秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

自衛権

1315/憲法学者の安保法案「違憲」論は正しくない-3。

 一 何とも奇妙で異様な事態が生じているようだ。池田信夫によると「空気の読めない」人物・長谷部恭男の安保法案「違憲」発言によって法案審議が原点に戻ったと言う者もいる。
 前々回に書いたように、今次の法案やその基礎となった憲法解釈(の変更)が合憲か否かという問題に、簡単に明確な結論など出せるはずがない。6/15に長谷部恭男は外国特派員協会の記者会見であらためて「明らかに違憲」だと述べたようだが、このように断定的に述べていること自体にすでに信用できないところがある。今後もこの問題について断定的に又は明確に述べる憲法学者や弁護士が登場してくるかもしれないが、すべて信用し難いと感じなければならない。
 そもそも集団的自衛権行使容認(や今次法案)が憲法違反、憲法九条に抵触するものと断定できるならば、昨年2014.07.01の閣議決定に対する反対・抗議の声明において、その旨を最初から述べておくべきだっただろう。まず冒頭に集団的自衛権行使容認の解釈は<憲法違反>と断じておくべきだっただろう。
 しかるに、この欄で紹介・言及した昨年の日本共産党系憲法学者たちの声明は、「憲法解釈変更の閣議決定」は従来の政府解釈を「国会での審議にもかけずに、また国民的議論にも付さずに、一内閣の判断で覆してしまう暴挙であり、断じて容認できない」という一文から始めている。同様にこの欄で触れた日本共産党員憲法学者・森英樹の前衛6月号の文章も、憲法九条違反だと断定することから始めているわけではない。
 長谷部恭男は上の声明に関与しておらず日本共産党員でもないので、この違いは当然だと反論?するむきもあるかもしれないが、そうであるとすれば、上の声明参加者や日本共産党は、今さら長谷部と同様に<違憲>だなどと騒ぎ立てない方がよい。その方が論旨一貫している。
 なお、上の声明は途中で「徹底した平和外交の推進を政府に求めている憲法9条の根本的変質」だと批判し、森英樹は途中で「壊憲」という言葉を用いて批判してもいるが、憲法九条の解釈に明確に違反する解釈を安倍内閣が採用しているのだとすれば、その旨を冒頭に明確に述べれば、簡単なかつ明確な政府解釈批判、政府解釈の法案化阻止のための論理・理屈を示したことになったはずなのだ。そうは述べなかったこと自体に、長谷部恭男とは違って、じつはかなり多くの憲法学者は、明確に違憲と断じることを躊躇していたかに思える。
 にもかかわらず、長谷部恭男発言が報じられるや、違憲だと明言し始める学者が増えているように見えるのは奇妙なことだ。恥ずかしいのは民主党の岡田克也や辻元清美らで、「学者発言」を政治的に利用して違憲だと言い始めている。代表・岡田克也は、この法案にかかる最初の党首討論で、一言でもこの法案自体が憲法違反だと断言・明言したのか?
 もともと、政府解釈よりも国会・法律制定者による憲法の解釈の方が上位にある。内閣提出の法律案の成立を、違憲性を理由として国会は拒否することができる。そのような国会の構成員であるならば、学者の意見うんぬんを利用したりすることなく、自分たちの(安倍内閣とは異なる)詳細な憲法解釈を示すべきだろう。
 正確な知識はないが、自衛隊の設置法や周辺事態法等々のこれまでの安全保障立法がすでに違憲だ(だった)と主張しているのならば、日本共産党等は、これらの諸法律の廃止をまずは主張すべきなのだ。
 そうではなく、個別的自衛権行使は合憲で、限定つきの今次の集団的自衛権行使が違憲だと言うのならば、憲法の文言・条文等の総合解釈(?)に照らして、なぜ限定つき集団的自衛権行使からは違憲となるのかという憲法解釈論を詳細に示すべきだろう。
 二 前回に、今回の法案がその行使を認めようとする集団的自衛権は国際法または国連憲章上のそれではなく、いわゆる新三要件の第一によって限定されたものだとの記した。<外国に対する武力攻撃>の発生が<同時に>、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」であることが要求されている。<同時に>というのは、ここで挿入した字句だ。
 この点を捉えて、今次の法案が認めようとしているのは集団的自衛権ではなく個別的自衛権の範疇に入る、と理解する論者もいるらしい(なお、森英樹・前衛6月号p.48あたりも参照)。最終的には面白い(?)議論をして違憲論に立つ木村草太(首都大学。上の声明に加わっていない)は、個別的自衛権説のようだ。
 しかし、「自国が直接攻撃されていない」場合の自衛権の行使なのだから、いかに上のような限定が付いても、個別的自衛権の行使ではない、と理解するほかはないと思われる。この理解を変えるためには、<個別的自衛権>概念とその意味自体に関する議論が必要だろう。
 三 さて、長谷部恭男は、読売オンライン上で、集団的自衛権行使に「条件」が付いているから合憲だとする説明があるとしてこれを厳しく(?)批判している。
 「必要最小限のものであること等」等は当然のことで「条件」に値しない、という主張はいちおう是認できる。
 しかし、第一に、「違憲であるはずのものを合憲にする論拠にはなりません」という批判は、集団的自衛権行使否定こそが合憲解釈だという強い<思い込み>を前提にするもので、つまり行使容認は「違憲であるはずのもの」という前提的認識そのものが正しくないもので、到底賛同できない。
 第二に、「集団的自衛権の行使に日本独自の条件を付けるとしても、それは憲法が要求する歯止めにはなりません」とも言っている。ここにいう「日本独自の条件」が、又は少なくともその重要要素が、いわゆる新三要件の第一のものだと解される。そして、次のように説明している。
 「条件」とされるものは「現在の政府の政策的判断に基づく条件にすぎず、政府の判断で簡単に外すことができるということになります。これで歯止めになるはずがありません」。憲法解釈を「その時々の政府の判断で変えられるという人たち」に、「国民の生死にかかわる問題についての判断を無限定なまま委ねてよいのか、そこまでこの人たちを信用できるのか。それが問われています」。
 ここで述べられていることは、法律家の、あるいは憲法学者の「学問」的作業の結果ではない。いわゆる新三要件該当性の判断は「現在の政府の政策的判断」、「その時々の政府の判断」に委ねられる、そして従来の憲法解釈を変更するような「人たち」の判断は「信用」できない、と語っているが、これは法律論・法学専門家の緻密な議論ではまったくない。いかに厳しそうな限定又は条件があっても、それに該当するかどうかを個別に判断する「現在の政府」の「人たち」は「信用」できない、と述べているだけのことだ。これは<政治論・政策論>であって憲法学者の「学問的」議論ではない。
 長谷部恭男に問いたいものだ。では「時々の政府」が現在とは違って、民主党内閣であればよいのか?、日本共産党も閣僚に入っている政権ならば「信用」できるのか?
 憲法解釈というのは、あるいは一定の憲法解釈にもとづく合憲論・違憲論というのは、問題になっている当該解釈のの主張者が誰であろうと、同じ内容で成り立つ、また同じように論評されるものでなければならないのではないか。これは<法律学のイロハ>ではないのか。
 四 長谷部恭男の発言がどの程度の影響を与えているのかは知らないが、最近の世論調査で安倍内閣支持率は数%下がり、不支持率は数%上がって、場合によっては両者が拮抗しているとの数字を発表している調査媒体もある。それが少しでも、「憲法学者」の<専門的知見>にもとづく綿密な見解(?)を知って、安倍内閣に対する不信感が増したということの表れであるとすれば、怖ろしいことだ。
 もともと専門家であっても明確に断定できるような問題ではないと上述してきたところだが、長谷部恭男の主張・議論は、じつはきわめて<政治的>なもので、とても「学者」が行なった「学問」の結果ではない。
 長谷部恭男らがいう、<立憲主義>違反という主張等々については、さらに別に扱う。
 安倍晋三首相は、今次の法案の「正当性、合法性については完全に確信を持っている」(6/17の対民主党・党首討論)と、堂々と主張し続けてよい。堂々と主張し続けなければならない。

1311/資料・史料/2015.06.09<安保法案と憲法>政府見解(1)。

 新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性等について
                         平成27年6月9日
                         内 閣 官 房
                         内 閣 法 制 局
 (従前の解釈との論理的整合性等について)
  1 「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」(平成26年7月1日閣議決定)でお示しした「武力行使」の三要件(以下「新三要件」という。)は、その文言からすると国際関係において一切の実力の行使を禁じているかのように見える憲法第9条の下でも、例外的に自衛のための武力の行使が許される場合があるという昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府が提出した資料「集団的自衛権と憲法との関係」で示された政府見解(以下「昭和47年の政府見解」という。)の基本的な論理を維持したものである。この昭和47年の政府見解においては、
 (1)まず、「憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文に置いて「全世界の国民が...平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、...国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。」としている。この部分は、昭和34年12月16日の砂川事件最高裁大法廷判決の「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとりうることは、国家固有の機能の行使として当然のことといわなければならない。」という判示と軌を一にするものである。
  (2)次に、「しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれからの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。」として、このような場合に限って、例外的に自衛のための武力の行使が許されるという基本的な論理を示している。
  (3)その上で、結論として、「そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて、したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」として、(1)及び(2)の基本的な論理に当てはまる例外的な場合としては、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるという限界が述べられている。
  2 一方、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしてもその目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。新三要件は、こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、このような昭和47年の政府見解(1)及び(2)の基本的な論理を維持し、この考え方を前提として、これに当てはまれる例外的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合もこれに当てはまるとしたものである。すなわち、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体を認めるものではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部、限定された場合において他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどめるものである。したがって、これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性は保たれている。
 3 新三要件の下で認められる武力の行使のうち、国際法上は集団的自衛権として違法性が阻却されるものは、他国を防衛するための武力の行使ではなく、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置にとどまるものである。
 (明確性について)
  4 憲法の解釈が明確でなければならないことは当然である。もっとも、新三要件においては、国際情勢の変化等によって将来実際に何が起こるかを具体的に予測することが一層困難となっている中で、憲法の平和主義や第9条の規範性を損なうことなく、いかなる事態においても、我が国と国民を守ることができるように備えておくとの要請に応えるという事柄の性質上、ある程度抽象的な表現が用いられることは避けられないところである。
 その上で、第一要件においては、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」とし、他国に対する武力攻撃が発生したということだけではなく、そのままでは、すなわち、その状況の下、武力を用いた対処をしなければ、国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかであるということが必要であることを明かにするとともに、第二要件においては、「これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと」とし、他国に対する武力攻撃の発生を契機とする「武力の行使」についても、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものでないことを明かにし、第三要件においては、これまで通り、我が国を防衛するための「必要最小限度の実力の行使にとどまるべきこと」としている。
 このように、新三要件は、憲法第9条の下で許される「武力の行使」について、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体ではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置に限られることを明かにしており、憲法の解釈として規範性を有する十分に明確なものである。
 なお、ある事態が新三要件に該当するか否かについては、実際に他国に対する武力攻撃が発生した場合において、事態の個別具体的な状況に即して、主に、攻撃国の意思・能力、事態の発生場所、その規模、態様、推移などの要素を総合的に考慮し、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性、国民が被ることとなる犠牲の深刻性、重大性などから客観的、合理的に判断する必要があり、あらかじめ具体的、詳細に示すことは困難であって、このことは、従来の自衛権行使の三要件の第一要件である「我が国に対する武力攻撃」に当たる事例について、「あらかじめ定型的、類型的にお答えすることは困難である」とお答えしてきたところと同じである。
 (結論)
 5 以上のとおり、新三要件は、従前の憲法解釈との論理的整合性等が十分に保たれている。
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1303/日本共産党の安全保障(防衛)政策は?

 一 日本共産党は同党の安全保障(防衛)政策として、2014年の党大会以降、「北東アジア規模」の「友好協力条約」締結などから成る「北東アジア平和協力構想」という提唱しているらしい。
 この条約はアセアンに現在あるものを真似ようというものらしいが、その具体的内容は明らかではない。北東アジアの国家・地域には日本、韓国、北朝鮮、中国、台湾それにモンゴルがあるが、現状を前提にすれば、これらの国々等が「友好協力条約」を締結することは夢想にすぎない。可能性があるすれば、北朝鮮と中国共産党支配の中国の崩壊があってからだろう。あるいは、親中国・親社会主義の方向で朝鮮半島が統一され、日本にも日本共産党を政権与党とする政府が誕生していれば、不可能ではないかもしれない。だが、そのような朝鮮統一や日本政府の変化を想定することはほとんどできず、したがってこれまたほとんど「夢想」になってしまう。
 要するに、<お互いよく話し合って、仲良くしましょう>という程度の、吉永小百合さまならば思い浮かべるかもしれないような、幼稚な「政策」しか日本共産党は持ち合わせていない、と考えられる。
 そもそもこの政党は、日本の国土と国民の安全を守る、という気概を持っているかどうかが疑わしい。日本共産党の綱領上、「敵」はアメリカと日本の<アメリカ追随>勢力なので、日本の国土と国民の安全を危険なものにしているのはアメリカと日本(内部の一部勢力)だと見なされることになる。したがって、これら以外の諸国からの危険の発生などは想定していないし、多少の知識はあったとしても<見て見ないフリ>をしている、といって過言ではないだろう。
 したがって、この政党が国会論戦等で何を質問し何を主張したところで、<客観的な安全保障環境>の認識、だれが「敵」であるのかの認識が全く異なるのだから、噛み合った、生産的な議論になるはずはない。
 日本共産党と社民党は民主党らが最終的には賛成した場合であっても、これまでのいわゆる有事法制法案等々について、つねに反対投票をしてきた。今次の安保法制の整備についても、いかに丁寧に議論し回答したところで、彼らはすでに結論を用意しているので、ほとんど無意味なことになるだろう。
 二 1970年代に日本共産党は「民主連合政府」なるものを構想していたが、その政権構想の一部として「真に日本の平和と安全の道」、「非同盟・中立」を語っていた。
 その際、日本に対する「侵略」があった場合の「自衛」の方策について、日本共産党もまた何らかのことを語らざるを得なかったようだ。1975年の12回党大会で不破哲三の実兄・上田耕一郎(この時点での政策委員長)は、つぎのように述べた。
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 「万一、中立日本の国際的保障をも無視して侵略があった場合はどうするかという問題が提出されえます。仮定の問題ですが、そうしたさい、すべての民族、国家がもっている自衛権にもとづいて、民主連合政府は、日本の中立をを保障している諸国民と政治的に連帯し、国民とともに侵略者に断固抵抗するでしょう。/このような事態は、現行憲法があまり予定しない事態ではありますが、自衛権が、国家が自国の主権または自国民にたいする急迫不正の侵略をとりのぞくためにやむをえず行動する正当防衛の権利であり、主権国家の基本権の一つとして自衛権が憲法第九条によっても否定されていないことは、すべての憲法学者や国際法学者もみとめているところです。このような急迫不正の侵略にたいして、国民の自発的抵抗はもちろん、政府が国民を結集し、あるいは警察力を動員するなどして、その侵略をうちやぶることも、自衛権の発動として当然であり、それは憲法第九条が放棄した戦争や武力行使でもなく、同条で否認した交戦権の行使や戦力保持ともまったくことなるものです。/憲法第九条をふくむ現行憲法全体の大前提である国家の主権と独立、国民の生活と生存があやうくされたとき、可能なあらゆる手段を動員してたたかうことは、主権国家として当然のことであります。この立場は自民党の解釈改憲の立場とはまったく無縁のものです」。(/は改行)
 以上、吉岡吉典・有事立法とガイドライン(新日本出版社、1979)p.286-7による。
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 自衛隊設立時の政府解釈の言明ともよく似て、最後の一文を除いて、日本共産党もなかなか立派なことを述べているではないか。「憲法第九条をふくむ現行憲法全体の大前提である国家の主権と独立、国民の生活と生存があやうくされたとき、可能なあらゆる手段を動員してたたかうことは、主権国家として当然のこと」なのだ。「自衛権」は、「国家が自国の主権または自国民にたいする急迫不正の侵略をとりのぞくためにやむをえず行動する正当防衛の権利であり、主権国家の基本権の一つとして…憲法第九条によっても否定されていない」のだ。
 もっとも、国民のゲリラ的活動に任せるという無責任なことは言っていないのはよいが、「警察力を動員するなどして」とか「可能なあらゆる手段を動員して」とか述べるだけで、どのような組織・手段を国家があらかじめ用意しておくかについては具体的に述べているわけではない。九条2項にいう「戦力」ではない実力組織の保持の明確な容認まであと一歩まで近づいているが、そこまで立ち入っていない。
 これらのことよりも興味を惹くのは、上のような見解においても、合憲的な「自衛権」の行使か、憲法上許されない実力の行使かという問題が当然に生じうる、ということだ。
 日本共産党は近年、「海外で戦争できる国家」うんぬんと安倍政権が進める安保法制の整備に反対し、そして一般国民からすれば細かいあれこれを政府に糺して批判したりしている。しかし、かりに日本共産党が今日でも上の上田耕一郎(当時の政策委員長)の見解を維持しているとすれば、日本共産党の考え方においても、つねに<自衛権の行使>かそれを超える実力の行使(あるいは「戦闘」行為)かという問題は生じるのであり、この問題についての詳細な回答を、日本共産党自身は用意しているのだろうか。これは同党に対する基本的な疑問だ。
 安倍政権が進める安保法制整備に反対するのならば、「国家の主権と独立、国民の生活と生存」を守るための対案が必要なのではないか。自民党中心政権、安倍晋三内閣がしていることだから反対する、では合理的で正当な理由にならないのではないか。
 それとも、「戦争・武力行使・武力による威嚇と軍事力を根底から否認する」立場(日本共産党・森英樹)、あるいは「徹底した恒久平和主義」の堅持(日弁連会長・村越進)とは、「自衛権」の行使という<実力の行使>をもいっさい否認するものなのだろうか。そうだとすれば、上田耕一郎の上の叙述は今日の日本共産党には継承されていないことになる。日本共産党や日弁連会長には答えていただきたいものだ。

1293/資料・史料-防衛省サイトより「憲法と自衛権」等。

 防衛省・自衛隊のHPトップから、>防衛省の取組>防衛省の政策>防衛政策>防衛の基本的考え方>憲法と自衛権と下がって、現在の「憲法と自衛権」等に関する考え方が説明されている。資料・史料の一つとしておくが、現在誰でも閲覧できる、かつ現用の考え方または「解釈」で、2014年7月閣議決定による新しい解釈も組み込まれ、「武力の行使」(「戦争」ではない)の「新三要件」への言及もある。
 現在の後半国会で、政府側はここで示されている理解・解釈を基礎にして答弁等をするはずだ(矛盾していると指弾されることになろう)。
 以下の内容は、自衛「戦争」は認められず、自衛目的のものであれ「戦力」保持も許されないという憲法九条解釈を前提にしている。
 なお、より正確な政府解釈の内容は、個々の文書・答弁に即して、通常の理解力さえあれば、正確に確認することができる。いずれ、より詳細で正確なものを掲載しつつ、コメントをしておく予定だ。
 「前項の目的」とは<侵略戦争等否定・自衛戦争等容認>という趣旨・目的のことだと理解しつつ、そのような前提に政府解釈は立っておらず、この文言に政府解釈は意味を認めていない、という説明の仕方をしてきた。但し、「前項の目的」自体に厳密には二つ(又は三つ)の解釈がありえ、政府解釈は上のような(侵略戦争等と自衛戦争等の区別という)前提には立っていないが、「前項の目的」について別の理解をしているようであることも、その際に述べる。
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 1.憲法と自衛権
 わが国は、第二次世界大戦後、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう決意し、平和国家の建設を目指して努力を重ねてきました。恒久の平和は、日本国民の念願です。この平和主義の理想を掲げる日本国憲法は、第9条に戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認に関する規定を置いています。もとより、わが国が独立国である以上、この規定は、主権国家としての固有の自衛権を否定するものではありません。政府は、このようにわが国の自衛権が否定されない以上、その行使を裏づける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法上認められると解しています。このような考えに立ち、わが国は、憲法のもと、専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針として実力組織としての自衛隊を保持し、その整備を推進し、運用を図ってきています。
 2.憲法第9条の趣旨についての政府見解
 (1)保持できる自衛力
 わが国が憲法上保持できる自衛力は、自衛のための必要最小限度のものでなければならないと考えています。その具体的な限度は、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面があり、毎年度の予算などの審議を通じて国民の代表者である国会において判断されます。憲法第9条第2項で保持が禁止されている「戦力」にあたるか否かは、わが国が保持する全体の実力についての問題であって、自衛隊の個々の兵器の保有の可否は、それを保有することで、わが国の保持する実力の全体がこの限度を超えることとなるか否かにより決められます。
 しかし、個々の兵器のうちでも、性能上専ら相手国国土の壊滅的な破壊のためにのみ用いられる、いわゆる攻撃的兵器を保有することは、直ちに自衛のための必要最小限度の範囲を超えることとなるため、いかなる場合にも許されません。たとえば、大陸間弾道ミサイル(ICBM:Intercontinental Ballistic Missile)、長距離戦略爆撃機、攻撃型空母の保有は許されないと考えています。
 (2)憲法第9条のもとで許容される自衛の措置
 今般、2014(平成26)年7月1日の閣議決定において、憲法第9条のもとで許容される自衛の措置について、次のとおりとされました。
 憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えますが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されません。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容されます。これが、憲法第9条のもとで例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、1972(昭和47)年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところです。
 この基本的な論理は、憲法第9条のもとでは今後とも維持されなければなりません。
 これまで政府は、この基本的な論理のもと、「武力の行使」が許容されるのは、わが国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきました。しかし、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威などによりわが国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様などによっては、わが国の存立を脅かすことも現実に起こり得ます。
 わが国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然ですが、それでもなおわが国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要があります。
 こうした問題意識のもとに、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、わが国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至りました。
 わが国による「武力の行使」が国際法を遵守して行われることは当然ですが、国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要があります。憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合があります。この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれますが、憲法上は、あくまでもわが国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、わが国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものです。
 ■憲法第9条のもとで許容される自衛の措置としての「武力の行使」の新三要件
 ◯ わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
 ◯ これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
 ◯ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
 (3)自衛権を行使できる地理的範囲
 わが国が自衛権の行使としてわが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使できる地理的範囲は、必ずしもわが国の領土、領海、領空に限られませんが、それが具体的にどこまで及ぶかは個々の状況に応じて異なるので、一概には言えません。
 しかし、武力行使の目的をもって武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣するいわゆる海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであり、憲法上許されないと考えています。
 (4)交戦権
 憲法第9条第2項では、「国の交戦権は、これを認めない。」と規定していますが、ここでいう交戦権とは、戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能を含むものです。一方、自衛権の行使にあたっては、わが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することは当然のこととして認められており、たとえば、わが国が自衛権の行使として相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のものです。ただし、相手国の領土の占領などは、自衛のための必要最小限度を超えるものと考えられるので、認められません。
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 2015年05月21日現在

1275/田久保忠衛・憲法改正最後のチャンス(並木)を読む-3。

 田久保忠衛・憲法改正、最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014.10)は、筆者の、「体系的」憲法論ではなく、「体感的な」憲法論だとされているので(p.252)、国際政治が専門らしい田久保に専門的な憲法論を期待するのは無理かもしれない。しかし、表紙裏の経歴には「産経新聞『国民の憲法』起草委員会委員長」と明記されているのだから、産経新聞案「国民の憲法」に関する(委員長個人としてであれ)、産経新聞社の本にはない説明または解説がある程度詳しくはあるものと期待しても不思議ではないだろう。
 また、今年に入って気づいたことだが、田久保忠衛は「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の共同代表の一人(あとの二人は櫻井よしこ、三好達)だ。この団体は2014.10.01に設立されたようで、同日に設立宣言を発表している(同会のウェブサイトによる)。そして、たんにこういう名称の会の設立だけだと、さっそく「美しい日本の憲法」の具体的内容は何かと問いたくなるが、同会はQ&Aのかたちで、条文案ではないものの、目指す憲法の骨子を7点に整理しまとめたものを公表している。
 そうすると、時期的には田久保の上掲書は上の会の設立前に書かれてはいるが、一年も前ではない直前の時期に書かれていると推測されるので、同著は「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の代表(の一人)が書いたものだ、という<権威>をもってしかるべきことになるだろう。
 だが、期待しもした産経新聞社案「国民の憲法」のより詳しい説明はほとんどないし、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が公表している7つの骨子の過半についてはまったく触れるところがない。
 しかも、一方では起草委員会の委員長を、片方では共同代表を努めながら、両者が提言する憲法案の具体的内容には<一致していない>、<矛盾する>部分がある。これはきわめて奇異なことだ。
 矛盾しているとほぼ明らかに言えそうなのは、九条についてだ。産経新聞案「国民の憲法」と田久保の上掲書は矛盾してはいないが、田久保の上掲書の九条(およびその改正案)に関する叙述と「美しい日本の憲法をつくる国民の会」公表の改正案骨子は矛盾している。
 先に「美しい日本の憲法」案の方から紹介すると、第三の柱として「九条…平和条項とともに自衛隊の規定を明記しよう」との見出しが掲げられ、その第三文では、こう書かれている(ウェブサイトのそれとまったく同一文ではない同会のパンフレットによる。ウェブ上では以下の「軍隊」は「国軍」になっている)。
 9条1項の平和主義を堅持するとともに、9条2項を改正して、自衛隊の軍隊としての位置づけを明確にします」。
 すでに書いたことだが、このような文章の考え方にもとづく改正案づくりと憲法改正(おそらくは1項の基本的な維持と現2項の削除、そして自衛隊を正規に「軍隊」と位置づける条項の新設)に私は賛同する。
 だが、田久保忠衛が起草委員会委員長だった産経新聞社案「国民の憲法」は、このような考え方に立っていないことはすでに記したとおりだ。
 自民党草案も読売新聞社試案も現9条1項は基本的に維持することとしているのだが(また、北岡伸一も、1項の平和主義は維持し2項の戦力不保持は改正しようとする意見を無視して、朝日新聞は一括して改憲論>九条改正論=「平和」主義・「平和憲法」否定というデマを撒き散らしている旨を述べて朝日新聞を批判していたが)、くり返せば、産経新聞社・国民の憲法(産経、2013)は、自民党草案について、つぎのように書いていた。
 <自民党草案は1項に「自衛権の発動を妨げるものではない」を追記して「工夫を重ねている」が、「主権の行使に制限を課している条文をそのままにしている意味では不徹底で不完全だ」>(p.140)。
 そして、現9条1項の断片のみを残した「平和」希求と国際紛争の「平和的解決」を志向する新たな条文を作り、別の条文で、「軍を保持する」ことを明記することとしている(同案15条・16条)。
 「美しい日本の憲法」案が「9条1項の平和主義を堅持する」と記しているのは現1項の条文を基本的に維持するとの趣旨ではなく、この産経新聞案「国民の憲法」のような書きぶりでも「平和主義」の堅持にあたる、という可能性がないではない。
 しかし、「美しい日本の憲法」案の文章が続けて「9条2項を改正して、自衛隊の軍隊としての位置づけを明確にします」と書いていることからすると、9条1項は(基本的に)改正しないという趣旨だと解釈するのが自然で、やはり、、「美しい日本の憲法」案と産経新聞社案「国民の憲法」は異なる、と理解することができるものと思われる。
 そして、田久保忠衛の上掲書は、現9条1項は基本的にであれ維持することはしないという考え方を明確に語っている。つぎのとおりだ(p.172-5)。
 <当初は九条1項はそのまま残す説に賛成だったが、森本敏の次の指摘(森本ら・国防軍とは何か(幻冬舎ネネッサンス新書)に「まったく同感」して、産経新聞社案では「現行憲法第九条第一項を含めて全面的に改める」ことした。>
 森本の指摘とは、①第一項があると、「国連決議にもとづく集団安全保障に参加できなくなる」、②第一項があると、「多国籍軍」に入っているアメリカ軍が攻撃された場合に「集団的自衛権の行使」ができなくなる、をいう。
 要約したし、もとの森本の発言内容を読んではいない。また、私自身の知識と勉強の不足かもしれないが、これらの理由が当たっているのかは理解困難だ。だが、<集団的自衛権>の行使は現憲法のままでも行使可能と閣議決定されたところであるし、「国連決議にもとづく集団安全保障」措置への参加の許容性については現憲法は何も語ってはいないのではないのだろうか。また、正規に認知された軍ができたとすれぱ直ちに「国連決議にもとづく集団安全保障」措置に参加できるというものではなく、法律(+条約?)による正当化が必要だろう。
 この問題には立ち入らない。ともかくも、現九条1項も「改め」る見解である旨を田久保忠衛は上掲書で明確に述べている。しかるに、共同代表を務める会の「美しい日本の憲法」案はどうも現九条1項は「堅持」するつもりのようだ。
 これは明らかに矛盾で、田久保は上掲書の考え方に立つのであれば、「美しい日本の憲法」案の内容に反対するのが論理的な筋のはずだ。にもかかわらず、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」による公表後に、それと異なる見解を明らかにしている書物を公にしているのは、奇異・奇妙だと言う他はない。
 もともと、p.110以下の叙述を読んでいても、現九条に関する田久保の理解の仕方には疑問が生じるところである。例えば、「芦田修正案は政府の見解ではない」という理解はそのとおりだが、「戦力」ではない「必要最小限度の実力の行使」による相手国兵力の殺傷及び破壊等を行うことは「交戦権の行使」としてのそれとは「別の観念」という政府答弁は「何を意味するのかよくわからない」と書いている(p.113-4)。しかし、私にはよく分かる。現憲法の政府解釈によるかぎりは、自衛権はあり、そのための実力行使は「交戦」ではない(実力行使組織=自衛隊は「軍その他の戦力」ではない)、ということになる。
 憲法学上の「多数説」に従って私は記してきているのだが(最近にあらためて憲法学文献で確かめておいた)、諸説が成り立つものの、1項は自衛権を否定するものではなく<自衛のための軍>設置・「自衛戦争」を否定するものでもない。しかし、2項が一般に「軍その他の戦力」の保持等を否認している結果として、「自衛」目的であれ「軍」は保持できず「戦争」もできない。但し、「自衛」のための「必要最小限度の実力の行使」は可能であり、そのための組織の保持も許容される。このような、政府解釈も基本的に拠っていると思われる(むろん、但し以降は相当に苦しい)論理構造くらいは、民間団体とはいえ、憲法改正案起草委員会の委員長や新憲法制定運動団体の共同代表の方には、理解しておいていただきたいものだ。

1083/憲法九条の解釈と産経新聞と軍隊と法ニヒリズム。

 自衛隊の憲法上の根拠に関する国会質疑についての報道ぶりをこの欄で疑問視したのは2/05の未明だった。
 その後、産経新聞社説が2/09に、読売新聞社説が2/10にこの問題を取り上げ、産経新聞紙上の「正論」欄では2/09に坂元一哉が「芦田修正が自衛隊合憲根拠なら」と題してこの問題に言及している。他紙の状況は確認していないが、少なくとも社説では取り上げていないようだ。
 上の3つに共通するのは、①いわゆる芦田修正は政府の解釈する自衛隊の合憲性の根拠ではない、②「やはり」憲法改正(軍としての明記)が必要だ、ということだ。
 そもそも自衛隊担当大臣が憲法上の根拠をまともに答弁できないのは異常なのであり、坂元の言うように「昔だったら国会が止まりかねない失態」だ。このことに関する感覚が麻痺しているのではないかと先日は言いたかったのだが、産経社説の冒頭は「自衛隊と憲法の関係があまりに複雑すぎて、ほとんどの国民は理解できないだろう」から始まっている。別の機会に言及する点も含めて、大?新聞の産経新聞の社説子がこう書き始めるとは、(「国民」に代えてはいるが)情けないことだ。田中某大臣の勉強不足のみに焦点を当て、質問者・石破茂の憲法解釈の適否について触れなかった自社の記事への「釈明」のように読めなくもない(官房長官が芦田修正は政府解釈とは異なると述べたらしいが、少なくとも同じ記事の中に書いてはいない)。
 さて、自衛隊が憲法九条2項でいう「戦力」ではないということは、九条2項が「陸海空軍その他の戦力」と表現しているように、自衛隊は「陸海空軍」ではないこと、「軍(隊)」ではないとされていることを意味する。「戦力」というとやや曖昧になってしまうが、現在ある自衛隊は「軍隊」ではないと日本政府は解釈し続けていること(そして司法審査の対象ではないとする最高裁の姿勢・判決によって、このような解釈は肯定されていないが、否定されてもいないこと)をきちんと確認しておく必要がある。
 私の見るところ、このような解釈の長年にわたる「通用」は、少なくとも次の二つの弊害をもたらしているようだ。
 一つは、戦車が「特車」と言い換えられるといった例をよく耳にするが、自衛隊は「軍隊」ではないとされているために、まともな軍隊ならば有しうる(与えられる)はずの種々の権限が制約されている。
 詳細に立ち入る余裕も能力もないが、田母神俊雄はこの点を、軍隊ならばネガティブ・リスト以外のことを全てできるが、自衛隊はポジティブ・リストに明記されていることしかできない、と説明していた。
 かつての幕僚長の言うことだから、結論的にはおそらく的確な説明なのだろう。「軍隊」ではないがゆえの、法律との関係での制約があるのだ。
 もっとも、<軍隊ならばネガティブ・リスト以外のことを全てできる>という説明は、結論的・感覚的には誤ってはいないのかもしれないが、結局のところ、法律による抽象的かつ包括的な権限・権能の付与が「軍隊」の場合は通常(どの国でも)憲法または法律によって行われている、ということであり、軍隊であるがゆえの「国際法」上の権能だという説明ではないように見える。なぜなら、ある国の、ある武力・実力組織が「軍隊」であるか否かを決定することができるいかなる国際機関も存在しないと思われるからだ。
 したがって、違いは要するに国内法(憲法上の存在ではない日本では法律)上の扱いの違いなのであり、自衛隊を「軍隊」とは理解してこなかった日本の法律は、<抽象的かつ包括的な権限・権能の付与>をしてこなかった、ということなのだろうと思われる。このあたりは、軍事・防衛法専門家(いるとすれば)のきちんとした説明を聞きたいものだ。
 二つは、一種の「法ニヒリズム」の根拠・背景になってきた、ということだ。軍隊(・自衛隊)の存否、その法的な根拠は国家にとって最重要事項のはずだが、日本政府自体の憲法解釈が大まかに言って朝鮮戦争勃発の前後によって変わってきたことによって、<憲法解釈などどのようにでもなる>という印象を多くの国民に与えたことは否定できないように思われる。また、世界で第何位の実力があるというようなかたちで紹介されることもある自衛隊の装備・能力が(上に触れたような制約があるとはいえ)、常識的な用語としての「軍その他の戦力」ではない、とするのは、必ずしも容易に理解できるものではない。
 憲法と自衛隊に関する説明・授業を聞く小学生・中学生たちは、何と感じるだろうか。<(日本の)大人たちはゴマかしている>と感じないだろうか。
 もともと欧米的な「法・権利」意識が日本(国民)にそのまま根付くものなのかという問題はあるのだが、そうした基本問題以前のところで、憲法をはじめとする法(法令等)に対する「不信」のようなもの、それを伝統的・歴史的な意識に支えられた自然の「法」意識へと育てず、憲法等の「法」を(どのようにでも解釈・運用できる)<技術的な道具>視してしまうような意識・心理の重要な背景の一つは(最高裁の姿勢もその一つだが)九条・自衛隊に関する政府の解釈でもあったように考えられる。
 さらに論及したいことがあったが、長くなったので別の回に委ねる。

1080/自衛隊の合憲性の根拠は芦田修正?

 2/02衆議院予算委員会で自民党・石破茂が田中某防衛大臣に自衛隊の合憲性についての憲法(九条)上の根拠を糾し、田中某が「しどろもどろ」の答弁をしたので、石破茂は、次を「模範解答」として教示した、とされる。
 ・九条二項冒頭のいわゆる「芦田修正」(「前項の目的を達成するため」の挿入)。他に「文民条項」も挙げたらしいが、これをも追加した意味は不明なので、以下では後者については省略しておく。
 誰かがどこかですでに書いているだろう。石破の憲法「解釈」は成り立ちうるものではあるが、これまでの政府見解とはまったく異なる。
 元防衛大臣の石破も、そして自民党も、上の問題についての「政府見解」を知らないとは、まったく呆れてしまう。それをご説ごもっともと?聞いていたらしい田中某も民主党政府全体も、そしてマス・メディアもどうかしている。この点を問題視していた全国紙はあったのだろうか。
 憲法9条の法解釈論を少しでも勉強したことがある者であれば誰でも知っているようなことだ。
 なるほど芦田修正を形式的に文言どおりに生かせば、前項(9条1項)による<侵略戦争の禁止(放棄)>のためにのみ「戦力の保持」が2項によって禁止されていることになる。換言すれば、<自衛(戦争)>のための「戦力」保持は禁止されておらず、自衛のための(堂々たる)「戦力」として自衛隊は認知されていることになる。
 しかし、政府の解釈も変遷してきたという曖昧さ・いいかげんさはあるのだが、昭和29年・自衛隊法制定時の鳩山一郎内閣時代の林修三法制局長官国会答弁(1954.12.21)は、次のようなものだった。
 ・「国家が自衛権を持っておる以上…〔自衛のための〕実力を…持つことは当然のこと」、「憲法が…、今の自衛隊のごとき…自衛力を禁止しておるということは…考えられない。すなわち第2項…その他の戦力は保持しないという意味の戦力にはこれは当たらない」。
 また、同時期の大村清一防衛庁長官国会答弁(1954.12.22)は、次のようなものだった。
 憲法は自衛権・「自衛のための抗争」を否定していない。「…従って自衛隊のような自衛…目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない」。
 要するに、芦田修正などは何ら根拠とされず、そもそも自衛隊は九条2項が保持を禁止する「戦力」ではなく<自衛のための実力部隊>にすぎない、とされたのだ。
 その後、佐藤栄作内閣時の吉国一郎法制局長官国会答弁(1972.11.13)は、「9条2項の戦力の定義」は「自衛のための必要最小限度を超えるもの」だと述べ、自衛隊は「超えるもの」ではないがゆえに「戦力」ではなく、従って憲法9条に抵触しない、とした。
 「戦力」の意義を明瞭にしているが、基本的な趣旨は、昭和29年の時期と同じだと解してよい。
 このような解釈については、常識的にみて自衛隊が「戦力」に当たらないとするのはこじつけだとか、「必要最小限度」とはどの程度かあいまいだ等の批判は当然にありうる。
 しかし、ともあれ、これが現在も生きている日本政府の(自衛隊に関する)憲法解釈のはずなのであり、石破が「芦田修正」を持ち出すのは、芦田に自衛隊(自衛軍)保持の余地を残したいという意図がかりにあったとしても、<公的な・公定の>解釈ではなく、一国会議員の解釈にすぎない。石破は1970年代以降に大学で憲法を学んだはずだが、よほど奇妙な(主観的な個人の解釈だけを示す)教師の講義を受けたのだろうか。
 こんな、自衛隊の存立基礎にかかわる問題について、与党も野党も、そしてマスコミも、国会における奇妙なやりとりを問題意識をもって聞いていないとは、まことに奇妙な、あるいは異様な事態だと思われる。ますますもって嘆かわしい世の中になってきている。

0239/森達也の憲法九条理解は誤っている。

 森達也という人の本は、たぶん少なくともまともには読んだことがない。この人が週刊文春6/28号で保阪正康監修・解説の50年前の憲法大論争(講談社現代新書、2007)の書評をしている。
 字数の半分弱が対象書の紹介・論評で残りは憲法(改正)に関する自論の展開というのも大いに気にかかる。さらには、不正確なことを平気で?書いているのでますます気になる。こう書く。
 「改憲派は自衛権を否定するのかと九条二項の撤廃を主張する。ここがまずは勘違い。自衛権は自然権でもある。…つまり九条二項は自衛権を否定するものではなく、自衛権の行使としての武力を否定する理念なのだ」(p.146)。
 森達也が「高揚した危機管理意識と被害者意識が突出するばかりのこの状況で、…憲法を絶対に安易にいじるべきではない」と主張する<護憲>派だから、指摘しておくのではない。上の短い文章(5つの文)には二つの大きな誤りがある。
 第一に、「改憲派は自衛権を否定するのかと九条二項の撤廃を主張」している、という認識は誤っている。「ここがまずは勘違い」と返しておく。
 
第二に、「
九条二項は自衛権を否定するものではなく、自衛権の行使としての武力を否定するものだとの認識は、概念用法が正確ではなく、結果として誤っている。
 まず、改憲派は自衛権が国家にありつつもその自衛権を「陸海空軍その他の戦力」によって行使することを認めていない九条二項の削除を主張している。
 したがって、「九条二項は自衛権を否定するものではなく、自衛権の行使としての戦力(の保持)を否定するものだと説明するならば正しいが、「戦力」に代えて「武力」という概念を用いるのは適切ではない。
 なぜならば、現実に存在する自衛隊は、政府・内閣法制局の言葉遣いによれば、九条二項がいう「陸海空軍その他の戦力」ではない、「武力」又は「実力」なのだ。九条二項にいう「戦力」ではないからこそ自衛隊の存在は合憲だと政府・内閣法制局は説明してきているのだ。
 九条二項の理念が「自衛権の行使としての武力を否定する」ことと述べる森達也が現実に存在する「武力」装置としての自衛隊をどう評価しているのかは不明だが、ともあれ、上のような、一見正しそうできちんと読むと誤っている憲法九条に関する言説を撒き散らす評論家・著述業者等々が-今回発見した森達也も含めて-少なくないので、ああやれやれという気がする。
 今後も、中途半端な九条理解にもとづく、一知半解の議論も多くなされるだろう。警戒が要。
 それにしても、書評欄の半分を対象著書とは無関係の自分の見解で埋め、かつ上のような基本的な誤りを含む文章を書き、さらについでに書けば最後の字数埋めのためか「今の政治家の質が悪くなっていると僕は書いた。これはすなわち、彼らを選ぶこの国の民意が、この半世紀で激しく劣化していることと同義なのだ」と、じつに陳腐な、まことに平凡な内容の文章で終えて、おそらくは結構高い原稿料を出版社(文藝春秋)から貰えるとは、週刊誌文筆商売というのは、何とイイカゲンでかつ何とオイシイものだろう。

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