秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

袴田里見

0721/名越健郎・クレムリン機密文書は語る-闇の日ソ関係史(中公新書)第二章・つづき。

 名越健郎・クレムリン機密文書は語る-闇の日ソ関係史(中公新書、1994)の第二章「日本共産党のソ連資金疑惑」のつづき。
 1.途中までを読み直して前回の記入になったが、同じ問題はのちにも触れられている(p.114-)。
 ソ連崩壊後、日本共産党・不破哲三委員長はソ連共産党からの「資金」は「野坂、袴田らソ連との内通者」に渡ったもので、かつ「党への干渉、破壊活動」のために用いられた旨、<赤旗>紙上で書いた、という(p.114)。。
 1960年代の前半にすでに、「野坂、袴田ら」は<反党>活動をしていて、そのためにソ連「資金」は使われた、というわけだ。
 こんな詭弁が信じられるはずがない。
 「実際はソ連共産党国際部と日本共産党のパイプ役」だったとみられるイズヴェスチヤ紙東京特派員・ペトロフは、名越によると、1962年3月にモスクワの党中央に以下の秘密公電を送った(p.115-。一部抜粋)。
 1962.3.1に袴田里見とその妻が来訪し18時から21時まで話し合った。袴田は、ナウカ書店社屋建設費問題につき、融資が1200万円だが「5000万円という必要額に対して少ないうえに、野坂と宮本も賛成したこの要請に対し、モスクワがまたしても日本共産党中央委幹部会の正式決定の形で確認することを主張してきたことは理解できない」と不満を述べた。「野坂と宮本が賛成していて、…どうして正式決定を出すことができないのか」と問うと、袴田は「この種の問題はあまり広い範囲の人に知られるとまずいので、幹部会の審議に上げることは不適当だ」と何度も強調した。
 以上は直接の党活動への援助ではなく「ナウカ書店」への援助・融資に関する話だが、①「野坂と宮本」と袴田は、この件を知っていること、②少なくとも袴田は中央委「幹部会」の議題にする(そのメンバーには公にする)ことを避けたいと考えていたこと(野坂・宮本も同様だっただろう)、を明らかにしている(のちにモスクワで発見され公開された文書の一部だ)。
 上は一例にすぎないが、ソ連からの「援助」資金が、「野坂、袴田ら」「内通者」による<反党>活動に使われたとの不破哲三の主張は真っ赤なウソだろう。
 こうして公然とウソをついて自己および宮本顕治を中心とする日本共産党(主流派)を正当化しなければならなかったのだ。日本共産党中央や幹部は、あるいは個々の一般党員も、平然とウソをつくことがある。党のためならばそのことを恥じることのない、<非人間>的集団が日本共産党であり、現在も今後も変わらないだろう。
 名越のこの章の最後の一文は次のとおり。
 「『ソ連が最も恐れた自主独立の日本共産党』というスローガンはやや荷が重いようである」(p.125)。
 2.<野坂スパイ説>などに言及している部分にも関心はもつが、上の「資金」援助問題とともに大きな興味を持ったのは、日本の天皇制度に関する戦後のソ連共産党の態度だ。
 もともとの1927年・1932年のコミンテルンの「日本テーゼ」は「①天皇廃位、②地主の土地解放、③…」を内容としていて、日本共産党(コミンテルン日本支部)の綱領中に「天皇制打倒」も掲げられた。日本の敗戦をスターリン等のソ連共産党指導部が「革命・民主化闘争の好機」とみなしたことは当然だ。しかるに、ソ連(共産党)は日本の天皇制度廃止を積極的には主張しなかったようだ。以下、名越による(p.99-)。
 ソ連にとっての日本進出の手がかりは日本共産党だったが、党中央は存在せず(敗戦当時、徳田・志賀・宮本顕治らは獄中)、野坂参三に注目した。
 1945年10月初め、野坂と三人の日本人はソ連側のクズネツォフ、ポノマリョフらとモスクワで「秘密会談」をした。その内容はマレンコフ、ベリヤというスターリン直近に報告された。この報告文書も含めて、この会談に関する約100頁の文書が残されている。
 野坂は戦後日本での政治戦略を提示したが「社民路線」に近かった。野坂は10.31の会談で「天皇は政治、軍事的役割のみならず、神的な威信を備えた宗教的機能を果たしている」と述べて「天皇制存続を容認」した。より詳しくは-「大衆の天皇崇拝はまだ消えていない。…天皇制打倒のスローガンを掲げるなら、国民から遊離し、大衆の支持は得られないだろう」、戦前の打倒の要求は無力で不評だった、「戦略的には打倒を目指しても、戦術的には天皇に触れないのが適当だ。当面は…絶対主義体制の廃止、民主体制確立というより一般的なスローガンを掲げながら、天皇制存続の問題は国民の意思に沿って決定すると宣言した方が適当だろう」、「天皇の宗教的機能を残すことは可能だ。皇太子を即位させ、一切の政治的機能を持たない宗教的存在にとどめることもできる」(p.101-2)。
 クズネツォフはモロトフあて報告文書の中で「天皇制の問題に関する野坂の見解は賛同し得る」として同調した。ポノマリョフも1945.11.13付報告書で、「日本共産党」は「天皇ヒロヒトの戦争責任を提起し、息子の地位継承ないし摂政評議会の設立を要求する」のが望ましい、「基本的に日本の天皇は政治的、軍事的権力を削除し、宗教的機能だけにとどめるべきだ」と書いた。
 名越が「かもしれない」
と書くように、ソ連共産党指導部のかかる見解は、東京裁判で昭和天皇を訴追しないとしたアメリカおよびGHQの判断に影響を与えただろう。東京裁判に臨むソ連代表団が提出した「戦犯リスト」に(昭和)天皇の名はなかった(p.104)。
 さらにのちのエリツィン大統領時代に、大統領顧問・歴史家ボルコゴノフは、戦後「スターリンが天皇制存続を望み、昭和天皇を戦争犯罪人にする動きに反対を唱えた」ことを明らかにした。彼によると、スターリンはモロトフ外相に対して、昭和天皇に戦争責任を負わせる意見に反対すると文書通達し、モロトフは駐ソ米国大使に口頭で伝達した。
 ボルコゴノフはスターリンの上記見解の理由として、①日本の「米国型政治体制」移行・米国の傘下入りの防止、②各国の君主へのスターリンの敬意、③アメリカの訴追しない方針に異を唱えて衝突するのは好ましくないとの判断、等を挙げた(p.104)。
 野坂の柔軟な<平和革命>路線はコミンフォルムから1950年に批判をうけた。また、野坂は1992年に、天皇に対する自分の考えは「祖国を遠く、…長く離れて孤立した環境」にあったことも反映して「今日の時点からみれば妥協的にすぎたきらいがある」と自己批判した、という(p.102)。
 だが、野坂の1945.10のソ連共産党幹部に示した見解は、天皇不訴追、天皇制度護持、さらには憲法上の天皇条項の制定に、いくばくかの影響を与えた可能性は高いだろう。ソ連共産党がこれと異なる見解を持っていたとすれば東京裁判や新憲法がどうなっていたかは、歴史のイフではある。
 上述のことで興味を惹いたのは、上の経緯よりも、その中で野坂もソ連共産党幹部も、天皇には「(神的な威信を備えた)宗教的機能」があることを認め、この「宗教的機能」にとどめるべきだ、との見解であったようであることだ。
 しかるに、新憲法上の天皇関係規定はどうなったか。「軍事」的権能はなくなったが、形式的・手続的であれ「政治」的権能はなおも保持している。そして、重要なのは、憲法上は「宗教的機能」に関する明記はなく、むしろ政教分離原則(憲法20条)との関係で、かりに天皇(・皇族)が「宗教」的行為をすることがあってもそれは「国事行為」でも(象徴たる地位に由来する)「公的行為」でもなく、個人的・「私的」行為にとどまる、と通説的には解釈されているということだ。
 上のかぎりで、ソ連共産党幹部の一人が1945年秋に述べたという、「基本的に日本の天皇は政治的、軍事的権力を削除し、宗教的機能だけにとどめるべきだ」との考え方は、とくに「宗教的機能」については、現憲法上は実現されていない、と言い得る。
 ソ連共産党ですら(少なくとも当時は)、天皇の「宗教的機能」を容認し、肯定していたのだ。
 しかるに、何故それが公的には否定されることになったのか。GHQの<神道指令>、日本国憲法上の宗教関係規定の制定等の歴史に遡らなければならない問題だ。むろんここで立ち入る余裕はない。
 なお、野坂参三が1945年秋にモスクワで述べたという、「戦略的には打倒を目指しても、戦術的には天皇に触れない」、当面は「民主体制確立というより一般的なスローガンを掲げながら、天皇制存続の問題は国民の意思に沿って決定すると宣言した方が適当」という主張・路線は、現在の日本共産党の主張・路線と全く同じだ、と思われる。「戦略的には打倒を目指して」いる政党であることを忘れてはいけない。

0720/名越健郎・クレムリン機密文書は語る(中公新書)の第二章-日本共産党が受けた「援助」。

 〇佐伯啓思・大転換-脱成長社会へ(NTT出版、2009.03)の第一章「出口のない危機」、第二章「ミクロとマクロの合理性」を読了したことは、その直近の日にこの欄で記した。
 その後、第三章「経済が『モデル』を失うとき」、第四章「グローバリズムとは何か」、第五章「ニヒリズムに陥るアメリカ」を読了し、ここまでが基礎的叙述かとも思った。さらに、第六章「構造改革とは何だったのか」という最も関心を惹くタイトルの章も読了し、現在は第七章「誤解されたケインズ主義」の途中(p.225あたり)。
 佐伯啓思の近年の本の中では経済学に最も傾斜しているかもしれないが、この程度なら私でも理解できるし、興味を持って読み進められる。
 佐伯啓思・日本の愛国心(NTT出版、2008)や同・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008)もそうだったが、今日の日本を考える上で重要かつ刺激的な見方・主張が多分に含まれていると思われるのに、なぜか、佐伯啓思の本は新聞も含めた書評欄等で話題になることが少ない。佐伯啓思の著の内容をめぐって活発な議論がなされている様子でもない。論壇が崩壊しているのか、それとも、何らかの<言論統制>が敷かれているのか。
 朝日新聞にとって都合のよい、親朝日新聞的論調の本であれば、杜撰な内容・論の本でも朝日新聞は大きくとり上げるような気がする(そして、何かの「賞」すら与えるかもしれない)。だが、佐伯啓思の近年の上掲のものを含むいくつかの本を、朝日新聞は完全に無視しているのだろう。新聞や週刊誌の書評欄などいいかげんなものだ(基本的には産経新聞や同社発行雑誌も同様かもしれない)。
 〇名越健郎・クレムリン機密文書は語る-闇の日ソ関係史(中公新書、1994)の第二章「日本共産党のソ連資金疑惑」のみを今年に入ってから読了(いつ頃だったか失念)。
 同書によると、コミンテルン後継機関として1947年に設立されたコミンフォルム(1956解散)の方針により、「各国の共産主義運動支援の名目」で「ルーマニア労組評議会付属左翼労働組織支援国際労組基金」という「秘密基金」がルーマニア・ブカレストに創設された。
 この基金とは別枠でソ連から直接に日本共産党に対して1951年に10万ドルが供与された(p.83-84)。上の基金からは日本共産党に1955年に25万ドル、1958年に5万ドル、1959年に5万ドル、1961年に10万ドル、1962年に15万ドル、1963年に15万ドル、が「援助」された(p.84、p.91)。これら以外に、日本共産党を除名された志賀義雄グループに1963年に5000ドル(対神山茂夫を含む)、1973年に5万ドル、が「援助」された(p.84、p.92)
 内訳は明確ではないが、この基金からの各国共産党(共産主義者)への「援助」はなんとゴルバチョフ時代の1990年まで続いた、という(p.84)。
 日本共産党の<所感派>(徳田球一・野坂参三ら)と<国際派>(宮本顕治ら)への分裂自体がコミンフォルムの1950年の日本共産党の当時の方針批判を原因としていた。日本共産党が、コミンフォルム=ほとんどソ連共産党、その解散後も上記基金運営の主導権を握っていたソ連共産党に財政的にも相当程度に依存していたことは明らかだ。
 志賀グループに対する以外の1951~1963年の日本共産党に対する「援助額」は累計85万ドルになり、これは30年後(1990年代前半)の貨幣価値では「10億円以上」になる、という(p.91)。
 1962年の「援助」に関する「ソ連共産党中央委国際部議定書」(1961.12.11)なる文書の存在も明らかになったというから興味深い。
 その文書を面倒だがそのまま書き写すと、次のとおり。
 「一、一九六二年に日本共産党に対し、一五万米ドルの資金援助を提供することを適切な決定と認める。
 一、セミチャストヌイ同志(KGB議長)は日本共産党への上記援助資金の引き渡しに責任を持つものとする。引き渡しに際し、『左翼労働組織支援国際労組基金』からの援助であることを周知させるよう通達する。

 日本共産党は<武装闘争>路線を放棄する1955年の所謂「六全協」によって統一回復を始め、1958年の第七回党大会で統一・規約決定、1961年の第八回党大会で新綱領を採択して、所謂<宮本顕治体制>が確立される。
 興味深いのは1950年代は勿論、日ソ両共産党が対立し始めるまでは1960年代に入っても、実質的にはソ連共産党からの財政的援助が日本共産党に対してあった、ということだ。
 日本共産党は1958年には<自主独立路線>を打ち出した。もともとコミンテルン(国際共産党)日本支部と同義だった日本共産党(1922年設立)がようやくソ連共産党から自由になったとも思わせるが、上の資料は、<自主独立>性を疑わせる。
 名越の本によると、日本共産党は上の資料が告げる事実を否定し、「援助はあくまで一部の内通者が要請したもので、党中央は一切関与していない」との立場で一貫しているらしい(p.93にはその旨の日本共産党・志位和夫書記長談話も掲載されている)。
 上のような援助のあること(あったこと)は、一般国民はもちろん一般党員にも知らされず、少なくとも正式には中央委員会はもちろん少数の常任中央委や幹部会でも報告されなかったのだろう。そして、上にいう「内通者」が要請し受領していたことは、宮本顕治ら数名のみが知っていた可能性が高い。
 上の志位談話は「ひそかに特別の関係を持」っていた「内通者」は「野坂参三袴田里見ら」だと述べている。
 語るに落ちたとはこのことだろう。「野坂参三や袴田里見」はのちに除名されたが、1950年代の有力党員であり、1958年~1963年の期間の日本共産党の正式な幹部そのものではないか。のちに除名したからといって、その事実が消えることはない。
 かりに「野坂参三や袴田里見」が「内通者」だったとしても、宮本顕治は、その「内通者」による資金援助要請と受領の事実を知っており、かつ(おそらくは積極的に)容認していたと思われる。
 名越はいう。「分裂時代の五一、五五年はともかく、五八~六三年については、秘密基金が日本共産党本部に流れた疑いは払拭しきれない」(p.95-96)。
 「党中央」と個々の幹部党員(「内通者」)とを区別する日本共産党・志位和夫の論理は実質的には破綻している。
 かりに万が一本当に「内通者」と称することが適切な者が存在したとしても、それが「野坂参三や袴田里見」という当時の幹部党員だったということを、志位和夫は(そして現在の日本共産党幹部および党員全員は)<恥ずかしく>感じるべきだ。それがまともな感覚というべきだろう(<自主独立>を謳うかぎりは)。
 1960年代半ば以降は、ソ連共産党は日本共産党と縁を切って日本社会党との「関係」を深めたと見られる。また、アメリカのいずれかの機関から、初期の自由民主党又はその前身諸政党への「援助」があった可能性を、今回の叙述は否定するものではない。
 なお、法律条文を確認しないが、名越によると、日本の政治資金規正法は「外国からの政治資金導入を禁止」しており、外国からの「資金受け入れは違法行為」で、「禁固三年以下ないし罰金刑」が定められている(この刑罰の対象は政党・政治団体ではなく、その代表者又は個々の国会議員等なのだろう)。

0288/そして、宮本顕治もいなくなった-日本共産党。

 いつか、「そして、宮本顕治の他は、誰もいなくなった」というタイトルで一文を書こうと思っていた。つい先ほど、同氏が死去したことを知ったので、宮本顕治もいなくなってしまった。98歳。追悼する、という気持ちは私にはない。
 新党綱領を制定した1961年とそのときの共産党大会が現在の日本共産党の<(表面的な)議会主義的・平和主義的>路線の実質的な始まりで、1961年こそが同党の新設立の年だ、それまでの共産党は名前は同じでもコミンテルン・コミンフォルムの影響を受けすぎた別の政党だった、という説明の仕方も可能だった、と思われる。そうすれば、1922~1960年までの(50年以降の分裂と少なくとも片方の<武装蜂起>路線も)現在まで問題にされ批判されている事柄は現在の党とは無関係だと強弁することはできただろう。
 しかし、そうしなかったのは、宮本顕治らの戦前組、そして<獄中組>の<プライド>が許さなかったからだろう。そしてまた、戦前からの活動経験と10年以上の獄中経験こそが宮本顕治ら一部の者に対して、一種の<カリスマ>性を与えたのかもしれない。
 それにしても、1961年以降の日本共産党は、上に、「そして、宮本顕治の他は、誰もいなくなった」と書いたが、中国の毛沢東、北朝鮮の金日成のように、宮本顕治が自らに反抗する(反対意見をもつ)同等クラスのものを徹底的に排除しいく過程だっただろう。社会主義国でなく資本主義国内の共産党でも<独裁>・<(実質的な)個人崇拝>容認思考は形成されていたのだ、と考えられる。
 犠牲者は、それぞれ事由は違うが、春日庄一志賀義雄(日本のこえ)、そして(最)晩年を党員として生きることも許されなかった袴田里見野坂参三…と続いた。<新日和見主義>とされた一群の者たちや有田芳生などの個別のケースの者を挙げているとキリがない。
 一般の日本共産党員は何ら不思議に思っていないようだが、宮本顕治から不破哲三への実質的権力の移譲、不破哲三から志位某への実質的権力の移譲は党大会で承認されたわけでは全くない。幹部会委員会か常任幹部会委員会か知らないが、一般党員には分からない数名(たぶん数十名ではない)の<仲良しクラブ>の中での<密室>の話し合いか又は前任者による<後継指名>によって決まったわけだ。そこには<党内民主主義>なるものは一片もない。あるのは極論すればただ<個人的嗜好>だろう(もちろん共産党の実質的代表として「立ち回れる」能力・知識があることは条件とされただろうが)。
 そういう政党を作り、ここまで40年以上長らえさせたのは、おそらくひとえに宮本顕治の力にかかっている。
 いつかも書いたような気がするが、宮本は二度と入獄の経験などしたくないと心から強く(皮膚感覚を伴って)考えていたに違いない。そして、武装闘争による逮捕→党員数減少・一般国民からの支持の離反などは御免こうむりたいと強く願っていたに違いない。
 その結果が、1961年党綱領だった。そのおかげで日本共産党はまだある。日本共産党の専従活動家として同党に生活を依存している者も多いに違いない。その者たちのためにもある程度の数の議員をもつ政党として日本共産党を存続させていかなければならない。-かかる発想は現在の志位和夫にもあるだろう。
 その代わりに、日本共産党のいう民主連合政府→民主主義革命→社会主義社会・共産主義社会という道は<夢の夢>へとますます遠ざかっている。職業的活動家を扶養するだけの新聞収入と議員歳費収入のある政党として、今後も<細く長く>生きていくつもりだろうか。
 本当はソ連・東欧社会主義国崩壊の時点で、日本の新聞等のマスコミ・論壇は、<日本にコミュニズム政党が存在する意味>を鋭く問わなければならなかった。それを怠った日本のマスコミ・論壇は、それら自体がかなりの部分マルクス主義に冒されていた、というべきだろう。
 勿論現在でも<資本主義国・基本的には自由主義国の日本での「共産主義」政党の存在意義>を問うことができるし、問うべきだろう。しかし、そのような論調はわが国のマスコミ・論壇では必ずしも大きくはない。マルクス主義者の<残党>がまだ一定の影響力をもっているからに他ならないと思われる。なんと日本は<多様な思想>を許容する<寛大で自由な、優しい>国なのだろう
 以上、宮本顕治逝去の報に接して一気に。

0250/可哀想な日本共産党員のブログから二点。

 日本共産党員のブログや、コメントに対する応答を読んでいると、いちいちどのブログかを特定しないが、なかなか面白いものが含まれていることがある。若干の例を挙げて、コメントする。月日も特定しないが、比較的近日中のものだ。
 第一に、同党の実質的な初代「教祖」と言える宮本顕治の経歴、とくにスパイ・リンチ事件についての知識が不十分な日本共産党員がいる。例えば、某党員ブログはこう書く。
 「宮本顕治が逮捕されるきっかけになった事件についていってると思うんですが、宮本は「殺人」ではなく治安維持法違反で有罪になっているわけで、「殺人罪」では有罪になっていません。」(賢治→顕治に訂正しておいた)
 1933年12月のスパイ・リンチ死亡事件については、立花隆(日本共産党の研究)や当該「査問」の参加者の一人・袴田里見(昨日の同志宮本顕治へ)などの研究書や「実録」ものがある。
 日本共産党員として正しい知識と教養を身に付けるためには、そして、自己の立場に自信があるならば、同党関係文献や新聞・中総決定だけではなく、こうした本も広く読んだらいかがだろうか。
 上の本で確認しないまま書くが(それでも上の引用文よりは正確な筈だ)、宮本顕治はなるほど殺人罪で起訴され有罪判決を受けたわけではないが、治安維持法違反のみで起訴され有罪となったわけでもない。つまり、小畑某か大泉某が「査問」途中で逃亡しようとした際に拘束し実力を行使している間に死亡した件につき、過失致死か傷害致死(たぶん後者)という一般刑法犯を冒した者としても宮本は起訴され有罪判決を受けた。
 宮本顕治は治安維持法違反者としてのみ服役していたわけではない。一般刑法上の犯罪者でもあったのだ。この程度の知識も、一般の日本共産党員にはない、つまり、赤旗(新聞)等々によって誤魔化されている(正確な知識を与えられていない)ということに、改めて驚く。
 ちなみに、1.立花隆の本には、戦後すみやかに解放されえたのは「政治犯」のみで「一般刑法犯」は対象外だったが、法務省のミスで宮本顕治も<釈放>された旨書かれてあったと記憶する。
 2.ひょっとしてお知りにならない日本共産党員もいらっしゃるかもしれないので書いておくが、副委員長・袴田里見までをも除名しなければならなかったのは、まさに袴田里見が前衛(だったと思う)に連載してのちに本にしたものの一部がスパイ・リンチ事件を扱っていて、その内容が宮本顕治による殺人(柔道的首締め。未必の故意)と解釈されるおそれがあったことがきっかけだった。
 日本共産党は宮本顕治を守るため、戦前からの長い宮本の同志・当時副委員長だった袴田里見まで犠牲にしたのだ。
 第二に、某ブログ上のコメントとその反論に次のようなものがあった。一部のみ抜粋する。
 コメント-「スターリン、毛沢東、金日成、ホーチミン、ポルポトみんな一杯人殺してるよ。/共産主義者の殺人は綺麗で正義の殺人なのかな。
 反論-1.「長時間過密労働・過労死・過労自殺…資本主義の国・わが国日本でも資本が労働者を抑圧する行為がやられてますよね。
 2.「「社会主義」「共産主義」「共産党」の看板掲げているからといって、彼らのやってる事がすべて「社会主義」「共産主義」「共産党」というわけではありませんよ。わが国の政権党・自由民主党だって党名は「自由民主」でも、やってる事は大企業を応援し、庶民を増税で苦しめるなど「自由民主」とはほど遠いですからね。
 反論の1.はあまりにもひどい。「資本」の「労働者抑圧」の例である?「長時間過密労働・過労死・過労自殺によって、社会主義国(旧も含む)又は共産主義による自国民の大量殺戮が<相殺>されるわけがないではないか。前者に対応するのは、現・旧社会主義国における、労働環境・労働条件の悪さ等々による工場労働者等の死亡の多さだ。
 反論の2.についてはまず、些細なことだが、最後の文の、<大企業の応援や庶民を納税で苦しめる>のは「自由民主」に反する、との主張は全く論理的ではない。「自由」を実体的価値・「民主」を手続的価値とかりに理解するとしても、いやこのように理解しなくとも、上のことが「自由・民主」と矛盾するわけでは全くない。自由主義と民主主義の範囲内で上のような政策も十分に成り立つ(もっとも上のような簡単・単純な政策の叙述自体に同意しているわけではない)。
 「自由・民主」の意味について、(日本共産党も何か関係する宣言を出している筈だが、自党の理解も含めて)もう少し考えていただいた方がよい。
 上に引用しなかったが、イギリス労働党と北朝鮮労働党を「労働党」という名前だけで同類視しない筈との名?文章があった。だが、コメント者が問題にしているのは、いくつかの人名で代表される、マルクス主義又はマルクス・レーニン主義(=日本共産党における「科学的社会主義」)を採用し、社会主義社会・共産主義社会への展望を綱領で(どんなに短い文章でも)示している政党、という意味だろう。
 従って、「「社会主義」「共産主義」「共産党」の看板掲げているからといって、彼らのやってる事がすべて「社会主義」「共産主義」「共産党」というわけではありませんよ」という答え方では答え・反論になっていない。
 むしろ、「すべて…というわけではありません」という表現は、<一部>は<真の>
「社会主義」「共産主義」「共産党」である可能性又は余地を認めるもので、100%の反論に全くなっていない。
 私が日本共産党員としての正答を教えてあげる義理は全くないのだが、同党の立場にかりに立てば、こう言うべきだろう。
 「スターリン、毛沢東、金日成、ホーチミン、ポルポト
」、この人たち(又はこの人たちが指導した国家)は真の「社会主義」者(「社会主義」国家)ではなく、この人たちが指導した共産党は誤った「共産党」だった。従って、正しい路線を歩んでいる日本共産党と同一視するな。
 こう書いておいて、ベトナムのホーチミンについては自信がないことに気づいたが、この人以外については、<日本共産党の主張をよく勉強している>党員ならば、上のように答えるだろう。ソ連について、レーニンまでは正しく、スターリンから誤った、大量虐殺の責任も主として又は大部分はレーニンではなくスターリンにある、と主張しているのが日本共産党だからだ。
 むろん、私はさらに、上の「正答」に反論することもできる。誤っていたスターリンの指導を受け、それを支持していた日本の政党こそが、戦前およびスターリン死亡までの戦後の日本共産党ではなかったのか、ということはすでに書いた。
 他にも、もともとレーニン→マルクスと遡る源流そのものに<血生臭さ>は胚胎していたのであり、表面的には今のところ<平和的>・<紳士的>でも、日本共産党も本質的にはマルクス・レーニン主義のDNAは引き継いでいる筈ではないのか、との疑問を出しておくことも可能だろう。
 思わぬ長文になったが、最後にいくつか。
 とくに上の後者の回答者党員の知的レベルの低さは何とかしないと、ブログ上で、日本共産党は(ますます)恥を掻くことになるのではないか。
 また、同回答者の他の文章にもかなり目を通してみたが、要するに、日々の赤旗(新聞)や選挙パンフに書かれてあることをなぞっているにすぎない。語彙・概念に独自なものはなく、すべて共産党用語だ。歴史や基礎理論の勉強の足りない党員が、赤旗や選挙パンフの文章を多少は順序を変えて反復しているに過ぎない。
 ついでに。いつぞや共産主義(→日本共産党)は「宗教的」ではなく「宗教」そのもの、と書いたことがあった。党員の精神衛生のためには、日々、教典にもとづく教祖の具体的教えが書かれた文章を読み、「正しい」ものとして学習し、それに基づいて、場合によっては信者を増やすべく布教をする必要があるのだろう。
 日本共産党のようなとくにイデオロギー性の強い政党については、入党というのは教祖又は宗教への全面帰依を意味する。入党するということは<思想・信条の自由>・<信仰の自由>を丸ごと放棄することと同義だ。
 そのようにして「自由」を喪失した者は、自分の言葉・概念・論理で語る能力もまた(ごく一部の幹部候補生以外は)失っていく。そのような人たちが、ネット上でもけっこう多数うごめいていることを知ると、本当に可哀想だ、気の毒だ、と私は心から感じざるをえない。
 日本共産党に未来はないのに…。

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  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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