秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

背信

2381/L・コワコフスキ「背信について」(1999)②。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれている。邦訳書はない。
 一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
 —— 
 第10章・背信(裏切り)について(On Betrayal)②。
 (8)我々は、何の分類もなくして、当該の国家が正統なものでないならば背信は許される、と言うことすらできない。なぜなら、国家の正統性(legitimacy)という規準は、決して明瞭ではないからだ。
 国際法では、いわゆる国際共同体で、換言すると国際連合(the United Nations)によって承認されているならば、その国は正統だ。
 しかし、国際連合によって承認された国家の中には、最悪の専制的体制や、その国民の大量殺戮を行なっている国家もある。
 このような国家に対する背信は、非難ではなく賞賛に値するように思えるだろう。
 イデオロギーが規準であるために、そしてイデオロギーは様々であるために、何が背信となるかについての合意は存在し得ない。
 民主主義諸国に反対して共産主義専制体制のためにスパイをしたソヴィエトの工作員たちは、たいていは、少なくとも共産主義体制の初期の時代にはイデオロギー上の理由を動機としていた。
 のちになって、金銭または脅迫あるいはこれら両者がイデオロギーに取って代わった。
 さて、このような人々—例えばCambridge スパイ網—は、理由がイデオロギー上のものだという理由で正当化され得る、と我々は言うべきなのか?
 かりにそうではなく、そのイデオロギーが間違っているか、または犯罪に該当する場合にはどうか?
 困難さがあるのは、明瞭だ。
 イデオロギー的動機はしばしば感情的なものにすぎないことが判っている。
 そして感情を正当化できるならば、我々がしたことの全てが正当化されるだろう。そして、悪いものとしての背信という観念は、その意味を失う。//
 (9)だがしかし、背信という観念に含まれる曖昧さをたんに指摘するだけでは、満足できないところがある。
 我々は背信という観念をまさにその本性から生じる行為として必要としていると感じているという理由で、問題を放置することには我々は同意しない。
 そしてそれがもつ我々にとっての重要性のゆえに、明確にすることができるようにすべきだと感じる。何かの哲学や政治的イデオロギーによって相対的にではなく、絶対的に、正しいか間違いかの明瞭で簡潔な言葉を用いることによって。
 例えば、内密に語られた他人のことを、自分の個人的な利益の獲得のためであれ、娯楽のためであれ、暴露する人々は、明らかに背信であって有責だ。
 実際に我々はこのような人々について、「信頼を裏切った」と語る。
 個人を対象にしているこのような場合では、誰かが背信したか否かを決定するのはかなり容易だと我々は考える。
 背信の行為が許されても、それにもかかわらず、それは背信の行為であるままだ。St, Peter は危急の場合に非難したことを君主と救済者に許された。だがなお、その継承者と教会の設立者として指名された。  
 この事件の神学上の解釈は、しかしながら、ここでの我々の関心である必要はない。//
 (10)政治的な背信または反逆は、多くの理由で、もっと曖昧な観念だ。
 第一に、政治では正しいか間違いかを明確には区別し難いため、第二次大戦のような明瞭な状況は滅多に発生しないからだ。
 第二に、その結果として、我々はしばしば大きな悪と小さな悪とを見極めなければならないからだ。
 かくして我々は、共産主義と戦争の結果に関して全てを知っているにもかかわらず、戦争中にソヴィエトの情報機関のために働いた人々はドイツに反対して仕事をしたのだから、また当時のナツィ・ドイツは最大の悪魔で最大の脅威だったのだから、良い教義のためにに奉仕したのだと結論づけるように強いられる。
 そして第三に、人々の動機は、水をさらに汚すからだ。悪の教義であることを理由としてではなく個人的な利益を得るために悪の教義に背信する人々は、我々の尊敬には値しない。
 他方で、個人的利益のためではなくイデオロギー上の理由で悪の教義に奉仕する人々は、その教義が本当に悪だと相当に明瞭ならば、正当化されない。
 要するに、政治には絶対的に善であるようなものはなく、そのためにできることは我々にはない。
 このことはつぎには、政治には絶対的な悪のようなものはないと、推測させるかもしれない。
 しかしながら、これはより疑わしい。//
 (11)さて、人々が特定のある行為は背信かどうかに関してしばしば同意できないだろうというのは、かなり確かだ。
 しかし、背信の被害者が国、国家や教会ではなく個人である場合について論じるのは容易だと言えるとすると、それはこの場合は我々は多少とも何が重要で、何が維持されるべきかを知っているからだ。
 それを知っており、かつ維持するならば、背信の被害者が国、国家や教会である場合についてもまた、論じるのが容易になるだろう。//
 ——
 第10章、終わり。

2378/L・コワコフスキ「背信について」(1999)①。

 L・コワコフスキの以下の著の<第3章・平等について>と<第13章・自由について>の試訳を終えた。
 生じる感想の大きな一つは西尾幹二のつぎの著(・部分)との間のとてつもない違いだ。同じまたは類似の言葉・概念を使った文章でも、基礎にある人間観・思考方法・法や政治に関する「素養」等々のあらゆる点が異なる。
 西尾幹二のあまりのひどさを再確認する。
 ①西尾幹二・国民の歴史(初版、1999)第34章「人は自由に耐えられるか」。
 ②西尾幹二・あなたは自由か(ちくま新書、2018)第1章「自由の二重性」・第2章「資本主義の『自由』の破綻」・第3章「…—自由と平等のパラドックス」。
 <平等>はとくに第3章が関連。上の計三章で新書版で計約150頁にもなる。
 例えばつぎの文章の(コワコフスキの短い文章とすら比べての)幼稚さはいったいどういうことか?
 同p.119—「…『自由』と『平等』の矛盾相克の関係にひとまず目を注いでおくことが本書の必要な課題でもありましょう」。
 同p.154—「…オバマは『平等』にこだわりつづけ…。トランプは…『自由』の自己主張の復権を唱え…。二人の…ページェントがこれから、何処に赴くかは今のところまだ誰にも分かりません」。
 これらのほとんど無内容さと、試訳済みのL・コワコフスキの文章の内容とを比べていただきたい。なお、コワコフスキは<日常生活に関するエッセイ>として書いているが、西尾幹二は馬鹿らしくもまるで<思想書>のごとくして書いている。
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 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれている。邦訳書はない。
 第1章〜第4章の「権力」・「名声」・「平等」・「嘘つき」についで、第13章の「自由」も終えた。
 著者本人の選択かどうかは不明だが(少なくとも事後了承はしているだろう)、この書全体の表題には、18の主題のうち<自由・名声・ 嘘つき・背信>の4つが選ばれている。そこで、残る「背信(裏切り)」に関する章を試訳してみる。
 一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
 —— 
 第10章・背信(裏切り)について(On Betrayal)。
 (1)我々はみんな、ある民族(ethnic)共同体の一員として生まれる。
 我々がその共同体の一員であるというのは、我々とは無関係の事実だ。すなわち、我々は、家族を選ぶ以上には、自分の国(nation)を選択していない。
 一方で、我々がのちにもつ人々との—社会的、政治的、職業的あるいは性的な—関係は、たいていは、我々自身による選択の結果だ。//
 (2)我々が生まれて入る立場は、我々の意思とは無関係に、我々に事実として提示されるがゆえに、拘束力ある義務的なものではない。換言すれば、責任を伴わない。
 結局、我々は、国の一員になると署名しなかったし、両親にこの世に生まれることを頼みもしなかった。
 ゆえに、我々は自分で選択した関係にのみ拘束される、と考えてもよいだろう。
 しかしながら、現実には、我々には反対のことを感じる傾向がある。つまり、我々の国と我々の家族に対する無条件の忠誠が義務づけられていると感じる。そして、それらに対する背信(betrayal)は最悪の罪だと見る。
 しかし、承認されないことを怖れる気持ちなくして、我々は、自分で自由に選択した人間関係—例えば、政治的組織の構成員たること—を放棄するのは自由だと感じる。//
 (3)これら二つの間のどこかに入る我々の忠誠の第三の形態は、教会または宗教共同体に対するものだ。
 我々の宗教的帰属は、われわれの血の中にあるものではなく(St. Jerome が言ったように、人々はキリスト教徒として生まれるのではなく、キリスト教徒となるのだ)、圧倒的多数の場合は、我々が生まれた環境によつて決定されている。
 そして、生まれてすぐにキリスト教の赤児になるのが慣例だ。例えば、ローマ教会でのように、人々はほとんどつねに、両親の宗教を採用する。
 転宗または棄教は、したがって、その人の元来の宗教共同体から非難される。
 イスラムでは、転宗または棄教は、例外なく死の制裁を受ける罪だ。//
 (4)しかしながら、選択によってではなくたまたま出生によって帰属する共同体に対する背信はそれほどの苛酷な非難を伴うはずだ、ということに驚いてはならない。
 国(nation)は、個人のように、人間が企図して作ったものではなく、自然の産物だ。そして、そのようなものとして、それ自体の存在を正当化する必要はない。
 たんに存在するがゆえに、それは存在する。これ自体が、正当化となる。
 個人の場合と同様だ。個人の存在は、それ自体の正当性を含んでいる。
 我々が国に帰属していることは、それが我々自身の選択の結果ではないというかぎりで、我々の内部につねに同行させていることだ。
 その正当性を拒絶したり否認したりすれば、まるで我々は国自体を無効なものとしている(annihilate)がごとくになる。//
 (5)このことは、教会(上述のように我々自身の選択という範疇に入るのだが)や政治的団体のような、我々が選択によって帰属する団体にはあてはまらない。
 これらの団体は、その存在を正当化する必要がある。特有の目的のために存在し、その有効性(validity)はその目的を達成することにあるからだ。
 教会は、真実を広く伝搬し、真実の救済に必要な物を配分する目的をもって存在する。
 政治的団体も、彼らの真実を広く伝搬し、宣言した目的のために活力を制御する目的をもって存在する。—すなわち、理想的世界を建設し、敵を破壊することによって一時的な救済を獲得するために。または少なくとも、あれこれの具体的政策を通じて人類の運命をより良くするために。
 ある特定のセクトに入っていると想定しよう。
 あるときに、私は欺されていたと気づく。セクトの長はペテン師だと判明する。自分は神だと称して、人々から金を巻き上げたり性的な利益を受け取るパクリ屋だと。
 それで私は、そのセクトを去る。—言い換えると、背信する。
 同じように、もしも政党の本当の狙いは自由ではなく隷従だと気づくならば、私はその政党を離れることができ、そして、政党に対して背信する。
 このような場合に「背信〔裏切り〕」という言葉は、当該のセクトまたは政党の構成員によってのみ用いられる傾向がある。これは中立的な言葉ではなく、非難を含んでいるからだ。
 我々のほとんどは、非良心的な馬鹿者が設立したセクトを離れたという理由で、あるいはファシスト党や共産主義者党を去ったという理由で、その誰かを非難しようとはしないだろう。 
 「背信〔裏切り〕」という言葉を我々が用いるとき、背信された団体は何ら良いことに値しないのだから「背信」は良いことであり得る、という可能性を排除している。これには、賛同することができない。//
 (6)述べることができるのは、背信されたことまたは人に関する我々自身の見解だけが、ある特定の行為が背信なのか、そうでないかを決定するよう我々を誘導している、ということだ。
 戦争中に連合国のために働いたドイツ人は、彼の国、ナツィ国家の敵に協力していた。しかし、我々はその人物を「背信者(裏切り者)」とは呼ばない。
 反対に我々は、正当な信念を守ろうとする勇気を示した、と考える。
 換言すれば、ある特定の行為が我々の道徳上の義務だとあるいは少なくとも道徳的に正当だと考えるものに従えば、背信なのかそうでないかを、我々は決定している。//
 (7)しかしながら、このような説明は曖昧さという紛糾の中に我々を巻き込むということが、ただちに明白になる。
 なぜなら、我々は、背信という概念にすでに我々自身の道徳上のまたは政治上の見解を含ませており、かつまたこれらは必ずしも明確ではない。だが、その概念上の理由だけで、ある背信の行為は道徳的に正当であり得ることを認める気持ちに我々はなれないからだ。
 我々の忠誠心を期待することのできる権利をもつ誰かの死の原因を故意に作り出すことは、とくに瞠目すべき、かつ 嫌悪を催す背信の一例だ。そしてこれが、ユダとブルータスがいずれもダンテの地獄の最底辺に置かれることの理由だ。
 しかし、ヒトラーもまた確実に、彼の将軍たちからの忠誠心を期待する権利を持っていた。だがなおも、我々はヒトラーを殺そうとした将軍たちを同じ場所に追いやらないだろう。//
 (8)この困難さから抜け出す方法は、こう言うことだ。すなわち、国(nation)と国家(state)は別の異なるもので、おなじ名前の国にいても、我々は悪の道具である国家を拒絶または裏切ってよい、たとえその国家に主権があり、第二次大戦後の東および中央ヨーロッパはそうでないが、ヒトラーのドイツやスターリンのソヴィエト同盟のように、国の大多数が支持しているとしても。
 今日と現今の時代では、「私の国は正しい、または間違い」とたんに繰り返しつづけることは困難だろう。
 19世紀には、これは容易だった。いかほどに正しさや間違いがあっても、王や国に対する背信は間違いだと人は感じていた。もちろん、その国が本当にその人自身のもので、外国の権力に占領されていないかぎりで。
 しかしながら、20世紀には、規準はもはや伝統や国への忠誠ではなく、イデオロギーにある。つまり、イデオロギーが正しいならば、叛逆(treason)は叛逆ではない。//
 ——
 ②へとつづく。
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