秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

自衛隊

2227/日本の<防衛・国防>法制-諸文献。

 2015年にいわゆる平和安全法制が成立し、2016年に施行された。この「法」案は正確には関係諸法律の「(一部)改正」部分をまとめて一本にした法案で、その中には旧法律の名称自体を変更(改正)するものもあった。独自に<…にかかる平和安全法>とかがあるのではない。
 この頃、日本の防衛・平和安全法制をきちんと勉強しておこうと思って(いわば<有事法制>の積み重ねの内容だ)、いくつか文献を買い求めた。
 ほとんど利用することなく、今日まで来てしまった。一覧表でも書いて、遺しておこう。
 最初の00杉村著は、以前から所持していたもの。
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1958年
 00-杉村敏正・防衛法/法律学全集12(有斐閣、1958.05)。
1974年
 01-吉岡吉典・有事立法とガイドライン(新日本出版社、1979.04)。=共産党系。
1997年
 02-田村重信・日米安保と極東有事(南窓社、1997.03)。
 03-安田寛監修・平和・安全法制と法/補綴版(内外出版、1997.04)。
2001年
 04-西修=浜谷英博=高井晋ほか・日本の安全保障法制(内外出版、2001.04)。
2002年
 05-小針司・防衛法概観-文民統制と立憲主義(信山社2002.05)。
 06-水島朝穂編(+馬奈木厳太郎執筆)・知らないと危ない「有事法制」(現代人文社、2002.05)。
 07-田村重信・急げ!有事法制/日本の平和と人権を守る武力攻撃事態対処法案(朝雲新聞社、2002.09)。
2003年
 08-森本敏=浜谷英博・有事法制-私たちの安全はだれが守るのか(PHP新書、2003.01)。
 09-水島朝穂編・世界の「有事法制」を診る(法律文化社、2003.05)。**
 10-常識/日本の安全保障(文春新書、2003.11)。
2004年
 11-田村重信=杉之尾宜生・教科書・日本の安全保障(芙蓉書房出版、2004.03)。
2005年
 12-森本敏=浜谷英博・有事法制-早わかり国民保護法(PHP新書、2005.08)。
2007年
 13-丸茂雄一・概説/防衛法制-その政策的課題(内外出版、2007.08)。
 14-防衛知識普及会編・テロ特措法(内外出版、2007.10)。
2008年
 15-防衛知識普及会・防衛省改革(内外出版、2008.11)。
2009年
 16-丸茂雄一・概説/基地行政法-基地行政のデュー・プロセス(内外出版、2009.06)。
2010年
 17-眞邉正行編・防衛法令根拠辞典/全改訂版(内外出版、2010.06)
2012年
 18-田村重信=高橋憲一=島田和久・日本の防衛法制・第2版(内外出版、2012.05)。
 19-田村重信編・日本の防衛政策(内外出版、2012.06)。
2013年
 20-西修・有事法制の解説(内外出版、2013.07)。
 21-防衛省・平成25年版/日本の防衛・防衛白書(2013.07)。
2014年
 22-田村重信・安倍政権と安保法制(内外出版、2014.07)。
2015年
 23-西修監修・詳解有事法制/増補版(内外出版、2015.07)。
 24-日米安保法令集(内外出版、2015.08)。
 25-読売新聞政治部編・安全保障関連法-変わる安保体制(信山社、2015.09)。
 26-田村重信・平和安全法制の真実ー冷戦後の安全保障・外交政策-(内外出版、2015.10)。
 27-鈴木和之・日本の安全保障法制入門(内外出版、2015.12)。
2016年
 28-緊急事態関係法令集・2016(内外出版、2016.03)。
 29-軍事研究・2016年07月号(Japan Military Review、2016.06)。
 30-田村重信=丹羽文生・政治と危機管理(内外出版、2016.09)。
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 +++ここから記載の4文献は、2020年5/26に追記。+++
 ①水島朝穂・この国は「国連の戦争」に参加するのか-新ガイドライン・周辺事態法批判(高文研、1999.03)。
 ②憲法再生フォーラム編・有事法制批判(岩波新書、2003.02)。
 ③森本敏=石破茂=西修・国防軍とは何か(幻冬舎ルネサンス新書、2013.06)。
 ④戦争をさせない1000人委員会編・すぐにわかる/戦争法・安保法制ってなに?(七ツ森書館、2015.07)。
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 若干のコメントを付記する。
 第一。杉村敏正・防衛法(有斐閣、1958.05)は、公法(・行政法)研究者によるもので、1958年刊行のものとして、歴史資料としても貴重だろう。
 杉村敏正、1918年9月~2011年9月。京都大学名誉教授。
 杉村敏正先生追悼文集・杉村敏正先生の人と学問(有斐閣、2014)参照。
 つぎのような章構成になっている。体系としてはオーソドクスだ。
 第1章/序説、第2章/防衛組織法、第3章/防衛公務員法、第4章/防衛作用法。
 序説では、「自衛隊」・「防衛庁設置法」に至るまでの経緯・変遷もまとめられている。
 歴史あるいは当時の学界の雰囲気を想起させるのは、つぎの文章だろう。
 「尤も、私個人としては、防衛庁設置法、…、自衛隊法などは日本国憲法に違反するものと判断しているが、国会の制定した法律であるので、一応、適憲性の推定の下に、防衛法令を体系的に説明した」(p.1)。
 第二。防衛・軍事は大学の法学部・経済学部等でまとまって教育されることはおそらくほとんどなく、<防衛・国防・軍事法>に関する学界(少なくとも大学所属研究者によるもの)も存在しない。
 そして当然のごとく、この分野は司法試験や国家公務員試験の対象にならない。むろん、憲法(学)の中で憲法9条に当然のごとく論及されるだろうが、憲法履修が必須であるはずの教員免許取得試験も含めて、憲法9条の具体的解釈はむろんのこと「現行自衛隊法制」の内容を前提とする設問などは戦後ずっとない、と言われている(試験に出ないとされるもう一つは、1条以下の<天皇>条項だ)。
 従って、法曹・公務員・私立を含む学校教員は、<防衛・国防・軍事>に関する素養がほとんどないままに、それぞれの職に就いている。むろんその後で、自力で知識を得たものはいるだろう。
 それはむろん、自衛隊=違憲論が強い(強かった)ことが理由の重要な一つで、したがって自衛隊=「自衛」のための実力部隊の組織・活動等について知って論じようとする姿勢自体を希薄なものにしてきた。現実には「ある」が、「見たくない」もの・「見てはならない」ものにしてきた。
 上の文献列挙でも明らかだが、一部「左翼」ないし「左派リベラル」の者を除き、学者・研究者による<防衛・国防・軍事>法研究は全く乏しい、と言い得る。
 その中では、子細には知らないが、小針司(1949~)による研究の継続は貴重ではないかと感じられる。
 第三。必要とあらば、上記のものを参照することはできる。一見ないし概読しても、とり立てて難解というものではない。但し、法制だから<積み重ね(改正・追記等)>をきちんと理解しなければならない。

1845/自民党<自衛隊憲法明記>案では自衛隊は合憲にならない。

 一 自民党の大勢または多数議員は2017年5月3日に突如打ち出された安倍晋三総裁私案に、またはその基本的趣旨に賛成し、日本国憲法9条を改正したいようだ。
 その際、現9条第1項と第2項はそのまま存置し、9条の2を新設して、そこに「自衛隊」を明記して、<自衛隊の合憲化>または<自衛隊の合憲性論争に終止符を打つ>ことを意図しているらしい。
 マス・メディアの報道によっても、しかし、まだ9条の2の正規の文案(条文案)は確定的には伝えられていないようだ。
 だが、おおよそのところ、例えば下のAまたはBのようなものらしい。①と②は項。
 A「①我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
 ② 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」
 B「①我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つための必要最小限度の実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
 ②自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」
 このAとBの基本的な違いは、①で、自衛隊につきA「必要な自衛の措置をとる~ための実力組織」と書くか、B「~のための必要最小限度の実力組織」と書くかだ。
 しかし、どちらにせよ、第一に、そのように若干の説明または目的を記したうえで「自衛隊」なるものの「保持」を明記しようとするものに変わりはない。
 第二に、いずれも「法律の定めるところにより」として、「保持」の前提としての設立とその維持、つまり「保持」については「法律」が定めるとしている点で、変わりはない。
 二 このような案では自衛隊を合憲のものにすることは、絶対に不可能だ。
 昨年夏に諸案を批判したが、そのうち、上の案に最も近いのが、百地章の案・考え方だった。
 百地章に対する一年前の批判がそのまま、あてはまる。
 簡潔に記そう。
 ①自衛隊の正確な又は具体的な姿は上にいう「法律の定めるところ」を見なければ、憲法上はまださっぱり分からない。
  ②憲法上明確なのは、第一に、「軍その他の戦力」であってはならないこと(現9条2項)のほか、第二に、新設条文により、自衛のための「必要な実力組織」または「必要最小限度の実力組織」という性格づけに反してはならないこと。
 ③自衛隊の正確な又は具体的な姿(組織・編成・人員・活動等々)を定める「法律」は上の②の制約を受ける。とりわけ現9条2項にいう「軍その他の戦力」であってはならない、という制約を受ける。
 ④自衛隊関連法律が新設されるにせよ、自衛隊関連現行法律(および政令・省令等)が維持されるにせよ、それらが「軍その他の戦力」であってはならない、という制約の範囲内のものであるか否かは、永続的に問われ続ける。
 ⑤よって、上のような9条の2新設案で、自衛隊の合憲性の問題が解消するはずがない。
 なお、上の新設9条の2の②に明確には論及しなかったが、新設条の二項は「自衛隊の行動は、法律の定める~」と定めているのだから、上と全く同じことが妥当する。
 上にいう「法律」の現九条2項適合性が、つねに問われ続けるのだ。
 三 そうだとすると、「自衛隊」という概念と一定の説明・目的の言葉を残して、<法律の定めるところにより>という字句を削除すればよい、との考え方をすぐに思い浮かべる者もいるはずだ。
 しかし、これでも、「自衛隊」なるものを合憲視することはできず、合憲性論争は続く。
 日本会議の伊藤哲夫・小坂実等々の頭脳では理解不能なのかもしれないが、いちおう、簡潔に書いておく。
 ①憲法上の「自衛隊」は、当然のこととして現9条2項に抵触しないものである必要がある。そのようなものとしてのみ、新設条文は「自衛隊」を許容するはずである。
 ②よって、そのような憲法上の「自衛隊」の範囲内に、実際の、現実の(法令上の)自衛隊がとどまっているか否かは、永続的に問われ続ける。
  ③要するに、憲法上の「自衛隊」と、現行法制上の「自衛隊」または今後改正によってその具体的な態様は変動しうる「自衛隊」、とが同じであるはずがないのだ。
 四 一年前の夏に書いたことをいっさい変更する必要を感じていない。
 また、上の大きくは二点につき、ほとんど確信に満ちた自信をもっている。<ほとんど>とは一種の修辞で、実際には100パーセントだと言ってよい。
 少しでも憲法解釈、憲法と「法律」の関係、憲法・「法律」間解釈の作法を知っている者であれば、誰でも、こういう結論になるだろう。弁護士その他法曹資格を持つ者ならば分かるはずだ。
 しかし自民党の中でも大きな声になっていないようであるのは、<ともかく改憲>派、<できるだけ早く改憲>派に、政治的に遠慮しているからだろう。
 <改憲>という言葉・概念のトリック・魔力にひっかかっている政治運動団体があるからだろう。
 憲法に「自衛隊」という言葉さえ入れば<自衛隊>は(実際の自衛隊も)合憲になる、と考えている「アホ」丸出しの政治運動団体があるからだろう。
 大切なのは、<改憲か護憲か>ではない。<どのように改憲するか>だ。
 あるいはそもそも、現在の自民党案では<改憲>にならない。自衛隊の合憲性問題を、却って大きく意識させ、浮上させるだけだ。
 そしてまた、現在の自民党案では、「自衛隊」なるものが「軍・戦力」になることを半永久的に否定することになる。これも大きな弊害だ。

1796/池田信夫5/04ブログと「国民党」・憲法九条。

 池田信夫5/04「平和憲法が野党をダメにした」によると、新しい「国民党」の綱領には「違憲の安保法制の白紙撤回」や「解釈改憲を許さない」があるそうだ。
 池田とともに、やれやれという感じがする。
 昨年9月、もう半年以上も前になるが、毎日新聞の第二面あたりに、「保守かリベラルか」という大きなタテの見出しがあった。
 それは当時の民主党の代表選挙が前原誠司と枝野幸男の闘いになると報じるもので、前原=「保守」、枝野=「リベラル」と旧民主党内を位置づけ又は「色分け」していたわけだ。
 保守とリベラルという語のこういう使い方が印象に残ったのだった。それはともかく、9月から10月にかけての民主党や総選挙に関するコメントの中で共感できたのは、池田信夫によるものだった。
 原典、ソースの確認は厳密に行って、典拠は示してきたつもりだが、ここでは端折る。
 池田は、民主党が割れて反共・非共と容共の違いが明瞭になるだけでも意味がある、そういう形で選挙が行われるだけでも今回の(昨秋の)総選挙の意味はある(それだけてもよい)という趣旨のことをブログで(どの欄だと特定しないが)書いていた。
 これに秋月瑛二が同感できるのは、<反共・非共>対<容共+共産党>こそが現在の日本の最大の対立軸だと考えているからだ。後者は、私のいう「左翼」だ(とくに菅直人が首相のときの民主党は、民主党全体が「左翼」だと考えてきた)。
 そして、より具体的には、国会等々において日本共産党と「共闘」してもよい、又はそうすべきだ、とするのが「容共」=「左翼」だ(旧社民党で小選挙区当選のために旧民主党に移った辻元清美、何と東京大学名誉教授の上野千鶴子等々、いっぱいまだいる)。
 そういう民主党の中で<反共・非共>の旗幟を明確にしたい議員たちがいたのはよいことで、前原が代表となり、総選挙も想定して、小池百合子の「希望の党」と合流することとなった。
 このとき、安倍晋三首相・自民党総裁は、こう皮肉り、あるいは挑発した。
 <選挙目当ての野合ではありませんか!
 この言葉は、正確には奇妙なことだ。
 なぜなら、自民党こそが、最大の「選挙目当ての」、あるいは議員やそれになりたい者たちが「選挙での当選」を最優先にして入党し、そのような者を軸にしていくつかの集団を作って「野合」している政党だからだ。
 この安倍晋三発言(・演説)のたぶん翌日だっただろう、小池百合子はこの発言を意識していたに違いない。そこで、こう言った。
 民主党議員を<丸ごと受け入れるのではない。(一部は)排除します。
 新党・希望の党に吹いていた風向きがここで変わったようだ。
 しかし、どう真面目に考えても、(旧)民主党内の明確な<容共>または明確な<反・保守または自民党>の議員全てを取り込んだ新しい党というのは想定し難い。
 小池百合子は「改革保守」、「しがらみのない保守」を目指すと、明確に発言していた。
 したがって、「排除」であれ「拒否」、「区別」であれ、論理的には全く問題はないものだった。
 しかし、この言葉に<傲慢さ>を感じたのだろうか、「言葉」の揚げ足取りを好む日本のマスコミは「排除」という語をしきりと報道した。
 そしてむしろ関心は、新党ではなく、新々党である「立憲民主党」へとさらに移ってゆき、野党の中では枝野幸男を党首とする立憲民主党が第一党になってしまった。
 当時、池田信夫のブログをよく見ていたのだが、こうした状況の変遷をよく感じ取れた。
 そして、いつだったか、池田は、<今回の総選挙は、政治的には一回休み(だった)>と書いた。
 これにもまた、同感できた。
 ほとんど変わらなかった。大きくは変わらなかった。
 しかし、重要な一つは、上記のように「改革保守」・「しがらみのない保守」を標榜した<希望の党>が惨敗したことだ。なぜだったのだろうか。
 この「保守」色が<なんとなく左翼>を含む一般有権者に嫌われた可能性もあり、また立憲民主党に新鮮さを感じた人たちも多くいたのかもしれない。
 しかし、その理念から見て、<希望の党>と立憲民主党は基本的に異質だったはずなのだ。同じ<新党>という名で括れるようなものではなかった。
 また、昨年前半にはあった小池百合子ブーム的なものは、<本来の保守>だと自らを考えている日本会議や産経新聞主流派には気にくわなかった可能性がすこぶる高い。
 日本会議・産経新聞主流派は政治運動の中での「保守」運動の主流・中心だという(自分たちはそう考えている)位置を奪われてしまう危険を感じたのだ。
 危険は、小さいときに摘み取っておくにかぎる。
 そこで、<保守系>月刊雑誌にも、立憲民主党や共産党よりもむしろ<小池百合子>を批判し警戒する論考や記事が多くなった。
 いちいち立ち入らないが、当時の月刊正論、月刊Hanada等を見れば明らかだろう。
 櫻井よしこはこの当時以前から、小池百合子に対する敵意を丸出しにしていた。
 政治運動団体・日本会議の基本的な考えにそったものだと思われる。
 また、中国問題等々でかなりよい発言等をしていた有本香までもが、編集者・出版者に依頼されたからだろう、反小池百合子の論考や書物を書くに至った。
 日本会議・産経新聞主流派の<保守系>評論家に対する影響は大きい、と言わなければならないだろう(その例は、江崎道朗にも見られる)。
 産経新聞の表向きの姿勢は別として、少なくとも日本会議の幹部たちの関心は、共産党でも立憲民主党でもなく、自民党を大きくは減らさないこと、そして小池百合子(=希望の党)を大きくさせないことにあった、と推察させる。
 日本会議という特殊な政治団体という「ピース」に気づいてそれを嵌めて、初めて理解できることが秋月にはある。
 なぜ、産経新聞社発行の月刊正論の編集代表者・桑原聡は、あれほどまでに橋下徹を危険視したのか
 さらに別の機会に書く。要するに、彼らは自分たちの影響力の外で「保守」と名乗る又は「保守」だと評される者の存在を認めたくないのだ。
 小池百合子のいった「しがらみのない保守」とは何だったのか?
 自民党にいた小池だから、いろいろなことを知っているに違いない。そしてすでに当時に秋月はこう意識したものだ。すなわち、「しがらみ」=日本会議の影響ではないとしても、「しがらみ」の中には安倍晋三等(日本会議関係国会議員)と日本会議の間のそれも含まれているに違いない、と。
 安倍内閣が昨8月頃に支持率を落としていた背景の一つは、「お友だち」つまりは稲田朋美等の日本会議と親近的な議員を閣僚や自民党の要職の就けている、という印象だったと思われる(そして、小池百合子は安倍総裁のもとでの自民党では「疎外」されていた)。
 なお、これまた特定の手間を省くが、八幡和郎は選挙後に、「希望の党」がもっと増えていた方が憲法改正は容易になったとだろうブログで書いていた。この感想も、池田信夫のそれとともに的確だろう。
 総選挙結果に関するもう一つの重要なことは、日本共産党は議席を減らしたが大敗したわけでもなく、日本共産党が候補者を立てなかった選挙区でかなりの立憲民主党の候補者が当選したことだ。つまり、現在の立憲民主党国会議員には共産党員や本来は同党支持者の票が入っている。
 そして、日本共産党幹部会委員長・志位和夫は、こう明言した。
 <志を同じくする候補が多く当選したのはよいことだった(決して悲観しない)>、と。
 日本共産党からすれば、立憲民主党は<志を同じくする>党と見られていることに注目しなければならない。
 この「志」というのは、社会主義(・共産主義)への道というわけではなく、現時点では、2015年成立の平和安全法制は違憲だと言い続け、<九条改憲を許さない>と主張する姿勢に間違いないだろう。立憲民主党というのはこの点では日本共産党と同じで、紛れもなく<容共>政党であると認識しなければならない。
 かくして、憲法問題では、共産党・立憲民主党・社民党・自由党という共産党と「左翼」政党が明確に揃い組みすることになった。
 ここで今回の冒頭に戻るが、玉木雄一郎らの「国民党」なるもの所属の議員たちが、昨年の民主党分裂の意味を忘れ、一体何のための分党で、何のための「希望の党」設立だったのかを放念しているのだとすれば、見識と良識、人としての倫理感の欠如を疑わせる。
 池田信夫が指摘するように、「憲法」でしか自民党と差別化できない野党というのは、きわめて存在意義が薄い。
 あらためて書いてもよいが、九条をめぐる「改憲」か「護憲」(または改悪阻止)かは、現在の日本の基本的な対立軸では全くない、と考えるべきものだ。
 そのように対立軸を設定してきたのは、憲法学界に党員や支持者を多く獲得することを地道に?積み上げてきた日本共産党の戦略そのものだ。
 日本共産党は、「憲法」を利用して、あるいはそのいう「平和と民主主義」を利用して、党員や支持者、そして選挙での票を獲得し、拡大しようとしてきたのだ(その長い闘争のわりには、それはまだ完全には成功していない、とは言える)。
 憲法九条をめぐる対立は現在の日本にとって決して最大の、あるいは本質的な問題ではない。いや、正確に言えば、九条二項の廃止・国防軍の設置に賛成か反対かではなく、二項存置「自衛隊」明記に賛成か反対かというのは、全くとるに足らない、馬鹿馬鹿しい、非本質的な、「とんちんかんな」議論を生じさせている、ニセの対立点だ。
 すでに内閣法制局、そして内閣の憲法解釈が変わり、2015年の国会・両議院もまた、その解釈を支持して平和安全法制を成立させ、施行させた。<フルスペックではない>にしても現憲法下でも限定的な集団的自衛権の行使はできることに、法制上なっており、現在の国会も内閣もこれは違憲ではないと判断している。
 新しい「国民党」は、これをいったいどうしたいのか?
 かつまたこれを論じることに、いま、どのような意味があるのか。
 日本共産党が今でも自衛隊の存在自体が違憲だと主張し続けているように、立憲民主党同様に「国民党」もまた、2015年平和安全法制について「違憲の安保法制の白紙撤回」と主張し続けるつもりなのか。バカバカしい。
 ついでに追記しておく。
 枝野幸男は自衛隊の憲法明記は2015年平和安全法制による「集団的自衛権行使の容認」を憲法が容認することになるから(二項存置)自衛隊明記に反対する、と言った。
 また、小池百合子は、自信たっぷりではなかったが、現在防衛省の中の重要だが一部署であると言うしかない自衛隊を(防衛省設置法を飛び越えて)憲法上のものにするのは奇妙だ、と昨秋に述べていた。
 この二つの議論は、いずれもおかしい。憲法・法律の関係、憲法解釈というものが分かっていない。「とんちんかんな」議論がすでにいっぱい始まっている。
 今回は立ち入らない。
 青山繁晴、高市早苗のように、二項存置「自衛隊」明記論に反対し、二項自体の削除を支持することを明確にしている自民党国会議員もいる。こちらの方が「正しい」方向だろう。
 (二項存置)「自衛隊」憲法明記についての自民党の条文案では、「自衛隊」に関する違憲・合憲論争に「終止符を打つ」ことは絶対にできない。かつまた、違憲・合憲論争をかえって刺激して大きくすることになる。自信をもって、確言できる。
 この点は機会があればまた書きたいが、国民投票の現実的可能性等々も勘案すると、大きな関心はなくなっている。

1710/1993年の憲法九条二項存置・三項追加論。

 広大な書庫の片隅の本の下に、自主憲法期成議員同盟・自主憲法制定国民会議編・日本国憲法改正草案-地球時代の日本を考える-(現代書林、1993)が隠れていたのを見つけた。
 この書p.25の憲法現九条改正案は、一・二項存置三項追加論だ。
 しかし、今年5月以降の「現在の自衛隊を憲法に明記する」というアホらしい追加論(九条の二の場合も含む)に比べると、はるかにましだと考えられる。
 新三項-「前二項の規定は国際法上許されない侵略戦争ならびに武力の威嚇または武力の行使を禁じたものであって、自衛のために必要な軍事力行使を持ち、これを行使することまで禁じたものではない。」
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 ・この条文は<侵略戦争>と<自衛のための軍事力行使>を重要な対概念としているので、第一項の趣旨や第二項冒頭の「前項の目的を達するため」との関係が再びむしかえされる可能性がある。
 ・当然に、二項を削除して「…軍その他の戦力」を保持できるようにる改正案ではない、そのかぎりで、本来あったはずの<保守派>の九条改憲ではない。
 ・しかし、「自衛のために必要な軍事力行使」の保持と行使を容認することを明記するものだ。かつまた、「自衛」目的の「軍事力」という言葉を使って、おそらくは意識的に「…軍その他の戦力」に明らかには含まれないようにしている。
 自衛のための「軍事力」行使はするが、その組織・機構は「軍」・「軍隊」ではない、というのは、苦しいかもしれないが、成り立ちうるだろう。
 ・「自衛隊」との紛らわしい言葉を憲法に使っていないことは、むしろすっきりしている。現在に法律上および現実に「自衛隊」と称する機構・隊があるので、改正憲法上にこの概念を(「軍その他の戦力」ではないものとして)用いるのは混乱させるだけだし(かつ「軍」不保持を固定化する悪効果もあり)、また、*現在の自衛隊をそのまま*憲法上に記述することは、どだい不可能なことなのだ。
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 これに比べれば、現在の「自衛隊」をそのまま?憲法に明記するとの改正案は、悲惨だ。
 日本会議も産経新聞(・阿比留瑠比)も、伊藤哲夫も、櫻井よしこも、百地章も、潮匡人も、そろってアホだ。遅くとも条文作りに入れば、この案は消滅する。
 安倍晋三もおそらく、もはやこだわってはいないのではないか。しかし先の選挙公約で謳ったこともあって、アホらしくも体裁上は残ったままだ。
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 上の自主憲法期成議員同盟には1990年代初頭の有力な改憲派議員が加わっている。
 現職国会議員は計176名とされる(p.220)。そして、安倍晋太郎、高村正彦、船田元等々の名もある(いちいち写さない)。
 不思議なのは、昨今の憲法改正論議において、伊藤哲夫も、櫻井よしこも、安倍晋三その他も、どうやらこの本を真面目には参照としているとは思えないことだ。九条三項追加論にもかかわらず。
 自民党の二次にわたる改憲案づくりではこの本は参照されたが、九条については、「防衛軍」または「国防軍」の設置を、二項を全面削除したうえで明記することにしているので、上のような<九条三項追加論>の出る幕はなかったのかもしれない。

1703/陸自「日報」問題・情報公開と古賀茂明・佐藤正久。

 陸上自衛隊日報にかかる情報開示問題につき、佐藤正久・現外務省副大臣、古賀茂明・元経済産業省官僚で元内閣審議官の二人の論評類をネット上で読んだ。
 テレビ、新聞等は、陸上自衛隊「日報」問題を、稲田朋美・安倍内閣問題にのみほとんど焦点をあてて<政治的に>報道してきた。産経新聞、フジ系テレビ局でも、事態はほとんど変わらない(かりに立場が正反対のようでも)。国の情報公開制度に関する基礎知識に曖昧な部分または誤りがあるのではないか、と思われる。
 ましてや、月刊正論(産経)等の「特定保守」系雑誌に稲田・安倍等に関して書いている人は、何も知らないだろうと思われる。
 現副大臣・佐藤正久、そして著名?評論家・古賀茂明。この人たちはだいじょうぶなのだろうか。
 曖昧さや明らかな誤りではないかと思う部分がある。なお、この二人を個人的に批判するのが、以下の目的ではない。
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 A「2016年7月の情報公開請求があったとき、陸自の現場は、日報の存在を隠す判断をしている。文書が物理的に存在するのに、情報公開請求に対して不存在と回答する場合の官僚の言い訳は、『物理的に存在しても、単なる個人のメモ、あるいは、ただの走り書きのようなもので正式なものではないから<行政文書>としては存在していない』という理屈である。加計学園問題で文部科学省でも同様の言い訳が使われたことは記憶に新しい。
 今回のケースでは、組織内のネット上で多数の職員が閲覧できる形で存在したものだから立派な行政文書なのだが、それを捻じ曲げて、不開示決定をしてしまった。/その時の陸自関係者の意識は、こういうものではないか。」
 以上、古賀茂明「官僚と稲田防衛相に“阿吽の呼吸”が成立しなかった本当のワケ」2017年7/31付・朝日新聞系のアエラ・ドットコム上。
 B「“日報”とは、現場の部隊から国内の大臣等に報告のため、作成されるものであり、文書の性質上、“行政文書”に属する。そのため、行政文書に係る法令等に従うことは当然であり、情報開示請求の対象となるのである。/これは、現状の法令に則った回答である。
 現在の報道では、日報の存在を組織ぐるみで隠蔽したとされ、“情報開示”の在り方に主にスポットが当てられている。/確かに、情報開示に関する防衛省の組織体制は再考する必要はあるだろう。//
 しかし根本の問題を見過ごしていないであろうか?/すなわち、“情報保全”である。
 日報には当然であるが、隊員の健康状態・装備品の状況の詳細といった、我が国の“手の内”が記載されている。/現場での任務遂行のための必要な情報の塊といっても良いであろう。/さらに、今回の対象となったのは、現在進行中の任務である。
 その様な状況の日報・レポートを開示請求されたならば開示するといった国は、おそらくどこにもない。開示するような国と共に行動する国も、おそらくないであろう。
 実行中の任務の日報については、不開示という判断も当然あり得る。
 “情報”の取り扱いの在り方について、引き続き考えて行きたい。」
 以上、佐藤正久ブログ7/31「“情報保全か?”それとも“情報開示か?”」
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 A・古賀は、日報という「文書が物理的に存在」する場合に「情報公開請求に対して不存在と回答する場合の官僚の言い訳は、『物理的に存在しても、単なる個人のメモ、あるいは、ただの走り書きのようなもので正式なものではないから<行政文書>としては存在していない』という理屈」だ。/今回のケースでも「組織内のネット上で多数の職員が閲覧できる形で存在したものだから立派な行政文書なのだが、それを捻じ曲げて、不開示決定をしてしまった」、と書く。
 しかし、「立派な行政文書」であっても、不開示決定にすることはできる。かつ、その判断に「裁量」が認められてよい、と考えられる。「裁量」性の問題を別にすると、上の「かつ」以前の文意は、法律上で<明記>されている、と言ってよい。
 もとより具体的事案に立ち入るつもりはないが、<行政文書なのに「捻じ曲げて」不開示決定した>という叙述はおかしい。どちらかと言うと、誤りだ。関係条文は、あとで以下に示す。
 B・佐藤の文章の趣旨は、必ずしも明晰でない。
 行政文書→開示請求の対象になる→不開示もあり得る、と明確に書いてくれないと困る。
 つまり、先ずは例えば、開示請求の対象になる=開示義務が発生する、ではない、ということを。
 Aの古賀の文章だと、行政文書→不開示決定は「捻じ曲げられ」たことになる。正しくは、上記のとおり、(文書・情報→)「行政文書」→開示請求の対象になる=審査・検討の義務が大臣等に発生する→開示決定または不開示決定、なのだ。
 もっとかみくだいて言うと、不開示決定には、つぎの二つのものが、厳密にはつぎの三つのものがある、ということを明確に知っておく必要があるだろう。
 新聞記者、メディア関係者は知ったうえで報道してきたのだろうか。
 「特定保守」雑誌への執筆者たちは、たぶん全く知らない。
 ①文書・情報そのものが不存在のとき。古賀のいう「物理的」な不存在の場合。
 ②文書・情報はあっても、法律上の「行政文書」に該当しないとき。つまり、<行政文書の不存在>のとき
 ③当該文書・情報は「行政文書」だが、法律が定める「不開示情報」に該当する(と認める)とき
 いずれの場合も、間違いなく同じく<開示しない旨の決定>がなされるはずだ。
 ①の場合は、存否の判断が正しいものならば、開示(公開)したくてもできない。
 ②、③には、「行政文書」か否か、「不開示情報」を含むか否か、という法律解釈または法律の適用・個別案件ごとの要件充足性の認定が伴う。
 以上のことを、佐藤正久は分かったうえで書いているのだろうか。どうも微妙だ。
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 ①と②で、「ある」(ない)・「存在」(不存在)と言っても、意味・レベルが違う
 ②の場合の「ある」・「存在」は、法律上の一定の概念に当てはまる経験上の現物たる「もの」がある(ない)とか存在する(存在しない)という意味で、<現実の客観的(・物理的)認識>上の「ある」・「存在」ではない。
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 関係法律と関係条文は以下。防衛省(・自衛隊)も同じ法律の適用をうけ(かつ適用除外されておらず)、開示に関する法的な決定権限者は防衛省でも事務次官でも自衛隊でもなく、一人の人間が担当する職としての防衛大臣であることの根拠・関連条項は省略。 
 行政機関の保有する情報の公開に関する法律(平成11年=1999年法律第42号、最近改正・2016.05)。
 いわゆる国の情報公開法(法律)。独立行政法人には直接の適用はなく別の法律があるので、<行政機関情報公開法>とも略称されている。
 同法2条項本文「この法律において「行政文書」とは、行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書、図画及び電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録をいう。以下同じ。)であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう。ただし、次に掲げるものを除く。」(但書の各号省略)
 同法第5条本文「行政機関の長は、開示請求があったときは、開示請求に係る行政文書に次の各号に掲げる情報(以下「不開示情報」という。)のいずれかが記録されている場合を除き、開示請求者に対し、当該行政文書を開示しなければならない。」
 同第5条第3号「三 公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は他国若しくは国際機関との交渉上不利益を被るおそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」。
 シロウトにも、「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ…」が「あると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」は「不開示情報」として開示しないことができる、ということが分かる。
 佐藤正久は、このことをきちんと知って、意識して、上の文章を書いたのだろうか。
 怪しい。それとも、具体的に問題になった<陸自日報>が「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は…」のある情報かどうかに逡巡があって、上のような、「引き続き考えて行きたい」という、締めくくりの言葉になったのか。
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 天皇譲位問題も自衛隊憲法明記問題も、数ヶ月遅れてまともに書く気になった。天皇制度も憲法九条も、主要な関心対象ではなくなっているからだ。この回の情報公開制度は、さらにもっと同じ。
 だが、ネット上の諸発言・主張・見解等々をいつになく見ていると、気になることが山ほど出てくる。
 早く卒業して、本来の?L・コワコフスキ、R・パイプスの本の試訳作業、共産主義や「全体主義」・「ファシズム」の問題に戻りたい。

1702/百地章・産経「正論」欄8/9の過ちと悲しさ。

 気の毒だ。悲しいことだ。しかし、百地章はやはり信頼できない。
 産経新聞8/9「正論」欄に、つぎの案を書いてしまった。二項存置自衛隊明記の条文案だ。
 「9条の2/前条〔9条〕の下に、わが国の平和と独立を守り、国際平和活動に協力するため、自衛隊を保持する。その組織及び権限等は、法律で定める」。
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 さっそく小林よしのりが批判した。ブログの8/9で。
 「産経新聞の『正論』欄で、百地章が安倍政権の改憲草案作りを粛々と進めよと言っている。//
 ものすごい勘違いだと思うのは……。…/百地章は客観性を担保しろ。/
 そして、甚だしい勘ちがいの2番目は、憲法9条1、2項をそのままで自衛隊明記という『加憲案』は、『一歩でも二歩でも前進する』方法論ではない。
 国民投票で、可決されても、否決されても、現状より悪くなる史上最悪の『加憲案』」である。/
 わしは純然たる『改憲論者』だから、この『加憲案』は絶対に許せない!」
 小林よしのりはその前から、今次の「加憲」なるものに反対だった。<安倍・日本会議案>とも、事態をより本質的に?捉えてもいる。
 8/3-「憲法9条1項2項をそのままで、自衛隊を明記するという考えは完全に『護憲派左翼』である。/
 「『護憲派左翼』は実は『従米主義』であるという欺瞞から目を背けているだけなのだ」。
 7/31-「安倍晋三のわがままで、日本会議のために、憲法9条そのままで自衛隊を明記するというトリック加憲が目指されている。/『お友だち内閣』だから、日本会議というお友だちのために、働くのだ。/決して国民のためではない」//。
 「安倍晋三は、発議しても国民投票で必ず負ける詐欺的加憲案を、やっぱり作るらしい。/憲法改正は、安倍晋三の『私』的なレガシー、政治的遺産作り、名誉欲のためだけに行ってはならない!//
 「わしは『公』と『権力』が合致しているときは、政府を応援するが、この二つがズレ始めたら、警鐘を鳴らし、……これを阻止する。//
 わしは常に「公」に付く。/だが、劣化保守&ネトウヨ連中は、安倍個人崇拝で、「公」よりも「権力」に付く。//
 言っておくが、自衛隊明記のためだけの加憲は、国民投票で可決されても、否決されても、日本にとって最悪な結果しかもたらされない。/可決されれば、戦後レジームの完成、軍事法廷なしの集団的自衛権行使に突入。//
 否決されれば、憲法改正の機会は100年遅れる。// 
 「公」のためにならない、最悪の安倍・日本会議案にわしは断固反対する!」
 7/28-「わしは安倍首相の改憲論は、ウルトラ欺瞞であって、左翼に媚びた加憲だと思っている。/
 わしは個人的に、恐れると言えば、確かに恐れる。//
 なぜなら「戦後レジームの完成」、自衛隊が永遠に軍隊になれない、盤石な左翼国家の誕生になるからだ。//
 それはアメリカの永久属国憲法になると思っている」。
 「福島瑞穂が出したら、猛反対するくせに、安倍晋三が出したら大賛成するのだから、産経新聞、極左大転向というニュースになっていいくらいだ」。
 この最後の7/28には、この欄の7/30=№1677で言及した。
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 秋月瑛二も6月に伊藤哲夫改憲案に批判的にコメントしたあと、7月末からこの<九条存置自衛隊明記>論を成文化がほぼ間違いなく不可能な案として、その論拠も含めて、頻繁に書いた。
 その中には、百地章「私案」に対するものもあった。
 すなわち、8/2の「百地章私案もダメ-「日本会議」派の九条二項存置・自衛隊明記論」。
 産経「正論」欄で百地章が書いている案は、ほぼ上と同じなので、8/2での批判がそのまま当てはまる。
 以下、あらためて記し、またこの人が他に言うことにもコメントしよう。
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 「9条の2/前条〔9条〕の下に、わが国の平和と独立を守り、国際平和活動に協力するため、自衛隊を保持する。その組織及び権限等は、法律で定める」。
 第一、「前条〔9条〕の下に、わが国の平和と独立を守り…i協力するため」は「自衛隊法の条文を参考に」しているらしいが、自民党の改憲案にも、「国防軍」か「自衛軍」について見られるはずだ。但し、自民党改憲案は九条二項削除での<軍>設立明記の際の趣旨文言だったのだから、意味・位置づけが全く違う。
 第二に、上のことよりも、「自衛隊を保持する」と、第一文の最後に「自衛隊」という語・概念を使っているが、これがそもそも何を意味するのかがさっぱり分からない、という基本問題がある。
 前回に批判的にコメントをしたときは<自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提」だという事前の<解釈>または<解説>をつけていた。
 これをおそらく、第二文案の「その組織及び権限等は、法律で定める」に改めている。
 <現在の自衛隊の権限等を変更しないのが前提>とか言っていた部分を、「法律で定める」に変更して、問題を回避している、かに見える。
 実際には、そんなことは全くない。
 百地章は、この案の「狙いの第一」は「『自衛隊の保持』を憲法に明記することで違憲論の余地を無くすことにある」という。
 憲法学者でありながら、幼稚としか言いようがない。
 何度も、同じことを書く。
 第一文にいう「自衛隊」とは何のことなのか。
 たしかに、ここにいう(加憲された条文の言う)「自衛隊」なるものは、その設置が明記され、合憲的なものとされる。しかし、これはまだ、憲法規範上の概念であり、用語だ。
 この自衛隊が現在の・今の自衛隊をそのまま意味しているはずがない。
 百地章が正当にも第二文で書くように、「自衛隊」「の組織及び権限等は、法律で定める」のであって、その「法律」を見なければ何も分からない。
 上記のごとき目的のための「自衛」の「隊」というだけのことだ。
 しかしおそらく百地章は、現在に自衛隊に関して存在する諸法律が憲法上の「法律」に当たることになる、と主張するのだろうと思われる
 そのように、論旨展開をすることはできなくはない。しかし、そう主張しても、現在の諸「法律」自体が違憲だ、あるいは例えば集団的自衛権行使容認のこの部分が違憲だ、といった主張を消滅させることはできない。
 <<かりに万が一>>百地章の案が実際に憲法条項なったとしても、いまの・現在の自衛隊違憲論者あるいは少なくとも集団的自衛権行使容認違憲論者は、断固としてつぎのような憲法解釈を主張するに違いない。
 すなわち、例えば、百地章案九条の二の「自衛隊」は九条二項の「軍その他の戦力」であってはならない、いまの・現在の自衛隊(を種々に定めている)「法律」はその根幹部分がこの制約に違反しており、少なくとも自衛隊に集団的自衛権行使を認めている法律諸条項は違憲である、と
 前回に言及した、「左翼」・水島朝穂の憲法解釈の仕方は、スジとしては誤っていない。
 百地章は、設置が明記され合憲的なものとされる、と言うが、これは大ウソ。
 絶対に、違憲論が残り、有力に主張される。この点で現状と同じで、憲法解釈論を今よりも複雑にさせるだけだ。
 そして、万が一かりにこの加憲が成功したとしても、それは、<軍・戦力ではないものとしての自衛隊>をしばらくの間はずっと公認・公定することになる。これこそが、今次の百地章案であり、「日本会議」案だ
  また百地章は今回の立論の趣旨の一つは「自衛隊に栄誉を、そして自衛官に自信と誇りを与え、社会的地位を高めることだ」、という。
 気分が少しは分からなくはないが、これは欺瞞だ。
 なぜなら、「軍その他の戦力」である、正規の?国軍・国防軍・自衛軍・防衛軍ではない<自衛隊>の構成員としての「自信と誇りを与え」、というのは、一体何を百地章は主張したいのだろうか。<軍・戦力ではない自衛隊員としての自信・誇り>とは一体何のことだ。
 <自衛隊を明記を>というスローガンの真実は、<戦力でない自衛隊の明記を>、<戦力として認めないままで自衛隊の明記を>、ということだ。
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 これ以上の繰り返しを避ける。百地章等について記したことを、もう一度、そのまま以下に掲載する。
 8/2-「百地章にいう私案の冒頭で『自衛隊』という概念を使ったとたんに、現実にいまある『自衛隊』とは論理的には別の概念・範疇が生まれる。/その別の概念・範疇と現実とを、…連結することはできない。百地章の<頭・観念世界>の中ではできても。/この<連結>は、不能だ。分かって主張しているとすれば、ペテンであり、欺瞞だ。//
 この百地章も、概念・現実、規範と現実、憲法規範と現行法規範の関係について、大きな錯覚に陥っている。大きな過ちを冒している」。
 8/9-「憲法上に『自衛隊』なるものの容認規定を作ったところで、そこでの『自衛隊』がいまの・現在の自衛隊を意味することになるわけでは全くない。
 ひどいことに、八木秀次や西修も、全く気づいていない。/
 法規範解釈論としては、「左翼」・水島朝穂の方がまだ鋭い。/
 百地章、八木秀次、西修、いずれも産経新聞、「日本会議」派の<憲法学者>のようだが、知的・学問的なレベルでは、九条二項存置・自衛隊明記論に限ると、伊藤哲夫・岡田邦宏・小坂実、そして櫻井よしこ・田久保忠衛らと変わらないようだ
 いや、知的学問としてではなく、<政治>優先の=安倍支持・産経支持の=文章を書いているのにすぎないのかもしれない。」


1701/二項存置「自衛隊」明記でも「自衛隊」は違憲-水島朝穂(早稲田大)。

 一 「戦力」不保有のままで自衛隊が何らかの形で憲法に明記されても、自衛隊の合憲性が確定するわけでは全くない。
 いまの・現実の自衛隊の合憲・違憲論争が終わるわけではない。
 すでに何度も書いた。
 なぜか。上にいう憲法に<何らかのかたちで明記される自衛隊>と<いまの・現実の自衛隊>が同一のものであるはずがないからだ。
 今回のタイトルでいうと、「自衛隊」の意味が左右で(前と後で)十分に異なりうるからだ。
 憲法解釈論を本業としている者は、とりわけ「左翼」として長年を(一生を?)過ごしてきた者は、水島朝穂は、さすがに?よく理解している。
 二 水島朝穂「明記しても自衛隊の違憲性は問われ続ける」週刊金曜日8/4=11合併号。
 つぎのように、明記している。これは解釈論として、誤りではない。p.28。
 「新9条で自衛隊『自体』が合憲になったとしても、自衛隊の個別の『装備・人員』が『戦力』に当たることはあり得るから、自衛隊の違憲性は問われ続ける」。
 このとおりだ。
 この点は、すでに百地章と潮匡人に対する批判の中で述べた。
 つまり、<現在の自衛隊を変えない>とか<自衛隊の名前だけ>という場合に意味されているだろう、いまの・現在の自衛隊が<<万が一>>合憲になったとしても、その小さな権限・装備・人員を変える(おさらくは拡充・拡大・増員)するたびに、二項でいう「戦力」の範囲内にとどまるものであるのか否かが、つねに問われつづける、ということだ。
 百地章では、現状を<固定>してしまう危険があると、この欄で明記した。同じ趣旨は、潮匡人案についても言える。
 また、そもそも伊藤哲夫ら日本政策研究センターの者たちの案についても言えるが、この人たちは、上のような問題の所在を全く知らないままで、単純かつ幼稚な議論をしているので、ここまでこう書いているのを読んでも、?と趣旨が理解できない可能性が高い。
 三 水島朝穂は、<いま・現在の自衛隊の明記による合憲化>はありうると考えているようだ
 しかし、秋月瑛二は、この点で、この「左翼」たちよりも厳しく、冷静だ。
 だからといって、私は「左翼」でも「極左」でもない。
 <政治的信条>から離れての、<憲法規範と現実>の理解の仕方という観点から申し述べている。
 すなわち、現二項存置のままでの<いま・現在の自衛隊の明記による合憲化>、つまり最終的にはこれのための「条文化」は不可能だろう、と断じたい。
 成文化の作業でつねに、「戦力」概念の解釈を何らかのかたちで前提にせざるをえない
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 繰り返すが、憲法上に「自衛隊」なるものの容認規定を作ったところで、そこでの「自衛隊」がいまの・現在の自衛隊を意味することになるわけでは全くない
 言葉・概念の錯覚に陥ってはならない。
 ひどいことに、八木秀次や西修も、上述のことに(この欄で何回か書いたことに)全く気づいていない。ネット上で、この二人の安倍晋三改憲案関連文章を読んだ。
 法規範解釈論としては、「左翼」・水島朝穂の方がまだ鋭い。
 百地章、八木秀次、西修-いずれも産経新聞、「日本会議」派の<憲法学者>のようだが、知的・学問的なレベルでは、九条二項存置・自衛隊明記論に限ると、伊藤哲夫・岡田・邦宏・小坂実、そして櫻井よしこ・田久保忠衛らと変わらないようだ。
 いや、知的学問としてではなく、<政治>優先の=安倍支持・産経支持の=文章を書いているのにすぎないのかもしれない。

1697/篠田英朗・ほんとうの憲法(ちくま新書、2017)①。

 篠田英朗の「もし…明確化する」ならばという加憲条項案も問題が多い。
 篠田英朗・ほんとうの憲法(ちくま新書、2017)。
 「おわりに-9条改正に向けて」の最終行=「あとがき」の直前。
 「前二項の規定は、本条の目的にそった軍隊を含む組織の活動を禁止しない」。
 これが、著者・篠田英朗の、「かりに」九条三項を創設するとすればの案だ。おかしい。
 第一に、これでは、篠田のいう「自衛隊の合憲性を明確にするのであれば」という前提目的を達することができない。
 なぜならば、現在の・いまの自衛隊が「本条の目的にそった軍隊を含む組織」でありその活動が上にいう「…活動」であることの確証は何もない。
 むろん、篠田英朗によれば、現在の・いまの自衛隊はそのようなものなのだろう。私もまた、そうだと<解釈>する(但し、「軍隊を含む」との部分には大きな留保がつく)。
 しかし、そのように認識または<憲法解釈>をしない人たち・活動家・政治家等々がいるからこそ、問題なのだ。
 つまり、彼らは、現在の・いまの自衛隊は、「本条の目的にそった軍隊を含む組織」であるとは(おそらく絶対に)主張しない、容認しないのだ。
 かりにだが、上の条文案で本当に「加憲」されたとする場合、日本共産党や同党員憲法学者たちは、現在の・いまの自衛隊とその活動は「本条の目的にそった…組織」・「活動」ではないと、主張するに違いない。
 そもそもが、<九条の目的>の理解・認識・<憲法解釈>が異なるのだから、上のような条項ができたからといって、現在の・いまの自衛隊の合憲・違憲の問題が解消されるはずはないのだ。
 「自衛隊」という語・概念を用いないのは優れている?のかもしれないが、せっかくの篠田英朗の案は、現状を解決することには絶対にならない
 <憲法解釈>上の(かつ政治的な)論争を、さらに複雑にするだけだ。「戦力」不保持の明文条項を残したままでの、現在の・いまの自衛隊の合憲化という試みは、三浦瑠璃の言葉によれば、却って、<頓珍漢な議論を温存>することになる。
 全体として、篠田英朗の叙述、主張に反対しているのではない。
 現憲法の現状のままでの自衛隊合憲論、かつ九条二項削除論は、十分に読むに値するのだろうと思われる。そのかぎりで、勉強にもなるし、多くの人が読めばよいとも思われる。
 しかし、たまたま出版が5月安倍晋三発言の直後(しかもまだ校正中で追記可能?)だったためかもしれないが、上の案は、採用できない。
 他にも、「軍」概念をめぐって等々、憲法解釈論の観点からすれば、大いに疑問もある。第二以下を、さらに別に記す。

1691/自衛隊を憲法に明記しよう!との大ウソ-「日本会議」派・櫻井よしこらの会。

 自衛隊を、戦力とは認めないで憲法に明記しよう!
 戦力ではない自衛隊を憲法に明記しよう!
 ならば、まだよい。
 しかし、「自衛隊を憲法に明記しよう!」とだけのスローガンは、いわば不当表示の、大ウソだ。
 重要なポイントを、わざと、意識的に隠している。
 本質的な部分を、隠蔽している。
 同じような不当表示を、「戦争法」等々、日本共産党や「左翼」はさんざんやってきたし、やっている。
 <美しい日本の憲法をつくる国民の会>(事務局長・椛島有三)がノボリや看板に書いている上のスローガンも、かなり似ている。
 「日本会議」、<美しい日本の憲法をつくる国民の会>、そして代表の一人・櫻井よしこは、こうしたことを平然とするのだと思われる。
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 上のノボリ、車上看板の証拠は、8月1日朝の産経新聞のネット上のニュースに添付されている写真。
 これだけ熱心に報道するのは、産経新聞しかないだろう。文字の部分に限られるが、以下、抜粋。
 「憲法改正の意義を広める国民運動組織『美しい日本の憲法をつくる国民の会』(共同代表・櫻井よしこ氏ら)の全国縦断キャラバン隊が31日、高崎市などを訪れた」。「この日は、JR高崎駅東口で約1時間にわたり街頭宣伝やチラシ配布を行った」。
 「キャラバン隊は、『平和と安全を守ってくれているのは自衛隊でも、1文字も書かれていない。憲法に明記し、自衛隊がしっかり任務を果たせるよう感謝のメッセージを伝えましょう』と訴えた」。
 「駅前を通りかかった…女性は『明記されていないのはおかしい。…北朝鮮からミサイルは飛んでくるし、日本はやられてしまうのでは…。みんなに(改憲の必要性を)広めたい』と話した」。
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 上のスローガンは、サギの一種だろう。長くは書けないとか、難しいことを言っても理解してもらえないと釈明するつもりか。
 安倍晋三案の趣旨をそのまま書けば、<自衛隊を、戦力とは認めないで憲法に明記しよう!>、または<戦力ではない(ままで)自衛隊を憲法に明記しよう!>になるはずだ。
 平然と、正確でないプロパガンダを行う、「日本会議」、<憲法をつくる国民の会>、櫻井よしこ、…。

1685/憲法規範というもの-非専門の<素人>が陥るワナ。

 秋月瑛二とは何者かについて、できるだけ示唆を与えないようにして、気軽に書いてきた。
 多少は専門家ふうに書かせていただく。
 ①憲法典上に言葉・概念が「存在しない」から、憲法上「認められていない」、のでは全くない。
 例、「営業の自由」という言葉・概念は、現日本国憲法上のどこにも、基本的人権保障条項のどこにもない。
 では、日本国憲法は、「営業の自由」を<自由権的>人権の一つとして<保障>していないのか?
 そんなことは、ない。
 例、「知る権利」・「プライバシー」という言葉・概念は、現日本国憲法上のどこにも、基本的人権保障条項のどこにもない。
 では、日本国憲法は「知る権利」・「プライバシー」の権利性または保護法益性を、いっさい認めていないのか?
 そんなことはない。
 情報<公開>に関する法律や条例の多くは「知る権利」という言葉・用いないが、これは「知る権利」なるもののいっさいを否定する趣旨ではない。一方で、「知る権利」という言葉・概念を使っている条例もあるが、だからといって、「知る権利」の保障に厚い、というわけでも全くない。法律や条例上のより具体的な制度内容や適用・執行の仕方にむしろ大きく関係する。
 *「自衛隊」という語・概念がないからといって、法律以下による「自衛隊」の設置・編成およびそれにもとづく組織と活動を憲法が<認めていない>のでは、全くない。
 ②憲法典上の言葉・概念そのままの意味で、法律以下の法制がその言葉・概念を使っている、のでは全くない。
 例、<地方公共団体>。憲法上の「地方公共団体」と地方自治法(法律)上の「地方公共団体」の意味・範囲は、憲法の通説および最高裁判所の判例によると、明らかに異なっている。
 東京都の新宿区という<行政団体>は、憲法92条以下の「地方公共団体」なのか。法律上はそれであることは明らかなのだが(「特別地方公共団体」の一種としての「特別区」)。
 例、<条例>。憲法94条でいう「条例」と地方自治法(法律)上の「条例」の意味・範囲については、いくつかの説がある。立ち入らない。
 *憲法上に「自衛隊」という語・概念が(その存在を肯定する意味で)使われたとしても、自動的に、その意味内容、組織・公務員・活動の範囲、あるいはその国の機構の中の位置づけが、明らかになるわけでは、全くない。
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 潮匡人、伊藤哲夫らは、少しは理解できるだろうか。
 <自衛隊の存在>を<憲法に明記する>とは、どういう精神的活動だと考えているのか?
 さらに論じてみたい。

1683/百地章私案もダメ-「日本会議」派の九条二項存置・自衛隊明記論⑤。

 百地章が、7/30に時事通信社に対して、こう語ったとされる。時事ドットコムニュース/政治による。
 百地章は、九条二項存置・自衛隊明記の安倍晋三案を「積極的に評価する」と明言したのち、こう言う。
 ①/「私案だが『9条の2』を設け、『前条の下に(=9条の下に)、わが国の平和と独立を守り国際平和活動に寄与するため、自衛隊を保持する』との文言を加えてはどうか。自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提」だ。
 ②/「自衛隊明記は9条に矛盾するという人もいるが、現在の自衛隊は9条の下で存在している。単に憲法に明記するだけでどうして矛盾するのか、論理的にあり得ない。」
 ②/は説明不足かもしれないが、結論的には、よい。
 しかし、①/の「私案」はおかしい。
 この人は憲法学者・法学者のはずだが、分かっていない。
 すなわち、「自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提だ」というが、この大前提は、いかにして憲法上あるいは憲法解釈上、担保される、あるいは保障されるのか。
 憲法学者なら、答えていただきたい。
 「(現在の)自衛隊の権限を一切変更しない(ものとする)」、という文章を条文化するのか??
 根本的に、つぎの問題がある。
 第一。「一切変更しない」、「自衛隊の権限」とはそもそも何か。現在時点での現行法令上の「権限」と同じ権限を意味するなら、それをこと細かく憲法上にも規定しないと憲法上の権限にはならない。そして、それは不可能。
 第二。このように固定してしまうと、<現状>からの多少の変更も、憲法上禁止されてしまうことになる。 こんな現状固定が許されるはずがない。「権限」にも大から小まであるので、法律で追加・修正する必要が生じうる。
 こんな「私案」が、のうのうと語られてはならない。
 こんな「私案」で、条文化できるはずはない。
 百地章にいう私案の冒頭で「自衛隊」という概念を使ったとたんに、現実にいまある「自衛隊」とは論理的には別の概念・範疇が生まれる。
 その別の概念・範疇と現実とを、「自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提」だとして連結することはできない。百地章の<頭・観念世界>の中ではできても。
 この<連結>は、不能だ。分かって主張しているとすれば、ペテンであり、欺瞞だ。
 この百地章も、概念・現実、規範と現実、憲法規範と現行法規範の関係について、大きな錯覚に陥っている。大きな過ちを冒している。
 より詳しくは、この欄に最近に書いたことを参照していただきたい。

1682/九条二項存置・自衛隊明記論④-伊藤哲夫・小坂実のバカさと危険。

 小坂実は、以下の著で、こう言う。
 「せめて世界標準の個別的自衛権が行使できるよう、憲法に自衛隊を明記しましょうよと。本気で個別的自衛権で反撃できるというなら、是非とも自衛隊の『加憲』に同調すべきだと」。p.131。
 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 これは、恐ろしい主張だ。
 つまり伊藤・岡田とともに小坂が二項存置・自衛隊憲法明記案を主張する際の「自衛隊」とは、集団的自衛権を行使しうるのではなくても、個別的自衛権を行使できるだけのものでもよい、そこまでは一致できるはずだから、「加憲」に賛成しようよ、と言っているのだ。
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 九条二項存置のままで個別的自衛権とか集団的自衛権の区別に関係する<明文>を定めることは相当に困難だ。
 とすると、何という概念を小坂は使うつもりなのかは知らないが、新三項によって明記される「自衛隊」なるものは、個別的自衛権の行使に限られる(集団的自衛権の行使は認められない)組織・機構だと<憲法解釈>されてよい、と小坂は明示的に主張していることになる。
 少なくとも法律レベルで実質的に明記し、憲法にも違反しないと(国会、内閣>内閣法制局によって)解されている集団的自衛権の行使を、小坂実は、新九条三項「加憲」によって、憲法解釈上、個別的自衛権の行使に限定してよい、というのだ。
 ひどい後退、劣化だ。こんなことを言う「センター研究部長」の気が知れない。
 よほど<自衛隊の明記>にこだわっている。
 しかし何と、明記を拘泥する<自衛隊>は、個別的自衛権しか行使できないと憲法解釈されてよい、というのだ。
 この人、小坂実は、「左翼」であり、日本共産党同調者だろう。九条二項削除をよほど怖れて、先ずは三項「加憲」でごまかそうとしているのかもしれない。
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 何度でも、つぎのことを、書いておく。
 「法解釈にのみ依存する自衛隊の存在」。p.94の見出し。
 これは、結論誘導的で、欺瞞的な表現の仕方だ。
 この人たちの、「明記」と「法解釈」を大きな断絶があるものとして<どしろうと>として理解している、幼稚な知識と発想にもとづいている。
 <憲法解釈にもとづく(依存する)>というのは、<憲法にもとづく>とほとんど同じ意味だ。
 この人たちの論じ方を使っていうと、<憲法にもとづく>には二種ある。
 <憲法上の、だれも疑い得ないほどに明確な言葉で成る規定にもとづく>と<憲法解釈にもとづく>。
 憲法「解釈」であっても、それが安定していて、堅固であれば、ほとんど何の問題もない。
 自衛隊員たちの士気にかかわるとかの議論をする、訳の分からない者たちがいるようだ。
 そういう人たちは「憲法解釈」論をかぶった日本共産党の政治闘争にすでにある程度は屈服している。
 「自衛隊」という直接の言葉はなくとも、現憲法が国家に固有の自衛権行使を容認しているかぎり、現在の自衛隊は憲法にもとづくものであり、かつまた1954年以降60年以上にわたって、国民を代表する国の国会が、つまりは全国民の代表者たちが、合憲的なものとして、その崇高な任務を自衛隊に、そして自衛隊の隊員たちに与えたのだ。
 そのことが申し訳ないというなら、九条二項を削除して、本格的に安全保障・軍事関係規定を設ければよい。
 そうしないでおいて、またそう主張しないでおいて、二項存置のまま形だけ「明記」しようとするのは、日本共産党や「左翼」の政治的主張に屈服している。
 日本にまともな「保守」が希薄化していることの証拠だ。
 中でも、小坂実の上の主張は、ひどい。
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 ところで、10年ほど前、秋月瑛二は日本政策センターなるものの薄い月刊誌的なものを、1年間だけ購読したことがある。雑誌名をすぐに思いだせない。
 1年で止めてしまった契機になったのは、2000年頃に廃止された「機関委任事務」なるものについての知識・理解がその後かなり経っていたが不十分で怪しいままの論文的なものを読んだからだった。
 その著者名を、思い出した。小坂実、だった。
 地方行政、または国と地方の関係を問題にしながら、その論考らしきものは、「機関委任事務」という(国・地方の)行政公務員であれば基本的には了解しているはずの基本的タームの意味を、理解できていなかった。
 これでよくぞ、地方行政あるいは国と地方の関係について語れるものだと、呆れてしまったのだ。
 「機関委任事務」。その当時にすでに(制度としては)廃止されていたから(しかし、何らかのかたちで継続している事務の方が多い)、説明は省く。
 ともあれ、こんな基本概念(だったもの)を知らずして日本の「政策」を「研究」している団体だと分かって、一年かぎりでおサラバしたのだった。
 代表・所長・研究部長、専従の「研究」者は、この三人だけなのだろうか
 さらについでに書くと、小坂実、1958~、東京大学法学部卒。唯一の「法学部」出身者だ。卒業するだけはほとんど誰でもできるので、卒業できるでけの勉強はしたらしい。
 また、これでよく、「株式会社」として経営していけているものだと、感心し、不思議に思いもする。

1681/九条二項存置・自衛隊明記論-伊藤哲夫・産経新聞の愚③。

 つぎの二人は、他にもいるだろうが、現時点で憲法現九条二項削除の憲法改正を主張しない。そして、言う。
 岡田邦宏「いずれにしても、自衛隊の存在を憲法に明記することが肝要」だ。p.107。
 伊藤哲夫「まず議論の出発点として、自衛隊を憲法上、明確に位置づけることが必要だ。」
 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 すこぶる疑問なのは、ここでほいほいと出てくる「自衛隊」とは何のことか?、だ。
 きっと二人は、こう問われても、意味が理解できないのだろう。 
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 自衛隊法(昭和29年法律第165号、最終改正・平成28年5月)という法律がある。防衛省設置法が「自衛隊」に言及し、これについては「別に法律」が定めるとする、その別の法律にあたる。
 自衛隊法3条は、つぎのように「自衛隊の任務」を定める。
 第3条「1項/自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。
 2項/自衛隊は、前項に規定するもののほか、同項の主たる任務の遂行に支障を生じない限度において、かつ、武力による威嚇又は武力の行使に当たらない範囲において、次に掲げる活動であつて、別に法律で定めるところにより自衛隊が実施することとされるものを行うことを任務とする。
 一 我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に対応して行う我が国の平和及び安全の確保に資する活動
 二 国際連合を中心とした国際平和のための取組への寄与その他の国際協力の推進を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の維持に資する活動
 3項/陸上自衛隊は主として陸において、海上自衛隊は主として海において、航空自衛隊は主として空においてそれぞれ行動することを任務とする。」
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 これらの定め(明文規定)から、<どしろうと>には分からないかもしれないが、素人でも、現在の「自衛隊」の「任務」について、つぎのことが理解できる。
 第一、「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」こと(第一項)。
 ここで「我が国を防衛すること」が「主」とされ、そうではないものとして、「必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」ことが記されていることも分かる。いわば、第一種と第二種だ。
 第二、上のほか、「主たる任務の遂行」に支障がない限度でかつ「武力による威嚇又は武力の行使に当たらない範囲」で、かつまた、「別に法律」が自衛隊が実施すべきとするかぎりで、つぎのものも、自衛隊の「任務」でありうることも分かる(第二項)。そのまま記す。
 ①「我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に対応して行う我が国の平和及び安全の確保に資する活動」
 ②「国際連合を中心とした国際平和のための取組への寄与その他の国際協力の推進を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の維持に資する活動」
 そうすると、上のことから任務は三種に分けうることもわかり、最後の第三種には、上の①と②がありうることも分かる。
 これだけでは第三種の中身は分からない。「別に法律で定めるところにより自衛隊が実施することとされるもの」を確定しなければならないからだ。
 しろうとでも容易にわかるものもあれば、かなり複雑な法制になっている部分もある。
 いわゆる<有事法制>は、仮の呼称だが、<第一種>だろう。
 この機会にいくつか記しておけば、以下。
 武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成15年=2003年法律第79号、最終改正・平成二七年=2015年法律第76号)。
 武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律(平成16年法律第112号、最終改正・平成二七年=2015年法律第76号)。
 武力攻撃事態等における特定公共施設等の利用に関する法律(平成16年114法律第114号、最終改正・平成二七年=2015年法律第76号)。
 他にも、いくつかの<有事>関連法律があるが、省略。
 <第三種>の1にかかる「別の法律」とみられるのは、以下。
 重要影響事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律(平成11年法律第60号、最終改正・平成27年=2015年法律第76号)
 重要影響事態等に際して実施する船舶検査活動に関する法律(平成12年法律第145号、最終改正・平成二七年=2015年法律第76号)。
 <第三種>の2にかかる「別の法律」とみられる7のは、以下。
 国際緊急援助隊の派遣に関する法律(昭和62年法律第93号、最終改正・平成18年法律第118号)。 
 国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(平成4年法律第79号、最終改正・平成27年法律第76号)。
 国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律(平成27年=2015年法律第77号)。
 正確さを全面的には主張しない。しかし、少なくとも、「任務」の面をとっても自衛隊のそれは多様だと分かる。
 上では、「公共の秩序の維持」、つまり<警察>的活動を「必要に応じ」てすべきものとする、その他の個別の<警察>的活動、自然災害発生時の応急行動など、の関係諸法律の名称を挙げてはいない。
 上で試みたのは、自衛隊法上の「任務」規定からする分類だが、自衛隊発足以降徐々に増加してきた<任務の変遷の歴史>という観点からの<任務の分類>も考えられるだろう。
 また以上は活動・任務の観点から「自衛隊」を捉えようとするものだが、<組織・定員等>の観点、あるいは国家組織全体から見ての「自衛隊」の位置づけという観点、から自衛隊を理解しようとすることもできる。
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 なぜ、以上のようなことを書いたのか。
 現在の自衛隊が行っているのは、日本の防衛(自衛)活動だけではない。
 国内的にも、国際的にもそうだ。
 また、防衛・自衛といっても、個別的自衛権の行使と「集団的」自衛権行使に関するものに、大きくは分けられる。
 さて、そもそも、伊藤哲夫、岡田邦宏らがほいほいと「自衛隊」というとき、<任務>だけからしても多様なのだが、いったいどのような任務・活動を行うものを想定して語っているのか。これを問題にしたいから、上のように自衛隊法(法律)の定めに立ち入った。
 まさかとは思うが、観念的に・抽象的に「自衛隊」という観念・範疇だけが一人で(頭の中で)歩いているのではないだろう。
 どこからどこまでの自衛隊の任務・活動を想定して(二項存置前提の)<自衛隊>明記・三項追加が語られているのか、いくら読んでも、さっぱり分からない。
 現憲法九条は現憲法の<第二章・戦争の放棄>の唯一の条だが、自然災害時の現実の自衛隊の活動は<戦争の放棄>と、論理的にいかなる関係があるのか?
 これも説明しないで、あるいし説明し切れないで、簡単に「自衛隊」という言葉・概念を使ってよいのだろうか。
 さらには、<自衛隊の存在を憲法上明記>などと主張して、自衛隊にかかわる憲法改正論を説く資格があるのだろうか?
 <もう一度出直せ>、とすでに書いたのは、このようなことも理由としている。
 「自衛隊」という語の<観念化>のひどい者たち、自衛隊なるものの現実・実際に降りていくという姿勢が乏しい者たち、こんな者たちが平然と平和と安全保障にかかわる憲法論を説くのを、許してはいけない。
 前回に書いたのだが、概念・規範等と現実、法の憲法と法律以下の少なくとも二層制等の理解・認識について、この人たちには、どこかに大きな過ちがある。
 産経新聞社自体にも(そして、月刊正論・編集代表の菅原慎太郎にも)、きっとあるのだろう。

1680/九条二項存置・自衛隊明記論-伊藤哲夫・産経新聞の愚②。

 九条二項を存置したままでの九条三項の追加による、または九条一・二項をそのままにしたうえでの九条の二の新設による<自衛隊の明記>という案は、<成り立つ>と思った。
 それは、2015年に平和安全法制を改正・成立させるに際してその当時の国会が採った憲法および九条関連「解釈」、つまりは、新「武力行使三要件」で限定された意味での集団的自衛権の行使が憲法上認められるということを前提とする「解釈」のエッセンスを書き込んで憲法に明記することはありうる、つまりいったん憲法解釈として採用されたものを憲法上に明記して確認する、ということはありうる、そういう議論も<成り立つ>と考えたからだ。
 むろん、この<エッセンス>をどう文章化するかという、という問題が残ることは意識した。
 棟居快行が読売新聞上で示した「試案」は簡単すぎるだろうと、感じてもいた。
 しかし、この案が単純に「自衛隊明記」案だとか称されていることや、その主張者たちの文章を読んでいて、すでに結論は出てしまった。
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 たしかに、九条三項(または九条の二)に<二項と矛盾しない自衛隊関係条項>を作るという案は、考え方または案としては成り立つ。しかし、その文章化はほとんど困難であるか、またはかりに作っても無意味であるために、必ず、つぶれる。自民党の案として、おそらく間違いなく、まとまることはない。
 したがってまた、こんな改憲案が国民に示されることはない。
 三項加憲案を支持するか、支持しないかの問題ではない。それ以前の基本的問題として、文章化・条文化が実質的に不可能だと思われる。
 支持とりつけ→条文化、ではない。そもそも、「条文化」を試みて、それを支持してほしいと訴えるべきで、上のような<軍・戦力ではないものとしての自衛隊の憲法上の明記>を支持するか、しないかの議論を先行させてはいけない。
 <軍・戦力ではないものとしての自衛隊の憲法上の明記>なるものは、実質的に不可能だ。
 したがって、この案は、必ず、つぶれる。おそらく間違いなく、自民党の案にならない。
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 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 前回に書いた。「明記」、「解釈」、「認める」、といった概念・言葉で何を意味させているのか。このような言葉、概念の意味・違いを明確にさせてから、<もう一度出直せ>。
 方法的、概念的、論理的な疑問は、前回に書いたこと以外にもある。
 ①「自衛隊について憲法に何も定めがないというのは異常です」。 p.99。
 陥穽への第一歩がここにもある。
 「自衛隊について」が何を意味するかが、そもそも問題なのだが、これは別に書く。
 「憲法に何も定めがない」とはいかなる意味か?
 「定め」が明示的な(ausdrueklich)な規定という意味であればそのとおりで、その意味では<明記>されていない、とも言い得る。
 しかし、だからといって、現在の自衛隊が憲法外の、あるいは超憲法上の存在であるわけでは全くない。現在の憲法秩序、現憲法が<認める>、あるいは<許容>しているものとして現在の自衛隊は存在している。
 そうでなければ、自衛隊法等々も、2015年平和安全諸法制も法規範として存在していない。
 つぎの②に対するコメントの一部と同じことだが、現在の自衛隊は現憲法が<認める>、あるいは<許容>しているものであり、その意味で<憲法に根拠づけ>られている。
 繰り返すが、憲法外の、あるいは超憲法上の存在であるわけでは全くない。
 憲法学者の90%以上が集団的自衛権行使容認の平和安全法制を違憲だとしたとか、憲法学者の60%以上が自衛隊を違憲だと言っている、ということを重視する向きがある。
 秘境・魔境に生息する者たちを重視しすぎてはいけない。
 上のことを気にするのは、憲法学界・憲法学者の中に食い込んでいる、日本共産党および同党員学者の「憲法解釈」論上での<政治的な闘争>に屈服していることを、ある程度は示している。
 そもそもの伊藤哲夫・岡田邦宏らの発想は、この対日本共産党屈服、だろう。
 正面から闘わないで、脇道を通って、<形だけの>勝利を目指そうとしているかに見える。
 そして、その<脇道>は、実際にはほとんど塞がれていることは、前回も、今回も、述べているところだ。
 ②「自衛隊が憲法に明記されず、九条二項に反しないような解釈にのみ根拠づけられていることに問題の根源がある」。p.101。
 大きな陥穽に落ち込みそうな叙述だ。
 つまり、「明記」と「(憲法)解釈」をそれぞれどのような意味で、従ってどのように区別して、用いているのか。
 結論だけ、まず示そう。
 第一に、つぎの三項追加案で、<自衛隊を明記>したことになるのか?。
 「第三項/自衛隊は、存在する。」、「第三項/自衛隊を、設立する。」、「第三項/自衛隊を、認める。」
 たしかに「自衛隊」を「明記」しているが、これでは無意味だろう。
 この無意味さを分からなければ、議論に関与するな、と言いたい。
 なぜか。三項で新たな憲法上の概念として出てくる「自衛隊」が、現在ある自衛隊を意味しているとする、根拠は何も、少しも、全くないのだ。
 現在の法律や<経験上の>知識を前提にしてはいけない。
 (かりにそうだとしても、自然災害対処や国際平和協力など「自衛」概念に通常は入らないものも現「自衛隊」はしていること等に、別に触れる)。
 そもそも、憲法上の「自衛隊」という語の<解釈>がやはり必要なのだ。
 第二に、「自衛隊」という語を使わないで、どう成文化するか。
 できるかもしれないが、しかしその場合、*二項存置が絶対の前提なので*、二項の「軍・戦力」ではないものとして三項で<明記>するものを表現しなければならない。
 その場合に、二項の「軍・戦力」ではない自衛権行使組織を定めようとすれば、当然ながら、二項の「軍・戦力」や<自衛権>についての<憲法解釈>を前提にせざるを得ない。
 結論だけ、が長くなったが、つまり、こうして追加される三項もまた、<憲法解釈>を必然的に要求するのであり、<明記されずに憲法解釈にのみ根拠づけ>られる状態は、何ら変わりない
 第三。決定的な反論または岡田邦宏批判。
 「憲法解釈にのみ根拠づけ」られていても、「憲法に根拠づけ」られていることに変わりはない。
 「どしろうと」にとって、「明記」と「法解釈」の間の溝・区別はきわめて大きいのだろう。
 しかし、「明記」というのは、言葉・概念それ自体の常識的・社会通念的・通常日本語上の意味が確定している場合に使いうる言葉であって、憲法上の概念とは、そんなものばかりではない。
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 だからこそ、憲法はしばしば「法律の定めるところにより」と書いて明確化・具体化を法律に任せているのだ。
 伊藤哲夫や岡田邦宏や小坂実は、「内閣」は憲法上に明記されていると思っているだろう。その通りであり、かつその構成にも言及があり、「内閣」の仕事も憲法上に列挙されている。
 しかし、そのような憲法上に「明記」された「内閣」の姿だけで、現実の「内閣」を理解できるのか? あるいは「知った」と言えるのか?
 この問いの意味が理解できなければ、国家「政策」や憲法論に関与する資格はない、と思われる。
 憲法にかりに<明記>される自衛隊(「自衛組織」等々)と現実の自衛隊が「全く同じ意味・範囲」であるはずはない。
 <二項存置+自衛隊憲法明記>論者は、どこかで、言葉・概念・規範と現実、法規範の憲法と法律以下の最少でも二層の区別、に関するとんでもない過ちを冒している、と考える。

1678/九条三項「加憲」論-伊藤哲夫・岡田邦宏のバカさ。

 日本の「保守」と称している者たちの知的退廃の程度は、哲学・言語学・論理学そして精神医学のレベルにまで立ち入って検討されてよい。
 もちろん、日本の「共産主義者」についてもそうなのだが、一見だけは論理的に詳細に論じるふうの日本共産党・月刊前衛掲載文章と比べても、以下に言及する内容は、ひどい。
 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 憲法九条関連に限る。遅れて、一読した。
 安倍内閣支持率の変化により、今年5月の安倍晋三・自民党総裁案(どの党機関決定もないはずだ)がそのまま自民党の提案になるのかも怪しい。
 その九条三項加憲案(現二項存置・自衛隊明記案。または論理的には現二項存置・九条の二新設案)が、上のような下らない書物の書き手の影響を受けたものではないことを願いたい。
 簡単に、書こう。
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 岡田邦宏(1952~、京都大学工学部卒。所長)が案を示して、伊藤哲夫(1947~、新潟大学人文学部卒。代表)らが賛同している。p.106-7、p.130-1。
 岡田邦宏は日本政策研究センターという団体・組織の「所長」らしい。
 恥ずかしい「所長」が、またいる。
 憲法改正提案三つのうち一つの、九条関係の見出しは、つぎのとおりだ。
 <自衛隊明記が「九条問題」克服のカギ>。p.90。
 この部分の全体を通じて理解をはなはだ困難にするのは、「明記」、「解釈」、「認める」、あるいは「国際法」といった概念・言葉で何を意味させているのか、だ。
 冒頭に「哲学・言語学・論理学そして精神医学のレベル」とか書いたのは、この完全な不明瞭さだ。
 上のような言葉、概念(国際法はさしあたり除外してもよいが)の意味・違いを明確にさせてから、<もう一度出直せ>と言いたい。
 ここでの岡田のような文章・論理を活字にするようだからこそ、日本の保守は<やはりアホ>だと思われる。
 上にいう、「自衛隊」の「明記」とは、何を意味するのか? 以下も同じ。
 岡田p.107-「二項はそのままにして、九条に新たに第三項を設け、…『戦力』は別のものであるとして、…自衛隊の存在を明記するという改正案も一考に値する選択肢だと思う」。
 また、つぎの、伊藤哲夫の「憲法上、明確に位置づける」とは、いかなる意味か。岡田の案を否定しているのではないことは明らかなのだが。
 伊藤p.131-「まず議論の出発点として、自衛隊を憲法上、明確に位置づけることが必要だ」
 こうした、「明記」とか「明確に位置づける」ということの意味をきちんと理解しないで、それこそ<明確に>しないままで憲法を論じているつもりの人たち、「代表」とか「所長」がいるのだから、ひどいだろう。
 あれこれと、すぐに疑問が湧く。
 具体的な条文案を示さないと、そもそもはダメ(これは、<美しい日本の憲法をつくる会>運動も同じ。精神論さえ示せばよく、あとは官僚にお任せ、では絶対にダメなのだ)。
 「自衛隊の存在を明記」とは何か
 新三項に、「自衛隊は存在する」と書くのか?、「自衛隊を設置する」とだけ書くのか?
 こんな条文にはなるはずはない。「自衛隊」という概念・語を現憲法は用いていないので、さっそく、例えばつぎの、疑義が出てくる。
 ・現在の「自衛隊」に関する諸法律は、防衛省設置法等も含めて、憲法より下位の法規範なので、下位の法律上の概念・制度でもって、あるいは現在の<経験上の>「自衛隊」なるものによって、憲法上の意味内容を理解できないし、また理解してはいけない。
 また、つぎの疑問もある。
 突然に「自衛隊」なるものを持ち出すとすると、その目的・趣旨も少しは書かないとダメだろう。つまり、<…のため>が憲法上も少しは必要だろう。
 二項・新三項(らしきもの)で分かるのは、「軍・戦力」ではない、「自衛」ための「隊」というだけのことだ。
 これで、「存在を明記」することになるのか?
 ならないだろう。「自衛隊」とは何のことか?、二項の「軍・戦力」ではないという意味はどこにあるのか? この「憲法解釈」論がまた、出てくる。あるいは、現状をさらに混乱させるに間違いない。
 以上のことは、伊藤哲夫のいう、「自衛隊を憲法上、明確に位置づける」についても同じ。
 <自衛隊>という言葉を用いないとすれば、それに代わる言葉・概念を、または条文そのものを提案しなければならない。
 上に()で書いたことを繰り返す。
 我々は精神論、あとは技術的なこととして「法制官僚」にお任せ、ではダメなのだ。
 同じ趣旨のことはすでに、伊藤哲夫のウェブサイトで知った文章について書いた。
 二項でいう「戦力」に該当しないが実質的には近づけるように自衛隊を憲法上容認する方法を探りたい、とか伊藤は書いていたが、自衛隊を実質的に「戦力」として位置づけるのは不可能で、自衛隊は「戦力」ではないことを「明記」することも、じつはさほどに簡単ではないのだ。
 後者のために、<本項にいう自衛隊は、前項にいう戦力に該当しない>という但書きでも付けるつもりなのだろうか。たしかに形式的には、<明記>かもしれない。
 哲学・論理学・言語学等の必要な論者が多いようなので、また書いておこう。
 二項-「戦力」/三項-「自衛隊」または「自衛組織」・「自衛部隊」?・「自衛のための実力組織」?。
 このように区別して<明記>することはできる。
 しかし、どう書いても、上のような<但書>を付けたとしても、「戦力」という言葉を介して<憲法解釈>をしないと、「自衛隊」または「自衛組織」・「自衛部隊」・「自衛のための実力組織」の意味は明確にならないのだ。<明記>の意味がない。<憲法解釈>の必要性はずっと残る。
 これが分からない人は、少なくとも国家「政策」や憲法論に関与しない方がよいだろう。
 このような結論的案とその肯定に至る過程での論述や議論は、陳腐なものだ。
 例えば、岡田邦宏は何やら力を込めて、(九条全体や第一項ではなく)「問題が九条第二項にあることは、…明らか」と書く。p.102。
 こんなことくらいは、憲法九条関係議論を少しは知っているものならば(吉永小百合や意図的に曖昧にしてきた日本共産党・容共知識人らは別として)、常識だ。
 わざわざこう述べるのも、ああ恥ずかしい。
 2017年の憲法記念日に向けて、こう頑張って発言する馬鹿がまだいるのかと思わせるほどだ。
 上のことくらいは、この欄で、10年ほども前から、私も指摘している。
 じつは他にも、基本的に疑問とする論理、言葉遣いがある。きっと、続ける。

1611/伊藤哲夫見解について②-「概念」の論理。

 「それに留まらず、自衛隊を『自衛のための戦力』として認める道はないのか。問題は3項の内容にかかって」いる。
 伊藤哲夫・『明日への選択』平成29年6月号。
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 上の伊藤哲夫の文章は、つぎの後に出てくる。
 「『立派な案』ということでいえば、2項を新たな文言で書き換える案がむろん好ましい。しかし、3分の2の形成ということで考えれば、実はこの9条『加憲』方式しか道はないのではないか、というのは必然の認識でもあ」る。「2項を残したままで、どうして自衛隊の現状が正されるというのか」は「当然の議論ではあるが、ならば2項そのものを変えることが正しいとして、その実現性はどうなのか、ということを筆者としては問いたい。実現性がなければ、『ただ言っているだけに終わる』というのが首相提言の眼目でもあった」。
 したがって、従来からある九条2項削除派に対する釈明、配慮あるいは媚びのようにも読める。
 それはともかく、伊藤哲夫の上の部分について前回に厳しく批判した。→6/27付、№1605。
 これに対して、<言葉で「戦力」を使うのではなく、実質的に自衛隊を『自衛のための戦力』として認める道を探りたいだけだ>、という反論・釈明らしきものも予想できないわけではない。
 そこで、あらためて批判する。
 哲学、論理学、言語学にかかわるのかもしれない。
 結論的にいうと、「戦力」という言葉(「軍」でもよい)を使わずして、自衛隊を実質的にであれ「戦力」(「軍」でもよい。以下、「戦力」)として認める方法は存在し得ない。
 なぜなら、自衛隊は「戦力」だとの旨を明記しなければ、論理的に永遠に自衛隊が「戦力」になることはないからだ。
 <実質的に>「戦力」のごとき言葉を考えてみよう。「軍隊」は憲法九条2項に「…軍」があるからだめ。
 「実力部隊」・「実力行使隊」、あるいは「自衛兵団」、「自衛戦団」。
 あとの二つはすぐに、「…軍その他の戦力」との異同の問題が生じて紛糾するに違いない。
 かと言って、自衛隊を(自衛のための)「実力部隊」・「実力行使隊」と表現したところで、自衛隊が「戦力」それ自体には、ならない。いかにAに近い、A'、A''を使ったところで、自衛隊がAになることはない。
 あるものを「赤」と断定したければ、「赤」という語を使う他に論理的には方法はないのであり、「緋」や「朱」やその他を使っても、そのあるものは論理的に永遠に「赤」にはならない
 もともと、自衛<軍>や自衛<戦力・戦団>ではなく自衛<隊>と称してきたのは、<軍>や<戦力>という語を使えなかったからだ。実体も、それなりの制約を受けた。
 それを今さら、九条2項存置のままで<実質的に>「戦力」として認めたいと主張したところで、そもそも論理的な・言語表現上の無理がある。
 なお、「前項の規定にかかわらず、…」というのは構想できる条文案だ。
 しかし、「前項の規定にかかわらず、自衛隊を自衛のための戦力として設置する」と、「戦力」の語を用いて規定すれば、やはり現2項と新3項(または新九条の二)は正面から抵触するので、こんな案は出てこない、と考えられる。
 伊藤哲夫は、あまり虫の良い話を考えない方がよいだろう。
 伊藤自身がすぐそのあとで「何とか根本的解決により近い案になるよう、今後議員諸兄には大いに知恵を絞ってほしいと願う」と書いて、「根本的解決により近い案」と書いているのも、「根本的解決」になる「案」は不可能であることを自認しているからではないか
 九条3項加憲論者でかりにそう安倍晋三に提言したのならば、その立場を一貫させるべきで、伊藤哲夫は、九条2項削除論者のご機嫌をとるような文章を書かない方がよい。

1599/読売新聞6/22朝刊と櫻井よしこの<革命>容認論。

 読売新聞6月22日朝刊13面。「調査研究本部主任研究員・舟槻格致」による憲法改正論議に関する解説は、穏当だ。
 基礎知識に誤りはないと思うし、今後について特定の方向へと偏ってもいない。
 憲法現九条1・2項を残したままでの自衛隊明記は、あり得る。
 これはこの上記の読売記事で大石眞(京都大学名誉教授)が「あり得る選択肢」と語っている(らしい)ことと同旨で、憲法・法的に見て疑いはない。
 くり返せば、2015年成立の平和安全法制が合憲であるならば、自衛隊の存在を前提とするその法制の基礎的解釈部分を憲法上に明記しても、2015年時点で合憲だったのだから、憲法現九条1・2項と矛盾するはずはない。
 櫻井よしこらの愚見・無知、かつ多大の危険性は、のちに触れる。
 憲法九条に関する議論を少しでも熟知しているならば、当然に、上の大石眞のようなコメントになる。
 むろん、どういう内容の条文にするのかの問題は、大きく残る。
 また、九条3項、九条の二、のいずれにするか、という問題も残る。
 上の読売解説記事は、「法的に大きな差違は生じないとみられるが、政治的には後者の方が」現九条には一切触れなかった「と説明できる長所がある」と、ほとんど適切に記述している。
 安倍晋三発言の内容を正確には知らないままでこの欄ですでに数度言及したが、安倍晋三はこの点にまで言及したのではなかったようだ(たしかに、読売が伝えていたように、橋下徹は後者を支持していた)。
 上の選択にかかわる<メッセージ性>についても、すでにこの欄で記した。
 上記解説記事が正確なのは、いわゆる<芦田修正>、または九条二項冒頭の「前項の目的」うんぬんの追加に関して、つぎのようにしっかりと書いていることだ。
 「政府は、自衛隊が認められてきた根拠は『芦田修正論』ではないとの立場だ」。
 これが政府・実務解釈だ。
 この冒頭の文言を使い、<文民>条項の追加導入等を根拠にして、あるいは九条の立案・制定過程を調べて<自衛>目的の「軍その他戦力」は二項によって禁止されていないと解釈する<保守派>憲法学者もいるが、それは成り立ちうる解釈ではあるものの、政府・実務解釈ではない(私的解釈にすぎない)。
 産経新聞関係者、月刊正論関係者あるいは「特定保守」論者には無知による混乱があるかもしれないが、上の点はきちんと理解しておく必要がある。
 自衛隊は、そもそも、「軍その他戦力」ではないがゆえに、設立当初から、九条二項違反=憲法違反ではない、と政府・法制局実務によって解釈されてきたのだ。
 すでに月刊Hanada7月上の櫻井よしこ冒頭論考について呆れてコメントした。
 櫻井よしこは、週刊ダイヤモンド2017年5月27日号でも「アホ」を繰り返している。また、きわめて危険なこともじつは述べている。
 いわく、「『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない』と定めた2項を維持したままで、いかにして軍隊としての自衛隊の存在を憲法上正当化し得るのかという疑問を、誰しもが抱くだろう」。
 この部分は、月刊Hanada7月号と同じ。文章・原稿の<使い回し>だと思われる。
 また安倍晋三についていわく、「少々の矛盾は大目的の前には呑み込むのが政治家であり、大目的を達成することが何よりも大事なのだという現実主義が際立つ」。
 「少々の矛盾」が現九条と安倍晋三発言内容との間にあったのでは、憲法上または法的には、絶対にいけない。安倍晋三も、法論理上の矛盾はないことを理解している。
 しかし、この櫻井よしこの文章は、「少々」は憲法上問題があっても、つまり違憲でも(「2項を維持したままでいかにして…自衛隊の存在を憲法上正当化し得るのかという疑問を誰しもが抱く」)、「大目的を達成する」ための「現実主義」を優先させようとするものだ。
 また最後に櫻井よしこいわく、「自衛隊を違憲の存在として放置し続けるのは決して国民の安全に資することではない。今、改正に取り組みたいものだ」。
 こうして読むと、既に記したことだが、櫻井よしこは今のままでは「自衛隊を違憲の存在として放置し続ける」ことになる、と考えている。これは、長谷部恭男らも採用していないところの、日本共産党および同党員憲法学者の憲法九条二項の解釈と全く同じだ。その根拠は、たぶん、<自衛隊って、軍隊でしょ>という中学生のような単純な理解だ。
 そのうえで、つまり現二項と自衛隊は矛盾している(自衛隊は二項違反)との前提のうえで、現二項と「少々の矛盾」があっても、「自衛隊の存在」を肯定するという「大目的」のために、「現実主義」を優先して、「改正に取り組みたい」、と櫻井は主張している。
 強固かつ執拗な、安倍晋三擁護の姿勢はさておく。
 このような主張がきわめて危険であるのは、<多少の憲法違反>よりも<現実主義>を優先させてよい、としていることだ。
 これは、安倍晋三の考えでもない。
 危険な、<憲法否定>、<立憲主義否定>の論理だ。
 憲法よりも国家、憲法よりも歴史、法よりも現実、これはすでに一つの<思想>であって、いちおうは日本国憲法のもとでの法的枠内で憲法改正運動を含む諸活動をしているはずの者たちが採るべきものではない。
 これは、法的非連続性を承認する、または前提とする<革命>を容認する思想だ
 <櫻井よしこによると憲法違反の存在である自衛隊の存在>を、憲法上の「少々の矛盾」を無視して、いわば超憲法的な<現実主義>に立って正当化しようとするもので、<極右または極左>または<極右かつ極左>の<革命>擁護論を胚胎させている。
 きわめて危険な発想だ。こんなことを主張する者がいるから、それこそ<反立憲主義>という主張が、<保守>派に対して投げかけられる。
 決して安倍晋三は、そんなことを主張してはいない。
 繰り返すが、自衛隊設置を前提とする限定的集団的自衛権行使は現憲法九条(一項・二項)に違反していない、とするのが、現在の国会議員が構成する国会の憲法解釈だ。
 自衛隊そのものが現憲法九条二項に違反すると現国会が憲法解釈しているはずはない。
 上のような<危険>思想にたどりつこうとするのも、ひとえに櫻井よしこの無知と無恥によるものと、(まだ好意的に)せめては理解しておきたいものだ。
 なお、以下、念のために追記する。
 現九条二項を削除して、新二項以下でまたは新九条の二以降で、自衛軍・国防軍・国軍の設置等を明記する憲法改正も、当然に「あり得る」。
 憲法改正の限界内の憲法改正は現憲法も許容しており、このような憲法改正が憲法に違反することにならないのは当然のことだ。このような意見が自民党内にあることも、各種報道は伝えている。 

1529/憲法九条改正と櫻井よしこの「自衛隊・違憲」論。

 ○ 日本国憲法「改正」問題については、「改正」論を嘲笑し唾棄すべきものとする同廃棄論・同無効論についても含めて、この欄でたびたび触れた。
 憲法現九条の問題についても同じ。したがって、新たに述べたいことはほとんどない。
 ○ 先日に安倍晋三・自民党総裁(首相)が、憲法九条三項の追加による自衛隊の合憲性の明確化を提唱したようだ。
 現在の自民党改憲案では現九条二項を削除し、新たに「九条の二」を設ける(これは「九条二項」の意味ではない)こととしているので、同じではない。
 総裁が党の案と違うことを明言するのも自民党らしいし、また現改憲案とはその程度の位置づけなのかとも思う。が、ともあれ、たった一人で思いついたわけではないだろうし、かつまた、法技術的に見て、上のような案も成立しうる。想定していなかった解釈問題が多少は、生じるだろうが。
 それよりも、テレビ報道のかぎりでは、安倍晋三のビデオ・メッセージが伝えられたというその場で、その後なのか前なのか、櫻井よしこが<緊急事態条項の追加を!>という、安倍晋三のメッセージとは異なる、<あっち向いてホイ>ふうのことを大きく喋っていたのが記憶に残った。
 とくにビデオ放映の後だとすると、何とトンマな人だろうと思う。櫻井よしことは。
 むろん、自民党も含めた憲法改正賛成派の中で、改正の優先順位に関する議論にまるで一致がない、という問題がある。
 改正手続の改正(現96条。過半数でま発議を可とする改正)からという話も、安倍政権のもとであった。法技術的な議論の検討を別とすれば、憲法九条の問題が、観測気球ではなく、かなりの本気度をもって提言されているとすると、歓迎する。憲法改正のためにも、橋下徹・維新の会を大切にすべきとの、秋月のこの欄でのだいぶ前での主張・予見は、適切だったことが証されそうな気もする(元月刊正論編集部・桑原聡や、橋下について<ロベスピエールの再来>の危険があるとした佐伯啓思大先生は、その後、どう思っているのか ?)。
 但し、重要なのは、憲法改正による自衛隊合憲化(又は自衛軍・国防軍の明記)は現憲法の一部、軍事問題についての一定の「改正」にすぎず、かりにそれが成されたからといって、<保守革命>が起きたかのごとく歓ぶことになるのでは全くない、ということだ。
 一部だけでも改正する実績ができることは、戦後史の大きな転換ではある。しかし、自衛隊合憲性明記がいかほどの<変革>になるかは、じつは相当に疑わしい。現憲法、現条項のもとでも(さらには「前文」を変えなくとも)、2015年の平和安全法制程度の諸法律等を制定するのは不可能ではなくなっていたのだから。この程度にしておく。
 ○ 櫻井よしこは、改憲民間団体の共同代表でもあるらしい。
 しかし、この人物はかつて2000年に、どう言っていたか。以下による。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000)、p.226-。
 櫻井は、「『自衛隊は違憲』から出発しよう」と節の見出しをつけ、このとおりのことを述べている。p.228。
 現九条二項は「あまりにも明確に自衛隊の存在を違憲だとする文言です」。
 「自衛隊は現行憲法においてはもはや違憲の存在であるという視点でもう一回憲法を見て」みると「ストンと納得がいく」、「憲法がわかりやすくなって」くる。
 社会党は村山内閣で自衛隊合憲論へと変化したが、「皮肉なことに自衛隊は合憲か違憲かという点については」、「以前の社会党の主張が正しかったとも思えるのです」。
 この叙述の意味を再述しはしない。
 櫻井よしこの憲法論(あるとすれば)に特徴的なのは、形式的な「文言重視」主義で、不文憲法や不文法原理というものの存在を想定していないことだろう。
 したがって、じつに幼稚な、中学生・高校生レベルの認識・議論をしている(そのレベルのものは、他の論点にもこの人には多々ある)。
 そしてまた、自衛隊=「違憲」ということは、自衛隊法という法律を含めて、自衛隊の活動に関するすべての関連法律諸条項は「違憲=無効」となって<法的>には過去も現在もあってはならないことになる、という帰結となることも、おそらく櫻井よしこは理解していないと思われる。
 文章には<規範・希望・予測>等の<観念>を叙述するものと、<事実>を叙述する(少なくともそのつもりの)ものがある、という区別自体が、この人には存在していないのではないか、と強く疑っている。
 なお、二項の冒頭の「前項の目的を達するため」との文言に着目して政府側が合憲視していたかの理解は、誤り。
 日本側の幣原喜重郎による九条提言説を江藤淳の書のみを使って却下しているようなのも、きわめて不十分。
 この本も、他にもあるが、この人が「勉強」した(つまり情報収集に使った)本を引用したり、抜粋要約したりして、他者のものを結果として<なぞっている>だけだ。櫻井よしこの独自性はどこにあるのか ?
 ○ 櫻井よしこは、九条関係の諸議論を、おそらく全く分かっていない。
 近年は、九条一項は維持して九条二項を改正すべきと、櫻井は主張しているようだ。
 主張・見解を変更すること自体を批判できないだろう。
 だが、2000年時点で<自衛隊・違憲>論を明確に主張していたことは、上記のとおり間違いない。
 現在の立論へとどのように変化したのか、あるいは違憲のものを合憲にしたいだけで変わっていないと主張するのか(この立場だと2015年平和安全法制も違憲だ)。
 いずれにせよ、櫻井よしこはきちんと説明する責任があるだろう。民間憲法改正運動の代表者、国家基本問題研究所の所長という肩書きを付けていることを認めるのならば。

1313/安保法案「違憲」論は憲法学者の「学問」か-1。

 しばらく、安保法制整備法案に対する<違憲論>について、それに対する批判的コメントを続けてみよう。
 池田信夫がいうように非専門家または一般国民からすれば「神学」的な、魑魅魍魎の?議論かもしれないが、一部憲法学者さまたちの「違憲」論が一種の<政局>的現象を生じさせているとあっては、無視するわけにはいかない。
 一 まず、そもそも現憲法九条の条文・文言と現在提出されている、「集団的自衛権行使容認憲法解釈」を前提とするという今次の安保法制整備法案とを比較対照させて、簡単にあるいは断定的に<違憲>だと言えるのだろうか、という疑問がわく。一般国民的感覚からすれば、そのことこそが奇妙に感じられる。憲法学者というのは、条文・文言の背後にある規範的意味内容をさほどに明確に取り出せる魔術を持ち、トリックを使える者なのか。
 現憲法は「自衛(権)」という語を用いず、そのための実力行使・それを行なう組織についての言及もしていない。そのことから、いかなる(日本の主権、国土と国民の安全を守るための)「自衛」措置も、「自衛」組織の設立も違憲だと断じるのならば、問題は簡単だ。今次の法案は「自衛」権、そして「自衛隊」の存在を前提としているがゆえに、ただちに違憲となる。
 しかし、言うまでもなく、長谷部恭男たちや昨年07月の「集団的自衛権行使容認閣議決定」への抗議声明に参加した(そして今次の法案にも反対している)憲法学者たちは、上のような立論をしているわけではない。
 とすれば、そしてこの学者たちが憲法解釈上も日本国家に固有の(自然の)「自衛権」を否認していないとすれば、その「自衛権」の行使の程度・範囲・態様等々について、どこまでが合憲で、どこからが違憲なのか、という線引きをしていなければならなくなる。
 長谷部恭男、小林節、笹田榮司および森英樹、樋口陽一らの憲法学者たちは、上の問題についての自らの憲法解釈およびその適用の具体例を、憲法学者ならば積極的に示すべきだろう。そのことをしていないとすれば、学者の怠慢なのではないか。
 二 もちろん、憲法学者のかなり多くが、もともとは自衛隊設置(法律)から始まって、いわゆる有事立法・周辺事態法、自衛隊イラク派遣法等々に反対してきており、その際に当然ながら憲法九条との抵触を指摘してきたことを知っている。つまり自分たちの上の点についての憲法解釈・適用を積極的に示すというよりも、自民党を中心とする(自衛隊設置はそれ以前の<保守>諸政党だが)政権側の諸法律案に反対する・制定に抵抗することに力を注いできたことは分かる。その際に、今次にも見られるように、いわば防戦的に、言葉・概念にかかわる細かな指摘・主張をするとともに、<時の政権の恣意的な解釈を許す>、<「戦争」に巻き込まれるおそれがある>等々と憲法学者たちも述べてきたのだった。
 自衛隊も、有事立法等々も、もちもと「左翼」憲法学者たちにとっては違憲だったのではないか? また、これらの諸法律は、何らかの内閣による<憲法解釈>=「政府解釈」を前提として、その「政府解釈」を立法府・国会による<憲法解釈>にしてきたものだった。もはやたんなる「政府解釈」ではなくなっている。国会も行なったいわば「国会解釈」になっている(これを覆すことができるのは裁判所、とくに最高裁判所だけだ)。
 上の二点はとりあえずさておき、再び論及するだろう。
 三 北側一雄(公明党副代表)が6/11の衆院憲法審査会で語ったらしいように、自衛隊そのものや安保条約ではなく「憲法9条と自衛措置の限界について突き詰めた議論」が憲法学界・憲法学者たちの間でなされてきた、とはとても思えない。上述のように、<「自衛権」の行使の程度・範囲・態様等々について、どこまでが合憲で、どこからが違憲なのか>という問題に積極的に回答することを憲法学者たちはしてこなかった、と思われる。そして、たんに自民党・政府側の動き・法案は憲法九条(・その精神)に反して違憲だとか、違憲の疑いがある、とか言ってきたわけだ。
 この機会に、この欄に引用・掲載している日本共産党系憲法学者たちの2014.07声明にも言及するが、この声明をあらためて読むと、「集団的自衛権行使容認」は憲法九条違反だとは明確には、または断定的には述べていないことに気づく。
 長年にわたって継続した政府解釈を変更するのは「国民的議論」を欠いた「暴挙」だとか、「従来の政府見解から明白に逸脱」だとか言って批判しているが、とくに後者について言えば、政府解釈を<変更>すると安倍内閣は明言しているのだから、従来の政府解釈から「逸脱」するところがあるのは当然で、何ら批判になっていない(原文作成者は頭が悪いのではないか)。
 そして、「憲法9条の根本的変質」に他ならないとも言っている。ここで憲法九条が登場するが、この表現は、現憲法九条に違反する、と明言するものではなく、それよりも弱い表現だ。要するに、この声明ですら、集団的自衛権行使容認は憲法九条違反とは明言・断定していないとも解される。
 では、長谷部恭男らは、今次の、上の解釈にのっとった(そして従前から予定されていた)安保法案は<違憲だ>となぜ、明言・断定できるのか。
 ここで、いわゆる個別的自衛権と集団的自衛権の区別の問題が出てくる。
 四 長谷部恭男は6/04の憲法審査会での発言ののち、6/09の<読売オンライン>上の「国民の生死”をこの政権に委ねるのか?/集団的自衛権―憲法解釈変更の問題点」で、自らの見解を記している。
 かかる論考を掲載する読売新聞はさすがに太っ腹で(?)、例えば「憲法学者が見た審査会」という小特集で、長谷部を擁護する憲法学者のみを二人登場させて、そのインタビュー内容を掲載している6/12の朝日新聞とは大違いだ。
 上のことはさておき、長谷部恭男は上の中で「タバコ」吸引のことを例に挙げたあとで、集団的自衛権行使否認という従来の憲法解釈の変更は「立憲主義を覆す」ものだ、とまで述べている。こういう批判の仕方は上記の日本共産党系学者たちの声明の中には明記されていないようだが、しばしば見られる。また、長谷部恭男は、憲法審査会で、<法的安定性を害する>とも語ったようだ。
 「タバコ」吸引のことを例にとれば、長谷部恭男の言っていることは、次のような、「僕ちゃんよい子」のダダッ子の言葉のようだ。
 <長い間、タバコ喫煙は20歳にならないと許されないと執拗にかつ厳しく言われて、そのとおりだと納得してじっと我慢してきたのに、急に18歳から喫煙可能だと言うなんて、僕が従ってきたルールを勝手に破るもので、僕の内心の(精神的)安定性をひどく害するものだ。
 もちろん、もっと説明が必要だ。次回に行なう。

 
 

1298/「左翼」団体・日弁連の会長・村越進の2014.07.01声明の異様。

 宇都宮健児が会長だったことでも示されているように、まるで公正・中立でかつ法律関係については専門家の集団であるかのように見えなくもない日本弁護士連合会は、むろん弁護士の全員がそうではないにせよ、幹部あるいは役員たちは明確な「左翼」であり、「左翼」活動家弁護士たちが牛耳っている「左翼」団体に堕している。
 2014年の集団的自衛権行使容認の閣議決定後に発せられた日弁連会長・村越進の「集団的自衛権の行使等を容認する閣議決定に抗議し撤回を求める会長声明」を読んでも上のことは明らかだ。
 さらに、この声明の内容は、弁護士が、しかもその自主団体・個別弁護士会の連合団体・日弁連のトップである弁護士が発したものとして、信じがたいほどに異様で、ずさんでもある。
 以下にそのまま引用して掲載する。
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 <集団的自衛権の行使等を容認する閣議決定に抗議し撤回を求める会長声明>
 本日、政府は、集団的自衛権の行使等を容認する閣議決定を行った。
 集団的自衛権の行使容認は、日本が武力攻撃をされていないにもかかわらず、他国のために戦争をすることを意味し、戦争をしない平和国家としての日本の国の在り方を根本から変えるものである。
集団的自衛権の行使は、憲法第9条の許容するところではなく、そのことはこれまでの政府の憲法解釈においても長年にわたって繰り返し確認されてきたことである。
 このような憲法の基本原理に関わる重大な変更、すなわち憲法第9条の実質的な改変を、国民の中で十分に議論することすらなく、憲法に拘束されるはずの政府が閣議決定で行うということは背理であり、立憲主義に根本から違反している。
 本閣議決定は「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」等の文言で集団的自衛権の行使を限定するものとされているが、これらの文言は極めて幅の広い不確定概念であり、時の政府の判断によって恣意的な解釈がされる危険性が極めて大きい。
 さらに、本閣議決定は、集団的自衛権の行使容認ばかりでなく、国際協力活動の名の下に自衛隊の武器使用と後方支援の権限を拡大することまで含めようとしている点等も看過できない。
 日本が過去の侵略戦争への反省の下に徹底した恒久平和主義を堅持することは、日本の侵略により悲惨な体験を受けたアジア諸国の人々との信頼関係を構築し、武力によらずに紛争を解決し、平和な社会を創り上げる礎になるものである。
 日本が集団的自衛権を行使すると、日本が他国間の戦争において中立国から交戦国になるとともに、国際法上、日本国内全ての自衛隊の基地や施設が軍事目標となり、軍事目標に対する攻撃に伴う民間への被害も生じうる。
 集団的自衛権の行使等を容認する本閣議決定は、立憲主義と恒久平和主義に反し、違憲である。かかる閣議決定に基づいた自衛隊法等の法改正も許されるものではない。
 当連合会は、集団的自衛権の行使等を容認する本閣議決定に対し、強く抗議し、その撤回を求めるとともに、今後の関係法律の改正等が許されないことを明らかにし、反対するものである。
 2014年(平成26年)7月1日
  日本弁護士連合会/  会長 村越  進
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 異様さ・杜撰さ-これらは「左翼」であるがゆえの政治的偏向の結果に他ならないだろうが-は、以下に認められる。
 第一に、安倍晋三内閣による閣議決定の正確な内容に言及することなく、「集団的自衛権の行使容認」は、「日本が武力攻撃をされていないにもかかわらず、他国のために戦争をすること」を意味する、と何とも安直に理解してしまっている。この文章が日弁連会長のものであるとは、その地位・職からすると-通常の感覚では-ほとんど想像もし難いほどだ。
 国際法上はまたは国連憲章の理解としては、集団的自衛権の行使とは、大雑把には、同盟国・友好国に対して第三国から武力攻撃があった場合に、自国は直接の武力攻撃の対象になっていなくとも、その友好国を助けてその第三国の攻撃に共同で対処することのようだ。しかし、集団的にせよ<自衛権>の行使であることに変わりはない。これをただちに「他国のために戦争をすること」と言い切ってしまえる神経は、-何度も使うが-<ほとんど信じがたい>。
 また、昨年の閣議決定を正確に読めば-きちんと理解しようとすれば-簡単に分かるように、閣議決定が容認した集団的自衛権の行使とは、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し」た場合に、①「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」において、②「これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないとき」に、かつ③「必要最小限度の実力を行使すること」という、いわゆる新三要件の充足のもとで容認されるものであり、国際法上のまたは国連憲章の理解としての集団的自衛権の行使の意味よりも相当に厳格に限定されたものだ。
 このような容易に知り得ることに目を瞑り、日本共産党と同様に<戦争>に道を拓くものという、レッテル貼りをしているか、悪罵を投げつけているにほとんど等しい。これでも日弁連の会長の声明なのか。
 第二に、専門法曹あるいは法律家ならば、もう少しは丁寧に概念の意味を明確にして諸概念を用いるべきだろう。
 すでに「戦争」という言葉が特段の定義なく使われているが、「戦争をしない平和国家」とか「徹底した恒久平和主義」などという言葉・概念がほとんど情緒的に使われている。
 日弁連は、あるいは日弁連会長・村越進は、現憲法九条のもとで、「戦争をしない平和国家」・「徹底した恒久平和主義」のゆえに、現在の自衛隊の存在そのものが違憲だと解釈(・適用)しているのだろうか。かりにそうであるならば、その旨を明確に記して、違憲の組織の行動範囲・要件を論じること自体が憲法違反だと断じるべきだろう。そうではなく、自衛権・自衛力を行使する実力組織としての(「戦力」ではない)自衛隊は合憲的に存在していると解釈(・適用)するのならば、自衛権の行使としての武力行使を簡単には「戦争」と称することはできないはずであり、簡単に「徹底した恒久平和主義」に反するなどと断じることはできないのではないか。
 第三に、「憲法に拘束されるはずの政府が閣議決定で行うということは背理であり、立憲主義に根本から違反している」と述べるが、「憲法に拘束される」という場合のその憲法の規範的意味内容が問題になっているのだから、憲法違反という前提を先に置くのは背理であって、何の意味も持たない。法律家ならば、このくらいのことは分かるだろう。「立憲主義」違反という点も同じだ。
 また、内閣が憲法解釈の変更を行うことを捉えて「立憲主義」違反と言っているようだが、最近にもこの欄で述べたように、裁判所・司法部による確定した憲法解釈が存在しない論点については、内閣は憲法解釈を行なって当然だし、また戦後何度か見られたように、その変更も実際には行われてきた。
 さらに、昨年の閣議決定時にも語られていたが、限定された集団的自衛権の行使を実際に容認するためには法律の制定・改正が必要だ。そして、かりに内閣提出の法案が国会で成立したとすれば、集団的自衛権行使は現憲法下で許容されるという憲法解釈は、もはや内閣どまりのものではなく、国民代表議会である国会の解釈になることを意味する。あくまでかりの話だが、その場合でも、すなわち国会が内閣・閣議決定の解釈を支持して、その解釈にもとづく法律案を成立させた=法律を制定・改正したとしても、日弁連は、あるいは同会長・村越進は、なお「立憲主義に根本から違反」すると主張するのだろうか。かりにそうだとすれば、それこそが国会軽視・(議会制)民主主義の軽視であって、<立憲主義>を逸脱するものだろう。
 第四に、新三要件の一部に触れつつ「これらの文言は極めて幅の広い不確定概念であり、時の政府の判断によって恣意的な解釈がされる危険性が極めて大きい」と述べるが、これはしばしば見受けられる陳腐な批判の仕方だ。
 国会により指名された内閣総理大臣等により構成される内閣を信頼していない書きぶりだ(日本共産党・社民党の連立内閣ならば信頼するのだろうか?)。その点はともかくとしても、とくに安全保障の領域では、ことの性質上、あらかじめ詳細で具体的な定めをしておくことの困難性の程度は高いものと思われる。「恣意的」な解釈というが、だからこそ、しっかりとした(例えば鳩山由紀夫や菅直人ではない首班を戴く)内閣を作っておかなければならない、とも言える、また、この部分の批判は、国会による(昨年の段階では「原則」として)事前の承認が必要とされていることを無視している。具体的認定については国会による事前チェックがかかるのだ。自民党等が与党だからそれは無意味だ、とか日弁連が言い始めたら、きっときわめて恥ずかしいことになるだろう。
 まだあるが、長くなったので、この程度にする。
 この声明は会長名だが、中身では「当連合会は、集団的自衛権の行使等を容認する本閣議決定に対し、強く抗議し、その撤回を求めるとともに、今後の関係法律の改正等が許されないことを明らかにし、反対するものである」と、日弁連を主体とする表現で終えている。
 弁護士たちが、安全保障・軍事に関する知見をいかほど有するかは、もともときわめて疑わしい(ついでに言えば、日本の歴史における<天皇制度>の伝統についての関心も知識もおそらくほとんどないのだろう)。そして、日本弁護士連合会とは、現実を直視することのできない<幻想と妄想>をもって、そして狭く固定した<観念>に縛られて活動している「左翼」団体に他ならないようだ。むろん、このような言い方に反発を覚える弁護士たちも少なくないだろうが、しかし、会を代表する会長の声明を読むかぎり、そのように判断せざるをえない。

1295/安保法制の議論-リスクある公務をするのは自衛隊員だけか。

 〇前回の補足または追加。
 ・2015.05.23閉会の「太平洋・島サミット」でパラオ等々の首脳たちは安倍内閣の<積極的平和主義>による平和・安全保障政策を肯定的に評価したとされる。
 安倍晋三らが「ネオナチ」ならば、このサミット参加首脳たちも「ネオナチ」なのだろうか。日本共産党は答えてほしい。
 ・満州事変発生は1931.08、日独伊三国同盟締結は1940.09。日本共産党・不破哲三が「戦争」という場合の戦争とは<15年戦争>を指しているのだとすると、ドイツ・ナチスと「腕を組んだ」とは言い難い期間も含まれている。
 日本共産党・不破は、もう少しは丁寧に論じなければならないのではないか。
 ・「ネオナチ」とは要するに「ヒトラーの戦争は正しかった」と考える者のことらしいが、「ヒトラーの戦争」の意味・範囲を明確にしておらず、<ヒトラー=安倍ら>というイメージだけを作りたいようだ。安倍首相も含めて、あるいは「日本会議」や「神道政治連盟」の役員や会員を含めて、「ヒトラーの戦争は正しかった」と考えている者はどの程度いるのだろうか。いわゆるホロコーストまでも含むのだとすれば、「正しかった」と明言できる者はむしろ少ないように思われる。
 いずれにせよ、デマゴギーというものは、概念の意味が明確ではなく、論理もいいかげんだ。前回に取り上げた、デマゴーグ・不破哲三の議論もその一つだろう。
 〇安保法制の整備にかかわって、自衛隊員に対する<リスク>の高まりを問題にする「左翼」論調が少なくない。民主党・岡田克也もそれに加担しているようだ。
 自衛隊員が「殺し、殺される」可能性が高くなる、というような表現がなされることもあある。確認しないが、朝日新聞はさっそくこのような言い方をしているに違いない。名うての「左翼」活動家になってしまっている山口二郎も、奥平康弘=山口二郎編・集団的自衛権の何が問題か(2014、岩波書店)の中の「安倍政治の戦後史的位相」と題する文章の中で、つぎのような表現を用いている。
 憲法九条は「戦争に動員された個人が生命を失うという事態を永久に起こさない」という意味をもった。安倍晋三らは憲法九条によって「欠陥国家」になっているのを改めて日本を「まともな」「近代国家」にしようとしている。そのために、「国民に死ねといえる国家を作るという本当の狙い」を隠して、「積極的平和主義」という「新語法」を「取り巻きの学者たち」に使わせている(p.3-4)。
 何ともオドロオドロしい言い方だ。とりあえず自衛隊員が「死ぬ」または「殺される」リスクに言及されることが少なくないことについて、以下のような感想をもつ。山口は「戦争にに動員された個人」という言い方をしているので、一般国民ではなく、やはり自衛隊員を主としては念頭において上のようなことを述べているのだろう。
 第一に.自衛隊員の危険性に焦点があてられているということは、反面では、今次の安保法制の整備による一般国民に対する危険性、リスクの高まりを野党又は「左翼」もさほど意識してはいないことを意味しているだろう。これは興味深いことだ。
 と同時に、-個別的自衛権の問題ではあるが-中国や北朝鮮による日本の国土・国民に対する直接攻撃の可能性もまた意識しておかなければならない。危険があるのは、自衛隊員だけではない。一般国民もリスクに直面しているのであり、自分たちだけは「安全だ」、危険な仕事をする自衛隊員たちは<可哀想だ>などという意識で安全保障の問題を議論してはいけない。
 第二に、自衛官に特化してそのリスクを論じるのは、ある意味では自衛官・自衛隊員に対して失礼だとも言える。
 産経新聞5/20の「正論」欄で、西原正は、「確かにこれまでより危険度は高くなる」としつつ、次のように言う。
 自衛官は「事に臨んでは危険を顧みず、身ををもって責務の完遂に務め…」と服務宣誓しており、「自衛官の防人としての誇り」を精神的支柱としている。「危険なところに送るな」というのは「自衛官を侮辱しているとさえ言える」。
 第三に、「公共」、すなわち国家・地域や国民・住民のために生命に対するものも含む危険性のある中で仕事しているのは、自衛官・自衛隊員に限らない。
 警察官も消防官・消防隊員も、朝日新聞の社員やほとんど文章だけを書いているような学者・評論家の類よりは、はるかに危険な任務についており、職務上・公務上の理由で生命を落とす可能性は一般国民よりは高い。
 警察官や消防官・消防隊員に限らず、台風、地滑り、地震等々を原因とする自然災害から国土や国民の<安全>を守るために、河川等々の土木関係公務員や、場合によっては一般公務員ですら、生命・身体の危険を顧みず仕事をすることがある。そのような例は、生命を落とした町村役場職員があることも含めて、東日本大震災時に見られたことだ。
 しかるに、自衛官・自衛隊員に対するリスクのみを今次の安保法制にかかわって論じるのは、より日常的に、一般国民よりは高いリスクの中で仕事をしている行政公務員に対して失礼だろう。
 自衛官・自衛隊員に限らず、法律(および条例)にもとづいて危険な職務を遂行することを地方公共団体を含む「国家」によって要求されている公務員はいくらでもある。
 そのような、国家・法律による(またはそれにもとづく上司の個別の命令による)リスクある職務に就いている公務員の存在をまったく無視するようなかたちで、自衛官・自衛隊員のリスクのみが語られるのは、やはり何らかの<政治的>狙いがあるように思われる。
 自衛隊員が「殺し、殺される」可能性が高まるとか語っている野党あるいは「左翼」の人士たちは、朝日新聞の記者も含めて、本当に心から自衛隊員とその家族のことを心配して、発言したり、文章を書いているのだろうか。<偏頗>と<偽善>の匂いが、なきにしもあらずだ、と感じる。

1293/資料・史料-防衛省サイトより「憲法と自衛権」等。

 防衛省・自衛隊のHPトップから、>防衛省の取組>防衛省の政策>防衛政策>防衛の基本的考え方>憲法と自衛権と下がって、現在の「憲法と自衛権」等に関する考え方が説明されている。資料・史料の一つとしておくが、現在誰でも閲覧できる、かつ現用の考え方または「解釈」で、2014年7月閣議決定による新しい解釈も組み込まれ、「武力の行使」(「戦争」ではない)の「新三要件」への言及もある。
 現在の後半国会で、政府側はここで示されている理解・解釈を基礎にして答弁等をするはずだ(矛盾していると指弾されることになろう)。
 以下の内容は、自衛「戦争」は認められず、自衛目的のものであれ「戦力」保持も許されないという憲法九条解釈を前提にしている。
 なお、より正確な政府解釈の内容は、個々の文書・答弁に即して、通常の理解力さえあれば、正確に確認することができる。いずれ、より詳細で正確なものを掲載しつつ、コメントをしておく予定だ。
 「前項の目的」とは<侵略戦争等否定・自衛戦争等容認>という趣旨・目的のことだと理解しつつ、そのような前提に政府解釈は立っておらず、この文言に政府解釈は意味を認めていない、という説明の仕方をしてきた。但し、「前項の目的」自体に厳密には二つ(又は三つ)の解釈がありえ、政府解釈は上のような(侵略戦争等と自衛戦争等の区別という)前提には立っていないが、「前項の目的」について別の理解をしているようであることも、その際に述べる。
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 1.憲法と自衛権
 わが国は、第二次世界大戦後、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう決意し、平和国家の建設を目指して努力を重ねてきました。恒久の平和は、日本国民の念願です。この平和主義の理想を掲げる日本国憲法は、第9条に戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認に関する規定を置いています。もとより、わが国が独立国である以上、この規定は、主権国家としての固有の自衛権を否定するものではありません。政府は、このようにわが国の自衛権が否定されない以上、その行使を裏づける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法上認められると解しています。このような考えに立ち、わが国は、憲法のもと、専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針として実力組織としての自衛隊を保持し、その整備を推進し、運用を図ってきています。
 2.憲法第9条の趣旨についての政府見解
 (1)保持できる自衛力
 わが国が憲法上保持できる自衛力は、自衛のための必要最小限度のものでなければならないと考えています。その具体的な限度は、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面があり、毎年度の予算などの審議を通じて国民の代表者である国会において判断されます。憲法第9条第2項で保持が禁止されている「戦力」にあたるか否かは、わが国が保持する全体の実力についての問題であって、自衛隊の個々の兵器の保有の可否は、それを保有することで、わが国の保持する実力の全体がこの限度を超えることとなるか否かにより決められます。
 しかし、個々の兵器のうちでも、性能上専ら相手国国土の壊滅的な破壊のためにのみ用いられる、いわゆる攻撃的兵器を保有することは、直ちに自衛のための必要最小限度の範囲を超えることとなるため、いかなる場合にも許されません。たとえば、大陸間弾道ミサイル(ICBM:Intercontinental Ballistic Missile)、長距離戦略爆撃機、攻撃型空母の保有は許されないと考えています。
 (2)憲法第9条のもとで許容される自衛の措置
 今般、2014(平成26)年7月1日の閣議決定において、憲法第9条のもとで許容される自衛の措置について、次のとおりとされました。
 憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えますが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されません。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容されます。これが、憲法第9条のもとで例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、1972(昭和47)年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところです。
 この基本的な論理は、憲法第9条のもとでは今後とも維持されなければなりません。
 これまで政府は、この基本的な論理のもと、「武力の行使」が許容されるのは、わが国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきました。しかし、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威などによりわが国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様などによっては、わが国の存立を脅かすことも現実に起こり得ます。
 わが国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然ですが、それでもなおわが国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要があります。
 こうした問題意識のもとに、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、わが国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至りました。
 わが国による「武力の行使」が国際法を遵守して行われることは当然ですが、国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要があります。憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合があります。この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれますが、憲法上は、あくまでもわが国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、わが国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものです。
 ■憲法第9条のもとで許容される自衛の措置としての「武力の行使」の新三要件
 ◯ わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
 ◯ これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
 ◯ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
 (3)自衛権を行使できる地理的範囲
 わが国が自衛権の行使としてわが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使できる地理的範囲は、必ずしもわが国の領土、領海、領空に限られませんが、それが具体的にどこまで及ぶかは個々の状況に応じて異なるので、一概には言えません。
 しかし、武力行使の目的をもって武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣するいわゆる海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであり、憲法上許されないと考えています。
 (4)交戦権
 憲法第9条第2項では、「国の交戦権は、これを認めない。」と規定していますが、ここでいう交戦権とは、戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能を含むものです。一方、自衛権の行使にあたっては、わが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することは当然のこととして認められており、たとえば、わが国が自衛権の行使として相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のものです。ただし、相手国の領土の占領などは、自衛のための必要最小限度を超えるものと考えられるので、認められません。
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 2015年05月21日現在

1292/西修・…よくわかる!憲法9条を読む-2。

 西修・いちばんよくわかる憲法9条(海竜社、2015)にかかわってコメントしたい第二は、保守派または改憲派、あるいは正確には現九条改正論者において、現在「公」的に通用している(例えば、自衛隊を法的に支えている)、政府の九条解釈の理解は一致しているのか、という疑問がある、ということだ。
 西修の理解については、すでに触れた。もう少し言及すれば、政府解釈は①「憲法は戦争を放棄した」とするものであり(上掲p.15)、「自衛戦争」も「認めていない」(p.17)、また、②憲法は自衛目的の「戦力」=「自衛戦力」も認めていない、とするものだ(p.19)。そして、③自衛隊は、禁止されている「戦力」ではない「必要最小限度の実力」として合憲である(p.16、p.21)。
 政府解釈を、このように私も理解してきた。①については、A/すでに1項からか、B/2項からかという解釈の分かれがあるが、とりあえず省略する。
 産経新聞の5/03と5/10に「中高生のための国民の憲法講座」として、奥村文男が憲法九条について解説している(なお、失礼ながらこの人の名は見聞きしたことがなかった)。
 この解説の最大の問題は、自説、つまり自らの解釈を述べることに重点を置いており、政府の解釈はいかなるものかについての丁寧な説明がないことだ。これでは、なぜ現九条を改正しなければならないのかが殆ど分からないままだと思われる。
 奥村は自らの解釈としては西修と同じ解釈を主張している。つまり、1項は「国際紛争を解決する手段として」の戦争(侵略戦争)のみを禁止(放棄)しており自衛戦争等は認めている、そのような(2項にいう)「前項の目的」のために、「自衛戦争」(や制裁戦争)・自衛目的の「戦力」保持は許容される、と解釈する。
 かかる解釈を主張するのはむろん自由だが、すでに述べたように、この解釈に立てば、現九条、とくにその2項を改正しなくとも、自衛隊を自衛「軍」と性格変更する法律制定、換言すると<自衛軍>あるいは<国防軍>設置法(法律)を制定することによって「陸海空軍その他の戦力」を保持することができ、「自衛戦争」も行なうことができる。
 なぜ現九条、とくにその2項を改正しなければならないかの理由が、かかる解釈の披瀝だけでは全くかほとんど分からない。
 また、政府解釈に言及する部分もあるが、奥村文男の理解は正確ではないと見られる。
 2項の「戦力」の意味についての、「戦力の保持は認められないが、自衛のための必要最小限度の実力の保持は認められるとする」のが「何度か変更」はあったが「政府解釈」だ(丙2説)と説明する部分は(5/03)、誤っていないだろう。
 しかし、2項の「前項の目的」についての、「国際紛争を解決する手段として」の戦争等を放棄するものだと限定的に解し、「自衛戦争や制裁戦争は禁止していないとする」のが「現在の政府見解」だとする説明は(5/03)、政府解釈の理解としては、誤っている。
 このように解釈すると、<自衛戦力>は保持できないにもかかわらず<自衛戦争>は認められている(!!)、というじつに奇妙な結果になってしまう。奥村は、そして読者はお判りだろうか。
 したがってまた、奥村が示す甲説から丙2説までの解釈の分かれの分類とそれらの説明も、適切なものではない、と考えられる。
 奥村文男の個人的な見解が自らの著書等に書かれているのならばまだよい。しかし、代表的な?<保守派>・改憲派の新聞に、このような現九条に関する説明が掲載されているのは由々しきことだと感じる。九条の解釈問題は複雑だ、ややこしいという印象が生じるだけならばまだよい。誤った理解・情報が提供されるのは問題だろう。
 田久保忠衛の書物にも櫻井よしこら編の書物にもアヤしい部分があることは、すでに触れた。
 こんなことで大丈夫なのだろうか。自民党の改正草案をまとめた人たちはさすがに政府解釈をきちんと押さえていると思われるので、憲法改正、九条改正運動のためには、田村重信らの自民党関係者または防衛省関係者の解説書を読む方が安心できるようだ。

1286/西修・いちばんよくわかる憲法9条(2015)を読む。

 西修・いちばんよくわかる憲法9条(海竜社、2015)を、当面関心をもつ部分のみに限って読む。
 最近読んだ憲法改正ものの本の中で、田村重信著につづいて非常によく分かる。さすがに憲法学者の書物だ。いかに志は高く、同じであっても(?)、非専門家の叙述には、奇妙だと感じたり、趣旨が分からないものもあった。
 きちんとフォローしておこうと思っていた政府解釈の内容(・変遷)も、残念ながら原文どおりではないかもしれないが(p.15-17)、基本的なところは紹介されているので、役に立つ。
 西修が紹介している政府解釈のポイント(p.17-23)も、私も同様の理解であるので、目くじらを立てる(?)ところはない。
 というわけで上だけの言及で十分とも言えるのだが、いくつかの感想・コメントを記しておく。
 第一。西は憲法九条(とくに二項)についての自らの解釈を(も)示している。それは、いわゆる芦田修正を文理どおりに生かし、九条二項により保持が禁止されているのは「侵略戦争を目的とする」戦力であり、認められないのは「自衛権」の範囲を超える「交戦権」だ、というものだ(p.40)。
 むろんこのような解釈は成り立つし、また文理に即していえば最も素直な解釈だ。ゼロ・ベースで考えると、私もこう解釈したい。さらに、芦田が挿入した意図もこのような解釈を可能にすることだったかとも思われる。
 しかし、西修もよく理解しているように、かかる解釈を一貫して日本政府は採用してこなかった、ということが重要だ。西説もいわば私的な、成立しうる解釈の一つにすぎず、自衛隊の現在までの存立を法的に支えているのは政府解釈という「公的」解釈だ(そしてこれを最高裁も少なくとも否定したことはない)、ということが重要だ。
 この区別が明確に意識されているとは思われない叙述も、改憲派の文献の中に見られる。
 櫻井よしこ=民間憲法臨調・日本人のための憲法改正Q&A(産経新聞出版、2015)p.39以下はいわゆる芦田修正の文言の意味を解説しているが、この部分の執筆者の憲法解釈を示しているのか、それとも(現実には通用している)政府解釈の説明をしているのかが明確ではない。そして、「自衛のためであれば、軍隊や戦力を保持できることを明確にすべく」「前項の目的を達成するため」との文言を入れた、と書いており、これは上の西修の解釈と同じだ。
 しかし、このように政府は解釈していないことが重要なのであり、その旨をきちんと記しておくべきだろう。
 上の櫻井ら著が記すように、この著が示す解釈が採用されているならば、つまり「文意にそって解釈していけば」、「自衛のための組織である自衛隊は、憲法に何ら違反していない」ことになる。
 さらに重要なのは、そうだととすれば、九条2項はあえて<改正>する必要がないことになる、ということだろう。
 もちろん種々の疑義を晴らしておくための条文改正もありうるところだが、芦田修正文言が文字通りに解釈され、政府・国会議員・国民等々の間に疑問が生じていなければ、自衛隊は名実ともに憲法適合的な存在であったはずなのであり、その点については憲法改正は不要であるのだ。
 この辺りを上の櫻井ら著は理解しているのかはっきりしない。例えば、この著は「…自衛隊は、憲法に何ら違反しない」に続けて、「また、政府見解も『自衛力』としての自衛隊を合憲としています」と書いているが、この続け方は意味不明だ。自衛隊が自衛力の行使のための(必要最小限度の)実力組織であって合憲であるということと、九条2項にいう「軍隊その他の戦力」であって合憲(上述の文理解釈)であるというこことはまったく意味が異なる。
 西修は理解していると思うが、西修解釈そして櫻井ら著の解釈(p.40)を強調すると、じつは九条2項の改正という、改憲派が最重要視しているかもしれない課題の達成は不要になってしまう、という逆説的状態が生じる、ということにも留意が必要だ。
 さらにいえば、西修解釈・櫻井ら著の解釈が占領期、遅くとも1950年段階で採用されていれば、「自衛隊」ではなく「国軍」・「国防軍」等の名称の正規の?軍隊を(現九条2項のもとで)設置することも憲法上可能であったわけだ。だが、現実の歴史はそうは動かなかった。
 なお、コメントの最後にまで至っていない、田久保忠衛・憲法改正/最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014)のp.112は「芦田解釈」で「何ら不都合はなかったはずだ」、しかし「芦田修正案は政府の見解ではない」と、上の櫻井ら著よりも正しく明確に記述している。但し、「芦田解釈」を「政府解釈にしていれば、日本は自衛隊を改め、…軍隊を持って」よかった、と語っている(p.112)。揚げ足取りのようだが、上記のとおり、「自衛隊を改め、…軍隊」に、という必要はなく、当初からあるいは主権回復時から(自衛隊という中間項?を経ることなくただちに)「軍隊を持って」よかったことになる、と解される。
 第二点以降は、さらに続ける。

1258/月刊正論を最近は毎号きちんと読んでいる。

 ・前編集長時代とは異なり、交替後の月刊正論(産経新聞社)は「メディア裏通信簿」も含めて、なかなか面白い。何よりも、くだらない、又は反発を覚えるような論考や記事がほとんどなくなった。
 とは言っても、なぜか、日本共産党、社民党、生活の党(小澤一郎は見事に?変身した)という「左翼」政党、とりわけ日本共産党の現状の紹介や批判的検討が全くと言ってよいほどないことは相変わらずで、中国(中国共産党)を熱心にかつ批判的に分析しても、なぜ日本の月刊雑誌は日本の「共産党」を、あるいは日本のコミュニズムを正面から扱わないのだろうというもどかしさは依然として残る。
 ・月刊正論1月号もおそらく90%以上読み終えた。最近と同様に、かつてほどに逐一言及する余裕はない。
 門田隆将の文章も小浜逸郎(この人は一時期は信用していなかったのだが)の文章も、印象に残ったが、平川祐弘が紹介している、竹山道雄の、朝日新聞1965.04.05号の文章の一部が目を惹いた。
 「私には戦後の進歩主義がほんものの平和と民主主義であるとは思われない。それはむしろ、人々の平和と民主主義をねがう気持ちにつけこんで、別なものが進歩主義を利用して浸透する手段としたのだった」。(p.347)
 ビルマの竪琴という小説の作家としてしかほとんど知らない竹山道雄だが(もっとも、同・昭和の精神史は所持していていずれ読みたいと思っているし、著作集も半分以上所持している)、60歳をすぎた時期に朝日新聞紙上でこんな文章等でもって論争しているとは、相当な人物だったに違いない。
 「人々の平和と民主主義をねがう気持ちにつけこんで、…進歩主義を利用して浸透する手段」としている「別なもの」は現在も厳然として存在するし、「別なもの」に「平和と民主主義をねがう気持ちにつけこ」まれていることを知らずに、戦争と<全体主義・ファシズム>の復活?を許さず「平和と民主主義」の理想を追求していると自らを評価しているものも厳然として多数存在している。
 すでに「別なもの」になっているのかどうかは知らないが、個人的に知る某憲法研究者は、<日本の自衛隊(軍事組織)は信用できない。正式に軍として認知すれば何をしでかすか分からない>という旨を<公言>していた。
 日本軍国主義=日本のかつての軍部は<悪>でありかつ<拙劣>であったので、そのDNAを継承している自衛隊、そして日本人そのものが<正規の軍として位置づけられるものを保持するとアブない>というわけだ。
 かかる戦後・占領期の<時代精神>を、日本の憲法学者の多くはなおも有し続けているのだろう。
 開いた口がふさがらないし、そのような感覚を平然と語るれっきとした<おとな>らしき人物などとは、もはやとっくに、「口をきく気にもなれなくなっている」のだが。
 

1250/資料・史料/安全保障法制整備・閣議決定-2014.07.01。

 資料・史料
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 国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について

 平成26年07月01日 国家安全保障会議決定 閣議決定


 我が国は、戦後一貫して日本国憲法の下で平和国家として歩んできた。専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず、非核三原則を守るとの基本方針を堅持しつつ、国民の営々とした努力により経済大国として栄え、安定して豊かな国民生活を築いてきた。また、我が国は、平和国家としての立場から、国際連合憲章を遵守しながら、国際社会や国際連合を始めとする国際機関と連携し、それらの活動に積極的に寄与している。こうした我が国の平和国家としての歩みは、国際社会において高い評価と尊敬を勝ち得てきており、これをより確固たるものにしなければならない。
 一方、日本国憲法の施行から67年となる今日までの間に、我が国を取り巻く安全保障環境は根本的に変容するとともに、更に変化し続け、我が国は複雑かつ重大な国家安全保障上の課題に直面している。国際連合憲章が理想として掲げたいわゆる正規の「国連軍」は実現のめどが立っていないことに加え、冷戦終結後の四半世紀だけをとっても、グローバルなパワーバランスの変化、技術革新の急速な進展、大量破壊兵器や弾道ミサイルの開発及び拡散、国際テロなどの脅威により、アジア太平洋地域において問題や緊張が生み出されるとともに、脅威が世界のどの地域において発生しても、我が国の安全保障に直接的な影響を及ぼし得る状況になっている。さらに、近年では、海洋、宇宙空間、サイバー空間に対する自由なアクセス及びその活用を妨げるリスクが拡散し深刻化している。もはや、どの国も一国のみで平和を守ることはできず、国際社会もまた、我が国がその国力にふさわしい形で一層積極的な役割を果たすことを期待している。
 政府の最も重要な責務は、我が国の平和と安全を維持し、その存立を全うするとともに、国民の命を守ることである。我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、政府としての責務を果たすためには、まず、十分な体制をもって力強い外交を推進することにより、安定しかつ見通しがつきやすい国際環境を創出し、脅威の出現を未然に防ぐとともに、国際法にのっとって行動し、法の支配を重視することにより、紛争の平和的な解決を図らなければならない。
 さらに、我が国自身の防衛力を適切に整備、維持、運用し、同盟国である米国との相互協力を強化するとともに、域内外のパートナーとの信頼及び協力関係を深めることが重要である。特に、我が国の安全及びアジア太平洋地域の平和と安定のために、日米安全保障体制の実効性を一層高め、日米同盟の抑止力を向上させることにより、武力紛争を未然に回避し、我が国に脅威が及ぶことを防止することが必要不可欠である。その上で、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを断固として守り抜くとともに、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の下、国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に貢献するためには、切れ目のない対応を可能とする国内法制を整備しなければならない。
 5月15日に「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」から報告書が提出され、同日に安倍内閣総理大臣が記者会見で表明した基本的方向性に基づき、これまで与党において協議を重ね、政府としても検討を進めてきた。今般、与党協議の結果に基づき、政府として、以下の基本方針に従って、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために必要な国内法制を速やかに整備することとする。
 1.武力攻撃に至らない侵害への対処
 (1)我が国を取り巻く安全保障環境が厳しさを増していることを考慮すれば、純然たる平時でも有事でもない事態が生じやすく、これにより更に重大な事態に至りかねないリスクを有している。こうした武力攻撃に至らない侵害に際し、警察機関と自衛隊を含む関係機関が基本的な役割分担を前提として、より緊密に協力し、いかなる不法行為に対しても切れ目のない十分な対応を確保するための態勢を整備することが一層重要な課題となっている。
 (2)具体的には、こうした様々な不法行為に対処するため、警察や海上保安庁などの関係機関が、それぞれの任務と権限に応じて緊密に協力して対応するとの基本方針の下、各々の対応能力を向上させ、情報共有を含む連携を強化し、具体的な対応要領の検討や整備を行い、命令発出手続を迅速化するとともに、各種の演習や訓練を充実させるなど、各般の分野における必要な取組を一層強化することとする。
 (3)このうち、手続の迅速化については、離島の周辺地域等において外部から武力攻撃に至らない侵害が発生し、近傍に警察力が存在しない場合や警察機関が直ちに対応できない場合(武装集団の所持する武器等のために対応できない場合を含む。)の対応において、治安出動や海上における警備行動を発令するための関連規定の適用関係についてあらかじめ十分に検討し、関係機関において共通の認識を確立しておくとともに、手続を経ている間に、不法行為による被害が拡大することがないよう、状況に応じた早期の下令や手続の迅速化のための方策について具体的に検討することとする。
 (4)さらに、我が国の防衛に資する活動に現に従事する米軍部隊に対して攻撃が発生し、それが状況によっては武力攻撃にまで拡大していくような事態においても、自衛隊と米軍が緊密に連携して切れ目のない対応をすることが、我が国の安全の確保にとっても重要である。自衛隊と米軍部隊が連携して行う平素からの各種活動に際して、米軍部隊に対して武力攻撃に至らない侵害が発生した場合を想定し、自衛隊法第95条による武器等防護のための「武器の使用」の考え方を参考にしつつ、自衛隊と連携して我が国の防衛に資する活動(共同訓練を含む。)に現に従事している米軍部隊の武器等であれば、米国の要請又は同意があることを前提に、当該武器等を防護するための自衛隊法第95条によるものと同様の極めて受動的かつ限定的な必要最小限の「武器の使用」を自衛隊が行うことができるよう、法整備をすることとする。

 2.国際社会の平和と安定への一層の貢献
 (1)いわゆる後方支援と「武力の行使との一体化」
 ア いわゆる後方支援と言われる支援活動それ自体は、「武力の行使」に当たらない活動である。例えば、国際の平和及び安全が脅かされ、国際社会が国際連合安全保障理事会決議に基づいて一致団結して対応するようなときに、我が国が当該決議に基づき正当な「武力の行使」を行う他国軍隊に対してこうした支援活動を行うことが必要な場合がある。一方、憲法第9条との関係で、我が国による支援活動については、他国の「武力の行使と一体化」することにより、我が国自身が憲法の下で認められない「武力の行使」を行ったとの法的評価を受けることがないよう、これまでの法律においては、活動の地域を「後方地域」や、いわゆる「非戦闘地域」に限定するなどの法律上の枠組みを設定し、「武力の行使との一体化」の問題が生じないようにしてきた。
 イ こうした法律上の枠組みの下でも、自衛隊は、各種の支援活動を着実に積み重ね、我が国に対する期待と信頼は高まっている。安全保障環境が更に大きく変化する中で、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の立場から、国際社会の平和と安定のために、自衛隊が幅広い支援活動で十分に役割を果たすことができるようにすることが必要である。また、このような活動をこれまで以上に支障なくできるようにすることは、我が国の平和及び安全の確保の観点からも極めて重要である。
 ウ 政府としては、いわゆる「武力の行使との一体化」論それ自体は前提とした上で、その議論の積み重ねを踏まえつつ、これまでの自衛隊の活動の実経験、国際連合の集団安全保障措置の実態等を勘案して、従来の「後方地域」あるいはいわゆる「非戦闘地域」といった自衛隊が活動する範囲をおよそ一体化の問題が生じない地域に一律に区切る枠組みではなく、他国が「現に戦闘行為を行っている現場」ではない場所で実施する補給、輸送などの我が国の支援活動については、当該他国の「武力の行使と一体化」するものではないという認識を基本とした以下の考え方に立って、我が国の安全の確保や国際社会の平和と安定のために活動する他国軍隊に対して、必要な支援活動を実施できるようにするための法整備を進めることとする。
 (ア)我が国の支援対象となる他国軍隊が「現に戦闘行為を行っている現場」では、支援活動は実施しない。
 (イ)仮に、状況変化により、我が国が支援活動を実施している場所が「現に戦闘行為を行っている現場」となる場合には、直ちにそこで実施している支援活動を休止又は中断する。
 (2)国際的な平和協力活動に伴う武器使用
 ア 我が国は、これまで必要な法整備を行い、過去20年以上にわたり、国際的な平和協力活動を実施してきた。その中で、いわゆる「駆け付け警護」に伴う武器使用や「任務遂行のための武器使用」については、これを「国家又は国家に準ずる組織」に対して行った場合には、憲法第9条が禁ずる「武力の行使」に該当するおそれがあることから、国際的な平和協力活動に従事する自衛官の武器使用権限はいわゆる自己保存型と武器等防護に限定してきた。
 イ 我が国としては、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の立場から、国際社会の平和と安定のために一層取り組んでいく必要があり、そのために、国際連合平和維持活動(PKO)などの国際的な平和協力活動に十分かつ積極的に参加できることが重要である。また、自国領域内に所在する外国人の保護は、国際法上、当該領域国の義務であるが、多くの日本人が海外で活躍し、テロなどの緊急事態に巻き込まれる可能性がある中で、当該領域国の受入れ同意がある場合には、武器使用を伴う在外邦人の救出についても対応できるようにする必要がある。
 ウ 以上を踏まえ、我が国として、「国家又は国家に準ずる組織」が敵対するものとして登場しないことを確保した上で、国際連合平和維持活動などの「武力の行使」を伴わない国際的な平和協力活動におけるいわゆる「駆け付け警護」に伴う武器使用及び「任務遂行のための武器使用」のほか、領域国の同意に基づく邦人救出などの「武力の行使」を伴わない警察的な活動ができるよう、以下の考え方を基本として、法整備を進めることとする。
 (ア)国際連合平和維持活動等については、PKO参加5原則の枠組みの下で、「当該活動が行われる地域の属する国の同意」及び「紛争当事者の当該活動が行われることについての同意」が必要とされており、受入れ同意をしている紛争当事者以外の「国家に準ずる組織」が敵対するものとして登場することは基本的にないと考えられる。このことは、過去20年以上にわたる我が国の国際連合平和維持活動等の経験からも裏付けられる。近年の国際連合平和維持活動において重要な任務と位置付けられている住民保護などの治安の維持を任務とする場合を含め、任務の遂行に際して、自己保存及び武器等防護を超える武器使用が見込まれる場合には、特に、その活動の性格上、紛争当事者の受入れ同意が安定的に維持されていることが必要である。
 (イ)自衛隊の部隊が、領域国政府の同意に基づき、当該領域国における邦人救出などの「武力の行使」を伴わない警察的な活動を行う場合には、領域国政府の同意が及ぶ範囲、すなわち、その領域において権力が維持されている範囲で活動することは当然であり、これは、その範囲においては「国家に準ずる組織」は存在していないということを意味する。
 (ウ)受入れ同意が安定的に維持されているかや領域国政府の同意が及ぶ範囲等については、国家安全保障会議における審議等に基づき、内閣として判断する。
 (エ)なお、これらの活動における武器使用については、警察比例の原則に類似した厳格な比例原則が働くという内在的制約がある。

 3.憲法第9条の下で許容される自衛の措置
 (1)我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを守り抜くためには、これまでの憲法解釈のままでは必ずしも十分な対応ができないおそれがあることから、いかなる解釈が適切か検討してきた。その際、政府の憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められる。したがって、従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための論理的な帰結を導く必要がある。
 (2)憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが、憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところである。この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。
 (3)これまで政府は、この基本的な論理の下、「武力の行使」が許容されるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、冒頭で述べたように、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。我が国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然であるが、それでもなお我が国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要がある。こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。
 (4)我が国による「武力の行使」が国際法を遵守して行われることは当然であるが、国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要がある。憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある。この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれるが、憲法上は、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものである。
 (5)また、憲法上「武力の行使」が許容されるとしても、それが国民の命と平和な暮らしを守るためのものである以上、民主的統制の確保が求められることは当然である。政府としては、我が国ではなく他国に対して武力攻撃が発生した場合に、憲法上許容される「武力の行使」を行うために自衛隊に出動を命ずるに際しては、現行法令に規定する防衛出動に関する手続と同様、原則として事前に国会の承認を求めることを法案に明記することとする。

 4.今後の国内法整備の進め方
 これらの活動を自衛隊が実施するに当たっては、国家安全保障会議における審議等に基づき、内閣として決定を行うこととする。こうした手続を含めて、実際に自衛隊が活動を実施できるようにするためには、根拠となる国内法が必要となる。政府として、以上述べた基本方針の下、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために、あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とする法案の作成作業を開始することとし、十分な検討を行い、準備ができ次第、国会に提出し、国会における御審議を頂くこととする。

1165/2013.03.17安倍晋三内閣総理大臣・防衛大学校卒業式訓示。

資料・史料
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 安倍晋三内閣総理大臣・防衛大学校卒業式訓示
           2013年03月17日

 本日、伝統ある防衛大学校の卒業式にあたり、これからのわが国の防衛を担うことになる諸君に、心からお祝いを申し上げます。卒業、おめでとう。諸君の規律正しく、りりしい雄姿に接し、自衛隊の最高指揮官として、心強く、頼もしく思います。

 また、学生の教育に尽力されてこられた、国分良成大学校長をはじめとする教職員の方々に敬意を表します。日ごろから防衛大学校にご理解とご協力をいただいているご来賓、ご家族の皆様には、心より感謝申し上げます。

 本日は卒業生諸君が、ここ防衛大学校から巣立ち、新たな任務に就く良い機会ですので、内閣総理大臣、そして、自衛隊の最高指揮官として、一言申し上げさせていただきます。

 4年前の1月15日、ニューヨークを飛び立った旅客機が、離陸直後のエンジン停止という最悪の事態に直面し、ハドソン川に緊急着水しました。当時、「ハドソン川の奇跡」とも呼ばれたこのニュースを覚えている人も多いと思います。

 最後まで機内に残り、乗客・乗員155人全員の命を守りきったサレンバーガー機長は、高まる称賛の声に対して、このように語ったそうです。

 「私たちは日ごろの訓練通りに行動しただけだ」

 そこには功名心はありません。あるのは、ただ、乗客・乗員を断固として守りぬくという、機長としての使命感と責任感です。かつて空軍のパイロットでもあったサレンバーガー機長は、こうも語っています。

 「すべての人生は、このときに備えるためにあったように思う」

 「ハドソン川の奇跡」は、「偶然」の結果ではありません。サレンバーガー機長の、強い使命感と責任感に裏打ちされた、努力と訓練の積み重ねがもたらした「必然」の結果であったと思います。

 一生に一度あるかないかの「そのとき」に、完璧に任務を全うする。これは並大抵のことではありません。しかし、これから幹部自衛官となる諸君には、その心構えを常に持って、鍛錬を積み重ねてほしいと思います。

 何よりも、「そのとき」が訪れないようにすることが、日本にとって最善であることは言うまでもありません。しかし、万が一の「そのとき」には、国民の生命と財産、わが国の領土、領海、領空を断固として守りぬく。その責任感を胸に刻み、諸君には、いかなる厳しい訓練や任務にも、耐えていってもらいたいと思います。

 日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増しています。諸君が防衛大学校の門をたたいた4年前とは異なり、わが国の領土、領海、領空に対する挑発が続いています。諸君が、これから臨む現場で起きていることは、冷厳な「現実」であり、「今、そこにある危機」であります。

 今、この瞬間も、諸君の先輩方は、荒波を恐れず、乱気流を乗り越え、泥にまみれながらも、極度の緊張感に耐え、強い誇りを持って、任務を立派に果たしています。

 私はその先頭に立って、国民の生命、財産、わが国の領土、領海、領空を守りぬく決意であります。11年ぶりに防衛関係費を増加します。今後、防衛大綱を見直し、南西地域を含め、自衛隊の対応能力の向上を進めます。

 先般のオバマ大統領との会談により、緊密な日米同盟も完全に復活しました。そのうえで、日米安保体制のもとでの抑止力を高めるためにも、わが国は諸君とともに、さらなる役割を果たしていかねばなりません。

 私と日本国民は、常に諸君とともにあります。その自信と誇りを胸に、諸君には、それぞれの現場で活躍してもらいたいと思います。

 この場には、カンボジア、インドネシア、モンゴル、大韓民国、タイ、そしてベトナムからの留学生諸君もいます。諸君は、国の守りを担う、それぞれの母国の宝であることは間違いありません。

 同時に、わが国にとっても諸君の母国とわが国とをつなぐ、大切な友情の架け橋であります。ぜひとも、ここでの学びの日々で育まれた深い絆を、今後とも発展させてほしいと思います。そして、愛する母国に戻り、それぞれの現場で大いに活躍されることを、心より祈念します。

 今日、この場所から、それぞれの現場に踏み出す諸君に、最後に、この言葉を贈りたいと思います。

 「批評するだけの人間に価値はありません」

 「真に称賛しなければならないのは、泥と汗と血で顔を汚し、実際に現場に立つ者です。勇敢に努力する者であり、努力の結果としての過ちや、至らなさをも持ち合わせた者です」

 米西戦争において、自ら募った義勇兵を率いて、祖国のため戦場に飛び込んでいった経験もあるセオドア・ルーズベルト元米国大統領は、こう語りました。

 卒業生諸君。諸君には、それぞれの現場で、自信と誇りを持って、全力を尽くしてほしいと願います。諸君は、国民と国家を守るという、崇高な現場での任務に、ひたすら没頭してください。

 ご家族の皆さん、大切なお子さまを、現場に送り出してくださることに、最高指揮官として感謝の念で一杯です。お預かりする以上、しっかりと任務が遂行できるよう万全を期し、皆さんが誇れるような自衛官に育てあげることをお約束いたします。

 最後となりましたが、日ごろから防衛大学校にご理解とご支援をいただいているご来賓の方々に感謝申し上げるとともに、本日、栄えある門出に際し、諸君に幸多からんことを祈念し、私の訓示といたします。
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1083/憲法九条の解釈と産経新聞と軍隊と法ニヒリズム。

 自衛隊の憲法上の根拠に関する国会質疑についての報道ぶりをこの欄で疑問視したのは2/05の未明だった。
 その後、産経新聞社説が2/09に、読売新聞社説が2/10にこの問題を取り上げ、産経新聞紙上の「正論」欄では2/09に坂元一哉が「芦田修正が自衛隊合憲根拠なら」と題してこの問題に言及している。他紙の状況は確認していないが、少なくとも社説では取り上げていないようだ。
 上の3つに共通するのは、①いわゆる芦田修正は政府の解釈する自衛隊の合憲性の根拠ではない、②「やはり」憲法改正(軍としての明記)が必要だ、ということだ。
 そもそも自衛隊担当大臣が憲法上の根拠をまともに答弁できないのは異常なのであり、坂元の言うように「昔だったら国会が止まりかねない失態」だ。このことに関する感覚が麻痺しているのではないかと先日は言いたかったのだが、産経社説の冒頭は「自衛隊と憲法の関係があまりに複雑すぎて、ほとんどの国民は理解できないだろう」から始まっている。別の機会に言及する点も含めて、大?新聞の産経新聞の社説子がこう書き始めるとは、(「国民」に代えてはいるが)情けないことだ。田中某大臣の勉強不足のみに焦点を当て、質問者・石破茂の憲法解釈の適否について触れなかった自社の記事への「釈明」のように読めなくもない(官房長官が芦田修正は政府解釈とは異なると述べたらしいが、少なくとも同じ記事の中に書いてはいない)。
 さて、自衛隊が憲法九条2項でいう「戦力」ではないということは、九条2項が「陸海空軍その他の戦力」と表現しているように、自衛隊は「陸海空軍」ではないこと、「軍(隊)」ではないとされていることを意味する。「戦力」というとやや曖昧になってしまうが、現在ある自衛隊は「軍隊」ではないと日本政府は解釈し続けていること(そして司法審査の対象ではないとする最高裁の姿勢・判決によって、このような解釈は肯定されていないが、否定されてもいないこと)をきちんと確認しておく必要がある。
 私の見るところ、このような解釈の長年にわたる「通用」は、少なくとも次の二つの弊害をもたらしているようだ。
 一つは、戦車が「特車」と言い換えられるといった例をよく耳にするが、自衛隊は「軍隊」ではないとされているために、まともな軍隊ならば有しうる(与えられる)はずの種々の権限が制約されている。
 詳細に立ち入る余裕も能力もないが、田母神俊雄はこの点を、軍隊ならばネガティブ・リスト以外のことを全てできるが、自衛隊はポジティブ・リストに明記されていることしかできない、と説明していた。
 かつての幕僚長の言うことだから、結論的にはおそらく的確な説明なのだろう。「軍隊」ではないがゆえの、法律との関係での制約があるのだ。
 もっとも、<軍隊ならばネガティブ・リスト以外のことを全てできる>という説明は、結論的・感覚的には誤ってはいないのかもしれないが、結局のところ、法律による抽象的かつ包括的な権限・権能の付与が「軍隊」の場合は通常(どの国でも)憲法または法律によって行われている、ということであり、軍隊であるがゆえの「国際法」上の権能だという説明ではないように見える。なぜなら、ある国の、ある武力・実力組織が「軍隊」であるか否かを決定することができるいかなる国際機関も存在しないと思われるからだ。
 したがって、違いは要するに国内法(憲法上の存在ではない日本では法律)上の扱いの違いなのであり、自衛隊を「軍隊」とは理解してこなかった日本の法律は、<抽象的かつ包括的な権限・権能の付与>をしてこなかった、ということなのだろうと思われる。このあたりは、軍事・防衛法専門家(いるとすれば)のきちんとした説明を聞きたいものだ。
 二つは、一種の「法ニヒリズム」の根拠・背景になってきた、ということだ。軍隊(・自衛隊)の存否、その法的な根拠は国家にとって最重要事項のはずだが、日本政府自体の憲法解釈が大まかに言って朝鮮戦争勃発の前後によって変わってきたことによって、<憲法解釈などどのようにでもなる>という印象を多くの国民に与えたことは否定できないように思われる。また、世界で第何位の実力があるというようなかたちで紹介されることもある自衛隊の装備・能力が(上に触れたような制約があるとはいえ)、常識的な用語としての「軍その他の戦力」ではない、とするのは、必ずしも容易に理解できるものではない。
 憲法と自衛隊に関する説明・授業を聞く小学生・中学生たちは、何と感じるだろうか。<(日本の)大人たちはゴマかしている>と感じないだろうか。
 もともと欧米的な「法・権利」意識が日本(国民)にそのまま根付くものなのかという問題はあるのだが、そうした基本問題以前のところで、憲法をはじめとする法(法令等)に対する「不信」のようなもの、それを伝統的・歴史的な意識に支えられた自然の「法」意識へと育てず、憲法等の「法」を(どのようにでも解釈・運用できる)<技術的な道具>視してしまうような意識・心理の重要な背景の一つは(最高裁の姿勢もその一つだが)九条・自衛隊に関する政府の解釈でもあったように考えられる。
 さらに論及したいことがあったが、長くなったので別の回に委ねる。

1080/自衛隊の合憲性の根拠は芦田修正?

 2/02衆議院予算委員会で自民党・石破茂が田中某防衛大臣に自衛隊の合憲性についての憲法(九条)上の根拠を糾し、田中某が「しどろもどろ」の答弁をしたので、石破茂は、次を「模範解答」として教示した、とされる。
 ・九条二項冒頭のいわゆる「芦田修正」(「前項の目的を達成するため」の挿入)。他に「文民条項」も挙げたらしいが、これをも追加した意味は不明なので、以下では後者については省略しておく。
 誰かがどこかですでに書いているだろう。石破の憲法「解釈」は成り立ちうるものではあるが、これまでの政府見解とはまったく異なる。
 元防衛大臣の石破も、そして自民党も、上の問題についての「政府見解」を知らないとは、まったく呆れてしまう。それをご説ごもっともと?聞いていたらしい田中某も民主党政府全体も、そしてマス・メディアもどうかしている。この点を問題視していた全国紙はあったのだろうか。
 憲法9条の法解釈論を少しでも勉強したことがある者であれば誰でも知っているようなことだ。
 なるほど芦田修正を形式的に文言どおりに生かせば、前項(9条1項)による<侵略戦争の禁止(放棄)>のためにのみ「戦力の保持」が2項によって禁止されていることになる。換言すれば、<自衛(戦争)>のための「戦力」保持は禁止されておらず、自衛のための(堂々たる)「戦力」として自衛隊は認知されていることになる。
 しかし、政府の解釈も変遷してきたという曖昧さ・いいかげんさはあるのだが、昭和29年・自衛隊法制定時の鳩山一郎内閣時代の林修三法制局長官国会答弁(1954.12.21)は、次のようなものだった。
 ・「国家が自衛権を持っておる以上…〔自衛のための〕実力を…持つことは当然のこと」、「憲法が…、今の自衛隊のごとき…自衛力を禁止しておるということは…考えられない。すなわち第2項…その他の戦力は保持しないという意味の戦力にはこれは当たらない」。
 また、同時期の大村清一防衛庁長官国会答弁(1954.12.22)は、次のようなものだった。
 憲法は自衛権・「自衛のための抗争」を否定していない。「…従って自衛隊のような自衛…目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない」。
 要するに、芦田修正などは何ら根拠とされず、そもそも自衛隊は九条2項が保持を禁止する「戦力」ではなく<自衛のための実力部隊>にすぎない、とされたのだ。
 その後、佐藤栄作内閣時の吉国一郎法制局長官国会答弁(1972.11.13)は、「9条2項の戦力の定義」は「自衛のための必要最小限度を超えるもの」だと述べ、自衛隊は「超えるもの」ではないがゆえに「戦力」ではなく、従って憲法9条に抵触しない、とした。
 「戦力」の意義を明瞭にしているが、基本的な趣旨は、昭和29年の時期と同じだと解してよい。
 このような解釈については、常識的にみて自衛隊が「戦力」に当たらないとするのはこじつけだとか、「必要最小限度」とはどの程度かあいまいだ等の批判は当然にありうる。
 しかし、ともあれ、これが現在も生きている日本政府の(自衛隊に関する)憲法解釈のはずなのであり、石破が「芦田修正」を持ち出すのは、芦田に自衛隊(自衛軍)保持の余地を残したいという意図がかりにあったとしても、<公的な・公定の>解釈ではなく、一国会議員の解釈にすぎない。石破は1970年代以降に大学で憲法を学んだはずだが、よほど奇妙な(主観的な個人の解釈だけを示す)教師の講義を受けたのだろうか。
 こんな、自衛隊の存立基礎にかかわる問題について、与党も野党も、そしてマスコミも、国会における奇妙なやりとりを問題意識をもって聞いていないとは、まことに奇妙な、あるいは異様な事態だと思われる。ますますもって嘆かわしい世の中になってきている。

0954/資料・史料-2010.12.09朝日新聞社説。

 資料・史料 朝日新聞2010年12月09日付社説

 

 離島防衛―「鎧」見せつけるだけでは
 自衛隊と米軍あわせて4万5千人が参加する過去最大規模の日米共同統合演習が、今月3日から九州、沖縄や日本海の周辺で行われている。
 北朝鮮の軍事挑発とともに中国の著しい海洋進出を牽制(けんせい)するのが狙いだ。演習には沖縄本島から与那国島にかけての、いわゆる南西諸島を防衛するための海上・航空作戦が含まれる。
 近年の中国海軍の活動をにらんで、これまで手薄だった離島地域の防衛体制を大幅に見直す。そんな議論が、「防衛計画の大綱」の年内改定に向け政府・与党内で進められている。
 ここは結論を急がず、熟慮してもらいたい。
 この地域の防衛力は現在、沖縄本島の陸上自衛隊約2100人や航空機部隊が中心で、それ以西は宮古島のレーダーサイトだけだ。地理的な制約や住民感情に配慮し、本島に駐留する米軍の抑止力に頼ってきたことが大きい。
 2004年にできた今の防衛大綱は、初めて中国の動向を意識して「島しょ部に対する侵略への対応」を盛り込み、防衛省は冷戦時代の北方重視を改め、「南西シフト」と呼ばれる部隊や訓練の見直しを進めてきた。
 同省は現在、与那国島への陸自配備などを検討している。
 9月の漁船衝突事件もあり、尖閣諸島への自衛隊配備や米海兵隊のような水陸両用部隊の創設を求める意見が、民主党内からも出た。
 とはいえ、日中両国の相互依存関係は深まる一方であり、近い将来、中国が武力侵攻を起こすとは考えにくい。日米の緊密な防衛協力体制がそれを抑止している。米中が正面から軍事的に衝突する展開も、ありそうにない。
 そうした状況で、脅威対応型の発想に傾きすぎるのは得策ではあるまい。かえって、日米中3カ国の安定した政治的枠組みを構築していく地道な作業を妨げることにならないか。
 洋上の移動手段もない陸上部隊を島々においても、中国海軍の艦艇に対する抑止効果は望めない。
 仮に海兵隊のような攻撃力の高い部隊をおけば、それこそ中国側に軍備拡張の格好の口実を与えかねない
 この地域で今後起こりうる危険は、偶発的な海上衝突だろう。それを避けるには、まずは対話を通じ両国間の連絡メカニズムや危険回避のルール作りを急ぐべきだ。
 同時に、これからも続くと見られる中国の民間船や公船との摩擦に備え、海上保安庁の警察機能を充実させ、領海警備をめぐる海自と海保の連携を深めることである。
 万一の場合の備えが必要としても、機動性の高い艦艇や航空機を遠方からでも投入できるよう即応性を高める方が賢明ではないか。「鎧(よろい)」を見せつけるだけが抑止ではあるまい
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 (下線は掲載者)

0945/資料・史料-2010.11.26仙石由人官房長官問責決議案理由

 史料・資料-参議院・仙石由人官房長官問責決議案「理由」 2010.11.26問責決議可決

 

 理由

 「菅内閣発足以来、国難ともいうべき事態が続いており、内閣の要であり、実質的に内閣を取り仕切っているといわれる仙谷大臣の官房長官としての責任は極めて重大である。菅内閣では、仙谷官房長官が実質的に重要事項の決定を主導しており、最近では法務大臣、拉致問題担当も兼務することになったが、仙谷官房長官が内閣の中枢に居座ったままでは、現状の打開は望むべくもない。

 以下、仙谷官房長官を問責する理由を、列挙する。

 第1に、「尖閣諸島沖中国漁船衝突事件」における極めて不適切な対応である。

 公務執行妨害で逮捕された中国人船長の釈放は、那覇地検が「わが国国民への影響や今後の日中関係を考慮」して判断したとしているが、このような重大な外交上の判断が一地方検察庁でなされたと信じる者は誰もいない。総理、外務大臣が国連総会で不在の中、官邸の留守を預かる仙谷官房長官主導で釈放の政治判断が行われたと考えざるを得ない。

 しかし、仙谷官房長官は、釈放は那覇地検の判断であったとの強弁を繰り返している。仮に、一行政機関である那覇地検が外交判断による釈放を行い、それを政府が是認したとすれば、検察が外交を行ったという日本外交史上、例を見ない越権行為が民主党政権下で行われたことになる。逆に、官邸が那覇地検に釈放の圧力をかけたとすれば、仙谷官房長官は虚偽の答弁を重ねてきたことになる。どちらにしても、この件を主導してきた仙谷官房長官の責任は重大である。
 さらには、諸外国に対してわが国の正当性を訴えるために戦略的に使われるべきであった衝突時のビデオは、官房長官の主導により長期間非公開にされ、事件発生から50日間を経て、ようやく6分50秒に編集されたものが国会に提出されただけであった。仙谷長官の誤った対処により、わが国は貴重な外交カードを失ってしまったのである。一連の対応により、失われた国益は大きい。

 さらに政府が国会に提出したビデオの6倍以上にわたる2回の衝突の時間を含む44分間のビデオが一海上保安官の手で流出し、全世界で視聴可能な状態となった。仙谷官房長官はビデオの国会提出にあたり書面で「慎重な扱い」を求めていたにもかかわらず、政府内では情報管理を行っていなかったことが露呈した。本来公開すべきビデオを公開しなかったからこそ起こった問題と言わざるを得ない。この責任も重大である。加えて事態発覚後は「政治職と執行職」という詭弁を弄して、自分たちの責任を海上保安庁長官一人になすり付けようとしたことも糾弾されるべきである。

 第2に、国権の最高機関たる国会を愚弄する、暴言、失言の数々が繰り返されていることである。

 菅総理自らが今国会冒頭の所信表明演説で、熟議の国会を呼び掛けているにもかかわらず、指名されてもいない仙谷官房長官がしゃしゃり出て、話をすり替え、恫喝し、また答弁席からやじを飛ばすなど、国会軽視もはなはだしい。また、報道に基づき質問した質問者に対して、自らも過去に何度もの質問をしていたことを棚に上げて「最も拙劣な質問」だと侮辱し、予算委員会が民主党も賛成した議決に基づいて呼んだ参考人に対して疑義を唱え、さらには恫喝を加え、内閣のスポークスマンとしての官房長官の資質を疑わざるを得ない。
 第3に、日本国憲法に抵触する発言を繰り返し、憲法順守の義務に違反していることである。

 中国漁船衝突事件のビデオ公開関連の「厳秘」書類を予算委員会で撮影された際に、自らの危機管理の甘さを恥じることもなく、「盗撮」呼ばわりし、取材規制の強化を振りかざし報道の自由を侵害しようとした。また、国会の外においては、自衛隊の施設内での民間人の発言を規制することを認めるなど、仙谷官房長官は憲法に定める表現の自由の侵害に加担している。

 仙谷官房長官は自衛隊を「暴力装置」と発言した。学生時代、社会主義学生運動組織で活動していた仙谷長官にとっては、日常用語であるかもしれないが、平和憲法に基づき国家の根幹である国防を担い、国際貢献や災害救助に汗をかく自衛隊を「暴力装置」と侮辱したことは、決して許されるものではないし、自衛隊を「暴力装置」と表現することは、憲法9条をはじめとする日本国憲法の精神を全く理解していないということである。

 第4に、国会同意人事案件に対する怠慢である。

 民主党政権は、今次国会召集からかなり日時を経た、10月半ばに5機関11名について提示した。これらはすべてが任期満了か、既に辞任した空席を補充するための人事であった。さらに今なお再就職等監視委員会の人事については提示さえしてきていない。さらには、この同意人事の国会議決がされていないにもかかわらず、次の人事を提示した。これらを長く放置していたことは国会軽視、政府の怠慢以外の何ものでもない。同意人事を担当する官房長官の責任は重大である。

 第5に、北朝鮮による韓国・延坪島砲撃事件における危機管理能力の欠如である。

 北朝鮮の砲撃開始は午後2時34分であるが、菅総理は砲撃を3時半ごろ報道で知り、官房長官もほぼ同時刻に第一報を東京都内の私邸で受け取っている。総理が官邸に入ったのは午後4時45分、仙谷官房長官は同50分である。総理、官房長官ともに、砲撃から2時間以上、一報を受け取ってから1時間20分経過してから官邸に入っている。しかも官房長官は総理より遅い登庁である。

 仙谷官房長官のその傲岸不遜な発言、失策の数々には、与野党を問わず、批判が集中している。一刻も早く、官房長官が職を辞すことが、菅内閣による日本の国益への損失を少しでも抑えることにつながると確信する。

 以上が本決議案を提出する理由である。」 

0939/自衛隊を「暴力装置」と呼ぶ仙石由人の「反日」・マルクス主義者ぶり。

 一 仙石由人「健忘」官房長官が、11/18、自衛隊を「暴力装置」と呼んだ。

 軍(・警察)を「暴力装置」と呼ぶのはマルクス主義用語で、仙石の頭の中には、<自衛隊(軍)=暴力装置>という固定観念が根強く残っていることが、とっさの国会(参院予算委)答弁中の発言であることからもよく分かる。

 しかも、仙石由人は、「法律用語としては適切ではなかった」とだけ述べて陳謝し、撤回した。「法律用語」ではない「政治(学)」用語または「社会科学」(?)用語としては誤ってはいない、という開き直りを残していることにも注意しておいてよい。

 厳密には、マルクス・レーニン主義(コミュニズム)においては「国家」こそが「暴力装置」で、その国家を体現するのが<軍(・警察)>ではなかったか、と思われる。そして、マルクス・レーニン主義上は、「暴力装置」としての(またはそれを持つ)「国家」は、「家族」・「私有財産」とともにいずれ死滅する筈のものだった。現実に生まれたマルクス主義国家=社会主義国家が、まだ過渡的な時代のゆえか(?)、強力で残忍な「暴力装置」(政治犯収容所等を含む)があってはじめて存立しえたこと(しえていること)はきわめて興味深いことだが…。

 二 仙石由人は、奇妙で重要な発言を官房長官になって以後、しばしばしている。ソ連(ロシア)とは平和条約を締結しておらず国交を回復していないとの認識を示したらしいことも、官房長官としての資格を疑うに足りた(たしかのちに撤回した)。これよりも重大なのは、日韓関係についての発言だろう。

 2010.08.10の菅直人首相談話は100年前の日韓併合条約によって「その〔韓国の人々〕の意に反して行われた植民地支配」が始まった、と述べた。閣議を経ていることからも、仙石由人がこの文案作成に大きく関与している可能性がきわめて高い。

 また、2010.07.07には1965年の日韓基本条約に関連して、次のように述べた、と伝えられる。すなわち、「日韓基本条約を締結した当時の韓国が朴正煕大統領の軍政下にあった」ことを指摘し、「韓国国内の事柄としてわれわれは一切知らんということが言えるのかどうなのか」と述べ、同条約で韓国政府が日本の「植民地」時代にかかる<個人補償>請求権を放棄したことについて「法律的に正当性があると言って、それだけで物事は済むのか」と発言した。解決済みの筈の、または問題自体が存在しない、<従軍慰安婦>個人補償「問題」を、政府としてむし返す意向だ、と理解された。

 さて、当時にすでに感じたままこの欄に書いてこなかったことだが、仙石由人は、では、日本と日本国民にとって(韓国人にとっての日韓併合条約と同等に)重要な1947年の日本国憲法は日本国民の完全に<自由な意思>にもとづいて、つまり<意に反して>ではなく、制定され、施行されたのだろうか。当時は間接統治だったが、GHQの「軍政下」で制定され、施行された。朴正煕の「軍政」以上の、外国の「軍政」下にあったときに日本国憲法は作られたのだ。

 仙石由人は、日韓併合条約や日韓基本条約の韓国側の<任意性>や<(軍政下という)内部事情>を問題にするならば、日本国憲法の出自につき、万が一「法律的に正当性がある」と主張できるとかりにしても、なぜ「それだけで物事は済むのか」と考え、主張したことがあるのか?

 自分の国の憲法制定についての<任意性>や<(軍政下という)内部事情>という重大な事柄には思いを馳せず、韓国側の<任意性>や<(軍政下という)内部事情>は考慮するのは、いったい何故なのか? ちゃんちゃらおかしい。

 さらにいえば、1945.08.14の<ポツダム宣言>受諾自体、日本の<任意>だった、と言えるのか? 昭和天皇の「ご聖断」により決定された。だが、<任意に>とか<自由意思により>とかは厳密にはありえず、アメリカの強大な武力(核を含む)による威嚇によって<不本意>ながら受諾した、というのが、真実に近いだろう。敗戦という<終戦>が、本来の「意」に反して、行われない筈がない。国家間の戦争・紛争・対立の解消とは、少なくともどちらか一方の「意に反して」行われるのが通常だろう。

 仙石由人(や菅直人)には、このような常識は通用しないらしい。<意に反して>=<任意ではなく>=<強制的に>といった彼らの(とくに日中・日韓関係にかかわる)言葉遣いには注意が必要だ。

0937/「戦後」とは何だったのか①-三島由紀夫「檄」。

 三島由紀夫の自裁後、ちょうど40年がもうすぐだ。
 1970年11月25日の「檄文」は、当時における三島の「戦後」認識を示している。そして、40年後の現在も何も変わっていないことに気づく。いや、何も変わっていないのではなく、当時よりも状況は<悪く>なっているかもしれない。

 「戦後」とは何だったのか。現在も含めて、<1947年憲法体制>の時代、と将来は呼ばれそうな気がする。ともあれ、三島由紀夫の「檄文」における「戦後」認識を引用する。なお、この「檄文」の一部はすでにこの欄に掲載したことがあるが、そのときよりも、引用部分をより長くした(新仮名遣いに改めている)。決定版三島由紀夫全集36巻p.402以下(2003、新潮社)。

 「檄/〔略〕/
 われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。〔中略〕しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不明確な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。〔中略〕憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力を尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

 〔中略〕日本の軍隊の建軍の本義とは、『天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る』ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしたのである。

 〔中略〕その日〔昭和44年10月21日〕に何が起こったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て『憲法改正』という火中の栗を拾わずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。〔中略〕政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬っかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。〔中略〕そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。

 〔中略〕この昭和四十四年十月二十一日という日は〔中略〕憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され〔中略〕自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であった自衛隊は、『護憲の軍隊』として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。

 〔中略〕沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであろう。

 〔中略〕もう待てぬ。〔中略〕生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。〔以下略〕」

 「戦後」認識には当然に、戦後の基本的「体制」をどう認識するかも含まれる。そこには憲法上は「戦力」ではない筈の自衛隊をどう見るか、上の文には出てこないが日米安保をどう見るか、もまた含まれる。そして「憲法改正」にどういう立場を採るかにも関係してくる。

 一字一句、三島由紀夫の文章を<信奉>することはしない。だが、40年前の三島の鋭い指摘・認識にはあらためて感心する。三島由紀夫だけの認識や考え方ではなかっただろう。だが、当時も現在も、基本的なところですら、日本の政治家や国民の<多数派>にはなっていない。痛い想いとともに、三島の死の意味を考える。

0783/資料・史料-2008.11.01「田母神論文」朝日新聞社説。

 資料・史料-2008.11.01「田母神論文」朝日新聞社説

 平成20年11月1日
//朝日新聞社説
 「空幕長更迭―ぞっとする自衛官の暴走
 こんなゆがんだ考えの持ち主が、こともあろうに自衛隊組織のトップにいたとは。驚き、あきれ、そして心胆が寒くなるような事件である。
 田母神(たもがみ)俊雄・航空幕僚長が日本の植民地支配や侵略行為を正当化し、旧軍を美化する趣旨の論文を書き、民間企業の懸賞に応募していた。
 論文はこんな内容だ。
 「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者」「我が国は極めて穏当な植民地統治をした」「日本はルーズベルト(米大統領)の仕掛けた罠(わな)にはまり、真珠湾攻撃を決行した」「我が国が侵略国家だったというのはまさに濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)である」――。
 一部の右派言論人らが好んで使う、実証的データの乏しい歴史解釈や身勝手な主張がこれでもかと並ぶ。
 空幕長は5万人の航空自衛隊のトップである。陸上、海上の幕僚長とともに制服の自衛官を統括し、防衛相を補佐する。軍事専門家としての能力はむろんのこと、高い人格や識見、バランスのとれた判断力が求められる。
 その立場で懸賞論文に応募すること自体、職務に対する自覚の欠如を物語っているが、田母神氏の奇矯な言動は今回に限ったことではない。
 4月には航空自衛隊のイラクでの輸送活動を違憲だとした名古屋高裁の判決について「そんなの関係ねえ」と記者会見でちゃかして問題になった。自衛隊の部隊や教育組織での発言で、田母神氏の歴史認識などが偏っていることは以前から知られていた。
 防衛省内では要注意人物だと広く認識されていたのだ。なのに歴代の防衛首脳は田母神氏の言動を放置し、トップにまで上り詰めさせた。その人物が政府の基本方針を堂々と無視して振る舞い、それをだれも止められない。
 これはもう「文民統制」の危機というべきだ。浜田防衛相は田母神氏を更迭したが、この過ちの重大さはそれですまされるものではない。
 制服組の人事については、政治家や内局の背広組幹部も関与しないのが慣習だった。この仕組みを抜本的に改めない限り、組織の健全さは保てないことを、今回の事件ははっきり示している。防衛大学校での教育や幹部養成課程なども見直す必要がある。
 国際関係への影響も深刻だ。自衛隊には、中国や韓国など近隣国が神経をとがらせてきた。長年の努力で少しずつ信頼を積み重ねてきたのに、その成果が大きく損なわれかねない。米国も開いた口がふさがるまい。
 多くの自衛官もとんだ迷惑だろう。日本の国益は深く傷ついた。
 麻生首相は今回の論文を「不適切」と語ったが、そんな認識ではまったく不十分だ。まず、この事態を生んだ組織や制度の欠陥を徹底的に調べ、その結果と改善策を国会に報告すべきだ。//

0746/田母神俊雄・自衛隊風雲録(飛鳥新社、2009.05)より-1。

 一 田母神俊雄 1.1948.07、福島県郡山市田村町大字糠塚に農家の長男として生まれる。
 1961.03、田母神小学校卒
 1964.03、二瀬中学卒。二年生のときに一度2番に落ちたが、以降は卒業するまで成績は首位。
 1967.03、県立安積高校卒。500名中60番で入学。卒業時、理系で「3番」の成績。東京大学理Ⅰ合格確率5割くらいと言われ、東京工業大学か東北大学理工学部を志望。しかし、父親に防衛大学校を薦められる。
 1967.04、防衛大学校入学。
 2.① 2008.10.31午後1時30分頃、日経新聞記者が論文最優秀賞のお祝いの言葉。15:00定例記者会見、論文関係質問なし。
 受賞・賞金300万円につき報告をと浜田靖一防衛大臣室を訪れるが不在。岸信夫防衛政務官(安倍晋三の弟)が「すごいですね。おめでとう」と祝意。
 増田好平次官を訪れて「空気が一変」。
 増田「これは届け出をしていましたか?」
 田母神「職務に関係しないし誰でも書けることだからしていない」〔要旨〕
 増田「いや、そうは言えないかもしれません」。
 自室に戻り、増田の態度に「少し引っ掛かるものを感じたが」書類の片付け等。
 30分後、斎藤隆統合幕僚長を訪れる。
 斎藤「タモちゃん、これは問題になるかもしれないぞ」
 田母神「今まで何年もずっと同じことを言っていますよ」
 再び自室に。1時間ほどして増田好平から電話。
 増田「読ませてもらいましたけど、…集団的自衛権には触れているし、憲法の話はしてるし、立派に職務に関する論文ですよ」。
 田母神「こんなこと一般的に誰でも言っていることじゃないですか。私が何か踏み込んだ発言をしていますか? もう普通に言われていることですよ」
 増田「いや、これはちょっと問題になるかもしれない」 と繰り返す。
 これが、ほぼ16:30過ぎ。記者たちが論文問題で騒いでいる空気なし。
 帰宅(官舎)し、招待客と酒肴に興じていると19:00頃に増田好平から電話。
 増田「官〔空?〕幕長、これは今夜中に決着をつけなきゃいけないかもしれません」。
 田母神「決着をつけるとはどういう意味ですか?」
 増田「辞表を書いてもらいたい!」 
 田母神「何で辞表書くの? こんなことで私は辞表なんか書きませんよ!」 電話を切ると再び増田から電話。
 増田「やはり辞表を書いてもらうことになるようだ」。
 「そうこうするうち」斎藤隆統合幕僚長から電話。
 斎藤「タモちゃん、これはもう辞表を書かないと収まらないぞ。記者たちも騒ぎ出している」。
 田母神「いや、私は辞表は書かないですよ。私は国家に対して悪事を働いたとは思っていないし、国家、国民のために、こうあらねばならないということを書いただけです。ましてや自衛隊の秘密を漏らした訳でもない。こんなことで辞表を書けといわれたら、自衛官はもう何も発言できなくなりますよ!」
 斎藤「何! お前! こんなに問題になっているのに、何言ってるんだ! バカやろう!」
 田母神「バカやろうとは何だ! たまには制服組の代表らしい行動を取ってみたらどうだ! バカやろう」。
 その後増田から2度電話。「辞表を書いてくれ」、「いや、書かない」 の反復。4回めの電話で以下。
 田母神「浜田防衛大臣も辞表を書けと言っているのか?」
 増田「大臣も書けと言っている」。「空幕長、信じられないなら大臣に直接電話して確認して下さい」。
 すぐに千葉にいる浜田靖一に電話。大臣も「婉曲に辞表を書いてもらわねばならないというような言い方」をした。田母神「いやぁ大臣もそういう意向ですか」 。
 どうせ自分をクビにする権限が最終的には増田側にあると思い、「辞表を書くのはやめようと決断」した。その旨を以下のとおり増田に伝える。
 田母神「大臣の意向も理解した〔要旨〕。しかし私は辞表を書く意思がない。従って、そちらで(勝手に)クビを切って欲しい」。
 増田、<懲戒免職>を話題にする。「辞表を書かないと懲戒免職になる可能性もある。そうなると退職金は出ない」。
 田母神「それで結構だ」。
 (おそらく増田から何度か電話がさらにあったと思われる-秋月)
 懲戒免職には「懲戒審議会」の審理手続が事前に必要。「私は懲戒審議会でも何でも開いて、私の論文が職務に関するものだったかどうか、審議してくれといった」。そうすると<言い分>を公表できるし、「時間も1カ月以上はかかる」。
 増田「懲戒審議会の審理を辞退して欲しい」(と「虫のいい」要望
 田母神「いや、それは出来ない。むしろ徹底的に審理して欲しい」。
 浜田大臣が防衛省に戻ると聞き、そこへ行こうと車に乗る。車中で「防衛省が空幕を通じて」携帯に電話。
 「記者たちが大勢集まって大変な騒ぎになっている。空幕長に来られると現場が一層混乱するので来ないで欲しい」。
 その場から浜田大臣に直接に電話すると、
 浜田「空幕長、ちょっと熱くなっているしれないけれど、一晩ゆっくり寝て考えてくれないか」。
 「少しも熱くなどなっていなかった」が、田母神「分かりました」。
 自宅(官舎)でテレビを見ていると<浜田防衛大臣が私を更迭した>とのニュース。ついさっきの「一晩ゆっくり寝て考えてくれないか」は何だったのか、「たんなる方便」かと、「正直唖然」。
 官舎に記者たちが押し掛け始めたので、23:.30頃、都内のホテルに移動。
 2008.11.01午前01:30、岩崎航空幕僚副長より携帯メール。
 岩崎「田母神空幕長は10.31付で空幕付きに。代わって私が空幕長職務代理に〔要旨〕」。
 「小さな服務事故」の報告でも1週間は要するのに「私に関しての処理はこれほど素早いのか」と「怒るよりは半ば呆然」。
 明けてのちの午前中、「空幕」とのやりとりの中で、「11月4日に定年になるそう」との情報が入る。
 ホテルに籠もり、4日に予定だろう離任式での「離任の辞」の原稿を書き進める。大臣、増田、斎藤からは「一切連絡はなかった」。
 2008.11.03の17:00、「空幕」を通しての電話に驚く。
 空幕「本日、3日付で定年退官となりました」。
 「一瞬で」、「私に離任式をやらせないための策謀だ」と理解した。
 祝日の11/03の翌日11/04かと思っていたが、退官日が11/03というのは「最初から想定されていたに違いない」。「当初、4日としていたのは、私が何らかの対応策をとるのを恐れた」からで「3日の夕方ぎりぎりになって正式の連絡をするというのはあらかじめ決められていたのだろう」。
 すでに民間人だったわけだが「退官したその日は制服を着てよい」ので「制服を着て防衛省に行こう」、「定年退職を自らの自らの口で発表する記者会見を開こう」と思って「これから登省する」と電話すると、以下。
 「今日も記者が大勢集まっている。混乱するから申し訳ないがもう来ないでくれ」。
 (つづく)

0731/田母神俊雄に関連する朝日新聞5/04記事の「バカ」くささ。

 遅いコメントだが、朝日新聞5/04付朝刊の「虚の時代4/『タモちゃん現象』を利用」と題する記事は、朝日新聞らしく、気味が悪い。
 田母神俊雄はまだ単著や対談本等を発刊し続けている。田母神を「支持する」意向をごく微小ながらも示したくもあり、できるだけ購入するようにしている。
 上の記事は、田母神俊雄本が売れ、同・講演会が盛況らしいこと(「タモちゃん現象」)に幾分かの恐怖を覚え、揶揄してやろうとの魂胆のもののようだ。
 事実だとしても田母神俊雄支持者のすべてではなくごく一部の者に違いないが、上の記事は、防衛大学校長・五百旗頭真の講演会を中止するよう「圧力」をかけた人物がいた、と書く。そして続けて、(この記事の論旨展開はかなりいい加減なのだが、)秦郁彦の田母神俊雄論文の一部を批判する発言を載せる。その後にすぐにつなげて、中島岳志(パール判事論争の当事者で、小林よしのり等の批判を受けている者)の、「タモちゃん現象」を揶揄する発言-「権威」を「抵抗勢力」に仕立て、「笑いと断言口調」で批判する、そういう「テレビ」の「司会者やタレント」と「似通っている」-を紹介する。
 上のあとすぐにつなげて最後に書く-「言論の自由は言論の中身を吟味するためにある」。「それを怠り、威勢のいい言葉に熱狂すれば、つけは市民に回ってくる」。
 このバカ記事は何を言いたいのか。田母神俊雄は、「笑いと断言口調」で人気をとるテレビ「司会者やタレント」と似ており、またその「威勢のいい言葉」に熱狂などしているとダメですよ、と「市民」に説いているのだろう。
 このように言う(新聞記事を書く)「表現の自由」はあるだろう。だが、この記事を執筆した朝日新聞記者は、この自分の文章もまた「表現の自由」によって「言論の中身を吟味」される、ということを理解しているだろうか。
 「言論の中身を吟味する」ことを「怠り、威勢のいい言葉に熱狂すれば、つけは市民に回ってくる」とヌケヌケと書いているが、この記事も朝日新聞の社説等も「中身を吟味」される(そうしないと日本国家と日本社会はますます奇妙になる、との見解もある)、ということを理解しているだろうか。
 また、朝日新聞はそもそも、「威勢のいい言葉」を使い、読者の「熱狂」を煽る、ということをしたことがないのだろうか。あるいは朝日新聞は、見出しの表現などを意図的に工夫すること等によって読者の印象・心理や意見・見解を巧妙に一定の方向に誘導することをしなかっただろうか。後者の場合も、広義には、「威勢のいい言葉」によって読者の「熱狂」を煽る、ということの中に含めうる。
 この記事が田母神俊雄について書いていることは、朝日新聞自体やこの記事の執筆者にもはねかえってくるものだ。このことを何ら自覚していないようにも見えるが、そうだとすれば、自分や朝日新聞と田母神俊雄は全く別者(別物)だという前提に立っていることになり、傲慢さも甚だしい。

0669/2009年2/15(日)午後の某テレビ番組における小牧薫と高嶋伸欣。

 2/22ではなく2/15(日)午後の読売系「そこまで言って委員会」。沖縄住民集団自決問題で、田嶋陽子が相変わらずバカを晒していたが、珍しいと思われる「左翼」団体の事務局長と「左翼」大学関係者が登場していた。
 事実を知りたいだけ、とか、イデオロギーとは無関係、とかぬけぬけと言っていた。嘘をつくな、恥を知れ、と言いたい。以下の「」は録画を見ながらの引用。
 まず、小牧薫。大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会事務局長。
 ・「過去の日本軍のことを考えても、軍隊は住民を守らない、国民を守らない。国民を守るのは警察であり、消防だ」。
 「過去の日本軍」のことが現在の「軍隊(・自衛隊)」に一般的にあてはまるような、論理的にも間違った主張だ(「過去の日本軍」の諸問題を肯定しているわけではない)。警察・消防で外国軍の武力侵入・武力攻撃から国民を守れるかどうかを論じること自体愚かなことだ(だから、こんな点には立ち入らない)。かかる<反軍隊>意識は、事実にもとづかない、<イデオロギー>以外の何物でもない。「自衛隊」は他国から国民を守るのではなく、外国に戦争を仕掛けにいく組織だ、という先入観・偏見も、ためらいなく述べていた。
 ・戦後日本が「直接外国から侵略を受けたことがなかったのは、まさしく憲法九条があったからだ」。
 こうした考え方の持ち主を、たしか井沢元彦によると<憲法真理教>信者とでもいうのだろうか。
 テレビに出てきて以上のようなことを躊躇せずに発言できるというのは、ほとんど内輪・仲間うちの見解や議論だけを詳しく知っていて、異なる主張・見解もあるということを観念的には知っていても具体的にはそうした異論と接したことのない、子供のように無垢な<左翼>なのかもしれない。明らかに60歳を超えていて、上のような理解に凝り固まっているとはなかなか珍しい、ある意味では「幸福な」お方だ。
 ついで、高嶋伸欣。琉球大学名誉教授。別の教授の本(岩波だ!)を援用しつつ、戦後・講和時の日米安保条約を対等なものから従属的なものにしたのは昭和天皇の意見・示唆による、とその本を信じたらしく語った。なぜ昭和天皇はそういう意見だったのかにつき、高嶋はこう言った。
 ・「朝鮮半島まで共産勢力が出てきた」ことを考えると、沖縄も含めて米軍は自由な立場で動いてもらわないと日本は「共産勢力の脅威にさらされつづける」、「天皇にとっては天皇制を存続させることが最大の使命ですから」、その脅威が重くのしかかっていた。
 事実関係も問題だとしても、気になったのは、この人は、「天皇にとっては天皇制を存続させることが最大の使命ですから」と言い切ったことだ(「陛下」との敬称は当然にない)。つまり、日本国家・国民ではなく自分を中心とする「天皇制」維持のみが、あるいは少なくともそれが最大の、昭和天皇の関心事だった、と言ったわけだ。
 ここには昭和天皇に対する畏敬の念などがある筈もなく、昭和天皇は<天皇制>維持を最優先したエゴイスティックな人間だった、という心象の表明があるように感じられる(なお、そもそも、この高嶋伸欣個人は、かつての「共産勢力の脅威」と米国との安保条約をどう考え、どう評価しているのか??)。
 あえて他人の本をとり上げて昭和天皇批判(と言ってよいだろう)をテレビでするのもどうかと思うが、それはかりによいとしても、<昭和天皇に対する(何らかの)怨嗟>を背景にして、この高嶋は上のような発言をした、と感じられる-このような意識の教授が琉球大学(国立)にはほとんどだったのかもしれない(いや、今でも?)。自分たちに都合のよい本・研究書だけはちゃんと利用し、宣伝することも含めて-。
 <反軍隊>心性とともに<反天皇>心情もまた、古典的・典型的な「左翼」意識の証左だ。
 以上のことは、沖縄住民「集団自決命令」問題とは直接には無関係に語られている。この問題については、上の二人ともに「(日本)軍の強制あり」という理解・主張だ。上のような基本的な心性・心情・意識の者は、簡単にこの説に飛びつくだろう。何が「事実を知りたいだけ」、「イデオロギーとは無関係」だ。嗤ってしまう。

0650/闘わない八木秀次の蒙昧さと日本共産党・若宮啓文との類似性(?)。

 一 月刊正論2月号(産経新聞社)の八木秀次コラム(p.42-43)は、かなりの問題性を含む。
 
田母神俊雄論文の発表につき、八木秀次は、①「内容とは次元の異なるところで大いに問題があった」、②「村山談話」が「日本国政府の手足を縛る有効な道具であることを左翼勢力に再認識させた」と批判し、「その意味で、…田母神氏の一連の発言を褒める気にはなれない」と述べる。
 桜田淳森本敏に近い見解だろうか。
 <保守>派の一つのありうる反応なのだろうが、かかる見解はやはりおかしい。批判されるべきだ。
 せっかく温和しくして(刺激的な言動をしないで)国民の信頼も徐々に獲得してきたのに田母神俊雄論文で台無しになった、というかのごとき論調は間違っている、と考える。それに、八木秀次は別の間違いも犯し、無知蒙昧さを明らかにしている。
 二 第一に、八木は、田母神論文の影響で、統合幕僚学校等の「外部講師」の現状が調査され再検討され始めた、という。日本共産党も「外部講師」の人選を調査していた、という。
 だが、「再検討」の是非はともかくとして、統合幕僚学校等の「外部講師」の人選の現状は、日本国民一般に対して明らかにされても原則的には何ら不思議ではないのではないか。
 国公立大学(法人)はもちろん私立大学でも、専任教員の他、どのような非常勤教員が来て教育を担当しているかは、積極的にあるいは問い合わせ・調査があれば受動的にでも、明らかにされているだろうし、明らかに(公開・開示)されるべきだ。
 統合幕僚学校や防衛大学校についても、これらは上記の学校教育法上の学校でないことは承知の上だが、どのような人たちが教師・講師になっているかは、防衛に対する国民の信頼を得るためにも、国民の関心に応えるためにも、国民に公にされてよいものだ(原則的には公開されるべきだ)という見解が十分に成り立つ。
 これが消極的に解されるためには、正規教員や「外部講師」の氏名を明らかにすることが、(間接的にせよとくに中国・北朝鮮という近隣諸国に知られることによって)わが国の防衛(行政)上著しい支障が生じると認められる場合に限られるのではないか。
 自衛隊は国の一組織であり、その内部に置かれる学校についても、(行政機関)情報公開法の精神は及ぶはずだ(行政機関情報公開法=法律は防衛省も適用対象とする。そして「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ……があると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」は開示しないことができる(同法5条3号))。
 説明責任といってもよいし、あるいは透明性の問題であるかもしれない。軍事・防衛関係に<秘密>にしておくべき事項があることは当然のことだが、しかし、その対外的<秘密>事項の中に、統合幕僚学校等の「外部講師」の氏名は含まれるのかどうか。いかに「個人情報」だとしても、公金によって講師料を支弁されている者の<プライバシー>の保護は<秘密>性確保の理由にはならないだろう。
 八木秀次は憲法学者の筈だ。だとすれば、以上のような思考をしなければならないのではないか。
 しかるに八木は、共産党・赤旗の記者に自分の「外部講師」歴を問われて(国会に提出された資料中の)特定大学助教授だけでは「わからない」と答えたとし、自分以外のすべての「外部講師」本人が氏名公表に同意したのは「賢明な判断だとは思わない」、と批判している。
 その理由は、八木によると、①「統幕学校での講師の人選に一定の傾向があることが露見してしまった」こと、②防衛大臣が「見直しを明言した」こと(「村山談話」の線に沿った講師が選ばれそうなこと)、にあるようだ。
 八木秀次という人は、小粒の、<いじましい>人のように見える。上の①中の「講師の人選に一定の傾向があることが露見してしまった」とは、何と情けない文章だろう。<一定の傾向の講師たちで何故いけないのか>と堂々と開き直る(?)べきではないのか? あるいはそもそも「一定の傾向」とは何なのか?(「一定の傾向」について八木は自信・確信を持っているのか。自信・確信があって「一定の傾向」なる語をあえて使うだろうか?)
 また、悪いことをしていたわけでもないのに、日本共産党記者に対して、何故堂々と、自分も「外部講師」だった、とどうして言えないのか?
 そしてそもそも、前述のような、防衛行政を含む国政(・行政)についての説明責任・「情報公開」の要請といった論点は、この人の頭の中には全く存在しないようだ。
 実際の説明責任のとり方・「情報公開」制度の運用について問題が全くないとは思わない。<左翼>がこれらを利用している面は否定できない。しかし、憲法学者ならば、こうした論点があること自体は留意しておくべきではないか。こうした意味で、私は、八木秀次には憲法学者として<無知蒙昧>なところがある、と感じる。
 「外部講師」の人選の見直しの是非はまた別の次元の問題だ。さらに、こうした現状調査や見直しのきっかけを作ったのが田母神俊雄論文の発表だとして八木秀次は批判の根拠としているようだが、これまた別次元の問題だ。「見直し」に問題があるならば、それはそれとして堂々と批判すればよいのではないのか。
 三 第二に、上記とも重複するところがあるが、八木秀次は原因・結果の関係についての理解が<倒錯>しているように見える。
 すなわち八木は、田母神論文は、「村山談話」の有用性を左翼に「再認識」させた、という咎がある、と主張している。しかし、そもそもが左翼勢力が「村山談話」を生み出したのだったし、八木自ら「再認識」と書いているように、その有用性くらい、<左翼勢力>はとっくにご存知なのだ。内閣総理大臣が交代するたびに「村山談話」の継承の有無を問う朝日新聞をはじめとするマスメディアがいる。
 どの程度<左翼的>かは不明だが、1998年の日中共同声明に「村山談話」の「遵守」を盛り込んだ外務官僚もいたのだ(積極的に賛成したのだとすると、首相や外務大臣も「左翼」と称しうる)。
 本当の<保守>派は田母神俊雄の揚げ足取りをするのではなく、第一には「村山談話」をこそ問題にして、それを批判すべきではないのか。より正確には、「かつての一時期」の日本=<侵略国家>という一面的で単純な歴史認識自体を払拭するように各方面で尽力すべきではないのか。
 なお、八木は田母神論文のおかげで「自衛隊を含む政府関係機関の歴史観・国家観は二十年前に逆戻り」だという(コラムのタイトルも「逆戻りする歴史観」になっている)。
 こういう認識を私は持たない。政府関係機関(担当者)の歴史観・国家観をこのように単純に述べることはできないと思うし、かりにこれが正しい指摘だとしても、それは田母神論文が原因なのではなく、「二十年」の間に徐々に進行していた事態なのだと考える。
 四 タイトルに最初に付した「日本共産党・若宮啓文との類似性(?)」について書くのを忘れていた。
 簡単には次のようなことだ。
 1 日本共産党はかつて(1960年代後半~1970年代)、「全共闘」派あるいは<新左翼>の<暴力>を批判する際に、敵(権力)を過激な暴力行為で挑発して治安機構を拡大強化させている、自衛隊の治安出動すら生じさせようとしている、彼らは敵(権力)の「手先」・「別働隊」だ、というようなことを主張していた。
 八木の田母神俊雄批判はこれに少しは似ていないか? 「闘う」者に対して、そんな闘い方をしたら却って「敵」を有利にするだけだ、と八木は田母神俊雄を批判している、と言ってよい。
 2 若宮啓文は、朝日新聞昨年7/21のコラム(風考計)で次のように書いていた。
 日本の学習指導要領「解説書」に教育事項として<竹島は日本の領土>の旨が盛り込まれた。「それにしても、『独島』に寄せる韓国の情念を知りつつ、なぜまた刺激するのか」、「このセンスはどんなものだろう」。
 朝日新聞・若宮啓文お得意の<中国・北朝鮮・韓国を刺激するな>(なぜならかつて侵略又は植民地化した国だから)という見解・方針が露骨に示されている。
 八木秀次の田母神批判は、これに似てはいないか?
 かつての「歴史認識」に関する<左翼>の「情念」を知りつつ、「なぜ…刺激するのか」、刺激しないで(言いたいこと・書きたいことも言わず・書かずにして)おけば、従前どおりの状態でおれたのに、と八木は主張しているようなものではないか? 
 五 八木秀次に大した期待はしていないが、身辺回りのみならず、<大局>を観てもらいたい。

0611/宮沢俊義・憲法講話(岩波新書、1967)の憲法九条論と不思議な樋口陽一の主張。

 一 <戦後・進歩的知識人>の一人による宮沢俊義・憲法講話(岩波新書、1967)の憲法九条・自衛隊関係の叙述に以下のようなものがある。
 ・九条(2項)が禁止するのは「戦力」の保持であり、「戦力」とは「近代戦争を有効に遂行するに足りる武力」のことであるところ、「現在の自衛隊程度の武力」は「戦力」にあたらない。これが「現在政府のとっている解釈」だ。だが、かかる解釈、そして自衛隊を最高裁判所が「違憲」とすることは「まず予想できない」(p.205)。
 ・政府解釈によると、「戦力」に至らない程度の武装であれば、核兵器の保有が憲法九条によって禁止されてはいない。こうなると、「第九条は、実質上、完全に抹殺されてしまう」(p.209)。
 ・現在の政府の解釈を「国会が承認し、さらに、裁判所が支持する」となればその解釈は「公権的なものとして確定する」。そして、そうなれば、いかに学説が批判しても、そのような「公権解釈」で示された内容こそが、「生きている憲法、すなわち、現実に行なわれている実定憲法」であると言わざるを得ない(p.209)。
 以上を読んでの感想は、①宮沢がこれを書いた時期よりも自衛隊の武力の程度が縮小・弱体化しているとは思えず、かつ②政府は叙上のような憲法解釈をずっと維持してきているはずだ、そして、③法制度等から見て「国会」や「裁判所」が政府解釈を<追認>することはないのではないか、だとすれば事実上は政府解釈が「公権解釈」になっている、④国会による憲法解釈にしても、叙上の政府解釈を支持する(少なくとも否定しない)党派が一貫して多数派を占めてきていることは、国会は自衛隊を(そしてその基礎にある憲法解釈を)「違憲」と判断しているとは言えないことが明らかだ。
 以上の最終的な結論的感想は、憲法九条2項についていうと、自衛隊は憲法違反ではなないとする憲法解釈こそが、宮沢の表現を借りると、「生きている憲法、すなわち、現実に行なわれている実定憲法」であると言わざるを得ないのではないか、ということだ。
 こう書けば自衛隊を違憲とする憲法学者は、最高裁による判断はまだ示されていない、違憲なものは違憲だと反論するかもしれない。
 だが、かりに多くの憲法学者が考えるように自衛隊は客観的には違憲(憲法九条2項違反)だとすれば-そう解するのに十分な根拠はあると思うが-、そのような憲法学者たちは、実質的には憲法九条2項は空文化し、「生きている」又は「現実に行なわれている」憲法条項ではなくなっていることを率直に認めるべきなのではないか。
 その点で、上の宮沢俊義の言明は率直かつ正直な感覚を示していると感じられる。
 二 だが、現今の憲法学者の考えていることは、なかなか複雑で、上のことを素直に承認することもなく、かと言って自衛隊違憲論を大々的に主張してその縮小・解体を強く説いているわけでもない。
 どこかおかしい。素直でないし、ある意味では<卑劣>ではないか。
 既に触れたが、樋口陽一は、憲法再生フォーラム編・改憲は必要か(岩波新書、2004)の中で、次のように主張する。
 「正しい戦争」をするための九条改憲論と「正しい戦争」自体を否認する護憲論の対立と論争が整理され、そのような選択肢がきちんと用意される「それまでは、九条のもとで現にある『現実』を維持してゆくのが、それこそ『現実的』な知慧というべきです」、改憲反対論は「そうした『現実的』な責任意識からくるメッセージとして受けとめるべき」だ(p.23-24)。
 この<護憲論者>の主張はいったい何なのか。見方によれば、「現実」がどうなっても、どう変わっても、それはそれとして、憲法九条(2項)の条文だけが不変であればそれでよい、と考えているように見える。
 自衛隊(・防衛省)の存在を前提としてもなお憲法九条(2項)がその活動に制約を課す法的根拠として働いていることを否定はしないが(だからこそ九条2項廃止論も正当な根拠をもって出てくる。なお、集団的自衛権行使否定がなぜ九条2項等から解釈上生じるか等自体にもよく分からないところがある)、上のような<わかりにくい>主張は、「現実」を認めたくないためにすぐにその心理の裏側から出てきている「開き直り」とでも言うべきものではないか。
 1960年代後半の宮沢俊義の見解の方がはるかに率直で素直で、また憲法学者として誠実だと考えられる。

0490/「政治謀略」新聞・朝日と現憲法九条二項。

 朝日新聞(社)が<政治運動>団体であるのは明瞭だが、読売新聞や産経新聞もまた<政治的>主張をしており、その<政治>性だけでは、他の新聞社と区別し難い。そこで、<謀略を使った政治活動をする新聞>という意味で、朝日新聞のことを、今後、「政治謀略」新聞・朝日と称することにする。
 ごく最近でも、映画「靖国」に対して自民党国会議員・稲田朋美が「圧力」を加えたがために上映中止映画館が出てきたとのイメージをばら撒く「政治謀略」報道をした。また、5年前には、そもそもが自社の本田雅和と民間<市民>団体(とくにその役員・朝日出身の松井やより)との「距離の近さ」をこそ問題にすべきだった事例にもかかわらず、安倍晋三・中川昭一という政治家がNHKに「圧力」を加えたとの捏造報道をし、それが断定し難くなるや、政治家とNHKの「距離の近さ」に問題をすり替えたりして、結局は、安倍晋三・中川昭一が何か圧力的行為をして<関与>したらしいというイメージをばら撒く「政治謀略」も行った。
 そういう新聞社が行う世論調査の数字がいかほど正確なのかは疑問だが(いかようにでも操作できるし、朝日なら操作するだろう)、5/03朝刊は憲法九条改正反対が66%との大きな見出しを打った(少し読めば憲法全体について改憲か現在のままかでいうと改憲派の数字の方が多い)。朝日新聞だから<誇らしげ>でもある。
 この数字や「政治謀略」新聞・朝日の記事を見ていて思ったのは、では、現在ある自衛隊と憲法九条との関係を国民は、そして朝日新聞はどう理解しているのだろうか、ということだった。<現在の自衛隊は憲法九条(二項)に違反すると思いますか思いませんか>という問いを発して回答を得ないと、憲法九条(二項)問題についての世論調査は完結したものにならないだろう(他に日米安保条約・米軍駐留の合憲性という問題もあるが、以下では触れない)。
 憲法九条二項は「…、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記する。自衛隊は、素直に又は常識的に判断して、「陸海空軍その他の戦力」ではないのか? だとすると、現在の自衛隊は違憲の存在で、<九条を実現する>ためには、自衛隊を廃止するか、合憲の範囲内のものへとその「武力」を削減しなければならない。自衛隊の存在自体が違憲なら、それのイラクへの派遣が違憲であることは論じるまでもなくなる。
 しかるに、朝日新聞はこの点を曖昧にしたままだ。自衛隊は違憲と判断しているなら、なぜ、その廃止又は縮減を堂々と主張しないのか? 「日本国憲法―現実を変える手段として」という見出しの5/03社説を書くのなら、「現実を変える」ために、自衛隊の廃止・縮減をなぜ主張しないのか? それとも、現在の自衛隊は合憲だ(=「陸海空軍その他の戦力」ではない)と判断しているのか? これを曖昧にしたまま、九条二項の条文だけは改正させない、というのが朝日新聞の主張ならば、それは<謀略性>を隠した幼稚なものだ。
 東京大学元教授の樋口陽一は、<現実を変えないという発想が現在では「現実的」>旨の驚くべき(九条)護持論を述べ、東京大学現教授の長谷部恭男は<解釈改憲ですでに済んでいるのにあえて条文改正する必要はない>旨のこれまた驚くべき主張をしている。
 「政治謀略」新聞・朝日は、これらの呆れた九条護持論に乗っかっているのだろうか。
 このような、現在の自衛隊は合憲と判断した上での(呆れた)九条護持論に立っているのだとすると、九条(とくに二項)が改正されれば(二項が廃止されて自衛隊が自衛軍・国軍だと正式に認知されれば)戦争になる、というのはとんでもないマヤカシの議論だということが明確になる。<九条が改正されても戦争にならないと思っている人へ>などとの一般国民の無知・知識不足につけ込んだ謀略的宣伝が犯罪的なデマであることが明瞭になる。
 自衛隊は実質的にはすでに「…その他の戦力」なので、それを自衛軍・防衛軍・国軍等と何と称しようと、その本質が変わるわけではない、と考えられる。集団的自衛権の問題には立ち入らないが、<自衛・防衛>のためにのみ戦争又は交戦できることに変わりはない(そのような「正しい」戦争はある)。また、九条二項が改正されなくとも実質的には「戦争」は発生しうるのであり、現在まで直接に自衛隊と日本国家が「戦争」に巻き込まれていないのは九条二項があるためでは全くない。核兵器をもつ米国軍が日本に駐留していて、他国が日本に対する<侵略>戦争を仕掛けられないためだ。
 九条二項を改正して、自衛隊を正規の自衛軍・防衛軍・国軍と認知すべきだ。<大ウソ>をつき続けるのはいい加減に止めなくてはならない。自衛隊を正確に軍隊と位置づければ戦争の危険が増大するなどというのは、とんでもない妄言で、<日本には「軍隊」はない>という<大ウソ>に満足して現実をリアルに認識しようとしない観念主義者、「軍隊」はないのだから「戦争」も起こりえないと考える<言霊>主義者だろう。
 日本に<自衛>・<防衛>のための正規軍を持たせず、有事の際には個々の国民の(竹槍でも持った?)ゲリラ的抵抗に委ねる、などという発想は、それこそ国民の「平和に生存する」権利・「安全」権を国家が保障することを妨げるものだ(日本「軍」は<侵略>しかしないと考えるような反日本主義者・自虐者とは、議論がそもそも成立しない)。
 朝日5/03の記事の中で辻井喬(作家、西武グループの経営者)が「徴兵制、海外派兵」等(もう一つは「侵略戦争」だったか?)の三つの禁止を明記することも考えられるとか語っていた。この発言は現二項を前提とする(改正しないままの)ものだろうか、それとも自衛隊の「軍」としての認知を前提とする発言なのだろうか。たぶん前者なのだろう(辻井喬は九条の会賛同者の一人だ)。だが、「徴兵制、海外派兵」(「侵略戦争」も?)のように「兵」(「戦争」も?)という言葉を使っており、これは自衛隊が少なくとも実質的には「軍隊」であることを肯定している用語法だと考えられる。
 九条二項の改正によって自衛隊の自衛・防衛「軍」として正式に認知することには反対しつつ、一方では自衛隊が「軍」であることを前提とするが如き「徴兵制、海外派兵」等の概念を用いることは自家撞着だと、(言葉には繊細なはずの)辻井喬は感じないのだろうか。
 同じことは、朝日新聞にも、九条(二項)改正に反対しつつ、現在の自衛隊は合憲だと考えている人々にも言える。
 戦後の<大ウソ>(の重要な一つ)を改めないといけない。政府や大マスコミが<大ウソ>をつき続けて、子どもたちに<ウソをついてはいけない>と教育できる筈がない。
 それにしても、「政治謀略」新聞・朝日の、憲法九条をめぐる観念遊戯・言葉遊びぶりは顕著だ。5/03社説の最後に「一本調子の改憲論、とりわけ自衛隊を軍にすべきだといった主張」という表現をして批判しているが、「自衛隊を軍に」することによって、いかなる<悪い>変化が生じると考えているのか、具体的にきちんと述べるべきだろう。現在の自衛隊が合憲と考えているなら、「自衛隊を軍に」しても実質的・本質的には変わりはない(集団自衛権、国際協力については別に論ずべき点があるだろうが、基本的には異ならない)。少なくとも<悪い>方向に変わることはありえない(「軍」としての法的整備をすればイージス艦衝突事故は避けられ、海外で被害を受ける日本国民の「武力」救出等も可能になるとすればむしろ<よい>方向への変化が生じる)。一方、朝日が現在の自衛隊は違憲と考えているなら、上記のとおり、その廃止・縮減を堂々と主張すべきだ。
 朝日新聞は、重要なポイントを意識的に誤魔化しているように思われる。意識的にではないとすれば、言葉・観念の世界に酔っている<アホ>だ
 現憲法の条項のままだと、現在のような<ねじれ国会>のもとでは(与野党の調整・協議が功を奏さず、対立したままであるかぎり)一部以外の法律は全く成立しない(国会が立法できない)、という異様な状況が現出する。この問題に触れて、読売新聞5/03紙上の座談会では2人が、衆議院による再可決の要件を2/3から1/2に改正すべきとの発言をしている。このような、現実的な議論は朝日新聞紙上には見られなかったようだ(むしろ衆議院の地位を高めることに反対の世論の方が多いと報道していたが、現状をきちんと把握したうえで質問し回答しているのか極めて疑わしい)。
 「政治謀略」新聞・朝日<言葉・観念遊戯>新聞・朝日、がある程度の影響力をもち続けるかぎり、日本の将来は暗い。朝日新聞だけを読んでいる国民は現実を正しく又は適切に把握することができない。この旨を、今後も何度でも繰り返すだろう。

0473/浅羽道明・昭和三十年代主義(幻冬舎、2008)をp.114まで読んだ。

 先週4/17(木)の午後6時頃に浅羽道明・昭和三十年代主義-もう成長しない日本(幻冬舎、2008.04)を購入し、その日のうちに一気に第一章・第二章、p.87まで読んだ。神社・皇室に関する本を読んだりしていて、現時点では第三章・p.114までしか進んでいない。それでも114/387だから、1/4~1/3は読了している。
 冒頭に全体の要約又は趣旨が語られ、要所々々にまとめもあるので読みやすい。また、昭和30年代とは1955~1965(1964)年、私のおおよそ小学生・中学生時代で、懐かしさもあり、自分なりの戦後史のまとめの参考にもなりそうだ。
 もっとも、たんなる昭和30年代ブームではない「昭和三十代主義」という<イズム>・<思想>を筆者は主唱したいらしいが、それで?(so what?)という感もある。
 また、今まで読んだ限りでは、1955~1965年とは所謂55年体制が発足し、警察予備隊・保安隊・自衛隊が順に誕生したあとの、主権回復後の安全保障に関する議論と対立があり、60年にピークを迎え(60年安保条約改定をめぐる対立)、その後に経済成長政策の優先と自主憲法制定の挫折・諦めがあった(その背景として日本社会党等の国会1/3議席以上の確保、「進歩的文化人」の跋扈)、という10年間のはずなのに、こうした基礎的な政治・安全保障環境については全く言及がない。「昭和三十代」を語る本のはずなのに、この点はいかがなものか。文学部出身かと思ったら、奥付を見ると法学部出身らしいのに。
 この人の右翼と左翼(幻冬舎新書)は面白く読めて有益だった。また、この昭和三十年代主義では、構成員の協働を「必要」とした家族の生産集団から消費集団化、前者だったがゆえの昭和30年代頃の家族の紐帯の強さ(そして前者でなくなったための、今日に至る家族の<崩壊>)といった(私の大づかみな要約だが)分析等は、なかなか面白い。少し雰囲気は違うが、映画や小説を素材に時代を描くという手法は関川夏央にも似ている(「青春」歌謡曲・映画を素材にこれを試みたのが社会学者・藤井淑禎だった)。
 だが、高度経済成長自体が一定の国際・政治・軍事環境のもとで生じたことで(決して憲法九条・<平和主義>の「おかげ」ではない)、後者の方面にも言及がないと、一面的な、ある面についてのみ言える「昭和三十年代主義」になりそうな気がする。
 残りに大いに期待することにしよう。

0449/戦後日本を支える「大ウソ」-非武装・政教分離。

 現憲法九条全体の護持を主張するのは自由だが、そのような護持派について奇妙に感じるのは、現実に(法律にもとづき)存在する自衛隊や(条約と国内法律にもとづき)現実に存在する在日駐留米軍をいったいどう見ているのか、ということだ。
 現憲法九条2項が「保持」しないとする「陸海空軍その他の戦力」に現在の自衛隊は該当するのではないか。該当しないならば、どういう<理屈>で自衛隊は「…その他の戦力」ではないのか。いずれかの回答になる筈だが、九条の会の面々も含めて、護持派(九条護憲派)はきちんと<思考>しているのだろうか。
 上の問いの最初を肯定して自衛隊は「陸海空軍その他の戦力」に該当するというなら、自衛隊は憲法違反(違憲)の存在であり、根拠法令も含めて無効視して自衛隊の廃止を主張しなければならない筈だ。
 しかるに、-同旨のことは過去にも書いたが-九条護憲派がそのエネルギーを<自衛隊の廃止>に傾注しているとはとても感じられない。<廃止>でなくとも、憲法適合的な限度内への縮小・削減の主張でもよいが(「弱体化」でもある)、そのような<縮小・削減の主張>が真剣に主張されているという印象は全くない。
 現実の(違憲の)自衛隊の存在は暗黙に承認しつつ、言葉・観念の上でだけは九条護持を主張しているのだとすれば、考えと現実関係実践が一致していない、<観念的平和主義>と批判されてもやむをえない。九条護持を主張し、自衛隊が九条(2項)違反だと判断するなら、自衛隊の縮減又は廃止をなぜもっと必死に唱え、その方向で活動しないのか?
 九条2項があるのに(あるために?)自衛隊は「陸海空軍その他の戦力」ではないとする政府等の<解釈>は、いわば国ぐるみの<大ウソ>だろう。そのような<大ウソ>を、九条護持派の大半もじつは共同して吐き続けているかに見える(自衛隊=違憲→廃止で積極的に活動している人々・団体の存在を否定はしない)。
 (駐留米軍についても同様のことが言える。日米安保条約が違憲というなら、その廃棄に向けて積極的に運動すべきだ。米軍自体の立ちのきを要求することなく、佐世保港等に入る特定の戦艦について入港反対とのデモ・集会を行うといったことは些細で<チンケ>なことだ。かつて日本社会党・日本共産党は明確に<安保廃棄>(→駐留米軍の帰国・解消につながる)を掲げ、集会・デモをしていた。)
 そんな国全体を覆っている「大ウソ」を政治家を含む大人たちがついてきておいて、子どもたちに<ウソをついてはいけない>という道徳・倫理を「しつける」ことができるだろうか。
 上と基本的には同様のことをじつは政教分離についても私は感じている。
 厳格に政教分離条項を貫くならば、皇室の<神道>による宗教的儀式・行事に(皇室費>内廷費という名目であれ)「公金」が使われるのは、憲法に違反しているのではないか。あるいは、年頭に内閣総理大臣(・その他の大臣の一部)が伊勢神宮にとくに参拝するのは、特定の宗教・特定の神社を<特別扱い>するもので、政教分離の「精神」からすれば、それを厳格に貫いていないのではないか。
 以上のような疑問が生じるのだ。むろん憲法解釈論としてはそのような結論に至る必要はないということを最近に書いたが、しかし、<曖昧さ>・<あやふやさ>が残っていることは間違いないだろう。
 この問題もまた、九条関係とは全く同じ脈絡ではないが、いったん採用された憲法規範と、日本の歴史・伝統をふまえた「現実」との矛盾・衝突の一現象だろうと思われる。
 国家と宗教の厳格な分離を掲げるなら、それは<神道>と不可分の<天皇制度>と矛盾なく両立するはずがないのだ。
 両立させる、あるいは憲法違反を避けるために、皇室の社寺との関係を全て「私的」な行為と位置づけ、「私費」としての「内廷費」から支出する、というのも、私は一種の<大ウソ>ではないか、と考えている。
 憲法上、「象徴」であると認められ(1条)、かつ「世襲」とも明記されている(2条「皇位は、世襲のものであつて…」)天皇の祖先を皇居内で祀ること、天皇の祖先を祀る神社(・寺院)に財政的援助を与えること、これらをすべて「私的」行為と位置づけるのは、常識的には、あるいは素朴な感覚では、やはり奇妙なのではないか
 こうした<大ウソ>――規範と現実の乖離、欧米的・タテマエ的理念と日本的な伝統的「精神」に由来する現実との間の矛盾を粉塗するために、他にもたぶん<大ウソ>がつかれているだろう。
 戦後とは、あるいは戦後民主主義、あるいは戦後の自由・民主主義とは、ある種の<大ウソ>で支えられた虚構ではなかったのか
 ここ数年間の私の主たる関心は、自分自身が生きてきた<戦後日本>とはいったい何だったのか、にある。そして、最後には、それを生み出したGHQの占領の時期-そこには日本国憲法の成立も東京裁判も含まれる-に立ち戻らなければならない、とも考えている。
 そのための準備としても、大きな思想史、文明史の流れに関心をもって佐伯啓思等の本も読んできているのだ。

0276/立花隆の「護憲論」(月刊現代)を嗤う-その5。

 立花隆「私の護憲論」を嗤う、を続ける。対象は月刊現代7月号から8月号(講談社)に移る。
 すでに書いた(批判した)ことなので新しい番号は振らないが、立花隆はこの号でも「日本を世界一の成功国家にした「戦後レジームの国体」とは何であるか。それは、昭和憲法そのものである。なかんずく憲法九条がもたらした国家的リソースの配分のゆとりが、戦後国家日本を成功にみちびいた最大要因」と反復している。
 戦後レジームと日本国憲法の同一視という論理的誤謬をも含むこのような信仰又は<迷信>に嵌ってはいけない。
 「憲法九条がもたらした国家的リソースの配分のゆとり」という部分には、二重の欺瞞が隠されている。
 一つは、正規の軍隊を持った(西)ドイツも韓国も戦後に「成功」した国家の一つと言えるからだ。
 二つは、憲法九条にもかかわらず、立花自身ものちに触れている自衛隊(←保安隊←警察予備隊)が存在し、それに一定のリソースを割かざるを得なかったという事実、及び米軍の駐留経費も相当部分を負担してきたという事実だ。これらを全く無視して立花は論を進めている。
 そして、上に引用した部分のことを<自明の理>とまで言い切っている。失礼ながら、上品ではないが、アホか、と言いたくなる。
 日本の<繁栄>・<成功>の原因は、前回に書いたとおりだ。立花隆の文章を借りれば、前回に私が書いたような「自明の理が見えない立花隆は愚かである。この自明の理が見えずに改憲反対を叫ぶ立花隆は最大限に愚かである」。この<立花隆>の部分に、憲法九条(二項)のおかげで平和と繁栄を達成できたという理由で九条(とくに二項)絶対護持を主張しているどなたを入れても構わない。
 さて、嗤いたい点の第八はつぎのことだ。立花隆は、改憲論の中に「環境権」や「知る権利」を加えたらよいとの加憲論があるが「「環境権」も「知る権利」も、いまさら憲法を改正しなくても、すでにとっくに現行憲法の枠内で十分に認められている」と書く。
 私は大いに嗤いたい。
 立花隆なら知人に弁護士(又は裁判官)も多数いるだろう。その法律専門家に尋ねていただきたい、「環境権」も「知る権利」も、現行憲法の枠内で十分に認められている>か、と。ふつうの専門家であれば、否、と答えるに違いないのだ。
 民事上の「環境権」存在の主張・学説はあるかもしれないが、裁判例は民事上の「環境権」などは一度も認めてはいない(公法上も)。「知る権利」も同様で、憲法によってではなく、情報公開法(法律)や情報公開条例によってはじめて情報開示請求権が認められた、と解されているのだ。憲法(たぶん13条)から直接に導かれる権利とは、せいぜい<私事権(プライバシーの権利)>くらいではないか。
 抽象的・理念的に憲法が援用される程度では「権利」性を語るには十分ではない。
 この上の記述によって、立花隆は自分では憲法・法律に詳しいと思っているのかもしれないが、じつは<法律の素人>であることがよく分かる。
 第九に、立花隆は、憲法を改正しなくても、「自衛隊は憲法違反の存在ではない」と明言する。そして、自衛隊法という「組織法」がちゃんとあり、「毎年約五兆円にも及ぶその存在を支える資金も、毎年の国会審議を経た上で、国家財政から出ている」、「自衛隊は堂々たる合法存在である」と言ってくれている。
 上の方で引用した成功の原因としての「国家的リソースの配分のゆとり」とここで言う「毎年約五兆円
」がどういう関係に立つのか気になるところだが、そして「毎年約五兆円」くらいならまだ「ゆとり」はある(あった)とでも説明しておいてほしいところだが、この問題には言及はない。
 それはともかく、立花隆が「法制局」まで持ち出して言っていることは、要するに、政府解釈と同じく、自衛隊は、憲法九条二項でいう「陸海空軍その他の戦力」に該当しない、ということだ。立花隆においては、今日までの政府の言い分と同じく、自衛隊は「軍」又は「戦力」ではない(それ以外の)「実力」組織なのだ。
 私は、自衛隊は「軍」・「戦力」ではないというのは、きちんと憲法改正されて正規に自衛軍が持てるまでの、<戦後レジーム>の<大ウソ>の最たるものだと考えている。
 世界で有数の上位国となる「毎年約五兆円」の国費が支出され、20万人以上の隊員がおり、迎撃ミサイルも保有している「実力」組織は、常識的にみれば、疑いなく「軍」・「戦力」だろう。
 立花隆は改憲=九条二項の削除による「自衛軍」の認知に反対するために、これまではむしろ政府側がついてきた<大ウソ>に乗っかっているとしか思えない。
 1960年に20歳になった立花隆は、学生としておそらく所謂60年安保反対のデモに参加しただろう。その頃、彼は自衛隊は憲法九条に違反する違憲の組織と考えていなかっただろうか(旧日本社会党は、日本共産党もだが、違憲と主張していた)。その立花隆は考え方を改めたように思われる。いつの頃からかは興味の湧くところだ。
 自衛隊を自衛軍として正規に「軍」・「戦力」と認知するためには、姑息な解釈(「大ウソ」つき)によるのではなく、憲法改正>現九条二項の抹消が必要だ。従って、少なくともこの部分についての改憲は、立花隆がいう「「必要性の誤信」にもとづく」「軽々の変更」(p.44)にはあたらない。<つづく>

0258/憲法現九条の目的は「日本を永久に武装解除」すること。

 産経7/01のワシントン・古森義久「憲法の生い立ち想起」との記事は、彼が1981年4月に元GHQ・民政局次長で日本国憲法草案起草に携わったケイディスに長時間インタビューしたことの記録又は記憶によるもので(インタビュー時ケイディス氏は75歳)、日本国憲法の制定過程に関心をもつ者としては興味深い。
 歴史的に重要な意味をもつ点に関係しているので、すでに古森氏は書物にしているのかどうか、私は知らない。もし未だならば、新聞の、かつ中途半端な月日に掲載するようなものではないだろう、という気がする。
 さて、インタビューへの回答内容の記述を信頼するとして、ケイディスは、1.日本国憲法現「第9条の目的」について、「日本を永久に武装解除されたままにおくことです」とあっさり答えた、という。また、2.上司が示した「日本は自国の安全を維持する手段としての戦争をも放棄する」との案を、自衛権がなければ国家でなくなるとして採用しなかった旨発言した、という。さらに、3.現9条2項冒頭の「芦田修正」の採用につき、上官と協議する必要はないと芦田氏に答えたと言った、という。
 「永久に武装解除」はするが自衛権による「戦争」=「自衛戦争」は認めるというのは分かりにくいが、前者は「自衛戦争」以外の「戦争」のための「武装」の「解除」の「永久」化という意味であるとすると理解できる。
 それはともかく、「武装解除」することによって米国に二度と刃向かうことができなくする、そのかぎりで日本を軍事的に弱体化することに九条導入(採用要求)の目的があったことはこれまでも指摘されてきたことで、とくに新しい情報ではない。
 鈴木安蔵らの<憲法研究会>案にも現九条にあたるものはなかった。幣原喜重郎発案説をのちにマッカーサーは述べたが、信憑性は低いと思われることはすでにいつか述べた。
 あとは、東京裁判での天皇訴追を免れさせる代わりに現九条受容が要求されたという話がかなり有力だが(今回の古森記事は天皇制度との関係には言及がない)、これは信頼してもよいのではないか、と感じている。
 このように見ると、平和を希求する米国人が<世界平和>に向けた一つの<理想>を実現するために現九条の案を作った、というのはとんでもないデマ話だということになる。
 再述すれば、日本の軍事力の復活を米国が怖れたからこそ、九条ができたのだ。
 しかるに、そのように日本を弱体化させるために制定された九条をもって、<世界平和>を追求するための、世界で先進的な、当時としては<最も理想的な>憲法条項だったなどと理解する<お人好し>の日本人が少なくない(憲法学界では多数派?)のはまことに奇妙で、倒錯した感覚だとしか思えない。
 なお、どなたかがすでに書いていたのを読んだか、私の推測がある程度は混じるのかは明瞭でないが、GHQは九条を日本に「押し付け」たことをすみやかに後悔しただろう、と思われる。
 憲法改正(又は新憲法制定)を要求した1946年2月頃から議会審議等を経て公布する同年11月頃まではギリギリ<冷戦>構造の発生は鮮明でなかったかもしれないが、その後<冷戦>の発生=東西両陣営の対立が明確になり、1950年の朝鮮戦争を米国は日本「軍」の助けなく闘わなければならなかったからだ。また、ソ連・中国に対抗する又は日本を防衛するために米軍の本格的な日本駐留が余儀なくなったからだ。
 この両者の矛盾から出てきたのが、警察予備隊→保安隊→自衛隊に他ならない。
 元に戻って、九条は平和を希求した米国人の<善意>だったなどという呆けた理解をすべきでないことは、今回紹介されたケイディスの言葉によっても明らかだ。

0256/日本評論社の本(2001)の中の浦部法穂・常岡せつ子「平和主義」対談。

 いま、憲法学を問う(2001)という本は日本評論社出版なので原則的には入手したいと思う本ではないが(資料としてのみ教条的な論文、文章を読むのは辛い)、三人の編者の一人に棟居快行の名があるので、面白いかもしれないと思い、古書で入手した(あとの編者は浦部法穂、市川正人)。
 三人のいずれかが対談者の一人となり、テーマによって異なる三人以外の憲法学者一人と対談する、というものだが、予想したよりも面白い。憲法学に全く素人の本や対談書もあるが、基本的なところで誤解があったりすると興醒めがする。その点、この本はそのような心配はしなくてよさそうだ。
 「平和主義」とのテーマはあの浦部法穂(私の6/01、6/14参照)とあの常岡せつ子(私の5/24、5/27、5/30など参照)が対談している。九条と憲法改正の限界というテーマまで含めていないようなので、改正限界論で常岡氏はボロを出してはいない。
 ここに記しておきたいのは次の四点だ。
 第一に、常岡せつ子の現憲法九条の解釈だ。この人によると、現憲法は「日本が攻められる可能性があることも想定しつつ、たとえ攻められても、あえて戦争という手段には出ないと言っている」と解釈している(p.78)。その際、九条の二項があるからではなく、一項からその旨を読み込んでいるようだ。
 さらにこの人は言う、日本の一部にミサイルが落ちて何十万人が死ぬという場合に迎撃ミサイルくらいは持っていないとという議論があるかもしれないが、「第一発目に関しては、その限りであるである程度は国民の被害を少なくするかもしれませんが」、迎撃ミサイル発射によって「さらなる軍事力のエスカレートを招いていまいます」、「反撃をすれば、もっと大きな攻撃が返ってくる」、と。つまりは迎撃ミサイルを発射するな従って迎撃ミサイルを保有するな、というのがこの常岡先生の主張となる。
 その能力の詳細は知らないが、現実には迎撃ミサイルをわが自衛隊も保有している、とだけ記して、私とは意見の異なる、上の常岡の主張・議論(非武装・無抵抗主義型の平和主義)には立ち入らない。
 第二に、常岡せつ子によると、他の国からミサイル攻撃されるという事態に至るには何らかの理由がある筈だ。そのとおりだと思うが、その際、この人が述べるのは次のことだけだ。関係する所を全部引用する。
 「ある日突然に攻めてくるということはありえないということです。そこに至る前段階に、外交政策にまずい点があったり、日本の平和構築の努力が足りないということがあるはずです。攻められるという状況に至るまで、何もしないでただ黙って見ているだけなのかと逆に問う必要があります」。
 この部分には、かなり唖然とする。これではまるで、ミサイルで攻められるのは日本の平和構築の努力が足りない」等、日本の側に全面的な原因、責任があるかの如くだ
 外交政策にまずい点」はなく、「平和構築の努力」を十分にしても、なおも日本をミサイル攻撃(この本は2001年刊だが、その後も視野に入れると、一般論としては核攻撃もありうる)してくるような外国は存在しない、とこの常岡先生は判断している、と理解して、まず間違いなさそうだ。そこまで、現実の東アジアで、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」(現憲法前文)できるのかどうか。
 第三に、浦部法穂常岡せつ子ともに「正しい戦争」はありえない、という点では一致している。さすがに日本評論社の本だとも言える。浦部が「私も…同じ考え方なので論争しにくいですね(笑)」と発言するくらいだ(p.87)。
 憲法学者の多くが明確にかかる考え方から九条護持論に立っているかどうかは不明だが、二人のこの前提が、政治家を含む一般国民に容易に受け容れられているとは思えない。
 第四に、上のことに関連して、浦部法穂がこう発言しているのが目を惹いた。
 「私自身も、昔は漠然とですが、理論上は人民解放のための戦争は正しい戦争としてありうるという前提で議論してきた…。しかし、それでは通用しないと、数年前に転向しました(笑)」。
 ここでの(かつては「正しい」と考えていたという)「人民解放のための戦争」とはいったい何だろうか。北ベトナムが南ベトナムにいる同じ民族の「人民」を「解放」するためであるとしていた対米ベトナム戦争のような戦争だろうか。それに限らず、日本「人民」を解放するために社会主義国(のすべて又は一部)の軍隊が例えば米軍と日本の(「人民」の一部ではない)自衛隊を相手に起こすような戦争も想定していたのではなかろうか。
 そうだとすると、同じ核兵器保有や核実験でも社会主義国=進歩勢力のそれらは「正しく」、米国等の資本主義国=反動勢力のそれらは「非難されるべき」というのと同じ単純な、(マルクス主義の)公式的教条主義に陥っていたことがあることを、浦部法穂は<告白>していることになる。
 これまで一部であれ読んだことのある浦部法穂の文の内容からすると、この人がかつて(勝手に推測すればおそらくソ連崩壊前後まで)上のように考えていたとしても驚きではない。十分にありうることだ、と思える。そして、そのような人物が、今の日本の憲法学界の中である程度は重要な位置を占めているようであることを、怖ろしい、と私は感じる。

0239/森達也の憲法九条理解は誤っている。

 森達也という人の本は、たぶん少なくともまともには読んだことがない。この人が週刊文春6/28号で保阪正康監修・解説の50年前の憲法大論争(講談社現代新書、2007)の書評をしている。
 字数の半分弱が対象書の紹介・論評で残りは憲法(改正)に関する自論の展開というのも大いに気にかかる。さらには、不正確なことを平気で?書いているのでますます気になる。こう書く。
 「改憲派は自衛権を否定するのかと九条二項の撤廃を主張する。ここがまずは勘違い。自衛権は自然権でもある。…つまり九条二項は自衛権を否定するものではなく、自衛権の行使としての武力を否定する理念なのだ」(p.146)。
 森達也が「高揚した危機管理意識と被害者意識が突出するばかりのこの状況で、…憲法を絶対に安易にいじるべきではない」と主張する<護憲>派だから、指摘しておくのではない。上の短い文章(5つの文)には二つの大きな誤りがある。
 第一に、「改憲派は自衛権を否定するのかと九条二項の撤廃を主張」している、という認識は誤っている。「ここがまずは勘違い」と返しておく。
 
第二に、「
九条二項は自衛権を否定するものではなく、自衛権の行使としての武力を否定するものだとの認識は、概念用法が正確ではなく、結果として誤っている。
 まず、改憲派は自衛権が国家にありつつもその自衛権を「陸海空軍その他の戦力」によって行使することを認めていない九条二項の削除を主張している。
 したがって、「九条二項は自衛権を否定するものではなく、自衛権の行使としての戦力(の保持)を否定するものだと説明するならば正しいが、「戦力」に代えて「武力」という概念を用いるのは適切ではない。
 なぜならば、現実に存在する自衛隊は、政府・内閣法制局の言葉遣いによれば、九条二項がいう「陸海空軍その他の戦力」ではない、「武力」又は「実力」なのだ。九条二項にいう「戦力」ではないからこそ自衛隊の存在は合憲だと政府・内閣法制局は説明してきているのだ。
 九条二項の理念が「自衛権の行使としての武力を否定する」ことと述べる森達也が現実に存在する「武力」装置としての自衛隊をどう評価しているのかは不明だが、ともあれ、上のような、一見正しそうできちんと読むと誤っている憲法九条に関する言説を撒き散らす評論家・著述業者等々が-今回発見した森達也も含めて-少なくないので、ああやれやれという気がする。
 今後も、中途半端な九条理解にもとづく、一知半解の議論も多くなされるだろう。警戒が要。
 それにしても、書評欄の半分を対象著書とは無関係の自分の見解で埋め、かつ上のような基本的な誤りを含む文章を書き、さらについでに書けば最後の字数埋めのためか「今の政治家の質が悪くなっていると僕は書いた。これはすなわち、彼らを選ぶこの国の民意が、この半世紀で激しく劣化していることと同義なのだ」と、じつに陳腐な、まことに平凡な内容の文章で終えて、おそらくは結構高い原稿料を出版社(文藝春秋)から貰えるとは、週刊誌文筆商売というのは、何とイイカゲンでかつ何とオイシイものだろう。

0219/自衛隊は大多数国民のために同隊批判の少数国民の情報収集をした。

 大げさに<天下分け目の>とかも称される参院議員選挙の投票日(予定)まで、40日ほどになった。
 この時期になると選挙を意図した又は意識したいろいろなことが明らかにされるものだ。
 思い出すと、1993年に細川護煕・非自民連立政権ができた後で、たしかテレビ朝日の社長か報道局長あたりが、できるだけ自民党に不利に・できるだけ(選挙前の)野党に有利になるように報道した、と民放関係またはもう少し広いマスコミ関係の会合で明瞭に発言して話題になり、自民党がたしか抗議するなど、物議をかもしたことがあった。
 むろん、マスコミ・メディアの思惑どおりに国民が投票行動をするわけではない。しかし、日本のマスコミ・メディアは(予め明言していればそれはそれでいいのだが)それとなく、国民を一定の方向に誘導するように、特定の政党に有利又は不利になるように報道することがあるので、有権者も騙されてはいけない。
 国民を一定の方向に誘導するような報道の仕方をする代表格の新聞は、言うまでもなく、実質的には<政治団体>に他ならない朝日新聞だ。
 その<政治運動団体>たる性格は、約1年前には安倍現首相に対抗して自民党の福田某氏に総裁選に立候補するようけしかけたり、4月の都知事選の前には石原現都知事に対抗して菅直人氏をこれまた名指しして立候補するよう促したりする、まるで自分を<反権力>側の<参謀>とでも誤解しているかの如き言論だけでも、すでに明らかだ。
 日本共産党が自衛隊関係者から入手したという文書内容を明らかにしたのも、当然に、参院選挙前という時期を意識したものだ。
 そして当然の如くこれを大きく取り上げ、6/07社説ではこの問題のみをテーマとしたのは朝日新聞だった。他の新聞の扱いは朝日に比べると、はるかに小さい。
 さて、その「情報保全隊―自衛隊は国民を監視するのか」と題する社説だが、まず「自衛隊は国民を守るためにあるのか、それとも国民を監視するためにあるのか」と書く。この一文だけでもすでに朝日新聞のスタンスとその奇妙さを感じる。
 自衛隊(の一部)の情報収集の対象となったのは国民全体ではない。同社説は「文書には映画監督の山田洋次ら著名人、国会議員、地方議員、仏教やキリスト教などの宗教団体も登場する報道機関や高校生の反戦グループ、日本国内のイスラム教徒も対象となっていた」と書いて何故か山田洋次のみの名前を出しているが、著名人でかつ「ふつうの」人物らしく見えるのは彼だと考えたのだろうか。しかし、山田洋次は「ふつうの」人物ではない日本共産党の少なくとも明瞭な支持者であり<映画人九条の会>の結成呼びかけ人でもあったことは前回に書いた。
 また、自衛隊(将来の?自衛軍も)は国民の生命・安全の確保のために存在している。こんなことは書くまでもない。
 今回の事件?の要点は、<自衛隊が、大多数の国民の生命・安全のために、反自衛隊的意識をもつ少数派の国民に関する情報を収集していた>ということだろう。
 自衛隊(将来の?自衛軍)がその組織を維持するためには、自衛隊内の秘密とされるべき情報を入手し(そして外国に伝え)ようとしたり、自衛隊にそれを働きかけたり、あるいはその他一般に自衛隊員の志気を攪乱する又はその可能性のある日本!国民に関する情報を把握しておくことは不可欠のことと思われる。
 まさに<敵は内部にもいる>のだ。自衛隊(将来の?自衛軍)が日本国内の反自衛隊意識やそれにもとづく「工作」によって影響をうけていれば、いざという時に、多数の日本国民の生命・安全を守るという任務を果たせないではないか
 個人情報の収集なので、一切の制約がないということはないだろう。だが、強制的な又は公権力を行使したと言えるような収集の形態・方法でないかぎりは、原則としては違法とは言えないのではないか(橋下徹弁護士は同旨のことをテレビで述べていた)。
 むしろ、自衛隊内の正規と見られる文書情報が日本共産党に平然と漏洩された、という情報管理体制の不備、日本共産党に情報を提供した自衛隊員の存在こそが問題にされるべきだろう。
 自衛隊(将来の?自衛軍)を国民の<敵>と考え、その武力が「国民」に向けられることをむしろ怖れ批判する(という倒錯した意識をもつ)「国民」の中に含まれるような人びとや団体は、上のようにはその<正当な目的>を理解できないだろう。
 なお、同社説によれば、防衛省は「イラク派遣への反対運動から自衛隊員と家族を守るため」と説明しているようだ。正確かどうかは確認していないが、ありうる話で、その目的を批判することはできない。朝日社説は「それはとても通用する理屈ではない」と書いているが、なぜそうなのかはよく分からない。
 守屋武昌防衛事務次官の「手の内をさらすことになるので、コメントするのは適切ではない」とのコメントも、非難されるようなことではない。
 朝日社説は今回もまた<戦前の軍隊>に言及しているが、時代の倒錯がある。
 心配なのは、自衛隊又は自衛軍が「有事」に際して行動しようとするとき、朝日新聞が自衛隊又は自衛軍の行動を邪魔し、国民に自衛隊又は自衛軍への抵抗を呼びかける、という事態だ。
 朝日新聞あるいは週刊金曜日ならやりかねない。防衛行動への攪乱者、そして客観的には日本ではなく外国の味方をする者は日本国内に現にいるし、将来も存在するだろう。
 レーニンの<(帝国主義)戦争を内乱に転化によ>とのスローガンを思い出した。自国の中で「内乱」を起こして自国を敗戦に導こうと呼びかけた<国際主義者>がいたことを忘れてはならない。また、そうした意識は雰囲気としてはまだ残存していると見られることにも留意が必要だ。

0164/朝日新聞社説子は「自由・民主・人権」の意味・関係をきちんと説明できるか。

 しばらく朝日新聞の社説を読む機会がなくWeb上で見ることも忘れていた。
 憲法改正手続法(国民投票法)衆議院通過後の朝日の4/17社説について、同日のブログで<「メディア規制の問題、公務員の政治的行為の制限、最低投票率の設定など、審議を深めてほしい点がある」という理由だけしか書けず、致命的な又は大きな欠点・問題点を堂々と指摘できないのでは、「廃案」→「仕切り直し」という主張のためには不十分だろう。>と書いた。
 まさかこの文の影響ではないだろうが、ネット情報等によるとその後朝日は<最低投票率制度を導入によ(それがないから反対)>という主張をしたようだ。国会審議前にこの具体的主張をせず、参議院に送付されてからこんな主張をし始めるとは、朝日新聞はやはり<たいした>言論機関だ。いよいよ成立しそうになってからの<反対のための反対の理由>を挙げただけではないのか。
 この最低投票率制度の問題にはもはや立ち入らない。
 保存するのを忘れたが、憲法改正手続法案が参議院の委員会で議決された後の朝日の社説(5/12(土)?)は興味深かった。翌週早々に参議院本会議でも議決されて成立する見込みとなって、まるで水の中(池でも河でもよい)に落とされた犬が必死で陸に這い上がって、投げ落とした者に対して<うらみ・つらみ>の泣き言を喚いているような文章の社説だったからだ。
 もっとも、5/15(火)の社説は「投票法成立―「さあ改憲」とはいかぬ」と題して、何とか元気を取り戻した様子だったが。
 さて、最近の朝日社説にいくつかコメントをしておく。
 一.上の5/15の社説の中に、自民党の新憲法草案九条の二に関する次のような文がある。
 「つまりは、現在の自衛隊ではなく、普通の軍隊を持つということだ。自民党は、今後つくる安全保障基本法で自衛軍の使い方をめぐる原則を定めるとしている。だが、たとえ基本法に抑制的な原則をうたったとしても、憲法9条とりわけ2項の歯止めがなくなれば、多数党の判断でどこまでも変えることが可能だ
 二点指摘できる。第一に、「現在の自衛隊ではなく、普通の軍隊を持つということ」という表現の仕方、とりわけ「普通の軍隊」
という言葉の使用は、自衛隊も<普通の軍隊ではないが軍隊だ>という意味を含むとも解釈することができ、興味深い。
 第二に、「基本法に抑制的な原則をうたったとしても、…多数党の判断でどこまでも変えることが可能だ。」という部分は、別の機会にも指摘したかもしれないが、「民主主義」の価値を大いに謳っている新聞社にしては、国民の代表を通じての議会制民主主義の意味を理解できていないかの如くだ。つまり、「
多数党」
ということは、国民の多数が支持している政党を意味する筈であり、その政党の判断が国会の意思となり、何らかの事項を「変えて」いくことに一体何の問題があるのか。
 自社に気に入らない決定をする国会の場合には<多数党の横暴>といい、自社の主張に即した決定をする国会の場合には<議会制民主主義を守れ。少数党は自制せよ>という主張をしそうな、つまり所謂<ご都合主義>に毒された新聞が朝日新聞ではないのか。
 二.5/17社説「党首討論―もっと憲法を論じよう」にも面白い部分がある。
 同社説は「時間が少なかったし、そう問われなかったということもあっただろう。だが、この60年、憲法の下で民主主義人権平和主義を培ってきた国民の「成果」に対する肯定的な評価は、安倍氏からはまったく聞かれなかった」と安倍首相を批判している。
 ここでも二点指摘したい。第一に、この文の前で、<首相は戦後日本を次のように批判する。/「経済は成長したが、価値の基準を損得だけにおいてきた」「損得を超える価値、例えば家族の価値、地域を大切にし、国を愛する気持ち、公共の精神、道徳を子供たちに教える必要がある」>と安倍首相の発言を紹介している。
 「問われなかったということもあっただろう」
が、朝日社説は、上の安倍首相発言の内容に賛成とも反対とも、自らの見解を全く述べていないのだ。安倍首相が語らなかった部分に文句をつける前に、明確に語った部分について何らかの評価を明示したらどうか。批判したいけれども批判し難い、というのが本音なのだろうか。あるいは、さらにそのずっと前の辺りにある「復古主義」という言葉で批判しているつもりなのだろうか。
 朝日は安倍首相等を不明瞭・曖昧等と批判することがあるが、自社の社説はすべて明瞭で曖昧さはないと言い切れるのか、少しは反省してみるがよい。
 第二は、より大きな問題だ。朝日は5/20社説でも、古屋圭司氏を会長とする所謂「価値観議連」に参加した議員たちの発言をとり上げて、「右派の熱心なテーマばかりだ。これがめざす「真の保守主義」なのだというが、「自由・民主・人権」というより、復古的な価値観に近いのではないか」と疑問視又は批判している。
 ここでも朝日社説は守るべき価値として「民主主義・人権(保障)」等を考えているようだ。この二つの他に5/17では「平和主義」を、5/20では「自由」を挙げている。
 私の現在の強い問題関心は、「自由」・「民主」・「人権」等は現在においていかなる理念的意義を持ち得るのか、またそれぞれがどのような関係に立つのか、にある。
 とくに1990年代以降、これらの意義が少なくともある程度は疑問視され再検討される必要が出てきた、というのが私の時代認識だ。
 卑近すぎるかもしれないが、「人権」と「平等」のある意味での<いかがわしさ>は、地方自治体の行政の<腐臭>の源の発覚によって、露わになってしまったのではなかろうか。
 かかる問題意識は、私一人のものではないと思われる。
 つい先日紹介したように、ジュリスト誌上で、棟居快行・大阪大学教授は、「どうも近代立憲主義の憲法学の武器庫はかなり空になりつつある。あるいは残りをこの10年で使い切ってしまっている可能性もある」と述べていた。
 「近代立憲主義の憲法学の武器庫」には、<民主主義>も<自由>も<人権>も当然に含まれる筈だ。
 また、リベラリズム/デモクラシーを途中まで読んだ後に入手した阪本昌成・「近代」立憲主義を読み直す-<フランス革命の神話>(成文堂、2000)はその「はしがき」の中で、憲法学は<裸の王様>だと”市民”は「肌で感じ取ってきている」のではないか」とし、その理由を阪本は「暫定的に」次のように述べている。
 「憲法学は、「自由」、「民主」、「平等」、「人間性」、「自然法」、こうしたキー・ワードにさほどの明確な輪郭をもたせないまま、望ましいことをすべて語ろうとして、これらのタームを乱発してきたのではなかろうか」。
 こんなことを憲法学者の少なくとも一部は明言しているのだが、朝日新聞の社説子は、「
民主主義人権平和主義」を、あるいは自由・民主・人権」をいかなる意味で、それぞれがいかなる関係をもつ概念として用いているのかを、きちんと明瞭に説明できるのか。朝日の社説子もまた、明確な輪郭をもたせないまま、望ましいことをすべて語ろうとして、これらのタームを乱発して」はいないか?
 日本の<戦後民主主義>が当然視してきたようなことが当然ではなくなっているのが、現在だ。ソ連型「社会主義」崩壊、経済のグローバル化、「情報社会」化、中国・北朝鮮の新たな動向等々は、上に挙げたような基礎概念の意味を絶えず問うているのだ。
 朝日の社説子にはそれだけの時代認識もなさそうに見える。<フランス革命の神話>という言葉の含意を理解できる論説執筆者がどれほどいるのか。「民主主義、人権、平和主義」を、あるいは自由・民主・人権
」を<お経>の如く唱えているだけではないのか
 まだ、最近の朝日の社説についてコメントしたい点はあるが、今回はここで終わっておこう。

0143/日本に「軍隊」があれば、北朝鮮の日本人「拉致」はどうなっていたか。

 月刊雑誌・正論6月号(産経)の荒木和博「なぜ拉致被害者救出に自衛隊を投入しない!」(p.144-)を読んで、この中には書かれていないが、こんなことをふと考えた。
 憲法九条の存在によって日本の平和は守られたなどとの愚劣な言を吐く人がいる。しかし、真の事態は逆であり、憲法九条二項によって、日本が正規の「軍隊」をもちえなかったからこそ、北朝鮮当局による日本人拉致という<侵略>を許してしまったのではないか
 荒木は上の一文の中で「北朝鮮による拉致は戦争である」を見出しの一つにしている。そのとおり、北朝鮮にとっては日本人の拉致はかりに散発的であっても軍事行動の一つであり、<侵略>であり、対日<戦争>そのものの一部なのではなかろうか。
 しかるに、政府も拉致をテロとか主権侵害とか言っているが、日本国内から容易に日本国民が実力行使によって<さらわれる>という事態を、日本の防衛問題、安全保障問題の一つと考える思考が些か弱いのではなかろうか。
 北朝鮮の工作員たちが一様に言うのは、日本ほど<侵入>しやすい国はない、ということらしい(むろん不法入国である)。
 荒木は、日本の海岸に突如外国の軍隊が上陸してその地域一を占領し、住民を殺傷し又は拘束して人質にした仮定した場合、「まず敵を制圧して、国民の生命財産と領土を保全」しなければならないが、「警察には許されない」、「軍隊であればこそ許される」と書いている(このあたりは「日本国憲法2.0開発部」とやらの人々に読んでほしいものだ)。
 実際の北朝鮮による日本人拉致は上のような軍事行動よりは小規模だが、不法上陸・日本国民の人身略奪であることに変わりはない。いつぞや北朝鮮の「不審船」が日本の領海内で逃走しつつ自爆して沈下したのち引き揚げたら、相当の重装備の船だった筈だ。拉致被害者を運んだ船も当然に何らかの「武器」で装備されていただろう。
 日本人の拉致に対して、自衛隊が何をしてきたのか、何をできるのか、に関する詳細な知識はない。自衛隊ではなく正式に憲法上も認知された<海軍>・<陸軍>・<空軍>があれば何ができたのかを詳細・正確に述べる能力もない。
 しかし、正規に「軍隊」を持っていれば、あれほど簡単に侵入を許し、女子中学生を含む日本国民が<略奪>されることはなかったのでないか。
 むろん、「軍隊」の行動規範は基本的には法律によって定められるだろうから、「軍隊」という呼称のみから具体的な結論を導くことはできない。
 上のことは承知で再び言うのだが、九条二項によって正規の「軍隊」扱いされない自衛隊があり、<専守防衛>という(相手が明確に攻撃するまで何もするなという)安保政策をとっていたからこそ、北朝鮮の日本人拉致が生じ、少なくとも、被害者の数は増えたのではなかろうか。
 継続的に「軍隊」が領海上を監視し、場合によっては領海内の「不審船」を堂々と攻撃できるような法制であれば、北朝鮮当局も日本人拉致にはより警戒的、より消極的になったのではなかろうか。
 憲法九条二項があるがゆえに、つまりは50年代又は60年代に憲法が改正されて「国軍」・「防衛軍」が正規に誕生するということが無かったがゆえに、北朝鮮による日本人拉致が起きた、と単純化するつもりはない。
 だが、とっくに日本が正規の「軍隊」を持ち、安全保障(「拉致」阻止を当然に含む)に関する政治家や国民の意識が実際とは異なっていれば、70年代以降の日本人「拉致」もまた、その様相は実際に起きたのとは異なっていた、と間違いなく言えるのではないか、と思う。

0121/長谷部恭男・東京大学教授の「志の低い」護憲論。

 護憲派(とくに九条護持派)憲法学者の議論を知る必要があり、すでに水島朝穂と樋口陽一には簡単に触れたが、東京大学の現役教授・長谷部恭男についてはまだだ。
 長谷部の教科書も新書本も入手はしているが、未読だ。その他の彼の考え方を窺わせるものを紹介しつつ、コメントしよう。
 長谷部の講演録冊子「憲法を改正することの意味―または、冷戦終結の意味」(自由人権協会、2005)も所持している。これもまともに読んでいないが、講演冒頭と九条改正論に関する質問への回答部分だけは見た。
 それによると、少なくとも考え方の一つとして、長谷部は今の政府解釈(自衛目的の最小の実力保持は可能)を前提とすると、改正しても現状は全く又は殆ど変わらず、時間・エネルギーを無駄にするだけだ、旨を述べている。これも護憲論だろうが、興味深いことに(同じ大学だと<伝染>するのか?)、すでに言及した樋口の「解釈改憲」容認論(と私は理解する)と似ている。
 より正確に長谷部氏の議論が分かったのは、読売新聞の今年1/10と1/17の「憲法学の今」と題する対談記事によってだ。
 1/10で彼曰く、自衛隊の存在は憲法九条違反という「主張は間違いだと思う。そして、1.「非武装こそ人類の理想」 等を主張する人は「特定の価値観で公的領域を占拠しようとして」いる、2.国家が「常備の実力組織をもつのは当然」、九条は「実力組織はなるべく小さくする」という原理だ。
 「価値多元説」に立って「立憲主義の大前提と矛盾する」とする1.は、「公的領域」に関する「特定の価値観」による主張を全て非難・排斥するもので、憲法関連事項も含む「公」的主張は全て許されなくなりそうだ。「特定の価値観」を自分は表明しないとの逃げ道でなければよいのだが。
 護憲派と目されている筈の長谷部が公然と自衛隊合憲の旨を語っているのに驚いたが、上の2.で「なるべく」などと言っていては憲法の法規範的効力を殆ど否定している(又は持たせることを諦念している)に等しいのではないか。
 この人はやはり「解釈改憲」で十分との立場のようだ。そうだとしたら、改憲でも積極的護憲でもない、どちらかというと「志の低い」グループに入る、と考えられる。
 1/17と併せて読んで、長谷部の「理論」はほぼ解った。
 1.「9条を変えたからといって実体が何か変わるわけではない」。
 2.「改憲のために必要とされる審議時間や国民投票などのコストと利益を比較すれば、変える必要があるといえるか」。
 3.憲法には「原理」と「準則」があり、頻繁にでも変えてよいのは後者だ。
 これらのうち1.は明確な誤りだ。解釈改憲には限界がある。軍隊のようで軍隊ではない、という「大ウソ」から訣別し、ヌエの如き組織を正規軍にするだけでも「実体が何か変わる」と言うべきだ。
 2.も誤りだし、不適切だ。長谷部は条文改憲論者でないという意味では護憲論者の一人なのだろうが、反対論というよりもかかる不要論では、既述のように「志が低い」。
 それに、国家の基本問題の審議・国民投票に「コストと利益」の比較分析をするなどはとんでもない間違いだ。かりに利益がどうであれ、民主主義には「コスト」が要る。長くとも3年に一度は参院議員選挙と衆院議員選挙がある(今年も参院選がある)。「コストと利益を比較」してこれらは止めるべき又は再検討すべきと長谷部は主張するのだろうか。長谷部は同じ欄で、逆に「コストと利益を比較」すれば疑問視できる空想的提案をしている。
 長谷部は言う。「国家が費用を出し、国政選挙の前に人々が地域の公民館や学校に集まって「選挙の争点は何であるべきか」を一日かけて討論する、といった制度を作ることも考えられる」。
 かかる討論会?の全国的・全国民的開催は、憲法改正国民投票よりも多大のコストを必要とし、利益はより少ないのではなかろうか。
 穿ち過ぎかもしれないが、長谷部のコストを持ち出しての改憲不要論は、どうしても条文改憲させたくないための苦し紛れの理屈のように見える。憲法改正につき「コストと利益を比較」するという発想自体が率直に言って「想像を絶する」
 3.も疑問だ。かりに「原理」と「準則」に分けられるとして、平和主義(侵略戦争否定)は前者かもしれないが、「軍隊」の扱いはどちらなのかを長谷部は明確に語っていない。かりに前者であるとしても、一切変更してはならない論拠も述べていない(憲法改正の「限界」内のもののみを「原理」と称しているのではあるまい)。
 さらに、現憲法には例えば69条による場合以外に内閣総理大臣は7条(の天皇への助言)を利用して衆院を解散できるのかという解釈上の議論がある不明瞭な問題もある。他にもありうる。これらが全て例えば「権力分立」に関する「原理」上の問題で改正を避けるべき、という結論にはならない筈だ。
 こうして見ると、長谷部は要するに条文改憲をさせたくないのであり、そして条文改憲の内容に関する自己の意見を表明することを避けたいのではないか。つまりは、あれこれとときに難渋な表現を使いつつ「逃げている」のではないか
 上の方で言及した自由人権協会発行の冊子の中で長谷部は、今のままの9条では「わかりにくい」との意見はあろうがそれは9条に限らず21条の表現の自由でも同じだ、などと言っている。今回の座談中でも「国家のやるべき事」は「たくさんある。それを全部憲法に書かねばならないのか」と似たようなこを言っている。
 だが、人権と「公共の福祉」の関係を具体的に又は詳細に憲法に書けないのは当然だが、自衛のための「軍隊」という正規の「戦力」を保持するか否かは憲法に書ける事項だし、むしろ明記しておくべき事項だ。
 頭が良さそうで「良心的」でもありそうな?この長谷部という東京大学の先生、しかも憲法学の教授は一体何を考えているのだろうか。
 対談相手の読売新聞の橋本五郎によると、同じ東京大学の憲法専攻教授・高橋和之は日本の「憲法学者は非現実的である」等と述べているらしい。さらにその他の憲法学者の発言(とくに憲法改正に関する)に関心を持つことにしよう。
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