高山正之週刊新潮に毎号1頁もののコラムを連載している。面白いが、出典や正確な月日の記載がないことが多く、資料としては使いにくいところがあるのが難点だ(と私は感じている)。
 以上は前振りで以下が本文。高山は昨年12月までは毎号、月刊Voice(PHP)にも連載記事を執筆していたようだ(「メディア閻魔帳」)。その後も巻頭の方で写真付きの短い文章を書いている。
 別の何かで誰かが同旨のことを書いていたような気がするが、高山正之は上掲誌昨年(2007年)12月号で、朝日新聞に関してこんなことを書いている(この号のタイトルは「基地と市民と『朝日新聞』」。以下は朝日新聞に関する高山の記述のすべての内容ではない)。
 <安倍晋三退場へと「追い込んだ」のは「紛れもなく」朝日新聞の「飽くことのない非常識な個人攻撃」だ。一新聞が「常識をかなぐり捨てると首相の首も飛ばせる」という事態は怖い。朝日新聞紙上で若宮啓文と筑紫哲也が「馬鹿な大衆」(オルテガ)を「どう踊らせるか」を「堂々と語り合っている」。>
 関心を惹いたのは、むしろ以下だった。
 <「いまのテレビのワイドショー」は種々の職業の者が「コメンテーターとして社会や政治を語る。当然無理があるから、最低限、これは読んでくださいと事前に渡すのが、『朝日新聞』の記事や社説なのだ」。私(高山)も一年コメンテーターをしたが「どこのテレビ局も『朝日新聞』を教則本に使っていることを知った」。テレビ界はまだ「牢固とした『戦後レジーム』のなかにある」。>
 国民または有権者に対する「テレビのワイドショー」の影響力の大きさはしばしば語られている。よく分からないのは、高山の上の指摘が誤っていないとして、そうした番組のの製作担当者は何故、<朝日新聞>を最も権威あるニュース(・見解)ソースと考えているのか、だ。
 憶測はできる。番組製作に実際に中心的に携わっている(25~45歳の)世代でのマスコミ(>テレビ放送局)入社者は平均的な日本人に比べて、かなり<変わっている>。世代には関係ないかもしれないが、テレビを含むマスコミは当然に反権威・反権力・反政府の立場を採るべきだとの感覚に浸っているのかもしれない。あるいはまた、マスコミ(テレビ放送局)入社者は自分を平均的日本人よりも<賢く>かつ<進歩的>だと思っている、つまりは<インテリ>だと無意識にでも自己規定しているので、最も<インテリ>好みの、最も<インテリ>臭漂う(と言われることのある)朝日新聞に自然に親近的になるのかもしれない。
 理由が何であれ、高山の上の指摘が事実だとすると恐ろしいことだ。テレビ視聴者・一般国民は、朝日新聞の読者でなくとも、自然に、何となく<朝日新聞的な>意見または感覚をもってしまう可能性が十分にある。
 かつて1993年に非自民の細川護煕連立政権が誕生した後、民間放送連盟の会合でテレビ朝日の報道局長・椿貞良が選挙前に自民党政権存続阻止、反自民連立政権成立>の助けになる報道姿勢をとることで局内を一致させた旨を述べたことが問題になり、国会による椿の証人喚問、郵政省によるテレビ朝日に対する<行政指導>にまで発展したことがあった。
 テレビ朝日(朝日放送)系だけならまだよい。他のキー局まで、何故「朝日新聞」なのか。不思議であり、空恐ろしくもある。
 <インテリ>(これの定義・意味および存否は厳密には問題になる)は朝日新聞を読む、などという迷信?は、とっくに無くなっていると思っていたが…。