秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

表現の自由

1983/池田信夫のブログ006。

 池田信夫ブログマガジン6月17日号「『ブログ経済学』が政治を変えた」。
 池田のおそらく意図ではない箇所で、あるいは意図していない態様で、その文章に「引っかかる」ことが多い。「引っかかる」というのは刺激される、連想を生じさせるという意味なので、ここでは消極的で悪い意味ではない。
 「物理学では学界で認められることがすべてだが、経済理論は政策を実行する政治家や官僚に認められないと意味がないのだ」。
 十分に引っかかる、または面白い。
 後の方には、こんな文章もある。
 「主流経済学者が…といった警告を繰り返しても、政権にとって痛くもかゆくもない。そういう批判を理解できる国民は1%もいないからだ。」
 学校教育の場では各「科目」の性質の差違、学術分野では各「学問・科学」の性質の差違は間違いなくあるだろう。
 理系・文系の区別はいかほどに役立つのか。自然科学・社会科学・人文科学といった三分類はいかほどに有効なのか。
 文系学部廃止とか人文社会系学部・学問の閉塞ぶりの指摘は、何を意味しているのか。
 経済学(・-理論、-政策)に特化しないでいうと、近年に感じるのは、<現実>と<理論・記述>の区別が明確な、または当然のものとして前提とされている学問分野と、<現実>と<理論・記述>のうち前者は遠のいて、<理論・記述>に該当する叙述が「文学」または「物語」化していく学問?分野だ。
 文学部に配置されている諸科目・分野でいうと、地理学・心理学は最初から別論としたい。ついで、歴史学は理系ないし自然科学に関する知見も本来は!必要な、総合的学問分野だろう。<歴史的事実>と<歴史叙述>が一致しないことがある、ということは古文献にせよ、今日の学者・研究者が執筆する文章にせよ、当然のことだろう。
 法学というのは「法規範」と「現実」は合致するわけではないことを当然の前提にしている。規範の意味内容の「解釈」を論じてひいては何がしかの「現実」に影響を与えようとする分野と、法史学とか法社会学とかの、直接には「法解釈」の議論・作業を行うのではない分野の違いはあるけれども。
 池田信夫もおそらく前提とするように、「経済」に関する「理論」とそれが現実に「政策」として政権・国家によって採用されるかは別の問題だ。さらには、特定の「理論」が「経済政策」として採用されても、それが「現実に」社会または国民生活にどういう影響を与えるかは、さらに別の話、別に検証を要する主題だろう。
 なお、日本では法学部内に置かれていることが多い政治学は、少なくとも<法解釈学>よりは経済学に近いような気がする。もちろん、「政治」と「経済」で対象は異なるけれども。よって、「政経学部」という学部があるようであるのも十分に理解できる。
 上に言及したような文学部内の科目・分野を除くと、<現実>と<物語化する記述>が曖昧になってくる傾向があるのは、狭義での「文学」や「哲学(・思想)」の分野だろう。
 そして、こうした分野で学部や大学院で勉強して、大学教授・「名誉教授」として、または種々の評論家として文章を書いたり発言をしたりしている者たちが、戦後日本を「悪く」してきた、というのが、近年の私の持論だ。
 なぜそうなるのだろうか。「事実」ないし「経験」によって論証するという姿勢、「事実」・「現実」にどう関係しているかという問題意識が、もちろん総体的・相対的にかもしれないが、希薄で、<よくできた>、<よくまとまった>、<読者に何らかの感動を与える>まとまりのある文章を作成することを仕事としている人々の基礎的な学修・研究の対象が「文学」だったり哲学者の「哲学書」だったり、本居宣長等々の「作品」だったりして、そしてそれら<著作物>の意味内容の理解や内在的分析(むろん書き手・読み手両方についての「他者」との比較を含む)だったりして、直接には<事実>・<歴史的現実>を問題にしなくとも、あるいはこれらを意識しなくとも仕事ができ(報酬が貰え)、評価もされる、ということにあるだろう。
 適切な例かどうかは怪しいが、「狭義」の文学とはいったいいかなる意味で「学問」なのだろう。
 ある外国(語)の「文学」に関する論考が大学の紀要類に掲載されていて、それを読んだとき、これは「学問」か?と強く感じたことがある。
 その論考は要するに、ある外国(語)の「文学」作品を原外国語で読んで、邦訳し(日本語化し)、そのあとでコメントないし「感想」を記したものだった。
 こんな作業は、中学生・高校生が日本語の「文学」作品について行う「読書感想文」の記述と、本質的にいったいどこが違うのか。
 外国語を日本語に訳すること自体が容易でないことは分かるが、翻訳それだけでは一種の「技術」であり、あるいはせいぜい「知識」であって、とても「学問」とは言い難いのではないか。
 唐突だが、小川榮太郎が産経新聞社系のオピニオン・サイトに昨2018年9月28日に、書いていたことが印象に残った。表題は、「私を非難した新潮社とリベラル諸氏へ」。
 毎日新聞に求められて原稿を書いたが、掲載されなかった。その内容は、以下だった、という。以下、引用。一文ずつ改行。
 「署名原稿に出版社が独断で陳謝コメントを出すなど言語道断。
 マイノリティーなるイデオロギー的立場に拝跪するなど文学でも何でもない。
 …に個の立場で立ち向かい人間の悪、業を忌憚なく検討する事も文学の機能だ。
 新潮社よ、『同調圧力に乾杯、全体主義よこんにちは』などという墓碑銘を自ら書くなかれ」。

 この文章は昨年夏の新潮45(新潮社)上の杉田水脈論考をきっかけとし生じた「事件」の当事者によるものだ。
 きわめて違和感をもつのは、どうやら小川榮太郎は自分の「文学」の仕事として、杉田水脈を応援し?、防衛?しようとしたようであることだ。
 杉田水脈論考は国会議員の文章で、「政治的・行政的」なものだ。
 そして、小川榮太郎がこれを支持する、少なくともリベラル派の批判に全面的には賛同しない、という立場を明らかにすることもまた、「政治的」な行動だ。
 執筆して雑誌に掲載されるよりも前にすでに、新潮45編集部からの(一定の意味合いの)執筆依頼を受諾したということ自体が、「政治的」行動だ。
 小川榮太郎は「文学」と「政治」の二つの「論壇」で自分は活動していると思っているらしく、これもまたきわめて怪しい。
 主題がやや別なのだが、「論壇」人とは要するに、少なくとも現在の日本にとくに注目すれば、いくつかの何らかの雑誌類への執筆という注文を受けて、文章という「生産物」を販売し、原稿料というかたちで対価を受け取っている、「文章執筆自営業者」にすぎない。
 大学・研究所その他ら所属していれば、副業かもしれないが、小川榮太郎のような者にとっては、「本業」としての「文章(執筆)請負・販売業」なのだ。
 企業である出版業者が<経営>を考慮するのは当然のことで、新潮社の社長の権限や内部手続の点はよく知らないのでともあれ、小川榮太郎が<表現の自由>の剥奪とか新潮社の<全体主義>化とかと騒いでいるのは、根本的に倒錯している
 元に戻ると、小川榮太郎が新潮45に掲載した論考が彼の「文学」だとは、ほとんど誰も考えなかったのではないか。
 今回に書きたかったことは、強いていえばここにある。つまり、「文学」と「政治」の混同・混淆で、自分の文章を「文学的」に理解しようとしないとは怪しからん、自分の「文学亅を理解していない、などという開き直りの仕方の異様さだ。
 もともと小川榮太郎は「文芸」評論の延長で「政治」評論もしているつもりなのだろう。
だから、文学・政治の両「論壇」で、などと書くにいたっている。
 そして、安倍晋三に関するこの人の「作品」は「文芸」評論の延長で「政治」にも関係した典型のもので、ある種の感動・関心を惹いたのだとしても、その内容は「物語」だ。
 現実・事実を最初から「物語」化してはいけない。あるいは「文学」化してはいけない。
 それらの基礎にある、何らかの「思い込み」、「妄想体系」の<優劣>でもって勝負あるいは<美しさ>、<作品の評価>が決まってしまう、というようなことをしてはいけない。
 それは狭い「文学」の世界では大切なことなのかも知れないが、事実・現実に関係する世界に安易に、あるいは幼稚に持ち込んではならないだろう。
 というわけで、ひいては、「文学」の<学問>性や他人の文章ばかり読んでいる「哲学研究者」なるものの「哲学」性を、ひどく疑っているわけだ。
 池田信夫の文章に関連して、さらに書きたくなること、連想の湧くことは数多いが、今回はここまで。

1166/資料・史料ー橋下徹対週刊朝日・朝日新聞再燃?

 週刊朝日の最近号(4/02発売号?)の一記事が再び橋下徹を刺激したようだ。ほとんど「資料・史料」扱いだが、以下に関連橋下徹ツイ-トを全文引用しておく。
 橋下徹には大いに週刊朝日と、そしてとりわけ、背後にいる、昨秋には第三者委員会の見解を紹介しつつ、自らは「深刻に受け止めている」とだけ述べ、厳密には橋下徹に対する「詫び」・「謝罪」の言葉をひとことも語らず、「深刻に受け止め」今後はもっと巧妙に橋下徹を非難・攻撃しますと内心では思っているのではないかと勘ぐることすらできる朝日新聞社と対決し、これらを攻撃してもらいたい。
 ただ、主観的意図を疑問視はしないが、ツイッタ-での表現方法には十分に気をつけてもらいたい。大丈夫だろうとは思うが、校正・推敲しないままで書きなぐっているとみえる文章が思わぬ致命的な誤りや言葉使いを含んでしまう可能性がないとはいえないだろう。
 せっかくの人材・逸材なのだから、つまらないミスで退場しなければならなくなるようなツイッタ-文章にならないように、公人・政治家の橋下は(周囲に人物がいるとすればその人物も)十分に気をつけてほしいものだ。
 2013年04月05日夜ツイ-ト

 「しかし週刊朝日も頭が悪いと言うか常識がないと言うか。こいつらは自分たちがやったことの反省と言うものがないのかね。自分たちは重大な人権侵害をやったにもかかわらず、半年やそこらでもう忘れているようだ。」
 「週刊朝日が僕に対して重大な人権侵害をやったのはつい半年前。そのことで公人チェックを緩める必要はないが、せめてそのような大失態をやったなら、真正面からの政策批判かルール違反行為の追及で攻めて来いよ。それを、こんな人をバカにしたような記事を載せやがって。」
 「5年も知事と市長をやってたら飽きられるのも当然だし、だいたい視聴率とるために知事や市長になったわけではない。自分でやらなきゃならないと思ってやっていることを、メディアが報じているだけだ。飽きられても結構毛だらけ。行列やたかじんのNOマネーに出たことを週刊朝日はちゃかしている。」
 「俺が知事になって今があるのは、行列のおかげだし、たかじんさんのおかげでもある。たかじんさんが復帰したと言うことで番組に伺って何が悪い。週刊朝日な、いい加減にしろよ。重大な人権侵害雑誌よ。こっちも公人だから公人チェックまでは否定しない。それでもやり方ってあるだろ。」
 「重大な人権侵害雑誌の週刊朝日よ、真正面からの政策批判か、ルール違反を追及する記事で勝負しろよ。だいたいお前らの100%親会社の朝日新聞は、日本の過去の歴史についてとにかく謝り続けなさいと、素晴らしい徳性に基づいて主張しているじゃないか。子会社の週刊朝日は社訓になっていないのか?」
 「僕は報道の自由を尊重する。民主主義の根幹だからだ。公人チェックの重要性を承知している。一度人権侵害を受けたからと言って、週刊朝日の僕に対するチェックを否定するつもりはない。それでもやり方ってあるだろ。真正面から来いよ。」
 「だいたい週刊朝日は、僕に対する人権侵害記事で、その号の部数を大幅に伸ばして利益を増やした。重大な人権侵害行為で儲けているんだ。普通だったら贖罪寄付をするが、どうしたんだい、人権侵害週刊朝日よ。まさか従業員の給料に回したんじゃないだろうな。」
 「報道の自由、表現の自由が民主主義の根幹だからと思って黙っていたが、こういう人権侵害週刊誌は、性根が腐っている。黙っていたら調子に乗るばかりだ。公人になってから報道の自由は絶対的に尊重していたが、こりゃダメだ。人権侵害週刊誌の週刊朝日に対して法的手続きを執ります。」
 「今回の茶化し記事についてではないです。過去の人権侵害記事について、民事、刑事の法的手続きを執ります。ほんと週刊朝日もバカだよねえ。」

 2013年04月06日朝ツイ-ト

 「週刊朝日は何を考えているのかね。そしてあの人権侵害記事をどう考えているのか。呆れるばかりだ。週刊朝日から市役所に面会申し入れが来た。誰が会うかバカ。僕はそんな暇人じゃない。報道機関だからと言って調子に乗るな。民主国家のルールで週刊朝日のやったことがどういうことがはっきりさせてやる。」
 「週刊朝日が社長を更迭し、僕に謝罪に来たが、それで僕が呑み込んだと言うことがどういうことが、あのバカ集団は分かっていないらしい。普通なら、慰謝料請求が当たり前だろう。僕は呑み込んだつもりだ。しかし請求権を放棄したわけではない。事実上、黙っていただけ。」
 「週刊朝日も終わっているね。事態が全く分かっていない。週刊朝日がとりあえず反省の姿勢を示したので、公人と言う立場から黙った。週刊朝日は自分の立場が全く分かっていない。報道機関だからと言って特別な地位にあるとでも思っているのか?あれだけのことをやって全てがチャラになると思っているのか。」
 「普通は配慮するだろう。ただ、僕も公人。あのような人権侵害があったからと言って、公人に対する正当なチェックまで否定しようとは思わない。ところが、週刊朝日のバカは、おちょくった記事を書いてきた。社を挙げて、半月前に頭を下げてきたあの日の事をもう忘れたか
 「報道機関だからと言って調子に乗るんじゃない。俺に対する人権侵害の記事で、いつもは売れない週刊朝日が10万部も増刷になったとか聞いた。人権侵害で利益を得たなんて、不法団体そのものだ。こちらの心情も推し量らずに、報道機関と言うことで、特権意識を持ったのか。」
 「週刊朝日よ。お前らがそういう態度なら、こっちもとことん行ってやるぜ。」
 「週刊朝日よ。二度目の面会なんてあるか、バカ。久しぶりに弁護士魂が燃えてきた。余計な仕事を増やしやがって。司法の場で決着を付けようぜ。」
 「週刊朝日だけでなく100%親会社、人材も重なり合う朝日新聞も訴えます。法人格否認の法理でね。週刊朝日と朝日新聞は別だとご気楽なコメントを出していたコメンテーターに何が問題なのか教えてやる。さて弁護士の仕事も一つ増えた。週刊朝日、朝日新聞が人権侵害報道機関であることを明らかにする
 「ツイッター返信で誤解が多い。しょうもない記事を書かれるのは公人だから仕方がない。週刊朝日は、重大な人権侵害行為をやったんだからそこは意識しろってこと。真正面から批判してくるなら良いが、自分たちがやったことをもう忘れたのかってこと。報道機関と言えども一民間企業だ。」
 「こっちは慰謝料は一銭たりとも何も受け取ってない。やつらは人権侵害行為で売り上げ増、利益増収。これはやっぱり公正じゃない。きちんと慰謝料請求する。そして刑事告訴もする。普通なら、こんな記事くらいで目くじら立てない。週刊朝日は過去に重大な人権侵害行為をやった。それを忘れるな。」

0754/広島市長・秋葉忠利は憲法違反の「人権」侵害行為を謝罪せよ。

 広島市長・秋葉忠利による田母神俊雄らに対する講演(会)の日程変更「要請」は、重大な憲法問題を孕む。
 私人の表現(・集会)の自由に対する、<権力>による事前関与であり、朝日新聞高嶋伸欣も断乎として批判すべきものだ。かつて櫻井よしこを講師とすることを民間団体が「左翼」の圧力に屈して取り止めたのとは次元が異なる、由々しき事態だ。
 表現(・集会)の自由が、その予定日が何かによって制限されることはありえず、<原爆死没者慰霊のため>などという目的のために引っ込まなければならないはずはない。
 もともと田母神俊雄の講演が戦没者慰霊の趣旨に反するとは思えない、という大問題があるが、かりにそれを別に措くとしても。
 田母神俊雄の講演会が広島市立の施設(市民会館等)で行われる予定で、会場の使用許可権者が広島市長だったとしても、使用許可権者・広島市長が講演会(・集会)の目的・演題等を勘案して使用を許可しないことは、憲法や地方自治法に違反し、違憲・違法になる。不許可という公式の権力行使ではなく、「要請」という柔らかいかたちであっても、権力主体である広島市長の行為に他ならず、憲法・地方自治法の趣旨による制限を受ける。
 建国記念日(2/11)の<「反」建国記念日>の集会につき、内閣総理大臣は<自粛>・<日程変更>を、祝日設定の趣旨を根拠に<要請>できるのか? そんなことをすれば、建国記念日に反対の「左翼」は大騒ぎするだろう。
 新天皇による大嘗祭挙行の日に行われる国又は自治体の施設を使っての「大嘗祭反対」の集会につき、内閣総理大臣(・関係大臣)又は自治体の長は、大嘗祭挙行の日であることを根拠として使用を不許可にできるのか、あるいは<自粛>・<日程変更>を<要請>できるのか? そんなことをすれば、天皇制度反対の「左翼」は大騒ぎするだろう。
 同じことが広島市で起きている。
 何となく感じられている以上に、重大な問題を含む。広島市長・秋葉忠利の行為は徹底的に糾弾されるべきだ。秋葉忠利は要請を取消し又は撤回し、田母神俊雄らに公式に謝罪すべきだ。

0751/全体主義者・高嶋伸欣-週刊金曜日6/19号、NHK番組に関して。

 週刊金曜日6/19号、p.47。
 長いタイトルの、高嶋伸欣「看過できないTV番組介入の議員連盟発足/厳しさが足りない身分を保障された者への監視姿勢」。
 高嶋伸欣は琉球大学名誉教授との肩書きで、いつぞやの日曜午後のTV番組「…言って委員会」で<左翼教条>発言をしていた。
 上の文章も面白く読ませる。嗤ってしまうのだが。
 NHK4/05の台湾統治に関する「NHKスペシャル」を契機に「公共放送のあり方に関する議員連盟」が発足したことにつき、「明らかに政治家による番組内容への介入」、「組織的にやろうというのは悪質」と批判。
 また、産経・朝日がこの議連発足をベタ記事でしか報道しなかったことにつき、「本来ならば社説で厳しく批判して当然な程の言論界の大問題」だと批判。
 さらに、読売がNHKは「政治家の介入を招くスキを自ら」作った等の識者コメントをのせたことを「NHK批判」だとし、「スキがあろうとなかろうと、政治家の介入は不当とするのが、メディアの立場だろう」と批判。
 高嶋によると、メディアは「憲法感覚から迫る姿勢を失って久し」い。そして、「違憲違法の議員連盟を客観視の名目で黙認するのか」と最後を締め括る。
 さて、第一に、古屋圭司・安倍晋三らの「公共放送のあり方に関する議員連盟」の発足のどこに<違憲・違法>性があるのか。「憲法感覚」を語るわりには、高嶋は何も解っていないのだろう。具体的にどの憲法条項違反かを高嶋は語らない。
 放送法というNHKの設立根拠法でもある法律が適正に執行されているかを監視することは、むしろ国会議員の義務・責務だ。
 第二に、高嶋の頭の中には、NHKの<表現の自由>対自民党国会議員(政治家)・<権力>の介入という構図が描かれているのかもしれない。この構図に立たないで後者を「社説」で「厳しく批判」しないのは怪しからんと怒っているわけだ。
 上の構図しか描けないことこそ「左翼教条」の高嶋らしい。<表現の自由>はNHKのみならず、国会議員・政治家にもある。特定の番組についてであれ、国会議員・政治家が批判的にコメントすれば<不当な政治家による介入>と捉えられるのだとすると、国会議員・政治家はマスメディアについて何も発言できなくなる。
 第三にそもそも、高嶋はNHKの番組の内容とそれ問題視する側の見解についてほとんど何も語っていないし(「日本の台湾支配を悪く描きすぎているとのバッシング」というだけ)、かつそれらに関する自らの見解は何も語っていない
 問題は、<表現の自由と「権力」>ではない。NHKが行使した「表現の自由」の結果・具体的内容の当否なのだ。それについて、種々の議論があることこそが、「表現の自由」の保障のもとでは当然のことなのだ。NHKが放送法等による規制を受ける、一般の民間放送会社とも異なる「公共放送」だとすれば、一方の「表現の自由」を国会議員が行使するのはますます当然のことだ。
 高嶋伸欣においては、おそらく明瞭なダブル・スタンダード=「ご都合主義」があるのだろう。
 すなわち、かりにNHKが高嶋の気にくわない<保守・反動的>番組を作り、それを例えば日本共産党(社民党でもよい)が問題視する質問を国会(・委員会)で行ったとする場合、高嶋は上の文章の如く、<政治家による不当な介入>と批判するだろうか。
 国民の代表者・国会議員は国民主権のもと、NHK(の「保守反動」性)を厳しく監視すべきだ、とでも主張するのではないか
 高嶋伸欣にとっては、自分に都合のよい(自分の思想・歴史認識・考え方と同じか近い)マスメディアの番組・報道は<表現の自由>として「憲法」上守られなければならず、自分に都合の悪い(自分の思想・歴史認識・考え方と異なるか対立する)マスメディアの番組・報道は<表現の自由>の保障に値せず、封殺されるべきものなのだ
 そういう本音を隠したまま、あるいはそういう矛盾が自らのうちにあるのを(「左翼教条」のゆえに)自覚すらしないままで、上のような文章を高嶋は書いたのだろう。
 隔週刊・サピオ7/08号(小学館)で小林よしのりは、月刊・世界6月号(岩波)で古木杜恵(男性)が結局は「小林よしのりは差別者だ!」「こんな奴に発言させるな!」とだけ主張していることを捉えて、「全体主義」と称している。
 この回のタイトルは「『世界』に暗躍する全体主義者」で(p.55)で、「左翼の本質そのものが全体主義だから、左翼は無意識のうちに全体主義の言動をとってしまう!」、「左翼の本質・本能をなめてはいけない! 彼らは言論の自由が大っ嫌いなのだ!」とも書いている(p.62)。

 週刊金曜日6/19号を読んだのが先だったが、高嶋伸欣の文章・主張に私は「(左翼)全体主義」を感じた。
 <表現の自由>どおしの闘い=議論・討論をしようとする姿勢を全く示さず(=NHKの番組の内容的評価には何も触れず)、一方の側(国会議員)の<言論の自由>(「政治活動の自由」でもあるかもしれない)を封殺しようとし、そうしようとしない新聞を批判しているからだ。
 さらに言えば、まだ<言論の自由>(「政治活動の自由」)の行使には至っていない段階かもしれない。「議員連盟」が設立されただけ、なのかもしれない。それでも、その「議員連盟」の言論・諸活動を、高嶋伸欣は事前に封殺しようとしているのだ。
 これは考え方の出発点において、「全体主義」だ。<言論>・<思想・信条>の中身いかんによって保護したり抑圧したりするのは、「全体主義」だ。
 高嶋伸欣よ。よく自覚するがよい。小林よしのりが対象としているのは別の人物だが、あなたも「全体主義」者だ。「左翼の本質そのものが全体主義だから、左翼は無意識のうちに全体主義の言動をとってしまう」のだろう。また、ここ
にも、マルクス主義の痛ましい犠牲者がいるのかもしれない。
 なお、週刊新潮7/02号(新潮社)p.163は、水島総らが上に言及のNHK番組を理由に民事の「大訴訟」を検討中と伝える。この問題関係の訴訟の法的な勝算・コストパフォーマンスには疑問全くなしとしないが、同じ週刊誌でも週刊金曜日とは大きな違いがある。

0731/田母神俊雄に関連する朝日新聞5/04記事の「バカ」くささ。

 遅いコメントだが、朝日新聞5/04付朝刊の「虚の時代4/『タモちゃん現象』を利用」と題する記事は、朝日新聞らしく、気味が悪い。
 田母神俊雄はまだ単著や対談本等を発刊し続けている。田母神を「支持する」意向をごく微小ながらも示したくもあり、できるだけ購入するようにしている。
 上の記事は、田母神俊雄本が売れ、同・講演会が盛況らしいこと(「タモちゃん現象」)に幾分かの恐怖を覚え、揶揄してやろうとの魂胆のもののようだ。
 事実だとしても田母神俊雄支持者のすべてではなくごく一部の者に違いないが、上の記事は、防衛大学校長・五百旗頭真の講演会を中止するよう「圧力」をかけた人物がいた、と書く。そして続けて、(この記事の論旨展開はかなりいい加減なのだが、)秦郁彦の田母神俊雄論文の一部を批判する発言を載せる。その後にすぐにつなげて、中島岳志(パール判事論争の当事者で、小林よしのり等の批判を受けている者)の、「タモちゃん現象」を揶揄する発言-「権威」を「抵抗勢力」に仕立て、「笑いと断言口調」で批判する、そういう「テレビ」の「司会者やタレント」と「似通っている」-を紹介する。
 上のあとすぐにつなげて最後に書く-「言論の自由は言論の中身を吟味するためにある」。「それを怠り、威勢のいい言葉に熱狂すれば、つけは市民に回ってくる」。
 このバカ記事は何を言いたいのか。田母神俊雄は、「笑いと断言口調」で人気をとるテレビ「司会者やタレント」と似ており、またその「威勢のいい言葉」に熱狂などしているとダメですよ、と「市民」に説いているのだろう。
 このように言う(新聞記事を書く)「表現の自由」はあるだろう。だが、この記事を執筆した朝日新聞記者は、この自分の文章もまた「表現の自由」によって「言論の中身を吟味」される、ということを理解しているだろうか。
 「言論の中身を吟味する」ことを「怠り、威勢のいい言葉に熱狂すれば、つけは市民に回ってくる」とヌケヌケと書いているが、この記事も朝日新聞の社説等も「中身を吟味」される(そうしないと日本国家と日本社会はますます奇妙になる、との見解もある)、ということを理解しているだろうか。
 また、朝日新聞はそもそも、「威勢のいい言葉」を使い、読者の「熱狂」を煽る、ということをしたことがないのだろうか。あるいは朝日新聞は、見出しの表現などを意図的に工夫すること等によって読者の印象・心理や意見・見解を巧妙に一定の方向に誘導することをしなかっただろうか。後者の場合も、広義には、「威勢のいい言葉」によって読者の「熱狂」を煽る、ということの中に含めうる。
 この記事が田母神俊雄について書いていることは、朝日新聞自体やこの記事の執筆者にもはねかえってくるものだ。このことを何ら自覚していないようにも見えるが、そうだとすれば、自分や朝日新聞と田母神俊雄は全く別者(別物)だという前提に立っていることになり、傲慢さも甚だしい。

ギャラリー
  • 2013/L・コワコフスキ著第三巻第10章第3節①。
  • 1982/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05⑤。
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  • 1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。
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  • 1978/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05②。
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  • 1920/L・コワコフスキ著第三巻第四章第5節。
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  • 1916/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑳完。
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  • 1906/NYタイムズ2009.07.20の訃報-L・コワコフスキ。
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  • 1901/Leszek Kolakowski-初代クルーゲ賞受賞者。
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  • 1900/Leszek Kolakowski の写真。
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  • 1811/リチャード・パイプス逝去。
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  • 1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。
  • 1777/スターリン・初期から権力へ-L・コワコフスキ著3巻1章3節。
  • 1767/三全体主義の共通性⑥-R・パイプス別著5章5節。
  • 1734/独裁とトロツキー②-L・コワコフスキ著18章7節。
  • 1723/2017年秋-兵庫県西脇市/大島みち子の故郷。
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