川三千子は?、潮匡人は?、等々。
 元に戻れば、この20年の活動実績の選定は、公表されている項目で、役員先生方は、本当によろしいのか?
 第二。20年の活動実績の選定を見ていて、容易に気づくことがある。
 一つ、北朝鮮による拉致被害者救出・支援活動に全く触れていない。この団体は、活動実績の中にこれを含めることができないのだ。
 二つ、教科書・とくに歴史教科書の改善運動に全く触れていない。私見では、「つくる会」を分裂させたのは椛島有三や伊藤哲夫ら「日本会議」幹部そのものだ。そしてまた、この団体は、歴史教科書に関する運動を、20年間の活動実績として挙げることができない。
 三つ、椛島有三の2005年の著にいう「大東亜戦争」にかかる通俗的な、そして1995年村山談話・2015年安倍談話に見られるような、<歴史認識>を糺す、少なくとも疑問視するという、この団体にとっては出発の根本的立脚点だったかもしれない、<先の戦争にかかる歴史認識>をめぐる運動に、全く触れていない。
 靖国神社や戦没者に関するこの団体の運動を全否定するつもりはない。しかし、根本は、<先の戦争に関する歴史認識>にあるだろう。そうでないと、戦没者は、その遺族は、浮かばれない。
 にもかかわらず、「日本会議」は2015年安倍談話を批判せず、一部でも疑問視せず、代表・田久保忠衛はすぐさま肯定的に評価するコメントをしたらしい(櫻井よしこによる)。
 笑うべきだ。嗤うべきだ。そして、悲しむべきだ。
 日本の現状を悪くしている重要な原因の一つは、「保守」の本砦のようなつもりでいるらしい、「日本会議」の運動にある。20年間、この運動団体に所属する人たちは(そして、産経新聞社は、月刊正論は、等々ということになるが、立ち入らない)、いったい何をしてきたのか。
 悲痛だ。 

1692/安本美典・2017年7月著。

 「組織集団がある方向にむいている場合、その内部にいる人たちには、組織集団の文化の特異性に、気づきにくくなる。/思い込みと、ある程度の論証の粗雑さとがあれば、どのような結論でもみちびき出せる。当然見えるべきものが見えず、見えないはずのものが見えるようになる」。はじめにⅲ。
 「捏造をひきおこす個人、組織、文化は、捏造をくりかえす傾向があるといわれている」。はじめにⅹ。
 「素朴な人がらのよさを持っている方が、他の分野よりも多いような感じがする。/それだから困ってしまう。/信じたい情報だけを選び、それ以外は無視する」。p.346。
 「私は、…、捏造であるという『信念』を述べているのではない。…である『確率』を述べているのである。/それは、…私が…にあった『確率』を計算して述べているのであって、『信念』を述べているのではないことと同じである。/確率計算は、証明になりうる」が、「宣伝は、証明にならない。/この違いを、ご理解いただけるであろうか」。p.347。
 以上、安本美典・邪馬台国全面戦争-捏造の「畿内説」を撃つ(勉誠出版、2017.07)。
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 「信念」だけで、物事を判断してはいけない。信念とか、<保守の気概>とかの精神論は、理性的判断を誤らせ、人々を誤らさせる狂信・狂熱を呼び起こすに違いない。
 「宣伝」をしてはならないし、それを単純に信頼してもいけない。「宣伝」する者は、事実に反していることを知っていても事実・真実だと偽って「宣伝」することがしばしばある。とくに<政治的論評・主張の分野>では。<評論家・政策研究家>の肩書きの「宣伝員」を信頼してはいけない。
 自戒を込めて、安本美典の文章も読みたい。この人は古代史、かつ「邪馬台国」所在地論争について語っているが、<歴史>全般にかかわるし、現在の種々の<認識・報道・論評>にも関係するだろう。
 上の文章を、日本共産党員に読ませても意味がない。しかし、阿比留瑠比や小川榮太郞には、多少はぶつけてみたい気がする。
 ---
 安本美典は、もう10年前には<卒業>したつもりでいた。
 しかも、しっかりと吸収して、「邪馬台国」北九州説をほとんど迷うことなく支持し、中心地だったとする福岡県甘木市(合併によりいまは朝倉市)も訪れた。さらに、甘木の奥のわが故郷(?)秋月地区も訪れた。
 卑弥呼=天照大神説もほとんど迷うことなく支持していて、実在の人物を反映しているとみられる卑弥呼=天照大神は、3世紀半ば頃の活躍だったと推測している。
 とすると、神武天皇等々の年代も、おおよそのことは判断できる。
 いつぞや皇室の系譜はどこまで実証できるかについて、神武天皇、さらには天照大神にので遡らせることはせず、継体以降は確実だが、とか記したが、実証はほとんど不可能にしても、神武天皇や天照大神「に該当する人物」または人たちはいたのだろうと感じている(但し、血統関係の正確さはよく分からない)。
 安本美典は<神武天皇実在説>なるものに分類されていることもあるようだが、日本書記記載のそのままのかたちで存在していたなどと主張はしていない(はずだ)。
 安本美典は記紀編纂時期までの<天皇の代数>くらいの記憶・記録はあったのではないか、とする。あくまで「代数」で、在位年数とか、在位時代の記述までそのまま彼が「信じて」いるわけではない(はずだ)。
 一定時期以前に関する記紀の叙述を「すべて」作り話とする大勢の学者たちに反発しているのであって、逆に「すべて」がそのまま真実だなどと主張しているわけではない(はずだ)。
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 ちなみに、櫻井よしこは、簡単に「2600年余の」皇統とか平気で書く。
 神武天皇は紀元前660年に「即位」とされているので、以降、1940年は<紀元2600年>だったわけだ。
 しかし、天照大神より後の(とされる)神武天皇が紀元前7世紀の人の可能性は絶無だろう。
 そう<信じたい>・<信念を持ちたい>人は、どうぞご勝手に、なのだが。
 ---
 上のように安本美典を「ほとんど迷うことなく支持」したいのは、その理性的・合理的な説得性による。「確率」の高さの主張かもしれないが、そのとおりだろうなぁ、と感じてしまう。立ち入らないが、余裕があれば、詳細にこの欄で紹介したいくらいだ。
 10年ほど前までに安本の本は読み尽くした感があったので、しばらくはずっと手にしなかった。
 ところが、数年前から、ぶ厚い書物をまだ多く刊行していることに気づいた。これまでの書物をまとめた全集ものかと思ってもいたが、実際に入手してみると、そうではなかった。
 安本美典、1934年~。もう80歳を超えている。そして、上の書物は今年7月の刊行。
 すさまじい精神力と健康さだと思われる。
 この人の本を立てて並べてだけで、2メートルほどの幅になるのではないか。
 ---
 西尾幹二・全集第20巻-江戸のダイナミズム(国書刊行会、2017.04)。
 この本の巻末に、江戸のダイナミズム・原書(文藝春秋、2007)の出版を祝う会の叙述があり(なお、2007年!、としておこう)、その中に「安本美典」の返信文も掲載されている。
 安本美典と西尾幹二は、刊行本を交換し合うような程度の交際はあったらしい。ある程度は「畑」が違うので、西尾の本で安本の名を見て、興味深く思った。
 西尾幹二、1935年~。 
 お二人とも、すごいものだ。
 秋月瑛二は80歳まで絶対に生きられないと決めて(?)いるので、異なる世界に住んでおられるようだ。いくら「信念」があっても、いくら「根性」があっても、致し方ないことはある。
ギャラリー
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2096/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07②。
  • 2096/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07②。
  • 2096/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07②。
  • 2096/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史07②。
  • 2095/西尾幹二の境地・歴史通11月号②。
  • 2092/佐伯智広・中世の皇位継承(2019)-女性天皇。
  • 2085/平川祐弘・新潮45/2017年8月号②。
  • 2085/平川祐弘・新潮45/2017年8月号②。
  • 2083/団まりな「生きているとはどういうことか」(2013年)。
  • 2083/団まりな「生きているとはどういうことか」(2013年)。
  • 2083/団まりな「生きているとはどういうことか」(2013年)。
  • 2081/A・ダマシオ・デカルトの誤り(1994, 2005)②。
  • 2080/宇宙とヒトと「男系」-理系・自然科学系と<神話>系。
  • 2066/J・グレイ・わらの犬「序」(2003)②。
  • 2047/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)②。
  • 2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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