秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

藤原正彦

1017/<保守>は「少子化」と闘ったか?-藤原正彦著を契機として。

 一 最近この欄で言及した二つの雑誌よりも先に読み始めていたのは藤原正彦・日本人の誇り(文春新書、2011.04)で、少なくともp.175までは読み終えた形跡がある(全249頁)。
 藤原が第一章の二つ目のゴチ見出し(節名)以降で記しているのは、現在の日本の問題点・危機だと理解できる。
 ①「対中外交はなぜ弱腰か」、②「アメリカの内政干渉を拒めない」、③「劣化する政治家の質」、④「少子化という歪み」、⑤「大人から子供まで低下するモラル」、⑥「しつけも勉強もできない」(p.11-25。番号はこの欄の筆者)。
 上のうち<保守>論壇・評論家が主として議論してきたのは①・②の中国問題・対米問題で、③の「政治家の質」とそれにかかわる国内政治や政局が加えられた程度だろう。
 つまり、上の④・⑤・⑥については、主流の<保守>論壇・評論家の議論は、きわめて少なかったと思われる(全くなかったわけではない)。
 藤原正彦とともに、「政治、経済の崩壊からはじまりモラル、教育、家族、社会の崩壊と、今、日本は全面的な崩壊に瀕しています」(p.22)という認識をもっと共有しなければならないだろう。
 二 例えばだが、<少子化>が日本崩壊傾向の有力な原因になっていること、そしてその<少子化>をもたらした原因(基本的には歪んだ戦後「個人主義」・男女平等主義にある)について、櫻井よしこは、あるいは西部邁は(ついでに中島岳志は)どのように認識し、どのように論じてきたのだろうか。
 p.175よりも後だが、藤原は、「少子化の根本原因」は「家や近隣や仲間などとのつながり」を失ったことにある、出産・子育てへのエネルギー消費よりも<自己の幸福追求>・社会への報恩よりは「自己実現」になっている、「個の尊重」・「個を大切に」と「子供の頃から吹き込まれているからすぐにそうな」る、とまことに的確に指摘している(p.241)。
 このような議論がはたして、<保守派>において十分になされてきたのか。中島岳志をはじめ?、戦後<個人主義>に染まったまま<保守>の顔をしている論者が少なくないのではなかろうか。
 <少子化>の原因の究極は歪んだ戦後「個人主義」・男女平等主義にあり、これらを称揚した<進歩的>憲法学者等々の責任は大きいと思うが、中間的にはむろん、それらによるところの晩婚化・非婚化があり、さらに<性道徳>の変化もあると考えられる。

 中川八洋・国が滅びる―教育・家族・国家の自壊―(徳間書店、1997)によると、マルクスらの共産党宣言(1848)は「共産主義者は…公然たる婦人の共有をとり入れようとする」と書いているらしく、婚姻制度・女性の貞操を是とする道徳を破壊し、「売春婦と一般婦女子の垣根」を曖昧にするのがマルクス主義の目指したものだ、という。そして、中川は、女子中高生の「援助交際」(売春)擁護論(宮台真司ら)には「過激なマルクス主義の臭気」がある、とする(p.22-)。
 また、今手元にはないが別の最近の本で中川八洋は、堕胎=人工中絶という将来の生命(日本人)の剥奪の恐るべき多さも、(当然ながら)少子化の一因だとしていた(なお、堕胎=人工中絶の多さは、<過激な性教育>をも一因とする、妊娠しても出産・子育てする気持ちのない乱れた?性行動の多さにもよるだろう)。
 私の言葉でさらに追記すれば、戦後の公教育は、「男女平等」教育という美名のもとで、
女性は(そして男ではなく女だけが)妊娠し出産することができる、という重要でかつ崇高な責務を持っている、ということを、いっさい教えてこなかったのだ。そのような教育のもとで、妊娠や出産を男に比べての<不平等・不利・ハンディ>と感じる女性が増えないはずがない。そして、<少子化>が進まないわけがない。妊娠・出産に関する男女の差異は本来的・本質的・自然的なもので、<平等>思想などによって崩されてはならないし、崩れるはずもないものだ。しかし、意識・観念の上では、戦後<個人主義>・<男女対等主義>は女性の妊娠・出産を、女性たちが<男にはない(不平等な)負担>と感じるように仕向けている。上野千鶴子や田嶋陽子は、間違いなくそう感じていただろう。

 上のような少子化、人工中絶等々について、<保守>派は正面からきちんと論じてきたのだろうか?
 これらは、マルクス主義→「個人主義」・平等思想の策略的現象と見るべきものと思われるにもかかわらず、<保守派>はきちんとこれと闘ってきたのだろうか?
 現実の少子化、そして人口減少の徴候・現象は、この戦いにすでに敗北してしまっていることを示しているように思われる。
 このことを深刻に受けとめない者は、<保守>派、<保守>主義者ではない、と考える。 

0136/中川八洋は華族・士族・平民の復活を主張するのだろうか。

 中川八洋・保守主義の哲学(PHP、2004)の殆どは、少なくとも「なるほど」又は「ふーん」で読んでいけるのだが、ときに、とくに現実の日本に言及する部分には首を傾げたくなるところもある。
 例えば、こんな文がある。
 「日本の現実を見れば、エリートの生産に最小限不可欠な「家」制度が、…極左民法学者の暗躍のもと、旧民法の改悪によって一九四七年に廃止された。”階級”は西洋かぶれで西洋を知らない明治維新の「志士」によって一八六八年に完全に壊された。明治新政府の「四民平等」は、四十年後の日本からエリートを消したように、エリート破壊の刃となった」(p.306)。
 この文は、ルソー等の「平等という、自由の敵」(第六章題)によって「大衆という暴君」(同章第四節題)が登場して「エリートを排除する現代の「大衆人の支配する社会」の強固なメカニズム」のおかげでエリート=「貴族的な生の少数者」=「自然的貴族」が解体することを中川自身が嘆き、明治維新時の「逸材はことごとく武士階級の出身者であったように、階級と伝統ある家族がエリート輩出の源泉である」等として「世襲的家族制度と階級の重要性を強調」した英国籍の詩人・エリオットの「説は正しい」(p.304-6)、と述べたあとで出てくる。
 戦後の家族制度・家族法制(民法)の変化については多少の議論の余地はあるかもしれないし、天皇制度の護持のために「皇続」の範囲を広げようとする議論も理解できるところがある。しかし、中川氏は、戦前の華族・士族・平民という「身分」制度、さらには、明治新政府の「四民平等」政策による士農工商という「階級」区別の解消も、今日まで遺すべきだった、と主張しているのだろうか(そのように読める)。
 新田次郎・藤原正彦父子の祖先は信濃・諏訪藩の藩士(武士)だったようで、藤原が書いている父・新田次郎の子・藤原への接し方や藤原の「武士道」精神への親近感の背景に、旧「士族」の<血>を感じることができる。また、「士族」なら持っていたのかもしれない倫理観・道徳観を現在の日本人は少なからず失った、とも感じる。
 しかし、華族・士族制度の復活、ましてや士農工商という「階級」区別の復活は、もはやあまりにも非現実的だ。中川は日本の解体・衰亡傾向の客観的原因の一つとしてのみ叙述しているのかもしれないのだが。

0109/藤原正彦の短い「日本国憲法」論に寄せて。

 藤原正彦は、産経4/28の「「昭和の日」を語る」の中で、日本国憲法について、こう書いている。
 「今の憲法は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で、押しつけられたものだ。いつまでも守り続けるのは国辱でもある。自前で全部作り直すのは当たり前だ。だが、誰が作るのかと考えると頭を抱え込んでしまう。/戦後、教育を壊され、祖国への誇りを持たない国民になってしまったからだ。他のどの国とも違う国柄を持つ日本にふさわしい憲法をつくらなければならない。
 短い文だが、日本国憲法が「押しつけられたもの」としつつも「無効」なものとはツユも言及しておらず、その上で、「自前で全部作り直すのは当たり前だ」、とする。
 至極まっとうな、常識的な、日本人として「ふつうの」感覚だと思う。
 その後の文も共感を覚えるところがある。すなわち、私の言葉を使えば、「自前で」「作り直す」べき主体のほとんどは、戦後の「平等・民主主義・平和・無国籍」教育を受けた者たちなのだ。「他のどの国とも違う国柄を持つ日本にふさわしい憲法」を制定できるだろうか。
 
よく「保守」派=改憲派といわれる。
 だが、筑紫哲也は今年になってからのいつか、テレビニュースの最後に、<戦後に生きてきた者としては、戦後の終わりが新しい戦前の始まりにならないように願っている>とかの旨を言っていた。例の如く、戦争への道を歩まないように、との「サヨク」的偏見に充ちたフレーズなのだが、そこには「戦後」的価値を守りたい、保守したい、との<気分>が表れていた。
 護憲派こそ、上のような意味では「保守」派なのだ。改憲派こそが現状を変革しようとする「革新」派に他ならない。
 そして、一般的にいって、現状維持の意味での「保守」よりは、「革新」・「変革」の方がじつは困難なのだ。
 憲法改正が現実的問題になるのは早くても三年後以降のようだが、かりに現時点で国会が改正の発議をし国民投票がなされれば、否決される(承認されない)可能性の方が高いように思われる。
 日本共産党等々はすでに九条二項絶対「保守」のための運動を(各種ブログサイト上も含めて)行っている。
 これに対して、改憲派の国民運動など殆どどこにも存在しないのではないか。改正案を作った筈の自民党はその内容を広く国民に知ってもらう運動を十分にしているだろうか。同党は、少なくとも憲法改正に関する思考・議論を誘発するような活動を十分にしているだろうか。
 安倍首相が改憲を目標に掲げるのは結構なのだが、今のところはまだ「上滑り」的な印象がある。
 私自身が一般マスコミに毒されているのかもしれないのだが、改憲(憲法改正)の時期にはまだ達していない、時機がまだ熟していない、という印象が強い。
 別冊正論Extra.06・日本国憲法の正体(産経)に掲載の論稿のレベルの議論がなされているようでは、まだ途は遠いように思える。
 下手をして国民投票で否決される(承認されない)ようでは、日本人は「自前」の憲法を二度と持てなくなる懸念・不安がある。
 選挙の票には結びつき難いかもしれないのだが、本当に憲法改正=「自前」の憲法を持つことを目指している候補者は、7月の参院選挙でも、訴える事項の一つに<改憲>をきちんと加えるべきだろう。

-0003/61年も経って決着がつけられない民族なのか。

 昨晩は某大規模店舗の見学を兼ねての同施設内の歩行を「散歩」代わりにしたための運動不足か、レストランに入っての帰宅後の体重測定では、数日前の日中散歩後と比べて1.5kgも増えていた。まずい。
 昨日は古書2冊のみだったが、今日は古書・新本併せて10冊以上が届いた。「栗本慎一郎の脳梗塞になったらあなたはどうしますか」(2000、たちばな出版)を一部読んでいると、脳梗塞ももはや他人事ではないという気がしてくる。読売編集の「検証戦争責任1」(2006.07、中央公論新社)は4刷のものが手に入った。今日あたりの新聞では、大増刷・第5刷の広告を見たように思う。
 読売の作業を、某著名人はチマチマした本質的でないものと批判していた。それはともかく、60年以上前に終わった戦争の見方・総括とも関連して、いまわが国はいわば<国論の分裂>状態にあるようだ。忙しく仕事をし、一紙程度の新聞とテレビを漫然と見ていたかつてはさほど強くは意識しなかったのだったが。
 岩波新書がすでに少なくとも2冊ある「憲法再生フォーラム」や、吉永小百合様を巻き込んでの、岩波の冊子がすでに少なくとも3つある「憲法9条を考える会」などは、すでに近い将来の<決戦>を意識して活発に?活動しているようにみえる(どの程度彼らの主張が読まれているかは知らないが、新田次郎の次男坊による短い、イヤ読みやすく内容の濃い本に完敗していることは間違いないだろう)。
 一方、憲法問題をも含んでいるだろうが、「日本教育再生機構設立準備室」なるものができ、08月05日には「八木秀次ともに日本の教育再生を考える夕べ」とやらが開催され、安倍晋三官房長官から祝電を受け、櫻井よし子等が「激励の挨拶」をしている。分裂・消滅した「…つくる会」的団体の再結集・再構築のように見える。
 国論分裂過多で右往左往して亡国したかつての某国のようにならないためにも、言論リーダーたちの責任は重い。いや、この秋月瑛二の責任だって??!!
 秋月瑛二も給与生活者なので、本来の仕事がある。今日もした。ある仕事の前半の実質的に40%はほぼ終わり、後半に突入しているが、明日には終えてしまいたいものだ。
 どうやら今日は散歩なしに終わりそうな気がする。まずい。
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