秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

羽田孜

0299/民主党とはどういう政党か。

 大嶽秀夫・日本型ポピュリズム(中公新書、2003)は序章を含めて6つの章か成っており、小泉純一郎に2つの章、田中真紀子に1つの章があてられているにとどまり、小泉純一郎らの「ポピュリズム」のみを扱った本ではない。
 序章を読んでいて、現在の民主党の性格がかなり鮮明になってきたと個人的には感じた(とっくに整理できている人もいるだろうが)。
 さて、大嶽によると、1990年代の初頭に、「政治改革」・「政党政治の抜本的な再編成」を意図した三つの流れが日本に表れた。
 一つは、小沢一郎らの「新保守主義」だ。「孤立主義的平和主義の克服」(=積極的な軍事的国際貢献)・「自民党の利権構造の全面的な改革」を主張した。
 二つは、日本新党やさきがけに結集した「市民派」だ。成熟した多様な市民の代表、緩やかなネットワークに基礎を置くことを特徴とする。一種のアマチュアリズムで支持を受け、細川護煕や菅直人には一時的には「ポピュリズム」的要素もあった。<小さい政府>論では小沢一郎らと共通したが、小沢らの党中央指導的・執行部中心的政党運営観は、分権的な政党運営観のこのグループとは対極的だった。
 三つは、社会民主主義勢力だ。1989年の労働界の「連合」結成を機に、当時の日本社会党・民社党の和解や政策の現実化を通じて、社民勢力の拡大による自民党に代わる政権を展望した(p.6-11)。
 これら三つの流れが合流してできたのが、細川護煕・反自民連立政権(1993.08)に他ならない。もともと異質な部分を含む寄せ集め世帯だつたので、三つのいずれかが脱退すれば(そしてとくに自民党と手を結べば)、簡単に崩壊する弱点を内在していた。そして、細川護煕は、三者のいずれからも絶縁されたわけでも(少なくとも表向きは)ないのに、自己の政治資金が問題にされるや、無責任とも思えるほどにあっけなく政権を「投げ出して」しまった(1994.04)。そのあとで、三者の対立が顕在化し、小沢・細川グループと社会党・さきがけグループへの分裂により短命羽田孜政権が生まれ、そして社会党が小沢らよりも自民党を選択して村山富市・自社さ連立政権ができたのだった。
 このあたりの社会党に関する大嶽氏の分析は興味深いが別の機会に書くとしよう。
 さて、現在の民主党の性格を考えるとき、大嶽が理解・主張しているわけではないが、上の三つの流れ又は傾向が合流したものという性格づけは細川政権のそれと基本的には同じだろう、と考えられる。
 上の順番をそのまま生かせば、第一に、新進党瓦解後、最も後から民主党に合流してきた、小沢一郎ら、当時の自由党グループだ。羽田孜も渡部恒三も元々は小沢と同じく自民党田中派→新生党→新進党→のちの保守党を含む自由党→保守党が分裂した後の自由党→民主党と渡り歩いたことになる(羽田孜は一時期小沢と離れて「太陽党」を作ったりした)。その理念は、変わっていないとすれば「ネオ・リベラル」要素を含む「新保守主義」だ。
 第二に、菅直人、鳩山由紀夫らの旧さきがけ組を中心とする旧市民派グループだ。菅直人は社会民主連合、鳩山由紀夫は自民党田中派の経歴をもつので、政治家生活当初からの仲間だあったわけではない。
 第三は、横路孝弘らの旧社会党グループだ。社会民主主義勢力ということになるが、旧社会党の<非武装・無抵抗>平和主義に染まっている人もいらっしゃる。
 他に若手で前原誠司等々がいるが、菅・鳩山という元来の民主党の核によって結党したあとで入ってきたものだろう。
 さて、自民党にも加藤紘一や河野洋平がいる如く自民党も決して一枚岩の政党ではないが、民主党の<一枚岩でない>様子は自民党以上で、よくぞ政党としてまとまっていると感じられるほどだ。自民党に対する第二党という看板がなければ、あるいは1人しか当選しない選挙区が多数の選挙制度でなければ、理念的・理論的には本来は四分五裂していても不思議ではない、と思われる。
 小沢一郎は政権交代を、と主張しているが、こんな政党でどうやって統一的な政策を形成し法案化し現実化していけるのだろう。野党の場合には全党的な議論と合意が欠けていても適当なことを代表が主張して誤魔化しておれるが、政権与党となるとそうはいかない。
 かつての細川連立政権の姿が、今の民主党を見ていると、その後ろに透き通って見える。参院選で民主党が勝利しても政権交代につながらないのだが、かりに万が一その後の衆院選で過半数を獲得して民主党政権が出来たとすれば、やはり、早晩に空中分解するだろう。
 <大きい政府>の社会民主主義と<小さい政府>の新保守主義が同居できるはずはないと思われる。また、改憲賛成派と改憲反対派が同じ政権与党内に一緒におれるはずがないと思われる。
 大嶽も示唆しているが(p.23)、自民党こそが小沢らの<新保守主義>の「お株を奪う」政策を実施してきた、という現実がある。議論と検討を要するが、橋本・小泉・安倍政権こそが<改革>を唱え続け、野党は現状を維持を訴えて<抵抗>しているのだ。
 自民党こそがこの10年で変わったのだ(だからこそ従来の支持者の離反・減少を招いているという面がある)。そうした中で、民主党は自民党に対する対立軸を明瞭に打ち出していないし、また上に見たように、打ち出せるような政党でもないのだ。公務員・労働問題に他ならない「消えた年金」問題や閣僚の事務所経費の不透明性や失言を捉えて、一部?マスコミの狂気じみた後押しのおかげで、議席を増やすのかもしれない。だが、日本共産党と同様に、この党にも未来はないことは明らかだ。
 保守党を作って小沢らの自由党を去った野田毅・二階俊博・扇千景らと残った小沢、羽田、渡部恒三、西岡武夫らとの間に基本的な考え方・政策に大きな差異があったのだろうか。おそらくは「人間関係」と与党議員であるか否かの選択の問題だっただろう。
 民主党の中にも一皮むけば自民党であっても不思議ではない者もいくらでもいるのだ(海部俊樹もいた)。
 そんな民主党が一体何を対立点として「政権交代」を訴えているのか。ちゃんちゃらおかしい。

0066/細川護煕談話を生み、村山社会党首相も生んだ小沢一郎・現民主党代表。

 前野徹という人のことを知らなかった。知ったのは昨年以降、いく冊かの本を買ったからだ。1926年生まれで今年2007年02月08日に亡くなった。享年81歳。
 同・戦後六十年の大ウソ(徳間書店)は2005年07月刊なので、79歳のときの、彼の最後の著書だった可能性がある(その年齢で著書を刊行できること自体に感心するし、羨望しもする)。
 この本のはしがきで彼は、「本気で国の将来を憂えはじめた」のは竹下登内閣(1987.11発足)以降で、「決定的となった」のは、細川護煕、村山富市両首相の日本=「侵略国家」発言だった、と書く。そして、「抑え難い憂国の情」がこの本を書かせた重要な理由だとする(p.5、p.9)。
 主としてこの本から引用するが、細川首相発言はこうだった。1993.08.10(現在問題になっている河野談話の直後。細川首相就任記者会見)-先の戦争は「侵略戦争で、間違った戦争だった…。過去の歴史への反省とけじめを明確にする」。
 同年08.23(所信表明演説)-「わが国の侵略行為や植民地支配などが、多くの人に耐え難い苦しみと悲しみをもたらした」、「深い反省とお詫び」を表明。
 同年11.06(韓国訪問中)-「日本の植民地支配で…姓名を日本式に改名させられ、従軍慰安婦徴用などで耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて、心から反省し陳謝する」。
 羽田孜短命内閣を経ての村山首相が、その出身政党からして、細川首相と同旨の見方をしていたことは言うまでもないだろう。1995.06の国会決議では「侵略」や「謝罪」の言葉は盛り込まれなかったようだが、同年08.15の首相談話では、「植民地支配と侵略…痛切な反省の意…、心からのお詫び…」との言葉が入る。
 前野をして憂国の情を「決定的」にならしめた、これらの首相という公職者の発言内容には、「植民地支配」とか「侵略」とかの概念の意味は厳密にはどういうものだろう、という疑問だけ記して、ここでは立ち入らない。
 改めて記憶を新たにしてよいと思われるのは、細川内閣の成立過程だ。すなわち、この内閣は反自民・非共産の従来の野党連立内閣で、自民党(又はその前身政党)が加わらない戦後初めての内閣だった。そして、なぜかかる内閣ができたかというと、小沢一郎、羽田孜、渡部恒三らの旧自民党グループが同党を離党し、新生党を結成して(その直前に武村正義らも離党して新党さきがけを結成した)宮沢内閣不信任案を可決させ、解散後の総選挙で細川らの日本新党と新生党が「躍進」したからだった。
 この十数年前の一種の「政変」において、この人物がいなければかかる変化もなかった、と言き切れる政治家を一人だけ挙げるとすれば、それは、小沢一郎だろう。自民党からの相当数の議員の離党と選挙後の多数政党間の「連立」工作は、小沢こそが実質的には先頭を切り、小沢こそが最も練達に行ったのだ、と思われる。
 細川談話(・発言)は彼が1938年01月生まれで、じつは殆ど戦後教育しか受けていない(しかも彼は7年弱の「占領」下の、日本(軍)=悪という教育をまるまる受けている)ことによることも大きい、と思われる。過去の日本を批判し反省することが「進歩的」で「良心的」だとの想いを無意識にでも植えつけられた世代ではなかったか、と思う。
 だが、そうした人物が首相になれたのは、彼自身の力というよりも(彼は国会議員としての経歴は短いものだった)他の力、すなわち、小沢一郎という政治家の力だったのではなかろうか。
 以上のような意味では、細川の日本国首相としての「侵略行為や植民地支配」謝罪発言は、小沢一郎がいなかったら、生まれなかったのではないか、とおそらく確実に言える。
 細川連立内閣と羽田内閣が終焉したのは、日本社会党が小沢一郎に従っていけなくなったからだった。言い換えると、小沢が日本社会党軽視又はいじめをしたからこそ両内閣は潰れ、ギリギリの接戦を経て、今度はいわば「小沢抜き」の自社さ連立政権(村山内閣)ができたのだった。
 当時の自民党総裁は河野洋平で、彼自身にマルクス主義・共産主義はともかくも社会民主主義程度には抵抗感が殆どなかったように思われることも、この新連立内閣成立の背景の一つだろう。だが、やはり、村山内閣成立に対しても、消極的な意味で、重要な影響を与えたのは小沢だったと思われる。小沢一郎こそが、社会党を自民党の側へと追いやったのだ。
 とすると、村山首相談話(およびその後の橋本龍太郎首相談話)を生んだ不可欠の人物は、小沢一郎だった、と言えるだろう。
 1993年以降の政界の「混乱」の原因と責任は小沢一郎に帰する所が大きいと考えるが、日本の首相又は内閣が「贖罪」的見解を明瞭に表明し始めたのも、じつはかつての小沢一郎の行動と無関係ではない、と言ってよいのだ。
 むろん諸談話に小沢が直接に関与したことはないのだろう(あったかもしれないが、そのような情報は記憶にはない)。だが、彼が全く無関係とはいえないことは、上に述べた通りだ。
 さて、小沢の1993年以降の政治的行動はいったい何だったのだろう。結果的には、日本を一つも良い方向に前進させはしなかったのではなかろうか。
 今、彼は民主党の代表だ。そして、選挙戦術的思考のみをして、ともかくも民主党の議員数増大のみを目標としているようだ。そこには彼が本来もっていたかもしれない、国家観も政策論も何もないのではないか。国益という観念は「民主党益」のために消失しているのではないか。
 かつて小沢が果たした役割を考えると、彼が当面目標とする方向に一緒に向かうのは、つまり、民主党を現在よりも大きくさせるのは(とりわけ自民党よりも多数の議席を民主党に与えるのは)きわめて「危険」だ、と私の直感は囁いている。

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