秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

菅原慎太郎

保守とは何か-月刊正論編集部(産経)の<欺瞞>。

 一 何となく現在の日本の基本思潮・政治思想の4分類を思い浮かべていたときだったことにもよるが、月刊正論3月号(産経)によるたった一頁のマップを素材に、いろいろなことが書けるものだ。
 本当はもはや広義での<保守>(反共産主義)内部での分類や対立・論争に、あまり興味はない。昨年2016年4月のこの欄で書いたように、日本の<保守>というものに、うんざり・げんなりしているからだ(だからといって勿論、<反共産主義(・「自由」)>の考え方を捨てているわけではない)。
 とはいえ、あらためて記しておきたいことがあるので、前回からさらに続ける。
 既に、月刊正論編集部のマップについて「笑わせる」、と書いたことにかかわる。
 二 反共産主義こそ保守だ、という見地に立って保守(反共産主義)か否かを分ければ、<保守>はかなり広く理解されることになる。そのかぎりで、<保守には、いろいろ(諸種・諸派が)あってよい>、ということになる。
 かなり緩やかな理解なのかもしれないが、総じてこの程度に理解しておかないと、<保守・ナショナル>だけでは、例えば憲法改正もおぼつかない。また、<保守・ナショナル>だけが、産経新聞・月刊正論の好きな自民党・安倍内閣を支えているわけではない(同内閣をより支えているのは、産経新聞のではなく、より読売新聞の読者たちだろう)。
 だが、かりに<日本の国益と日本人の名誉>を守るか守らないか、これに利するか反するか、という基準によって<保守>か<左翼>かを分けた場合、産経新聞主流派と月刊正論編集部は、間違いなく<左翼>だ
 すでに、月刊正論編集部が<自虐>に対する<自尊>派だと産経新聞を位置づけていることについて「笑わせる」と書いた。
 産経新聞主流派(阿比留某も)や月刊正論編集部の基調は、戦後70年安倍談話を基本的に支持・擁護しているからだ。
 例えば阿比留瑠比は最近(ネットで見たが)、2016年安倍談話・日韓最終合意文書に対する「感情的な反発」が理解できない、とか書いている。そのような主張こそが、私には理解できない。
 子細に立ち入るのは面倒だから、この欄ではそのまま全文(と英訳文)を掲載しておくにとどめたが、上記安倍談話の例えば以下は、村山談話・菅直人談話と同じ趣旨で、1931年~1945年の日本国家の行動を<悪いことをした>と反省し、謝罪するものではないか ? そして、従来の内閣の見解を今後も揺るぎないものとして継承する、と明言しているのではないのか ?。
 渡部昇一や櫻井よしこもそうだが、産経新聞社には、ふつうに日本語文の意味を理解できる者はいないのか。
 ①第一次大戦後の人々は「国際連盟を創設し、不戦条約を生み出し」、「戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれ」た。/「当初は、日本も足並みを揃え」たが、……「その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試み」た。「こうして、日本は、世界の大勢を見失ってい」った。
 ②「満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした『新しい国際秩序』への『挑戦者』となってい」った。「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行」った。
 ③「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはな」らない。
 ④「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」。「植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」。/「先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓」った。
 ⑤「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してき」た。…。/「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないもの」だ。
 いちいち立ち入らないが、④は、「事変、侵略、戦争」(・武力の威嚇や行使)、「植民地支配」は「もう二度と」しない、ということであり、つまりは、かつて、不当な「事変、侵略、戦争」や「植民地支配」をした、ということの自認ではないか。
 ⑤は、「先の大戦」の日本国家の行為について「痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明」することは、安倍晋三内閣の立場でもある、ということの明言ではないのか。
 「痛切な反省と心からのお詫び」とは、常識的に理解して<謝罪>を含むものではないのか。<悪いことをしました。強く反省して、詫びます>と安倍首相率いる安倍内閣は、日本社会党員の村山富市らと同様に明言したのだ。
 この言葉を、例えばいわゆるA級戦犯者や「英霊」は(かりに「霊魂」が存在するとすれば)、どういう気持ちで聞くと、阿比留某ら産経新聞社の幹部たちは想像するのか、ぜひ答えていただきたい。また、このようなかたちで国家・日本と国民・日本人の「歴史」観を公式に(内閣として)表明してよいのか、ぜひ答えていただきたい。これは、現在および将来の、日本国家・国民についての<歴史教育>や「国民精神」形成の内容にもかかわる、根本的な問題だ。
 レトリック的なものに救いを求めてはいけない。
 上記安倍談話は本体Aと飾りBから成るが、朝日新聞らはBの部分を批判して、Aの部分も真意か否か疑わしい、という書き方をした。
 産経新聞や月刊正論は、朝日新聞とは反対に、Bの部分を擁護し、かつAの部分を堂々と批判すべきだったのだ。 
上の二つの違いは、容易にわかるだろう。批判したからといって、朝日新聞と同じ主張をするわけではない。また、産経新聞がそうしたからといって、安倍内閣が倒れたとも思わない。
 安倍内閣をとにかく支持・擁護しなければならないという<政治的判断>を先行させたのが、産経新聞であり、月刊正論編集部だ。渡部昇一、櫻井よしこらも同じ。朝日新聞について「政治活動家団体・集団」と論難したことがあったが、かなりの程度、産経新聞もまた<政治活動家団体>だろう(当然に、読者数と売り上げを気にする「商業新聞」・「商業雑誌」でもある)。
 何が<自尊>派だ。「笑わせる」。そのような美しいものではない。
 短期的にも長期的にも、同安倍談話は、<日本の国益と日本人の名誉>を損ねた、と思われる。ついでにいえば、上の③のとくに女性への言及は、同年末の<日本軍の関与による慰安婦問題>について謝罪する、という趣旨の日韓合意の先取り的意味を持ったに違いない(そのように受け止められても仕方がない)ものだつた。
 これを批判できない産経新聞・月刊正論編集部がなぜ、上の限定的な意味での<保守>なのか。上に述べたかぎりでの論点では、明らかに、朝日新聞と同じく<左翼>だ。
 三 というわけで、月刊正論編集部によるマップの右上の記載は、全くの<欺瞞>だ。つまり<大ウソ>だ。
 マップの上に「保守の指標」として「反共」のほかに3つを書いているが、産経新聞・月刊正論編集部は、第三にいう「戦没者への慰霊」にならない安倍内閣談話を支持した。したがって、自らのいう「保守」ではない。
 また、第一の「伝統・歴史的連続性」とは何か。
 例えば、明治維新を支持・擁護する前提に立っているような<保守>論者が多く、櫻井よしこのごとくとくに「五箇条の御誓文」なるものの支持・擁護を明言する者もいるが、明治維新とは、「伝統・歴史的連続性」を保ったものと言えるのだろうか ? 江戸幕藩体制から見て<非連続>だからこそ「新しい」もので、教科書的には「五箇条の御誓文」はその新理念を宣明したものではなかったのだろうか ?  要するに、「歴史的連続性」とは何を意味させているつもりなのか。なお、日本の歴史は、明治維新から始まるのでは全くない。
 第二の「国家と共同体と家族」の意味も、詳細な説明がないと、厳密には不明瞭だ。
 例えば、渡部昇一や櫻井よしこにも尋ねたいものだが、「保守」だという産経新聞主流派や月刊正論編集部は、明治憲法期の、旧民法上の「家族」制度を復活させたいのだろうか。
 いやそのままではなく、基本的精神においてだというならば、「基本的精神」も不分明な言葉だが、簡単に「家族」と、編集部名で軽々しく記載しない方がよいと思われる。
 現憲法の婚姻関係条項をどのように改めるのか、さらに正確には、現民法の婚姻・家族条項(いわゆる「親族法」部分)をどのように改めるつもりなのかの草案またはイメージくらいは用意して、「家族」について語るべきだろう。このことは、たんに現憲法に「家族」という言葉がないこと等を批判しているだけだとも思われる、<保守>派にも、つまり渡部昇一や櫻井よしこらにもいえる。<精神論>・<観念論>だけでは役に立たない、ということを知るべきだ。
 四 無駄なことを書いてしまった、という気もする。だが、何かを表現しておかないと、生きている徴(しるし)にならない。

「保守」とは何か-月刊正論編集部の愚昧③。

 一 月刊正論編集部のマップ(月刊正論3月号p.59)の基礎的問題点の一つは親米・反米に拘泥していることであり、これはアメリカを対象化・客観化して認識し議論することをきわめて困難にすることになる。
 すなわち、アメリカ自体が変容・変化する可能性があるが、<親米か反米か>という見方によれば、アメリカの変化によって親米の内容も反米の内容も変わってしまう、ということが看過される危険性がある。日本(人)の見方が、大きくアメリカの思想や政策に依存してしまうことになる。
 また、日本のほかに欧米も視野に入れた思考をできにくくする。例えば、アメリカの二大政党は私のいうB内部の対立なのか、BとCの対立に相当するのか(反共のブレジンスキーによれば前者のようだが、今の民主党は<容共>のようでもあり、私には判断しかねる)、既述のようにトランプ大統領はBからAに向かうのか、といった関心を封じることとなる。
 秋月瑛二の図表もイスラム・アフリカや共産主義諸国内部では不適切だろうが、それでも月刊正論編集部のそれよりは、広い視野を持つものだと思われる。
 二 西部邁・佐伯啓思らの表現者グループについて、その「保守」性を疑問視したり、<左翼との通底 ?>と書いたこともある。中島岳志を「飼って」いたり、佐伯啓思が橋下徹について<ロベスピエールの再来の危険>とか書いたこと等をきっかけとしてだった。
 しかしいちおう自己申告?に従って、「保守」だと見なすことにしよう。西部邁も含めて、その反米主張や「自由・民主主義」に対する疑問は日本の「左翼」に利用されかねないし、類似性もなくはないと思うが、<反共産主義>者たちだとは思われる。
 そうすると、菅原慎太郎らの月刊正論編集部は、他の保守との区別がつかなくなるではないかと、秋月瑛二の分類の仕方を非難するかもしれない。
 そのとおり、<保守・リベラル>=おおよそ読売新聞社系「保守」以外の保守は、私のいうA保守(反共)・ナショナルに含まれ、そのかぎりで、表現者グループと同じだ。
 想定しているのは、西尾幹二、中西輝政、櫻井よしこら。小林よしのりも。中川八洋については、かなり迷う。中川は<反共>意識旺盛だが、<親英米>の、私のいうBグループではないか、と。
 中西輝政も含めて、なお論評したいことは多いが、今回は避ける。
 櫻井よしこについては、渡部昇一に対するのと同様にこの欄で批判し続けてきているが、それは、こんなことを書いて<本当に保守派なのか>という疑問提示と叱咤激励のつもりだった(だが、昨年以降は、「観念保守」としてさらに距離を置いて批判する必要があると感じている)。
 ともあれ、A保守(反共)・ナショナルの内部にこそ、月刊正論編集部が注目している区別があるようであり、かつ、その区別を強調して過度に肥大化させる必要はない、と思っている。月刊正論編集部はいわば広い<身内>にのみ関心を寄せていて、視野が狭いようだ。
 すなわち、八木秀次に依頼したかにみえる論考タイトルは「保守とは何か-エセ、ニセの見分け方」で(但し、八木はこの「見分け方」を明示していない)、編集部のマップの中にも「保守・自称保守」と並べた言葉があるが、このような発想方法は、「真正保守」は何か、誰々か、を探ろうとするもので、ヒマな人々は勝手にすればよろしいが、ほとんど建設的・生産的な意味がない、と思われる。
(但し、「観念保守」という概念の設定はこれに反しているかもしれない。この概念の発見?は、なぜA保守ナショナルは多数派になっていないのか、その理由を考えたりしているうちに生じた。)
 「真正」か否かではなく、具体的に、あるいは個別テーマに即して、どのような主張・政策が<保守>派として最適なのか、を論じなければならない。2015年戦後70年安倍談話をいかに評価すべきかは基本的論点だが、他にも、憲法改正で急ぐべき条項はいずれか、原発問題は ?、皇位継承問題は ?、いっぱいある。
 もとより、一般的・抽象的な議論として<保守とは何か>を議論できるし、する必要があるのかもしれないが、国によって、また日本でも論者によって内容は様々で、「正しい」解答などは存在しないのではないか。
 「真正」・「自称」・「エセ・ニセ」といった形容句の玩弄はやめた方がよい。それはすぐさま、回避すべき<観念>的議論につながる可能性が高い。
 三 「保守とは何か」、これを論じるつもりはない、と前々回に書いた。しかし、私には、答えは簡単なのだった。
 反共産主義こそ、「保守」だ。そのかぎりで、<保守には、いろいろ(諸種・諸派が)あってよい>。

 なお、4分類、4象限化という思考・作業は当然に類型化・抽象化を伴っていて、「観念」化そのものだ、ともいえる。本来は相対的でありうる区別を絶対化して不要な分類作業をしてはいけないことは、自認・自戒している。

「保守」とは何か-月刊正論編集部の愚昧②。

 月刊正論編集部作成の四分けマップと新聞社等の位置づけは、自己中心的なものだ。
 かりにこれによる二つの大きな基準によってすら、産経そして月刊正論は、前回でも触れたように、「歴史認識」問題では決して<自尊>派ではなく、大きく<自虐>派へと移行している。それは、2015年8月安倍談話以降、ぴたりと<歴史戦>と呼号( ?)しなくなったことでも分かるし、月刊正論の背表紙の文字のこの時点前後を比べれば一目瞭然だ。月刊正論編集部・菅原慎太郎らは、ごまかさない方がよい。
 また、自民党はこのマップではやはりどちらかというと「自尊派」に傾斜して位置づけられているが、実態は、少なくとも上の談話以降、読売新聞と同様の<リベラル保守>、月刊正論編集部による<自虐(保守)>派であることを明らかにしている。稲田朋美も下村博文も、おそらく誰も、自民党内では戦後70年談話に異議を挿まなかった。
 ほかにも難点はある。例えば、朝日新聞・毎日新聞が<対米不信>派に分類されているが、アメリカのメディアや同民主党政権の意向・考え方を利用して、いわば対米追随的に、日本の<自尊>派、または私のいう<保守・ナショナル>派を批判してきたことは周知のことだ。日本共産党と朝日新聞らをごっちゃにする月刊正論編集部の見方は、そもそも<対米協調>か<対米不信>かを大きな基準にすること自体が適切ではないことを示している。
 また、月刊正論編集部によれば、第4象限の<対米不信・自尊>派にはほとんど何も分類されなくなる。政党では辛うじて「日本のこころ」がこれに近いことが示されているにとどまる。
 だが、「保守」論壇人を見ると、「自由と民主主義はもうやめる」と書いた佐伯啓思や西部邁らの<表現者>グループは、月刊正論編集部のいう<対米不信・自尊>派だろう。
 そして、広義での「保守」が1・2・4の三象限を占めてしまい。いわゆる「左翼」は第3象限にしか位置づけられなくなる。
 現実は、保守対「左翼」が3対1ということはない。
 秋月瑛二の分類では、西部邁・佐伯啓思・西田昌司らの<表現者>グループは、<保守・ナショナル>派(第一象限)に位置づけられる。
 <自尊・自虐>という情緒的なものを大きな基準として採用していることのほか、<対米協調>か<対米不信>かを大きな基準として採用していることに、月刊正論編集部マップの致命的な欠陥がある。
 よほど月刊正論編集部と産経新聞は<対米協調>派であることを強調したいのだろう。
 月刊正論編集部の4つの分け方によれば、上が「対米協調」で下が「対米不信」。右が「自尊」で左は「自虐」。これで反時計回りに、象限に位置づければ、つぎのとおり。
 B/自虐・対米協調派 A/自尊・対米協調派
 C/自虐・対米不信派 D/自尊・対米不信派
 秋月瑛二の分類(前回のA~D)はたんに右から左へと並べたものではなく、上のような4象限化をすることも可能だし、そのように意図している。反時計回りに、第1~4象限。以下のとおり。もちろん、反共か容共かは大きな基準とされなければならない。
 B/リベラル・保守 A/ナショナル・保守
 C/リベラル・容共 D/共産主義(=ナショナル・容共)
 上半分はいわゆる保守、下半分はいわゆる「左翼」。
 左半分は<(欧米淵源の)自由・民主主義>派、右半分は、リベラル・デモクラシーをそのままは支持せず日本の特殊性を強調する、またはそれを(日本共産党のように)乗り越えようとする立場だ。
 D/共産主義に日本共産党だけが入るのではない。反日本共産党の日本の「共産主義」者たちがいることを知っている。但し、日本共産党に少なくとも限れば、この党は「アメリカ帝国主義」を大きな「敵」と見なす<民族=ナショナル>派的性格をもっていること、「民主主義」社会を超えた「社会主義・共産主義」社会を展望していること(単純なリベラル派ではないこと)を忘れてはいけない。

<観念保守>という日本の害悪-例えば天皇譲位問題。

 仲正昌樹が、精神論保守と制度論保守を区別して、後者ならば支持できる、又は属してもよいような気がしてきた、と何かで書いていた(この欄で触れたかは失念)。
 経緯はばっさりと省略するが、この対比を参考にしつつも、<観念保守>と<理性(合理)保守>の区別という語法の方が適切だと思ってきている。
 天皇譲位問題についての主張を、新聞報道または週刊誌を含む雑誌の記事による紹介、さらにはそれらを読んだ記憶に頼ってのみ以下書くのだが、日本の<観念保守>のまさしく観念論ぶり、いい加減さ、そして欠陥は、渡部昇一、平川祐弘、八木秀次、櫻井よしこらの同問題についての(識者懇談会のヒアリング時での)主張ぶりに現れていそうだ。
 平川祐弘が本当に「保守」派なのかは、もともと怪しく思っていて、数十年前にいた竹山道雄・安倍能成らの(反共・自由主義の)「オールド・リベラリスト」程度ではないかと思っている。だから、ここでの本来の対象にはしたくない。
 安倍70年談話支持の平川の論考はひどいものだったし、その後目にする平川の雑誌論考も、半分ほども他人の文章の引用だったりして、相当に見苦しい。
 そのような平川に執筆を依頼する保守系雑誌の(編集部の)レベルの低さ、あるいは「保守的」な文章作成者の枯渇ぶりを感じざるをえない。
 子細は省略したが、櫻井よしこは<保守派の八方美人>だとこの欄で記したことがある。この人はこちこちの<観念保守>ではなく、天皇譲位問題についても<拙速はいけない。よく考えるべき>とだけ当初は書いていたが、上記ヒアリング時点では、譲位制度化反対へと考えを決したようだ。<保守>系論壇人の状況について<日和見>していたのかもしれない。
 この項はすべて記憶に頼る。月刊正論(産経)の編集長・菅原某は当該雑誌の秋頃の末尾に、譲位制度創設反対か<議論を尽くせ>のいずれかが<保守>派の採るべき立場であるかのごとき文章を載せていて、これが産経新聞の主流派の見解だろうかと想像したことがある。
 百地章は当初は<摂政制度利用>論=譲位制度創設反対論だったように見えたが、ヒアリング時点では、皇室典範(法律。なお、憲法2条参照)を介しての特別法(法律)による(おそらく一代限りの)譲位容認論に変わったようだ。
 譲位制度導入反対論-これはほとんど摂政制度利用論といえる-に反対する立場に百地章が転じた背景は興味深い。その背景・理由はよくは分からないが、譲位制度導入反対論がいう摂政制度利用論は現憲法と現皇室典範を前提にするかぎりは採用できない(法的に不可能)と秋月は考えているので、上の基本的立場については、私も百地と同様だ。
 さて、いくつか考えることがある。
 第一は、渡部昇一や平川祐弘が前提的に主張したらしい、天皇とは「祈る」のが本来の仕事という理解の仕方は、典型的に「観念保守」に陥っていることを示している。
 つまり、「天皇」についてのそれぞれが造成している「観念」を優先させている。さらに正確にいえば、現実の(現日本国憲法下での)天皇が「祈る」ことまたは「祭祀」を行うだけの存在ではないことは、現憲法が定める「国事行為」の列挙だけを見ても瞭然としている。にもかかわらず、この人たちは、現憲法の天皇関係条項を全く知らずして、又は知っていても無視して、自らの主張を組み立てている。
 同問題懇談会のメンバーは、代表的にのみ言えば、この二人が開陳した意見を、すべてまったく無視してかまわない。
 ついでに言うと、西尾幹二は「観念保守」ではないと思うし、小林よしのりが少なくとも少し前までの月刊サピオ(小学館)で揶揄し批判していたこの問題の一連の主張者(渡部昇一、八木秀次ら)の中に含まれていない。
 だが、西尾幹二ですら天皇(または皇室)は京都に戻るべきと何かに書いていた(二度ほどは読んだ)。だが、首相任命・閣僚任命や衆議院解散等にかかる現憲法上の天皇の重要な権能を考えると、京都市在住では実際上国政に支障をきたすおそれが高い。余計なことを書いてはいるが、憲法を改正して現在の天皇の「国事行為」をほとんど除外しないと、京都遷御ということにはならないだろうと思われる。
 第二に、「観念保守」論者が「保守」したい天皇制度とはいったい奈辺にあるのだろうか。
 櫻井よしこは、明治の賢人たちが皇室典範制定に際して生前退位を想定しなかった、その「賢人」の意向を尊重すべきとか、今はよくても100年後にどうなるかわからない(制度変更の責任を持てるのか、という脅かし ?)とか主張しているらしい。
 櫻井よしこは、明治憲法下の天皇制度が最良だと考えているのだろうか、そしてそうであればその根拠は何なのだろうか。
 これは一般的に、<保守>派のいう保守すべき日本の「歴史・伝統」とは何か、という基本問題にかかわる。
 ついでに書けば、大日本帝国憲法にいったん戻れという議論は法的にも事実上も不可能なことを可能であると「観念」上は見なしているもので、議論を混乱させる、きわめて有害なものだ(産経新聞社・月刊正論は、この議論に一部は同調的であるらしい-その理由はバカバカしくも渡部昇一の存在 ?)
 秋月瑛二は、明治期の日本が維持されるべき(復元されるべき)日本であるとはまったく考えない。八木秀次もそのようだが、明治期の議論を持ち出して、譲位容認にはあれこれの弊害・危険性があるというのは、明治の賢人 ?たちを美化しすぎている。
 伊藤博文らには、何らかの「政治的」意図もあった、と考えるのが、合理的かつ常識的なのではないか、と思われる。
 今はよくても100年後にどうなるかわからない、という櫻井よしこの主張(らしいもの)についていうと、旧皇室典範以降100年以上経って、限界が明らかになっているとも言える。つまり、100年後にどうなるかわからない、という時期が皇室典範の歴史上、今日になっている、とも言える。また、譲位制度を作っても、問題があれば、100年後にまた改正すればよいだけの話だ。<今はよくても100年後にどうなるかわからない。改正してよいのか>という議論の立て方は、全く成り立たないものだ。
 したがって、櫻井よしこの脅かし ?-これはいわゆる「要件」設定の困難さを想起させてしまう可能性があるが-に専門家懇談会のメンバーは、そして政府も国会も、屈する必要は全くない。
 問題は要するに、現皇室典範が明記する摂政設置の要件充足にまではいたらないが(したがって「摂政」設置で対応することはできないが)、高齢化により国事行為やその他の公的行為(祭祀の問題はかりにさておくとしても)を適切にはかつ完璧には行えなくなったと見受けられる(文章の1、2行の読み飛ばし、儀式日程の一部の失念などは、高齢の天皇には生じうることだろうと拝察される)場合、かつ譲位の意向を内心にでも持たれた場合に、日本国家と国民は、どう対応すればよいかにある。
 詳細は知らないが、天皇の高齢化問題ととらえているようである、所功の主張は、立論において秋月に似ているかもしれない。
 天皇についての特定の(適切だとは論証されていない)「観念」を前提にした議論をするのではなく、最小限度、現憲法の規定の仕方を考慮した「制度」論を行うべきであるのは、「天皇」もまた制度である以上、当然なのではないか。
 また、明治日本はあくまでの日本の歴史の一時期にすぎない。明治期を理想・模範として描いているとすれば、「観念」主義の悪弊に陥っている。
 現憲法を視野に入れるのは論者として当然の責務だが、それを度外視しても、長い日本の歴史と「天皇」の歴史を視野に入れる必要がある(書く余裕はないが、天皇・皇室をめぐって種々の歴史があった。今から考えて、有能な天皇も無能らしき天皇もいた。暗殺された天皇もいた-崇峻天皇。孝明天皇は ?-。祭祀が、あるいは式年遷宮がきちんと行えない時代もあった。「祭祀」が皇太子妃とまったく無関係に行われていた時期がたくさんあった。そうした問題をすべて解決したのが実質的には今に続く明治期の皇室典範だったとは全く思われない。なお、戦後、現憲法のもとで法律化)。 ゛
 以下、追記する。渡部昇一は、今上天皇に「助言」して思いとどまらせるべきだとか述べたらしい。この人物らしい傲慢さだ。
 平川祐弘は、現天皇(又は昭和天皇も含めて戦後の天皇)が勝手に「象徴天皇」の行動範囲を拡大しておいて辛さを嘆くのはおかしい旨述べたらしい。
 「象徴天皇」の範囲を-とくにいわゆる「公的行為」について-国民やメディアが広げた可能性はある。しかし、「祈る」行為だけにその任務・権能を限らず、「内閣の助言と承認」のもとにではあれ重要な国政・政治上の権能を多く付与したのは、現憲法だ。平川の議論は、現憲法批判もしていないと一貫していないだろう。
 思い出したが、自民党改憲案その他の<保守的> 改憲案は天皇を「元首」と定めることとしている。この「元首」化論と、天皇は「祭祀」が主な仕事だという議論は、ともに成り立つものとは思われない。
 ともあれ、渡部昇一も平川祐弘も、じっと現憲法の天皇条項を読んで確認してから、自らの考えを述べたまえ。勝手な「観念」の先立つ議論は有害だ。
 櫻井よしこについてはなおも、書きたいことがある。八木秀次には、もはやあまり興味がない。
 「真の」保守派の天皇・皇室論があるわけでは全くない、と思われる。月刊正論の編集部・菅原某あたりは、勘違いしない方がよい。
 ヒアリング対象者の発言はそのまま詳細に官邸ホームページ上で読めるらしいので、別途に論じるかもしれない。
 以上は、手元に何も置かず、記憶にのみ頼って書いた。したがって、前提認識に誤りがある可能性はある。

日本の「保守」-奇書・月刊正論11月号(産経)02。

 一 あくまでかつての月刊正論(産経)の主論調・特集設定を示す例だが、二年前2014年7月号の背表紙には「歴史・外交・安保/中国・韓国への反転大攻勢」とあり、同年8月号のそれには、「日本を貶めて満足か! 朝日新聞へのレッドカード」とあった。他の「保守」系雑誌と同じく「中国」や「韓国」がしばしばでてくるのはいかがかという気もしていたが、(朝日新聞が「虚報」の一部を認めたこともあり)論調自体はかなり明確だった。
 2016年11月号の背表紙は「昭恵・蓮舫・クリントン」
 これはいったい何が言いたいのか、何の特集なのか ? ? 女性政治家特集なのか。いや安倍昭恵は政治家ではないはずだが。
 と思ったりして目次を見て少し捲ってみると、三人について計4論考があるだけで、統一したテーマがあるのでもなさそうだ。
 しかも表表紙と目次冒頭には「特集/安倍政権の敵か味方か」とある。
 この特集名に即した論考は、熟読していないので断言はできないが、何と渡部昇一のもの一つだけのようだ。
 なるほど客観的には、安倍昭恵インタビューも八木秀次・潮匡人の蓮舫ものも、ヒラリー・クリントンについての三浦瑠麗論考も、安倍政権を支持していることになるのかもしれない(熟読していないので確言しかねる)。
だが、少なくとも、これらは「安倍政権の敵か味方か」という問題設定のもとで、これを主テーマとして、執筆または構成された文章ではない、と見られる。
 このような編集部(代表・菅原慎太郎)設定の「特集」名そのものが、じつはかなり政治的で、読者を(そして日本国民を)幻惑させるものになっている。それは、この「特集」に最も近い問題関心のもとで書かれたとみられる渡部昇一の文章の「意図」と同様に、<卑劣な>ものだという印象を拭えない。
 二 前回にかなり引用した水島総は、連載ものの執筆者ということもあり、月刊正論編集部の意図におそらく反して、「正論」を書いている。
 当該編集部と渡部昇一が主張し、意図しているのは、<日本の「保守」派のみなさん、安倍政権を支持しないのですか ?、みなさんは安倍政権の「敵か味方か」どちらなのですか ?>という問いかけを発することだろう。
 これは問題のスリカエだ。
 西尾幹二、伊藤隆らが理解し主張しており(秋月瑛二も同様)、また中西輝政が「さらば、…」とする契機となった理解は、<安倍晋三戦後70年談話は、戦後体制の基本的歴史観を維持している>、<…、(当の月刊正論や産経新聞も批判してきたはずの)村山富市戦後50年談話を踏襲している>、<…、東京裁判史観を継承している>ということなのであり、安倍晋三・自民党内閣を全体として支持しない、安倍政権は「敵」だということではない。
 中西輝政の言いたいことの中心もまた、当面の<安倍内閣の当否>ではない、と思われる。なるほど中西は安倍晋三を「敵」とするような表現の仕方をしているが、中西輝政の敵は言うまでもなく、「戦後レジーム(体制)」であり日本国民が自主的な歴史観を育めない根因にある「東京裁判史観」にある、と考えられる。水島総が驚くほど明瞭に語っているように、「東京裁判史観」にまだ拘束されざるをえない、現在の日本国総理大臣の<宿命>・<哀しさ>を感じなければならない(むろん、アメリカというものの存在にかかわる)。
 問題は安倍晋三個人にあるのではなく、談話に誰も反対しなかった内閣の閣僚にもあり、自民党そのものにあり、あのような内容の安倍談話を許してしまった(阻止できなかった)月刊正論や産経新聞を含む「保守」系メディア・論壇にもある。
 問題を、<安倍政権を支持しますか ?>、<安倍政権の敵と味方のどちらですか ?>に歪曲してはならない。これは、卑劣な問題設定、主題設定だ。
 渡部昇一にも、月刊正論編集部(代表・菅原慎太郎)にも念のために言っておきたいが、<安倍談話は東京裁判史観(と言われるもの)を維持しているか否か>という問題には、比較的容易に答えることができる。
 いろいろな装飾・アクセサリーやレトリックが安倍談話には介在しているので幼稚な者には見抜けないのかもしれないが(その装飾・レトリック部分を朝日新聞等の「左翼」は批判し、一方でそれらを産経新聞は好意的に論評する根拠にした)、素直に読めば、東京裁判史観や村山談話等の「これまでの内閣」の立場との関係での基本的趣旨は明らかだ。
 しかし、<安倍政権を支持するか否か(安倍政権は味方か敵か)>という問題には、単純には答えられない。それは、貴方は<自民党を支持するか ?>、<自民党は味方か敵か>という質問に簡単には、つまり二者択一的には答えられないのと同じだ。
 月刊正論編集部や渡部昇一は、上の質問に<支持>・<味方>と答えるのかもしれない。
 だが、問題は、政治・政策の当否は、そのように二者択一的に判断できるとは限らない。選挙の投票に際して、いずれかの政党を一つだけ選択するのともさらに異なる、多様な評価がありうることを知らなければならない。
 つまり安倍政権であれ、自民・公明連立政権であれ、自民党という政党であれ、例えば100点満点の評価から、80、60、…20点、といった多様な評価がありうるのだ。
 上に月刊正論編集部や渡部昇一は、安倍政権を<支持>し<味方>するのかもしれないと書いたが、自民党・安倍政権が進めようとしているようでもある配偶者関連税制の「改正」も、<消費税>関連政策・方針も、種々の労働政策も、<女性を含む一億総活躍>方針も-あくまでまったくの例示にすぎないが-、<すべて>支持するのか ? 自民党が、したがって安倍政権もまた継承している<男女共同参画>行政もすべて支持するのか ? 自民党の文教政策あるいは例えば安倍政権・文科省が行っている<大学再編>政策もすべて支持するのか ?
 渡部昇一や月刊正論編集部にとって、安倍政権は「100点満点」の政権なのか ? ?
 真面目に又は厳密に考慮すれば、<分からない>とか<支持しかねる>という政治方針・政策もあるはずだ。
 渡部昇一や月刊正論編集部に訊きたいものだ。
 安倍政権はかりに<保守>政権だとして、そして自分たちをかりに<保守>派だと考えているとして、安倍首相や安倍政権の言動・政策・行政を<すべて>支持しなければならないのか ? つねに、あらゆる論点について、安倍政権の「味方」でないといけないのか ?
 農業・水産業等々の国民、タクシー事業従事者、「非正規」労働の人、コンビニの経営者あるいは個々の従業員、…、それぞれの利害は多様だ。高齢者と若者という違いもある。
 そのような多様な国民が、あるいは雑誌読者が、「保守」系と自らを感じている者が多いかもしれないとしても、いったいなぜ、渡部昇一や雑誌編集部によって、「安倍政権の敵か味方か」と問われなければならないのだ ? ?
 渡部昇一は卑劣にも、自らが1年前に<安倍談話は100点満点>、<戦後体制を脱却した談話>、<大宰相の談話>とか「手放しで」褒め称えたことについては全く触れないままで、「安倍政権の敵か味方か」という特集名のもとで、安倍晋三首相を支持し<信頼する(信頼し続ける)>ということを長々と述べているだけだ。
 しかも、最後の方を捲ると、例えばつぎのような一文の末尾は、いかなる(実証的 ?)論拠にもとづくものなのだろう。笑わせるではないか。
 94頁-「安倍さんはそういう可能性を感じているかもしれません」。
 95頁-「彼はそう考えを変えたのだと思っています」。
 同-「安倍さんは…を手にすべく精を出しているのだと考えています」。
 同-「彼は機をうかがっているのだと思います」。
 同-「…かもしれません。そうした兆候は…、明白に表れていると思います」。
 同-「…時、粛々と変えるべく安倍氏は動くものと信じています」。
 渡部昇一は、可能であるならば、自らが1年前に<安倍談話は100点満点>等々ときわめて高く評したことの論拠を、再度詳細に述べるべきだ。渡部昇一をめぐる争点・問題は、まさに1年余り前の自らの文章の適否にある。<安倍政権は敵か味方か>などと問題をスリカエて、逃げてはいけない。
  三 同じ雑誌の同じ号にほとんど真反対の方向の理解・主張の文章が別の論者によって書かれていること、「特集」名にかかわらず、それに対応していると思えるのは渡部昇一の文章一つにすぎないこと、背表紙の「昭恵・蓮舫・クリントン」という意味不分明の文字の羅列、そして「特集」名設定から推察される編集部の意図…。
 月刊正論11月号(産経)が「奇書」だという理由が、判っていただけただろうか。
 このような雑誌に、あるいは渡部昇一も登場する号にだけでも(一緒には)、論考を執筆したくない、という「先生」方が現れることを期待したい。
 四 このような投稿に時間を費すのは、本当は愚かなことだ。
 渡部昇一は、かつて、その清水幾太郎の<右>旋回に関する発言で、福田恒存によって「売文業者」と称されて批判されたことがある。
 福田恒存評論集・第12巻(麗澤大学出版会、2008)の中の107頁以下の「問い質したき事ども」の半ば辺り以降を参照(原文は1981)。
 このことを、私と同じく渡部昇一の安倍談話支持を厳しく批判する、千葉展正・「売文業者」渡部昇一の嘘八百を斬る(kindle版、2016)によって知った。
 この電子書物( ?)は渡部昇一による安倍談話支持を、この秋月の欄よりもはるかに詳細に「斬って」、批判している。千葉展正には、反フェミニズムの本もある。

日本の「保守」-奇書・月刊正論11月号(産経)01。

 水島総は、月刊正論2016年11月号(産経)p.286-でつぎのように書く。
よく分かるし、少しは感覚が異なるところはあるが、2015年安倍晋三戦後70年談話に関する部分は圧倒的に<正しい>。以下、「」は直接の引用。
 「戦後日本」と異なる「日本」の生起・露出・噴出という「異変」が起きている。「戦後レジームに安住する戦後左翼や戦後保守」は理解していないが、「米国と中国など外国政府の情報機関」は「異変」の「本質を見抜いている」。第一次安倍政権誕生も第二次のそれも「彼ら」からすれば「危険な」「異変」だった。
 「政治的ナショナリズムの復活だけなら、米国政府は戦後保守勢力を巧みに動かして『憲法改正運動』にそのエネルギーを集約させることもできた」。
 「異変」は上のことから「はみ出た」もので、「だからこそ、米国オバマ政権は、…第二次安倍政権を歴史修正主義として疑い、危険視し、中国、韓国の反日歴史キャンペーンを容認し、それを利用しながら、安倍政権に強力な圧力をかけ続けた」。
 「靖国神社への総理参拝に対する…米国政府の本気で強力な圧力」と「中国の尖閣侵略、北朝鮮の核開発等の安全保障問題の連動圧力」を受けて、「安倍総理は自身が『異変』たることを『中断』した」。
 安倍総理は、「戦後体制との妥協の道を選んだのである」。
 「総理は安倍談話で、我が国が大東亜戦争という『間違った道』を歩んだという東京裁判史観を受け入れ、その踏襲を米国に誓った」。
 「危険な歴史修正主義者として国際的圧力で葬られる前に、総理は戦後日本体制への『回帰』と服従を内外に宣言し、その長期政権への道を切り開いた」。
 「これが面従腹背、急がば回れの臥薪嘗胆行為なのか、あるいは政治的延命のための戦後体制への屈服なのか、おそらく両方なのだろうが、左翼からは『化け物』呼ばわりされる安倍総理の実体は、東京オリンピックの頃まで、知ることは出来ないだろう」。
 総理自身の「戦後体制遵守」表明以降、「自称保守政治家たち」も「戦後レジームの脱却」とは一切口にしなくなり、自民党のスローガン「日本を取り戻す」も「雲散霧消」した。親中派とされる「二階俊博幹事長」誕生は「その象徴的出来事」ともいえる。
 「政治の世界では、確かに戦後体制の巻き返しが成功した」。
 以上で引用おわり。以下の「異変」についての叙述は省略。
 このような安倍戦後70年談話(+日韓「慰安婦」最終決着合意文書)の理解・評価・論評こそ、事態を「正視」するものだ。
 しかし、同じ月刊正論11月号(産経)に、相も変わらず「ほとんど発狂」していると思われる、談話の問題と安倍内閣一般の問題とを(厳密には区別できるが)あえて混同させて、<僕ちゃんやっぱり安倍内閣を「信じる」>という渡部昇一の文章が載っている。
 重要な論点についてほとんど真反対の方向の論考・文章を掲載できる月刊正論編集部は<奇怪>というほかはない。
 渡部昇一をなおも採用する月刊正論編集部、そして産経新聞社の主流派は、水島総が上でいう「自称保守政治家たち」と同じ態度をとり、<戦後体制に屈服>しているのだ。
 もはやこの雑誌や(とっくに定期購読を中止している)産経新聞には、「歴史戦」はない。そして月刊正論は、個々には優れた論考も少なくないにもかかわらず、特集の組み方など全体としては<わけの分からない>月刊雑誌に堕してしまった。
 いかに月刊正論11月号(編集長・菅原慎太郎)が錯乱しているかについて、もう一回書く。
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