秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

第二インターナショナル

2574/R・パイプス1994年著第8章(NEP)第11節。

 Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。第11節へ。1922年12月、コミンテルン第4回大会で、日本共産党は正式にコミンテルンの支部となった。
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 第8章/第11節・外国共産党に対する統制の強化。
 (01) 新経済政策は、ソヴィエトの外交政策にも、影響を与えた。外交は今ではかつて以上に、異なって相反する次元で機能していた。在来の外交通商と、非在来的な転覆活動の二つの次元。
 モスクワは、NEP の統合部分だった通商と投資を促進するために外国と通常の関係に入ることを懸念していた。
 軍事行動は、放棄された。性急で即興的だった1923年のドイツでの蜂起の失敗は別として、ヨーロッパで蜂起を起こすという企てはもうなかった。
 その代わりに、コミンテルンは、西側の諸組織に徐々に浸透するという戦略をとった。//
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 (02) ソヴィエト内部では経済自由化の一環として政治的抑圧が強化された、と叙述してきた。
 同じことは、国際共産主義運動についても言えた。
 その運動に課された21項目の条件は、外国の共産主義組織をモスクワに従属させた。だが、コミンテルンは対等な共産党の連合体だという幻想は維持された。
 この幻想は、1922年12月のコミンテルン第四回大会で一掃された。
 同大会決定は、つぎのことを明確にした。第一に、外国の諸共産党は独自の見解をもつ権利を有しない、第二に、双方が衝突した場合は、ソヴィエト国家の利益が外国の共産主義運動よりも優先する。//
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 (03) ヨーロッパでの革命の切迫性についての考えは、逆説的に、外国のコミンテルン支部に対するモスクワの立場を高めた。
 「まさに世界革命にはもはや今日的可能性がないがゆえにこそ、(外国の)諸共産党は、その希望をソヴィエト・ロシアへとつなぎ止めなければならない。
 ロシアだけが革命時代の階級闘争に勝利して出現した。また、無数の敵から自らを防衛することにも成功した。
 ロシアは、来たる世界革命の象徴であり、世界資本主義に対する力強い防波堤だった。
 外国の諸共産党にその国の権力の奪取が困難に思われれば、それだけ固く、諸共産党はソヴィエト・ロシアに結集しなければならない。
 この憂鬱な世界情勢のもとで、ソヴィエト・ロシアこそが世界じゅうの共産党員の祖国であるべきであることほど、当然のことはない。」(注216)
 戦後世界の安定は「憂鬱な」報せだった者たちには、ともかくもこの文章の執筆者にはそうだったが、モスクワはじつに唯一の希望だと思えた。
 そしてモスクワは、この現実から適切な結論を導きだした。//
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 (04) この第四回大会を準備して、モスクワは、コミンテルンの組織構造から、連邦主義の痕跡を全て排除することを決定した。
 責任者だったブハーリンは、21項目の第14項について、これはソヴィエト・ロシアが「反革命」を撃退するのを外国の諸共産党が助けることを要求するものだったが、外国諸共産党はいかなるときでもソヴィエト政府の外交政策を支持する義務がある、ということを意味すると解釈した。(注217)
 要するに、共産主義者はソヴィエト・ロシアという唯一の祖国をもち、ソヴィエト政府という一つの政府をもつのだ。
 共産主義者は、この政府が外交関係上の行為としてしたことを、ソヴィエト同盟と「ブルジョア国家」—自国を含む—との同盟であっても、同意しなければならなかった。ロシア共産党の政治局が決定した、ソヴィエト・ロシアの必要に応えるのならば。 
 この項目は、1922年にRapallo で締結されたソヴィエト・ドイツ条約に対して、無言の批判があり得ることをとくに意識してのものだった。//
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 (05) コミンテルンの最高の名義上の決議に外国の党が疑問を持ったり口出ししたりするのを阻止するために、コミンテルン第四回大会は、これ以降は構成諸党はコミンテルンの大会が行われた後でのみそれらの各大会を開催する、と決定した。
 こうした手続によって、各諸党の代議員は独立した決議を動議として提出する権利を持たないことが確実になった。
 コミンテルンへの代議員たちは、各自の党からの拘束的な命令を携えて来ることが禁止された。そのような命令は、「国際的で、中央志向のプロレタリア政党の精神と矛盾する」がゆえに、無効であり、無意味とされた。
 各国の共産党大会にオブザーバーを送ることが、1919年以降のコミンテルンの慣例となった。これは今ではつぎの規定によって公式に承認された。すなわち、「例外的状況では」、「最も包括的な権限」を与えられて外国党が21項目の条件や大会決定を履行しているかを監督する代理人を各国の党に派遣する権能を、コミンテルン執行部に与える規定。つまりは各国の党を支配し、服従しない構成党を除名する、そのような権能だ。
 各国の党は、それらが選んだ代表をコミンテルン執行部に送る権利も、剥奪された。執行部メンバーは、大会によって選出された。
 コミンテルンの役職を辞任することは、コミンテルン執行部の承認がなければ認められなかっただろう。その理由は、「共産党の全ての執行部の役職は、それを担う個人に帰属するものではなく、全体としての共産主義インターナショナルのものだ」、ということだ。
 新しい執行部の25名のうち15名は、モスクワに居住することが要求された。(注218)//
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 (06) こうした全てのことは、すでに1903年以降のボルシェヴィキ党の慣例であり、第二回大会で採択された規約にも黙示的には存在した。
 1922年の決議で新しかったのは、その曖昧さだった。すなわち、ロシア人とその外国の支持者は形式的には対等だとの見せかけすら、全て欠落させていた。
 モスクワが代弁者として使っていたドイツの代議員のHugo Eberlein は、ロシア人の優越性についての不満を、つぎのように切り捨てた。//
 「将来的にも、コミンテルンの運営では、その最高幹部会と執行部において、ロシア人同志にはより力強い、最も力強い影響力が与えられなければならない。国際的な階級闘争の領域で最大の経験を積み重ねてきたのは、まさに彼らだからだ。
 彼らだけが、革命を現実に実行した。そのような背景の結果として、彼らは、経験について、他の地域からの代議員の誰よりもはるかに優っている。」(注219)
 第四回大会は、ブラジルからの代議員の反対を除く満場一致で、新しい規則を採択した。
 「共産主義インターナショナルは今や、厳格に中央志向の、軍型の紀律をもつ、ボルシェヴィキ世界党へと、変質した。(第四回)大会が示したように、疑うことなくロシアの命令を進んで受け入れる用意のある組織へと。
 そして、世界じゅうの諸共産党は今や、実際には、ロシア国家も支配している政治局によって支配される、ロシア共産党の一支部となった。 
 諸共産党はかくして、ロシア政府の代理機関へと零落した。」(注220)
 この変質はしばしばスターリンによるものとされるが、レーニンがコミンテルン政策の設定の責任者だったときに起きたことだ。//
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 (07) GPU は、外国の従属者たちを監督するのを助けるべく、今やコミンテルン執行部との緊密な作業関係に入った。
 GPU は、外国の9首都に支所を開設した。ほとんどはソヴィエトの外交使節として。
 各支所は、いくつかの隣接諸国についても責任をもった。
 かくして、GPU のパリ事務局は、イギリスとイタリアを含む、フランス以外の七つの西欧諸国での秘密行動を指揮した。
 GPU 支所の活動の中には、コミンテルン工作員を監視することがあった。(注221)
 コミンテルンの活動は、多様だった。
 1922-23年には、24の言語での298冊の出版を財政援助した。(注222)
 また、植民地諸国からの学生たちを扇動的技術で訓練する学校を運営しもした。//
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 (08) このような進展に失望したのではなく苦悩したヨーロッパの社会主義者たちは、コミンテルンと協働するという希望を捨てなかった。
 彼らは、コミンテルンが自分たちを「社会ファシスト」と扱ってその隊列を分断しているのを無視しようとした。そのことはむしろ、国際的な社会主義運動を弱体化させた。
 社会主義者たちは、つねに宥められようとした。
 しばらくの間は、その希望は実を結ぶように見えた。
 1921年のドイツ反乱の大失敗の後、レーニンは社会主義者との「統一戦線」戦術を定式化した。共産主義者は西側では弱すぎて、自分たちだけで行動することができなかったからだ。
 レーニンは、ある程度までは、労働組合主義者や社会主義者と協働しようと決定した。
 彼はこの考えをコミンテルンの執行委員会に提示した。その執行委員会では、ジノヴィエフ、ブハーリンその他からの強い反対に遭った。
 レーニンは、トロツキーの助けで、何とか抵抗を克服し、その考えをコミンテルン第三回大会(1921年6-7月)に提示した。
 「社会帝国主義者」や「社会主義裏切り者」との協働という考えは強い憤激を生んだが、大会は最終的にはそれを認可した。(注223)
 レーニンは同時に、ロシアの社会主義者たち(メンシェヴィキとエスエル)との協働は許さなかった。表向きは「ソヴィエト当局の敵」だったからだが、本当は、外国の社会主義者とは違って、彼らは権力を目指す重大な競争相手だったからだ。(注224)//
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 (09) 新しい戦術の結果は、1922年4月の第二回(社会主義)インターナショナルの会合へのコミンテルンの参加だった。この会合はベルリンで開かれ、「資本主義」の力の増大に対する闘争の共同綱領の策定と、ソヴィエト・ロシアの承認を目的としていた。(注225)
 1923年5月、ヨーロッパの社会主義諸党は、別途、ハンブルクに集まった。
 それらは、630万の党員と2560万の投票者を代表していた。—この数字は、コミンテルンに加盟した諸党の何倍もの強さを示していた。(注226) 
 新しい組織が設立され、労働者・社会主義インターナショナル(LSI)と称された。
 この組織は、構造的には連合的(federated)で、構成諸党は自由に国内問題について決定することができた。
 メンシェヴィキとエスエルは、集合した者たちのために、ソヴィエト・ロシアの状態とそこでの社会主義者の運命を示す荒廃した絵を描いた。
 彼らは丁寧に拝聴されたが、しかし、無視された。
 イギリスからの代議員は、嵐のごとき喝采を浴びたのだったが、この大会をつぎのように思い出した。
 「ロシアの収容施設での犠牲者や処刑されたり国外追放されたりした人々に対する責任が追及されたのは、主として西側の資本主義諸政府だった!」(注227)
 ソヴィエト・ロシアに関する決議は、ロシアの内部問題への外国の干渉の全てを非難した。
 その決議は、ソヴィエト政府の「テロリスト的手段」を非難する一方で、こう主張した。
 「(資本主義政府による)いかなる干渉も、ロシア革命の現在の段階での過ちを是正させることではなく、革命それ自体を破壊することを意図している。
 干渉すれば、本当の民主主義の樹立からははるかに離れて、血に飢えた反革命家たちの政府を設立させるにすぎないだろう。それは、西側資本主義によるロシア人民の搾取を促進する手段たる行動になる。
 ゆえに、本大会は、全ての社会主義諸党に対して、…干渉に反対するだけではなく、ロシア政府の完全な外交的承認とロシアとの正常な外交関係および通商関係の迅速な回復を、呼びかける。」(注228)//
 ヨーロッパの社会主義諸政党と諸労働組合は、言葉上は彼らが何もすることができないロシアの共産党支配を非難しつつ、彼らが影響力を発揮できる立場にある諸政策を是認することによって、本質的には、モスクワと同盟した。
 ボルシェヴィズムをロシア革命の一「段階」と理解することによって、彼らはそうした。これは、ボルシェヴィズムの不愉快な特質は一時的なものだ、という意味を包含していた。
 そして、それに代わる唯一の選択肢は「血に飢えた反革命者」による政府だ、と主張した。
 また、ソヴィエト・ロシアの外交的承認とロシアとの正常な通商関係の回復を、要求したのだ。//
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 (10) 「統一戦線」は、その内部矛盾から—かつて分裂に関係していた社会主義者たちとの統合が、いかにして可能だっただろうか—、そして第二および第三の両者のインターナショナルの隊列内部での強い反対によって、ほとんど直ちに崩れ落ちた。
 まもなく、コミンテルンは、社会主義者を再び「社会ファシスト」として扱うようになった。//
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 後注
 (216) Julius Braunthal, History of the International, II (1967), p.258.
 (217) Bukharin in Izvestiia, No. 6/1,743 (1923.1.11), p.3.
 (218) Protokoll des Vierten Kongresses der Kommunistischen Internationale (1923), p.994-7.
 (219) Ibid., p.807.
 (220) Braunthal, History, II, p.263.
 (221) Dennis, Foreign Policies, p.366.
 (222) Ibid., p.369.
 (223) Isaac Deutscher, The Prophet Unarmed (1959), p.61-65.
 (224) Lenin, PSS, XLV, p.131.
 (225) Braunthal, History, II, p.245-250; TP, II, p.704-5.
 (226) Braunthal, History, II, p.264.
 (227) Ibid., II, p.269. Protokoll des Internationalen Sozialistischen Arbeiterkongressen in Hamburug (1923), p.80 を引用.
 (228) Brainthal, History, II, p.270. Ibid., p.105, p.107 を引用。
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 第11節、終わり

1470/第一次大戦と敵国スパイ④-R・パイプス著9章10節

 前回のつづき。かつ、とりあえずの(第9章の試訳の)最終回。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源。
 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵国スパイ。

 1916年4月に、ツィンマーヴァルト会議の続きが、ベルン高原地方のキーンタールで開かれた。
 この会合は社会主義インター委員会により招集され、三年目に入ろうとしている戦争について議論をした。
 インターナショナルの平和派を代表する参加者は、ツィンマーヴァルト左派に従うことを再び拒否した。しかし、前年よりさらに左派に対して柔軟になった。
 会議は『平和問題へのプロレタリアートの態度』という決議で、資本主義の基盤での戦争を非難し、『ブルジョア的であれ社会主義的であれ、平和主義は』人類が直面している悲劇を解消することができない、と強く主張した。//
 『資本主義社会が永続する平和の条件を提示できないならば、その条件は社会主義によって提示されるだろう…。
 <永続平和を目指す闘いは、ゆえに、社会主義の実現を目指す闘いでのみありうる。> 』(133)
 これの実際的な帰結は、『プロレタリアートは即時休戦と講和交渉の開始を求めて呼びかけるべきだ』ということだった。
 再び言おう。反乱を起こすことや銃砲をブルジョアジーに対して向けることの呼びかけではない。しかし、このような行為は決議の前提から排除されてはおらず、多くのことはその中に暗に含まれていたと言うことができるかもしれない。
 ツィンマーヴァルトでしたように、レーニンは、つぎのようなプロレタリアートへの訴えで締め括る、左派のための少数派報告書を書いた。
 『武器を置け。その武器を、共通の敵(foe)-資本主義政府に向けよ。』(*)
 レーニンの声明文の下の(44人の参加者のうちの)12の署名者の中には、ラトヴィアを代表するジノヴィエフ、オランダのそれのカール・ラデックがあった。
 ジノヴィエフの草案にもとづく『社会主義インターナショナル事務局(Bureau)』に関するキーンタールの鍵となる決議は、左派の要求をほとんど満たすもので、この組織がいわゆる<祖国防衛と公民の平和>政策の共犯者に変わることを非難し、また、つぎのように論じた。//
 『インターナショナルは、<プロレタリアートが全ての帝国主義者と狂信愛国主義者の影響から自らを解放し、階級闘争と大衆行動への途を進むことができる>まで、その明確な政治力を有するに至ってのみ、解体を免れることができる。』(134)//
 インターナショナルの分裂を求めるレーニンの主張は再び敗北したけれども、会議が終わったあとで、右派のメンバーの一人、S・グルムバッハは、なおもつぎのように述べた。
 『レーニンとその仲間たちは、ツィンマーヴァルトで重要な役割を果たした。キーンタールでは<決定的な>役割を果たした。』(135)
 じつに、キーンタールの決議は、レーニンが創設した第三インターナショナル〔共産主義インター=コミンテルン〕の基礎作業だった。//
 1915-16年におけるツィンマーヴァルトとキーンタールでのレーニンの成功は、社会主義者たちを言葉上だけで信頼させたこと、彼らが美辞麗句(rhetoric)に酔うことを求めたことによっていた。
 これによってレーニンは、外国の社会主義団体の間で小さいがしかし熱烈な支持を獲得した。
 より重要なことは、こうした立場によってレーニンが社会主義運動上の道徳的な高位を掴んだために、彼の反対者たちは弱体化し、彼と闘うことが妨げられたことだ。
 インターの指導者たちは、レーニンの陰謀好きや誹謗中傷を軽蔑した。しかし、自分たち自身と縁を切ることなくして、レーニンと絶縁することはできなかった。
 レーニンはその戦術によって、社会主義インターの運動を徐々に左傾させ、ついには自分の党派から分裂させた。ちょうどロシア社会民主党について行なったように。// 
 これを言ったがまた、レーニンとクルプスカヤには戦時中の数年間は、苛酷な時期、貧困とロシアからの孤立の時代だったことも注記しておかなければならない。
 彼らはスラム街に接した区画に住み、犯罪者や売春婦たちと一緒に食事をして、かつての多数の友人から捨てられたと感じていた。
 以前の何人かの支持者ですら今や、レーニンは変人で、『政治的イエズス会士〔策謀家〕』で、廃人だと見なすようになった。(136)
 かつてレーニンの最も親密な仲間の一人だった、そして今は軍需産業に勤める官僚として快適な生活をしているクラージンがレーニンへの寄付を求められて接近されたとき、彼は二枚の5ルーブル紙幣を差し出して、つぎのように言った。
 『レーニンは、支援に値しない人物だ。
 危険なタイプだ。そのタタール頭に芽生えている狂気がいかなるものかを知ってはならぬ。
 レーニンよ、くたばれ!』(137)//
 レーニンが逃亡している間の唯一の光のひと筋は、イネッサ・アルマンドとの情事だった。彼女は、音楽ホールの芸術家二人の娘で、金持ちのロシア人の妻だった。
 チェルニュインスキーの影響を受けたイネッサは、夫と離婚し、ボルシェヴィキ党に加入した。
 彼女は1910年にパリで、レーニンとその妻に会った。
 まもなく忠実な支持者になるとともに、クルプスカヤの暗黙の了解を得て、レーニンの愛人になった。
 ベルトラム・ヴォルフェはイネッサについて『献身的で情熱的なヒロイン』のように語るけれども、しばしば彼女に逢ったアンジェリカ・バラバノッフは、つぎのように描写する。すなわち、『完全な-ほとんど受動的な-レーニンの指示の実行者』、『厳格にかつ無条件に服従する完璧なボルシェヴィキ党員の原型(prototype)』。(138)
 イネッサ・アルマンドは、レーニンがかつて緊密な人間関係を築いた、唯一の人間(human being)だったように思われる。//
 レーニンは、ヨーロッパ革命がいずれ勃発するという信念を失わなかった。しかし、その見込みは遠いように思えた。
 帝国政府は十分に、1916年に大攻撃を行なうべく1915年の軍事的かつ政治的な危機を見通していた。
 ペテログラードにいる工作員、アレクサンダー・シュリャプニコフが送ってくる散発的な通信によって、レーニンは、悪化するロシアの経済状況や都市住民の不満について知った。(139) しかし、彼はこの情報を無視して、帝国政府にはこのような困難を克服する能力があると明らかに信じていた。
 1917年1月9日/22日にツューリヒの青年社会主義者の集会で講演した際、レーニンは、つぎのように予言した。
 ヨーロッパでの革命は、不可避だ。一方でしかし、『われわれ古い世代の者はおそらく、来たりくる革命の決定的な闘いを生きて見ることはないだろう。』(140)
 この言葉は、帝国の崩壊の8週間前に、発せられていた。//
  (*) レーニンはこのとき、こう書いた。〔以下、文献を省略〕
 『客観的に見て、平和というスローガンは、いったい誰の利益になるのだ。確実に、プロレタリアートではない。これは資本主義の崩壊を速めるために用いる考え方ではない。』
 これを引用して、アダム・ウラムは、こうコメントする。
 『レーニンは、数百万の人間の生命にとっても「平和というスローガン」が「利益」になりえた、という事実を看過した。』
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 リチャード・パイプス著『ロシア革命』第9章の試訳を、とりあえず、終える。

 
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