秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

西尾幹二

2012/池田信夫のブログ010-天皇・「万世一系」。

 菅義偉官房長官は天皇位は「古来例外なく男系男子で継承してきた」=女系天皇はいなかった、との政府見解(政府の歴史認識)を明言しているが、これは「正しい」または「適切な」ものなのか。①「古来例外なく」とはいつからか。②「男系」・「女系」という意識・観念はその「古来」からあったのか。
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 池田信夫ブログ2019年5月5日付「『男系男子』の天皇に合理的根拠はない」。
 ・愛子様への皇位継承に反対する人々は「かつて『生前退位』に反対した人々と重なっている」。
 ・<男系男子継承は権威・権力を分ける日本独特のシステム>と言うのは「論理破綻」しており、「権威と権力が一体化した中国から輸入したもの」
 ・「江戸時代には天皇には権威も権力もなくなった」。
 ・「天皇家を世界に比類なき王家とする水戸学の自民族中心主義が長州藩士の『尊王攘夷』に受け継がれ」、「明治時代にプロイセンから輸入された絶対君主と融合したのが、明治憲法の『万世一系』の天皇」だった。
 ・旧皇室典範が男系男子としたのは「天皇を権威と権力の一体化した主権者とするもの」で、古来のミカド…とはまったく違う「近代の制度」だった。
 ・日本の「保守派には、明治以降の制度を古来の伝統と取り違えるバイアスが強いが、男系男子は日本独自の伝統ではなく、合理性もない」。
 ・「男系男子が『日本2000年の伝統』だというのは迷信」だ。
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 この池田ブログ・アゴラ5月5日付は丁寧に、「男系男子は権威と権力を分ける日本独特のシステム」は八幡和郎の意見ではないとして、「訂正版」と銘打つ。
 但し、「権威と権力を分ける」は別として(この「権権二分論」は西尾幹二にも見られる、西尾を含めての<いわゆる保守>または「産経文化人」の有力主張だ)、八幡和郎の<万世一系>に関する見解・意見の重要部分は、つぎの文章でも明らかだ。
 八幡和郎「万世一系: すべての疑問に答える」アゴラ2019年5月31日付。
 ・日本が外国と異なるのは「万世一系の皇室とともに生まれ」、独立を失ったり分裂したことがないとされることだ。
 ・「女系天皇を認めるべきだという議論…」、「こうしたトンデモ議論…」。
 上の両者をつなげると、八幡和郎は「万世一系の皇室」に肯定的であり、かつそこには「女系天皇」を含めていない、と理解してよいだろう。
 そうすると八幡和郎はおそらくは、池田信夫のいう「明治以降の制度を古来の伝統と取り違える」「男系男子」論という「迷信」に(2000年とまでその歴史の長さを見るかは別として)嵌まっていることになる。
 「皇統」はこの<男系男子>天皇で続いてきた、かりに「女性」天皇はいてもかつて「女系天皇」は存在しなかった、というのは、現時点以降の皇位継承のあり方について、可能なかぎり「女性」天皇も認めない、それにつながる可能性のある「女性宮家」の設立も認めない、という<いわゆる保守>派の主張の有力な「歴史的」根拠になっている、と見られる(これは、現行皇室典範(=明治憲法期のそれと同じく男系男子論を採用)を改正する必要は全くない、という主張で、この部分については現行皇室典範に触るな、という主張でもある)。
 八幡和郎には、つぎの書物もある。一つだけ。
 八幡和郎・皇位継承と万世一系に謎はない(扶桑社新書、2012年1月)。
 熟読していないが、上に触れたことと併せてこのタイトルも見ただけでも、八幡の意見・見解が池田信夫とはかなり異なることは十分に推測することができる。
 上に記した、かつて日本に「女性」天皇はいても「女系天皇」は存在しなかった、というのは、例えば典型的には、<いわゆる保守>派の中でもまだ相対的には理知的だと感じてきた西尾幹二についても明言されている「歴史認識」だ。
 西尾幹二発言・西尾幹二=竹田恒泰・女系天皇問題と脱原発(飛鳥新社、2012)p.11。
 「歴史上、女性の天皇が8人いますが、緊急避難的な"中継ぎ"であったことは、つとに知られている話です。そうしますと男系継承を疑う根拠は何もない。
 なお、この発言の頭書の見出しは、<女系容認は雑系につながる>。
 また、「緊急避難的な"中継ぎ"」の部分についての編集者らしき者による注記は、「いずれも皇位継承候補が複数存在したり、幼少であったことなどからの」緊急避難的措置だった、と記している(同上、p.13)。
 男子継承の理念?を最優先すれば、複数の男子候補のいずれかを選ばざるを得ないのではないか、と思うのだが。また、文武(男子)は何歳で即位したのか?。
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 さて、いくつか、コメントしておきたい。
 まず手近に上の西尾発言、というよりも<いわゆる保守>の公式見解・公式歴史認識らしきものについて。
 ①過去の全ての「女性」天皇について、上の意味のような「緊急避難」的措置だったことを、8天皇ごとに、具体的かつ詳細に説明する必要がある。
 「女性」天皇による重祚の例が2回あるが、その各回についても、背景事情を詳しく説明すべきだ。
 西尾幹二はむろんのこと、男系男子論者(この点についての皇室典範改正不要論者)がこれをきちんと行っているのだろうか。
 <男系男子論>(これは日本会議・同会議国会議員連盟の主張のようでもあるが)を「社是」としているらしき産経新聞社(あるいは同社関係雑誌・月刊正論編集部)は、これをきちんと行ってきているだろうか。
 また、日本史学界を全幅的に信頼しはしないが、上の「歴史認識」は学界・アカデミズムではどう評価されているのかも気になる。
 ②そもそも皇位継承について、「男系」と「女系」の区別は、明治維新以降はともかくとして、皇室関係者その他の各時代の論者・社会の各分野で、どの程度明確に意識または観念されてきたのだろうか。
 ア/聖武天皇皇后(光明子)が初めて「民間」(といっても藤原氏)出身らしいのだが、そうすると、それまでの皇后は、そしてのちに「女性」天皇となった前皇后は(なお、全「女性」天皇がかつて皇后だったわけでは必ずしもない)、当然に「皇族」だった。
 とすると、全ての「女性」天皇は、その父親が天皇だったかを問わず、全て「男系」ではある。
 イ/一方で、例えば持統天皇(天武天皇皇后)の子や孫で天皇になった人物は、男女を問わず、天智・天武の血統であっても、持統天皇の皇統?にあるという意味では、「女系」天皇だと観念または理解して、何ら誤っていない、と思える。なお、高市皇子・長屋王は持統の子・孫ではない。
 ウ/具体的にいえば、孝謙天皇・称徳天皇(同じ一女性)は、いかなる「緊急避難」的必要があって、二度も天皇位に就いたのか?
 西尾幹二は、これらを実証的に、歴史的に、説明できるのだろうか。
 エ/すでに書いたことだが、少なくとも奈良時代後期の光仁天皇までは、天皇は「男系男子」でなければならないなどという観念・意識はまったく支配的ではなかった、と思われる。
 まだ十分に確認していないし、母親の地位・「身分」が問題にされたことも承知はしているが、持統天皇就位のとき、年齢的にも問題のない<男系男子>はいなかったのか。これは、奈良時代の全ての「女性」天皇について言える。また、わざわざ男系男子の淳仁天皇を廃して孝謙が称徳としてもう一度天皇になったのは、いかなる意味で「緊急避難的な"中継ぎ"」だったのか。「つとに知られている話」とはいったい何のことか。
 西尾幹二は、あるいは日本会議派諸氏、あるいは八幡和郎は、これらを実証的に、歴史的に、説明できるのだろうか。
 おそらく明らかであるのは、<男系男子>を優先するなどという考え方あるいは「イデオロギー」は、この当時はまだ成立していなかった、少なくとも支配的ではなかった、ということだ。男系男子の有資格者がいたにもかかわらず「女性」天皇となった人物がいるだろう。
 なお、高森明勅と大塚ひかり(新潮新書、2017)のそれぞれの「女系天皇」存在の主張には言及を省略する。元明ー元正。元正の父は草壁皇子で天皇在位なし。元明は持統の妹。
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 少し遡った議論を、一度行っておこう。
 第一。今後の皇位(天皇位)継承のあり方につつき、日本の「古来の」伝統的に立ち返ることが一般的に非難されるべきことであるとは思えない。
 しかし、将来・未来のことを「歴史」や「伝統」だけで決めてしまってよいのか。
 そのような発想を、「伝統」や「歴史」を重視するという意味では、私自身もしたことはある。しかし、かりに、または万が一「男系男子」で継承が「伝統」・「歴史」だったとしても、将来をもそれらが未来永劫に日本国民を拘束するとは考えられない。
 かりに天皇制度の永続を最優先事項とするならば、「女性」天皇はむろんのこと「女系」天皇も認めないと、そもそも天皇制度を永続させることができなくなる、という事態の発生の可能性が全くないとは言い難い。
 かりにそうして「女系」天皇が誕生したならば、それは、日本は従来とは異なる(しかし「天皇」制はある)新しい時代に入った、ということになるにすぎない、と考えられる。
 こういう発想に対して、「男系男子」論者は、おそらくこう言うだろう。
 そんな天皇は「本来の天皇」ではない、「天皇制度」が継続されているとは全く言えない、と。
 そのとおりかも知れず、気分はよく分かる。しかし、そう主張し続けることは、男系男子が皇位を継承しなければ「天皇」とは言えない、「天皇制度」ではない、と言っているに等しく、これは、<天皇制度の廃止>を実質的には主張している、または同意していることになる。
 偏頗な「男系男子」論は、じつは<天皇制度の廃止>をも容認する議論に十分につながってしまう。
 第二。こういう議論に対して、「男系男子」論者はおそらくこう主張するのだろう。
 天皇(男性)に側室・私妾を認めて男子が誕生する可能性を拡大する、と主張はしない、だからこそ皇室・皇族の範囲を拡大して皇位継承資格のある男子の数・範囲を広げることが喫緊なのだ、と。いわゆる<旧宮家・皇族復帰論>だ。
 しかし、ここで絶対に検討しておくべきであるのは、<旧皇族復帰>を現実化する、つまり法制上の「皇族」を拡大することの現実的可能性だ。
 つまり、「旧皇族または旧宮家」(この範囲には議論の余地はある)にどの程度の人数(男子)がおり、彼らが(いたとして)どういう「意思」であるかの問題は全く別の問題として、<旧皇族復帰論>を現実化するためには、皇族範囲を定めている皇室典範(法律)を改正する必要がある。または新しい特別法を制定する必要がある。
 要するに、上の方向で皇室典範(法律)が改正される現実的可能性がいかほどあるか、だ。
 しかして、「法律」であるがゆえにその改正には両議員の国会議員の過半数の同意を必要とする(特例等は省略)。そして、現在および今後の日本の国会は、上のような趣旨の皇室典範(法律)改正・特別法制定を議決する可能性が、いかほどにあるのだろうか。
 西尾幹二はつぎのことも、新天皇・新皇后に「お願い」している。
 西尾「新しい天皇陛下にお伝えしたいこと/回転する独楽の動かぬ心棒に」月刊正論2019年6月号p.219。
 「安定した皇統の維持のために、旧宮家の皇族復帰、ないしは空席の旧宮家への養子縁組を進める政策をご推進いただきたい」。
 まさか西尾幹二が皇室典範は天皇家家法であって天皇(・皇后)の意向でいかようにも改正できると考えているとは思えないが、天皇(・皇后)に一定の皇室「政策」の推進を求めるのはいささか筋違いで、八木秀次によって「国政」介入の要請と厳しく批判される可能性もある。建前論としては国会・両議員議員に対して行うべきものだ。
 第三。この機会に少しだけ立ち入れば、「旧宮家の皇族復帰」等の趣旨でかりに皇室典範改正の基本方向が国会で賛同を得たとしても、検討する必要がある、そして必ずしも簡単に解決できそうにない法的論点がいくつかあると思われる。
 例えば、①対象者(旧宮家の後裔たる男子)の「同意」は必要か否か。必要であるとすると、「同意」しない者は対象者にならないのか。
 ②高度の「公共」性(天皇制度の安定的継続)を理由として、対象者(旧宮家の後裔たる男子)の「意思」とは無関係に、(一方的・強制的に)「皇族(男子)」と(法律制定・改正により)することはできるのか。その場合にそもそも、高度の「公共」性(天皇制度の安定的継続)を理由として、これまで皇族でなかった対象者の「身分」を変更することが<基本的人権>の保障上許容されるのか(皇族になるまでは一般国民だ)。
 ③「身分」変更に伴う、財産権等々にかかわる細々とした制度変更をどう行うか。
 上の①と②は、たんなる「法技術」の問題ではない。
 さらに、より「そもそも」論をしておこう。
 第一。池田信夫のように、「明治以降の制度を古来の伝統と取り違える」「男系男子」論という「迷信」について語る者もいる。
 いかなる「歴史認識」が(むろん運動論・政治論ではなく)より歴史学的ないし学問的に「正しい」かは、相当程度において、日本書記(・古事記)を信じるか・信頼するか、どの程度においてそうするか、に関係する。
 これは、二者択一の問題ではなく<程度と範囲>の問題だ。相対的に、秋月瑛二よりも、八幡和郎や西尾幹二のそれへの「信頼度」は高いようだ。
 しかし、古代史一般について言えるだろうが、「信じる」程度の問題になってしまうと、いずれが「正しい」かの議論にはならない。「神話」という「物語」を微妙に「史実」へと転換している部分がある西尾幹二についてもこれは言えると思われる。
 「信仰」の程度で、重要な問題の決着をつけては、あるいは重要な問題の根拠にしては、いけないのではないか。あるいは、よくわからないこと、信憑性の程度がきわめて高くはないことを、現在時点での問題解決の「歴史的」根拠にしてはいけないのではないか。
 なお、孝謙・称徳天皇あたりの「話」になると、続日本記等の記述の信頼性の程度の問題が生じてくる。
 公定または準公定の史記に相当に依拠せざるを得ないことは当然かもしれない。
 しかし、天武以前に関する(壬申の乱を含む)日本書記の記述を天武・持統体制?の意向と無関係にそのまま理解することはできないのと同様に、光仁・桓武天皇期以降の続日本記等の叙述や編纂が、平安京遷都以前の歴史につき、必ずしも公正には記していない可能性があるだろう。
 こんなことを感じるのも、孝謙・称徳天皇に関する記述・「物語」は先輩の?天皇に対するものとしてはいささか冷たい部分があるように、素人には感じられるからだ。
 なお、八幡和郎は変化も交替もなかったかのごとく叙述しているが、奈良王朝と平安王朝?の違いとその背景については(意味の取り方にもよるが)、関心がある。八幡が想定するよりももっと複雑な背景があると見るのが、より合理的な史実理解でありそうに見える。
 第二。皇位継承の仕方・あり方は(かりに「歴史」・「伝統」が有力な論拠になるのだとしても)、日本書記等での記述の仕方を含めて、ときどきの時代の史書がそれをどう理解していたか、も当然に配慮しなければならない。
 明治期以降の櫻井よしこらのいう「明治の元勲たち」が日本古代からの皇位継承の仕方・あり方をどう観念・理解したのかは考慮すべき一つの事項にすぎず、「明治以降の制度を古来の伝統と取り違える」のは、思考方法としても全く間違っている。
 <天皇親政の古来の在り方>に戻ったとし、仏教、修験道等を「神道」の純粋性を汚すものとした、明治新政府とその後の薩長中心藩閥政権等々が、日本古代からの皇位継承の仕方・あり方を本当に客観的または冷静に分析し理解し得たとは、とても思えない。
 昭和に入ってからの<国体の本義>に書いてあることが全てウソまたは欺瞞または政治的観念論だと主張はしないが、「天皇」に関する叙述・論述をそのまま信頼することもできない。これは当たり前のことだろう。そして、「万世一系」もまた、明治憲法が用いた術語であることを知らなければならない(むろん、その趣旨の論は江戸時代等にもあったかもしれないがどの当時から「体制」のイデオロギーではなかったように思われる)。
 第三。江戸時代の「女性」天皇についても上記の「緊急避難的な"中継ぎ"」の意味は問題になり得る。その点は別としても、しかし、歴代の天皇の大多数が男子(男性)だったことは間違いないようで、なぜそうだったかは別途論じられてよいだろう。
 池田信夫は冒頭掲記の文章の中で、「日本で大事なのは『血』ではなく『家』の継承だから、婿入りも多かった。平安時代の天皇は『藤原家の婿』として藤原家に住んでいた。藤原家は外戚として実質的な権力を行使できたので、天皇になる必要はなかった」と書いている。
 但し、その後の時代も含めて、武家等が「天皇」になる必要はなかったとしても、その天皇はなぜほとんど男子で継承されてきたのか、という疑問はなお残る。
 簡単な論述には馴染まないが、結局のところ、人間・ヒトとしてのオスとメス(男と女)の違いに求めるしかないのではないか、と私は思っている。むろん、ただ一つの理由、背景として述べているのではない。
 中国の模倣も少しはあったかもしれない。しかしそもそもは、「天皇」になることがいかほどの特権だったかは時代や人物によっては疑問視することもでき(例えばかりに同族が天皇位に就いていて自分の生活・財産が保障されていれば、あえて「天皇」になる必要はないと考えた候補者もいたかもしれない)、また「女性」天皇が少ないことは女性蔑視思想の結果だとも思えない。
 妊娠・出産はメス・女性しかすることができない、というのは古来から今日までの、日本人に限らない「真理」だろう。このことと「天皇」たる地位の就位資格と全く無関係だったとは思われない。むろん代拝等によることによってあるいは摂政・代理者によって祭祀行為や「執政」等々をすることはきるのだが、日本史の全体を通じて、妊娠し出産し得るという身体性は、天皇という「公務」執行の支障に全くならなかったとは思えない。むろん100%決した要因ではないだろうと強調はしておくが、この要素を無視できないのは当然のことではなかろうか。
 これは女性「差別」でも何でもない。むしろ「保護」をしていたのかもしれない。
 第四。天皇の問題だけではないが、日本の「文化」・「文明」の独自性・特有性は、日本人の「精神」・「こころ」・「性格」等によるのではなく、大陸や半島から「ほどよく」離れた、かつ東側にはさらに流れ着く島等がないという列島という地理関係とそこでの自然・気候等の「風土」によるのだろうと思っている。天皇という制度の継続もこれと全く無関係とは感じられない。
 「民族」・「日本人」が先ではなく、人が生きていく列島の「地理的条件」・「自然」・「風土」が先だ。
 前者という「観念」的なものを優先させるのは、この列島にやって来たヒトたち・人間たちの本性とは決して合致していないだろう。

2006/「文学」的観念論ノート。

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 古都保存法という法律がある。これは略称または通称で、正確には<古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法>(昭和40年法律1号)という。
 この法律2条1項はこう定める。「この法律において『古都』とは、わが国往時の政治、文化の中心等として歴史上重要な地位を有する京都市、奈良市、鎌倉市及び政令で定めるその他の市町村をいう」。
 京都、奈良、鎌倉各市およびその他の「政令で定める」市町村が、「古都」とされる。
 この政令である<古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法第二条第一項の市町村を定める政令>(昭和41年政令232号)によると、 政令で定める「古都」とはつぎの市町村だとされる。
 「天理市、橿原市、桜井市、奈良県生駒郡斑鳩町、同県高市郡明日香村、逗子市及び大津市」。
 さて、鎌倉のほか天理、逗子各市および斑鳩町にはたぶん、かつて天皇・朝廷の所在地はなかった筈だ。それに、かつて「都」があったはずの大阪市が列挙される中に入っていない。
 とこんなことを議論しても無意味だ。「都」の一種だと概念論理的にはいえる「古都」について、「都」それ自体の意味とは無関係に、上の法律は「わが国往時の政治、文化の中心等として歴史上重要な地位を有する」特定の市町村だと定義しているのだから。
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 <大阪都>構想に関して、竹田恒泰や西尾幹二らは、「都」は一つだけだ、東京とは別に大阪「都」というのは本来?おかしいと、歴史学的に?または文学的に?主張し、または感想を述べているらしい。
 言葉・概念をすぐに<文学的>に解してしまう文学(部)系「知識人」・「評論家」あるいは「物書き」(文章執筆請負業者)の弊害が顕著だ(もっとも竹田は法学部卒のはずだが)。
 現行の地方自治法(昭和22年法律67号)は「普通地方公共団体」の中に都道府県(・市町村)が、「特別地方公共団体」の中に「特別区」等があることを定めているが、都道府県の各意味、いずれが都道府県にあたるのかの特定を行っていない。
 そして、3条1項で「地方公共団体の名称は、従来の名称による」とだけ定める。
 したがって、明治憲法公布時の「府県制」(・「市制」・「町村制」)のほか1943年の東京「都制」という名称の各法律によるものをそのまま継承することとしている。
 特別区というのは戦後・地方自治法上の制度で、同法281条1項は「都の区は、これを特別区という」と定める。
 今日まで「都」の名称を継承したのは(昭和18年以降の)東京だけで、上の「特別区」の区域は実質的には東京都だけにあり、また旧東京市(昭和18年まで)の区域に該当するものだった。
 しかし、どこにも「都」の定義はなく、「都」とは将来的にも「東京都」に限る、という旨の規定はない。
 2012年(平成24年)に、略称<大都市地域特別区設置法>、正式名称<大都市地域における特別区の設置に関する法律>(平成24年法律80号)が公布された。
 この法律によると一定大都市地域での「特別区」の最終設置権限機関は「総務大臣」だ(3条)。住民投票(選挙人の投票)等を経ての関係自治体の<合意>で決定されるのではない。
 また、「特別区の設置」とは、「関係市町村を廃止し、当該関係市町村の区域の全部を分けて定める区域をその区域として、特別区を設けることをいう」(2条3項)。
 そして、「都」という語・制度との関係について、こう定める。第10条。
 「特別区を包括する道府県は、地方自治法その他の法令の規定の適用については、法律又はこれに基づく政令に特別の定めがあるものを除くほか、都とみなす。」
 現在「都」ではない「道府県」も、これにより、法制上は「都」となる(そうみなされる)。
 また、確認しないが、例えば大阪府を大阪都と名称変更することについては、すぐ上の厳密な規定ぶりからして、上掲の地方自治法3条1項「地方公共団体の名称は、従来の名称による」との抵触を回避するために、別の特別法(法律)が総務大臣の最終決定と同時か一定期間経過後に必要になるのかもしれない。
 いずれにせよ、「都」は東京に限られるのではない。
 天皇陛下がおられる、皇居のある東京に限るべきだ、と主張するのも自由勝手だが、そんな議論は現実の政治・行政上は、とっくに否認されている。
 ところで、大阪府下に「特別区」をおくといういわゆる<大阪都構想>が橋下徹・大阪維新の会で唱えられたとき、そんなことは法律を改正するか新法律を制定しないと、つまりは国・中央の立法機関の国会がそれを認めなければ、実質的には政府・与党がそれを了解していなければ実現する可能性はゼロであることは分かっていたので、政策的議論、行政政策・地方制度(とくに大都市制度)としての優劣の議論はさておき、そもそもその現実的な実現可能性について疑問をもったものだ。
 ところが何と、2012年(平成24年)というのは年末に安倍晋三第二次内閣が誕生した年だが、自民党等の賛成を得て、上記の法律が成立してしまったので、驚いてしまった。
 これはたんなる「理論的」、「政策論的」優劣の問題ではない。
 上記のとおり法律成立がただちに<大阪都>容認を意味するのではないが中央政界、とくに自民党の同意を取り付ける、という橋下徹らの<政治力>または<人間力>によるところもすこぶる大きかっただろう。
 現行の、「生きている法制度」を変更する・改正するというだけでも大変なことなのだ。むろん、その新しい法制を利用して、元来の「理念」を現実化するのも大変なことはその後の経緯が示している。
 橋下徹はしばしば、学者先生の<空理空論>を批判し揶揄しているが、その気分はよく分かる。
 東京にだけ「都」という語は使うべきだ、「都」は一つに決まっている、などとのんきに?書いたり、発言しているだけでは、世の中は変わらない。
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 天皇・皇室に関する日本国憲法を含む現行法制を全く無視して、あるいは無視していることも意識しないで、奇妙なことを、例えば加地伸行(1936-)は語りつづける。
 加地伸行「宮中にて祈りの御生活を-新しい天皇陛下にお伝えしたいこと」月刊正論2019年6月号p.255.は、かつての現天皇・現皇后に対する自らの罵詈雑言にはむろん?少なくとも明示的には触れることなく、つぎのように書く。
 「伝統を墨守する」方法は「ただ一つ」、「皇居の中で静かに日々をお暮らしになり、可能なかぎり外部と接触されないこと」。「庶民や世俗を離れ、可能なかぎり皇居奥深く在されること」。「宮中におかれて、専一、祈りの御生活」を。
「国事行為の場合には他者との面会もやむをえないが…」とも書いているが、またもや加地の幼稚な天皇観が表れているだろう。
 「祈り」とは何か。幼稚な彼は「祭祀王」という語を用いず、「祈り」と宗教・神道との関係にも触れることができない。
 加地伸行は一度、「内閣の助言と承認」を必要とする、上にいう「国事行為」の列挙を日本国憲法7条で確認しておく必要がある。
 そして、「可能なかぎり」「外部と接触」せずに「皇居奥深く在され」て「祈って」いただきたい、というのは日本の天皇の歴史全体を通じても現憲法に照らしても、特殊な天皇観だということを知らなければなない。
 さらに書けば、この人物はかつての自らの皇室関係発言を「恥ずかしく」感じてはいないのだろうか。
 なぜ、「新天皇」への言葉の原稿執筆依頼を平然と引き受けることができるのだろうか。何についても語る資格があると思っているらしき「古典的知識人」のつもりらしい「名誉教授さま」の神経は、凡人たる私にはさっぱり分からない。

1994/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題④。

 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)所収の同「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。
 西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ③のつづき。直接の引用には、明確に「」を付す。原文とは異なり、読み易さを考慮して、ほぼ一文ごとに改行している。
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 2006年4月30日「理事会」での鈴木尚之「演説」の、西尾幹二による「一部」引用。これをさらに秋月によって「一部」引用する。
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 ・「西尾先生宅に送られた4通の怪メール(FAX)」の「一通〔往復私信〕は私が八木さんに渡したものである。
 もう一通〔怪文書〕は、3月28日の理事会に出席していなければ絶対に書けない内容のものであり、4通はすべて関連している内容のものである。
 八木さんは<諸君!>で『私のあずかり知らないことである』ととぼけているが、そんなことで言い逃れできるはずがない。
 これもまた、八木さんの保守派言論人としての生命に関わることである。」
 ・2006年4月4日午後2時に「私と会った産経新聞の渡部記者は、『鈴木さん、申し訳ありません』と」「謝り、『とにかく謀略はいけません、謀略はいけません。八木・宮崎にもう謀略は止めようと言ったので、もう謀略はありませんから……〔……は西尾による引用原文ママ-秋月〕。私は、産経新聞を首になるかもしれない』と言ったのである」。
 ・この産経新聞の渡部記者は「同じことを藤岡さんにも言った」とのことがのちに明らかになり、「このことを知って私は、八木さんに『産経の記者があなたにどんな話をしているのかわからないが、藤岡さんに話したことと同じことを私にも言っているのだから、これはもう重大なことですよ。最悪のことを考えて対処しないと大変なことになりますよ。とにかく記者は顔色をなくして私にこう言ったのだから。謀略はいけない、謀略はいけないと』。
 そのとき八木さんは、『謀略文書をつくったのは産経の渡部君のくせに……〔……は西尾による引用原文ママ-秋月〕。彼は、1通、いや2通つくった。これは出来がいいとか言ってニヤニヤしていたんだから……〔……は西尾による引用原文ママ-秋月〕』とつぶやいたのである」。
 ・「以上のことは、4月30日の理事会で、特別の許可を得て私がした報告の内容である」。
 「八木さんを糾弾するために言ったのではない。
 八木さんが、このような『禁じ手』を使ってしまったことを反省し謝罪しないかぎり、八木さんに保守派言論人としての未来はないという危機感を持ったから」だった。
 「それでも八木さんは、謝罪することなく、『つくる会』を去って行った」。
 ***
 (以下は、西尾幹二自身の文章-秋月。)
 ・「この鈴木氏の手記から見ても、怪文書事件には八木、宮崎、渡部の三氏が関与していた疑いを拭い去ることができない(渡部記者は新田均氏のブログにこの証言への反論を載せている)」。
 「八木氏が、もしこれを『私はやっていない』『他の人がやったのだ』と言いつづけ、与り知らないことで嫌疑をかけられることには『憤りを覚える』などと言い募るとすれば」、…と同じ「盗人猛々しい破廉恥漢ということになる」。
 ・付言しておくと、「怪文書事件のほんとうの被害者は私ではなく、藤岡信勝氏である」。
 「公安調査庁の正式の文書を装って」、氏の経歴の偽造、日本共産党離党時期の10年遅らせ等の文書が「判別した限りで6種類も、各方面にファクス」で送られた。
 理事たちは「本人に聞き質すまで」混乱して疑心暗鬼に陥った。しかも氏の「義父を侮辱する新聞記事」まで登場して「私の家にも」送られた。「はなはだしい名誉毀損であり、攪乱工作である」。
 ・「現代は礼節ある紳士面の悖徳漢が罷り通る時代」だ。「高学歴でもあり、専門職において能力もある人々が」社会的善悪の「区別の基本」を知らない。
 「自分が自分でなくなるようなことをして、…その自覚がまるでない性格障害者がむしろ増えている」。
 「直観が言葉に乖離している」。「体験と表現が剥離している」。「直観、ものを正しく見ることと無関係に、言葉だけが勝手にふくれ上って増殖している」。「私が性格障害者と呼ぶのはこうした言葉に支配されて、言葉は達者だが、言葉を失っている人々」だ。
 ・「私は八木秀次氏にも一つの典型を見る。
 他人に対しまだ平生の挨拶がきちんと出来ない幼さ、カッコ良がっているだけで真の意味の『言論力の不在』、表現力は一見してあるように見えるが、心眼が欠けている。
 言葉の向こうから語り掛けてくるもの、言葉を超えて、そこにいる人間がしかと何かを伝えている確かな存在感、この人にはそれがまるでない。」
 ・「そういう人だから簡単に怪文書、怪メールに手を出す。
 今度の件で保守言論運動を薄汚くした彼の罪はきわめて大きい。
 言論思想界がこの儘彼を容認するとすれば、…を難詰する資格はない」。
 ・「それなのに八木氏らをかついで『日本再生機構』とやらを立ち上げる人々がいると聞いて、…ほどに閑と財を持て余している世の人々の度量の宏さには、ただ驚嘆措く能わざるものがある。」
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 見出しなしの最初の段落のあとの、<怪文書を送信したのは誰か>につづく<言葉を失った人々>という見出しのあとの段落が終わり。つづける。

1992/池田信夫のブログ007-西部邁という生き方②。

 池田信夫のブログ2018年1月23日付「『保守主義』に未来はあるのか」は、なるほどと感じさせた。かなり遅いが、在庫を少しでも減らしたい。
 池田によると、西部邁・保守の真髄(講談社現代新書、2017)を読むと、西部は20年ほど前から進歩していない。西部の「保守主義」には「思想としての中身がない」。以下も、要約的紹介。
 西部の「保守主義」の中身は「常識的で退屈」なので、「『反米保守』を自称して」あらゆる改革に反対するようになった。それは「文筆業として食っていくために『角度』をつけるマーケティングだったのかもしれない」。
 「保守すべき伝統」、「国柄」、「民主主義」…、「最後まで読んでも、それはわからない。…中身は陳腐な解説だ」。
 要するに彼は、「アメリカ的モダニズム」を批判しても対案のない「右の万年野党」だった。「保守主義はモダニズムの解毒財」としての意味はあったが、それ以上のものでなく、「彼に続く人はいない」。
 ***
 最も印象に残ったのは、「文筆業として食っていくために『角度』をつけるマーケティングだったのかもしれない」、かもしれない。
 勤め先・大学を辞職したあと、彼は自分と家族?のためにも文字通り「食って」いく必要があり、それは当然としてもさらには、手がけた雑誌を継続的に出版していく必要等もあった。
 第三者的想像にはなるが、そのためには活字上もテレビ上も、可能なかぎの<目立つ>必要があった。私はたぶん使わない言葉だが、やはり「マーケティング」が必要だったのではないか。
 そして、西部邁にかぎらず、何らの組織(大学・研究所)に属していない<自営業>の物書き・評論家類には、名誉心・顕名意欲に加えて、程度の差はあれ、こういう<本能>はあると思われる。
 脱線するが、上の著と並んで、西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017)が出た。このタイトルは、ライヴァルの?西部の本を意識したものでは全くなかっただろうか。また、その内容(「いわゆる保守による安倍内閣批判」)は、いかほどの影響があったのかはともかく、「保守」の論としては「角度」がついている。
 そもそも上の西部著を所持すらしていないのだから、その中身・西部の「思想」はよく分かっていない(別の書について「保守」というにしては反共産主義性が弱いか乏しいというコメントをしたことがある)。
 但し、池田の上のコメントは、ある程度は「近代」批判の佐伯啓思にも当たっているような気がする(近年はとんと読まなくなった)。
 ところで、西部邁死去後の諸文の中で最も記憶に残っているかもしれないとすら思うのは、産経新聞紙上(だと思われる)の、桑原聡の追悼コメントのつぎの部分だった(記憶による)。
 <「保守論壇」の中心部分にいた人ではなかった(又は、「保守論壇」の「周辺部」にいた人だった>。
 すぐに感じたのだろうと思う。
 では、桑原聡のいう、<「保守論壇」の中心部分・中央>にいるのはどのような人々か?
 桑原聡、そして月刊正論、そして産経新聞社にとって、それは櫻井よしこ、渡部昇一らではないのか。日本会議派または、親日本会議の論者たちだ。
 そして、何とも気味が悪い想いをもったものだ。中央、中心の「保守」とは、何の意味か。

1985/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題③。

 記録しておく価値があるだろう。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)所収-初/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。
 西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。
 いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ②のつづき。直接の引用には、明確に「」を付す。原文とは異なり、読み易さを考慮して、ほぼ一文ごとに改行している。 
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 ・「謀略好きの人間と付き合っていると身に何が起こるか分らない薄気味悪い話である。」/この一文は前回②と重複。
 *以下の第三節に当たるものの見出しは「怪文書を送信したのは誰か」(秋月)。
 ・「まさか、と人は思うかもしれないが、恐るべき巧妙な仕掛けがもうひとつあった」。
 「怪文書中の『藤岡は<私は西尾から煽動メールを受け取ったが反論した>と証拠資料を配りました』における『証拠資料』は理事会には勿論配られなかったが、私の自宅には件の怪文書と同時に送られて来ていた」。
 ・「『証拠資料』とは私と藤岡氏との間に2月3日に交された『往復私信』である。
 私は会の事務局長代行の鈴木尚之氏のことを取り上げ、『鈴木氏はあなたの味方ではないですよ』『あなたは会長になるのをためらってはいけない』の主旨のファクスを送り、その紙の空白に藤岡氏が『鈴木氏は自分の味方である』『自分は会長になる意志はない』と簡単に反対意見を記した返信を再びファクスで送ってきた」。
 この『往復私信』は私と藤岡氏しか知らないはずである。
 ところが、怪文書の作成者はこれを知っているどころか所有している。
 しかも怪文書とともにこれを私に送りつけてきた。」
 ・「私はギョッと一瞬たじろぐほど驚いた。
 一体怪文書の作成者は何者で、藤岡氏からどうしてこの私信が渡ったのか。」
 ・「私は早速藤岡氏に問い質したところ、『鈴木氏は自分の味方である』という個所を読ませたくて、鈴木氏に渡したというのである。
 一方、鈴木氏は藤岡氏に会長を狙う意志がないことを示して安心させるために、ここだけのこととして八木氏に渡した。」
 ・「その際、誰にも渡らないように、ほかの人に渡すとすぐに八木氏からのだと分る印がつけてあるから、と注意して渡した。
 他への流出を恐れて渡されたこの『印がついた西尾藤岡往復私信』がなんと不用意にも、『証拠資料』として怪文書と一緒に、私の自宅に送られてきたのだ。
 とすれば、『福地はあなたにニセ情報を流しています。…、小泉も承知です。岡崎久彦も噛んでいます。CIAも動いています』の例の怪文書の送り主はほかでもない、八木氏その人だということになる。」
 ・「この間に起こった鈴木氏のあせりや問い合わせ、八木氏の電話のたじろぎ、沈黙などはいま全部省略する。
 印があることが確認された三度目の電話で八木氏はやっと認め、謝り、犯人は自分ではない、新田氏に転送したと逃げたのである。」
 ・「この間のいきさつは『SAPIO』(6月14日号)にも書いたが、ここでは新情報として4月30日の理事会で当の鈴木氏が行った長い演説を後日まとめた手記の一部を紹介する。鈴木氏は次のように語っている。」
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 さらにつづける。

1971/中西輝政+日本会議編著(2008年)。

 中西輝政+日本会議編著・日本人として知っておきたい皇室のこと(PHP研究所、2008年)という書物がある。計300頁余。
 西尾幹二の2007年著・国家と謝罪(徳間書店)は「新しい歴史教科書をつくる会」の<分裂>時の様子に触れていて、その中には中西輝政がどっち付かずの立場をとったことを少しは批判的または皮肉っぽく書いている。
 上の2008年の書物の体裁・編者名からして、中西輝政が日本会議と<一体>になっていたように見られることが明らかだ。
 この本の執筆者は、当時の国会議員の島村宜伸、平沼赳夫、下村博文、萩生田光一の4名を除いて、以下のとおり。表紙に掲載されている氏名の順ではなく、実際の執筆順による。肩書き、所属は当時。
 三好達(日本会議会長)、中西輝政、大原康男(國學院大学)、阪本是丸(國學院大学)、松浦光修(皇學館大学)、田中恒清(神社本庁副総長・石清水八幡宮)、中條高徳。
 椛島有三(日本会議事務総長)、江崎道朗、宇都宮鐵彦。
 江崎道朗は「皇室の伝統を受け継がれる天皇陛下-占領・戦後体制という逆境の中で-」と題する項を執筆しているが、肩書きは、つぎのとおりだった。
 日本会議専任研究員。
 この肩書きで文章を書いていた人物が、その後10年も経たないうちに月刊正論(産経新聞社)の毎号執筆者になっていることを、読者は(すでに多くが承知のことかもしれないが)意識しておいてよいだろう。
 この書物の編者等を見ていると、椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)が、その巻末の参考文献に西尾幹二のものを(中西輝政との対談書も含めて)一冊も掲げず無視し、中西輝政のものは十分に掲げて紹介していることも理解できる。
 日本会議の名前を挙げて批判的に書いていた西尾幹二と違って、中西輝政は上に「どっち付かず」と形容した以上に、日本会議と<協調>していたのだ。
 西尾幹二の2007年著は引き続いて原文引用で紹介するとして、西尾幹二は2009年の本では、(この欄ですでに紹介したが)つぎのように語っていた。
 西尾幹二=平田文昭・保守の怒り-天皇・戦争・国家の行方-(草思社、2009.12)。 
 「宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人の幹部と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られかかり、ついに攪乱、分断されたんです。//悪い連中ですよ。
 こう語っており、近年にも日本会議や櫻井よしこらは<保守の核心層ではない>と明記していた西尾幹二が最近には日本会議の軍門?に結局は下っていたとすれば、大笑いだろう。
 日本会議は戦後日本の「保守」思想、「保守」運動を継承している団体では決してない、ということは別に書く。いくつかの関連資料はある。
 ついでながら、中西輝政が若いときの指導教授だったのは高坂正堯だったはずだが、中西は高坂の思想・基本的発想方法を継承しているのかどうか。むろん、「師」と「弟子」は研究者として別人格だから、継承していないからといって、非難されるいわれはない。

1966/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題②。

 記録しておく価値があるだろう。
 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。西尾幹二、71歳の年。上掲書の一部。p.77~。
 いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>に関して。
 ①のつづき。一部ずつ引用。直接の引用には、明確に「」を付す。但し、原文とは異なり、読み易さを考慮して、一文ごとに改行していることがある。一部の太字化は、秋月による。
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 ・「しかもここには古いしがらみをもつ党派的な人間関係もあった。
 前出の四人組と宮崎前事務局長は、松浦氏を除いて、若いころ旧『生長の家』の右派系学生政治運動に関係していた古い仲間であるという。
 執行部側は知らなかったが、いつの間にか別系列の党派人脈が会にもぐりこんでいたのである。
 彼らの結束が固いのも道理である。
 この学生政治運動には日本会議の事務総長椛島有三氏、日本政策研究センターの所長伊藤哲夫氏も参加していたという
 (後日分るが、郵政解散で議席を失い、安倍首相の肝煎りで自民党参院選候補に戻って、ひとしきり話題になった衛藤晟一氏も旧い仲間の一人であった)。
 がっちりとスクラムを組んだ彼らの前近代的仲間意識の強さにはただならぬものがあることをやがて知る。」
 ・「私は、八木氏はかねて遠藤浩一氏や福田逸氏に共感を寄せていたので、近代西洋思想に心を開いた人で、いわゆる国粋派ではないと思っていた。
 新田氏は、<中略…>ゼミで彼の先輩に当るという。
 要するに八木氏は思想的にどっちつかずで、孤立を恐れずに断固自分を主張するという強いものがそもそもない人なのである。
 会議でもポツリポツリとさみだれ式に話すだけで、全体をリードする人間力がなく、雄弁でもない。
 応援してくれる人がいないと一人では起ち上がれない弱々しい人だ。
 『僕には応援してくれる人がたくさんいます』という科白をわざわざ先月号の原稿の最後に吐くことに稚気を感じる。」
 ・以上は、2005年末頃~2006年1月17日の、「私〔西尾〕が退会した前後にいたる出来事」にもとづく。
 〔*以下の第二節に当たるものの見出しの原語は「怪文書を送信したのは誰か」(秋月)。〕
 ・「八木氏は藤岡氏の日共〔日本共産党-秋月注〕離党平成13年というガセネタのメールを公安調査庁に知人がいて確証を得たとして、あちこち持ち歩き、理事会の反藤岡多数派工作と産経記者籠絡の言論工作に利用した。
 つづいて私が退会して2ヶ月たった4月1日夜私の自宅に、次に掲げる薄気味の悪い怪文書を証拠資料と共に番号のつかないファクスで送ってくるものがいた。
 この脅迫めいた文書を作成し送信した者が八木氏であるかどうかを決めつけることはさておき、氏でなければ書けない内容も含まれ、少なくとも八木氏に近い人々による共同作業であったことだけは確かで、これには後述するような新しい証言がある。」
 ・「その頃なにかと理事会情報を私に伝えてくれたのは、福地惇氏だった」。
 福地氏は、「元文部省主任教科書調査官(歴史)」、「東大教授の伊藤隆氏の教え子」である。
 *以下、<怪文書>内容(秋月)。
 「福地はあなたにニセ情報を流しています。
 伊藤隆に言い含められて八木支持に回りました。」
 理事会で西尾幹二を相手にしないようにしようと言い出したのは「福地です」。
 「『フジ産経グループ代表の日枝さんが私に支持を表明した』と八木が明かすと会場は静まり返りました。
 宮崎は明日付で事務局に復帰します。」
 藤岡信勝は<西尾からの煽動メールに反論した>との「証拠資料を配りました」。
 彼は「代々木党員問題はうまく逃げましたが、妻は党員でしょう」。
 「高池はやや藤岡派、あとは今や全員八木派にならざるを得なくなりました。
 八木はやはり安倍晋三からお墨付きをもらっています。
 小泉も承知です。
 岡崎久彦も噛んでいます。
 CIAも動いています。」
 ・「私〔西尾〕が深夜読んで十分に不安になる内容であった理由を以下説明する。
 私は『小泉も承知です』の一行にハッと思い当ることがあった。」
 2005年12月25日の理事会の帰り際に「八木氏」は私〔西尾〕の新著「『狂気の首相』で日本は大丈夫か』を非難がましく言い」、「官邸は」西尾に「黙っていない、って言ってますよ」と「脅かすように告げたことがある」。
 ・「『誰が言ったのですか』」、「『知っている官邸担当の政治記者です』。」
 「『それはいつですか』。聞けば私のこの本の出る前である」。
 「そういうと『先生はすでに雑誌に厳しい首相批判を書いていたでしょう。西村〔真悟〕代議士がやられたのは『WiLL』での暗殺容認のせいらしい』」、「『私はそんな不用意なことを書いていないよ』」。
 ・2005年「12月25日は八木氏がにわかに私にふてぶてしく、居丈高にもの言いする態度急変の日だった」。
 「彼は安倍官房長官(当時)に近いことがいつも自慢だった。
 紀子妃殿下のご懐妊報道の直前、日本は緊張していた。
 あのままいけば、間違いなく『狂気の首相』が満天下に誰に隠すところもなく露呈してしまう成り行きだった。
 国民は息を詰めていた。
 制止役としての安倍官房長官への期待が一気に高まった。
 八木氏は安倍夫人に女系天皇の間違いを説得する役を有力な人から頼まれたらしい。
 まず奥様を説得する。搦め手から行く。」
 ・「八木氏はこの抜擢がよほど得意らしく、少なくとも二度私は聞いている。
 彼は権力筋に近いことをなにかと匂わせることの好きなタイプの知識人だった。」
 ・「右の怪文書の最後のCIAは関係あるのかもしれない深い謎だが、岡崎久彦氏の名は、いや味である。
 私の教科書記述のアメリカ批判内容を岡崎氏によって知らぬ間に削られ、親米色に替えられ、私が怒っていたことを八木氏はよく知っていたからである。」
 ・「伊藤隆氏が、つくる会理事退任届を出すに際し、過去すべての紛争の元凶は藤岡氏にあったとのメッセージを公開したことは、関係者にはよく知られている。
 伊藤氏の藤岡氏への反感は根が深く、伊藤氏が元共産党員であった、私などには分らぬ近親憎悪の前歴コンプレックスがからんでいる可能性は高い。」
 ・伊藤氏の大学の教え子の福地惇氏と八木氏・宮崎氏は2006年3月20日に会談した。
 「福地氏を反乱派の仲間に引きこむためである」。
 伊藤氏の反藤岡メッセージと「公安が保証したという藤岡党歴メール」を福地氏に見せて「このとき多数派工作を企てた」。福地氏について、「3月末の段階ではまだそういう期待もあった」。
 「こうして4月1日私に深夜送られて来た怪文書の最初の二行は、八木一派の工作動機を暗示している願望にほかならない」。西尾・福地間を「裂こうとする願望」も秘められている。
 ・「西尾がすでに退会しているので、クーデターの目標は藤岡排除の一点に絞られつつた」。
 西尾の口出しも排除したいが、「しかし何といっても藤岡が対象である」。
 「その執念には驚くべきものがあった」。
 ・私は「深夜の怪文書の一行目『福地はあなたにニセ情報を流しています』を信じてしまい」、理事会欠席の私に「親切な理事の一人が福地氏のウラを教えてくれた」のだと思った。
 「そういうことをしてくれる人は田久保忠衛氏以外にないと思い、氏に夜中に謝意をファクスで伝えた。
 翌日電話で全くの誤解だったことが明らかになり、田久保氏と二人で大笑いになった。
 しかしよく考えれば笑えない話である。」
 あのまま…ならば「3月28日の理事会はこういうものだったと死ぬまで信じつづけることになっただろう」。
 ・「謀略好きの人間と付き合っていると身に何が起こるか分らない薄気味悪い話である。」
 <つづく-秋月>

1963/西尾幹二2007年著-「つくる会」問題①。

 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007年7月)。
 記録しておく価値があるだろう。上掲書の一部。p.77~。
 西尾幹二「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」初出/諸君!(文藝春秋)2006年8月号。西尾幹二、71歳の年。
 八木秀次論というよりもむしろ、いわゆる「つくる会」の歴史の<認識>にかかわって。
 一部ずつ引用。直接の引用には、明確に「」を付す。但し、原文とは異なり、読み易さを考慮して、一文ごとに改行していることがある。
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・諸君!2006年5月号の八木秀次氏の私(西尾)に関する文章は「私の虚栄心をくすぐってくれた題である。これにリードがついて『執拗なイジメの数々…私〔秋月-八木のこと〕は林彪のごとく<つくる会>を去っていくしか術はなかった』と氏の行動が表現されている」。
 ・「一人の男として、会のトップに立つべき人として、足を引っ張られたとか、イジメられたとかは口が裂けても言ってはならないはずだが、全文を読み終ると、八木氏はこのリードの通り弁解めいた弱音をさらけ出し、〃ボクちゃんはイジメられたけど正しかったんだよお〃と訴えているように読める。」
 ・私(西尾)は2006年1月17日に<つくる会>の名誉会長を辞任した。
 「振り返れば、前年〔2005年-秋月〕の12月初旬、八木氏は突然、私に対して態度が大きくなり、ふてぶてしくなり、あっと驚く非礼があり、執行部の中心にいた彼が『宥和』を図ると称して執行部に反対する四人組(新田均氏、勝岡寛次氏、松浦光修氏、内田智氏の四理事)+宮崎正治・前事務局長の反乱側にひそかに寝返ったのである。
 執行部会議に名誉会長、すなわち西尾は出て来るべきではないと彼が私に面と向かって言ったのは12月25日だった。
 私は困難が発生したから乞われて執行部会議に臨時に出ていただけなのに、そういう言い方だった。
 執行部を中心とした良識派は八木氏の急激な変貌ぶりに危機感を覚え、守りを固めた。」
 ・私(西尾)は2006年1月16日の理事会で「『お前はなぜそこにいる』という意味の重ねての無礼な反乱側の挑発に腹を立て、名誉会長の称号を返上した」。
 ・「…渡りに船でもあり、辞任に不満はないが、クーデターは許せないと思った」。
 「平時に」理事会にも出ないが、大事なのでと執行部側から出席を求められ、「名誉会長の最後の義務だと思ってやりたくもない務めを果たしていた」。
 「しかし何度もいうが、会の精神を変えてしまうクーデターは許せない」。
 ・「というのは、単なるポストをめぐる争いではなく、会を教科書をつくる会ではなく、なにかまったく別の違ったものに変質させてしまう考え方をもつ人々による計画的簒奪であることが、後日少しずつ分るようになるからである。」
 ***
 ・「すでに反乱側の少数派は12月の段階で会を乗っ取ろうとし、事務局まで割って、執行部側の事務局員をイジメて追い出そうとしていた(実際に二人追い出された)。
 今思えば11月半ばから八木氏の会長としての職務放棄、指導力不足は意識的なサボタージュで、彼によってすでに会はこの早い時期に分裂していたといえる。」
 ・八木氏は先月号=2006年5月号で「悲劇の主人公を演じている」が、「六人のうち私と藤岡氏を除く三副会長、遠藤浩一、工藤美代子、福田逸の諸氏のうち工藤、福田の両氏を副会長に指名したのは八木氏その人だった」。
 「彼はその三副会長に背中を向け、電話もしない。
 六人の中で孤立したのではなく、他の五人から自分の意志で離れて『四人組+宮崎』派にすり寄ったのである。
 しかも何の説明もしなかった。
 三副会長は怒って辞表を出した。
 それでも八木氏は蛙の面に水である。
 都合が悪くなると情報を閉ざし、口を緘するのが彼の常である。」
 ・言いたいことはガンガン言えばよい。「しかし彼は黙っている」。
 「語りかける率直さと気魄がない。
 それで後になって自分は置き去りにされていたとか、自分の知らない処でことが進んでいたとか繰り言をいう。
 すべてそういう調子だった。」
 ・「今考えると、サボタージュを含むすべての行動は計画的だったのかもしれない。
 しかし前記の論文では自分はイジメられて追い出されたという言い方をしている。//
 自分がしっかりしていないことを棚に上げて、誰かを抑圧者にするのはひ弱な人間のものの言い方の常である。」
 <つづく-秋月>

1962/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史04。

 「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 欧米の概念用法に従う必要はないとしても、偏頗なまたは単純な<愛国主義>または<民族主義>の政治運動は決して「保守」ではなく、欧米では「右翼」または「極右」と称されると見られる。
 これまた日本独自のことを欧米に比較して単純に比較して言うことはできないとしても、「君主」が存在する国家で、それを<戴き>、その永続を願うことは<保守>派だとは決して言えないと思われる。むろん、別の趣旨・意味または論脈で「保守」(的)という語は用いられている。
  産経新聞社の要職にあるのかもしれない桑原聡は、月刊正論(同)の編集代表時代に、こう書いた。2013年12月号末尾。
 ①「保守のみなさん、…、内ゲバのような貶し合いは左翼にまかせ、おおらかに共闘していきましょうよ」。
 ②「自信をもって、…天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」
 この当時は上の①に反発を感じたが、振り返ると、上の②で桑原聡が表現する「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたい」という考えまたは気分が、この人物が理解する<保守>なのだろう。
 これは、「保守」派または「保守主義」か。
 「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」というのは、いったいいつの時代のことを想定しているのか。「神武」天皇以来、「わが国の在りよう」は同一または同質だとでも理解しているのであるとすると、恐ろしい。
 ひょっとすれば、明治維新以降、明治天皇の代以降のみが、桑原聡にとっての「保守」すべき「日本」なのではないか。明治維新以降の、とりわけ1945年での断裂と連続について議論すべきところは多々あることは別としても。
 櫻井よしこは、「これからの保守に求められること」と題する小文で、つぎのように書いた。月刊正論2017年3月号84-85頁。一文ごとに改行。
 「五箇条の御誓文と十七条の憲法には重なる部分があります。
 この二つは驚く程普遍的な価値観によって支えられています。
 それが日本の日本たる基本であることを認識していることが、保守の基本ではないでしょうか。」
 これこそが櫻井よしこの「保守」宣言であり、「保守」理解なのだが、「日本の日本たる基本」を示す「それ」が何か不分明であるものの、それはどうやら「五箇条の御誓文と十七条の憲法」が示す「普遍的な価値観」らしい。
 やれやれ、何の専門家でもない櫻井よしこがこうして上の二つを結びつけて、なるほどと感心するのは、江崎道朗等々の<日本会議>の熱心な会員くらいではないか。
 前天皇(上皇陛下)の譲位問題をめぐって、現憲法等の諸条項の文言すら知らないままで上の問題を論じ、<政教分離>条項も知らないままで<祭祀>の憲法上の位置を高めよとか書いていた、「あほ」の一人である櫻井よしこの「歴史認識」など、誰が信頼できるだろう。
 この人物は安倍晋三戦後70年談話を田久保忠衛と一緒にいったん称賛し、中西輝政らの強い批判があることを知るや、「歴史認識」として問題はあるかもしれないが、「政治的文書」として支持すると(雑誌文をまとめた翌年の書物の追加注記で)、のうのうと言い放った人物だ。
 この櫻井よしこによるとどうやら、聖徳太子の時代(いや、正確にはこの人物らしき者による文章)といちおうの権力交替後に発せられた(<倒幕の密勅>の時点でスローガンとして表現されていない)明治新政権の理念(らしき)文書には、一貫性・連続性あるいは同質性があるらしい。
 日本共産党が種々主張しているのと同じで、<何とでも言える>。
 江崎道朗著のおかげでこの聖徳太子・「十七条の憲法」問題にはずっと関心をもっているので、いずれ何か書くだろう。
 いずれにしても、櫻井よしこにおいても桑原聡と共通しているのは、どうやら<明治期以降の日本>の歴史的伝統こそが(それは神武天皇・聖徳太子以降連続しているのかもしれないが)きわめて高く評価されている、ということだろう。
  菅義偉官房長官は、将来の皇位継承問題について、「古来例外なく」男系男子で継承されてきたことを「重く」受け止めつつ検討したい、とか発言していたようだ。
 ここでいう「古来」とは、いったい、いつ以来のことか。
 秋月瑛二によると奈良時代後半以降、最年長で就位したらしい光仁天皇以降のことで、それ以前は少なくとも、含まれない。
 だが、神武天皇以来、と明言する者もいるようだし、櫻井よしこもまた、2600数十年とか、120数代の、とか明記していた。
 秋月は元号という制度に反対していないし、また「建国記念の日」の設定にも反対しなかった。後者についていうと、「神武」天皇が旧暦1月1日に就位したので新暦ではなどという「話」はウソであるに決まっている。
 それでもあえて「建国」を話題にしたいならば「物語」として、<そういうことにしておく>ということに殊更に反対しようとは思わないだけだ。
 厳密にいえば、現在日本の成立・「独立」はサンフランシスコ講和条約の発効日である4月28日ではないか、とも考えられる。これに立ち入らない。
 すでに記したように、通説的な理解に従うとすると、少なくとも孝謙(・称徳)天皇の存在自体が、男系男子「一系」論と矛盾している。
 しばしば奈良時代等の「女性」天皇は男子・男系につなぐための「つなぎ」・「中つぎ」だと説明されるが(とくに男系男子論者によって)、この主張は少なくとも称徳(・孝謙)天皇には当てはまらない。持統天皇にも当てはまらないだろう。江戸時代の明正天皇(女性、17世紀)には当てはまるとしても。
 元に戻ると、「神武」天皇に当たる現在の皇室の始祖はいたのだろうが、系図的に明確なものではなく、あくまで<日本書紀によると>という条件を付けなければならない。
 神武天皇陵は明治維新以降にいくつかの候補の中から決定され、その近くに「橿原神宮」が明治期に建立された。平安神宮は明治憲法下で平安京遷都1100年を記念して設立された。明治神宮は当然ながら大正時代のもの。
 皇室ゆかりの平安期以前からの、などというものでは全くない。これらは、少し立ち入ってみれば<常識>の範疇だろう。こうした明治期以降のものにだけ日本の「伝統」を感じてしまうのは、性急すぎだし、誤っている。
 余計なことをまた書いたが、欠史八代につき神武天皇から父親-男の子という直系継承の連続を語る日本書紀をそのまま「信じる」ことができるわけがない。この点で、在位(・生存)期間は捏造(作為)だろうが「代数」に限っては正確な記憶があったのではないかとする安本美典説は、この代数論は安本説にとって重要だが、少数説なのだろうか。
 ある意味では、日本書紀(・古事記)をそのまま、または原則として「信じる」、「信じようとする」のが日本会議等の<天皇崇敬派>かもしれない。
 しかし、日本書紀(・古事記)等々の古文献の信憑性の範囲や程度は専門家・研究者に任せるべきで、「右」も「左」もだが、政治的に全肯定または全否定することで歴史を歪曲してはならない。政治目的・運動目的のために、日本の歴史を「利用」すべきではないだろう。
 神武天皇以来のとか、皇統2670年、125-6代とかいうのは、全て「ウソ」だ。たんなる「お話」にすぎない。
 櫻井よしこは平気で代数を明記していたが、その数字自体が明治期になった確定されたもので、疑わしかった大友皇子(天智天皇の子)は一代(=弘文天皇)とされ、神功皇后は天皇ではなかったとされ、また南朝ではなく北朝が<正嫡>の皇統だとされた。
 上の論点のいずれについて争っても、代数は違ってくるのであって、「信じれば正しい」というものではない。
 なお、日本会議等は<天皇崇敬派>だというのは、彼らのいう「観念」としての天皇や天皇の歴史についての「崇敬」であって、現実に前天皇(上皇陛下)や今上陛下(・雅子皇后)についてはとても「崇敬」者たちとは言い難い(少なくともかつてそうだった)ことはまた再び記録しておきたい。
  やれやれという気がしたのは、西尾幹二が、こう書いていたことだ。同・ウェブサイトによる。産経新聞2019年3月1日付「正論」欄。
 つぎはまだマシかもしれない。平安時代後期以降の視野を限るとすれば、という条件をつけてだが。
 「皇室は何度も言うが精神的権威であって、政治的権力ではない。昔から…武士の誇示する政治力や軍事力を自ずと超えていた。」
 まだマシだが、しかし、最近に、鎌倉時代には「東」の武士権力と「西」の天皇・公家権力が土地の領主支配としても並列していた、という文献を読んだ(あるいは、一瞥した)。
 ともあれ、つぎはマズいだろう。
 「125代続いた天皇家の血統というものが世界の王家の中で類例を見ないものであり、…」。
 明治期の正嫡論争等を知っているはずの西尾幹二は産経新聞「正論」欄に政治的に媚びているのではないだろうか。善解すれば他国と比べてのレトリックかもしれないし、「125代続いたとされる」が編集者にによって「続いた」との断定文に事実上一方的に変えられた、ということも、前例からにするとありうるのではあるが。
 日本は神の国です、と言うのと、日本は神の国と言われています、では、まるで意味が異なる。
 八幡和郎は、つぎの叙述に関するかぎりで、秋月瑛二よりも日本書記等への信頼度が高く、皇室あるいは天皇制度に対する信頼度・崇敬度も、私よりもやはり高いようだ。
 八幡和郎・最終解答/日本古代史(PHP文庫、2015年)。
 「『日本書記』『古事記』は、系図や出来事がそのままでも、神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』すれば外国文献や考古学的成果と矛盾はないのです。」
 この文章は「神話を排除し、寿命を一般的な長さにするなど『合理的解釈』」をするのでよい、とするが、いちおうは説得力ある、スジをたどれる叙述ならば全て「史実」と理解してしまうという懸念・危険があるように思われる。この人によると、「継体」天皇即位期に「対立」はなかった。
 そもそもは、天武天皇(・持統天皇)とその後継者期に編纂・作成されて何らかの政治的(とくに自分たちを正当化する)目的・意図をもって記述されていることを見逃してしまうおそれがあるのではないか。
 具体的な内容を読んではいない。但し、別の主題だが明治維新や明治時代への八幡の評価は、秋月瑛二よりも高いようだ。そのこともあってたぶん、月刊正論(産経)に文章を書いたりしているのだろう。
  奈良時代の女性天皇について、持統天皇を「祖」とする<女系天皇>といったことを元々は書きたかったのだが、つぎの文献に気づいた(新たに買い求めたのではなく広大な書庫?で見つけた)ので、これらをもう少し読んでからにしよう。
 遠山美都男・古代の皇位継承(吉川弘文館、2007)。
 大塚ひかり・女系図でみる驚きの日本史(新潮新書、2017年)。
 追記/前回に仲哀天皇-応神天皇の継承の否定説として井沢元彦の名を挙げたが、安本美典も、その結論および実際の父親の特定も同じ説のようだ。
 こんなことに、櫻井よしこ、江崎道朗、椛島有三らは興味がないだろう。

1938/日本の「保守」・西尾幹二の2008年頃の主張。

 西尾幹二・皇太子さまへの御忠言(ワック、2008年)はきっとアホらしくて所持していない。
 万が一入手していたとしても(そしてどこか隅にあるとしても)、捲って読んだことはない。
 今のところ、特段の突発事がないかぎり、本年2019年5月1日に現在の皇太子が天皇に、現皇太子妃・雅子様が皇后になられる。
 この時期だからこそ今のうちに、<保守>派の少なくとも一部がかつて皇太子や同妃についてどう発言していたかをあらためて記録しておいてよいだろう。
 西尾幹二はどちらかというと肯定的にこの欄で言及することが多かったが(これもこの一年以上はやめている)、その天皇・皇室論のうちの現皇太子・同妃<批判>だけは賛同できなかった。
 冒頭に書いたとおり単行本は読んでいないが、ときどきの関係論考は読んだことがあって、この欄でも明確に批判または疑問視してきた。
 あらためて彼の文書を読み直す余裕はないので、自らのこの欄へのかつての記載から振り返ってみる。
一例になるだろうが、①2008/11/08付の、<0615/西尾幹二の月刊諸君!12月号論稿を読む。やはりどこかおかしい>によると、西尾幹二は月刊諸君!(文藝春秋)2008年12月号にこう書いた。
 「私が危惧するのは、いまのような状態をつづければ、あと五十年を経ずして、皇室はなくなるのではないかということです。雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。というか、明確に拒否されて、すでに五年がたっている。…皇太子殿下はなすすべもなく見守っておられるばかりなのではないか。これはだれかがお諫めしなければならない。…、言論人がやらなきゃいけない」。
 この当時に秋月がすでに指摘しているが、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける」との指摘はおかしい。
 「宮中祭祀」なるものがいつの頃からかあったとして、皇太子も、ましてや皇太子妃も、その<主体>ではあり得ない。
 また、上の「なさる」が参加する、関与する、という趣旨だったとしても、「宮中祭祀」への参加・関与が皇太子妃の「公務」とはどこにも定められていない。
 ②2008/06/13付の本欄<0548/取り返しのつかない、一生の蹉跌、ではないか-中西輝政・八木秀次・西尾幹二>によると、西尾幹二は月刊WiLL2008年5月号(ワック)につぎの旨を書いた。
 1.小和田家が皇太子妃を「引き取るのが筋」だ。(=おそらく皇太子との「離婚」が前提。)   
2.「秋篠宮への皇統の移動」との提言も「納得がいく」。(=つまりは現皇太子は、次期天皇としてふさわしくないという見解の表明だ)。
 こうなると、論及する気もなくなる<アホらしい>ものだった。
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 今回はこの程度にするが、この頃、<保守派>の少なくとも一部は何を血迷っていたのだろうか。
 上の②の表題にも出てくるように、西尾幹二、中西輝政、八木秀次は、<一致団結して>ではないが、それぞれに皇太子妃・雅子様を批判し、現皇太子の天皇就位資格を疑問視していたのだ。
 八木秀次も入っていることからすると、日本会議は(むろん正規の決定などしていないにせよ)このような論調に反対だった、八木のような主張を阻止しようとした、とは言い難い。容認していたのだろうと推察される。
 中西輝政、八木秀次の主張・発言内容には今回は触れないが、「平成」が終わろうとしている今、これら三人は、かつてのそれぞれの自分の主張・発言の内容の<適否>について、現時点での何らかの「総括」が必要なのではないか。
 なお、重視していなかったので当時はあまり取り上げなかったが、「アホ」の一人の加地伸行も当時に西尾幹二の主張を支持する論調だった。そして、のちに2016年になって明確に、皇太子・皇太子妃に対する<罵詈雑言>を吐く。その際の対談相手は、西尾幹二だ。
 その内容を分かり易く?列記したのが、以下だった。
 2017/07/16付の、<1650/加地伸行・妄言録-月刊WiLL2016年6月号>。
この上の最後の秋月の文章は以下。
 「この加地伸行とは、いったい何が専門なのか。素人が、アホなことを発言すると、ますます<保守はアホ>・<やはりアホ>と思われる。日本の<左翼>を喜ばせるだけだ」。

1782/西尾幹二と「日本会議」-2009年対談書。

  西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017.09)の中に、平田文昭との対談の一部が「『日本会議』について」と題して、2頁分だけ収載(再録)されている。
 その元になっているのは、つぎの、p.280~p.282。
 西尾幹二=平田文昭・保守の怒り-天皇・戦争・国家の行方-(草思社、2009.12)
 この本を昨秋に広大な書庫(?)で探してみたが見つからないので購入したところ、いつだったか、同じこの本が二冊あることに気づいた。すでに所持していたのだ。
 西尾幹二全集だけは巻順に並べて(飾って?)いるが、他の同著書類は一箇所に集めているわけではないし、さすがに対談書までは所持していないのかと思っていた。
 さて、上の2017年著に再収されている部分ではないが、「日本会議」について、元の対談書には興味深い部分もある。
 その辺りにさらに関心をもったのは、ネット上で、この西尾幹二=平田文昭の対談書を、「正誤表」をつけて修正してるのに、出版停止にも絶版にも、修正版の新しい本の刊行もしていないと、それこそ罵倒している文章を見つけたからだった(たぶん昨秋)。
 おそらくは第一刷以降に挿入された一枚の「正誤表」によって西尾幹二発言についての「正誤」訂正の前後を正確に比較してみると、つぎのとおり。
 Aは「正誤表」による修正前、Bは修正後。冒頭に「家」とあるのは「生長の家」で、「生長の」が省略されている。<後日追記ーちょうどページの切れ目だった。>
 違いを明確にするために、ここでは敢えて、原書および「正誤表」とは異なり、一文ずつ改行する。この点と一部の太字化、下線、色づけは秋月によるものであることを明記しておく。
 A「家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
  宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人の幹部と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られかかり、ついに攪乱、分断されたんです。
  悪い連中ですよ。」
 B「家信者の活動家で芋づるのようにつながっていることはある時期までわかりませんでした。
  このうち松浦氏ひとりは生長の家活動家ではなかったとも聞いていますが、四人が一体となって動いていたことは間違いありません。
  宮崎事務局長が別件で解任されかかったら日本会議本部の椛島有三氏が干渉してきて、内部の芋づるの四人の幹部と手を組んで猛反発し、会はすんでのところで乗っ取られかかり、ついに攪乱、分断されたんです。
  悪い連中ですよ。」
 以上が(改行を除き)正確な引用で、訂正の前後の違いは、上のBの太い黒字下線の一文が追加挿入されているにすぎない。
 (なお、椛島有三は、現在も日本会議事務総長。
 「四人」とはp.263によると「新田均、松浦光修、勝岡寬次、内田智」で、Bにだけ(正誤表では)出てくる「松浦氏」とは松浦光修であることが分かる。「宮崎事務局長」とは、同頁によると、話題にしている時期の<新しい歴史教科書をつくる会>事務局長だった宮崎正治。) 
 こう見ると、この訂正は松浦光修のために(?)厳密さ、正確さを期したものであって、第一刷本を絶版にするほどの「誤り」では、社会通念上は、または常識的には全くない。
 もっとひどい書物はいくらでも出版、流布されている。
 かりに問題があれば「松浦氏」が仮処分等の申し立てをして法的に争えばよいだけで、わざわざ「正誤表」をつけて発行しているのだから、まだはるかに良心的な方だろう。
 しかるに、私の目を惹いたネット上の書き込みは何だったのだろう。
 現在も掲載されているのかは確認しないが、一枚の「正誤表」が封入されているこだけをもって、それによる訂正・追記の内容に立ち入ることなく、上記の西尾幹二=平田文昭の対談書の全体を非難し、貶めようとするものだ。
 そして、納得がいく。これをネット上に書き込んだのは、椛島有三を事務トップとする「日本会議」または同会もしくは椛島有三に親近的な組織・団体の活動員なのだろう。
 この対談書が「日本会議」に正面から批判的である(西尾幹二もそうだが、平田文昭の方がより厳しい)ことが<気にくわなかった>に違いない。
 2009年時点で「日本会議」や椛島有三等が公式にどういう対応をこの対談書の中身についてしたのかは知らないが、ネット上での書き込みの内容は-このとおり秋月瑛二の貴重な時間をのちに費やさせるごとく-相当に陰湿で、「気味が悪い」ものだった。
 なお、私には特別の関心はないが、上の訂正の仕方だと、<新田均、勝岡寬次、内田智>の三人は「家活動家」だと書かれて、事実誤認だとは考えなかったように見える。おそらく、きっと。

1716/中西輝政はかなり異常②-西尾幹二との対談本。

 西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」を取り戻す(祥伝社、2017)。第二章のp.106。
 西尾幹二がアメリカについて「絶え間なく戦争をする。今度も危ない」と発言したのを受けて、中西輝政はこう言う。
 「そこにこそアメリカという国の本質や生命力の根源がある。私はトランプ政権は戦争をする政権だと思います。ただ、米中でやるんだったら、できるだけ日本を巻きこまない形で、日本から離れたところでやってもらいたいですがね」。
 この中西の発言はいったい何だろうか。冗句・冗談だと理解したいが、それにしては明確に言い過ぎている。
 この中西発言は、<一国平和主義>あるいはアメリカが起こす戦争に日本が巻き込まれるという平和安全法制に対する日本共産党その他の日本の「左翼」の議論と、どこが違うのか。
 中西は2015年平和安全法制に反対せず、その前から日本の集団的自衛権の容認と行使(憲法解釈および法律上の)を主張してきたはずだが、<改説>でもするのか。
 特定の意味での日米同盟の実在は認知せざるをえないだろう。そしてまた、東アジアでの米中の実力・軍事衝突に、日本が「巻き込まれない」可能性があるとでも、中西は本当に考えているのだろうか。
 少しずつさかのぼる。まず、p.103-4。
 中西によると、欧と米は「根っこから違う」、アジア人のほうが、アメリカ的なものとの共通部分があるようにさえ思う」。 
 これはかなりの共通想念を覆すものだ。本当に中西の指摘のとおりだろうか。
 p.101。西尾幹二がアメリカにおけるトランプ当選の意味を何度か言及しているのをおそらく受けて、中西輝政は、こう言う。
 「ポリティカル・コレクトネス」的な「近年の偽善的なリベラリズムに彼は反撥しているのだ、という人がいますが、私の見るところ、それもたぶんトランプ一流の偽装」だろう。「宗教ポピュリズムの世俗版のような大衆運動を起こす」のが自己目的で、「それから、トランプ個人の権力欲、それ以上ののものは何もない」。
 「トランプ個人の権力欲」うんぬんは別として、この部分は、明言されていないが、西尾幹二の見解・理解との決定的な対立点だ。
 中西は他にも、トランプとクリントン、共和党と民主党との違いを無視するか相対化する発言をしきりに行っている。
 p.89で西尾は、いずれも「アメリカ=帝国」という意識はもつとしつつ、上の二つの差違を問題にしているが、p.90で、中西はこう言う。
 ・トランプについての「始めからの私の見方」は、「徹底した金持ち優遇の古いネオコンの、さらにより乱暴なバージョン」だ。
 ・メキシコ国境に壁、日本も核武装をは、「どちらも就任すれば、うやむやにしてしまう」だろう。
 ・「そもそも、トランプが勝とうと、ヒラリーが勝とうと、私には、もともとそんなことはたいして興味がなかった。…、いまのアメリカは孤立主義に行くしかないのです」。
 中西輝政の発言は櫻井よしこによるトランプに関する些末な言及よりは本質を衝こうとしているようで面白くて刺激にはなる。
 しかし、トランプとヒラリーの闘い、つまり共和党と民主党の戦いに「もともとそんなことはたいして興味がなかった」と言ってしまうのは、日本の「知識人」としてもやや異様だが、<保守>派論客を自認しているとすれば、かなり異常だろう。
 こんなふうに考えていると、現在のアメリカを理解できないだろう。
 もっとも、中西輝政はもっと高い次元で「世界史」的にアメリカを観ているのだ、と主張するのかもしれないが、それはそれでもよいとして、問題は、疑問は、そういう主張が、いまの現在、いまの日本で、いかほどの意味・意義を持ちうるのか、だ。
 なお、念のため。中西輝政はかなり異常だと評するのは、この対談本の読んだかぎりでの部分についてであり(その後も想像はつくが)、私の言う<保守>の立場の発言としては、という意味だ。

1714/中西輝政はかなり異常だ-西尾幹二との対談本。

 西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」を取り戻す(祥伝社、2017)。第二章まで読んだ。~p.106。 
 前回にこの本はトランプ等のアメリカ現代政治には言及していなさそうと予想したのは誤っていて、第二章「アメリカの正体」の主眼は、むしろこれだった。
 中西輝政による2015年安倍談話批判は冷静で論理的とも感じたが(それでも、自説の無視・軽視という経緯に対する腹立ちもあるだろうと想像したが)、この書での中西輝政の<狂信的な>アメリカ観・トランプ観には驚いてしまった。
 そして、前回にこの人の「共産主義」感覚を疑問視しておいてよかった、とも感じた。
 また、前々回(11/27)に西尾幹二の最近の論考(産経新聞「正論」欄)について、「ほとんどすんなりと読めた」と何気なく記したのだったが、重要な意味を持っていたことにも気づいた。なぜなら、この西尾の文章は、トランプ・アメリカ大統領のアジア歴訪を好意的に、少なくとも批判的・糾弾的にでなく、記述したものだつたからだ。
 櫻井よしこは、立ち読みした週刊新潮(新潮社)の最新号で、相変わらずトランプ批判を繰り返している(しかし、なぜかトランプに100%同意した安倍晋三を批判することは依然として全くない)。トランプのアジア歴訪は、とくに対中国は「大失敗」だった、とする。そして、相も変わらず、アメリカは信用できない→日本はしっかりしよう→そのために憲法改正を、と何とかの一つ憶えのように繰り返している。その際に、相も変わらず、他人の文章・言葉(今回も?田久保忠衛)の引用・抜粋・要約で紙数の過半を埋めるという<技巧>を使っている。
 桜井のもち前の技巧、他人の文章・言葉を自分の言葉・考えのように用いる・語ることのできる能力というのは、他人の原稿を自分の考え・自分が収集した情報のごとく読んでいた、テレビ・キャスターという過去の履歴と関係があるのではなかろうか。
 余計なことを、つい書いた。一年前にこの欄で、トランプ当選は「精神衛生」によかった、と記したことがある。トランプに対する印象は、西尾幹二のものの方が、私のそれ にはるかに近い。
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 前回に記し遺した中西輝政発言に対する違和感、あるいはコメントを要するとの感触は、とりわけ、つぎのようなものだ。
 p.56。詳細な引用は省くが、中西は、アメリカの奇妙な国際法思想、国際法秩序への挑戦の歴史なるものに言及する。そして、こう言う。
 「ですから、いまの中国のやっていることも、世界史的に見れば、けっこう通用性のあることなのです」。
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 一般に、全ての社会・政治事象は、何らかのかたちで連関し合っている。社会・政治事象は、自然現象ともまた関係し合っている。大地震もその他の自然災害も人間社会に政治に大きな影響を与える。豊作・豊漁といったもの、あるいは天照大神の岩隠れ(神隠し)伝承と皆既日食の事実との関係のように、自然界では珍しいが異常のことでなくとも、人間の政治・社会に強い影響を及ぼすことがありうる。
 自然現象ですらそうなのだから、人間界の「政治」現象は地域・国家が異なっても、何らかの関係を相互に持ち合っている。
 Aがあり、一方でBがあって、それらが対立・反発し合っている、というとき、どちらが根本・究極の原因にせよ、両者が成立した以上は、相互に何らかの影響を及ぼしうる。
 「いまの中国」の原因は「アメリカの歴史」にある、と中西輝政は言っているのと同じだ。
 「いまの中国のやっていることも、世界史的に見れば、けっこう通用性のあることなのです」。 
 このこと自体は、「世界史的に見れば」誤りではないのかもしれない。中西によると、「国際法秩序に異を唱える」ことによる「パクスアメリカーナ」の構築に対する反撥、あるいはそれの摸倣が「いまの中国のやっていること」らしい。「世界史的に見れば」。
 しかし、こう発言して指摘することの、実際的、実践的意味もまた問われなければならない。
 悪辣なアメリカがあった(ある)から、今の中国もある。こう中西は言っているのと同じではないか?
 これは、厳密な主観的意図はともかく、現実的な機能としては、現在の中国を(共産党中国を)擁護する議論だ。
 現在の中国を引き合いに出してまで、アメリカの歴史を批判している。
 中西輝政とは、そのような「学者」なのだ。
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 今回は第二章にまで立ち入れなかったが、「アメリカ憎し」の発言は、第一章以上に烈しい。<狂信的>とまで形容したほどだ。
 西尾幹二はほとんど聞き役で、何とか共通点・同意できる点を見出そうとするかのごとく、まだ冷静に(言葉数は少ないが)発言している。
 中西輝政の現在のアメリカ政治観・トランプ観には、唖然とするものがある。とても「保守」派とは評し難い領域にまで入ってしまっている。また別の日に。
 なお、中西の反アメリカ姿勢を批判しているから秋月は<親米>だ、などという二分法、二項対立図式の単細胞的思考をする人が多いから困る。私は、<対米自立、*日本的な*自由・民主主義の必要性>くらいは、何度でもこの欄で述べている。

1713/西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」…(2017)。

 西尾幹二=中西輝政・日本の「世界史的立場」を取り戻す(祥伝社、2017)。
 対談や座談会の内容を文字にした、安易に造られる書物が多すぎる、とは断定しないでおこう。
 何しろ、相対的にはきわめてマシな、優れていると感じている「保守」派論客の対談本なのだから(司会は柏原竜一)。
 まえがきを2017年3月に西尾幹二が書き、あとがきを10月に中西輝政が書き、同11月付で出版されている。この時期に、西尾と中西の二人は何を語るのか。
 目次全体を眺め、一章まで読了した(~p.70)。
 西尾幹二によると、日本国民の「歴史認識を永いあいだ分裂させ、歪めてきた当のもの」である<世界史に日本がなく、日本史に世界がない>という「変則状態」の「欠を埋め、ここで自覚を新たにしたいというおもい」で起ち上がり作成された書物だ、という。p.4。
 司会者・柏原竜一は「問題提起-『西洋近代』のいかがわしさ」と題する第一章の冒頭で(しかし、本書全体の意図のごとく)、こう言う。
 「昭和における日本人の精神性の覚醒を正しく位置づける」ためにも、「大局から、『近代』というもの、『西洋近代』というものを見直す必要がある」との問題意識で、(二人に)「対談をお願いする」ことになった。
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 まだ70頁までしか読んでいないが、大きな期待は持てそうにない、と直感的に思った。
 目次から、章名および節(に当たるもの)の名・タイトルにどのような言葉・概念が並んでいるかを見てみる。
 日本-14。最多のようだが、これは当然かもしれない。
 アメリカ-11、近代・西洋近代・西洋文明・欧米・ヨーロッパ-計8、中国-1。
 ロシア(・ロシア革命)・ソ連-ゼロ。共産主義・コミュニズム・マルクス主義・社会主義-ゼロ。
 あくまで目次上のタイトルで使用されている言葉・概念だ。
 しかし、この書のおおよその内容を掴む手がかりにはなるだろう。
 今年はロシア革命100年。だが、この書に関するかぎりでは、西尾幹二も中西輝政も、ロシア革命や「共産主義」の「世界史的」意義・意味、その今日に至るまでの日本に対する「日本史的」意義・意味には、とんと関心がないように見える。正確に再述しておく-「…かぎりでは」、「…ように見える」。
 中西輝政は、いつぞや「ネオ共産主義」という言葉を使って、まるで現在に現実としてある「共産主義」国家・「共産主義」体制は、<元来の・本来の>共産主義とは異なるとでも理解しているかのような文章を書いていた。この人にとって<真の>または<本来の・元来の>「共産主義」とはどういうものなのか。したがってまた、西尾との対談でもこれを(たぶんほとんど)話題にしないのは当然かもしれない。
 中西は、とっくに「マルクス主義の過ちは証明されている」ので、これ(マルクス主義・共産主義等)に拘泥するのは、遅れている、旧い発想だ、と考えているようにも思えた。
 このような発想は、じつは「日本会議」と同じだ。
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 「近代」あるいは「欧米・ヨーロッパ近代」への懐疑・疑問・批判をテーマとする書物は、すでに多数ある。
 かつて私もよく読んだが、佐伯啓思がしてきた仕事のほとんどは、これだ。あるいはこれの繰り返し、しつこいまでの反復、だ。
 そして、大切なこととして指摘しておきたい。「近代」あるいは「欧米・ヨーロッパ近代」への懐疑・疑問・批判は、マルクス主義者・共産主義者もまた、共有する。
 彼らは、「市民革命」思想らしきものを都合よく利用しつつ、<自由と民主主義>をブルジョアジーが被支配者を「欺瞞」するための道具だとも考えた(考えている)。
 <西洋近代>の嫡出か鬼胎かはともかく、<近代>は共産主義もまた生み出したし、一方で共産主義は<近代>を克服しようとした(とする)考え方・運動だ。
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 多くの<西洋近代>懐疑・批判書と違って、二人のこの本は、アメリカを主対象とし、アメリカ批判を主とするもののようでもある(しかし、トランプ等々、アメリカの現代政治を扱っているのでもなさそうだ)。
 オビに、こうある。
 「戦後日本を縛りつけているものは何か?/いまも世界を支配する歴史の亡霊。その体現者・アメリカの正体を暴く!」。
 この対談書によるかぎりで、西尾幹二と中西輝政にとって、現時点で「大局的には」、中国共産党体制よりも北朝鮮よりも、アメリカの方が<歴史的に?>大切な、重大な関心事なのだろう。
 しかし、素朴につぎのように考えてしまう。
 二人が語るアメリカ(の歴史等)とロシア(・ソ連)や中国等との関係はいったいいかなる<世界史的>関係にあるのか。日本史を語る際にも、少なくとも幕末以降の日本・ロシア関係、そして何よりも第一次大戦中のロシア革命(1917年)や終戦後のコミンテルン(1919年)との関係は重要な関心事でなければならないだろう。いやすでに北一輝にも見られるように、ロシア革命以前から、マルクス主義(・思想)の影響は日本に強くあったのだ。
 また、つぎのようにも思う。
 反アメリカ、あるいは「アメリカの正体を暴く」というだけでは、基本的には佐伯啓思ら多数の者がしてきた仕事の、新味のあるらしき、焼き直しにすぎないだろう。
 また、日本共産党もまた<反アメリカ>のナショナリスト政党だということを、あらためて強く指摘しておかなければならない。アメリカを批判的に考察し、「アメリカの正体を暴く」、というのは、決して日本共産党が嫌がることではない。
 この政党は十分に、民族主義的・対米自立の「自主・独立」、そして「愛国」政党でもある。
 さらに、北朝鮮がいまだに「アメリカ帝国主義」と称しているのも、中国が決してアメリカと全面的には同調しないのも、根源的には、その「共産主義」性、あるいはマルクス主義(・思想)がある。反資本主義・反「帝国主義」の心性を、彼らは失っていない。
 日本共産党についても同じ。アメリカを歴史的に批判することは、少なくとも一面では、あるいは一部は、日本共産党等の日本の共産主義者および「左翼」もまた喜びとするものであることを、強く意識しておく必要があるだろう(この点は、佐伯啓思の<左翼との通底性>にもかかわる)。
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 さて、第一章。
 <「近代」とは何か>はでたらめのタイトルのごとくで、キリスト教に関する話が多すぎる。
 国家と宗教の分離、そこでの宗教について話題にするな、とは言わない。しかし、とりわけ、中西輝政の、「ピューリタニズム」に関する話が長すぎる。
 この機会にと、中西は最近に勉強?(研究?)したことを披瀝したかったのかもしれない。新しい知識も(いかほどに確かなのかは分からないが)、得られる。
 しかし、大発見のごとく勇んで強調するほどのことなのか。それで?、とも尋ねたくなる。
 中西輝政が上についてきちんと発言したいのならば、<欧米・ピューリタニズムと日本>とでも題する本格的な、300-500頁から成る専門的研究書を執筆・刊行して、世に問うていただきたい。
 もう一つ、中西輝政の発言には、気になる部分がある。別の日に。

 

1712/西尾幹二・人生について(新潮文庫)より。

 西尾幹二・人生について(新潮文庫、2015。原書、2005)p.201~3。
 「自分の死を意識したときに不思議でならなかったのは、死をさえ意識しているこの自分の『意識』がとつぜんあとかたもなく消滅してしまうということである。それはことばでは言い表わすことのできない恐怖、宙に向かって大声で叫びたくのをぐっとこらえているような恐ろしさである」。
 「病気が襲来したときの、死に随伴する肉体上の苦痛というようなものは、たとえどんなに大変でも、自分が消滅するという恐怖に比べれば、決して重大事ではない。少なくともこの二つは別のものである」。
 「死後の生命の存続というものがもし信じられるのなら、それほど楽なことはないであろう。しかし私は、私の身体が亡びると共に個体としての私も消滅し、『自分の意識』もいっさい消えてなくなるのだという以外の考えを持つことがどうしてもできない」。
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 上は50歳代で癌の告知を受けた著者・西尾が60歳代初めに書いた文章のようだ。
 その体験がないと、このような精神の経験もないだろう。また、知識人に特有の自己認識と自己表現の強い希求が背景にあるようにも思える。後者の点に立ち入るのはさて措き、上のような認識・感覚は納得できる。
 つい最近に福岡伸一の本に触れる中で、死後の「意識」・「霊魂」は存在しないだろう、亡き両親等と「交信」したこはもはや全くないのだから、というようなことをこの欄で記した。
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 興味があるのは、このような認識に至った人、あるいは至ったことのある人と、そうではないおそらくはより多くの人との間に、どのような人生観、人間観、そして社会観、世界観の違いが生じるのだろう、ということだ。
 ありていに、急に世俗っぽく言えば、<保守>の人と<左翼>の人で、違いはあるのか。「保守」派とされる高名な(誰とも名は浮かばないが)人と、「左翼」で弁証法的唯物論者?ともされる共産主義者・日本共産党員との間に、「死」に関する認識・感覚に違いはあるのだろうか。あるとすれば、どのように違うのだろうか(たんに<傾向>にすぎなくとも)。
 福岡伸一についても関心をもつのは、この人のように「生命」の本質を理解しようとしている人は、世俗の社会・国家についてはどういう考え方に至るのか、だ。
 この人はフェルメールが好きらしい。やはり人の個体としての<個性>はあるのだ。つまり個々人の嗜好・好みだ。
 私も、エゴン・シーレよりも、アルフォンス・ミュシャ(ムハ)よりも、フェルメールの絵の方が好きだ。ときに、フェルメールの絵の静穏さよりも、クリムトの絵の一部にある激しさに惹かれたりするけれども。
 絵画や音楽は別として、さらに、この福岡という人は、急に世俗っぽくなれば、<保守>派を支持するのだろうか、<左翼>を支持しているのだろうか。それとも、そうした政治的・社会的な対立は、人の意識の錯乱と錯誤の分岐点やその内容・程度の問題であって、ヒト・人間にとっては本質的な問題では全くない、「趣味」の問題だろうか。
 俗人である秋月瑛二は、こんなことも福岡伸一に尋ねたくなるし、さらにこの人の本も読みたくなる。
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 上のような西尾幹二の文章の内容に、ほとんど完璧に共感する。同じように考え、かつ文章化することのできる、立派な人だと感じる。
 しかし、むろんそのことは、西尾幹二の政治・社会に関する主張や叙述に全面的に賛同することを意味しはしない。
 一番最近に同氏のネット上で読んだ雑誌(または新聞)論考ー追記・産経「正論」欄ーのそのままの紹介は、ほとんどすんなりと読めた。
 だが、西尾幹二・保守の真贋(徳間書店、2017.09)となると、簡単にはコメントできない。おそらくいったん全て読んでいるが、同感するところもあるし、気になるところもある。
 かりにこの本の感想を書き始めれば、とても一回では足りない。

 

1711/「日本会議」20周年。

 日本会議(事務総長・椛島有三)の設立は1997年で、昨11月25日に20周年記念集会とやらを行ったらしい。
 何を記念し、何を「祝う」のか。政党でもないこの民間団体の元来の目標は何で、その目標はどの程度達成されたのか。もともと設立の「趣旨」自体に疑問をもっているので、この点はさて措く。
 もっとも、この団体の機関誌は、この20年間に行ってきた活動実績を20ほど列挙して、<実績>としている。
 その一覧表を見ていて、少なくともつぎの大きな二つの疑問が湧く。
 第一、この20項目の列挙は、誰が決めたものなのか。同じ機関誌に代表・田久保忠衛と追随宣伝者・櫻井よしこの対談があるが、この二人は20項ほどの<実績>に何も触れていない。
 おそらく間違いないこととして推定されるのは、この実績一覧表は、「日本会議」内部のおそらくは正式の決定手続を経ないで、椛島有三を長とする事務局(事務総局)によって選定されている、ということだ。
 「日本会議」の諸役員先生方は、それでよしとするのか?
 民間団体の意思決定手続・20年の総括文書(・活動実績一覧表つくりを含む)決定手続に容喙するつもりはないが、この団体の内部には、<万機公論に決すべし>という櫻井よしこが誤っていう「民主主義そのもの」は存在していないようだ。
 20年間も事務局長(総長)が同じ人物であるというのは、西尾幹二もどこかで複数回指摘していたように、異常であり、気味が悪い。
 類似のものに気づくとすれば、ロシア・ソ連共産党のトップ在任期間の長さ(とくにスターリン)、中国共産党のトップの在任期間の長さ、そして日本共産党のトップの在任期間の長さだ。
 これらの党では、いまは日本共産党は少し違うが、共産主義政党はトップのことを書記長・総書記・第一書記・書記局長とか称してきた。「事務総長」とよく似ている。
 日本共産党のトップは、1961年以降、宮本顕治・不破哲三・志位和夫の三人しかついていない。56年間でわずか3人だが、平均すると20年に満たず、何と椛島有三の方が長い。
 いや、「日本会議」には代表がいて、という反論・釈明は成り立ちえない。
 そのことは、上記対談で代表・田久保忠衛が「あらためて設立趣旨を読んでみますと…」などとのんびりした発言をしていることでも分かる。
 やや唐突かもしれないが、現在の中国で、上海市長と共産党上海市委員長(正確な職名を知らない。共産党上海市総書記)とどちらが「偉い」のか。上海大学の学長と、上海大学内の共産党のトップ、いわば党「事務総長」の、どちらが「偉い」のか。
 椛島有三一人で事務局長・事務総長を20年。「日本会議」の役員先生方は、これをどう感じているのか。
 長谷川三千子は?、潮匡人は?、等々。
 元に戻れば、この20年の活動実績の選定は、公表されている項目で、役員先生方は、本当によろしいのか?
 第二。20年の活動実績の選定を見ていて、容易に気づくことがある。
 一つ、北朝鮮による拉致被害者救出・支援活動に全く触れていない。この団体は、活動実績の中にこれを含めることができないのだ。
 二つ、教科書・とくに歴史教科書の改善運動に全く触れていない。私見では、「つくる会」を分裂させたのは椛島有三や伊藤哲夫ら「日本会議」幹部そのものだ。そしてまた、この団体は、歴史教科書に関する運動を、20年間の活動実績として挙げることができない。
 三つ、椛島有三の2005年の著にいう「大東亜戦争」にかかる通俗的な、そして1995年村山談話・2015年安倍談話に見られるような、<歴史認識>を糺す、少なくとも疑問視するという、この団体にとっては出発の根本的立脚点だったかもしれない、<先の戦争にかかる歴史認識>をめぐる運動に、全く触れていない。
 靖国神社や戦没者に関するこの団体の運動を全否定するつもりはない。しかし、根本は、<先の戦争に関する歴史認識>にあるだろう。そうでないと、戦没者は、その遺族は、浮かばれない。
 にもかかわらず、「日本会議」は2015年安倍談話を批判せず、一部でも疑問視せず、代表・田久保忠衛はすぐさま肯定的に評価するコメントをしたらしい(櫻井よしこによる)。
 笑うべきだ。嗤うべきだ。そして、悲しむべきだ。
 日本の現状を悪くしている重要な原因の一つは、「保守」の本砦のようなつもりでいるらしい、「日本会議」の運動にある。20年間、この運動団体に所属する人たちは(そして、産経新聞社は、月刊正論は、等々ということになるが、立ち入らない)、いったい何をしてきたのか。
 悲痛だ。 

1692/安本美典・2017年7月著。

 「組織集団がある方向にむいている場合、その内部にいる人たちには、組織集団の文化の特異性に、気づきにくくなる。/思い込みと、ある程度の論証の粗雑さとがあれば、どのような結論でもみちびき出せる。当然見えるべきものが見えず、見えないはずのものが見えるようになる」。はじめにⅲ。
 「捏造をひきおこす個人、組織、文化は、捏造をくりかえす傾向があるといわれている」。はじめにⅹ。
 「素朴な人がらのよさを持っている方が、他の分野よりも多いような感じがする。/それだから困ってしまう。/信じたい情報だけを選び、それ以外は無視する」。p.346。
 「私は、…、捏造であるという『信念』を述べているのではない。…である『確率』を述べているのである。/それは、…私が…にあった『確率』を計算して述べているのであって、『信念』を述べているのではないことと同じである。/確率計算は、証明になりうる」が、「宣伝は、証明にならない。/この違いを、ご理解いただけるであろうか」。p.347。
 以上、安本美典・邪馬台国全面戦争-捏造の「畿内説」を撃つ(勉誠出版、2017.07)。
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 「信念」だけで、物事を判断してはいけない。信念とか、<保守の気概>とかの精神論は、理性的判断を誤らせ、人々を誤らさせる狂信・狂熱を呼び起こすに違いない。
 「宣伝」をしてはならないし、それを単純に信頼してもいけない。「宣伝」する者は、事実に反していることを知っていても事実・真実だと偽って「宣伝」することがしばしばある。とくに<政治的論評・主張の分野>では。<評論家・政策研究家>の肩書きの「宣伝員」を信頼してはいけない。
 自戒を込めて、安本美典の文章も読みたい。この人は古代史、かつ「邪馬台国」所在地論争について語っているが、<歴史>全般にかかわるし、現在の種々の<認識・報道・論評>にも関係するだろう。
 上の文章を、日本共産党員に読ませても意味がない。しかし、阿比留瑠比や小川榮太郞には、多少はぶつけてみたい気がする。
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 安本美典は、もう10年前には<卒業>したつもりでいた。
 しかも、しっかりと吸収して、「邪馬台国」北九州説をほとんど迷うことなく支持し、中心地だったとする福岡県甘木市(合併によりいまは朝倉市)も訪れた。さらに、甘木の奥のわが故郷(?)秋月地区も訪れた。
 卑弥呼=天照大神説もほとんど迷うことなく支持していて、実在の人物を反映しているとみられる卑弥呼=天照大神は、3世紀半ば頃の活躍だったと推測している。
 とすると、神武天皇等々の年代も、おおよそのことは判断できる。
 いつぞや皇室の系譜はどこまで実証できるかについて、神武天皇、さらには天照大神にので遡らせることはせず、継体以降は確実だが、とか記したが、実証はほとんど不可能にしても、神武天皇や天照大神「に該当する人物」または人たちはいたのだろうと感じている(但し、血統関係の正確さはよく分からない)。
 安本美典は<神武天皇実在説>なるものに分類されていることもあるようだが、日本書記記載のそのままのかたちで存在していたなどと主張はしていない(はずだ)。
 安本美典は記紀編纂時期までの<天皇の代数>くらいの記憶・記録はあったのではないか、とする。あくまで「代数」で、在位年数とか、在位時代の記述までそのまま彼が「信じて」いるわけではない(はずだ)。
 一定時期以前に関する記紀の叙述を「すべて」作り話とする大勢の学者たちに反発しているのであって、逆に「すべて」がそのまま真実だなどと主張しているわけではない(はずだ)。
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 ちなみに、櫻井よしこは、簡単に「2600年余の」皇統とか平気で書く。
 神武天皇は紀元前660年に「即位」とされているので、以降、1940年は<紀元2600年>だったわけだ。
 しかし、天照大神より後の(とされる)神武天皇が紀元前7世紀の人の可能性は絶無だろう。
 そう<信じたい>・<信念を持ちたい>人は、どうぞご勝手に、なのだが。
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 上のように安本美典を「ほとんど迷うことなく支持」したいのは、その理性的・合理的な説得性による。「確率」の高さの主張かもしれないが、そのとおりだろうなぁ、と感じてしまう。立ち入らないが、余裕があれば、詳細にこの欄で紹介したいくらいだ。
 10年ほど前までに安本の本は読み尽くした感があったので、しばらくはずっと手にしなかった。
 ところが、数年前から、ぶ厚い書物をまだ多く刊行していることに気づいた。これまでの書物をまとめた全集ものかと思ってもいたが、実際に入手してみると、そうではなかった。
 安本美典、1934年~。もう80歳を超えている。そして、上の書物は今年7月の刊行。
 すさまじい精神力と健康さだと思われる。
 この人の本を立てて並べてだけで、2メートルほどの幅になるのではないか。
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 西尾幹二・全集第20巻-江戸のダイナミズム(国書刊行会、2017.04)。
 この本の巻末に、江戸のダイナミズム・原書(文藝春秋、2007)の出版を祝う会の叙述があり(なお、2007年!、としておこう)、その中に「安本美典」の返信文も掲載されている。
 安本美典と西尾幹二は、刊行本を交換し合うような程度の交際はあったらしい。ある程度は「畑」が違うので、西尾の本で安本の名を見て、興味深く思った。
 西尾幹二、1935年~。 
 お二人とも、すごいものだ。
 秋月瑛二は80歳まで絶対に生きられないと決めて(?)いるので、異なる世界に住んでおられるようだ。いくら「信念」があっても、いくら「根性」があっても、致し方ないことはある。

1690/産経新聞8/4社説の「憲法改正」という大ウソ。

 1000万人程度の人はダマされている可能性がある。
 産経新聞8/4社説が前提とする九条二項存置・自衛隊明記は「改憲」だというウソによっても。
 大手新聞社の一つと「日本会議」派によって。恐ろしい。デマだ。
 「憲法改正」について「首相の決意を改めて問いたい。首相と自民党は、改正案の策定や有権者との積極的な対話を通じ、改正への機運を高めてほしい」。
 と産経新聞8/4社説は叫ぶ。
 すでに社説で支持したから、後戻りはできない。伊藤哲夫・櫻井よしこら「日本会議」派が背後にあるとすると、今さら撤退できない。
 と考えてしまうのも、「商売」として、分からなくもない。
 しかし、九条二項存置のままでの、同三項又は九条の二新設による<自衛隊明記>は、本当に「改憲」・「憲法改正」なのか???
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 形の上ではそのようにも思える。
 読売新聞紙上で橋下徹が支持するようなことを発言していたので、秋月瑛二も改憲として「成り立つ」案と考えてしまった。産経新聞や、決定的には「日本会議」派の主張内容を、よく知らなかった。櫻井よしこのアホで奇妙な?論理の方に気が向いてしまった。
 集団的自衛権の行使を認めた2015年平和安全法制の基礎の憲法解釈のエッセンスを明文化するもののように、誤解していた。
 そのような程度の<高尚>さも<高潔>さも、まるでないことが分かった。ただ、<卑しい>。
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 ①「自衛隊」という語をたんに明記したところで、二項があるかぎりは、「戦力」との区別という解釈問題はそのまま残したままになるのであり、何の意味もない。
 ②「自衛隊」という憲法上の新概念が、いまの・現実の「自衛隊」を意味する・表現することになるのでは、全くない。
 ③かりに「自衛隊」という語・概念を使わなくとも、存置される二項との関係で、あるいは二項が残るかぎりは、その組織・機構は、憲法上は「軍その他の戦力」に絶対になりえない。憲法二項が「軍その他の戦力」の不保有をそれこそ<明記>しているからだ。
 ④したがってまた、<二項存置・自衛隊明記>という案は、条文自体を作ることがおそらくは絶対に不可能だと、考えられる。「おそらくは」と限定したが、修辞であって、間違いなく作れない。
 さらに追記する。<かぎりなく軍に近い自衛隊>、<実質的に戦力であるような自衛隊>関係条項を目指すのは結構だが、二項があるかぎりは、絶対に「軍その他戦力」にはなり得ない。パーフェクトになり得ない。また、<かぎりなく…>、<実質的に…>とするために、どうぞ条文案を作っていただきたい。間違いなく、不可能だ、と断言してよい。
 以上は、この数日間に書いたものも参照していただきたい。   
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 産経新聞(社)は「改憲」支持のようだ。秋月瑛二も支持だ
 憲法九条を何とかしたい。二項を削除して、日本が当たり前の国家になってほしい。
 「天皇」とともに、憲法九条・これに関する憲法改正の問題は、個人的にはとっくにカタがついていて、わざわざ論じるまでもない。個人的には、もはや主要な関心事ですらない。
 しかし、錯覚と幻想を与える議論が一部に、あるいは産経新聞や月刊正論(産経)等々で少なくとも1000万人程度にはまき散らされているかと想うと、さらには、一国の総理大臣たる自民党総裁が、<つながりのある>団体又は個人からの示唆によって錯覚と幻想を与えるような議論をさらに拡大している可能性があると想うと、黙ってはおれない。
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 産経新聞が支持する、いったんは安倍晋三が「問題提起として」?語ったかもしれない案は、上記のとおり、「改憲」案ではないし、そもそも成立・実施不可能な案だ。
 西尾幹二が安倍案を<保守への裏切り>としたのは、正当だ。保守は櫻井よしこや日本会議だけでない、としたのも正当だ。
 三浦瑠璃が、憲法解釈上の問題に、読んだ中では最も適確に、立ち入っていると思える。この人のブログ5/4。
 「9条1項2項をそのままに、自衛隊を明記したとしてもこの問題は解決し」ない。/
 「『戦力』ではないところの『自衛隊』とはいったい何なのか」。/
  この「頓珍漢な議論」が温存されてしまう。//紹介、終わり。
 <「戦力」ではないところの「自衛隊」、とはいったい何なのか。
 <「戦力」ではない「自衛隊」を「憲法に明記」する、とはいったい何のことなのか。
 文学的?にではなく、真摯に考察しなければならない。
 産経新聞(社)もまたきっと、ダマされていて、錯覚に陥っている。
 その加害者は、犯人は、いま知り得るかぎりで、「日本会議」役員の伊藤哲夫だ。
 「日本会議」が、日本国民をダマそうとしている。
 櫻井よしこも、産経新聞(社)も「付和雷同」。「日本会議」代表の田久保忠衛はお飾りなので、子細は知らないままで、これまた追従している。櫻井よしこは、そして櫻井=田久保共同代表の<美しい日本の憲法をつくる会>は、広告部隊・運動部隊になっている。

 支持・反対を<政治的に>捉えてはいけない。
 正確にいうと、あらゆる言論や文章は多少とも<政治性>を帯びるとすれば、その<政治性>の色をきわめて濃くして、判断してはいけない。
 「日本会議」の案だからとか、安倍総裁の案だから、とかの理由で支持を決めてしまうのは<きわめて政治的だ>。
 「日本会議」の案だからとか、安倍総裁の案だから、とかの理由でただちに反対するのも<きわめて政治的だ>。
 秋月瑛二は、そんなことはするつもりはない。
 九条に限っても、「改憲」一般・「改憲」それ自体に反対はしないし、むしろ積極的に賛成する(これまでにさんざん書いてきている)。
 しかし、いまの産経新聞支持の<改憲案>・<改憲への道筋>なるものは、幻影だ。
 しかも、ふつうの、まともな九条論を抑止するという意味で、弊害の方が多く、その意味で<犯罪的>だ。
 日本共産党の「別働隊」としての産経新聞・「日本会議」というテーマで、また書く。
 さらに、心づもりはあっても書けなくなってしまうことがしばしばあるので、痕跡を残しておく。-<文学部的保守>が、日本を決定的に悪くした
 池田信夫の<文学部廃止>論、<人文社会系学部(原則)廃止論>に、その基本趣旨に、大賛成だ。

1677/小林よしのり・安倍晋三改憲案と産経新聞。

 小林よしりんこと小林よしのりが、いや小林よしのりことヨシリンだったか、7/28付ブログで(また)面白いことを言っている。
 ①今年5月の安倍晋三改憲案は「ウルトラ欺瞞であって、左翼に媚びた加憲だ」。「『戦後レジームの完成』、自衛隊が永遠に軍隊になれない、盤石な左翼国家の誕生になるからだ」。「アメリカの永久属国憲法になる」からだ。
 ②「本来、社民党の福島瑞穂」らが出すべきもので、そうだったら「猛反対するくせに、安倍晋三が出したら大賛成する」産経新聞は「極左大転向というニュースになっていいくらいだ」。
 まず、①について。なかなか、やはり鋭い。
 秋月瑛二は安倍案は改憲案として「成り立つ」とまず書いた。従来にまるで想定されていなかったとみられる案だったからだ。
 しかし、当然に「成り立つ」と<賛成する>は意味が違うので、いったんネットに載せたあとすみやかに、従来からの現九条2項削除・自衛隊の「軍・戦力」化(<軍・戦力保持)の明記案も「当然に成り立つ」と追記して書いた。
 では安倍案を支持するのかしないのかについては、明言を避けた。
 それは、誰からもこの問題について質問されるような立場にないからだ。秋月瑛二は海底棲息の無名の庶民なのだ。
 だが、どちらにせよ、国民投票に架けられれば、賛成票を投じるだろうとは、思ってきた。どちらにせよ、改憲投票を失敗させるわけにはいかないだろう。
 それに、安倍晋三新案と従前の自民党案を比べての長所・欠点を、政治的なリスクの大小、国民投票で可決の可能性の大小等を含めて、十分に理解しているつもりだからだ。
 上の小林よしのりコメントも、よく分かる。
 永遠にではないにしても、「軍その他の戦力」を憲法上保持しないとする法状態をさらに長く継続させるだろうことに間違いはない、と思われる。
 一方での自衛隊合憲化という意味も、決定的に大きいわけでは全くない。なぜなら、現在において国会も、最高裁判所も自衛隊を「違憲」視していない。国家の実務解釈は自衛隊も合憲であるとしているので、わざわざ国民投票の論点にするまでもない。否決されるというリスクがあることは、読売新聞紙上で棟居快行(むねすえ・としゆき)も指摘していた。2015年の国会での平和安全法制成立について、国民の意思を再度問うようなものでもあるからだ。
 <自衛隊は違憲>とする憲法学者が多い、では十分な理由にならない。憲法学界という<魔境・秘境>の存在を重視しすぎてはいけない。
 もっと他のことを、安倍晋三も言ったはずだ。
 西尾幹二は、安倍晋三案に反対だと明言した。従来の<保守>に対する裏切りではないか、という旨だ。
 この欄に記してきていないが、つぎの二人も、安倍晋三5月九条改憲案に反対だ。
 宮崎哲哉、三浦瑠璃。
 よしりんと西尾幹二を加えると、こうなる。
 宮崎哲哉、三浦瑠璃、小林よしのり、西尾幹二。
つぎに、②について。
安倍晋三案と同じ趣旨のものを社民党等の「左翼」あるいは九条護持派の者が用意していたか、想定していたか、は不明だ。九条を「いじる」ようなことを考えていなかったのではないか。
 また、九条護持派は、正確には少なくとも、A・自衛隊自体が違憲、B・自衛隊自体は違憲ではないが集団的自衛権行使容認は違憲、の二つに分かれる。
 日本共産党の本来の立場、そして党員憲法学者である小沢隆一も明言していたのは、Aだ。一方、非党員・非日本共産党の長谷部恭男はBだ。
 したがって、これらをごっちゃにしてはいけない(小林に言っているのでない)。
 そして、社民党の立場を正確には知らないが、福島瑞穂らもまた日本共産党と同じくAだろう。
 そうすると、「社民党の福島瑞穂」らが提案しそうにはないものと思われる。
 「左翼」、「極左」は思いつかないのが、今回の安倍晋三案ではないか。
 興味深いのはやはり、よしりんイヤ小林よしのりが指摘する、産経新聞の主張だ。
 「何としたたかな男か」とまで書き、本来ならば自分自身の九条2項解釈とは矛盾する(つまりは現憲法と矛盾し、その矛盾する条項を残したままでの)安倍晋三案を「現実的」だとすみやかに支持した、アホとしか思えない「評論家」、「特定保守」運動家がいた。
 櫻井よしこ、だ。
 その後、産経新聞も、社説で支持することを明言した。
 櫻井よしこ、産経新聞が支持していること、「日本会議」役員・幹部ではないとしても伊藤哲夫も支持していること、むしろ伊藤哲夫による示唆の影響を安倍晋三は受けたという説もあることからすると、分かることがある。
 さらには、安倍晋三・自民党総裁のビデオ・メッセージは、櫻井よしこらが代表をしている<美しい日本の憲法をつくる会>らが組織する大会・会議で流されたもののはずだ。
 つまり、「日本会議」が安倍晋三案を支えている。
 この「日本会議」関係者の誰がかは分からない。しかし、誰かだ、またはグループだ。潮匡人が加わっているのかどうか。潮匡人もまたも産経新聞、月刊正論グループにあり、親「日本会議」派だろうと推測される。
 つまり、いまの時点で秋月瑛二が知ることができる、安倍晋三案支持者は、以下。
 櫻井よしこ、伊藤哲夫、産経新聞。(そして、おそらく「日本会議」)。
 月刊正論等をきちんと読めば、もっと人名を挙げられるかもしれない。
 よしりん、イヤ小林よしのりが言うように安倍晋三案が「左翼」または「極左」のものならば、櫻井よしこ、伊藤哲夫、産経新聞、そしておそらく「日本会議」は、全て「左翼」または「極左」化した、ということになる。
 但し、前提は違うだろうとは、上に書いた。
 むろん「左翼」・「極左」ではないからよい、ということには、当然にならない。
 目立つのは、一部にある<安倍晋三にくっ付いていきます>絶対主義の横行だ。
 櫻井よしこは「民進党の倒閣運動」を批判したいようだが、野党というのはつねに「倒閣」を目指すものだ。
 ここでは立ち入らないが、民進党がずさんであるとして、では安倍晋三・安倍昭恵、自民党らにこれっぽっちも問題はなかったのか、は冷静に見ておく必要がある。「日本会議」という背景こそを世論は嫌悪した可能性がほんの少しはあるだろうことに、ほんの少しは気づいているだろうか?
 ついさっき、L・コワコフスキの英語本の「試訳」を文章化していた。
 興味深い言葉の並びがあった。櫻井よしこをはじめとする、「日本会議」派のみなさんに、贈呈しよう。 
 「…は、大量の立身出世主義者(careerists)、寄生者(parasites)、追従者(sycophants)を吸い込んだ」。

1668/中西輝政と西尾幹二③。

 「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」。
 以上、中西輝政・歴史通2016年5月号(ワック)、p.96-97。
 人間は生物として個体保存本能があるので、その本性上、「保身」は当然だ。
 何から何を守ろうとするのか。守りたいのは、日本国家か日本人か、自民党か安倍政権か、自分の「顕名」か経済的な利益か、それとも自分の肉体的な生存か。
 何から、守るのか。
 「迎合」して仲良くやっていかないと、この世を安逸に過ごすことはできない。
 誰と、いったい何に「迎合」するのか、その目的は何なのか。と質していくと、「保身」と似たようなことになる。
 「付和雷同」と「迎合」はほとんど同じ意味だろうが、前者の方が意思がなく機械的に追随しているが、後者の「迎合」は少しは意思または選択を混ぜているようだ。
 どちらにせよ、「空気」を読まないといけないし、それで「付和雷同」とか「迎合」とか非難?されるのだとすると、そして「空気」を全く読まないでいると今度は、一人勝手、協調性がないとか、また非難される。
 とかく処世はむつかしい。
 しかし、中西輝政についてよく分からないのは、つぎのようなことだ。
 中西は、「さらば、安倍晋三」と固有名詞を出して、安心して?批判している。
 では、なぜ、「保守派のオピニオン・リーダーたちが八月の『七十年談話』を、しっかり批判しておけば、安倍首相は十二月のあの慰安婦合意に至ることはなかったであろう」とか、「この半年間、私が最も大きな衝撃を受けたのは、心ある日本の保守派とりわけ、そのオピニオン・リーダーたる人々」が「…に対し、ひたすら沈黙を守るか、逆に称賛までして、全く意味のある批判や反論の挙に出ないことだった」とだけしか書かないのか。
 ここにいう心ある?「保守派」のオピニオン・リーダー(たち、たる人々)とは一体、誰々らのことなのか?
 西尾幹二、伊藤隆ら少数?を除く、櫻井よしこ、平川祐弘、渡部昇一ら多数?と、なぜ固有名詞、人名を明記して批判しなかったのだろうか。
 じつはここにも「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景」あるいは、日本の腐った?論壇の「心象風景」が覗かせているのではないか。
 中西輝政もまた、「保身」から自由ではない、というべきだろう。
 なぜ、首相の名前は明記することができるのに、「保守派のオピニオンリーダ-」についてはできないのか。素朴な無名の国民、読者には、さっぱり分からない。
 中西輝政の憤懣は、2015年安倍内閣戦後70年談話に先立つ公式の「有識者懇談会」で、自分の見解、意見が軽視されたという、つまりは<馬鹿にされた>という、個人的な契機によるところも大なのではないか。 
 もちろん、櫻井よしこ、平川祐弘、渡部昇一といった(私の言った「アホの5人組」の中の3人とまた合致する)安倍談話積極擁護論者よりも遙かに優れている。
 しかし、誰も、綺麗事、理論・理屈だけでは行動していないし、文章を執筆してもいない。中西輝政先生もまた、「人間」だ。この人は、この事件?があるまでは、けっこう<日本会議>派と仲良くしていたのだ。
 (いかなる組織・個人からも「自由」な秋月瑛二は、「迎合」・「付和雷同」の気分が100%ないし、当たり前のごとく「保身」の意味すらない。)
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 西尾幹二・月刊正論2015年11月号(産経)、p.83-84。
 上の部分に限りはするが、ここでの「大局的な」歴史叙述は、文章が短い、文字数が少ないということだけに原因があるのではない、<誤り>があると、よく読むと感じる。
 典型的には、以下のように理解できる叙述。
 「西欧が創りだしたイデオロギー」の「根はただ一つ、フランス革命思想に端を発している」。p.83。
 左翼・共産主義者と違って<フランス革命>を相対化したい「保守派」が多い。坂本多加雄にもその気配があるとつい今日に感じた。それはよいとして、上のようにフランス革命を見て、その中に、①ファシズム、②共産主義、③アメリカ・イギリス・フランス・ベルギー・オランダといった、レーニンのいう「民主主義」イデオロギーないし「白人文明覇権思想」、の三つ全ての「根」を見る、というのはかなり乱暴だろう。
 なお、③は、秋月瑛二のいう<欧米近代なるもの>あるいは<(近代欧米的)自由・民主主義>だ。
 鋭く知識豊富な西尾幹二の文章にしては、イギリス(スコットランド)・バークの「保守」思想がフランス革命思想と別の系譜を作ったとみられることや、決定的には、マルクス(・エンゲルス)思想の影響力の大きさへの言及が欠けている。後者は、「レーニン」や「共産主義」への言及で足りると判断されているのだろうか。
 いかんせん、思想・イデオロギーの「系譜」を論じるのは乱暴な試みではある。しかし、常識?に反して、フランス革命-マルクス-レーニン・スターリンの「共産主義」および(かつ)ヒトラー等「ファシズム」という把握も、あり得る。かつまた、フランス革命だけが「欧米近代」の「根」なのか。

1660/「日本会議」と日本の保守と安倍一強政治・仮説。

 以下は、仮説だ。
 第一。のちに事務総長となる椛島有三等々は、日本の<保守>運動の主導権を握られるのを怖れて、<新しい歴史教科書をつくる会>設立後に追いかけるように(?)「日本会議」を発足させた。1997年のこと。歴史教科書問題に限らない、という自負が「日本会議」という名称にはあるのかもしれない。
 その当時に<保守>側の民間運動の中心または有力部隊とも見られたかもしれない<新しい歴史教科書をつくる会>に対するヤッカミ、自分たちのそれまでの運動に対するアセリがあった。
 第一の2。事務総長・椛島有三の「日本会議」は、それまでは表向きは併存しかつ協力とているように見えた<新しい歴史教科書をつくる会>を弱体化させることを、最終的に2006年頃には企んだ。
 その工作(?)の有力な対象になったのが、八木秀次だ。
 その際の口説き?文句は、藤岡信勝はニッキョー、つまり元共産党党員だぞ、という脅かし、又は警告だ。
 上の一文については、別途触れたい。
 これにより実際に、分裂した。
 この分裂に加担した「政治屋」の一人は、屋山太郎。平然と片方に同調したのが、渡部昇一。
 <採算>とかを理由にして、「日本会議」側を応援したのが、産経新聞社
 産経新聞-扶桑社、そして分裂した他方の側を出版しているその子会社の育鵬社
 産経新聞社は「商売」として、どちらを選ぶかを判断した。むろん、椛島有三らからの働きかけもあった。決して、<美しい>話ではないし、<単純な経営判断>ではない。
 この分裂頃を最終的な契機として、櫻井よしこは「日本会議」側に明確に立つ。そして、2000年頃のこの人の評論・論評とは異なるスタンスの文章がめっきりと増えるようになり、現在に至る。
 2007年12月、国家基本問題研究所設立、櫻井よしこが理事長
 なお、この直前、2007年秋に、安倍晋三第一次内閣が崩壊。
 中西輝政も、どちらかというと、「日本会議」の側に傾斜。いつか記したが、「日本会議」系の書物を出している。この点で、西尾幹二、藤岡信勝とまるで異なる
 2007年4月刊行の椛島有三の書の<主要参照文献>が、中西輝政、渡部昇一らの本を複数挙げつつ、西尾幹二、藤岡信勝の著を全て無視していることは、すでに記した。
 以上の経緯からしても、産経新聞、月刊正論(産経)がなぜ(たいしたことを書いていないのに)八木秀次を重用しているかも理解できる。
 月刊正論編集部には<八木秀次と○○は大切に>との旨の伝言文書があるのだろう。いや、そんなことは酒席でも引き継げるのかもしれない。
 しかし、ときどきは?、月刊正論に西尾幹二や藤岡信勝を登場させて、<単色ではない>旨を宣伝するために利用する。
 花田紀凱やワック社は、もちろん「商売」、雑誌販売のために櫻井よしこ、渡部昇一あるいは「日本会議」系の人々を利用してきた。いや、持ちつ、もたれつ。国家基本問題「研究所」の評議員とやらにも名を連ねる。
 レーニン関係英語書を見ているおかげで、disguise (偽装する)とか pretend (ふりをする)という言葉に慣れた。あるいは、propaganda (情報宣伝、虚偽情報宣伝、扇動)も。
 以上の「人間的な」ことよりも本来は大切なことだが、「日本会議」は決定的に<反共産主義>性が弱い、または薄い
 このことは大きく、かつ決定的に、日本の<保守>にとっての弊害になっている。
 この点は何度でも触れなければならない。じっくりと、渡部恒雄や水野成夫(二人とも日本共産党の党員経験あり)も含めて、日本の「左翼」をたどってみる必要もある。後者は、フジ・産経グループの祖。
 そして、西尾幹二や藤岡信勝の今日もまた、この「日本会議」史観?にある程度は(彼らの考える「保守」の範囲内で)ある程度は引き摺られている。
 なぜこう書くかというと、1990年代半ば、つまり「つくる会」設立前後あたりの方が、この二人の<反共産主義性>の論調は強かったように感じる。
 とはいえ、まだ櫻井よしこ、渡部昇一、平川祐弘らの<単純民族系>に比べると、はるかにマシなのだが。
 <愛国>は健全なナショナリズムの意味では、当たり前のことで、反・左翼というだけならば、ほとんど意味はない。天皇制度についてはこれまでも触れたし、また触れるだろう。貴重で偉大だったとかりにすれば、日本人が偉大だったのだ。かつ、<日本人は偉大だ>などと殊更に言い募る必要もない。
 この人たち、つまり椛島有三、伊藤哲夫、櫻井よしこらは、日本「民族」の誇り・矜恃を持ちたいだけで、「共産主義」などには理論的にも実践的にも関心が乏しいのではないか
 日ロ戦争後に「五大国と言われるまでになった」とか、戦後に「経済大国」と称されるようになった、というのは、殊の外、この人たちの自尊心?を満足させているように見える。
 しかし、「経済大国」にも俗にいう「光と影」があったのだ。もちろん戦前の「五大国」の一つにも。
 第二。安倍一強政権と言われるほどに(つい最近までは、だが)なって、「日本会議」派は、それを支えてるのはオレたちだ、と主張したくなったのではなかろうか。
 「日本会議」関係国会議員連盟とかがあるらしい。安倍内閣の閣僚のうち、我々と親しい関係のある大臣がこれだけいますと、誇りたくなったのではないか? むろん、稲田朋美もその一人。小池百合子はどうも違ったようだ。産経や月刊正論等の扱いで却って分かるのだが。
 もちろん、国会議員・政治家もまた(安倍晋三もだが)、「日本会議」をそれなりに利用している。その背景にある何百万?、何十万?世帯会員、あるいは産経新聞定期購読者は貴重でかつ固い「票」だ。「日本会議」と神道政治連盟はきっと深く関係がある。神社・神道は私の「心のふるさと」の一つなのに。
 急に「日本会議」批判本がたくさん出るようになったのは、2016年くらいからだろう。
 背景には、安倍一強政治の背景への関心もあっただろうし、安倍晋三に「ネオ・ナチ」とレッテルを貼り、「日本会議」にも系譜的に論及した不破哲三・月刊前衛掲載論考もあった。
 間違いなく、日本共産党の党員の評論家類(青木理、俵義文ら)はそれに沿って動いた。
 しかし、仮説として、また推測として言うのだが、「日本会議」の名前を、その事務総長の存在等々も、以前よりも広く知ってほしくになった者たちが、<左翼>系ジャーナリスト等に(日本共産党の党員であっても)情報を流したのではあるまいか。
 菅野完あたりは、手頃な対象者になりそうだ。菅野の本の出版元は、扶桑社。
 <油断>すると、あるいは<傲慢>になると、そんなことくらいはしそうな人々がいそうに思える
 表向きの新聞やテレビなどは産経新聞も含めて(朝日新聞らはむろんだが)それぞれに<角度が付いて>いる。
 当たり前のことだが、「日本会議」もまた、<謀略・策略>をする団体でもある。
 何らかの意図をもって(全て広義では「政治的意図」だ)働きかけたり、情報宣伝をしたり等をするのは、全て<謀略・策略>でもあると、純真すぎる傾向のあるやにも見える日本人は意識しておく必要がある。
 以上、すべて、仮説、推測。こんな投稿は、真面目に?これまでしたことがなく、きちんと根拠文献を挙げる、という姿勢でずっときたのだが、無名のこんなブログ欄に、この程度のことを記しても、きっと許されるだろう。

1658/中西輝政と西尾幹二②。

 中西輝政・歴史通2016年5月号(ワック)。
 「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」。
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 「共産主義は当時からアジアの平和をかき乱す最大の要因だったわけです。それをなぜ、懇談会報告書は無視したのか」。「中国共産党への迎合ではないか」。p.75。
 「歴史問題には、戦後日本が抱え続けてきた『闇』が伏在しているように思えてな」らない。p.76。
 「ロシア革命の1917年ごろから、日本は共産主義の悪しき影響を受け続けてきた」。p.77。
 「戦後日本の政治経済のエスタブリッシュメントが日米関係を最重視する特定の歴史観を『オーソドクシーとして動かさないぞ』という、非常に強い意志がある…」。p.78。
 以上、中西輝政・月刊正論2015年11月号(産経)。
 「20世紀は、四つの大きなイデオロギーに支配された世紀でした」。①ファシズム、②共産主義、③「白人文明覇権思想」、④「アジア主義」。日本の④が「イデオロギーとしては最も貧弱」。20世紀はあとの三つ、「つまり西欧が創り出したイデオロギーによって攪拌された」。p.83。
 「それらの根はただ一つ、フランス革命に端を発して」おり、「アメリカのフェデラリズム」と「ソビエトの革命思想」に流れるものの二つがあった。「それに対するアンチ・フランス革命の思想としてナチズムが生まれた」。p.83。
 「そういう思想どうしの戦い」、「 いわば西洋の『内戦』に日本は否応なく参戦させられた」。中国も「参戦」した。中国は共産主義の側に立ち、日本は「欧米帝国主義に最も近いようでいて、実際にはどれにも属さない形で、西洋の価値観との争いのボーダー上のに自らを置いて歴史を刻んできた」。p.84。
 20世紀の日本には「この三つのイデオロギーが全て入ってき」たが、「どのいずれにも徹底的に属することはしなかった」。常に「どこにも所属しない孤独の中にあった」が、「そういう自己像を、当の日本人自身が把握しきれていない。そこに今日の混乱の根がある」。
 以上、西尾幹二・月刊正論2015年11月号(産経)。
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 少しばかりのコメント。①中西輝政のいう「戦後日本の政治経済のエスタブリッシュメント」なるものがきわめて気になる。読売新聞社も、産経新聞社(フジ・産経グループ)もその中に入っているのではないか。
 ②西尾幹二の歴史把握は鋭いだろうが、分類・系統化に全て賛同するものではない。

1654/中西輝政と西尾幹二。

 相対的にはマシかもしれない西尾幹二や中西輝政も、所詮は自らの「名誉」を気にしながら生きてきていて、秋月瑛二のような無名の庶民には理解できない感覚を持っているのではないかと思ってきている。
 日本の「保守」もまた、このような人たちによって支えられているのではないように思える。
 櫻井よしこや「日本会議」派はむしろ弊害になっている。良識的な人々が「保守」思想に近づくことを阻んでいる。こんなのが「保守」なら、絶対に支持しない、と。
 「保守」系雑誌などにはいっさい登場しない論者たちや、「保守」などとは自称しない無名の多数の人たちの中にこそ、本当の「保守」的な人々はいるのではないか。
 ほんの一年余り前の文章、お二人はきちんと記憶されているだろうか。
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 安倍内閣戦後70年談話(2015)を批判しないで「沈黙している保守系のジャーナリストや評論家の多く」に「何か不純な政治的動機」があるとしたら、「まさしく『政治に譲った歴史認識』の最たるもの」だ。/
 「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」。以上p.96-p.97。
 「保守派のオピニオン・リーダーたちが八月の『七十年談話』を、しっかり批判しておけば、安倍首相は十二月のあの慰安婦合意に至ることはなかったであろう」。p.101。
 「この半年間、私が最も大きな衝撃を受けたのは、心ある日本の保守派とりわけ、そのオピニオン・リーダーたる人々」が「安倍政権の歴史認識をめぐる問題に対し、ひたすら沈黙を守るか、逆に称賛までして、全く意味のある批判や反論の挙に出ないことだった」。p.109。
 以上、中西輝政「さらば安倍晋三、もはやこれまで」歴史通2016年5月号(ワック)。
 「九〇年代に日本の名誉を守るために一生懸命調査し議論し論証を重ねてきた人たちは、悲しみが身に染みているに違いない。/
 あのときの論争は何だったのか、という言論のむなしさをひたすら痛恨の思いで振り返らざるを得ないであろう」。p.75。
 「私は本誌『月刊正論』を含む日本の保守言論界は、安倍首相にさんざん利用されっぱなしできているのではないか、という認識を次第に強く持ち始めている。/
 言論界内部においてそうした自己懐疑や自己批判がないのを非常に遺憾に思っている」。p.77。
 以上、西尾幹二「日韓合意、早くも到来した悪夢」月刊正論2016年3月号(産経)。

1637/「日本会議」事務総長・椛島有三著の研究③。

 椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 一 この本の最終頁はp.219で、もともと長くはない。
 しかし、1頁に横14行、縦36字(14×36)の504文字しか詰まらない作り方をしているので(つまり一つの活字文字が大きいので)、1頁あたりの文字数だけ比ると同年7月刊行の西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店)の2/3以下程度しかない。
 したがって、かりにこれと同様の文字数を詰め込むと、最終頁のp.219というのは、じつはp.140からp.150になってしまう。厚さ・外観だけでいうと、かなりの<上げ底>だ。
 二 p.212以下にある、「主要参考資料」の数の多さも目を惹く。
 A<日本人著作関係>が85(冊)、B<外国人著作関係>が34(うち全て英語の原書が11)(冊)、C<論文関係ほか>が、14(件)。計、133件。かつまた、本文の内容との関係は不明なままだ。
 以上は、すでに書いたことの要旨。
 三 何と言っても際立つのが、ある意味では目を剥くのは、この「主要参考資料」に記載されている書物類の著者についての<差別>だ。もう少し各著者について調べてからと思っていたが、とりあえず分かることだけでも記しておこう。
 すでに別のテーマの際に簡単に記したが、①西尾幹二、藤岡信勝のものは、一つもない。一冊も「参考資料」とされていない。
 ②これに対して、中西輝政のものは、堂々とある。
 A/中西輝政・国民の文明史(2003)。
 B/中西輝政・日本文明の興廃(2006)。
 このうちAは、西尾幹二・国民の歴史(1999)のいわば姉妹書のようなものだ。ともに産経新聞社刊行であるとともに、末尾に「新しい歴史教科書をつくる会」の役員名簿が記載されているなど、個人著だが同時に1997年に正式発足の「つくる会」の企画?にもとづいてもいるようだ。
 要するに、この会の「運動」の一つとしても位置づけられるものだったのではないか。
 あらためて確認すると、「編・新しい教科書をつくる会」と、きちんと表紙に記載されていた。
 同じ性質の、同じく日本の歴史全体に関する書物だ。
 しかし、○中西輝政、×西尾幹二。これが歴然としている。なぜか?
 C/西尾幹二=中西輝政・日本文明の主張-『国民の歴史』の衝撃(PHP、2000)。
 これはどうか。西尾著の『国民の歴史』刊行の翌年の二人の対談本。内容は、中西輝政の上のA・Bに相当に重なる(主題がとの意味で、同じ文章があるとの趣旨でない)。
 だが、おそらくきっと、西尾幹二の名があるからだろう。これは×。
 本来のテーマから逸れるが、ここで以下を付記しておく。
 2007年以降にいずれかまで、「日本会議」・椛島有三と中西輝政と関係は良好?だったようで、つぎの二つの著を確認できる。
 D/小堀桂一郎=中西輝政・歴史の書換えが始まった!-コミンテルンと昭和期の真相(明成社、2007.10=<日本の息吹ブックレット>)。「日本の息吹」とは日本会議機関誌(月刊)。
 E/中西輝政・日本会議編・日本人として知っておきたい皇室のこと(PHP、2008.11)。
 2015年安倍内閣戦後70年談話への反応内容等、西尾幹二と中西輝政の二人は「かなり近い」と感じていたが、かつての、こうした<待遇?>の違いは、なぜ?
 なお、DもEも上記椛島有三著の刊行後のもので、当然に<参考資料>には入っていない。
 ③西尾幹二や藤岡信勝の書物がいっさいなくて、なぜこの人等のこの著は記載されるのか、と奇妙に感じるものがある。
 ・加藤陽子・戦争の日本近現代史(2002)。
 ・田原総一朗・日本の戦争(2000)
 その他、朝日新聞社刊のつぎの二つもある。
 ・草柳大蔵・実録満鉄調査部/上・下(1983、朝日新聞社)。
 ・日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編・太平洋戦争への道/1~7(1987、朝日新聞社)。
 自分の理解・主張を支えるものだけでなく、反対のものも挙げられて当然なのだが、そうすると、<日本帝国主義>、<日本の侵略>に関する膨大な日本の「左翼」の書物を挙げる必要がある。上の4つは、椛島有三において、どういう位置づけなのか?
 こんなのもある。
 ・佐藤優・日米開戦の真実(2006)。
 記載されているつぎの本は「大東亜戦争」に関係があったのか、確かめてみたい。
 ・百地章・政教分離とは何か(1997)。
 また、さすがに?、渡部昇一著3冊、渡部昇一編著1冊も堂々と?日本文献の最後にある。
 どう書いてもはっきりしているのは、つぎのことだ。
 西尾幹二、藤岡信勝の著がいっさいない。無視されている。排除されている。
 もともと、多数の「参考資料」をどのように生かしたのかは定かでない、とすでに書いた。したがって、ほとんど<推薦図書>なのではないか、とも書いた。
 そうすると、加藤陽子や田原総一朗の位置づけに読者としては迷うけれども。
 しかし、ともあれ、西尾幹二、藤岡信勝の著がいっさいない、排除されているのは、不思議だ。そして、奇妙だ。
 何らかの<意図>があるに違いない、と考えて当然だ。
 <公平さ>などよりも<政治的判断>を優先する。これ自体を批判するつもりはない。「日本会議」事務総長の本なのだから。
 「日本会議」事務総長の、2007年という時期の本。2007年に、何があったか?

1633/明治維新③-櫻井よしこと五箇条誓文・「日本会議」。

 「十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値観が国家なのです。」2007年5月。
 「十七条の憲法」は、「明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布した五箇条の御誓文の内容と重なっています。」2017年3月。
 以上、いずれも、櫻井よしこ
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 以下、①明治維新にも、②<日本会議>研究にも、③日本の「保守」の「2007年」(明記しないが西尾幹二・中西輝政らを含む)にも、全てかかわる。関心の基盤に、共通するところがあるからだ。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000.05)の「第7章」は「今こそ『十七条憲法』『明治憲法』の精神に学ぶ」と題しながらも、「五箇条誓文」への言及を、「明治憲法」の基礎的理念をすでに記していたとか書いてもよさそうなのに、一切していない、ということは先に記した。
 しかし、2007年前半、この年の末にこの人は国家基本問題研究所なる団体の理事長になるが、こう書いていた。
 櫻井よしこ「日本人の価値観/取り戻せ」/東京新聞2007年5月13日付。
 「私は、国家というのは日本人の価値観の塊だと思います。日本人の価値観が国の形となって現れたものがいくつかあります。十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法。そこに現されてきた価値観が国家なのです」。 
 ここでは、日本国家という「価値観」を示す三つのうち一つとして、「五か条の御誓文」を理解している。
 そして、2017年に月刊正論3月号(産経)で、日本の「保守に求められること」を主題とする文章の中で、上の趣旨と異ならないで、櫻井よしこはこう書いた。
 「日本が自らの価値観を鮮やかに打ち出した十七条の憲法は、…明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布した五箇条の御誓文の内容と重なっています。」
 その直後にまた、こう続ける。
 「五箇条の御誓文は一人一人の国民への信頼を基本にして成り立っている点で、民主主義そのものです。」
 この後の文の「民主主義」理解は、<ああ恥ずかしい、こんなに簡単に書いてしまって後世に残るのにとても気の毒だ>という感想をもつ、日本の中学生レベルの文章だろう。
 井沢元彦が「十七条の憲法」第一条の「和を以て貴しとなす」にしばしば言及して、日本と日本人の特質に言及するが、ここでいう<和>と<民主主義>は同じ意味ではないと思われる。
 井沢が指摘するのは<話し合い尊重主義>、今日的にいうと<合議主義>あるいはさらに<議会主義>に連なるもので、<民主主義>そのものではない、と私は理解している。
 民主主義とは国家意思の形成の大元を意味するので(デモクラシー、民衆政体)、国家意思の形成の細かな過程までを問題にするのではないと思われる。国民にあるいは<民衆>や<人民>に結論・基本方向が支持されていれば、民主主義と矛盾しない(とされる。北朝鮮の国名、旧東独の国名など参照)。民主主義と議会主義は同義ではない。五箇条誓文は何を言いたかったのか ? 「公論に決すべし」とはいかなる趣旨か?
 こんな議論をしても、櫻井よしことの間に議論が成立するはずはない。
 櫻井よしこは、中学生レベルの感覚で「民主主義」という語を使っているからだ。
 再び、櫻井の月刊正論3月号の文章に戻る。そして、<五箇条誓文>がどういう脈絡で言及されているかを、確認する。
 上に引用部分のつづき。
 五箇条の御誓文は、①「広く世界に心を開くという点で国際主義です。守るべき価値観の基本は日本の国柄の中にあると強調している点で、この上なく立派な日本の国是です。…グローバル化した現代世界に住む私たちにとっての教訓でもある」。p.85。
 同四条〔旧来の陋習を破り天地の公道に基づけ〕は、②「機能しなくなった制度や価値観は捨て去り、『天地の公道』、つまり、国際社会にあまねく通用する普遍的価値観を取り入れ、その価値観に基づいて日本らしい力を発揮せよという教えです」。
 こう写していて、ああ恥ずかしいと感じてしまう。言葉・観念が、宗教言辞のごとく固まりつつ、どのようなものにも取り憑くことができるように泳いでいる。
 また、明治維新理解も、怪しい。
 上に引用のように五箇条誓文を「明治新政府樹立に際して先人たちが真っ先に発布」したものとするが、厳密にはいつの時点を「明治新政府樹立」と理解しているのかどうか。
 また、ここでは「機能しなくなった制度や価値観は捨て去り…」というが、「機能しなくなった制度や価値観」とはいったい何のことか。
 もちろん、櫻井よしこ大先生は、旧江戸(徳川)幕府の「旧来の陋習」を維持した「制度や価値観」のことを想定しているのだろう。
 しかし、こう単純には言えないことは、日本の少し真面目にこの時期を学習した日本の高校生でも知っているだろう。「機能しなくなった」単純攘夷主義に凝り固まっていたのが(ある時期・通商条約時からある時期・下関戦争頃までの)吉田松陰系の長州藩士たちだった。
 あるいは、こうも言える。「機能しなくなった」制度をやめて<大政奉還>し、新しい制度・国づくりを図ったのは徳川慶喜だった。
 ③「国民を信頼し、国民を尊重してきたのが日本の国柄であることは、五箇条の御誓文の…〔一条・二条〕にも明らかです」。p.87-88。
 これは、憲法改正に向けて国民との議論を展開すべしとの主張の中で語られている。
 それにしても、恥ずかしい。「国民を信頼し、国民を尊重してきたのが日本の国柄」だ、とそう思いたい、思い込みたい、というのはよろしい。しかし、「国民」とか「国家」とかをどういう意味で用い、また日本の歴史にいかほどに習熟したうえで語っているのだろうか。
 ④第五条の言うとおり、「日本だけに閉じこもってはなりません。世界には優れた考えや制度、価値観があります。大いに学びなさい。大いに受け入れなさい。常に柔軟に賢く対処しなさい。そして自身の鍛錬としなさいということでしょう。」p.88。
 まだ続くが、これとほぼ同じ文字数でもって、この第五条を「解釈」し、あるいはこれに基づいて、読者を(?)説教?している。
 このように④まで続けたが、最初の頁(p.84)に、十七条憲法と<五箇条誓文>の二つの「価値観」で支えられていることを認識するのが「保守の基本」だとの根本的テーゼ(?)があることもあらためて追記しておく。
 このような<五箇条誓文>観を、「日本会議」派だとされる伊藤哲夫も抱いていることはすでに記した。
 櫻井よしこも、伊藤哲夫も、明治憲法、そして明治維新(・五箇条誓文)を基本的には(櫻井にとっては全面的に?)素晴らしかった(素晴らしい)ものとして、肯定的に評価している。
 「日本会議」は、その設立文(1997年)で、次のように明確に語る。
 「明治維新に始まるアジアで最初の近代国家の建設は、この国風の輝かしい精華であった。
 明治維新以降の日本の「近代国家の建設」は「輝かしい精華」だった、と考えられている。このような基本的歴史観に立つのが、「日本会議」だ。
 (新撰組、土方歳三・沖田総司が、あるいは「偽官軍」=赤報隊等々は気の毒だなあ。中村半次郎や岡田以蔵らの「人斬り」は、いやきっと井伊直弼白昼殺戮等々も、きっと立派なことだったのだなあ。-とカゲ口も。こういう歴史観によると、孝明天皇の位置づけが困難になる、というカゲ口も。薩長史観=西南雄藩中心史観は<天皇制絶対主義>開始というマルクス主義・講座派史観や基本的に<ブルジョア革命>だったとするマルクス主義・労農派史観の裏返しのような気がするなあ、というカゲ口も。)
 上は、こう続けられる。
 「また、有史以来未曾有の敗戦に際会するも、天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄はいささかも揺らぐことなく、焦土と虚脱感の中から立ち上がった国民の営々たる努力によって、経済大国といわれるまでに発展した。」
 明治維新からは離れるが、「天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄はいささかも揺らぐことなく」、とされていること、そして、その「国柄」のもとで「経済大国といわれるまでに発展した」ことは基本的に肯定的に理解されていること、も確認しておきたい。
 これによると、<戦後レジーム>が全体として消極的・否定的に理解されていることにはならないだろう、ということを確認しておくことが重要かと思われる。
 ---
 この「日本会議」の設立の1997年、いったい何があったか(設立総会は1997年5月)。
 その一年前以内に、「新しい歴史教科書をつくる会」が発足した(総会は1997年1月)
 なお、この欄のつい前回で言及した、西尾幹二=藤岡信勝の共著は1996年に、「つくる会」発足前に、刊行された。
 要するに、「つくる会」を追いかける?ように「日本会議」が設立された。
 2005年末から「内紛」?が始まった「つくる会」は、2007年のうちに「分裂」が決定的になった。そのことは、近接した、7月刊行の西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中に書かれてある。
 この西尾著の刊行の直前に、椛島有三著が発行された。同じ年の、2007年4月
 そして、2007年12月、<国家基本問題研究所>が発足して、櫻井よしこが理事長になった(確認できないが、椛島有三が事務局長だったかと思われる)。
 この「研究」所とは、西尾幹二も藤岡信勝も関係がない。役員等をしていない。
 ついでに、椛島有三著研究③も少しだけ、以下にしておこう。
 既述のように、この本には末尾に多数の参考文献が、本の長さに比べれば不釣り合いなほどに、掲載されている。その中には、中西輝政・国民の文明史(産経、2003)等も記載されている。
 しかし、西尾幹二・国民の歴史(産経、1999)等を含む西尾幹二、および藤岡信勝の書物は、主題の<大東亜戦争>あるいは広く日本人の<歴史認識>・<歴史観>と関係があるものも多いにもかかわらず、この二人の書物は、いっさい排除されている
 1997年のこと、2007年のこと、そしてこの2007年刊行の椛島有三著の参考文献記載内容。
 これらは、偶然だとは決して思えない。どこかに、何らかの<意図>があった。
 ---より下は、今後に書きたいことの要旨または予告だ。今年は、2017年。

1632/西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断(1996)②。

 西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断-歴史教科書が危ない!(PHP文庫、2000.05/原書1996)。
 1995-96年の二人の対談を内容とするこの本で、西尾幹二は「全体主義」について-これは下記の頁ではスターリン、ヒトラー、中国を含むものとして用いられている)、とくに、「運動としての全体主義」、「きわめて能動的な運動としての全体主義」ということを指摘している。p.136。これに対比されるのは、「単なるイデオロギーではありません」ということのようだ。p.136。
 他の本にもあったような気がする。しかし、必ずしも理解しやすい指摘ではない。静態的・状態的にではなく、動態的・行動的に把握すべきとの趣旨だとは分かる。
 しかし、批判しているのでは勿論ないが、昨秋に以下のE・ノルテの本が早くにあることに気づいて、何やら納得した。
 Ernst Nolte, Die Faschistischen Bewegung (独語, 1966).
 これには、つぎの邦訳書がある。しかし、元々の書名は、<… Bewegung>、つまり、<…の運動>が正確だ。
 ドイツ現代史研究会訳・ファシズムの時代/上・下(植村出版、1972)。
 この研究会の代表格は、「訳者あとがき」によると山口定(欧州政治史、立命館大・大阪市立大)だと見られる。
 ともあれ、「ファシズム運動」よりも「ファシズムの時代」の方が、類似の「…時代」と訳せる表題のE・ノルテの書物が未邦訳であることもあり、選ばれたかに見える。
 E. Nolte, Der Faschismus in seiner Epoche(独語, 1963(Taschenbuch, 1984)). 〔ファシズムとその時代=ファシズムの時代(未邦訳)〕
 本体・内容に立ち入らないので、些細な、かつ推測しての、したがって何ら確実性のないことだが、E・ノルテの複数の書物をある程度は読んだ上で、西尾幹二はあえて上のように「運動としての…」ということを強調したかったのではないか。
 リチャード・パイプスはその1994年の著<ボルシェヴィキ体制下のロシア>=Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)でこう書いていた。試訳は、この欄の3/29付・№1473も参照。
 「1956年にカール・フリートリヒとズビグニュー・ブレジンスキーが発表した、左翼と右翼の独裁制の最初の体系的な比較もまた、歴史的分析というよりも静態的な分析を提示するものだった」。
 ソヴィエト(スターリン?)、ナチスおよびイタリア・ファシズムには共通性がある、つまり一括りできるとたぶん戦後早くに指摘したのだったが、上のごとく「静態的な分析」だとも見られた。
 読まないままで言うのだが、西尾幹二は上記のように、あえて「運動」性を強調している。おそらくは、リチャード・パイプスの上の書物を読んではいない(たぶん、E・ノルテのものは見ている)。
 些細かもしれない情報源探しを、もう一つする。
 西尾幹二は、上の本では(まだ)発見できなかったが、何度か、世界大戦、とりわけ第一次の世界大戦について、ヨーロッパ(欧州)の「内戦」だった、と指摘している。
 この点が重要な論点として選ばれて、指摘されているわけではない。しかし、複数回にわたると、読み手である私の印象に残った。
 たしかに、「世界」大戦を戦った諸国は、第二次とされるものを含めても、多くはヨーロッパ諸国だ。とくに第一次とされるそれは、最初はトルコが、遅れてアメリカと日本が関与しているものの、ほとんど欧州諸国がほとんど欧州の領域内で行った戦争だ。
 <ヨーロッパ内戦>という見方は、十分に首肯できる。また、こういう命名を勝手にして、日本の歴史学もそのまま受容して(させられて)いるのだから、欧州人の<ヨーロッパ=わが世界>という見方がよほど根強いものであるかを感じさせられる。
 今はかつてほどではなく、アジア・日本やイスラム世界への関心は強くはなっているかもしれないが、しかし、欧州又は欧米中心主義はなおも根強いだろう。
 知的世界、学問・研究の分野でも、英語を母国語とする英米(・カナダ)と、ドイツとフランス(・イタリア)およびその他の欧州といったあたりで、いちおうは<完結>しているような印象がある。日本の研究者・読者などは気にすることなく、母国である国の研究者・読者と上の広狭はあるが<欧米>の研究者・読者を意識しておけば足りる。
 日本の学界の閉鎖性・そして世界に(欧米に?)稀な<容共産主義>性は、日本語だけの世界で、日本だけでいちおう<完結>しているためではないか、と思っている。
 また、日本に独特の<特定保守>の存在も、日本語だけで通じさせるしかない、<島国>に特有なことだろう(一般に日本固有のことを否定はしない)。
 学界もメディアも「論壇」も、ある程度の人口と「市場」をもつ日本という国の中で、<閉鎖的に>、<自己完結して>、つまりは日本語の分からない欧米人の批判の目にほとんど全く晒されることなく、活動している。日本共産党なるものの存在もまた、その一つ。
 ソ連解体後に<ユーロ・コミュニズム>もまた解体したことの意味を、ほとんどの日本人は理解していないように思われる。消極的意味での、日本の<特殊性>だ。
 想定外に迂回した。
 世界大戦を「欧州の内戦」と捉えるのは、じつはE・ノルテがずばり行っていたことだった。
 Ernst Nolte, Der europaeische Buergerkrieg 1917 - 1945: Nationalsozialismus und Bolschewismus (独語, 2000). 〔1917年-1945年のヨーロッパ内戦-ナチスとボルシェヴィズム〕
 1917年・「ロシア革命」と1945年・二次大戦終焉=ヒトラー・ナチス崩壊の間の時期を、一つの時代、つまり<ヨーロッパの内戦>の時代と把握する。
 西尾幹二は、これをまた、参照しているのではないか。
 ついでに書くと、E・ノルテはドイツでの<歴史家論争>の一方当事者で、その<歴史観>(敢えて簡潔化すれば、レーニン→ヒトラ-)は、むしろ<多数派>だったのではないかと見られる<左派>のユルゲン・ハーバマス(Jurgen Habermath)らに批判された。
 日本では、ユルゲン・ハーバマスの書物は多数翻訳されていて、岩波書店はこの人の論考類をわざわざ日本で一つにまとめた一冊の書を刊行している。
 しかし、エルンスト・ノルテの上の本は、邦訳書がないまま、15年以上を経た。
 なぜか。ドイツの戦後の書籍の紹介や翻訳でも西尾幹二には奮闘してほしかったと思うのだが、無い物ねだりなのかもしれない。
 西尾幹二を批判しているのではない。立場の違いはあれ、欧州で広く読まれかつ意識されていると思われるE・ノルテ、さらにはフランスのフランソワ・フュレの扱いは、日本では奇妙だ。反共産主義へと進まないようにする、産経新聞社も含む日本のメディア・出版業界での<自主規制>があると考えられる。もちろん、「左翼」学者・研究者が加担しており、朝日新聞社や岩波書店は、それを当然だと思っている。
 <自主規制>。そう、まだ日本は「閉ざされた言語空間」の中にいる。占領が終わって全ての傾向の欧米世界の書籍・論考等が「自由」に流入していると思ったら、大間違いなのだ。
 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)。この人の「マルクス主義」に関する大著の邦訳書すらない。しかも英訳版発行の1978年から、もうほとんど40年になる。このことを知ったのが、今年になって最も衝撃的なことだった。かなり逸れてしまった。

1629/西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断(PHP,1996年)。

 「許してくれるだろうか、僕の若いわがままを。
  解ってくれるだろうか、僕の遙かな彷徨いを。/
  僕の胸の中に語りきれない実りが、たとえ貴女に見えなくとも。」
  小椋佳・木戸をあけて(1971年)より。
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 西尾幹二=藤岡信勝・国民の油断-歴史教科書が危ない!(PHP文庫、2000.05/原書1996)。
一 この書の関連年表によると、前月に記者会見ののち、1997年1月、「新しい歴史教科書をつくる会」設立総会。初代会長は、西尾幹二。
 西尾幹二・国民の歴史(産経、1999/文春文庫、2009)等とともに、この「つくる会」に対する社会的反応はすごかった。当時に日本共産党および「左翼」系の、これに反発する書物は小さいのを含めると100冊を超えたのではないか。また、「新しい教科書」不採択運動も、日本共産党を中心に繰り広げられた。
 当時はまだ、<分裂>していなかった。産経新聞-扶桑社-育鵬社が、2007年以降に、「つくる会」とは別の教科書を発行するに至った。「つくる会」系二教科書とか、あいまいに言われる。
 ついでながら、菅野完・日本会議の研究(2016)は、なぜか<扶桑社新書>
 二 上の本を見てみると、計8章のうち共産主義・社会主義を扱うのは一つだけで、<第4章・ソ連崩壊にも懲りない社会主義幻想-時代遅れの学説で綴られる「独断」史観>だ。但し、他の章でもマルクス主義等に言及があることは、目次で分かる。
 <保守>論者の共産主義(・マルクス主義・社会主義)に関する本(!あるかどうか)や論考類・雑誌記事等をかなり見てきたが、この本程度でも、まだ優れている方だ。
 かつて戦後にも、林達夫(『共産主義的人間』)とか猪木正道(『共産主義の系譜』)とかの骨太反共産主義知識人・研究者はいたと思うが、かつ文芸評論家的<保守>はこんな仕事ができないと思うが、なぜかほとんど消えてしまった。
 中川八洋は<反共産主義>で優れていると思うが、欧米等の戦後から最近までの共産主義・「左翼」運動や議論について、詳細にフォローしていないし、たぶんL・コワコフスキ『マルクス主義の主要潮流』も(この人はたぶん英語を簡単に読めるが)知らないのではないかと思われる。
 また、日本の近年の<共産主義・社会主義陣営>の動きを精確に把握しているわけでもない。基礎にある理論的・理念的な知識・教養が、この人を支えているのだろう。
 三 さて、もう少し細かく、上の本(のとりあえず上の章)を見る。
 まず生じる感想は、スターリン批判が強いが、レーニンまで、あるいは<レーニン主義>まできちんと目が配られていない。当時の私自身の認識・理解ぶりはさて措く。
 例えば、西尾は語る。①「スターリンの犯罪を個人の犯罪と片付けて」いいのか。p.135。
 そのとおりだが、レーニンもまた、すでに「犯罪」者だった。
 ②「ナチス」国家と「スターリン型独裁体制との近似性・類似性…」、ハンナ・アレントはヒトラーのシステムは同じ1930年代に「スターリンの帝国にすっかり類似の形態をとって」具現化していたと指摘した。p.135-6。
 そのとおりだが、しかし、①と同旨だが、レーニン時代はよくて又はまだましでスターリン時代に「全体主義」国家になったのではない(そんなことはハンナ・アレントも言っていない)。
 ③「シュタージ(東独)」と「ゲシュタポ(ナチス)」は構造と様態がよく似ている。p.137。
 そのとおりだろうが、レーニン時代、すでに1918年早くには、ゲペウにつながるソ連の秘密政治警察が作られている(チェカ、初代長官・ジェルジンスキー)。
 東ドイツの類似のものは、スターリンそしてレーニンに行き着く。
 総じて、この時代の日本の知的雰囲気を考えると(悲しいことに現在もまだよく似ているが)、スターリンの批判はまだ許されても、レーニン批判までは進まないことが多い。
 なぜか。レーニン・ロシア革命を擁護する、そしてスターリンは厳しく批判する日本共産党とその周辺共産主義者と「左翼」がいた(いる)からだ。出版社、マスコミを含む。
 スターリンを厳しく批判してレーニンを美化する点では、<トロツキスト>も変わりはないし、日本共産党を離れたりあるいは同党から「除名」されたりした者も、共産主義者・容共産主義で残るかぎりは、日本の特定の共産党を批判しても、レーニンとロシア革命は「否定」しない。
 日本の<保守>派もまた影響を受けているか、そもそも、レーニンとスターリンの違いなどに全く興味を示さない、<そんなことはもう片が付いた、天皇・愛国・日本民族こそ大切>という者が多い。涙が出るが、いずれかがほとんどだ。
 日本でも、<スターリンとヒトラー>を比較した欧米の書物はたぶん複数邦訳書となって出版されている。
 最近に気づいたが、<レーニン、スターリンとヒトラー>と並べた欧米文献はあるが、全く日本では翻訳書が刊行されていない。これは、別にきちんと述べよう。
 四 誰についてもそうだが、西尾幹二は情報のソースまたは思考の方法の根源について、何によっているのだろうと、考えることがある。
 私自身がほんの少しは欧米文献や欧米歴史学界等の雰囲気を知って気づいたことがある。
 それは、西尾幹二は、ドイツのエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)の議論を知っている、ということだ。昨年あたりにようやく気づいたのだから、何の自慢にもならないが、西尾はとくに明記していないものの、1990年代までに、Ernst Nolte の書物を複数、何らかのかたちで参照している。
 長くなったので、もう1回書く。


1623/日本の保守-2006-2007年に何が起こったか①。

 椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007.07)。
 こう書くと西尾の本が後で刊行されているが、その内容のほとんどは前年までに、おそらくは前者よりも早く書かれている。ともあれ、同年の刊行。
 その「あとがき」の副題は、「保守論壇は二つに割れた」だ(2007年6月)。
 その中に収載の「小さな意見の違いは決定的違い」は、2006年夏・秋のことを書いている。
 2007年。この年の初め、第一次安倍晋三内閣だった。まだ2007年の参院選挙はなかった。
 この年の3月下旬、<秋月瑛二の…つぶやき日記>がかつてあった産経・イザ上で始まった(このとき、産経新聞社が運営とは知らなかった)。
 この年の12月、櫻井よしこを理事長とする、(公益財団法人)国家基本問題研究所が発足した。
 2000年頃と、この年のこの時期までの間に(ということはこの年のおそらく前半には)、櫻井よしこは<華麗なる変身>を遂げたもののと見られる。
 つまりは、国家基本問題研究所関係者のむしろ多くが知らないのかもしれないが、椛島有三や伊藤哲夫たちの、つまり「日本会議」派と仲良くなった。あるいは、仲間になった。あるいは、前者が後者に<取り込まれた>。冒頭の著者の椛島は、言わずもがなだが、<日本会議事務総長>。
 この年以降、つまり2008年以降の櫻井よしこの論調と、2000年頃の櫻井よしこの論調は、明らかに異なる。
 西尾幹二は、上の書物全体をその全集には収めてはいないようだ。全集とはいえ、本人編集かつ追記だから、いろいろな想いが重なるのだろう。
 2007年というのは、前年またはさらにその前の年から始まった、新しい歴史教科書を「つくる会」の激変時でもあった。
 「日本教育再生機構」とやらができ、安倍内閣に「教育再生会議」なるものも設置された(今これはどうなっているのか?)。
 これの重要人物が、八木秀次。今年になって私が名づけた天皇譲位問題に関する「アホ」の一人(櫻井よしことともに)。
 この欄で言及した記憶があるが(たぶん雑誌上のものを読んで)、西尾は上の本に「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」と題する文章を収載している(諸君!2006年年8月号のもの)。
 こうしたものを含む単行本が7月末日付で刊行されており、上の椛島有三著は4月が刊行月になっている。そして、この年の最後の月、櫻井よしこは「研究」所理事長になった。
 以上のことは、いつでも記せるような内容だった。
 小林よしのりの本を併せて読むと、もっといろいろなことが分かるはずだ(所持しており、読んではいる)。
 10年後の今に残る「分裂」・「対立」について、誰かがきちんと総括しておかないと、日本の<保守>に未来はないのではないか。
 中西輝政は、いったいどうやって<世渡り>をしてきたのか。さらに言えば、西尾幹二ですら、その後どうやって<世渡り>をしてきたのか。なぜ月刊正論や産経新聞に執筆できるのだろう。
 無名の、大洋の底の貝のごとき秋月瑛二が、何かを記しておく意味がほんの少しはあるかもしれない。
 もう一度書いておこうか。
 ①2006年~2007年、櫻井よしこは<変身>した。あるいは<変節>した。あるいは、<狂信>先が明確になった、と思われる。
 ②この頃のことを、誰かがきちんと総括しておかないと、日本の<保守>はダメだ。もっとも、秋月瑛二は<自由と反共産主義>に執着しており、<保守>か否かは全くの副次的な関心主題にすぎないのだが。

1607/産経新聞「正論」欄担当者の姑息・卑しさ-西尾幹二に関連して。

 西尾幹二の Internet 日記6/2付によると、産経新聞6/1付「正論」欄での西尾原稿の一部はつぎのような変更・修正を求められて、西尾も最終的には了解したという。
 元原稿/「櫻井よしこ氏は五月二十五日付『週刊新潮』で、『現実』という言葉を何度も用い、こう述べている。」
 変更後/「現実主義を標榜する保守論壇の一人は『週刊新潮』(5月25日号)の連載コラムで「現実」という言葉を何度も用いて、こう述べている。』
 西尾によると、産経新聞側の要請内容はつぎの①で、つぎの②の理由によるものだった。
 ①「櫻井氏の名前は出さないで欲しい」、②「同じ正論執筆メンバー同志の仲間割れのようなイメージは望ましくないから」。
 これに従わないと、「正論」欄への投稿それ自体ができないと怖れたのかのかどうか、西尾は最終的にはこれに従ったようだ。これに<抵抗>できないのかどうか、気にはなる。最終的・形式的には西尾は「同意」している。
 しかし、最終的・形式的な「同意」があったとしても、このような変更・修正の「要請」の適切さを別に問題にすることはなお可能だ。 
 例えば、このような変更・修正の「要請」の趣旨・意図はいったい何で、その元来の意図はそれで達せられているのだろうか。
 印象としては、結局のところ、産経新聞担当者の<事なかれ主義>がさせたこととしか思われない。
 なぜなら、第一に、「同じ正論執筆メンバー同志の仲間割れのようなイメージは望ましくない」というが、西尾幹二と櫻井よしこに見解の相違があるのは事実だ。表向きに個人名を出そうと出すまいと、その事実を変えることはできない。
 担当者は「イメージ」が「望ましくない」と言ったらしいが、事実はどうあれ、表向きの「イメージ」だけは保ちたいというのだから、まさに本質・事実無視の<表面取り繕い主義>、上辺とイメージの方を重視するという、省庁や企業に全くよくありがちな<表面・形式主義>だ。
 これを解消するのはおそらく一つしかない。つまり、櫻井よしこを批判する論者を「正論」執筆メンバーに加えないこと、逆に西尾幹二が批判する論者を「正論」執筆メンバーに加えないこと。
 このいずれもしないでおいて、批判するときには個人の「名前は出さないでほしい」というのは、本来は矛盾している。論者・執筆者の表現・文章作成の自由を制限している。
 しかしてまた、そもそも「正論」執筆メンバーなるものが<全体主義>的にまたは<産経新聞一党独裁>的に諸問題について同一の見解・主張を持っていないとすれば、たまたまそれらの者たちの間で意見の相違が生じて、異見者を批判したくなること、異見者を批判すべきと考えることもあるだろう。そしてそれは、新聞社側には、文章・原稿が提出されてみないと分からないことだ。
 そうであるのに、文章・原稿の提出を受けたあとで批判先の個人の「名前は出さないでほしい」と要請するのは、<理に叶っている>だろうか
 もともと「正論」欄の一定の執筆陣・執筆担当者に意見の相違があってもよい、ということを承認しているとすれば、特定の個人名を出すか出さないかは、全く些細な問題のはずだ。個人名を出さなかったからといって、週刊新潮に執筆している「保守論壇の一人」程度ですでに実質的には特定されている。いったい何の意味があるのか?
 産経新聞担当者はあるいは、週刊新潮に執筆している「保守論壇の一人」が誰であるか分からない読者もいるので、その人たちには特定個人名(櫻井よしこ)を隠したい、と考えたのかもしれない。
 しかし、これもおかしい。
 産経新聞というのは、自由で公平な新聞・ジャーナリズムの一端を担っているつもりなのだろう。その新聞が<分からない読者は分からないままにしておけ>という態度を採ってよいのだろうか。
 今回の事案では元来はすでに、「正論」欄執筆メンバーの表現・文章作成の自由を、産経新聞の担当者は実質的に制限している。読者の「知る権利」などという<理念>などは、あるいは<情報の自由な流通という理念>などは、かんたんに吹っ飛んでいるのだろう。
 なぜか。こうした実態は、つまり「正論」欄執筆者相互では<名指し>の批判はしない、ということは、産経新聞の慣行上の<不文律>になっていて、たまたま西尾幹二がこれを侵犯した、ということなのか?
 しかし、この場合でも、この<不文律>はおかしい、自由な言論機関がこんな慣行でもっていったん執筆メンバーに加えた言論人・論壇人を縛るべきではない、という立論も当然に成り立つ
 なぜか。産経新聞の担当者は、櫻井よしこを守りたいだけではないのだろうか。
 <櫻井よしこさんの名前が特定されていましたが、削ってもらっておきましたよ>と櫻井に伝えて、<心おぼえ>をよろしくしたいだけではないだろうか。
 櫻井よしこにしてみれば、-これも本当は奇妙なのだが-自分の名前が直接に出ているよりは、週刊新潮・「保守」、という程度の方が<心穏やか>かもしれない。
 そうした櫻井よしこの個人的心情を<忖度>したのが、産経新聞「正論」欄担当者(新聞全体の編集者との関係はよく知らない)ではあるまいか
 産経新聞の阿比留瑠比は、東京新聞の内部的混乱を批判して東京新聞の<自由な言語空間>のなさを揶揄していた。
 はたして、産経新聞には<自由な言語空間>はあるのか。産経新聞にもまた<閉ざされた>面はないか。
 <月刊正論>(産経)は、執筆者の構成から当然に<自由な>雑誌ではない。それは出版・編集の<自由>というものがあるからで、特定の論者(例えば、高森明勅とか所功とか小林よしのりとか)を排除する「政治」性があっても、そういう編集方針またはその上の、私企業の月刊誌出版方針を尊重するのが<自由>尊重の日本の基本的考え方だ。
 しかし、新聞についても同じではあるのだが、いったん産経新聞上の「正論」欄執筆者の一人として迎えて原稿を依頼しておきながら、①「櫻井氏の名前は出さないで欲しい」と、②「同じ正論執筆メンバー同志の仲間割れのようなイメージは望ましくないから」という理由で<要請>または<誘導>するのは、「編集の自由」のうちに含まれるのだろうか。
 あるいは論理的・概念的にそれとかりに抵触しない(産経新聞側の法的「自由」の中にある)としても、このような<要請>・<誘導>が相手方以外のものの個人的心情の<忖度>や、ばかばかしい当該欄の表向きの「イメージ」の維持という<事なかれ主義>に動機があるのだとすれば、それは姑息で<卑しい>ものではないか。
 そしてその「姑息で卑しい」心理によって、一人の原稿執筆者・提出者の<心情>を少しでも害することがあってよいのか。
 新聞社・雑誌出版社、これらの<出版・編集の自由>と<表現の自由>・<原稿執筆の自由>との関係について、あるいは<情報の自由な流通>というものについて、考えさせられる。
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 編集者の意向の範囲内で(これが先ずは絶対に大切)、締め切り期日を、そして限度文字数を守って、原稿をきちんと提出してくれる「文筆業者」=「文章作成請負人」=「文筆で食って、顕名欲を充たしているだけの人々」をめぐっては、こういう問題を考えさせられることは、きっとない。<出版・編集の自由>と<表現の自由>・<原稿執筆の自由>の対立が生じないような「心得」=「俗世間の智恵」がお互いにあるからだ。
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 以上、一気に書いたので、論理的整合性、関連づけが不足するところがあるかもしれない。

1605/櫻井よしこや日本会議は保守の核心層ではないー西尾幹二。

 遅れてようやく気づいた。西尾幹二の産経新聞6/1付「正論」欄を読んだ。
 一 産経新聞を購読していないからでもある。<歴史右/安保右>でなくなって読売新聞ととともに<歴史左/安保右>では、この基本点に関するかぎりは、産経新聞と読売新聞は変わりないだろう。となると当然に、より多くの国民・有権者が知ることとなる情報を掲載している新聞の方を読みたくなる。
 二 西尾幹二の主張内容は、当然に成り立つ。少なくともある時期は一項を含めての九条改正を主張していた田久保忠衛や産経新聞社案を除いて、自民党を含む大多数派改憲論者は、現二項を削除しての自衛隊の実質的「軍その他の戦力」化を構想していたからだ(第一次の自民党(桝添要一担当責任者)案では「防衛軍」、現案では「国防軍」)。
 三 上のある意味では当然にありうる主張内容とは別に、西尾が同インターネット日誌上で明らかにしていることの方が、はるかに興味をそそる。
 上の産経新聞用原稿で「文章の分量が完全にはみ出ていた」ので「勿論これは削除された」、「再録しておく」という部分だ。
 一つは憲法九条関連改正にかかる5月安倍晋三発言の経緯だ。
 本当に西尾幹二が書いているとおりだとすると、げんなりする。
 だが、かりにそうだとしても、伊藤哲夫の主張内容もどうも怪しいことは、以下で述べる。
 二つは、産経新聞も同様だろうが、安倍晋三案にどういう反応をすべきかについて<保守>の側に一定の混乱を生じさせているだろうことは間違いないないだろう。
 櫻井よしこらのように(「少々の」法的矛盾を意識しつつも!)さっそく安倍晋三に「迎合」する、<阿諛追従>一色の<保守>の人々ばかりでもないだろう。
 その意味でまさに、「櫻井よしこ氏や日本会議は保守の核心層ではない」。
 西尾幹二の言うように、安倍晋三に対して「保守の核心層もそろそろ愛想をつかし始めているのではないだろうか」、とも思われる。
 もっとも「保守の核心層」も一義的に明確な言葉ではなく、「核心」か否かは「真」か「偽り」か、「正統」か「修正」かという価値評価にかかわるし、もともと「保守」とは何かも問題になる。
 そうした意味で「核心」なのかは別として、しかし、櫻井よしこなる私から見れば多くの点で信用できない単純素朴な観念主義の「文筆業者」がえらく<保守産業>界で人気があるのはたしかなようで、産経新聞社・正論は<一冊まるごと・櫻井よしこさん>を別冊として恥ずかしげもなく発行し、月刊Hanadaと月刊WiLLの現編集長(花田紀凱ら)は二人とも櫻井よしこを理事長とする「国家基本問題研究所」の評議員で<理事長-評議員>という上・下の関係に(形式上は)なっている。したがって、あくまで印象またはたんなる<数合わせ>では櫻井よしこら「観念派」・「原理主義派」あるいは「特定保守」の方が-悲喜劇として-優勢であるような観はある。
 もっとも、左から右まで、共産党・「左翼」からレベルなき評論家や現憲法無効論者までが揃い踏みの奇怪・奇態きわまりない月刊日本(KKプレス)という月刊誌は櫻井よしこを批判しているようだが。
 そうした中でしかし、言葉の意味の問題はあろうとも、西尾幹二が「櫻井よしこや日本会議は保守の核心層ではない」と言ってくれているのは、勇気づけられる。
 「左翼」でもそうでなくとも、様子見、「どっちが得かようく考えてみよう」とする待機主義、身内迎合、要するに<日和見>主義者はいくらでもいる。
 西尾幹二のように<自由・独立>の人間がいてくれないと困る。*この論点は注釈がいるが今回は省略。
 四 西尾が参照している伊藤哲夫等々に関する資料を入手できない。
 しかし、伊藤哲夫所長の日本政策研究センターのウェブサイトに掲載されている伊藤自身の文章とされるもの(『明日への選択』平成29年6月号掲載らしい)は、どうも怪しい。
 「怪しい」というのは、つぎのような意味でだ。
 現一・二項を存置したままで新三項または新九条の二を挿入する場合に、当然にその条文・文章内容をどうするかが問題になる。
 伊藤は次のように記す。「改憲論議を一変させた『安倍発言』」2017年6月1日。
 「3項の内容をどうするのかということが議論の中心課題」になる。「首相の案は、ただ現在の自衛隊をそのまま認めるだけにも見えるが、果たしてそれしか道はないのか」。「それに留まらず、自衛隊を『自衛のための戦力』として認める道はないのか。問題は3項の内容にかかっており、公明党の立場を考えればことは簡単ではないが、何とか根本的解決により近い案になるよう、今後議員諸兄には大いに知恵を絞ってほしい」。
 この文章は、ほとんど<アホ>に近い部分を含んでいる。従来の<保守>派の構想にも配慮しているつもりなのかもしれない。
 「それに留まらず、自衛隊を『自衛のための戦力』として認める道はないのか」。
 伊藤哲夫をもともと何ら信頼していないのだが、この一文はひどいだろう。
 つまり、二項「軍その他の戦力は…保持しない」を残しつつ、「自衛隊を『自衛のための戦力』」と認める方策はないのか、と言っている。
 憲法でも法律でも離れたところにある同じ言葉・概念が異なる意味で解釈されるということはある。
 法律が違えば、同じ言葉・概念でも異なる範囲・意味をもつことが当然にありうる。
 しかし、現二項の直後の三項(九条の二でもよい)で、『自衛のための戦力』を認めることは、二項と三項が明らかに矛盾・抵触しあうことになる。「戦力」という語をともに使うからだ。
 これを回避するには現二項の<目的>規定に意味を持たせる(「自衛」目的の軍・戦力は二項は禁止していない)ように解釈すればよい。しかし、もしそうならば、新三項がなくとも、現在でも自衛隊は「軍その他の戦力」だと解釈できるのであり、新三項追加などは必要がない。
 現二項の<目的>規定(芦田修正)に意味はないものとしているのが政府・実務解釈だからこそ、安倍晋三提言も出てきているのだ・
 伊藤哲夫はいったい何を「つぶやいて」いるのか?
 伊藤は何やら「智恵者」らしくあるが、本当は憲法または法的議論の基礎的なところをまるで分かっていないのではなかろうか。
 これでは、安倍晋三も、安倍支持の議員・政治家たちも、条文作りに困るだろう。
 その条文を伊藤哲夫が用意していないことも、上から分かる。西修の<私的解釈>を今さら前提にするわけにはいかない。百地章に相談をしていないだろう。また、相談しても無意味だろうが、八木秀次が伊藤哲夫案の作成に協力したのでもなさそうだ。
 五 天皇譲位問題につづいて、「特定保守」派の無知・無責任さを曝け出すことになるのかどうか。
 しかし、どういう経緯であれ安倍晋三は自ら率先して語ってしまっているので、ウヤムヤにもできない。
 西尾幹二のような主張は当然にありうることは予期しているだろうから、内心は少しは困っているのではないか。
 この1年、天皇(生前)退位問題の登場や、二項存置・自衛隊容認規定新設案の登場など、想定していなかった憲法上の論点が出てきている。これからもさらにあるかもしれない。

1569/「日本会議」事務総長・椛島有三著の研究②。

 「一九七〇年にかけては、ひょっとすると、僕も、ペンを捨てて武士の道に帰らなければならないかもしれません。/
 東京の話題といふと大学問題ばかりで、ほかのことは何一つありません。たのしい時代は永遠にすぎさりました。しかし、たのしくない時代も、亦、それなりにたのしいものですね。」
 三島由紀夫全集第38巻443-4頁(新潮社、2004)、1969年2月2日/D・キーンへの書簡より。
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 椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
 この本を手にして捲ってみて、すぐに気づくのは、活字の文字が大きいことだ。
 小学校高学年生の教科書よりも、大きな字ではないか。
 たまたま手近にあった、外形がほとんど同じ(たぶんB5版)のつぎの二つと、一頁あたりの行数、縦の文字数を比べてみた。
 各著の中でとくに大きくも細かくもない、つまり各著では標準の行数・縦文字数だと思われる、(頁数印刷の)100頁めのところで計算してみる。
 ①椛島有三・米ソのアジア戦略と大東亜戦争(明成社、2007.04)。
  横14行、縦36字。14×36=504文字(一頁に印刷可能)。
 ②母利美和・井伊直弼/幕末維新の個性6(吉川弘文館、2006.05)。
  横16行、縦45字。16×45=720文字(一頁に印刷可能)。
 ③西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007.07)。
  横18行、縦43字。18×43=774文字(一頁に印刷可能)。
 やはり、違いは歴然としている。
 ①椛島著は、②母利著の5/7以下、③西尾著の2/3以下しか、文字数がない(つまり活字が大きい)。
 したがって最終頁は、①p.219、②p.244、③p.315、なのだが、①椛島著は③西尾著と同じ組み方をすると、計140頁くらいにしかならないと思われる。
 ①椛島著は、②母利著と同じ組み方をしても、計153頁くらいだ。
 要するに、一見はふつうの書物のようにも感じるが、実際は、長さだけでいうと、140~150頁の本だ。
 つぎに、体裁的にも異様に感じるのは、<主要参考資料一覧>としてp.212以下にある、「主要参考資料」の数の多さだ。
 数えてみると、A<日本人著作関係>が85(冊)、B<外国人著作関係>が34で、うち全て英語の原書が11(冊)、C<論文関係ほか>が、14(件)。
 もともとこの一覧を含めて219頁の本で、上記のように、実際には140-150頁の本だと見てよい。
 この長さの本にしては、この「参考資料」の件数は、つまり合計133(冊+件)は、異様に多すぎるのではないだろうか。
 しかも、「主要」なものに限っている、とされる!。   
 「主要」なものだけで、極論すれば、一頁あたり一冊の専門?書または一件の専門?論文が使われている。
 常識的には、こんなことはありえない。これほど多数の「主要」参考文献を用いれば、書物自体の長さ、大きさがもっとはるかに長く大きいものになつているだろう。
 また、本文の内容を読んでも、これだけ多数の文献を駆使した、かつ綿密な、密度の濃いものになっているとも感じられない。
 したがっておそらく、<主要参考資料一覧>というのは、この書物を書くために実際に(基礎的であれ直接にであれ)用いたものではなく、多くは、著者・椛島有三が「気に入っている」または読者に「推薦したい」書物等の<一覧>なのだと思われる。
 繰り返すが、もともとでも219頁の本に、計133冊・件という「参考資料」の数は多すぎる。しかもそのうち、単行本和書85、同翻訳書23、洋書11、という数字なのだ。
 これらをよほどうまく「参考」にして吸収したうえで、かつ要領よくまとめないと、219頁(実際は140-150頁)の書物にはならない。それだけの吸収と概括が本文にあるようには、日本史・戦前史の素人である私には思えない。なお、個別の章等のあとには、「参考文献」の提示はない。まとめて最後に、<一覧>が示されている。
 さて、<保守>論者の諸文献を少しは読んで、かつ所持もしている秋月瑛二の目から見ると、この<主要参考資料>の掲載の仕方・内容は、あくまで主観的にだが、きわめて異様だ。
 つづく。

1566/『自由と反共産主義』者の三つの闘い⑥-共産主義とリベラル民主主義。。

 「池よりも、湖よりも海よりも、深い涙を知るために。/
  月よりも、太陽よりも星よりも、遠くはるかな旅をして。」
 小椋佳・ほんの二つで死んでゆく(1973)より。作詞・小椋佳。
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 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」
 3) 反Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
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 すみやかに正しておこうか。
 前回に 1) 2) は勝利できる可能性はあるが(つまりは極端にいえば<全面対決>の問題だが( -1)はデマとの闘い)、3) はこれと違って、どう<切り分ける>かの問題だというようなことを書いた。
 次元の違いを意識したつもりだったが、どうも考え不足だ。
 つまり、Liberal Democracy の中に、「共産主義(communism)」は含まれるのか、という問題だ。
 言葉ないし概念の問題として、含まれているとすれば、Communism をまずはLiberal Democracy から除去する闘いを先にして勝利したうえで、Liberal Democracy のうちから「日本」と矛盾しない、又は積極的に採用すべきものを<切り分けて>取り出すことになる。
 含まれていないとすれば、それはそれで、前回のとおりの説明でよい。
 しかし、欧米的 Liberal Democracy は、Communism と異質なものだろうか。
 これは言葉・概念の問題として処理してもよいが、歴史的・思想史的な考察も必要だ。
 既存の知識によれば、二つの理解がありうる。
 一つは、ズビグニュー・ブレジンスキーが語っていたことで、欧米的なフランス革命以降の「自由・民主主義」は「共産主義」とは無縁で、後者は前者の正常な進行から「逸脱」したものだとする。
 一方で、読んできたものの中では、フランス革命-ロシア革命を一つの線上に、つまり前者の不可避的な(あくまで一つだが)結果と考えるものが多いようだ。
 ルソー/フランス革命-マルクス・レーニン/ロシア革命、という系譜になる。
 フランソワ・フュレもその一人で、この人は、フランス人だからだろうか、マルクスの諸叙述の中のルソーやフランス革命への言及の仕方を追跡しようとすらしている。下記。
 マルクスとフランス革命=今村仁司他訳(法政大出版局、2008)。
 ルソー・「市民革命」にマルクス主義やロシア革命の淵源の確かな一つを見る。
 また、マルクスも、<ブルジョア民主主義革命>の担い手たちへの敬意を隠さなかったし、一度だいぶ前に、レーニン『国家と革命』に関する平野義太郎の分析・注釈書を通じて、レーニンもまたフランス革命を大いに参照していたことを記したこともある。
 前回に書いたときの感覚とは違って、やはり、欧米的 Liberal Democracy とCommunism は無関係ではない。そもそも、後者は、日本とは無縁に、ヨーロッパで(ドイツ人により)生まれた異質な思想であるとともに、欧米的 Liberal Democracy がなくしては、誕生していないだろう。
 「奇胎」・「鬼子」かそうでないかは、一種の価値判断を含む。
 「奇胎」・「鬼子」か正嫡子かのどちらかであれ、あるいは「逸脱」か「発展(の一つ)」のいずれであれ、欧米的 Liberal Democracy の基礎のうえに「共産主義」もある、という理解がおそらく適切だろう。
 そうだとすると、2) の闘いは、当然に、3) の中にも持ち込まれ、やはり結局のところ、三つの闘いは相互に分かち難く、相互に関連しあっていることになる。
 しかし、どうもこの 3) の論点が最終の基本的課題にはなりそうだ。ずるずると他の論点を引き摺りながら、この論点を意識した論争もまた必要であることになる。
 あえて文献を提示しないのだが(それをすると途方もない時間がかかる)、中川八洋には、2) に関するきわめて旺盛な問題意識がある。彼の目からすると、反共産主義の姿勢が明確でない者は、全て<日本共産党員>であると-ここでは極端に概括しているかもしれないが-見なされる可能性がある。西尾幹二も、櫻井よしこも変わりはない。
 しかし、中川八洋の問題性は(反共産主義の点で全く問題がないとは思わないが、それはさて措き)、3) の問題意識がないか希薄なことだろう。
 一方、佐伯啓思には、3) に関する問題意識が強くある。しかし、佐伯啓思には、2) の問題関心がないかきわめて乏しい。「日本会議」宣言書のご託宣のごとく、「マルクス主義」との闘いはもう必要がないがごとくだ。
 また、せっかく反 Liberal Democracy の趣旨を詳しく説きながら、佐伯啓思における「日本」は曖昧なままだ。西田幾多郎等々に少し遡っただけでは、たどり着けないのではないだろうか。
 「日本」とか「愛国心」とかを語りつつ、佐伯啓思における日本の将来像はクリアではない。
 誰も完璧ではないし、誰かに完璧さを期待してもいない。
 それぞれに限界はあるものだと、思わざるをえない。
 佐伯啓思は「日本会議」派に比べるとはるかに理性的・合理的だが、しかし、例えば日本の現実政治についての「感覚」は、どこかおかしい。橋下徹について<ロベスピエールの再来の危険>などを指摘し始めてから、私は佐伯から離れてしまった。たかが大阪府知事・大阪市長にこのような大仰なことを言うのは、<ファシスト(ハシスト)>扱いと、どこが違うのだろうか。
 もとより、日本に関する中川八洋の個々の政治的「感覚」が適切である保障もない。
 個々の政治的選択・判断を問題にしようとは考えていない。
 日本の論者は、月刊誌や週刊誌に書きすぎる。書きすぎるから、本来の得意分野以外にまで手を出して、つい<識者>らしきことを書いてしまう。
 これは、産経新聞社を含む日本のメディア、出版業界の問題でもある。多くの「評論家」・大学教授類の一部は、出版業に雇われる「使い走り」・「文章作成係」になっている。
 きちんとした評論書・時代分析書・将来展望書は、2年くらいの期間をかけないときちんとは執筆できないのではないか。
 月刊誌(または櫻井よしこのごとく週刊誌)に書いたものをあとでまとめて、ハイ一冊、という本の作り方では、いかほどに真摯な思考が、体系的にまとめられているかは疑問だ(もちろん、人によるが)。櫻井よしこは、自分は毎年少なくとも二冊を刊行している大?「評論家」・「ジャーナリスト」などと妄想しない方がよいだろう。既述のとおり、自分の言葉は10%以下、他人・第三者からの紹介・引用が半分程度、あとは公開事実の<要領のよいまとめ>だ。また、この人には、平気で<剽窃>のできる、希有の才能がある。
 じっと深く思考することが必要だが、その際に重要なのは、基本的な<論争点についての位置の自覚>だ。
 いったい何のための、いったいどういう次元の、いったい誰を相手(「敵」)にした議論をしているのか?
 日本の<保守>派の混迷は、基本的に、これに無自覚なところにあると思われる。
 櫻井よしこ又は「日本会議」派は、いったい何を追求しているのか?
 訳が分からなくなって、精神的頽廃に落ち込んでいる者もいる。ただ毎日を忙しく過ごして、自分の「名誉」又は「顕名欲」さえ守れればよいと思っている人もいる。
 西尾幹二にも、中西輝政にも、十分な満足は感じていない。相対的にまだマシだと思っているだけだ。
 誰も完璧ではないし、誰かに完璧さを求めるつもりはない。
 上のように並べても、西尾幹二と中西輝政が同じであるはずはない。
 こんなことを書いていても、<大海の底の小さな貝の一呼吸>が生むほんの小さな水の揺るぎにすぎないだろう。
 それでよい。つまらないことを書きなぐって、後世に恥をさらす櫻井よしこよりは、まだ生きている価値がある。
 それにしても、櫻井よしこの<悲しいほどに痛々しい>ことの理由、背景は、いずれにあるのか。

1561/『自由と反共産主義』者の三層等の闘い⑤ー「日本会議」とは何か。

 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」
 3) 反 Liberal Democracy-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
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 1) の点にしか関心を持たない人々はまだ多い。
 <民主主義対ファシズム>は、<民主主義対日本軍国主義(の再来)>でもよいし、<ふつうの人対右翼・反動>でもよい。
 こう二項対立的にだけ捉えて、上の文字対比もそうだが、<右側>にさえ進行させなければ日本は助かる、と思っている人々だ。
 <右翼>にだけは進ませてはならない、それを代表するのは安倍晋三であり、橋下徹であり、自民党の背後にいる「日本会議」ら<極右>団体だ、と警戒する。
 <左側>には誰がいるのか ? 日本共産党という「左翼」もいるが、この政党は温和しくて「平和的」そうだし、われわれの戦いの力強い味方になってもくれそうだ、とまるで警戒しない。
 そういう、<真ん中ふうの>、良心派・良識派だと自分を位置づけている人は、少なくはないだろう。
 <保守>の側からすれば、<民主主義対ファシズム>という定式自体が、誤謬へと導くもので、悪質な虚偽宣伝図式だ。なぜならば、ファシズムといってもそれと同じ又はきわめて類似した「コミュニズム(共産主義)」もあるのであり、「民主主義」と対抗させるならば、ファシズムと共産主義とを合わせた「全体主義( the totalitarianism, die totale Herrschaft)」を挙げるべきだ。
 そして、元来の<民主主義対ファシズム>とは、第二次大戦での対独伊(・日)での対立軸とされ、<民主主義>の中にソヴィエト連邦も含んでいたという欺瞞があると、まともな<保守>は考える。
 英米仏・ソ連-対ー日独伊、という対立図式を語るのは、<連合国史観>だ。
 今日に「民主主義対ファシズム」という対立図式を維持しようとする無邪気な人々は、この決定的に重要なことを忘れている。
 ソ連は、いかなる意味で「民主主義」国だったのか ?
 戦後の東欧諸国等も含めて、「人民民主主義」あるいは「プロレタリア民主主義」の国だったのか。英米仏の(ふつうの ?)民主主義とどう違うのか。
 ここまですら立ち入らないで、<民主主義対ファシズム>という図式で思考したい無邪気な人々はまだ多いかもしれない。
 この対立図式を喜ぶのは、かつて日独伊を敵にして戦った(とされる)国の一つ、ソ連の公式イデオロギーだったマルクス主義・共産主義をなおも支持し、基礎にしている、国家(例えば共産中国)や政党だ(例えば日本共産党)だ。
 巧妙に、自分たちを「民主主義」陣営の中に隠してしまう。
 だがそれはじつは、例えば日本共産党にとっての「革命戦術」でもある。つまり、「民主主義革命」-「社会主義革命」という<二段階革命>論を採ることを明記・明言する日本共産党にとって、当面は「民主主義(の徹底)」を擁護し、周囲に「民主主義」を警戒しない国民たちを引きつけるのは、重要な戦略であり、当面の目標ですらある。
 <保守>の側には、「東京裁判史観」の拒否を主張する、唱道する人々が多いようだ。
 しかし、「東京裁判史観」という語は必ずしも適切ではない。
 つまり、アメリカの単独軍事占領途上のこの「東京裁判」の主体はアメリカだった、正確にはアメリカのみだった、という印象を与えかねない。
 時期的にもむしろ、アメリカの対戦争観は日本占領時に形成されたのではなく、戦時中からあったと見るべきで、それはとっくに<戦後処理>のための諸会談等に現れていた。
 したがって、<連合国史観>とでも呼ぶべきだろう。
 <東京裁判史観>という語は、戦後直後のある一時期にのみ焦点、関心を集めてしまう、そして「敵」をアメリカにのみ求めがちになりやすい、という難点があるだろう。
 間に「東京裁判」の語について挿んだが、元に戻ると、<民主主義対ファシズム>という幻想・虚偽宣伝を打破するためには、やはり2)の<反共産主義>の意識化、明確化が同時に必要だ。単層、一面だけの思考をしてはいけない。
 すでに述べた<民主主義対ファシズム>意識者は、一面・一相・一層でしか物事の基本的事項を理解できない人たちだ。これに反対する<保守>は、多面的・多構造・多様相の、総合的・立体的な思考をしなければならない。
 時代的かつ論理的には 1)の基本論点が先行するようにも思えるが、1) と2) は厳密に分けることができない。
 したがってまた、「反共産主義」を明確にできない、正面から掲げない<保守>は、決して、<民主主義対ファシズム>という幻想・虚偽宣伝を打倒することはできないだろう。
 そのような<保守>は、逆に、<ファシズム>の側に追いやられて、相変わらずの ?「右翼だけはダメだ」という単純な思考に負けてしまう可能性が高い。最終的に勝利することは、おそらくないだろう。
 <反共産主義>を主張しない、あるいはそもそもコミュニズムという思想とそれがもたらした(もたらしている)凄絶な現実に対する関心・興味を示していないと見える櫻井よしこや、あるいは椛島有三ら「日本会議」派は、この基本的な論争点・軸の視点について、大きな欠陥を抱えている。欠陥というよりも、欠如しているごとくで、話にならないのだ。例えば、「日本会議」ウェブサイトで「マルクス主義」や「冷戦」がどう語られているかを見てみたまえ。
 もっとも、そのような、つまり<反共産主義>を具体的・明確に説かない<保守>論者は、櫻井よしこ等々または「日本会議」系以外にも多い。これが、日本のじつに憂うべき点だ。例えば、佐伯啓思には<反共産主義>が全くかほとんどない。「自由と民主主義はもうやめる」だけではダメだ。西尾幹二においても不足している。
 1) と2) は、論理的に不可分だが、勝利すればよいし、それは不可能とはいえない。
 しかし、3) は、そうではない。つまり、近代的または欧米的 Liberal Democracy は、われわれ日本と日本人の一部にすでになってしまっている。
 明治以降の歴史の現実によって、そうなってしまっている。戦後に特有な現象ではない。むしろ戦前・戦中の方が、日本<独自>性の意識は強かったかもしれない。
 したがって、<切り分け>が必要だ。
 近代的または欧米的 Liberal Democracy とは、現日本国憲法の「思想・理念」でもある。今の日本は、<1947年憲法>体制の時代だ。
 3) をくぐり抜けるには、この憲法との大きな戦いが必要でありかつ、擁護すべき所は擁護する必要がある。
 自衛隊にかかる九条問題や緊急事態条項などは、理論的・歴史的には、じつは些細な問題で、九条に特化したような<護憲対改憲>の対立が大きな根本的対立軸になっているのは、一種の<幻影>だろう。あるいは、そのように、<平和・軍事>問題に関心を集中させたい勢力があるのだろう。
 現九条二項は、近代的・欧米的 Liberal Democracy と何の関係もない。
 現九条二項護持論者は、じつは全くの<日本独自>論者で、偏狭なナショナリズムの持ち主だ。あるいは、「社会主義(共産主義)」国に対する武力を日本に持たせたくない、又は自分たち「共産主義」者に武力が向けられるのを怖れている「共産主義」者たち、つまり日本共産党等だ。
 近代的・欧米的 Liberal Democracy との闘いという意識は、西尾幹二や佐伯啓思らにはきっとあるだろう。
 しかし、この点でも決定的な欠陥をもつのは、櫻井よしこらおよび椛島有三ら「日本会議」系の<保守>だ。
 <天皇・皇室>は、これだけでは「価値」にならない。
 <日本>を語るのはよいが、その具体像に踏み込まなければいけない。日本の<歴史と伝統>だけではほとんど全く意味がない。
 この人たちは、何を追求しているのか、「訳が分からない」人々だ。
 現憲法のどれを基本的には残してどの部分は「改正」するのか、という議論が本当は必要だ。
 明治憲法にいったん戻って、そのあとどうするのか? まさかそのままでいくわけにはいかないのでは?
 三権分立-最高裁判所等は維持するのか? 「国家」と「国民」との基本的な関係をどう築くのか(いわゆる<公共>と<人権>の問題)?
 じつは重要な将来の課題はいっぱいあるのだ。
 中央国家(この場合は国会と裁判所機構を含む)-都道府県-市町村という(東京都区部を除く)三層構造は憲法の問題か法律の問題か?
 最高裁判所とは別に「憲法裁判所」を、ドイツや韓国のように、設置するという議論はどうなのか? 今のような「参議院」でよいのか? そもそも現在のような国会-内閣の基本的関係を維持するのか(議院内閣制か大統領制か。これは上の三権分立に関係する話でもある)。
 真面目に思考する人はほとんどいない。
 <保守>を商売にしている人が多すぎる。<左翼>を生業としている人々は、さらにもっと多い。いいかげんにして死んでしまわないと、精神の健康さを保てないようにすら思える。

1553/『自由と反共産主義』者の三つの闘い③-櫻井よしこ批判。

 1) 「民主主義対ファシズム」という虚偽宣伝(デマ)。
 2) 反「共産主義(communism)」-強いていえば、「自由主義」。
 3) 反「自由・民主主義(liberal democracy)」-強いていえば「日本主義」または「日本的自由主義」。
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 上の三点の概略でも少しは語った方がよいのかもしれないが、三つは分かち難いところがあるので、順番に一つずつというわけにはいかない。
 <神道・天皇主義>は、上では<「日本主義」または…>辺りに関係しそうで、そうすると、3) の最も先端的な、または最も将来的な論点にすでに関係しているようにも見える。
 しかし、そんなことは全くない。
 櫻井よしこが主張・議論していることは、上の三点の違いはもちろん、どれを意識しているのかも、ほとんど感じさせない、率直に言って<無茶苦茶(むちゃくちゃ)>なものだ。 
 いずれは日本人は欧米的<liberal democracy>の基本的束縛から脱して、対等な<日本主義>を主張する必要がある。
 リチャード・パイプス、レシェク・コワコフスキらに感心し、アンジェイ・ワリツキの紹介がほとんどない(邦訳書はもちろんない)と不満は述べても、日本人が広い意味でのヨーロッパ化すればよいとは全く思っていない。
 彼ら欧米人の、「共産主義」に対してかつてもった切迫した現実感を思うととともに、対ソ連「冷戦」終結とともにまるで共産主義は消滅したかのごとき(日本の著名な論者にもしばしば見られる)欧米中心主義には賛同できないし、神道も仏教も知らないキリスト教世界での、ある意味では気楽さも看取できる。
 日本と日本人が欧米化してしまえばよい(自由・民主主義の点で欧米に追いつく ?)と考えている「左翼」がいるかもしれないし、<保守>派の中川八洋の英米中心主義らしき主張・立場(強い反共産主義はけっこうなことだが)もあるが、従えない。
 櫻井よしこが決して欧米的<liberal democracy>を克服しているわけではないことは、その安倍晋三支持論を読んでもすぐに分かる。
 櫻井よしこは(他にも同調する<天皇主義者>でかつ何としてもという安倍内閣支持者はいると思うが)、安倍晋三または安倍内閣の<価値観外交>を何の留保をつけることなく支持しているようだ。
 <自由・人権・法の支配>といった価値は、元来は欧米のもので、究極的には、日本国家と日本人は完全には、いわゆる欧米西側諸国や欧米人と同じ<価値観>に立つことはないし、その必要もない、と考える。
 「法」や「権利」に対する感覚は、欧米と同じだとは思えない(欧米でも例えばアメリカとドイツで同一ではないだろうが)。
 上に「日本的自由主義」と仮に書いているように、自由・民主主義等々といっても、日本的に変質させたものにきっとならざるを得ない、と考えられる。現に今でも、軋み(きしみ)があると、私は認識している。
 この辺りに注意を払わない、口先だけの<ナショナリスト>・<愛国主義者>あるいは<天皇主義者>を信用することができない。
 櫻井よしこもその一人で、この人には、例えば<戦後民主主義と日本人>という主題で深刻に(もちろん自分自身のこととして)苦悩した形跡はない、と見られる。
 だからこそ平然と、安倍<価値観外交>の支持を語れる。
 つぎに<神道・天皇主義>といっても、この立場の人々がどの程度に終始一貫しているのかは、はなはだ疑わしい。
 「日本の宗教」として神道だけを語るふうであることには、もう触れない。
 <天皇>については、議論がきわめてしにくい。たくさんの人が種々のことを論じてきた。この一年の間に何度か三島由紀夫をもう一度読もうとして、果たしていない。
 しかし、櫻井よしこの論旨一貫性のなさくらいは、簡単に指摘できる。
 櫻井は「立憲君主制」(とこの人が考えるもの)を諒としているらしく、昨年11月の政府リアリングでは、わざわざ昭和3年の田中義一首相関連のことを持ち出して明言している。要するに、<政治への介入>を慎んだ、又は反省したとして、誉め称えているのだ。
 こんな奇妙なことはない。
 明治憲法上の天皇の権力が単純に「権威」にとどまった、俗世間または「政治」と関係がないものとされた、とは私は全く理解していない。
 なぜなら、例えば二・二六事件の際の昭和天皇の言動、終戦の「ご聖断」という決意の表示、これらは完全に、側近の影響はむろんあったにせよ、<権力>の行使だった、と考える。
 そのような権力行使の余地を明治憲法自体が残していた、と法解釈せざるをえないと思われる。
 櫻井よしこに問いたいものだ。終戦「ご聖断」は立憲君主制の範疇にとどまっていたのか否か。
 目的あるいは結果がよければそれでよし、というならば、朝日新聞の<ご都合主義>と何ら異ならないだろう。
 また、ヒアリング発言ではとくに昭和天皇を称える旨を何点か述べているが、八木秀次や平川祐弘ほどではないにしても、暗に<それに比べて現在の天皇は…>と言いたいのが透けて見えて、じつに見苦しい。
 自分たちの考えと同じ言動をする天皇は「ご立派」で、そうではない天皇は「ご立派」ではないと櫻井は自分が語っていることになることに気づいていないのだろうか。これまた、<存在と祭祀>による評価という自分たちの根本的出発点を逸脱している。
 天皇・皇室中心主義などと言いつつ、じつに奇妙奇天烈なのだ。
 月刊正論の今年3月号(産経、編集代表・菅原慎太郎)へと移ろう。
 櫻井よしこは簡単に、鎌倉・徳川幕府は、あるいは「俗世の権力」は「皇室の権威」に服し、あるいは「皇室の権威の下にあ」った、「究極の権威」は幕府や世俗にはなく「皇室」にあった、と書く(月刊正論1917年3月号p.86)。
 これは日本の歴史の「偽造」だ。「偽造」が厳しすぎれば、「極度の単純化」だ。
 時代によって異なるが、実質的な権力は完全になかったかときもあるかもしれないが(そのときはおそらく「権威」もなかった)、多くの時代は<権力>は<分有されてきた>、というのが私の理解で、日本史学界の多くとも、たいして異ならないのではないか、と考えている。
 西尾幹二は何かに「権権体制」という言葉を使って権力・権威の分離を語っていたが、これまたかなり単純化しすぎているだろう。
 櫻井よしこは、天皇が「征夷大将軍」を任命した(たしかに形式上はそうかもしれないが)という<絵空事>に欺されているのではないか。そしてまた、究極の権威はずっと天皇・皇室にあった、という歴史観は、明治新政府およびその後の政府が、そしてとりわけ大戦時の政府・文部省がかなりの程度作り上げたものだ、と私は思っている。
 マルクス主義・マルクスらの発展段階史観のごとき<単純な>ものこそが、受容されやすい。原始共産制-農奴制-封建制-絶対王政-資本主義-社会主義(・共産主義) ? ?
 やや飛ぶが、櫻井よしこや現在の<保守>の一部の<天皇中心主義>または<天皇中心史観>は、日本のマルクス主義的史観の真反対であるようでいて、じつは発想がよく似ている。
 つまり一方は天皇に実質的な力(権威)があったことを肯定的に理解し、片方は、天皇にこそ実質的な最高権威があったとして否定的に理解する(そして打倒を叫ぶ。あるいは叫んだ)。
 対立していそうでいて、前提は同じなのではないか ?
 そうしてまた、立ち入ると手に負えなくなるが、櫻井よしこや現在の<保守>の一部の<天皇中心主義>は、戦時中の「國體の本義」のレベルにすら達していないし、むろんそれを克服してもいない。  櫻井よしこらは「國體の本義」の要旨だけでなく、全文をきちんと読んで、もっと「勉強」すべきだろう。
 さらに、最近はあらためて北一輝に関心をもっているが、櫻井よしこと似ている(表面的には同じ)理解または主張を北一輝がしている部分があって面白い。
 北は「純正社会主義」・「社会民主主義」の標榜者だが、明治維新を、かつての政変・権力交替とは違って、国家・国民関係を作りだし、日本に「民主主義」をもたらしたものとして肯定的に評価する(その理念を当時の財閥・政治家等が壊したと言うのだ)。そして、確認しないまま書くが、櫻井よしこが近年にやたら肯定的に持ち出す(月刊正論上掲も同じ)「五箇条の御誓文」を「民主主義」宣言書としてこれまた肯定的に語る。
 櫻井よしこと北一輝は、どこが違うのか。
 もちろん同じではないのだが、櫻井よしこや一部の<保守>派は、北一輝あるいは「青年将校たち」の主張と自分たちの主張とどこが同じでどう違うかくらいはしっかりと理解したうえで、何らかの主張をしたり、「運動」をしたりする方がよいのではないか。
 最後の方は筆がいわば走っていて、きちんと文献提示ができない。だが、言いたいことは朧気にでも分かるだろう。

1550/「つくる会」は小池百合子、「日本会議」は増田寛也を支持した。

 ○ もう一年近く前になるが、桝添要一辞任後の東京都知事選挙で、「新しい歴史教科書をつくる会」は小池百合子を支持し、「日本会議」は増田寛也を支持した
 前者が印象に残り、こうして今まで憶えている。
 有力三候補のうち、政権与党および東京都の支部の支援を受けたのは増田寛也だった。有力政党で小池支持はなかったかと思われる。
 選挙の結果が「正しい」とは限らない。あるいは、「正しい」か「誤り」かという問題設定をすること自体に問題があると、最近は感じている。<現実>はそれなりの必然性あるいは「やむをえなさ」によって生じたと<合理的に>推認したい人たちも多いのかもしれないが、それは過ちだ。
 ともあれしかし、都知事となるという<現実>を手にしたのは小池百合子で、増田ではなかった。増田寛也には何の個人的な好悪の情はないし、小池についても全く同じ。
 しかし、やはり興味深いのは、自民党等が公式に(都連も含めて)支持・推薦した候補が圧倒的に敗れたことで、これは、好ましい<選択肢>が自民党等(の候補)以外にもう一つあれば有権者のかなりの部分が、 「自民党」の名前とか機関決定に関係なく、もう一つの「選択肢」に投票する可能性があることだ。立ち入らないが、似たことは最新の大阪府知事・大阪市長の選挙でも起きた(反自民・反民主の<維新の会>候補の圧勝だった)。
 自民党と安倍晋三内閣は、国政レベルでは「もう一つの選択肢」の欠如のゆえにこそ、支持率をまだ高く維持しているようであることを知らなければならないだろう。
 もう一つ興味深いのは、略称「つくる会」の、結果としては<現実>と同じになった小池支持の判断(役員決定だろう)だ。小池の方が増田よりも「歴史認識」が近い、または「つくる会」の活動に理解をより示してきた、というのが根拠だったかと思われる。
 これに対して、<現実>にはまたは結果としては無様(ぶざま)な判断だったことになったのは「日本会議」だ。おそらくこの団体・組織は、自民党が支持・推薦する候補を支持・推薦する、というほとんどルーティン的な思考と決定をしたものと思われる。
 そのかぎりでは、はるかに「つくる会」の方が<自由な>あるいは<柔軟な>思考ができていたわけだ。
 ○ 2007年3月に正規にこの欄を立ち上げたとき、「新しい歴史教科書をつくる会」という団体があるのを知っていたが、<分裂>等々に関する知識はほとんどなかった。
 但し、一度だけ、西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007)の中の、とくに手厳しい、全人格的な(または学者・研究者ないし<保守>活動家全面についての)八木秀次批判についてこの欄で言及したことはある。
 今では、例えば、以下の書物を持っているし、たぶんとっくに熟読し終わっている。
 したがって、種々の経緯については、その頃よりもはるかに詳しい。
 小林よしのり責任編集/新しい歴史教科書をつくる会編・新しい歴史教科書を「つくる会」という運動がある(扶桑社、1998)。
 鈴木敏明・保守知識人を断罪す-「つくる会」苦闘の歴史(総和社、2013)。
 小林よしのり・ゴーマニズム戦歴(ベスト新書、2016)の関係部分。
 西尾幹二・藤岡信勝らの書物等は除く。
 こうした「歴史」を知ると、いろいろなことが分かる。
 例えば、なぜ、八木秀次は、産経新聞または月刊正論で継続的に「重用」され続けているのか。
 10年ほど前に西尾幹二が感じていたことと、私は基本的に同感で、八木秀次は「信用できない」。
 また、ついでに記せば、天皇・皇室敬慕を謳っているにもかかわらず、譲位問題についての今上天皇に対する<きわめて個人的な嫌悪感>を示す、最近の文章部分に喫驚したこともある。
 また、渡部昇一がいわば初期または第一次の(西尾幹二理事長時代の)「つくる会」には何ら関与しておらず、西尾幹二の退任後に関係をもち始めたことも、私には興味深い。
 屋山太郎がどうやら反西尾・反藤岡側で、産経新聞社・扶桑社側に立って<政治的>活動をしたのも、なるほどと思わせる。この人は、八木秀次とともに「教育再生会議」に関与していたはずだ(屋山太郎批判はさんざんこの欄でした。国家基本問題研究所の立派な「理事」の一人だ)。
 櫻井よしこは、「つくる会」の運動とは関係がなかった。さらに言及したいが、2000年刊行の憲法とは何か(小学館)は自衛隊違憲論のほかにも「左翼的」議論がある(政教分離という基本問題への言及が全くないことには既に触れた)。
 この人は、今のごとき<保守派のラウド・スピーカー>(某左翼論者-名前を忘れた-)ではなかった。
 また、櫻井よしこが2015年夏の安倍内閣・戦後70年談話の評価を、のちにまとめた本の当該部分の「追記」で実質的に反対方向に変えるという<信じがたい荒業>をしていることをこの欄で指摘したが、その際に支持するとして明記したのは、「中西輝政、伊藤隆」の月刊正論上等の論考による安倍談話の「歴史認識」批判だった。
 それを記載しているときにも感じたのだが、中西輝政はともかく、安倍70年談話の「歴史認識」批判者としては、少なくともその次に「西尾幹二」の名を明記してよかっただろう。
 しかし、おそらくあえて、櫻井よしこは意識的に西尾幹二を除外している
 <保守>的論壇の人間関係など私が知る由もないが、おそらく、西尾幹二と櫻井よしこの間の人間関係は、良くはないようだ。
 もちろん、このように二者択一的に提示されれば、私は西尾幹二の側に立つし、西尾幹二により近い。
 しかし、西尾幹二には語ってみたいこともある。いや、もう少し、「つくる会」について書いてからにしよう。

1510/日本の保守-宗教・神道と櫻井よしこの無知④02。

 ○ 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84-89。
 この櫻井よしこの論考は、月刊正論3月号の<ポスト安倍・論壇は誰か ?>を主題とする、<保守>に関する特集の中にある。そして、この月刊正論3月号は、10人以上の論者に「保守」を語らせながら(その中にこの欄で紹介した小川榮太郎のものもあった)、前に八木秀次「保守とは何か」、最後に櫻井よしこ「これからの保守…」をもってきてそれらを挟むという編集スタイルをとっている。
 このように八木秀次と櫻井よしこを<保守>論者として重視するという編集姿勢そのものにすでに、産経新聞的または月刊正論的、または月刊正論編集部・菅原慎太郎的な<保守>の現況の悲惨さ、惨憺さが現れているだろう。
 上の櫻井論考は6頁あるが、神道・古事記等々は出てきても、「仏教」という語は一回も出てこない。
 櫻井よしこは「保守の特徴」の第一は「日本文明の価値観を基本とする地平に軸足を置」くことだとしている(そして「世界に広く心を開き続ける」ことだとする)。
 この程度のことは誰でも語ることができるし、場合によってはナショナル左翼もまた、この文章自体に反対することはないかもしれないレベルのものだ。
 問題はもちろん、「日本文明の価値観」として何を想定するかにさしあたりはなる。
 櫻井よしこが一切「仏教」に触れていないことは既に記した。櫻井が頻繁に言及しているのは、「十七条の憲法」と「五箇条のご誓文」で、後者は「ご誓文」だけの場合も含めて、(6頁に)7箇所も出てくる。
 「日本文明の価値観」を示したものとして櫻井が最初に挙げるのが「十七条の憲法」で、これと「五箇条のご誓文」は重なるとか似ているとかしきりに言っている。
 そして、聖徳太子・十七条の憲法-天武天皇・古事記-神道-天皇・皇室という流れの中で、「神道」を位置づける。
 明記はないが、「五箇条のご誓文」は(神道・)天皇・皇室中心の<明治>国家の最初の宣言文書という扱いだと理解して、まず間違いないだろう。
 ○ 「十七条の憲法」といえば聖徳太子だが、この人物名の問題は別として、聖徳太子は、仏教を日本で容認してよいかどうかの蘇我氏と物部氏の間の紛議・対立に際して前者を支持して仏教容認派勝利を決定的にした。これは、中学生の教科書にもあるだろう。
 櫻井は上の論考でも最近の別の文章でも聖徳太子を高く評価しているが、「仏教」とのかかわりはどう見ているのだろうか。週刊新潮2017年3/09号にこうある。
 「神道の神々のおられるわが国に、異教の仏教を受け入れるか否かで半世紀も続いた争いに決着をつけ、受け入れを決定したのが聖徳太子である。キリスト教やイスラム教などの一神教の国ではおよそあり得ない寛容な決定である」。
 この部分以外に「仏教」は出てこない。
 しかも、「異教」のそれを受容したことに日本文明または神道の「寛容」性を見る、という文脈の中で位置づけている。
 この頃からおよそ1400年経った。しかも150年ほど前にすぎない1800年代の後半までは、<神仏混淆>・<神仏習合>と言われる時代が長く続いた。かりに600年~1850年として、1250年も続いた。
 この歴史を、櫻井よしこは無視、または少なくとも軽視しているのではないか。
 天皇譲位問題に関するこの人の主張の基礎と同じく、ほとんど明治期以降にしか目を向けていないのではないか。あるいは、<明治日本>を最良・最高の日本だったと観念しているのではないか。
 別の観点から批判的にいえば、日本文明は「異教の仏教」を受け容れたが、基本的にいえば、キリスト教やイスラム教を受容しなかった。
 キリスト教・イスラム教と仏教は、日本人と日本国家にとって、明らかに違うだろう。
 しかし、櫻井よしこの文章には、そこに立ち入っていく姿勢・雰囲気はまるでない。
 聖徳太子以前の時代にだけ「日本文明」を限れば別だが、今や、あるいは飛鳥・奈良・平安等々という時代を通じてずっと、ある程度は日本化した、また日本で新登場した(新解釈された)と見てよい「仏教」を無視または軽視して、日本の伝統的な「文明」も「文化」も語ることはできない、と考えられる。
 櫻井よしこの視野は、偏狭だ。
 ○ 西尾幹二は「仏教に篤い心を持つ天皇も歴史上少なくありませんでした」と述べた(前回参照)。
 そのとおりだ。諸天皇・皇族は、<信教>のことなどを考える物質的・精神的余裕がなかった時代は別だが、おおむね神仏をともに崇敬していて、中には「仏教」により強く傾斜した天皇も少なくなかった、と思われる(逆に神道の方を重んじた時代・天皇もあったかもしれない)。
 キリがないだろうが、例えば西国三十三カ所巡拝(観音菩薩信仰)は平安時代の花山天皇に由来するともされる。
 また例えば、京都市には今でも無数に(正確には数多く)「門跡」寺院というのが残っていて、これは天皇・皇族が出家して法主等を務めた「仏教」寺院を意味する。
 北白川の曼殊院には秋篠宮殿下家族がご訪問の際の写真が掲示されている。有名寺院の中でも、他に、青蓮院、聖護院、三千院、仁和寺、大覚寺等々、数多く「門跡」である仏教寺院はある。
 櫻井よしこの蒙を啓くためにも、天皇・皇族の<墓陵/陵墓>について、以下に述べる。
 なお、秋月瑛二はこの問題についても<専門家>ではない。そうでなくとも、櫻井よしこがきっと知らないことを知っているし、櫻井よしこが関心を持たないことにも興味をもつのだ。
 ○ 櫻井よしこは、光格天皇を、天皇・皇室の<皇威>を高めた天皇として高く評価していたようだ。
 しかし、光格天皇は、櫻井よしこが本当は反対だったはずの<生前退位>を行なった天皇(最後の)であり、「院政」を敷いたかはこの概念の理解にもよるだろうが、現在のところ最後の<上皇>だった。
 天皇・皇室問題に関連して櫻井よしこがこの天皇に触れたとき(週刊新潮で取り上げたとき)、上のことはどの程度意識されていたのだろう。
 かつまた、光格天皇の死後どのように天皇の「墓陵」は造営されて管理された(管理されている)のか。
 いつぞや「美しい日本」との連載ものの中で下り参道の珍しい例として泉涌寺(京都)を挙げ、ほんの少し「御寺(みてら)」と呼ばれて天皇陵も周辺にあることを記した。
 明治天皇の曾祖父にあたる光格天皇の墓陵は「後月輪陵」といって、泉涌寺の周辺にある。以下、地図も付いて分かりやすいので、つぎの書物を参照する。
 藤井利章・天皇と御陵を知る辞典(日本文芸社、1990年)。
 祖父の仁孝天皇も同じ「後月輪陵」、父親の孝明天皇はその東の「後月輪東山陵」で、-現地で確認したことはないが-泉涌寺の近くでいわば寄り添っている。
 さらに、17世紀最初の皇位継承者だった後水尾天皇から、明生、後光明、後西、霊元、東山、中御門、桜町、桃園、後桜町、そして1770年即位の後桃園天皇まで、200年近くの各天皇の墓陵・御陵は全て「月輪陵」であり、泉涌寺の周辺に集中している。
 何となく「御寺(みてら)」という語を印象的に記憶していたが、こうして見ると、泉涌寺と天皇(家)の関係は、少なくとも日本近世ではきわめて密接だった。
 いや、場所的に近いだけで、寺院と墓陵は別だろう、という人が必ず出てくるので、さらに立ちいる。とりあえずは、上掲書の後水尾天皇の項にこうあるとだけ紹介する。
 「…崩御され、…泉涌寺において陵地を決定し、…夜入棺して、泉涌寺の僧徒がこれを手伝った」。p.243。
 つづける。

1508/日本の保守-「宗教観念」・櫻井よしこ批判④。

 ○ 西尾幹二・維新の源流としての水戸学/GHQ焚書図書開封第11巻(徳間書店、2015)に、つぎの旨の叙述がある。p.41-70、p.78-、p.95-101、p.167など。(以下、必ずしも厳密でない再述がありうる。但し、大きくは誤っていない)
 水戸光圀・大日本史の編纂にあたって論争点になった三つの「難問」があった。
 ①南朝(後醍醐)は正統か-楠木正成は逆賊でないのか、のほか、
 ②大友皇子(天智の子)は天皇としてよいか、②神功皇后を皇統の一代に数えるべきか。
 これらは、明治維新後の新政府の「歴史」理解の問題ともなり、「水戸学」・大日本史と同じ結論が維持された。
 ①南北朝のうち南朝が正統、②大友皇子は天皇に即位していた(弘文天皇と追号)、③神功皇后(=応神天皇の母)は天皇と同様には扱わない(天皇のように一代とは数えない)。
 以下は、内容も秋月の文になる。
 日本書紀は天武天皇とそれ以降の天武系の天皇のもとで編纂されたので、天智の子・大友皇子(母は伊賀采女)を天皇扱いにしているはずがない(当然だと思うので、確認しない)。大友が天皇に即位していたことを認めてしまえば、<壬申の乱>で天武は天皇を弑逆したことになるからだ。天皇から皇位を奪い取ったことになるからだ。
 大友が即位していなければ、辛うじて、天智天皇の死のあとの弟と子(天武からいうと甥)の間の<皇位継承の争い>という説明ができる。
 明治になって公式に大友皇子=弘文天皇とされたので、当然だが、その一代だけとっても(天智より後は)、日本書紀と今日の理解での各天皇の代数は、少なくとも一つずつ異なる
 <保守>の人々はときに、例えば櫻井よしこも、平気で<~代までつづく>と今日までの代数を示すが、これは明治期以降に「確定」 ?したものだ。
 ○ 同じく、西尾幹二・維新の源流としての水戸学/GHQ焚書図書開封第11巻(徳間書店、2015)は、西尾自身の言葉として、つぎのことを主張している。同旨は多々あるようだが、つぎの一箇所に限る。p.40。
 明治新政府の「廃仏毀釈というのは善い意味でも悪い意味でも非常に影響の大きい運動」でした。「『国家神道』が唱道され、仏教を廃し神道を重んじる」ことになった。「それが天皇家の復活に寄与したという一面がある」。
 「しかし長い目で見ると、仏教を否定したのは精神史上マイナスであったといわざるをえません。仏教に篤い心を持つ天皇も歴史上少なくありませんでした」。
 神道の重視は「天皇家の復活には役立った」。「しかし、その結果、日本人の宗教を痩せ衰えさせてしまったという面があるのです」。
 秋月瑛二も、この辺りの理解に賛同したい。私は、神社も寺院もたいていは好きで(レーニンやロシア革命にだけ関心があるのではない)、全国のかなり各地を回っているが、神社・神道と寺院・仏教の違いや類似性、日本化した(おそらく神道の影響を受けた、強いて今日的に分類すれば)仏教・寺院の存在を、肌感覚で感知することがある。
 ○ 櫻井よしこの、以下の論考は、その<保守(主義)宣言>と理解して、今後も複数回とり挙げる。
 櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)p.84-。
 この中に、つぎの一節がある。
 「古事記は」、「日本が独特の文明を有することや、日本の宗教である神道の特徴を明確に示して」いる。
 「神道は紛れもなく日本人の宗教です」。p.85。
 このあと段落すら変えないで(改行することなく)、櫻井は古事記の話に入り、「自然が神々であり、それらはやがて人間になり、天皇と皇室が生まれたわけです」と、段落を結ぶ。p.85-86。 
 先に最後の部分に触れると、櫻井よしこは竹田恒泰の著を参照文献のごとく括弧内で挙げている。しかし、竹田恒泰もさすがに自然・神々・人間・天皇の関係を(永遠の自然史の流れとしてはともあれ)「事実」として主張しているのではなく、あくまで古事記に記述された<物語>の内容を説明しているだけだと思われる。
 しかるに、この櫻井よしこの書き方では、まるで天皇とは「現人神」だ。
 そのように「観念」するのはまだよいが、「神」と「天皇」・人間を同一視するかの叙述を「事実」のごとく叙述すべきではないだろう。
 そもそもはこのあたりにすでに、<観念・意識・精神>と<現実・事実>の境界の不分明な櫻井よしこの叙述の特徴が出ている。
 ○ 本来言及したいのは、上の点ではない。
 神道は日本の宗教である、というとき、二つの基本的な論点がある。
 一つは、そもそも「宗教」とは何かだ。明治期には、むしろ特定の<宗教>もどきのものとは神道は扱われなかったという逆説的な理解も可能だ。
 つまり、日本の神道は「宗教」ではなく、「伝統的習俗」類であって、例えば現在の憲法がいう「宗教」とは異なる、という理解も不可能ではないのだ。
 二つは、では、「仏教」は、日本の宗教ではないのか、という問題だ。
 上の引用部分では明らかではないが、櫻井よしこは明らかに、仏教よりも神道を重視している。一つだけとすれば、間違いなく、躊躇することなく、神道を挙げるに違いない。
 一つだけ取り上げる、又は最重視する「宗教」を敢えて名指しする、という考え方は、日本の<保守>あるいは日本国家や日本人にとって、望ましいことなのだろうか。
 ここで再び、冒頭近くに紹介した西尾幹二の主張・叙述に、目を向けるべきではないだろうか。
 櫻井よしこの「頭」は、観念的・単純で、偏狭なのだ。もともと関心があるテーマなので、つづける。

1496/日本の保守-歴史認識の愚弄・櫻井よしこ③03。

 ○ 櫻井よしこ的「保守」にはいいかげんうんざりしていると、既にいく度か書いた。
 本当は読みたくもないし、それについて何か書きたくもない。精神衛生によくない。
 しかし、自分自身が始めてしまったから、誰にも強いられない立場ながら、やむをえない。櫻井による米大統領トランプ批判(ケチつけ)や、その「天皇」・「宗教」観について、ある程度すでに、書き記す用意ができてしまった。
 ○ 前回に2015年戦後70年安倍内閣談話についての、週刊新潮(同年8/27)誌上での高い評価を見た。
 ところが、櫻井よしこは、この週刊誌の連載ものをまとめた書物では、何と微妙に、あるいはほとんど逆方向にすら、論評内容を変える「追記」を付加している。
 櫻井よしこ・日本の未来(新潮社、2016.05)、p.192。
 毎週の週刊誌読者に対して失礼だろう。また、櫻井よしこにとっての「歴史認識」とは何か、櫻井にとっていったん活字にした自分自身の論評とは何か、を強く疑わざるをえない。要するに、この人にとっては、歴史認識も安倍談話も、じつはどうでもよいのではないか。そのときそのときで適当に書いて原稿を渡せればよいのではないか。
 上の本の8カ月ほど前に櫻井は書いて、活字にした。
 例えば、談話は「安倍晋三首相の真髄」、「大方の予想をはるかに超える深い思索に支えられた歴史観」を示す。/談話は、有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」
 ○ それが何と、上掲書では変質してしまう。これを読んだとき、秋月は、すぐさま、<保守論壇の「八方美人」>と感じて、その旨を一行、一言だけだが、この欄に書いた。
 この変化は、戦後70年安倍談話に対して、(私には当然のことだが)厳しい批判が明言されたことにあるようだ。
 櫻井よしこは、中西輝政と伊藤隆の二人を明示しつつ、「少なからぬ専門家から厳しい批判が寄せられた」と書く。上記、p.192。
 このような反応に櫻井よしこは困ったようで、かつまた、中西輝政らの批判の正当性に(ようやく?)気づいたようで、何とか綻びを繕おうとしている。
 櫻井は何と、つぎのようにここでは言い切っている。
 「両氏の主張、つまり談話批判は全くそのとおりであると認める」。
 中西輝政の批判の中には当然ながら、有識者「21世紀構想懇談会」の報告書によって国家の歴史解釈を規定すべきでない、ということがあった。
 にもかかわらず、週刊新潮の段階では櫻井は、有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」ことを、安倍談話を高く評価する根拠の一つにしていた。
 中西・伊藤らの主張・談話批判を「全くそのとおりであると認める」ということは、有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」というかつての自分の読み方が、完璧に誤りだったと正面から認めているのに他ならない
 しかし、ここが櫻井よしこのしぶとい( ?)ところで、中西輝政が一部で「政治文書」という言葉を使っていることに着目して、つぎのように書く。
 両氏の談話批判は「全くそのとおり」だが、私(櫻井)が安倍首相談話を「評価する理由はそれが政治文書であるという点だ」
 唖然とするとしか、言いようがない。
 中西輝政が「政治文書」と語ったのはおそらく、十分に皮肉を込めてだろう。安倍晋三氏よ、日本国家の歴史認識を「政治」的に操作してよいのか、という意味だろう。ついでに記すと、西尾幹二も「政治的文書」という語を用いて表向き褒めるような導入をしつつ、そのあとで、談話の歴史認識を実質的に批判している(西尾幹二・日本/この決然たる孤独(徳間書店、2016)-原論考・月刊正論2015年11月号「安倍総理へ『戦後75年談話』を要望します」)。
 中西の「政治文書として賞賛措く能わざるほど素晴らしいできだ」という文章が、そのまま安倍談話を「政治文書」として高く評価するものと理解するのは、幼稚すぎる。批判をこめた皮肉だろう。
 すなわち、これまた、日本語文章の意味を全文の中で、種々のレトリックをくぐり抜け、行間も推察しつつ理解する、ということを櫻井よしこができないことを示しているだろう。
 さらに、櫻井は、やや意味不明だが、つぎのようにも書く。
 「政治文書」として高く評価できるが、「歴史理念としては村山談話を超えるものではなかった」。上記、同頁。
 この部分は、週刊新潮誌上での、安倍首相談話は「大方の予想をはるかに超える深い思索に支えられた歴史観」を示した、という無限定の高評価と真反対だ。
 平然とこのように書けるのが櫻井よしこであることを、多くの国民は、とりわけ「左翼」ではない人々は、知らなければならない。「歴史理念としては村山談話を超えるものではなかった」というニュアンスなど、2015年夏の時点では何も語っていない。
 本来はかつての文章を全面的に取消し、単行本に収載するに際してはこれを含めない、削除する、というのが、良心的なかつ正義感のある、自己懐疑心のある、立派な「ジャーナリスト」・評論家だろう。
 では、後から持ち出した「政治文書」として評価する、という論じ方は適切なのか。
 中西輝政らの指摘を知ったあとでの後出しジャンケンのごとき論法を持ち出すな、と言いたいが、まともに取り上げてみよう。
 簡単に、論駁できる。
 首相、内閣、大臣等々の談話は、すべてが<政治的>だ。
 彼らが発表する談話、声明等々は、すべて「政治文書」だ。もともと学者の研究論文ではない。
 その「政治文書」の中に、日本国と日本人の<歴史認識>に大きく関係する内容を、しかも根幹的内容として含めてしまってよいのか、というのがそもそもの問題だったのだ。
 櫻井よしこの論法でいえば、村山富市談話も、慰安婦にかかる河野談話も、「政治文書」だからという理由で、免罪されてしまうことになりかねない。
 櫻井よしこは、村山談話や河野談話に対して、「政治文書」か「歴史認識」・「歴史理念」を示す文書かの区別をしたうえで批判してきたのか。
 そんな区別をしていないだろう。
 しかるになぜ、安倍首相2015年談話については、2016年になって「歴史理念」は「村山談話を超えるものではなかった」が、「政治文書」であるという理由で「評価する」と、ヌケヌケと語れるのか。
 ○ 2009年にはすでに、櫻井よしこは信用できない、と感じてきた。
 このような人物を「保守」的「研究」団体の理事長にまつり上げる、又はかつぎ上げることをしなければならない<日本の保守>というものは、本当に絶望的なのではないかと、本当に危ういのではないかと、むろん櫻井のような人物だけなのではないが、強く感じている。
 櫻井よしこ「研究」を、さらにつづける。


1492/日本の保守-歴史認識の欺瞞・櫻井よしこ③。

 ○ 「歴史認識」という日本の保守にとって譲れないはずの基本的な問題領域で、日本の保守は、大きく崩れてしまっている。正確にいえば、読売新聞系ではない産経新聞系「保守」あるいは自国の歴史について鋭敏なはずの<ナショナル・保守>の保守「論壇」人についてだ。
 おそらく、「観念保守」の人々の歴史認識は、ほとんど全ての人々において、狂っているだろう。あるいはそもそも、きちんと正確に日本の歴史を見つめる勇気がない。あるいは語る勇気がない。あるいは、関心自体がない。
 以上のことを、2015年8月の安倍内閣・戦後70年談話に対する論評の仕方で、残酷にも知ってしまった。
 秋月瑛二自身も、これによって、産経新聞や一部の<保守>をきわめて強く疑うようになった。そして、「観念保守」という概念も見出した。
 ○ もちろん、正気の、まともな<保守>の人たちもいる。
 水島総が月刊正論(産経)誌上の連載を中止しているのは、産経新聞や月刊正論編集部の基本的な<歴史認識>(日韓慰安婦最終決着文書も含む)に従えないという理由でかは、私は知らない。
 だが、安倍晋三とその内閣の<歴史認識>の表明内容を、水島総はきちんと批判している。
 但し、この人の発言等を全部信頼しているのではもちろんない。この人の天皇・皇室への崇敬の情は、私には及びもつかない。
 中西輝政は、歴史通(ワック)2016年5月号で、上記談話への反応に関して、つぎのように書いた。
 「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」。p.97。
 「この半年間、私が最も大きな衝撃を受けたのは、心ある日本の保守派とりわけ、そのオピニオン・リーダーたる人々」が「安倍政権の歴史認識をめぐる問題に対し、ひたすら沈黙を守るか、逆に称賛までして、全く意味のある批判や反論の挙に出ないことだった」。p.109。
 西尾幹二は、この欄に既に引用していることを上に続けてさらに掲載するが、月刊正論2016年3月号で、つぎのように書いた。
 「私は本誌『月刊正論』を含む日本の保守言論界は、安倍首相にさんざん利用されっぱなしできているのではないか、という認識を次第に強く持ち始めている。言論界内部においてそうした自己懐疑や自己批判がないのを非常に遺憾に思っている」。
 西尾幹二と中西輝政の二人が、今年に入ってから読んだ雑誌で対談していたが、すぐには見当たらないので、関係する部分があるかもしれないが、省く。
 記憶に頼れば、戦後70年安倍談話を正面から批判したのは、われわれ二人だけだった、という旨を西尾が語っていた。
 二人だけではない。雑誌上でも、伊藤隆は批判派だったし、藤岡信勝や江崎道朗もおそらくそうだろう。他にも、渡部昇一、櫻井よしこ、田久保忠衛らの迎合的反応を苦々しく感じている人々が多数いると思われる(国家基本問題研究所の役員の中にも。しかし、全てではない。「アホ」もいるからだ)。
 小川榮太郎の見解は、知らない。
 ○ ふと気づいたが、櫻井よしこは、週刊新潮2016年12/8号で、朝日新聞社説を批判して、つぎのように言った。
 「朝日社説子は歴史認識について」某を批判した。「噴飯物である。如何なる人も、朝日にだけは歴史認識批判はされたくないだろう。慰安婦問題で朝日がどれだけの許されざる過ちを犯したか。その結果、日本のみならず、韓国、中国の世論がどれだけ負の影響を受け、日韓、日中関係がどれだけ損われたか。事は慰安婦問題に限らない。歴史となればおよそ全て、日本を悪と位置づけるかのような報道姿勢を、朝日は未だに反省しているとは思えない。」
 櫻井よしこは、2015年末日韓慰安婦最終決着を、2015年夏の戦後70年安倍内閣談話を、どう論評したのか。「噴飯物である」。
 歴史認識について、朝日新聞を、上のように批判する資格が、この人にあるのだろうか。
 ひどいものだ。日本語の文章の趣旨を理解できない人物が、「研究」所理事長になっており、田久保忠衛という同じく日本語の文章を素直にではなく自分に?都合良く解釈できる人物が、その研究所の<副理事長>におさまっている。
 いずれこの「研究」所の役員たちには言及するとして、櫻井よしこが戦後70年安倍内閣談話をどう読んだか等について、さらに回を重ねる。
 ○ ついでに、先走るが、櫻井よしこによる米大統領・トランプ批判の底にある、単純な<観念>的なものにも気づいた。
 櫻井よしこは、天皇や日本の歴史にかかわってのみ「狂信者」になるのではない。いや、正確には、「狂信」とまではいかないが、この人は、詳しい知識があるような印象を与えつつ、じつは単純・素朴な<観念>に支えられた、要領よく情報を収集・整理して、まるで自分のうちから出てきたかのように語ることのできる、賢い(狡猾な)「ジャーナリスト」だ。
 心ある、冷静な判断のできる人々は、例えば「国家基本問題研究所」の役員であることを、恥ずかしく思う必要があるだろう。

1484/日本の保守-櫻井よしこという「ジャーナリスト」①。

 ○ 櫻井よしこは「ジャーナリスト」を自分の肩書きにしているようだ。
 たしかに、歴史家でも思想家でもない(社会思想、経済思想、政治思想、法思想等々のいずれの意味でも思想家ではない)。
 また、学者・研究者だとも言えないだろう。少なくとも、そのような<世俗>の資格を持ってはいなさそうだ。
 もちろん、歴史家、思想家(・哲学者)、研究者などは自称すれば誰でもなりうるのだが、「ジャーナリスト」というのは謙虚であるかもしれない。
 いや、ジャーナリストの何らかの積極的な意味に、誇りを持っているのかもしれない。
 ジャーナリストにもいい意味はあるだろう。
 しかし、ジャーナリストは、多数の情報を入手し、整理し、要領よくまとめて、多くの又は一定範囲の人々に伝搬する者たち、という印象もある。
 櫻井よしこはまさにその印象どおりの人で、例えば週刊新潮の連載でも、「評論家屋山太郎氏によれば…」とか「百地章教授によれば…」とかのインタビー記事か問い合わせへの回答(又は親しい会話)で1/4ほどを埋めたり、何らかの雑誌・新聞記事の紹介で半分ほどを埋めたり、光格天皇や孝明天皇について特定の書物から長々と引用・紹介したりしたうえで、自分の感想・コメントを最後のあたりで(又は冒頭あたりで結論提示しつつ)ごく少なく述べる、ということをしてきている。きっと、週刊ダイアモンドでも同様なのだろう。
 もっとも、その引用・紹介やまとめ方が一見は要領よさそうでも奇妙なこともあるのは、例えば、光格天皇・孝明天皇についても見られる。
 のちに福地重孝・孝明天皇(秋田書店、1974)も入手して見てみたが、この本は「最後の闘いの武器は譲位」という趣旨を第一の主眼点にしているわけではない。また、当時に攘夷(・反幕府)を孝明天皇にも熱心に迫って動いた公家たちの中に岩倉具視がいたこと(福地は明記し、藤田覚は不確実だが推定されるとする)には、櫻井よしこは何ら触れていない。
 紙数、頁数に限りがある、という釈明はできない。限りあるなかで、なぜ一定の、限られた情報しか選択しなかったのか、と問われれば、答えに窮するのではないか。
 ○ 「国家」の「基本問題」を「研究」する国家基本問題研究所という(任意・私的)団体の理事長は、櫻井よしこだ。
 「ジャーナリスト」にすぎない、あるいは思想家・歴史家でも研究者でもない、あるいは常識的意味では「政治家」でもない櫻井よしこを、なぜ役員の方々は理事長に戴いているのだろうか。
 あるいはその人々はなぜ、櫻井よしこが呼びかけた団体に喜んで?加入して、役員として名を連ねているのだろうか。
 二つめの○の第一文の内容はすでに、日本の「保守」の現況がいかに悲惨なものであるかを、かつまた日本国民に、決して良い影響を(少なくとも長期的には)与えないだろうことを、十分に示唆している。
 さすがに、敬愛する?西尾幹二や中西輝政は、この団体と少なくとも形式上の関係はなさそうだ。
 しかし、役員の方々の名前を見ていると、じつに興味深いことも分かる。

1481/天皇譲位問題-小林よしのり・天皇論平成29年の一部を読む①。

 ○ 小林よしのり・天皇論平成29年(小学館、2017)のp.479以下を読んだ(又は拝見した)。
 入手が遅れたのは、主題についての関心の薄さ、「観念保守」(=小林よしのりが「自称保守」とか称しているものに近いかもしれない)の文章を思い出すことへの嫌悪にもよる。 
 ○ 最後の方の p.544に、小林が批判の矛先を向けている8名の人物の顔の似顔絵が出てくる。
 ちなみに、昨秋あたりの月刊正論(産経)はこの似顔絵化を、<卑劣>だとか批判していた。
 しかし、小林よしのりの絵から、私でもかなり人物名を特定できる。しかるに、月刊正論(産経)は最終頁あたりで「教授」・「先生」・「女史」等とだけ冠名する人物を登場させて、個人名を隠したままで勝手な?ことを言わせている。
 良心的なのはまだ小林よしのりで、月刊正論編集部(産経)の方が<卑怯>だろう。
 元に戻る。8名のうち、左の2名はすぐには分からなかったが、どうやら加瀬英明と加地伸行らしい。
 残るは、右から、八木秀次、渡部昇一、小堀桂一郎、竹田恒泰、平川祐弘、櫻井よしこ。ほんの少し頭を覗かせているのが大原康男かと思われるが、さしあたり計算から省く。
 上の8名のうち政府・天皇関連有識者会議のヒアリング対象者は、八木秀次、渡部昇一、平川祐弘、櫻井よしこの4名
 なんと、秋月瑛二が「観念保守」と批判し、<アホの4人組>と酷評した4名と全く同じ。100%の合致だ。
 しかも、上の点はかりにさておいても、8人のうち4名が該当するだけでも、相当な<打率>だ。なお、大原康男を含めても、4/4.3くらい、および4/8.3くらいの高い<打率>になる。
 小林よしのりの上の基本的な感覚または彼らの論旨(譲位反対論)に対する非難は、まことに健全だ。
 ○ 加地伸行がヒアリング対象者だったとすれば、平川祐弘と同じかさらに低レベルの発言をしていた可能性がある。 
 たぶん昨年中に、西尾幹二は(確認しないが)月刊正論あたりでたしか天皇・皇室問題で加地伸行と対談していたが、加地の発言にほとんど頷くばかりで、容喙していなかった。加地の発言のあまりのヒドさに思わず、私は当該雑誌自体を放り投げたほどだ。
 もっと前にも、西尾幹二と加地伸行の二人は天皇・皇室問題でかなりひどい対談か論考を載せて話題になったらしい(これもかすかな記憶はある)。
 西尾幹二は、ときに一緒に酒呑みするくらいならよいが、加地伸行レベルの人物と雑誌用の対談などはしない方がよいと思われる。せっかくの高名を辱めるだけだろう。
 ○ とここまで書いて、まだ小林よしのり著の内容にはほとんど立ち入っていない。
 これまた連載にするしかない。


1462/西尾幹二は「国体」を冷静に論じる-「観念保守」批判。

 ○ 櫻井よしこが書いていることは1937年・文部省編纂『國體の本義』とよく似ており、部分的には酷似している、と最近に書いた。そして、そのような一面的・観念的な「史観」による歴史叙述を簡単にしてはいけない、とも書いた。
 日本書記・古事記の記述は全部ウソだという人に対しては、いやいや、かなりの程度は少なくとも事実を反映している、何らかの民族的記憶を背景にしている、と言いたくなる。一方で、日本書記・古事記の世界をそのまま日本の歴史として(たんなる「お話」と事実と合致する歴史叙述を区別しないで)「信じる」人に対しては、いやいや、そう思いたくとも事実ではないところが多い、と言いたくなる。
 全か無か、正か邪か、善か悪か、真か偽か、物事をこのように二項対立的に単純に理解してはいけない。
 ○ 産経新聞社の、かつて月刊正論・編集代表者だった桑原聡は、退任するにあたって、同誌2013年11月号でつぎのように書いた。この欄の2013年11月14日付=№1235も参照。 
 「自信をもって」、「天皇陛下を戴くわが国の在りようを何よりも尊いと感じ、これを守り続けていきたいという気持ちにブレはない」と言える、と。
 ここには、「何よりも尊い」、「天皇陛下を戴くわが国の在りよう」を護持しようとするのが<保守>だという、強い観念、強い思い込みがあるようだ。
 <保守>の意味もさまざまだから、そのように考えている<保守>の主張を一概に否定するつもりはない。
 しかし、秋月は、「天皇陛下を戴く」ことが日本と日本人にとっての最高の価値、最大限に追求すべき価値だとは思っていない。
 むしろ、天皇・皇室制度が「左翼」、とりわけ共産主義者によって利用されることを怖れている。例えば、日本人に親天皇・親皇室感情が強いと知っている共産中国は、かりに将来に日本を何らかのかたちで侵攻して日本の政権を事実上であれ従属させた場合、少なくとも当面は<天皇制度をともに戴く>ことを躊躇しないのではないだろうか。
 共産主義者は、目的達成のためならば、何でもする、何とでも言う、と想定しておかなければならない。日本共産党も同じ。
 なお、かつて雅子皇太子妃に対する批判が<保守>論壇でも有力になされたときに、いわゆる「東宮」側に立ったコメントをこの欄に書いたのは、何が何でも雅子妃を含む皇室を守るという気持ちからではなく、主としては、そのような(私が知らない何らかの情報があったのかもしれないが)批判をするのはもはや遅い、無意味だ、という反発からだった。
 率直にいって、美智子皇后に<ベアーテ・シロタは女性の人権拡張に貢献した>という発言があるという噂・風聞の方が怖ろしい。
 ○ 西尾幹二・GHQ焚書開封4-「国体」論と現代(徳間書店、2010/のち文庫化)は、サブ・タイトルどおり、「国体」論を扱う。その他の巻で扱われている書物もそうだが、GHQが「焚書」にしたからといって、それらの書物の内容が全面的に正しい、または真実だ、ということにはならない。当然ながら、西尾幹二は、そのことをふまえている。
 冒頭で言及した1937年・文部省編纂『國體の本義』に限る。西尾はつぎのように冷静に、この本を読んでいる(p.131~)。櫻井よしこに読ませたいような部分に限って、以下に部分的に引用する。
 『國體の本義』のすぐの冒頭部分を「読んで、正直ちょっとやりきれないな、と感じる人が普通で」はないか、「現代のわれわれの感覚からするとまったく浮世離れして見えるから」だ。p.134。 
 「ここからは私の批評です。ある意味では、この『國體の本義』に対する批判です」。p.154。
 日本人の心の「まこと」が「わが国の国民精神の根底だといわれると、たしかに…、それだけでよいのだろうか」。<和>に加えて<まこと> を説いて「自己完結しているところに、かえって問題を感じます。日本人にわかり易いがゆえに逆に曲者なのです」。p.159。
 「和と『まこと』」の一節を読んで、「日本は戦争に負けたのは当然だ」と思わざるを得なかった。「明き浄き直き心」だけでは「主観的すぎて、他の存在感を欠き、自閉と弱さの表明でもあることをあの大戦を通じて民族的に体験した」のだから、「戦前の『国体論』にそのまま戻ればいいという話ではまったくないということをしかと肝に銘じるべきです」。p.161。
 この書の天皇中心の歴史記述、親政天皇については詳しく(例えば後醍醐)、武士・幕府政治については冷淡だということ、に対する西尾の批判的コメントもあるが、省略する。
 ○ 小林よしのりが何かに、西尾幹二は天皇についてはあまり興味がない、と書いていた。
 たしかにそのようなところはあるが、櫻井よしこ、渡部昇一、平川祐弘らのような<天皇中心史観>のもち主よりは、はるかに冷静で、優れている。つまりは、「観念」論に嵌まってはいない。
 なお、西尾幹二は(日本共産党のように ?)『國體の本義』を全否定しているわけではないことを付記する。西尾は、部分的には、秋月が必ずしも同意できないことも述べている。
 ○ 西部邁の語源探りは読んでいて鬱陶しいのだが、その弊をふむと、R・パイプスの『ロシア革命』原著を読んでいて出くわした spritualism という語の意味は、ある辞書によると「観念論」で、「精神主義」という訳語は出てこない(後者は誤りでもないだろう)。またこれは、「心霊主義」、「降神術」という意味ももつらしい。
 櫻井よしこらの「観念保守」の者たちの「観念論」は、純化すると、すみやかに「心霊」にかかわる、特定の<宗教>に転化するに違いない。

1431/西尾幹二全集第16巻(国書刊行会、2016)。

 一 西尾幹二全集のうちの一つの巻を購入・入手しての愉しみは、明らかに未読のものや著者の後記、そして月報を読むことだ。
 その中に、西尾幹二は文学部出身にしては「社会科学的」だ、とか言われたことがある、というような趣旨のものがあった。最新刊行のものの中ではないので少し刊行順に遡って捲ってみたが、その趣旨の記述を再 ?発見できなかった。
 西尾は別に、文学部出身者が日本の<保守>論壇の多数または有力派を形成してきたとか語って、そのことを誇りにしているかのごときことも書いていた(と思う)。
 小林秀雄、福田恆存、江藤淳…と並べると、そうかもしれない。ここで並べるのはイヤだが、渡部昇一もそうらしい。
 だが、文芸(文学)評論家的<保守>論者は日本の<保守>派のしっかりとした形成にとっては悪影響をもたらした、少なくとも日本に独特の議論の仕方を生じさせた、と感じているので、上の趣旨の文章には違和感をもった。
 但し、西尾幹二自身は、<文芸(文学)評論家的保守>ではない。
 「評論家」では小さすぎるし、「思想家」というのも必ずしも妥当ではないだろう。
 というのは、教育政策、労働(移民)政策等々への発言も目立っているし、「新しい歴史教科書をつくる会」の初代会長という<実践家>でもあったからだ。
 「歴史家」と言ってしまうのも、その対象は日本に限らず世界に広がっているが、狭くとらえすぎるだろう。
 佐伯啓思、西部邁らの「思想家」タイプと比べても、西尾幹二の大きさ・広さは歴然としている。櫻井よしこ、八木秀次ら、そして渡部昇一とはまったく比べものにならない。
こんなことから<人文系と社会系>の差違について述べたかったし、また、西尾幹二のような論者と「専門家」という者の違いについても思い巡らしたかったのだが、別に扱おう。
 なお、追記するが、上のように記したからといって、秋月は西尾幹二の全ての主張・認識等に100%賛同しているわけではなく、100%「信頼して」いるわけでもない(そんな人物は一人もいない)。かつての皇太子妃関連の主張には異を唱えたこともある。原発に関する考え方もたぶん同じではない(秋月瑛二はすべての人物や組織から「自由」だ。それは、いかなる人物・団体の<支援>もなく「孤独」であることも意味している)。
 二 西尾幹二全集第16巻(2016、12)の「後記」を少し捲ったあと最初に読んだのは、「嗚呼、なぜ君は早く逝ったのか」と題する坂本多加雄の逝去・葬儀に関するものだった。「インターネット日録」掲載のもののようだが、知らなかった。
 坂本死去の2002年の頃の論壇等々の雰囲気を知って、テーマからするとやや非礼かもしれないが、興味深い。
 秋月もまた、坂本多加雄の少なくとも単行本化されている書物は、かなり高価だった中古本の<象徴天皇制度と日本の来歴(1995)> も含めて、ほとんどを所持し、一読はしているのだ。
 興味深い、というのは、けっこう著名な人物名が出てくるからでもある。
 伊藤哲夫、高森明勅、中川昭一、粕谷一希、北岡伸一、杉原啓志、ら。
 また、この当時の<保守>的活動の内容の一端をかなり生々しく知ることができるからでもある。
 坂本多加雄、52歳。この人の<反マルクス主義>の歴史観および歴史叙述観は、ひょっとすればこの欄に紹介したかもしれない。そして、西尾幹二の文章とともに、人の死ということをあらためて考える。
 のちに、遠藤浩一も亡くなった。いずれも、交際相手として選ばれるはずもない凡人の私の、個人的な知り合いでは全くなかつたのだが。
 この人たちが存命であれば、<保守>論壇の現状は、少しは良くなっていたような気がする。しかし、そう想ってみても、現実を変えることはできない。
 そのつぎにおそらく「後記」を読み直した。主として<路の会>のことだ。
 また、「月報」が挿入されていることに気づいて読んだ。書き手の名もその内容も興味深く、思わず集中してしまった。
 これらの感想、種々思うことは、この回には書けそうもない。

1430/西尾幹二全集第15巻(国書刊行会、2016)。

 西尾幹二全集第15巻(2016)の内容のほとんどは「わたしの昭和史」で(全集では「少年記」)、二冊の新潮選書(1998)で読んだことがある。
 いつか忘れたが読んだあとは、こんな記憶力とそれを呼び覚ます資料は自分にはない、したがって自分には書けない、という思いと同時に、1935年生まれの、私のいう<特殊な世代>、あるいは国民学校・小国民世代の人物が、よくぞ「左翼(的)」にならなかったものだ、という感想が生じた。
 もしあらためて読めば何かのヒントがあったのかもしれず、著者がこの問題に触れているのかもしれないが、読み返す余裕はたぶんない。
 1960年の時点、著者がちょうど25歳の頃に「左翼」でなかったことは上記単行本のp.505でも記述されている。
 すなわち、同年に樺美智子が死亡したのちの東京大学での演説会で日本社会党国会議員が「虐殺」うんぬんを述べていたとき、「私〔西尾幹二〕があれは虐殺ではない、圧死だと口走った」とある。
 このあと「口走ったとたん、巨漢の柏原〔柏原兵三、のち芥川賞作家-秋月〕の大きな掌が私の口をふさいだ」、彼は「私が殺されるのを恐れたからだった」、と続いて、生々しい。
 ともあれ、「虐殺抗議」のプラカートを先頭に掲げたデモの写真を見たこともあり、当時の各大学での(樺美智子もその一員だったが)「左翼」的雰囲気を想像することもできる。だが、西尾は明らかに「左翼」ではなかったようだ(なお、同じ文学部の同期入学生に、大江健三郎がいたはずだ)。
 そして、それはなぜ ?、いかにして<保守>論客に ?という感想が生じるが、それは全集をよくよく読み込めば判るのかもしれない。
 ところで、上の柏原某も出てくる文章はこの全集版で初めて読んだのではない。だが、示されている月刊正論1995年2月号で読んだのでもないとも記憶していて、やや不思議だ。
 この上の文章は<少年記>とは別の「付録/もう一つの青春」の一部で、私は上の部分のみを憶えていたかに見えるが、今回に(といっても昨2016年の刊行直後に)読んで印象に残ったのは、一つに、大学院学生の西尾は、当然ではあるのだろうが、研究の対象等の自らの将来に思い悩んでいた、ということだ。
 「私は相変わらず何を書くべきなのか、あるいは何が書けるのかも分らず、学校と自宅の間を往復し、文学と思想の広大な海を漂流していた」。(余計だが、「美しい」文章だ。p.504)
 もう一つは、大学院に進学したのちの「指導教官」を、当時にすでに故人ではあるものの、氏名を明示して、「私はその思想、研究業績を軽蔑していた」と明記していることだ。この「指導教官」は「日本の典型的な『進歩派』文学者」だったらしい。
 それで西尾は「ニーチェを師として選んだ」ようだ。
 さて、個々の人間の人生にはいろいろな偶然的な出逢いがあるものだ。西尾幹二にとっても、若き学生時代のいくつかの偶然はのちのちの西尾幹二が生まれる原因の一つだったことには違いなく、「指定された」という「指導教官」もまた、その一つだっただろう。
 さらに発展させれば、西尾は拒否したようだが、「指導教官」が日本共産党の党員学者だったり、明確な親共産党の者だったりすれば(そんなことは大学院の学生レベルでは通常はあらかじめ判っているものではないだろう)、西尾のように実質的に離れれば別として、その「指導」を受ける学生は、どのような学者・研究者に育っていくのだろうか、と想像して、暗然とする。
 そういう特定の教師・学生の特殊な「身分関係」は-それは学生にとって「就職」という生活・生存にかかわる-、今日まで、容共・「左翼」的な人文社会系学者・研究者たち(大学教授たち)の誕生に、大きく寄与してきたのではないか、と推測される。
 -と、かなり西尾の全集それ自体からは離れたことまで書いてしまった。

1426/「保守」とは何か-月刊正論編集部の愚昧③。

 一 月刊正論編集部のマップ(月刊正論3月号p.59)の基礎的問題点の一つは親米・反米に拘泥していることであり、これはアメリカを対象化・客観化して認識し議論することをきわめて困難にすることになる。
 すなわち、アメリカ自体が変容・変化する可能性があるが、<親米か反米か>という見方によれば、アメリカの変化によって親米の内容も反米の内容も変わってしまう、ということが看過される危険性がある。日本(人)の見方が、大きくアメリカの思想や政策に依存してしまうことになる。
 また、日本のほかに欧米も視野に入れた思考をできにくくする。例えば、アメリカの二大政党は私のいうB内部の対立なのか、BとCの対立に相当するのか(反共のブレジンスキーによれば前者のようだが、今の民主党は<容共>のようでもあり、私には判断しかねる)、既述のようにトランプ大統領はBからAに向かうのか、といった関心を封じることとなる。
 秋月瑛二の図表もイスラム・アフリカや共産主義諸国内部では不適切だろうが、それでも月刊正論編集部のそれよりは、広い視野を持つものだと思われる。
 二 西部邁・佐伯啓思らの表現者グループについて、その「保守」性を疑問視したり、<左翼との通底 ?>と書いたこともある。中島岳志を「飼って」いたり、佐伯啓思が橋下徹について<ロベスピエールの再来の危険>とか書いたこと等をきっかけとしてだった。
 しかしいちおう自己申告?に従って、「保守」だと見なすことにしよう。西部邁も含めて、その反米主張や「自由・民主主義」に対する疑問は日本の「左翼」に利用されかねないし、類似性もなくはないと思うが、<反共産主義>者たちだとは思われる。
 そうすると、菅原慎太郎らの月刊正論編集部は、他の保守との区別がつかなくなるではないかと、秋月瑛二の分類の仕方を非難するかもしれない。
 そのとおり、<保守・リベラル>=おおよそ読売新聞社系「保守」以外の保守は、私のいうA保守(反共)・ナショナルに含まれ、そのかぎりで、表現者グループと同じだ。
 想定しているのは、西尾幹二、中西輝政、櫻井よしこら。小林よしのりも。中川八洋については、かなり迷う。中川は<反共>意識旺盛だが、<親英米>の、私のいうBグループではないか、と。
 中西輝政も含めて、なお論評したいことは多いが、今回は避ける。
 櫻井よしこについては、渡部昇一に対するのと同様にこの欄で批判し続けてきているが、それは、こんなことを書いて<本当に保守派なのか>という疑問提示と叱咤激励のつもりだった(だが、昨年以降は、「観念保守」としてさらに距離を置いて批判する必要があると感じている)。
 ともあれ、A保守(反共)・ナショナルの内部にこそ、月刊正論編集部が注目している区別があるようであり、かつ、その区別を強調して過度に肥大化させる必要はない、と思っている。月刊正論編集部はいわば広い<身内>にのみ関心を寄せていて、視野が狭いようだ。
 すなわち、八木秀次に依頼したかにみえる論考タイトルは「保守とは何か-エセ、ニセの見分け方」で(但し、八木はこの「見分け方」を明示していない)、編集部のマップの中にも「保守・自称保守」と並べた言葉があるが、このような発想方法は、「真正保守」は何か、誰々か、を探ろうとするもので、ヒマな人々は勝手にすればよろしいが、ほとんど建設的・生産的な意味がない、と思われる。
(但し、「観念保守」という概念の設定はこれに反しているかもしれない。この概念の発見?は、なぜA保守ナショナルは多数派になっていないのか、その理由を考えたりしているうちに生じた。)
 「真正」か否かではなく、具体的に、あるいは個別テーマに即して、どのような主張・政策が<保守>派として最適なのか、を論じなければならない。2015年戦後70年安倍談話をいかに評価すべきかは基本的論点だが、他にも、憲法改正で急ぐべき条項はいずれか、原発問題は ?、皇位継承問題は ?、いっぱいある。
 もとより、一般的・抽象的な議論として<保守とは何か>を議論できるし、する必要があるのかもしれないが、国によって、また日本でも論者によって内容は様々で、「正しい」解答などは存在しないのではないか。
 「真正」・「自称」・「エセ・ニセ」といった形容句の玩弄はやめた方がよい。それはすぐさま、回避すべき<観念>的議論につながる可能性が高い。
 三 「保守とは何か」、これを論じるつもりはない、と前々回に書いた。しかし、私には、答えは簡単なのだった。
 反共産主義こそ、「保守」だ。そのかぎりで、<保守には、いろいろ(諸種・諸派が)あってよい>。

 なお、4分類、4象限化という思考・作業は当然に類型化・抽象化を伴っていて、「観念」化そのものだ、ともいえる。本来は相対的でありうる区別を絶対化して不要な分類作業をしてはいけないことは、自認・自戒している。

1420/<観念保守>という日本の害悪-例えば天皇譲位問題。

 仲正昌樹が、精神論保守と制度論保守を区別して、後者ならば支持できる、又は属してもよいような気がしてきた、と何かで書いていた(この欄で触れたかは失念)。
 経緯はばっさりと省略するが、この対比を参考にしつつも、<観念保守>と<理性(合理)保守>の区別という語法の方が適切だと思ってきている。
 天皇譲位問題についての主張を、新聞報道または週刊誌を含む雑誌の記事による紹介、さらにはそれらを読んだ記憶に頼ってのみ以下書くのだが、日本の<観念保守>のまさしく観念論ぶり、いい加減さ、そして欠陥は、渡部昇一、平川祐弘、八木秀次、櫻井よしこらの同問題についての(識者懇談会のヒアリング時での)主張ぶりに現れていそうだ。
 平川祐弘が本当に「保守」派なのかは、もともと怪しく思っていて、数十年前にいた竹山道雄・安倍能成らの(反共・自由主義の)「オールド・リベラリスト」程度ではないかと思っている。だから、ここでの本来の対象にはしたくない。
 安倍70年談話支持の平川の論考はひどいものだったし、その後目にする平川の雑誌論考も、半分ほども他人の文章の引用だったりして、相当に見苦しい。
 そのような平川に執筆を依頼する保守系雑誌の(編集部の)レベルの低さ、あるいは「保守的」な文章作成者の枯渇ぶりを感じざるをえない。
 子細は省略したが、櫻井よしこは<保守派の八方美人>だとこの欄で記したことがある。この人はこちこちの<観念保守>ではなく、天皇譲位問題についても<拙速はいけない。よく考えるべき>とだけ当初は書いていたが、上記ヒアリング時点では、譲位制度化反対へと考えを決したようだ。<保守>系論壇人の状況について<日和見>していたのかもしれない。
 この項はすべて記憶に頼る。月刊正論(産経)の編集長・菅原某は当該雑誌の秋頃の末尾に、譲位制度創設反対か<議論を尽くせ>のいずれかが<保守>派の採るべき立場であるかのごとき文章を載せていて、これが産経新聞の主流派の見解だろうかと想像したことがある。
 百地章は当初は<摂政制度利用>論=譲位制度創設反対論だったように見えたが、ヒアリング時点では、皇室典範(法律。なお、憲法2条参照)を介しての特別法(法律)による(おそらく一代限りの)譲位容認論に変わったようだ。
 譲位制度導入反対論-これはほとんど摂政制度利用論といえる-に反対する立場に百地章が転じた背景は興味深い。その背景・理由はよくは分からないが、譲位制度導入反対論がいう摂政制度利用論は現憲法と現皇室典範を前提にするかぎりは採用できない(法的に不可能)と秋月は考えているので、上の基本的立場については、私も百地と同様だ。
 さて、いくつか考えることがある。
 第一は、渡部昇一や平川祐弘が前提的に主張したらしい、天皇とは「祈る」のが本来の仕事という理解の仕方は、典型的に「観念保守」に陥っていることを示している。
 つまり、「天皇」についてのそれぞれが造成している「観念」を優先させている。さらに正確にいえば、現実の(現日本国憲法下での)天皇が「祈る」ことまたは「祭祀」を行うだけの存在ではないことは、現憲法が定める「国事行為」の列挙だけを見ても瞭然としている。にもかかわらず、この人たちは、現憲法の天皇関係条項を全く知らずして、又は知っていても無視して、自らの主張を組み立てている。
 同問題懇談会のメンバーは、代表的にのみ言えば、この二人が開陳した意見を、すべてまったく無視してかまわない。
 ついでに言うと、西尾幹二は「観念保守」ではないと思うし、小林よしのりが少なくとも少し前までの月刊サピオ(小学館)で揶揄し批判していたこの問題の一連の主張者(渡部昇一、八木秀次ら)の中に含まれていない。
 だが、西尾幹二ですら天皇(または皇室)は京都に戻るべきと何かに書いていた(二度ほどは読んだ)。だが、首相任命・閣僚任命や衆議院解散等にかかる現憲法上の天皇の重要な権能を考えると、京都市在住では実際上国政に支障をきたすおそれが高い。余計なことを書いてはいるが、憲法を改正して現在の天皇の「国事行為」をほとんど除外しないと、京都遷御ということにはならないだろうと思われる。
 第二に、「観念保守」論者が「保守」したい天皇制度とはいったい奈辺にあるのだろうか。
 櫻井よしこは、明治の賢人たちが皇室典範制定に際して生前退位を想定しなかった、その「賢人」の意向を尊重すべきとか、今はよくても100年後にどうなるかわからない(制度変更の責任を持てるのか、という脅かし ?)とか主張しているらしい。
 櫻井よしこは、明治憲法下の天皇制度が最良だと考えているのだろうか、そしてそうであればその根拠は何なのだろうか。
 これは一般的に、<保守>派のいう保守すべき日本の「歴史・伝統」とは何か、という基本問題にかかわる。
 ついでに書けば、大日本帝国憲法にいったん戻れという議論は法的にも事実上も不可能なことを可能であると「観念」上は見なしているもので、議論を混乱させる、きわめて有害なものだ(産経新聞社・月刊正論は、この議論に一部は同調的であるらしい-その理由はバカバカしくも渡部昇一の存在 ?)
 秋月瑛二は、明治期の日本が維持されるべき(復元されるべき)日本であるとはまったく考えない。八木秀次もそのようだが、明治期の議論を持ち出して、譲位容認にはあれこれの弊害・危険性があるというのは、明治の賢人 ?たちを美化しすぎている。
 伊藤博文らには、何らかの「政治的」意図もあった、と考えるのが、合理的かつ常識的なのではないか、と思われる。
 今はよくても100年後にどうなるかわからない、という櫻井よしこの主張(らしいもの)についていうと、旧皇室典範以降100年以上経って、限界が明らかになっているとも言える。つまり、100年後にどうなるかわからない、という時期が皇室典範の歴史上、今日になっている、とも言える。また、譲位制度を作っても、問題があれば、100年後にまた改正すればよいだけの話だ。<今はよくても100年後にどうなるかわからない。改正してよいのか>という議論の立て方は、全く成り立たないものだ。
 したがって、櫻井よしこの脅かし ?-これはいわゆる「要件」設定の困難さを想起させてしまう可能性があるが-に専門家懇談会のメンバーは、そして政府も国会も、屈する必要は全くない。
 問題は要するに、現皇室典範が明記する摂政設置の要件充足にまではいたらないが(したがって「摂政」設置で対応することはできないが)、高齢化により国事行為やその他の公的行為(祭祀の問題はかりにさておくとしても)を適切にはかつ完璧には行えなくなったと見受けられる(文章の1、2行の読み飛ばし、儀式日程の一部の失念などは、高齢の天皇には生じうることだろうと拝察される)場合、かつ譲位の意向を内心にでも持たれた場合に、日本国家と国民は、どう対応すればよいかにある。
 詳細は知らないが、天皇の高齢化問題ととらえているようである、所功の主張は、立論において秋月に似ているかもしれない。
 天皇についての特定の(適切だとは論証されていない)「観念」を前提にした議論をするのではなく、最小限度、現憲法の規定の仕方を考慮した「制度」論を行うべきであるのは、「天皇」もまた制度である以上、当然なのではないか。
 また、明治日本はあくまでの日本の歴史の一時期にすぎない。明治期を理想・模範として描いているとすれば、「観念」主義の悪弊に陥っている。
 現憲法を視野に入れるのは論者として当然の責務だが、それを度外視しても、長い日本の歴史と「天皇」の歴史を視野に入れる必要がある(書く余裕はないが、天皇・皇室をめぐって種々の歴史があった。今から考えて、有能な天皇も無能らしき天皇もいた。暗殺された天皇もいた-崇峻天皇。孝明天皇は ?-。祭祀が、あるいは式年遷宮がきちんと行えない時代もあった。「祭祀」が皇太子妃とまったく無関係に行われていた時期がたくさんあった。そうした問題をすべて解決したのが実質的には今に続く明治期の皇室典範だったとは全く思われない。なお、戦後、現憲法のもとで法律化)。 ゛
 以下、追記する。渡部昇一は、今上天皇に「助言」して思いとどまらせるべきだとか述べたらしい。この人物らしい傲慢さだ。
 平川祐弘は、現天皇(又は昭和天皇も含めて戦後の天皇)が勝手に「象徴天皇」の行動範囲を拡大しておいて辛さを嘆くのはおかしい旨述べたらしい。
 「象徴天皇」の範囲を-とくにいわゆる「公的行為」について-国民やメディアが広げた可能性はある。しかし、「祈る」行為だけにその任務・権能を限らず、「内閣の助言と承認」のもとにではあれ重要な国政・政治上の権能を多く付与したのは、現憲法だ。平川の議論は、現憲法批判もしていないと一貫していないだろう。
 思い出したが、自民党改憲案その他の<保守的> 改憲案は天皇を「元首」と定めることとしている。この「元首」化論と、天皇は「祭祀」が主な仕事だという議論は、ともに成り立つものとは思われない。
 ともあれ、渡部昇一も平川祐弘も、じっと現憲法の天皇条項を読んで確認してから、自らの考えを述べたまえ。勝手な「観念」の先立つ議論は有害だ。
 櫻井よしこについてはなおも、書きたいことがある。八木秀次には、もはやあまり興味がない。
 「真の」保守派の天皇・皇室論があるわけでは全くない、と思われる。月刊正論の編集部・菅原某あたりは、勘違いしない方がよい。
 ヒアリング対象者の発言はそのまま詳細に官邸ホームページ上で読めるらしいので、別途に論じるかもしれない。
 以上は、手元に何も置かず、記憶にのみ頼って書いた。したがって、前提認識に誤りがある可能性はある。

1368/歴史・政治・個人04-01ー「滝口までの生」。

 一 関川夏央・人間晩年図鑑1995-99年(岩波、2016)を一瞥していて江藤淳(-1999)の項に達したとき、「ナイアガラの瀑布が落下する一歩寸前の水の上で、小舟を漕いでいるようなもの」という表現に出くわした。江藤の妻が数ヶ月後に亡くなるらしいことを江藤が知った時点でのその妻と江藤自身の状況を表現している。江藤淳自身のたぶん1999年刊行の書からの引用部分の一部だ。
 なぜ印象に残ったかというと、鋭いアフォリズムに溢れた西尾幹二・人生について(新潮文庫、2015/原書2005・同全集第14巻にも所収)の「死について」の中に、かなり似た表現があるからだ。どちらが先かという話をしているのではない。
 西尾幹二は1989年逝去の詩人・上田三四二の書(この世この生、新潮社・1984)を参照・引用しながら、(川の下流の)「滝口までの線分の生」という生あるいは人生の本質を捉えた見方に共感を示す(p.205-6)。
 もう少し上田の文章を要約的にでも引用しないと分かりづらい。直接に見てみると、上掲の上田の書はこう述べている(もちろん一部)。
 ・残された人生の時間を「滝口までの河の流れのようなもの」と想像した。「滝口」とは「死の瞬間における死」だ。滝口までが「生の持時間」で「水流となって刻一刻、滝口に向かっている」。
 ・「滝口にちかい思い」も「あくまで予感」で、「私の死」は「いつ来るか予測のつかない曖昧なものとして目の前に」にあるが、「実際にやって来たとき、それを体験しようとしても私はその瞬間において死んでおり」、「その到来を知ることができない」。
 ・「私自身の死は、私自身にとって…、ないのである」。そこに、「死後なき死というおそろしい認識〔=恐怖〕に耐えるせめてもの慰藉を見い出してきた」。
 ・「死はある。しかし死後はない。死の滝口は、…水流をどっと瀑下に引き落とすとみえたところで、神隠しにでもあったように水の量は消え」る。
 ・「死後はすでに考慮外」だ。「死を避けることはできないが、死後はないと思い定め、…、滝口までの線分の生をどう生きるかに思いをひそめればよい」。以上、上田p.10-11。
 江藤のいう「ナイアガラの瀑布が落下」し始める地点が上田=西尾のいう「滝口」のことだ。
 その地点・時点以降(=死後)は「ない」=認識・意識不可能だ、という深遠な?洞察がここにある。
 自己(または肉親)の近づく「死」を意識した際に、人というのは同じようなことを考えるものだと思う(むろん、江藤が上田の上記のような比喩?を知っていた可能性はある)。
 二 だが、と揚げ足取りをすれば、「滝口」はまだ「死」ではないだろう。
 「滝口」から水瀑とともに落ちる途中か、滝壺の水に衝突してか、あるいは滝壺の中に深く沈んで溺れることによって、ようやく「死」に至るのではないだろうか。漕いでいた「小舟」もろとも落下し始めることだけでは、おそらくまだ「死」に至ってはないのではないか。
 江藤淳や西尾幹二(・上田三四二)を貶めようという気はさらさらないし、あくまでの喩え話に「理屈」でもって容喙しても意味がない。
 厳密には、と考えてしまうのも、どのような「死に方」が楽だろうか、不可避の、切迫した自らの「死」を意識して「自分が消滅するという恐怖」(西尾幹二・上掲書p.202)が発生したときから、実際の「死」までの、<恐怖>が継続する時間、または<苦しみ>の程度は、自分の場合はどうなるのだろう、とときどき想像してしまうからだ。
 「滝口」とは、「死」の意識が、つまりは「自分が消滅するという恐怖」が現実的・具体的に発生する地点だと思われる。理屈を言えば、じつは、落ちたと思った(「滝口」だと意識した)としても滝の高さが2メートルほどで、ずぶ濡れになっても平気でまだ生きている可能性はある。
 三 死刑囚が処刑される(刑を執行される)までどのような心理でいるのだろうと想像すると、なかなか恐ろしい。
 そしてまた、そもそもが江藤のいう「瀑布が落下する一歩寸前の水の上」の心理から書き始めたくなったのは、いわゆるA級戦犯のうち松井石根ら7名は東京裁判法廷の判決日から処刑される=刑を執行されるまで、どういう意識・心理だったのか、Death by hanging というが、厳密にはいつの時点で彼らは「死」に至ったのかその直前に何を一瞬にでも感じたのか・想ったのか、ということに思いを馳せることがあるからだ。
 どうやら最後まで書けそうにない。
 <つづく>

1364/日本の「保守」-水島総という勇気ある人、月刊正論(産経)誌上で。

 中西輝政「さらば安倍晋三、もはやこれまで」歴史通2016年5月号(ワック)から再び引用する。
 ・「保身、迎合、付和雷同という現代日本を覆う心象風景は、保守陣営にも確実に及んでいる」(p.97)。
 ・「心ある日本の保守派」が、「安倍政権の歴史認識をめぐる問題に対し、ひたすら沈黙を守るか、逆に称賛までして」、意味ある批判・反論をしないことに「大きな衝撃を受けた」(p.109)。
 こうした中で、水島総という人物は、勇気がある。
 月刊正論(産経)3月号p.106で水島は言う。「時が経つにつれ、安倍政権が歴史的大愚行を犯してしまったことが明らかになりつつある」。
 このあと2007年のアメリカ下院決議に当時の第一次安倍晋三政権は「反論も抗議も」せず、安倍総理も「残念」だとしたにとどまるという経緯等を、批判的に述べている。
 この2007年7月米国下院決議については、秋月も当時、警戒しなくてよいのか、放置してよいのか等を(たぶん直前に)記していた。その過程で、岡崎久彦が<じっと我慢するしかない>旨を書いていることを知って(正確な文章は最近の中西輝政論考の中にある)、改めて確認しないが、当時、そんなことでよいのか旨の疑問を示したこともあった(はずだ)。
 また、水島総は、2015.12の日韓慰安婦問題「合意は、我が国の安全保障体制にも重大な痛手を与える可能性がある」として、「人心」・「自衛隊員の士気」への影響等に論及している(p.108-9。異なる観点からの安全保障の観点からの疑問・批判は、後出の西尾幹二論考にもある)。
 そして水島総は、安倍政権「打倒」は主張しないが、安倍政権「不支持」を宣言する(p.110-1)。
 同じ3月号の西尾幹二「日韓合意、早くも到来した悪夢」は、最後にこう述べていた(p.81)。
 「日本人の名誉と運命を犠牲にしてこのような決断をあっという間にしたことが成功だったと言えるかどうかは、本当のところまったく分からない」。
 「言論界はいま、この問題で政治的外交的に過度に配慮する必要はなにもない。日本人の名誉を守るために、単純にノーと言えばよい」。
 「政治と言論、政治家と思想界とは立場が違うのだ。…。こちらから政治家に歩み寄るのはもってのほかである。安倍シンパの協力者たちには、そうあえて苦言を呈したい」。
 この言からすれば、水島総は同時期に、西尾幹二の言うような姿勢を示していたことになる。
 一方、別の雑誌の翌4月号で、2015.12日韓慰安婦問題「合意」を擁護、支持していた<保守>派らしき者もいたわけだ。この人物はいつから<安全保障・軍事>評論家になったのだろう。この分野の専門知識はほとんどないはずだが。また、いつから「政治評論家」になったのだろう。
 水島総月刊正論2016年8月号(産経)では、いわゆるヘイトスピーチ法に反対して、「だから言ったじゃないか、一体なぜ…こんな思いを第二次安倍政権樹立以来、もう何度も味わってきた。ざっと思い出しても、…」と書き始める(p.274)。そして言う。
 「『左ウィング』を拡げようとしたとき、安倍政権の根幹が崩壊する」(p.279)。
 成立してしまったこの法律に秋月も反対だ。この法律が責務法・理念法としてあるならば、在日本の「本邦外出身者に対する」<不当な優遇>を解消するための基本法があってもよいだろう。ここでまた?「歴史」とか「謝罪」を持ち出してはならない。
 それはさておき、上のような水島総の主張も、勇気がある。この論点を、産経新聞や月刊正論(産経)はいかほどに取り上げてきたのだろうか。
また、水島総は、上の法律の背景に<外国>があることを指摘しつつ、つぎのように締めくくる。p.279-280。
 「冷戦終結で、ソ連共産党は消失したが、共産主義は依然として、形を変えて生き残り続けている。それを私たちは夢々忘れてはならない。その中心が中国共産党である」。安倍政権を打倒したいのは、「国内の野党勢力だけではない」、「中国共産党政府」だ。「スパイ天国と言われる我が国に、様々な国際共産主義謀略工作組織が深く広く浸透しているのは公然の秘密である」。
 秋月は<保守派>の中でもごく少数派に属していると自覚しているのだが、このような、 (中西輝政、西岡力、江崎道朗らと同様の)明確な<反・共産主義>の主張を読むと、少しは安心する。もっとも、「様々な国際共産主義謀略工作組織が深く広く浸透している」としても、それは決して「公然の秘密」と言われるほどにはなっていないように見える。具体的な指摘と具体的な<暴露>が必要だ。
 なお、以上は、2016年参院選における投票行動をまったく意識しないで書かれている。
 そう言えば、ネット上で、安倍晋三の実際の言葉かどうかは確認していないが、つぎの面白い表現を見かけた。
 <いいですか、皆さん。民進党には、必ず共産党が付いてくるんですよ。

1363/月刊正論8月号(産経)ー江崎道朗から西岡力=中西輝政へと。

 一 月刊正論8月号(産経)で、江崎道朗が与えられた4頁の紙面のうち1頁を使って、中西輝政「さらば安倍晋三、もはやこれまで」(歴史通5月号(ワック)に言及し、中西の分析に「ほぼ同意する」、と書いている(p.241)。
 江崎道朗自身の最後の文章は、こうだ。
 「歴史戦の勝利を望むすべての人々にこの中西論文は読んでいただきたい。//
 厳しい現実から目を背けていては、勝利を手にすることはできない。」
 江崎道朗と中西輝政に「通じる」または「共感しあう」ところがあるだろうことは、中西輝政=西岡力・なぜニッポンは歴史戦に負け続けるのか(日本実業出版、2016)の西岡力による「まえがきにかえて」からもある程度は分かる。
 西岡力によると、産経新聞2015.02.24付「正論」で「冷戦の勝利者は誰かを問いたい」を書いたところ、中西輝政から「見方に賛成だ」との「連絡」があり、それを機縁として、月刊正論2015年5月号の西岡力=島田洋一=江崎道朗の鼎談ができた、という。
 産経新聞紙上のものを読んだ記憶ははっきりしないが、その内容は上の「まえがきにかえて」の中におそらくかなり引用されており、ほとんどか全くか賛同できる。
 というよりも、中西輝政=西岡力の上掲著を読み始めて最後まで了えた(たぶん2016年3月)こと自体、この西岡力の「まえがきにかえて」に引きつけられたことによる可能性が高い。
 その西岡力らの西岡力=島田洋一=江崎道朗鼎談「歴史の大転換『戦後70年』から『100年冷戦』へ」月刊正論2015年5月号p.86以下については、かなり印象に残ったに違いない、秋月はこの欄で2015年5/18から2回に分けて「戦後70年よりも2016末のソ連崩壊25周年」と題し、「面白いし、かつすこぶる重要な指摘をする発言に充ちている」と書き始めて紹介・引用している。
 やや遠回りだが、江崎道朗と中西輝政というとこんな些末なことも思い浮かぶ。
 元に戻って、江崎道朗の文章のうち、「歴史戦」をめぐる「厳しい現実」という言葉が心を打つ。「厳しい現実から目を背けていては、勝利を手にすることはできない」。
 厳しい現実を理解せず、また理解しようとせず、従来の<保守の小社会>で安逸に生きていきたい言論人も多いのだ。
 二 西尾幹二の刺激的な言葉を再引用。月刊正論2016年3月号p.77。
 「本誌『正論』も含む日本の保守言論界は、安倍首相にさんざん利用されっぱなしできているのではないか」、「言論界内部においてそうした自己懐疑や自己批判がない」のは「非常に遺憾」だ。
 三 江崎道朗が読んでほしいという中西輝政論文の最後に、以下の叙述がある(初めて見たのではない)。歴史通5月号p.117-8。
 ・日本政府・日本人が「自前の歴史観」を世界に臆することなく自己主張するには「あと三十年はかかる」。このための条件の整えるのに「それだけの年数」がかかると思うからだ。
 ・条件の一つは、国内または日本国民内で「歴史観」での闘いが、「たとえば東京裁判史観をめぐって、せめて四対六くらいに改善していること」。
 ・「現在は一対九にも及ばない」だろう。「とくに、マスコミや歴史学界においては、この一対九にもはるかに及ばない」。
 なんとも厳しい現実認識なのだが、冷静に日本を俯瞰すると、こんなものかもしれない。中西輝政のそれは悲観的すぎる、とは言えないかもしれない、と感じる。
 中西輝政が感じていることは、日本国民の中で<東京裁判史観>に(明確に)反対する者は10%に及ばず、「マスコミや歴史学界」では10%に「はるかに及ばない」、ということだ。
 さて、と思うのだが、<保守>派とは<東京裁判史観>反対派のはずであり(と思っており)、とすれば例えば産経新聞「正論」や月刊正論(産経)に登場する論壇人・言論人のほとんどは<東京裁判史観>維持に反対の者たちだということになりそうだが、最近、これを強く疑うようになってきている。
 また、産経新聞や月刊正論(産経)のような新聞・雑誌ばかりを読んでいる(幸福な?)人々は、安倍晋三「保守」政権ということもあって、何となく国民の過半数が、少なくとも三分の一程度は<保守的>な「歴史観」を持っていると感じているのかもしれないが、大きな勘違いだろう、と思われる。
 冷厳な現実は、中西輝政の指摘するものに近いのではないか。
 四 ついでに。平川祐弘「『安倍談話』と昭和の時代」月刊WiLL2016年1月号(ワック)p.32以下は昨年夏の「安倍談話」を支持する立場からのものだが、こんな悪罵を投げつけている。誰に対してかの固有名詞はないが、中西輝政や西尾幹二を含んでいるかに見える。
 ・「どこの国にも、自国のしたことはすべて正しいと言い張る『愛国者』はいる」。
 ・とくに日本では「反動としてお国自慢的な見方がとかく繰り返されがちになる」。
 ・「おかしな左翼が多いからおかしな右翼も増えるので、こんな悪循環は避けたい」。
 ・「不幸なことに、祖国を弁護する人にはいささか頭が単純な人が多い」。以上、p.35-36。
 「東京裁判史観」を基本的に批判する立場の者は、私も含めて「自国のしたことはすべて正しいと言い張」っているわけではない筈だ。
 「おかしな右翼」、「いささか頭が単純な人」とはいったいどのような人々なのか、平川祐弘は言論人ならば明瞭にすべきだろう。
 平川うんぬんが主テーマではない。このような内容を含む論考を巻頭に掲載する、花田紀凱編集・月刊WiLLが(今は編集長が替わったので、花田紀凱編集長の新雑誌や月刊WiLLという名の雑誌が)<保守>派を代表する論壇誌(の一つ)として扱われている、という悲惨な現実がある、ということをしみじみ感じている。今なお、渡部昇一の文章を掲載する非「左翼」系のはずの雑誌がある(月刊Will8月号「それでも、やっぱり安倍晋三!」!。産経・月刊正論8月号もその一つ)、という現実も。
 「厳しい現実」を直視して、鱓(ゴマメ)の歯軋りの如く呟きつづけても、「あと三十年はかかる」。

1361/渡部昇一批判3-<東京裁判史観>批判をしない「保守」。

 一 渡部昇一「『安倍談話』は百点満点だ!」月刊WiLL2015年10月号p.32-というものがあり、このタイトルは目次にも、雑誌表紙にも、さらには背表紙にも大きく謳われている。
 別の雑誌のものであるはずだが、月刊正論「メディア裏通信簿」欄に「編集者」として登場する人物は、同2015年11月号の「19」回で、つぎのように渡部昇一をおそらくは「擁護」している、または「庇って」いる。
 「渡部先生の文章には『百点満点』という表現はなく、『首相としての談話においては、これ以上の内容は現時点ではあり得ないだろう』と書かれているだけです。…現状では、首相の立場で出せる談話としては最高だ、と評価されたということでしょう」。
 そして、「弊誌正論10月号にも違う観点から論考をいただきましたが、やはり談話は高く評価されました」と続く。以上、月刊正論2015年11月号p.408-9。
 この「編集者」と月刊正論の実際の編集人・小島新一や同編集部とどう関係しているのか正確には分からないが、ふつうの読み方としては、同一またはほとんど同一であり、月刊正論編集部(・編集人小島)もまた、渡部昇一と同じく安倍「戦後70年談話」を「高く」評価しているのだろう。
 そしてまた、伊藤隆=中西輝政対談と西尾幹二論考を掲載している同号について、まさしく「編集者」は、「同じ正論なのに論調が少し変わっています」と認めている(p.397)。
 さて、月刊WiLL2015年10月号の渡部論考のタイトルがまるで著者の意思と無関係に付けられたかのごとく「編集者」が述べているのは、おそらく実態とは異なるだろう。そうであれば、渡部昇一はさすがに抗議するだろう。了解があった見るのが常識的だ。
 また、渡部昇一は「首相としての談話においては、これ以上の内容は現時点ではあり得ないだろう」と書いているだけなのか。
 月刊正論2015年11月号の「編集者」なるものは、きちんと日本語文章が読めるのだろうか。あるいは、読めても、マズイと思って、無視して=存在しないものとして扱っているのだろうか。
 渡部昇一の月刊WiLL2015年10月号論考の最後のまとめ部分には、こうある。以下、引用する。p.41。何十年先も、何百年先も、この渡部昇一の文章は記憶されるべきだ。
 「おわび」・「植民地支配」・「侵略』・「慰安婦」…。
 「これらの文言を盛り込みながら、村山談話はおろか、東京裁判史観をも乗り越えた安倍総理の、そして日本の大勝利である」。/
 「安倍総理の談話によって、日本はようやく村山談話をふっ切ることができた。安倍総理は悲願だった戦後レジームからの脱却にいよいよケリをつけ、名実ともに戦後を飾る大宰相となったのだ」。/
 「この未来志向の談話があれば、少なくとも『戦後百年』までは新たな総理談話は不要である。…」。/
 「『戦後』は安倍談話をもって終わりを告げることになったと言えるだろう」。/
 なるほどこの渡部論考の冒頭には、上の「編集者」のような理解を導く部分がないではない。しかし、「現時点」であれ「首相の立場」としての評価であれ、以上引用部分のとおり、渡部昇一が、安倍「戦後70年談話」を、村山談話を「ふっ切る」ものと、「東京裁判史観を乗り越え」るものと、そして「戦後(レジーム)」に「終わりを告げる」ものと、評価していることは明白だ。
 二 安倍首相「戦後70年談話」それ自体にここで立ちいることはしない。つまり、たしかに単純に意味が分かる理解しやすいものではないが、「解釈」の仕方・内容を詳しく述べることはしない。
 この安倍談話の内容については、例えば西尾幹二が、月刊正論2015年11月号で、安倍談話の「歴史認識」をかなり詳しく分析して、批判している。
 また、秋月瑛二の「解釈」・理解が決していびつなものでないことは、上にも言及の伊藤=中西対談で伊藤隆が「保守系全体の高い評価に驚き、もう一度読み返しましたが、やはり『歴史解釈が東京裁判と同じだ』と確信しました」(p.74)と述べていることで、おそらく十分だろう。
 はたして、渡部昇一の読み方が適切なのか、中西輝政や伊藤隆の読み方が適切・自然なのか。<(政治的)願望>をもって、日本語文章の意味を理解してはいけない。
 三 渡部昇一はまた、2015年12月の日韓「慰安婦」問題合意をも、擁護する。
 すでに言及したように<共産主義・反共産主義の対立は終わった>旨もこの中で書いていた、月刊WiLL2016年4月号「日韓慰安婦合意と東京裁判史観」においてだ。
 渡部昇一もさすがに、この「最終決着合意」なるものが<当時の日本軍事当局の関与(英訳文)>によって「慰安婦問題」が生じたことを認めていることを否定しようとはしていない。だが、言い方もいろいろあるものだ、渡部は述べる。
 すなわち、今次の日韓合意は、「国の名誉という国益」と「日本国民の生命財産を眼前の軍事的脅威から守る」という「国益」の選択を迫られて後者を、「河野・村山談話の継承によって、日本人の、よりによって嘘から始まった『恥』を末代まで残す危険性を除去しなければならない」という「国益」と「現在の日本国民の生命財産を守る」という「国益」の二つのうち後者を、選択した(選び取った)ものだ(p.34-35)。
 これは誤っている。<保守>派にあるまじき詭弁だ。
 国家や国民(日本と日本人)の「名誉」を守る、あるいは「嘘から始まった恥を末代まで残す危険を除去」する、という利益を捨ててよいほどの<国益・公益>とはいったい何か。
 一般論として、そのような<国益・公益>あるいは抽象的にいう「日本国民の生命財産」がありうるだろうことを否定はしない。
 しかし、渡部昇一がいう「眼前の軍事的脅威」とは何か。おそらく間違いなく、中国や北朝鮮のそれを指している(p.34)。だが、今次の合意は韓国との間でなされたものであってこれらは直接の当事者ではない。
 だが、と、渡部昇一は主張するのだろう。韓国との間の外交関係を良くしておかないと、中国や北朝鮮からの軍事的脅威の現実化の際に、韓国とも共同して防衛できなくなる、日韓だけではなく、アメリカ合衆国の意向も配慮せよ、と。
 一見筋が通ってはいそうだが、問題ははたして、日本国家と日本人の名誉を傷つける歴史認識を示してまで、つまりは「嘘から始まった『恥』を末代まで残す危険性」にあえて浸ってまで、昨年の12月に韓国と「合意」しなければならなかったほどに、「日本国民の生命財産」に対する危機は切迫していたのか、だ。
 このような具体的な「切迫性」はなかった、あるいは少なくとも、韓国との外交関係を良く(正常化?)することによってはじめて回避されるだろうような具体的な「危険」はなかった、と考える。
 問題は「眼前」とか、「切迫」性とか「具体」性とかの<程度>でもありそうだが、渡部昇一とは結論的に、<感覚>が異なる。
 秋月もまた、中国または北朝鮮が核やミサイルを日本列島に向けて発射する具体的な危険がいよいよ明確になった際に、これらに「歴史認識」問題で屈してでもその発射とそれによる日本国民・列島の惨害を防ぐ必要に迫られること、または韓国に対して「歴史認識」問題で屈してでも韓国(・軍)の協力を得なければ中国または北朝鮮による対日本武力攻撃の具体的な開始を阻止できない、という事態が全く生じえないとは思わない。
 だが、そのような<具体的危険>の<切迫>時に、中国・北朝鮮は「歴史認識」問題で態度を変えるのだろうか。同じく、韓国(・軍)は「歴史認識」問題で<有事>の際の対応を変えてしまうのだろうか。
 また、今次の日韓「合意」が上のような危険回避(日本人の生命財産の保護)のために有効であるためには韓国がそれを誠実に履行する意思・意欲を持っているか、も問題になる。渡部は、これを100%大丈夫だと言い切れるのだろうか。
 より重要なのは、韓国との外交(・軍事協力)関係が大切だとしても(さらにアメリカ合衆国の意向に配慮することがかりに必要であるとして)、その外交(・軍事協力)関係を良好なものにする方法は、今次の内容のような「合意」に限られるのか、他に選択肢はないのか、「合意」するとしても他の面での合意もいくらでもあったのではないか、ということだろう。
 なぜ、「慰安婦」問題が現在の日本の安全保障問題と結合されなければならないのか。
 渡部昇一は、きちんと説明してほしい。むろん、韓国(・朴大統領)があれこれと言っているらしいことは知っているが、なぜ「慰安婦」/「歴史認識」問題で屈しないと、日本はその安全を、日本人はその生命・財産の安全を守ることができないのか
 日本のまともな<保守派>は、かりに上のような現実が実際にあるとすれば、それこそ悲劇だと、大惨事だと感じる必要がある。そして、断固として、上のようなことに、つまり「慰安婦」問題を現在の日本の安全保障問題と結びつけることに、反対すべきだ。
 渡部昇一はいみじくも、「嘘から始まった『恥』を末代まで残す危険性」について語った。そして、上の論考で渡部昇一は、より大きな国益のためには、「嘘から始まった『恥』を末代まで残す」のもやむをえない、と明言したに等しいのだ。
 上のように述べて渡部は、「河野・村山談話の撤回」を求める「保守派」の人々に対して(p.34)、我慢せよ、怒るな、闘うな、と主張しているわけだ。この人のいったいどこが、<保守>言論人なのだろう。
 四 安倍首相「戦後70年談話」や昨年末の日韓合意が<村山談話>や<河野談話>を継承するものであることは、そしてより大きくは<東京裁判史観>に従っていることは、存命である村山富市や河野洋平が両談話(・声明)について好意的にコメントしていることでも明らかだ。また、朝日新聞が社説等で上のいずれも批判してはいない(基本的には支持している)ことでも明らかだろう。
 こういうときに、<保守派>の「大物」らしき者の中に「闘い、やめ!」と叫ぶ者が登場してくるのだから、うんざりして、ますます憂鬱になったわけだ。
 さらに追記すれば、産経新聞社(産経新聞出版)・国会議員に読ませたい敗戦秘話(2016.04)は安倍「戦後70年談話」や昨年末の日韓合意のあとで、これらを知っている時期での編集・準備を経て出版されていると見られるが(少なくとも「70年談話」よりは後だ)、全体で<東京裁判史観>を批判的に扱いながら、安倍「70年談話」や安倍・日韓合意には全く言及していない。これまた、うんざりすることだ。
 これら二つは、すでに<東京裁判史観>にもかかわる「歴史」になってもいるのだが、産経新聞(社)は、この無視を、恥ずかしいとは感じないのだろうか。
 産経新聞(社)には「政治家よ!もっと歴史を勉強してほしい!」(同上書オビ)と国会議員たちを説教する資格はあるのだろうか。やれやれ、という感じだ。

ギャラリー
  • 2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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