秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

筑摩書房

0897/内田樹は高橋哲哉にはついていかない。

 内田樹は「卑しい街の騎士」と題する2005年の文章の中で、1995年の高橋哲哉の文章に言及している。
 高橋哲哉は1995年に簡単にはこう(も)書いたらしい。
 ・<自国の「汚れた死者」(日本人戦死者)の哀悼よりも(アジア諸国への)「汚辱の記憶」を引き受けることが優先されるべき。
 ・「侵略者である自国の死者」への責任とは「哀悼や弔い」でもましてや彼らを「かばう」ことではなく、「彼らとともにまた彼らに代わって」、被侵略者への償い=「謝罪や補償を実行する」ことだ。
 内田樹は、高橋の「理路は正しい」、しかし思想とは「こんなに、鳥肌の立つようなものなのか」とコメントしている。
 「鳥肌の立つような」とは、感動したときにも用いられる、好意的・賛同的な意味での表現でもありうるが、内田によると、「…高橋自身が日々ゆっくりと近づいている『結論』に私の身体が拒否の反応をした」ということを意味するようだ。つまり、拒否的・消極的な反応の表現として使っている。
 つづけて、内田は高橋哲哉・靖国問題(ちくま新書、2005
)に言及する。高橋のこの本は読まないままでどこかに置いているのだが、高橋は、この書の結論部でこう書いているらしい。
 ・国家によるそのために死んだ者(戦死者)の「追悼」は、つねに「尊い犠牲」・「感謝と敬意」のレトリックが作動して、「顕彰」にならざるをえない。
 ・国家は「戦没者を顕彰する儀礼装置をもち、…戦死の悲哀を名誉に換え、国家を新たな戦争や武力行使に動員していく」 。
 内田樹は次のようにコメントする。
 ・高橋の主張は「正しい」が「正しすぎる」。すなわち、これは「現存するすべての国民国家」等に適用されねばならない。つまり、「靖国神社を非とする以上、世界の共同体における慰霊の儀式の廃絶を論理の経済は要求する」。
 ・だが、中国も韓国もイスラム過激派もアメリカも欧州諸国民も受容しないだろう。それは「倫理的に十分に開明」的でないためかもしれないが、「世界中の全員を倫理的に見下すような立場に孤立」することが政治への実効的なコミットだとは思えない。
 ・「高橋哲哉の論理はそのまま極限までつきつめると、いかなるナショナリズムも認めないところまで行きつく」し、すべての民族等の否定にまで行きつく。例えば、①アジア諸国への日本の謝罪もそれを「外交的得点」とすることをアジア諸国政府に禁じる必要がある。それらの国の「ナショナリズムを亢進」させるから。②謝罪等をすることにより「倫理的に高められた国民主体を立ち上げた」という意識を日本人がもつことも禁じる必要がある。「ナショナルな優越感の表現」に他ならないから。
 高橋哲哉の原文を読んではいないが、なかなか鋭い分析と批判だ。
 だが、むろん、高橋哲哉の見解・主張の「理路は正しい」のか、「正しすぎる」のか、高い<倫理>性をもつものかは、本当にそうなのか、レトリックだけの表現なのか、という疑問が湧く。
 それに、そもそも、上の一部だけ問題にするが、高橋哲哉は本当に「いかなるナショナリズムも認めない」のか否かは検討されてよいだろう。論理的にはそうならそざるをえない、という指摘は重要だが、高橋哲哉がそのことを意識しているかどうかは別問題だとも思われる。
 すなわち、高橋哲哉は、日本国家についてのみ「ナショナリズム」の否定を要求しているのではないか。日本国家についてのみ、戦没者「慰霊」施設の廃絶を要求しているのではないか。それが高橋の本音ではないか(そして朝日新聞の若宮啓文も同様ではないか)。
 その意味で高橋はきわめてご都合主義的であり、きわめて<政治的>なのではないか。さらにいうと、論理・理論の世界に生きているようでいて、じつは(日本とその国家に対する)何らかの怨念・憤懣を基礎にして言論活動をしているのではないか(さらにいえば、それは日本「戦後」のインテリたちの基底にある心情ではないか)。
 以上は、内田樹批判ではない。内田は次のように文章をまとめている。
 「高橋哲哉の説く透明な理説」が一基軸として存在しえ、「思想的には重要」であることは認めるが、「私はこの『案内人』にはついてゆくことができない」。
 前段部分は褒めすぎのように思えるが、内田が結論的に高橋哲哉の議論を支持していないことは明らかだろう。
 内田樹の上記の題の文章は、加藤典洋・敗戦後論(ちくま文庫、2005)の「(文庫)解説」として書かれたもの(p.353-362)。
 内田は、加藤典洋は「熟練の案内人」、「正しい案内人」として肯定的に評価している。そして、高橋哲哉という「『案内人』にはついてゆくことができない」と結んでいるわけだ。
 加藤典洋の書の本体も読みたいものだが、はたして閑があるかどうか。

0853/山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書)を機縁に皇位継承問題にほんの少し触れる。

 山内昌之・歴史学の名著30(ちくま新書、2007)は「付録」を含めて32のうちに15の和書・漢書を挙げていて、欧米中心でないことにまずは好感をもつ。コミュニスト又は親コミニズムの学者ならば当然に鎮座させるだろう、マルクス=エンゲルス・空想から科学へ、などのマルクス主義文献がないようであることも興味深い(但し、トロツキー・ロシア革命史を挙げているが、山内がマルクス主義者またはトロツキストではないことはすぐ分かる)。
 挙げられる一つに、北畠親房・神皇正統記(14世紀)がある。
 山内昌之によると、この書は「皇室男系相続の将来性がかまびすしく議論される」現在において「改めて読まれるべき古典としての価値」がある、という(p.115)。
 この書を私は(もちろん)未読で、後醍醐天皇・南朝側に立ってその正当性を論じたものくらいの知識しかなかった。だが、山内によると、後醍醐天皇の「新政」の失敗の原因を批判的・反省的に述べてもいるらしい。つまりは、南朝・後醍醐天皇の正当性が「血」にあるとかりにしても、「御運」のよしあし(p.114)はそれだけでは決まらない、ということをも述べているらしい。
 今日の皇位継承に関する議論に関係させた山内の叙述はないが、示唆的な書ではあるようだ。
 <血>なのか、「結果責任」(p.114)を生じさせうる<徳>または<人格>なのか。
 道鏡に譲位しようとして和気清麻呂による御神託によって阻まれた称徳天皇(48代。46代・孝謙の重祚)の例があり、そして皇位は天武天皇の血を引かない天智天皇系の光仁天皇(桓武天皇の父)に移ったという歴史的経緯を振り返っても、やはり基礎的には「血」なのだろう。皇室と血縁のない道鏡への「王朝交代」は許されなかったのだ(なお、天皇・皇后陛下が最近ご訪問された京都のいわゆる「御寺」・泉涌寺に祀られている諸天皇の位牌の中には、称徳・聖武等の天武系の天皇のものはないらしい)。
 少なくとも継体天皇以降は、どの血縁者かについては議論や争いがあったこともあったが、「血」縁者であることが条件になること自体は、結果としては疑われなかった、と言えよう。
 だが、北畠親房すらもかつて少なくとも示唆していたようだが、正当とされる天皇およびひいては皇族のすべてが「有徳」者・「人格」者であったわけではない。「お考え」あるいは諸政策がつねに適切だったわけではない。
 また、かりに「有徳」者・「人格」者だったとしても、ときの世俗的権力者(またはそれを奪おうとする者)によって少なくとも実質的には殺害されたと見られる天皇もいた。崇峻天皇、安徳天皇だ。
 皇位は、純粋に天皇・皇族の内部で決せられたのでは必ずしもなく、また天皇・皇族は純粋に俗世間とは無関係に生活しそれらの地位が相続されてきたのではなく、時代、あるいはときどきの世俗権力者・政治の影響を受けながら、ある意味では「流動」しつつ、長々と今日まで続いてきた、と言えよう。そのような<天皇>位をもつ国家が、世界で唯一か稀少であるという、日本の(文化・政治の)独自性を維持しようとすることに、小林よしのりと見解の違いはない、と思われる。
 だが、前回までに書いたのは、要するに、皇位(天皇)および皇位継承者を含むはずの皇族にとって、「血」と「徳」のどちらが大切なのか、小林よしのりにおいてその点が曖昧であるか、または矛盾した叙述があるのではないか、ということだ。

0766/ハンナ・アレント・革命について(ちくま学芸文庫、志水速雄訳)におけるフランス革命1。

 ハンナ・アレント・革命について(ちくま学芸文庫、志水速雄、1995、初出1975)から、フランス革命について言及するところを引用して紹介。阪本昌成の本が前回紹介した部分で参照要求している箇所とは異なる。p.242-243。
 別に扱いたいルソーの<社会契約論>・「一般意思」に言及する部分(②)もあるが、一連の叙述なので、この回で引用しておく。
 ①「歴史的にいえば、アメリカ革命とフランス革命のもっとも明白で、もっとも決定的な相違は、アメリカ革命の受け継いだ歴史的遺産が『制限君主制』であったのに対して、フランス革命のそれは、明らかに、われわれの時代の最初の数世紀とローマ帝国の最後の数世紀にまで遠くさかのぼる絶対主義だったということ」だ。
 「新しい絶対者たる絶対革命を、それに先行する絶対君主制によって説明し、旧支配者が絶対的であればあるほど、それにとって代わる革命も絶対的となるという結論をくだすことくらい真実らしく思われることはない」。
 「十八世紀のフランス革命と、それをモデルにした二十世紀のロシア革命は、この真実らしさの一連の表現であると考えることは容易であろう」。
 ②「ルソーの一般意思の観念は、…、国民が複数の人間から成るのではなく、あたかも実際に一人の人間から成るように扱っている。…この一般意思の観念がフランス革命のすべての党派にとって公理となったのは、それがこのように、実際、絶対君主の主権意思の理論的置きかえであったため」だ。「問題の核心は、憲法によって制限された国王と異なり、絶対君主は、国民の潜在的に永遠の生命を代表していたということ」だ。
 上の②は、阪本昌成が1793年憲法(ジャコバン独裁=ロベスピエール)がいう「プープル(人民)主権論」は「全体主義の母胎」になったと指摘していた(前回紹介参照)のと実質的には同趣旨だと解される。
 なお、かかるアレントのフランス革命理解は日本の学校教育におけるフランス革命の叙述にほとんど生かされてはいないようだ。また、岩波書店はハンナ・アレントの著作の文庫化を全くしていないことも興味深い。これは、岩波書店が、<古今東西の>「社会」・「人文」系の重要な文献を<広く>出版しているのでは全くなく、岩波の<思想>に合わせて取捨選択して出版している証左の一つだ。

0660/長尾龍一・憲法問題入門(ちくま新書)と横田喜三郎の1951年本(河出)における「民主主義」。

 一 長尾龍一・憲法問題入門(ちくま新書、1997)のp.39~p.41にこんな文章がある。
 ・民主主義=Democracy とは「デーモス(民衆)の支配」の意味で、「デーモス」は下層・中層自由民を意味した。
 「民衆のための支配」という標語は、「何が民衆のためか」の認定権を少数者が持てば、「独裁制の正当化」になる可能性がある。
 十分で正確な情報にもとづかない「デーモス」の決定は「極めて不合理」になりうることは容易に想像がつく。従って当時は、無条件に Democracy を賛美する者など存在せず、有識者の多くは「反民主主義者」だった。この時代、民主主義は「価値判断ぬき」の「一つの制度」で、その長短を冷静に議論できた。
 民主主義=正義、非民主性=悪となったのは一九世紀以降の「価値観」で、そうすると「民主主義」というスローガンの奪い合いになる。この混乱を、(とくにロシア革命後の)マルクス主義は助長した。マルクス主義によれば、「封建的・ブルジョア的」意識をもつ民衆の教育・支配・強制が「真の民主主義」だ。未来世代の幸福のための、現在世代を犠牲にする「支配」なのだが、「未来社会」が「幻想」ならば、その支配は「幻想を信じる狂信者」による「抑圧」であり、これが「人民民主主義」と称されたものの「正体」だ。
 ・民主主義が「民衆による支配」 だとすると、「支配」からの自由と対立する。「民衆」が全てを決定すると「自由な余地」はなくなる。レーニンやムッソリーニは、「民衆代表」と称する者による「徹底的な自由抑圧」を「徹底した民主主義」として正当化した。
 一方、、「支配からの自由」を徹底すれば「民衆による支配」もなくなり、「アナーキー」になる。以下省略。
 長尾龍一は1938~。東京大学法学部卒だが、同学部・大学院ではなく、東京大学大学院総合文化研究科教授(上の本の著者紹介による)。
 二 横田喜三郎・民主主義の広い理解のために(河出書房・市民文庫、1951第一版)はGHQ占領下の時期のものだ。
 既に紹介のとおり、宮沢俊義もまた、<何でも民主主義>とでも言うべき、自由・平等・個人主義等をすべて「民主主義」から、又はそれとの関連のもとで説明する文章を書いていたが(「民主主義=(何でも出てくる)玉手箱」論とでも言おうか)、この横田の本も似ているところがある。
 p.11にはこんな文章がある。
 ・「民主主義」とは、「精神的な、思想的な」方面では、「すべての人にひとしく人格を認め、これを尊重し、すべての人の利益と意見を同様に尊重するという精神・心持・態度を意味する」。
 ・「民主主義」とは、「社会的な」面では、「すべての人に平等な機会を与え、平等なものとして扱う社会制度を、すべての人に広い言論や思想の自由を認める社会組織を」意味する。
 ・「民主主義」は、「政治的な」分野でも同様で、「人民主権」や「人民参政」の政治形態を意味する。もっとも、「人民主権」・「人民参政」は「結局においては、すべての人が平等だという思想」にもとづく。「人民主権」は「君主主権」と対立する。
 以上の横田喜三郎の文章において、「民主主義」と「平等」とは、あるいは「民主主義」と「自由」や「個人主義」は(関係するところがあるかもしれないとしても)明瞭に別の観念として説明されているだろうか。ここにも、<何でも民主主義>論、「民主主義=(何でも出てくる)玉手箱」論が見られるようだ(なお、別の箇所では民主主義=自由主義ではないこと等を論じてはいる)。
 このようなことを、「市民」向けにであれ書いていた人が当時東京大学の国際法担当教授であり、のちに最高裁判所長官になったのだから、日本の戦後の出発は、あるいは「戦後民主主義」の始まりは、「民主主義」についての、ヒドい誤りを含んだままの、冷静な理解を欠く状態でなされた、と感じざるをえない。
 ポツダム宣言は、「軍国主義」と「民主主義」とを対置して、「民主主義」的傾向に対する障碍の除去を謳っていた。また、あの戦争は<民主主義対ファシズム>の闘いだったとの「歴史認識」も、GHQのそれを基礎にして宣伝され、教育された。
 宮沢俊義や横田喜三郎の「広い民主主義」観又は「民主主義」概念の「広い」用法は、このポツダム宣言やGHQの「歴史認識」に影響を受けたものだ、あるいはこれらに<追慫>したものだ、というのが成り立ちうる一つの仮説だと考えられる。

0569/古田博司・新しい神の国(ちくま新書、2007)等々を読む。

 〇小林よしのり・パール真論(小学館、2008)p.235まで読了。あとはパール判決書解題と最終章だけなので、殆ど終わったと言えるだろう。
 〇安本美典・「邪馬台国畿内説」徹底批判(勉誠出版、2008)のp.213まで読了。
 上の二つは、後者の問題には考古学等という介在要素が増えるが、何が事実だったか、という問題を論じている点では共通性がある。そして、それぞれの知的な論理的作業は興味深い。
 いま一つの共通点は、どちらの問題についても、朝日新聞という<左翼政治(謀略)団体>が関係していて、それぞれ<悪質な>ことをしている、又は<悪質な>影響を与えている、ということだ。具体的に書き出すと長くなるので、別の回に時間があれば書く。朝日新聞(社)は至るところで害悪をもたらしていて、嘔吐が出る。
 〇大原康男・象徴天皇考(展転社、1989)はp.149まで読了。今後さらに調べてみたいテーマはこの本に最も近いかもしれない。
 〇古田博司・新しい神の国(ちくま新書、2007)はp.166までとほぼ3/4を読了。単発短篇の寄せ集めでまとまりは悪いが、区切りがつけやすいのは却って読みやすい。
 1.著者・古田は1953年生。もっと上の世代の論者の中に、60年安保世代(「全学連」世代)と「全共闘」世代(70年安保世代)を混同して、あるいは一括して論評しているのを読んだことがあるが、さすがに私より若い人で、両世代の差違に言及する部分がある。以下、古田による(p.36以下)。
 全学連世代は戦争を知っておりナショナリズムの残滓をまだ抱えていたため「体制否定」まで進まなかったが、「全共闘」にはこの「防波堤がない」。「全共闘」の克服すべき対象は資本主義の成長により消失しつつあったのに、「革命の可能性と資本主義の終焉を信じ切り」、「暴力革命」を実践し始めた。「貧困」はなくなりつつあったのに学費値上げ反対等の闘争をした。さらに、「ナショナリズムが希薄」なため、全学連世代がもった「対東アジア侮蔑観」も薄く、「中国や北朝鮮からの悪宣伝にやすやすと踊らされ」、「悪漢日本を自分たちが懲らす」との「正義の闘争」を始めた。……
 この「全共闘」観は、「全共闘」運動の中での相当に職業的な<革命>運動党派を念頭に置いているようで、異論・違和感をもつ人びとも多いかもしれない。だが、非日本共産党・ノンセクト「左翼」学生たち(こうなると「ベ平連」学生にすら接近する)に焦点を当てた「全共闘」論よりは、私には感覚的に共感するところがある。<ナショナリズム>や「対東アジア侮蔑観」の有無・濃淡も、完全に同意又は理解はできないが、興味深くなくはない。
 2.古田によると、日本のインテリの「愛国しない心」には「三つの歴史的な層」があり、最後のものの「上に」いくつかの「派」が広がっている(p.56-57)。
 第一は、明治以来の対西洋劣等感。「劣った日本」ではなく「舶来」ものに飛びつくのがインテリの本分と心得る。
 第二は、スターリン(コミンテルン)の32年テーゼ(「日本共産主義者への下賜物」)の影響で、天皇制度は「絶対的に遅れた」「後進性の象徴」と思い込んだこと。「愛国するならソ連とか、社会主義国にしなさい」。
 第三は、「マルクスの残留思念」としての「カルチュラル・スタディーズ、ポスト・コロニアリズム」の層で、「国家なんか権力者の造りだした幻想」だ、「愛国心」は権力者が都合よく利用しようとするものだ、と考える。
 この上に、次のような「さまざまな雑念がアナーキーな広がりを見せている」。
 一つは、「地球市民派」-自分は「自由な市民だから国家なんか嫌いだ」。
 二つは、「反パラサイト派」-「アメリカの寄生国家なんか愛せない」。
 三つは、「似非個人主義派」-自分という「個人に圧力を加えるから愛国心なんか厭だ」。
 なるほど、なるほど。

0510/松本健一による丸山真男「歴史意識の『古層』」批判等。

 大学生の頃、丸山真男はすでに過去の人というイメージで、1970年前後に重要な発言・主張をした、又は論文を発表した、という記憶はない。したがって、1996年の死後再び丸山に注目が集まってきたようでもあることを奇異に感じている。
 また、1970年前後以降はまともな又は大きな仕事をしなかった(と勝手に判断している)ことについて、丸山自身が、かつての自己の言説が<適切な>ものではなかったことを意識(・反省・後悔)するようになったからではないか、との<仮説>を勝手に立てている。
 それはともかく、松本健一・丸山真男八・一五革命伝説(河出書房新社、2003)によると、丸山は1972年に「歴史意識の『古層』」という論文(?)を発表している。丸山真男集第十巻(岩波、1996)の冒頭に収載されているもので、筑摩書房『日本の思想6・歴史思想集』(1972.11)が初出の公表のようだ。
 さて、松本健一の上掲書はこの丸山の論文を論評した1973年の松本の論文をそのまま収載している(p.194~)。そして、松本と丸山の個人的関係?を考慮すると、じつに厳しい、罵倒とでもいうべき、丸山真男批判を展開していることがとても興味深い。
 むろん罵詈雑言が列挙されているわけではなく、丸山「歴史意識の『古層』」が俎上に乗せられ、その内容の限界、かつて丸山真男が書いていたこととの矛盾等が丁寧に指摘されている。
 逐一紹介する余裕はない。内容に立ち入らず批判的言葉だけを最後から逆順に取り出せば、以下のごとし。-①「無数の大衆たちのことは何一つ扱われておらない」、②「歴史意識の『古層』」として「摘出」したのは「知識人たちが己の主体的作為では状況を切り拓けないと悟り、歴史に瞳をこらして、…自己を救済する途を模索した結果辿りついた史観」だ(以上、p.228)、③「歴史意識の『古層』」を探る作業は「この文字の背後にある広大な闇を無視してしか成立しえなかった、…知らなかったのではない。知っていて敢えて無視した」(p.227)、④丸山らが「日本人の意識構造の基底に『なる・なりゆく』史観を視るとき、…日本人からは知識人以外の民衆がほとんど欠け落ちてしまっている」(p.225)、⑤丸山は「つねに『書かれた歴史』『言葉に現れた思想』しか問題にしなかった。そこでは…エートス、……パトスとして噴出せざるをえなかった行動、等々…を掬いあげることは不可能なのではないか」(p.220-1)、⑥丸山は「知識人の辿り着く意識構造を分析し…、わがくにびとの意識構造一般を解析したわけではなかった」(p.219-220)、⑦「近代主義の、…その主導たるべき主体的作為の挫折したところに、なりゆく史観は忍びこんだのだ」(p.217)、⑧「かくして、丸山は己をふくめた日本の知識人たちに、その知性がついに辿りつくべき墓場を指し示した」(p.216)、⑨丸山が記紀が「古代社会(大和朝廷)の正統化」という意味をもつことを「無視」して「古事記から『古層』の基底範疇を導き出し、しかもそれを、歴史に自己救済(自己正当化)を求める知識人たちの証言で重複的に立証しようとしたことは、かれ自身が己の自己救済(自己正当化)を図ろうとしていたことの証しではないか」(p.215-6)、⑩丸山は「己がその日本の情景にふくまれるかどうか、という問いを隠した」(p.211)。
 これくらいにしよう。1914年3月生れの丸山は1972年11月には満58歳、老境に入りかけているが、まだ現役の東京大学教授だった。その丸山の論文に対する、翌年のこのような批判はなかなかスゴい。
 松本健一のこの論評(論文)に関して興味を惹いたことはまだ二つほどある。
 一つは、丸山真男が50歳代後半に記紀、とくに古事記に関心を持って熟読した、と見られることだ。彼の「日本的なるもの」への反発的関心?が記紀に向けられたということは、50歳代後半という年齢と無関係ではなかったのではないか。
 二つは、松本健一が、1970年頃に(松本は年月日を特定していない。別途調査すれば判明する筈だが労を厭う)「全共闘の学生たちが丸山真男の研究室に乱入し、怒号にちかい言葉でかれをつるしあげた」ことを、「学問上の師父」・「戦後民主主義の生みの親」に対する、「己の前身そのその」に対する、<父への憎悪>にもとづく、<父親殺し>と位置づけていることだ(p.196~202)。
 この二点めも面白い。しかし、「全共闘の学生たち」は「戦後民主主義」の嫡出子なのか鬼子なのか、「全共闘」学生(又はじつは卒業生)の中には丸山真男などより遙かにラディカルな(中核、革マルとか呼ばれた)職業的?活動家もいたのであり、単純に「父-子」関係と言えないのではないか、等の疑問が出てきて、にわかに賛同することはできない。そもそも「全共闘の学生たち」の思想・主義とは何だったのだろうか。簡単に一括して論じられはしないだろう。
 というわけで、またまた丸山真男批判の本を読んでしまった。もう丸山にはかかわりたくない気分がする。たまたま東京大学助教授・教授だったために、等身大以上に論評され、評価されている(つまり<虚像>部分を多分に含む)人物(・学者さま)ではないか。
 なお、一年ほど前に丸山真男の1953年のわずか3頁の小文「選挙に感じたこと」を<全集第5巻>の中で読んだことがある。そして、学者・研究者のものとはとても思えない、当時の<左派社会党>を応援する、<政治活動家>又はせいぜい直近にいる<ブレイン>が書いた文章だ、という感想をもった。

0408/佐伯啓思・隠された思考、同・自由とは何か、を読み続ける。

 佐伯啓思・隠された思考-市場経済のメタフィジックス(筑摩)の第二章のⅡ・「<遊び>としての交換」(p.79~95)は、先週末に読んだ。市場での<交換>と「遊び」<「ゲーム」、歴史・人間の奥底にある<交換>=<相互(関係)性>等々。
 同・自由とは何か(講談社新書)の第六章はp.263まで読んで、全読了まであと20頁。「自由」の再定義を試み、かつそれが通常の用法と違うので「義」という語で呼びたくなる、と書いている辺りまで。
 詳しい紹介はしないが、この本は面白く(イラク問題、援助交際、子供殺し事件等々にも言及がある)、座右に置いておきたい。面白く読めるのは、この本の内容は、コミュニズムはもちろん朝日新聞が代表するような<リベラル左派>に対する批判、<個人の「自由」(の尊重・尊厳)>を最高価値とでも理解しているようにも見える日本の憲法学の大勢への批判、に実質的、客観的にはなっていると思えるからでもある。
 数多いる憲法学者の中で阪本昌成は思考が広くかつ深いと思うが、経済学畑出身の佐伯啓思の思索はさらに広く深いのではなかろうか。
 広く社会を対象とする学問も、「人間」そのものを適切に(現実的にかつ生き生きと)洞察しないと、言語遊び、観念遊戯、概念・論理の瑣末な分析や整理に終わってしまいかねない、という感慨が、佐伯啓思らの文章を読んで、生じている。 

0404/佐伯啓思・隠された思考を読む-第4回め。

 佐伯啓思・隠された思考(筑摩、1985)の第一章のⅣ「経済と<持続するもの>」と第二章・ルードゥスとしての経済―公正経済についてのⅠ「公正のプロブレーマ」を読んだ(p.58~p.79)。
 この部分に限らないが、佐伯の最初の単著かもしれず(35-36歳)、表現・叙述方法も含めて、力が入っていることは分かる。
 論旨を追うことはしない。印象的な文章は数多い。
 ・<ウェブリンにおいて、現代資本主義の特徴たる「金銭的見栄」の背後には「制作者本能」が、「営利の精神」の背後には「産業の精神」が潜んでいる。>(p.63)
 ・<ウェブリンは、「現代の大衆消費社会」は「記号の理性」を超え、「ハイパー・リアリティ」の抽象性の中に「蜃気楼のように浮かんで」いて「制作者本能」も「産業の精神」も死滅していると見えるが、「野蛮侵略文化」→「現代の金銭的文化」の中で「汚染され奇形化され、あるいは隠され」ても、それらは「文化の奥深く沈潜し持続している」、と主張する。>
 ・<ウェブリンの在来経済学批判は「差異化するもの」と「持続するもの」の二元的対立を前提とする。社会科学の「最も基本的に二元論」。>(p.64。以上、第一章Ⅳ)
 ・<「公正や正義」は人がもつ「観念や感情」に根差し、科学はそれらを「素通りし」、「人間的なもの」に「わずらわしさ」を感じるので、社会科学が「公正や正義」を欠落させるのはある意味では当然だ。>(p.68) ・<「市場社会」に「倫理などという野暮ったい観念」に何かを提供する場があるのかとの「合理主義者」の言い分にも尤もな所はある。>(p.69)
 ・<上のことは市場社会(論)への「倫理的堡塁を準拠点」にした「外在的」批判につながる。「分配の公正」・「経済的安定の確保」は究極的には「生存の安定」という「倫理的観点」を認めるか否かに依るからだ。>(p.69)
 ・<だが、「市場経済」への「はるかに根底的な批判」は、「市場的生活」・「市場的精神」自体に(内在的に)向けられるのではないか。>(p.69)
 ・<プラトンを参照すれば、「金銭」への愛が「知」や「勝利」への愛と混同されてはならぬ。「金銭的関心が知識や政治の領分を…闊歩し始めれば、正義は快楽と同一視され、社会の秩序は…瓦解する」から。>(p.69-70)
 ・<社会・人間関係の中に「何か崇高な理想的なもの」があるとの「ロマンティック」な又は「神秘的」思考こそが、「近代合理主義」を「単なる市場主義」や「快楽主義」から救う良心で、「自由主義を生気あるものとする気付薬」でもあったはず。>(p.70)
 ・「いかなる自由主義者といえども、選択の自由の世界だけに生きているわけではない」。「われわれの生は不可逆性の上に、つまり過去の選択の上に乗っているのであり、選択は、常に、選択しえないものに基づく選択である以外にない」。(p.71)
 以上、この程度で(つづきは次回に補充)。上の最後の指摘は、単純な「個人主義」・<「個人的自由」尊重主義>への基本的な批判でもあるのではないか。

0403/佐伯啓思・隠された思考を読む-第3回め。

 佐伯啓思・隠された思考(筑摩、1985)の第一章のⅢ「差異と持続」(p.42~p.58)を読んだ。
 ソシュール、パース、ウィトゲンシュタインが出てきて、読みやすくはないが、最後の方に印象に残る表現が続いている。適宜、一部引用する。
 ・<語り得ないことが「言語」の背後にあり、それによってこそ「言語(記号)世界」は「生きた」意味をもつ。さもなくば、「薄っぺらな記号が漂うだけの世界は…まがいもののアナーキー」で、「記号表現と記号内容の関係をズラすという意図的な工作」はいずれ「単なる騒音を生み出す」。「言葉は、背後に沈黙の影を引きずっているときにだけ生きたものになる」。>(p.56)
 ・<語り得ないことは「潜在的記憶」として「時間の底をゆっくりと流れてゆく」。「伝統とか慣習」は過去・死者たちが沈黙から発する声でかつ「生き続けた物語」だが、「巨大な偏見の塊」であるものの「深遠宏大な叡智を内包した偏見」(バーク)でもある。「歴史」は「死者と生者の交わり」。伝統・慣習の中の「共同体的」「暗黙知」は、「真理を含んだ偏見」、「事実と形而上学の混融」、「科学と神話のアマルガム」だ。>(p.56-p.57)
 ・「真理は常に偏見に縁どられ、その中に包み込まれている。だからといって偏見を切りきざめば、真理も傷つけられる」だろう。(p.57)
 ・<人は「伝統や慣習」に「真の神話を、形而上学を」見出そうとしてきた。これらを「自己のものとして解釈」することで、人は「時間と共にあり、持続の中に自己を象徴的に定位できる」。「自己同一性」の確保とは、「記号世界」と「沈黙世界」の、つまり「顕在化した生と沈潜した生」の、あるいは「生と死」、「瞬時性(状況)と連続性(歴史)」の間の架橋が「過不足ない均衡を保つ」ということだ。>(p.57)
 ・「人間の事象」には一方で「記号表現の過剰」があり、他方で「記号表現は記号内容に対し過少でもあるというべきだろう」。(p.57)
 ・<「記号の表現系列と内容系列」が、「過剰と過少」が均衡を保つ「不動の…地平」が作る「安定的な象徴秩序」が反復され「記憶の中に受け継がれる限り、人は、生の現実性が実働性と重なり合う、確かなものという手ごたえ」を決して「忘れ去り」はしないだろう。>(p.58)
 以上。<保守>主義の基礎が結果的には述べられているような気もする。少なくとも、マルクス主義者(コミュニスト・共産主義者)が思考もせず、関心も持たないテーマだろう。マルクス主義者はマルクス主義の「言葉」・概念の<呪術>を真理又は「社会科学」と<錯覚>して<取り憑かれている>、可哀想な、単細胞の人々だからだ。

0398/佐伯啓思・隠された思考(筑摩、1985)-その2。

 佐伯啓思・隠された思考(筑摩、1985)の第一章「大衆社会の記号論-セミオクラシーとセミオシス」の「Ⅰ・経済と象徴体系」と「Ⅱ・消費社会の記号論」(p.18~p.42)を昨夜(2/16)を読んだ。
 概念・言葉・論理を操作したことがあるために少しは理解容易になっているとは思うが、難渋なところはあるがほぼ理解でき、面白く、刺激的だ。
 論旨の紹介は半分程度の書き写しになりそうなので避ける。以下、趣味的な一部引用と感想等。
 ①「現代とは途方もない豊かさの中にひたすら破滅への白昼夢を見る永遠の砂漠だ、と…はいう」。/「この世紀末風のアンニュイはわれわれの胃の腑を満たすというよりそれを麻痺させ、だらしない欲望の無限階段を一段ずつ上げてゆく」。(p.18)
 こんな文章は、本来は経済学専攻の者のものとは思われないほど<文学的>で、小説(観念小説?)で使えそうだ。
 ②「記号の差違が作る関係性と非記号的な実体性、出来事の瞬時性と存在の持続性、その交差平面に象徴的ともいうべきリアリティが存在する」。(p.26)
 こんな難解そうな文章が混じっている。ソシュールが出てきそうと感じていたら、あとでやはり登場してきた。
 ③<「記号の本質」は「記号機能」=記号の「表現系列」と「内容系列」を結合させ「相同性」を作る点にあるとすれば、「現代社会の特質は、表現と内容の解釈可能なある安定した領域の限界を突破するほど、その機能を極限化しつつある」ことにある。>(p.28-29)
 上に同じ。
 ④セミオクラシー=「あらゆるものを記号とみなす思考」(p.30)。セミオクラシー=「隠され、背後に退いたものを無視し「圧縮」することによって、顕在化した現象の世界でたわむれる、屈折した実証精神」(p.39)
 定義らしきものを探してみた。なお、「Ⅱ」の最後で佐伯は「そもそもセミオクラシーということがありうるのだろうか」と問うてもいる。未読の「Ⅲ」以降でさらに展開があるのだろう。
 以上は、要旨、つまり佐伯の言いたいことの抜粋でもなんでもない。
 ふと感じるに、この本の作業は、政治実践上の主義としての<保守と進歩>とか<右と左>には直接には何の関係もなさそうに見える。
 私は<ウヨ>とか<保守>とか評する人はいるだろうが、私の関心の基本的出発点は、決して長くはない人生、人間・社会・国家についてもっときちんとした知識・認識を得たうえで(あるいは、きちんと考えたうえで)死にたい、ということにある。
 <現実>にも口を挟んではいるのだが、例えば、朝日新聞の虚報・捏造、報道機関性を超えたその「政治(謀略)機関」性を批判することは、<右・左>や<保守・進歩>とは関係がない。あるのは、事実か虚偽か、論理一貫か論旨混乱か、真っ当か「歪んでいる」か、という違いだけだろう。
 マルクス主義・日本共産党に対する態度も同じ。可笑しいことは可笑しい、嘘はウソだ、誤りは誤りだ、と言っているにすぎない。
 佐伯啓思の本を読んでいると、何故か心が落ちつく。

0395/佐伯啓思・隠された思考と樋口陽一の「個人の尊重」。

 佐伯啓思・隠された思考-市場経済のメタフィジックス(筑摩書房)の序章「<演技する知識>と<解釈する知識>」、p.3~p.17を昨夜(2/15)読んだ。1985年6月刊の、佐伯が35歳か36歳のときの著。この年齢にも驚くが、序章だけでもすでに相当に(私には)刺激的だ。事実・認識・真実・科学・解釈・学問等々、すべての<知的営為>に関係している。
 佐伯の述べたい本筋では全くないが(本筋の紹介は省く)、次の文章が目に留まった。
 「明確な自己意識つまり自我の成立こそ理性であるとした近代精神は、それ自体が近代の産物であるというところまで洞察することはできなかった」(p.15)。
 思い出したのは、個人の尊重こそが日本国憲法の三原理をさらに束ねる基本的・究極的理念であると述べた(らしい)憲法学者・樋口陽一とその言葉に感銘を受けた旨述べていた井上ひさしだ。
 個人の尊重の前提には<近代的自我の確立した>自律的・自立的個人という像があると思われる。樋口陽一(そして井上ひさし)の<思考>は<近代>レベルのもので、<近代>内部にとどまっている。それはむろん、日本国憲法自体の限界なのかもしれない。
 だが、既述の反復かもしれないが、戦後当初ならばともかく近年になってもなお<個人の尊重>(「個人主義」の擁護にほぼ等しいだろう)を強調するとは、憲法学者(の少なくとも有力な傾向)の時代錯誤ぶりを示しているようだ。講座派(日本共産党系)マルクス主義のごとく、あるいはせいぜい<近代>合理主義者(近代主義者)のごとく、日本と日本人はまだ<近代>化していない、ということを主張したいのだろうか。
 佐伯のいう「近代」とは<ヨーロッパ近代>に他ならないだろう。<ヨーロッパ近代>の精神を学び・習得したつもりの、自律的・自立的個人であるつもりの樋口陽一らは、<遅れた>日本人大衆に向かって(傲慢不遜にも!)説教したいのだろうか。
 個人の(尊厳の)尊重なるものの強調によって、物事が、<現代>社会が動くはずはない。逆に、<共同体>的なもの(当然に「家族」・「地域」等を含む)の崩壊・破壊・消失に導く政治的主張になってしまうことを樋口陽一らは思い知っていただきたい。
 エンゲルス『家族、私有財産及び国家の起源』は「家族」・「私有財産」・「国家」の崩壊・消滅を想定(・<予言>)するものだった。樋口陽一らがこれを信じるマルクス主義者(コミュニスト=日本共産党的にいうと<科学的社会主義教>信者)だとすれば、もはや言うコトバはない(つける薬はない)。ルソーのいう国家=一般意思に全的に服従することで「自由」になるという<アトム的個人>を樋口陽一らが「個人」として想定しているならば、今ごろになってもまだ何と馬鹿で危険なことを、と嗤う他はない。
 佐伯啓思が多くの憲法学者の思考の及ばない範囲・レベルの思考を30歳代からしていたことは明らかなようだ。 

0077/三島由紀夫の1970年11月の「檄文」と同年07月の一文を改めて読む。

 産経4/11の文化面に佐々木徹という追手門学院大学教授の「三島由紀夫と司馬遼太郎-二人の作家の現代への遺言」との一文が載っている。
 3月から読売に加えて産経も毎日講読し始めたのだが、産経にはけっこうよい記事がある。読売・朝日の数分の一しか読者がいない小さな全国紙になってしまているのは惜しいことだ。上の一文も、切り抜いて残しておいたものだ。
 三島由紀夫(1925-70)と司馬遼太郎(1923-96)は没年はだいぶ違うが、生年は2年しか変わらず、同時代人(大正末生まれ)だった。
 ここでは三島由紀夫にのみ言及するが、1970年11月15日の自決の際の「檄文」は-私は当時は恥ずかしくもまともに読んでおらず、その意味を考察することもなかったのだが-改めて、何度も何度も想起されてよいものだ、と考える。佐々木氏が引用してはいないが、その一部を私なりに番号を振って引用すると、こうだった。
 1.「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった」。
 2.「法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである」。
 3.「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか」。
 1.の前半の言辞には共感を覚えるところがある。重複するが、まさしく、「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た」のではなかったかのだろうか。
 さらに後段も当時では鋭い指摘ではなかったか―「政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆく…」。
 また、佐々木氏は要旨のみを紹介しているが、三島は、1970年の07.07の産経新聞に「私の中の25年」と題する、後からみれば遺稿的な文章を書いていた。その中には、次の文章もあった。とくに第三文は、かなり有名だと思われる(三島由紀夫・文化防衛論(ちくま文庫、2006)の中に所収)。
 「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなってきているのである」。
 さらに、佐々木氏によれば、1966年に三島はテレビ・インタビューに対してこう答えた、という。
 「人間の生命は不思議なもので、自分のためだけに生き、自分のためにだけに死ねるほど、人間は強くない」。
 そして、次は佐々木氏自身の文章だ。-三島は「自分を超える大義あるいは理想」について語った。「戦後民主主義の教育は自分を第一とするように教えてきたが、その結果、ニートのような生命力の減退、肉親殺害にまでいたる自己主張をもたらした」。
 戦後あるいは「戦後民主主義」の総括、そして「戦後体制(レジーム)からの脱却」はやはり必要だと感じている。

0036/元共産党系全学連委員長・川上徹・査問(筑摩書房、1997)の文庫版を昨年に読んだ。

 2000年くらい以降、読みたいと思いつつ書店で見かけなかったこともあって忘れているうちに、品切れになっていた本が二つあった。
 一つは川上徹・査問(筑摩書房、1997)で、もう一つは藤井淑禎・純愛の精神史-昭和30年代の青春を読む-(新潮選書、1994)だった。
 前者は文庫化されたものの古書を、後者は選書そのものの古書を昨年中に入手した。
 川上徹とは、60年安保後の再建日本共産党系(代々木系)全学連委員長で、私の大学生時代にも名は聞いたことがあった。70年頃は、民青同盟の幹部だったようだ。また、「新日和見主義」とその批判なるものも聞いたことがあったが、その批判の対象に川上徹もなっていたことを知ったのは、上の本の宣伝文を読んだ時だった(従って、1997年のことだ)。
 読了したあとのまず第一に驚いたのは、この人は査問された後、党員権停止処分を受けた後も1990年11月に離党届持参の際に「除籍」されるまで18年以上「党員」であり続けた、ということだった。<イデオロギー>への囚われの怖さ、というのが、従って第一の感想ということにもなる。18年とはこの人の32歳から50歳までの「壮年期」にあたる。党関係の要職に就けるはずはなく、生活自体が苦しかったようだ。にもかかわらず、彼は党員ではありつづけた。
 離党したくなった直接のきっかけは日本共産党員哲学者で没前に離党した(除名された?)古在由重の死後に同氏の追悼会の世話をして日本共産党の主流?から「厭味」を言われたことにあるように推察されるが、1990年11月ということは、ソ連解体の過程でもあり、そもそもがマルクス主義幻想又は革命幻想から(冷たい言い方になるが)漸く醒めたことも重要な原因だったのではなかろうか(この辺りは明確には叙述されていない)。
 第二に印象的なのは、宮本顕治に関する叙述だ。1972年1月に(と読める。いずれにせよ、査問より以前の正月に)彼が見た宮本顕治を次のように描写している(p.21以下)。
 「私の眼は、…大きな人影を見つけだした。その人影が放つ視線を避けながら、…人物の周囲をぼんやりと眺めた。……それまで人間の視線を恐ろしいと感じたことはなかった。背筋を冷たいものが走る、…自分が受けた感覚は、それに近いものだったろうか」。査問中に待たされて「あのときの視線を思い出していた。その視線は、周囲の浮かれた雰囲気とは異質の、じっと観察しているような、見極めているような、冷ややかな棘のようなものであった」。
 この宮本氏の「視線」を想像すると気味が悪い。宮本は川上が将来の自分とその仲間への障害、妨害、対立「分子」になる可能性がないかどうか、「じっと観察し」「見極めて」いたのではないか。そして、他の同様の人物とともに、「新日和見主義」なる語・内容ともに不分明な「主義」をでっちあげて早々に「危険」の芽を摘み取ろうとし、「成功」したのでないか。
 第三に、やや付随的だが、1969年の初めのことだろう、宮本が川上に東大構内からの脱出所要時間を尋ね、その後、「東大時計台」に機動隊が突入した際には党中央指令に従って日本共産党・民青同盟系の学生は構内に一人もいなかった、ということが書かれている。
 現在もそうだろうが、日本共産党は「敵の出方」による暴力(実力)行使の余地を語りつつも実質的にはほとんど「人民的議会主義」とやらの穏健路線をとった。そして、1970年前後の「大学紛争」の時期にも、全共闘系又は所謂反日共系とは異なり、暴力は行使しないという穏健路線をとって、過激な路線についていけない、あるいは「正常化」して講義を受けたい学生たちの支持をある程度は獲得した(1970年代の末に同党の衆議院議席数が最大になったのも、こうして青年・学生層を取り込んだことと無関係とは思えない)。客観的に見れば、全共闘系又は反日共系学生たちの「暴力」のおかげで、それに反対した日本共産党・民青への学生・青年層の支持が現在より以上に増えた、という面があるだろう。
 上の東大構内からの撤収指令も日本共産党・民青同盟系は全共闘系・反日共系とは違って「暴力学生」ではない、と印象を与えるための(共産党・民青系も全共闘系と同様という印象を与えないための)戦術だったに違いない、と当時の全国的な雰囲気を思い出した。共産党・民青系の強い大学・自治会では、彼らこそが暴力=実力を用いて「秩序」を維持したところもあったようだが…。

-0020/日本共産党に睨まれると恐いが、良心と正義はこちら。

 朝日新聞や北朝鮮・中国問題については毎月の月刊誌に論文・ウォッチング記事が出るが、日本共産党(や社民党)については必ずしもそうでないとの印象がある。日本共産党を継続的に批判的にフォローする連載記事・企画をいずれかの雑誌は載せてほしいものだ。
 サイトでは、ずばり「共産党問題、社会主義問題を考える」とのタイトルの詳しいものを初めて見つけた(まだまだネット利用が足らない)。
 このサイト内の分析によると、機関紙赤旗の本紙・日曜版合計の発行部数は、1980年からの「25年間で、最高時の355万部から、187万部減り、減紙率52.7%になっている」。また、1990年からの15年では本紙は「54万部から、24万部減り、…減紙率44%」、日曜版は「232万部から、94万部減り、減紙率40.5%」、併せると、「東欧革命以降の15年間」で本紙と日曜版読者のいずれもの「ほぼ40%以上が、共産党に愛想をつかして、離れていったのである」。
 なるほど、筆坂秀世・日本共産党(新潮新書、2006.04)p.190が「共産主義社会などまったく将来への展望がないのだから…」と本音を語っているのも分かる。だが、安心?してはならない。500万票近く、投票者の7%という数字は決して小さくない。
 川上徹・査問で印象的なのは、1972年1月(と読める。いずれにせよ、査問より以前の正月)に彼が見た宮本顕治に関する叙述だ。p.21以降-「私の眼は、…大きな人影を見つけだした。その人影が放つ視線を避けながら、…人物の周囲をぼんやりと眺めた。……それまで人間の視線を恐ろしいと感じたことはなかった。背筋を冷たいものが走る、…自分が受けた感覚は、それに近いものだったろうか」。査問中に待たされて「あのときの視線を思い出していた。その視線は、周囲の浮かれた雰囲気とは異質の、じっと観察しているような、見極めているような、冷ややかな棘のようなものであった」。
 この宮本の「視線」を想像すると気味が悪い。宮本は川上が将来の自分とその仲間への障害、妨害、対立「分子」になる可能性がないかどうか、「じっと観察し」「見極めて」いたのではないか。そして、他の同様の人物とともに、「新日和見主義」なる語・内容ともに不分明な「主義」をでっちあげて早々に「危険」の芽を摘み取ろうとし、「成功」したのでないか。実質的に宮本独裁だったことを証明しもする。

-0019/「古在由重先生を偲ぶつどい」の世話役をしたら…。

 大学・学界には、顕然たる日本共産党員やその明確なシンパが他業界に比べて多そうだ。概して優秀な人が多いのにこの党の穏便・微笑路線に惑わされて「おそろしさ」を知らず、せっかくの能力とエネルギーが適切な方向に使われていないのはまことに勿体ない。
 この党の衆議院選挙得票数等を顧みると、60年代末からの「大学紛争」時代を巧妙に立ち回ったことが大きいと思うが、76年・79年の600万、580万(得票率各10.7%、議席数19と41)あたりがピークでその後減っていくが、政治改革=衆議院480議席のうち180もが比例代表選挙のおかげで96年には730万、13.1%と盛り返しつつも、その後再び低減傾向で、03年は480万、8%程度、05年は490万、7.3%で議席数は9。
 かつて「70年代の遅くない時期に民主連合政府を」は現実味が少しはあるように見えたが、今や政権獲得の現実的可能性は全くないと言いうる。だが、先進資本主義国で共産党があり500万票近くを獲っていること自体がじつに不思議なことで、日本人独特の優しさ、急激な変化を望まない気分(これは日本共産党に+に働いている)、曖昧さ(社会主義・共産主義を理解し支持してもいないのに批判票としてのみ、又は「人間」のしがらみで共産党に投票する)等々を示している。アメリカ、イギリス、ドイツ、カナダに共産党(少なくとも日本ほどの)は存在しないし、イタリアは名称変更した(フランスはどうだったかな?)。日本はこの点で欧米に比して極めて「異常な」国だ、という認識をどの程度の人が持っているだろう。
 川上徹の名も、「新日和見主義」批判なるものも聞いたことがあったが、この批判の対象に川上徹(60年安保後の再建代々木系全学連委員長、70年頃民青幹部)もなっていたことを知ったのは同・査問(筑摩書房、1997)が宣伝された時だった。
 今年になって中古の文庫本で読了したが、査問・党員権停止後も90年11月に離党届持参の際に「除籍」されるまで18年以上「党員」であり続けたことに、<イデオロギー>への囚われの怖さを感じた。18年とはこの人の32歳から50歳までの「壮年期」にあたる。党関係の要職に就けるはずはなく、生活自体が苦しかったよう。もう1点印象に残ったことは明日に。
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