秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

自民党

1857/安倍晋三・改憲姿勢とレーニン・ロシア革命。

 安倍晋三首相・自民党総裁は「改憲」に積極的な姿勢をしばしば示しているようだ。
 しかし、彼が自民党単独の賛成で国民投票にかけることができ、本当に「改憲」できると考えているかきわめて疑わしく、<見せかけ>あるいは<そのふり>だと思われる。
 来年の参院選の結果にも左右され、そもそも自民党で文案がまとまるか否かにも不透明さが残っている。
 党の役員人事が<改憲布陣>などと報道され、論評されることもあるが、かりに人物的にそのような印象があったとしても、これまた<見せかけ>あるいは<そのふり>の可能性が高い。
 なぜそのような「ふり」をするのか。
 言うまでもない。<改憲>=<保守>、<護憲>=<左翼・革新>という根深い観念・イメージがあるからだ。
 そして、安倍晋三と同内閣・同自民党の支持者、かつ<堅い>支持者とされる日本会議等々のいわゆる<堅い保守層>からすると、「改憲」と主張しているかぎり、断固として支持しよう、支持しなければならない、と思いたくなるからだ。
 その際、現九条二項を残したままでの「自衛隊」憲法明記がどういう意味をもつのか、それによって「自衛隊」が本当に合憲なものになるのか、それに弊害はないのか、とったことを考えはしない。あるいは、理解できる者たちも、あえて口を閉ざしている。
 現九条二項の削除が本来は望ましいが、とりあえず「自衛隊」の合憲化だけでもよい、という程度のことしか多くの上記支持者たちは考えていない。
 こういう「現実的」?案を案出した者たちの責任はすこぶる重い。
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 <見せかけ>・<そのふり>で想起するのは、1917年4月・ロシア帰還前後のレーニンの主張だ。
 レーニンは、臨時政府打倒を叫び、「全ての権力をソヴィエトへ!」と主張した。
 しかし、この政治的人物は、この時点で臨時政府を打倒し、そり権力を全てソヴィエトに移すことなど不可能だと知っていたはずだ。
 もともと、臨時政府自体が<二重権力>と言われるように実質的には半分はソヴィエトによって支えられていたが、そのソヴィエトの中で、レーニン率いるボルシェヴィキ(翌年3月に正式には共産党に改称)は少数派であって、本当に「全ての権力をソヴィエトへ!」が実現されたとかりにしても、その主導権をレーニンらが掌握することはできなかった。
 レーニンの上の主張は、実現不可能を見越した上での、いわばスローガン、プロパガンダにすぎなかったのだ。何のためか? 他のソヴィエト構成諸党との<違い>を際立たせ、最も先鋭的な層の支持を獲得しておくためだ。
 さて、その後7月事件を経てケレンスキー首相による継戦努力が不首尾だったりして臨時政府・ソヴィエトに対する不信が高まり、レーニンのボルシェヴィキがソヴィエト内での一時的にせよ多数派(相対的な第一会派)を握る、という状態が生じる。
 しかし、このとき、レーニンは<「全ての権力をソヴィエトへ!」とはもう強調しない。
 この辺りは歴史研究者に分かれがあるかもしれないが、トロツキー(首都のソヴィエト執行委員会が設立した軍事委員会の委員長)は、のちのボルシェヴィキ中心政権がソヴィエト・システムの中から生まれたように(少なくとも擬制するために)努力したとされる。
 つまり、ソヴィエト全国総会-同執行委員会-新「革命政権」(1917年10月)という流れで、新政権をソヴィエトも正当化した、という「かたち」を辛うじて取るようにしたらしい。
 しかし、上もすでに「擬制」であって、レーニンは、<全ソヴィエト派>が生み出した権力、あるいは<全ソヴィエト派が権力を分有する>政権を成立させようとは全くしなかった、と推察される(しろうとの秋月だけの解釈ではない)。
 「全ての権力をソヴィエトへ!」ではなく、「全ての権力を自分たち(=レーニン・ボルシェヴィキへ)!」が本音だったわけだ。
 つまり、ソヴィエト内の各派・各党がそれぞれの勢力比に応じて内閣・閣僚を分け合うような政権を作るつもりはなかった。
 そして、じつに際どく、ソヴィエト全国大会が開催中に!新政権が発足したことにし、おそらくは事実上または結果としてソヴィエト大会に「追認」させた、または「事後報告の了解」を獲得した。あるいは、獲得した「ふり」をした。
  レーニンはもはや「全ての権力をソヴィエトへ!」というスローガンを捨てていて、それを守るつもりなどなかった。そして、既成事実の産出こそ、この人物の強い意思だった。
 たしかに「左翼エスエル(社会革命党左派)」も最初は数人だけ閣僚(=人民委員会議委員)の一部になっているが、エスエル本体の主要メンバーは入っておらず、エスエルとともにソヴィエトの有力構成派だったメンシェヴィキも加わっていない。
 この実質的一党独占政権は、半年後には正式に?一党独裁政権へと(まだ1918年夏だ!)へと変化し、形骸化していた「ソヴィエト」はさらに形骸化し、セレモニーの引き立て役になる。
 しかしながら、「ソヴィエト」による正当化という「かたち」はぎりぎり維持したかったのだろう、レーニンたちはロシア以外の諸民族・「国家」を統合した連邦国家に、「ソヴィエト」という地名でも民族でもない、本来はただの普通名詞だった言葉を冠した(強いて訳せば、<ロシア的評議会式の~>だろう)。
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 以上要するに、政治家の発言の逐一を、そのまま本気であると、その内容を本当に実現したがっており、かつ実現できると考えている、などと理解してはいけない。
 政治家は、平気でウソをつく(政治家ばかりではないが)。日本共産党もまた、目的のためならば「何とでも言う」。
 自民党を念頭におくと、政治家は、例えば選挙で当選するためには、大臣にしてもらうためには、あるいは政権を何としてでも維持するためには、平気でウソをつく。
 ウソという言葉が厳しすぎるとすれば、平気で「そのふり」をし、何らかの「見せかけ」の姿勢を示そうとする
 以上は、安倍晋三を批判するために書いたものではない。
 この人は、ずいぶんと現実的になり、政治家として「したたかに」なったものだと感心し、ある意味では敬服している。ただの<口舌の徒>にすぎないマスコミ・ジャーナリストや評論家類に比べて、人間という点ではあるいはその職責上の役割という点でははるかに上かもしれない。
 もちろん、こう書いたからといって、安倍晋三を100%支持して「盲従」しているわけではない。

1845/自民党<自衛隊憲法明記>案では自衛隊は合憲にならない。

 一 自民党の大勢または多数議員は2017年5月3日に突如打ち出された安倍晋三総裁私案に、またはその基本的趣旨に賛成し、日本国憲法9条を改正したいようだ。
 その際、現9条第1項と第2項はそのまま存置し、9条の2を新設して、そこに「自衛隊」を明記して、<自衛隊の合憲化>または<自衛隊の合憲性論争に終止符を打つ>ことを意図しているらしい。
 マス・メディアの報道によっても、しかし、まだ9条の2の正規の文案(条文案)は確定的には伝えられていないようだ。
 だが、おおよそのところ、例えば下のAまたはBのようなものらしい。①と②は項。
 A「①我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
 ② 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」
 B「①我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つための必要最小限度の実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。
 ②自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」
 このAとBの基本的な違いは、①で、自衛隊につきA「必要な自衛の措置をとる~ための実力組織」と書くか、B「~のための必要最小限度の実力組織」と書くかだ。
 しかし、どちらにせよ、第一に、そのように若干の説明または目的を記したうえで「自衛隊」なるものの「保持」を明記しようとするものに変わりはない。
 第二に、いずれも「法律の定めるところにより」として、「保持」の前提としての設立とその維持、つまり「保持」については「法律」が定めるとしている点で、変わりはない。
 二 このような案では自衛隊を合憲のものにすることは、絶対に不可能だ。
 昨年夏に諸案を批判したが、そのうち、上の案に最も近いのが、百地章の案・考え方だった。
 百地章に対する一年前の批判がそのまま、あてはまる。
 簡潔に記そう。
 ①自衛隊の正確な又は具体的な姿は上にいう「法律の定めるところ」を見なければ、憲法上はまださっぱり分からない。
  ②憲法上明確なのは、第一に、「軍その他の戦力」であってはならないこと(現9条2項)のほか、第二に、新設条文により、自衛のための「必要な実力組織」または「必要最小限度の実力組織」という性格づけに反してはならないこと。
 ③自衛隊の正確な又は具体的な姿(組織・編成・人員・活動等々)を定める「法律」は上の②の制約を受ける。とりわけ現9条2項にいう「軍その他の戦力」であってはならない、という制約を受ける。
 ④自衛隊関連法律が新設されるにせよ、自衛隊関連現行法律(および政令・省令等)が維持されるにせよ、それらが「軍その他の戦力」であってはならない、という制約の範囲内のものであるか否かは、永続的に問われ続ける。
 ⑤よって、上のような9条の2新設案で、自衛隊の合憲性の問題が解消するはずがない。
 なお、上の新設9条の2の②に明確には論及しなかったが、新設条の二項は「自衛隊の行動は、法律の定める~」と定めているのだから、上と全く同じことが妥当する。
 上にいう「法律」の現九条2項適合性が、つねに問われ続けるのだ。
 三 そうだとすると、「自衛隊」という概念と一定の説明・目的の言葉を残して、<法律の定めるところにより>という字句を削除すればよい、との考え方をすぐに思い浮かべる者もいるはずだ。
 しかし、これでも、「自衛隊」なるものを合憲視することはできず、合憲性論争は続く。
 日本会議の伊藤哲夫・小坂実等々の頭脳では理解不能なのかもしれないが、いちおう、簡潔に書いておく。
 ①憲法上の「自衛隊」は、当然のこととして現9条2項に抵触しないものである必要がある。そのようなものとしてのみ、新設条文は「自衛隊」を許容するはずである。
 ②よって、そのような憲法上の「自衛隊」の範囲内に、実際の、現実の(法令上の)自衛隊がとどまっているか否かは、永続的に問われ続ける。
  ③要するに、憲法上の「自衛隊」と、現行法制上の「自衛隊」または今後改正によってその具体的な態様は変動しうる「自衛隊」、とが同じであるはずがないのだ。
 四 一年前の夏に書いたことをいっさい変更する必要を感じていない。
 また、上の大きくは二点につき、ほとんど確信に満ちた自信をもっている。<ほとんど>とは一種の修辞で、実際には100パーセントだと言ってよい。
 少しでも憲法解釈、憲法と「法律」の関係、憲法・「法律」間解釈の作法を知っている者であれば、誰でも、こういう結論になるだろう。弁護士その他法曹資格を持つ者ならば分かるはずだ。
 しかし自民党の中でも大きな声になっていないようであるのは、<ともかく改憲>派、<できるだけ早く改憲>派に、政治的に遠慮しているからだろう。
 <改憲>という言葉・概念のトリック・魔力にひっかかっている政治運動団体があるからだろう。
 憲法に「自衛隊」という言葉さえ入れば<自衛隊>は(実際の自衛隊も)合憲になる、と考えている「アホ」丸出しの政治運動団体があるからだろう。
 大切なのは、<改憲か護憲か>ではない。<どのように改憲するか>だ。
 あるいはそもそも、現在の自民党案では<改憲>にならない。自衛隊の合憲性問題を、却って大きく意識させ、浮上させるだけだ。
 そしてまた、現在の自民党案では、「自衛隊」なるものが「軍・戦力」になることを半永久的に否定することになる。これも大きな弊害だ。

1710/1993年の憲法九条二項存置・三項追加論。

 広大な書庫の片隅の本の下に、自主憲法期成議員同盟・自主憲法制定国民会議編・日本国憲法改正草案-地球時代の日本を考える-(現代書林、1993)が隠れていたのを見つけた。
 この書p.25の憲法現九条改正案は、一・二項存置三項追加論だ。
 しかし、今年5月以降の「現在の自衛隊を憲法に明記する」というアホらしい追加論(九条の二の場合も含む)に比べると、はるかにましだと考えられる。
 新三項-「前二項の規定は国際法上許されない侵略戦争ならびに武力の威嚇または武力の行使を禁じたものであって、自衛のために必要な軍事力行使を持ち、これを行使することまで禁じたものではない。」
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 ・この条文は<侵略戦争>と<自衛のための軍事力行使>を重要な対概念としているので、第一項の趣旨や第二項冒頭の「前項の目的を達するため」との関係が再びむしかえされる可能性がある。
 ・当然に、二項を削除して「…軍その他の戦力」を保持できるようにる改正案ではない、そのかぎりで、本来あったはずの<保守派>の九条改憲ではない。
 ・しかし、「自衛のために必要な軍事力行使」の保持と行使を容認することを明記するものだ。かつまた、「自衛」目的の「軍事力」という言葉を使って、おそらくは意識的に「…軍その他の戦力」に明らかには含まれないようにしている。
 自衛のための「軍事力」行使はするが、その組織・機構は「軍」・「軍隊」ではない、というのは、苦しいかもしれないが、成り立ちうるだろう。
 ・「自衛隊」との紛らわしい言葉を憲法に使っていないことは、むしろすっきりしている。現在に法律上および現実に「自衛隊」と称する機構・隊があるので、改正憲法上にこの概念を(「軍その他の戦力」ではないものとして)用いるのは混乱させるだけだし(かつ「軍」不保持を固定化する悪効果もあり)、また、*現在の自衛隊をそのまま*憲法上に記述することは、どだい不可能なことなのだ。
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 これに比べれば、現在の「自衛隊」をそのまま?憲法に明記するとの改正案は、悲惨だ。
 日本会議も産経新聞(・阿比留瑠比)も、伊藤哲夫も、櫻井よしこも、百地章も、潮匡人も、そろってアホだ。遅くとも条文作りに入れば、この案は消滅する。
 安倍晋三もおそらく、もはやこだわってはいないのではないか。しかし先の選挙公約で謳ったこともあって、アホらしくも体裁上は残ったままだ。
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 上の自主憲法期成議員同盟には1990年代初頭の有力な改憲派議員が加わっている。
 現職国会議員は計176名とされる(p.220)。そして、安倍晋太郎、高村正彦、船田元等々の名もある(いちいち写さない)。
 不思議なのは、昨今の憲法改正論議において、伊藤哲夫も、櫻井よしこも、安倍晋三その他も、どうやらこの本を真面目には参照としているとは思えないことだ。九条三項追加論にもかかわらず。
 自民党の二次にわたる改憲案づくりではこの本は参照されたが、九条については、「防衛軍」または「国防軍」の設置を、二項を全面削除したうえで明記することにしているので、上のような<九条三項追加論>の出る幕はなかったのかもしれない。

1699/門田隆将8/6ブログの「ファクト」無視と「夢見」ぶり。

 門田隆将は「ファクト」重視の「リアリスト(現実主義者)」か。どの程度に?
 出所の特定が最近はむつかしい。援用、二欄以上にほぼ同時に掲載、などによる。
 門田隆将が8/6のどこかのブログサイトで書いている。
 第一。つぎは、「ファクト」無視だろう。
 いわく。-「森友や加計問題で、“ファクト”がないままの異常なマスコミによる安倍叩きがやっとひといき…」。
 「異常なマスコミによる安倍叩き」があったことは、私も「ファクト」だと思う。
 しかし、「“ファクト”がないままの」と断じるのは、ファクトを無視している。
 何らかの<違法>とか明らかな<裁量権逸脱>のレベルだけが、議論の際に考慮されていた「ファクト」ではないだろう。
 森友にさしあたり限る。門田隆将さん、以下は、「ファクト」ではないのか?
 ①森友の籠池某氏は、「日本会議」の会員か役員だった(現在どうかは別として)。
 ②安倍晋三首相夫人・安倍昭恵は、同首相在任中に、森友関係学校・学園の「名誉校長」だった。
 ③安倍晋三首相夫人・安倍昭恵は、同首相在任中に、森友関係学校・学園で講演をしている。(謝礼受領の有無・金額はともかく)。
 ④安倍晋三首相夫人・安倍昭恵は、籠池某氏の妻(法人役員)と、今年になって、<電子メール>のやりとりを数回した。
 ⑤籠池某氏は、<安倍晋三記念小学校>と命名することを考えていた(安倍晋三が断った、固持したからといって、この事実は消えないだろう)。
 ⑥竹田恒泰は数回、この森友関係学校・学園で講演をした(本人が語った)。
 上は、「ファクト」だろう。もっと他に、このレベルのものはあるに違いない。
 むろん、⑥は安倍晋三とは無関係。しかし、産経新聞派的「保守」派の竹田の行動は、①とともに、籠池某氏の、少なくともかつての、申請時や行政折衝の時代の<政治信条>を推認させうる。もとより<政治信条>によって法廷で裁かれてはならない(法的な「優遇」もいけないが)。
 ②、③、④は、安倍晋三ではなく、安倍昭恵のこと。安倍晋三そのものではない。しかし、そのようには切り離せないことは、門田隆将も理解できるはずだ。安倍晋三は妻・昭恵の行動をどこまで放任、容認、了解していたのか、という疑問が出てきても<やむをえない>。
 以上は、何の犯罪でもないし、補助金適正化等々の違反でもない。
 しかし、「ファクト」ではあるだろう。
 第二。門田隆将は書く。-「用意周到な計算の末に改造され、“リアリズム内閣”となった安倍政権が、対『石破茂』戦争という明確な方針を示し、かつ、憲法改正問題や、都民ファーストとの戦いを念頭に動き出すことで、永田町はこの夏、『新たなステージ』に進んだのである。」
 美しい応援、激励の言葉だ。「リアリズム内閣」は意味やや不明だが、これから明確になるのかもしれない。
 対石破茂論あるいは「『決められない都知事』小池氏は、これまで書いてきたリアリズムの“対極”にいる政治家であろう」という小池百合子観も、まあよいとしよう。産経新聞・「日本会議」派的評価だが。
 しかし、以下は、門田隆将がリアリスト(現実主義者)ではなく、ドリーマー(夢想主義者)であることを示している。「6月に、私は当ブログで『やがて日本は“二大現実政党”の時代を迎える』というタイトルで、民進党の『崩壊』と、自民党に代わる新たな現実政党の『出現』について」書いたとし、民進党や小池新党はそういう現実政党ではない旨を述べたあとで、こう書く。
 いわく-。「しかし、国民は『二大現実政党』時代を志向し、実際に政局がそういう方向に向かっているのも事実である」。
 何だ、これは。最後の「…事実である」という断定は、何を根拠にしているのか。
 国民の声、多数の声なるものを紹介するふりをして自説を主張する、というレトリックはよく見られる。しかし。
 ①「国民は『二大現実政党』時代を志向」しているかは、実証されていない。
 ②「実際に政局ががそういう方向〔=おそらく二大現実政党の方向〕に向かっていることも、実証されていない。
 「ファクト」を大切にするはずの門田隆将にしては、えらく単直な、安易な「断定」だ。
 秋月瑛二は、日本共産党とそれを支持する国民が全有権者、正確には投票者の最高でも5%以下にならないと、絶対に二大政党制にはならないと、確信的に想定している。
 二つのうちの一つの大政党が完全な<容共>政党であれば、そんな二大政党制など形成されてほしくない。
 一方でまた、10%程度、500-600万票も日本共産党が獲得していれば、その票を欲しくなる政党が絶対に出てくる。
 二大政党制を語る前に、日本共産党を国会での議席がせいぜい2-3程度の、零細政党にしてしまわないとダメだ。
 小林よしのりが最近簡単に、二大政党制が日本の「民主制」のためにもよい、民進党頑張れ、との趣旨でつぶやいておられることにも、承服しかねる。
 以上の門田隆将に対する批判的コメントは、上のブログの内容に対するものであり、この人のこれまでの全仕事に対するものでは、当然に、ない。
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 加計問題については、安倍晋三首相は、7/24に国会・委員会で、こう語ったとされる。 
 「友人が関わることですから、疑念の目が向けられるのはもっともなこと。」
 (「今までの答弁でその観点が欠けていた。足らざる点があったことは率直に認めなければならない。」)
 内閣改造の日、8/3の記者会見の冒頭で、安倍晋三首相は、こう言ったとされる。
 「先の国会では、森友学園への国有地売却の件、加計学園による獣医学部の新設、防衛省の日報問題など、様々な問題が指摘され、国民の皆様から大きな不信を招く結果となりました。/そのことについて、冒頭、まず改めて深く反省し、国民の皆様におわび申し上げたいと思います」。
 これら「発言」があったこと自体は、「ファクト」になっている。
 門田隆将によると、こんな言葉はいっさい不要だったのか? 安倍晋三は心にもないことを「口先」だけで言ったのか?
 門田隆将は、民進党や共産党(+小池・自民党内非安倍)だけを批判しておきたいのか?
 「ファクト」重視の「現実主義」とは、そういう姿勢を意味するか??
 


 

1688/策略の失敗-「日本会議」派二項存置・自衛隊明記論⑦。

 高村正彦・自民党副総裁(留任)挨拶・8/3-「先ほど役員会で総裁に『総裁の5月3日の憲法発言は憲法論議を党内外で活性化させるのに大変良かったけれども、これからは党にお任せいただいて、内閣としては経済第一でやっていただきたい』とお願いしてきたところであります」。
 おそらく間違いなく、九条二項存置・自衛隊明記論は消えるだろう。
 条文化の検討に入ったとたんに、いや検討に入らなくとも、少しばかりは想定しかけたとたんに、「その文章化はほとんど困難であるか、またはかりに作っても無意味であるために、必ず、つぶれる」。
 「自民党の案として、おそらく間違いなく、まとまることはない。/したがってまた、こんな改憲案が国民に示されることはない。」-以上、「 」内は既述。
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 党総裁が突如として、現在の自民党改憲案と異なる、九条二項存置・自衛隊明記との憲法改正案を5/3に述べたのは奇妙ではあった。
 それを、自民党の会議や集会ではなく、「日本会議」系憲法改正集会へのビデオレターーで明らかにしたのは極めて異様だった。これは、一紙・読売新聞のインタビュー答えたよりも、異様だった。
 高村正彦は、月刊正論(産経)9月号に写真つきで登場して上の案肯定を述べてしまって、恥ずかしく思っているのではないか。
 遅れて読んだが、三浦瑠璃のつぎのわずか二文は、ことの本質・深層をすでに見抜いている。三浦瑠璃ブログ・5/4。
 「仮に、総理が提起するように、9条1項2項をそのままに、自衛隊を明記したとしてもこの問題は解決しません。『戦力』ではないところの『自衛隊』とはいったい何なのかという、頓珍漢な議論が温存されてしまうでしょう。」 
 二項存置のままで<自衛隊の存在を憲法に明記>しても「問題は解決し」ないのであり、「戦力」でないまままの「自衛隊」について「頓珍漢な議論が温存」するだろう。
 これは正当な指摘だ。①<自衛隊の存在を憲法に明記>するのは実質的にほぼ不可能だし、②従前よりも奇妙で複雑でかつ「頓珍漢な議論」を憲法解釈論に持ち込むことになるだろう。
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 もう関心もなくなったし、実際的意味もなくなっただろうが、伊藤哲夫ら「日本会議」派の頭の中を覗いてみる意味はまだあるだろう。
 また、産経新聞によるとさっそく、櫻井よしこと「日本会議」代表の田久保忠衛が共同代表である「美しい日本の憲法をつくる会」の<憲法に自衛隊を明記を>と掲げたキャラバン隊がどこやらの都市を走っているらしいのだが、できもしないことを主張して動く、若い?運動員たち、「日本会議」や櫻井よしこらに<そそのかされている>人々の可哀想さに思いを馳せて、気の毒だという想いを書きつづってもよいだろう。
 可哀想なのは、月刊正論、そして月刊正論編集部、編集代表・菅原慎太郎も同じ
 「仕事」として、「日本会議」尊重・安倍晋三追随の会社と雑誌の基本方針に反するわけにはいかない。
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 「自衛隊の存在を」というとき、おそらく提案者は、無意識にでもすでに、現行法制とそれにもとづく組織・人員および活動-広義での<現実>-の理解・認識を行っている。
 「憲法上に明記を」というのは、新しい憲法規範の設定作用で、<現実>の理解・認識とは別の次元での精神的行為だ。それがあってのちに、<憲法解釈>および<現実化>が始まる。
 この二つを平板に並べる、あるいは結合して叙述する文は、その文自体に陥穽・ワナ、がある。
 「自衛隊の存在を憲法に明記」という文は、異質な精神的行為を混在させていることに気づかなければならない。
 条文化の時点で隘路にはまり、現に一部そうなっているように、「頓珍漢な議論」が続出することになるだろう。

1683/百地章私案もダメ-「日本会議」派の九条二項存置・自衛隊明記論⑤。

 百地章が、7/30に時事通信社に対して、こう語ったとされる。時事ドットコムニュース/政治による。
 百地章は、九条二項存置・自衛隊明記の安倍晋三案を「積極的に評価する」と明言したのち、こう言う。
 ①/「私案だが『9条の2』を設け、『前条の下に(=9条の下に)、わが国の平和と独立を守り国際平和活動に寄与するため、自衛隊を保持する』との文言を加えてはどうか。自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提」だ。
 ②/「自衛隊明記は9条に矛盾するという人もいるが、現在の自衛隊は9条の下で存在している。単に憲法に明記するだけでどうして矛盾するのか、論理的にあり得ない。」
 ②/は説明不足かもしれないが、結論的には、よい。
 しかし、①/の「私案」はおかしい。
 この人は憲法学者・法学者のはずだが、分かっていない。
 すなわち、「自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提だ」というが、この大前提は、いかにして憲法上あるいは憲法解釈上、担保される、あるいは保障されるのか。
 憲法学者なら、答えていただきたい。
 「(現在の)自衛隊の権限を一切変更しない(ものとする)」、という文章を条文化するのか??
 根本的に、つぎの問題がある。
 第一。「一切変更しない」、「自衛隊の権限」とはそもそも何か。現在時点での現行法令上の「権限」と同じ権限を意味するなら、それをこと細かく憲法上にも規定しないと憲法上の権限にはならない。そして、それは不可能。
 第二。このように固定してしまうと、<現状>からの多少の変更も、憲法上禁止されてしまうことになる。 こんな現状固定が許されるはずがない。「権限」にも大から小まであるので、法律で追加・修正する必要が生じうる。
 こんな「私案」が、のうのうと語られてはならない。
 こんな「私案」で、条文化できるはずはない。
 百地章にいう私案の冒頭で「自衛隊」という概念を使ったとたんに、現実にいまある「自衛隊」とは論理的には別の概念・範疇が生まれる。
 その別の概念・範疇と現実とを、「自衛隊の権限を一切変更しないのが大前提」だとして連結することはできない。百地章の<頭・観念世界>の中ではできても。
 この<連結>は、不能だ。分かって主張しているとすれば、ペテンであり、欺瞞だ。
 この百地章も、概念・現実、規範と現実、憲法規範と現行法規範の関係について、大きな錯覚に陥っている。大きな過ちを冒している。
 より詳しくは、この欄に最近に書いたことを参照していただきたい。

1678/九条三項「加憲」論-伊藤哲夫・岡田邦宏のバカさ。

 日本の「保守」と称している者たちの知的退廃の程度は、哲学・言語学・論理学そして精神医学のレベルにまで立ち入って検討されてよい。
 もちろん、日本の「共産主義者」についてもそうなのだが、一見だけは論理的に詳細に論じるふうの日本共産党・月刊前衛掲載文章と比べても、以下に言及する内容は、ひどい。
 伊藤哲夫=岡田邦宏=小坂実・これがわれわれの憲法改正提案だ-護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?(日本政策研究センター、2017.05)。
 憲法九条関連に限る。遅れて、一読した。
 安倍内閣支持率の変化により、今年5月の安倍晋三・自民党総裁案(どの党機関決定もないはずだ)がそのまま自民党の提案になるのかも怪しい。
 その九条三項加憲案(現二項存置・自衛隊明記案。または論理的には現二項存置・九条の二新設案)が、上のような下らない書物の書き手の影響を受けたものではないことを願いたい。
 簡単に、書こう。
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 岡田邦宏(1952~、京都大学工学部卒。所長)が案を示して、伊藤哲夫(1947~、新潟大学人文学部卒。代表)らが賛同している。p.106-7、p.130-1。
 岡田邦宏は日本政策研究センターという団体・組織の「所長」らしい。
 恥ずかしい「所長」が、またいる。
 憲法改正提案三つのうち一つの、九条関係の見出しは、つぎのとおりだ。
 <自衛隊明記が「九条問題」克服のカギ>。p.90。
 この部分の全体を通じて理解をはなはだ困難にするのは、「明記」、「解釈」、「認める」、あるいは「国際法」といった概念・言葉で何を意味させているのか、だ。
 冒頭に「哲学・言語学・論理学そして精神医学のレベル」とか書いたのは、この完全な不明瞭さだ。
 上のような言葉、概念(国際法はさしあたり除外してもよいが)の意味・違いを明確にさせてから、<もう一度出直せ>と言いたい。
 ここでの岡田のような文章・論理を活字にするようだからこそ、日本の保守は<やはりアホ>だと思われる。
 上にいう、「自衛隊」の「明記」とは、何を意味するのか? 以下も同じ。
 岡田p.107-「二項はそのままにして、九条に新たに第三項を設け、…『戦力』は別のものであるとして、…自衛隊の存在を明記するという改正案も一考に値する選択肢だと思う」。
 また、つぎの、伊藤哲夫の「憲法上、明確に位置づける」とは、いかなる意味か。岡田の案を否定しているのではないことは明らかなのだが。
 伊藤p.131-「まず議論の出発点として、自衛隊を憲法上、明確に位置づけることが必要だ」
 こうした、「明記」とか「明確に位置づける」ということの意味をきちんと理解しないで、それこそ<明確に>しないままで憲法を論じているつもりの人たち、「代表」とか「所長」がいるのだから、ひどいだろう。
 あれこれと、すぐに疑問が湧く。
 具体的な条文案を示さないと、そもそもはダメ(これは、<美しい日本の憲法をつくる会>運動も同じ。精神論さえ示せばよく、あとは官僚にお任せ、では絶対にダメなのだ)。
 「自衛隊の存在を明記」とは何か
 新三項に、「自衛隊は存在する」と書くのか?、「自衛隊を設置する」とだけ書くのか?
 こんな条文にはなるはずはない。「自衛隊」という概念・語を現憲法は用いていないので、さっそく、例えばつぎの、疑義が出てくる。
 ・現在の「自衛隊」に関する諸法律は、防衛省設置法等も含めて、憲法より下位の法規範なので、下位の法律上の概念・制度でもって、あるいは現在の<経験上の>「自衛隊」なるものによって、憲法上の意味内容を理解できないし、また理解してはいけない。
 また、つぎの疑問もある。
 突然に「自衛隊」なるものを持ち出すとすると、その目的・趣旨も少しは書かないとダメだろう。つまり、<…のため>が憲法上も少しは必要だろう。
 二項・新三項(らしきもの)で分かるのは、「軍・戦力」ではない、「自衛」ための「隊」というだけのことだ。
 これで、「存在を明記」することになるのか?
 ならないだろう。「自衛隊」とは何のことか?、二項の「軍・戦力」ではないという意味はどこにあるのか? この「憲法解釈」論がまた、出てくる。あるいは、現状をさらに混乱させるに間違いない。
 以上のことは、伊藤哲夫のいう、「自衛隊を憲法上、明確に位置づける」についても同じ。
 <自衛隊>という言葉を用いないとすれば、それに代わる言葉・概念を、または条文そのものを提案しなければならない。
 上に()で書いたことを繰り返す。
 我々は精神論、あとは技術的なこととして「法制官僚」にお任せ、ではダメなのだ。
 同じ趣旨のことはすでに、伊藤哲夫のウェブサイトで知った文章について書いた。
 二項でいう「戦力」に該当しないが実質的には近づけるように自衛隊を憲法上容認する方法を探りたい、とか伊藤は書いていたが、自衛隊を実質的に「戦力」として位置づけるのは不可能で、自衛隊は「戦力」ではないことを「明記」することも、じつはさほどに簡単ではないのだ。
 後者のために、<本項にいう自衛隊は、前項にいう戦力に該当しない>という但書きでも付けるつもりなのだろうか。たしかに形式的には、<明記>かもしれない。
 哲学・論理学・言語学等の必要な論者が多いようなので、また書いておこう。
 二項-「戦力」/三項-「自衛隊」または「自衛組織」・「自衛部隊」?・「自衛のための実力組織」?。
 このように区別して<明記>することはできる。
 しかし、どう書いても、上のような<但書>を付けたとしても、「戦力」という言葉を介して<憲法解釈>をしないと、「自衛隊」または「自衛組織」・「自衛部隊」・「自衛のための実力組織」の意味は明確にならないのだ。<明記>の意味がない。<憲法解釈>の必要性はずっと残る。
 これが分からない人は、少なくとも国家「政策」や憲法論に関与しない方がよいだろう。
 このような結論的案とその肯定に至る過程での論述や議論は、陳腐なものだ。
 例えば、岡田邦宏は何やら力を込めて、(九条全体や第一項ではなく)「問題が九条第二項にあることは、…明らか」と書く。p.102。
 こんなことくらいは、憲法九条関係議論を少しは知っているものならば(吉永小百合や意図的に曖昧にしてきた日本共産党・容共知識人らは別として)、常識だ。
 わざわざこう述べるのも、ああ恥ずかしい。
 2017年の憲法記念日に向けて、こう頑張って発言する馬鹿がまだいるのかと思わせるほどだ。
 上のことくらいは、この欄で、10年ほども前から、私も指摘している。
 じつは他にも、基本的に疑問とする論理、言葉遣いがある。きっと、続ける。

1618/東京都議選-産経新聞と「日本会議」派の敗北。

 自民23、都民ファ49、共産19、民進5-東京都議会選挙。
 タイトルの意味は、正確には、自民党の大敗北。
 一 産経新聞や「日本会議」が東京都議選に関して正式にどういう政治的立場を公表していたかは知らない。
 但し、実質的にみて、小池百合子に批判的だった、少なくとも自民党に対するよりは小池に批判的で、冷淡だった。
 櫻井よしこ・週刊ダイヤモンド2017年6月3日号
 「小池氏の唱えるスローガン『都民ファースト』は、実は『自分ファースト』ではないかと私は感じている。/氏の行動を見詰めれば見詰める程、氏の言動への拒否感は強くなる」。
 なお、この週刊ダイヤモンド上の文章は、櫻井よしこらしく、ほとんどは飯島勲と屋山太郎からの聴き取り又は彼らの文章内容に拠っている。
 櫻井よしこを理事長とする「研究」所に編集長自身が「評議員」として勤務?しているつぎの二つの月刊雑誌の表紙から。。
 月刊Hanada8月号。<総力大特集/小池百合子とは何者か?>
 ・櫻井よしこ=有本香「『小池劇場』は終わらない」。
 ・小川榮太郞「小池百合子と日本共産党」。等。
 月刊WiLL8月号。河添恵子=赤尾由美=池内ひろ美「都民ファーストに五輪成功の力なし」。
 そして、<一冊まるごと櫻井よしこさん>の月刊正論8月号。
 <小池劇場の三流喜劇>。屋山太郎、小川榮太郞ほか。
 こうして見ると、櫻井よしこ・「日本会議」的<保守>の立場がどうだったかは明白だ。
 二 <特定保守>三雑誌は、自民党・安倍晋三内閣支持、という基本線をずっと維持してきた。2015年戦後70年談話、同年末日韓最終決着合意についても。
 月刊正論の親元の産経新聞社説は、安倍晋三九条二項存置の改憲案への支持を明確にした。元は伊藤哲夫案だったとされる。
 改憲問題はともあれ、このような<自民党・安倍晋三内閣>への断固とした支持の姿勢は、地方議会選挙だが、東京都民の多くに共有されているわけではない、ということが示された。
 なぜかを、冷静に考えてみるべきだろう。
 地方選挙だから外交・防衛は関係はないし、直接に党中央が指揮を執ったわけでもない。
 しかし、国政がらみで語られてきたのは確かだし、都連会長の下村博文には安倍晋三の<仲間・友人>の印象も強い(二次内閣当初に長く文科大臣)。
 野党や「左翼」メディアが安倍内閣揺さぶりの方向に向いているのも明らかだ。
 とりわけ日本共産党は、<安倍内閣・自民党政治>が混乱しさえすればよい。安倍・自民党の意向どおりに進ませたくない、との強い執念で動いている。どのように政治・社会が動こうと関係がない。ともかくも混乱させ、支持を得る可能性がある案件・主題を設定して、「党勢」や「党員数」の拡大をひたすら目ざしている。
 それはそうなのだが、また小池百合子にもいろいろな問題はあるだろうが、では安倍晋三・自民党に全く問題はないのか?
 小池百合子を批判している「特定保守」派の人々は、現在の安倍晋三・自民党に、全く問題はないと考えているのか?
 かつまた、従来の東京都の自民党(東京都連)の議員団等々に、全く問題はなかったのか?
 小池百合子だけを批判してはいけないのではないか?
 「特定保守」派の人々の小池百合子批判は、根本的には、自民党ではないから、というだけに等しいようにすら思える。
 三 もともと、自民党には、昨年の都知事選挙での敗戦以降、小池百合子の与党または少なくとも是々非々の半分与党的な立場をとるという選択もあった。
 小池百合子は「保守」派であり、ずっと自民党籍を残してきた。
 しかし、都の自民党は、最初の都議会で、新知事を歓迎するどころか冷笑して揶揄する、<いやがらせ>のような行動に出た。ここに昨日の結果につながる大きなミスがあった。小池百合子は、したたかな「政治家」だ。
 小池百合子はおそらく、公明党のほかに自民党による是々非々程度の協力は期待していたのではないかと思われる。安倍晋三との「縁」も切らずにおいたままだった。
 拙劣だったのは、自民党の東京都連だろう。小池百合子を自党のために<利用>しようという戦略も狡猾さもあるいは度量も寛容さもなかった。
 詳細は知らないが、正面対決をして勝てると思っていたとすれば、傲慢・不遜、身の程知らずだっただろう。
 結局は小池百合子は別の党派を結成し、自民党を離党した(離党届けを出した)。
 小池百合子一人くらいあしらえる、と思ったところに自民党の大きなミスがあった。
 自民党の政権基盤は決して盤石なものでないことを、知るべきだろう。
 全国の内閣・政党の支持率がそのまま東京都議会にも反映されるだろうと思っていたとすれば、すでに数字が出たように、全くの間違いだった。
 そしてまた、<自民党に絶対反対しない>、<自民党を絶対批判しない>の櫻井よしこら「特定保守」や基本線では同じの産経新聞もまた、自民党の戦略ミスをそのまま引き継いだ。この人たちは自民党から「自由」ではないからだ。
 四 この欄の5/19・№1550で、昨年の都知事選挙に関連して、こう書いた。
 「好ましい<選択肢>が自民党等(の候補)以外にもう一つあれば有権者のかなりの部分が、『自民党』の名前とか機関決定に関係なく、もう一つの『選択肢』に投票する可能性がある。/自民党と安倍晋三内閣は、国政レベルでは『もう一つの選択肢』の欠如のゆえにこそ、支持率をまだ高く維持しているようであることを知らなければならないだろう。」
 有権者は民進党を選択してはいない。何と今回に、日本共産党は自民党の当選議員数に近づいたが、複数又は多数定数区での当選だろうから、第一党になる力があるわけではない(もちろん、少しずつでも<増やして>いくのが彼らの執拗な戦略だ)。
 もう一つの、有力な「選択肢」があれば、有権者は、あっという間に自民党から離れる。
 自民党への投票者は、産経新聞の読者ばかりではないし、櫻井よしこら「特定保守」派を支持しているわけでもなく、月刊正論の基本論調の熱心な支持者でも何でもない。
 自分たちが、日本の<反左翼>・<保守>的気分の中心・中核にいるなどと勘違いしてはいけない。
 安倍晋三・自民党、そして一部の特殊な<保守派>らしき者たちが、頭を冷やす機会になるとよい。


1611/伊藤哲夫見解について②-「概念」の論理。

 「それに留まらず、自衛隊を『自衛のための戦力』として認める道はないのか。問題は3項の内容にかかって」いる。
 伊藤哲夫・『明日への選択』平成29年6月号。
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 上の伊藤哲夫の文章は、つぎの後に出てくる。
 「『立派な案』ということでいえば、2項を新たな文言で書き換える案がむろん好ましい。しかし、3分の2の形成ということで考えれば、実はこの9条『加憲』方式しか道はないのではないか、というのは必然の認識でもあ」る。「2項を残したままで、どうして自衛隊の現状が正されるというのか」は「当然の議論ではあるが、ならば2項そのものを変えることが正しいとして、その実現性はどうなのか、ということを筆者としては問いたい。実現性がなければ、『ただ言っているだけに終わる』というのが首相提言の眼目でもあった」。
 したがって、従来からある九条2項削除派に対する釈明、配慮あるいは媚びのようにも読める。
 それはともかく、伊藤哲夫の上の部分について前回に厳しく批判した。→6/27付、№1605。
 これに対して、<言葉で「戦力」を使うのではなく、実質的に自衛隊を『自衛のための戦力』として認める道を探りたいだけだ>、という反論・釈明らしきものも予想できないわけではない。
 そこで、あらためて批判する。
 哲学、論理学、言語学にかかわるのかもしれない。
 結論的にいうと、「戦力」という言葉(「軍」でもよい)を使わずして、自衛隊を実質的にであれ「戦力」(「軍」でもよい。以下、「戦力」)として認める方法は存在し得ない。
 なぜなら、自衛隊は「戦力」だとの旨を明記しなければ、論理的に永遠に自衛隊が「戦力」になることはないからだ。
 <実質的に>「戦力」のごとき言葉を考えてみよう。「軍隊」は憲法九条2項に「…軍」があるからだめ。
 「実力部隊」・「実力行使隊」、あるいは「自衛兵団」、「自衛戦団」。
 あとの二つはすぐに、「…軍その他の戦力」との異同の問題が生じて紛糾するに違いない。
 かと言って、自衛隊を(自衛のための)「実力部隊」・「実力行使隊」と表現したところで、自衛隊が「戦力」それ自体には、ならない。いかにAに近い、A'、A''を使ったところで、自衛隊がAになることはない。
 あるものを「赤」と断定したければ、「赤」という語を使う他に論理的には方法はないのであり、「緋」や「朱」やその他を使っても、そのあるものは論理的に永遠に「赤」にはならない
 もともと、自衛<軍>や自衛<戦力・戦団>ではなく自衛<隊>と称してきたのは、<軍>や<戦力>という語を使えなかったからだ。実体も、それなりの制約を受けた。
 それを今さら、九条2項存置のままで<実質的に>「戦力」として認めたいと主張したところで、そもそも論理的な・言語表現上の無理がある。
 なお、「前項の規定にかかわらず、…」というのは構想できる条文案だ。
 しかし、「前項の規定にかかわらず、自衛隊を自衛のための戦力として設置する」と、「戦力」の語を用いて規定すれば、やはり現2項と新3項(または新九条の二)は正面から抵触するので、こんな案は出てこない、と考えられる。
 伊藤哲夫は、あまり虫の良い話を考えない方がよいだろう。
 伊藤自身がすぐそのあとで「何とか根本的解決により近い案になるよう、今後議員諸兄には大いに知恵を絞ってほしいと願う」と書いて、「根本的解決により近い案」と書いているのも、「根本的解決」になる「案」は不可能であることを自認しているからではないか
 九条3項加憲論者でかりにそう安倍晋三に提言したのならば、その立場を一貫させるべきで、伊藤哲夫は、九条2項削除論者のご機嫌をとるような文章を書かない方がよい。

1573/読売新聞6/4の奇妙と櫻井よしこの無知・悲惨-憲法九条。

 ○読売新聞6/4付日曜朝刊一面に、「自衛隊根拠・9条と別に/憲法改正・橋下氏が条項新設案」という見出しがある。
 第4面の橋下徹インタビュー(聞き手・十郎浩史)と関連記事も読んだが、報道の仕方が奇妙だ。
 とくに一面の見出しと、4面の隣接記事の上の「イメージ」および「『9条の2』追加」という文字は、十郎浩史だけではないし、また十郎浩史と関係はないのかもしれないが、事実・事態の本質を、まるで理解していない可能性が高い。
 ひとことでいえば、現行の自由民主党(自民党)憲法改正案もまた、「9条と別」の、「9条の2」を追加又は挿入する条項を用意している。
 読売新聞関係者(政治部)は、じつに恥ずかしいミスをしていると思われる。
 一度、自民党ウェブサイトで、同党の改憲案を見てもらいたい。
 おそらくは、要するに、この記事関係者は、「9条」と「9条の2」が全く別の条項であることを認識していない。
 また、5/3の安倍晋三自民党総裁の発言の基本趣旨も、きちんと理解していない。
 すなわち、読売新聞の見出しに即していうと、①「9条と別に/条項新設案」をすでにとっくに自民党憲法改正案は用意している。②「『9条の2』追加」することを、自民党憲法改正案はすでに用意している。
 くり返すが、読売新聞関係者(政治部)は、とっくに公表されている自民党の改憲案を見てもらいたい。
 もちろん、その改憲案と、安倍晋三談話の趣旨は、同じではない。安倍晋三の趣旨を支持する、というのが橋下徹見解の趣旨で、読売新聞の見出しつけは、厳密にいえば、完全に<誤報>だ。自民党既成案と今回の安倍案それぞれの内容と違いは、後記する。
 4面の隣接記事が「~の2」という条項を追加することの必要性について長々と改正民法の例を挙げて「教えて?」いるが、不十分だ。「国民生活に支障が出る」からということの意味を、おそらくは理解していない。
 現9条の1項・2項をそのまま残して「自衛隊」の合憲性を根拠づける条項を新設する場合(これは現自民党改憲案ではない)、考えられるのは、9条に3項を追加することと、「9条の2」などの新設の「条」を設けることだ。論理的につねに「9条の-」になるとは限らない。憲法(の総合的)解釈に委ねて、地方自治に関する条項の前に、または内閣に関する条項の最後に挿入することも不可能ではない。
 しかし、内容的関連性からして、かりに新「条」項を挿入するのが妥当だとすれば、現9条と10条の間に挿入するのがおそらく最も妥当だろう。
 なぜ新10条にして、現10条以降を一つずつずらして10→11、11→12、…、としないのか。改正民法の場合は「国民生活に支障が出る」からでよいのかもしれないが、憲法を含めて全ての法典・法律類についていうと(読売新聞記者は手元の六法で一度<地方自治法>という法律を見てみたまえ。<~条の2の2>もある(これは~条2項2号のことでは全くない))、例えばこれまで簡単に<憲法20条の問題>で政教分離の問題であると理解することができたのを、それができなくなることだ。
 また、憲法および法律について各条または各項ごとに多数または場合によっては少ない判決例が蓄積されていて電子データ化されているというのに、新10条の挿入によって20条1項が21条1項になってしまえば、電子情報蓄積者も利用者も新10条挿入の発効日前後によって数字を区別しなければならず、法務省も裁判所も訴訟関係当事者も(ひいては国民一般)も、また国会自体が、きわめて混乱するし、きわめて不便で、現実的ではないからだ。
 電子情報だとしたが、紙ベースであっても変わりはない。新条を増やすたびに1つずつずらしていたのでは、立法作業、審議作業、訴訟審理、弁護士や国民一般の情報検索・収集が大変なことになる。読売新聞に例えば憲法25条に関する訴訟が提起されたとか新判決が出たと見出しで報道されている場合、その条文=25条が<生存権>に関する内容のものではなくなっていれば、「憲法25条」と略記したことの意味はほとんどなくなる。
 4面の隣接記事の執筆者は、これを理解しているのか、疑わしい。
 さて、自民党改憲案と安倍晋三総裁発言案の違いは何か。
 法技術的な差違の問題で趣旨は同じ、というわけではない。
 決定的な差違は、現9条二項を削除するのか、しないのか、だ。
 現9条以外に「新条項を追加」するか否か、ではない。
 現自民党改憲案は、現9条二項を実質的に全面削除する、そのうえで自衛隊関連の若干の言葉に代え、そのうえで「9条の2」を追加・挿入して、「国防軍」の設置を明記する。おそらくは、現在の自衛隊を「国防軍」に発展吸収させること(もちろん自衛「戦力」の保持の合憲性が前提)を意図しているのだと思われる。
 安倍晋三の案の正確な内容(条文案)は定かではないが、安倍案では、現9条はその一項も二項も、そのまま存置される。そのうえで、「自衛隊」を明示的に合憲化する条項を置く。
 この案を貫くと、「9条の2」が追加・挿入されることになるのかもしれない。
 しかし、自民党改憲案ではその内容は、①現9条二項削除を前提としての、②「国防軍」設置である(設置以外のことにも多々触れる)のに対して、安倍案では、その内容は、①現9条二項存置を前提としての、②「自衛隊」の設置・合憲化だ。
 新条項の追加であることに、変わりはない。読売新聞は、この点を誤解しているのではないか。
 つぎに、かなり立法技術的には、現9条一項・二項を全面存置したうえでも、<9条三項>にするか、<9条の2>にするか、という問題がある。
 前者も追加・新条「項」の挿入・新設であることに変わりはない。
 安倍発言が現9条は両項ともにそのまま残すことを前提にしていることは明らかだが、<三項>追記なのか、<9条の2>追記なのかは私自身は安倍発言の正確な内容を確認していないので、定かではない。安倍の、「読売新聞で読んでもらいたい」という国会答弁にも、従っていない。
 橋下徹は、これを後者だと理解したうえで、賛成しているようだ。
 法的意味は上の二つで、変わりはない(くどいようだが、自民党改憲案と安倍晋三案の法的意味は異なる。ここで言っているのは、現9条一項・二項の存置のうえでの、<三項>追記と<9条の2>追記の間の違いだ)。
 但し、<9条の2>とする方が、<現在の9条には全く触らない>というメーセッージ性は、あるだろう。くどいが、<9条の2>と<9条>は、別の、異なる「条」だ。
 <三項>追記にしても<9条の2>追記にしても従来とは異なる憲法解釈の必要性が生じてくるのは、間違いない。いずれにせよ、憲法自体が「自衛隊」は「軍その他の戦力」(現二項)に該当しない、と(解釈するだけでなく)明記していることになるからだ。
 この明記によって、現9条二項が保有を禁止する「軍その他の戦力」に該当する等々を理由とする自衛隊違憲論、自衛隊憲法違反論は、憲法上の「自衛隊」とその実態に乖離がなければ、払拭できる=阻止できる。
 しかし、日本国家は自衛のためならば「軍その他の戦力」を有しうる、という見解が発生する余地を、憲法解釈上はなくしてしまう、又は長く否定してしまう危険性は、あるだろう。
 秋月瑛二は、安倍発言が報道された5/3の翌々日に、この欄ですでにこう書いた。
 「先日に安倍晋三・自民党総裁(首相)が、憲法九条三項の追加による自衛隊の合憲性の明確化を提唱したようだ。/
 現在の自民党改憲案では現九条二項を削除し、新たに『九条の二』」を設ける(これは『九条二項』の意味ではない)こととしているので、同じではない。
 総裁が党の案と違うことを明言するのも自民党らしいし、また現改憲案とはその程度の位置づけなのかとも思う。が、ともあれ、たった一人で思いついたわけではないだろうし、かつまた、法技術的に見て、上のような案も成立しうる。想定していなかった解釈問題が多少は、生じるだろうが。/
 法技術的な議論の検討を別とすれば、憲法九条の問題が、観測気球ではなく、かなりの本気度をもって提言されているとすると、歓迎する。
 /憲法改正のためにも、橋下徹・維新の会を大切にすべきとの、秋月のこの欄でのだいぶ前での主張・予見は、適切だったことが証されそうな気もする。」
 橋下徹がどう反応するかなど、このときに予測などしていない(ただ、9条を含む改憲論者だと知っていただけだ)。
 また、上の時点で『憲法九条三項の追加による自衛隊の合憲性の明確化』と理解しているようなのは、『憲法九条三項の追加』の部分は正確ではないかもしれない。但し、<9条の2>新設(くどいが自衛隊設置のもので、自民党改憲案のこれではない)との間の法的意味の中味は、メッセージ性は別として異ならない。
 「憲法九条の問題が、観測気球ではなく、かなりの本気度をもって提言されているとすると、歓迎する」と書いたのは、ほぼ1ヶ月のちの今日でも変わりはない。
 橋下徹が言うように(言ったとされるように)、「2項を削除して自衛隊を軍と認め、軍法会議も規定すべきとの指摘」があるのは「百も承知」だ。
 理想・理念と戦略ないし現実をどう調整し、どう優先させるのか?
 改憲派、<保守>派もまた、問われる。
 ○ どうやら、憲法九条をめぐる解釈論議をまるで知らないことを、あらためてポロリと示してしまったのが、櫻井よしこの以下の論考のようだ。
 櫻井よしこ「安倍総理は憲法の本丸に斬り込んだ」月刊Hanada7月号p.34以下。
 もともと2000年刊行の本で櫻井よしこは、自衛隊は「違憲」であることから出発すべきだ、と主張していた。その点で、<左翼>と同じだった。その根拠は、あらためて確認しないが、<自衛隊って「戦力」じゃないの?>という素朴かつ幼稚なものだった。自衛隊の制度化・合憲視のための苦労も闘いも、まるで知らないように見えた。
 上の最近のものでも、つぎのように書く。
 「注目すべきは二項である。『前項の目的のため』、つまり侵略戦争をしないためとはいえ、『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。<一文略-秋月>』と定めた二項を維持したままで、如何にして軍隊としての、戦力としての自衛隊を憲法上正当化し得るのかという疑問は誰しもが抱くだろう。/現に、民進党をはじめ野党は早速、反発した。自民党内からも異論が出た。」p.37。
 櫻井よしこは、安倍発言自体を批判しない。この人は安倍晋三を(近年は)批判しないと固く誓っているとみえる人物で、今回のタイトルも、「安倍総理は憲法の本丸に斬り込んだ」になっている。また、「なんと老獪な男か」とも書く。
 しかし、ここでも透けて見えるのは、櫻井よしこの九条に関する憲法解釈論についての無知だ。そして「無知」であることに気づかないままでいる、という<悲痛さ>も再び示している。悲痛だ。悲しくも痛々しい。ここまでくると、<無恥>とも、追記・挿入しなければならない。あるいは、これで月刊雑誌に載せられると思っていることの、<異様さ>・<異常さ>を指摘しなければならないのかもしれない。
 櫻井よしこは、「矛盾のボールを投げた理由」を小見出しの一つにしている。
 また、つぎのようにも書く。「首相の攻め方の根底にあるのは徹底した現実主義だ。/正しいことを言うのは無論大事だが、現実に即して結果を出せと説く。」
 すぐには意味が分からない読者もいるだろう。だが、櫻井よしこが安倍内閣戦後70年談話への<保守>派の対応を引き合いに出して、自分のそれへの立場を卑劣な詭弁で取り繕っているところを読むと、意味は判然とする。
 すなわち、櫻井よしこにおいて、現九条二項があるかぎりは「自衛隊」を正しく「合憲化」することはできないのだ。
 したがって、櫻井よしこにおいては、安倍晋三発言は「正しい」のではなく、「矛盾」を含んでいる。そのうえで、「徹底した現実主義」(小見出しの一つ)として擁護しようとする。
 間違っている。悲惨だ。私、秋月瑛二の方が、<正しい>。
 上の秋月瑛二のコメントですでに記したように、安倍晋三の「上のような案も成立しうる」。現九条二項を存置したうえでの安倍の議論は、法的に、憲法立法論として、成り立ちうる。
 「正しい」のではないが「現実的」といつた対比をしては、いけない。断じて、いけない。
 どこに櫻井よしこの誤り=無知があるのか。
 これまでの政府解釈はそもそも基本的には、自衛隊は九条二項にいう「戦力」には該当しない、自衛権(これは明文がなくとも国家はもつ)の行使のための実力組織・実力行使機構は、ここでの「戦力」ではない、というものだった(「最低限度の」とか「近代戦を遂行できるだけの」とかの限定もあったことや論理的には<核>保有も可能だったことに立ち入らない)。
 現在の自衛隊はそもそも二項にいう「軍その他の戦力」ではないがゆえに、合憲だとされたのだ。その上で、誤った?かつての(自衛権の中に理論上は入るが行使するのは容認されていないという)内閣法制局見解=解釈の遵守を改めて、同法制局も解釈を変えて<限定的な集団的自衛権の行使>も合憲だとし、2015年にいわゆる平和安全法制も法律化された。
 櫻井よしこは、おそらく間違いなく、自衛隊=「戦力」だと考えている。
 この櫻井の解釈を前提にすれば、やはり現自衛隊は違憲で、平和安全法制も違憲のはずのものだった。櫻井よしこは、二年前にどう主張していたのか。強く平和安全法制違憲論を唱えて反対していた、という記憶はない。
 かつまた、櫻井は、条文上の<明示(明記)>の問題と条文<解釈>の問題とを区別できていないのかもしれない。
 櫻井よしこの自衛隊=「戦力」だは、素人の<思い込み>だ。
 幼稚で素朴な過ちだ。憲法解釈は日本語・文章の文学的?解釈ではない。
 そう思い込んでもよろしいのだが、しかし、それは政府および自民党(政権中枢を支える派)が採ってきた憲法解釈ではないし、警察予備隊以降の長年の憲法解釈実務と、全く異なる
 この人は、櫻井よしこは、悲しいことに、何も知らないのだ。
 憲法九条に関する憲法概説書の少しでも読んでみたまえ。
 西修の本は、自らの憲法解釈として「前項の目的…」を使っているかもしれないが、政府解釈・内閣法制局解釈と同じでは全くない。西修や産経新聞に二年前に載った憲法九条に関する説明は、自説と政府・実務解釈との違いが明瞭でなかった。
 この人は、すなわち櫻井よしこは、基本的なところで間違っている。
 だから安倍晋三は「矛盾のボール」を投げた、「正しい」ことよりも「現実に即し」た結果を出そうとしている、などという論評が出てくる。
 櫻井よしこという人は、本当に無知で、悲惨だ。
 警察予備隊を発足させる直前からの、長年にわたる旧自民党、政府与党の、憲法解釈にかかわる苦しみも闘いも、まるで分かっていないのだ。
 もちろん、喫茶店での、少しは憲法のことを知っているらしき者たちの世間話程度ならばよい。
 しかし、こんな、基本から誤った人の文章が、なぜ堂々と月刊雑誌の冒頭を飾り、表紙でも右端に大きくタイトル・執筆者名が書かれるのか。
 月刊Hanadaおよび花田紀凱に対しても、<恥を知れ>と言いたい。
 いやその前に、<恥ずかしくないのか?>と問おう。
 読売新聞も奇妙だが、櫻井よしこと月刊Hanadaの無知の方がむしろおそろしい。
 いや、双方ともに、現在の日本の知的世界の堕落した状態、頽廃さを示しているのかもしれない。
 悲惨だ。
 本当は、櫻井よしこなどからは、早く遠ざかりたいのだが。


1494/日本の保守-歴史認識を愚弄する櫻井よしこ③02。

 ○ 前回書いたものを読み直して、気づいて苦笑した。
 田久保忠衛について、某「研究」所の副理事長に「おさまっている」ことを皮肉的に記した。
 しかし、田久保忠衛とは、今をときめく?<日本会議>の現会長なのだった。ワッハッハ。
 書き過ぎると櫻井よしこに戻れなくなりそうなので、短くする。
 田久保は櫻井よしこらとともに<美しい日本の憲法をつくる国民の会>の共同代表だ。
 しかるに、田久保が産経新聞社の新憲法案作成の委員長をしていたときの現九条に関する主張と、この会の九条に関する主張(と間違いなく考えられるもの)とは、一致していない。
 些細な問題ではない。九条にかかわる問題であり、かつ現九条一項をどうするのか、という問題についての重要な違いだ(2014冬~2015年春あたりのこの欄で指摘している)。
 この人物はどれほど首尾一貫性をもつ人なのか、それ以来とくに、疑わしく思っている。憲法に関する書物も熟読させていただいたが、深い思索や詳細な知識はない。
 どこかの「名誉教授」との肩書きだが、元「ジャーナリスト」。
 ジャーナリスト・かつ朝日新聞系となると最悪の予断を持ってしまうが、後者は違うようだ(しかし、共同通信や時事通信は?)。
 また、以下の櫻井よしこの文章の中にも出てきて、櫻井を誘導している。
 ○ 2015年末の日韓慰安婦最終決着両外務大臣文書について、櫻井よしこは何と論評していたか。すでにこの欄に記載のかぎりでは、渡部昇一×(西尾幹二+水島総+青山繁晴)、という対立があった。
 櫻井よしこは、産経新聞2016年2/16付「美しき勁き国へ」でこの問題に論及したが、つぎのような結論的評価を下している。
 「昨年暮れの日韓合意は確かに両国関係を改善し、日米韓の協力を容易にした。しかし、それは短期的外交勝利にすぎない」。消極的記述の中ではあるが、しかし、「短期的」な「外交勝利」だと論評していることに間違いはない。続けて言う。
 「『…安倍晋三首相さえも強制連行や性奴隷を認めた』と逆に解釈され、歴史問題に関する国際社会の日本批判の厳しさは変わっていない。」
 「逆に解釈され」?
 そんなことはない。あの文書は、明言はしていないが、河野談話と同じ表現で、「強制連行や性奴隷を認めた」と各国・国際世論素直に?解釈されても仕方がない文書になっている。
 櫻井は、日本語文章をきちんと読めていないし、河野談話を正確に記憶していないかにも見える。
 英訳公文の方がより明確だ。日本語文では「関与のもとに」だが、英語文では「関与した…の問題」になっている。
 つぎの論点も含めて言えるのは、櫻井よしこには、<安倍内閣、とくに安倍晋三を絶対に批判してはいけない、安倍内閣・安倍晋三を絶対に守らなければならない>という強い思い込み、あるいは確固たる?<政治戦略>がある、ということだろう
 したがって、この日韓問題についても、櫻井は決して安倍首相を批判することはない。批判の刃を向けているのは<外務省>だ(そして保守系月刊雑誌にも、安倍内閣ではなく「外務省」批判論考がしばらくして登場した)。
 安倍首相-岸田外相-外務省。岸田や安倍を、なぜ批判しないのだろうか。
 ○ こう書いて奇妙にも思うのは、結果として安倍内閣・自民党の方針には反することとなった今上天皇譲位反対・摂政制度活用論を、櫻井よしこは(渡部昇一らとともに)なぜ執拗に主張とたのか、だ。
 これ自体で一回の主題になりうる。
 憶測になるが、背景の一つは、今上陛下の「お言葉」の段階では、自民党・安倍内閣の基本方針はまだ形成されていない、と判断又は誤解していたことではないか。だからこそ渡部昇一は、安倍晋三が一言たしなめれば済む話だなどと傲慢にも語った、とも思われる。
 しかし、テレビ放送があることくらいは安倍晋三か菅義偉あたりの政権中枢は知っていた、と推察できる。それがなければ、つまり暗黙のうちにでも<了解>がなければ、NHKの放映にならないだろうと思われる。
 実際に、そののちの記者会見で陛下により、「内閣の助言にもとづいて」お言葉を発した旨が語られた。ふつうの国民ですら、それくらいには気づいている。
 ついでに言うと、この問題の各議院や各政党の調整結果についても、高村正彦・自民党副総裁は、同総裁・安倍晋三の了解を得て、事実上の最終決着にしている。ふつうの国民ですら、それに気づいている。
 特例法制定・少なくとも形式上の皇室典範改正に、安倍首相は何ら反対していない。
 櫻井よしこら一部の「日本の保守言論界は、安倍首相にさんざん利用されっぱなしできているのではないか」。保守の一部の「言論界内部においてそうした自己懐疑や自己批判がないのを非常に遺憾に思っている」(西尾幹二2016年、前回から再引用)。
 ○ つぎに、2015年8月・戦後70年安倍内閣談話を、櫻井よしこはどう論評したか。
 櫻井よしこはまず、週刊ダイヤモンド2015年8月29日号で、「国内では『朝日新聞』社説が批判したが、世論はおおむね好意的だった」と世相・世論を眺めたうえで、「…談話は極めてバランスが取れており、私は高く評価する」と断じた。
 そのあとは例のごとく、鄭大均編・日韓併合期/…(ちくま文庫)の長々とした紹介がつづいて、推奨して終わり。
 読者は、櫻井がほとんどを自分の文章として書いていると理解してはいけない。他人の文章の、一部は「」つきのそのままの引用で、あとは抜粋的要約なのだ。
 これは、櫻井よしこの週刊誌連載ものを読んでいると、イヤでも感じる。この人のナマの思考、独自の論評はどこにあるのだろうとすぐに感じる。むろん、何らかの主張やコメントはあるが、他人が考えたこと、他人の文章のうち自分に合いそうなものを見つけて(その場合に広く調査・情報収集をしているというわけでもない)、適当にあるいは要領よく「ジャーナリスト」らしく<まとめて>いるのだ(基礎には「コピー・ペイスト」的作業があるに違いない)。
 つぎに、詳細に述べたのは、週刊新潮2015年8月27日号うちの連載ものの「私はこう読んだ終戦70年『安倍談話』」だった。
 櫻井よしこはいきなりこう書いていて、驚かせる。
 ・この談話には、「安倍晋三首相の真髄」が、「大方の予想をはるかに超える深い思索に支えられた歴史観」が示されている。
 ここに、「ひたすら沈黙を守る」だけではなく「逆に称賛までして」しまう、「日本の保守派とりわけ、そのオピニオン・リーダーたる人々」(中西輝政2015、前回から再引用)、の典型がいる。
 より個別的に見ても、日本語文章の理解の仕方が無茶苦茶だ。よほどの「思い込み」または「政治的」偏向がないと、櫻井のようには解釈できない。
 ①有識者会議「21世紀構想懇談会」の「歴史観を拒絶した」。
 そんなことは全くない。完全に逆だ。この懇談会の歴史見解をふまえているからこそ、委員だった中西輝政は<怒った>のだ。「さらば、安倍晋三」とまで言ったのだ。
 ②「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」との下りは、「田久保忠衛氏が喝破した」ように、「国際間の取り決めに込められた普遍的原理をわが国も守ると一般論として語っただけ」だ。
 そんなことは全くない。
 「二度と用いてはならない」と、なぜ「二度と」が挿入されているのだろう。
 日本を含む当時の戦争当事者諸国について言っているのだろうか。
 そのあとにやや離れて、つぎのようにある。
 「先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました」
 「そう」の中には、上の「二度と用いてはならない」も含まれている。そのような「誓い」を述べたのは「我が国」なのだ。
 このように解釈するのが、ふつうの日本語文章の読み方だ。英語が得意らしい櫻井よしこは、英訳公文も見た方がよいだろう。
 ③「談話で最も重要な点」は「謝罪に終止符を打ったことだ」。
 はたしてそうだろうか。安倍の、以下にいうBの部分を評価しなくはないが、「最も重要な」とは言い過ぎで、何とか称賛したい気分が表れているように見える。
 安倍内閣談話ごときで、これからの日本国家(を代表するとする機関・者)の意思・見解が完全に固定されるわけでは全くないだろう。いろんな外国があるし、国際情勢もあり、こちらが拒んでも「謝罪」を要求する国はまだまだありそうだ。
 ④これは、櫻井よしこが無視している部分だ。
 談話-「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない」、「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない」。/「先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」。
 櫻井はこの部分を、読みたくないのか、知りたくないのか、無視している。
 安倍談話は、安倍晋三内閣が1995年村山談話(も菅直人談話も)「揺るぎないもの」として継承することを明言するものであることは、明確なのだ。
 だからこそ、村山富市は当時、基本的には異論を唱えなかった、という現実があった。
 これくらいにしよう。じつに、異様きわまりない。「異形の」大?評論家だ。
 ○ 安倍内閣談話の文章は、日本文らしく主語が必ずしも明確ではない。安倍晋三、そして安倍内閣は、そこをうまく利用して?、櫻井よしこら<保守派>をトリックに嵌めたようなものだ、と秋月は思っている。
 その一種のレトリックにまんまと嵌まったのが、櫻井よしこや渡部昇一だっただろう。あるいは、嵌まったように装ったのか。
 先に記したように櫻井よしこは、「朝日新聞社説」だけは?反対した、と書いている。
 朝日新聞が反対したから私は賛成しなければならない、という問題では全くない。そのような単純素朴な、二項対立的発想をしているとすれば、相当に重病だ。
 この点は、当時は書くまでもないと思っていて、ようやく今年2月に書いておいた、以下も参照していただきたい。コピー・貼り付けをする(2/08付、№1427「月刊正論編集部(産経)の欺瞞」)。
 「レトリック的なものに救いを求めてはいけない。/上記安倍談話は本体Aと飾りBから成るが、朝日新聞らはBの部分を批判して、Aの部分も真意か否か疑わしい、という書き方をした。/産経新聞や月刊正論は、朝日新聞とは反対に、Bの部分を擁護し、かつAの部分を堂々と批判すべきだったのだ。/上の二つの違いは、容易にわかるだろう。批判したからといって、朝日新聞と同じ主張をするわけではない。また、産経新聞がそうしたからといって、安倍内閣が倒れたとも思わない。/安倍内閣をとにかく支持・擁護しなければならないという<政治的判断>を先行させたのが、産経新聞であり、月刊正論編集部だ。渡部昇一、櫻井よしこらも同じ」。
 ○ 安倍内閣・安倍晋三をとにかく擁護しなければならない、という「思い込み」、<政治>判断はいったいどこから来ているのか。
 <政治>判断が日本語文章の意味の曲解や無視につながっているとすると、まともな評論家ではないし、ましてや「研究」所理事長という、まるで「研究」者ばかりが集まっているかのごとき「研究機関」の代表者を名乗るのは、それこそ噴飯物だ、と思う。
 ○ 天皇譲位問題もすでにそうだから、2015年安倍談話に関する論評も、いわゆる時事問題ではとっくになくなっている。だからこれらにあらためて細々と立ち入るつもりは元々ない。
 きわめて関心をもつのは、櫻井よしこの思考方法、発想方法、拠って立つ「観念」の内容、だ。
 「観念保守」と称しているのは、今回に言及した点についても、的外れではないと思っている。

1485/日本の保守-櫻井よしこの<危険性>②。

 ○ 国家基本問題研究所は公益財団法人だが、国又は公共団体の研究所ではないので、前回に「任意、私的」団体と秋月が記したことは何ら誤っていない。
 さて、この研究所なるものの役員たちは、あるいは櫻井よしこに好感を抱いてる日本の保守的な人々は、櫻井よしこの「政治感覚」はまっとうで正確な、又は鋭いものだと思っているのだろうか。そうは私は、全く感じていない。
 ○ 最近に櫻井よしこは産経新聞4/03付の「美しき勁き国へ」で、「小池百合子知事の姿が菅直人元首相とつい重なってしまう。豊洲移転の政治利用は許されない」との見出しの小論を書き、「左翼」菅直人と結びつけてまで、小池現東京都知事に対する警戒感を明らかにしている。
 また櫻井よしこは、たしか週刊新潮では「保護主義」を批判的にコメントしていたが、週刊ダイヤモンド2017年1月26日号には、D・トランプ米大統領について、希望・期待を述べるよりは、皮肉と警戒、懸念を優先した文章を載せた。
 さらに、櫻井は1月21日に「日本の進路と誇りある国づくり」という高尚な?テーマで講演して、ほとんどをトランプに関する話に終始させている(ネット上のBLOGSの情報による)。種々の見方はあるだろうが、そこで語られているのは、トランプに対する誹謗中傷だとも言える。
 小池百合子やトランプについての櫻井よしこの言及内容をここで詳しく紹介したり、議論するつもりはない。
 しかし、小池百合子に対する冷たさは、石原慎太郎を守りたい観のある一部「保守」系雑誌(面倒だから特定を省略する)や、小池ではなく別の候補者を支援した自民党中央や東京都連の側に立っているとの印象がある。このような立脚点または姿勢自体が適切なのか、「政治的」偏向はないかを疑わせると私は感じる。(なお、産経新聞も、かつての大阪の橋下徹に向けた冷たさや批判が適切だったかが問われる。)
 また、トランプについては、ではヒラリー・クリントンが新大統領になった方がよかったのか、という質問を、当然ながら投げつけたい。
 櫻井よしこが週刊ダイヤモンドで依拠している、Wallstreet Jounal のデイビッド・サッターの適切さの程度についてや、またどのようなソースによってトランプに関する上の諸文章・講演はなされているのか、について興味・関心がある。
 例えばだが、アメリカの「保守」又は「反左翼」論者として有名らしい(詳しくは知らない)アン・コールター(Ann Coulter)は、昨2016年8月に、<私はトランプを信じる>と題する書物を刊行している。
 また彼女は、邦訳書『リベラルたちの背信』(草思社、2004/原書名等省略)を書いてアメリカの「リベラル」派を批判しているが、日本語版の表紙に写真のある人物は、F・D・ルーズベルト、トルーマン、J・F・ケネディ、ジョンソン、カーターおよびビル・クリントンで、全て民主党出身の大統領だ。所持しているが読んでいない原書の表紙にはないが、批判の対象がこれらの民主党大統領でもあることを示しているだろう。
 また、読みかけたところだが、B・オバマを「左翼」と明記して、<共産主義者>を側近に任命した、と書いている本もある。
 もう一度問おう。あらためて遡って確認してはみるが、民主党・オバマの後継者の、ヒラリー・クリントンの方がよかったのか?
 もちろん、日本人と日本国家のための議論だから、アメリカ国内の民主党・共和党の対立にかかわる議論と同じに論じられないことは承知している。
 しかし、櫻井よしこは、本当に<保守>なのか、健全な<保守>なのか。トランプに対する憂慮・懸念だけ語るのは、アメリカ国民に対してもかなり失礼だろう。
 思い出したが、「アメリカのメディアによると」と簡単に櫻井が述べていた下りがあった。
 <アメリカのメディア>とは何なのか。日本と同等に、あるいはそれ以上に、明確な国論の対立がアメリカにあること、メディアにもあること、を知らなければならない。あるいは、櫻井よしこが接するような大?メディアだけが、アメリカの評論界や国民の意見を代表しているのではないことを知らなければならない。
 ○ 以上のような批判的コメントをしたくなるのも、櫻井よしこには、秋月瑛二に言わせれば、政治判断を誤った<前科>があるからだ。
 かつてのこの欄にすでに何回も書いた。詳細を繰り返しはしない。
 櫻井よしこは、2009年の日本の民主党・鳩山由紀夫内閣の成立前後に、つまり2009年8月末の総選挙前後に、民主党の危険性についてほとんど警戒感を表明せず、同政権誕生後には屋山太郎の言を借りて<安保・外交政策に懸念はないようだ>とも語り、当時の自民党総裁・谷垣禎一を「リベラル」派と称して自民党にも期待できないとしつつ、民主党政権成立の責任の多くを自民党の責任にし(この部分は少しは当たっているだろうが、言論界の櫻井よしこの責任ももちろんある)、翌年になってようやく民主党政権を「左翼」だと言い始めた。
 こんな人物の政治感覚など、信頼することができない。秋月でも、2009年8月に、鳩山由紀夫の<東アジア共同体>構想等を批判していたのだ[2009年の8/28、9/18]。
 ついでに言えば、櫻井よしこに影響を与えたとみられる、上に名前を出した屋山太郎は、<官僚内閣制からの脱皮>を主張して民主党政権成立を歓迎した人物であり、渡辺喜美が「みんなの党」を結成した際の記者会見では渡辺の隣に座っていた人物だ。
 屋山は、官僚主導内閣批判・行政改革を最優先したことによって、より重要な政治判断を誤った、と断言できる。
 さらには、櫻井よしこはかつて、道路公団<民営化>に反対して竹中平蔵〔23:50訂正-猪瀬直樹〕らと対立していたが、この問題を櫻井は、どのように総括しているのか。
 もう一つ挙げよう。
 櫻井よしこは、今すぐには根拠文献を探し出せないが、かつて<国民総背番号制>とか言われた住民基本台帳法等の制定・改正に反対運動を行っていた一人だ。のちに遅れて、マイナンバー制度と称される法改正等が導入された。
 櫻井よしこは、この問題について、どのように自らの立場を総括しているのか。
 ○ こうした過去の例から見ても、櫻井よしこの発言・文章を信頼してはいけない。この人に従っていると、トンデモない方向へと連れていかれる可能性・危険性がある。
 同様の指摘とどう思うかの質問を、国家基本問題研究所の役員「先生方」に対しても、しておこう。

1482/天皇譲位問題-小林よしのり・天皇論平成29年の一部を読む②。

 小林よしのりが論及している点にすべて関わると、10回分も必要になるだろうので、感想、コメントの要点を絞る。
 1.天皇の意思による譲位の可能性・許容性の問題と、皇位継承者の資格、つまり女性天皇、女系天皇の可能性・許容性の問題とは、全く無関係ではないとしても、分けて論じなければならない。
 小林よしのりが譲位反対論者を<男系主義者>と非難するのは、前回言及の8~9名については当たっているのかもしれないが、譲位の可否と女性・女系の可否は論理的には関係がない。
 2.小林は「天皇を苦しめてまで天皇制を維持すべきなのだろうか?」と人間的感情の欠如を疑わせるアホ4人組に比べれば自然でまっとうな疑問を示したあと、「いつ自分がリベラルに転向するかわからないほど迷う」と書いている。p.544。
 このように、<観念保守>の主張は、とくにそれがある程度まとまって述べられると、それが<保守>派一般の主張であるかのごとく理解され(池田信夫においてもそうだ)、健全なまたは理性的な人々を、リベラルないし「左翼」へと追いやる可能性・危険性をもっている。<アホ保守>は、その意味でこそ、許されない。
 <アホ4人組>を批判しておく必要があると(そのためには少しはきんと読まないといけないと)秋月が思っているのもそのためで、彼ら<観念保守>は、ふつうの日本人を、<保守>嫌いにさせるという、きわめて悪質な機能を客観的には有していると考えられる。
 小林よしのりはどうか何とか、「リベラルに転向」などをしないでいただきたい。
 3.現皇室典範自体が改正されることになる
 小林よしのりは皇室典範自体の改正を主張し、一代限りのという特例法には反対している。 
 法案自体の正確な内容を知らず(子細はまだ決定されていないだろう)、新聞等による一般的な情報にのみ頼るが、基本的論点についての政治的・政党的な調整もふまえた事実上の決着点は、以下であると見られる。
 ①いわゆる皇室典範改正論と特例法制定案の折衷。
 ②特例法が一代を対象として、かつ先例になりうるものとして制定される。
 ③典範自体の付則で②の特例法が皇室典範と「一体」であることを明示する。
 ④「付則」もまた法律(皇室典範)の一部に他ならないので、皇室典範自体も改正されることになる。
 以上のとおりで、特例法が制定されるとともに、それと併せて皇室典範も改正される。
 この決着の意味は、つぎのとおりだと考えられる。
 A.自民党・特例法制定と民進党・皇室典範改正の二つの主張の両方を生かした。
 B.憲法二条の「国会が議決する皇室典範」によりとの部分との整合性を確保して、違憲だという疑念が生じないようにした。
 小林よしのりが示唆するように、また流布されていたように、自民党は特例法で決着させるつもりだったのかもしれない。
 そして、皇室典範全面改正とその全面否定の間の<特例法>で両派を宥めたかったかにも見える。<観念保守>または前回言及の8-9名のような「保守」の全面否定論-摂政設置主張論にも配慮したという姿勢を示したかったのかもしれない。
 そのために、皇室典範全面改正を支持しない者・主張もある程度多いことを示すために、平川祐弘、櫻井よしこらのかなり多い全面否定-摂政設置論者がヒアリング対象者に(政策的に)選定された可能性がある。
 しかし、皇室典範とは独立の特例法では憲法二条の定めに違反する可能性が高い。
 立法技術にもかかわるが最終的にどうするつもりだろうと、もともと<特例法>のイメージも不明瞭だったのだが、秋月も思ってきた。
 それで最終的には、上のようになった。
 皇室典範の、戦後最初の実質的な大きな改正となるだろう。
 皇位承継方法についての大きな例外を、皇室典範自体が認めることになるからだ。
 特例法は形式的には皇室典範とは別でも、皇室典範そのものの一部となる。これは分かりやすいことではないが、「付則」もまた法律の立派な一部であり、法律の定めの一内容だからだ。
 したがって、その内容は憲法二条にいう「皇室典範」が定めていると理解することができ、憲法問題・違憲問題の発生は回避できる。 
 というわけで、小林よしのりの元来の主張は半分しか通らなかったが、半分は、ある程度は、実現された、ということになるように思われる。

1413/日本の保守-正気の青山繁晴・錯乱の渡部昇一。

 多くはないが、正気の、正視している文章を読むと、わずかながらも、安心する。
 月刊Hanada12月号(飛鳥新社)p.200以下の青山繁晴の連載もの。
 昨年末の慰安婦問題日韓合意最終決着なるものについて、p.209。
 「日韓合意はすでに成された。世界に誤解をどんどん、たった今も広めつつある」。
 p.206の以下の文章は、じつに鋭い。最終決着合意なるものについて、こういう。
 「日韓合意のような嘘を嘘と知りつつ認める……のではなくて嘘と知りつつ嘘とは知らない振りをして、嘘をついている相手に反論はしないという、人間のモラルに反する外交合意」。
 青山繁晴は自民党や安倍政権の現状にも、あからさまではないが、相当に不満をもっているようだ。そのような筆致だ。
 できるだけ長く政権(権力)を維持したい、ずっと与党のままでいたい、総選挙等々で当選したい、という心情それら自体を批判するつもりはないが、それらが自己目的、最大限に優先されるべき関心事項になってしまうと、<勝つ>ためならば何でもする、何とでも言う、という、(1917-18年のレーニン・ボルシェヴィキもそうだったが)「理念」も「理想」も忘れた、かつ日本国家や日本人の「名誉」に対して鈍感な政治家や政党になってしまうだろう。
 今年のいくつかの選挙で見られるように、自民党もまた<選挙用・議員等当選用>の政党で、国会議員レベルですらいかほどに<歴史認識>や<外交姿勢>あるいは<反共産主義意識>が一致しているのか、はなはだ疑わしい。
 二 月刊正論2016年3月号(産経)の対談中の阿比留瑠比発言(p.100)、「今回の合意」は「河野談話」よりマシだ旨は、全体の読解を誤っている。産経新聞主流派の政治的立ち位置をも推察させるものだ。
 三 すでに書いたことだが、昨年末の日韓最終合意なるものを支持することを明言し、「国家の名誉」という国益より優先されてよいものがあると述べたのが渡部昇一だった。
 同じ花田紀凱編集長による、月刊WiLL4月号(ワック)p.32以下。
 この渡部昇一の文章は、他にも奇妙なことを述べていた。
渡部昇一によると、かつての「対立軸」は<共産主義か反共産主義か>だったが、1991年のソ連解体により対立軸が「鮮明ではなくなり」、中国も「改革開放」によって「共産主義の理想」体現者でなくなり、「共産主義の夢は瓦解した」。
 このように書かれて喜ぶのは、日本共産党(そして中国共産党と共産チャイナ)だ。ソ連解体や中国の「改革開放」政策への変化により<共産主義はこわくなくなった。警戒しなくてよい> と言ってくれているようなものだからだ。
 長々とは書かない。基本的な歴史観、日本をめぐる国際状況の認識それ自体が、この人においては錯乱している。一方には<100年冷戦史観>を説いて、現在もなお十分に「共産主義」を意識していると見られる論者もいるのだが(西岡力、江崎道朗ら。なお、<100年冷戦史観>は<100年以上も継続する冷戦>史観の方が正確だろう)。
 また、渡部昇一が<共産主義か反共産主義か>に代わる対立軸だと主張しているのが、「東京裁判史観を認めるか否か」だ(p.37)。
 これはしかし、根幹的な「対立軸」にはならない、と秋月瑛二は考える。
 「東京裁判史観」問題が重要なのはたしかだ。根幹的な対立の現われだろう。しかし、「歴史認識」いかんは、最大の政治的な「対立軸」にはならない。
 日本の有権者のいかほどが「東京裁判」を意識して投票行動をしているのか。「歴史認識」は、最大の政治的争点にはならない。議員・候補者にとって「歴史」だけでは<票にならない>。
 ついでにいえば、重要ではあるが、「保守」論壇が好む憲法改正問題も天皇・皇室問題も、最大の又は根幹的な「対立軸」ではない、と考えられる。いずれまた書く。
 渡部昇一に戻ると、上記のように、渡部は「東京裁判史観を認めるか否か」が今や鮮明になってきた対立軸だとする。
 しかし、そもそも渡部昇一は、昨年の安倍戦後70年談話を「100点満点」と高く評価することによって、つまり「東京裁判史観」を基本的に継承している安倍談話を支持することによって、「東京裁判史観」への屈服をすでに表明していた者ではないか。
 上の月刊WiLL4月号の文章の最後にこうある。
 「特に保守派は日韓合意などにうろたえることはない」。「東京裁判史観の払拭」という「より大きな課題に」取り組む必要がある。「戦う相手を間違えてはならない」。
  ? ? ーほとんど意味不明だ。渡部昇一は、戦うべきとき、批判すべきときに、「戦う相手を間違えて」安倍70年談話を肯定してしまった。その同じ人物が、「東京裁判史観の払拭」という「より大きな課題に」取り組もう、などとよくぞ言えるものだ。ほとんど発狂している。
 四 天皇譲位問題でも、憲法改正問題でも、渡部昇一の錯乱は継続中だ。
 後者についていうと、月刊正論2016年4月号(産経)上の「識者58人に聞く」というまず改正すべき条項等のアンケート調査に、ただ一人、現憲法無効宣言・いったん明治憲法に戻すとのユニークな回答を寄せていたのが、渡部昇一だった(この回答集は興味深く、例えば、三浦瑠麗が「たたき台」を自民党2012年改憲案ではなく同2005年改憲案に戻すべきと主張していることも、「保守」派の憲法又は改憲通 ?の人ならば知っておくべきだろう。2005年案の原案作成機関の長だったのは桝添要一。桝添の関連する新書も秋月は読んだ)。
 探し出せなかったのでつい最近のものについてはあまり立ち入れないが、つい最近も渡部昇一は、たしか①改正案を準備しておく、②首相が現憲法の「無効宣言」をする、③改正案を明治憲法の改正手続によって成立させ、新憲法とする(②と③は同日中に行う)、というようなことを書いていた。同じようなことをこの人物は何度も書いており、この欄で何度も批判したことがある。
 また書いておこう。①誰が、どうやって「改正案」を作成・確定するのか、②今の首相に(国会でも同じだが)、現在の憲法の「無効」宣言をする権限・権能はあるのか。
 渡部昇一や倉山満など、「憲法改正」ではなく(一時的であれ)<大日本帝国憲法(明治憲法)の復活>を主張するものは、現実を正視できない、保守・「観念」論者だ。真剣であること・根性があることと<幻想>を抱くこととはまるで異なる。
 この人たちが、日本の「保守」を劣化させ、概念や論理の正確さ・緻密さを重んじないのが「保守」だという印象を与えてきている。

1389/日本の保守-田村重信(自民党)。

 筆坂秀世=田村重信(対談)・日本共産党/本当に変わるのか-国民が知らない真実を暴く(世界日報社、2016)は、筆坂秀世と自民党政務調査会審議役という田村重信の対談本で、田村重信が安保法制等に関する著書も出している、国会議員ではない有力な論者なので、日本共産党について語られていることが関心を惹く。
 しかし、自民党という政権与党の論客であるわりには、日本共産党の理解に、きわめて大きい、致命的とも思われる誤りがある。田村は、p.55-56でこう言う。
 ・ソ連批判が生じると「ソ連を美化していた」のを「今度は独立路線」だと言う。
 ・「最近は」、結局、「マルクス、エンゲルス」だという。「ソ連も北朝鮮も参考にするものがなくなつたから、原点に戻ってマルクスだと言っている」。
 田村重信は自民党きっての理論家らしく思えてもいたが、日本共産党についての理解は相当にひどい。自民党自体については別に扱いたいが、自民党議員や閣僚等の日本共産党に関する認識もまた相当に怪しいのだろうことをうかがわせる。
 第一に、「ソ連を批判されると…」というのがいつの時期を指しているのか厳密には不明だが、日本共産党は、ソ連は現存の又は生成途上の「社会主義」国家だとは見なしつつ、1960年代後半には、ソ連や同共産党との関係では(中国ついても同様)<自主独立>路線をとっていた。ソ連をかつては全体として「美化」していたかのごとく理解しているようで、正確さを欠いている。
 重要な第二は、日本共産党はソ連崩壊後決して、レーニン・スターリンを飛び越して単純に「マルクス、エンゲルス」に戻れ、と主張しているのではない。「原点に戻ってマルクスだ」と主張していると理解するのは正確でない。
 たしかに不破哲三には<マルクスは生きている>という題の新書もあり、日本共産党はかつてのようにはレーニンの議論全体を採用していないところがある(例えば、「社会主義」と「共産主義」の区別)。しかし、今なおレーニンを基本的には肯定的に評価しており、何度もこの欄で紹介しているように、<スターリンとそれ以降>の歴代指導者が「誤った」と理解・主張しているのだ。
 なぜ日本共産党はレーニンを否定できないのか。それはすでに簡単には記述したし、もっと詳しく明確にこの欄でも書いておく必要があるが、レーニンを否定すれば、レーニン期に作られた(第三)コミンテルンの支部として誕生した「日本共産党」自体の出生も否定することになるからだ。この党が、戦前の「日本共産党」とは無関係の新しい共産主義政党だと主張していないかぎりは。
 自民党の有力な論者がこの辺りを理解していないとは、まったく嘆かわしい。
 現在の日本の「保守」の、日本共産党や共産主義についての理解・認識のレベルの決定的な低さを、田村重信の発言は示しているようだ。ため息が出る。

1382/共産主義の脅威と言論人。

 一 共産主義の脅威について、言論人の多くは触れたがらない。
 むしろ多少左翼的な姿勢を-それも過度ではなく-とることが、いまの世をわたる一番安全なみちであって、これはちょうど戦争前の昭和10年ころに、多少右翼的な姿勢を示すことが安全な処世術だったのと、似ているであろう。
 そういう態度を保っているかぎり、ジャーナリズムは衛生無害とみなしてくれる。
 しかし衛生無害の処世家で世の中が充満するとき、国はほろびるのである。
 流れに抗して、だれかがあえて憎まれ役を買って出なければならない。
 二 以上の5文は引用で、賀屋興宣・このままでは必ず起る日本共産革命(浪漫、1973)の冒頭にある序言の一つ、村松剛「共産主義はメシア宗教の一つ-序にかえて」の一部だ。
 2016年から見て40年以上前の文章だが、日本における「共産主義」と「言論人」の状況はほとんど変わっていないのではないか。
 1970年初頭の日本共産党の「民主連合政府」構想とその未遂、1990年代初めのソ連崩壊等にもかかわらず、日本共産党は延命しつづけており、「日本共産革命」(民主主義革命と社会主義革命という二段階の革命)の構想を党綱領を維持したまま、有権者から600万票(2016年参院選・比例区)を獲得している。
 三 保守派と言われる、または自称する言論人・論壇人の中ですら、「反共産主義」を鮮明にしている者はごくわずかにすぎない、という惨憺たる状況が現実にはある。
 いくら中国を、あるいは中国共産党の現在を批判しても、それはなぜか、日本共産党に対する批判にはつながっていない。意識的に日本共産党を名指しすることを避けているごとくですらある。
 いくら朝日新聞を、あるいは朝日新聞の「歴史」報道を批判しても、それはなぜか、日本共産党とその「歴史認識」に対する批判にはつながっていない。朝日新聞は日本共産党の「歴史認識」を知らずして、「歴史」に関する報道・主張をしているとでも思っているのだろうか。
 朝日新聞と日本共産党との関係に関心をもつ者は少なく、多くに見られる朝日新聞批判にもかかわらず、意識的に日本共産党を名指しすることを避けているごとくですらある。
 日本共産党に対する批判に向かうべき回路から別の回路へと、それ自体は必ずしも誤っているわけではない議論・主張であっても、それらを逸らす、大がかりな仕掛けができあがっているようだ。
 秋月の見るところ、産経新聞の主流派も、多数派の「保守」論壇人も、その大がかりな仕掛けに嵌まっており、かつそのことを意識していない。
 四 当然のごとく、自由民主党という政党の圧倒的多数派も、大きな仕掛けの中に入ったままだ。
 共産主義者は、権力維持のために、または権力掌握のために、要するに目的達成のためならば、何とでも言うし、何でもする。
 上のことは、維持したい「権力」を持った政治家にも多少ともあてはまるように思われる。
 権力の維持のために、権力維持期間を長くするために、元来は有していた「歴史認識」を言葉の上では-言葉・観念だけの過去に関する問題だと思って-捨ててしまう政治家が出てきても不思議ではない。
 もちろん、そのような政治家に「おべっか」して寄り添う出版社や論壇人もいる。阿諛追従。
 惨憺たる状況だ。
 五 賀屋興宣(1989~1977)は、1937年近衛文麿内閣の大蔵大臣、1941年東条英機内閣の大蔵大臣、いわゆるA級戦犯の一人で、終身刑判決により10年間収監されたのち、1955年に事実上の釈放、1958年総選挙で当選して衆議院議員、1963-64年池田勇人内閣法務大臣、1972年「自由日本を守る会」を組織。

1370/2016年参院選-<保守リベラル>派と<リベラル容共>派の対立。

 一 2016年参院選の結果について、自民党、自公与党、さらには<改憲勢力>の勝利または前進ということが言われているようだ。
 だが、と敢えて指摘しておくが、参議院議員は6年任期で3年ごとに半数ずつ改選されるところ、3年前の選挙(改選)結果と比べるならば、自民党の獲得議席数は後退している。その他の主な政党も含めて記せば、つぎのとおり。
 自民65→55(-10)、公明11→14(+3)、民進17→32(+15)、おおさか維新5→7(+2)、共産8→6(-2)。
 民進、公明、お維新は増やし、自民、共産は減らした。これが獲得議席数を3年前と比べての、客観的数字だ。
 自公与党は-7だった。民進・共産・社民・生活4党では+13だった。野党統一無所属というのも+3ほどはあるらしいので、後者は+16くらいだろう。共産が-2というのも、ある程度は野党系無所属に流れた結果だろうから、そのままに受け取ることはできない(共産党は比例区での850万票という目標は達成しなかったが、2000年以降での比例区獲得票数は今回が最多だったことに注意しておく必要がある)。
 要するに、とりわけ9年前・2007年に比べての3年前・2013年の自民党の大勝という「財産」のおかげで、今回の減少にもかかわらず全体としては勝利している外観があるのであり、3年前に比べれば、自民党は明らかに<後退>の傾向(トレンド)にある。
 二 自民党、自公与党の「勝利」なるものは、<保守>派の勝利を意味しない。<保守>の意味にかかわるが、自民党は「保守」政党ではまったくなく、<保守リベラル>政党とでも評すべきだろう。
 したがって、当たり前だが、今回の選挙結果は、産経新聞の論調の勝利でも月刊正論(産経)の論調の勝利でもあるはずがない(論調がある、としてだが)。
 自民党に投票した有権者のいったい何%が産経新聞の読者であり、さらに月刊正論(産経)の読者であるのだろう。自民党のカッコつき「勝利」にまったく貢献しなかったとは言わないが、新聞の中でいえば、自民党のそれに寄与したのは、圧倒的に読売新聞だろう。
 「保守」言論人はいい気になってはいけない。
 中西輝政も指摘したように、東京裁判史観に対して自覚的に批判的な有権者は、おそらく10%もいない。
 圧倒的に<東京裁判史観>に影響を受けたままで(何と安倍晋三首相は村山談話=これまでの政府の立場を unshakable into the future(揺らぎないものとして将来にわたって)継承すると明言したのだから、それもやむをえないと言うべきだろう)、戦後の「個人」主義・「自由」主義に深く浸っている多数の有権者が<よりまし>または<より悪くない>政党として自民党を選択したにすぎない(それも比例区の得票数では3分の1程度であり、全有権者比では6分の1になってしまう)。
 現在の諸政党間に見られる対立は、<保守リベラル>派と<リベラル容共>派の対立だと考えられる。決して、<保守>=反・共産主義派と日本共産党を中核とする<容共>派の対立の構図にはなっていない。
 三 改憲勢力2/3以上という結果も、3年前と同じ改選結果が繰り返されたとすれば、より容易に達成されたはずのものだった。上に指摘した自民党の(3年前と比べての)「後退」によって、ギリギリ達成されるということになった。
 これで念願の憲法改正が実現されるだろうと小躍りしている<保守>派の人々もいるのかもしれない。
 憲法改正は秋月も望むところだが、何と月刊正論に馴染みの「保守」言論人の間ですら優先的改憲条項についてまるで一致がないことは、月刊正論(産経)の今年の春の号のアンケート結果でも明らかだ。
 何度か書いたように、<憲法を改正しよう>とだけ叫んでも無意味だ。
 改正条項(96条)の改正に安倍首相が言及すれば、それを支持する論考が産経新聞等に並び、安倍首相・自民党が緊急事態条項の新設を優先するらしいとの情報が伝えられるや(百地章もそうだが)緊急事態条項の必要性を説く論考が産経新聞等に出てくる、という「自由な」発想の欠如・不十分さを<保守>派は克服しなければならない。
 また、自民党は改憲を立党の精神とするといっても、現在の草案がいかほどに自民党員・自民党国会議員によってしっかりと支持されているかは疑わしい。改憲が現実の政治日程になっていなかったからこそ、党内の委員会が作成した案が党のそれとして了承されたにすぎず、現実に(どの条項でも、九条二項でもよいが)具体的な改憲発議の議論になってくれば、<時期尚早>とか<無理するな>とかの手続・方法を理由とする反対論が、自民党内ですら必ず出てくるように推察される。
 そうした自民党であっても、現在は自民党国会議員だけでは改憲の発議はできないのだ。
 具体的改憲内容・手続・手法をめぐって、自民党は「保守」政党と<保守リベラル>政党に割れる可能性がある。
 民進党も、改憲に積極的か消極的かで割れる可能性がある。
 秋月は、共産・社民・生活および民主「左派」を微々たる勢力(合わせて5%以下の得票率)に追い込み、実質的な「保守」政党と<反共・リベラル>政党の二大政党制になるのが長期的には望ましいと考えたりする。産経新聞の社説が述べていたような、<健全な二大政党制になるような民進党の変化を>という構想とは、まったく異なる。
 自民党は、「保守」から<反共・リベラル>まで広すぎる。
 ともあれ、憲法改正の具体的内容・方向・手続等をめぐっての、建設的・生産的な国会議員の離合集散は望ましいと思われる。もっとも国会議員に限らず、とくに自民党所属の各級議員について感じるのだが、理念や政策ではなく<自己の議員職を維持するためにはどっちに付くのが有利か>を判断基準として行動する議員が多いと見られるので、上のような二大政党制が日本に生まれるのは(前提としての<容共>諸政党の激減もそうだが)掴み得ない「夢」かもしれない。

1323/日本共産党こそ主敵-10人に1人以上が投票する「左翼」の総本山。

 日本共産党と同党員こそが主敵だというのは、むろん、中国・同共産党や「左翼」的アメリカ(あるいはアメリカの「左翼」)が味方であるという意味ではない。これらは十分に「敵」だ。だがしかし、日本国内にいる同類の組織や人間たちを批判しないでおいて、反中国や反米国だけをいくら説いてもほとんど空しいように思える。
 政権に加担したことがない日本共産党くらいを批判し、攻撃し、そして弱体化させることができないで、どうして中国・同共産党や「左翼」的アメリカ(あるいはアメリカの「左翼」)に勝てるのだろうか。
 中国や中国共産党を批判するまたは批判的に分析する(日本人による)書物・論考は少ないとは言えないだろうが、なぜそうした書物・論考はほとんど、日本共産党にも批判の眼を向けていないのだろう。
 無視してよいくらい、日本の共産党は微少な政党なのだろうか。
 2014年12月の総選挙(衆議院議員)における得票数・率を、日本共産党と自由民主党のみについて、小選挙区・比例区の順に比べる。数は1万以下を、率は1%以下を四捨五入。
 小選挙区  日本共産党  704万 13%
         自由民主党 2546万 48%
 比例区  日本共産党  606万 11%
         自由民主党 1766万 33%
 保守派の人々、論壇人あるいは「保守」系のつもりの出版社・新聞社は、 日本共産党が自民党と比較して比例区ではほぼちょうど1/3の、小選挙区では27%の得票を得ていることを意識しているだろうか。
 日本共産党は選挙で自民党のせいぜい10%・一割程度しか得票していない、と思っているとすれば大間違いだ。
 また、投票有権者の10人に1人以上は日本共産党の候補者の名をまたは日本共産党という党名を書いている、という現実を無視できないことは、当たり前だろう。
 日本共産党がこの程度は力を持っているからこそ、朝日新聞・岩波書店内やABC・TBS内の「左翼」は(党員がいることも間違いない)、あるいは非共産党系の論壇人・評論家・学者研究者類は、「安心して」、日本共産党と全く同じ又は同工異曲の 「左翼」的言辞を吐けるのだ。
 イタリアにはもはや共産党は存在せず、かつて社会党と共闘してミッテラン大統領を生み出したフランス共産党も今日ではわずか数%の得票率しか得ていない。
 その他のサミット構成国でいうと、アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツにはもともと(大戦後は)、少なくとも合法的には共産主義・社会主義を目指すことを目標として明記する政党(共産党)は存在しない。
 八百万の神の国のためなのだろうか、日本人らしい鷹揚さ・寛容さのためもあるのだろうか。社会全体が、そしてまたいわゆる「保守」あるいは<自由主義>の陣営もまた、自民党ももちろん含めて、少しは異様だ、と感じなければならないと思う。

1308/中西輝政の憲法<改正>論。

 中西輝政・中国外交の大失敗 (PHP新書、2014.12) の最終の第八章のタイトルは「憲法改正が日中に真の安定をもたらす」であり、その最終節の見出しは「九条改正にはもはや一刻の猶予もならない」だ。そして、「九条改正という大事の前では、集団的自衛権の容認など、取るに足らない小事」で憲法九条を改正すれば「集団的自衛権の是非などそもそも問題にはなりえない」等ののち、「日本人はいまこそ一つの覚悟を固めて」、「日本国憲法の改正、とりわけ第九条の改正」にむけて「立ち上がらなければならない」等と述べて締めくくられている。
 このように中西輝政は憲法「改正」論者であり、<改正というべきではない、廃棄だ>とか<明治憲法に立ち戻ってその改正を>とか主張している<保守原理主義>者あるいは<保守観念主義(観念的保守主義)>者ではない。
 ではどのような憲法改正、とくに九条改正を、中西は構想または展望しているのだろうか。中西輝政編・憲法改正(中央公論新社、2000)の中の中西輝政「『自己決定』の回復」の中に、ある程度具体的な内容が示されている。
 すなわち、「九条の二項を削除し代わりに、自衛のための軍隊の保有と交戦権の明示、シビリアン・コントロールの原則と国際秩序への積極的関与に、それぞれ一項を立てる、というのが私の提案である。そして慎ましい『私の夢』である」(p.98)。
 そして、このような「九条二項の逐条改正を『最小限目標』とすべきである」ともされている(p.96)。
 この中西の案はいわば九条1項存置型で、同2項削除後の追加条項も含めて、基本的には、自民党改正案(第二次)や読売新聞社案とまったくか又はほとんど同じもののようだ。
 注目されてよいのはまた、「一括改憲」か「逐条改憲」かという問題にも言及があることで、「戦略」的な「現実の改憲」の容易性(入りやすさ)が意識されている。
 中西によれば、私学助成、環境権、プライバシー権など(の追加による逐条改憲)は「入りやすく」とも「『自己決定』の回復」とは到底いえず、一方、一括改憲は「改憲陣営の分裂を生じさせる」可能性があり、「何よりも時間がかかる」(p.96)。
 昨年末に田久保忠衛の論考(月刊正論(産経)所収)を読んで、ただ憲法改正を叫ぶだけではダメで、どの条項から、どういう具体的内容へと改正するのかを論じる必要がある、<保守派の怠惰>だと書いたのだった。しかし、中西輝政はさすがによく考えていると言うべきで、上のような議論を知ると、中西輝政を含めた<保守派>全体にあてはまる指摘ではなかったようだ(この中西編の著も読んだ形跡があるのだが、少なくともこの欄で取り上げたことはなく、-よくあることだが-中西論考の内容も忘れていた)。
 なお、上の2000年の中西論考は、中西輝政・いま本当の危機が始まった(集英社、2001)p.214以下、およびその文庫版(文春文庫、2004)p.196以下にも収載されている。
 とくに中西輝政と西尾幹二の諸文献、諸論文を、読む又はあらためて読み直すことをするように努めている。この稿はその過程でしたためることになった。

1305/長谷部恭男は九条改正反対論者、「人選ミス」では済まない。

 「人選ミス」では済まないだろう。
 6/04の衆院憲法審査会で、与党等(自民党・公明党・次世代の党)の推薦で参考人となった長谷部恭男は、安保法制整備法案について、「憲法違反」だと言い切った。
 産経新聞社のネット情報によると長谷部を選んだのはまずは衆院法制局のようだが、もちろん自民党等の委員、船田元や北側一雄(公明党)らが了解しないと参考人になれるはずがない。
 長谷部恭男はひっょとして、依頼を受けて驚くとともにほくそ笑んだのではなかろうか。
 長谷部は特定秘密保護法案には反対を明言しなかったようだが、憲法九条の改正については、<志は低い>とはいえ、明確な<護憲>つまり改憲反対論者だ。このことは、この欄でも紹介してきた。
 また、2005年の<NHKに対する安倍晋三ら政治家による圧力>という朝日新聞の記事が問題視されたあとの第三者的検証委員会のメンバーとして朝日新聞には<優しい>報告書作成に関与し、今年2015年4月にはNHK「クローズアップ現代」の<やらせ>問題でも調査委員会の一員となってNHKには<優しい>報告書をまとめた。もともとは、民主党が推薦したらしい小林節の方が<より保守的>であり、長谷部は小林節よりも<左>の人物なのだ(東京大学→早稲田大法という履歴でもすでにある程度は分かってしまう)。
 このような人物が、今次の安保法案は合憲ですと発言してくれると思っていたのだろうか。信じ難い。
 長谷部恭男は昨2014年夏の、日本共産党系「左翼」憲法学者たちの集団的自衛権行使容認閣議決定に対する反対声明に参加してはいない。純粋な日本共産党的な(教条的な?)「左翼」ではない。だが、そのような「左翼」学者もまた多いのであって、この声明に加わっていないことが集団的自衛権行使容認解釈は合憲と理解していることの保障には全くならないことは自明のことだろう。木村草太(首都大学)もまた、非共産党系「左翼」憲法学者のようだ。
 船田元は「ちょっと予想を超えた」と言ったらしいが、マヌケにもほどがある。憲法学者の中にまともな人物が少ないのは残念なことだが、それでも、自民党内で憲法改正を扱う中心的な人物の一人であるならば、憲法学界の状況、どういう学者・大学関係者が憲法改正、とくに九条2項改正に明確に賛成しているのかぐらい、きちんと把握しておくべきだろう。
 維新の党が安保法制についてどういう立場なのかは知らないし、同党の人選結果についての反応も知らない。だが、同党が推薦したらしい笹田栄司(現早稲田大)についても、長谷部恭男についてとほぼ同様なことが言えそうだ。
 どうやら、国会議員の方が、現実の憲法学界の動向・雰囲気を知らないという<浮き世離れ>した世界に生きているようだ。それはひょっとすれば、<保守>派・<改憲>派の人々にもあてはまるのではないか。

1304/西修・…よくわかる!憲法9条を読む-4。

 西修・いちばんよくわかる!憲法9条(海竜社、2015)を読んでの感想は、最後に、改憲派あるいは憲法九条改正を主張する論者においても、その改正の具体的内容についてはおそらくは基本的な点についてすら一致が必ずしもない、ということだ。これは西修の責任ではない。但し、読売新聞社案、産経新聞社案の作成に関与し、「美しい日本の憲法をつくる会」の代表発起人の一人であることから、もう少し何とかならなかったのか、という気もする。
 最大の論点は、現九条1項を基本的にそのまま残し、2項のみを削除・改正ないし追加するかだ。西修自身は、全体をかなり分解した改正案を考えているが(上掲p.115-)、現1項の趣旨をより明確化した文章に変えたうえで現2項を全面的に改めるもので、基本的趣旨・構造自体は現1項存置型に近いもののように解される。西修案は、同・憲法改正の論点(文春新書、2013)p.186でも示されている。
 明確に1項存置型の読売新聞社案と産経新聞社案とは基本的に同じだという西修の説明もあるが、産経新聞社案「起草委員会委員長」だった田久保忠衛は「第一項も含めて全面的に改める」こととしたと明記していることはすでに何度か記した(田久保忠衛・憲法改正/最後のチャンスを逃すな!p.172-5(並木書房、2014))。また一方では、既述のとおり、田久保忠衛は「美しい日本の憲法をつくる会」の共同代表の一人だが、同会による「改正案骨子」は現九条について「9条1項の平和主義を堅持するとともに、9条2項を改正して、自衛隊の軍隊としての位置づけを明確にします」と述べて、現1項は存置する考え方であるような主張をしている。
 櫻井よしこ=民間憲法臨調・日本人のための憲法改正Q&A(産経新聞出版、2015)はこの点についてどう書いているだろうか(なお、西修は民間憲法臨調の「副代表・運営委員長」のようだ)。
 まず、「例えば、第9条2項だけを改正し、1項は残す」としているのが目につき(上掲、p.36)、「例えば」とあるところからすると、この考え方も一案にすぎないものと理解されているように読めなくはない。
 しかし、改憲諸案で現1項の<侵略戦争>放棄の趣旨部分を提案するものはないと書き、1項を存置しても「平和主義の原則」は変わらない旨も記している(p.35)。
 また、<第9条を改正すると、「平和主義の理想」を捨てることになりませんか?>という質問を設定しつつ、「第9条2項を改正して軍隊を持っても、第9条1項に掲げられた『平和主義の理想』を捨てることにはなりません」という回答を述べ、その説明をしている(p.54-55)。
 こうしてみると、この本の考え方は、現九条1項は基本的に残したうえで2項を改正又は削除して「軍隊」保持を明記する、というもののようだ。
 とすると、田久保委員長ら「起草」の産経新聞社案はやはり最も異質な改正案の文言になっている。 
 奥村文男は産経新聞5/17の「憲法講座」94回で自民党案と産経新聞社案を比較して、「両者の基本的視点は共通ですが、自民党草案は、現9条1項を踏襲した上で、自衛権の発動を認めるとする点で、回りくどい表現が気になります。この点では、産経案の方がより簡明です」と述べて、産経新聞社案が最良であるかのごときコメントをしている。しかし、各改正案を見てみれば、このような評価は、「簡明」さの問題はさておき、決して多数に支持されているわけではないと思われる。
 このように諸改正案を見てみると、西修案にも見られる「簡明」さは魅力的ではあるが、結局のところ、現に政党の中で唯一九条改正案を提示し、今後も改憲運動の中心になるだろう自民党の案を基本として九条改正を議論する、あるいはそれに向けて運動するのが妥当だろうと考えられる。
 政権政党でもある自民党の案は、たんなる「私」企業である新聞社の案や学者等の「私案」とは異なるレベルのものと理解されるべきで、同列に並べて比較するのはもともと適切ではない。
 細かな文言等々について種々の議論が-おそらくは「美しい日本の憲法をつくる会」の役員の内部でも-あるのだろうが、私的団体間や個人間の議論ではなく、九条に関する自民党改正草案を支持するか、あるいはどのようにそれをよりましに修正するか、という議論をした方が生産的だと思われる。また、かりに九条にかかる自民党改正草案が支持されてよいのだとすれば、それを採用して各団体や論者の主張・意見としてもよいのではないか、と考えられる。
 九条の改正の具体的内容について些細なあるいは細かな、字句をめぐるような、不毛な・非生産的な議論は避けるべきだろう。 

1297/西修・…よくわかる!憲法9条を読む-3。

 西修・いちばんよくわかる憲法9条(海竜社、2015)を読んでコメントしておきたい第三は、以下のことだ。
 西修は現九条をどう改正するかについて①自民党案(2012)、②読売新聞社案(2004)、③産経新聞社案(2013)を挙げ(もう一つ旧民社党議員たちの「創憲会議」案(2005)も挙げているが、ここでは省略する)、1.現九条1項の「基本的な踏襲」、2.自衛戦力(軍隊)保持の明記、等で共通している、とするが(p.112)、この1.は、はたしてそうなのだろうか。
 現九条1項-「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。
 これに対応する各改正案の条文は次のとおりだ。
 ①自民党案-「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない」。
 ②読売新聞社案-「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを認めない」。
 ③産経新聞社案-「日本国は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国が締結した条約および確立した国際法規に従って、国際紛争の平和的解決に努める」。
 西修は各改正案が1.現九条1項の「基本的な踏襲」で共通している理由として、①を除く各案の「作成に関し、かかわりをもっているから」だとしている(p.116)。この著によると西は、②については読売新聞社内の1992年設置の憲法問題調査会に1委員として参画し、2004年案作成にも関係した。また、この欄でも既述のように、③については、産経新聞社内「国民の憲法」起草委員会5委員の一人だった。だから各案には「私の考えが大なり小なり反映されて」いる、というのだが、上記のとおり、ほとんど明らかに、産経新聞社案だけは異なっている。
 他の案は現九条1項の条文をほとんどそのまま維持している。「…は、国際紛争を解決する手段としては、」の部分をそのまま生かしており、そのあとが①「用いない」、②「永久にこれを認めない」。と少し変えているだけだ。
 これに対して、③産経新聞社案には、「…は、国際紛争を解決する手段としては」否認する、という、パリ不戦条約以来の歴史のある、<侵略戦争の放棄>の趣旨を、少なくとも明文では残していない。「…、国際紛争の平和的解決に努める」という部分でその旨を表現した、と主張されるのかもしれないが、その旨は明確ではない、と理解するのが自然だと考えられる。
 それに、この欄ですでに触れたことだが、産経新聞社案にかかる「国民の憲法」起草委員会の委員長だった田久保忠衛自身が、その著で次のように述べている。以下、田久保・憲法改正、最後のチャンスを逃すな!(並木書房、2014)による。
 「第一項は…そのまま残し」、第二項を「全面的に改める」説に「じつは私も…賛成だった」が、現第一項に「問題はないだろうか」。「国際紛争」の理解によっては「支障が出てくる」。第一項があると「国連決議にもとづく国際紛争にかかわる集団的安全保障に参加できないことになる」、また「米国が多国籍軍に入っている」ときに米国に対する武力攻撃を日本が「自国が攻撃されていないにもかかわらず」実力で阻止しようとすると「動きがとれなくなってしまう」=「集団的自衛権の行使に踏み切ることができなくなる」。そこで現第一項を含めて全面的に改める」こととした(p.172-5)。
 上にいう「国連決議にもとづく国際紛争にかかわる集団的安全保障」への参加については現一項は何も定めて(語って)いないのではないかとすでに書いたが、そうでない場合の米国との関係での「集団的自衛権の行使」については、現一項のもとでも一定の要件のもとに認められると閣議決定で解釈され、それにもとづく法案が(現一項のもとで!)国会に提出されている(2015.05)。
 この実際の動きはさしあたり別論としても、③産経新聞社案が他の、現一項をほとんどそのまま残す①や②とは異なることは、田久保忠衛が明言するようにほとんど明瞭なことではないか、と思われる。
 この産経新聞社案が絶対的に拙劣で<悪い>案だと言うさもりはない。だが、①や②には、現九条の全体に問題があるのではなく(<侵略戦争>放棄の第一項に問題はなく)、現九条二項こそが問題であってこの項こそが改正すべきなのだ、という主張・見解を国民に対して明確にアピールできる効用はあるだろう。
 自らが関係した二つの案が基本的に同じ趣旨だと主張したい気分は理解できるが、やはり、産経新聞社案だけは異質なのではないだろうか。
 全体の趣旨・論調からすると些細なことかもしれないが、気になった点であることは間違いない。
 なお、西修の改正私案は「…他国に対する侵略の手段として、国権の発動たる戦争、武力による威嚇または武力の行使を永久に放棄する」というもので(p.115-6)、「侵略」という語の使用によって趣旨をより明確にしつつ、③産経新聞社案よりも①自民党案・②読売新聞社案に近いものだ。 

1285/民主党政権・朝日新聞には甘く自民党には厳しい「左翼」法学者たち。

 古い話題だが、現在と関係がないとは思われない。
 2010.09.07にいわゆる尖閣諸島中国漁船衝突事件が起きた。そのときのビデオが存在することが話題になっていたが政府は公開せず、同年11.01に国会の予算委員会関係委員30名に対してのみ7分弱に短く編集したものが視聴用に供された。その後11.04、<sengoku38>によって計44分のビデオがネット上にアップロードされた。
 これを受け、11.06のA新聞社説は「こんな不正常な形で一般の目にさらされたこと」は残念だ、「政府または国会の判断で、もっと早く一般公開すべきだった」等と書いた。同日のB新聞社説は「最大の問題は」、政権が、国民の「知る権利」を無視して「衝突事件のビデオ映像を一部の国会議員だけに、しかも編集済みのわずか6分50秒の映像しか公開しなかった点にある」等と書いた。
 一方、同日のC新聞の<尖閣ビデオ流出―冷徹、慎重に対処せよ>と題する社説はつぎのように書いて公開の点では政府側を擁護し、むしろ情報管理に問題があるとした。
  「政府の情報管理は、たががはずれているのではないか」。「流出したビデオを単なる捜査資料と考えるのは誤りだ。その取り扱いは、日中外交や内政の行方を左右しかねない高度に政治的な案件である。/それが政府の意に反し、誰でも容易に視聴できる形でネットに流れたことには、驚くほかない」。
 「もとより政府が持つ情報は国民共有の財産であり、できる限り公開されるべきものである。政府が隠しておきたい情報もネットを通じて世界中に暴露されることが相次ぐ時代でもある。/ただ、外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある」。「政府は漏洩ルートを徹底解明し、再発防止のため情報管理の態勢を早急に立て直さなければいけない」。
 「流出により、もはやビデオを非公開にしておく意味はないとして、全面公開を求める声が強まる気配もある」。/「しかし、政府の意思としてビデオを公開することは、意に反する流出とはまったく異なる意味合いを帯びる。短絡的な判断は慎まなければならない」。「ビデオの扱いは、外交上の得失を冷徹に吟味し、慎重に判断すべきだ」。
 慎重に対処・判断せよという主張の仕方が、ビデオを積極的に公開しなくてもよい、という意味であることはほとんど明らかだった。その論拠としてこの社説は「日中外交や内政の行方」に影響を与えないかねないことも挙げつつ、より一般的には、「政府が持つ情報は…できる限り公開されるべき」だが、「外交や防衛、事件捜査など特定分野では、当面秘匿することがやむをえない情報がある」、ということを述べていた。
 さて、時は移って2013年秋以降に特定秘密保護法案に反対する運動が起きた。反対の理由としてつねに挙げら競れた理由の一つは、<国民の知る権利>を著しく制限する、というものだった。
 そうだとすれば、この法案に反対し、その後の同法の成立を苦々しく思っている者たちは、2010年秋の上記のC新聞の社説にはそのままでは納得できず、むしろ批判的に読んだ(はずだ)と思われる。
 そのような者たちとして、すでにこの欄に当時に転載したのだが、つぎのような大学教授たち等がいる。大学名だけ残し学部等以下は省略して再掲しておく。
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 秘密保護法の制定に反対する憲法・メディア法研究者の声明 2013.10.11
 よびかけ人/愛敬浩二(名古屋大学)、青井未帆(学習院大学)、石村善治(福岡大)、市川正人(立命館大学)、今関源成(早稲田大学)、上田勝美(龍谷大学)、右崎正博(獨協大学)、浦田賢治(早稲田大学)、浦田一郎(明治大学)、浦部法穂(神戸大学)、奥平康弘(憲法研究者)、小沢隆一(東京慈恵会医科大学)、阪口正二郎(一橋大学授)、清水雅彦(日本体育大学)、杉原泰雄(一橋大学)、田島泰彦(上智大学)、服部孝章(立教大学)、水島朝穂(早稲田大学)、本秀紀(名古屋大学)、森英樹(名古屋大学)、山内敏弘(一橋大学)、吉田栄司(関西大学)、渡辺治(一橋大学)、和田進(神戸大学)
 賛同者/青木宏治(関東学院大学)、浅川千尋(天理大学)、梓澤和幸(山梨学院大学・弁護士)、足立英郎(大阪電気通信大学)、荒牧重人(山梨学院大学)、飯島滋明(名古屋学院大学)、池端忠司(神奈川大学)、井口秀作(愛媛大学)、石川裕一郎(聖学院大学)、石塚迅(山梨大学)、石村修(専修大学)、井田洋子(長崎大学)、伊藤雅康(札幌学院大学)、稲正樹(国際基督教大学)、井端正幸(沖縄国際大学)、浮田哲(羽衣国際大学)、植野妙実子(中央大学)、植松健一(立命館大学)、植村勝慶(國學院大學)、江原勝行(岩手大学)、榎透(専修大学)、榎澤幸広(名古屋学院大学)、大石泰彦(青山学院大学)、大久保史郎(立命館大学)、太田一男(酪農学園大学)、大津浩(成城大学)、大塚一美(山梨学院大学等)、大藤紀子(獨協大学)、大野友也(鹿児島大学)、岡田健一郎(高知大学)、岡田信弘(北海道大学)、緒方章宏(日本体育大学)、奥田喜道(跡見学園女子大学)、奥野恒久(龍谷大学)、小栗実(鹿児島大学)、柏崎敏義(東京理科大学)、加藤一彦(東京経済大学)、金澤孝(早稲田大学)、金子匡良(神奈川大学)、上脇博之(神戸学院大学)、彼谷環(富山国際大学)、河合正雄(弘前大学)、河上暁弘(広島市立大学)、川岸令和(早稲田大学)、菊地洋(岩手大学)、北川善英(横浜国立大学)、木下智史(関西大学)、君島東彦(立命館大学)、清田雄治(愛知教育大学)、倉田原志(立命館大学)、古関彰一(獨協大学)、越路正巳(大東文化大学)、小竹聡(拓殖大学)、後藤登(大阪学院大学)、小林武(沖縄大学)、小林直樹(東京大学)、小松浩(立命館大学)、笹川紀勝(国際基督教大学)、佐々木弘通(東北大学)、笹沼弘志(静岡大学)、佐藤潤一(大阪産業大学)、佐藤信行(中央大学)、澤野義一(大阪経済法科大学)、志田陽子(武蔵野美術大学)、清水睦(中央大学)、城野一憲(早稲田大学)、鈴木眞澄(龍谷大学)、隅野隆徳(専修大学)、芹沢斉(青山学院大学)、高作正博(関西大学)、高橋利安(広島修道大学)、高橋洋(愛知学院大学)、高見勝利(上智大学)、高良鉄美(琉球大学)、田北康成(立教大学)、竹森正孝、多田一路(立命館大学)、只野雅人(一橋大学)、館田晶子(専修大学)、田中祥貴(信州大学)、塚田哲之(神戸学院大学)、寺川史朗(龍谷大学)、戸波江二(早稲田大学)、内藤光博(専修大学)、永井憲一(法政大学)、中川律(宮崎大学)、中里見博(徳島大学)、中島茂樹(立命館大学)、永田秀樹(関西学院大学教授)、仲地博(沖縄大学教授)、中村睦男(北海道大学)、長峯信彦(愛知大学法学部教授)、永山茂樹(東海大学教授)、成澤孝人(信州大学)、成嶋隆(獨協大学)、西原博史(早稲田大学)、丹羽徹(大阪経済法科大学)、根本博愛(四国学院大学)、根森健(新潟大学)、野中俊彦(法政大学)、濵口晶子(龍谷大学)、韓永學(北海学園大学)、樋口陽一(憲法研究者)、廣田全男(横浜市立大学)、深瀬忠一(北海道大学)、福島敏明(神戸学院大学)、福島力洋(関西大学)、藤野美都子(福島県立医科大学)、船木正文(大東文化大学)、古川純(専修大学)、前原清隆(日本福祉大学)、松田浩(成城大学)、松原幸恵(山口大学)、丸山重威(前関東学院大学)、宮井清暢(富山大学)、三宅裕一郎(三重短期大学)、三輪隆(埼玉大学)、村田尚紀(関西大学)、元山健(龍谷大学)、諸根貞夫(龍谷大学)、森正(名古屋市立大学)、山崎英壽(都留文科大学)、山元一(慶応義塾大学)、横田耕一(九州大学)、横田力(都留文科大学)、吉田稔(姫路獨協大学)、横山宏章(北九州市立大学)、吉田善明(明治大学)、脇田吉隆(神戸学院大学)、渡辺賢(大阪市立大学)、渡辺洋(神戸学院大学)
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 これら多くの法学者たち等に、暖簾に腕押しだろう日本共産党員である者や樋口陽一等々を除いて、真面目に尋ねたいものだ。
 2010年の秋に、尖閣衝突事件に関する情報の国民への積極的な開示を求めたのかどうか。かりに上のように<声明>は出さなくとも、各人において政府における情報開示の消極的姿勢を批判する旨を書いたり語ったりしたのか?。そうしたことをしなかったとすれば、なぜ、自民党等提出の特定秘密保護法案には「国民の知る権利」等を持ち出して反対することができたのか?。
 言うまでもなく(?)、上記のC新聞は読売(A)でも産経(B)でもなく、朝日新聞。当時は民主党・菅直人内閣だった。
 政権が民主党か自民党(中心)か、内閣首班が菅直人か安倍晋三か、これらによって<国民の知る権利>に関する具体的判断も「外交や防衛、事件捜査など特定分野」では国益・公共的利益の方を優先させざるをえないのかどうかの具体的判断も異なるというのであれば、それはいったい何故か。答えられないようであれば、貴方たちは「学問の自由」を享受できるだけの<良心>を持っているのか?
 このような問いかけは、集団的自衛権行使容認(閣議決定等)に反対する声明に参加している憲法学者等に対しても続けていきたい。

1281/「保守原理主義」者の暗愚1-渡部昇一・月刊正論2015年5月号の日本国憲法「廃止」論。

 渡部昇一の主張・議論のすべてではないが、その日本国憲法「廃止」論については、「保守原理主義」らしきものを感じ、「暗愚」はおそらく言い過ぎだろうが、間違いなく「意味不明」な議論だと感じる。
 南出某ら等々の日本国憲法「無効」論・「廃止」論にはこの欄ですでに論及しているので、参照していただきたい。以下は、渡部昇一「反日との我が闘い」月刊正論5月号p.60-63の叙述に対する批判的コメントだ。渡部のこのような叙述が月刊正論(産経)の実質的な「巻頭」を飾っているのだから、戦慄を覚えないではない。
 渡部昇一は、敢えて「憲法改正」とは言わないようにしてきた、それは「憲法改正」は「今の憲法を承認したうえで、それを改正する」ことを意味するからで、「占領統治基本法」である、「嘘に塗り固められ、国家の恥に満ちた」日本国憲法という認識にもとづけば、「今の憲法はまず廃止されるべき」である、とする(p.62)。
 このあたりは、これまで読んできた日本国憲法「廃止」論(・「無効」論)とほとんど変わりはなく、渡部の主張としてとくに目新しいものではない。また、最初の小見出しになっている「日本国憲法は憲法ではないという認識を」(p.61)も、<日本国憲法はまともな憲法ではないという認識を>というふうに改めていただければ、賛同することができる。問題は、p.63上段の半ば以降の叙述にある。
 渡部昇一は、「とにかく、まず一度、明治憲法に戻って今の憲法を廃止し、皆がつくった憲法を廃止する」、これが「筋の通ったやり方だ」とする。ここにもすでにその意味内容が分かりにくいところがあるが、決定的には、つぎの文章には唖然としてしまった。
 渡部はいう。日本国憲法を「廃止」すれば「大混乱に陥る」という反論があるかもしれないが、「新憲法のもとで一つ一つを変えていくまでは、現行憲法が効力を維持するとすればいいのです」。
 「現行憲法が効力を維持する」とはいったいいかなることを意味するのか。渡部は、新憲法のもとでの「法改正」が一つ一つできるまでは、「今までどおりでOKとすれば、何の混乱も生じない」とも書く。
 これまで、日本国憲法「無効」論は同「廃止(廃棄)」論と基本的趣旨は同じだと理解して、「無効」・「廃止」の宣言・確認の主体や手続に関する主張は非現実的だ、論理矛盾がある、等と指摘してきた。
 上の渡部昇一の主張からすると(渡部の諸文献での主張をここで網羅的に参照することはできないので、上記部分に限る)、この人の主張は日本国憲法「廃止」論であっても「無効」論ではない。なぜなら、「廃止」後の一定の時期までは日本国憲法は「効力を維持する」と明瞭に述べているからだ。
 小児に語るようなことだが、「効力を維持する」とは<無効ではない>、<有効である>ということを意味する。「有効」であるとは「効力をもつこと」、「効力を維持」していることを意味する。「効力を維持する」とは、「無効」とはしない、ということを意味しているのは明らかなことだ。
 では、渡部のいう日本国憲法の「廃止」とはいったい何のことなのか。
 通常、法律等の成文法の「廃止」とは、<効力を否定する>こと、<効力を失わせる(=失効させる)>こと、つまりは<効力がないことにする>=<無効とする>ことを意味するはずだ。
 日本国憲法を「廃止」はしても同憲法は「効力を維持する」とは、いったい何のことなのか? いったい、何が言いたいのか? これが唖然としてしまった点だ。渡部において、効力の有無とは無関係なものとして語られている「廃止」とは、いったい日本国憲法に対するいかなる働きかけのことを意味しているのだろうか。
 なるほど、違憲な法律、違憲の行為であっても効力は維持する、つまり無効ではない、とすることはありうる。国会議員選挙の違憲・無効訴訟の諸判決の中にも、このような論法を示すものがある。
 では、日本国憲法を<無効とする(無効を確認する)>のではないが、<廃止>する、とはいったいどういう論法なのだろうか。問題は法律や具体的行為の<合憲性・無効性>ではなく、日本国憲法を<廃止>するということの意味だ。
 明治憲法に違反すること、あるいは国際法(?)に違反することを「確認」することを意味するのだろうか。
 しかし、成文法の「廃止」とは上述のとおり<無効とする>=<効力を維持させない>ことを意味させるのが通常であるはずなので、渡部昇一における「廃止」は、新奇な意味をもたされていると理解するほかはない。そして、その意味はほとんど理解不可能だ。
 渡部昇一においても、概念の混乱・不明瞭さがある。「無効」を、制定時にさかのぼってではなく、<将来にむかってのみ>効力をなくするという意味で用いている「無効」論者にも、通常の意味での「無効」とは異なる「無効」概念の誤用があると思われるが、渡部は、日本国憲法が将来において「効力を維持する」ことを一定時期までは認めつつ、「廃止」を語っている。上の意味での「無効」論以上に意味不明だと言わざるをえない。
 先に留保したところだが、p.63の半ばでは、国会の承認を得ての「憲法草案」策定→政府による明治憲法に「帰る」ことの宣言=日本国憲法の「廃止」→新憲法の発布、という手続・過程が想定されている。
 この辺りもよく分からないことが多い。①「政府」とは何か、それが「内閣」のことだとすれば、日本国憲法の規定にもとづいて同憲法下の国会によって指名された内閣総理大臣とそれの任命した大臣によって構成される「内閣」=政府に、自らの生誕の母体ともいえる日本国憲法を「廃止」する権限・権能がそもそもあるのか、②明治憲法に「帰る」べきと主張しながら、天皇に何ら論及がないのはなぜか、新憲法を「発布」する権限は政府にあるかのごとき書き方だが(①のような問題がすでにあるが)、天皇陛下の少なくとも何らかの関与を明示的には認めていないのはなぜか、という疑問が容易に生じる。
 p.61-62あたりの叙述にも首を傾げる部分があるが、省略する。
 厳密にはとても採用できそうもない議論がごく少数の論者によってなされているならば、無視しておいてよいかもしれない。しかし、月刊正論の冒頭に置かれている渡部の論稿の少なくとも一部は、倉山満の日本国憲法「改正」=<恥の上塗り>論等とも共鳴しつつ、憲法「改正」運動を批判するもので、客観的には妨害する可能性がある。
 「保守」派意識の旺盛な人が、現憲法の制定過程の不正常さを知るのはよいが、そのことで(知ったかぶりをして?)<現憲法は無効>あるいは<現憲法はいったん廃止>と簡単に言ってしまうことがあるのを知っている。無駄な手続を要求することによって、またあえて<廃止>論や<無効>論を主張することによって、憲法「改正」を遅らせることがあってはならないだろう。現在の憲法「改正」運動の主軸は自民党内にあると見るほかなく、「美しい日本の憲法をつくる会」にあるのではない。そしてまだ決戦の火蓋は切られていない。自民党の船田元、保岡興治、磯崎陽輔
らは渡部昇一らの「観念的・原理的」議論の影響を受けていないようであることは、安心できることだ。

1265/産経新聞社案「国民の憲法」について2-天皇条項の一部。

 現憲法一条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」、と定める。
 「象徴」ではなく「元首」化をという議論についてはさておき、後段は、とくに「主権の存する」は、いわゆる「国民主権」(昔風には主権在民)を憲法上明記するために、やや無理して挿入された、とも説明されてきた。この条文以外に、<国民主権>を規定する明文は現憲法にはない。
 この「象徴」天皇制度の規定をふまえて、現憲法二条が「皇位は、世襲のものであ」ると明記していることは、占領期の憲法という特殊性を考慮すれば、刮目すべき重要なことだったと言える。なぜなら、日本の敗戦という結果にもかかわらず、日本の長い伝統に近い<世襲天皇>制度を明記して容認しているからだ。竹田恒泰がどこかで言っていたように、天皇制度が廃止されて<共和制>になっていたことを想像すると、それよりは優れた選択を現憲法はしている(GHQもそれを認めた)ことになる。連合国のうちかつてのソビエト連邦が戦後日本の憲法を企図したとすれば、あるいは原案作成に強く関与していれば、このような条項は採用されなかっただろう。
 さて、<世襲による象徴天皇制度>は憲法上のものであり、かつそれは「主権の存する日本国民の総意に基く」ととくに規定されているのだから、制定時の理解・解釈はさておき、それとは独自に成立しうる憲法解釈として、現一条(+二条)は現憲法上の重要な<原理>として、憲法改正の限界を画す、つまり、憲法改正によっても変更・削除することはできない、と理解することも不可能ではないと考えられる。このように解釈すれば、憲法改正によって、<世襲による象徴天皇制度>を廃止することはできない。もし廃止しようとすれば、それは法的には非連続の一種の<革命>になる。
 だが、以上は成り立ちうる解釈だとは思うが、戦後の憲法解釈学において、現一条(+二条)は憲法改正の対象にできない、という議論はまったくなかったように見える。それよりも、逆に、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」のだから、「主権の存する日本国民の総意」によって変更する、そして廃止することもできる、と解釈されてきた。この点を意識または強調して、将来の天皇制度廃止を展望する論者は、明言しないにせよ、現在の憲法学界には多いのではないか、と推測される。
 しかし、そのような解釈しか成り立たないのではないことは上記のとおりだ。<憲法制定権者である憲法制定時の国民の総意>にもとづくと明記されているのだから、将来の国民もこれに拘束される(改正・廃止はできない)と解釈することが、さほど荒唐無稽なものだとは思われない。一条の上記部分の通例のまたは多数の解釈は、<政治的>色彩をやはり帯びているように考えられる。
 ところで、産経新聞社・国民の憲法(2013)のうち、同社案「国民の憲法」と自民党改正案の違いを記した部分には、天皇条項について、つぎのような叙述がある(p.139)。
 自民党案には「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という部分が残ったままで、これは「あたかも国会の議決で天皇の地位を自在に改変できるかのような誤解を招きかねない」。そして、この条文を使って「天皇制廃止」を「堂々と主張する憲法学者もいる」ので、「このような誤解を生み出す記述は削除し」た。以上、抜粋引用。
 この文章・論理は奇妙だ。少なくとも二人の憲法学者が起草委員会には加わっていたはずなのだが、このような叙述をお二人とも了解しているのだろうか。
 根本的に言って、「主権の存する日本国民の総意」=「国会の議決」ではありえない、ということはほとんど自明なことで、ほとんど誤解を生じさせない、と考えられる。誤解する一部の者には誤解だと説明すれば足りる。それに、この条文を使っての「天皇制廃止」論は憲法改正によるそれを展望していると容易に想定できるのであり、国会の議決=(ほとんどが)法律、による「天皇制廃止」を主張する憲法学者など皆無なのではないか。そのような議論・主張を読んだことは一度もない。
 以上のとおりで、憲法(改正)レベルの問題と法律(改正)レベルの問題の混淆が、上の叙述にはある、と見られる。
 ひょっとすれば、明言はしていないが、「主権の存する日本国民」という理解に対する反発・懸念が産経新聞社「国民の憲法」立案者にはあるのかもしれない。たしかに「主権」概念の法的意味と効用は議論されてよいものの、そのまま残しておいてさしたる弊害は生じないものと私は考える。むしろ、これを残すことによって、<世襲による天皇制度>は憲法改正の対象にはできないという解釈を導くことが不可能ではないことは、上述のとおりだ。なお、読売試案2004年は「その地位は、国民の総意に基づく」、として「主権の存する」との部分を削除しているが、産経新聞社案に比べれば、はるかに現行の上記条文を残す自民党案に近い。この点でも、産経新聞社案は異質だ。
 さらにいうと、産経新聞社案「国民の憲法」によれば、「天皇制廃止」の主張は排撃され、、「天皇制廃止」は不可能になるのだろうか。そんなことはない。同案によれば(117条)、各議院の過半数議員の賛成による国民への提案にもとづく国民投票での国民の過半数の賛成でもって憲法改正が可能である。産経新聞社案「国民の憲法」上の天皇条項は、なんと現憲法によるよりも容易に改正される(廃止される)ことになっている(「憲法改正の限界」に関する明文はないようだ)。「天皇制廃止」を「堂々と主張する憲法学者もいる」ので上記部分を削除したというが、削除したところで、憲法改正による「天皇制廃止」を「堂々と主張する」ことを封じることはできないのだ。
 以上、二回めの、産経新聞社案「国民の憲法」についての感想とする。
 なお、産経新聞社・国民の憲法(2013)の奥付の前の頁には、産経新聞社の名のもとに小さく、「近藤豊和、石川水穂、湯浅博、石井聡、安藤慶太、榊原智、小島新一、溝上健良、田中靖人、内藤慎二」と記載されている。この人たちが(おそらくは起草委員会メンバーではなく)この本を執筆・編集しているのだろう。したがって、完全に産経新聞社の名のもとに隠されているわけではない。だが、今回に言及した部分も含めて、個々の部分の文章作成の(内部的な)責任者の個人名は明らかでない。

1264/産経新聞社案「国民の憲法」について。

 田久保忠衛の名も出しつつ、<憲法を改正しよう>と主張するだけでは意味がない、と前回に書いた。
 これに対して、田久保忠衛は、改正の優先順位も政治的な戦略・戦術にも触れていないが、産経新聞社の「国民の憲法」起草委員会の委員長として、改正の具体的内容は検討・議論して、公表している、と反論するかもしれない。
 そのとおりで、産経新聞は「国民の憲法」(憲法改正要綱)を公表している。そして、産経新聞社・国民の憲法(2013.07、産経新聞社)の中には、自民党改正草案との違いを(わずか3頁だが)叙述している部分もある(p.138-140)。従って、かりにその部分を田久保が執筆しているか、または了解しているのだとすると、田久保が産経新聞社案と自民党案との違いをまったく説明していないというわけではない。
 以上のかぎりで田久保に対する批判的コメントは一部取消させていただく。もっとも、上記書物は「国民の憲法」の個々の条項に即して自民党案を採用しなかった理由を述べてはいない。上の3頁の中で触れられているのは、のちに触れる基本的スタンスの他は、天皇条項・現九条・前文のみだ。
 それに、あらためて上記書物を手がかりに産経新聞「国民の憲法」要綱を見てみると、基本的なよく分からない点があり、また奇妙に感じる点もある。
 まず第一に、この産経新聞「国民の憲法」案の発表主体はいったい誰なのか。どうやら、上記委員会ではなく、産経新聞社という会社法人(新聞会社)そのもののようだ。上記書物の「はじめに」の執筆者(署名)は「産経新聞社」になっている。そして、この書物は「起草委員会の議論をもとに…編集」したものだとされているが、「国民の憲法」案を最終的に完結的に作成したのは田久保を委員長とする起草委員会なのか、それとも起草委員会の議論の過程に産経新聞社の社員・記者たちがすでに関与したのか、も分かりにくい。起草委員会なるものの性格・位置づけにかかわるが、おそらくは上の後者で、起草委員会の「事務局」としての社員・記者たちがすでにかなり関与したように推測される。そして、その産経新聞の社員・記者たちの固有名詞・人名が「産経新聞社」の名の中に隠されていることも特徴の一つだろう。
 このような曖昧さは、読売新聞社の<読売試案2004年>の作成過程とはかなり異なっている。
 読売新聞社編・憲法改正-読売試案2004(2004.08、中央公論社)によると、この試案が読売新聞社の名によるものであることが明らかだが、この書物の「はじめに」は同社の「調査研究本部長」が執筆し、「おわりに」は同社「調査研究本部」員が執筆して、それぞれ固有名詞(個人名)まで明らかにしている。また、読売試案の作成には(社外の専門家の助言等を得たかもしれないが)「起草委員会」なるものがかかわっているわけではない。
 つぎに第二に、時期的に私が産経新聞を定期購読しなくなって以降のことだったことに原因がある勉強不足のためかもしれないが(もっともネット上で改正案作成の動きや結論の公表があったことは知っていた)、あらためて産経新聞「国民の憲法」案を見て、大きな違和感を抱いたことがある。
 それは、自民党案との違いとして記述されていることでもあるが、「現行憲法をゼロベースで見直して」いて、自民党案や、さらに読売試案とも違って、現憲法の条項との関係がはなはだ分かりにくいことだ。現憲法の△条を改めて「…」とする、という書き方をしておらず、現憲法の「構成」や各条項とは無関係に、一体として、「新」憲法案が提示されていることだ。
 この点について、上記書物p.138は、自民党案は現憲法を「下敷き」にしているので「現行憲法の抱えるさまざまな欠陥をそのまま引き継い」でいる、と述べている。論理的に見て、「下敷き」にしていれば必ず「欠陥を引き継ぐ」ことにはならないとは思うが、それは別としても、現実の憲法改正(の発議と国民投票)のためには、産経新聞「国民の憲法」案ははなはだ使いづらい。
 なぜならば、憲法改正とは、現憲法の全体を一挙に廃棄・廃止して、新しい憲法を一括して創出する、というものではないからだ。
 ここで、憶測にはなるが、ひょっとすれば産経新聞「国民の憲法」案は、渡部昇一らの現憲法「無効」論や石原慎太郎の現憲法「破棄」論の影響も受けて、現憲法の全体に新しい「自主」憲法がとって代わる、というイメージで作成されたのではないか、という疑問が生じなくはない。
 総選挙における<次世代の党>の衰退とも関連させて、現憲法「無効」論・現憲法「破棄」論についてはあらためて触れる予定だ。ともあれ、現憲法と「新」憲法案のどちらがよいと思うか、というかたちで一括して憲法改正の発議と国民投票が行われるはずがない。確認しないが、憲法改正手続法もまた、そのようなことを想定していないはずだ。
 より具体的に、あるいは個々の条項に即して、例えば(自民党案によれば)現九条2項を削除して九条の二(国防軍の設置)を新設することに賛成か反対かで、あるいは(読売試案2004年によれば)①現九条1項を一部修正する、②現九条2項を削除して、別内容の条文に代える、③新たに別の条を追加して「自衛のための軍隊」保持可能等を明記する、のそれぞれについて、またはこれらだけを一括して賛成か反対かで、国民投票は行われるはずだ。
 産経新聞「国民の憲法」案の個々の条項を見て、かつ優先順位さえ決定すれば、上のような技術的?問題は解消できる、というのが産経新聞社案の意図なのかもしれない。しかし、現憲法との比較対照表を作れない(作っていない)案は、かなり分かりにくいし、上記のような(革命的?な一挙の)一括的「改正」をイメージしているのではないか、との疑問が生じなくはない(そうした気分がまったく理解できないわけではないが、非現実的で、却って「改正」を遅らせる)。
 さらに第三に、ここで書いてしまっておけば、産経新聞社の上記書物における現憲法九条1項の理解はいぜんとして奇妙だ。すなわち、p.140は、現九条1項は「主権の行使に制限を課している」、「不徹底で不完全」なものだ、と記している。
 しかし、自民党改正案も読売試案2004年も、基本的には現在の現九条1項の条文をそのまま残すこととしている。
 歴史的由来のある「国権の発動たる戦争」等の意味が理解しやすいものではなく、大きな誤解も招くことになっているのは確かで、<侵略戦争>の否定の趣旨を書き直すことは考えられてもよい(そうした趣旨の規定に対する、<侵略戦争>否定は「主権の行使に制限を課す」不適切なものだ、との批判はあたらないだろう)。
 しかし、産経新聞「国民の憲法」案よりもより長い時間と議論を経て作成されたとみられる自民党の最新改正案や読売試案2004年が現九条1項を基本的にはそのまま維持しているのと比較すると、同じく<保守派>の中では異質な案になっていることを、田久保忠衛や産経新聞関係者は意識・自覚しておいてよいと思われる。
 なお、産経新聞社の上記書物は、自民党案は「戦争放棄の規定(9条)をほぼ踏襲している」と書いて疑問視している(p.139)。しかし、(侵略)戦争放棄の規定は「9条」ではなく、同条1項だ。法学者ではない北岡伸一でもしているような理解を、どうやら産経新聞関係者および上記起草委員会は採用していないようだ。不思議で仕方がない。
 とりあえず、憲法改正の仕方・内容に関して若干のことを述べた。最優先されるべきは、現九条2項の廃止(削除)と実質的に自衛隊を正規の「軍」と認めることとなる条項の新設だ(法律改正により名称等々の変更が必要だが)、と考えている。「自衛軍」でも「国軍」でもよいが、「国防軍」で差し支えないのではないか。
 憲法の専門家ではない者が書いていることだが、憲法改正にむけての議論に小さな渦でも生じさせることがあれば、幸い。

1226/月刊正論・桑原聡編集長等に対する批判的コメント一覧。

 桑原聡が月刊正論編集長になって半年も経っていないとき、民主党政権下の月刊正論2011年3月号で、桑原はこう書いていた。-「かりに解散総選挙となって、自民党が返り咲いたとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも多くを期待できない」。

 ということは現在の自民党も「多くを期待できない」のか。桑原聡という人は「政治感覚」がどこかおかしかったように感じる。
 上のことを以下で記した。

 ①2011.04.06

 「月刊正論(産経新聞社)編集長・桑原聡の政治感覚とは。」

 ほかに、月刊正論の編集方針等について書いたものに以下がある。存外にたくさん、非生産的なことに時間を費やしてきた想いが生じ、あまり楽しくはないが。再度同旨のことを繰り返すのはやめにし、リストアップにとどめておくことにする。

 ②2012.04.06 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言1。」

 ③2012.04.09 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言2。」 

 ③2012.04.10 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言3。」

 ④2012.04.11 「月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を『危険な政治家』と明言4。」 

 ⑤2012.04.13 「『B層』エセ哲学者・適菜収を重用する月刊正論(産経)。」

 ⑥2012.04.15  「『保守』は橋下徹に『喝采を浴びせ』たか?」

 ⑦2012.05.17  「月刊正論の愚-石原慎太郎を支持し、片や石原が支持する橋下徹を批判する。」

 ⑧2012.06.06 「月刊正論編集部の異常-監督・コ-チではなく『選手』としても登場する等。」

 ⑨2012.08.06 「憲法改正にむけて橋下徹は大切にしておくべきだ。」

 ⑩2012.08.21 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?①」

 ⑪2012.08.29 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?②」

 ⑫2012.09.03 「月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切か?③」

 ⑬2013.09.08 「適菜収が『大阪のアレ』と書くのを許す月刊正論(産経新聞社)」

 ⑭2013.10.04 「月刊正論(産経)・桑原聡は適菜収のいったい何を評価しているのか。」

 ⑮2013.10.13 「錯乱した適菜収は自民+維新による憲法改正に反対を明言し、『護憲』を主張する。」

1202/小林よしのりと橋下徹慰安婦発言と安倍首相・自民党。

 〇久しぶりに、小林よしのりの言説をとり挙げよう。

 ①5/16に「ゴー宣道場」のブログでこう書いた。

 「橋下徹の慰安婦問題に対する認識は基本的に正しい。/微妙に間違ってる点もあるが、一歩も引かぬ態度は支持するから、頑張ってほしい。
 安倍晋三や、稲田朋美や、産経新聞は、慰安婦に対する見解を180度変えてしまっている。/『女性の尊厳損ね許されぬ』には呆れてしまった。
 まったく唾棄すべき奴ら、軽蔑すべき奴らだ!
 安倍政権も産経新聞も、結局、アメリカの顔色を見て怯え、慰安婦問題でもどんどん自虐史観に戻ってしまったのだ。/卑怯者とは、こういう奴らのことを言う。」

 これは産経新聞5/15社説も読んだ後のものに違いない。

 ②また、産経新聞5/26の「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」によると、小林よしのりは週刊ポスト(小学館)5/31号で次のように語った、という。

 「橋下徹は、まるで『王様は裸だ』と叫んでしまった子供のようである。どんな反応が起きるのかまったく考えず、愚直に“本当の話”をし始めている」。「橋下発言は、何ら間違っていない」。「強制連行」・「従軍」に関しては「議論はとっくに決着している」。

 ③小林の舌鋒の矛先は、自民党・安倍晋三政権に強く向けられている。6/04発行となっているメールマガジン「小林よしのりライジング」40回では、次のように言う。

 「『河野談話』を修正か破棄し、「慰安婦制度は、当時は必要だった』と唱えたら、どんな目に合うか橋下徹が身をもって示し、安倍自民党はそれを傍観して震え上がったわけだ。

 誰も国のために戦った祖父たちの名誉を守ろうとしない。/日本は「性奴隷」を使用したレイプ国家にされてしまっているのに、安倍政権は何のアクションも起こさない

 橋下徹と一線をひいて、『村山談話』、『河野談話』を引き継ぐ歴代政権と何ら変わりがないことを、国際会議の場で必死で強調し、『戦後レジーム』の洞穴に引き籠って出て来なくなった」。

 〇小林よしのりの上の③は当たっているかもしれない。

 安倍首相は5/15、参院予算委員会で、「過去の政権の姿勢を全体として受け継いでいく。歴代内閣(の談話)を安倍内閣としても引き継ぐ立場だ」と述べた。これは翌5/16の産経新聞の記事による。同時に、「日本が侵略しなかったと言ったことは一度もない」と述べたようだ。

 これは<村山談話>を引き継ぐ、という趣旨だろう。
 産経の同記事が書くように、安倍首相は4/22に<村山談話>について「安倍内閣として、そのまま継承しているわけではない」と述べ、翌4/23には「侵略の定義は定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかで違う」と述べていたにもかかわらず、である。

 いったい何があったのか。
 5/13が橋下徹慰安婦発言、橋下徹発言ほぼ全面批判の産経新聞社説は5/15だった。
 安倍首相は、橋下徹発言に対する反響に驚き、かつ産経新聞までが橋下発言を厳しく批判していることを知ったからこそ「軌道修正」(5/16産経記事)をしたのではなかっただろうか

 参院選挙まであと二月余という時期も関係していたかもしれない。
 だが、産経新聞5/15社説が<橋下徹発言は舌足らずだが、また一部に問題はあるが、おおむね(基本的には)正しい。河野談話の見直しを急ぐべきだ」という基本的な論調で書かれていたらどうなっていただろうか
 社説は場合によっては瞬時に基本的な主張内容を判断して数時間以内に文章化しなければならない場合もあるだろう。そういう場合にこそ、書き手のまたは論説委員グループの<政治的感覚>が問われ、試される。

 結果として、基本的には朝日新聞のそれと似たようなものになった産経新聞5/15社説は、安倍首相の感覚・判断をも狂わせた可能性がある、と感じられる。「女性の尊厳損ね許されぬ」を優先し、問題の「本質」、「より重要な問題」の指摘を数日あとに遅らせた5/15産経新聞社説は、基本的には<犯罪的な>役割を果たしたのではないか。怖ろしいことだ。

 最近にこの欄で<村山談話>の見直しはどうなっているのかと書いたばかりだが、安倍首相が国会で(少なくとも当面は、だろうが)「引き継ぐ」と明言しているとは、ガックリした。選挙対策、あるいは日本維新の会との差別化の意図によるとしたら、馬鹿馬鹿しいことだ。

1199/安倍首相は河野談話を見直す気がどれほどあるのか。

 慰安婦問題・河野談話については、この欄でも何度も触れたはずだ。
 今年ではなく昨年の8/19、産経の花形記者・阿比留瑠比は「やはり河野談話は破棄すべし」という大見出しを立てて、産経新聞紙上でつぎのようなことを書いていた。

 ・①「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」。②慰安婦の「募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」。これらが河野談話の要点(番号は秋月)。

 ・「関与」、「甘言、強圧」の意味は曖昧で主語も不明確だが、この談話は<日本政府が慰安婦強制連行を公式に認めた>と独り歩きし、日本は<性奴隷の国>との印象を与えた。

 ・「日本軍・官憲が強制的に女性を集めたことを示す行政文書などの資料は、いっさいない」。談話作成に関与した石原信雄によるとこの談話は「事実判断ではなく、政治判断だった」。
 ・この談話によって慰安婦問題は解決するどころか、「事態を複雑化して世界に誤解をまき散らし、
問題をさらにこじらせ長引かせただけではないか」。
 以上はとくに目新しいことはないが、最後にこう付記しているのが目につく。安倍晋三は、「今年」、つまり今からいうと昨年2012年の5月のインタビューでこう述べた、という。

 「政権復帰したらそんなしがらみ〔歴代政府の政府答弁や法解釈など〕を捨てて再スタートできる。もう村山談話や河野談話に縛られることもない」。

 この発言がかつての事実だとすると、第二次安倍政権ができた今、「もう村山談話や河野談話に縛られることもない」はずだ。

 安倍晋三第二次内閣は「生活が第一」を含む経済政策・経済成長戦略や財政健全化政策の他に、いったい何をしようとしているのだろうか。初心を忘れれば、結局は靖国参拝もできず、村山談話・河野談話の見直し・否定もできず、支持率を気にしながら<安全運転>をしているうちに、第一次内閣の二の舞を踏むことになりはしないか。「黄金の三年」(読売新聞)は、簡単にすぎてしまうだろう。

 さらに、橋下徹が慰安婦問題について発言した今年5月、自民党議員、安倍内閣、そしてついでに産経新聞は、いったいいかなる反応をしたのだっただろうか。

1198/資料・史料-1993.08.04河野談話・1995.08.15村山談話。

 資料・史料-いわゆる<河野談話>・<村山談話>

 

 1.<河野談話>

 慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話

 平成5年8月4日

 「いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。」

 

 2.<村山談話>

 村山内閣総理大臣談話

 「戦後50周年の終戦記念日にあたって」
 
平成7年8月15日

 「先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
 『杖るは信に如くは莫し』と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。」

1192/憲法改正の主張ではなく、いかにして憲法改正するかの「戦略」的主張を。

 民主党政権下の2010年11月3日、産経新聞社説は民主党は「政権与党として、憲法改正への主体的な取り組みを求めたい」等と主張した。これに対して、同11月6日付のこの欄で、「現在の民主党政権のもとで、あるいは現在の議席配分状況からして、『戦後の絶対平和主義』から脱した、自主・自立の国家を成り立たせるための憲法改正(の発議)が不可能なことは、常識的にみてほぼ明らか…」、「産経社説は、寝惚けたことを書く前に、現内閣<打倒>をこそ正面から訴えるべきだ」、と批判した。

 同様の批判を同じ欄で、産経新聞同日の田久保忠衛の「正論」に対しても行っていた。以下のとおり。
 「『憲法改正の狼煙上げる秋がきた』(タイトル)と叫ぶ?のはいいのだが、どのようにして憲法改正を実現するか、という道筋には全く言及していない。『狼煙』を上げて、そのあとどうするのか? 『憲法第9条を片手に平和を説いても日本を守れないことは護憲派にも分かっただろう』くらいのことは、誰にでも(?)書ける。
 問題は、いかにして、望ましい憲法改正を実現できる勢力をまずは国会内に作るかだ。産経新聞社説子もそうだが、そもそも両院の2/3以上の賛成がないと国民への憲法改正「発議」ができないことくらい、知っているだろう。
 いかにして2/3以上の<改憲>勢力を作るか。この問題に触れないで、ただ憲法改正を!とだけ訴えても、空しいだけだ
 国会に2/3以上の<改憲>勢力を作るためには、まずは衆議院の民主党の圧倒的多数の現況を変えること、つまりは総選挙を早急に実施して<改憲>派議員を増やすべきではないのか?
 <保守>派の議論・主張の中には、<正しいことは言いました・書きました、しかし、残念ながら現実化しませんでした>になりそうなものも少なくないような気がする。いつかも書いたように、それでは、日本共産党が各選挙後にいつも言っていることと何ら違いはないのではないか。」 以上。
 政治状況は当時とは違っているが、衆議院はともかく、参議院では憲法改正に必要な2/3の議員が存在せず、いくら憲法改正を(9条2項廃棄を)と「正しく」主張したところで、国会は憲法改正を発議できず、従って憲法改正が実現されないことは当時と基本的には変わりはない。
 また、昨年12月総選挙も今年7月参議院議員選挙も、「憲法改正」は少なくとも主要な争点にはなっていない。したがって、民主党政権下とは異なりいかに自民党等の改憲勢力がかなりの議席数を有しているとしても、議席配分または各党の議席占有率がただちに国民の憲法改正に関する意向を反映しているとは断じ難い。
 衆議院では自民党・日本維新の会の2党で2/3以上をはるかに超える、参議院では維新の会・みんなの会と民主党内「保守派」を加えて、あるいは<野党再編>によって何とか2/3超になりはしないか、と「皮算用」している者もいるかもしれないが、やや早計、早とちりだろう、と思われる。
 というのは、軍の保持を認めて自衛隊を「国防軍」にするか否か、そのための憲法改正に賛成か否かを主要な争点として選挙が行われたとした場合の議席獲得数・率が昨年の総選挙、今般の参議院選挙と同じ結果になった、という保障は何もない。有権者の関心のうち「憲法改正」は、主要な諸課題・争点の最下位近くにあったと報道されたりもしていた筈だ。
 しかし、とはいえ、憲法改正を!という主張だけでは<むなしい>ことは、少なくともそれに賛同している者たちに対する呼びかけとしてはほとんど無意味であることは明らかだ。
 上の点からして、遠藤浩一の、撃論シリ-ズ・大手メディアが報じない参議院選挙の真相(2013.08、オ-クラ出版)の中のつぎの発言は、私のかつての記述内容と同趣旨で、適確だと思われる。

 「多くの人が憲法改正(ないし自主憲法制定)の大事さを説きますが、現実の政治プロセスの中でそれを実現するにはどうすればいいのか、どうすべきかについてはあまり語りません。多数派の形成なくして戦後体制を打ち破ることはできないという冷厳なる事実を直視すること、そして現実の前で身を竦ませるのではなく、それを乗り越える戦略が必要だと思います」(p.26)。
 ここに述べられているとおり、「現実の政治プロセスの中でそれを実現するにはどうすればいいのか」についての「戦略」を語る必要がある。

 <保守>派らしいタテマエや綺麗事を語っているだけではタメだ。私はこの欄で遅くとも2020年までには、と書き、2019年の参議院選挙が重要になるかもしれないと思ったりしたのだが、それでは本来は遅すぎるのだろう。だが、しっかりと基礎を固め、朝日新聞等の影響力を削ぎ、「着々と」憲法改正実現へと向かうには、そのくらいの期間がかかりそうな気もやはりする。むろん何らかの突発的な事態の発生や周辺環境の変化によって、2016年の参議院選挙、その辺りの時期の総選挙を経て、2017年くらいには実現することがあるかもしれない。
 このように憲法改正の展望を語ることができるのは昨年末までに比べるとまだよい。民主党等が国会の多数派を形成している間は、永遠に自主憲法制定は叶わないのではないかとの悲観的・絶望的思いすらあった。「ぎりぎりのところで日本は救われた」(中西輝政「中国は『革命と戦争』の世紀に入る」月刊ボイス8月号p.81)のかもしれない。

1185/「絆」と「縁」の区別、そして「血縁」ー民主党・菅直人と自民党。

 菅直人が首相の頃、自民党の記者発表の場の背景にも「絆(きずな)」という言葉が書かれてあったのでこの欄に記す気を失ったのだったが、当時、菅直人は好きな、または大切な言葉として「絆」をよく口に出していたように思う。あるいはテレビ等でも、大震災の後でもあり、人間の「絆」ということの大切さがしばしば喧伝されていたように思う。
 だが、少なくとも菅直人が使う「絆」については、次のような疑問を持っていた。すなわち、彼がいう「絆」とは主としては自らの意思で選びとった人間関係を指しており、市民団体やNPO内における人間関係や、これらと例えば被災者との間の「絆」のことを主としては意味させようとしているのではないか、と。
 そして、「絆」とは異なる別の貴重な日本語があることも意識していた。それは、「縁」だ。「縁」とはおそらく(辞典類を参照したことはないが)、個人の「意思」とは無関係に、宿命的なまたは偶然に生じた人間関係のことで、例えば、<地縁>、<血縁>などという言葉になって使われる。これらは菅直人が好みそうな「絆」とは違うものではないか。「縁」による人間関係も広義には「絆」なのかもしれないが、後者を狭く、個人の意思による選択の要素が入るものとして用いれば、「絆」と「縁」は別のものなのではないか。
 そして、かなり大胆に言えば、「左翼」はどちらかというと個人の意思の介在した「絆」を好み、血や居住地域による、非合理的な「縁」という人間関係は好まないのではないか、「保守」の人々ははむしろその逆に感じる傾向があるのではないか、と思ってきた。
 さて、被災地において「地縁」関係が重要な意味を持ったし、今後も持つだろうということは明らかだが、戦後日本で一般に「血縁」というものが戦前ほどには重要視されなくなったことは明らかだろう。
 戦前の「家族」制度に対する否定的評価は-それは「悪しき」戦前日本を生んだ温床の一つとされた-「個人の(尊厳の)尊重」と称揚と対比されるものとして幅広く浸透したし、現にしている、と思われる。
 「個人の尊重」は書くが「家族」にはいっさい言及しない日本国憲法のもとで-樋口陽一は現憲法の中で最重要なのは13条の「個人の尊重」だとしばしば書いている-、「血縁」に重要な意味・位置を戦後日本と日本人は与えてこなかったのではないか、広義での「絆」の中に含まれる基礎的なものであるにもかかわらず。
 もちろん、親(父または母)と子の間や「家族」の中の<美しい>人間関係に関する実話も物語も少なくなく紹介されたり、作られたりしている。
 だが、本来、基本的な方向性として言えば、樋口陽一ら<左翼>が最重要視する「個人の(尊厳の)尊重」と「血縁」関係の重要性を説くことは矛盾するものだ。親子・家族の<美しい>人間関係を語ることには、どこかに上の前者と整合しない要素、または<きれいごと>も含まれているのではないか。こんな関心から、さらに何がしかを追記していこう。

1169/朝日新聞4/11天声人語の「法的」素養の欠如。

 朝日新聞4/11朝刊の天声人語がエラそうに、じつはアホなことを書いている。
 自民党の憲法改正案を皮肉り、それとの比較で橋下徹の見解を「常識的な見解」と持ち上げる過程で、次のような馬鹿な言辞を吐いている。
 「憲法は国民が国家を縛るもの、法律は国家が国民を縛るもの。向きが逆さになる。」

 このあとこの旨を「憲法99条が象徴的に示している」と続けているのだが、憲法99条のどこに「法律は国家が国民を縛るもの」という趣旨が含まれているのか。
 そもそも「法律は国家が国民を縛るもの」という理解が間違いであり、戯けた言辞だ。
 法律は議会(立法権)が制定し、国家の中の行政権と司法権を拘束する(「縛る」)もので、第一次的機能は「国民を縛る」ものではない。行政権の諸活動や司法権(裁判所)の判決を拘束する(「縛る」)ことこそが、憲法に違反していないかぎりでの法律の本質的な機能だ。行政は「法律を誠実に執行」しなければならず、司法(を担当する裁判官)は憲法と良心のほか「法律」にのみ拘束される。

 天声人語執筆者はそのお好きな日本国憲法の73条1号と76条3項を読んでみたらどうか。

 なるほど法律は直接に特定の又は一定範囲の国民を拘束する(「縛る」)ことがあるが、それはその他のもしくは別の一定範囲の国民の利益を、又は社会公共の利益を守るためのものだ。
 「法律は国家が国民を縛るもの」と書いてしまう天声人語執筆者は、いったい何のために縛っているのか考えたことがあるのか。

 刑法は(特定の、又は特定行為をする)国民を縛っていると言えるかもしれないが、どの刑法入門書にもそれは「個人的」・「社会的」または「国家的」法益を守るためのものだと書いているはずだ。また、罪刑法定主義によって、法律の定めによらない(国家=裁判所による)刑罰の賦課を阻止しようとしている点をとらえれば、刑法という法律は当然に国民を守る重要な機能を持っている。

 民法はどのように、いかなる意味で「国民を縛るもの」なのか。朝日新聞・天声人語執筆者は具体的例を挙げてみるがよい。きっとできないだろう。基本的には、民法は国民相互の権利義務に関する紛争を解決するための、司法権(裁判所)を拘束する裁判規範として機能するものだ。決して単純に「国民を縛るもの」ではない。
 個々の行政法規は、直接に(民法とは違って国民が出訴しなくとも)行政権・行政機関を拘束するものだ。国民を拘束する命令等を行政機関に授権することもあるが、法律がないかぎりで国民を拘束する命令を出せないという意味では、国民を守っている。またそもそも例えば生活保護法という法律のように、国民に「権利」を付与するもので、決して「国民を縛るもの」という性格づけをできない法律も少なくない。
 議会(立法権)は他の二権と違って国民により選出された議員により構成されているので、むしろ議会制定法=法律は、国民代表が司法権と行政権を「縛る」ものだ、と言える。お分かりかな? 朝日新聞、天声人語殿。
 天声人語が「憲法は国民が国家を縛るもの、法律は国家が国民を縛るもの。向きが逆さになる。」などというバカげたことを書いているのは、日本のマスメディアの知識レベルの低劣さを示す典型でもあろう。
 憲法改正に関する議論でも、日本のマスコミが産経新聞も含めて、いかほどに適切な記事や論評を書いたり、議論を展開させることができるのか、はなはだ疑わしいと思っている。何しろ、<よりよい・よりマシな憲法を>という問題意識を欠落させたまま、長い間眠り続けてきた日本人を作りだし、その
先頭に立ってきたのは、朝日新聞を筆頭とする日本のマスメディア(に従事する天声人語子等)に他ならない。
 産経新聞ですら、改憲の必要はしばしば訴えてはいるものの、具体的な諸論点についての「法的」な理解は心もとないところがある。護憲派の朝日新聞・毎日新聞となるとなおさらだ。「法的」素養の欠如は、4/11朝日新聞・天声人語が見事に示してくれている。そもそも朝日新聞・天声人語に、憲法や法律に関する(以上では言及を省略したが)「そもそも」論を述べる資格はない、というべきだろう。

1157/週刊朝日12/21号、森田実-日本での「右派」性は欧州では<あたりまえ>のこと。

 〇週刊朝日12/21号の表紙は「原発再稼働派 悪夢の430議席」と大きく謳っている。中身を読むと「原発再稼働派」とは少なくとも「民自公維」の四党を指しているらしい。
 記事中の森田実の予測では4党合計で419、田崎史郎のそれでは436なので、これらから「430」と記者(そして編集長)は表現したようだ。
 細かくいえば国民新党や新党改革も単純な「反・脱原発」派ではないと思うが、それは別として、興味深いのは週刊朝日がこの430議席/480を、「悪夢」と表現していることだ。
 すなわち、週刊朝日は「原発再稼働派」ではない、日本未来の党、社民党、共産党(、ついでに新党日本=田中某)らと同じ立場(・立ち位置)にいることを自ら明瞭にしているわけだ。
 前回に書いたばかりだが、日本未来の党、社民党、共産党らは「左翼」政党と称してよく、これらと同じ立場に立つのも、朝日新聞社系の週刊誌ならば、不思議でも何でもない。朝日新聞グループの「左翼」性をあらためて確認することになる
だけだ。
 その「左翼」性からすれば、自民党単独過半数獲得等の予想は、まさに「悪夢」に違いない。朝日新聞本紙も週刊朝日も最近は何やら精彩を欠くよう見えるのは、民主党による「歴史的」政権交代に喝采を浴びせたことを少しは気恥ずかしく感じているからだろうか。それならばよいが。一時的に温和しくしているだけの可能性が高い。
 〇森田実は一部の自民党候補の推薦者に名を連ねているが、そのことと矛盾するかのような次のような発言を、上記週刊朝日に載せている。
 「参院選で維新が飛躍すれば、公明を外した『自維連立』も考えられる。そうしたら極右政権の誕生で、一気に『戦争ができる国』へかじを切ることになる」(p.32)。
 一部の自民党候補の選挙公報上の推薦者になっておいて、上のような、「極右…」とか「戦争ができる…」とかの表現はひどいだろう。
 ひょっとすれば、週刊朝日の記者または編集長・小境郁也が元の森田の言葉を修正・改竄したのかもしれない。それくらいのことを、朝日グループの記者たちはするだろうし、これまでもしてきた。
 そうでないとすれば、元日本共産党員だった森田の「地」の気分が思わず出たことになるのかもしれない。どちらでもよい、些細な問題だが。
 〇森田実の発言の正確さはともかく、自民党(とくに安倍晋三)や維新の会(とくに石原慎太郎)の主張について「右派」、「右翼」、「右傾化」といった批判をしばしば目にする。
 だが、きちんと指摘しておきたいことだが、①国家が国家・国民の防衛のための軍隊(国防軍・自衛軍)をもつこと、②「集団自衛権」をもち、かつ行使することは、NATOに加盟している諸国、つまりドイツも社会党出身大統領のフランスも、あるいはチェコ等々でも当たり前のことであり、当たり前の現実であって、<ごくふつう>のことなのであり、欧州的意味での「左翼」政権の国でも変わりはない、ということだ。
 上の二点の主張をもって「右派」、「右翼」、「右傾化」というならば、NATOに加盟している諸国はすべて「右派」、「右翼」であり「右傾化」していると叙述しなければならない。朝日新聞は、そのような書きぶりをしないと論旨一貫していないことになる。
 つまりは、上の二点のような主張をし、憲法改正や憲法解釈変更を唱えることをもって「右派」、「右翼」、「右傾化」と評する一群の者たちがなお存在するというのは、じつに日本に特殊・特有の、異様な現象なのだ。このことに気づかない、1947年時点での思考状態のままで停止したままの政党や人々を、できるだけ早く消滅させ、またはできるだけ少なくする必要がある。日本が生き延びるためには。

1156/朝日・NHKとともに中国展を共催する毎日新聞12/12社説と総選挙。

 毎日新聞は、「第二朝日」などと言われないように、せめて朝日と読売新聞の「中間」あたりの読者層をターゲットにしたらどうなのだろう。日中国交「正常化」40周年記念の「特別展・中国王朝の至宝」を東京国立博物館・NHK・朝日新聞社!ともに「主催」していて(後援は日本外務省・中国国家文物局・中国大使館!)、中国・同共産党に不満を与えたくないためだろうか。
 毎日新聞の12/12の社説は、自民党の尖閣諸島への「公務員の常駐や周辺漁業環境の整備を検討する」という公約にイチャモンをつけている。
 同社説によると、「公務員を常駐させたり船だまりを造ったりすれば、日中の対立をことさらあおり、中国にさらなる実力行動の口実を与えかねない。紛争は日米の利益に反する」、のだそうだ。

 また同社説は、「自民党や日本維新の会の候補者に保守化の傾向が強まっていること」への憂慮を示している。
 今回の総選挙の注目点の大きな一つは、「左翼」政党がどの程度の議席を獲得するか(どの程度減らすか)、だと思っている。
 ここでいう「左翼」政党とは、東京都知事選挙で宇都宮健児を支持している党だといえば、分かりやすい。すなわち、日本未来の党、社民党、共産党だ。
 小沢一郎が「社会民主義」や「共産主義」の政党と手を組むまでに<落ちぶれた>ことも刮目すべきことだと思うが、それは措くとして、保守化・「右傾化」を憂えている毎日新聞は、これらの政党(または民主党旧社会党系の「左翼」)の主張と近似の主張をしているのであり、それがいかほどの国民または「世論」の支持を受けることになるのか、余計ながら真面目に再検討した方がよいだろう。
 もっとも、たとえば憲法改正・自主憲法制定や国防軍の設置が第一の争点になっていないこともあり、自民党と日本維新の会の個々の議員候補者や支持者が実際にどの程度これらを支持しているかは分からない。
 週刊現代12/22・29号によると、テレビ朝日系「報ステ」(12/07?)に出席した安倍晋三が石原慎太郎とともに「時間の3分の2近く」を使って憲法改正論を「ブチまくった」翌日、ある自民党選対関係者は「あれじゃ、まるで右翼だ。票を減らすのは確実だろう。終わった」と嘆いた、という(p.56-57)。
 週刊誌がいかほどに正確な記事を書いているかは十分に疑わしいが、以上が事実だとすると、まことに嘆かわしい自民党関係者の言葉だ。
 とくに社民党の福島瑞穂が喚いていていてくれるおかげで、憲法改正は低い順位ながらも選挙の争点にはなっている。そして、石原慎太郎のほか、かつて自民党草案をまとめた桝添要一(新党改革)、「ブレない保守」国民新党の自見某らが憲法改正はしごく当然のことという趣旨で発言しているので、改憲(とくに9条2項を削除しての正規「軍」保持)の主張が決して一部の「右翼」の主張ではない、ということが、ある程度はふつうの国民・有権者にも伝わっているようで、将来も考えると希望を持ってよいような気がする。
 だが、いずれまた書くかもしれないが、かりに改憲主張の政党が2/3以上の議席を得たとしても、ただちに改正の発議にはならないことは当然だ。
 参議院もあることとともに、やはり自民党と日本維新の会等が各党内で、どの程度結束し、どの程度の「本気・覚悟」を持つかにかかっている。安倍晋三・石原という党首が同意見であることが近い将来の改憲を楽観視できる根拠にはまったくならないだろう。
 月刊WiLLの1月号(ワック)が<私が安倍総理に望むこと>を10人の論者に(早くも?)書かせているが、西部邁の名もあるので興味を惹いた。
 そして、西部が温和しく(?)安倍晋三への皮肉を一言も記すことなく、安倍への期待を書いていることに驚き、ある意味では安心した。「右派」ではなく「保守リベラル・社民リベラル」の側に立つ旨を明言し、憲法改正に反対している(9条護持論に立つ)中島岳志と西部は全く同じではない、と見てよいだろう。
 もっとも、最後には、安倍への直接の皮肉ではないにしても、「…といってみたものの、この私、この世にそんな素晴らしいことが起こるとは少しも信じていない」、だから安倍はこの文章を無視してよいと書いているのだから、さすがに、西部邁はシニシストでありニヒリストだ。
 現実に影響を与える可能性のある言論活動をすることなどはとっくに諦め、自分の観念・意識の中でそれなりにまとまった世界を描かれていればそれで満足する、という境地に達しているかのごとくだ。発言内容は同じではないが、こうしたスタンスは佐伯啓思のそれともかなり似ていると思われる。
 総選挙について、各党の公約や党首の発言等々について、書きたいことは多いのだが…。

1154/佐伯啓思があまり語らない「天皇」につき、2009年に語っていた。

 一 佐伯啓思日本という「価値」(NTT出版、2010)、日本の愛国心(NTT出版、2008)という著書を発行し、最近に記したように「近代民主主義」とうまく結合しないものとして「日本的なるもの」を語っている(新潮45今年8月号)。
 西欧所産の「近代民主主義」よりも「日本的なるもの」に身を寄せていることはほとんど明らかで、また日本にかかわって「価値」や「愛国心」を論じているのだから、「日本的なるもの」についてのある程度は具体的イメ-ジを提示してきていると想定しても、何ら不思議ではないだろう。
 上の二著すら手元に置かないで書くが、これらを読んでも、じつは彼のいう「日本的なのもの」とは何かは、はっきりしていない、と言える。
 「日本(的なるもの)」を語る場合に佐伯啓思が全くかほとんど触れることがないもの、その一つは「天皇」だ。もう一つは、菅野覚明・仏教の逆襲(講談社現代新書、2001)に上のいずれかの中で言及していた記憶はあるが、神道および日本化された仏教という「日本の宗教」だ。
 佐伯啓思の本領または得意分野が西欧近代(の思想・原理)にあるとしても、「日本的なるもの」に言及して、上の二つについてはほとんど立ち入った論及をしていないのは、読者には少なくとも物足りないところがある。あえて、偏頗すぎるとか、保守されるべきものとして語られる可能性がある「日本(的なるものの)」の具体的な象がきわめて不明確だ、といった批判形を使うのはやめておこう。
 二 佐伯啓思が「天皇」について語っている文章はないかと探していたら、隔月刊・表現者2009年9月号の佐伯「『天皇』という複雑な制度をめぐる簡単な考察」(p.68-71)を見つけた。
 「天皇」に関する叙述内容自体以前に、佐伯啓思という人物の「思想」を理解する上で興味深い文章があるので、まずはそれらを要約的に引用する。
 ・私は「戦後的なるもの」を批判的に見てきたが、「しかし、天皇という問題となれば、ある意味では、私自身もきわめて『戦後的なもの』の枠組みに捕らえられているというべきなのかもしれない」。
 ・なぜなら、私には天皇や皇室への「人物的な関心」がなく、まして、天皇・皇室への「深い敬愛に基づいた情緒的な関心を示すなどということが全くないから」だ。「天皇陛下や皇室の方々の人柄だとか、その人格の高潔さだとか、といったことにはほとんど興味がない」。
 ・日本国憲法第一条のうち天皇は日本国および日本国民の「象徴」という部分も、「象徴」の意味は問題になるにせよ、「しごく当然のことであろう、と思う」。
 以上で、佐伯啓思のこの文章のほぼ1/4は終わっているが、ここで示されている心情からすると、次のことが言えそうだ。
 第一。安倍晋三らは<戦後レジ-ムからの脱却>を唱えている。だが、佐伯啓思は<戦後レジ-ム>あるいは「戦後的なもの」から完全に離れるべきだとは少なくとも心情レベルでは感じていない。「戦後的なもの」を自分の意識に内包していることを自覚しつつ、それを問題視する感覚がなさそうだ。
 第二。自民党が2012年4月に決定・発表した日本国憲法改正案の一条の前半は「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって…」とある。断定はし難いが、佐伯啓思は、天皇を「元首」とすることを「しごく当然」とは感じず、違和感を感じてしまうのではないか。
 以上のあと佐伯啓思は、明治憲法上の「天皇」には西欧的立憲君主と日本の歴史の中で構成された神格性をもつ世襲的存在の二重構造があり、これを一つにする必要があったことに「明治近代化の悲劇」がある、三島由紀夫は政治的概念としての天皇と区別される文化的概念に「天皇の本義」を求めようとしたが、「天皇」概念には元来「政治的意味合い」、「日本の王権」の政治的正当性を特徴づけるという意味があった、といった趣旨を述べている。
 「左翼」歴史学者と同様に「王権」という語を使っていることも気になるが、より気になることは別の点にもある。次回に扱おう。

1148/佐伯啓思に問う、「大衆迎合」・「ポピュリズム」でない「政治文化」はどのように。

 佐伯啓思産経新聞11/22の「正論」の見出しは「大衆迎合の政治文化問う総選挙」で、「大衆迎合の政治文化」、佐伯の別の表現では「あまりにポピュリズムや人気主義へと流れた今日の政治文化」に決着をつけられるか否かが今回の総選挙で問われているとする。
 もちろん「大衆迎合」・「ポピュリズムや人気主義」に批判的な立場から佐伯は書いている。佐伯に問いたいのは、では、「大衆迎合」・「ポピュリズムや人気主義」に陥らない「政治文化」とはどのようなもので(どのように名付けられるもので)、そしてそれはどのようにして形成、確立されるのか、だ。
 この問題に触れずして、「ポピュリズム」等に対する蔑視・批判の言葉を吐いているだけでは、何ら積極的で建設的な展望は出てこず、西部邁も、また佐伯啓思自身もよく使っている<シニシズム>を拡大するだけではないか。

1140/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか② 。

 〇8/21に月刊正論による自民党批判を今年8月号と書いたのは誤りで、正しくは7月号。
 6月号以降は月初めに購入せず、のちに古書で手に入れることにしており、かつ従来のように月刊正論を手元に置いておく癖をなくしたまま、確認しないで書いたがゆえの誤りだ。
 月刊正論7月号は<徹底検証/誰が殺した自民党>という特集を組んでいる。10本もの論考から成っていて、編集部が設定したはずのこのテーマは、自民党を「殺した」者がいること、つまり自民党は「殺されている」=「死んでいる」ことを前提として、犯人を探索させる、という趣旨になっている。自民党は「死んだ」という前提に月刊正論編集部は立っているわけだ(ちなみに、このテーマと必ずしも正面からは一致しない論考もあるが、執筆者と犯人とされた者は誰かは、田久保忠衛→谷垣禎一、田母神俊雄→麻生太郎、適菜収→小沢一郎、佐伯啓思→小泉純一郞、上念司→竹下登、倉山満→三木武夫、西尾幹二→中曽根康弘、阿比留瑠比→野中広務、中宮崇→河野洋平、潮匡人→安倍晋三)。
 このような前提的認識自体に疑問がある。少なくとも、疑問を差し挟む余地がある。このような認識をもつとすれば、自民党ではなく現在の民主党こそが、とっくに自壊・分裂して?「死んでいる」という認識・見解も、月刊正論編集部は示さなければならないのではないか。
 民主党政権の三年間の批判的総括の特集がないのは先日に書いたとおり。6月号に<特集/左翼諸君よ、反省しなさい!>があって4本の論考を載せているが、このテーマに即しているのは佐々淳行「進歩主義者の知的退嬰を糾す」くらいで、河添恵子らの「女3人言いたい放題/保守の男と革新のオトコを比べてみれば」という、<遊び>の企画も含んでいる。そして、この特集も、「左翼」・民主党政権の具体的批判とはまるで関係がない。
 「保守派」らしき月刊雑誌が、「保守」・「右」の立場から自民党批判の特集を組むことはありうるだろうが、より熱心でなければならないのは、現実に政権=権力を持っている「左翼」・民主党に対する批判でなければならないのではないか。
 〇月刊正論9月号の「編集者へ/編集者から」の中には、目を剝く「編集者」の文章がある。
 目を剝いた、驚きかつ戦慄を覚えた部分は後回しにして、読者と編集部のやりとりを簡単に要約しておこう。
 ある80歳を超えている読者が、月刊正論には「時々、違和感のある内容の文章も散見されるので、あえて苦言と希望を併せて述べる」という観点から、月刊正論8月号の伊藤悠司「田中卓先生、それを詭弁と言うのです」(p.256-)を読んで「貴誌の姿勢というか、見解を疑いました」と書き始め、「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」に「甚だしい違和感を覚えた」、「名のある他人に対する非礼な書きぶり」を掲載している月刊正論に「失望を禁じえない」と続けている。内容的にも「いたずらに異見を責めるのではなくて、国民のための落着点を求めようとする姿勢」が月刊正論のような「日本護持の気持ちの強い月刊誌」には「大切」ではないか、と書き送っている(9月号p.325-6)。
 これに対する「編集者」の応答は、素っ気なく、冷たいものだ。
 「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」という「指摘はどうでしょう」、「編集者は冷静で落ち着いた筆の運びと感じました」。
 一毫も一読者の感想・意見を容認・受容することなく、バッサリと切り捨てている。せっかく投稿してくれた読者に対して、こんな姿勢・態度でよいのだろうか、という感想がまず湧く。
 ここで問題になっているのは、女系天皇容認論者らしき田中卓(元皇學館大学教授・学長)に対する伊藤悠司の「書きぶり」だ。
 論争の中身にはさしあたり立ち入らずに、「書きぶり」ははたして「編集者」が言うように「冷静で落ち着いた」ものかどうか、という観点から、8月号の伊藤論考を見てみた。
 結論的には、月刊正論「編集者」が言うように全面的に「冷静で落ち着いた」ものとはいえず、感情的な文章を含み、読者によっては(とくに田中卓に同調したり、彼に敬意を感じている読者には)、「悪意と誹謗に満ちた…」と感じてもやむをえない文章もある、ということだ。
 例を引用しておく。
 ・「…というのは…無頼漢のサカシラゴトである」(p.259)。
 ・「…とは恐れ入る。ラーメンでも寿司でも昼飯は何でもいいというような口ふりで皇室を語っていることに〔田中卓は〕気がつかないのだ」(同上)。
 ・「これほど理を非に言い曲げるこじつけが上手な人もそうはいない。田中氏のは一級品である」(同上)。
 ・「こんな人物が皇學館大学の学長をつとめていたとは驚かざるをえない。神宮の神域に立ち入ることを禁じたらどうか」(p.260)。
 ・「この人はよく皇室を言祝ぐ」が、そうしながら「皇室を貶めるのに成功している文章に接してあきれてしまう。民族的信仰心とでもいうべき精神性からは遠い。傲慢な手つきしか見えない」(p.261)。
 ・「この人〔田中卓〕が眺めている日本の将来像や風景には、ふつうの神経の人が正視できないものが映っているのかもしれない」(p.266)。
 これらの文章を含む論考を月刊正論「編集者」は、「冷静で落ち着いた筆の運びと感じました」と評している。
 月刊正論「編集者」の感覚は、やはり少しおかしいのではないか。とくに上のp.266は対象者を(「かもしれない」としつつも)<狂人>扱いしているごとくであり、かなりの、「悪意と誹謗に満ちた書きぶり」と称しても、差し支えないように感じる。
 月刊正論編集長・桑原聡、編集部員・川瀬弘至らは、やはり、どこかおかしい。まともな、月刊雑誌編集者と言えるのだろうか。
 驚きかつ戦慄を覚えた部分については、さらに後回しにする。
 なお、この文章は女系天皇容認論を支持する立場からのものではまったくない。

1138/月刊正論(産経、桑原聡編集長)の編集方針は適切なのか?①

 〇「Weekly 雑誌ニュース」というサイトによると、各雑誌の月間発行部数は、文藝春秋約60万、潮約40万、WEDGE-約16万、サピオ約12万、月刊WiLL-11万、エコノミスト8万、月刊ボイス-約3万、らしい。
 月刊正論、新潮45、世界等については「調査中」とある。
 但し、この欄で既述のように、雑誌・撃論3号(2011.11)の編集部による文章によると、<月刊WiLLの販売部数は月平均約10万部、産経新聞社の月刊正論は実売2万部以下>らしい。
 月刊WiLLについての上の両者の数字が11万・10万とほぼ同数であることからすると、月刊正論についての数字も、信頼してよさそうに見える。
 歴史があり、新聞社に支えられている(はずの)月刊正論(産経)よりも、後発の、同じく一般には
<保守>派とされていると思われる月刊WiLL(ワック)や月刊ボイス(PHP)の方が、よく売れているわけだ。
 とくに、月刊正論は月刊WiLLの5ないし6分の1程度しか読まれていない(売れていない)、ということは興味深い。
 以上のことは、以下に述べることと直接の関係はない。但し、現在の編集方針だと(つまりは現在の編集長・編集部員だと)、販売部数は増えそうにない、という気はする。
 〇月刊正論やその個々の論考については言及したいことは多い。さしあたり、月刊正論全体ないしその編集方針について、まず、いくつかをごく簡単にコメントする。
 ①「近いうち」の衆議院解散・総選挙という時期なので、あるいはずっと前から今年(2012年中)の解散・総選挙の可能性は高いと言われてきたので、政治・社会系総合雑誌がすべきことは、私見では、<(2009年誕生の)民主党政権とは何であったか・民主党政権はいったい何をしてきたか>という総括だろう。
 これが月刊正論にはほとんど見られないようだ。少なくとも「特集」は組まれていない。
 この点では、月刊文藝春秋8月号が「政権交代は何をもたらしたのか―民主解体『失敗の本質』」という特集を組んでいることの方が(p.116-)が、決して「保守派」雑誌でないにせよ、時代的・時期的センスが(月刊正論編集部よりも)優っている。

 また、月刊WiLL9月号は「総力大特集/醜悪なり民主政権」と銘打つ特集を組んで、4本以上の論考を載せている。山際澄夫「朝日新聞は土下座して読者に詫びよ」(p.84-)などは、反民主党、反朝日新聞の読者を少しは痛快な気分にさせるだろう。
 ②朝日新聞や岩波・雑誌「世界」らは、2009年の民主党政権樹立へとムード・空気を煽ってきた。2009年の投票日に並んでいた月刊世界の表紙のタイトルは「政権選択選挙へ」だったと記憶する。さすがに「政権交代選挙へ」とは打てなかったのだろう。だが、総選挙とはつねに「政権選択選挙」たる性格をもつことからすると、月刊世界のタイトルの含意は明瞭だった。
 政権交代を朝日新聞等は「歴史的」と表現して歓迎した。自分たちの世論誘導は見事に効を奏したのだった。
 従って成立した民主党政権を罵倒するはずはないのだが、残念ながら民主党内閣の「失点」は相次ぎ、叱咤激励はするものの、政権交代の現実的なプラスの成果を、朝日新聞らは提示できなかった、と思われる。
 だが、朝日新聞らが意図したことは、<民主党政権は批判されるべきだが、自民党政権に戻してもダメだ>という世論形成だった。民主党がダメだとしても、自民党が良いわけではない、というのが彼らの<矜持>あるいは<面子>からする主張だった、と思われる。そして、これまた、そのような世論形成は、相当に成功したように見える。
 「保守派」のはずの月刊正論(産経)も、そのような雰囲気に対抗することはせず、むしろ、その編集長は、2011年4月号に、次のように書いていた。あの3.11の起こった時点の、編集長・桑原聡の文章だ。 
 「…民主党内閣が、憲政史上最低最悪の内閣であることは多くの国民が感じているところだろうが、かりに解散総選挙が行われ、自民党が政権を奪回したとしても、賞味期限の過ぎたこの政党にも、わが国を元気にする知恵も力もないように思える」(p.326)。
 解散・総選挙の現実的可能性が高まった現在でも、桑原聡はこう考えているのだろうか。このような見解は、<民主党はもちろん、自民党にも投票するな>と言っているに等しい。
 どちらがよりマシか、どちらがより「保守的」か、どちらが現憲法改正草案を持っているか(九条2項削除を明確な方針としているか)、どちらに靖国神社参拝をする議員が多いか、などを考えれば、編集長・桑原聡の上の文章は、ほとんど、朝日新聞らの「左翼」と同じだ。
 自民党よりも「保守的」な有力政党の結成・誕生を見ていない現在では、多少は異なる見解に至っていることを期待したい。だが、月刊正論の(2012年)8月号は、<自民党批判>の特集を組んでいる。解散・総選挙が近づいていることは客観的に明瞭だった時期に、月刊正論は、<民主党政権の総括的批判>ではなく<自民党批判>の特集を打ったのだ。
 この雑誌は、あるいはこの雑誌の編集長、その編集方針は、やはりどこかおかしい。とても<保守派>の雑誌とは思えない。
 ③今年2012年は、日本共産党創立90周年の年だ。産経新聞でもまともにこれを採り上げた記事は少なかった(あっても大きな紙面を用いたものではなかった)が、きちんと日本の「共産主義」政党の過去と現在を分析し、批判的に総括しておくことは、新聞ではなくむしろ「保守派」雑誌の役割だっただろう。
 しかるに、月刊正論は、これを怠っている、と見られる。月刊正論(編集部)は、いったい何と闘っているのか? いったい日本をどうしたいのか?
 編集長・桑原聡が早々に(今年初めの時点で)、橋下徹を「きわめて危険な政治家」、日本「解体」を意図している、と論定してしまったように、まるで政治的センスに乏しく、<いったい日本をどうしたいのか>について多少とも錯乱しているのではないだろうか?
 憲法改正は重要なテーマだが、この問題についての(大きな論点ごとでもよいが)特集は組まれていない。
 従来の、「固い」読者層を掴んでいれば大丈夫だという感覚なのだろうか。そのような感覚では、国民・有権者の過半数の支持が必要な憲法改正のために情報発信するメディアの中の中心に位置することはとてもできないだろう。
 以上のほか、9月号をごく最近に見ていて、月刊正論の「編集方針」に、あるいは編集部自身の文章に、<戦慄すべき>怖ろしさを感じた。
 長くなったので、次回に譲る。 
 

1116/憲法・「勤労の義務」と自民党憲法改正草案。

 〇憲法や諸法律の<性格>について、必ずしも多くの人が、適確な素養・知識をもっているわけではない。
 憲法についての、「最高法規」あるいは<最も重要な法>・<成文法のうち国家にとって重要な事項を定めたもの>といった理解は、例えばだが、必ずしも適切なものではない。
 また、憲法に違反する法律や国家行為はただちに無効とは必ずしもいえない(そのように表向きは書いてある現憲法の規定もあるが)。そして、国民間(民間内部)の紛争・問題について、憲法が直接に適用されるわけでも必ずしもない。これらのことは、おそらく国民の一般教養にはなっていないだろう。
 塩野七生・日本人へ/リーダー篇(文春新書、2010)は「法律と律法」について語り(p.42-)、憲法はこれらのうちいずれと位置づけるのかといった議論をしているが、ボイントを衝いてはいないように思われる。失礼ながら、素人の悲しさ、というものがある。
 保守系の論者の中に、現憲法は国民の権利や自由に関する条項が多すぎ、それに比べて「義務」(・責務)に関する規定が少なすぎる、との感想・意見を述べる者もいる。櫻井よしこもたしか、そのような旨をどこかに書いていた。
 宮崎哲弥週刊文春5/17号の連載コラムの中で、「憲法の眼目は政府や地方自治体など統治権力の制限にあり、従って一般国民に憲法に守る義務はない」と一〇年近く主張してきたと書いている。この主張は基本的な部分では適切だ。
 もっとも、憲法の拘束をうける「統治権力」の範囲は、少なくとも一部は、実質的には「民間」部門へも拡大されていて、その境界が問題になっている(直接適用か間接適用かが相対的になっている)。
 上の点はともあれ、国家(統治権力)を拘束することが憲法の「眼目」であるかぎり、<国民の義務>が憲法の主要な関心にはならないことは自明のことで、「義務」条項が少なすぎるとの現憲法に対する疑問・批判は、当たっているようでいて、じつは憲法の基本的な性格の理解が不十分な部分があると言えるだろう。
 〇その宮崎哲弥の文章の中に、面白い指摘がある。この欄ですでに言及した可能性がひょっとしてなくはないが、宮崎は、現憲法27条の国民の「勤労の権利」と「勤労の義務」の規定はいかがわしく、「近代憲法から逸脱した、むしろ社会主義的憲法に近い」と指摘している。宮崎によると、八木秀次は27条を「スターリン憲法に倣ったもの」と断じているらしい(p.135)。
 現憲法24条あたりには、「個人」と「両性の平等」はあるが「家族」という語はない。上の27条とともに、現憲法の規定の中には、自由主義(資本主義)諸国の憲法としては<行きすぎた>部分があることに十分に留意すべきだろう。
 自民党の憲法改正草案の現憲法27条対応条項を見てみると(同じく27条)、何と「義務を負ふ」が「義務を負う」に改められているだけで、ちゃんと「勤労の義務」を残している(同条1項)。
 もともとこの憲法上の「勤労の権利・義務」規定がいかなる具体的な法的意味をもちうるかは問題だが、<社会主義>的だったり、<スターリン憲法>的だとすれば、このような条項は削除するのが望ましいのではないか。
 旧ソ連や北朝鮮のように<労働の義務>が国家によって課され、国家インフラ等の建設等のための労働力の無償提供が、こんな憲法条項によって正当化されては困る(具体化する法律が制定されるだろうが、そのような法律の基本理念などとして持ち出されては困る)。また、女性の子育て放棄を伴う<外で働け(働きたい)症候群>がさらに蔓延するのも―この点は議論があるだろうが―困る。
 自民党の憲法改正意欲は、九条関係部分や前文等を別とすれば、なお相当に微温的だ。<親社会主義>な部分、<非・日本>的部分は、憲法改正に際して、すっぱりと削除しておいた方がよい。

1115/福島みずほ(社民党・弁護士)の暗愚と憲法改正。

 〇福島みずほ(社民党)は東京大学法学部出身でかつ弁護士(旧司法試験合格者)でもあるはずだが、政治活動をしているうちに、憲法や人権に関する基礎的なことも忘れてしまっているのではないか。
 憲法9条に関する、(アメリカとともに)「戦争をできる国」にするための改正反対という議論は、妄想のごときものなので、ここでは触れない(なお、「防衛戦争」もしてはいけないのか、というのが、「戦争」という語を使えば、基本的な論点になろう)。
 福島みずほは、月刊一個人6月号(KKベストセラーズ)の憲法特集の中で、「国家権力に対して『勝手に個人の権利を制限するな』と縛るのが憲法の本来の目的だった」と、いちおうは適切に書いている。G・イェリネックのいう国民の国家に対する「消極的地位」だ。
 これは国家に対する国民の「自由」(国家からの自由)の保障のことだが、福島はつづけて、「だからこそ」「『国家はしっかり我々の生存権を守りなさい』とも言える」と続けている(p.93)。
 生存権保障は自由権とは異なる社会権保障とも言われるように、国家に対して作為・給付を要求する権利の保障で、G・イェリネックは国民の国家に対する「積極的地位」と言っているように、「自由」(消極的地位)とは異なる。
 「だからこそ」などとの簡単な接続詞でつないでもらっては困る。
 それにまた、福島は東日本大震災で、憲法一三条の「幸福追及権」や憲法二五条の「生存権」が「著しく侵害されている状態」だというが(p.93)、第一に、憲法の人権条項は何よりも国家との関係で意味をもつはずなのに(これを福島も否定できないはずだろうが)、国家(日本政府等)のいかなる作為・不作為によって上記の「著しい」人権侵害状態が生じているのかを、ひとことも述べていない。困った状態=「国家による人権侵害」ではない。
 第二に、生存権にも「自由権」的側面があり、「幸福追求権」は自由権的性格を基礎にしつつ「給付(国務)請求権」性格ももちうることがありうるものだと思われるが(この二つを同種のものとし単純に並べてはいけない)、そのような自由権と給付請求権の区分けを何もしていない。
 ほとんど法学的議論・論述になっていないのだ。
 ついでにいえば、「生存権」にせよ「幸福追求権」にせよ、憲法上の人権であることの法的意味、正確には、それらの<具体的権利性>について議論があり疑問があり、最高裁判決もあることを、よもや弁護士資格取得者が知らないわけはないだろう。
 憲法に素人の読者に対して、震災は憲法上の「幸福追求権」や「生存権」と関係があるのよ、とだけ言いたいのだとすれば、ほとんどバカだ。
 〇阿比留瑠比ブログ5/04によると、福島みずほは、この月刊一個人6月号の文章とかなり似たことを、5/03にJR上野駅前で喋ったようだ。
 こちらを先に引用すると、上のようなことの他に、福島はこうも言っている(阿比留ブログより引用)。
 「先日発表された自民党の憲法改正案は、逆です。国民のみなさんの基本的人権をどのように、どのようにも剥奪できる中身になっています。国民は公益、公共の福祉に常にしたがわなければならない。そうなっています。」
 上記雑誌ではこう書いている。
 「自民党の憲法改正草案には、『この憲法が国民に保障する権利を乱用してはならない。常に公益及び公の秩序に反しない範囲で自由を享受せよ』と書かれています。つまり権力者が国民に対して自由や人権を制限するという意味で、ベクトルが完全に反対になってしまっています。これは、ある意味もう憲法ではないとさえわたしは思います」(p.93)。
 福島みずほの頭自体が「逆に」または「ベクトルが完全に反対に」できているからこそ、このような罵倒になるのだろう。
 自民党改正草案の当該条文は、以下のとおり。
 11条「国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である」。
 12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民はこれを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」
 現憲法の条文は、次のとおり。
 11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」。
 12条「
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」。
 このように、第一に、「常に公益及び公の秩序に反してはならない」等の制約も、前条による基本的人権の保障を前提としたものだ。
 第二に、福島らが護持しようとする現憲法においてすら、
「…濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と明記されている。
 いったい本質的にどこが違うのか。福島が自民党案を「逆」だ、国家権力による人権制限容認案だとののしるのならば、現憲法についても同様のことが言えるはずなのだ。現憲法においても基本的人権を「濫用してはならない」し、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」のだ。
 福島みずほの改憲案憎し、自民党憎しは、この人物の頭の中の「ベクトルを完全に反対に」してしまっているようだ。
 この人物に客観さとか冷静さを求めても無駄なのだろう。あらためて、呆れる。
 〇なお、自民党草案は、上に見られるように現憲法の微修正で、マッカーサー憲法ないしGHQ憲法の抜本的な見直しになってはいない。
 九条改正・新九条の二設定はこれらでとりあえずはよいとしても、全体としてはもっと本格的な改正案(新憲法制定と言えるもの)が出されることが本来は望ましいだろう(改正の現実的可能性・戦略等々にもよる)。
 そして、私は上のような二カ条は、とくに(現11条の後半と)12条は、なくともよいと考えている。自民党、立案担当者は、もっと思い切った改憲案をさらに検討してもよいのではないか。
 このあたりは、憲法改正手続法の内容にも関係し、現憲法の条文名(数)を基本的には変えない(加える場合には九条の二のような枝番号つきの新条文にする)という出発点に立っていることによるようだ。
 あらためて調べてみたいが、番号(条文名)も抜本的に並び替える、という抜本的・全面的な改正は全く不可能なのだろうか。このあたりの問題は、産経新聞社の新憲法起草委員たちはどう考えているのだろうか。

1113/憲法改正・現憲法九条と長谷部恭男・岡崎久彦。

 一 自由民主党が日本国憲法改正草案を4/27に発表した。この案については別途、何回かメモ的なコメントをしたい。
 翌4/28の朝日新聞で、東京大学の憲法学教授・長谷部恭男は、<強すぎる参議院>が日本国憲法の「最大の問題」だとして、この問題(二院制・両院の関係・参議院の権能)に触れていない自民党改正草案を疑問視している。
 長谷部恭男はやはり不思議な感覚の持ち主のようだ。現憲法の「最大の問題」は、現九条2項なのではないか。
 潮匡人・憲法九条は諸悪の根源(PHP、2007)という本もある。橋下徹も最近、趣旨はかなり不明確ながら、日本の諸問題または「諸悪」の根源には憲法9条がある旨を述べていた(ツイッターにもあった)。
 忖度するに、長谷部恭男にとっては、自衛隊は憲法「解釈」によって合憲的なものとしてすでに認知され、実質的に<軍隊>的機能を果たしているので、わざわざ多大なエネルギーを使って、九条改正(九条2項削除と「国防軍」設置明記)を主目的とする憲法改正をする必要はない、ということなのかもしれない。
 「護憲論の最後の砦」が長谷部恭男だと何かで読んだことがあるが、上のようなことが理由だとすると、何と<志の低い>現憲法護持論だろう(この旨はすでに書いたことがある)。
 二 外務官僚として政治・行政の実務の経験もある岡崎久彦はかなりの思想家・評論家・論客で、他の<保守>派たちと<群れて>いないように見えることも、好感がもてる。
 月刊正論5月号に岡崎久彦「21世紀の世界はどうなるか」の連載の最終回が載っている。
 「占領の影響と、そして冷戦時代の左翼思想の影響がその本家本元は崩壊したにもかかわらず、まだ払拭されていないという意味では、日本の二十世紀は、ベルリンの壁の崩壊でもまだ終わっていないのかもしれない」(p.261)という叙述は、まことに的確だと思われる。多くの(決して少数派ではない)評論家・知識人らしき者たちが平気で「冷戦終結後」とか「冷戦後」と現在の日本の環境を理解し表現しているのは、親中国等の<左翼>の策略による面があるとすら思われる、大きな錯覚だ。中国、北朝鮮という「社会主義」国が、すぐ近隣にあることを忘れてしまうとは、頭がどうかしている。北朝鮮の金「王朝」世襲交替に際して、金正恩は、「先軍政治」等と並んで、「社会主義の栄華」(の維持・発展)という言葉を使って演説をしたことを銘記しておくべきだ。
 上の点も重要だが、岡崎久彦の論述で関心を惹いたのは、以下にある。岡崎は次のように言う(p.262)。
 婦人参政権農地解放は戦後の日本政府の方針で、GHQも追認した。日本の意思を無視した改革に公職追放財閥解体があったが占領中に徐々に撤廃され、今は残っていない。
 「押しつけられた改革」のうち残ったのは憲法教育関連三法だったが、教育三法は安倍晋三内閣のもとで改正され、実施を待つだけだ。「今や残るのは憲法だけになっている」。
 しかし、軍隊保持禁止の憲法九条は、日本にも「固有の自衛権」があるとの裁判所の判決によって「実質的に解決されている」。自衛隊を国家に固有の「自然権」によって肯定したのだから、「自衛隊に関する限り憲法の改正はもう行われていることとなる」。
 「実質問題として残っているのは集団的自衛権の問題だけ」だ。政府の「頓珍漢な解釈を撤回」して集団的自衛権を認めれば「戦後レジームからの脱却はほぼ完成することになっている」。
 以上。
 きわめて興味深いし、柔軟で現実的な思考が表明されているとも言えるかもしれないが、はたして上のように理解すべきなのだろうか。「集団的自衛権」に関する(それを否認する)政府の<憲法解釈>を変えれば、条文上の憲法改正は必要はない、というのが、上の岡崎久彦の議論の帰結に近いと思われるが、はたしてそうだろうか。
 趣旨はかなり理解できるものの、全面的には賛同できない。「戦車にウィンカー」といった軍事的・技術的レベルの問題にとどまらず、「陸海空軍その他の戦力」の不保持条項(九条2項)は、戦後日本人の心性・メンタリティーあるいは深層意識にも多大な影響を与えてきたように思われる。
 集団的自衛権にかかる問題の解決もなされるべきだろうが、やはり九条2項削除・国防軍保持の明記も憲法典上できちんとなされるべきだろう。

1101/月刊正論編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言③。

 〇「産経新聞愛読者倶楽部」という名のブログサイトがあるようで、月刊正論5月号や産経新聞における適菜収とその内容を批判する投稿を紹介している。
 上の団体が本当に「保守」派なのかは知らないし(「左翼」の立場から産経を批判することはありうる)、他のブログからの引用・紹介はほとんどしたことがないのだが(もともと他のブログを見て読むことがほとんどない)、珍しくそのようなことをしてみる。
 〇4/07付で、「『B層』という嫌な言葉…産経新聞は橋下叩きをやめよ!」とのタイトルのもとで、まず、以下の投稿を掲載している(一部省略)。
 ①「産経新聞社発行の月刊『正論』5月号(3月31日発売)は『【徹底検証】大阪維新の会は本物か 理念なきB層政治家 橋下徹は『保守』ではない!』と題した論文をメーン記事として掲載しました。/筆者は適菜収という37歳の聞いたことのない哲学者です。この中で適菜は『B層』について『近代的理念を盲信する馬鹿』と定義して、橋下市長を『アナーキスト』『デマゴーグ』などと非難しています。/巻末の編集長コラム『操舵室から』でも桑原聡編集長が『編集長個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う』と表明しています。/
 雑誌を売るためにインパクトのある記事を載せているのなら仕方ないなと思っていたら、なんときのう(6日)の産経新聞1面左上(東京本社版)にも適菜収が登場して<【賢者に学ぶ】哲学者・適菜収 「B層」グルメに群がる人>というコラムを書いていました。B級グルメをもじって「B層グルメ」という言葉を紹介しています。『≪B層≫とは、平成17年の郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で『マスメディアに踊らされやすい知的弱者』を指す。彼らがこよなく愛し、行列をつくる店が≪B層グルメ≫だ』そうです。/締めくくりは『こうした社会では素人が暴走する。≪B層グルメ≫に行列をつくるような人々が『行列ができるタレント弁護士』を政界に送り込んだのもその一例ではないか』です。橋下叩きを書くために、延々と食い物と『B層』の話をしているだけの駄文です。/
 われわれ保守派としては、橋下徹氏が今後どのような方向に進んでいくかはもちろん分かりません。自称『保守』の中には小林よしのりや藤岡信勝のような偽物もいました。しかし、職員組合に牛耳られた役所、教職員組合に支配された教育現場を正常化する試みは橋下氏が登場しなければできませんでした。自民党は組合との癒着構造に加わってきたのです。私は少なくとも現段階では橋下氏を圧倒的に支持します。/

 そもそも『B層』という言葉には非常に嫌な響きがあります。適菜がいみじくも『馬鹿』と書いているように、いろいろな連想をさせる言葉です。/
 ちなみに適菜収はサイモン・ウィーゼンタール・センターから抗議を受けたこともあります。/読売新聞平成19年2月22日付夕刊/徳間書店新刊書の販売中止を要請 米人権団体「反ユダヤ的」/【ロサンゼルス=古沢由紀子】ユダヤ人人権団体の「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は21日、徳間書店の新刊書「ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ」について、「反ユダヤ主義をあおる内容だ」として、同書の販売を取りやめるよう要請したことを明らかにした。同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、『広告掲載の経緯を調査してほしい』と求めたという。/同書は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家の適菜収氏の共著で、今月発刊された。サイモン・ウィーゼンタール・センターは反ユダヤ的な著作物などの監視活動で知られている。/
徳間書店は、「現段階では、コメントできない。申し入れの内容を確認したうえで、対応を検討することになるだろう」と話している。/
 産経新聞平成19年2月23日付朝刊/米人権団体『反ユダヤ的陰謀論あおる』本出版、徳間に抗議/【サンフランシスコ=松尾理也】米ユダヤ系人権団体のサイモン・ウィーゼンタール・センター(ロサンゼルス)は21日、日本で発売中の書籍「ニーチェは見抜いていた ユダヤ・キリスト教『世界支配』のカラクリ」(徳間書店)について、「反ユダヤ的な陰謀論の新しい流行を示すもの」と批判する声明を発表した。同センターは同時に、同書の広告を掲載した朝日新聞社に対しても、掲載の理由を調査するよう求めている。/

 問題となった書籍は、米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長、ベンジャミン・フルフォード氏と、ニーチェ研究家、適菜収氏の共著。2月の新刊で、朝日新聞はこの本の広告を18日付朝刊に掲載した。/同センターは、同書の中に『米軍は実はイスラエル軍だ』「ユダヤ系マフィアは反ユダヤ主義がタブーとなっている現実を利用してマスコミを操縦している」などとする内容の記載があり、米国人とイスラエル人が共同で世界を支配しているという陰謀論をあおっているとしている。(後略)/
 産経新聞1面左上のコラム(東京本社版)は約30人の『有識者』が日替わりで執筆しています。適菜収がここに登場したのは初めてです。つまり適菜は執筆メンバーになったわけですが、いったい誰が登用したのでしょうか。産経新聞は適菜を今後も使うかどうか、よく身体検査したほうがいいでしょう。」
 この①の投稿文に関して、つぎのコメントが寄せられている。、
 ②「橋下市長を100%支持するわけではありませんが、適菜収の批判は嫌らしさを感じます。」
 ③「正論と産経新聞がこんないやらしい橋下批判をしたら、現場の大阪市役所や府庁の担当記者がどれだけ迷惑するか、産経の幹部は考えてやっているのでしょうか。」
 〇産経新聞本紙までが、「賢者」として適菜収を登用しているらしい。うんざりする。憲法改正、そのための<保守派>の結集のための事務局あるいは情報センターのような役割を、産経新聞に(ましてや桑原聡編集長の月刊正論に)期待することは、とても無理なようだ。
 適菜収という<怪しい哲学者>の文章については、あらためて私自身の言葉でコメントする。

1099/月刊正論(産経)編集長・桑原聡が橋下徹を「きわめて危険な政治家」と明言1。

 一 月刊正論(産経)の現在の編集長・桑原聡が、「個人の見解だが、橋下氏はきわめて危険な政治家だと思う」と同5月号の末尾に書いている。740円という価格と情報量のCBA分析をして?やはり購入し、いくつかの論考等を読んだあとで見たのだが、喫驚した。
 少なくとも桑原聡が編集長でいる間は、月刊正論を新刊雑誌としては購買しないことにする。この欄の閲覧者にも、そのように呼びかけたい。
 「編集者個人の見解」としてはいるが、一頁分の編集後記にあたるものを一人で書いている、れっきとした編集長の文章であり、上のような、橋下徹を「きわめて危険な政治家」視する意識が、月刊正論の編集に反映されないはずはない。
 5月号の巻頭が先だって広告を見て言及したように、適菜収「橋下徹は『保守』ではない!」であり、表紙にも最大の文字で銘打たれているのも、桑原聡のかかる意識の現われだろう、と得心する。
 個人的にはそれこそどのように考えていてもいいとしても、このように明言するとは大胆で、珍しいと思われる。
 この月刊正論を発行している産経新聞社自体に問い糾したいものだ。
 第一。見解が分かれている中で、貴社の発行している雑誌の編集長が、上のような特定の「政治的」立場・見解を明らかにしてしまってよいのか
 第二。橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと明言する人物を、貴社の発行する雑誌の編集長にとどめているのは何故か
 産経新聞も、月刊正論も、岩波の「世界」や朝日新聞とは異なる、むしろそれらの対極にある「保守」派の、または「保守」的な新聞であり、雑誌であるという印象をもたれてきている、と言ってよいだろう。そして、その点に共感して購読・購入している国民も少なくないはずだと思われる。そしてまた、産経新聞における橋下徹に関係する記事は、したがって彼への注目度は、他紙に比較して多く、大きいような印象もある。
 しかるに、同じ会社が発行する月刊雑誌の編集長が上のように明言してしまうのは、そしてそのような考え方のもとで雑誌が編集されるのは、むろん雑誌編集の裁量がかなり認められているのではあろうが、貴社自身のマスメディアの一つとしての姿勢と整合しているのか
 二 桑原聡自身はなぜ橋下徹を「きわめて危険な政治家」だと思うかの根拠・理由をほとんど書いていない(根拠にもならないような文章については後で触れる)。
 その代わりに、自分自身の考え方に近い適菜収の(低劣な)論考を巻頭にもってきて、自らの「個人的」な姿勢を反映させた、ということなのだろう。
 ということは、かりに橋下徹を肯定的に評価している編集長であったならば、山田宏「平成の『龍馬伝』がはじまった」から採って、「橋下徹は平成の龍馬だ!」というタイトルで大きく広告され、表紙も作成されていたのかもしれない。
 桑原聡はこの山田宏の論考も加えるなどして、編集の公平さを装っているようだ。そして「特集を読み判断していただきたい」と読者に判断を委ねるかっこうをつけている。
 それはそれで一見公平らしくも見えるのだが、しかし、上の一文は「橋下氏の目的は日本そのものを解体することにあるように感じるのだ。なぜ解体するのか? 日本のため? それともたんに面白いから? 特集を読み判断していただきたい」という文章の一部だ。念押し的に、橋下徹は<日本解体(論)者だ>との桑原聡の考え方を書いた上での言葉なのだ。
 一見読者の判断に委ねつつ、自己の見解の方向へと誘導しようとしている、情報操作・意識操作をしようとしていることは疑いえない。
 それにしても、上の文章の、上野千鶴子ら「左翼」にも似た、気味の悪さはどうだろう。「日本解体」が目的だろうとする論拠を示していないこともあまりにも不誠実で唐突だが、その後の?の連続部分からは、感覚・判断能力の<異常さ>をすら感じてしまう。
 産経新聞社にあらためて問うておこう。こんな内容の文章を唐突に書いてしまう人物は貴社発行の月刊雑誌編集者としてふさわしいのか、と。
 三 桑原聡の情報操作・意識操作の意図(・意識)にもかかわらず、橋下徹関係の四つの論考のうち、最も空虚、最も観念的で低劣なのは適菜収のそれであり、あとは大きな抵抗感なく読めるもので、橋下徹が「きわめて危険な政治家」だとの印象は(桑原の意図に反して?私は)まるで受けない。
 適菜収のものは別に扱いたいが(出発点の「B層」大衆論など、それこそファシスト紛いの気持ち悪いものだ)、山田宏は的確にポイントを衝いている。橋下徹は簡単に前言を翻すとか最近に書いたが、山田宏によると、橋下徹は「実際に会ってみると、じつに謙虚で人の話をよく聴く…。しかも、自説の間違いに気付くと素直に認めて撤回する」と、上手に説明されている(p.61)。

 佐藤孝弘「日本よ、『保守する』ことを学べ」は橋下を肯定的に評価してはいないが、消極的・否定的に論評してもおらず、性急な判断を避けている(あと一つは、内田透「かくて職員組合は落城せり」で、橋下徹を貶すような内容ではなく、むしろ逆かもしれない)。
 四 桑原聡は同じ文章の中でこうも書いている。
 「保守を自任ママ〕する人々まで、印籠を掲げて労働組合を組み伏せようとする橋下氏に喝采を浴びせるが、その矛先がいつか自分たちに向けられると考えたことはないのだろうか」。
 これも産経新聞社発行の月刊正論の現在の編集長の文章だ。
 先に紹介した部分と併せて見ても、どうやら、桑原聡にとっては<反橋下>は<情念>にまで高められているようだ。
 それに、上の文章には反論することが十分に可能だ。橋下徹が攻撃しようとしているのは「戦後体制」・戦後の既得権者たち(官公労働組合も当然に含む)であって、<戦後レジーム>の終焉、日本の「再生」を望む人々にとっては、喝采こそすれ何ら怖いものではなく、橋下徹を怖れているのは、現状に(そこそこ?)満足している、<戦後レジーム>に基本的な疑問を持たない、(そこそこに)利益を得てきている者たちではないか、と。
 桑原聡はどうやら、「左翼」と同様に橋下徹の矛先が自分に向けられることを怖れているようだが、それは、月刊雑誌の編集長にまで登りつめ?、さらに販売部数を伸ばして会社内で「いい気分」を味わいたいと思っている、その現状を「保守」したいからではないのか。
 桑原聡にとっては、現状はそこそこに安住できるもので、その現状・地位を橋下徹によって攪乱されたくない、というのが本音ではあるまいか。
 こういう意識は、昨年秋の大阪市長選で、橋下徹に対立した現職市長を民主党とともに支持した自民党市議団の意識とほとんど等しいと思われる。
 あらためて言っておこう。「右」からという粧いをとってはいるようだが、「右」からか「左」からかは不明なままに、日本共産党・民主党、両党支持の労働組合、そして上野千鶴子、香山リカ、山口二郎、佐高信等々の「左翼」論者と同様に、産経新聞社発行の月刊正論の編集長が、橋下徹は「きわめて危険な政治家」だと明言した。
 山田宏も指摘しているように、<保守>派の最大の課題と言ってもよい憲法改正(をシンボルとする「敗戦後体制」の破棄)の方向で、産経新聞や月刊正論の記事・論考の多くの字数よりもはるかに大きな影響力を、橋下徹の今後のひとこと・ふたことが持つだろう(p.58参照)。そのような人物を「危険」視するとは、とりわけ月刊正論の編集長としては、桑原聡の感覚は<異常>なのではないか。
 五 産経の月刊正論が「橋下市長に日本再生のリセットボタンを押させまいと、イメージ悪化を狙ったさまざまな妨害活動を仕掛けてくる」(山田宏、p.59)ようなことのないように、切に望みたい。
 桑原聡では危ない。月刊正論(産経新聞社)は、編集長が替わるまで、新刊本としては購入するのは避けた方がよい。買うとしても、桑原聡編集長による月刊正論の販売部数が一部でも増えないように、発行後しばらくして、アマゾンあたりのお世話になることにしよう。

1086/橋下徹を単純かつ性急に批判する愚③―佐伯啓思ら。

 〇佐伯啓思は、新潮45/3月号で「橋下現象」に「イヤなもの」・「嫌悪感」を覚えるとし、それは近年の日本の「必然的帰結」・今日の日本の「象徴」だという。そして、「一歩間違えば、とんでもない事態にわれわれを導きかね」ないと警戒視する(p.323)。このような基本的論調は三点に分けられてより詳しく論述されているが、直感的にこれは誤っている、単純化しすぎていると思われたのは、佐伯のいう第一点だ。第二、第三点の叙述も疑問はあるが、橋下徹の「姿勢」・「手法」への違和感が示されているだけ(?)なので、とりあえず、以下では触れない。
 佐伯啓思によると、以下のとおり。
 ①橋下徹の基本的な「政策」は、90年代以降の「行政の無駄の削減、財政再建、福祉の見直し、地方分権、政治的リーダーシップの強化など」という「改革」論そのもので、それを「とことん徹底したもの」だ。
 ②「徹底した成果主義」・「実力主義、業績主義、強力な指導力」による「徹底した『改革』」こそ、90年代以降の日本を覆ったもので、「民主党現象」もそうだった。「改革」は官僚や既得権者を敵対者と見なした。
 ③これまでの民主党を含む「改革」が不十分だった(と感じられた)ために橋下徹が期待された。
 ④90年代以降の「改革」論は「成果主義や能力主義や財政再建化や自由競争」等の「いわゆる新自由主義政策」だったが、「橋下改革もきわめて新自由主義的傾向の強い」もので、大阪市の場合も「新自由主義によって社会に活を入れるというショック療法が施されている」(p.323-4)。
 おおむね叙述順に要約的に紹介したが、かかる議論あるいは分析は正鵠を射ているのだろうか?
 第一に、上にも出てくる「新自由主義」を筆頭に、「財政再建、福祉の見直し、地方分権」というより具体的でもなおも抽象度の高い諸概念の意味がきちんと明らかにされていないと、よほど忠実にこれまでの佐伯の議論を読んできた者以外には、ほとんど理解不可能だろう。
 第二に、かりにより高いレベルの読者が読んだとしても、にわかに賛同することはできないだろう。それはまずは、90年代以降の「改革」(論)という一色の歴史理解(時代認識)のもとに「橋下現象」を位置づけよう、把握しようとしていることによる。
 佐伯の言うほどに単純なものではなかろう。自民党(末期?)の「小泉」改革・民主党の「改革」・橋下「改革」と、同じ「改革」(論)だと一括りにしてよいものなのか?
 佐伯の時代認識は、学者・「思想家」らしく、抽象度が高すぎる。「左翼(=容共)・反日」政権として登場した民主党政権による「改革」を従来の「改革」路線の延長と捉えるのは妥当ではあるまい。なるほど民主党も「改革」を唱えたようだが、「戦後民主主義」のなれの果てと言える「左翼(=容共)・反日」政権による改革論を自民党のそれと本質的に同一視することはできないと思われる。
 実際にも、労働組合によって支持され、現在は日教組の「親分」が幹事長をしている政党が、いかほどの「改革」を行いえてきているかはきわめて疑問だ。その「民主党現象」と「橋下現象」が似たようなもので、したがって橋下改革も「おおよそロクな結果をもたせさないでしょう」とまで佐伯は断言するのだから、呆れてしまう。
 「地方分権」論といっても、自民党・民主党そして「大阪維新の会」とでは中身が異なる。立ち入らないが、「維新八策」における「国」・「地方」の役割分担に関する叙述を見ても、民主党の曖昧な「地域主権」論よりもまともだと思われる。
 佐伯は「成果主義」等々を批判するが、これを一概に批判することができないことくらいは佐伯だから分かっているだろう。また、佐伯は「新自由主義的」と橋下徹の政策を論定しているが、報道されている大阪市西成区に対する施策の方向を知ると、とても「新自由主義主義的」などと論難できるものではないように思える。
 交通事業の民営化方針も佐伯によると「成果主義や能力主義や財政再建化や自由競争」等の「いわゆる新自由主義政策」なのかもしれないが、大阪市営交通事業の経営主体等の問題は、抽象度の高い、「新自由主義」的か否かといったレベルで決せられるものではあるまい。
 「財政再建」も「福祉の見直し」も、似たようなことが言える。
 いっさいの「改革」が悪だ、いっさいの「変化」を許さない、という立場に立たないかぎり、佐伯啓思の議論は支持できるものではない
 第三に、以上とほぼ同旨だが、そもそも90年代以降の「改革」(論)を否定し批判する佐伯啓思の立論の内容および立脚点自体が、十分に説明されていないし、十分に肯定されるものなのかという問題があるだろう。
 佐伯啓思は、「改革」論の帰結は「地域格差」・「所得格差」・「地方のコミュニティの崩壊」・「医療現場の崩壊」・「労働と雇用の不安定化」・「教員や家庭の崩壊」だったとし、「何よりも経済はちっともよくはなせなかった」と、社民党や2009年選挙以前の民主党のようなまとめ方を簡単にしてしまっている(p.324)。
 このような「帰結」をもたらした「改革」論と橋下改革は同じなのかという問題のあることは先に述べたとおりだが、これらの原因をあげて「改革」論に求めることは、きわめて粗雑だと思われる。
 問題は「改革」の具体的中身、その達成手法、そして「改革」論議と実際になされた「改革」の区別、をきちんとふまえて論じられなければならないだろう。
 佐伯啓思は産経新聞2/20付で、「『改革』についての功罪」をこう述べている。
 「グローバル化の功罪、金融自由化の功罪、日本的経営の崩壊の意味、二大政党政治の功罪、小選挙区制やマニフェストの問題、これらを自民も民主も整理できていない。むろん、マスメディアもジャーナリズムとて同様である」。
 <改革の功罪>を誰も整理できていない、というのだ。いやおそらく、佐伯啓思自身は「整理」しているつもりなのだろう。だが、佐伯自自身の「整理」が、つまりは「改革」(論)を総じて批判し否定し消極的に評価するという結論自体の正しさが、十分に論証されていないとまるで説得力がない、
 佐伯にとっての「悪」を橋下徹は継承している、というのが佐伯の論点の一つで、橋下徹が「継承」しているとにわかに論定すべきではない、と上では述べた。いま一つの佐伯の論点は「改革」(論)は悪だった、ということにある。この点がここで批判しているところだ。
 90年代以降の「改革」(論)をこのようにまとめ、あるいは上記のように簡単に「改革」の帰結=「罪」を列挙するだけでよいのだろうか。
 ともあれ、佐伯啓思以外には誰も(?)整理できていない課題の克服を橋下徹らに求めても無理強いであり、整理していないことをもって論難することも橋下徹らにとっては酷というべきだ。佐伯啓思は声を大にして、民主党と自民党のほかに、「マスメディアもジャーナリズムも」批判するがよいだろう。
 簡単に上のことを再述すれば、以下のとおり。
 ①橋下徹らの政策が90年代以降の「改革」(論)の系譜上にあり、それをさらに徹底したものだ、という把握の仕方は、単純で性急すぎる。
 ②90年代以降の「改革」(論)がよいものではなかった、ということ自体が説得的には何ら論証されていない。佐伯啓思の頭の中にはあるのかもしないが、ほとんどの読者には伝わっていない、と思われる。
 いっさいの「改革」や「変化」を許さない、という立場に立たないかぎり、佐伯啓思の議論は容易に支持できるものではないのではないか
 産経新聞2/20付の佐伯啓思論考にはあまり言及しなかったが、上で紹介したのと似たようなことを書いており、ほぼ同じような感想を抱くので、もはや省略しておく。
 〇産経新聞2/23の特集記事中に、橋下徹のつぎの言葉が紹介されている。
 ・「世間の民意とは関係なく、自分の主義主張だけで『世の中の方が間違っている』『衆愚政治だ』『大衆迎合だ』『世論は間違っている』『市民は一時の熱情に狂っている』とか、平気で言えるのが学者だ」。 
 同じ記事によると、田原総一郞はこう言った、という。「橋下さんに対する批判の弱さに、日本のインテリの弱さが出た」、「日本のインテリは権力側を批判はするが、対案を持っていない。『じゃあ、あなたはこの問題をどうしますか』といわれたときに、答えを持っていない」。
 佐伯啓思そして<西部邁・佐伯啓思グループ>の面々は、これらの言葉をどう聞くのだろうか。
 書き忘れていたが、佐伯啓思は90年代以降の「改革」(論)を批判してきているが、「じゃあどうすればよいのか(よかったのか)」という問題には具体的にはほとんど何も答えていない、と思われる。地方分権にせよ財政再建等々にせよ、具体的な「対案」があるわけでもないのだ。論壇・大学のインテリ=「口舌の徒」は楽なものだ、とあらためて感じている。かかる皮肉も、「思想家」には何の痛痒にもならないのかもしれないが。

1080/自衛隊の合憲性の根拠は芦田修正?

 2/02衆議院予算委員会で自民党・石破茂が田中某防衛大臣に自衛隊の合憲性についての憲法(九条)上の根拠を糾し、田中某が「しどろもどろ」の答弁をしたので、石破茂は、次を「模範解答」として教示した、とされる。
 ・九条二項冒頭のいわゆる「芦田修正」(「前項の目的を達成するため」の挿入)。他に「文民条項」も挙げたらしいが、これをも追加した意味は不明なので、以下では後者については省略しておく。
 誰かがどこかですでに書いているだろう。石破の憲法「解釈」は成り立ちうるものではあるが、これまでの政府見解とはまったく異なる。
 元防衛大臣の石破も、そして自民党も、上の問題についての「政府見解」を知らないとは、まったく呆れてしまう。それをご説ごもっともと?聞いていたらしい田中某も民主党政府全体も、そしてマス・メディアもどうかしている。この点を問題視していた全国紙はあったのだろうか。
 憲法9条の法解釈論を少しでも勉強したことがある者であれば誰でも知っているようなことだ。
 なるほど芦田修正を形式的に文言どおりに生かせば、前項(9条1項)による<侵略戦争の禁止(放棄)>のためにのみ「戦力の保持」が2項によって禁止されていることになる。換言すれば、<自衛(戦争)>のための「戦力」保持は禁止されておらず、自衛のための(堂々たる)「戦力」として自衛隊は認知されていることになる。
 しかし、政府の解釈も変遷してきたという曖昧さ・いいかげんさはあるのだが、昭和29年・自衛隊法制定時の鳩山一郎内閣時代の林修三法制局長官国会答弁(1954.12.21)は、次のようなものだった。
 ・「国家が自衛権を持っておる以上…〔自衛のための〕実力を…持つことは当然のこと」、「憲法が…、今の自衛隊のごとき…自衛力を禁止しておるということは…考えられない。すなわち第2項…その他の戦力は保持しないという意味の戦力にはこれは当たらない」。
 また、同時期の大村清一防衛庁長官国会答弁(1954.12.22)は、次のようなものだった。
 憲法は自衛権・「自衛のための抗争」を否定していない。「…従って自衛隊のような自衛…目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない」。
 要するに、芦田修正などは何ら根拠とされず、そもそも自衛隊は九条2項が保持を禁止する「戦力」ではなく<自衛のための実力部隊>にすぎない、とされたのだ。
 その後、佐藤栄作内閣時の吉国一郎法制局長官国会答弁(1972.11.13)は、「9条2項の戦力の定義」は「自衛のための必要最小限度を超えるもの」だと述べ、自衛隊は「超えるもの」ではないがゆえに「戦力」ではなく、従って憲法9条に抵触しない、とした。
 「戦力」の意義を明瞭にしているが、基本的な趣旨は、昭和29年の時期と同じだと解してよい。
 このような解釈については、常識的にみて自衛隊が「戦力」に当たらないとするのはこじつけだとか、「必要最小限度」とはどの程度かあいまいだ等の批判は当然にありうる。
 しかし、ともあれ、これが現在も生きている日本政府の(自衛隊に関する)憲法解釈のはずなのであり、石破が「芦田修正」を持ち出すのは、芦田に自衛隊(自衛軍)保持の余地を残したいという意図がかりにあったとしても、<公的な・公定の>解釈ではなく、一国会議員の解釈にすぎない。石破は1970年代以降に大学で憲法を学んだはずだが、よほど奇妙な(主観的な個人の解釈だけを示す)教師の講義を受けたのだろうか。
 こんな、自衛隊の存立基礎にかかわる問題について、与党も野党も、そしてマスコミも、国会における奇妙なやりとりを問題意識をもって聞いていないとは、まことに奇妙な、あるいは異様な事態だと思われる。ますますもって嘆かわしい世の中になってきている。

1073/月刊WiLL2月号の中西輝政論考・九条の呪い・総選挙。

 〇自民党幹事長・石原伸晃は1/03に「1月の通常国会の冒頭に解散すれば1カ月で政治空白は済む」と発言したらしい。今月解散説だ。今月でなくとも、今年中の解散・総選挙の主張や予測は多くなっている。
 にもかかわらず、産経新聞も含めて、「(すみやかに)解散・総選挙を」と社説で主張する新聞は(おそらく地方紙を含めても)ない。のんびりとした、何やらややこしく書いていても<あっち向いてホイ>的な社説が多い。
 朝日新聞は総選挙を経ない鳩山由紀夫退陣・民主党新政権発足(「たらし回し」)に反対していたが、近い時期に総選挙をとはいちおう社説で書いていた(2010年6月頃)。朝日新聞がお好きな「民主主義」あるいは「民意」からすると、「民意」=総選挙によって正当化されていない野田・民主党内閣も奇態の内閣のはずであり、今年冒頭の社説では<すみやかに解散・総選挙をして民意を問え>という堂々とした社説が発表されていても不思議ではないのだが、この新聞社のご都合主義または(自分が書いたことについての)健忘主義は著しく、そのような趣旨は微塵も示されていない。
 マスメディア、大手新聞もまたそこそこの<既得>の状況に安住していて、本音では(産経新聞も?)<変化>を求めていないのかもしれない。

 〇月刊WiLL2月号(ワック)の中西輝政論考の紹介の続き。
 ・日本「国家の破局」の到来が危惧される3つめの理由は、「
政党構造が融解し、国内政治がまったく機能していないこと」だ。「保守」標榜の自民党も「見るに堪えない状況」で、「大きな政界再編の流れ」は全く見られない。官僚も企業も同じ。今年に解散・総選挙がなければ、日本は今年の「世界変動」に乗り遅れるだろう。ロシア大統領、台湾総統のほか韓国大統領選挙もあるが、新北朝鮮派(野党・韓国「民主党」)が勝利すれば、38度線が対馬海峡まで下がってくるような切迫した状況になる。そして、日本は「親北」民主党政権なのだ。日本には「冷戦終局後かつてない危機が、さらに明確な形で目前にまで迫っている」(p.40-42)。
 ・だが、全くの悲観論に与しない端的な理由は、<欧州も中国ももはや一つであり続けられない>のが、2020年代の大きな流れだからだ。EUは崩壊するだろう。中国でもバブルが崩壊し「社会体制」も崩れて「国家体制」を保てなくなるだろう(p.42-43)。
 ・かかる崩壊は「民主主義と市場経済の破綻」=「アメリカ的なるもの」の終焉にも対応する。アメリカ型市場経済は臨界点を超えると「激発的な自己破壊作用」に陥る。「物質欲、金銭欲の過剰」は「市場経済のシステム自体」を壊す。「個人が強烈な物質主義によって道徳的に大きく劣化し、『腐敗した個人主義』に走り」、「自らの欲望」だけを「政治の場」にも求める結果として、「民主主義そのものがもはや機能しなくなっている(p.43-44)。

 ・①「過剰な金銭欲」と②「腐敗した個人主義」という「現代文明の自己崩壊現象」が露呈している。「アメリカ由来の市場経済も民主主義も、長くは機能しない」。「アメリカ化」している日本に、むろんこれらは妥当する。この二つが日本を壊すだろうと言い続けてきたが、不幸にも現実になった。だが、これは「アメリカ一極支配の終焉」でもある(p.44)。
 ・「グローバル」化・「ボーダーレス」・「国家の退場」・「地球市民社会」などの「未来イメージ」は結局は「幻想」だった。アメリカ一極支配後の核心テーマは、「国家の再浮上」だ。この時こそ、「一国家で一文明」の日本が立ち上がるべきで、その状況まで日本国家が持続できていれば、「日本の世紀」になる。これが「短期の悲観」の先の「長期の楽観」の根拠だ(p.45)。
 ・「固有の文明」をもつ日本は有利だ。だが、「民主主義を荒廃」させる「腐敗した個人主義」の阻止が絶対条件だ。日本文明の再活性化・国民意識の回復のためには、「国家の刷新、とりわけ憲法改正が不可欠」だ。とくに憲法九条の改正。「すべてを、この一点に集中させる時が来ている」(p.45-46)。
 ・アメリカ「従属」、歴史問題・領土問題・財政問題・教育問題などはすべて、「九条の呪い」に発している。憲法改正に「保守」は正面から立ち向かうべきだ。今の危機を乗り越えれば、「日本の時代」としての2020年代が待っている(p.46-47)。
 以上。
 アメリカ的市場経済に批判的なところもあり、ある程度は佐伯啓思に類似した論調も見られる。
 「腐敗した個人主義」という形容または表現は面白い。利用?したくなる。
 おおむね賛同できるが、「九条の呪い」という表現や叙述は、朝日新聞の若宮啓文等々の「左翼」護憲論者、樋口陽一等々の大多数の憲法学者はとても納得できない、いや、理解できないに違いない。

 最終的には条件つきの楽観視で中西輝政はまとめているが、はたしてこのように楽観視できるだろうか? そのための「絶対条件」は達成できるだろうか? はなはだ心もとない。

 中西輝政は真意を隠してでも多少は煽動的に書く必要もある旨を述べていたことがある(この欄でかつて紹介した)。従って、条件つきの楽観視も、要するに「期待」・「願望」にすぎないのだろう、とは言える。だが、微かな希望でも存在しうると指摘されると、少しは精神衛生にはよいものだ。

1071/岡崎久彦・真の保守とは何か(PHP新書、2010)の一部。

 「保守とは何か」に関する文章・議論を昨今にもいくつか目にした。以下もこれに関係する。
 岡崎久彦・真の保守とは何か(PHP新書、2010.09)は岡崎の2007~2010年のほぼ三年余の間の論考をまとめたもので、最後から二つめの「真の保守とは何か」(初出2010.05.18、新潮45)を読んでいただいても「本書を発刊した目的の半ばは達成された」と思っている、とされる(p.4-5)。
 書名にも採用されたこの論考で、まず注目を惹いた文章は、あえて引用すれば、つぎの二つだ。
 ①「どの程度政府の統制が望ましいか、民営化と政府の統制のどちらがいいかなどということは、どちらが民主主義の正統路線か、あるいは保守の本流であるかというような大きな問題ではない」(p.213-4)。
 ②「真の保守主義は、経済問題ではなく、外交、安保、教育などの面でその真価が発揮されるべきものである」(p.215)。
 これらは適切であるように思われる。基幹産業の全面的国有化を別にすれば、経済政策、あるいは「経済」への国家(政府)関与の程度・形態は、<保守か左翼か>という対立軸で決定されるものではないだろう。「保守」(主義)から見て、郵政民営化の是非が決定されるわけではないし、「規制緩和」の是非も同様だ。

 昨今問題にされているTPP参加問題にしても同様だろう。また、原発政策(推進・維持か廃止・脱か)についても言えるように思われる。現に、これらについて(自称)「保守」論者の中でも対立がある。そしてそれは当然であって、「保守」か否かによって、あるいはいずれが「真の保守」かによって決定される政策問題ではない、と言うべきだろう。
 岡崎の文章の中には、自民党の綱領や主張にも関係する、以下のようなものもある。
 ・小泉・竹中改革には「規制廃止、自由競争原理〔の重視〕」こそ「真の民主主義、保守政党」という主張があるようだが、「特に、郵政民営化」を考えると、日本の従来型制度をバークが批判した「人間の理性、あるいは浅知恵で急速に」変えようとし「すぎたきらい」はなかったか(p.213)。
 ・「経済の自由化」を謳うから「真に保守的」で、「規制を強化」すればただちに「社会主義的」とするのは日本政治では「ほとんど意味がない」(p.215)。
 「しすぎたきらいはなかったか」という郵政民営化に関する抑制的なコメントも含めて、基本的に同感だ。
 全面的な国家計画経済さえ選択しなければ、広義の「自由主義〔市場主義)」の範囲内で経済に対する規制強化も規制緩和もありうる。どの程度が具体的に妥当かどうかは国家によって、時代によって、あるいは経済(産業)分野ごとに異なるもので、一概にに断定できるものではない。そして、これらの問題についての解答選択は、何が「真の保守か」とは関係がない。無理やり、「思想」または「主義」の問題に還元させるのは、無意味な思考作業だろう。
 その他、以下のような岡崎久彦の文章も、読むに値するものだ。
 ・「岸、佐藤、福田の安保優先政策、親韓、親台湾政策に対抗する、経済優先、親中政策」が「保守本流」だとするのは、「高度経済成長の功を全部池田内閣に帰」そうとする、「フィクション」だ。

 ・「自称の保守本流」は「安全保障重視のタカ派保守」に対して自分たちは「経済優先のハト派保守だ」と言いたいのだろうが、もともと「安全保障と経済は対立概念ではない」。これを対立概念のごとく扱ったことから「一九七〇代以降の日本の政治思想の頽廃が起きた」(p.219-220)。
 <経済優先のハト派>が「保守本流」だとの意識・議論が(自民党内に)あったとは十分には知らなかったが(むしろ逆ではないか)、趣旨はよく分かる(つもりだ)。
 では、岡崎にとって「真の保守」とは何か。引用は少なくするが、以下のごとくだ。
 ・「国家、民族と家族を守るのが保守主義である」(p.224)。自民党は、明確な国家意識と家族尊重の姿勢を示し、「外交政策、安保政策、教育政策」をはっきり表明することが、「再生の王道」だ(p.225)。
 ・かかる「真の保守に立ち戻る」のでは「国民の広い支持を得られないという危惧」はあるが、「中間層はいずれにしても大きく揺れる」のであり、「固定層からの確固たる支持票を得ている政党」は強い(p.225)。

 ・「志半ばで病に倒れた安倍政権」の「戦後レジームからの脱却」こそが「保守主義」だ(p.229)。
 岡崎久彦のこの本は菅直人政権発足後、かつ3・11以前に刊行されている。そして、人柄なのかどうか、民主党、あるいは菅政権に対する見方が「甘い」と感じられるところや日本の将来をなおも?楽観視しすぎていると感じられる部分もある。
 だが、基本的には賛同できる内容が多い。
 この欄に書いてきたように、基本的には、「保守」主義とは「反共(反容共)」主義だと思っている。後者は「保守主義」概念のコアではないとの議論がありかつ有力なのだとすれば、「保守」という言葉にこだわるつもりはない。
 この点はともあれ、「保守」=「反共」という理解の仕方と、岡崎久彦の文章は矛盾しているわけではないと考えてよいだろう。

1067/大阪の自民党は嘆き、自らを嗤え-大阪ダブル選挙。

 〇大阪市・大阪府の選挙については<維新(の会)対反維新>または<既成政党対維新>という対立軸も示された。
 そのとおりではあるだろうが、正確には「自民・民主(・共産)という全国的政党」対「維新の会」という二年ほど前にできた地域政党(ローカル・パーティ)との対立だった。
 前者の複数の政党の支持票をまとめるだけで、十分に「維新」などという地域政党に勝てるはずだった。しかもなお、維新の会の側に対しては、「バカ新潮・文春」(11/27夜の橋下の表現)による代表・橋下に対する<陰湿な>個人攻撃まであって、これがボディ・プローのように利いて、橋下(市)と松井(府)がたやすく勝てるとは思えなかった。日本共産党は<反独裁>批判を正面に掲げ、結果的・機能的にはそれと同調する「左翼」の佐高信・中島岳志等々による橋下徹攻撃もあったのだ。
 選挙日の前までに、中田宏・政治家の殺し方(幻冬舎、2011)を半分程度は読んでいたこともあり、橋下徹の政治生命もひょっとすれば危ういのではないかとすら危惧した。
 月刊WiLL1月号(2011.11、ワック)は「週刊誌の病理」との特集?を組んで、中田宏の文章とともに宮崎学「橋下前大阪府知事の出自を暴く異常」を掲載したのだったが(p.278~)、広告・発売が選挙の前日では、ほとんど投票行動に影響はないものと思われた。
 それよりもとっくに前に、月刊新潮45(新潮社)12月号は「続・『最も危険な政治家』橋下徹研究」という「特集」を組んで、橋下批判の第二弾を撃ち、この特集名を表紙にも大きく載せていたのだ。

 にもかかわらず、維新の会の橋下と松井は、結果としては文句なしの<大勝>だった。一週間前の各新聞社の予測からの印象を上回る、十分な差がついた。

 マスコミ、とくに新潮社については別の回に触れる。
 〇この結果は既成政党に衝撃を与えているとされる。上に述べたようなことからして当然だろう。
 日本共産党の票が大阪市内で10万票あったとすると(府知事選挙での共産党候補得票数は約12万)、そして社民党その他の他の政党の票も加えて除くと、自民党と民主党の支持者からは40万票ほどしか平松某に流れていない。一方、橋下徹(維新)は75万票を獲得した。自民と民主がかりに同じ程度だとすると、20万、20万に対して、橋下(維新)は75万なのだ。
 地方自治体の首長選挙であることを強調して、衝撃・影響力を薄めたいかのごとき発言をしている民主党幹部もある。自民党幹部の中にもいるかもしれない。
 だが、すでに選挙前に書いたことだが、この選挙結果によって最も深刻な影響を受けたのは自民党だと見なすべきだ。
 自民党府連は市・府議団による<反橋下>方針をそのまま承認した。結果としては自民党の本部(中央)もまた、これを容認した、と理解して差し支えないだろう。
 実際にも、小泉進次郎を大阪には送らなかったようだが、片山さつき佐藤ゆかりという自民党の二大マドンナ?は大阪へ行って、反橋下(平松ら支持)の演説を行なっている。
 産経新聞11/28の表現・文章構成を一部引用しつつ述べれば、「深刻さでは自民党の方が〔民主党よりも〕上だろう」。
 なぜならば、「国政で〔民主党と〕対決しながら反維新の会で〔大阪では〕手を結んだバツの悪さがある」。
 このあと産経の記事には、「市長選では共産党とも共闘した。これでは国会での応酬を茶番劇だと言われても仕方がない」、とつづく。
 市長選での日本共産党との「共闘」は、<共産党があとから勝手に乗ってきただけ>と言い逃れることができるかもしれない。しかし、紛れもなく言い逃れできず、説得力ある説明ができないと思われるのは、市・府のいずれにおいても、<なぜ民主党と手を組んだのか?>だ。
 11/29に自民党中央の石原伸晃(幹事長)は大阪で、「維新の会との距離感」について、「自民党出身が多いことから『維新は保守の陣営。シンパシーもある』と秋波を送った」とされる(産経ニュース)。
 「維新は保守の陣営」などと選挙が終わってから、かつ選挙で自党推薦候補がダブルで敗れてから、よくぞ言えたものだ。
 むろん、実質的な責任は、石原伸晃(・谷垣禎一)よりも、自民党の大阪府連、そして大阪市議団・府議団に、より大きいのだろう。
 自民党中央の幹部はもちろんだが、深刻に受けとめて反省すべきなのは、<反橋下>・<反維新>を選択・判断した同党の大阪府連、大阪市議団・府議団だろう。
 上記の元横浜市長による中田宏・政治家の殺し方(幻冬舎)には、地方議会の議員たちは党派は違っても(首長対議会という二元構造からくる)「仲間意識」があり、「市議会は相乗り=オール与党議会が一番楽なの」だ等の指摘がある(p.55-60)。
 こうした事情に、国会議員の大多数は「小選挙区」または「一人区」から一人だけ当選するのに対して、政令市の市議会や府議会の議員は複数者当選の選挙区から選出される、ということが加わる。
 すでに同旨は書いたことだが、とくに大阪市について言えば、民主党らの議員とともに平松某市長の与党議員であり続けたい、与党議員としてうまく棲み分けたい、というのが自民党大阪市議団の本音であったかに見える。
 与党議員であってこそ、支持者からの要望・要求を(市長に直接にではなくとも)局長以下の行政公務員に「伝えて」、支持者に感謝され、次期選挙での再選を期待することができる…。
 このような至極幼稚な(政策理念のほとんどない)意識のもとで、じつに安易に平松某支持=反橋下を選択したのではなかっただろうか。これで天下の?大阪市の議会議員とは、情けないものだ。
 自民党支持者・有権者の方が賢明に判断していた、とも言える。新聞・テレビ等によりデータは同一ではないが、自民党支持者のおおむね50%が、(平松某らの)<反維新>候補ではなく、橋下・松井という<維新>候補に投票したようだ。そうした票の少なくとも一部には、日本共産党までが支持している候補に投票したくはない、という者もいたに違いない。
 もはや遅いかもしれない。大阪の自民党は、かりに<維新の会>がそれなりに適切な候補を出し続ければ、大阪市議会でも府議会でもそして国政選挙でも、<維新の会>に負け続けるのではないか。
 それだけの痛みをもって、大阪の自民党は今回の選挙の「総括」をするだろうか?
 繰り返しておくが、全国ニュースでは、自民党が民主党政権を終わらせるために来年前半にでも衆議院解散・総選挙を目指す、という報道がなされているときに、同じ自民党の大阪では、民主党と闘いもせず、同じ候補を担ぐとはいったいどうしたことか?
 他に候補がいなかったわけではない。自党で候補を擁立できないならば、(少なくとも相対的にはマシな候補として)橋下徹・松井一郎がいたと思われるのに、なぜ後者を支持・推薦できなかったのか?。最悪でも(公明党と同じように)自主投票という苦渋の?選択もあり得た。
 大阪の自民党は大いに嘆くべきだ。その愚かな判断を自らで嗤うべきだ

 もちろん民主主義=多数者の判断=「正義・善」などという単純な考え方を前提にしてはいない。民主主義が誤った結果をもたらすことはありうる。
 だが、大阪の自民党の判断が「現実の力」にはつながらなかったことは間違いのないことだ。政治的にはやはり「敗北」だ。
 なお、こうした大阪の自民党の態度を捉えて、(谷垣)自民党と民主党は<同根同類>だなどという櫻井よしこの認識に同調しているわけでは全くない。
 外国人地方参政権付与を求めているようである民団(韓国系)の集会に、(民主党や公明党等とは異なり)自民党は挨拶をする国会議員を一人も送っていない。この点だけでも、民主党と自民党は「同根同類」だとは言えない。そのような違いがあるはずなのに、そうした「政策」・「理念」よりも、大阪の地方議会議員は<保身>を優先した、ということをきちんと記録しておきたい。

1061/日本の異様さ-共産党の存在。

 産経新聞10/28に、ソ連崩壊20年・第5部「共産主義は今」の米国編が載っている(古森義久執筆)。それによると、「一連の世論調査」でアメリカ人のうち「保守主義者」と自認する者は40%前後、「リベラル派」は20%前後、「自分を公然と社会主義者だと認める人は統計上、ゼロに近い」。そして、アメリカでの「社会主義」は「西欧型の社会民主主義」を指すが、「共産主義は一党独裁、個人の抑圧、市場経済活動の禁止などマルクス主義としてまた別扱い」らしい。
 さすがに米国という感じだ(社会主義と社民主義との関係の説明と調査での支持率には少し疑問も湧くが)。これが日本だとどうなるか?
 「保守」自認は20%前後、「リベラル派」は20~40%、それより左の社会民主主義・共産主義は少なくとも10%はあるものと思われる。
 日本の世論調査では「無党派層」という「日和見」層・「無定見」層が多いのが特徴だが、上の<「リベラル派」は20~40%>とする根拠は、あれほど評判の悪かった菅直人内閣ですら、内閣支持率を最低でも20%前後を維持したこと、民主党支持者の率もその程度は(強固に)ありそうであることを根拠にしている。
 社民党や共産党(それぞれ日本の)の国会獲得議席は減少しており、そのことをもって日本の<保守化>を(誤って)語る者もいるようだが、しかし、合わせて10%程度の得票率は維持していると思われる。また、民主党という政権獲得可能性のある(自民党ではない)政党の登場によって、元来の共産党・社民党支持者の投票先が民主党へと(非自民党政権を誕生させかつ維持するために)流れている可能性が高い。したがって、民主党にあたる政党がなければ、政権「批判」票は元来の支持の共産党や社民党に戻る(そしてこれらの議席は増える)可能性はあるように思われる。
 ともあれ、あらためて刮目すべきなのは、アメリカと日本との間にある、国民または有権者の政治意識または「社会思想」意識の大きな違いだ。
 公然と「共産主義」社会の実現を最終目標として綱領に掲げる政党が国会に議席をもち、それなりの(当面は民主主義の徹底を掲げているにすぎないにせよ)支持者があること自体が、アメリカと、そしてイギリスやドイツとも決定的に異なることを―何度もこの欄で書いたことだが―知らなければならない。
 フランスやボルトガルあたりの事情は少し異なるかもしれないが、北欧も含めて、欧州では(米国とともに)共産党や共産主義者は<ほぼゼロ>と言ってよいだろう。
 日本における共産主義「思想」の残存は、広い「左翼」の存在の原因でもあり、結果でもある。
 例えば、日本共産党・「赤旗」が存在するがゆえにこそ(そして一方に産経新聞があるがために)、朝日新聞・毎日新聞でも<中庸>に感じさせてしまい、これらの読者も<共産党(共産主義)ではない>として安心して少なくとも「何となく左翼」にはなってしまう。
 また、日本共産党・「赤旗」が存在するがゆえにこそ、非(・反)共産党かつ非(・反)自民党という立場が<中庸>であるような気にさせてしまうところがある。「左翼」とは自覚していない、<リベラル派>はたくさんいるのだ。
 そのような、紛れもない「左翼」を、「中間」・「中庸」(そして公正中立?)だと感じさせる役割を、日本における共産党やマルクス主義は果たしているわけだ。
 さらに言うと、論壇・アカデミズム(大学等)の世界において、非(・反)「共産党・共産主義」かつ非(・反)「保守」というのは、最も安全な「思想的」立場になっているのではないか。
 そのようなかつての「進歩的知識人」の代表が、丸山真男だった。明確な「左翼」の大江健三郎も、おそらく非・共産党ではあるだろう(=共産党員ではないだろう)。
 これらの非(・反)「共産党・共産主義」かつ非(・反)「保守」という立場の知識人たちは(アメリカでいう「リベラル派」の一般国民も含めてもよいが)、反共(反共産主義)か反・反共(例えば=「反ファシズム」)の選択を迫られれば、どちらを選択するのか?
 これは近い将来にでも設定されうる大きな分岐点になると思われる(擬似的ミニチュア版はすでに大阪市長選挙で見られるようだ)。
 丸山真男は反・反共(=「反ファシズム」)を選好しただろうし、現在の大江健三郎もそうなのではないか。
 その他大勢の非・反共産党(・共産主義)で非・反「保守」の国民は、いったいどちらを選ぶだろうか。非・反共産党(・共産主義)を拒否しない可能性がある(つまり「容共」。これは日本と欧米との決定的な違いだ)、というのが、私が日本の行く末を深刻に懼れている根拠・理由でもある。

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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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