秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

行政事件訴訟法

2261/枝野幸男(立民)は古い―「裁量」。

 枝野幸男(立憲民主党)が菅義偉首相に対して、日本学術会議会員の任命に首相に「裁量権があるとしたら(その裁量は)自由裁量ですか、羈束裁量(きそく―)ですか?」と質問したらしい。
 昨今の学術会議問題全般には触れない。
 枝野は弁護士資格があるようだが、その「裁量」の理解は古い。どの段階の誰の教科書で勉強したのだろうか。一般的な誤解もありそうなのであえて記しておく。
 自由裁量と羈束裁量の区別はドイツ公法学や美濃部達吉にまでさかのぼるようだが、今日的には意味がない。
 行政の、又は行政にかかわる「裁量」とは法学的には結局のところは裁判所(司法部)との関係で理解すべきもので、あるいはそのようにしか理解できないもので、裁判所・裁判官が自らの判断・決定を抑制して、つまり自分の判断と行政部・行政権・行政機関の判断とを比較して単純に自らの判断を優先させるのではなく、一定範囲内に限っては行政側の判断を尊重し、自らの判断とかりに同一ではないとしても、ただちに違法とは判断しない場合に結果として認められることとなる、行政側の(司法部との関係で結果としては)「自由な」判断の余地・範囲を意味する。
 現行法制も<自由裁量・羈束裁量>の区別を前提にしておらず、行政事件訴訟法は「裁量」という言葉・概念を用いつつ、つぎのように定めるだけだ。
 第30条行政庁の裁量処分については、裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつた場合に限り、裁判所は、その処分を取り消すことができる」。
 枝野がいう「羈束裁量」とは、行政側に「自由」(あるいは「裁量」)があるように法文等の上では一見?感じられても司法部・裁判所は上記の<抑制と尊重>をする必要はなく、「客観的法則」とか「条理」を適用して自らの判断を優先することができる場合を意味してきたのであって(枝野が参照した教科書でも結果的にはこれを認めているはずだ)、その意味では―司法部による「違法」性審査との関係では―他の一般的な場合と区別することはできない。
 上の条文が「裁量処分」とか「裁量権」とか言う場合の「裁量」とは、上の区別を(かりにだが)前提にするとすると、<自由裁量>のことだ。
 したがって、今日、現代・現在に問題になるのは、①「裁量」権が存在するか否か、②その「裁量」権の行使に(裁量権の)「範囲をこえ又はその濫用があ」ったか否か、であって、<羈束裁量と自由裁量>のいずれなのか、が前提となる、又は問題になる、のではない。
 とほぼ書き終えて思い出したが、この問題が報道された当初の時期に東京大学教授・加藤陽子は報道陣に<裁量(権)の濫用があったのではないか>旨答えていた。
 この日本史学者(宇野重規とともに、茂木健一郎が任命「拒否」を明確に不思議がっている二人の一人だが)は、法学者ではないが、枝野幸男よりもよく知っているのではないか?
 むろんこの発言の適正さは、「裁量」権がこの件に関して存在する、ということを前提にしなければならないのだが。はて。

2062/松下祥子・阿児和成・近藤富美子③。

 前回№2043/2019年09月16日付に「要旨」という語は法律用語ではないと記述したが、法令で用いられている概念ではない、という趣旨であるとすると、誤りだ。
 行政不服審査法50条第1項は、こう定める。
 「裁決は、次に掲げる事項を記載し、審査庁が記名押印した裁決書によりしなければならない。
 一 主文
 二 事案の概要
 三 審理関係人の主張の要旨
 四 理由(<中略>を含む。)」
 他にも、何らかの文書について、その「要旨」の記載や公表を求める法令上の条項がある。
 しかし、「この法律(や政令等)において、要旨とは…をいう」などといった定義規定はおそらく間違いなく存在しないので、前回に記したように、「要旨」の語意は、「結局は、健全な適切な<社会的感覚>または<社会的常識>で判断するしかない」。
 そして、常識的な日本語の用法からして、例えば元の文書・文章よりも<長く>なっている文書・文章は、前者の「要旨」だとは言えないだろう,と書いたのだった。
 上に引用の条項によると、「裁決」なるものには「審理関係人の主張の要旨」を記載しなければならない。
 これはいわば必要的記載事項だから、これを欠く、または「要旨」ではない文章を記載している「裁決」は、瑕疵あるものになるだろう。
 但し、行政不服審査(行政不服申立)制度やそこでの「裁決」の意味・位置づけ等にはここでは立ち入らない。行政事件訴訟法3条2項によると、同法上の「取消訴訟」には「処分」についてのそれと「裁決」についてのそれがあるようなのだが。
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 G・トノーニら/花本知子訳・意識はいつ生まれるのか-脳の謎に挑む統合情報理論(亜紀書房、2015)、p.78に、つぎのような文章がある。
 「脳に損傷を受けた患者に意志に基づく身動きが見られるならば、確かに意識があるといえる」。しかし、「身動きがまったく見られない場合でも、意識がある可能性がないとはいえない」。
 相当に幼稚な叙述になるが、上の文章は、単純にはつぎのことを意味することが容易に分かる。
 Aであれば、Bといえる。しかし、Aでなければ、Bでない、ということにはならない。
 そして、ここでG・トノーニらが問題にしているのは「意識」があると言えるか否か、であることも明らかだろう。彼らは、「意識」の有無に関心があるのだ。
 ーーーー
 幼稚な叙述を続けるが、「要旨」という語を使って、つぎの文章があると想定してみよう。
 ①A文章と<まったく(ほとんど)同じ>だから、B文章はAの<「要旨」とは言えない>。
 このような主張・指摘に対して、某行政担当者で法規・文書関係の責任者(知事または市長の「専決」権をもつ者)は、つぎのように反論・釈明または主張をしたらしい。
 ②<まったく(ほとんど)同じ>ではなく、<少し異なっているし、少し詳しくなっている部分もある。>
 分量的には、B文章の方がA文章よりも<少し長い>か<ほとんど同じ>であることを、この話題は前提にしている。
 しかし、上の②を述べることによって、この人物は、<BはAの「要旨」とは言えない、ということにはならない>、という趣旨を述べたつもりだったらしい。G・トノーニらの場合に問題は「意識」の存否であつたのと同様に、この場合の問題は<BはAの「要旨」と言えるか>だったのだから、厳密にはまたは論理的には同一ではないとしても、上の②を述べることは、まるで<BはAの「要旨」だと言える>というに等しいだろう。
 幼稚で、馬鹿らしい話だ。
 この人物は、<BはAの「要旨」とは言えない、ということにはならない>と明言しただけで、その後自らは何もせず、何の反応もしなかったらしい。
 そして、この人物が、上にいうB文章はA文章の「要旨」であるとは言えない、ということを公式に?肯定したのは、一ヶ月半のち、つまり約6週間後だった、とされている。
 ここまでをまとめると、<まったく(ほとんど)同じ>だからB文章はA文章の「要旨」ではない、というのが主旨である主張・指摘に対して、この人物は、B文章はA文章と<まったく(ほとんど)同じ>ではなく<少し異なっているし、少し詳しくなつていいる部分もある>といったん明確に回答した。そののち、ひょっとすれば両者の文書をきちんと比較して読んでみたのか、一ヶ月半、約6週間後になってようやく?、上にいうB文章はA文章の「要旨」であるとは言えない、と認めた、というのだ。
 いったいなぜ、こんなことが生じるのだろうか。
 じつに興味深い。人間というものの意識・発言・行動について、考えさせられる。
 人間個人(自然人)といっても様々だ。組織・団体に帰属している場合、そしてその帰属によって<食って生きている>場合、自分の身を守るために、あるいは自分の身の安全を図るために、その組織・団体との関係で、あるいはその組織・団体のために、その人間個人はどう振る舞うのか。
 (つづく)
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