秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

自由意思

2111/J・グレイ・わらの犬(2002)⑤-第2章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間と他動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.54~p.71。本文最後(p.209)まで昨秋に読了しているので、再読しながら、ということになる。太字化は紹介者。
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 第2章・欺瞞〔The Deception〕②。
 第5節・ライオンとの対話〔Conversing with Loins〕。
 ライオンが言葉を発しても人間は理解できないと言ったL・ヴィトゲンシュタイン〔Ludwig Wittgenstein〕は、ヨーロッパの伝統に添うヒューマニストだ。プラトンからヘーゲルまでは世界を「人間の思惟を映す鏡」と、ハイデガーや彼はさらに進めて「人間の思考から成る構築物」と解した。いずれでも、世界は、それまではなきに等しかったが、人間が出現して初めて意味をもつ。
 後期ヴィトゲンシュタインは旧哲学を超越したと自負したが、原点の「観念論」を出ていない。観念論者によれば「精神を離れて」は何も存在せず、究極的には「世界は人間が創造した」に等しい。これは、「人間だけを認める考え方」だ。
 前期の彼は「世界の論理的構造を映し出す思考と言語を記述」しようとしたが、のちに「言語が世界を鏡映する」との考えを捨てて、「言語から隔絶して存在する世界の概念に想定される一切の概念」を否定した。後期には、「言語で表現しえないことは何もない」のであり、「その哲学は所詮、観念論(Idealism)を言語の術語(linguistic terms)で開陳」したものだ。
 第6節・『ポストモダニズム』〔"Postmodernism"〕。
 ポストモダニズムによると、自然などはなく、「ただ人間が造り上げた浮遊する世界」が存在する。せいぜい「相対主義」(relativism)を唱えて「人間は真理(truth)を掴み得ないこと」を認めるが、この真理否定は「質の悪い思い上がり」だ。
 「人間の理解の遠く及ばない世界」を否定するポストモダニストは、そのことで「人間野望の限界を見定める」ことを拒否して人間を「最終調停者」にし、「何ものも人間の意識(onciosness)に現れないないかぎりは存在しない」と暗に断定している。
 「真理は存在しない」との考えはギリシャ哲学にもあった。ポストモダニズムは、「最新流行を装った人間中心主義(anthropocenturism)でしかない」。
 第7節・動物の無心(Animal Faith)。
 従来の全ての哲学者は、「動物の無心」を超える理由を発見していない。
 第8節・プラトンとアルファベット〔Plato and Alphabet〕。
 鳥や獣に対する「人間の特質」は「言葉操作能力」にではなく、「言葉を固定する(crystallisation)」手段として「文字」を持つことにある。
 「文字は仮想の記憶を生む。これによって、人間は世代や境遇の枠を超えて体験を拡張することができる。同時に、文字は抽象世界の創造を可能にし、人間はそれをリアリティと取り違える結果になった。文字の支えで発達した哲学では、人間はもはや自然界に足場がない。」
 原始期の文字には自然界との多様な関係があったが(象形文字)、次第に動物と共有しない「人語」が出現して、「全ての観念(sense)の根拠」になった。
 プラトンらの言語崇敬を批難したヴィトゲンシュタインらは要するに、「表音文字が思考に及ぼす影響を批判した」。
 プラトン哲学の系譜にない中国古文は「豊かな視覚表現」をもつために「抽象思考」を育てなかった。プラトンによると「抽象語が精神、知性の実体を規定」するが、中国思想は一貫して「唯名論」(nominalst)で、抽象語は全て「名称(labels)」にすぎないと理解したので、「観念(ideas)と事実(facts)を混同することがない」。
 プラトンが遺した「真・善・美」の三価値・抽象的理想は、対立抗争・僭政・殺戮を生んだ。ヨーロッパ史の少なからぬ部分は、「アルファベットがもたらした思想の過誤による」。
 第9節・個人崇拝批判〔Agaist the Cult of Personality〕。
 ヒューマニズムによると地球は人間出現まで何の「価値」(value)もなかった。この「価値」は「人間の願望、選択が落とす影」で、本質的に多少とも価値が問題になるのは「個々の人格」だ。人間は神に由来するがゆえに、キリスト教は「個人崇拝」を認めるだろう。しかし、キリスト教を捨てたとなると、そこでの「神」の姿は不分明だ。
 「人格とは、自律の意志をもって人生を選択、決定する主体だが、ほとんどの人間はそこまで自己を確信していず、最良の境遇にある者たちも、自身をそのようには見ていない」。「江戸時代の武士(bushido warriors in Edo Japan)、中世ヨーロッパの王侯貴族や吟遊詩人」等々は「近代的な自律した人格(personal autonomy)の理想像に合致しない」がゆえに「欠陥人間」だったのか。
 「自律した人格である(being a person)か否かは、人間の本質(essence of humanity)にかかわることではない」。歴史的にも、「人格は一種の仮面だ」。「自律した人格、主体的な個人とは、…ヨーロッパに伝搬した仮面を後生大事に被りつづけ、それを自分の素顔だと思い込んでいる人間のことを言う」。
 第10節・意識の貧困〔The Poverty of Conciousness〕。
 プラトンは「人間のすみきった意識で感得(perceive)したこと」を「究極のリアリティ」とした。デカルト以来の命題では「感覚(sensation)や知覚(perception)は意識(conciousness)を必要とはせず」、まして「自己認識(self-awareness)」とは関係がない。「感覚、知覚は、動物にもある」からだ。
 植物は触感・視覚をもち、「最古の単純な微生物も、その感覚は人間に通じる」。
 「地球上の生命の始原」にあるハロバクテリア(halobacteria)は「感光物質ロドプシン(rhodopsin)の作用で光に反応する」が、これは人間の「網膜にあるのと同じ色素蛋白」だ。「人間は、太古の泥の目を通じて世界を見ているのだ」。
 古き二元論によると、「物体(matter)」には知性(intelligence)がなく「精神」(minds)がなければ知識(knowleage)もない。実際には、「知識」は「精神」を必要とせず、マーギュリス〔Lynn Margulis〕の言うように、全生体は「知識を備えている」。-「自律した一個の生体である地球、ガイヤは固有の感覚と知覚によって、人間が登場するはるか以前から全地球規模で自在に情報を交換し、意志伝達を図っていた」。
 「バクテリアは環境に関する知識にもとづいて行動する」。「より複雑な生物の免疫システムには学習機能と記憶の蓄積(learning and memory)が認められる」。
 高度に発達した生物でもふつうは、「知覚や思考は無意識に生じる」。人間は最たるもので、「意識される知覚(concious perception)」は「五感(senses)を介する受容」の「ごく一部」であって、人間は遙かに多くを「閾下知覚(subliminal perception)によって感じ取る」。「意識」の変動(生活リズム、概日性・睡眠等)は、原始以来「人間の生存に不可欠」だ。日々の「行動」はおおむね「無意識」による。
 「心底の動機は疎外されて意識の検証を経ることがなく」、「ほとんどの精神生活(mental life)は、無意識に(unknown)行われる」。意味が「自覚を要する」ことは殆どなく、「致命的に重要なことの多くは、意識が欠如しているうちに生起する」。
 プラトンやデカルトでは「意識が人間と動物を分ける」。後者によると「考えない動物は機械(machines)と変わりがない」。しかし、犬・猫・馬は周囲を「意識」(display awareness)し、行動の当否を「経験に即して判断」する。「思考」(thoughts)も「感覚」(sensations)も備える。類人猿は「知的能力」をもち、人間だけが「意識」をもつのではない。
 「自我の観念(the sensation of selfhood)の欠如」が他動物と人間を分ける。といっても動物が「不幸」なのではなく、「自己認識」(self-awareness)は能力であるとともに妨害物だ。自己忘却により最大の能力を発揮することもある。「日本の弓道では射手が的を忘れ、自分をも忘れて(no longer think)、初めて正鵠を射ると教える」。
 東洋の「瞑想」(meditatives)は「意識高揚」技法ではなく「意識を迂回する」手段だ。
 「意識に上ることのない知覚-閾下知覚は、異状でも変則でもなく、正常なこと」だ。人間の「知覚」のほとんどは、「意識的観測」ではなく「持続する無意識の凝視」による。
 精神分析家のA・エーレンツヴァイク〔Anton Ehrenzweig〕が指摘するように、「無意識の視覚」は「意識的な熟視」よりも大量の情報を収集するが、これは「科学」の視点からも同じだ。
 「閾下知覚」(subliminal perception)の影響は長期的で広範囲だ。約40年前に禁止されたが、「消費者の購買行動を操作する」サブリミカル・プロジェクション企業も登場した。
 「人間が意識のフィルターを通して見る世界は、閾下知覚によって与えられたものの断片でしかない」。人間は「自分の感覚を検閲(censor)」するが、じつは「全てを前意識(preconcious)の世界観に頼っている」。「現時点で知っていること」=「意識を介して学習すること」ではない。
 「精神(mind)の寿命と肉体(body)の寿命は表裏のことだ」。「覚醒した意識」(concious awareness)にのみ頼れば、「精神は全体としては機能しない」。
 第11節・ロード・ジムの行動〔Lord Jim's Jump〕。
 J・コンラッド〔Joseph Conrad〕の小説<ロード・ジム>の主人公の行動〔略〕には、謎がある。乗客を捨てて救命ボートに飛び降りたのは「自分から」か「無意識で」か。「責任」が問われ得るならば別の行動をとるのが「自由意志」だが、どう判別するのか。
 「自由意志(free will)の概念を否定する論拠」は多数あるが、その議論自体を拒絶する立場もある。
 「自ら行動を決定して、初めて人は自由行為者(free agent)だ。ところが、人間は偶然と必要(chance and necessity)の申し子であって、何に生まれるかも自分では選べない。だとすれば、一切の行動は責任外になる」。これが、「自由意志否定」論の有力論拠だ。
 近年の科学研究はますます、「自由意志を薄弱なものに」した。B・リベット〔Benjamin Libet〕の実験では「行動を促す脳内の電気パルス(electtrical impulse)-準備電位は、意識が行動を決定する半秒前に発生する」。自分の意志で行動を決定して実践するとふつうは考えるが、しかし「全ての動作、行動を無意識に開始する」。リベットらは述べる。-「とっさの自発的行為においてすら、脳の作動は意識に先行すると見られる」。
 人間が思うようには行動していない理由の一つは、「意識の帯域幅(bandwidth)、…意識の容量もしくは能力の問題」だ。人間は生物として「毎秒約1400万ビットの情報を処理するが、意識の帯域幅はせいぜい18ビットで」、「意識」は必要な情報の100万分の1しか処理しない。
 「神経科学(neuroscientific)研究は、人間が自由意志では行動できないことを実証した」。リベットは「わずかながら」その働きを「脳の促す行動を保留し、または抑止する意識の力」に認めるけれども、そうした「拒否権」行使の実例や可能性について「検証の術はない」。
 人間は将来の行動を予測できないにもかかわらず、後から振り返って「あの決断は定められた道程の一歩だった」と思う。あるときは降りかかった偶然だとし、あるときは「自身の行為」だとする。「自由」の感覚は、この二つの視点を切り替えるることから生じる。「自由意志は、錯視のいたずら(a trick of perspective)である」。
 ロード・ジムが思い悩むのは「自身の人格探究」だが、虚しい努力だ。「自己認識」がどうであれ、「人間個人の本質」は、「きわめて曖昧なかたちでしか、捉えることはできない」。ショーペンハウアーが、つぎのように言うとおり。
 「自己認識-人が自身の本質をどう規定するか-は、意識のあり方によるとされる」。しかし、決定的に不十分だ。人間はその人生で多くのことを「知る」が、それは微々たるもので、かつ、記憶の1000倍以上のことを忘却してしまう。「外界との接触を重ねるうちに、人がいつか認識の主体-知っているつもりの自分-を自己の本質と考えるようになるのは事実だが、これは脳の機能であって、自己そのものではない」。
 「知っているつもりの自己を探し求めながら、ついに発見に至らない」。「不変の人格は存在しないだろう」と考えつつも、人間は「自分の行動を説明しようと心の裡を覗きこまざるにはいられない」。そこには「記憶の断片ばかり」がある。
 ロード・ジムは「自分が救命ボートに飛び移った理由を知り得ない。知り得ない運命である」。ゆえに、「人生を白紙に戻して出直すことはできない」。
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 第12節<仮想の自己>以降へと、つづける。

2048/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)③。

 茂木健一郎・脳とクオリア-なぜ脳に心が生まれるのか(日経サイエンス社、1997)。
 <第10章・私は「自由」なのか?>の後半、「認識論的自由意思論」。p.302-。
 「自然法則の基本的性質」からする自由意思論に加えて、「認識論的自由意思論」なるものが提示される。この部分の方が、<哲学者>の思考にまだ近い。
 茂木によると、「自由意思」概念は、「時間」の認識と深い関係がある。
 そして相対性理論のもとでの「相対的時空観」では四次元の中に「空間」と結びついて「時間」が最初から「そこに存在」するので、「自由意思」なるものは成立し得ない。
 この「相対的時空観」は、私たちの「直感」上の「時間」とは異なり、アインシュタインの過去・現在・未来の区別は「幻想」だとの言明は「正しい」としても、この「幻想」は強固であって、この「幻想」が「自由意思」と深くかかわる。
 どのようにか。これは、つぎのように論述される。
 ・「現在」が生成して「過去」が消滅する。「現在」時点でには「未来」は存在しない。「未来」が作成されたときに「現在」は消滅する。
 上のことが意味するのは、「未来」は「現在」には存在しないからこそ、つまり「未来」は不分明だからこそ、「自由意思」が作動して「未来」の私たちの行動が決定される、ということだ。
 ・「相対的時空観」では「幻想」ではあっても、私たちの一定の「やり方」の「認識」構造がある限り、「幻想」下での「自由意思」の存在を正当化できる可能性がある。
 さらに、つぎのように展開されもする。これによると、「幻想」を前提としなくても済むことになる。
 すなわち、「相対的時空観」が最終的真理ではなく、「時間の流れ」を記述する「未来の自然法則」が存在する可能性がある。
 やや中途半端な感もあるが、これでこの辺りを終えて、茂木はさらに、①<「自己」と「非自己」の区別>、②<自由意思と「選択肢」の認識>の問題に論及する。
 ①では例えば、飛んできたボールを避けるのと「飛んできたボール」を頭に浮かべて避ける練習?をする際の「自己」の内部・外部が語られる。
 ②では、「自由意思」といってもそれによる選択肢の数や範囲は限られる、として、つきの(私には)重要なことが叙述される。
 ・「どのような選択肢が認識に上るかは、私たちの経験、その時の外部の状況、私たちの知的能力、その他の偶然的要素にかかっている」。
 重要なのは、「どのような選択肢が認識に上るか自体を決めるのは、私たちの自由意思ではないということだ」。p.309。
 さて、適切な<要約>をしている、または<要旨>を叙述しているつもりはないが、以下が、この章での「議論」の茂木による「まとめ」のようなので、省略するわけにはいかない。p.309-p.310。
 前回に述べた大きな論脈の第一と今回の第二のそれぞれに対応して、こうなるだろう。
 第一。自由意思が存在するとしても、「アンサンブル限定」の下にある。但し、宇宙の全歴史の時間的空間的限定を考慮すると、「有限アンサンブル効果」を通して、「事実上の自由意思が実現される可能性がある」。
 第二。「認識論的自由意思論」の箇所では「自由意思」の条件を検討したが、未熟で検討課題が多い。
 以上のうえで、さらにこう書いている。p.310。
 ・「私の現時点での結論」は、現在知られている「自然法則が正しい」とすると、「自由意思」が存在しても「かなり限定的なものになる」、ということだ。
 ・「アンサンブル限定」という制約のつかない「本当の意味で自由な」「自由意思」は「存在しないと考える方」が、「量子力学の非決定性の性質、相対論的な時空観から見て、自然なように思われる」。
 さて、このように「現時点での結論」を記されても、特段の驚きはないだろう。
 「本当」のであれ、「事実上」のであれ、「自由意思」は存在する、と考える、そう観念する、ということができなくはないだろうからだ。
 それに、この書での茂木健一郎の論述は1997年時点での彼が30歳代のときのもので、体系的には(江崎道朗著などと比べてはるかに)しっかりしているが、現時点での彼や脳科学上の学問状況を反映しているとは言えないと思われる。もともとが、仮説・試論の提示なのだと思われる。
 むろん、仮説・試論の提示であっても、こうした分野に疎い「文科」系人間にとっては、脳科学の一端らしきものを知るだけでも意味があった。
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 なお、立ち入るならば、上のp.309の論述には、素人ながら疑問をもつ。
 「私たちの経験、その時の外部の状況、私たちの知的能力、その他の偶然的要素」によって「どのような選択肢が認識に上るか」を決めるのは、「私たちの自由意思ではない」、と茂木健一郎は叙述している。
 的外れかもしれない。しかし、決定する時点で「自由意思」は働いていないとしても、「私たちの経験、その時の外部の状況、私たちの知的能力、その他の偶然的要素」は、簡単には自分たちの「経験」等々自体が、自分たちの「自由意思」の介在が100%なくして発生したのではない、のではないだろうか。
 <自由意思>を働かせる選択肢の数・範囲が(残念ながら宿命的にも)限られているのは、おそらく間違いはない。
 しかし、その限られて発生する選択肢の範囲や内容自体の中に、なおもほんの少しは「自由意思」が介在しているものがあると思われるのだが。
 さらに、第9章<生と死と私>も、この欄で紹介・コメントする予定だ。
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 なお、茂木の原書では「自由意思」は全て「自由意志」と表記されている。はなはだ勝手ながら、「自由意志」では何となく?落ち着かないので、全て「自由意思」に変更させていただいている。

2047/茂木健一郎・脳とクオリア(1997)②。

 茂木健一郎・脳とクオリア-なぜ脳に心が生まれるのか(日経サイエンス社、1997)。
 9/12に全読了。計313頁。出版担当者は、松尾義之。
 <第10章・私は「自由」なのか?>、p.282~。
 まえがき的部分によると、「万能の神」のもとでも人間に自由意思があることは自明のことだったが、いわゆる「人間機械論」がこの「幻想」を打ち砕き、<人間的価値>の危機感からニーチェやサルトルの哲学も生まれた。
 ここで「人間機械論」とは、茂木によると、人間の肉体は脳を含めて「自然法則に従って動く機械」にすぎないとする論で、彼によるとさらに、「私たち人間が、タンパク質や核酸、それに脂質などでできた精巧な分子機械であるという考えは、現在では常識と言えるだろう」とされる。
 「心」も「自由意思」も、「自然法則の一部であるということを前提として」、茂木は論述する。
 単純な「文科」系人間、あるいは人間(とくに自分の?)の「精神」を物質・外界とは区別される最高位に置きたい「文学的」人間にとって、回答は上でもう十分かもしれず、以降を読んでも意味がないのかもしれない。茂木健一郎とは<考えていることがまるで違う>のだ。
 しかし、同じ人間の(しかも同じ日本人の)思考作業だ。
 読んで悪いことはない。かつまた、その<発想方法>の、「人間の悪、業を忌憚なく検討する事も文学の機能だ」と喚いていた小川榮太郎とはまるで異質な発想と思考の方法の存在を知るだけでも、新鮮なことだ。
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 茂木健一郎の設定する最初の問いはこうだ。p.285。
 「果たして、自然法則は、自由意思を許容するか?」
 この問題は、「自然法則が、決定論的か、非決定論的か」と同じだ。
とすると、「私たちの意思決定のプロセスを制御している神経生理学的な過程、すなわちニューロンの発火の時間発展を支配する自然法則が、決定論的か、非決定論的か」ということになる。
 「ニューロンの時間発展を支配」する自然法則が「決定論的」であれば、「自由意思」はなく、「非決定論的」であれば、「自由意思」はある。p.286。
 なお、「自然法則が決定論的」であるということは、その自然法則にもとづいて私たちが将来を「知る」ことができることを必ずしも意味しない。p.287。
 現在の状態を完全に「知る」のは不可能なので、将来の状態の予測にも誤差が生じる。「カオス」だ。しかし、「カオスの見られる力学系は、時間発展としては、あくまでも決定論的」なのだ。p.288。
 このあと茂木は、「量子力学」への参照に移る。
 量子力学上は、「ある系の現在の状態から、次の瞬間の状態を完全に予測することはできない」。計算可能なのは「確率」だけで、この「不確定性」は「系自体の持つ、本来的な性質」であって、「量子力学は、本質的な非決定性を含んでいる」。
 しかし、「電子、光子」などの「ミクロな世界」について意味がある量子力学の「非決定性」を、ニューロン発火過程に適用できるのか?
 このあとの論述は「文科」系人間には専門的すぎるが、第一に「シナプスの開口放出に含まれる量子力学的な不確定性」が「自由意思」形成に関係するとする学者もいるとしつつ、茂木はそれに賛同はせず、かつ量子力学の参照の必要性は肯定したままにする。
 第二に、量子力学にいう「非決定性」というものの「性質」が問題にされる。p.292-。
 そして、茂木健一郎が導くとりあえずの、大きな論脈の一つでの結論らしきものは、つぎのとおりだ。
 ・量子力学の「非決定性」といっても、それには「アンサンブル〔集合〕のレベルでは決定論的」だ、という制限がつく。
 ・「量子力学が、自由意思の起源にはなり得たとしても、その自由意思は、本当の意味では『自由』ではない。なぜならば、量子力学は、個々の選択機会の結果は確かに予想できないが、アンサンブルのレベルでは、完全に決定論的な法則だからだ。」p.294。
 ・「アンサンブル限定=個々の選択機会において、その結果をあらかじめ予想することはできない。しかし、…全体としての振る舞いは、決定論的な法則で記述される。」
・「個々の選択機会」について「その結果を完全には予測できない」という意味で、「自由意思」が存在するように「見える」が、同じような「選択機会の集合」を考えると、「決定論的な法則が存在し、選択結果は完全に予測できる。」
 ・「現在のあなたの脳の状態をいくら精密に測定したとしても、予想するのは不可能」だ、というのが量子力学の「非決定性」だ。しかし、「あなた」のコピーから成る集合〔アンサンブル)全体としての挙措は、「完全に決定論的な法則で予測することができる。」p.295。
 というわけで、分かったような、そうではないような。
 「個々の選択機会においては、自由があるように見えるのに、そのような選択機会の集合をとってくると、その振る舞いは決定論的で、自由ではない」(p.296.)と再度まとめられても、「自由」や「決定」ということの意味の問題なのではないか、という気もしてくる。
 もっとも、茂木健一郎は、より厳密に、つぎのようにも語る。
 ・選択機会の集合(アンサンブル)に関していうと、「現実の宇宙においては、可能なアンサンブルがすべては実現しないことが、事実上の自由意思が実現する余地をもたらすという可能性」がある。p.297。
 ・「宇宙の全歴史の中で」、「まったく同じ遺伝子配列と、まったく同じ経験」をもつ人間が「二度現れる確率は、極めて少ない」。このような「個性」ある人間による選択なのだから、ある「選択機会が宇宙の歴史の中で再び繰り返される確率は低い」。こうして、私たちの「選択」は生涯一度のみならず「宇宙の歴史の中でただ一回という性質を持つ」。とすれば、選択機会のアンサンブルの結果は「厳密に決定論的な法則」で決定されるとしても、その「選択機会が宇宙の全歴史の中でたった一回しか実現しない」のでその結果は「偏り」をもつ。しかもこれは「量子力学が許容する偏り」であり、この「偏り」を通じて、「事実上の自由意思が実現される可能性」がある。
 このあと、茂木は、現在の(1997年の)量子力学の不完全さを指摘し、今後さらに解明されていく余地がある、とする。
 さらに、もう一つの大きな論脈、<認識論的自由意思論>が続く。p.302-。
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 ここで区切る。小川榮太郎はもちろんのこと、西尾幹二とも全く異なる、人間の「自由」に関する考察があるだろう。
 1997年の著だから茂木自身の考えも、脳科学も、さらに進展しているかもしれない。
 まだ、紹介途上ではあるものの、しかし、秋月瑛二の想定する方向と矛盾するものではない。
 簡単に言えば、自然科学、生物科学、脳科学等によって、人間の「心」、「感情」、「(自由)意思」についてさらに詳細な解明が進んでいくことだろうが、人間一人一人の脳内の「自由」はなお残る、ということだ。あるいは少なくとも、いかに科学が進展しても、生存する数十億の人間の全員について、その「思考」している内容とその生成過程を完璧に把握しトレースすることは、「誰も」することができない、ということだ。
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2045/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書, 2018)①。

 「自由」について最近に最も考えるのは、「意思は自由か」または「自由な意思はあるか」だ。この問題はもちろん、「意思」とは何で、その他の精神的行為または精神的態様とどう区別されるものなのか、に関係する。
 ヒト・人間の脳内の諸作業・態様の中に、「こころ」あるいは「感情」はどこにあるのか、どうやって成立しているのか、と類似の問題だ。
 「自由」か否かを論じること自体がヒト・人間として<生きている>ことの証左であり、さらに、たんなる覚醒状態・意識の存在だけではなく、より高次の「思考」を必要とするものだ。
 というわけで、たんなる覚醒状態・意識の存在とは次元が質的に異なるが、「自由」か否かを論じること自体が、<生きている>ことを前提にしていることは変わらない。
 上のことはつまり、<死者>には「意識」はなく、自分は「自由」か否かを考えたり、思い巡らしたりすることはできない、ということだ。
 「自由」か否かを論じるのは、<生者>の贅沢な遊びだ、ということにもなる。
 上に述べていることは、ヒト・人間には、<死から逃れる自由>=<死からの自由>は存在しない、という冷厳たる事実を前提にしている。
 さらに言おう。ヒト・人間は、生まれ落ちるときまでに自己の体内に宿していた<遺伝子>から自由なのか。直接には両親から受け継いだ、個性がある程度はある<生物体>としての存在から、ヒト・人間は「自由」なのか。否。
 さらに言えば、ヒト・人間は、生後の社会・環境から<無意識にでも>与えられる影響から、完全に「自由」でおれるのか? 否。
 「あなたは自由か」とずいぶんと<上から目線>の発問をして、書物の表題にまでしている西尾幹二には、まず上のようなことから論じ始めて欲しかったものだ。
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 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 この本の、筑摩書房の出版・編集担当者は湯原法史
 上の書は、空気中の酸素を取り込んで炭水化物等を分解してエネルギーにしなければならない人間、酸素を多分に含む血液を脳を含む全身に送る心臓というポンプを必要とする人間、酸素を含む空気を体内に吸い込むための肺臓の存在を必要とする人間、といったものを全く意識させない、<文学的>、<精神主義的>ないし<教養主義的>自由論のようだ。人文(ないし人文・歴史)関係評論家の、典型的な作品かもしれない。
 もっとも、いちおうは精読したのは、全380頁以上のうちの57頁まで(第一章だけ)。
 しかし、上の範囲に限っても、注文を付けたい、または誤りを指摘しておきたい点がある。
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 その前に、さらに私の「自由」論の序説らしきものを、上記に加えて綴ってみよう。
 組織(・団体)や国家の「自由」(これらを主体とする「自由」)は度外視する。
 第一。①何からの「自由」か。英語ではしばしば、free from ~という二語が併せて用いられる。<from ~>の~は重要なことだ。
 ②何についての自由か。
 ア/内心・政治信条・宗教(信仰)・思想等。
 イ/行動。この行動の「自由」を剥奪または制限するのが、刑法上の<自由刑>だ。
 ウ/経済活動。つまり、商品の生産・販売・取引等々。商品には物品のみならず「サービス」を含む。
 これらは、帰属する共同社会または国家により、法的・制度的な<制約>が異なる。
 第二。冒頭に「自由な意思」の存否の問題に言及したが、<身分から契約へ>を標語としたかもしれない「近代」国家・社会は、「個人の自由」について語るときに「個人の自由な意思」の存在を前提としている(正確には、あくまで原則または理念として)。
 <個人の自由意思>の存在を想定することなくして、法秩序は、そして社会秩序は、成立しない(またはきわめて成立し難い)ことになっている。
 以下は、典型的な法条だ。説明は省略する。あくまで一部だ。
 A/刑法38条「①罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。
 ②重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。
 ③法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。」
 同39条「①心神喪失者の行為は、罰しない。
 ②心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」
 B/民法91条「法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関しない規定と異なる意思を表示したときは、その意思に従う」。
 同93条「意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。
 同95条「意思表示は、法律行為の要素に錯誤があったときは、無効とする。ただし、表意者に重大な過失があったときは、表意者は、自らその無効を主張することができない」。
 こうした基本的な?法条に、西尾幹二の上掲著は言及していないようだ。きっと関心もないのだろう。
 茂木健一郎・脳とクオリア(日経サイエンス社、1997)、p.282。
 茂木は上の箇所で、「自由意思」の存在が「犯罪者を処罰する」根拠になっている、等と述べて、「自由意志」論(第10章<私は「自由」なのか?>)への導入文章の一つにしている。
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 さて、西尾幹二・上掲書の短い読了部分(第一章)には、大きく二つの論点がある。
 紹介・引用しつつ、感想・コメントを記す。
 全体としてもそうなのだろうが、部分的な論及はあるとしても、そもそも「自由」をどう理解するのか、「自由」をどう定義しておくのか、が叙述されていない。
 たんなる身辺雑記以上の「随筆」でもない、少なくとも人文・歴史関係評論家の作品?としては、これは困ったことだ。基本的概念の意味がほとんど分からないまま、<賢い>西尾幹二が読んだ多数の文献が挿入されながら、あれこれと、あちこちに論点を少しは変えながら記述される長い文章を読んでいくのは、なかなかの苦痛でもある。
 それはともかく、先ずは、<いわゆる保守>評論家には見たことがない指摘または「怖れ」が(第一章)前半に叙述されているのが、気を惹いた。
 その最初は、カー・ナビやサイバー・テロに触れたあとのつぎの文章だ。p.10。
 ・「生活はほとんど便利になりますが、なんだか背筋の寒くなる、不気味な時代が始まりつつあるように思えました」。
 アメリカのエシュロンや「情報戦争」に触れたあとでは、こう書く。p.19。
 ・「私たちは今、これまでに知られていない、新しい不気味な一つの大きな檻の中に閉じ籠められているような異様な生活感覚の中で生き始めているように思えてなりません」。
 こうした部分はどうやら、この著の基本的なテーマらしい。
 つまり、そういうふうに変わってきているのに<あなたはあなたが自由でないことに気がついているか>(オレは気づいているぞ)ということが、書名も含めて、主張したいことらしい。同様のことは、「あとがき」でも述べられている。
 西尾が「不気味」だと感じるのは、「敵の正体が見えない」ことだ。「サイバーテロ」は誰がいつ襲うか、分からない。
 ここで西尾は旧東独の「秘密警察」(STASI)へと話題を広げる。
 「敵」が誰か分からず、スパイは家族や友人たちの中にもいた、という「かつての全体主義社会」の実例は、「いつ襲ってくるのか分からない敵の正体の見えにくさ、自由の不透明さ」において、現代へのヒントになる、と言う。p.20。
 それはそれとして参考になるかもしれないが、つぎの文章に刮目すべきだろう。このように「展開」させていくのだ。p.24。
 ・「旧共産主義体制のことを私はことさらに論(あげつら)っているのではありません。
 西側のコンピュータ社会が旧東側の、"少年少女スパイ育成社会"にある面では似てきているという新しい発見に、私が戦いているということを申し上げておきたい」。
 同じ趣旨は、つぎの文章ではさらに明確になり、強調されている。p.26。
 ・「世界の先端を行くアメリカのコンピュータ社会は、全体主義体制にある面で似てきているということの現れではないでしょうか」。
 ・「…倒錯心理、常識の喪失において、両者はどことなく共通し始めております」。 
 アメリカの<コンピュータ社会>は、「ある面では」、「どことなく」、共産主義諸国と「似てきて」いるのだ。
 この点が、西尾がこの辺りで指摘して強調したい点に他ならないと思われる。
 そして、日本社会もまた同じだと明記されている。
 端的には、こう書かれる。p.28。
 ・「新旧の共産主義体制にも、現代のアメリカ社会にも、そして日本の社会にもどことなく共通している秩序の喪失、異常の出現」がある。
 最後の締めくくりの文章はこうだ。p.28。
 ・「私たちの生きている今の世界は、どこか今までとは異なった異質な歪みを時間とともにますます肥大化させているように思えてなりません」。
 ***
 こうした西尾幹二のこの部分での叙述の特質は、以下の二点の指摘・表明だろう。
 ①<科学技術>の進展に対する不信感や恐怖。
 ②「現代」社会の欠陥・問題は<共産主義諸国>でもアメリカ・日本でも共通している。
 西尾の用いる「ある面では」とか「どことなく」という表現の意味こそが決定的に重要だと思われるが、そこにこの人は立ち入らない。
 あくまで<文学的>、<感覚的>だ。
 翻って西尾のこうした叙述を読むと、つぎの感想が生じる。
 第一に、<いわゆる保守>か「容共・左翼」かという対立には関係がなさそうだ、ということだ。<現代>批判では「左翼」的かもしれないし、アメリカを先頭に立つ「敵」と見立てているようであるのは「ナショナリズム・右翼」的かもしれないが。
 第二に、<科学技術>の進展に対する疑問や恐怖は、外国も含めてすでに多数の哲学者・歴史研究者等が議論してきたことだと思われる。
 ある者たちはそれを「資本主義」の行き着く先と見なし、(疎外労働によって?)「人間」を「非人間」に変えていく、と考えた。フランスの戦後の哲学者には、こんな主張もあっただろう。
 だが、<科学技術>の進展それ自体に<諸悪>の根源を見る、ということはできない。
 <科学技術の進展と人間の「自由」>というのは、より論じられるべき問題だ。
 結局は一つに収斂するかもしれないが、一方にはIT・AI(人工知能)等の言葉で示されるコンピュータ関連技術の発展があり、一方には脳科学・脳神経生理学等の発展が明らかにしつつあるヒト・人間の「本性」の研究がある。
 これらと社会・国家・人間の関係をもっと論じるべきなのだろう。
 しかし、西尾幹二は<怯えて><憂いて>いるだけで、処方箋を提示しない。それは<文学>系の自分の仕事ではない、と考えているのかもしれない。
 L・コワコフスキがフランクフルト学派の一人に放った厳しい一言を思い出す。記憶にだけ頼り、少しは修正する。
 <現代的科学技術の進化に戦き、かつて「知識人」としての特権を味わうことができた古い時代へのノスタルジー(郷愁)を表明しているだけ>だ。
 第三に、アメリカ・日本が「共産主義」・「全体主義」体制と「似て」きた、「共通して」きた、という指摘にも、十分な根拠が提示されていない。そもそもが、西尾幹二は「共産主義」をどう理解しているのだろう。
 このようにして東西陣営の「共通」性・「類似」性を指摘するのは、ソ連解体時に「容共・左翼」論者も行ったことだった(ソ連にもアメリカにも「現代」特有の病弊がある、と)。
 西尾において特段に意識的ではないのかもしれないが、アメリカを中心ないし先頭とする「現代」文明を批判するのは、中国・北朝鮮等の現代「共産主義」諸国を免罪することとなる可能性がある。
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 一回では済まなくなった。もともとは、<茂木著②>の前書きのつもりだったのだが。
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