秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

蒋介石

2160/L・コワコフスキ著第三巻第13章第6節①-毛沢東。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。分冊版、p.494~p.499。
 第13章・スターリンの死以降のマルクス主義の展開。
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 第6節・毛沢東の農民マルクス主義①。
 (1)中国革命は、争う余地なく、20世紀の歴史の最も重要な事件の一つだった。
 毛主義(Maoism)として知られるその教理は、従って、その知的な価値とは無関係に、今日の思想闘争の主要な要素になっている。
 ヨーロッパ標準で測れば、毛主義のイデオロギー文書、とくに毛自身が書いた理論的著作は、実際には原始的で不格好で、ときには子どもじみている。
 これと比べると、スターリンですら、力強い理論家だという印象を与える。
 しかしながら、このような判断は、用心して行う必要がある。
 この書の執筆者のように中国語を知らず、中国の歴史と文化について僅かでかつ表面的な知識だけしか持っていない者は、疑いなく、中国思想に習熟した読者は理解することができる文章の意味、多様な連関と示唆するところを、完全に把握することはできない。
 この点で、我々は専門家の見解に依拠しなければならない。しかしそれでも、つねに同意するのではないけれども。
 この書物の他の箇所以上に、以下の論述は二次的情報にもとづく。
 しかしながら、理論的、哲学的主張をもつにもかかわらず、毛主義は先ずはそして最も多くは実際的な訓示だ、と最初に述べておいてよいだろう。そのことが何らかの態様で、中国の状況にはきわめて有効であることが判明したのだ。//
 (2)今日に毛主義と、あるいは中国で「毛沢東思想」と称されるものは、数十年前に起源のあるイデオロギー大系だ。
 ロシア共産主義に対する意味での中国共産主義の特徴のいくつかは、1920年代遅くにはすでに見えていた。
 しかしながら、とくに毛沢東のユートピア的見方を含むそのイデオロギーが明瞭な様相をとり始めたのは、ようやく1949年の中国共産党の勝利のあとでだった。そして、1950年代遅くまたはその後でのみ、若干のきわめて重要な側面が進展した。//
 毛主義は、その最終形態では急進的な農民ユートピアだ。そこでは、マルクス主義の言葉遣いが顕著に多くあるが、その支配的な価値はマルクス主義とは完全に疎遠だと見られる。 
 このユートピアはヨーロッパの経験と思想にほとんど依拠していないのは、何ら驚くべきことではない。
 毛沢東は、すでに新国家の長になっていたときにモスクワを2度訪問した以外には、中国を離れなかった。
 そのとき彼は自分で、どの外国語もほとんど知らず、マルクスに関する知識もおそらく相当に限られている、と明瞭に語った。
 例えば、正統マルクス主義者だと主張する一方で、彼には、物事には全て善と悪という二つの側面がある、と語る習癖があった。
 マルクスはこのような弁証法形態をプチブル的馬鹿さとして嘲弄したことを知っていたとすれば、彼はおそらく、こう言わなかっただろう。
 また例えば、マルクスが「アジア的生産様式」に言及したのを知っていたならば、彼はおそらく、これを論じただろう。しかるに、彼の著作はこれに何ら論及していない。
 毛沢東の二つの論考-「実践について」と「矛盾について」-が簡明に明らかにしているのは、彼がスターリンとレーニンの著作で何を読んだか、であり、加えて、そのときどきの必要に応じたいくつかの政治的結論だ。
 穏やかに言えば、これらの文章から何らかの理論的に重要なことを感知するには、多大の善意が必要だ。//
 (3)しかしながら、以上は本質的な点ではない。
 中国共産主義の重要性は、その教条の知的な水準によるのではない。
 毛沢東は、きわめて偉大ではなくとも、偉大な人物の一人だ。20世紀の、人間たる多数大衆の操作者だった。そして、彼が目的達成のために用いたイデオロギーは、中国のみならず第三世界の他部分を含めて、その有効性のゆえに意味をもっている。//
 (4)中国の共産主義は、1912年の帝国崩壊とともに始まった革命的事件を継承したものであり、数十年前、とくに1850ー64年の太平天国の乱〔Taiping rebellion 〕(歴史上最も血なまぐさい内戦の一つ)まで遡る展開の結果だ。
 毛沢東は、革命の第二期の主要な構築者であった。その時期には、ロシアと同様に、共産主義の支援のもとではレーニンが「ブルジョア民主主義」と称しただろうもの以外には生まれなかった。すなわち、大規模土地の農民への配分、中国の帝国主義諸国からの解放、そして封建諸制度の廃棄。//
 (5)毛沢東(1893~1976)は、湖南(Hunan)地方の裕福な農民の息子だった。
 村の学校に通い、中国の文字伝統の主要部分を学び、中学校へ進学するだけの性質を得た。
 早くに孫文(Sun Yat-sen, 孫逸仙)の革命共和党、のちの国民党に加入した。
 しばらく共和党軍で戦ったのち、1917年に勉強を再開した。こうした期間、彼は詩も書いた。
 のちに彼は、北京の大学図書館で働いた。このときの彼は、ナショナリストかつ社会主義の知識をもつ民主主義者で、マルクス主義者ではなかった。//
 (6)国民党の目標は、日本、ロシアおよびイギリス帝国主義から中国を解放し、立憲主義共和国を設立し、経済改革によって農民の運命を改善することだった。
 1919年の新たな暴動のあとで、最初の毛沢東グループが北京で結成された。そして、1921年6月、コミンテルン工作員の助けで、毛沢東を含む十数人のメンバーたちは、中国共産党を創設した。
 コミンテルンの指令に従って、党は最初は国民党と緊密に連携し、中国の萌芽的プロレタリアートの支持を獲得しようとした(1926年に、都市労働者は民衆200人当たり1人だった)。
 1927年に蒋介石が共産党員を殺戮したあと、蜂起し、国民党の左派脱退者と<同盟(entente)>しようとして何度も失敗したのちに、共産党は方針を変更し、前指導者の陳独秀(Chen Tu-hsiu)に「右翼日和見主義者」の烙印を捺した。
 殺されながらも、党は、労働者に影響を及ぼす努力を集中し続けた。しかし、毛沢東は、農民へと方向転換して、農民軍を組織することを主張した。
 しかしながら、党内の両グループはともに、反帝国主義と反封建主義を強調した。
 そこには、特段に共産主義的な見解の兆しはほとんどなかった。
 毛沢東は、生まれ故郷の湖南地域で、武装農民運動を組織し始めた。そしてその地域で、農民軍勢力は大土地所有者から没収し、伝統的諸制度を廃絶させ、学校と協同組合を設立した。//
 (7)つづく20年間、毛沢東は、都市部から離れた田園地帯に住んだ。
 やがて彼は、農民ゲリラ行動の傑出した組織者になるのみならず、中国共産党の揺るぎなき指導者になった。世界で唯一の、その地位をモスクワによる認証によらない指導者になったのだ。
 注目すべき勝利と劇的な敗北が多々あった時期である20年の間、彼は、国民党と侵攻者日本に対して、前者が後者と戦っている時期を除き、極端に困難な条件のもとで闘った。
 共産党は占拠した地域に将来の国家の基盤を組織した。だが、自分たちの革命の性格は「ブルジョア民主主義的」だと強調し、また農民や労働者だけではなく中低層や「ナショナル」なブルジョアジー、つまり帝国主義者たちと同盟しない者たちを含む、「人民戦線」を呼びかけつづけた。
 党は、1949年の勝利後の最初の数年間は、この基本線を採用し続けた。//
 (8)1937年、ゲリラ戦闘が継続している間、毛沢東は、延安(Yenan)の党軍事学校で、二つの哲学的講義を行った。それらは現在、中国の民衆が得られる哲学教育のほとんど全体を構成している。
 「実践について」の講義で、彼はこう述べる。人間の知識は生産的実践と社会矛盾から湧き出てくる。階級社会では、全ての思想形態は例外なく階級によって決定される。実践は、真実を測る尺度だ。
 理論は実践にもとづいており、その隷従物だ。
 人間は、感覚で事物を感知し、見ることのできない事物の本質を理解することのできる観念を形成する。
 対象を認識するためには、それに対処する実践的行動を起こさなければならない。すなわち、我々は食べることによって梨の味を知る。また、階級闘争に参加することによってのみ、社会を理解する。
 中国人は、「表面的かつ知覚的知識」にもとづいて帝国主義との闘いを開始した。ようやくのちになって、帝国主義の内部矛盾に関する理性的な知識を得る段階に到達し、かくして有効にそれと闘うことができている。
 「マルクス主義は、理論の重要性を厳格に強調する。それは、理論が行動を誘導することができるからだ」(<哲学に関する四考>、1966年、p.14)。
 マルクス主義者は、自分たちの知識を変化する条件に適合させなければならない。そうでなければ、右翼日和見主義に陥るだろう。
 一方で、発展の段階が思考を上回り、現実についての想像力を間違ってしまえば、エセ左翼の言葉商人の生け贄になるだろう。//
 (9)「矛盾について」の講義は、レーニンとエンゲルスからの引用の助けを借りて、「反対物の統合の法則」を説明しようとするものだ。
 「形而上学」は、「事物を、分離した、静態的で一面的なものだと見る」(同上、p.25)、そして運動または変化を外部から与えられた何かだと見なす。
 しかしながら、マルクス主義は、全ての客体は内部矛盾を内包する、それは機械的な動きも含めた全ての変化の原因だ、と断定する。
 外部的原因は変化の「条件」であるにすぎず、内部的矛盾こそがその「根拠」だ。
 「それぞれのかつ全ての差異はすでに矛盾を内包しており、差異それ自体が矛盾だ」(p.33)。
 異なる現実の領域には、それらに特徴的な矛盾があり、それらは、異なる科学分野の主な事項だ。
 我々はつねに、「全体」を感知するためにも、全ての矛盾にある個別の特質を観察しなければならない。
 ある事物は、その反対物に転化する。例えば、国民党は最初は革命的だったが、やがて反動的になった。
 世界は矛盾に充ちているが、あるものは他のものよりも重要だ。そしていかなる条件のもとでも、我々は主要な矛盾を、それから発生するその他の二次的な矛盾と見分けなければならない。-例えば、資本主義社会では、ブルジョアジーとプロレタリアートの間の矛盾。
 我々は、矛盾を解明して克服する方途を理解しなければならない。
 かくして、「マルクス主義について我々が学習する始まりのときには、マルクス主義に関する我々の無知や学習の希薄さは、マルクス主義に関する知識と矛盾している状態にある。
 しかし、学習に精励すれば、無知を知識へと、希薄な知識を実質的な知識へと転化させることができる」(p.57-p.58)。
 事物は、反対物に転化する。土地所有者は剥奪され、貧者に変わる。一方、土地なき農民は土地所有者になる。
 戦争は平和に道を譲るが、平和は再び戦争に譲る。
 「生がなければ、死もないだろう。死がなければ、生もないだろう。
 『上から』がなければ『下から』はなく、…『上から』もなく、…。
 容易さがなければ、困難さはないだろう。
 困難さがなければ、容易さはないだろう」(p.61)。
 区別は敵対する階級間のような、真反対の矛盾の間に行われなければならない。正しい党方針と間違った党方針のような、真反対ではない矛盾の間にではない。
 後者は、誤りを訂正することで解消することができる。だが、それが行われなければ、真反対の矛盾に転化する可能性がある。//
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 ②へとつづく。

0783/資料・史料-2008.11.01「田母神論文」朝日新聞社説。

 資料・史料-2008.11.01「田母神論文」朝日新聞社説

 平成20年11月1日
//朝日新聞社説
 「空幕長更迭―ぞっとする自衛官の暴走
 こんなゆがんだ考えの持ち主が、こともあろうに自衛隊組織のトップにいたとは。驚き、あきれ、そして心胆が寒くなるような事件である。
 田母神(たもがみ)俊雄・航空幕僚長が日本の植民地支配や侵略行為を正当化し、旧軍を美化する趣旨の論文を書き、民間企業の懸賞に応募していた。
 論文はこんな内容だ。
 「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者」「我が国は極めて穏当な植民地統治をした」「日本はルーズベルト(米大統領)の仕掛けた罠(わな)にはまり、真珠湾攻撃を決行した」「我が国が侵略国家だったというのはまさに濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)である」――。
 一部の右派言論人らが好んで使う、実証的データの乏しい歴史解釈や身勝手な主張がこれでもかと並ぶ。
 空幕長は5万人の航空自衛隊のトップである。陸上、海上の幕僚長とともに制服の自衛官を統括し、防衛相を補佐する。軍事専門家としての能力はむろんのこと、高い人格や識見、バランスのとれた判断力が求められる。
 その立場で懸賞論文に応募すること自体、職務に対する自覚の欠如を物語っているが、田母神氏の奇矯な言動は今回に限ったことではない。
 4月には航空自衛隊のイラクでの輸送活動を違憲だとした名古屋高裁の判決について「そんなの関係ねえ」と記者会見でちゃかして問題になった。自衛隊の部隊や教育組織での発言で、田母神氏の歴史認識などが偏っていることは以前から知られていた。
 防衛省内では要注意人物だと広く認識されていたのだ。なのに歴代の防衛首脳は田母神氏の言動を放置し、トップにまで上り詰めさせた。その人物が政府の基本方針を堂々と無視して振る舞い、それをだれも止められない。
 これはもう「文民統制」の危機というべきだ。浜田防衛相は田母神氏を更迭したが、この過ちの重大さはそれですまされるものではない。
 制服組の人事については、政治家や内局の背広組幹部も関与しないのが慣習だった。この仕組みを抜本的に改めない限り、組織の健全さは保てないことを、今回の事件ははっきり示している。防衛大学校での教育や幹部養成課程なども見直す必要がある。
 国際関係への影響も深刻だ。自衛隊には、中国や韓国など近隣国が神経をとがらせてきた。長年の努力で少しずつ信頼を積み重ねてきたのに、その成果が大きく損なわれかねない。米国も開いた口がふさがるまい。
 多くの自衛官もとんだ迷惑だろう。日本の国益は深く傷ついた。
 麻生首相は今回の論文を「不適切」と語ったが、そんな認識ではまったく不十分だ。まず、この事態を生んだ組織や制度の欠陥を徹底的に調べ、その結果と改善策を国会に報告すべきだ。//

0226/朝日新聞の「戦後」責任-「南京大虐殺は存在せず」。

 片岡正巳(1930-)・朝日新聞の「戦後」責任(展転社、1998)という本がある。タイトル通りの内容だが、16の章のうち第15章は「グロテスクな従軍慰安婦報道」で(p.287-)、「トリッキーな記事で火をつける」、「威力を発揮した「軍の関与」報道」、「「通牒案」の意味を逆立ちさせて煽る」、「詐話師の話を持ち上げた論説委員」、「政治的になされた強制の認定」、「実態を歪める偽善のキャンペーン」が各節の見出しだ。
 同書はあとがきで言う―「朝日は、戦後50有余年の歩みの中の非は非と率直に認めて、身を飾った「左翼」の古い衣を脱ぐがよい己を無謬と思い込む傲慢のプライドを捨てるがよい」。その通りだが、朝日が<ハイ、わかりました>と答える筈はないだろう。
 慰安婦問題で知られておくべき一つは、朝鮮半島出身の女性よりも日本(いわゆる内地の)女性の方が多かったのに、訴訟や運動で日本政府の責任を追及している人たちの中に日本人女性はいない、ということだ。日本人女性のした「慰安婦」の選択が政府の責任とは考えていない、と理解するのが常識的だろう。但し、秦郁彦・慰安婦と戦場の性(新潮社)p.222によると、日本人原告がいないことについて、上野千鶴子は「日本のフェミニズムの非力さの証し」と書いているらしい。
 ということは、上野さんに尋ねてみたい。韓国のフェミニズムは日本のそれより強力なのですか? 韓国は日本よりも男尊女卑だとも聞いたことがあるが?
 西尾幹二責任編集・新地球日本史2(扶桑社、2005)という本もあり、その中の第5章は東中野修道執筆の「南京大虐殺は存在せず」。20頁で簡潔にまとめられていて(前提資料もかなり新しい)、各節の見出しは順に「世界を駆けめぐった米紙の特ダネ」、「米国人特派員は目撃していなかった」、「毛沢東は「虐殺」を否定していた」、「人口と同じ人数が殺害された?」、「告発の書は中国国民党の宣伝本だった」、「極秘文書にも「虐殺」の記述はない」。
 <南京事件>の被害者数には、39万、30万、20万、10万、4万(各説又は各主張あり)等の説がある。1000人あるいは2-300人でも「虐殺」だろうが、しかし、それすらなかったのではないか、とする説も存在している。争点は秦郁彦氏の4万人説を支えていると思われるベイツ証言の信憑性、(戦闘による、又は兵士に対する殺人は合法なので)国際法上違法と言えるような「捕虜」の扱いがあったか否かだろう。例えば捕虜として連行中に逃亡しようとした者を射殺するのは適法か、といった問題に行き着くのではないか、と素人ながら感じている(兵服を脱いで一般市民に紛れ込んでも戦意がある限りは殺人も違法ではない)。とすると、一番最後の「(大)虐殺はなかった」説も十分に成り立つ可能性があるだろう。
 それに南京「事件」の決定的な原因は、蒋介石等の国民党政府(軍)首脳部が南京市に戦闘員を残したまま南京から「逃亡」したことにある、と私は理解している。全兵士に南京残留を禁止していたらこの「事件」は生じていなかった。

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