秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

第二次大戦

2514/R・パイプスの自伝(2003年)⑯。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 ——
 第一部/第六章・軍隊②。
 (13) 1944年6月の初めに、ASTP の正規の「卒業式」があった。私は、ロシア語で、答辞の挨拶を述べた。
 我々は任務を課されるべく、士官候補生学校へ送られることになっていた。
 しかし、そうはならなかった。
 6月6日に連合軍はフランスに上陸し、軍は補充を必要としていた。
 我々は予定どおりに士官候補生学校へ行くのではなく、基礎訓練のために多数の歩兵部隊に配属されることになる、と知った。
 私は、Virginia 州のPickett 軍営地にいる第78分団または「稲妻」兵団の第310歩兵連隊に配属された。この軍営地は、Richmond 近くにある巨大な軍用地だった。
 その日は、我々二人が離れた、悲しい日だった。//
 (14) 私は思うのだが、アメリカ軍は人員方針について大きな過ちをしていた。軍服の兵士を、機械の一部のような交換できる存在物だと扱うことによってだ。
 男たちは、国のためにではなく、同志のために、25人かそこらの兵士で成る小隊(platoon)のような一団(unit)のために戦う。
 部隊(corps)の気概は、勝利する全ての戦力の基本的に重要な要素だ。
 第78分団の兵士は全員が、フランス侵攻を準備する部隊の補充兵として、三ヶ月前にイギリスに送られていた。将校と下士官はそこにとどまったけれども。
 私が属した分団は、言ってみれば、骨が抜かれていた。協力し合うチームではなく、多数の個人の集まりだった。これは、悪い前兆だった。//
 (15) つぎの八週間、我々は過酷な基礎訓練を受けた。フロリダの空軍で受けたのとは全く違っていた。
 Virginia の夏の気温は、しばしば華氏90度を超えた。
 我々はこの暑さの中で、全力で演習をしなければならなかった。
 私は、ブラウニング式自動小銃を運ぶ任務を割り当てられた。可動式のその銃はほとんど20ポンドの重さがあった。
 夜間の野営の間、我々はツツガムシ(chigger)に攻められた。皮膚に食い込み、ひどい炎症を引き起こす小さい不快な虫だ。火の点いたタバコをその後部にあてて排除しなければならなかった。
 我々の仲間の兵団は、混ぜこぜのクジの上にあった。—最も幸運ではないが、最善はヨーロッパに送られていることだった。//
 (16) ポーランドのROTC 軍営地での不幸な体験の5年後に小銃を引きつずって運んでいることを思うと、きわめて苦々しく感じた。
 私は日記に、不満を綴った。自分は「ラバのように働き、犬のように服従し、豚のように生きている、監獄の中の動物だ」。
 自分の言語上の技能、とくに敵国の言語である、ドイツ語とイタリア語のそれ、を使って、もっと戦争に貢献できる、と思っていた。そして、市民生活ではHarvard Law School に関係していた上品な大佐である、分団の情報部長に接触した。
 彼は私をG-2の一員にするという関心を示した。
 しかし、数日後に再び会って私の移動について尋ねると、私はもうすぐ出発することになっていると知った、と彼は言った。//
 (17) 実際に、数日後、海外輸送用の武器の包み方を仲間の代表が指示される会合に出席していたあいだに—1944年8月末のことだった—、私は呼び出され、Utah 州のKearns Field にある空軍基地に移動することが告げられた。
 私が属していた分団は、私を置き去りにして、ヨーロッパへと向かった。
 その分団は、Bulge の戦いで、些少の役割を果たした。//
 (18) Utah で、Cornell の学生たちは、別の二つの大学でロシア語の訓練を受けた者たちと出会った。そして10月に、我々はMaryland 州のRitchie キャンプへと移った。
 そのキャンプは、情報(intelligence)学校に転換されたカントリー・クラブの会館だった。
 二ヶ月ごとに新しいグループが、情報活動訓練の集中課程のために到着していた。そのあとで、修了生は任務を受け、前線へと出発した。
 我々の運命は、いくぶんか異なっていた。
 我々は特殊な任務のためのグループだったので、私はその任務の性質を戦争後に初めて知った。//
 (19) 1943年11月のテヘランでの首脳会談以来、アメリカとソ連の軍部は、ソヴィエト領域内に共用空軍基地を建設することを議論していた。
 ワシントンの主要な関心は、日本に対するための施設だった。だが、ヨーロッパは、東ヨーロッパでドイツと戦うソヴィエトの空軍施設を利用することも要求した。東ヨーロッパは、イギリスやイタリアの基地から爆撃することができなかった。
 「往復(shuttle)爆撃」という考えが現れた。すなわち、アメリカ空軍は東ヨーロッパの上を飛び、工業施設や油田地帯に爆弾を落とし、ソヴィエト領域内に着陸し、燃料補給と再装備をし、基地に帰還して、同じ任務を繰り返す。
 ロシアはこの提案に気乗りうすだったが、1944年の春、まさに我々がCornell での課程を終えようとしていた頃、ウクライナの三基地をアメリカ空軍が利用できるようにした。主要な基地はPoltava にあり、Mirgorod とPiriatin に小さな基地があった。
 この計画には、Frantic というコード・ネームが付けられた。
 1944年6月2日、アメリカ軍の爆撃機がこれらの基地から、初めてドイツの上空を飛行した。
 ドイツは東方からのこの空襲に驚き、6月22日に、200の爆撃機でPoltava 基地を集中攻撃した。Poltava 基地はほとんど廃墟となった。43のB-17爆撃機が破壊されるか、修理不可能な損傷を受けた。
 それにもかかわらず、アメリカ空軍は7月に攻撃を再開した。全部で、2000機以上によって、ソヴィエトの基地からの攻撃が行われた。
 効果は少なく、ソヴィエトとの軋轢がつねにあった。
 夏の終わりに、ロシアはウクライナの三空軍基地の閉鎖を命じた。
 しかしながら、いわゆる東方作戦は、1945年6月まで、引き続き敢行された。(*後注6)
 (*後注6) Richard C. Lucas, Eagles East (1970) で、語られている。
 (20) 我々ロシア・グループは、ウクライナの往復基地に通訳者として派遣されることになっていた。しかし、作戦が終わるにつれて、その任務も消失した。
 そうしてRitchie での課程を終えて、イリノイ州のScott Field へと移された。  
 表向きにはラジオ作戦の訓練のためだったが、実際には、将来にロシア語の話し手を必要とする事態に備えての予備軍として囲われた。
 退屈な生活だった。モールス符号やラジオの細かな機構の勉強は、楽しいものではなかった。
 (21) そこにいたことで、重要な精神的効果が副産物として生じた。
 一人前の歴史家になろうと決心したのは、そのときだった。
 私はつねに歴史に惹き付けられてきた。一つには過去は想像力を掻き立てるからであり、また一つには、歴史の射程範囲には限界がないからだった。
 だが、職業として歴史学を選択したのは、まさにその頃だった。//
 (22) Scott Field はミズーリ州のセントルイスの近くに位置していた。そのセントルイスで私は、ほとんどの週末を演奏会、公共図書館、あるいは古書店探しをして過ごした。
 ある日、たまたまFrançois Guizot の〈欧州文明の歴史〉に出会った、それは著名な文筆家の子息であるWilliam Hazlitt が翻訳したものだった。
 その書物—Guizot が1928年にソルボンヌで行った一連の講義録—は、かつて読んだどの歴史書とも違っていた。
 明々白々なものは何もないのだから、探求心はかつて発生した事実上全てのことについて、関心を寄せることができる。動機や影響について、そしてじつに、事態の推移それ自体について、つねに疑問がある。
 かくして、中世のハンガリーの穀物価格の歴史に、教皇Innocent 三世の生涯と仕事に、Zerbst 施設があった公国の政策に、これらは知的な変化を示しているというだけの理由で、人々は関心を集中させることになる。
 しかし、このような論点には、幅広い意義がない。これらは、チェス遊戯にも似た、問題解決の練習だ。
 同じことは、諸国や事件に関する標準的で一般的な歴史書について言える。
 それらは何が起きたかを、おそらくはその理由も、語る。しかし、そのような知識が何らかの意味で重要であることの理由を示しはしない。//
 (23) Guizot が書いた、そして私がそれ以来ずっとモデルにしてきた歴史書には、過去と我々自身との間の連結があった。それは哲学的歴史書であり、我々自身に関して教えてくれる叡智だ。—我々はどこから来て、なぜ今のように考えているのか。
 最初の頁から、Guizot は歴史への哲学的アプローチを明らかにしている。
 「いずれかの過去について、歴史を事実を語ることに制限する必要があるとしばしば主張されてきた。それが最も公正だと。しかし、語るべきはるかに多くの事実があること、事実それ自体はその性格について人々が先ず与えられたと思うものよりもはるかに多様であることに、我々は絶えず留意しなければならない。…
 我々が哲学を引き合いに出すことに慣れている歴史の割合、事件相互の関係、それらを結びつける連関、それらの原因と効果—これらは全て事実であり、全てが歴史だ。戦闘に関する話やその他の重要で可視的な事件と全く同じように。…
 文明は、こうした事実の一つだ。…
 私はただちに、歴史は全てのもののうち最大のものだ、歴史は全てを包含する、と付け加えよう。」//
 この序論的導入部に続く14の章は、時代と国々を、制度と宗教を見事に概観し、全てを洗練された上品な文体で表現していた。
 この書物は、私を完璧に捉えた。
 私が興味をもってきたものは—とくに哲学と芸術—、全てが歴史という学問分野の広大な屋根のもとに収容することができる、ということを、この書は示してくれた。//
 (24) 私の軍歴の残りは、拍子抜けしたものだった。
 Scott Field からCornell での夏の再教育課程に戻り、そしてRitchie に帰った、そこで私は、夜間の電話交換者の仕事を割り当てられた。
 1945年の後半〔著者は22歳—試訳者〕、我々はCalifornia に送られた。コリアで通訳者に配属される準備だった。
 しかし、日本が降伏して戦争は終わったので、家に帰りたくなった。
 我々の部隊には、FAH という不思議な名があった。
 たぶん我々を担当している軍事省の将校のイニシャルで成っている、と私は思いついた。
 正規の軍将校名簿を調べてみると、実際に、このイニシャルに一致する、Frank A. Hartmann という大佐を発見した。
 我々はペンタゴンにいる彼に電話する機会をもち、3-4年間も軍役に就いてきたので、除隊されるに値する、と知らせた。
 数日後に、東部の我々に命令書が届いた。
 もう待てなかった。民間人としての生活を取り戻し、自分の勉強を再開したかった。
 1946年3月、Maryland 州、Fort Meade で、私は除隊された。//
 ——
 第六章②、終わり。次章・第一部第七章の表題は、<母国をホロコーストが襲う>。

2513/R・パイプスの自伝(2003年)⑮。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 ——
 第一部/第六章・軍隊①。
 (01) 1941年6月21日夕方、私はElmira の家で夏を過ごしていたが、ラジオが番組を中断して、ドイツがソヴィエト同盟に侵攻したというニュースを伝えた。
 一年後、Pearl Harbor のあと、私はMuskingum の大学新聞に、政治や軍事の評論を週に一回定期的に寄稿するよう依頼された。
 それは私の生涯最初の公表文書だった。読み返してみると、よく書けていると思う。//
 (02) 私は強い関心をもって、ロシアの宣伝活動を追った。
 私はロシアが勝利するのは疑わしいと思ったが、東部戦線での最初の数ヶ月の戦闘は、私の最悪の恐れを確認した。
 生涯をロシア問題の研究と教育に捧げることになったけれども、当時はロシアに関心も知識もほとんどなかった。
 ポーランドで生活していたが、ロシアとの間は貫き得ない壁で隔てられていた。
 母親の二人の兄がそれぞれロシア人女性と結婚して、レニングラードに住んでいることを、知ってはいた。
 彼らはときどき祖母と連絡を取り合っていたが、私は彼らの生活ぶりを何も知らなかった。
 1930年代後半に、ソヴィエト同盟で起きているおぞましい出来事に関する情報を漏れ聞いたけれども、それがどういうものであるかは知らず、それを明らかにしたいという興味も全くなかった。
 しかしながら、ロシアはポーランドとの国境に掘削して地雷を埋めた広い幅の土地を設け、犬を連れた警察官に監視させていることを、不信感をもって知っていた。//
 (03) Pearl Harbor とヒトラーのアメリカに対する愚かな宣戦のあと、米国はソヴィエト同盟と連合することとなった。
 ソ連に対する関心が高まってきた。
 1942年の秋、ポーランド語とロシア語の近似性のために、私は容易にロシア語を学習できる、ということが大まかに明らかになってきた。
 私はロシア語の文法書と辞書を購入して、自分でロシア語の勉強を始めた。
 ぼんやりと感じていたのは、軍役に編入されるならば—それは不可避だと思えた—私はロシア語の知識を役立てることができるだろう、ということだった。//
 (04) 1942年秋、最終学年の前年次の第一学期の最初に、私は軍隊に入ることを志願した。世界は騒乱の渦中にあるのに、大学にいることに落ち着かなくなっていたからだ。
 だが、外国市民であるために志願兵になることはできない、と言われた。私は徴兵を待たなければならなかった。
 徴兵が翌年1月にあった。そして、その翌月、オハイオ州Columbus にある空軍部隊に、私は編入された。//
 (05) アメリカの軍隊についての最初の印象は、食物の質の良さだった。朝食では、ジュースにグレープフルーツかオレンジかを、卵にスクランブルかドライかを、パンにトーストかマフィンかを、選択することができた。
 のちの別の軍営地では、感謝祭の日のデザートには、焼きアラスカ(baked Alaska)すら含まれていた。
 Columbus での短い務めのあと、私は数百人の他の新規入隊者とともに、知らされていない目的地へと列車で運ばれた。
 列車は昼夜を問わず進んで、開けた野原でついに停止した。そこは、北部フロリダだった。
 空軍はそこに巨大なテント村を建設していた。私はそこで数週間を過ごし、そのあとで基礎的訓練を受けるためにペテルブルクの優雅なVinoy Hotel へと移った。
 私はすみやかに、アメリカ合衆国の市民権を付与された。
 訓練は楽なもので、海岸の砂浜で自由時間を過ごすのも認められた。//
 (06) 私の同輩たちは多様な専門学校へと送られていったが、私はそのままだった。おそらく、私に関する安全性の調査を行う軍事上の必要があったからだろう。//
 (07) 〔1943年〕5月のある日、軍用専門教育計画(A S T P)に関する発表文を読んだ。それは、言語と技術の二つの教育のために兵士を大学(colleges & universities)に派遣するものだった。
 私はある同僚から一日交通券を借りて、申込み用紙に記入するためにペテルブルクのASTPの事務所へ行った。
 帰途で、説明しがたい理由で、つまり酒場へ足繁く通ってはいなかったので、一杯のビールを飲みに立ち寄った。
 私は目の片隅に、二人の憲兵(MP)が店舗に入るのを捉えた。
 彼らは、私が提示する義務のある査証について尋ねた。だが私は通し番号を憶えておらず、それで監視付きでホテルまで連れ戻された。
 ホテルにいた軍曹は私に、一週間の夜間「厨房警察」(kitchen police, KP)を言い渡した。
 その夜、私は巨大ホテルの厨房に報告した。すると、釜戸を鉄綿で磨くよう言われた。
 料理人と話していて、彼はポーランド人だと分かった。
 彼も私がポーランド出身だと気づいたとき、彼は罰のことは忘れよと言った。
 私はつぎの週、浴室に閉じこもり、読書をして毎朝を過ごした。この快適でない位置で、私はSinclair Lewis の主要な諸小説を読み通した。その小説本は、その地域の図書館から借りていたものだった。//
 (08) 7月にようやく、南カリフォルニアのChalestone にあるCitadel(要塞)という軍事学校へ行くよう指示を受けた。
 私には、ロシア語を学習することが割り当てられた。
 いくつかの大学の中から選ぶことができたので、ニューヨーク州Ithica のCornell 大学にした。両親の新しい家があるElmira に近かったからだ。
 1943年9月にCornell 大学に到着し、そこでつぎの9ヶ月を過ごした。//
 (09) 普通ではない、秀れた教師集団がいた。彼らのほとんどはロシアからの移住者で、Marc Vishniak もいた。この人物は、1918年に立憲会議〔憲法制定議会〕の事務局員として仕事をし、その後はパリの指導的ロシア語新聞の編集者だった。
 物理学者のDmitrii Gavronsky は、私にMax Weber を教えてくれた。
 ASTP(軍用専門教育課程)は、外国語を教育する「全次元的」方法の先駆者だった。
 教師たちは、ロシア語だけで我々に話しかけた。我々が最初に学んだ句は、〈Gde ubornaia ?〉(トイレはどこ?)だった。
 この教え方は、教室で実施された。だが、転換された親睦集団の生活区画で、想定されたようにロシア語を話した、と私は言うことができない。
 ほとんどの学生たちは、僅かな単語と句しか知らなかった。
 言語の教師たちは、強く反共産主義的だったが、その感情を抑制していた。
 しかしながら、歴史と政治の教師たちは、共産主義に信頼を寄せていた。第一はVladimir Kazakevich で、この人物は戦争後にソ連に移住することになる。
 第二は、Joshua Kunitz だった。
 彼らは、自分たちの共感を秘密にしなかった。
 全員でおよそ60名いたロシア語課程の学生たちは、ソヴィエト同盟に対して穏やかに友好的だった。ある者たちはイデオロギー的理由でだったが、ほとんどの者は、ドイツ軍と戦闘している同盟者への忠誠心からだった。
 しかし、彼らとて、Kazakevich やKunitz が我々に提供する宣伝(propaganda)を鵜呑みにすることはできなかった。
 二人とも、教室では事実上は爪弾きにされていた。//
 (10) 私は三ヶ月で、ロシア語の基礎を習得した。—人生で初めて、学校で良心的に、本当に勉強をした。—そして、余った時間を他の問題に使った。
 ある仲間が、写真を現像して焼く方法を教えてくれた。そして私は、多くの時間を暗室で過ごした。
 私は音楽室で、クラシックの音盤を聴いた。
 また、多くの時間を図書館での読書に費やし、私の最新の発見と好みの対象となった、Rainer Maria Rilke を翻訳しもした。
 そして、デートをした。//
 (11) ロシア語課程のASTPの校長は、職業的翻訳者のCharles Malamuth だった。トロツキーによるスターリン伝記を英語に翻訳したのは、この人物だ。
 ある夕方、この人が我々の宿舎に持ち運べる蓄音機を持ってきて、我々のうちのポーランド出身者—同じ部屋だった—に聞かせた。それは、Adam Mickiewicz の〈Pun Tadeusz〉という叙事詩からの文章を、魅力的な女性の声で読んだものの録音だった。
 我々は、読んでいるのは誰か、と尋ねた。
 彼は答えて、Cornell にいる二人のポーランド女性だと言い、それぞれの名前も教えてくれた。
 当時に最も親しかったのはCasimir Krol といい、背が高く、少し年上だった。とても女性好きだったが、そうでないときは、憂鬱な気質だった。
 彼は女性たちの一人を自分のデート相手に選んだ。背の高い方の女性で、この人が、私の将来の妻、Irene Roth だった。
 私はもう一人の女性とデートの打ち合わせをした。この女性が記録を残した。
 我々四人は、映画館とアイスクリーム店へ行った。
 どちらの女の子も、私には強い印象を残さなかった。
 我々もまた、彼女たちに大きな印象を与えなかった。Irene はその夜の日記に、二人から選ぶ必要があるのだとしても、自分でデート相手を選びたい、と書いた。//
 (12) しかし、やがてIrene と私は、互いに惹かれ合うようになった。
 注目すべきことに、二人には類似の背景があった。二人の母親はともにワルシャワ出身で、二人の父親はともにGalicia 地方の生まれだった。さらに、二人の一族は、おぼろげにも知り合いだった。
 二人はともに、ポーランド語より先にドイツ語を覚えた。
 二人は、若干の通りを離れてワルシャワに住んでいた。そして、ともに子どもとして参加した誕生日パーティのことを思い出した。
 彼女とその家族は戦争の最初の週にワルシャワを脱出し、リトアニアに、ついでスウェーデンへと向った。そして、米国にいる彼女の父親の兄の助けで、1940年1月に、カナダへと移住した。
 そのあとすみやかに、彼らはNew York 市に転居した。
 彼女はCornell で、建築学を勉強していた。
 二人の最初のデートは、Rudolf Serkin 〔ピアニスト—試訳者〕の演奏会に行くことだった。演奏会のあいだ、彼女はプログラムについて走り書きし、私に渡した。それは、多年にわたって彼女が維持した、演奏会での習慣だった。
 我々はクラシック・レコードを聴き、写真を印刷した。
 ある日、私は彼女をElmira に連れて行き、両親に逢ってもらった。
 両親はともに、すぐに彼女を好きになった。//
 ——
 ②へと、つづく。

2510/R・パイプスの自伝(2003年)⑫—イタリア②。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 第一部第四章の試訳のつづき。
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 第一部/第四章・イタリア②。
 (12) このような悲劇的事態について、私は相談されなかったし、関与もしなかった。イタリアは、私には全くのパラダイスだった。
 学校も軍事教練もなく、Radonski はおらず、〈ablativus absolutus〉(絶対奪格(文法))もアフリカのLimpopo 河もなかった!。
 私は毎日をのんびりと、ローマの美術館を訪れ、演奏会やオペラに通い、映画館へ行って過ごした。
 ポーランド大使館で世界じゅうの切手を収集し、ドイツ人難民の切手取扱業者に売って、これらを安価に楽しむ入場券代を得た。
 イタリア人が入場券を購入するとき、一定の映画鑑賞者がある言葉—「Dopolavoro」—を発しているのに、私は気づいた。これを言うと、半額で、通常は2リラのところを1リラで買うことができた。
 この言葉の意味を知ることなく、節約したい思いで、私は映画券を安くするために、さりげなく「Dopolavoro」と言ったものだ。
 のちにようやく、Dopolavoro(「労働の後」)とはファシストの労働者組織のことだと知った。
 このことはムッソリーニ独裁体制の弛緩ぶりを示している。誰も、私が会員であることの証明を要求しはしなかった。//
 (13) ローマには、ほとんど旅行者がいなかった。
 今日では混雑してフレスコ画をほとんど見ることのできないSistina Chapel は、いつ行っても、おそらく数人の旅行者しかいなかった。
 私は全ての美術館と画廊を訪れて、一度ならず、十分なメモを取った。
 スペイン広場の階段の上にあるドイツ芸術図書館で、数時間を過ごした。そこで、Giotto に関する企画書の資料を集めた。
 両親を通じて、若いポーランド・ユダヤ人女性と会って、友人になった。この人は、彼女の娘をポーランドから脱出させたいという望みをもって、上海からローマに来ていた。
 我々は一緒に美術館を訪れて、時間を過ごした。
 彼女は、私の唯一の同伴者だった。彼女が神経衰弱に罹って、彼女を失ったのは気の毒なことだった。//
 (14) 私の将来に関して、父親と衝突した。
 父親は、今の騒乱した世界では、しっかりした職業か事業を持たなければ私は生きていけないだろうと心配した。
 この当時の、1939年12月21日付の私の日記の初めに、こう書かれている。
 「私は、父親のつぎのような意見を拒絶した。私が学者になるというのは考え難い、いずれ、カナダのどこかの『チョコレート工場』で父親を継がなければならないだろう。
 〈Es kommt ausser Frage〉(問題外だ)、〈kommt nicht in Betracht〉(考慮外だ)、父親が私に言うことは。…
 自分のことは自分で決定する、自分がしたいことをするだろう、と私は分かっている。」//
 (15) 散発的に書き続けた日記から判断すると、今ではイタリアでの7ヶ月には楽しい思い出しかなかったようだ。しかし、幸せにはほど遠かった。孤独、郷愁に苦しみ、友人たちを懐かしく思い、将来のことで悩んでいた。//
 (16) フィレンツェ大学が外国人向けのイタリア芸術と文化の特別コースを提供していることを知り、出席させてくれるよう両親を説得した。
 完全に自分で行うこととした最初だった。
 3月半ば、母親はフィレンツェまで私に同行し、私がdei Benci 通りのユダヤ人女性の住戸区画の部屋を借りているのを知った。そこは、素晴らしいGiotto のフレスコ画のあるSanta Croce 教会の近くにあった。  
 私はその頃までに、講義を理解するためのイタリア語を増やしていた。
 誰とも親しくならなかったが、必要があるときは学生の誰かに、自分はラテン・アメリカ出身だと言った。
 イタリア文学の外国への影響に関する講義のときに、学生の一人が立ち上がって教授に向かって、聴衆の中にラテン・アメリカ人がいると伝えた。
 授業のあとで教授に紹介されたとき、その教授は私に向かって「素晴らしい、きみは私の家を訪れてきみの国の文学に関する全てを語ってくれたまえ」と言った。//
 (17) この出来事のあと、私は講義に出席するのをやめた。
 それ以降、ずっと一人で過ごした。フィレンツェの教会、美術館、そして市を囲む丘陵地を歩き回った。
 春で、花がいっぱい咲いていた。
 私はきわめて質素に生活した。
 主な昼食は、どの日も、種々の肉の欠片がかけられたパスタ、一杯のワイン、デザートのオレンジだった。それに7リラ(25USセント)支払った。快くほろ酔いになった。
 朝食と夕食に一日あたり5リラがかかり、家賃は一月120リラだった。
 今日まで60年間にあったインフレを少し考える。当時は700リラで一ヶ月を過ごすことができたが、それでは今日では一杯のエスプレッソも飲めないだろう。
 私は〈Osservatore Romano〉を読んで、戦争のニュースを追いかけ続けた。その新聞はVatican の公式の日刊紙で、適切な媒体だった。//
 (18) 私と同じアパートに、ドイツからの難民一家がいた。歯医者で、妻と娘がいた。
 私は本当の自分のことを話さなかったが、彼らは何も疑っていなかった。
 ほとんど6年後に、ベルリン出身のユダヤ人歯科医師の名簿をたまたま見る機会があった。
 私の知り合いを訪ねて、彼らはSomalia へ行き、そこからPalestine へと移ったということを知って、安心した。//
 (19) イタリア政府は、ドイツから、大部分は無視されていたその反ユダヤ諸法を実施するよう圧力を受け続けていた。
 1940年4月、政府当局はユダヤ人に不動産を貸すことを禁止する布令を施行した。
 私は転居せざるを得なくなり、Lungarno delle Grazie 10 のペンションの一部屋に移った。
 そこの賃借人のあとの二人は、フランス人女子学生と、イタリアの予備将校だった。
 我々は一緒に食事を摂った。
 思い出すのだが、あるときその将校が、かりに政府がフランスと戦闘することを命じたら、自分は武器を置いて降伏するつもりだ、と言った。
 私は唖然とした。ポーランドでは、ナツィ・ドイツやソヴィエト・ロシアでは勿論だが、そう発言したことがかりに報告されれば、将校は逮捕されて処刑されていただろう。
 ここでは、何事も起きなかった。//
 (20) ヨーロッパでは相対的な静穏さが続いていたが、父親は、可能なかぎりすみやかに我々を脱出させる決意だった。
 4月末、父親から、家族一の英語半会話者として、ナポリに同行するよう求められた。そこで、アメリカの領事にビザの発行を説くためだった。
 我々の要請は拒否された。我々の順番は6月になるだろう、と言われた。
 別れるときにアメリカの領事は、「I am sorry」と言った。この表現の仕方を聞くのは、初めてだった。//
 (21) ヨーロッパの危機が迫って来ていた。
 5月10日、ドイツがベルギーとオランダに侵攻した、とフランスの女の子に告げるために家へと急いだ。
 彼女は、出立しようとすぐに荷造りをした。
 2日後、両親から、ローマに戻るようにとの電話があった。
 両親は、我々の移住ビザが6月1日に用意されると、米国の領事から知らされたようだった。
 私は5月13日にローマに戻り、その月の残りをPiamonte 通りで過ごした。
 ドイツ軍は再び、驚異的な早さで前進していた。
 オランダは5月14日に、ベルギーは5月26日に、降伏した。
 ドイツ軍は6月の初めまでに、フランス内部へ深く侵攻し、連合軍は総退却した。
 ムッソリーニはもうすぐヒトラーに加わって宣戦するだろう、と予期された。//
 (22) 6月3日、母親が、アメリカのビザを受け取りにナポリへ行った。
 数日前に、父親は、スペインの通過ビザを得ていた。
 戦争熱の高まりの中で、スペインへの移動手段を獲得するのはきわめて困難だった。しかし、父親は、スペインのBalearic 諸島のPalmas 行きの水上飛行機の切符2枚を何とか確保した。
 父親と私が、兵役年齢で、それを理由に戦争中は勾留されるかもしれなかったので、その飛行機で出発し、母親は船で追いかける、と決定された。//
 (23) 6月5日、父親と私はスペインへと出発した。
 間一髪だった。我々はのちに知ったのだが、まさにその日に、イギリスとフランスの国民は人質として役立つべくイタリアを離れるのを禁止された。
 我々が自由にすることができるいかなる保証もなかった。
 ラテン・アメリカとポーランドの旅券を携帯して、我々はタクシーで空港へ行った。ポーランドの旅券はスペインとアメリカの二つのビザを伴っていたが、イタリアが我々をラテン・アメリカ人として登録するかは不確実だったので、前者はスペインのビザだけだった。
 父親が私に、搭乗ゲートにいる職員の後ろを盗み見して、気づかれないように我々の名前の次に公民権が記入されているかを覗くよう、頼んだ。
 消極の(記入されていないとの)合図を送ると、我々に同行した友人たちは、ニセの旅券を隠していたオレンジ入りの袋を母親から取り去った。
 その友人たちから、戦争後になって、イタリアの警察がその数日後にPiemonte 通りに来て、我々を逮捕しようとした、と聞かされた。//
 (24) 飛行機は離陸し、やがてPalmas に着いた。
 降りるとき、父親が帽子を挙げて「イタリア、万歳!」と叫んだ。イタリアの航空士は父親をスペイン人と思ったらしく、「エスパーニャ、万歳」と答えた。
 我々はその夜、船でバルセロナへ向かった。
 その船は、最近に解放された共和国の戦争捕虜たちで満杯だった。その中の一人と、私は会話した。
 バルセロナに到着したのは、6月6日だった。//
 (25) その間に母親は、ココ(Coco,愛犬)と荷物とともにGenoa へ行き、6月6日に、バルセロナ行きの〈Franca Fassio〉という名の船に乗った。
 出航する前に、母親はポーランド・ユダヤの知人が下船させられるのを防いだ。自分は兵役年齢のその青年の婚約者だ、というふりをしてだった。
 イタリアの役人たちが、二人の関係を証明できる人物を知りたがった。
 母親は、ローマにいるポーランド大使の名を挙げた。
 役人たちは実際に、彼に電話した。
 大使のWieniawa はすぐに出て、母親と青年はまだ結婚していないのか、と驚きを込めて言った。それで、その青年は解放された。
 母親が乗った船はつぎの夜(6月7日)に着岸した。
 好ましい別れの挨拶から判断するに、母親は乗船者の半分と親しくなったようだ。//
 (26) 我々は、二週間半をスペインで過ごした。
 この期間の記憶はほとんど残っていない。例外的に憶えているのは、フランスが降伏したのを知ったこと、ひどいフランス語で発せられ、フランスにイギリスとの同盟を提示したChurchill の演説を聴いたこと、だ。
 6月24日に、ポルトガルに向けて出立した。そこで、アメリカ合衆国まで我々を運んでくれる船を見つけるつもりだった。
 リスボンに着くまでに、フランスからの避難民が続々と乗り込んできた。多くの人々が同じ目的を心の裡に持っていた。アメリカへ渡ること。
 アメリカの乗客には優先権が与えられたので、我々が大西洋を横断することのできる船を見つけるのは、きわめて困難だった。
 やっと、〈Nea Hellas 丸〉という小さなギリシアの船に、船室の余裕を発見した。
 その船はニューヨークから来ていて、アテネまで航行する途中だった。だが、イタリアが参戦し、地中海は戦闘海域に入った。
 それで、乗客を完全に埋めることなく、引き返すことになっていた。
 7月2日に、乗船した。そして、翌朝に出航した。
 我々は、普通の三等船室で旅行した。
 食事は何とか食べられるもので(残しておいたメニュのある料理は「Chou ndolma Horientalep」だ)、ワイン(retsina,ギリシャワイン)は飲めなかった。
 ほんの数人のギリシャ人が乗っていた。彼らはアメリカを追放されていて、戻るのは決して不運ではなかった。
 最も注目した乗客は、Maurice Maeterlinck で、この人は19世紀遅くの著名な作家かつ戯曲家だった。今では忘れられ、読まれていない。
 好天のもとで、彼は一等の甲板で、ヘアネットを付けてゆったりと横になっていた。
 私は彼の写真をもらった。
 ドイツの潜水艦が停まって我々を探す危険がある程度はあったけれども、何事も起きずに船旅は過ぎた。
 (27) 1940年7月11日、New Jersey 州のHoboken に接岸した。
 その日は、私の17歳の誕生日だった。
 ——
 第一部第四章、終わり。

2486/R・パイプスの自伝(2003年)②。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
 著者はドイツ軍の空襲を受けているワルシャワで(両親とは別の部屋で)ニーチェの〈権力への意思〉などを読みつつ寝た、という当時の日記の一部を掲載している。以下の(16)参照。興味深い。
 だが、当時16歳のポーランドの少年(青年?)が、どういう目的や思いをもってNietzsche の本を持っていて、「非常時」に目を通したのか?
 攻撃しているドイツの人物だからか、それともそれ以上に、ヒトラーとニーチェを結びつける何らかの言説があったからか。著者は何も触れていないので分からない(少なくともこの辺りの叙述まででは)。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ②。
 (15) 9月22日〔1939年〕の夜になり、外交団が撤退したあとで、ワルシャワは昼夜を問わない爆撃にさらされた。昼間はStuka 爆弾機が防衛なき市の上を巡回し、甲高い音を立てて飛んで民間人に対して爆弾を落とした。
 夜に我々は砲撃を受けた。
 爆撃は無差別で、9月23日だけは例外だった。その日はYom Kippur の日で、ドイツの飛行士たちはワルシャワのユダヤ人区画に集まって遊んでいた。//
 (16) 私の文書の中に、この出来事から8ヶ月後に書かれた日記を見つけた。それから引用するのが最もよいだろう。
 「23日、ラジオ放送が、爆撃を受けて停まった。
 その翌日、我々には水がなかった(ガスはしばらくの間不足していた〉。
 我々はすぐに逃げるために、全ての持ち物を手にして、完全に身繕いをして、寝た。
 私だけは、ニーチェの〈権力への意思〉や[Leopold]Staff の詩を読みながら、またはGiotto についての自分のエッセイを書きながら、6階で寝た。
 24日は一日じゅう爆撃が繰り返され、25日の朝に我々は、爆弾の音で目が覚めた。
 もう空からの攻撃に対抗する防衛力または[ポーランドの]航空機はなく、あちこちで機関銃の音が響いた。
 450機による一日じゅうの爆撃が始まった。それは、歴史上かつてないものだった。
 爆弾が次から次に、雨嵐のように、守る術なき市に降り注いだ。
 家は崩れ、数千の人々が埋まり、あるいは街路が火に包まれた。
 ほとんど発狂したかのごとき群衆が、子どもや包みを抱えて、瓦礫で覆われた街路を走った。
 ドイツの航空士たち、世界で最悪の野獣たちは、機関銃砲で[街路を]掃射すべく意識的に低く飛行した。
 夕方までにワルシャワは炎に包まれ、ダンテの地獄のようだった。
 市の端から端まで、見えるものは空を赤く染める炎だけだった。
 そうしてドイツの砲撃は続き、砲弾の雨で市を覆った。…。
 我々の[仮の]住まいは奇跡的に的中するのを免れ、二つ「だけの」砲弾の痕跡があった。/
 しかし、我々が何の被害も受けなかったのではなかった。
 午前1時頃、大きな爆発の音で目が覚めた。砲弾が下の階に当たり、女性が一人殺された。
 我々は跳び上がり、人々で群れた階段の吹き抜け箇所へと降りた。
 叫び声、絶望の言葉、うめき声が、無情な砲弾の爆発音と入り混じった。
 我々の建物が燃え始めた。
 中庭へと逃げた。私は、最も貴重な自分の書き物と本を入れた書類カバンを持ち、腕の中に震える我々の犬を抱えて、逃げた。
 庭を横切ったとたん、砲弾の欠片が近くで爆発した。だが、負傷はしなかった。
 我々は地下室へと避難した。しかし、午前5時に、そこを放棄せねばなければならなかった。もう安全ではなかったからだ。—階段の吹き抜け部分の一つが炎に包まれていた。/
 街の中へと走った。
 Sienkiewicz 通りで、広いがひどく汚れた、地下室のある避難所を見つけた。そこは群がる人で混んでいた。
 砲撃は絶えることなく続いていた。
 夕方7時に、この建物は燃え始めた。
 我々はもう一度、通りに走り出た。
 こんどはMarzalkowska (マルシャウコフスカ)通りで、狭い階段下空間に落ち着いた。…。
 二回目の夜がやってきた。
 爆撃は続いていた。市全体が、炎の中にあった。 
 Marzalkowska 通りとZielna 通りの角で我々が見た光景を、私は決して忘れない。—馬が自由に走り回り、あるいは鋪道の上に死んでだらりと横たわっていた。それらは、箱のごとく燃える家屋の火で照り輝いていた。
 人々は安全な隠れ場所を探して、家屋から家屋へと走り回った。
 夜中には爆撃がいくぶんか弱くなった。そんなとき、私はあるウェイトレスの膝の上に頭を乗せていた。そして、寝入った。
 空腹だった。我々は、砂糖と奇跡的に得た水を与えて、なんとか我々の犬を救った。/
 突然にドアが開いて、ひどく負傷した4人の兵士が運ばれてきた。
 彼らはろうそくの灯りの中で包帯を巻かれたが、水も薬もなかった。
 女性たちが気絶したり、理性を失ったりし始めた。子どもたちは泣き叫んだ。
 私も、ほとんど卒倒しそうだった。
 ようやく落ち着いて、無関心に、例えば、ろうそくの火を消すべきかどうか、といった議論を聞いた。
 人々の群れが、入ろうとして、我々のドアに押しかけた。
 爆撃は、はっきりと分かるほどに弱くなった。
 より静かになっていった。…。
 ワルシャワは、そしてそれとともにポーランドは、最後の日を体験したのだった。」//
 私の日記に記さなかったことを、付け足してよいだろう。すなわち、我々が燃える街路を走っていたとき、母親は走りながら、落ちてくる瓦礫の破片から守るために、私の頭の上に枕を乗せて抱えてくれていた。//
 (17) 地下室で、ひどい風聞が広まっていた。
 私はそれを、ポケット日記に記録した。—ポーランドはドイツの攻撃を撃退しており、諸都市を奪い返している。フランス軍はジークフリート(Siegfried)線を突破した。イギリス軍は東プロシャに上陸した。
 この数日間に〈Dzien dohry !〉(良い日だ!)という表題で出現したいつもと違う記事の一つは、その第一面(headline)でこう発表した。
 「ジークフリート(Siegfried)線が破られた。フランスがラインラント(Rheinland)に入った。ポーランドの爆撃機がベルリンを急襲攻撃する。」
 これら全ては、全くの作り話だった。
 ついに、真相が明らかになった。9月17日、ソヴィエト軍はポーランド国境を越え、東部諸地方を占拠した。
 私は日記の9月24日(日曜日)に、こう記した。
 「ワルシャワは自衛する。
 ソヴィエトはBoryslaw、Drohohyez、Wilno、Grodno を占領した。
 西部前線—静寂。
 ポーランドは負けた。
 どのくらい続くのか?」//
 (18) 〔1939年9月〕26日、ポーランド当局とドイツ軍は交渉を開始した。
 その翌日に、ワルシャワは降伏した。
 そのときに合意された条件によって、42時間の停戦になった。
 27日の午後2時、銃砲は沈黙し、航空機は空から消えた。その間に彼らは、市の建物の8分の1を破壊していた。
 奇妙な静けさが発生した。
 ドイツ軍は、9月30日に市に入った。
 私は偶然に彼らの先遣部隊、ワルシャワの中心部、Marzalkowska とAleje Jerozolimskie の通りの角に止まっていた、上部の除去可能な軍用車、に出くわした。
 運転手の隣に座っていた若い将校が立ち上がり、その車を囲んでいる群衆の写真を撮っていた。私は憎しみをもってその男を一瞥した。//
 (19) 二日間の停戦中に、我々のアパートに戻った。窓が何枚か破壊されているのを除いて、損害を免れていた。
 両側と通りを挟んだ向こう側の各家屋は、しかし、粉々になっていた。 
 ココ(Coco)、我々の老犬のコッカー・スパニエル(cocker spaniel)は、我々の放浪に従いてきたのだったが、喜びで狂ったようになり、激しく食事室を走り回り、ソファを跳び登ったり降りたりした。
 彼女は、我々の苦難は終わった、と思ったに違いない。//
 (20) ポーランドの1939年の軍事行動については、多数の誤報が存在する。ポーランド軍はドイツの戦車部隊を騎兵隊で阻止しようとしたとして馬鹿にされ、名目だけの抵抗を示した後で降伏したかのごとく叙述されている。
 実際には、ポーランド軍は、きわめて勇敢にかつ効果的に戦闘した。
 機密性を解除されたドイツの文書資料が明らかにしているのは、戦争の4週間にドイツ軍は多大の被害者を出した、ということだ。
 死者は9万1000人、重傷者は6万3000人。(+後注01)
 これらは、スターリングラードの戦いとその2年後のレニングラードの勝利までは、ドイツ軍が被った最大の被害だった。その2年間にドイツは、全ヨーロッパを事実上征服したのだったが。 
 +(後注01)Apoloniusz Zawilski 1972, p.248n. ポーランド軍はまた、ドイツ軍の191台の戦車と421機の航空機を破壊した。//
 (21) 我々には食べ、飲むものがあった。母親が戦争勃発のまさに直前に大きな一袋の米(rice)を購入していて、彼女のベッドの下に隠していたからだ。
 これが翌月の間の我々の主食になることになった。多様な料理法で提供され、マーマレードで味付けされていたことすらあった。
 我々はまた、浴槽に水をはった。//
 (22) 10月1日、ドイツ軍は市内の巡回を始めた。
 彼らはトラックを運転した。私が驚きつつ気づいたのは、兵士たちはナツィの情報宣伝にいう金髪の超人(supermen)ではなかった、ということだ。多くは背が低く、浅黒く、外見上は少しも英雄的でなかった。
 占領軍は、すみやかに日常生活を回復させた。
 パン屋が開いた。
 ポーランドの店舗は販売した。あるいはほとんど無料で品物を売った。
 私は、イワシの缶詰やチョコレート棒を含めて、できるだけ買った。
 占領の最初の一ヶ月の占領軍兵の振舞いは、全く適正だった。
 私は乱暴な行為をいっさい見なかった。
 心に残る像は、あるドイツ兵が髭の生えたユダヤ人をオートバイのサイドカーに乗せて、ワルシャワの街路を走らせていた、というものだ。
 別のときには、二人の若いユダヤ人女性がある建物の入口の監視兵と親しくして、当惑する彼の鼻を花でくすぐっているのを見た。
 私が見た唯一の反ユダヤ的出来事は、ドイツ軍のトラックの荷樽がユダヤ人区画の街路で落ちてころがり、中には老人もいたユダヤ人たちが当たるのを避けようと散り散りになったとき、ドイツ兵が笑い声を立てて歩き回った、というものだ。
 やがて、ドイツ軍司令部が作ったポスターが壁に貼られた。
 そこに名前が載っていたポーランド人は、文字どおりには「犬の血」で英語の「畜生(damn)」にほぼ該当する言葉の〈psiakrew〉をドイツ人の面前で発したごとき、種々の「犯罪」で、処刑された者たちだった。
 負傷したポーランド兵を描いた絵もあった。その兵士は腕を三角巾で吊るし、ワルシャワの廃墟を指し示しながら、怒ってチェンバリン(Chamberlain)に「お前の仕業だ」と叫んでいた。
 我々は黙って、こうしたポスターから学習した。//
 (23) 父親は一度ドイツ兵に止められ、その男が近づいてきて、父親の肩に腕を乗せて、「ポーランド人か?」と尋ねた。
 父親は怒って、流暢なドイツ語でこう答えた。「違う! 手を離せ。」
 仲間のドイツ人を困らせたと思って慌てた兵士は、詫びて、去って行った。//
 ——
 ③へとつづく。

2485/R・パイプスの自伝(2003年) ①。

 Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 この書物はRichard Pipes (1923〜2018)の自叙伝だ。
 VIXI は「私は生きた」という意味のラテン語らしい(正確には知らない)。
 大きくつぎの四つの部で構成されている。 
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第二部/ハーヴァード。
 第三部/ワシントン。
 第四部/再びハーヴァード。
 読了してはいないが、第二部と第四部は主にHarvard 大学での研究(・教育)の時代、第三部はレーガン政権のソ連・東欧問題の補佐官としてソ連の崩壊を準備した時代、第一部がポーランドで出生して(その前の出自を含む)、第二次大戦勃発後にイタリアを経てアメリカに定住し、20歳でアメリカ国籍を取得する、等の時代だ(少しは間違っているかもしれない)。
 以前から、第一部だけはぜひ試訳して掲載しておきたいものだと、考えてきた。
 ユダヤ系ポーランド人の彼が、どのようにしてアメリカに来たのか、そして(むろん英米語を用いる)ロシア・東欧史専攻の研究者となり国際政治の実務にも関与したのか、にすこぶる関心を持ったからだ。
 この本の存在を知ったのはロシア革命に関する彼の二つの大著*を知って(それぞれ一部、この欄に試訳掲載済み)、その一部を読んだ後だったので、これら大著の著者の「背景」を知りたい、ということも、もちろんあった。
 *①Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
   <「1899 -1919」が付くのは1997年版以降。>
  ②Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 1919-1924 (1993).
 ようやくこの欄への試訳掲載を始める。
 なお、この書物の目次や緒言よりも前に、欧米の書物にはよく(ほとんど)ある「献辞」がある。一頁全体の中に、つぎの文章だけがある。
 「この本を私の両親、Mark Pipes とSofia Pipes に捧げる。
 私を生んでくれ、そしてナツィスの手による確実な死から私を救ってくれたことに感謝して。
 ——
 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ①。
 (01) 1939年8月24日木曜日、我々が定期購読していた日刊紙の〈Nasz Przeglad〉(我々の論評)は最初の頁に、二つの宿敵国のナツィ・ドイツとソヴィエト同盟が不可侵条約に署名した、という驚くべき報せを掲載していた。
 私は前の月に16歳の誕生日を迎え、最終学年の前の年度にギムナジウムの生徒に要求されていた予備軍営(ポーランド語でROTC)での三週間の課程を終えて最近に帰ったところだった。
 通常の予定どおりだと、私は最終学年の学習のために数日以内に学校に戻っていただろう。
 しかし、そうはならなかった。//
 (02) 父親は、報せは戦争を告げていると結論づけ、我々のアパートから移ろうと決めた。我々が住んでいる家はワルシャワの中央鉄道駅の傍にあって、空からの爆撃の対象になりそうだったからだ。
 我々は、ワルシャワの南にある保養地のKonstancin へと移った。そこである邸宅の大部屋を借りて、つぎの進展を待った。
 当局は住民に対して、消灯の継続を命令した。
 私は、夕方にろうそくの灯りのそばで、父親と叔父の一人が戦争になるかどうかについて議論していたのを思い出す。
 叔父は、全てはムッソリーニにかかっているという意見だった。これは全く間違っていた。実際にはヒトラーの軍隊がスターリンの承認を得て、すでにポーランドの北、西、および南西に配置され、攻撃の準備をしていた。//
 (03) 市政府は郊外に住んでいる住民に、爆撃から守るために塹壕を掘るように命じた。
 私は、邸宅を所有する女性が彼女の花壇を損傷するから止めよと命じるまで、懸命になってその仕事に取り組んだ。//
 (04) 9月1日、金曜日の朝6時30分、私は遠くから聞こえる一続きのドーンという音で目が覚めた。
 私がまず思ったのは、自分は雷鳴を聞いている、ということだった。
 着替えて、外に出た。だが、晴天だった。
 上の空高くに、ワルシャワに向かっている銀色の航空機の一編成を見た。
 単独の複葉機—まるで木製のごとくだった—がそれらを迎えるべく、急傾斜で昇っていった。
 私が聞いた音は雷鳴ではなく、ワルシャワ空港に落とされている爆弾だった。それは、ポーランドが作った小さな空軍施設をすみやかに粉砕した。//
 (05) 軍事力には大きな不均衡があったにもかかわらず、ポーランドの立場は完全に見込みがないというものではなかった。
 第一に、ポーランドは、イギリスとフランスの両国から、ドイツが万が一攻撃してくればドイツに宣戦を布告するとの保証を得ていた。
 さらにフランスは、ドイツ軍をピン留めすべく、ドイツの西側の戦線で反抗攻撃を行うと約束していた。
 第二に、ポーランドはソヴィエトの中立を計算に入れていた。そのことで、ポーランド軍は再結集し、ドイツ軍が後方から攻めることのできない国土の東半分で踏みとどまることが可能になるだろう。
 フランスは約束を守らないこと、ソヴィエトは、ドイツがソヴィエトに東半分を譲与するとの不可侵条約の秘密条項をもっていたことを、ポーランドは知らなかった。//
 (06) 午前中が大して進んでいない頃、我々はラジオで、ポーランドとドイツが交戦状態にあること、敵の兵団が複数の場所から国境を越えたこと、を知った。//
 (07) 戦争についての私の考えは、希望と運命論の入り混じったものだった。
 ポーランド人かつユダヤ人として、私はナツィスを軽蔑し、連合軍の助けで我々が勝つことを期待した。
 運命論は、若者や完全には成熟していない大人にありがちだが、起きることは起きざるを得ないという考え方に由来していた。
 それは実際には、毎日を生きて最善を尽くす、ということを意味した。
 運命論は、セネカ(Seneca)の私の好きな言葉に要約された。すなわち、〈Ducunt volentem fata, volentem trahunt〉—「運命は意思する者を誘導し、意思しない者を遠ざける」。//
 (08) 第二次大戦となった最初の日の夕方に、父親は私を邸宅を囲む公園のベンチに座らせ、こう私に言った。父親と母親に何かが起きたなら、ストックホルムへ行き、そこで父親の口座があるSkanska 銀行のOllson 氏に連絡を取りなさい。
 多年ののちに私は知ったのだが、小切手の形の金銭はこっそりと持ち出され、1937年に親しい友人によってタイプライターの中に隠されていた。それはもともとはロンドンで預けられ、のちにストックホルムへと移されたものだった。
 あれは父親が初めて、私に一人前の大人として、向かい合ってくれたときだった。
 その金—3348ドルそこそこ—は、我々の生命を救うことになっていた。//
 (09) もちろん、戦争は何らの驚きもなくやって来たのではない。我々は長く戦争を予期し、ポーランドを離れることを考えていた。
 1938年10月に連合軍がミュンヘンで屈服したあと、私はヨーロッパ全体での戦争が避けられない、と思った。
 両親は、ニューヨークでの世界博覧会用の観光ビザを申請した。それをアメリカの領事館は私をポーランドに残すという条件つきで発行することに同意した。
 そのゆえに、パレスティナに住んでいて権限あるイギリス当局と良い関係がある私の叔父の一人を通じて、私は彼に合流することが取り決められた。いずれにせよ、それが私が選んだ道だった。
 私はのちに、6日後にヒトラーがポーランドを攻撃したことを知った。我々は〔本来ならば〕去ってしまっていただろう。両親は8月28日にアメリカ合衆国への観光ビザを受け取っており、その間に私はパレスティナへの必要な書類を得ていたのだから。(脚注1*)//
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 (脚注1*)後年に母親は、私にこう言った。親しい知り合いのスウェーデンの在ワルシャワ領事がスウェーデンへのビザを提示したが、その彼が母親の法律上の個人名は「Sarah」だと知ったとき、残念だがビザを提供することはできないと言った、と。
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 (10) 戦争勃発の翌日、私は自発的に、Konstancin の交通を監督するのを助けた。
 私の指示は、空襲警報用サイレンの音で自動車を道路から離れさせることだった。
 私は使命感をもって数日間そうしていたが、やがて無益さを知った。自動車は、その中には制服姿の軍人やその家族を乗せているものもあったが、国を脱出すべく南や東へと急いでいて、私の合図を無視したからだ。//
 (11) 1930年代末のヨーロッパの民間人は、空中からの化学兵器の危険性について、繰り返し警告されていた。
 私はたまたまガス・マスクを所有していたが、それはROTC軍営で購入したものだった。しかし、それにはフィルターが付いておらず、役に立たなかった。
 Konstancin で会った一人のユダヤ人少女が私に、そのフィルターを持っていて、家まで来るなら差し上げると言った。
 私は夕方に引き返して、暗い色の枠の家のドアを叩いた。
 ドアが開いて私が見たのは、部屋いっぱいに溢れた若者たちが蓄音機の音楽に合わせて情熱的に踊っている光景だった。
 その少女は私が欲しいものについて忘れており、私を追い払って、踊りの相手のところへ戻っていった。//
 (12) ドイツ軍が近くまで来ているという衝撃的な噂を聞いたとき、戦争は辛うじてまだ6日めだった。私はつけ始めた日記にそのことを記録した。
 実際に(当時は我々に知られていなかったけれども)、ポーランド政府はすでに9月4-5日に、その人員の一部のワルシャワからの避難を開始していた。
 その次の夜(9月6-7日)、ポーランド軍の筆頭司令官のRydzSmigly 元帥は、密かに首都を去った。
 父親が自動車を確保し、我々はワルシャワへと戻った。
 行路は検問で止められたが、父親がポーランド軍の退役兵であることを証明するものその他の文書を提示した後で、進むことが許された。
 市内は状況が緊迫していた。
 ドイツ軍は空から、降伏を迫るビラを落としていた。
 私は一枚を拾い上げようとしたが、通りすがりの人が、「毒が付いている」と警告した。
 ラジオは我々の意気が下がらないようにしていた。市長のStefan Starzynski (のちに拘束され、4年後にDachau で処刑された)からの訴えがあり、昼夜じゅうショパンの「軍隊」ポロネーゼが流された。
 負けたポーランド軍の敗残兵たち—何人かは負傷し、全員がぼろ服を着て消沈していた—が、市内へと、歩いて、馬で、あるいは荷車で、ばらばらに入ってきた。//
 (13) 9月8日、ドイツ軍はワルシャワ攻撃を開始した。しかし、激しい抵抗に遭遇した。
 私は民間人の長い列を見た。推測するに、政府の訴えに呼応した予備兵たちで、小さいバッグを運び、市内から東方へと出て行った。そこで軍役に就くことになっていたのだろう。
 私の両親は、ワルシャワを離れることを議論していた。我々には使用できる一台の車があった。父親はワルシャワから南東およそ100マイルのLublin へと我々を逃がせたかった。政府がその市へと避難していたからだ。
 その考えは、父親が知っている外務大臣のJoseph Beck に由来した。彼は父親に政府についていくよう言ったのだった。
 母親は断固として拒否した。その提案は父親が金を持っているという想定からのものだと、確信していた。
 出ていくとすぐに、我々は捨て去られるだろう。
 私はベッドの上で、この問題についての二人の叫び合うような議論を聞いていた。
 幸運にも、母親が勝った。//
 (14) 9月半ばまでに、ワルシャワは包囲され、我々は罠の中に入った。
 我々は住まいを二度目に出て、市の中心部から離れた固いアパート建物に住んでいる友人たちとともに、転居した。
 両親は彼らと一緒に落ち着いた。私はその間、ユダヤ人学者の住宅の最上階にある小さな部屋に泊まらされていた。
 彼はかなり大きな書斎を持っていて、私はビザンティウムに関する歴史書、William Oncken の世界史シリーズの一部を借りた。彼は、私が見つけたのと同じ形で返すよう求めた。
 私は自分の本も、何冊か持ってきていた。
 爆弾が雨のように街に落ちていたとき、母親が何回も来て、地下の避難壕に移るよう頼んだ。しかし、爆撃があまりにひどくなるまで、拒んだ。
 ワルシャワが降伏した後、私は、巨大な砲撃弾が私の部屋の天井を破り取って、ベッドの少し上の壁を砕き、爆発することなく地上に着弾しているのを見た。(脚注*2)
 ---- 
 (脚注*2)後年に私は、若Pliny(Pliny the Younger)[=Gaius Plinius Caecilius Secundus〕が、ポンペイを破壊した大地震の間に似たような行動をしたことを、知った。彼はタキトゥスへの手紙で、美術館のそばにいて、激しい揺れを感じた、と書き送った。彼の母親は離れるよう強く言ったが、彼は—勇者だったのか愚者だったのか—Livy の本が送られてきた、「他にすることが何にもないがごとく読み続けたい」と頼んだ。彼は、自分の家が崩壊する危険が生じたあとでようやく離れた。彼はそのとき、17歳だった。
 〈Pliny the Younger の手紙〉(1969),p.170-1.
 ——
 ②へとつづく。

2382/L・コワコフスキ「暴力について」(1999)①。

 レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 計18の章に分かれている。邦訳書はない。
 第11章へと移る。一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
 —— 
 第11章・暴力について(On Violence)。
 (1)暴力は文化の一部であり、自然の一部ではない。
 鳥が昆虫を飲み込むとき、あるいは狼が鹿に咬み付くとき、我々はこれらを暴力の行為だとは言わない。
 動物の権利を狂信していなければ、エビを茹でることは暴力だとも言わないだろう。
 我々は「暴力」という言葉を人間との関係でのみ用いる。
 人間だけが暴力を行使し、その被害をうける。
 暴力行為を行うことは有形力(実力、force)を行使することであり、有形力で脅かすことは人々を一定の態様で行動させたり、一定のことを阻止したり、あるいはたんにそれ自体を目的として人々を苦しめることだ。//
 (2)我々のほとんどは、有形力の正当な行使と不当な行使とを区別する。例えば、警察、裁判所、および法的制度のような国家の装置は、我々が犯罪だと考える一定の類型の行動を阻止したり制裁を課したりするために、有形力の行使が正当化される。
 しかしながら、国家による有形力行使を含む、全ての形態の暴力を非難する人々がいる。法による制裁が何もない世界を想定するのは困難だけれども。
 全ての形態の暴力は間違っていると考える人々は、イエスが悪魔に反抗しないでもう一方の頬を向けよと語った山上の垂訓を引き合いに出して、自分たちの信念を正当化しようとする。
 しかしながら、イエスは、個人について、かつ個人が他者の暴力にさらされているときの対処方法についてだけ、語っていた。彼自身の殉教と死の例で言うと、怖れることなく確信と精神的強さをもって、暴力に対して暴力で返すのを拒否することができる、そしてなお世界を克服することができる、と我々に示したのだ。
 イエスは国家の働きについて語っておらず、政治的な教義を残してもいない。
 世界の終わりは切迫していると、彼は確信していた。受容しつつも、いつそれが訪れるかは知らなかったけれども。
 しかしながら、彼自身が、神殿から金貸しを追い払うとき、暴力に訴えた。//
 (3)暴力は、まさにその最初からずっと、人間の歴史の抹消できない一部だった。
 戦争も同様で、これはたんに集団的な暴力を組織化したものだった。
 戦争と暴力は良いものと考えられるべきだ、と言いたいのではない。
 そうではなく、これらを自然であるばかりか有用な生活の一部だと考えてきた多数の人々がいた、ということだ。この人々は、多くの美徳を注ぎ込むものとこれらを考えてきた。勇気や自分の種族のための犠牲精神のような美徳。
 彼らにとって戦争は、若者の中に精神の気高さ、英雄主義、耐久力を育む最良の方法だった。
 今では、勇気は疑いなく良いものだが、かつての人々にとって、その際に役立つまさしく美徳を発展させる機会を与えてくれるがゆえに、戦争は良いものだった。
 言い換えれば、いつも戦争があったというだけではなく、将来もつねにそういうものだと、彼らは考えていた。//
 (4)多様な形態での暴力は我々の運命にある恒常的な部分でありつづけるだろう、と言うのがかなり安全であるために、戦争もまた行われつづけるだろうと言うことが可能だ。
 戦争は現実に行われつづけるだろうと考える、十分な根拠がある。
 戦争とは、かつての敵の種族の存在のみならず、例えば水や農場の利用に関する純粋な対立の進展をも含んでいる。人々の居住密度が耐え難くなり始めたときの、いろいろな種類の領土や領域の利用に関する対立も、その例だ。
 しかし、戦争それ自体を美化することは、第二次大戦とその全ての恐怖を経験した圧倒的大多数の人々には、間違いなく理解し難いことに違いない。
 Pierre Proudon は、のちにGeorges Sorel は、なおも戦争を称賛することができた。しかし、Ernst Jünger のような後の世代の人々がそうしたとき、彼らが想定していたのは、第一次大戦だつた。//
 (5)今日では、戦争それ自体が称賛されるのをほとんど聞かない。
 アフリカでの際限のない種族虐殺やボスニアの恐怖によって、戦争芸術に魅力を与える根拠はほとんどなくなっている。
 そして、第一次大戦後には世界のほとんどどの一角でも起きていた大小の無数の戦争があったが、民主主義諸国の間では一つも戦争は発生しなかった、というのは意義深いことだ。
 というのは、戦争は専制(tyranny)から生まれるものだからだ。
 世界の民主主義諸国には、疑いなく豊富な良心の呵責があつた。そして、主権の政策として有形力の行使に頼ることを熟知してきた。
 しかし、諸国は相互の間で戦争を起こすことをしなかった。
 民主主義諸国はその代わりに、紛争を交渉と妥協で解決するメカニズムを生み出した。
 そして、このメカニズムにはときに恐喝や欺瞞が含まれるが、大規模の殺戮し合いを包含するものではなかった。
 アテネとスパルタの間の対立を我々が固定観念とする(stereotype)十分な理由がある。すなわち、我々の文化は本当にアテネに由来しており、それは若者に(むろん市民で、奴隷ではない)詩、哲学、芸術を教えた。軍事技術が主要な教育科目だったスパルタに由来してはいない。—アテネでも、国家の政治を習熟させたけれども。
 暴力は我々の生活の不可避の一部かもしれず、我々はつねにそれを予期しなければならない。
 しかし、暴力を悪魔扱い(lacedaemonize)する—換言するとスパルタ市民のように考える—、あるいは暴力を不幸な必要物にすぎないと見なす、そのような理由は存在しない。//
 (6)理論上は、正当化された暴力とそうでない暴力を区別すること、あるいはこの区別の特定の例を挙げると、防衛的戦争と攻撃的戦争を区別することは、相当に単純なことのように見える。
 しかし実際には、明瞭な状況というのは少ない。
 もちろん20世紀には、「侵略の犠牲者」だけはあった。
 どの国も自らを攻撃者と呼ぶのを好まなかった。侵略の行為には、ナツィ・ドイツの場合(支配する人種のための「生命空間」の必要)やソヴィエト同盟の場合(戦争は社会主義国家が行うならばつねに正当化されるというレーニン主義の原理的考え方。そこでは社会主義国家は「進歩的階級」の具現物で、誰が戦争を開始したかは重要ではない)のように、イデオロギー上の根拠があったとしてすら。
 一定の場合には、攻撃者を識別するのは容易だ。すなわち、1939年のドイツ、1941年の日本、そして再び1956年のハンガリー、1950年の北朝鮮。
 他の場合には明瞭さはより少ない。
 「誰が開始したか」を決定することは、遊び場での子どもたちの取っ組み合いを種別化するがごとく、困難だ。
 (「彼が最初にぼくを押した!」—「でも、彼がぼくを最初に蹴った!」—「でも、彼がぼくを最初に押した!」—「それは彼がぼくをブタと呼んだからだ!」—「ウソだ。彼が最初にぼくの名を呼んだんだ」、等々。)
 ——
 ②へとつづく。

2192/レフとスヴェトラーナ-第2章④。

 レフとスヴェトラーナ。
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 第2章④。
 (33) もっと恐ろしいことすら、やって来ることになった。
 1945年4月、西側連合軍がドイツに突入したとき、ナツィスは、ブーヒェンブァルト=ヴァンスレーベン(Buchenwald-Wansleben)収容所を退避させた。
 4月12日午後5時、長い行進が始まった。
 生き残っている収監者たちは、護送車に乗せられて収容所を離れた。その車は無蓋トラックに脇を挟まれ、それぞれに6人の武装したSS護衛兵が乗っていた。
 彼らは原野を北東に歩いて、デッサウへの道に入った。但し、レフや彼の周囲の者たちは、そのときどこに向かっているのかを知らなかった。
 彼らには、(反対方向の)ブーヒェンブァルトに戻っているように思えた。つまりは、ナツィスが虐殺した数万の犠牲者が以前に焼却された、火葬場を目ざしているのではないかと。
 ぼろ布を身にまとっている収監者たちは、疲労困憊して道から離れて倒れ始めた。-ドイツ兵が射殺して、全てが終わった。
 フランス人収監者は思い出している。
 「午後8時だと覚えている。突然に前方に、隊列の端から、多数の射撃音が聞こえた。
 SSが、疲れて歩けないか、求められる速さで歩けない仲間たち全員を、射殺していた」。//
 (34) レフは、逃げることに決めた。
 並んで歩いていた、ピトラー・グループの一人の、アレクセイ・アンドレーエフ(Aleksei)Andreev)に言った。
 レフは思い出す。
 「我々の前方の右側に、何かが燃えているのを見た。
 爆撃されたドイツの大型トラックが、火の中にあった。
 あそこを通過するときに、走ってあのトラックの後ろの茂みに逃げ込めば、我々の後方にいる監視兵たちは炎で気がつかないだろう、と私は言った。
 アンドレーエフは肯いた。」
 隊列から離れて走って、二人は、燃えている大型トラックの後ろの叢林に飛び込み、長い隊列の残りが通り過ぎるのを待った。
 そして、田畑を這って進み、溝の中へと身体を引き摺り込んで、縞模様の囚人服を隠せるように、干し草で身体を覆った。
 レフは、恐怖に打ち震えていた。
 彼が想起するように、戦時中の全期間の中で、これが最も恐怖に圧倒されたときだった。
 (35) 二人は、夜間に、森の中へと動いた。
 前方に、銃砲が火を吹く音が聞こえた。
 森の大部分は、爆撃ですでに破壊されていた。
 樹林を通して、光の輝き-探照灯-を見た。そしてその光のそばに、何台かの戦車の影があるのが分かってきた。
 アメリカ(US)の戦車だった。
 暗闇の中から、一人のアメリカ兵が現れた。
 二人に叫んだ。「武器を離せ!」
 レフは英語で叫び返した。「武器など持っていない」。
 「きみたちは誰だ?」
 「我々はロシア軍の将校だ。強制収容所から逃げてきた。」
 (36) レフは、ブーヒェンブァルトにいたこと、今はソヴィエト同盟に戻りたいこと、を説明した。
 アメリカ兵は、二人を近くの家屋に連れて行った。
 そこには、5人の戦車運転兵がいた。
 彼らは、ロシア人を自分たちと一緒に床で眠らせ、食料を与えてくれた。レフはパンと粥で生き返りながら、「レストランの食事のように旨い」と思った。
 翌朝、彼らはレフとアレクセイエフを自分たちでアイスレーベン(Eisleben)に送り、そこで離れたが、その際にアメリカ軍当局が助けてくれるだろうと告げた。//
 (37) 二人はアイスレーベンで、アメリカ軍少佐から取調べを受けた。その人物はレフに、ドイツ語で話しかけた。
 レフが核物理学者だと知ると、彼は、アメリカに亡命するようにレフを説得しようとした。そして、レフが断ると、それを理解できなかった。
 彼は言った。「どうして? ロシアは共産主義だ。共産主義には民主主義がない」。
 レフが戦争でどの程度自分の政治的見解を変えたかが分かるが、レフはこう答えた。
 「ロシアは共産主義ではない。賢い人々が得ることのできる自由が、十分にある」。
 レフは、政治的な議論にかかわろうとはしなかった。
 彼がアメリカでより良い生活を追求するのを拒否した本当の理由は、政治とは関係がなかった。要するに、故郷に、彼が愛した人々のいる所へ、帰りたかったのだ。
 世界の中で彼がもつ全員は、そこにいた。
 -彼は思い出した。「スヴェトラーナとその家族、オルガ叔母、カーチャ叔母、ニキータ叔父。こうした人々が、私には大切だった」。
 スヴェータが生きているかどうか、彼女がいつも自分を待ってくれているかどうか、レフは考えなかった。しかし、自分の気持ちに従わなければならないことを知っていた。
 「彼女が生きている可能性がほんの少しでもあるなら、どうして私がそれに背を向けて、アメリカに行くことができるのか?」
 (38) アメリカの少佐は、自由になった捕虜たちが使えるホテル用のクーポン券をくれた。
 その町の町長は元共産主義者で、二人をにコートと帽子を買わせるために店に連れて行き、新しいスーツを注文し、全額をその町が支払った。
 レフとアレクセイエフは、つぎの二ヶ月の間、アイスレーベンに滞在した。
 彼らの部屋の窓からは、マルティン・ルターが生まれた家が見えた。
 その二ヶ月間は、休暇のようなものだった。
 アイスレーベンには、アメリカ軍員と解放された捕虜たちのための自由食堂が4つあった。強制収容所で飢えていた年月の後だったので、レフは、それら食堂のどこでも、全ての食事をきちんと完食した。
 「我々は、一日に、12回食べた!」
 レフがこの当時に抱えた唯一の問題は、食事ごとに4つの自由食堂のいずれにも時間に間に合って着くことだった。
 この狂ったような食事ぶりは、レフに飢えるという恐怖感がなくなるまで、数日間は続いた。//
 (39) 〔1945年〕5月初頭、アイスレーベンで、アメリカ軍による勝利パレードがあった。
 そのすぐ後に、ソヴェト軍兵士の帰還を組織すべく、赤軍の代表者たちが到着した。
 ソヴェト軍が出発する6月8日、アメリカ軍は、ソヴィエトとアメリカの国旗を付けて「帰還おめでう!」と書いた幕で飾られたオープン・トラックを用意した。
 ソヴィエト軍兵士たちはそのトラックでトルガウ(Torgau)のエルベ河まで行き、そこで、ソヴィエト占領地帯へと渡った。
 彼らは、ソヴィエト軍当局には、同じ友好的な態度では受け入れられなかった。ソヴィエトは彼らを、収監者だとして扱った。
 帰還する兵士たちはソヴィエト軍護衛兵によって30のグループに分けられ、大型トラックでヴァイマル(Weimar)まで連れて行かれた。そこで、第8護衛軍司令部に付属する囚人地区へと入れられた。
 監獄は、SMERSH (「スパイに死を!」の頭字語)として知られる、NKVD の特殊部門によって管理されていた。その任務は、ドイツ軍に協力したソヴィエト兵士を根こそぎ殺戮することだった。//
 (40) レフの好運は、消え去った。
 彼は、他の8人とともに一つの部屋に投獄された。
 全員が衣類を脱がされ、身体を調査された。
 彼らの持ち物は全て、奪い取られた。
 レフは、過去の4年間ずっとポケットに入れて最も大切にしていたものを、失った。スヴェータの父親から貰った住所録だ。
 それは紙の一片にすぎなかったが、スヴェータと自分を結びつけるただ一つの物だった。//
 (41) 昼間は、床に座って、横になったり寝入ったりすることを禁止された。
 尋問は、夜に行われた。
 各人は順番に尋問に連れ出され、3ないし4時間あとで戻されたが、それは朝の起床の合図までの睡眠を剥ぎ取るものだった。
 レフは、一ヶ月以上にわたって、取調べを受けた。
 SMERSH の調査官は、ドイツ軍のためにスパイしているとレフを責めた。
 彼らがもつ唯一の証拠はレフの仲間から得たもので、カティンでドイツの少佐と会話しているのを聞いた、というものだった。
 レフは、それは本当のことだと認めた。
 彼は通訳者として働いていたことは承認したが、スパイでは決してなかったと強く主張した。ドイツに反対して働いていたのであって、ドイツ軍のためにではない。
 純粋無垢にも、真実を語れば郷土に帰ることが許されるだろう、という考えが彼には固着していた。
 彼は、ソヴィエトには正義があると信じていた。
 彼が闘ったのは、そのためにではなかったのか?
 つぎに起こったことで、彼の想いは粉々になった。
 数日後に、尋問官が、自白書に署名するのに同意しなければ射殺する、と脅迫した。
 レフは、打ちのめされた。
 彼は思い出す。
 「私は、死ぬことを怖れなかった。
 しかし、何度も、私が愛した人々が自分に罪があったと考えるかもしれない、と怖れた。」//
 (42) レフは、頻繁に、スヴェータのことを想った。
 生きて彼女のそばにおれそうにない、という気がした。
 1945年9月10日、スヴェータの28歳の誕生日、尋問が弱くなっていたとき、レフは、彼女と再び逢うことを諦めて、観念して彼女に「さよなら」を告げた。//
 (43) 質問がとくに連続した夜のあとの朝早くに、レフは生き生きとした夢を見ながら、軽い眠りに入っていた。
 「私は、取調べの後で、まどろんでいた。ほとんど夜が明けていた。夢を見た。
 自国のどこかを歩いているがごとく、きわめて鮮明で明確だった。
 振り返って、後ろにいるスヴェータを見た。
 スヴェータは白く身なりを整えて、やはり白い服を着ている小さな女の子の側で、地上に跪いていた。そして、何かを自分の服に合わせていた。
 とても輝いていて、とても明瞭で、そして目が覚めた。」
 (44) 自白書に署名させることができなかったので、尋問官たちは、有罪を認めて署名するよう、策略をレフに仕掛けた。
 軍事裁判所が無罪と認定するだろうと保障したうえで、彼らは、レフはがきちんと検証しなかった尋問調書に署名させた。
 レフは尋問将校たちを信頼した。文書を彼に提示し、レフが主張したものとされる言葉を使っていたからだ。
 将校は尋問調書の文章を読み上げ、レフは簡単にそれに署名した。
 頁の下にある小さな文字のこの署名は、彼のその後の人生を変えることになる。
 おそらくは、彼は疲れていた。
 おそらくは、彼は純粋無垢だった。
 レフは知らなかったけれども、将校は調書の一部だけを彼に読み聞かせ-大逆の罪を認める部分は全くそうしないで-、それに彼は署名した。
 レフが間違いだったと気づいたのは、ようやく裁判になってからだった。//
 (45) 1945年11月19日、三人で構成される第八護衛軍のヴァイマル軍事裁判所は、祖国に対する大逆の罪で、ソヴィエト公務員に用意されている刑法典第58条第1項(b)にもとづいて、レフに、死刑を言い渡した。
 この判決は即座に、グラク(Gulag)の矯正労働収容所への10年間の服役に減刑された。-奴隷労働にもとづくシステムの利益を考慮して、ソヴィエト裁判官がしばしば行う譲歩だった。
 裁判は、全てで20分つづいた。//
 (46) 〔1945年〕12月、レフは、フランクフルト・アン・デア・オーデル(Frankfurt an der Oder)の軍事監獄へと移された。
 彼は、ソヴィエト同盟の監視のもとで護送車で送り還された。そこから、北方のペチョラ(Pechora) 労働収容所への三ヶ月の長い旅が始まった。//
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 第2章の全部、終わり。

2188/レフとスヴェトラーナ-第2章③。

 レフとスヴェトラーナ。
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 第2章③。
 (26) スヴェータは、Kazarmennyi Pereulok にある家族用共同住宅から、長い道程を路面電車でHighway of Enthusiasts にある研究所に通った。その中の三階にある古い実験室で仕事をしたが、窓からはモスクワ東部の工場の煙突群が見えた。
 そうした場所だったので、彼女は陰鬱になった。
 何度もそこを去ってどこか別の町で、別の都市であっても、研究職を見つけたいと考えたが、「レフとの連絡を失う怖れ」を感じた。
 モスクワは二人が接触した唯一の都市であり、またレフが帰って来ると望んだ場所だった。
 (27) レフに関する新しい知らせは何もなかったが、スヴェータには彼はまだ生きていると考える十分な根拠があった。
 NKVD(内務人民委員部〔ほぼ秘密警察〕)が1942年に叔母のオルガを訪れて、レフから便りはないかと尋ねた。
 彼らは、軍に勤務している者のために残されていたレフの部屋の持ち物を全部調査していた。
 カティンのドイツ軍に選ばれたスパイのうち何人かは、ソヴィエト領域に明らかに入って来ていて、逮捕された。
 それらスパイたちの一人が尋問を受けて、レフのことを言い、レフがドイツで大尉と会話していたことを思い出したに違いなかった。
 NKVD は、レフはモスクワに入っていてドイツのためにスパイ活動をしているとの想定のもとで、おそらくは動いていた。
 彼らは、スヴェータがモスクワに戻った後で、彼女を召喚して毎晩のように質問した。
 レフがすでにモスクワにいるならスヴェータと逢うだろう、と思っていたのだ。
 彼らはレフはスパイだと言い張って、彼を逮捕するのに協力するようスヴェータに迫った。その際に、拒否するなら重大なことになる、と脅かした。
 NKVD の司令部があるルビヤンカ(Lubianka)への出頭を命じられるのは、ぞっとすることだった。大テロルの記憶が、人々の心に鮮明に残っていた。
 スヴェータは、しかし、簡単には恐がらなかった。
 レフとの関係を守るために、ソヴィエト当局に従わないつもりだった。
 彼らの要請についには嫌気がさし、性格上の勇敢さと頑固な無分別さをとっさに示して、NKVD の男たちに、独りにさせてほしいと言った。
 彼女はのちに、レフに書き送った。
 「同一の親戚たち(NKVD 部員の暗号語)が私を困らせ続けたので少しばかり怒って、私はまだ貴方の妻ではない、我々が-一時間だけではなく十分な時間を使って-逢えば、問題は明瞭になる、と言いました。」
 (28) スヴェータはその間に、レフに関する情報はないかと尋ねる手紙を軍当局に書き送っていた。
 彼女が26歳の誕生日を迎えた直後、1943年9月10日に、知らせが届いた。
 彼女はのちに、レフに書き送った。
 「私の縁戚たちがみんな、私の誕生日のためにやって来ました。
 モスクワの父親の兄とその家族がいました。レニングラードの弟とその奥さん、従兄姉のニーナとその夫、彼らの子ども、なども。
 全てが素晴らしくて、いい時間を過ごしました。
 もちろん、そこにいない人たち全員の健康を祈って乾杯しました。
 すると全く突然に、大変なことが起こりました。-ターニャが死んだという連絡書が来たのです(ケーシャ叔父はそれを遮って取って、長い時間ママに見せませんでした)。」
 ターニャは、スターリングラードの軍事病院で、急性虫垂炎で死んでいた。
 のちに、もっと悪い知らせが飛び込んだ。
 叔母のオルガが、軍当局から公式に、レフが前線で「行方不明になった」という報告を受けた。
 きわめて多数の人々が「行方不明になった」1930年代のテロルの記憶から依然としてまだ回復しようとしている数百万の家族にとって、これは恐ろしい告知だった。
 この言葉(「propal bez vesti」)は、ほとんど特別の意味を持っていた。
 敵の捕虜となること(ソヴィエトの戦時法では「反逆罪」と同じ)。
 さらに悪いと、敵方への「逃亡」(「人民の敵」という犯罪)。
 あるいは、遺体が発見されないままでの死。
 多数の兵士たちが殺されたので、スヴェータはレフについて最悪のことを怖れたに違いなかった。
 「つらくて苦しい。だから、貴方がいなければ、もう誕生日をお祝いしない。
 知ってるように、矮星の存在は絶望的に痛ましい。電子シェル全体を失っていて、核だけしかないのだから。
 私の胸も空虚で、痛くて、心は消え失せそうだった。
 息をすることができない。
 何カ月もずっと、誰とも話すことができず、どこにも行けず、何も読まなかった。
 家にもどるとすぐに、壁に顔を向けたことだ。そして、いったいどれほど泣き続けたことだろう。夕方に、夜の間に、また朝に、苦しみは癒えない。」
 (29) スヴェータは、レフへの思慕や不安に懸命に耐えつつ、感情を詩に注ぎ込んだ。
 二つの彼女の詩が残っている。
 最初のものは「1943年冬」と記されていて、レフが行方不明になったと知った9月の「あの恐ろしい日」からさして離れていない頃のものだ。
 彼女はのちに詩について、「私に必要なのは誰かに話しかけることだ」と書くことになる。
 その詩は、レフを失うことについてのスヴェータの悲しみを表現している。
 「長いあいだ とば口に立っていた
  でも今は 心を決めて出発する
  道で 砕けた石の真ん中で
  平和と幸福の 徴しを見つけた
  あなたの扉に 架かっていた蹄鉄
  それを持って愉しみを あなたと分かち合う
  でも戦争が 二人を別々にして
  別々の道を それぞれが彷徨う
  どの森の中を通らなければならなかったの?
  どの石が あなたの血を吸っているの?
  ここには 孤独な年寄りの幽霊がいる
  脅かすように わたしの頭にかぶさる
  どんな形見を わたしに残してくれるの?
  長くつづいた夢の 苦い想い出なの?
  それとも別の女性が あなたの心を掴んでいるの
  九月のような情熱的な言葉で?
  あなたを信頼してよいの? あなた以外に誰を
  今は 私の知らない若い人なの?
  友達仲間は ますます少なくなった
  そのうちのどの人で 私は終わりになるの?」
 第二の詩は、短かった。
 これも、その冬に書かれた。
 最初のものよりも、レフの帰還への彼女の祈りが絶望的であることが記されている。
 「私は あなたを裁かない
  戦火の下にいるあなたを
  誰と 死はすでに
  一度ならず語り合ったのか
  でも 昼も夜も お祈りする
  聖母よ わたしのために あなたを守ってと
  こう 祈るだろう しかし
  お祈りの仕方を
  母も父も 教えてくれなかった
  だからわたしには 神への道が分からない
  愉しみ、悲しみ、あるいは嘆きの中で」
 (30) しかし、レフは、死んでいなかった。
 ヒトラーの最も苛酷な労働強制収容所の一つに、収監されていた。ソヴィエトの捕虜たちが厳しい監視のもとで毎日ピトラー軍需工場で働くために行進させられている、ライプツィヒの収容所にだった。
 レフは、ミュールベルクの監獄から送られてきた。ミュールベルクには、ポーランド国境で1943年7月に捕まったあとで、来ていたのだった。
 ピトラー工場での管理体制は、懲罰的だった。
 武装監視兵が作業場の全てのドアのそばに立ち、ドイツの作業長はいつでも使えるようにリボルバーを持っていた。
 1943-44年の冬の間、東部戦線で新たに敗北する度にドイツ軍の兵器需要が増え、労働者管理の体制はますます厳格になった。
 捕虜労働収容所が消耗しかつ紀律を失って生産力が落ちたことを理由として、ゲシュタポ(Gestapo)は、奴隷(slave)反乱の潜在的な指導者を探し出して根絶しようとした。
 (31) レフは、何度も尋問された。
 1944年5月のある日、26人の収監者グループとともにレフは拘束され、ライプツィヒの中央監獄へと送られた。そこでは全員が、ドアそばに便器と洗面器がある独房に閉じ込められた。
 一ヶ月の間、独房から出してもらえないまま監禁された。
 〔1944年〕7月4日、彼らは、ヴァイマル近郊の名高い強制収容所であるブーヒェンブァルト(Buchenwald)へと移された。そして、四層の寝棚のある、長くつづく隔離獄舎に入れられた。
 多様な国籍の収監者がいた。-フランス、ポーランド、ロシア、ユーゴスラヴ。それぞれについて、縞模様の制服に、異なる図案のバッジが付けられた。
 レフのバッジには、他のロシア人のと同じく、赤い三角形の上に「R」の文字があった。
 (32) その兵舎で一ヶ月経ったあと、ピトラー収容所出身グループは、ブーヒェンブァルトと関連する多様な補助収容所へと散っていった。
 レフは、ライプツィヒ近くのマンスフェルト(Mansfeld)軍需工場の作業旅団に送られ、そのあと、ヴァンスレーベン(Wansleben)・アム・ゼーの放棄された岩塩鉱山そばのブーヒェンブァルト=ヴァンスレーベン収容所に送られた。そこにレフは、9月の第一週に着いた。
 その岩塩鉱は、400メートル地下にある、連合国による空爆からも安全な一連の作業場へと転換されていた。そしてその作業場では、収監者たちによって、空軍用航空機のエンジンの一部が組み立てられることになっていた。
 岩塩鉱へのトンネルを掘ることに従事したあるフランス人収監者は、「それらの部屋ごとに、12人ほどの収監者が死んだ」、と想起する。
 レフは、そこで、つぎの七ヶ月間を働いた。
 管理体制は厳しく、11時間交替制で、苛酷な規制があった。
 「どんな非行や作業能率の低下に対しても、収監者は、ゴム製棍棒で20回鞭打たれた。それは身を切られるように痛かったが、身体に痕跡を残さない制裁の方法だった。//
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 ④につづく。

2184/レフとスヴェトラーナ-第2章①。

 レフとスヴェータ。
 これはフィクションまたは「小説」ではない。
 ***
 第2章①。
 (01) レフは3台のトラックとともにモスクワを出発した。その車は、クラスノプレスネンスカヤ義勇分隊に補給物品を運ぶものだった。
 数日前に分隊と離れたとき、その分隊はモスクワとスモレンスクの間のヴャジマ〔Viazma〕近くの場所を占拠していた。しかし、レフが戻ったときは、もう去っていた。
 〔ドイツの〕第三および第四装甲軍〔Panzer Group〕が戦車、銃砲と航空機でヴャジマを突然に包囲して北と南から攻撃したとき、前線は崩壊した。
 驚愕してバニックに陥ったソヴィエト軍兵士たちは、森林の中に散り散りに逃げ込んだ。
 レフは、無線通信機もなく、分隊を見つける方法が分からなかった。
 何が進行しているのか、誰も知らなかった。
 至るところに、混乱があった。
 (02)レフの部下たちは、分隊指揮部がいる位置を探そうと、ヴャジマの方向に運転した。
 暗くなり、地図もなかった。
 トラックの一台が壊れたので、レフは歩いて進んだ。
 深い森の中を通る道を歩いているうちに、前方に銃砲の音を聞くことができた。
 朝の早い時間に、村落に着いた。そこでは、彼の分隊の残存兵たちがドイツの戦車と激しい銃撃戦を繰り広げていた。ドイツの戦車は森林から出て路上に現れていたのだ。
 まもなくソヴィエトの砲兵たちは砲台を捨て(弾薬を残さなかった)、戦車がゆっくりと前へ進み、村落に入って、機関砲で家屋に向かって火を放った。
 レフは戦車と村落の間の畑の中にいて、身を伏せて、戦車がそばを通り過ぎるのを待った。そして、森林の中へと突進した。
 オー・デ・コロンの香りを嗅いだのは、まさにそのときだった。微小な傷の殺菌剤を彼のコートのポケットの瓶に入れていたのだが、その瓶が銃弾で壊れたのだ。幸いにも、彼には傷がなかった。
 (03) レフは、森深く入り込んだ。
 部隊を見失った数百のソヴィエト兵士たち全員が、樹木の中で同じ方向へと動いていた。
 レフはどこへと向かっているのか、分からなかった。
 持っていたのは、ピストル、シャベル鋤と自分用のナップザックだけだった。
 昼間は、ドイツ軍から隠れるように、地上に横たわっていた。
 夜になると、東へと、あるいは東だと思った方向へ、歩いた。ソヴィエト軍にもう一度加わろうと期待して。
 (04) 10日3日、三度めの夜に、ドイツ軍に占拠された村落の端にいるのに気づいた。
 暗闇になれば、すぐにそこから離れようと決めた。
 森林の中に戻って、溝を掘って入り込み、枝で身体を覆って、寝入った。
 膝の下の激しい痛みで、目が覚めた。
 小枝を通して、ライフルを持つ一人のドイツ兵だと思った者が正面にいるのを見た。
 レフは衝動的にピストルを出し、その男に向かって発射した。
 弾を撃つや否や、レフは頭の後ろを激しく殴打された。
 二人の兵士がいた。彼の頭を殴った男は銃剣で彼を刺して、生きているか死んでいるかを確かめていた。
 レフは武装を解除され、村落へと連れて行かれた。//
 (05) レフは一人ではなかった。
 10月の第一週に、ドイツのヴャジマ包囲軍は数万人のソヴィエト兵士を捕らえていた。
 レフは、スモレンスク外郊にある通過収容所、Dulag〔Durch-gangslager)-127に送り込まれた。そこには、数千人の収監者が、以前はソヴィエトの軍事貯蔵所だった暖房のない建物に詰め込まれていた。
 他の者たちと同様に、そこでレフは、一日に200グラムだけのパンを与えられた。
 数百人が寒さと飢え、あるいはチフスが原因で死んだ。チフスは11月から、伝染病的に蔓延していた。しかし、レフは生き延びた。//
 (06) 12月初め、レフは、Dulag-127からカティン〔Katyn〕近くの特別監獄へと移される20人の収監者団の一人となった。
 その一団はモスクワ出身の教育を受けた者で、ほとんどは科学者または技術者で、構成されていた。
 彼らは、レフが戦争前は学校か病院だったに違いないと考えた建物に入れられた。
 廊下の両側に大きな部屋があり-それぞれ40人まで収監できた-、監視者が生活する大きな部屋がその端にあった。
 収監者たちは、好遇された。肉、スープ、パンが与えられた。そして、彼らの義務は、比較的に軽かった。
 第三週めの終わりに、レフと仲間のモスクワ出身者は、身なりの良いロシア人のグループと一緒になった。ロシア人たちは、監視員がくれたウォッカを飲んでいた。
 酔っ払ったときに彼らの一人が、スパイとして訓練されたと口をすべらした。
 彼らはソヴィエトの戦線から戻ってきたばかりで、その仕事に対する報償を受けていたのだ。
 数日後に、カティンへと出立した。//
 (07) そのあとすぐ、レフと他の6人のモスクワ人は、カティンのスパイ学校に連れて行かれた。その学校で、ロシア語を話すドイツ人大尉が、スパイにして、ドイツ軍の利益となる情報を集めるためにモスクワに派遣する、と提案した。
 その人物はこう言った。これを呑むことだけが、Dulag-127でのほとんど確実な死から救われることとができる。かりに拒めば、Dulag-127に送り還す。
 レフは、ナツィスのためには働かないと決心していた。しかし、他の収監者の面前でそれを言えば、反ドイツ・プロパガンダだと非難されて最悪の制裁を受けるのではないかと怖れた。
 それでレフは、学校と大学で勉強した言語であるドイツ語で、その大尉に言った。「私はその任務を履行することができない」。
 ドイツ人が理由を尋ねたとき、彼はこう答えた。「後で説明します」。//
 (08) その大尉に別室に連れて行かれたのち、レフはロシア語で説明した。
 「私はロシア軍の将校です。その軍に、私の同僚たちに、反対の行為をすることはできません。」
 大尉は何も言わなかった。
 レフは、管理部屋(holding cell)に送られた。
 そこで知ったのは、他の3人もスパイになるのを拒否した、ということだった。
 かりにレフが最初に明言していれば、他の者たちの抵抗を勇気づけたとして非難されたかもしれない。//
 (09) 4人の拒否者はトラックの覆いのない後部に押し込まれ、高速道路を使ってスモレンスクに連れて行かれた。
 運転手に背を向けた監視者は、ずっとライフルを触っていた。
 トラックは、曲がって森に入っていった。
 レフは、射殺される、と思った。
 彼は、思い出す。
 「トラックはとても速いスピードで狭い森の中の道に入った。
 我々は処刑地に連れて行かれるに違いない、と想った。
 射撃隊の正面に立ってどう振る舞うか、を考えた。
 十分に自己抑制できるだろうか?
 自殺した方がよくはないか?
 トラックから飛び降りて、望むらくは樹木にぶつかることができるだろう。もし兵士が砲撃しても、その方がましではないか。」
 レフは飛び降りる準備をした。
 だがそのとき、金属缶をきちんと積んである小屋が樹木を通して見えるのに気づいた。
 ガソリンを入れるために停めようとしているのだ。射殺されるのではなかった。
 大尉が脅かしたように、彼らは、Dulag-127に連れ戻された。
 そこで彼らは、スパイ学校から帰っきたたと知っているに違いない別のソヴィエト収監者たちからの非難を免れようと、一緒になって努めた。
 (10) 数週間後の1942年2月、レフは、別の将校グループと一緒に、POW キャンプ(捕虜収容所)へと送られた。その収容所は、ベルリンの80キロ北東にあるプロイセン型温泉町のフュルステンベルク・アム・オーデル近くにあった。
 病気で汚染されたDulag-127からやって来た者であったために、彼らは隔離されて、木製の兵舎に収容された。その兵舎で、最初の数日間に、6人がチフスで死んだ。
 死ななければ、待遇は良く、収容所の条件は一般的には良好だった。
 レフは、所長と二人の将校から尋問を受けた。
 ドイツ語を上手に話すことのできる理由を、彼らは知りたがった。また、レフの仲間がそう言っているからとの理由で、ユダヤ人かどうかを尋ねた。
 レフが主の祈り(Lord's Prayer)を暗誦すると、ようやく彼らはユダヤ人ではないと納得した。//
 (11) 4月、レフは小グループのソヴィエト将校とともにベルリン郊外の「教育収容所」〔Ausbildungslager〕へと送られた。
 「教育」(training)の意味は、ナツィ・イデオロギーとヨーロッパのためのドイツ新秩序に関する講義を受けることだった。そうした思想を、他の強制収容所にいる彼らの仲間のソヴィエト人捕虜に伝えることが想定されていた。
 6週間、教師たちの講義を聴いた。教師たちのほとんどはロシアからのエミグレで、授業用原稿に忠実にゆっくりと読んだ。
 そして5月、将校たちは多様な収容所へと散って行った。
 レフは、オーシャッツ(Oschatz)のコップ・ガーベルラント(Kopp and Gaberland)軍需工場に付属した作業旅団(work brigade)に組み入れられた。//
 (12) オーシャッツは、ライプツィヒとドレスデンの間の、捕虜強制労働収容所(Stammlager、又は略してStalag)がある巨大な工業地域の中心地だった。
 レフは、軍監察部隊の通訳として働かされ、そのあと8月に、ライプツィヒのHASAG(フーゴ・シュナイダー株式会社)工場に移された。
 HASAGは、ドイツ陸空軍の兵器を製造している大きな金属工場群だった。
 1942年夏頃には、このHASAGに、多様な民族(ユダヤ、ポーランド、ロシア、クロアチア、チェコ、ハンガリー、フランス)の約1万5000人の捕虜がいるいくつかの捕虜強制収容所があった。二つの地区があって、一つは「ロシア」、もう一つは「フランス」と名付けられていた。
 レフはフランス地区に自分だけの箱部屋を与えられて住み、E・ラディク(Eduard Hladik)というチェコ人付きの通訳を割り当てられた。この人物の役目は、捕虜強制収容所内部での紛争を処理することだった。
 ラディクの母親はドイツ人だったが、彼は自分をチェコ人だと思っていた。
 彼は、ドイツによる1938年のチェコ併合の後に、HASAG 収容所の護衛兵としてドイツに徴用された。
 ラディクは、捕虜強制収容所に対して気の毒さを感じた。そして、捕虜たちがドイツの勝利のために働いているとき、彼らをひどく扱うという感覚を理解することができなかった。
 レフは収監者として、ライプツィヒの街路でラディクに付き添っているとき、落ち込みつつ歩かなければならなかった。
 かりに通りすがりの者がレフを侮辱すれば、ラディクはこう言ってレフを守っただろう。「答え返すことのできない人間に悪態をつくのは簡単だよ」。//
 (13) ラディクは、レフを信頼できる人物だと見ていた。
 レフの性格には、彼について責任がある人々を魅惑する何かがあった。-彼の誠実さはたぶん又はきっと、同じ言語で人々と話すことができる、ということだけによって感じたのかもしれないが。
 チェコ人のラディクはレフの助けとなり、彼にドイツの新聞を与えた。捕虜強制収容所の者へのこのような行為は、軍事情勢に関する正確な報告を示してしまうがゆえに禁じられていた。また、-強制収容所で見せられるプロパガンダ用の紙と異なり-スラヴ人は「二級人間だ(sub-human)」と書いてあったからだ。
 感染防止を名目にしてラディクはレフを兵舎区域の外に連れ出して、自分の友人を訪れる際に連れて行きすらした。その友人はE・レーデル(Eric Rödel)という社会主義者で、ロシア語を少し話し、ソヴィエトの放送局を受信して聴くことのできるラジオを持っていた。
 レーデルは元SA(突撃隊)将校の上の階に住んでいたので、そうした聴取はきわめて危険なことだった。
 レーデルとその家族は、レフを貴重な客として受け入れた。
 レフは、思い出す。
 「我々は長い間歩いた。<中略>すると、エリック〔レーデル〕はラジオを合わせ、私はモスクワからの『最新ニース』を聴いた。それはソヴィエト情報局からの軍事速報だった。
 今では番組の内容を記憶していない。しかし、-奇妙なことに十分に-放送上の一つの文章が私の心を捉えた。『ジョージアでは、茶葉の収穫が行われた。』」
 (14) やがてドイツは、ラディクを疑うようになった。
 別の護衛兵の一人が彼を非難して、反ドイツ活動をしていると追及した。ラディクは尋問を受けるために召喚された。
 彼は、ノルウェイの前線へと送られた。
 通訳として働き続けたくなくなって、レフは、収容所当局に対して、自分のドイツ語は不正確である可能性が十分にあるという理由で、義務を免じてくれるよう申し込んだ。
 「プロパガンダの仕事をする能力がない。なぜなら、私には説得の技巧がない-科学者にすぎないのだから、とも私は述べた」。
 11月〔1942年〕に、レフは、オーシャッツのコップ・ガーベルラント軍需工場に付属の作業旅団へと送り還された。//
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 第2章②へとつづく。

2180/レフとスヴェトラーナ-第1章④。

 レフとスヴェトラーナ。
 第1章④。

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 (34) 1940年1月、レフの祖母が死んだ。
 スヴェータは、レフがヴァガンコフスコエ墓地に彼女を埋葬しているとき、彼のそばにいた。
 (35) その翌月、レフは、(ロシア語でFIANとして知られる)レベデフ物理学研究所の技術助手になった。
 彼はまだ大学の最終学年にいたが、FIANで仕事を始めたばかりの物理学部時代の友人のナウム・グリゴロフから推薦されたのだった。これは、研究の途に入るよい機会だった。
 FIANという名は、ロシアの物理学者で物体に反射されるか吸収される光が与える圧力を最初に測定したピョートル・レベデフに因んでいた。そのFIANは、原子物理学研究の世界的中心の一つで、その研究計画の先端には宇宙線研究があり、レフはそれに参加するようになった。
 レフは昼間は勉強していたため、実験所では夕方勤務で仕事をした。
 スヴェータは、遅くまで図書館にとどまり、物理学部からミウスキ広場のFIANまで3キロを歩くことになる。
 彼女は中庭のベンチに座って、レフを待った。レフはいつもだいたい8時に姿を見せて、彼女の家まで一緒に歩いた。
 あるとき、レフは疲れていて実験所で眠り込んでしまい、9時過ぎまで目覚めなかった。
 スヴェータはベンチで、じっと彼を待った。
 寝入ってしまったと彼が言ったとき、スヴェータは笑った。
 (36) その夏、レフは、コーカサスのエルブルス山に科学調査旅行に出かけた。
 FIANは高山の中に研究基地をもっていて、レフのグループはそこで、宇宙線が地球の大気圏に入ってくる間際のその効果を研究することができた。
 レフはその基地に3カ月いた。
 スヴェータに書き送った。
 「山を登って、昨日に早くも我々の小屋に入った。雄大だ。恐ろしく強い願望が出てきて、忘れられない思い出になる。」
 その間のスヴェータは大学の夏季休暇で、クレムリン近くにコンクリート造りで建設されていたレーニン図書館で働いていた。そして、レフに手紙を書いた。
 「図書館の前には可愛らしい広場がある。知ってますか?
 そこには灌木や花が、いっぱい植えられている。
 わたしの誕生日には、誰が花束を贈ってくれるつもりかしら?」
 レフの予定では、9月1日にコーカサスから帰ってくることになっていた。その日はスヴェータが23歳になる10日前で、彼は誕生日にはいつも花を贈っていた。
 その日までは、スヴェータは手紙を読んで済ますしかなかっただろう。
 「1940年8月3日
 レヴェンカ!
 今日家に帰って最初にしたかった事は、自分宛ての手紙が来ていないかと尋ねることだった。
 でも、きみに関して、みんなが僕を慰め始めた。それで僕は、待っているのはイリーナのハガキだというふりをした。
 しかしそのときにターニャが-とても強調して-、イリーナからのハガキはないけど、きみからのものがあるに違いないと知ってる、と言った。
 それでターニャにくっついて部屋から部屋を回り(きみが好きなように部屋を回れるように、扉はみんなまだ開けられていた)、ターニャに、きみからの手紙をおくれよと頼んだ。
 きみのママは最後には僕を憐んで、きみの手紙を僕に渡してくれた。」
 スヴェータは、自分についての新しいニュースを彼に書いた。
 彼女は、図書館での常勤の仕事を提示されていた。
 「私よりいい人物を、彼らは見つけないでしょう。
 部屋のレイアウト、部屋の押入、戸棚、みんな私は知っている。<中略>
 内外の定期刊行物を知っていて、ローマン・アルファベットの知識でもって、中国語以外のどの言語で書かれていても、雑誌の月、年、名前と価格を、私は探し出すことができる。<中略>
 私には肩の上に頭があって、最優秀の脳でいっぱいではなくとも、綿毛が詰まっているわけではない。<中略>
 ヴェラ・イワノーヴァは、一年後にはグループ主任になれる、と言いました。
 一生ずっと図書館に居続けるのを望むのなら、これは経歴としてはよいスタートでしょう。
 でも、私は一生全部を図書館で過ごしたくはない。<中略> 月曜日に、断わるつもりです。
 レフ、私の健康のこと、心配しないで。
 私の気分が私の身体状態によっているか、身体状態が気分によっているかのどちらかだと、貴方に言いました。
 ともかく、貴方は私が手書きしたものから、私は冷静で困難を抱えていないと分かるでしょう。私には痛みも、病気のような何も、ないのです。
 ママは、私には肺炎がある、と言います。
 その理由-私が痩せたこと。
 でも、知っているでしょう。何よりも困難だと考えていたダイエットのおかげです。そして他には、どんな兆候もありません。」//
 (37) 1941年6月、レフは、FIANの同僚たちとエルブルス山への第二次調査旅行に行くことになっていた。
 6月22日の日曜日の朝、彼のチームは研究所にいて、旅行の準備を終えようとしていた。
 レフはよい気分だった。
 大学での最終試験に合格したばかりで、学部委員会からこう告げられていた。卒業生のうち4人だけを選んで、宇宙線研究の計画のためにFIANに進むよう仕事を割り当てた、と。
 レフは、そのうちの一人だつた。
 彼は、6月6日の集合場所から、スヴェータの家族に手紙を書いた。
 「いまここは、かなり混乱しています。
 それで、我々の見通しについて、正確なことは何もお知らせできません。
 多少とも分かっているのはただ一つ、徴兵委員会が軍事業務に我々を召喚するままでは、ここで生活して研究をするだろう、ということです。」//
 (38) レフは、戦争の勃発に動揺していた。
 数日の間、これが何を意味するのか考え及ぶことができなかった。
 モスクワでの研究と生活、スヴェータとの関係。-全てが今や空中に消え失せた。
 「我々は、戦時にいる」。彼は不安げに内心で語りつづけた。//
 (39) レフは前線へと自発的に志願していたけれども、責任ある地位に就くのを怖れていた。
 スターリンのテロルによってソヴィエト軍は絶望的に将校の数に不足しており、レフのような新参者は、戦闘をする兵士たちを指揮すべく召喚された。
 わずか2年の軍事教練の後で、レフは、青年少尉の階位に達していた。これが意味したのは、30人の兵士から成る小隊の責任者に配置される可能性がある、ということだった。だが、彼には、戦術上の自信がなかった。
 レフは最終的には、6人の学生と2人の大学卒業生から成る小さな補給〔兵站〕部隊の指揮者に任命された。
 自分のように経験がなくも彼が失策を冒しても労働者階級出身の兵士たちよりは自分を許してくれるだろうと考えて、彼は、学生たちの小隊であることを幸運だと感じた。//
 (40) レフの部隊は、モスクワの兵站基地から前線の通信大隊へと補給物品を移すこととされていた。
 彼の指揮のもとに、2人のトラック運転手、2人の作業員、料理人、会計官および在庫管理者がいた。
 前線に向かう途中で、彼らは、ソヴィエトのプレス報道によるプロパガンダが伝えない混沌とした状況を見た。
 モスクワでは、ソヴィエト軍はドイツ軍を撃退していると報道されていた。しかし、レフは、ソヴィエト軍が混乱しつつ撤退していることを知った。森の中は兵士や民間人でいっぱいで、多数の道路が、モスクワ方面の東へと逃亡する避難者で塞がれていた。
 莫大な数の人々が、殺されていた。
 7月13日までにレフは、ドイツ軍によって包囲された都市、スモレンスク近くの森に到達した。
 「スヴェティーク、我々は森の中にいて、日常的な仕事をしている。<中略>
 私はここで、全員に食糧を与えるものと考えられている。全員とは、たんに喚くだけで食べたいものを求めてこない、ほとんどが高級の将校たちも含めて、だ。<中略>
 ある程度はよい点もある。-食料庫までの旅の間は、比較的に自由だ。
 スヴェータ、きみが僕に手紙を書き送ることのできる場所は、絶対にない。-みんな、ある日からその翌日まで、自分たちがどこにいるのかを知らない。
 きみから報せを聞く唯一の方法は、旅の間に立ち寄ってきみの家で逢うことだ。
 それがいつになるのかは、分からない。」
 (41) モスクワと前線の間の何回かの旅で、レフは、兵士たちとその縁戚者のために手紙を運ぶことになる。
 彼はまた、陸軍倉庫を訪れている間に、スヴェータと家族に逢っただろう。
 スヴェータには逢えなかったが両親に逢えたのは、7月中の旅の1回だった。二人はレフに「食べ物と水を与え」てくれた。そのとき彼は、スヴェータ用に、手紙を残した。
 9月初めの2回めの訪問のときは、スヴェータは大学に戻っていた。
 レフが彼女の家族と連絡を取っておくのは、彼女と過ごすのとほとんど同様に重要なことだった。自分がどこかに属している、と感じさせたからだ。
 最後の訪問の一つのとき、スヴェータの父親は、彼に一枚の紙を渡した。それにレフは、4人の親しい友人とソヴィエト同盟の多くの都市にいる親戚の者たちの住所を記した。これらの住所にいるのは、レフが前線にいて不在の間にスヴェータとその家族がモスクワから避難する場合に、彼が助けを求めるはずの人々だった。
 レフは、多くを語らなかった。しかし、スヴェータの父親が、レフを息子だと考えていることは明瞭だった。
 (42) 最後にモスクワを訪れたことがあった。
 レフには、これがスヴェータと逢う最後の機会だと分かっていた。前線の大隊に送る補給物品の貯蔵はもう何もない、と聞かされていたからだ。
 運転手にあとで会おうと言って、レフは貯蔵庫からスヴェータの家へと走った。
 彼女は家にいそうではなかった-一日のど真ん中だった。しかしともあれ、誰かに別れを告げるために行く必要があった。
 たぶん、スヴェータの母親か妹なら、家にいるだろう。
 レフは、ドアをノックした。扉を開けたのは、スヴェータの母親のアナスタシアだった。
 レフは玄関廊下に入り込んで、モスクワにあと数時間だけいる、その後で離れて前線へと出発する、と説明した。
 彼は、感謝と別れの言葉を告げたかった。
 レフは、母親にキスをすべきかどうか分からなかった。
 アナスタシアは、大して温かみや感情を示さなかった。
 彼はお辞儀をして、玄関ドアへと向かった。
 しかし、母親が彼を止めた。「待って。貴方にキスをさせて」と彼女は言った。
 彼女は、レフをしっかりと抱き締めた。
 彼は、母親の手に接吻をし、そして去った。
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 第1章、終わり。もともと、各章に表題はない。

1972/L・コワコフスキ著第三巻第五章・トロツキー/第5節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の試訳部分は、第三巻分冊版のp.206-p.212。合冊版では、p.952-p.957。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。
 第5節・ファシズム、民主主義および戦争。
 (1)トロツキーの思考がいかに教条的で非現実的だったかは、近づく戦争に関する1930年代の論評やファシストの脅威に直面しての行動をどう奨励したかによって判断することができるかもしれない。
 (2)彼は、戦争が勃発した数日後に、こう書いた。
 「レーニンの指導のもとで労働者運動の最良の代表者たちが考え出した世界戦争に関する原理的考え方を、些かなりとも変更する理由を認めない。
 どちら側の陣営が勝利しようとも、人類(humanity)は後方に投げ棄てられるだろう。」
 (<著作集, 1939-1940年>, p.85.)
 この文章-ドイツによるポーランド侵攻とイギリス・フランスの宣戦布告のあとで、かつ9月半ばのソヴィエトによる侵略の前に書かれていた-は、ナツィ・ドイツ、ファシスト・イタリア、ポーランド、フランス、イギリスおよびアメリカ合衆国のような資本主義諸国間の戦争という主題に関する、トロツキーの見方の典型だった。
 彼は長年にわたって、疲れを知らないがごとく、つぎのように想定するのは致命的な幻想で、資本主義者の策略だ、と繰り返した。すなわち、ファシズムに対抗する「民主主義」諸国間の戦争はあり、かつあり得る、また、勝利するのがヒトラーかそれとも西側民主主義諸国の連合かは何らかの違いを生み出す、と想定することだ。なぜなら、どちらの側も工場を国有化していないのだから、と。
 交戦諸国のプロレタリアートは、ヒトラーと闘う自国の反動的政府を助けるのではなく、レーニンが第一次大戦の間に強く主張したように、自国政府に反抗しなければならない。
 「国家(national)防衛」という呼びかけは、極度に反動的で、反マルクス主義的だ。
 問題とすべきはプロレタリア革命であって、あるブルジョアジーの別のそれによる敗北ではない。
 (3)トロツキーは、<戦争と第四インターナショナル>と題する1934年7月の小冊子で、こう書いた。
 「国家防衛といういかさまは、可能ならばどこでも、民主主義の防衛という追加的いかさまで覆い隠されている。
 マルクス主義者は帝国主義時代の今でも民主主義とファシズムを区別して、つねに民主主義に対するファシズムの浸食を拒否しようとするのか? そして、プロレタリアートは戦争が起きている場合に、ファシスト政府に対抗して民主主義的政府を支持しなければならないのか?
 芳香に充ちた詭弁だ!
 我々は、プロレタリアートの組織と手段でもって、ファシズムに反対して民主主義を防衛する。
 社会民主党とは反対に、我々はこの防衛をブルジョアジー国家に委ねはしない。<中略>
 このような条件のもとでは、労働者の党が脆弱な民主主義という外殻のために「その」民族的帝国主義を支持することは、自立した政策方針を放棄して、労働者の意気を排外主義でもって喪失させることを意味する。<中略>
 革命的前衛は、自国の「民主主義」政府に反抗し、労働者階級の諸組織との統一戦線を追求するだろう。決して、敵対する国と戦争を行う自国の政府との統合ではない。」
 (<著作集, 1933-1934年>, p.306-p.307.)
 (4)トロツキーは1935年の論文で、つぎのことを強調した。
 第三インターナショナルは、社会愛国主義とばかりではなく、つねに平和主義(pacifism)と闘ってきた。つねに、軍縮、調停、国際連盟等々と闘ってきたのだ。
 しかし今では、これら全てのブルジョアジーの政策を是認している。
 <ユマニテ〔L'Humanité〕>は「フランス文明」の防衛を呼びかけることによって、プロレタリアートを裏切り、民族の立場をとり、労働者がドイツ帝国主義と闘う自国の政府を助けるように誘導する、ということを明らかにした。
 戦争は、資本主義の産物だ。そして、現在の主要な危険はナツィズムから発生している、と主張するのは馬鹿げている。
 「この途はすみやかに、ヒトラー・ドイツに対抗するフランス民主主義の理想化に到達する」(G. Breitman & B Scott 編<レオン・トロツキー著作集, 1934-1935年>(1971年), p.293.)。
 (5)トロツキーは戦争の一年前に、民主主義とファシズムは搾取のために選択可能な二つの装置にすぎない、と宣告した。-残余は全て、欺瞞なのだ。
 「実際のところ、ヒトラーに対抗する帝国主義的民主主義諸国の軍事ブロックとは何を意味するのだろうか?
 ヴェルサイユ(Versailles)の鎖の新版だ。それよりもっと重く、血にまみれ、もっと耐え難いものだ。<中略>
 チェコスロヴァキアの危機はきわめて明瞭に、ファシズムは独立した要因としては存在していないことを暴露した。
 ファシズムは帝国主義の道具の一つにすぎない。
 『民主主義』は、それがもつもう一つの道具だ。
 帝国主義は、これら二つの上に立っている。
 帝国主義はこれらを必要に応じて作動させ、たまには相互に対向的に平衡させ、たまには友好的に宥和させる。
 帝国主義と同盟関係にあるファシズムと闘うことは、ファシズムの爪や角に対抗して悪魔と同盟して闘うのと同じことだ。」
 (<著作集, 1938-1939年>, p.21.)//
 (6)要するに、民主主義対ファシズムの闘いなるものは存在しない。
 国際的条約はこの偽りの対立を考慮していない。イギリスはイタリアと協定するかもしれないし、ポーランドはドイツとそうするかもしれない。
 競い合う当事者がどの国であれ、来たる戦争は国際的なプロレタリアート革命を生み出すだろう。-これこそが、歴史の法則だ。
 人類は数カ月以上は戦争に耐えることができないだろう。
 第四インターナショナルに指導されて、民族的諸政府に対する反乱が至るところで勃発するだろう。
 いずれにせよ戦争は、民主主義の全ての痕跡を一掃し、その結果として、民主主義的価値の防衛を語ることは馬鹿げたものになる。
 パレスチナのトロツキスト・グループは、ファシズムはその当時に抵抗しなければならない主要な脅威だ、そして、ファシズムと闘っている諸国で敗北主義を説くのは間違っている、と提案した。
 トロツキーはこれに答えて、こうした態度は社会愛国主義にすぎない、と書き送った。 全ての真の革命家にとって、主要な敵はつねに自国にある、と。
 彼は、1939年7月の別の手紙で、こう宣告した。
 「ファシズムに対する勝利は重要だが、もっと重要なのは、資本主義の断末魔的苦しみだ。
 ファシズムは新しい戦争を加速させ、そして戦争は、革命運動を著しく促進させるだろう。
 戦争が起きる場合、全ての小規模の革命的中核は、きわめて短期間に決定的な歴史的要素になることが可能だし、そうなるだろう。」
 (<著作集, 1938-1939年>, p.349.)
 第四インターナショナルは、1917年にボルシェヴィキが果たしたのと同じ役割を、来たる戦争で果たすだろう。しかし今度は、資本主義の崩壊が完全で最終的なものになるだろう。
 「そのとおり。新しい世界戦争は絶対的な不可避性をもって、世界革命と資本主義体制の崩壊を惹起させるだろう」(同上、p.232.)。
 (7)戦争が実際に始まったとき、こうした問題に関するトロツキーの見解は変わらなかったばかりか、むしろ強くなった。
 彼は1940年6月に発行された第四インターナショナルの宣言文で、つぎのように語った。
 「『祖国』の防衛のために出兵している社会主義者たちは、封建体制を、自分たち自身の鎖を防衛するために結集した〔フランスの〕ヴァンデ(Vendée)の農民たちと同じ反動的な役割を演じている」(<著作集, 1939-1940年>, p.190.)。
 ファシズムに対抗する民主主義の防衛について語るのは無意味だ。ファシズムはブルジョア民主主義の産物であり、防衛されなければならないのは決して「祖国」ではなく、世界のプロレタリアートの利益なのだ。
 「しかし、戦争で最初に打ち負かされるべきであるのは、完全に腐敗している民主主義体制だ。
 それが決定的に瓦解する際には、その支えとして役立った全ての労働者組織を引き摺り込むだろう。
 改良主義的労働組合に残された余地はないだろう。
 資本主義的反動は、それら労働組合を容赦なく破壊するだろう」。
 (同上、p.213.)
 「しかし、労働者階級は現在の条件では、ドイツ・ファシズムとの闘いで民主主義諸国を助けることを余儀なくさせられるのではないか? 」
 この態様は、広汎な小ブルジョア層によって提起される疑問だ。そうした層にとってプロレタリアートはつねにあれやこれのブルジョアジー諸党派の予備的な道具にすぎない。
 我々はこうした政策を、怒りをもって拒絶しなければならない。
 当然ながら、鉄道列車の多数の車両の間に快適さに違いが存在するように、ブルジョア社会での政治体制の間には違いが存在する。
 「しかし、列車全体が奈落の底へと飛び落ちているとき、衰亡する民主主義と凶悪なファシズムの区別は、資本主義体制全体の崩壊に直面している際には消失する。<中略>
 人類の究極的な運命にとって、イギリスとフランスという帝国主義国の勝利は、ヒトラーやムッソリーニのそれと同様に不愉快なものだろう。
 ブルジョア民主主義体制が救われることはあり得ない。
 労働者は、外国のファシズムに対抗する自国のブルジョアジーを助けることによっては、自分自身の国でのファシズムの勝利を促進することができるだけだ。」
 (同上、p.221.)//
 (8)ここで再び取り上げるが、ヒトラーによる侵攻の当時のノルウェイの労働者たちに対する、トロツキーの助言がある。
 「ノルウェイの労働者は、ファシストに反対して『民主主義』陣営を支援すべきだったのか? <中略>
 これは現実には、最も未熟な失態となっただろう。<中略>
 世界的な観点から、我々は連合側陣営もドイツ陣営も支持しない。
 従って、我々には、ノルウェイ自身が一時的な手段としてどちらか一つを支持することについて、些かなりとも正当化することのできる根拠がない。」
 (<マルクス主義の防衛>, p.172.)
 (9)こうしたことからすると、ポーランド、フランスあるいはノルウェイの労働者たちがトロツキーの宣言文を読んでそれに従っていたとすれば、彼らはナツィの侵略があった際に自国の政府に対して武器を向けていただろう。ヒトラーに支配されようと自国のブルジョアジーに支配されようと、違いはなかったのだから。
 ファシズムは、ブルジョアジーの一つの装置だ。ファシズムに反対する全ての階級の共同戦線の形成を語るのは馬鹿げている。
 第一次大戦の際にレーニンは同様に、敗北主義を説いた。そのようにして、革命が勃発したのだ。
 トロツキーはつぎのごとく考えていたと見られることは、看取しておく必要がある。すなわち、彼にとって、資本主義諸国は階級利益で結ばれているがゆえに、戦争とは全ての資本主義諸国のソヴィエト同盟に対する闘いだった。
 しかしながら、ソヴィエト同盟が一つの資本主義勢力に対抗している別の資本主義勢力と同盟するとすれば、その戦争はきわめて短期間のものでのみあり得るだろう。なぜなら、1917年のロシアでのように、敗北した資本主義国家でただちにプロレタリア革命が勃発するだろうから。そして、二つの敵対する勢力はそのときには、プロレタリアートの祖国に対抗して同盟するだろう。//
 (10)かくして、トロツキーにとっては、戦争に関する一般的結論は過去の結末だった。
 資本主義は最終的に崩壊し、スターリニズムとスターリンは一掃され、世界革命が勃発し、第四インターナショナルがただちに労働者の精神に対する優越性を獲得して最終的な勝利者として出現するのだ。
 これは、トロツキーがSerge、Souvarine、Thomas の批判に答えて、つぎのように書いたとおりだ。
 「資本主義社会の全政党、その全ての道徳家と全ての追従者たちは、差し迫る大厄災の瓦礫の下で滅びていくだろう。
 ただ一つ生き残るのは、世界的社会主義革命の党だ。たとえそれが、先の大戦中にレーニンやリープクネヒト(Liebknecht)の党が存在しないように見えたのとちょうど同じく、見識のない分別主義者たちには今は存在していないように見えるかもしれないとしても。」
 (<彼らの道徳と我々の道徳>, p.47.)
 追記すれば、トロツキーは、最大限の確信をもって、多数の具体的な予言を行った。
 例えば、スイスが戦争に巻き込まれるのを避けるのは絶対に不可能だ。
 民主主義政体はどの国でも残存することができず、「鉄の法則」により必ずやファシズムへと発展するに違いない。
 かりにイタリアの民主主義が復活するとしても、続くのはせいぜい数カ月で、プロレタリア革命がそれを一掃する。
 ヒトラーの軍隊は労働者と農民で成り立っているので、それは次第に被占領諸国の人民と同盟するに違いない。なぜなら、歴史の法則が、階級による紐帯は他の何よりも強いことを教えているからだ。
 (11)トロツキーは1933年8月に、ファシストの危険性に関する一般的性質に関して、きわめて興味深い分析を提示した。
 「理論上は、ファシズムの勝利が疑いなく証明するのは、民主主義政体は疲弊し切った、ということだ。
 しかし、政治的には、ファシスト体制は民主主義に関する歪んだ見方(prejudices)を維持し、再生させ、若者たちの中にそれを注入し、短い間はそれに最強の力を授けることができすらする。
 正確に見れば、このことの中にこそ、ファシズムの反動的な歴史的役割のうちの最も重要な表現行動の一つがある。」
 (<著作集, 1932-1933年>, p.294.)
 「『ファシスト』独裁体制による隷属的支配のもとで、民主主義の幻想は弱められることはなく、却って強くなった」(同上、p.296.)。
 換言すれば、ファシズムの脅威は、民衆が民主主義を求めて長くそれに従属し、そうして、民主主義に関する歪んだ見方が駆逐されるのではなくて維持される、ということにある。
 ヒトラーは、民主主義を破壊することを困難にするがゆえにこそ、危険なのだ。//
 (12)トロツキーはその死の直前に、戦争の進展に関する自分の予言を再確認し、同時に、修辞文的に、その予言類が実現しなかった場合に何が起きるだろうかという問題を設定した。
 彼は、マルクス主義の破産(bankruptcy)を意味するだろう、とそれに対してこう回答した。
 「我々が固く信じるようにこの戦争がプロレタリア革命を惹起させるならば、それは不可避的にソヴィエト連邦の官僚制度の打倒と、1918年よりもはるかに高い経済的かつ文化的基盤にもとづくソヴィエト民主主義の再生を、到来させるに違いない。<中略>
 しかしながら、現在の戦争が革命ではなくプロレタリアートの衰退を呼び起こすならば、それとは異なる選択肢が可能性として残る。すなわち、独占資本主義のいっそうの衰亡、それの国家との融合、まだ独占資本主義が存続している全てのところで、民主主義政体が全体主義(totalitarian)体制にとって代わられること。
 プロレタリアートが社会を指導する力を自らのものにすることができないならば、こうした条件のもとで現実には、ボナパルト主義者のファシスト官僚制から、新しい搾取階級が生成する可能性がある。
 全てが指し示していることによれば、これは、文明の消滅を意味する、衰亡の体制になるだろう。
 最終的には、つぎのことが証明されるという結果をすることができるかもしれない。すなわち、先進資本主義諸国のプロレタリアートはかりに権力を獲得したとしてもそれを維持する力を持たず、ソヴィエト連邦でのように特権をもつ官僚機構にそれを譲り渡してしまう、ということ。
 我々はそのときに、つぎのことを承認せざるをえないだろう。すなわち、官僚制への逆戻りは、国の後進性に由来するのでも帝国主義諸国という外環に起因するのでもなく、プロレタリアートには支配階級になることができる力がないという、その生来の性質に根ざしている。  そしてまた、その根本的な特性において、ソヴィエト連邦は世界的規模での新しい搾取体制の先駆者だ <中略>、ということが確定するのが、遡って必然的なものになるだろう。
 しかしながら、この第二の展望がいかに煩わしいものだったとしても、かりに世界のプロレタリアートには現実には、歴史の発展方向に設定されたその使命を達成する力がないということが証明されるならば、つぎのことを認めること以外には、いっさい何も残らないないだろう。
 つまり、資本主義社会の内部的矛盾にもとづいた、社会主義者たちの根本方針(programme)は、ユートピア(夢想郷、Utopoia)として結末を迎える。」
 (<マルクス主義の防衛>, p.8-p.9.)
 (13)これは、トロツキーの著作集の中に見い出すことのできる異様な論述だ。
 彼は当然に、悲観的な第二の選択肢は非現実的なものだと自信をもって述べ、一般的な命題としではなく進行中の戦争の結果として、世界革命は不可避だと考える、と続けている。
 しかし、もう一つの仮説を心に描いたという事実だけでも、彼が別の箇所で表明する絶対的な勝利の確信を述べている上のような文章と比較するならば、一定の歴史研究者の注目を向けさせるものだと思える。
 (14)トロツキーは、資本主義は自らを改良する力をもつという考えを受け入れなかった。
 彼には、ルーズヴェルトの「ニュー・ディール」は、絶望的で反動的な試みで、失敗するように運命づけられている、と思えていた。
 彼はさらに、技術発展の最高の地点にまで達しているアメリカ合衆国はすでに共産主義への条件を成熟させている、と考えた。
 (彼は1935年3月のある論文で、アメリカが共産主義になればその生産費用を80パーセント削減するだろうとアメリカ国民に約束した。また、その死の直前に書いた「戦時中のソヴィエト連邦」で、ソ連は計画経済によってすみやかに毎年200億ドルへと国家収入を高め、全国民のための繁栄を確保するだろう、と宣言した。)
 <裏切られた革命>にこう書かれているのを、我々は読む。
 誰かが資本主義は10年または20年以上長く成長することができると想定するとすれば、その者はさらには、つぎのことを信じなければならないことになる。
 ソヴィエト同盟の社会主義には意味がない(make no sense)、そして、マルクス主義者は自分たちの歴史的運動に関する判断を誤ってきていた(misjudge)。なぜなら、ロシア革命はパリ・コミューンのような偶発的実験にすぎなかった、と位置づけられるだろうからだ。//
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 つぎの第6節の表題は、<小括(conclusions)>。

1893/L・コワコフスキ著・第三巻第四章第1節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流=Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism(原書1976年、英訳1978年、合冊版2004年)、の試訳のつづき。
 第三巻第四章・第二次大戦後のマルクス=レーニン主義の結晶化(crystallization。独語訳版はAusformung=形成)。
 1978年英語版第三巻 p.117-p.121、2004年合冊版p.881-p.884。
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 第1節・戦時中という幕間。
 (1)1930年代の終わりまでに、マルクス主義は、ソヴィエトの党と国家の教理という、明瞭に定められた形態をとるに至っていた。
 その公式名称は、マルクス=レーニン主義(Marxism-Leninism)だった。これは、すでに説明してきたように、スターリンの個人的イデオロギー以外の何ものをも意味しなかった。マルクス、エンゲルスおよびレーニンからの理論の細片をわずかに含んではいた。しかし、四人の「古典的」教師たちが「発展」させ、「豊かに」した単一のイデオロギーだと称した。
 マルクスはこうして「古典的マルクス=レーニン主義」の中核へともち上げられ、スターリンの先駆者だとされた。
 マルクス=レーニン主義の本当(true)の内容はスターリンの諸著作が、もっと個別に言えば<小教程>が、解説した。//
 (2)すでに述べたように、全体主義国家を支配する階層の利益を抜きん出て映し出すこのイデオロギーの際立つ特質は、極端な厳格性と極端な融通性を結合していることだ。
 相反するように見えるこれら二つの性質は、お互いを補強し合っている。
 微小の逸脱すらなく反復するよう全ての者が義務づけられた、変わらない、型に嵌まった諸定式を集めたものだ、という意味で、それは厳格だった。
 しかし、その諸定式の内容はきわめて曖昧であり、どの段階でもどんな変化があっても、全ての国家政策をそれが何であっても正当化するために、用いることができた。//
 (3)ソヴィエト・マルクス主義がもつこの機能の最も逆説的な効果は、第二次大戦中の、それ自体の部分的な自己崩壊だった。
 (4)1930年代の後半、ヨーロッパはナツィによる攻撃という脅威で弱体化していた。
 戦争勃発に先行していた危機の間、スターリンを冠に戴くソヴィエト同盟は、全ての方向からの脅威に対抗して安全を確保すべく、巧妙で目敏い政策を追求した。
 宥和という西側諸勢力の臆病な政策によって、かりにドイツがその東方または西方の隣国を攻撃したとすればどうなるか、を予見することが困難になった。
 ドイツがチェコスロバキアを併合して従属させた後では、戦争が避けられないことがほとんどの人々に明白だった。
 1939年8月のドイツ・ソヴィエト不可侵協定〔独ソ不可侵条約〕は、秘密条項を含んでいた。その条項は、ポーランドを両国で分割することを定め、フィンランド、エストニアおよびラトヴィアをソヴィエトの利益圏に組み込んでいた。
 (リトアニアは、同年9月28日の協定の修正で、これらに付け加えられた。)
 同年9月1日、ソヴィエト同盟がこの協定を裁可した翌日に、ドイツはポーランドへと侵攻した。そして同月17日、ソヴィエト赤軍がポーランド東部地域を「解放する」ためとして侵入してきた。両国政府は一方で、ポーランドはこれを最後に消滅した、と宣言した。
 侵略者たちは、それぞれの占領地域での地下活動を弾圧して相互に助け合う秘密合意書を締結していた。
 (ナツィとソヴィエトの協力の期間、後者は、ソ連邦に収監されていた何人かのドイツ共産党員を引き渡した。その中には、物理学者のAlexander Weissberg も含まれていた。しかし彼は生き延びて、スターリンの粛清に関する事実を記録する(documentary)最初の諸文書を書くことができた。)
 ヒトラーとの協定は、ソヴィエトの国家イデオロギーの変形を生じさせた。
 ファシズムに対する批判が、かつ「ファシズム」という言葉自体が、ソヴィエトの宣伝活動から消滅した。
 西側の諸共産党、とくにイギリス共産党とフランス共産党は、宣伝活動の全体を戦争への反対に向け、ナツィ・ドイツと闘う西側帝国主義諸国を非難するよう指令された。
 フィンランド侵攻が失敗したことで、ロシアの軍事力の弱さが世界中に、とりわけ、その目標は最初からソヴィエトという「同盟者」(ally)だったヒトラーに、明らかになった。
 さらに大災難だったのは、1941年6月21日のドイツ侵攻のあとに生じた、ソヴィエト同盟のだらしない混乱ぶりだった。
 歴史研究者たちは、その驚くべき不用意さの原因について、今もなお議論している。
 軍隊の最良の幹部たちの粛清、スターリンの軍隊の無能力、ドイツによる早期の攻撃への警戒心を抱かなかったこと、およびソヴィエト国民が完全に心理的武装解除に陥っていたこと-ドイツ侵攻の一週間前に政府は戦争に関する風聞は「馬鹿げている」と公式に非難していた-、これらが、ソヴィエト国家を破滅の縁に追い込んだ一連の失敗の理由として挙げられている。//
 (5)ドイツ・ソヴィエト戦争は、ソヴィエト同盟と世界の全共産主義者たちにさらに、イデオロギーの変化をもたらした。
 西側の共産主義者たちはもはやその攻撃を反ナツィ勢力に向ける必要がなかった。自発的にファシズムを「当然の」敵だと見なすべきことになった。
 1941年6月まではポーランド国家の廃絶を従順に受容してたポーランドの共産主義者たちはその党を再建し、一部はソ連邦内で、主としてはドイツ占領下のポーランドの地下運動として、ナツィの侵略者と闘った。
 「正常な」残虐さと破壊とは別に、ロシアでの戦争はそれ自体のイデオロギー上の暴虐を生んだ。すなわち、東部領域からのポーランド人、とくに知識人の大量の追放と殺戮、ロシア軍の捕虜になっていたポーランド将校たちの大殺戮、ドイツとの戦闘がなお続いている間の八つの少数民族集団の<ひとかたまり>での再移住、および四つの自治民族共和国の解体-ヴォルガ・ドイツ人、クリミア・タタール人、the Kalmyksおよびチェコ人とthe Ingushes の人々の自治共和国のそれ。
 無数の生命がこうした追放の間に失われ、逃亡した人々は、生まれた故郷に再び戻ることは決してできなかった。//
 (6)他方で、戦争によって、ロシアのイデオロギー統制を緩和することが可能になった。
 貴重な生命のために闘う国民については、マルクス主義は心理的な兵器としては価値がないことが分かった。
 マルクス主義は、公的な宣伝から事実上は消失した。そして、スターリンはその代わりに、ロシア愛国主義とAlexander Nevsky、Suvrov およびKutukov のような英雄たちの記憶に訴えかけた。
 インターナショナル歌はソヴィエトの聖歌であることをやめ、ロシアの栄光を賛美する曲に替えられた。
 反宗教の煽動は止まり、戦闘的無神論者同盟は事実上解散し、一方で聖職者たちが、愛国主義の精神を維持するのを助けるために召喚された。//
 (7)1945年以降のソヴィエトの宣伝は、社会主義イデオロギーの栄光としてのヒトラーに対する勝利を象徴的に意味した。これは、戦闘をした男たちとソヴィエト民衆全体の心のうちに生きていた。
 そうではなく、反対のことが真実(truth)に近かっただろう。すなわち、国民はマルクス主義イデオロギーに関して忘れなければならず、代わりに民族的かつ愛国的な心情を吹き込まれなければならないということが、勝利のための必要条件だったのだ。むろん、十分条件ではなかったけれとも。
 ソヴィエト国家と民衆の戦争努力を別にすれば、莫大な量のアメリカ合衆国による軍事的援助やヒトラーの「イデオロギー的」まぬけさなどの、別の要因がそれぞれの役割を果たした。
 ヒトラーは、戦争の最初の数カ月の圧倒的な成功に幻惑されて、征服した地域を完全に厳格なナツィの教理に従属させた。ベラルーシとウクライナで「解放者」として振る舞うのではなく、人種主義の笞をふるい、住民たちを永遠に絶滅され、奴隷とされるべき劣等人間として扱った。
 (ドイツ人は、征服地域にある集団農場の解体すらしなかった。そのシステムによって生産物を徴発するのが容易になったからだ。)
 ナツィスの凶暴な残虐さによって、すべての民衆が、ヒトラー主義(Hitlerism)よりも酷いものはあり得ない、と確信した。
 最初の後退のあとで傑出した勇気と献身性を示した赤軍の兵士たちは、彼らの国家の存在のために闘った。マルクス=レーニン主義のためにではなかった。
 ロシアでは多数の者が、戦争はナツィズムに対する最終的な勝利で終わるだけではなく、国内での自由をも、少なくとも圧政の緩和をも、望んでいた。
 戦争に勝利すべく全力が捧げられるためにイデオロギー的統制が緩やかになったのだとすれば、そのように考えるのも当然だった。しかし、勝利のあときわめてすみやかに、そのような希望は幻想であることが明白になった。//
 (8)種々のことがあったにもかかわらず、多様なマルクス主義諸装置は、戦争中ずっと機能し続けた。
 ソヴィエト哲学の分野での最も重要な出来事は、G. F. Aleksandrov が編集した<哲学の歴史>全集の第三巻にある誤りを非難する、党中央委員会の布告だった。
 時代と並行して進み続けることをしない執筆者は、哲学者およびマルクス=レーニン主義の先駆者としてのヘーゲルを過大評価しており、ヘーゲルのドイツ排外主義を考慮していない、とされた。
 この非難は、反ドイツ宣伝のためになされた戦時中の多数の行為の一つにすぎなかった。しかし、マルクス=レーニン主義正統派の歴史文書に占めるヘーゲルの地位を破壊した。
 ソヴィエト哲学者のあるインタビューに答えて、スターリンは、ヘーゲルはフランス革命とフランス唯物論に対して貴族政的に反応したイデオロギストだ、と述べた。これ以降、この評価が哲学の分野で義務的なものになった。//
 (9)勝利の見込みによって事実上の安定を獲得したとき、征服と膨張への欲求を動機とするスターリンの政策は、ヨーロッパと世界の戦後秩序に関わり合った。
 西側連合国は、テヘラン協定とヤルタ協定によって事実上、東ヨーロッパに関するフリー・ハンドをソヴィエト同盟に与えた。
 バルト三国の公然たる併合とほとんど全ての隣国からの領土獲得に加えて、チャーチルとルーズヴェルトの不本意な同意を得て、ソヴィエト同盟は、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、およびより少ない程度でユーゴスラヴィアで支配的な地位を得た。
 これらの諸国で、また東ドイツでも、共産党体制が確立するのに、数年とかからなかった。しかし、この結果は、すでに先立って決められていたことだった。//
 (10)ある範囲の歴史研究者たちは、併合や赤軍が占領した諸国への共産主義の押し付けは帝国主義諸国の企図によるのではなく、ソヴィエト同盟が必要とした可能なかぎりでの「友好」なまたはむしろ卑屈な諸国家に包囲されていることによる安全確保への関心による、と論じた。
 しかし、これは不必要な区別だ。なぜなら、全ての国家がソヴィエト同盟に従属していないかぎりは、ソヴィエト同盟の安全についての絶対的な保障などあり得ないのだから。完全に有効であるためには、世界全体がソヴィエトの支配下に置かれるまでは、「防衛」の過程は継続されなければならないのだ。//
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 第1節、終わり。第四章の途中だが、第三巻の試訳は、ここでいったん区切る。

1412/日本共産党の大ウソ30-志位和夫綱領解説02。

 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)のうち、不破哲三の研究に依拠するという<ネップ>に関する叙述、つまりネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」(「」はp.179より引用)ということについての叙述を、要約・部分引用しながら紹介する。
 ・レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。(p.173-4)
 志位(したがって不破)によれば、レーニンが「深い試行錯誤から抜け出し」「国際情勢の変化」を「的確に見定めた」ことは、1920年11月の「ロシア共産党モスクワ県会議」での「わが国の内外情勢と党の任務」と題する演説で示された。レーニン全集31巻415頁に掲載されており、つぎのような文章を含む。
 ・「われわれがロシアの反革命の企てをみな粉砕し、西欧のあらゆる国々と正式の講話締結をかちとった」ことから、「われわれが息つぎを獲得」しただけではなく、資本主義諸国の包囲の中で「われわれの基本的な存立をかちとった新しい一時期を獲得した」ことが明らかだ。
 これを含むレーニン演説を、志位(不破)はつぎのように理解・解釈する。
 ・レーニンは、ロシア革命の勝利のためには「国際的勝利」(=秋月によると「世界革命」、つまり全欧州レベルでの「社会主義革命」の勃発と勝利)が必要と考えていたが、戦争の結果はそれをもたらさなかったけれども、資本主義諸国の包囲の中で「ソビエト・ロシアが存立していく条件」は闘いとった。「世界革命は起こらなかったけれども、ロシア革命が生きていく条件」をかちとった、という「新しい一時期」になった。
 以上、p.174-5。志位(不破)は、そのあとすぐに続けてこう書く。
 ・「新しい時期」に入ったと「見定めた以上、方針も変えることが求められ」る。レーニンは「やがて」、「多くの分野で」の「路線転換の仕事に取り組むようにな」る。
 志位によると、不破著/レーニン第7巻は、レーニンは上の1920年11月の「転換」を「契機にして」、「レーニンの理論活動が"夜明け"を迎えた」と書いている、らしい(別途確認はする)。
 さて、以下がネップに関する叙述だ。
 ・1921年3月の「クロンシュタットで水兵の反乱」が起こり「やむなく鎮圧しなければならないという事態」が生じ、そういうもとで「ソビエト政権と農民の関係」の改善という「大問題」をつきつけられて、レーニンは「経済政策の大転換を始め」る。
 ・1921年3月に開始され5月ぐらいからその政策は「新経済政策(ネップ)」と呼ばれるようになる。まずは、「割当徴発から『穀物税』(現物税)」への移行。/「現物税」を払っても農民に残る「余剰」部分は「大きくなるはず」だった。
 ・だが、「余剰」部分はどう処理するのかという「大問題」が生じる。レーニンは最初は「市場経済とたたかいながら生産物を交換」するという方式を考えたが「うまくい」かず、余剰の処理・生産物交換は「市場経済の大きな波に呑み込まれた」。
 ・上の「経験をふまえて」レーニンは、1921年10月の「モスクワ県党会議」での報告で、「本格的な転換」に踏み切った。以上、p.177-8。
 志位によると、この報告による「新しい現実に直面」してのその転換した新しい「路線」の内容は、つぎのようなもので、「市場経済=悪」論と「本格的に手を切る」ものだった、という。
 ・「市場経済そのものを正面から認めよう、認めたうえで国家の権限でそれに一定の規制を加えながら、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう方向性を確保しようという路線」。
 そして、志位は、この会議での「討論」(レーニン全集収載)にも見られるように反対・不満も多かったが、レーニンは「懇切ていねいに説得的に」反論し、「市場経済を認めることが絶対に必要不可欠であることを明らかにし」た、とする。
 以上のあとで、すでに今回の冒頭で記したように、志位は、ネップ期にレーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という「新しい考え方」をつくった、あるいはレーニンはそういう「社会主義建設の大方向を打ち立てた」とする。
 以下(次回以降)で、不破哲三文献やレーニン全集そのものに立ち入る。
 また、前回に紹介したのは、クロンシュタットの「反乱」の前に発生していたタブロフ県地方での<農民反乱>中の(それを鎮圧するための、レーニンも許容したとみられる)トゥハチェフスキーらの「命令(指令)」の内容だが(この反乱自体に志位和夫の綱領解説は言及していない)、1920年の秋から約一年間のレーニン・ロシア共産党(ボルシェヴィキ)、そしてロシアに関する情勢あるいは諸事実にも、併せて言及する(なぜなら、不破哲三と志位和夫は具体的にロシアで生起した諸事情・事件等々の「現実」を「認識」したうえで書いているのか、という大きな疑問があるからだ)。
 1920-21年というのは、日本の大正9年-10年。
 不十分だが、年表的なものを掲載する。のちに補充していく。
 1917年8月/ケレンスキー臨時政府、憲法制定会議の選挙・招集予定を発表。
 1917年9月/レーニンがフィンランドから「蜂起」=「権力奪取」を促す手紙。
 1917年10月/ロシア10月「革命」。
 1918年2月/ブレスト・リトフスク条約でドイツと停戦。
 1918年3月/社会民主労働党・ボルシェヴィキ派から「ロシア共産党」へと名称変更。
 同/ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国憲法発布。
 1918年5月/チェコ軍団反乱。成人男子を兵役招集、「赤軍」の始まり。
 1918年8月/ブレスト・リトフスク条約の補足条約締結。
 1918年11月/トイツ降伏により第二次大戦終結。
 1919年3月/コミンテルン(国際共産主義者同盟)結成。
 1919年春~/コルチャーク、デニーキンらの攻撃、「白軍」との戦闘(内戦)。
 1920年1月/ベルサイユ条約発効・国際連盟成立。
 1920年2月/ドイツで「国家社会主義労働者」党(ナツィス党)発足(改称)。
 1920年4月/ロシア・ポーランド戦争始まる。
 1920年8月 ?/タンボフの農民「反乱」始まる。
 1921年2月/クロンシュタットの「反乱」始まる。
 1921年3月/クロンシュタットの「反乱」鎮圧される。。
 同/ロシア共産党(10回党大会 ?)がネップ政策導入を決定。
 同/ロシア・ポーランド間でリガ条約。
 1921年6月 ?/タンボフの農民「反乱」鎮圧される。
 1921年7月/モンゴル「革命」。
 同/中国共産党創立。
 1921年10月/レーニン、<戦時共産主義>につき、「誤り」を認める。
 1921年12月/ワシントン会議による4カ国条約。日英同盟廃棄。
 1922年2月/チェカ廃止。同様の機能の「ゲ・ペ・ウ」発足。
 1922年3月/ロシア共産党第11回党大会。
 1922年7月/日本共産党結成=コミンテルン日本支部。
 1922年12月/ソヴィエト社会主義共和国連邦結成。

1407/ブレジンスキー: Out of Control(1993)の一部を読む②。

 一 スターリン時代の戦争捕虜の処遇についての「恐るべき記録」にも、言及がある。
 スターリン時代のソ連のドイツ人戦争捕虜は35万7000人が死亡した、日本、ルーマニア、フィンランド、イタリアの戦争捕虜「数万人」の生命も奪われた。ボーランド人戦争捕虜のうち14万人が生きて帰れなかった。全部で「100万人近くの捕虜が死亡した」(p.22)。
 ミンスクの近くにある埋葬場所から1980年代後半に「20万体」の骨が掘り起こされた。よく知られるようになつたのは、1939年にソ連がポ-ランドを占領したあとのポーランド人捕虜についてだ。
ポーランド人将校14,736名が三つの収容所におり、同政治犯10,685名が刑務所にいたが、処理案の文書を示されたスターリンは「書記長」のサインをして了解した。文書(1940.03.05)には、「出頭は求めず、起訴状を見せることなく終わらせる。/「特別な措置によって解決することとし、最高刑を適用する。銃殺。」等と記されていた。ポーランド人は元将校・官吏・工場所有者・憲兵等々で、帰国後にはポーランドの再建にとって重要な人物たちも含まれていた(p.23-24)。
 約2万5000人の被殺戮者の遺体は埋められて、のちに発掘された場所が<カティンの森>だったことから、<カティンの森虐殺事件>と呼ばれるようになった、上に出てくるのは、それにかかわる指令文書のことかもしれない。しかし、ブレジンスキーは「カティン」と明記していないので、はっきりしない。
<カティン事件>についていうと、当初はスターリン・ソ連政府はドイツ・ヒトラー軍によるものとして否定し続け、第二次大戦後になって初めてソ連政府・軍が関与したことを認めた。
 将来の国家(ポーランド)の幹部になる可能性があるものを2万人以上殺害してその芽を<あらかじめ>摘み取っておくとは、想像し難い発想だ。
二 岩波講座・世界歴史23-アジアとヨーロッパ(岩波、1999)はロシア・ソ連に関する独立の論考を含んでいないが、概論である山内昌之「アジアとヨーロッパ-日本からの視覚-」(p.3~)は、冒頭で上に見たブレジンスキー: OUT OF CONTROLを注記しつつ、つぎのように言う。
 「…、革命の残忍さとテロルの普及、ファシズムと共産主義が生み出した人間無視などは、…20世紀につきまとった。ソビエト社会主義のもとにおける厳しい飢饉や大量テロル、ナチズムのユダヤ人ホロコーストなどに象徴されるように、人間の生命が鴻毛のように軽く扱われたのは驚くほかない。…『大量死(メガデス)』というコンセプトで計算するなら、今世紀の大量死者数は1億8700万人ということになる」。
 この数字は、ブレジンスキーが挙げていた数度と同じ。山内はこれにもとづき、つぎのように書く。
 「それは1900年の世界人口の10人あたり1人以上に相当する」。
 1914年-1945年までの戦争、共産主義国内・ファシズム国内およびその後の東欧(東独を含む)・中国・北朝鮮等々によって、20世紀は人口の10分の1を失った。これはまた、彼らが将来に生む可能性のあった人間が生まれなかったことも意味する。
 これらに愕然とする「感性」をもたなければならない。
 歴史に関する学者・研究者でも、<怒るべきときは怒る>、<涙すべときは涙する>という人間的「感性」を率直に示して、何ら問題がないはずだ。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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