秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

自由

2505/西尾幹二批判057—「自由」論①。

  「自由」は、西尾幹二にとっての「生涯」の主題のようだ。
 同・あなたは自由か(ちくま新書、2018)で、こう書いている。p.205。
 「完全な自由などというものは空虚で危険な概念です。素っ裸の自由はあり得ない。私は生涯かけてそう言いつづけてきました。」
 また、『自由の悲劇』と題する新書(講談社現代新書、1990)もあり、それを収めた同じ表題の巻が全集の中にある。
 しかし、西尾の<自由論>の最大の特徴は、第一に、上に引用の文も含めて、そもそも「自由」の意味・意義が明瞭ではなく、法学・政治学・経済学等の社会系はもちろん「哲学」系でもなく、ほとんど「文学」的にまたは「文芸評論」的にこの語・概念が把握されていて、おそらくその結果だろう、暫定的、仮定的にすら何の「定義」も示されていないことだ。
 他の多くの言葉と同様に、西尾にとっては、極論すれば、言葉やその集合の文章は「味合う」もの、「感動を与える(べき)」ものであって、厳密に分析したり、正確な意味内容を追求すべきものではないのだ。ここにすでに、少なくとも秋月が不思議さ、大きな違和感を覚える点がある。
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 西尾もまた叙述しながら自分で戸惑うことがあるようで、例えば、同・あなたは自由か(2018)第二章3「自由は量の概念ではなく、量と質の問題でもない」では、こんなことを呟いている。p.115〜p.117。
 「自由」概念をあれこれ語ったが、「その概念にふさわしいものの言い方」をしてきたか、「疑問もあります」。自由の「過剰」を語ったりその「収縮」を語ったりしたが、「自由」は「量的概念として扱われるには決してふさわしい概念ではありません」。「さりとて質的概念」だとして「正反対の概念を持ち出しても」、自由の「説明には役に立ちそうもない」。「質の上下の問題は、結局のところ量的な価値判断に再び還元されてしまうのです」。「こうした場合、本当に自分の自由が増大したのかどうかは誰にも分からないのが常です」。
 人間には「『自由』は存在しない、という明白な認識にあえて踏み込むべきだ」と言っていいいかもしれないが、この当否は「今しばらく不問にしておきたい」
 「不自由」が宿命であるのは「自明の理」だが「生への情念」を抱える以上、その「不自由」を「必然であり、かつ運命であると…説教師ふうに断案することに私はためらいがあります」。
 「さりとて、『自由』は可能であり、どういう瞬間にどういう形態で人間は真の『自由』に襲われるものであるかを、具体的に明らかにすることは私には不可能でもあります」。「考えれば、私は何も分かっていないのです」。
 ここで区切る。以上は新書の二頁ぶんの抜粋引用。こんな文章を読まされる読者は気の毒だし、書き写すのもアホらしいのだが。
 そうなっている根源は、西尾幹二における「自由」という観念が全く明晰ではなく、いわば<情緒>的言葉として使われているにすぎないことにあるだろう。
 同じ表題での最後のまとめ的な部分には。つぎの文章がある。p.118。
 「『自由』は存在しない、そこからすべてが始まることだけは確かだ、と私は先に申しました。
 おそらく、想像するに、『自由』は持続形態ではなく、量の概念でも質の概念でもなく、人間が四方八方において不自由な存在でありながらそのことをすら超えた境地にあるという認識の大悟徹底の只中から、わずかに瞬間的に発現する何ものかでありましょう。
 はて、西尾が「想像」するという「自由」は「…何ものか」を、読者は理解することができるだろうか。
 あえて言って、文章書きとして<悲惨>だ。むろん「思想家」ではない。
 読んだときの感想として、手元にある現書のp.115-p.119の余白部分には、違う二箇所にいずれも、「笑」・「わけがわからない」という、たぶん数年前の私の手書き文字が記入されている。
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  この欄に昨年、L・コワコフスキのつぎの著作の一部の試訳を掲載した。邦訳書はない。 
 Leszek Kolakowski, Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 =レシェク.コワコフスキ・自由,名声, 嘘つき,背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 その中に「自由について」(On Freedom)と題する章があった(第13章。第18章まである)。
 小ぶりの書物で、一頁あたり(横書き)26行で、この章はわずか9頁余りあるにすぎない(2回に分けての掲載で済んでいる)。→No.2374〜5/2021.05.25〜05.26.
 大きな期待もせず、所持しているL. Kolakowski の書物だからというだけで試訳してみたのだったが、「自由について」の部分だけで、上の西尾幹二・あなたは自由か(2018年)よりもはるかに分かりやすい。また、再言及はしないが、内容的にも教示的で刺激的だ。
 その根本的理由は、概念や論述対象の明瞭さだ。
 冒頭の、決して長くはない計二段落の文章を、さらに抜粋的に要約してみる。
 ①自由の問題に関する思想領域には、つぎの大きな二つがある。
 第一、太古からある、人間(human being)としての自由(freedom)という問題。「人はその人間性(humanity)だけの理由で自由(free)なのか、換言すると、自由な意思と選択の自由をもつから自由なのか、という問題」。
 第二、「社会の一構成員としての人の自由」を対象とする「社会的な行動の自由(freedom)」の問題。この場合の「自由」は、「Liberty」と称することもある
 ②意味について言うと、第一に、「人間性の本性からして自由だ」と言うことがとくに意味するのは、「人は選択することができる、その選択は、人の良心の及ばない力(forces)に全体として依存しているのではなく、かつまたそれによって不可避的に生じたのでもない、ということ」だ。
 第二に、「しかし、自由とは、現存のいくつかの可能性の中から選択する力(capacity)」だけを意味しはしない。「自由とは、全く新しい、全く予見できない状況を作り出す力でもある」。
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 西尾幹二が、あくまで例えばだが、「『自由』は持続形態ではなく、量の概念でも質の概念でもなく、人間が四方八方において不自由な存在でありながらそのことをすら超えた境地にあるという認識の大悟徹底の只中から、わずかに瞬間的に発現する何ものかでありましょう」、などと叙述しているのと比べて、何と明晰な概念の意味の明確化(と問題・対象の設定)だろう。
 これを前提として、残りの9頁足らずが「エッセイ(小論)」として論述されているので、外国語ながら、日本語での西尾の長々しい文章よりも理解しやすい。
 若いときに<思想史>の講義を担当していた「思想家」または「哲学者」か、ニーチェのドイツ語文の日本語翻訳とドイツ文学的研究から出発した、たんなる「もの書き」または「文筆業者」か、の違いだ、と言ってよいだろう。 
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 (つづく)

2387/日本共産党の大ウソ32—「真に平等で自由…」とは。

  不破哲三は現在でも日本共産党常任幹部会委員の一人で、何と50年以上、同党の幹部であり続けている。
 その不破哲三は、日本共産党は「将来構想」がある点で、他政党とは異なる、ただ一つの政党だと、自慢していたことがあった(何かに明記されている)。
 ここでの「将来構想」とは10年後のことでは、もちろんない。不破の言う「未来社会」のことだ。
 日本共産党の現綱領(2020.01.18)も、この部分を変更していないだろう。
 最後の「五、社会主義・共産主義の社会をめざして」の中((十六))にこういう部分がある。
 (なお、同党は(不破理論・「解釈」?に従い)「共産主義は社会主義の高次の段階」という社会主義、共産主義の用語法を1990年代から採用していない。「社会主義・共産主義」と並列させるのが正しい?慣例だ。)
 ①「社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる。」
 ②「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会
への本格的な展望が開かれる。
 人類は、こうして、本当の意味で人間的な生存と生活の諸条件をかちとり、人類史の新しい発展段階に足を踏み出すことになる。」
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  あまりにアホらしいので、逐一言及するのもアホらしいが、<暴力革命を諦めていない>などという幼稚な、何とでも反論できる批判しかできない人が多いので、以下も、少しは意味があるかもしれない。
 第一。これは予言・予測か、それとも「目標」か?
 真面目な共産党員は両者を統一・統合したものだ、<理論と実践の一致だ>などと言うかもしれない。
 しかし、上の区別は重要なことだ。
 かりに「正しい予言」を含んでいるというならば、何ゆえに、何の資格と能力があって、(少なくとも日本の)将来・未来を「正しく」予見できるのか?
 「科学的社会主義」によって「正しく」予言・予見しているのだ、などと主張しているなら(たぶんそうだろう)、すでに「狂っている」。
 誰も、ヒト・人間それ自体、それが形成する社会の将来・未来を、「正しく」予見することなどできない。
 <歴史の発展が証明する>のだ、などというおバカさんは、もうやめて欲しい(と言っても、<聞く耳を持たない>という表現の仕方も日本語にはある)。
 実践的な「目標」だというならまだよいが、将来の社会について「科学的予測」などという戯れ言葉を使ってはいけない。
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 第二。「原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」の展望が(ようやく?)開かれる、という。
 こうした表現に「美しさ」を感じる面妖な人もいるのかもしれない(真面目な共産党員はきっとそうだ)。
 だが、例えば、①「原則としていっさいの強制のない…」と言うなら、「原則」と「例外」を区別する指針くらい示してもらいたい。
 ②「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」と言うなら、「真」に「平等で自由な…」と、そうではない、つまりニセ・虚偽の「平等で自由な…」を区別する指針くらい示してもらいたい。
 さらに、「自由」と「平等」は完全には両立し難いとするのが、少なくとも現在の人類の一致した「知見」ではないかと思われるが、上の「共同社会」では(なお、この言葉はもともとはドイツ語のGemeinwesen だろう)、「自由」と「平等」はいかにして統合・統一されるのか、少しくらいは気にかけて欲しいものだ。
 いろいろな「価値」がある。それらがせめぎ合って、現在の社会や国家ができている。「自由」と「平等」だけではない(諸「価値」としてこの二つに加えてただ一つ「効率」=「便利さ」を挙げていたのが40歳代のL・コワコフスキだった)。生命尊重とか「民主主義」とか、次元や層の異なる諸「価値」もある。
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 第三。上の「共同社会」への「本格的な展望が開かれ」たあと、どうなるのか?
 展望が開かれて、その「…共同社会」が実現・完成したとかりにしよう。
 その後について日本共産党綱領が語るのは、「人類史の新しい発展段階に足を踏み出す」ということだけだ。
 これでは、「真の」将来・未来の<科学的予見>には厳密にはならない。
 「人類史の新しい発展段階」とは何か? ここで再び原始共産制(・アジア的生産様式)→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義・共産主義という「歴史の発展法則」がまるで輪廻転生のごとく?反復するのではあるまい。
 「人類史の新しい発展段階」とは何か?
 そこでは、IT技術はどうなっているのか、脳科学あるいは生物科学はどう「変化」しているのか?
  情報通信技術の将来・未来は? ゲノム発見技術はどのように利用されているのか。「ガン」はとっくに克服されているのか?、「心不全」で死ぬ人はもういないのか? おや、人間の生も死も「消滅」するのか?
 ひょっとして、「人類史の新しい発展段階」に入って、人類・人間の歴史は「終わる」のか?
 いや、何かが「終わる」と、通常は、つぎの何かが「始まる」はずなのだが。
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 もっと前の段階についてすでにある、「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」などという、完璧に空虚な言葉を、政党の綱領に掲げたりしない方がよい。
 日本共産党には、あるいはそれが依って立つその「主義」には、<思考方法>自体に、根本的に「狂っている」ところがある。「暴力革命」うんぬんといった低次元の問題ではない。
 日本共産党に対しては、こうした「言葉」に酔った「夢見ぶり」(夢想者ぶり)をこそ批判すべきだ。
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2378/L・コワコフスキ「背信について」(1999)①。

 L・コワコフスキの以下の著の<第3章・平等について>と<第13章・自由について>の試訳を終えた。
 生じる感想の大きな一つは西尾幹二のつぎの著(・部分)との間のとてつもない違いだ。同じまたは類似の言葉・概念を使った文章でも、基礎にある人間観・思考方法・法や政治に関する「素養」等々のあらゆる点が異なる。
 西尾幹二のあまりのひどさを再確認する。
 ①西尾幹二・国民の歴史(初版、1999)第34章「人は自由に耐えられるか」。
 ②西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)第1章「自由の二重性」・第2章「資本主義の『自由』の破綻」・第3章「…—自由と平等のパラドックス」。
 <平等>はとくに第3章が関連。上の計三章で新書版で計約150頁にもなる。
 例えばつぎの文章の(コワコフスキの短い文章とすら比べての)幼稚さはいったいどういうことか?
 同p.119—「…『自由』と『平等』の矛盾相克の関係にひとまず目を注いでおくことが本書の必要な課題でもありましょう」。
 同p.154—「…オバマは『平等』にこだわりつづけ…。トランプは…『自由』の自己主張の復権を唱え…。二人の…ページェントがこれから、何処に赴くかは今のところまだ誰にも分かりません」。
 これらのほとんど無内容さと、試訳済みのL・コワコフスキの文章の内容とを比べていただきたい。なお、コワコフスキは<日常生活に関するエッセイ>として書いているが、西尾幹二は馬鹿らしくもまるで<思想書>のごとくして書いている。
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 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれている。邦訳書はない。
 第1章〜第4章の「権力」・「名声」・「平等」・「嘘つき」についで、第13章の「自由」も終えた。
 著者本人の選択かどうかは不明だが(少なくとも事後了承はしているだろう)、この書全体の表題には、18の主題のうち<自由・名声・ 嘘つき・背信>の4つが選ばれている。そこで、残る「背信(裏切り)」に関する章を試訳してみる。
 一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
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 第10章・背信(裏切り)について(On Betrayal)。
 (1)我々はみんな、ある民族(ethnic)共同体の一員として生まれる。
 我々がその共同体の一員であるというのは、我々とは無関係の事実だ。すなわち、我々は、家族を選ぶ以上には、自分の国(nation)を選択していない。
 一方で、我々がのちにもつ人々との—社会的、政治的、職業的あるいは性的な—関係は、たいていは、我々自身による選択の結果だ。//
 (2)我々が生まれて入る立場は、我々の意思とは無関係に、我々に事実として提示されるがゆえに、拘束力ある義務的なものではない。換言すれば、責任を伴わない。
 結局、我々は、国の一員になると署名しなかったし、両親にこの世に生まれることを頼みもしなかった。
 ゆえに、我々は自分で選択した関係にのみ拘束される、と考えてもよいだろう。
 しかしながら、現実には、我々には反対のことを感じる傾向がある。つまり、我々の国と我々の家族に対する無条件の忠誠が義務づけられていると感じる。そして、それらに対する背信(betrayal)は最悪の罪だと見る。
 しかし、承認されないことを怖れる気持ちなくして、我々は、自分で自由に選択した人間関係—例えば、政治的組織の構成員たること—を放棄するのは自由だと感じる。//
 (3)これら二つの間のどこかに入る我々の忠誠の第三の形態は、教会または宗教共同体に対するものだ。
 我々の宗教的帰属は、われわれの血の中にあるものではなく(St. Jerome が言ったように、人々はキリスト教徒として生まれるのではなく、キリスト教徒となるのだ)、圧倒的多数の場合は、我々が生まれた環境によつて決定されている。
 そして、生まれてすぐにキリスト教の赤児になるのが慣例だ。例えば、ローマ教会でのように、人々はほとんどつねに、両親の宗教を採用する。
 転宗または棄教は、したがって、その人の元来の宗教共同体から非難される。
 イスラムでは、転宗または棄教は、例外なく死の制裁を受ける罪だ。//
 (4)しかしながら、選択によってではなくたまたま出生によって帰属する共同体に対する背信はそれほどの苛酷な非難を伴うはずだ、ということに驚いてはならない。
 国(nation)は、個人のように、人間が企図して作ったものではなく、自然の産物だ。そして、そのようなものとして、それ自体の存在を正当化する必要はない。
 たんに存在するがゆえに、それは存在する。これ自体が、正当化となる。
 個人の場合と同様だ。個人の存在は、それ自体の正当性を含んでいる。
 我々が国に帰属していることは、それが我々自身の選択の結果ではないというかぎりで、我々の内部につねに同行させていることだ。
 その正当性を拒絶したり否認したりすれば、まるで我々は国自体を無効なものとしている(annihilate)がごとくになる。//
 (5)このことは、教会(上述のように我々自身の選択という範疇に入るのだが)や政治的団体のような、我々が選択によって帰属する団体にはあてはまらない。
 これらの団体は、その存在を正当化する必要がある。特有の目的のために存在し、その有効性(validity)はその目的を達成することにあるからだ。
 教会は、真実を広く伝搬し、真実の救済に必要な物を配分する目的をもって存在する。
 政治的団体も、彼らの真実を広く伝搬し、宣言した目的のために活力を制御する目的をもって存在する。—すなわち、理想的世界を建設し、敵を破壊することによって一時的な救済を獲得するために。または少なくとも、あれこれの具体的政策を通じて人類の運命をより良くするために。
 ある特定のセクトに入っていると想定しよう。
 あるときに、私は欺されていたと気づく。セクトの長はペテン師だと判明する。自分は神だと称して、人々から金を巻き上げたり性的な利益を受け取るパクリ屋だと。
 それで私は、そのセクトを去る。—言い換えると、背信する。
 同じように、もしも政党の本当の狙いは自由ではなく隷従だと気づくならば、私はその政党を離れることができ、そして、政党に対して背信する。
 このような場合に「背信〔裏切り〕」という言葉は、当該のセクトまたは政党の構成員によってのみ用いられる傾向がある。これは中立的な言葉ではなく、非難を含んでいるからだ。
 我々のほとんどは、非良心的な馬鹿者が設立したセクトを離れたという理由で、あるいはファシスト党や共産主義者党を去ったという理由で、その誰かを非難しようとはしないだろう。 
 「背信〔裏切り〕」という言葉を我々が用いるとき、背信された団体は何ら良いことに値しないのだから「背信」は良いことであり得る、という可能性を排除している。これには、賛同することができない。//
 (6)述べることができるのは、背信されたことまたは人に関する我々自身の見解だけが、ある特定の行為が背信なのか、そうでないかを決定するよう我々を誘導している、ということだ。
 戦争中に連合国のために働いたドイツ人は、彼の国、ナツィ国家の敵に協力していた。しかし、我々はその人物を「背信者(裏切り者)」とは呼ばない。
 反対に我々は、正当な信念を守ろうとする勇気を示した、と考える。
 換言すれば、ある特定の行為が我々の道徳上の義務だとあるいは少なくとも道徳的に正当だと考えるものに従えば、背信なのかそうでないかを、我々は決定している。//
 (7)しかしながら、このような説明は曖昧さという紛糾の中に我々を巻き込むということが、ただちに明白になる。
 なぜなら、我々は、背信という概念にすでに我々自身の道徳上のまたは政治上の見解を含ませており、かつまたこれらは必ずしも明確ではない。だが、その概念上の理由だけで、ある背信の行為は道徳的に正当であり得ることを認める気持ちに我々はなれないからだ。
 我々の忠誠心を期待することのできる権利をもつ誰かの死の原因を故意に作り出すことは、とくに瞠目すべき、かつ 嫌悪を催す背信の一例だ。そしてこれが、ユダとブルータスがいずれもダンテの地獄の最底辺に置かれることの理由だ。
 しかし、ヒトラーもまた確実に、彼の将軍たちからの忠誠心を期待する権利を持っていた。だがなおも、我々はヒトラーを殺そうとした将軍たちを同じ場所に追いやらないだろう。//
 (8)この困難さから抜け出す方法は、こう言うことだ。すなわち、国(nation)と国家(state)は別の異なるもので、おなじ名前の国にいても、我々は悪の道具である国家を拒絶または裏切ってよい、たとえその国家に主権があり、第二次大戦後の東および中央ヨーロッパはそうでないが、ヒトラーのドイツやスターリンのソヴィエト同盟のように、国の大多数が支持しているとしても。
 今日と現今の時代では、「私の国は正しい、または間違い」とたんに繰り返しつづけることは困難だろう。
 19世紀には、これは容易だった。いかほどに正しさや間違いがあっても、王や国に対する背信は間違いだと人は感じていた。もちろん、その国が本当にその人自身のもので、外国の権力に占領されていないかぎりで。
 しかしながら、20世紀には、規準はもはや伝統や国への忠誠ではなく、イデオロギーにある。つまり、イデオロギーが正しいならば、叛逆(treason)は叛逆ではない。//
 ——
 ②へとつづく。
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2375/L・コワコフスキ「自由について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれている。邦訳書はない。一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
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 第13章・自由について(On Freedom)②。
 (7)この意味での自由は、これをゼロにまで減少させることができるとしても、逆に無制限ではあり得ないとということを理解するのは困難でない。
 社会理論家が言う仮定の「自然状態」、誰もがつねに相互に闘い合っている、全ての種類の法や規則が存在しない状態は、これまで決して存在してこなかった。
 しかし、かりに存在したとしても、それは無制限の自由の状態ではないだろう。
 そのような状態では全てが許される、と言うのは正しくないだろう。何かは許されることがあるのであり、またそれは法によってのみではないのだから。
 そして、法がないところには、自由はない。つまり、この言葉は単直に意味を失う。
 自由とは、我々の世界では、つねに条件づけられているものだ。
 ロビンソン・クルーソーは無制限の自由を享受しなかった。彼はじつに、あらゆる意味での自由を享有しなかった。
 自由は、大きかろうと小さかろうと、何かが許される一方で別の何かが禁じられるところでのみ存在し得る。//
 (8)第一次大戦前からあったに違いないつぎの冗談は、おそらくこのことを明瞭にすることができる。
 「オーストリアでは、禁止されていないことは、全て許される。
 ドイツでは、許されていないことは、全て禁止される。
 フランスでは、禁止されていることも含めて、全てが許される。
 そしてロシアでは、許されていることも含めて、全てが禁止される。」//
 (9)「自由」という言葉のこれら二つの意味はきわめて異なるけれども、そして一方を享受できるが他方はそうでないということもあるが、それにもかかわらず、両者のために同じ言葉を用いることのできるほどに、この二つは近接している。
 いずれも、選択の可能性に関係している。すなわち、第一の意味での自由は、人間として選択して創り出すまさに我々の力だ。この能力は現実に我々の前に開かれている選択の範囲については、何も前提条件にしていないけれども。
 第二の意味では、自由は、社会と法が我々自身が自由に選択することを認めている領域だ。//
 (10)自由について語るときにしばしば生じている二つの誤りについて知っておくべきだ。
 第一に、自由を、我々の願望や正当な要求だと考えているものの充足と混同してしならない。
 「苦痛からの自由」あるいは「飢餓からの自由」について語るのは何ら過ちではない。痛みや飢餓に苦しまないことは、じつに我々人間の最も基礎的な要求だ。
 にもかかわらず、これらの要求が実現するときに、何らかの特有な自由を享受する、と言うことはできない。
 この場合に「自由」という言葉を用いるのは、選択とは何の関係がないがゆえに、誤解を招く。
 選択する自由の範囲または選択し創出する我々の力について、語っているるのではないからだ。
 苦痛は除去されて嬉しいものだ。なくなれば、それでよい。
 苦痛が除去されるのはとても望ましい、良いことだ。
 一個のりんごを飢えた者が、睡眠を疲れた者が、何らかの全てのものを、我々はある特有のときに欲しがる。
 しかし、痛みがなくなったりりんごを食べたりすることは、自由の一種ではない。たんに望ましい物事にすぎない。
 (飢餓がない集中収容所を想像できるが、リベラル民主主義は別のものを与える一方で、収監者に一定の自由を与えていると言うだろうか?)
 我々の世紀の、そして過去の世紀の多くの人々が、言葉の適切な意味での自由のために生涯をかけて闘ってきた。そのために、誰かが欲しがるもの全てを含むまでにその意味は広がって、この観念の把握の仕方が曖昧になり、この言葉は全く意味を持たないようにまでなった。
 この観念の根底が、削り取られてしまった。
 「〜からの自由」と「〜への自由」の区別は、無用のものだ。//
 (11)自由に関して語るときに知っておくべき第二の誤りは、第二の、法的意味での自由は、我々の他の必要や欲求が達成されなければ無意味だ、と思ってしまうことだ。
 この誤りはしばしば、共産主義者たちが行う想定だ。
 彼らは問うものだ。「飢えて、失業している者に、政治的自由はどれほど重要なのか?」
 そう、重要なのだ。
 飢えは政治的自由の欠如よりも切迫していると感じられるかもしれないが、この自由が存在するならば存在しないときに比べて、飢えも失業もその状態を改善する可能性がはるかにある。この自由は権利のために闘うよう人々を組織し、彼らの利益を守る。//
 (12)「自由」の旗のもとで全ての善なる財物を欲しがるのは不適切だが、疑いなく、法的意味での自由は、それ自体が、きわめて望むに値する財物だ。
 さらに、自由はそれ自体が善なる財物であり、たんなる他の財物を獲得するための道具または条件ではない。
 しかしながら、このことは、(ここでの意味での)自由は多いほど良い、という原理的考え方を無制約に受容してよい、ということを意味しはしない。
 我々のほとんどはたぶん、魔術や同性愛のようなかつて犯罪と見なされた一定の活動が、少なくとも文明国家ではもはやそうは見なされないのは良いことだと感じている。
 しかし、まともに思考する者は誰でも、たまたま自分が好むように道路上の右側または左側を運転する権利を要求しはしないだろう。
 ますます頻繁に、またそうした国の数も増えていることだが、学校の生徒たちは自由を多く与えられ過ぎて紀律が不十分だとか、その結果として彼らの勉強だけではなく議論の教育や公民教育に悪い影響が出ているとか、言われているのを聞く。
 子どもたちは小さいときからあり得る最大限度の自由が与えられるのを望んでいるのかは、全く定かではない。
 欲求は自然に、年齢とともに増える。だが、小さな子どもたちは大人たちの権威を全く自然に受容するものであり、総じては自分たちが選択するのを認めてくれるように要求したりはしない。
 成人である我々自身も同様に、とくに自信がないときには、一定の選択を他者に委ねることができてしばしば安心する。また、専門家の助言に従って行動するのを選ぶだろう。—必ずしも全ての専門家が信頼できるのではないとしても。
 正しく選択することはしばしば正しい情報があるかどうかにかかっていることを我々は知っており、選択する場合に頼ることのできる全分野に関する知識を十分に持っているとは、誰も言うことはできない。
 我々には選択する自由がある。しかし、慣れ親しんでいない問題に無駄にかかわることを好みはしない。//
 (13)要するに、どの程度の範囲の自由が我々にとつて良いかを正確に決定するために用いることのできる一般的な規準は存在しない。
 我々はときには、自由が十分でないのではなく多すぎる、一定限度を超えた自由は有害であり得ると、正当に考えることができる。
 この点で言うと、疑いなく、多すぎることは不十分であるよりも安全だ。そして、法により授けられる自由の多さを警戒するよりもむしろ、<自由性>(liberalty)の側に立って法が逸脱することについて、より思慮深い方がよい。
 しかし、この原理的考え方もまた、無条件に受容されることはないだろう。//
 ——
 第13章、終わり。

2374/L・コワコフスキ「自由について」(1999)①。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれている。邦訳書はない。
 第1章〜第4章の「権力」・「名声」・「平等」・「嘘つき」を終えて、<第13章・自由について>へと移る。
 一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
 ——
 第13章・自由について(On Freedom)。
 (1)自由の問題を対象とする思想には、大きな二つの分野がある。
 これら二つは、明確に別のもので、相互に論理的には独立したものだ。その程度はじつに大きいので、実際には同じことを論じていると疑っても許容されるほどだ。
 第一は、太古からある人の思想上の潮流で、人間(human beeing)としての人の自由(freedom)という問題を論じてきた。
 この潮流は、人はその人間性(humanity)だけの理由で自由(free)なのか、言い換えると、自由な意思と選択の自由をもつから自由なのか、という問題を論じてきた。
 第二は、社会の一構成員としての人の自由を対象とし、我々が<自由>(liberty)とも称する社会的な行動の自由(freedom)について論じる。//
 (2)人はまさに人間性の本性からして自由だと我々が言うとき、我々がとりわけ意味させるのは、人は選択することができる、その選択は、人の良心の及ばない力(forces)に全体として依存しておらず、またそれによって不可避的に生じたのでもない、ということだ。
 しかしながら、自由とは、すでに存在するいくつかの可能性の中から選択する力(capacity)のことだけではない。
 自由とは、全く新しい、全く予見できない状況を作り出す力でもある。//
 (3)我々の歴史の中でずっと、この意味での人の自由は、断言してよいだろうようにしばしば、否定されてきた。
 議論は、全く同一ではないけれども、一般的決定論(determinism)に関する論議にかかわる。
 かりに全ての事象がその条件の総体によって全体的に決定されているとすれば、自由な選択の可能性は発生すらしない。
 しかし、かりに普遍的な因果関係が本当に変え難いものであるなら、むしろいくぶん逆説的な結論へと至り得るだろう。
 なぜなら、もしも何かがその条件によって全体的に決定されているなら、その何かはまた、原理的には(実際には必ずというのではないが)予見することができる。
 そして、厳格な決定論が正しいとするなら、我々は、こう想像することができるだろう。我々の予知能力がいったん十分に完全なものになれば、朝の新聞を開き、つぎのような報道を読む。
 「昨夜、Twickenham で、有名な作曲家のJohn Green が生まれた。
 明日、ロンドン交響楽団は、彼が37歳のときに作曲する交響曲第三番を演奏して、この誕生を祝うだろう。」//
 (4)物理学者、そしてたいていの哲学者が、厳格な決定論を信じた時代があった。これが、科学的で理性的な思考の本質的な定式だったときがあった。
 これを支える証拠は何もなかったけれども、平易な常識の問題だと考えられ、自明の真実なので狂人だけが疑うものだとされた。
 我々の世紀では、量子力学(quantum mechanics)が、もっと最近ではカオス理論(chaos theory)が、こうした信念を打ち崩すために多くのことをなした。そして、物理学は、決定論のドグマを捨て去った。
 量子力学の発見は、もちろん、人は自由意思をもつということを必要としない。—つまり電子には自由意思がない。しかし、少なくとも物理学は、自由意思の存在への我々の信念を馬鹿げたまたは非理性的なものとは見なさなかった。
 そして本当に、このいずれでもないのだ。
 我々は自由意思を信じてよいのみならず、信じる「べき」だ。先に既に私が定義したような意味で。つまり、選択することができる力としてのみならず、新しい可能性を生み出す(create)ことのできる力として。
 この意味での自由の経験は全ての人間にとって基本的なことなので、とくに切り離して、構成する要素を分析することによって証することはできないけれども、その現実は抗い難く明確であると思われる。
 しかし、当然に明確だと見えるほどに基本的なことだということは、それが現実のものであることを疑う理由ではない。
 我々は本当に、行うことについての自由な主体(agent)なのであり、世界に存在する様々な諸力のたんなる装置にすぎないのではない。—もちろん、我々は自然の法則に服するけれども。
 また、我々は本当に、善であれ悪であれ、自分たちを目標に向かわせて、それを達成しようと懸命に努力するのだ。
 外部条件や他人が我々の努力を無駄なものにするかもしれない。—例えば、効果的に選択することができないほどに、肉体的に無力であるかもしれない。
 しかし、選択するという我々の本質的な力は依然として存在する。たとえそれを利用することができないかもしれないとしても。
 また、St. Augustine またはカントのように、善を選択するときにのみ自由であり、悪を選択するときはそうでないと主張することのできる、いかなる根拠もない。
 このような主張は、我々の自由をまさにその力によってではなく、我々の選択の内容によって定義するものだ。そして、このように自由を定義することは、自由というまさにその観念を、我々自身の道徳諸原理でもって複雑にすることになる。//
 (5)さて、自由は人間性とともに我々に与えられているものであり、その人間性の基礎となるものだ。
 自由は、我々のまさに存在そのものに稀少性(uniqueness)を与える。
 (6)自由に関する思想の二つの領域のうちの第二は、相当に異なる問題を対象とする。その主題が人間としての我々の自由ではなく、社会の構成員としてのそれだからだ。
 この意味での自由は、我々の存在の本性を源にするのではなく、我々の文化、社会および法に由来する。
 この自由は、つぎのことを意味させる。人間の活動分野については、社会的組織が禁止したり命令したりできず、制裁を怖れないで行動の態様を選択する、そのような自由を与えなければならない。
 これは、我々が<自由(liberty)>とも称する自由(freedom)だ。//
 (7)この意味での自由は、もちろん、程度でもって測り得る。より多い自由、より少ない自由があり得る。そして、我々は一般に、付与されている自由の程度によって、異なる政治体制を評価している。
 これを測る目盛りは、(スターリン主義のロシア、毛沢東主義の中国、その他のアジア共産主義諸国、または第三帝国のような)完全な全体主義体制から、禁止や命令のかたちでの政府の介入が厳格な最小限に制限されている一番端の政治体制にまで及ぶ。
 全体主義体制は、人間の活動の全分野を、個人の選択の余地が何もなくなるように規制することを意図する。
 多様な非全体主義の専制体制は、その体制に対する脅威を示している可能性のある領域で自由を抑圧することを意図するが、それ以外の問題については全体的統制をしようとはしない。
 また、専制体制は、いかなる種類の全世界的または全包括的なイデオロギーも有しない。//
 ——
 ②へとつづく。

2199/L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」②。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial (The Univerity of Chicago Press, 1990).
 第三部・リベラル・革命家・夢想家について。
 第19章・保守リベラル社会主義者になる方法
 =How to Be Conservative-Liberal-Socialist. Credo.
 (原文/1978年10月-Encounter。著者による修正あり。)
 B/、C/、は、原文にはない。
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 L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」②。
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 B/あるリベラルはこう考える。
 1.国家の目的は安全確保(security)だという古代の思想は、依然として有効なままだ。
 「安全確保」という観念が法による人身や財産の保護のみならず、保険の多数の諸条項をも含むように拡張されてすら、有効なままだ。
 人々は失業しても、餓死すべきではない。貧困な人々は、医療の助けの不足で死亡しても、非難されるべきではない。子どもたちには、教育を自由に受ける機会が与えられるべきだ。-これらも全て、安全確保の問題だ。
 だが、安全確保を自由(liberty)と混同してはならない。
 国家は、積極的に行動したり生活の多様な領域を規整したりすることによってではなく、何もしないことによって、自由(freesom)を保障する。
 安全確保は実際には、自由(liberty)を犠牲にしてのみ拡張され得る。
 ともかくも、人々を幸福にするのは、国家の役割ではない。
 2.人間の共同社会は、不況によってのみ脅かされるのではない。人々が個人の主導性と創造性がなくなるまで組織されるときには、頽廃によっても脅かされる。
 人類の集団自殺は、考えられ得るものだ。しかし、我々はアリではないがゆえに、永続的な人間のアリ山は考えられ得ない。
 3.全ての形態の競争がなくなってしまう社会は、創造と進歩のために必要な刺激を持ち続けるだろう、というのは、ほとんどありそうにない。
 平等性の増大は、それ自体が目的なのではなく、手段にすぎない。
 換言すれば、かりに結果が豊かな人々の生活条件を下落させるだけで、恵まれない人々の生活向上にはならないとしても、平等性の増大を求める闘いには終わりがない。
 完璧な平等とは、自己を打ち負かす理想だ。//
 ***
 C/ある社会主義者はこう考える。
 1.利潤の追求が生産システムの唯一の調整者である社会は、利潤という動機が生産調整力から完全に排除される社会と同じく、悲しい-おそらくはより悲痛な-大災難に陥っている。
 経済活動の自由が安全確保のために制限されるべきであり、金銭が自動的により多額の金銭を生み出してはならないことには、十分な根拠がある。
 しかし、自由の制限は正確にそう称されるべきであり、より高次の形態の自由だと称されてはならない。
 2.完全な、対立なき社会は不可能であるという単純な理由で、全ての現存する形態の不平等は不可避であり、利潤獲得のための全ての方法が正当化される、と結論づけるのは、馬鹿げており、かつ偽善だ。
 進歩的所得税は非人間的で忌まわしいという驚くべき考えにいたる保守派の人間学的悲観論は、収容所列島がもとづく歴史的楽観論と全く同様に疑わしい。
 3.経済を大切な社会的統制に服せしめようとする志向は、かりに官僚機構の増大という対価を支払わなければならないとしても、奨励されるべきだ。
 しかしながら、この統制は、代表制民主主義の範囲内で加えられなければならない。
 かくして、まさにその統制の増大が自由に対する脅威を生じさせるのであるから、その脅威に対抗することのできる諸制度を構想することがきわめて重要だ。
 ****
 このように理解することができるかぎりで、制御に関するこれらの一セットの思想は、自己矛盾はしていない。
 そして、そのゆえに、保守・リベラル・社会主義者になることが可能だ。
 このことは、三つのそれぞれの主張はもはやお互いに排他的なものではない、と言うことと同じだ。//
 私が最初に言及した偉大で力強いインターナショナルについて言えば、-。
 幸福になるだろうと人々に約束することができないがゆえに、これは決して存在しないだろう。//
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 終わり。
 

2181/J・グレイ・わらの犬(2002)⑪-第4章02。

 J・グレイ/池央耿訳・わらの犬-地球に君臨する人間(みすず書房、2009)。
 =John Gray, Straw Dogs -Thoughts on Human and Other Animals (2002)。=<わらの犬-人間とその他の動物に関する考察>。
 邦訳書からの要約・抜粋または一部引用のつづき。邦訳書p.127-p.133。
 第4章・救われざる者(The Unsaved)。
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 第2節・大審問官とトビウオ(The Grand Inquisitor and the Flyingfish)。
 ・ドストエフスキー・<カラマーゾフの兄弟>で、大審問官はキリストに言う。
 「人間はあまりにもひ弱で、自由の恵みには耐えられない。
 人間は自由を必要とせず、求めるのはパン、それも<中略>当たり前のこの世のパンである」。
 D. H. ローレンスによると、大審問官の発言は「決定的なキリスト教批判」で「痛烈な寸言」だ。キリスト教による「幻想」に「現実」を突きつける。
 ローレンスは正しい。科学技術は「窮乏、貧困」を絶滅し人類を「不死」として、「かつてのキリスト教と同様」、科学信仰は「奇跡の希望」を伸ばす。しかし、「科学が人類を変えると思うのは魔術を信じるに等しい」。科学は「暴政の強化と戦争拡大」に利用されるはずだ。
 ・ドストエフスキーの真意は、「人類が自由を求めた例はかつてなく、この先も考えられない」ということだ。
 現代の世俗信仰は人間は自由を望み束縛を嫌うというが、「隷属と引き替えの安逸以上に自由を尊重」するのは稀だ。
 J. J. ルソーは「元々自由に生まれたはずの人間が至るところで鎖に繋がれている」と言う。しかし、「時として自由を求める少数がいるからといって、人間がみな同じだと思うのは、トビウオを見て空を飛ぶのは魚類の習性であると断じるに等しい」。
 ・「自由社会」がいずれ出現するだろうが、「めったにないことで、それも無政府状態か、専制君主制の変形が定石」だろう。独裁者は混乱に乗じて権力を手にするが、つねに庶民に「沈滞や閉塞を打破すると暗黙の約束を掲げる」。
 ・大審問官の偽りは自分を「悲劇の主人公」視していることだ。彼がどんなに気を揉んでも人類を救えないし、人類もそれを当てにしていない。彼の「自己満足」だ。
 宗教裁判官は「気高くも悪魔じみた信念」をもつと考えるのは誤りで、「腹のうちは、恐怖、怨恨、それに弱い者いじめの快感である」。
 ・「科学は人類の知識を増進するが、真理を尊重することは教えない。
 かつてのキリスト教と同じで、科学は権力の網に搦め捕られている。
 生存競争と業績(survival and success)の達成に汲々としている科学者の世界観は、旧弊な思考の貼り混ぜである。」
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 第3節・多神教礼賛。
 第4節・キリスト教が行き着く果ての無神論。
 <この両節は全体として省略。後者に明記はないが、R・ドーキンス的「無神論」の批判・揶揄を含むだろう。>
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第5節以降へ。

2149/西尾幹二・あなたは自由か(2018)⑥。

 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 西尾幹二に、<あなたは自由か>と問う資格があるのだろうか。
 西尾には、<あなたの「自由」とはどういう意味か>、と問う必要がある。気の毒だ。
 ①p.81-「幼くして親元を離れて上野駅に集まった『金の卵』の労働者たち」は、「一人前の大人」・「社会人」となるよう徹底的に叩き込まれた。「生きて、働いて、成功しなければならなかったのです。/彼らこそほかでもない、最も自由な人たちでした。」
 ②p.205-「完全な自由などというものは空虚で危険な概念です。素っ裸の自由はあり得ない。私は生涯かけてそう言いつづけてきました。」
 ③同上-「藤田幽谷は天皇を背にして幕府と戦いました。あの時代にして最大級の『自由』の発現でした。」
 ④同上すぐ後-「私たちもまた天皇を背にして、<中略>…グローバリズムに、怯むことなく立ち向かうことが『自由』の発現であるように生きることをためらう理由があるでしょうか。」
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2135/猪木武徳・自由の思想史(2016)②。

 猪木武徳・自由の思想史-市場とデモクラシーは擁護てきるか(新潮選書、2016)。
 この書の第3章第4節p.89~p.91は、「自由」につき、Freedom とLiberty の区別・差異に立ち入っている。
 すでに紹介したように、西尾幹二はこう書いていた。
 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)、p.35。
 ・「ヒトラーが奪うことのできた自由は『公民の権利』という意味での自由であり、奪うことのできなかった自由は『個人の属性』としての自由です。
 『市民的権利』としての自由と、『個人的精神』としての自由の二つの概念の区別だというふうにいえば、もっと分かりやすいかもしれません。」
 ・「この二つの自由を区別するうえで、英語は最も用意周到な言葉です。
 すなわち、前者をliberty とよび、後者をfreedom と名づけております。」
 このように大胆に?書く根拠は何か。
 ヒトラーうんぬんは別として、このような両語に関する結論的理解は誤りだろう。
  西尾幹二によると、A・スミスにおける「自由」は前者なのだそうだ。
 その根拠として明記されているのは、つぎの一文だけだと思われる。p.36。
 ・「アダム・スミスは、私の友人の話によると、『自由』という日本語に訳されていることばにliberty だけを用いているようです。
 それはそうでしょう。経済学とはそういう学問です。」
 また、西尾幹二によるliberty とfreedom の区別・差異である「市民的権利」/「個人的精神」は、つぎのようにもやや敷衍されている。
 p.38。「奴隷」にはliberty がなかつたが、freedom はなかったと言えるのか。
 p.43-44。エピクテスが語った「自由」は「アダム・スミスのような経済学者がまったく予想にしていなかった自由の概念」で、「freedom の極限形式といってもいい」。
 p.44。ヒトラーやスターリンによる「社会の全成員からliberty (公共の自由)を全面的に奪い取ってしまう体制下では、freedom (精神の自由)も死滅してしまうのではないか」。
 p.36。「人の住居」を「快適、立派に」整えたり、「子どもの成長を妨げる悪い条件をなくして、伸び伸びと発達できる環境を与え」る、というのは「liberty の問題」で、「真の生活」を送るか否かや「子どもが成長するか」は、「freedom の問題」です。
 以上の西尾「説」につては、すでに基本的に疑問視してきた。
 ①アダム・スミスの原著の英文を見た上で、経済活動の「自由」について「freedom 」が使われている、と疑問視した。「経済学者」だから「経済的自由」だけしか語っていないと想定するのは大きな間違いで、前回に触れたように猪木著によると、A・スミスは「自殺の自由」に論及している。そもそもが、A・スミスを「経済学者」と限定すること自体が誤っているだろう。
 なお、西尾幹二が、いかに専門家らしくとも「私の友人の話」だけをもって、A・スミスは「経済学者」だから彼の言う「自由」は「liberty 」だと断定してしまっているのは、その思考方法・手続において、とても<元研究者>だは思えない。
 さらに、「私の友人」=星野彰男(p.29)は、本当に上のような「話」をしたのだろうか。
 ②F・ハイエクの著の英語原文によるfreedom 、liberty の用法を見て、西尾のようには明確に区別されて使われていないだろう、ということも確認した。
 ③仲正昌樹・今こそアーレントを読み直す(講談社現代新書、2009)が両語の語源に立ち入って、こう記していることも紹介した。
 ・英語のFreedom はゲルマン語系の単語。free、freedom はドイツ語の、frei(フライ)、Freiheit (フライハイト)に対応する。
 ・英語のLiberty はフランス語を介したラテン語系の単語。そのフランス語はliberté だ(リベルテ)。
 そして、H・アレントの原著を見ても単純にfreedom をアメリカ革命が、liberty をフランス革命が追求したとは言えそうにないが、しかし、少なくとも、西尾幹二が言うように「英語は最も用意周到な言語です」などと豪語する?ことはできず、むしろ相当に「融通無碍な」言語だろう、とも記した。
 ***
 西尾幹二の書いていることはウソだから、簡単に信用してはいけない
 猪木武徳が絶対的に正しいとは、秋月自身が言葉の語源探求をしているわけではないから言わないが、こちらの方がはるかに信憑性が高い。なお、福田恆存の名も出てくる。
 猪木武徳・上掲書p.89-p.91は、こう書いている。猪木は、西尾幹二があげつらう「経済学者」だけれども。
 ・シェイクスピアの悲劇<ジュリアス・シーザー>で、シーザーが「お前もか、ブルータス」と言いつつ倒れたあと、暗殺者の一人はこう叫んだ。
 -「自由だ!、解放だ!、暴政は滅んだぞ!」〔福田恆存訳〕。
 ・上の「自由」は原文では「liberty 」、「解放」は「freedom 」。劇中の山場で同義語を二つ並べる可能性は低いので、シェイクスピアの時代から、両語は「使い分けられている」。
 ・上の台詞と直接の関係はないが、「社会思想」や「経済思想」でのこの区別を学生に問われると「まずとっさ」の答えは「freedom はゲルマン系の言葉、liberty はラテン語起源、基本的には同じ」となるが、これでは答えにならない。
 ・「語源辞典」=Oxford Dictionary of English Etmology を見ると、「fri の部分」は「拘束されていない。外部からのコントロールに服していない状態」を指す。「世帯の長と(奴隷としてではなく)親族上の結びつき(tie)の認められる成員」の意味と記されている。
 これに対し、「liberty はラテン語系のliber から来ている」ものの、その意味は「世帯における本来的に自由な成員」を指す。よって、「liberty は親権(privilege, franchise)を意味する言葉」だったという。この場合の「自由な」というのは「特権をもった」という意味だ。
 ・そうすると、「リベラリズム」がイタリア哲学史学者〔Guido De Ruggiero〕により「特権の普遍化」として把握されることと一致する。その著<ヨーロッパのリベラリズムの歴史>〔英訳書/The History of European Liberalism〕は、「特権を持っていた王が、その特権を貴族・地主層・僧侶にも与え、そして民主化の波とともに市民、すなわちブルジョワ階級にもその特権が広がるという動きこそがリベラリズムの進展であったとする理論」を中核とする。
 ・'Liberty! freedom! Tyranny is dead' を福田恆存が「自由だ!、解放だ!、暴政は滅んだぞ!」と訳しているのは、「まことに的確な名訳」だ。但し、つぎに出てくる 'enfranchisement' は「特権の付与、参政権の付与」の意味なのでたんに「万歳」と訳すのは「不満が残る」。もっとも、替わる「妙案」があるわけではない。
 以上のとおりで、<liberty /freedom >には、西尾幹二の言う<市民的(公民的〕自由/個人的自由>、<物的・経済的自由/精神的自由>、<物的条件づくり/「真」>等の対比とは全く異なる次元の区別・差異があるようだ。<制度的自由/自然的自由>ならまだしも、<物的・経済的/精神的>とするのは間違いの方向に進んでいる、というところか。
 西尾は、少しは恥ずかしく感じないだろうか。
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 だいぶ昔に、ドイツで、"Er ist liberal" (「…リベラール」)という言葉をじかに聞いたことを思い出した。
 このliberal はどういう意味だろうと感じたのだったが、おそらく政治的感覚・立場・見地の意味で<どちらかというと左翼>の意味だろうと思い出してきた(と、このことも思い出した)。
 リベラル(リベラリズム)とは欧州では元来の「自由主義」=保守だがアメリカでは「リベラル」=進歩・左翼だという説明を読んだこともある。しかし、欧州のドイツでそのとおりに用いられているわけではないだろう。
 自由民主党(FDP=Freie Demokratische Partei)という「中道」政党にFrei が使われているが、上の言葉を聞いたのちに、ドイツ社会民主党(SPD)を支持している、そういう意味だろうと(日本に帰国してから)理解した。たぶん、誤っていない。
 ドイツ人はfrei のみならずliberal という言葉も使っているのであり、その語からきたdie Liberalitätというれっきとした名詞もある。これらは英語(またはフランス語)からの輸入語かもしれないが、少なくとも英語だけが「用意周到」なのではないだろう。
 以上は、「言語学」ではなく、本文とたぶん直接には関係のない「政治的」雰囲気の言葉の世界の話だ。

2124/西尾幹二の境地・歴史通/WiLL2019年11月号③。

 一 「神話と歴史」の関係・区別を論じ、前者の優先性・優越性を語る点で、つぎの二つで西尾幹二は共通している。
 A/西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL2019年11月号別冊(ワック)、p.126-。月刊WiLL2019年4月号の再収載。
 B/西尾幹二・国民の歴史
(産経、1999)-第6章・第7章。
 さすがに、20年間を挟んで、と感じられるかもしれないが、少しばかり吟味すると、一貫しているわけではない。例えば、Bには歴史も「とどのつまりは神話ではないか」との「哲学的懐疑心」が肯定的な意味で語られていて(p.157)、神話と歴史の<相対性>もむしろ強調されているように読める。
 一方、Aでは両者を峻別して「神話」の絶対的超越性を説いているがごとくだ。-「歴史はどこまでも人間世界の限界の中」にあるが、「神話は不可知の根源世界で、…人間の手による分解と再生を許しません」(p.219)。
 Aが<女系天皇否認>のための前提として語られているアホらしさには、すでに触れた。日本書記等がかりに<万世一系>の根拠になっても、<女系否認>の根拠には全くならない。
 この点はさて措くとして、20年間も同じ考え方でおれるはずがない、等々の釈明は可能だ。20年間も同じテーマについて全く同じことを書いていたのでは「進歩」がない。
 しかし、西尾幹二のつぎの著は、「歴史」をどう語っていただろうか。
 C/西尾幹二・保守の真贋-保守の立場から安倍政権を批判する(徳間書店、2017)。
 
保守ならば、当然真っ先に心の中に響き渡っている主張低音があるはずである。……そして、これらをひっくるめて<五、歴史>。」p.16。
 上で省略した一~四は、つぎだ。1・皇室、2・国土、3・民族、4・反共(反グローバリズム)。従って、西尾幹二によると、これら四つを「ひっくるめたもの」が<5・歴史>となる。
 西尾のこの著では、「保守」の「要素」を総括したものが、「歴史」だ。さほどに「歴史」という観念・概念は重視されている。
 そして不思議なことに、全部を詳細に読んだわけではないが、この「歴史」と「神話」の関係・区別には論及が全くかほとんどない。
 上のA、2019年の対談では「歴史はどこまでも人間世界の限界の中」にある等々と語って、<女系天皇>問題は、今日の日本で「神話」という「超越的世界観」を信じることができるか否かの問題だ、などと壮言しているにもかかわらず。
 西尾は、2017年著との関係について、書物や対談の趣旨から判断して「歴史」を同じ意味で使っているわけではない。自分の著作を全体として見て評価・論評してもらいたい、と釈明するかもしれない。しかし、上の二つ(AとC)での「歴史」概念の差異は著しい。そして、書物等、従って執筆時期や読者層を考慮して、この人物は、上の釈明があてはまっているとかりにしても、<それぞれに、適当に>同じ基礎的な言葉・概念を使い分けている、ということが明らかだ。
 そのつど、そのつど、上に挙げた要因によるのはむろんのこととして、同一の書の中ですら文脈に応じて、同じ概念を異なる意味・ニュアンスをもつものとして使う、ということにこの人物は習熟しているのだ。
 D/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 この書で、基本概念としての「自由」は揺れ動いている。そして、書物としてまとめる際に追記したかに見えるp.115-p.119は、ほとんど意味不明のことを喚いている。気の毒だ、見苦しい、と感じるほどだ。
 二 A/西尾幹二=岩田温「皇室の神格と民族の歴史」歴史通/WiLL2019年11月号別冊、p.222。ここに天皇論や「歴史」論ではない興味深い発言がある。
 ・「日本的な科学の精神」が「自然科学ではない科学」として「蘇る」必要がある。「分析と解析」だけではダメだ。
 ・「現代の最大の問題で、根本にあるテーマ」は「自然科学の力とどう戦うか」だ。
 ・日本人が愛するのは、自然科学が与えている知性では埋めることのできない隙間」だ。
 ヨーロッパの庭園・建築物と日本の違いを話題に挿入しているが、より詳細な意味が語られているわけではない。しかし、おや?、と思わせる。
 これと似たこと、または通じることを、西尾は上のD・あなたは自由か(2018)でも書いている。p.37。近年に共通する「思い」に違いない。
 「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことができない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
 「自然科学」ではなくここでは「経済学」を含む「社会科学的知性」を排除しようとしている。少なくとも、「自然科学」とともに「社会科学」もまた、西尾幹二の「意識」またはその言うところの「自由」の問題を解決することはできない、ということだろう。
 ここでの「社会科学的知性」とは、すぐ前に「条件づくりの学問」という語があるように、生活条件の整備・向上のための「学問」・「知性」を意味させているようだ。この叙述の前には、子どもの成長を妨げる条件を排除する環境の整備だけでは「真の」成長にならない、人の住居を快適にしても「真の生活」にはならない、という旨の文章がある。p.36-。
 簡単に言えば、西尾には<物的条件>の整備ではなく<精神・こころ>が重要なのだ。「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」こそ(だけ?)が。
 この著に関する論評はこの欄の別の項で扱っているので、子細には立ち入らないが、以上の部分やこの著の第2章<資本主義の「自由」の破綻>を読了しても感じるのはつぎだ。
 第一は、西尾幹二の、もともとあったに違いない<反欧米主義>だ。
 上のAのp.223にこうある。「西洋と東洋がひとまとめて、日本文化と対立している。そういう風に私は思っています」、とある。
 この<反欧米主義>とはもう少し言えば、<近代啓蒙主義>あるいは<ヨーロッパ近代>に対抗・反対しようとする<日本(・愛国)主義>だ。
 さらに言えば、<資本主義の「自由」の破綻 >という章題にも現れていると見られる、<反・資本主義>、<反・自由主義経済>の気分だ。別に言及するが、かつてソ連・社会主義諸国内にいて拘禁された者たち(ソルジェニーツィンら)の、解放されて「西側」諸国に接した際の「西側・自由主義」への批判・皮肉を長々と紹介したり言及したりしているのは、西尾の<反・資本主義(自由主義)>の気分をおそらくは明瞭に示している。
 この<反・資本主義(自由主義)>の気分は、当然に、西尾は断固として否定するかもしれないが、少なくともかつての「社会主義」への憧憬・「容共」気分と共通することとなる。
 この欄でレシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流の試訳をしていて<フランクフルト学派>に関する部分を終えているが、上に記したような西尾の文章部分を見ながら、コワコフスキ紹介によるこの<フランクフルト学派>(アドルノ、ホルクマイアー、ブロッホ、マルクーゼら)のことを想起せざるを得なかった。
 <フランクフルト学派>は「左翼」だとされる。そして、むろん簡単に要約できないが、資本主義のもとでの「科学技術」の進展や「大衆文化」の醸成に批判的で、「より高い(higher)」文化が必要だとした。近現代「科学技術」、そして「啓蒙(主義)」に対する強い懐疑・批判を特徴とする。
  西尾幹二の「自然科学」批判は、フランクフルト学派の近現代「科学技術」や「近代啓蒙(主義)」に対する批判・攻撃と(少なくとも気分として)共通性がある。
 西尾は、例えば以下の文章を、どう読むだろうか。
 「フランクフルト学派の哲学者たち」が「現実に提示しているのはほとんど、エリート(élite)がもつ前資本主義社会の文化へのノスタルジア(郷愁)だった」(№2032)。
 「ホルクハイマーとアドルノの新しさは、この攻撃を実証主義と科学に対する激しい批判と結びつけ、マルクスに従って、悪の根源を…〔要するに資本主義経済-秋月〕のうちに感知することだ」。
  「フランクフルト学派がもつ主要な不満」は、「資本主義が豊かさを生み、多元的な欲求を充足させ」るのは「文化の高次の(higher)形態にとって有害だ」、ということにある(№2025)。
 彼らは「『大衆社会』やマス・メディアの影響力の増大を通じた、文化の頽廃、とくに芸術の頽廃を攻撃した。また、大衆文化の分析と激烈な批判の先駆者たちで、この点では、ニーチェの継承者であり、エリートの価値の擁護者だった」(№2004)。
 第二に、<物的条件>の整備ではない<精神・こころ>の重要性、「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」を西尾幹二が語るときの、その基礎的な<哲学>・<人間論>の所在だ。「唯我論」だとは言わないことにしよう。最近にこの欄で紹介したつぎの文章だけ、再び掲げておく。
 <自分の著書(初版)への「宗教的、文化的右派」からの批判には、無視されると思っていたので、驚いた。①「心は脳の産物」、②「脳は進化の産物」という現在の「心理学者や神経科学者」には当然の前提が、「彼らにとって急進的かつ衝撃的だった」。
 スティーヴン・ピンカー/椋田直子訳・心の仕組み-上(ちくま学芸文庫、2013)の「2009年版への序」(№2116/2020.01/07)。
 西尾幹二はまだ17世紀の<デカルト・心身二元論>の段階にいるのではないか旨、すでに記したことはある。

2104/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書,2018)⑤。

 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)の検討のつづき。<二つの自由>問題。この書の出版・編集担当者は、湯原法史。
  仲正昌樹・今こそアーレントを読み直す(講談社現代新書、2009)。
 この書の第三章第2節の表題は「二つの自由」で、概略、こんなことが書かれている。
 ・アレントは「外的障害物」の除去で人々は「自然な状態へと自然に回帰する>という考えを内包する「解放」=liberation の思想の拡大を警戒する。
 ・彼女には、外的抑圧がなく物質が欠乏していないことは「自由な活動」の前提条件として重要だが、解放=自由(freedom)ではなく、「自由」とは、古代ポリスの市民たちによるような、「物質的制約」に囚われず「公的領域」で「活動」している「状態」のことだ。
 ・暴力による抑圧から「解放」されても、政治的共同体の「共通善」の探究を忘れれば「自由」ではなく、そのための討論の中に人間の「自由」が現れる。
 ・アレントには「自由」は「活動」と不可分で、アトム化し「動物化」している個人にとっての「自由」は無意味だ。私的生活に満足し「公的事柄に関心」をもたない者は「本来の自由」、「公的空間での自由」から訴外されている。
 ・私的生活への沈潜が「自由」だとするのは経済が支配する資本主義社会の「幻想」だ。経済的利益の追求は「本来的自由」につながらないとの考えは、F・ハイエクとは相容れない。
 ・アレントは、左派運動でも「政治討論」への参加の契機となり「公共性」を生み出すのであれば積極的に評価する。「政治的評議会」のごときものによる「自治」は望ましい。問題は、「革命的評議会」的なものが「いったん権力を握って硬直化し、単一の世界観・価値観で社会を統一的に支配しようとする」ことだ。
 ・彼女にとって、人々の間の「価値観の多元性」は公的「活動」の成果だ。「共通善」がナチズムやスターリン主義のごとき「特定の世界観・価値観」へとと実体化して人々を拘束すると奇妙なことになる。
 個人の孤立的生活と画一的な集団主義のいずれにも偏しない、「共通善」をめぐって「活動」する人々の「間」に「自由の空間」を設定することが肝要なのだ。
 以上のかぎりでは、フランス革命はliberty を、アメリカ革命はfreedom を目指したという趣旨は明らかではない。別の項も含めての、深い読解が必要なのだろう。
 同じことは、Liberty とFreedom の両語とフランスやアメリカが出てくる辺りを、H. Arendt の原書も参照しながら一部を引用・紹介してみても言えるだろう。
 邦訳書と原書の両方を折衷するが、フランス革命、アメリカ革命が直接的・明示的にあるいは簡潔に短い範囲で語られているわけでもなさそうだ。
 ハンナ・アレント/志水速雄訳・革命について(ちくま学芸文庫、1995)、p.221以下(第4章/創設(1)-「自由の構成」)。
 ・「公共的な自由(public freedom)を夢見た人々が古い世界に存在したこと、<中略>は、結局のところ、復古の運動、すなわち古い権利と自由(liberties)の回復する運動を、大西洋の両側で、一つの革命へと発展させた事実だった」。
 ・「革命の究極的目標が自由を構成すること(constitution of freedom)、<中略>であることに、アメリカ人はやはりロベスピエールに同意していただろう」。邦訳書、p.221。
 ・「というよりもむしろ逆で、ロベスピエールが『革命的政府の原理』を定式化したとき、アメリカ革命の行路に影響されていた」。
 ・アメリカでは、「解放(liberation)の戦争、つまり自由(freedom)の条件である独立ための闘争と新しい国家の構成との間に、ほとんど息抜きする間がなかった」。以上、邦訳書p.221-2。
 ・「反乱の目的は解放(liberation)であり、一方で革命の目的は自由の創設(foundation of freedom)だということを銘記すれば、政治学者は少なくとも、反乱と解放という激烈な第一段階<中略>に重点を置き、革命と構成の静かな第二段階を軽視する傾向にある、歴史家たちの陥穽に嵌まるのを避ける方法を知るだろう」。
 ・「基本的な誤解は、解放(liberation)と自由(freedom)の違いを明確に区別することが出来ていないことにある。
 新しく獲得された自由(freedom)の構成を伴わないとすれば、反乱や解放(liberation)ほど無益なものはない。」 以上、p.223-4。
 ・「革命を自由(freedom)の創設ではなく解放(liberation)のための闘争と同一視する誘惑に抵抗したとしてすら、<中略>もっと重大な困難が残っている。新しい革命的憲法にの形式または内容に、革命的なものはもとより、新しいものすらほとんど存在しないからだ。」
 ・「立憲的統治(constitutional government)という観念は、<中略>決して革命的なものではない。それは、法によって制限された政府や憲法上の保障を通じての市民的自由(civil liberties)の保護を多少とも意味しているにすぎない。」
 ・「市民的自由(civil liberties)は私的福利とともに制限された政府の領域にあり、それらの保護は政府の形態に依存してはいない。」
 ・「僭主政のみが<中略>立憲的な、つまり法による統治を行わない。しかしながら、立憲的統治の諸法が保障する自由(liberties)は、まったく消極的(negative)なものだ」。この中には投票権も含まれるが、「これらの自由(liberties)は、それ自体で力なのではなく、権力の濫用からの免除にすぎない」。
 ・「革命で問題にされたのが立憲主義のみだったとすれば、その革命は、『古代の』自由(liberties)を回復する試みだとなおも理解され得る、穏健な最初の段階に忠実にとどまっていたかのごとくだっただろう。
 しかし、実際はそうではなかった。」以上、p.224-5。
 ・19-20世紀の大激動を見ると、二者択一のうちの第一の選択は「ロシアと中国の革命」で、「自由(freedom)の創設」を達成しない「終わりなき永続革命」であり、第二の選択はほとんどのヨーロッパ諸国と旧植民地で、「たんに制限された統治」にすぎない「新しい『立憲的』政府の樹立」だった。p.226。
 ・19-20世紀の憲法作成者たちと18世紀アメリカの先駆者たちには「権力それ自体に対する不信」という共通性があったが、この「不信」はアメリカの方が強かった。アメリカにとっては「制限された政府という意味での立憲的統治」は決定的ではなく、「政府の大きすぎる権力に対してもつ創立者たちの怖れは、社会内部で発生してくるだろう市民の権利と自由(liberties)がもつ甚大な危険性を強く意識することで抑制されていた」。
 ・ヨーロッパの憲法学者たちは、「一方で、共和国創設の巨大かつ圧倒的な重要性を、他方で、アメリカ憲法の実際の内容は決して市民的自由(civil liberties)の保護にあるのではなく全く新しい権力システムの樹立にあるということを、理解することができなかった」。以上、p.229-p.230。
 ・アメリカ創設者の心を占めたのは「制限された」法による統治の意味での「立憲主義」ではなかった。主要な問題は権力をどう制限するかではなく、どう樹立するかだった。
フランス革命での「人権宣言」によってもこの辺りは混乱させられている。諸人権は「全ての法による政府の制限」を意味せず、諸権利の「創設」自体を指すと理解された。
 ・<万人の平等>は封建世界では「真実革命的に意味」をもったが、新世界ではそうでなく、「誰であれ、どこの住民であれ」「万人の権利」だと宣告された。
 もともとは「イングランド人の権利」の獲得だったが、アイルランド人・ドイツ人等を含む「万人」が享受すること、つまりは「万人」が制限された立憲政府のもとで生活すべきであることを意味した。
 ・一方でフランスでは、「まさに文字通りに」「各人は生まれたことによって一定の権利の所有者となっている」ことを意味した。以上、p.331-p.332。
   かくのごとく、なかなか難解で、アメリカではfreedom 、フランスではliberty という単純な叙述がなされているわけではなさそうだ。
 それでもしかし、liberty-liberation よりもfrredom に重きを置いているらしいことは何となく分かる。
 かつまた、西尾幹二の「二つの自由論」とは質的に異なっていることも明確だ。むろん、ハンナ・アレントの語法、概念理解が欧米世界で一般的であることの保障はどこにもないのではあるが。
  以上のことよりも、仲正昌樹の上掲書は「二つの自由」の語の基礎的な淵源に言及している、その内容に注目される。それによると、こうだ。
 ①英語のFreedom はゲルマン語系の単語。free、freedom はドイツ語の、frei(フライ)、Freiheit (フライハイト)に対応する。
 ②英語のLiberty はフランス語を介したラテン語系の単語。そのフランス語はliberté だ(リベルテ、自由)。これに直接に対応する英語の形容詞はなく、liberal は「自由主義的な」という意味だ。
 なお、秋月が追記すれば、フランス語でのliberté に対する形容詞はlibre (リーブル、自由な)だ。
 かくして、西尾幹二がこう書いたことのアホらしさも、相当程度に明らかになるだろう。 「二つの自由を区別するうえで、英語は最も用意周到な言語です。
 すなわち前者をliberty と呼び、後者をfreedom と名づけております。
 フランス語やドイツ語には、この便利で、明確な区別がありません。

 この記述は、おそらく間違っている。
 英語はフランス語やドイツ語よりも融通無碍な言語で、いろいろな系統の言葉が入り込んでいる。あるいは紛れ込んでいる。ゲルマン・ドイツ系のfrei, Freiheit も、ラテン・フランス系のliberté もそうだ。それらからfreedom やliberty が生じたとしても、元々あったかもしれないFreiheit とliberté の違いを明確に意識したまま継受したとはとても思えず、また両語にあったかもしれない微妙な?違いが探究されることはなかったのではないか、と思われる。
 決して英語は、「最も用意周到な言語」ではない。多数のよく似た言葉・単語があって、おそらくは人々はそれぞれに自由に使い分けているのだろう。かりに人によってfreedom やliberty の意味が違うとしても、英語を用いる全てまたはほとんどの欧米人にとって、その違いが一定である、とは言い難いように考えられる。
 それを無理矢理、西尾幹二のように、例えばF・ハイエクともH・アレントとも異なる意味で理解してしまうのは、日本人の一人の<幼稚さ>・<単純さ>によるかと思われる。
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 ところで西尾幹二は、すでに紹介はしたのだが、こんなことを書く。p.37。
 「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことができない領域」がある。それは「各自における、ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題」だ。
 なかなか意味深長かもしれないが、西尾幹二という人間の<無知>を端的に示してていると考えられる。よほどに、「各自」という中の「(西尾)個人の」、「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由」を守りたい、大切にしたいのかもしれない。それは「社会科学的知性」では扱うことができず、<文学・哲学のメンタリティ>があって可能になる、と言うのだろう。
 率直に言って、間違っている。気の毒だほどに悲惨だ。別に扱う機会をもちたい。

2091/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書,2018)④。

 西尾幹二は、もしかすると(vielleicht)、自身を「思想家」だと考えている(または考えてきた)のかもしれない。
 というのは、つぎの書のオビか何かの宣伝文に、自分の名で、<新しい思想家出現!>とか書いていたからだ。
 福井義高・日本人が知らない最先端の世界史(祥伝社、2016)。
 少なくとも<民主主義対ファシズム>史観の虚妄性・偽善性については秋月よりもはるかによく知っていて、英・独・仏・ロシア各言語を読めるというのだから優れた人であることは認めるが、「新しい思想家」とまで称賛されたのでは、福井もさすがにいい迷惑・有難い迷惑だと思ったのではなかろうか。
 そして、「新しい思想家」が出てきた、というからには、西尾幹二自身が「古い」、現在の「思想家」だと自認しているのではないか、と感じたものだ。
 上の疑問が当たっているかどうかは別として、西尾幹二は、哲学・思想分野に詳しいようでみえて、実のところどの程度の素養・蓄積があるかは疑わしいと思っている。
 哲学・思想にも法哲学(・法思想)、経済哲学(・経済思想)、政治哲学(・政治思想)等と様々ある。講座・政治哲学(岩波書店)も刊行されたことがある。
 これらの夾雑物?を含まない「純哲」=「純粋の哲学」という学問分野もあるらしく、哲学(または思想)分野のアカデミズム(学界)もある。
 この欄で既に触れたように、岩波講座/哲学〔全10巻〕(2008-2009)新・岩波講座/哲学〔全16巻〕(1985-1986年)が、各時代の哲学(哲学学)アカデミズムの総力挙げて?刊行されている。
 アカデミズム一般を無視するとか、岩波書店だから嫌悪するとかの理由があるかのかどうかは知らない。だが、西尾幹二の書の長い<主な参考文献>の中には<世界の名著>(中央公論社)<人類の知的遺産>(講談社)のいくつかは挙げられているにもかかわらず、上のいずれも挙げられず(個別論文を含む)、本文の中でも言及されていないようであるのは、不思議で奇妙だ。哲学(・思想)にとって、「自由」(と必然)は古来からの重要主題であり続けているにもかかわらず。
 上の<講座・哲学>類には「自由」に関係する論考も少なくない。
 また、この欄で既述のように、<岩波講座・哲学/第5巻-心/脳の哲学>(2008)は、デカルト以来の「身脳(心身)二元論」の現在的段階と将来にかかわるもので、当然に人間・ヒトの「自由」や「自由意思」に関係する。
 西尾幹二が「自然科学」を拒否して「哲学・思想」という「精神」を最も尊いものとし、哲学は「万学の女王の玉座」(上の講座本の「はしがき」冒頭)に位置していると考えているとすれば、100年くらい、少なくとも40年ほどは時代遅れだろう。
 また、「物質」を対象とする「自然科学」ではない「哲学・思想」という「精神」を人間・個性にとって最も尊いと考えているとすれば、そのわりには、多様な「哲学・思想」分野にさほど通暁しているわけではないことは、日本の哲学(哲学学)アカデミズムの状況をほとんど知らないようであることからも分かる。
 いまや、フッサールの某著を引き合いに出すまでもなく、学問分野としての「哲学そのものの存立基盤が脅かされている」、とされている(上記「はしがき」ⅶ)のだが。
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 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 もう一度、第1章後半の、Freedom とLiberty の違い問題に言及する。
 西尾は、こう書いている。あらためて抜粋的に引用する。p.34-p.56。A・スミス言及部分にはもうほとんど触れない。
 p.34。/「世には二つの『自由』があります」。
 p.35。/「ヒトラーが奪うことのできた自由は『公民の権利』という意味での自由であり、奪うことのできなかった自由は『個人の属性』としての自由です。
 『市民的権利』としての自由と『個人的精神』としての自由の概念上の区別だというふうにいえば、もっと分かりやすいかもしれません。」
 「ヒトラー独裁体制」の下での「ドイツ国防軍の内部」の動き等は「まだ、『公民の権利』『市民的権利』の回復のための戦いであり、どこまでも前者の自由の概念」に入る。
 「強制収容所の苛酷な条件においても冒すことのできない人間の内的自由」があった、という場合の「自由の概念は『個人の属性』としての、あるいは『個人的精神』としての自由の概念を指しています」。
 「この二つの自由を区別するうえで、英語は最も用意周到な言語です
 すなわち、前者をliberty とよび、後者をfreedom と名づけております。
 フランス語やドイツ語には、この便利で、明確な区別がありません。
 フランス語のliberté には、内面的道徳的自由をぴったり言い表す一義性は存在しません。」
 liberté は「邪魔されないこと、制限されないことを言い表す以上のもの」ではありません。
 p.36-。/逆に、「ドイツ語のFreiheit には、二つの自由概念の両義性を含んではいますが、やはりどうしても後者の自由概念、内面的道徳的自由のほうに比重がかかりがちです」。
 人間が住居を快適にまたは立派に整えたり、子どもの成長を妨げる悪い条件をなくすのは「liberty の問題」で、「真の生活」が行われることや子どもが「成長」することは「freedom の問題」で、これら「二つの概念上の区別をしっかりと意識しておく必要があるでしょう」。
 「ところで、私の友人の話によると、アダム・スミスは、『自由』という日本語に訳されていることばにliberty だけを用いているそうです。
 それはそうでしょう。経済学とはそういう学問です。」
 「住居をいかに快適に整えるか、子供の教育環境をいかによくするか、が経済学の課題と等質です」。ここから先は、快い住居での「真の生活」やよい環境での「子供の成長」は、「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性では扱うことのできない領域」に入ってくる。「ひとつひとつの瞬間の心の決定の自由という問題です」。
 p.37。/「サイバーテロなどコンピュータ社会に特有の不安」からいかに免れるかは「所詮liberty の自由概念の範囲です。」
 「liberty の領域が広がるか、制限されるのかの問題」ではなく、「まったくそれと異なる自由概念、精神の自由の問題をここであらためて示唆していることを強調しておきたいと思います」。
 p.43-。/〔p.38-p.42で長々と引用した〕エピクテトスが論じたのは「アダム・スミスのような経済学者がまったく予想もしなかった自由の概念ではないでしょうか。freedom の極言形式といってもいいでしょう」。 
 p.44-/「ヒトラーやスターリンの20世紀型テロ国家」は社会の全成員から「liberty (公共の自由)を全面的に奪い取って」、「freedom (精神の自由)も死滅してしまうのでないか」。21世紀でもなお、これら国家と同質の「全体主義的強権体制は中国、北朝鮮その他」ではまだ克服されていない。
 ハンナ・アーレントの「全体主義」。ナチス、ソ連、毛沢東、…。
 p.45-。/「敵の内容が移動していくことが全体主義が終わりの知らない運動であることの証明で、…体制の敵に何ら咎め立てられる『個人の罪』が存在しないことが特徴です。
 ここでは敵視されない人々はliberty を保障されます」。
 p.56。/一方、V・E・フランクル・夜と霧(邦訳書1956年〕〔p.47-p.55に長い紹介・引用あり〕から言えることは、「人間はliberty をことごとく失っても、freedom の意識をまで失うものではないということ」です。
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 紹介、終わり。
 こうぬけぬけとかつ長々とliberty とfreedom の違いを語られると、思わず納得していまう人もいるかもしれない。しかし、西尾幹二の<思い込み>にすぎない。
 どのようにすれば、このように自信をもって、傲慢に書けるのだろうか。
 既述のように、このように両者を単純に理解することはできない。A・スミスもF・ハイエクも、liberty とfreedom を西尾の理解のように単純に対比させて用いたのではないと見られることは、すでに記した。
 また、西尾のいう二種の「自由」以外に、種々に分類・体系化される「自由」が日本国憲法上保障されるとされていることもすでに示した。
 話題を移せば、そこでの諸「自由」は西尾に従えばどのように、liberty とfreedom に分けられるのだろうか。
 精神・内心の自由はfreedom で、それ以外はliberty なのか? いや、宗教の自由や学問の自由も「内面的道徳的自由」であり、その他全ての「自由」はこれを基礎にしたfreedom だとも言えそうだ。そうすると日本国憲法上の「自由」はすべてfreedom だ、ということになる。
 そして、西尾のように公共生活条件の整備がlibertyという自由概念の問題だとするのは、相当に違和感の残る概念用法だ。freedom 享有の基盤づくりを、再び「自由」=liberty いう必要はないし、そのような用法は日本にはない。また、freedom 享有の基盤づくりに際して問題になるのがliberty の概念だというのも、きわめて難解で、こうした用法は避けた方がよいだろう。
 要するに西尾の概念用法をある程度は「理解」することができるが、しかし、了解・納得できるものではない。西尾幹二の<思い込み>にすぎない。
 なお、平川祐弘と同様に、「文学」系知識人らしきものによる「経済学のような条件づくりの学問、一般に社会科学的知性」に対する侮蔑意識が明記されているのは、まことに興味深いことだ。
 物質・生活条件整備ではなく「心」・「精神」・「内面的道徳性」が、こうした人たちにとっては尊いのだ。ある意味で、この人たちは物質・身体と心・精神を峻別する16-17世紀のデカルト的意識状態にまだいるのではないだろうか。
 人間、日本人の生活条件よりも、自分の「精神」・自分の「独自性」こそがおそらく尊いとされるべきなのだろう。なぜならば、自分たちは、衣食住に関係する多数の仕事を行っている「庶民」ではなく、水・エネルギー供給・交通手段等々の利益を享受しているとしても、それに感謝することもなく、高見で「きみは自由かね」と問う資格のある「知識人」だと自負しているのだろう。そのような「文学」畑の人間が、建設的な政策論議をろくに行うことができないで、「教養」と「精神論」だけしか示すことができずに、情報・出版産業界での非正規文章執筆自営業者となり、その数と影響力によって日本を悪くしてきた。
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 さて、この問題に再度触れようと思ったのは、西尾が第1章の参考文献としてハンナ・アレントのものを挙げていることに気づいたからだ。
 さらにそのきっかけは、池田信夫blog/2009年5月19日で、つぎの書を紹介し、論及していたことだった。
 仲正昌樹・今こそアーレントを読み直す(講談社現代新書、2009)。
 池田によって紹介される、仲正のH・アレント・<革命について>の理解はこうだ。
 アレントはフランス革命を否定しアメリカ独立革命を肯定したが、「彼女はliberty とfreedom を区別し、前者をフランス革命の、後者をアメリカ独立革命の理念とした」。
 「Liberty は抑圧された状態から人間を解放した結果として実現する絶対的な自然権だが、Freedom は法的に構成される人為的な概念で、いかなる意味でも自然な権利ではない」。
 すでに、西尾幹二の両語の理解と質的に異なることは明らかだろう。
 仲正昌樹の上掲著の<二つの自由>以降は難解だが、おおよそは池田の紹介のようなことが書かれている。
 ハンナ・アレント/志水速雄訳・革命について(ちくま学芸文庫、1995/原邦訳書1975)にさらに、原書、Hannah. Arendt, On Revolution(1963)も参照しつつ、立ち入ってみよう。
 (つづく)

2076/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書,2018)②。

 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 この本の、筑摩書房の出版・編集担当者は湯原法史。
 上の書・第一章のいわば第二節の表題は、「Liberty とFreedom の違いについて」。p.29。
 著者は、<あなたは自由か>と高飛車に発問するためには、英語に「Liberty とFreedom」の両語があることに触れざるをえないと考えたのかもしれないし、あるいはこの両者の「違い」を手がかりにして、何らかのことを語りかったのかもしれない。
 しかし、この節には、看過できない過ちがある、と見ざるをえない。
 ***
 冒頭でアダム・スミスのいう「見えざる手」によって「自由が広がるのではなく、私たちの市民的権利が知らぬままに脅かされ、不自由にいつのまにか覆われてしまう現代のもう一つの別の側面」があり、それは「コンピュータ社会」での「秩序の喪失、異常の出現」と軌を一にするのではないか、という旨の問題意識が示される。p.30。
 ここでは、前回でも触れた、「アメリカを先頭とする」資本主義・「自由主義経済」あるいは現代に発展する<科学技術>に対する不信・不快感・不安感がやはり示されているのだろう。
 しかし、現代の科学技術または「自然科学」を敵として戦おうしても無意味だ、技術、自然科学それ自体が一般に「悪」なのではない、ということは秋月のコメントとしてすでに記した。
 さて、アダム・スミスに論及する中で西尾はA・スミスにおける「自由」の原語に関心を示し、表題にしているここでのテーマについて、つぎの結論を見出す。p.35。
 ・ヒトラーが奪った「自由」は「公民の権利」という意味でのそれで、奪えなかった「自由」は「個人の属性」または「個人的精神」としてのそれだ
 ・英語は用意周到な言葉で、「前者をliberty とよび、後者をfreedom と名づけております」。
 ヒトラーうんぬんは別として、このような両語に関する結論的理解は誤りだろう。
 西尾幹二によると、A・スミスにおける「自由」は前者なのだそうだ。
 その根拠として明記されているのは、つぎの一文だけだ。
 友人・星野彰男がA・スミスの「見えざる手」に関する専門書を送ってくれたのだが、「アダム・スミスは、私の友人の話によると、『自由』という日本語に訳されていることばにliberty だけを用いているそうです」。
 そして、高名な?日本のいわゆる保守派知識人の西尾幹二は、つづけてこう書く。
 「それはそうでしょう。経済学とはそういう学問です」。
 この部分は、相当に恥ずかしい(はずだ)。
 友人の、いかなる態様かは不明な「話」を根拠にして、A・スミスの邦訳書も原書も紐解くことなく、こんなに簡単に言い切ってしまっている。そりゃそうだ、「経済学」なのだから、「個人の属性」または「個人的精神」の意味でのfreedom を用いているはずがない、というわけだ。
 しかし、秋月でも簡単に目にすることができる原著(英文)には、つぎの語が多数出てくる。
 freedom of trade
 これは、Adam Smith, The Wealth of Nations =An Inquiry into the Nature and the Causes of The Wealth of Nations. から探したもので、「取引の自由」と訳されると思われる。「trade」に「取引」以外の日本語をあてるとしても、「freedom」は「自由」としか訳しようがないだろう。
 その他、上の著には、こんな英語もある。他にもあるかもしれない。
 freedom of commerce、freedom of the corn change、freedom of exportation
 A・アダムスはスコットランド人だったかもしれないが、本来はスコットランド語ではLiberty に当たる言葉を英語に訳して?Freedom に変えた、ということはないだろう。
 というわけで、「個人の属性」・「個人的精神」に関係しなくてもfreedom は使われている。
 西尾自体の文章の中に「経済市場の自由競争」という言葉が出て来る。p.33。
 ここでの「自由競争」は、英訳すると、liberty が選ばれなければならないのか?
 ***
 西尾幹二は懸命に?つぎのように、言う。
 既述のサイバー・テロもコンピュータ社会も「所詮はliberty の自由概念の範囲」の問題だ。ここでは「まったく異なる自由概念、精神の自由の問題」を示唆していることを「強調しておきたい」。p.37。
 そうであるならばなぜ、この書物を第一章第一節の表題である「サイバーテロの時代にどんな自由があり得るか」で始めるのか、という感想・疑問が生じる。
 この書はときどきの随筆を何とか一つの主題をもつように集めたものであるかもしれない。
 「あなたは自由か」と上から目線で問いながら、そこでの「自由」概念自体が、微妙に揺れ動いている。
 秋月によれば、「Liberty とFreedom の違い」に立ち入って両者を異質のものと判断するから奇妙になっている。
「自由主義」(経済学)者といえばF・ハイエクの名を思い浮かべる人が多いだろう。
 この人はウィーン生まれだが(<オーストリア学派>とも呼ばれる)、邦訳されている著作のほとんどは英語で執筆しているのではないか、と思われる。
 瞥見したのみだが、F・ハイエクにおける、「Liberty とFreedom」の使い方には、つぎの例がある。
 F・ハイエク・自由の条件Ⅰ~Ⅲ/西山千秋=矢島釣次監修(春秋社、新版2007)。
 =F. A. Hayek, The Constitution of Liberty(1960).
 第一部/自由の価値。=Part Ⅰ/The Value of Freedom.
 第二部/自由と法。=Part Ⅱ/Freedom and the Law.
 第三部/福祉国家における自由。=Part Ⅲ/Freedom in the Welfare State.
 F・ハイエク・法と立法と自由Ⅰ~Ⅲ/西山千秋=矢島釣次監修(春秋社、新版2007)。
 =F. A. Hayek, Law, Legislation and Liberty(1960).
 第一部(PartⅠ)第三章第2節〔表題〕/自由は原理に従うことによってのみ維持でき、便宜主義に従うと破壊される。=Freedom Can Be Preserved Only By ….
第一部(PartⅠ)第五章/ノモス-自由の法。=Nomos: The Law of Liberty.
 これの第6節の中の文章(邦訳書Ⅰp.108.)-「各個人の『生命、自由および所有地』をも含めた…財産は、個人の自由を対立の欠如と妥協させるという問題にたいして、これまで人間が見出した唯一の解である」。=Property, in which --- not only --- but the 'life, liberty and estate' of every individual, is the only solution men have yet discovered to the problem of reconciling individual freedom with absence of conflict.
 西尾幹二が主張?するような、「Liberty とFreedom の違い」の理解の仕方を採用することができないことは明らかだろう。経済活動の「自由」と個人の精神的「自由」に両者が対応しているのでは全くない。
 秋月瑛二の幼稚な理解でも、liberty とfreedom は異質なものではない。L・コワコフスキ著の試訳をしていると両者が出てきて後者の方が多いが、異質の「自由」として語られているのではない、と解される。
 たしかに西尾が示唆するようにliberty は「市民(権)的自由」というニュアンスがあり、freedom は<一般的>であるのに対して、liberty は国家・市民社会の対比を前提とした、「国家」に対する(との関係での)「自由」という意味合いをもつようにも感じる。だが、後者は前者を含む、または基礎にしている、ということは否定できないのではないか。
 しかし、これも断定はできない。なお、<公民的(市民的)自由>には、civic freedom や civic rights という語が使われていることもある。civic でなく、civil —もある。
 ***
 なお、西尾は「自由」として経済活動の「自由」と個人的精神的「自由」の二つしか想定していないようにも見えるが、前回に私見の分類を示した中に簡単に書いたように、「自由」はそんなに単純に分類できるものではない。
 日本の憲法学の教科書・概説書類は、日本国憲法を念頭に置きつつ、「自由」を種々に分類・体系化していて、定説はない、と見られる(むろん、条文別の形式的分類は-改正がなければ-動かないだろう)。
 あくまで一例にすぎず、私が書いた「行動の自由」というのもないが、つぎの教科書・概説書は、つぎのように「自由」を分類・体系化している(同「目次」による)。
 芦部信喜=高橋和之補訂・憲法/第五版(岩波書店、2011)。
 A/精神的自由権(1)-内心の自由。
  1/思想・良心の自由。
  2/信教の自由。
  3/学問の自由。
 B/精神的自由権(2)-表現の自由。
  1~3/表現の自由の意味・内容・限界。
  4/集会・結社の自由、通信の秘密。
 C/経済的自由権。
  1/職業選択の自由。
  2/居住・移転の自由。
  3/財産権の保障。
 D/人身の自由。
  1/基本原則。
  2/被疑者の権利。
  3/被告人の権利。
 以上。
 他にも、9条から「平和に生きる自由」、13条から「プライバシー(私事)の自由」や「自己決定」の自由などが導かれ得るかもしれない(これは秋月の勝手な叙述)。
 西尾幹二は、このように多岐にわたる「自由」が論じられ得ることを知っているのだろうか。
 この人が関心を持つのは、「精神的自由」のうちの「思想・良心の自由」、それにもとづく「表現の自由」に限られているのかもしれない。
 そして、意識・気分を「不快」・「不安定」にする<科学技術の進展への不安>から免れるいう意味での「自由」、自分には知識がない「自然科学」なるものに脅かされているという<不安>から免れるいう意味での「自由」であるのかもしれない。
 しかし、<信仰・宗教の自由>も、<集会・結社の自由>も、<職業選択の自由>も、<人身の自由>もある。これらはむろん、「個人的精神」と密接な関係がある。
 ***
 ともあれ、西尾幹二が所持していても不思議ではないA・スミスの原著で確かめることなく、知人の「話」を聞いてA・スミスの(invisible hand に関連する)「自由」はliberty だとして、これをfreedom と区別し、かつ後者を「個人の属性」・「個人的精神」にかかわる「自由」だということから出発しているようでは、この書物に大きくは期待することができない。
 あれこれと揺れ動きながら随筆をとりまとめたような書物を、それでも現時点でさらに読んでしまった。
 今回の記述には、なおも追記したいことがある。

2045/西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)①。

 「自由」について最近に最も考えるのは、「意思は自由か」または「自由な意思はあるか」だ。この問題はもちろん、「意思」とは何で、その他の精神的行為または精神的態様とどう区別されるものなのか、に関係する。
 ヒト・人間の脳内の諸作業・態様の中に、「こころ」あるいは「感情」はどこにあるのか、どうやって成立しているのか、と類似の問題だ。
 「自由」か否かを論じること自体がヒト・人間として<生きている>ことの証左であり、さらに、たんなる覚醒状態・意識の存在だけではなく、より高次の「思考」を必要とするものだ。
 というわけで、たんなる覚醒状態・意識の存在とは次元が質的に異なるが、「自由」か否かを論じること自体が、<生きている>ことを前提にしていることは変わらない。
 上のことはつまり、<死者>には「意識」はなく、自分は「自由」か否かを考えたり、思い巡らしたりすることはできない、ということだ。
 「自由」か否かを論じるのは、<生者>の贅沢な遊びだ、ということにもなる。
 上に述べていることは、ヒト・人間には、<死から逃れる自由>=<死からの自由>は存在しない、という冷厳たる事実を前提にしている。
 さらに言おう。ヒト・人間は、生まれ落ちるときまでに自己の体内に宿していた<遺伝子>から自由なのか。直接には両親から受け継いだ、個性がある程度はある<生物体>としての存在から、ヒト・人間は「自由」なのか。否。
 さらに言えば、ヒト・人間は、生後の社会・環境から<無意識にでも>与えられる影響から、完全に「自由」でおれるのか? 否。
 「あなたは自由か」とずいぶんと<上から目線>の発問をして、書物の表題にまでしている西尾幹二には、まず上のようなことから論じ始めて欲しかったものだ。
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 西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)。
 この本の、筑摩書房の出版・編集担当者は湯原法史
 上の書は、空気中の酸素を取り込んで炭水化物等を分解してエネルギーにしなければならない人間、酸素を多分に含む血液を脳を含む全身に送る心臓というポンプを必要とする人間、酸素を含む空気を体内に吸い込むための肺臓の存在を必要とする人間、といったものを全く意識させない、<文学的>、<精神主義的>ないし<教養主義的>自由論のようだ。人文(ないし人文・歴史)関係評論家の、典型的な作品かもしれない。
 もっとも、いちおうは精読したのは、全380頁以上のうちの57頁まで(第一章だけ)。
 しかし、上の範囲に限っても、注文を付けたい、または誤りを指摘しておきたい点がある。
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 その前に、さらに私の「自由」論の序説らしきものを、上記に加えて綴ってみよう。
 組織(・団体)や国家の「自由」(これらを主体とする「自由」)は度外視する。
 第一。①何からの「自由」か。英語ではしばしば、free from ~という二語が併せて用いられる。<from ~>の~は重要なことだ。
 ②何についての自由か。
 ア/内心・政治信条・宗教(信仰)・思想等。
 イ/行動。この行動の「自由」を剥奪または制限するのが、刑法上の<自由刑>だ。
 ウ/経済活動。つまり、商品の生産・販売・取引等々。商品には物品のみならず「サービス」を含む。
 これらは、帰属する共同社会または国家により、法的・制度的な<制約>が異なる。
 第二。冒頭に「自由な意思」の存否の問題に言及したが、<身分から契約へ>を標語としたかもしれない「近代」国家・社会は、「個人の自由」について語るときに「個人の自由な意思」の存在を前提としている(正確には、あくまで原則または理念として)。
 <個人の自由意思>の存在を想定することなくして、法秩序は、そして社会秩序は、成立しない(またはきわめて成立し難い)ことになっている。
 以下は、典型的な法条だ。説明は省略する。あくまで一部だ。
 A/刑法38条「①罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。
 ②重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。
 ③法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。」
 同39条「①心神喪失者の行為は、罰しない。
 ②心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」
 B/民法91条「法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関しない規定と異なる意思を表示したときは、その意思に従う」。
 同93条「意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。ただし、相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。
 同95条「意思表示は、法律行為の要素に錯誤があったときは、無効とする。ただし、表意者に重大な過失があったときは、表意者は、自らその無効を主張することができない」。
 こうした基本的な?法条に、西尾幹二の上掲著は言及していないようだ。きっと関心もないのだろう。
 茂木健一郎・脳とクオリア(日経サイエンス社、1997)、p.282。
 茂木は上の箇所で、「自由意思」の存在が「犯罪者を処罰する」根拠になっている、等と述べて、「自由意志」論(第10章<私は「自由」なのか?>)への導入文章の一つにしている。
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 さて、西尾幹二・上掲書の短い読了部分(第一章)には、大きく二つの論点がある。
 紹介・引用しつつ、感想・コメントを記す。
 全体としてもそうなのだろうが、部分的な論及はあるとしても、そもそも「自由」をどう理解するのか、「自由」をどう定義しておくのか、が叙述されていない。
 たんなる身辺雑記以上の「随筆」でもない、少なくとも人文・歴史関係評論家の作品?としては、これは困ったことだ。基本的概念の意味がほとんど分からないまま、<賢い>西尾幹二が読んだ多数の文献が挿入されながら、あれこれと、あちこちに論点を少しは変えながら記述される長い文章を読んでいくのは、なかなかの苦痛でもある。
 それはともかく、先ずは、<いわゆる保守>評論家には見たことがない指摘または「怖れ」が(第一章)前半に叙述されているのが、気を惹いた。
 その最初は、カー・ナビやサイバー・テロに触れたあとのつぎの文章だ。p.10。
 ・「生活はほとんど便利になりますが、なんだか背筋の寒くなる、不気味な時代が始まりつつあるように思えました」。
 アメリカのエシュロンや「情報戦争」に触れたあとでは、こう書く。p.19。
 ・「私たちは今、これまでに知られていない、新しい不気味な一つの大きな檻の中に閉じ籠められているような異様な生活感覚の中で生き始めているように思えてなりません」。
 こうした部分はどうやら、この著の基本的なテーマらしい。
 つまり、そういうふうに変わってきているのに<あなたはあなたが自由でないことに気がついているか>(オレは気づいているぞ)ということが、書名も含めて、主張したいことらしい。同様のことは、「あとがき」でも述べられている。
 西尾が「不気味」だと感じるのは、「敵の正体が見えない」ことだ。「サイバーテロ」は誰がいつ襲うか、分からない。
 ここで西尾は旧東独の「秘密警察」(STASI)へと話題を広げる。
 「敵」が誰か分からず、スパイは家族や友人たちの中にもいた、という「かつての全体主義社会」の実例は、「いつ襲ってくるのか分からない敵の正体の見えにくさ、自由の不透明さ」において、現代へのヒントになる、と言う。p.20。
 それはそれとして参考になるかもしれないが、つぎの文章に刮目すべきだろう。このように「展開」させていくのだ。p.24。
 ・「旧共産主義体制のことを私はことさらに論(あげつら)っているのではありません。
 西側のコンピュータ社会が旧東側の、"少年少女スパイ育成社会"にある面では似てきているという新しい発見に、私が戦いているということを申し上げておきたい」。
 同じ趣旨は、つぎの文章ではさらに明確になり、強調されている。p.26。
 ・「世界の先端を行くアメリカのコンピュータ社会は、全体主義体制にある面で似てきているということの現れではないでしょうか」。
 ・「…倒錯心理、常識の喪失において、両者はどことなく共通し始めております」。 
 アメリカの<コンピュータ社会>は、「ある面では」、「どことなく」、共産主義諸国と「似てきて」いるのだ。
 この点が、西尾がこの辺りで指摘して強調したい点に他ならないと思われる。
 そして、日本社会もまた同じだと明記されている。
 端的には、こう書かれる。p.28。
 ・「新旧の共産主義体制にも、現代のアメリカ社会にも、そして日本の社会にもどことなく共通している秩序の喪失、異常の出現」がある。
 最後の締めくくりの文章はこうだ。p.28。
 ・「私たちの生きている今の世界は、どこか今までとは異なった異質な歪みを時間とともにますます肥大化させているように思えてなりません」。
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 こうした西尾幹二のこの部分での叙述の特質は、以下の二点の指摘・表明だろう。
 ①<科学技術>の進展に対する不信感や恐怖。
 ②「現代」社会の欠陥・問題は<共産主義諸国>でもアメリカ・日本でも共通している。
 西尾の用いる「ある面では」とか「どことなく」という表現の意味こそが決定的に重要だと思われるが、そこにこの人は立ち入らない。
 あくまで<文学的>、<感覚的>だ。
 翻って西尾のこうした叙述を読むと、つぎの感想が生じる。
 第一に、<いわゆる保守>か「容共・左翼」かという対立には関係がなさそうだ、ということだ。<現代>批判では「左翼」的かもしれないし、アメリカを先頭に立つ「敵」と見立てているようであるのは「ナショナリズム・右翼」的かもしれないが。
 第二に、<科学技術>の進展に対する疑問や恐怖は、外国も含めてすでに多数の哲学者・歴史研究者等が議論してきたことだと思われる。
 ある者たちはそれを「資本主義」の行き着く先と見なし、(疎外労働によって?)「人間」を「非人間」に変えていく、と考えた。フランスの戦後の哲学者には、こんな主張もあっただろう。
 だが、<科学技術>の進展それ自体に<諸悪>の根源を見る、ということはできない。
 <科学技術の進展と人間の「自由」>というのは、より論じられるべき問題だ。
 結局は一つに収斂するかもしれないが、一方にはIT・AI(人工知能)等の言葉で示されるコンピュータ関連技術の発展があり、一方には脳科学・脳神経生理学等の発展が明らかにしつつあるヒト・人間の「本性」の研究がある。
 これらと社会・国家・人間の関係をもっと論じるべきなのだろう。
 しかし、西尾幹二は<怯えて><憂いて>いるだけで、処方箋を提示しない。それは<文学>系の自分の仕事ではない、と考えているのかもしれない。
 L・コワコフスキがフランクフルト学派の一人に放った厳しい一言を思い出す。記憶にだけ頼り、少しは修正する。
 <現代的科学技術の進化に戦き、かつて「知識人」としての特権を味わうことができた古い時代へのノスタルジー(郷愁)を表明しているだけ>だ。
 第三に、アメリカ・日本が「共産主義」・「全体主義」体制と「似て」きた、「共通して」きた、という指摘にも、十分な根拠が提示されていない。そもそもが、西尾幹二は「共産主義」をどう理解しているのだろう。
 このようにして東西陣営の「共通」性・「類似」性を指摘するのは、ソ連解体時に「容共・左翼」論者も行ったことだった(ソ連にもアメリカにも「現代」特有の病弊がある、と)。
 西尾において特段に意識的ではないのかもしれないが、アメリカを中心ないし先頭とする「現代」文明を批判するのは、中国・北朝鮮等の現代「共産主義」諸国を免罪することとなる可能性がある。
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 一回では済まなくなった。もともとは、<茂木著②>の前書きのつもりだったのだが。

1993/マルクスとスターリニズム⑤-L・コワコフスキ1975年。

 Leszek Kolakowski, The Marxist Roots of Stalinism(1975), in: Is God Happy ? -Selected Essays (2012)の試訳のつづき。
 最終の第5節。
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 スターリニズムのマルクス主義という根源。
 第5節・マルクス主義としてのスターリニズム②。
 (8)これは、マルクスの階級意識という観念の単純化した範型だ。
 たしかに、真実について独占する資格があるという党の主張がここから自動的に導き出されはしなかった。
 また、等号で結ぶためには、党に関する特殊レーニン主義の考えが必要だ。
 しかし、このレーニン主義考えには反マルクス主義のものは何もなかった。
 マルクスがかりに党に関する理論を持っていなかったとしても、彼には労働者階級の潜在的な意識を明確にすると想定される前衛集団という観念があった。
 マルクスはまた、自分の理論はそのような意識を表現するものだと見なした。
 「正しい」労働者階級の革命的意識は自然発生的労働者運動の中に外部から注入されなければならないということは、レーニンがカウツキーから受け継いだものだった。
 そして、レーニンは、これに重要な補足を行った。
 すなわち、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争によって引き裂かれた社会には二つの基本的なイデオロギーしか存在することができないので、プロレタリア的でない-換言すると前衛たる政党のイデオロギーと一致しない-イデオロギーは、必ずやブルジョア的なそれだ。
 かくして、労働者たちは助けがなければ自分たち自身の階級イデオロギーを産み出すことができないので、自分たちの力で産み出そうとするイデオロギーはブルジョア的なものになるに違いない。
 言い換えれば、労働者たちの経験上の「自然発生的な」意識は、本質的にはブルジョアの<世界観>であるものを生み出すことができるにすぎない。
 その結果として、マルクス主義の党は、真実の唯一の運び手であるがゆえに、経験上の(そして定義上ブルジョア的な)労働者の意識から完全に独立している(但し、プロレタリアートよりも前に進みすぎることのないように、その支持を得るために求められている場合には戦術的な譲歩をときどきはしなければならない)。//
 (9)これは、権力掌握後も、真実のままだった。
 党は真実の唯一の所持者として、大衆の(不可避的に未成熟な)経験上の意識を(戦術的意味がある場合を除いて)完全に無視することができる。
 じつに、そうしなければならない。それができないとすれば、必ずや、党はその歴史的使命を裏切ることになる。
 党は「歴史的発展法則」および「土台」と「上部構造」の正しい関係の二つを知っている。党はそのゆえに、過去の歴史的段階からの残滓として存続しているものとして破壊するに値する、そのような人民の現実的で経験的な意識を、完璧に見定めることができる。
 宗教的想念は、明らかにこの範疇に入る。しかし、人民の精神(minds)を内容において指導者たちのそれとは異なるものにしているもの全てが、そうだというのではない。//
 (10)プロレタリアの意識をこのように把握することで、精神に対する独裁は完全に正当化される。党は社会よりも、社会の本当の(経験的ではない)願望、利益および思索が何であるかを実際に知っている。
 我々の最終的な等式は、こうだ。真実=プロレタリアの意識=マルクス主義=党のイデオロギー=党指導者の考え=党のトップの決定。
 プロレタリアートに一種の認識上の特権を与えるこの理論は、同志スターリンは決して間違いをしない、との言明に行き着く。
 この等式には、非マルクス主義のものは何もない。//
 (11)党についての真実の真実の唯一の所持者だという観念はもちろん、「プロレタリアートの独裁」という表現によって補強された。この後者の語をマルクスは、説明しないで、二度か三度何気なく使った。
 カウツキー、モロトフその他の社会民主主義者たちは、マルクスが「独裁」で意味させたのは統治の形態ではなく統治の階級的内容だ、この語は民主主義国家と反対するものとして理解されるべきではない、と論じることができた。
 しかし、マルクスは、この論脈では何らかの類のことをとくには語らなかった。
 そして、この「独裁」という語を額面どおりにレーニンが正確に意味させて明瞭に語ったものを意味するものだと受け取ることには、明らかに間違ったところは何もない。すなわち、法によって制限されない、完全に暴力(violence)にもとづく支配。//
 (12)党がもつ、全ての生活領域に対してその僭政を押しつける「歴史的権利」の問題とは別に、その僭政(despotism)という観念に関する問題もあった。
 この問題は、根本的にはマルクスの予見を維持する態様で解決された。
 解放された人類はつぎのことを行うと想定された。すなわち、国家と市民社会の区別を廃棄し、個々人が「全体」との一体化を達成するのを妨げてきた全ての媒介的装置を排除し、私的利害の矛盾を内包するブルジョア的自由を破壊し、労働者たちが商品のように自分たちを売ることを強いる賃労働制度を廃止する。
 マルクスは、この統合がいかにして達成され得るのかに関して、厳密には論述しなかった。つぎの、疑い得ない一点を除いては。搾取者の搾取-つまり、生産手段の私的所有制の廃棄。
 搾取というこの歴史的行為がひとたび履行されるならば、残っている社会的対立の全ては古い社会から残された遅れた(ブルジョア的)精神を表現するものにすぎない、と論じることができたし、そうすべきだった。
 しかし、党は、新しい生産関係に対応する正しい精神(mentality)の内容はどのようなものであるべきかを知っている。そして当然に、それとは適合しない全ての現象を抑圧することのできる権能をもつ。//
 (13)この望ましい統合を達成する適切な技術とは、実際のところ、どのようなものになるのだろうか?
 経済的基盤は、設定された。
 マルクスは市民社会が国家によって抑圧されるまたは取って代わられると言いたかったのではなく、政治的統治機構は余分なものになり、「物事の管理〔行政〕」だけを残して、国家が消滅することを期待したのだ、と論じることができた。
 しかし、国家が定義上、共産主義への途上にある労働者階級の道具であるならば、国家はその定義上、「被搾取大衆」に対してではなく、資本主義社会の遺物に対してのみ、権力を行使することができる。
 「事物の管理」または経済の運営はどのようにすれば、労働の、つまりは全ての勤労人民の利用や配分を伴わないことができるのか?
 賃労働-労働力の自由市場-は、廃棄されたはずだった。
 これは想定どおりに生じた。
 しかし、共産主義者の熱意だけが人々が労働をする不十分な誘因だと分かると、いったいどうなるのだろうか?
 このことが意味するのは明らかに、それを破壊することが国家の任務である、ブルジョア的意識に囚われてしまう、ということだ。
 従って、賃労働を廃止する方法は、それを強制(coercion)に置き代えることだ。
 そうすると、かりに政治社会のみが人民の「正しい」意思を表現するのだとすると、市民社会と政治社会の統合はどのようにして達成されることができるのか?
 ここで再び言えば、その人民の意思に反対しまたは抵抗する者たちはみな、定義上は資本主義秩序の残存者となる。
 さらにもう一度言えば、統合へと進む唯一の途は、国家によって市民社会を破壊することだ。//
 (14)人々は自由に、強制されることなく協力するように教育されなければならないと主張する者は、誰であっても、つぎの問いに答えなければならない。
 このような教育を、どの段階で、どのような手段によれば、達成することができるのか?
 資本主義社会でそれが可能だと期待するのは、マルクスの理論とは確実に矛盾しているのではないか? 資本主義社会での労働人民は、ブルジョア的イデオロギーの圧倒的な影響のもとに置かれているのだ。
 (支配階級の思想は支配している思想だと、マルクスは言わなかったか?
 社会に関する道徳的変化を資本主義秩序で希望するのは、全くの夢想(pure utopia)ではないのか?)
 そして権力掌握の後では、教育は社会の最も啓蒙的な前衛の任務だ。
 強制は、「資本主義の残存者たち」に対してのみ向けられる。
 そうして、社会主義の「新しい人間」の産出と苛酷な強制との間を区別する必要はない。
 その結果として、自由と隷属の区別は、不可避的に曖昧になる。//
 (15)(「ブルジョア」的意味での)自由の問題は、新しい社会では意味のないものになる。
 エンゲルスは、本当の自由は人々が自然環境を征服することと社会過程を意識的に規制することの両方を行うことのできる範囲と定義されなければならない、と言わなかったか?
 この定義にもとづけば、社会の技術が発展すればするほど、社会は自由になる。
 また、社会生活が統合された指令権力に服従すればするほど、社会は自由になる。
 エンゲルスは、社会の規制は必ず自由選挙または他の何らかのブルジョア的装置を伴うだろう、とは述べなかった、
 そうすると、僭政的権力の一中心によって完全に規制された社会はその意味で完璧に自由ではない、と主張することのできる理由は存在しない。//
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 ⑥へつづく。

0661/佐伯啓思・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎、2008)を半分読む。

 一 昨年11月末に発刊されていたらしいが、迂闊にも気づかないでいた。2月以降で半分強のp.120まで読み終えた。
 佐伯啓思・自由と民主主義をもうやめる(幻冬舎新書、2008。760円+税)。
 第一章 保守に託された最後の希望
 第二章 自由は普遍の価値ではない
 第三章 成熟の果てのニヒリズム(~p.120)
 第四章 漂流する日本的価値
 第五章 日本を愛して生きるということ
 「…正論大賞受賞を記念して、産経新聞社主催で行われた講演会の記録をもとに」執筆されたもの(p.230)。
 二 先だって(1/29付)、自由や民主主義(・個人主義・平等)は「価値」・「中身」を伴わない観念だとかを独り言として書いた。佐伯啓思の影響をたぶんすでに受けていたのではあろう、この本でも佐伯は同旨のことを強調している。例えば、p.72。
 その他、全体として、容易に理解できるし、同感できるところがほとんどだ。
 戦後日本は(佐伯のいう)<進歩主義>が「公式的な価値観」となってきた(p.71)。<保守>の側が「変化」を求めて「戦後レジームからの脱却」(安倍晋三)を主張しなければならない、という<ねじれ>がある。以下は私の言葉だが、<進歩主義>(だが現状維持派)が自民党の政治家の過半を覆うほどに「体制化」していることは、昨年の田母神俊雄論文問題でも明らかになった。
 自由が大切なのではなく自由を活用して何をするかが大事、民主主義自体が大切なのではなく、国民の中の「文化や価値の重要なものが政治の場で表現される」ことが大事だ(p.72)。「文化」や「価値観」を抜きにして「自由も民主主義もうまく」機能しない(p.73)。
 日本的「精神」・日本的「価値」、これを佐伯は戦前の「京都学派」の議論を参考にして、「道義」、「道と義」とも言う(p.112-3)。さらに東洋的な「無」・「空」の思想についても触れる(p.114-5)。
 西洋的価値観に対する「日本的な価値観」とは何かを問題にし、これを追求する以外に進む途はない、という主張を佐伯はしている。そして、かかる問題設定すら、戦後の思想の領域では「丸山真男の影響力があまりに強くて」できなかった、のだという(p.118)。
 自由・民主主義(・個人主義)の行き着く果ての「ニヒリズム」、という考え方又は理解の仕方がこの本ではかなり強調されているようだ。すでに欧州ではニーチェらによって、19世紀末には<警告>されていた。現在の日本社会は、「社会の規範が崩壊し、確かな価値が見失われる」「ニヒリズム」のそれだ(p.28)との指摘もよく分かる。
 この「ニヒリズム」との闘いこそが<保守>の役割だとされる。「価値規範の喪失、放縦ばかりの自由、窮屈なまでの人権主義や平等主義、飽くことなき物質的富の追求、そして刹那的な快楽の追求」、このような「現代文明の崩壊」に「無頓着」でかつ「手を貸している」のが、「左翼進歩主義」なのだ(p.30)。
 再び日本的「精神」・「日本的な価値観」に戻ると、日本は敗戦によって「国土だけでなく、日本的価値も日本的精神も、すべて焼きつくされた感がある」。これれらが「何であるか、戦後の日本人にはわからなくなって」しまった(p.71)。
 そして、佐伯啓思は東洋的「無」との関係の箇所でのみ「天皇」に言及している(p.115)-「天皇という存在も日本文化の中心にある『無』を表している」。
 日本の伝統・歴史・文化という場合、「天皇」制度のほか、密接不可分の<神道>や<(日本化された)仏教>を無視することは絶対にできないだろう。それらは、戦前の「京都学派」(西田幾太郎ら)の思想よりも重要な筈だ。この「学派」が、天皇・神道・仏教を全く無視していたとは思わないが。
 アメリカと欧州の違いの指摘も、相当に納得がいく。「親米保守」は概念矛盾、アメリカは「左翼急進主義」者、といった指摘は、「親米保守」論者にとっては厳しいものだ。
 三 既に同旨を述べたことがあるが、佐伯啓思の叙述でいま一つ納得がいかないのは、中国・北朝鮮への言及やそれらへの警戒の文章が(アメリカ批判に比べて)全くかほとんどないことだ。
 佐伯によると、「冷戦」とは、アメリカ的解釈によると、「ソ連という全体主義国家に対して、西側が自由と民主主義を掲げた戦争」だとされる。そして、ほぼ自分の言葉として、「冷戦が終わり、自由・民主主義・市場経済の敵が消え去った」とも述べている(p.93~p.94)。
 しかし、繰り返しになるが、東アジアでは<冷戦>はまだ続いているのではないか。アメリカとの関係で自立・自存の方向へ向かうべきことも明らかだと思われる(自主憲法制定、自国「軍」の認知はその方向への重要な目標だろう)。日本的「価値」を探る議論もきわめて重要だ。だが、アメリカ的「自由・民主主義」を戦略的にでも利用して、中国(共産党)や北朝鮮と対峙する必要は、中国が軍事力を強化し、北朝鮮がミサイル(テポドン)発射の準備を進めているという状況下では、なおも必要なのではないか。
 もっとも、佐伯啓思は、(かつての?)麻生太郎らの「価値観外交」の中には「自由や民主主義」だけではなく「日本的価値観を織り交ぜる必要がある」(p.118)という書き方もしていて、「外交」上の「自由や民主主義」の標榜を全くは否定していないようだ。とすると、大して変わらないことになるのかもしれない。

0412/佐伯啓思における4種の「リベラリズム」=<市場経済>の見方。

 佐伯啓思・自由とは何か(講談社新書)からの確認的メモのつづき。
 「リベラリズム」は「自由主義」と言い換えてもよいが、前回紹介の「自由」や「現代のリベラリズム」は、佐伯が自ら述べるように、「拘束」・「抑圧」からの解放という「近代の入り口」での「自由」とはかなり性格を異にしている。かつ、あくまで「今日の代表的な立場」における「自由」観で、「アメリカ的」又は「アングロサクソン的」と限定をつけてもよい、とも言う(p.160)。
 また、佐伯によると、「拘束」・「抑圧」からの自由がおおよそ実現し、「自由」の内実が「多様な主観的価値の共存のための条件」になってしまった結果、「自由」には「それほどの切迫さも切実さも」なくなった(p.161)。
 上にも見られるように、佐伯は「現代のリベラリズム」を説明・分析しているだけで、それを自らの価値として主張しているわけではない。<価値相対主義>(「価値」に関する「主観主義」)についても、「価値」による行動は社会的「妥当性」を要求するので、「価値」は本質的に個人の「主観を超えた次元」にある(「嗜好」や「趣味」とは異なる)、と疑問視する。かかる立場からすると、例えば<援助交際>は「特定の行為に示された価値の問題」、「本質的に社会的な問題」、「社会的普遍化、妥当性要求をはらんだ問題」で、「主観の問題」ではなく、「それは個人の自由であり、自己責任だ」で済ますことはできない(p.162-163)。
 もともと予定していなかった部分の要約はこれくらいにする。確認的にメモしておきたかったのは以下だ。佐伯は、「市場経済」(「市場競争」)について四つのタイプの議論があり、それぞれに対応して、「四つのリベラリズム」がある、とする(p.187以下)。この部分はなかなか参考になる。
 第一、「市場中心主義」。共通の透明なルールのもとで人々が「自己利益を最大化」せんとするのは当然で、たとえ報酬格差が数百倍に開こうと受け容れるべきだ。
 第二、「能力主義」。人の「能力や努力」に対して報酬を付与するのは市場競争でも同じ。但し、例えば「莫大な遺産」による「不労所得」は市場の結果であっても修正されるべき。「投機的利益」への課税等も同旨。「古典的な」「プロテスタント風の倫理精神」やロックの「財産保有と労働」に基づく市場を擁護する。
 第三、「福祉主義」。市場競争により勝者・敗者が発生するが、敗者は「たまたま市場経済のなかでうまくいかなかっただけ」で、それで「彼の人格や生活のすべて」を左右すべきでない。競争が「結果としてもたらす不平等」を、敗者=弱者に対する福祉給付・所得再配分によって政府が是正すべき。敗者も「そこそこ幸福な人生を送る権利」をもつ。
 第四、「是正主義」。勝者・敗者という「不平等」は多くの場合は「ある種の人々が構造的に不利な立場」にあることから生じるので、彼らの救済には事後的な福祉給付では不適切で、「初期条件をできるだけ平等化」すべき。アファーマティブ・アクション、自立支援プログラム等によって。
 こうした分類を前提にすると、佐伯によると、第一の論者としてはミルトン・フリードマンハイエク、第二はロバート・ノージック(第一に近いかもとの注記あり)、第三は「いうまでもなく」ジョン・ロールズ、第四はロナルド・ドゥウォーキンアマルティア・センを想起できる。
 さらに佐伯はこう述べる。第一、第二は「個人主義的な側面を濃厚に持った自由主義」で、とくに第一は、しばしば「リバータリアニズム」と呼ばれる。これらは「最小国家観、夜警国家観」に立ち、国家は「特定の価値を含まない」(→中立的国家)。
 第三、第四は「どちらかといえば」、「平等性に傾いた平等主義的な自由主義」で、「狭い意味」ではこれらをとくに「リベラリズム」と呼ぶことが多い。これらは「介入主義的国家」観に立つともいえるが、介入は基本的には「個人の権利を保障するための平等化政策」で、それ以上のことを目指さない(→やはり中立的国家)。
 説明は続く。第一において、市場競争への「参加の権利」の付与が重要で、結果は特に問題視しない。第二も同じだが、「人の能力の帰結としての財産への権限」を決定的に重要視する。「能力と努力が権利を生み出す」のだ。
 第三では、福祉給付により実現される「人間として最低限の生活をなすという権利」が唱えられる。第四は弱者・構造的被差別者にも「平等な機会へアクセスする権利」が保障されるべきだとする。
 以上の論述を前提にして佐伯啓思自身による議論が続いていくが省略する。
 上にみたように、「リベラリズム」とはさしあたりは広義に、市場経済=資本主義(=広義の「自由主義」)に立つ、非・反社会主義(・共産主義)とほとんど同義に用いられているようだ(なお、佐伯は「コミュニズム」あるいは「マルクス主義」を殆ど無視している。議論の俎上に乗せる意味自体を否定しているように見える)。その上で、上記の如く「狭い意味」での、<社会民主主義>にかなり近いかもしれない「リベラリズム」概念も用いられている。
 さて、かりに上記の如き整理が適切だとして、われわれはいずれの立場・考え方を支持すべきか? こうした基底的?レベルでの思考と選択をひとまずは誰でもしておくべきではなかろうか。こうした思考と選択は、「人間」観や「人生」観にもかかわる、けっこう現実的で、その意味では<生臭い>、重要な問題だと思える。

0411/佐伯啓思における「自由」又は「現代のリベラリズム」の三本柱。

 佐伯啓思・自由とは何か(講談社現代新書)には、論理の展開が知的刺激を与えるというよりも、論理展開の途中で又は結果として、頭の整理に便利な叙述も含まれている。確認的に記しておく。
 二つ記したいが、まず、「自由」が依って立つ「基本的な柱」は彼によると次の三点だ(p.151以下)。
 第一は、「価値についての主観主義」あるいは「価値の相対主義」。これは近代「合理主義」の帰結。すなわち、論理整合性・事実との符合によって「合理的に判断」できる命題とかかる「検証」のできない命題に分ける、その上で、「実証的に検討できる客観的な事実命題」とそれができない「価値命題」を峻別する。そして、「価値」判断は人により異なる「主観的」なもので、「客観的で普遍的な」ものは存在しない(←「実証主義」)、という考え方。
 ロールズにおける「正義」は、「価値」あるいは「善」の内実いかんにではなく、いかなる「価値」・「善」を選択する「自由」は保障されるべき、ということにある(「善に対する正義の優位」、「善に対する権利の優位」)。
 第二は、「中立的国家」。つまり「価値の領域に対しては国家は介入しない」ということ。自由・民主主義等の近代的「価値」を掲げ、人々の「生命・財産の尊重」を決定的価値とする「近代国家」が「価値中立的」ではあり得ないが、「正義」(>「自由への平等な権利」)ではなく多様な「善」について国家は「中立的」とされる。さらに、種々の「政策」選択をする国家は決して「価値中立的」ではないが、「政策」決定の最終的判断者は「国民」であり、国家は特定の「政策」=「価値」=「善」を予め想定して掲げたりはしない、ということを意味するとされる。
 第三は、「自発的交換」。つまり、「個人の社会的活動は、基本的に個人と個人の間の自発的な相互作用としてなされるべき」、という考え方(秋月注-「自発的」とは、個人の「自由意思」にもとづく、と換言してよいだろう)。これを典型的に実現するのが「市場経済」だ(秋月注-ある個人と他の個人との間の「自由意思」の合致=契約にもとづく相互の権利・義務の形成・変動、と言っても大きくは離れていないだろう)。
 以上、要点のみ。佐伯は、これら三点が、やや表現を変えて、「現代のリベラリズム」の「柱」だ、とも述べ、次のようにまとめている(p.159-160)。
 「現代のリベラリズムの立場は、基本的に個人の価値の多様性を認め、それを尊重する、そのためには、『自由への平等な権利』という正義の原則がまずは確立していなければならない、そのもとで、国家は中立性を守るべきであり、また諸個人の主要な社会的行為は個人の自発的な交換としてなされるべきだというのである」。
 もう一つは次回に。

0410/佐伯啓思・自由とは何か(講談社新書)を全読了。

 佐伯啓思・自由とは何か(講談社現代新書)を全読了。
 最終章的または小括的な「おわりに」にも印象的な文章がある。一部についてのみかなり引用するのはバランスを欠くが、通覧してみる。
 ①<「自由」の意味は「抑圧や圧制」からどう「渇望し…実現」するかではなく、逆に「自由」の「現代的ありよう」が…「さまざまな問題を生み出してしまっている」。>(p.270)
 ②<「自由」を「至高の価値」としてそれを成立させている「何か」に不分明ならば、「誤ったイデオロギー」になる。「何か」を見ないと「個人の自立」・「選択の自由」・「諸個人の多様性」等は「混乱」の原因になる。>(同上)
 ③オルテガは、<我々は「多様な価値の間で選択を余儀なくされている、つまり自由へ向けて強制されている」旨論じた。カストリアディスは<「現代資本主義」の下で「自由」は「個人的な«享楽»を最大限」にするための「補助道具」になっている、と主張した。これらは「決して見当はずれではない」。(p.271-272)
 ④<「自由」(「個人の価値選択の主観性や多様性」→「選択の自由や自立的な幸福追求」)を保障するのは「市場経済」・「中立的国家」・「人間の基本的な権利の保障」という制度をもつ広義での「市場社会」だが、そこで生じているのは、「それぞれの」「享楽」(「富」・「消費物資」・「刹那の快楽」等)を「最大限手に入れようとするいわば『欲望資本主義』だ」。ここでの「それぞれの」は「個人の主体性」を前提にしている。>(p.272-273)
 ⑤<「消費物資や富に自己を預け、自己満足の基準を市場の評価に依存した」「自由」、「メディアやメディア的装置にしたがって自分を著名人にしたり、著名人に近づくことで富を得るチャンスを拡大する自由」は、いかに「個人主義」的選択に基づくと言っても「自立」しておらず、「本来の意味で個人主義的でもない」。>(p.273)
 ⑥<「個人の主体的な自立や自由な選択という概念によって『自由』を論じることができるのか」。(p.274)換言すれば、「現代の個人の自由」とは「先進国の市場経済というある特定の体制」の下でしか成立不可能なもので、「市場や金銭的評価や富と結びついた名声やメディアが生み出す有名性といった特有の現象に随伴」してしか発現できないのでないか。「個人の自立」などは「最初からあり得ず」、「個人の自立した選択」とは「市場経済に依存した見せかけの自立」にすぎないのではないか。「この種の疑問はしごくもっともだ」。>(p.275)
 ⑦<かかる議論・疑問自体が「個人の主体性、その多様性、自由な選択」等の「現代の自由の観念」によって生じている。「個人の自立」は「市場経済体制」ではあり得ないと言っても、その「市場経済体制」を拡大してきたのは「個人の主体性、多様性、自由な選択」という「自由」の観念だ。「自由な選択」がせいぜい「享楽の最大化」だとしても、そのような状況を生み出したのは「現代の『自由』の観念」で、ここに「現代」の「自由のパラドックス」がある。>(p.275-276)
 ⑧<「自由のパラドックス」は、「自由」を「個人の主体性、主観性、多様性」といった観念で特徴づけたことに「理由」がある。「現代の自由」とは「端的」には「個人の選択の自由」だが、かかる特徴づけ・定式化が「あまりに偏狭」だから、つまり「自由」に「実際上、意味を与えている条件、それを支えている条件に目を向けていない」ために「自由のパラドックス」が生じた。>(p.276-277)
 ⑨<そこで、「個人の平等な選択の自由」の背後に「もっと重要な『何か』があるのではないか」と「多層的」に「考察」する必要がある。例えば「自由」と対立的に捉えられがちな「規範」の両者は、後者が「道徳的ニュアンス」・「正義」という観念・「価値」を前提にしているかぎり、切り離すことはできない。>(p.276)
 ⑩<「もっと重要な『何か』」の第一の次元は「善」だろう。「善」とみなすか否かは「共同体」の評価だ。「ある程度共有された価値を持った共同社会がなければ、事実上『自由な選択』などというものはない」。>(p.278-279)
 「もっと重要な」ものは、「多様なレベルの共同体の規範を超えたいっそう超越的な規範への自発的な従属」だ。これをかりに「義」と呼んだ(カントにおける「定言命法」、天、道、儒教上の五倫、仏教上の六度)。(p.279)
 樋口陽一・憲法/第三版p.44(創文社、2007)にはこんな文章がある。「本書は、近代立憲主義にとって、権利保障と権力分立のさらに核心にあるのが個人の解放という究極的価値である、ということを何より重視する見地に立っている」。
 この憲法概説書の中では詳しい方の本は2007年刊。上に見てきた佐伯啓思の本は2004年刊。「個人の解放という究極的価値である、ということを何より重視する」と有力な憲法学者がなお書いている以前に、佐伯は現代の「個人の平等な選択の自由」のパラドクスとその原因、「個人の平等な選択の自由」の背後にあるはずの<もっと重要な「何か」>を論じていたのだ。
 佐伯が特段に優れているというよりも、憲法学者のあまりの<時代錯誤的な遅れ>こそが指摘されるべきだろう。こうした違いは、憲法学が法学の一種として主として<規範>を対象とする(かつ主として<規範解釈>をする)という特質をもつことだけからは説明できないだろう。憲法思想(論)もまた社会思想・政治思想をふまえ、少なくとも参照する必要があるのではないか。問題は、<個人に平等に享受されるべき「自由」>という憲法論(解釈論を含む)上の基礎的・骨格的概念にかかわっているのだから。

0406/佐伯啓思・自由とは何か-「自己責任論」から「理由なき殺人」まで(講談社)の120頁を読む。

 佐伯啓思・自由とは何か「自己責任論」から「理由なき殺人」まで(講談社現代新書、2004.11)を偶々見つけて中を見ると、第1章・ディレンマに陥る「自由」と第2章・「なぜ人を殺してはならないのか」という問い(~p.100)は既に読んだ形跡があった。一部だけを読んでまた別の本に向かってしまうという傾向がたしかにある(それだけ読みたい本が多いからでもある)。
 区切りをつけておこうと、佐伯啓思・上掲書を第4章・援助交際と現代リベラリズム、第5章・リベラリズムの語られない前提、第3章・ケンブリッジ・サークルと現代の「自由」の順で昨夜一気に読んだ(p.101~p.222)。あと、第6章のみが残っている。
 面白い。<戦後民主主義の虚妄>を佐伯は衝いたようだが、たしかに<戦後民主主義>が前提とする個人的「自由」の脆うさ・生気のなさの不可避性が理解できる気がする。現代日本について感じる「骨格」のなさや「規範意識」の欠如についても。
 引用しながらの紹介は避ける。<戦後民主主義>を<右から>の攻撃から「保守」しようという<情緒>で凝り固まっている人々は、佐伯の「自由」(・リベラリズム)論に関心はもてず、あるいはそもそも理解できないのではないかと思われる。

0394/阪本昌成・法の支配(勁草、2006)-03。

 阪本昌成・法の支配(勁草、2006)を読む、のつづき。
 第1章・第1節
 2・統治の過剰
 (1)市場に介入する国家  公法的規制・管理が「ここまで来た」日本国家は異常。健全な市民が法令違反不可避、法令の詳細不知で国家機関の指示に依存、は「実に息苦しい」。こうした現状は「統治の過剰」と表現できる。/国民負担率40%は「自由な国家」からほど遠い。/個人・家族への公的給付に「国家の正当性」が「大きく依存」しているのも異常。
 「統治の過剰」は、マルクス主義・ケインジアン政策・社会民主主義等々の副産物だ。これは「現代立憲主義」への批判でもある。
 現代立憲主義のもとでの国家の新任務は<資本主義の歪みの是正>で、景気調整・社会保障・環境保護、中でも所得移転政策・経済政策(財政政策)が中心になる。/これらは自由・平等・豊かさへの善意で考案され、提唱者はリベラリストと自称した(阪本は「修正リベラリズム」と呼んだ)。/
この新種リベラリズムの立脚点は?、新任務は政治道徳上正当化可能か?、その任務の「終わり」はどこ?
 「統治の過剰」は「人々の自由を次第しだいに浸食」している。我々は、国家が我々の自由を管理し分与する現状に鈍感になっている。/「なぜ、こうなったのか」。/ハイエクの回答は以下。
 (2)ハイエクの回答  <1870年代以降の「自由の原則の退廃」は「自由をきわめて数多くの個別的な諸目的達成の手段として国家が指定するものとして、また、通常は、国家によって与えられるものとして、解釈し直したこと」と密接に関係している。>
 「国家による自由」・「実質的自由」への転換が自由を個別化・細分化し始めた。その自由概念への影響は本書の重要課題の一つ。
 大衆民主主義下での政治は、自由を細分化し個別的に「設計主義的に」実質化せんとする勢いをさらに加速させた。
 個々人の自由と市場のもたらすトータルな秩序を正確に予測するのは不可能。なのに大衆民主主義は「近い将来の見通しを人為的に設計して、これを国家の手によって実現しようとする」。景気調整、輸入制限、生産調整、価格統制等。
 大衆民主主義に歓迎される「平等主義は、富の分配の望ましいパターンをも人為的・設計主義的に作り上げようとする」(所得再配分政策)。
 ハイエク等の古典的リベラリストは民主主義と平等主義のもたらす負の効果を「長期的視点に立って、予測し、恐れつづけてきた」。
 以上、第1章・第1節が終わり。p.10~p.13。

0387/産経2/04を見て-「ヨーロッパ近代」の背理。

 産経新聞にも、朝日新聞ならば見ることができないだろうような、<産経らしい>記事がよくある。
 産経2/04を見ていると、①「正論」欄で首都大学東京学長・西澤潤一が、南原繁・丸山真男という「人格者」の考え方が、現在の徳育の欠如・国力の低下の原因でもあったとして、「きれいごとだけをつないで、自分の哲学としているだけでは足りない」等と批判している。詳細ではないし、必ずも論旨明瞭ではないが、<わが意を得たり>というところ。
 ②「溶けゆく日本人」の「蔓延するミーイズム」の部の開始も産経らしい。「ミーイズム」(個人主義・反国家主義・反ナショナリズム)賛美の朝日新聞では出てこない企画だろう。
 ③一面の石原慎太郎「日本よ-国家への帰属感、断想」も現在の日本人の「国家への帰属感」の有無又は「質」に言及して憂慮感を示す。まじめな朝日新聞記者ならば、「白熱の国際試合」での「ニッポン、ニッポン」に対してすら眉をひそめるのではないか。無国籍新聞、朝日。
 ④曽野綾子の連載コラムは<教育は強制>等を強調している。
 結局のところ、<ヨーロッパ近代>の生み出した<自由・民主主義>等の<負>の部分が(敗戦・占領という特殊日本的要因もあって)、現代日本に集中的に顕現している、ということでもあろう。
 つい最近読んだ佐伯啓思・イデオロギー/脱イデオロギー(岩波、1995)にこんな文章があった。
 ①近代の真に重要な問題は「権力者に対する市民の戦い」ではなく、「自由が、実現されていくにつれて、むしろ生き生きとした内実を失ってゆくという逆説」にある(p.157)。
 ②「自由の達成は、人を放縦へと追いやり、価値観の拡散と相対化をもたらし、われわれは自由の中で、本当の手ごたえを失ってゆくだろう」(p.160)。
 ロシア・北米という周縁部分を含めた<ヨーロッパ近代>はロシア革命・「社会主義」の母胎ともなったのだが、「社会主義」革命にまで極端化しなくとも、もともと種々の問題を内包させている。<個人主義・自由・民主主義、万歳!>という段階にとどまっているわけには、とてもいかないのだ。
 これらの徹底(あるいは侵害の危険性)を逆に強調して<個人主義・自由・民主主義>を国家・権力に対峙させる発想を最優先に置く政党や新聞や人々は、<倒錯・時代遅れ・時代逆行>としか私には思えないのだが。

0376/佐伯啓思・イデオロギー/脱イデオロギー(岩波、1995)の序言より。

 佐伯啓思・イデオロギー/脱イデオロギー1995.11)は「21世紀問題群ブックス」5巻として岩波書店から刊行されている。
 佐伯46歳の年の本だが、岩波は、あるいは企画者・編集者は、佐伯啓思が2007年に産経「正論大賞」を受賞するような執筆者(研究者)だとその<思想傾向>を理解していたならば、佐伯を執筆者には選ばなかったように思える。
 偏見の可能性を一切否定はしないが、岩波は(そして朝日新聞も)そのような(「思想」傾向による)「パージ」くらいは平気でやっている出版社(新聞社)だと思っている。
 上の本の計200頁のうちp.60くらいまでしか読んでいないのだが、「はじめに」のp.2-p.4にこんな文章がある。やや印象的なので、メモしておく。
 「事実を評価する」ために不可欠な「理念」は「思想とか、観念、そうしたものをゆわえたりほどいたりする思索」によって作られるが、「思索をするなどという手間のかかることを軽蔑し、思想という重苦しいおまけに青臭い主観に縁取られたものを排除してきたのが、この二〇ほどのわれわれの同時代であった」。その結果、「われわれは、ただ事実の前にひざを屈し、とまどうだけ」だ。ニーチェは「人間は評価する動物だ」と述べたが、現代人は「人間をやめようとしているのかもしれない」。
 「思想はイデオロギーと地続き」で、社会主義・共産主義という「イデオロギーから解放」されたわれわれは「イデオロギーの時代は終わった」と「晴れ晴れと」言いたくなるやもしれぬが、それにしても現代を「マーケット・エコノミーとリベラル・デモクラシー」〔市場経済と自由・民主主義〕の時代というだけでは「心情に響かないし」、「この言葉で指し示される現実」の方に「問題が多すぎる」。
 「イデオロギーの終焉」でなく「イデオロギーの衰弱」の方が現代に似つかわしい。それが「思想や人間の思索の習慣そのもの」を「脆弱でつかの間のもの」にしていくとしたら、「やはり危険な事態と言わざるをえない」。
 以上。現在の日本の政治は、あるいは<生活>重視うんぬんと恥ずかし気もなく主張している各政党は、あるいは現在の日本国民の大多数は、「思索」し「思想」をもち、不健全ではない明確な<イデオロギー>をもっているだろうか、それをめぐる議論を真摯にしているだろうか。そうでないとすれば、上の佐伯の十数年前の文章は2008年にもあてはまっていて、日本は依然として「危険な事態」にあるだろう。

0374/阪本昌成・法の支配(勁草、2006)-01。

 阪本昌成・法の支配-オーストリア学派の自由論と国家論(勁草書房、2006.06)、本文計254頁、をメモしながら読んでいく。
 阪本昌成は、「ハイエキアン」を自称する、わが国には珍しい憲法学者だ(広島大学→九州大学)。この人の本の二つをこの欄を利用しつつ読んだことがある。その当時に想定した時期がかなり遅れたが、三冊めに入る。以下、数十回をかけてでも、要約を続ける。
 序章・自由の哲学(p.1~p.5)
 1・公法学における体制選択
 前世紀は資本主義と社会主義の対立の世紀で、この対立・論争は「公法学」にも影を落とした。日本の公法学者はこの体制選択問題を「常に意識し」つつも「あからさまなイデオロギー論争を巧みに避け」て、個別の解釈論や政策提言に「各自の思想傾向を忍ばせ」てきたが、「経済市場と国家の役割への見方」には奇妙な一致があった。すなわち、通常は国家の強制力を警戒する一方で、経済市場への国家介入には寛容だった。
 体制選択の一候補は社会主義で、快い響きをもっていたため、自由主義経済体制(資本主義)の優越を「公然と口にする公法学者」には「右派・保守」とのレッテルが貼られた。だが、社会主義国家が自己崩壊し体制選択問題が消失した今では、「リベラリズムの意義、自由な国家の正当な役割、市場の役割」を問い直すべきだ。その際のキーワードは、「政治哲学」上の「自由」、「法学」上の「法の支配」。
 2・自由の究極的正当性
 自由の究極的正当性につき、道徳哲学者は論者により「人間性」や「内心領域の不可侵性」を挙げ、関心を「政治体制」の中での自由に向ける論者は、人により「リベラリズム」の究極的正当性を「正義」、「効用」、「権利」の諸観念に求めた。
 上の問題の解は未だない。自由・リベラリズムの普遍的意義を問い究極的正当性を根拠づけるのは知的に傲慢な態度で、この問題をこの書で論じはしない。自由と同等以上に論争的な概念の「平等」でもって「自由」を理解するドゥウォーキンを支持はできない。
 3・強制力の最小化
 この書の論点を「国家の統治権力と自由の関係」に限定し、「自由への強制を最小化するには、社会的・政治的制度はどうあるべきか」を論じていく。この「制度」は「国家、政府、法、政体、市場、習律、伝統等」を含む。その中でも、「法の支配」という「法制度」と「自由市場」という「経済制度」に目を注ぐ。そうした際、「憲法哲学の書でもあろうとする本書」が「国家の役割・政府権限の限界」に言及するのは当然のこと。
 主要な関心事は、国家は積極的に何をすべきかではなく、何をすべきでないか、だ。在来の国家論は、何らかの価値を積極的に追求しがちだが、そこでの諸価値は茫洋としており、「輪郭のない責務」を(われわれに)負わせうる。本書は、「われわれに明確な責務だけを負わせる国家とその任務はどうあるべきか」を語る。
 本書は国家を「一定の道徳目標を実現するための集団ではなく、個々人に保護領域を与えて、個々人の道徳的目標を実現しやすくするための装置」と把握している。そして、道徳的価値の一つの「自由」を「国家統治のなかで極大化するための接近法」に言及する。この根源的・回帰的な問いを突きつけてきたのは、「政治学」での「リベラリズム」、「憲法学」での「近代立憲主義」だった。
 次章の課題は「現代国家における政府の任務」を検証すること。
 今回は以上まで。
 諸外国の理論・思想には(憲法学を超えて)幅広い知識をもちそれらに依りつつ思索しているようだが、日本の古典への言及がたぶん全くないのは最近にこの欄で書いたことを思い出すといささか鼻白むところはある。また、はたして現実の日本国家・日本社会が阪本の主張する方向に変わりうるかは疑問なしとしない。しかし、「大多数の」憲法学者と異なる思考をしていることは間違いないと見られるので、知的刺激を得るためだけにでも、関心をもって読んでみよう。

0260/自由と民主主義との関係をほんの少し考える。

 芦部信喜(高橋和之補訂)・憲法第三版(岩波、2002)p.17は、「立憲主義と民主主義」との見出しの下でこう書いている。
 「①国民が権力の支配から自由であるためには、国民自らが能動的に統治に参加する民主制度を必要とするから、自由の確保は、国民の国政への積極的参加が確立している体制においてはじめて現実のものとな」る。
 「②民主主義は、個人尊重の原理を基礎とするので、すべての国民の自由と平等が確保されてはじめて開花する、という関係にある。民主主義は、単に多数者支配の政治を意味せず、実をともなった立憲民主主義でなければならない」。
 以上には、「自由」・「民主制度」・「国民の国政への…参加」・「民主主義」・「個人尊重の原理」・「平等」等の基礎的タームが満載だ。そして、それらが全て対立しあうことなく有機的に関連し合って一つの理想形態を追求しているような書き方だ。
 阪本昌成の本の影響を受けて言えば、上の文は、諸概念の「いいとこ取り」であり、「美しいイデオロギー」であって、とりわけ「自由」・「平等」・「民主」それぞれが互いに本来内包している緊張関係を無視又は軽視してしまっているのではないか(ついでに、上にいう「立憲民主主義」とは一体どういう意味なのだろうか)。
 上の①は<権力からの自由>のためには<民主制度が必要>と言うが、<権力からの自由>のためには<民主制度のあることが望ましい>とは言えても、<必要>とまで断言できるのだろうか。
 上の②は<民主主義の開花>のためには<国民の自由と平等の確保>が前提条件であると言うが(「…されてはじめて開花する」)、国民に<自由と平等>のあることが<民主主義の「開花」のためには望ましい>と言えても、前者は後者の不可欠の条件だと断言できるのだろうか。
 <有機的な関連づけ合い>がなされているために、却って、それぞれの固有の意味が分からなくなっている、又は少なくとも曖昧になっているのではないか。
 それに次のような疑問が加わる。
 消滅した国家に、ドイツ「民主」共和国、ベトナム「民主」共和国、現存する国家(らしきもの)に朝鮮「民主主義」人民共和国というのがある。これらは国名に「民主(主義)」を書き込むほどだから、自国を「民主的」な又は「民主主義」の国家だと自認し、宣言している(いた)ことになる。
 しかるにこれらの国々において、上の②のいう「
すべての国民の自由と平等が確保されてはじめて…」という条件は充たされていた(いる)のだろうか。これらの国々の国民に「自由」がある(あった)とはとても思えない。
 とすると、これらの国々の資本主義諸国又は自由主義諸国に対抗するために本当は「民主主義」は存在しないことを知っていながら僭称していた(ウソで飾っていた)のだろうか。
 私はそうは考えていない。彼らには彼らなりの「民主主義」観があり、「民主主義」もあると考えていた、と思っている。
 唐突だが、日本共産党は、同党の運営は<民主主義的ではない>とはツユも考えてはいないと思われる。つまり、一般党員(支部所属)→党大会代議員選出→党大会・中央委員選出→中央委員会設立(議長選出)→幹部会委員選出→幹部会委員会設立(委員長等選出)→常任幹部会委員選出→常任幹部会設立という流れによって、究極的には一般党員の意思にもとづいて、中央委員会も幹部会委員会も(委員長も)常任幹部会も構成されており「民主(主義)」的に決定されていると説明又は主張しているだろう(地区・都道府県レベルの決定については省略した)。
 だが、上の過程に一般党員から始まる各級の構成員に、上級機関の担当者を選出する本当の「自由」などあるのだろうか。
 筆坂秀世・日本共産党(新潮新書、2006)p.84-によると、定数と同じ数の立候補者がいて中央委員の選出も「実態は、とても選挙などといえるものではない」。また、p.89-によると中央委員選出後の第一回中央委員会では、仮議長選出→正式議長選出→幹部会委員長・書記局長の推薦することの了承(拍手で確認)→同推薦(拍手で確認)→その他の幹部会員も同様という過程を経るらしい。
 ある大会(22回)のときの具体的イメージとしては、「大会前に…人事小委員会が設置され、大会前に…四役の人事案がすでに作成され、常任幹事会で確認されていた。/一中総では幹部会委員、第一回幹部会では常任幹部会員が選出される。このときの第一回幹部会などは、一中総の会場の地下通路に五五人の新幹部会委員が集まり、全員が立ったままで、不破氏が二〇人の常任幹部会員の名簿を読み上げ、拍手で確認して決まった」(p.90-91)。
 かかる過程のどこに「自由」はあるのだろう。だが、一般党員・一般中央委員等の意思に基づいているかぎりで「民主主義」は充たされている、とも言える。
 日本共産党の話をしたが、同じ事は、旧東独・旧ベトナムでも基本的には言えたのだろう(北朝鮮については現在は形式的にすら「民主主義」が履践されていない可能性がある)。
 言いたいのは、「民主主義」とは「自由」や「平等」の条件がなくても語りうるし、そのような意味での「民主主義」の用法も誤りではない(むしろ純化されていて解りやすい)ということだ。
 マルクス主義憲法学者の杉原泰雄・国民主権の研究(岩波、1971)は<ルソー→一七九三年憲法→パリ・コミューン→社会主義の政治体制>という歴史の潮流を語り、現に見られる「人民主権憲法への転化現象」についても語っていたのだが(p.182、6/21参照)、「人民主権憲法」とは「人民民主主義」憲法(=社会主義憲法)の意味ではないかと推察される。
 すなわち、民主主義にも、マルクス主義によれば、あるいは現実に社会主義国が使った語によれば、「ブルジョア民主主義」と「人民民主主義」とがある。旧東独等での「民主」とは日本共産党内部の「民主主義」と同様の「人民民主主義」又は「民主集中制」だったのだろう。
 こうしたマルクス主義的用語理解の採用を主張したいわけではない。ただ、現実には「自由」とは論理的関係なく「民主主義」という語は使われてきたことがあることを忘れてはならないだろう。
 「自由」と「民主」の双方を語るのは良いし、双方ともに追求するのも構わないだろう。だが、上の芦部信喜氏が説くようには、両者は決して相互依存関係にはない、と理解しておくべきだ、と考える。それぞれに固有の価値・意義が、区別して、より明瞭に語られるべきだ。
 以上、阪本昌成・リベラリズム/デモクラシー第二版(有信堂、2004)p.90のあたりに刺激を受けて書いた。阪本の主張を紹介したのでは全くない。但し、阪本は芦部信喜氏の上の②につき「若い憲法研究者がこの民主主義観にはもはや満足することはないものと、私は期待する」とコメントしている。

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