秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

第一次大戦

1433/ロシア革命史年表②-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.849-p.850。
 /の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。
 ----------
 1906年
  3月 4日 集会と結社の権利を保障する法令発布。
   4月16日 ウィッテが閣僚会議議長を退任、ゴレミュイキンと交代。
  4月26日 新基本法(憲法)公布される。ストルイピン、内務大臣に。
  4月27日 ドゥーマ、開会。
  7月 8日 ドゥーマ、閉会。ストルイピン、閣僚会議議長に指名される。
  8月12日 社会主義革命党原理主義者、ストルイピンの生命を狙う。
  8月12日・27日 ストルイピンの第一次農業改革。
  8月19日 民間人対象の軍法会議の提案。
 11月 9日 ストルイピンの共同体的土地所有に関する改革。
 1907年
  2月20日 第二ドゥーマ、開会。
  3月    ストルイピン、改革綱領を発表。
  6月 2日 第二ドゥーマ、閉会。新選挙法。
 11月 7日 第三ドゥーマ、開会。1912年までの会期。
 1911年
  1月-3月 西部のZemstvo の危機。
  9月 1日 ストルイピン、射撃され、4日後に死亡。ココフツォフが後継者。
 1912年
 11月15日 第四(そして最後の)ドゥーマ、開会。
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキの最終的な分裂。
 1914年
  1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長に。
  7月15日/28日 ニコライ、部分的な戦争動員を命令。
  7月17日/30日 ロシア総動員令。
  7月18日/31日 ドイツ、ロシアに対する最後通告。
  7月19日/8月1日 ドイツ、ロシアに戦争を宣言(宣戦布告)。
  7月27日 ロシア、ルーブルの交換を停止。
  8月    ロシア軍、東プロシャおよびオーストリア・ガリシアへと侵攻。
  8月末   ロシア軍、東プロシャで敗退。
  9月 3日 ロシア軍、オーストリア・ガリシアの首都、レンベルク(ルヴォウ)を奪取。
 1915年
  4月15日/28日 ドイツ、ポーランドでの攻撃に着手。
  6月11日 スコムリノフ、戦争大臣を解任され、ポリワノフに交替。
  6月    さらに内閣人事の変更。
  6月-7月 進歩的ブロックの形成。
  7月    国家防衛特別会議の創設。軍需産業委員会を含むその他の会議・委員会が、戦争行動の助力のため従う。
  7月9日/22日 ロシア軍、ポーランドからの撤収を開始。
  7月19日 ドウーマが6週間、再開される。ロシア兵団、ワルシャワから逃亡。
  8月21日 ほとんどの大臣、ニコライにドゥーマによる内閣の形成を要望。
  8月22日 ニコライ、個人的にロシア軍団司令権を握り、モギレフの総司令部へと出発。
  8月25日 進歩的ブロック、9項目綱領を公表。
  8月    政府、全国Zemstvo と地方会議組織の設立を承認。
  9月 3日 ドゥーマ、閉会。
  9月    戦争反対社会主義者のツィンマーヴァルト(Zimmerwald)会議。
 10月    中央労働者集団の設立。
 11月    Zemstvoの全国統一委員会(Zemgor)が創設される。
 1916年
  1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長を、ステュルマーと交代。
  3月13日 ポリワノフ、戦争大臣を解任され、シュヴァエフと交代。
  4月    戦争反対社会主義者のキーンタール(Kiental)会議。    
  5月22日/6月4日 ブルシロフの攻撃、開始。
  9月18日 プロトポポフ、内務大臣代行に。12月に内務大臣に昇格。
 10月22-24日 カデット党大会、来るドゥーマ会期での論争戦術を決定。
 11月 1日 ドゥーマ、再開会。ミリュコフ、政府中枢での裏切りを示唆。
 11月8-10日 ステュルマー、解任される。
 11月19日 A・F・トレポフ、閣僚会議議長に。ドゥーマに協力要請。
 12月17日 ラスプーチンの殺害。
 12月18日 ニコライ、マギレフを離れ、ツァールスコエ・セロに向かう。
 12月27日 トレポフ、解任され、ゴリツィンと交代。」
------
 *1917年以降につづく。

1416/国家・共産党・コミンテルン03。

 一 前回の最後の方で自らの文章として書いたのは、やや先走りすぎている。
 国家と共産党の分離は、有利なことがあった、と言われる。
 つまり、とくに欧州諸国内でのロシア(・ソ連)共産党の活動を、ロシア・ソ連国家(・政府)の活動ではない、<私的な>活動だと言い張れた、又は言い張ろうとした、ということだ。
 その延長が1919年のコミンテルンの結成で、当時の<社会主義国>はソ連一国だつたはずなので社会主義諸国家の連合体又は協議機関だったはずはなく、諸国家の共産党の連合体、実質的にはロシア(・ソ連)共産党を指導者とする、ロシア防衛と<社会主義革命>の輸出のための機関だった。この最後の部分は世界(欧州)同時革命か一国革命か、という論点にかかわるが、立ち入らない。
 二 さて、「10月革命」以前は「臨時政府」系統外の<私的>機構・組織だったソヴィエトは、ボルシェヴィキ派が形成した(と思われる)「軍事革命委員会」の実力行使の結果として国家系統の、国家「権力」の淵源である機構・組織に変わった。
 (ソヴィエト総会)-(代議員による)ソヴェト大会-CEC(元イスパルコム)、そしてさらに、CEC(元イスパルコム)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)、という一つの=国家・政府系統の「ライン」がある。
 だが、一方には、共産党中央委員会(「首領」はレーニン)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)という党系統の「ライン」もある。ソヴナルコムの議長(首相)はレーニン。
 もう一つの可能性として、憲法制定会議-議会設立-政府成立、というラインもありえたはずだったが、この点は先送りする。
 三 「10月革命」成功・ソヴナルコム成立の翌日1917年10月27日、教育人民委員(文部大臣)・ルナチャルスキーは、<ボルシェヴィキと左派エスエルの機関誌>以外の出版物発行を禁止する布告を発表する(レーニンの署名あり)。
 ボルシェヴィキはソヴナルコムの「立法」権を認める。
 これに対して、「社会主義者たち」は、CEC(元イスパルコム)こそが「社会主義者の一種の国会」だと考えていた。
 11月4日、「最初にして最後に」、レーニンとトロツキーが姿を現したCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)で、左派エスエルはソヴナルコム(政府)の布告による統治をやめるように求め、レーニン(ソヴナルコム議長)の説明には納得できない旨の動議を提出し、ボルシェヴィキは「全ロシア・ソヴェト大会の全体的な政綱の枠内」でのソヴナルコムによる布告発令を「ソヴェト」側は「拒絶」できない旨の反対動議を提出した。
 ボルシェヴィキ選出委員のうち9名が「変節」してレーニン側を支持したため、左派エスエルの動議は25対20で敗れた。9名のうち4名はもともとはレーニンによる<連立政府の形成の拒絶>に反対していた(つまり左派エスエルと協力し、その支持をえて「統治」しようとする見解だった)。
 一方、ボルシェヴィキ側の反対動議を明確に支持するか否かの票決の予想は23対23だったので、レーニンとトロツキーが採決に加わることを宣言して、25対23でボルシェヴィキが勝った。ソヴナルコムは同日夜、その布告(Decree)が「臨時労農政府通報」に掲載されれば「法としての効力」(Force of Law)をもつと表明(announce)した。「10月革命」後、わずか1週間ほど後。
 その後1918年6-7月までにCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)からボルシェヴィキ以外の党派は放逐され、CECは、ボルシェヴィキの委員がソヴナルコムの決定を、したがってボルシェヴィキ中央(共産党中央委員会)の意向を「機械的に裁可」する機関に完全変質する。
 パイプスによれば、1921年には、CECは「わずかに三回」だけ招集された。
 CEC内部での「党争」にもっと言及する必要はあるが、それに勝利しCECを完全に掌握することによって、共産党の意思はソヴナルコム(政府)の意思と同じになった。<一党独裁>制度の完成だ。「10月革命」後、わずか7カ月程度。
 パイプスによれば、ロシアは1905年以前の帝制時代と同じ「布令(布告)」による統治の時代に戻り、ボルシェヴィキ・共産党は「11年間の立憲主義(constitutionalism)を、全く拭い去った(wiped)」。
 11年間とは、日ロ戦争敗北後の「1905年革命」の所産として、「国会(下院・ドゥーマ)(The State Duma)」が開設されていた1906年以降のことをいう。この国会とは、皇帝(ツァーリ)の権能をある程度制限する力をもっており、ロシアはある程度は<立憲君主制>だったとも言える。但し、日本の明治憲法下の国制・法制と同じはない(これについて長い論文が書けるだけの論点があるだろう)。
 以上、紹介者自身の表現を除いて、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.163-5、p.59-61。原書では、p.153-6、p.45。
 このような経緯の背後には、重要な事象も発生し、又は継続していた。
 「10月革命」勃発は第一次大戦の途上で、ドイツ帝国軍等と戦闘しており、臨時政府およびソヴェトの大勢は<継戦>を支持していた。ボルシェヴィキのさらに一部が休戦・和平を主張した。翌1918年3月に、ドイツとの講和条約(英仏ら連合国から見ると「戦線離脱」)。
 全ロシア全域に<新しい秩序>が形成されていた、つまりボルシェヴィキ・共産党が全域を<平穏に支配・統治>していた、というわけでは全くなかった。
 憲法制定評議会がどうなったかも触れておかないと、国家と共産党の問題に言及したことにならないだろう。
 戦時中だったロシア帝国軍(兵士)をどうやってボルシェヴィキ・共産党は制御し、「10月革命」時の<反革命軍>にしなったか、という問題もあり、パイプスも論及しているが、この点は省略する。

ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。