秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

第一次大戦

1667/ロシア革命④-L・コワコフスキ著18章2節。

 ロシア10月革命は、「共産主義政党へと国家権力を移行させたという意味」ではなく、「マルクス主義者の予言を確認する、という意味」では、「共産主義革命ではなかった」。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。第2巻単行著・p.481、三巻合冊著・p.741。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳、第2節の前回のつづき。
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 1917年の革命④(終)。
 こう言うことで、レーニンは、何が人民の利益であるのかを決めるのは人民の誰のすることでもない、というその持続的な信念を、ただ繰り返している。<この一文、前回と重複>
 彼は実際、『古い偏見への元戻り』をするつもりはなかった。
 しかし、しばらくの間は、独裁を農民層に対して、すなわちロシア人民(people)の大部分に対して、行使しなければならないとすれば、プロレタリア-トの圧倒的多数に支持される独裁はなおあり得るだろう、と考えた。
 この幻想(illusion)もまた、とっくに消え失せた。
 しかしながら、新しい国家は、最初から、労働者および農民の多数から支持されることを想定することができた。そうでなければ、レーニンが率直に認めたように、ソヴェト権力の将来が一度ならず脅威による縛り首に遭遇しかけた、戦慄するほどの内戦(国内戦争)の苦難を生き残ることができなかったはずだ。
 その年月の間にボルシェヴィキ党が示した超人間的な活力、そして党が労働者から絞り出すことのできた犠牲的行為が、経済的な破滅、甚大な人的被害、数百万の生命の損失および社会の野蛮化と引き換えに、ソヴェトの権力を救った。
 闘いの最後の局面では、革命はさらに、対ポーランド戦争の敗北にも遭遇した。これは、ソヴェト的体制を早い時期にヨーロッパへと移植することができるだろうとの望みを、最終的に打ち砕いた。//
 1919年4月23日に、レーニンはこう書いた。
 『ロシア人には、偉大なプロレタリア-ト革命を始めることは、まだ容易だった。
 しかし、彼らが革命を継続し、社会主義社会の完全な組織化という意味での最終的な勝利まで遂行するのは、より困難だろう。
 我々が始めるのは、まだ容易だった。その理由は、第一に、ツァーリ君主制という-20世紀の欧州にしては-通常ではない政治的な後進性が、大衆の革命的襲撃に通常ではない力強さを与えてくれたことだ。
 第二の理由は、ロシアの後進性が、ブルジョアジーに対するプロレタリア革命を、土地所有者に対する農民革命と独特なかたちで融合させてくれたことだ。』
 (『第三インターナショナルとその歴史上の地位』、全集29巻p.310〔=日本語版全集29巻308頁〕。)
 1921年7月1日、コミンテルン第三回大会で、レーニンは問題をより明快に述べた。
 『我々は、ロシアで勝利した。このように容易だったのは、帝国主義戦争の間に我々の革命を準備していたからだ。
 このことが、第一の条件だった。
 ロシアの数千万の労働者と農民が、戦闘をしていた。そして、我々のスローガンは、いかなる犠牲を払っても即時の講和を、というものだった。
 我々が勝利したのは、きわめて広範な農民大衆が大土地所有者に反抗する革命的な気持ちを持っていたからだ。』
 第二に、『我々が勝利したのは、持ち前のものではなく社会主義革命党〔エスエル〕の農業問題綱領を採用し、それを実践に移したからだ。
 我々の勝利は、社会主義革命党の綱領を実行したことにあった。』
 (全集32巻p.473, p.475〔=日本語版全集32巻504頁、506頁〕。)//
 レーニンは、実際、ロシアの共産主義者がヨーロッパの諸党のように『生産関係と生産力の間の矛盾』が必要な地点まで成熟するのを待たなければならなかったとすれば、プロレタリア革命の希望を捨て去るのを余儀なくされただろう、と認識していた。
 また、彼は、ロシアでの事態の推移は伝統的なマルクス主義の図式(schemata)と何の関係もない、とうことを十分に意識していた。その全ての関係にかかる理論上の問題を考察しなかったけれども。
 ロシア革命の圧倒的な力強さは、労働者とブルジョアジーの間の階級闘争にあったのではない。そうではなく、農民層の熱望、戦時中の大失敗、そして平和への渇望にあった。
 共産党(共産主義党)へと国家権力を移行させたという意味では、共産主義革命だった。
 しかし、資本主義社会の運命に関するマルクス主義者の予言を確認する、という意味での共産主義革命ではなかった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 第2節、終わり。第3節の表題は、「社会主義経済の始まり」。<ネップ(新経済政策)>への論及が始まる。

1578/六月の軍事攻勢-R・パイプス著10章8節。

 前回につづく。
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 第8節・ケレンスキーの夏期軍事攻勢。
 ロシア軍は、6月16日、連合国からの銃砲と砲弾をたっぷりと装備して、二日間の砲弾攻撃を開始し、終わって砲弾づめをした。
 ロシアの攻撃の矛先は南部戦線で、ガリシアの首都のルヴォウ(Lwow)を狙っていた。
 コルニロフ将軍が指揮する第八軍は、目立った。
 第二次の攻撃作戦は、中部および北部前線に向けられた。
 政府が望んだように、この攻勢は愛国主義の明確な兆候を呼び起こした。
 ボルシェヴィキは、このような雰囲気の中であえて軍事行動に反対はしなかった。
 6月のソヴェト大会で、レーニンもトロツキーも、支持に対する反対動議を提案はしなかった。//
 オーストリアに対するロシアの作戦は、二日間よい展開を示た。だが、十分に義務を果たしたと思った諸兵団が攻撃命令に従うのを拒否したことで、やむなく停止した。
 彼らはすぐに、大急ぎで逃げ出した。
 7月6日、追い詰められるオーストリア軍を助けに何度か来ていたドイツ軍が、反攻をはじめた。 
 ドイツの軍人たちが見ていると、ロシア軍は略奪し狼狽を広げて、逃げていた。
 6月大攻勢は、旧ロシア軍の死直前の喘ぎだった。//
 旧ロシア軍は1917年7月以降は、重要な作戦を行わなかった。
 この辺りが、第一次大戦でのロシアの人的被害について述べる、適当な場所だろう。
 ロシアの戦争に関する統計は貧相なので、人的損失を正確に決定するのは困難だ。
 標準的な情報源によれば、ロシアの死傷者数は交戦国のうちそれが最大のものと同程度だった。
 例えば、クラットウェル(Cruttwell)は、ロシア人死者数170万人、負傷者数495万人と推算する。
 これらは、ドイツの被害を僅かに上回り、ロシアよりも16ヶ月間長く戦争を続けたイギリスやフランスとほぼ相応する。
 別の外国人は、死者数は250万人に達すると概算する。(114) 
 これらの数字は、多すぎると考えられてきた。
 公式のロシアの情報源によれば、戦場での死者数は、77万5400人だ。
 もっと最近のロシア人の概算では、いくぶんか多い数字になる。
 戦場での死者数は90万人、戦闘負傷による致死者数40万人、合計で死者は130万人。
 これは、フランス軍およびオーストリア軍の死者数に並び、ドイツ軍のそれよりも三分の一少ない。//
 ロシア軍は、はるかに超える最大数の戦争捕虜を敵国に手に残した。
 ドイツとオーストリアの戦時捕虜収容所(POW camps)には390万人のロシア人捕虜がいた。これは、イギリス、フランスおよびドイツ各軍の戦争捕虜の合計数(130万人)の3倍に達した。
 オーストリア=ハンガリー軍だけは220万人の捕虜を出し、接近した。
 戦闘に投じられた100人のロシア人ごとに、300人が降伏した。
 比較してみると、イギリス軍ではこの数字は20、フランス軍では24、ドイツ軍では26だった。
 言い換えると、ロシア人兵士たちは、西側の諸軍の兵士よりも12倍から15倍の高い確率で降伏した。//
 六月軍事攻勢の失敗は、分断された国家を彼と政府の周りに再結集させようとしたケレンスキーにとって、個人的な惨事だった。
 大きな賭けをして負けて、彼は狼狽し、立腹しやすくなり、極度に懐疑的になった。
 こうした気分の中で、彼は重大な過誤を冒して、敬愛される指導者から、左からも右からも軽蔑される生け贄に変わった。//
 六月軍事攻勢の失敗がもたらした士気低下と失望の雰囲気の中で、レーニンとその部下たちは、新しい蜂起へと冒険的企てをした。
  (114) C. R. M. F. Cruttwell, A History of the Great War, 1914-1918 (Oxford, 1936), p.630-2。Tsen-tral'noe Statistiki, Rossiia v Mirovoi Voine 1914-1918 goda (モスクワ, 1925), p.4n。
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 第9節につづく。

1574/ケレンスキー着任・六月騒乱①-R・パイプス著10章7節。

 前回のつづき。第7節は、p.412~p.417。
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 第7節・ボルシェヴィキの挫折した6月街頭行動①。
 ケレンスキーは、戦時大臣としての職責に、称賛すべき積極さで取り組んだ。
 ロシアの民主主義の生き残りは、強くて紀律ある軍隊にかかっていると、そして沈滞気味の軍の雰囲気は軍事攻勢に成功することで最も高揚するだろうと、確信していたからだ。
 将軍たちは、軍がこのまま長く動かないままであれば、軍は解体すると考えていた。
 ケレンスキーは、フランス軍の1792年の奇跡を再現したかった。フランス軍はその年、プロイセンの侵攻を止めて退却させ、全国民を革命政府へと再結集させた。
 二月革命前に取り決められていた連合諸国への義務を履行するために、大攻勢は6月12日に予定されていた。
 それはもともとは純粋に軍事的な作戦として構想されていたが、今や加えて、政治的な重要性を持ってきていた。
 軍事攻勢の成功に期待されたのは、政府の権威を高め、全民衆に愛国主義を再び呼び起こすことだった。これらは、政府に対する右翼や左翼からの挑戦にうまく対処するのを容易にするだろう、と。
 テレシェンコはフランスに対して、攻勢がうまくいけばペテログラード守備兵団にある反抗的な要素を抑圧する措置をとる、と語った。//
 軍事攻勢を行う準備として、ケレンスキーは軍の改革を実施した。
 彼は、おそらくロシアの最良の戦略家だったアレクセイエフについて、敗北主義的行動者だという印象を持った。そしてアレクセイエフに替えて、1916年の運動の英雄、ブルジロフ(Brusilov)を任命した。(*)
 ブルジロフは軍隊の紀律を強化し、服従しない兵団に対する措置について、広い裁量を将校たちに与えた。
 フランス軍が1792年に導入した commissaires aux armees を真似て、前線の兵士たちの士気高揚のために委員(commissars)を派遣し、兵士と将校の間の調整にあたらせた。これは、のちに赤軍でボルシェヴィキが拡大して使うことになる、新しい考案物だった。
 ケレンスキーは、5月と6月初めの間のほとんどを、愛国心を掻き立てる演説をしながら、前線で過ごした。
 彼が現れることは、電流を流すような刺激的効果をもった。//
 『前線へのケレンスキーの旅を表現するには、「勝利への進軍」では弱すぎるように思える。
 扇動的な力強い演説のあとは、嵐が過ぎ去るのに似ていた。
 群衆たちは彼を一目見ようと、何時間も待った。
 彼の通り道はどこにも、花が撒かれた。
 兵士たちは、握手しようとまたは衣服に触ろうと、何マイルも彼の自動車を追いかけた。
 モスクワの大きな会館での集会では、聴衆たちは熱狂と崇敬の激発に襲われた。
 彼が語りかけた演台は、同じ信条の崇拝者たちが捧げた、時計、指輪、首輪、軍章、紙幣で埋め尽くされた。』(103)//
 ある目撃者は、ケレンスキーを『全てを焼き尽くす火を噴き上げている活火山』になぞらえた。、そして、彼には自分と聴衆の間に障害物があるのは堪えられないことだった、とつぎのように書いた。
 『彼は、あなた方の前に、頭から脚まで全身をさらしたい。そうすれば、あなた方と彼の間には、見えなくとも力強い流れのあるお互いの放射線が完璧に埋め尽くす、空気だけがある。
 彼の言葉はかくして、演壇、教壇、講壇からは聞こえてこない。
 彼は演壇を降りて台に飛び移り、あなた方に手を差し出す。
 苛立ち、従順に、激しく、信仰者たちの熱狂が打ち震えて、彼を掴む。
 自分に触るのを、手を握るのを、そして我慢できずに彼の身体へと引き寄せるのを、あなた方は感じる。』(104)//
 しかしながら、このような演説の効果は、ケレンスキーが見えなくなると突如に消失した。現役将校たちは、彼を『最高説得官』と名づけた。
 ケレンスキーはのちに、6月大攻勢直前の前線軍団の雰囲気は、両義的だった、と想い出す。
 ドイツとボルシェヴィキの情報宣伝活動の影響力は、まだほとんどなかった。
 その効果は、守備兵団と、新規兵から成る予備団である、いわゆる第三分隊に限られていた。
 しかし、ケレンスキーは、革命は戦闘を無意味にしたとの意識が広がっていることに直面した。
 彼は、書く。『苦痛の三年間の後で、数百万の戦闘に疲れた兵士たちが、「新しい自由な生活が故郷で始まったばかりだというのに、自分はなぜ死ななければならないのか?」と自問していた。』(105)
 兵士たちは、彼らが最も信頼する組織であるソヴェトからの返答をもらえなかった。ソヴェトの社会主義者多数派は、きわめて特徴的な、両義的な方針を採用していたからだ。
 メンシェヴィキと社会主義革命党(エスエル)の(ソヴェトでの)多数派が裁可した典型的な決議を一読すれば、戦争に対する完全に消極的な性格づけに気づく。すなわち、この戦争は帝国主義的なものだ。また、戦争は可能なかぎり速やかに終わらせるべきだとの主張にも。
 また一方で、ケレンスキーの強い要求に従って挿入された、遠慮がちの数行にも気づくだろう。それは、全面平和を遅らせて、ロシアの兵士たちが戦い続けるのは良いことだ、と、曖昧な論理で、かつ感情に訴える何ものをもなくして、示唆する数行だった。//
 ボルシェヴィキは政府に対する不満や守備兵団の士気低下を察知して、6月初めに、この雰囲気を利用することを決めた。
 ボルシェヴィキの軍事機構は6月1日に、武装示威活動を行うことを表決した。
 この軍事機構は中央委員会から命令を受けていたので、当然のこととして、その決定は後者の承認を受けているか、おそらくは後者の提唱にもとづいていた。
 中央委員会は6月6日に、4万人の武装兵士と赤衛軍を街頭に送り込んでケレンスキーと連立政権を非難する旗のもとで行進し、そして適当な瞬間に『攻撃に移る』ことを議論した。
 これが何を意味するのかは、軍事機構の長のネフスキー(Nevskii)からボルシェヴィキの計画を知ったスハノフの文章によって分かる。//
 『6月10日に予定された「宣言行動」の対象は、臨時政府の所在地のマリンスキー宮(Mariinskii Palace)とされた。
 これは、労働者分遣団とボルシェヴィキに忠実な連隊の最終目的地だった。
 特に指名された者が宮の前で、内閣のメンバーに出て来て質問に答えよと要求することになっていた。
 特別指名の集団は、大臣が語ったとき、『民衆は不満だ!』と声を挙げて、群衆の雰囲気を興奮させる。
 雰囲気が適当な熱度以上に達するや、臨時政府の人員はその場で拘束される。
 もちろん、首都はすぐに反応することが予想される。
 この反応の状態いかんによって、ボルシェヴィキ中央委員会は、何らかの名前を用いて、自分たちが政府だと宣言する。
 「宣言行動」の過程でこれら全てのための雰囲気が十分に好ましいと分かれば、そしてルヴォフ(Lvov)やツェレテリが示す抵抗は弱いと分かれば、その抵抗はボルシェヴィキ連隊と兵器の実力行使によって抑止する。(**)
 示威行進者の一つのスローガンは、『全ての権力をソヴェトへ』だとされていた。
 しかし、ソヴェトが自らを政府と宣言するのを拒んで武装の示威活動を禁止すれば、スハノフが合理的に結論するように、権力がボルシェヴィキ中央委員会の手に渡されるということのみを意味したことになっただろう。
 示威活動は第一回全ロシア・ソヴェト大会(6月3日に開会予定)と同時期に予定されたので、ボルシェヴィキは既成事実を作って大会と対立するか、または大会の意思に反して、大会の名前で権力を奪うか権力を要求することを無理強いするかを計画していたかもしれない。
 レーニンは実際に、その意図を秘密にはしなかった。
 ソヴェト大会でツェレテリがロシアには権力を担う意思がある政党はないと述べたとき、レーニンは座席から、『ある!』と叫んだ。
 この逸話は、共産主義者の聖人伝記類では伝説になった。//
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   (*) ブルジロフ(Brusilov)はその回想録で、最高司令官になったときにすでに、ロシア軍団には戦闘精神が残っておらず、攻勢は失敗すると分かったと主張している。A. B. Brusilov, Moi vospominaniia (モスクワ・レニングラード, 1929), p.216。 
  (103) E. H. Wilcox, Russian Ruin <ロシアの破滅> (ニューヨーク, 1919), p.196。
  (104) 同上, p.197。V. I. Nemirovich-Danchenko を引用。  
  (105) Alexander Kerensky, Russia and History's Turning Point <ロシアと歴史の転換点>(ニューヨーク, 1965), p.277。
  (**) N. Sukhanov, Zapinski o revoliutsii, IV (ベルリン, 1922), p.319。スハノフはこの情報の源を示していない。だが、メンシェヴィキ派の歴史家のボリス・ニコラエフスキー(Boris Nikolaevskii)は、ネフスキーから来ているのだろうと推測している。SV, No. 9-10 (1960), p.135n。ツェレテリは、スハノフが回想録を公刊した1922年に主要な人物はまだ生きていて、スハノフの説明を否定できたはずだったにもかかわらず、誰もそうしなかった、と指摘する。I. G. Tsereteli, Vospominaniia o Fevral'skoi Revoliutsii, II (パリ, 1963), p.185。
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 ②につづく。

1558/四月騒乱①-R・パイプス著10章第4節。

 前回のつづき。
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 第4節・1917年4月のボルシェヴィキの集団示威活動①。
 ロシアの戦争意図をめぐる政治的危機を利用して、ボルシェヴィキは4月21日に、権力をめざす最初の試みを行った。
 イスパルコム〔Ispolkom, 全ロシア・ソヴェト執行委員会〕は1917年の3月末に臨時政府に対して、オーストリアとトルコの領土に対するミリュコフ(Miliukov)の要求を承認しないように強く主張したことが、想起されるだろう。
 社会主義者たちを宥めるべく、政府は3月27日に宣言書を発表し、イスパルコムが承認した。それは、領土併合の放棄を多言することなく、ロシアの目的は『民族の自己決定権』にもとづく『永続平和』だと宣言していた。//
 こう認めることで問題は収拾されたが、一時的にだけだった。
 ヴィクトル・チェルノフ(Viktor Chernov)がロシアに帰ってきて、この問題は再び4月の論争の根幹部分になった。
 このエスエル党の指導者は戦時中の数年間を、西欧で、主としてスイスで過ごした。スイスではツィンマーヴァルトとキーンタールの会議に参加し、伝えられるところではドイツの資金で、ドイツやオーストリアにいるロシア人戦争捕虜に関する革命的な書物を刊行した。 
 彼はペテログラードに戻って、すぐにミリュコフに反対する宣伝運動を始め、ミリュコフの辞任を要求し、政府に対して3月27日の宣言書をロシアの正式の戦争意図であるとして連合諸国の政府に電送することを求めた。
 ミリュコフは、公式に領土放棄を明らかにすれば戦争からの離脱の意図を意味していると連合諸国が誤解する、という理由で、この要求に反対した。
 しかし、内閣はミリュコフの言い分を認めなかった。
 ケレンスキーは、この事案に特別の熱心さを示した。それは、彼の重要な好敵であるミリュコフの評判を落とし、ケレンスキー自身のソヴェト内での立場を強くするはずだった。
 そのうちに、妥協に到達した。
 政府は3月27日の宣言書を連合諸国に伝えるのに同意するが、戦争を継続するとのロシアの意図についての疑いを除去するように、説明の文書〔Note, 覚え書〕を添付することとする。
 ケレンスキーによると、ミリュコフが案を作成して内閣が承認した説明文書は、『ミリュコフの「帝国主義」への最も厳しい批判で充満していたはずだった』。(53)
 それは、連合諸国と共通する『高い理想』のためのロシアの戦闘決意と、そのために『義務を完全に履行する』ことを再確認した。
 二つの文書[宣言と説明書(覚え書)]は、4月18日(西暦で5月1日)に連合国諸政府へと電送すべく国外のロシア大使館へと打電された。//
 政府の文書が4月20日朝のロシアの新聞に掲載されると、社会主義知識人界は激怒した。
 ごく一部の極端派を除く社会主義諸政党の公式目標である、勝利までの戦争継続の誓約が不愉快だったのではなく、問題は、『併合と配分』に関する両義的な言葉遣いだった。
 イスパルコムはその日に、『革命的民主主義は、攻略的な目的のために…血が流れることを許しはしない』と票決した。
 ロシアは、戦いつづけなければならない。だがそれは、全交戦国が領土併合のない講和を結ぶ用意ができるまでだ。//
 政府とイスパルコムの間の協議によって、論争は容易に解消されえただろう。それはほとんど確実に政府側の屈従になっただろうけれども。
 しかし、両者間に妥協が成る前に、兵舎および労働者区画で怒りが発生した。それは、見えない糸でイスパルコムとつながっていた。//
 街頭不安は4月20日-21日に自然発生的に始まったが、速やかにボルシェヴィキが指導した。
 若き社会民主主義者の将校、リュテナント・テオドア・リンデ(Lieutenant Theodore Linde)は、この人は指令書第一号の草案作りに関与していたのだが、政府の文書は革命的民主主義の理想に対する裏切りだと解釈した。
 リンデは彼の連隊、フィンランド予備衛兵団の代表者たちを呼び集め、彼らにミリュコフに反対する街頭示威活動へと部下を投入するように言った。
 彼は同じ伝言書を携えて、別の守備兵団も回った。
 リンデは、ロシアが戦争し続けることを望む、熱烈な愛国者だった。
 すぐのちに、彼は死ぬ。闘いに加わるよう求めた前線の兵士団によって、殺戮された。彼らは、リンデのドイツふうにひびく名前によって、敵の工作員に違いないと決めたのだった。
 しかし、彼は、多くのロシアの多くの社会主義者のように、戦争は『民主主義』の理想を掲げて開始されたと思いたい人物だった。
 どうも彼は、権威により正当化されていない政治的な示威運動に参加するように兵士たちに熱心に説くことは反乱を呼びかけるに等しい、ということを認識していなかったように見える。
 午後三時からそれ以降、フィンランド予備衛兵団を先頭とする若干の軍団が、完全武装をして、政府が所在するマリインスキー宮へと行進した。そこで彼らは、ミリュコフの退任を要求して叫んだ。//
 グチコフ(Guchkov)が病気だったため、このときの閣議はマリインスキー宮ではなくて、グチコフの戦時省の職場で開かれていた。
 その前に、コルニロフ将軍が現れていた。彼は、ペテログラード軍事地区司令官であり、首都の治安に責任をもっていた。
 彼は、兵団に反乱兵士たちを解散させることの許可を求めた。
 ケレンスキーによると、内閣は一致してこの要請を拒んだ。
 『我々は、推移を把握している自信がある。また、きっと民衆は政府に反対するいかなる暴力行為をも許さないだろう』。
 これは、臨時政府がその権威に対する公然たる挑戦に直面して実力を行使するのをためらった最初のことで、かつ最後のことではなかった。-この事実をコルニロフもレーニンも、忘れなかった。//
 このときまで、ボルシェヴィキは騒乱と何の関係もなかった。実際、彼らは驚いたように思える。
 しかし、ボルシェヴィキはこれを利用する時間を逸しなかった。//
 この時点でのボルシェヴィキの最高司令部の活動については現在、明確ではない。重要な文書証拠類のほとんど非公刊のままであるためだ。
 事態に関する公式の共産党の見方によると、党中央委員会は、4月20日夕方から21日の全日にわたってペテログラードで起きた反政府の集団示威活動を、正当なものとして承認してはいなかった。
 『臨時政府打倒』とか『全権力をソヴェトへ』とか書いた旗を掲げて街頭を歩くボルシェヴィキ党員は、S・Ia・バグダエフ(Bagdaev)を含む第二ランクのボルシェヴィキの指令によって行動した、とされている。(*)
 しかし、ボルシェヴィキ党のような中央集中的政党で、小さな党組織が自分で中央委員会に果敢に逆らって革命的なスローガンを掲げるのを認めただろうとは、全く考え難い--レーニンの臨時政府への対立的な立場に反抗したとバグダエフの文書が証して、責任はより愚かな者へと転嫁された。
 1917年4月20-21日の事態に関して誤導するような説明方法は、ボルシェヴィキの最初の蜂起の企てが恥ずかしい失敗に終わったことを隠蔽するために作り上げられてきた。
 事態を正確に描くのをさらに混乱させるのは、共産党の歴史家が事象発生後に党によって採択された諸決議を長々と引用してきたことで、それはこの事象は、発生前に意図されていたと示唆しており、かつレーニンが書いた指令を『出典不明』だと推論している。//
 リンデによって呼び出された兵団がマリインスキー広場に集まっていた4月20日の午後、ボルシェヴィキ中央委員会は緊急の会議を開いた。
 ミリュコフの文書を読んだあとその日の早くにレーニンが起草した決定を、同委員会は裁可した。このことは、その後の示威活動はボルシェヴィキが支持していたことの、合理的な根拠を提示する。
 レーニンの著作物の初期の諸版は、レーニンが執筆者であることを否定した。
 これを初めて肯定したのは、1962年発行のレーニン全集の第5版だった。(61)
 レーニンは、臨時政府は『完全に帝国主義的』だ、イギリス・フランスはもとよりロシアの資本によって支配されている、と表現した。
 この類の体制はまさにその本性において、領土併合を放棄することができない。
 レーニンは、政府を支持しているとしてソヴェトを批判し、ソヴェトに全権力を握るように求めた。〔A〕
 これはまだしかし、政府打倒の公然たる訴えではなく、レーニンの文章からこのような結論を導くには、深い洞察が必要だ。
 これはたしかに、ボルシェヴィキ党員が『臨時政府打倒』や『全権力をソヴェトへ』と書く旗をもって示威行進をするのを承認している。レーニン自身がしかし、のちにはこれらと離れることになる。//
 このときの会議で中央委員会が採択した戦術的諸決定がどのようなものであったかは、知られていない。
 中央委員会会議にしばしば加わっていたペテログラード委員会の議事録で公刊されている版は、瑣末な組織上の問題のみを記録している。
 5月3日までの全てのそれに続く会議の議事は、省略されている。
 しかしながら、つぎの二つのことは、合理的に見て確かだ。
 第一に、レーニンは攻撃的な示威行動の主な提唱者であり、かつ強い反対に遭ったように見える。
 これのかなりは、後で起きたことから分かる。のちにレーニンは、同僚、とくにカーメネフから批判を受けた。
 第二に、集団示威活動は、激発した労働者や反乱した兵士たちがツァーリ(帝制)政府を打倒した2月26-27日の再現、全面的な蜂起を意図するものとされていた。//
 すでに4月20日の夕方、午後の示威行進に参加した兵士たちが兵舎に帰ったあとで、兵士と労働者の新しい一群が、反政府の旗を持って街頭に現われた。彼らは、ボルシェヴィキが指導する反乱者たちの先行軍団だった。
 そのあと、『レーニンよ、くたばれ!』と書く旗を掲げる、反対の示威活動が起きた。
 示威行進中の者たちは、ネヴスキー通りで衝突した。
 イスパルコム〔ソヴェト執行委員会〕による介入に従って、群衆たちは平穏になった。//
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  (53) Alexander Kerensky, The Catastrophe (ニューヨーク, 1927), p.135。
  (*) バグダエフは実際に、5月1日、これは4月18日にあたる、のデモを組織したとしてペテログラード委員会から追及された。この日に政府の戦争意図に関する宣言書と説明文書は、連合諸国政府に伝えられた。
  (61) Lenin, Sochineniia, XX, p.648。プラウダ第37号(1917年4年21日付)p.1からの文章は、p.608-9。Lenin, PSS, XXXI, P.291-2。
 〔レーニン全集第24巻(大月書店, 1957年)183頁以下の「臨時政府の覚え書」/1917年4月20日執筆・プラウダ第37号(1917年4年21日)に発表、が該当する。「覚え書」とは、本文上の<添付した説明文書>の旨で訳したNoteのことだ。-注記・試訳者〕。
  〔A〕試訳者注記/上のレーニン全集第24巻183頁以下「臨時政府の覚え書」から一部引用する。p.183-5。
 「…と覚え書は、補足している。//簡単明瞭である。決定的に勝利するまで戦う。イギリスやフランスの銀行家との同盟は神聖である…。//
 問題は、グチコフ、ミリュコフ、…が資本家の代表者だという点にある。/
 問題は、いまロシアの資本家の利益が、イギリスとフランスの資本家とおなじものだということにある。このために、しかもただこのために、ツァーリと英仏資本家との条約は、ロシアの資本家の臨時政府の心情にとっては、こんなに貴重なのである。//
 どの自覚した労働者も、どの自覚した兵士も、臨時政府を『信頼』する政策を、これ以上は支持しないであろう。信頼の政策は破産したのだ。//
 いまの労働者・兵士代表ソヴェトは、二者択一をせまられている。すなわち、グチコフとミリュコフが進呈した丸薬をのみこむか、…、それともミリュコフの覚え書に反撃をくわえるか、…である。//
 労働者、兵士諸君、いまこそ、大きな声で言いたまえ、われわれは、単一の権力-労働者・兵士代表ソヴェト-を要求する、と。臨時政府、ひとにぎりの資本家の政府は、このソヴェトに場所を明けわたさなければならない。」
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 ②へつ続く。

1506/日本共産党の大ペテン・大ウソ34-<ネップ>期考察01。

○ 志位和夫・綱領教室第2巻(新日本出版社、2013)p.173-4はこう書く。
 レーニンの1918年夏~1920年の経済政策は「戦時共産主義」と呼ばれ、農民から「余剰穀物のすべてを割当徴発する」ものだった。レーニンが「この戦時の非常措置」を「共産主義」への「直接移行」と「勘違いして位置づけ」たことから、「農民との矛盾が広がってい」った。
 レーニンが「共産主義」への「直接移行」と観念していたことはそのとおりだろうが、しかし、「勘違いして位置づけ」た、という表現の中に、日本共産党(幹部会)委員長・志位和夫の人間的な感情は、認められない。
 この「勘違い」によって、のちに1921年秋にレーニン自身が「生の現実はわれわれが過っていたこと(mistake, Fehler)を示した」と明言した<失敗>によって、いかほどの人間が犠牲になったのか。
 ○ 志位和夫は<戦時共産主義>という言葉を使い、多くの歴史書もこの概念を使っている。
 おそらくは、スターリン時代におけるソ連・ロシアの公式的歴史叙述によって、レーニン時代をおおよそこの<戦時共産主義>時代と<ネップ=新経済政策>時代に分けるということが定着して、そのまま現在にまで続いているようにも思われる。
 最近にほんの少し触れたように、<戦時共産主義>という語は、志位が「この戦時の非常措置」と書いているように、<戦時>のやむをえない措置だったかのように誤解させる。
 また、<戦時>とはまるで第一次大戦とその後の勝利諸国による対ロシア<干渉戦争>を意味するかのように誤解されうる。
 日本共産党は、そのように理解したい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。
 しかし、ロシアが第一次大戦から離脱したのは1918年3月の「中央諸国(ドイツ等)」との間のブレスト・リトフスク条約によってだ。また、1918年~1919年に戦闘終結とベルサイユ講和条約締結があった。
 そこで、日本共産党によると、英仏らによる<干渉戦争>と闘った、と言いたい、又はそのような印象を与えたいのかもしれない。しかし、大戦終結と英仏らの対ドイツ等との講和まで、およびその後のほんの数年間、英仏らが新生?ロシアと「戦争」をすべき理由がいかほどあっただろうか。
 たしかに、ボルシェヴィキ「赤軍」に対する「白軍」への物的・資金的援助はあったのだろう。だが、今のところの知識によれば、戦争といっても、対ロシアについては、英国軍が北方のムルマンスクまで来たということと、日本がいわゆる<シベリア出兵>をしたといった程度で、いかほどに<干渉戦争>という「戦争」に値する戦闘があったのかは疑わしい。日本軍は地方軍または「独立共和国」軍と戦闘したのだろうが、モスクワ・中央政府とその軍にとっては「極東」の遠いことだったのではないかとの印象がある(それよりも<東部>での農民反乱等の方に緊迫感があったのではないか)。
 誰もが一致しているだろうように、<戦時共産主義>とは、ロシアの「内戦」という「戦時」のことをさしあたりは意味している。「内戦」とは civil war, Buergerkrieg で(直訳すると「市民(・国民)戦争」で)、まさに「戦争」の一種なのだ。ボルシェヴィキの政府と軍は、国民・民衆と戦争をしていた。
 しかしさらに、<内戦>中の「非常措置」(志位和夫)という理解の仕方すら、相当に政治的な色彩を帯びている、と考えられる。
 後掲のL・コワコフスキの1970年代の書物も、<戦時共産主義>という語はmislead する(誤解を招く、誤導する)ものだと述べている。
 ○ 既述のように、秋月の今のところの理解では、10月「革命」後のレーニン・共産党(ボルシェヴィキ)の経済政策は、マルクスの文献に従った、かつレーニンがそれに依って具体的に1917年半ばに『国家と革命』で教条化した<共産主義>そのものだった。当時の「非常措置」だったのではない。
 そうして、レーニン・共産党による<ネップ>導入は、じつはマルクス主義又は共産主義理論自体の「敗北」を示していた、と考えられる。たんなる暫定的な「退却(retreat)」ではない。
 レーニンが病床にあって、大いに苦悩したというのも不思議ではないだろう。
 ○ 文献実証的に( ?)、1919年半ばにレーニンは何と主張していたかを、日本共産党も推奨するに違いないレーニン全集第29巻(大月書店、1958/1990第31刷)から引用する。
 まず、<校外教育第一回ロシア大会-1919.05.6-19>。
 「マルクスを読んだものならだれでも」、「マルクスが、その全生涯と…の大部分を、まさに自由、平等、多数者の意思を嘲笑することに、…ささげたこと」、こうした嘲笑の対象となる「空文句の裏には、商品所有者が勤労大衆を抑圧するためにつかう、商品所有者の自由、資本の自由の利益があるということの証明」に「ささげたことを知っている」。
 「全世界で、あるいはたとえ一国においてでも、…時機に、また資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅するための被抑圧階級の闘争が前面に現れているような歴史的時機に」、「その自由のためにプロレタリアートの独裁に反対する」者は、「そういう人は、まさに搾取者をたすけるものにほかならない」。p.350。
 後掲のL・コワコフスキの著によると、「資本を完全に打倒し商品生産を完全に絶滅する」こととは、英文では、<the complete overthrow of capital and the abolition of commodity production >だ。「commodity production 」の、goods ではない「commodity」=「商品」は、「必需物」・「有用物」という含意もある。
 ともあれ、レーニンはこのとき、マルクスによりつつ「資本」の完全打倒と「商品生産」の完全絶滅を正しいものとして、目標に掲げていた。
 つぎに、<工場委員会、労働組合、…での食糧事情と軍事情勢についての演説-1919.7.30>。
 食糧政策・問題について、「真の勤労大衆の代表者、…人々、彼らは、ここでの問題が、どんな妥協をもゆるさない、資本主義との最後の決戦であることを知っている」。
 「われわれは、ほんとうに資本主義とたたかっており、資本主義がわれわれにどのような譲歩を強いようとも、…やはり資本主義と搾取に反対してたたかいつづけるのだ、と言う」。コルチャコフやデニーキン〔ボルシェヴィキと闘う「白軍」等の指導者-秋月〕などの「彼らを元気づけている力、それは資本主義の力であるが、この力は、…、穀物や商品の自由な売買にもとづくものだ」。「穀物が国内で自由に販売されているなら、こうした事態がつまり資本主義を生み出す主要な源泉であって、この源泉がまた…共和国の破滅の原因であったということを、われわれは知っている。いま資本主義と自由な売買にたいする最後の決闘がおこなわれており、われわれにとってはいま資本主義と社会主義とのもっとも主要な戦闘がおこなわれている」。p.538-9。
 ここでレーニンは、明確に、「穀物や商品の自由な売買」に反対することこそ社会主義の資本主義に対する闘いだと、「最後の決闘」とまで表現して、無限定に、つまり例外を設けることなど全くなく一般的に語っている。
 これら二点等について、以下を参照した。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (仏語1976、英語1978、〔マルクス主義の主要な動向〕), p.741-3。
 ○ むろん引用し切れないが、上の二つともに、レーニンは長々と、得々と喋り、同僚又は支持者たちに向けて力強く(?)演説している。
 日本共産党・志位和夫が言うように、後になって「…と勘違いして位置づけ」た、で済ませることができるだろうか。
 <ネップ>とはつまり、部分的にせよ、「商品生産」を、「穀物や商品の自由な売買」を正面から認めることとなる政策だったのだ。
 こんなふうに<転換>が語られるとすれば、それまでの農業政策等によって辛苦を舐めた農民たち、犠牲者等はやり切れないだろう(しかも、新政策がすみやかに施行又は「現実化」されたわけでもない)。
 ネップ導入は政策表明上の、つまるところ、レーニンによる「敗北」宣言だった。
 では、ネップという新政策導入時期に、<市場経済を通じて社会主義へ>という基本方針を、レーニンは確立したのかどうか。
 ずいぶんと前この欄でに設定したこの問題については、まだ本格的には立ち入っていない。あせる必要はない。現今の<時局>・<時流>のテーマではない。

1480/ムッソリーニとレーニン④-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。[第5章第2節は、p.245-p.253。]
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源④。
 ムッソリーニが社会党から除名される原因になったこの転回について、さまざまな説明が提示されてきた。
 最も好意的でない見方によると、ムッソリーニは賄賂で動かされた。-彼は、その新聞< Il Popolo d'Italia >〔イタリア人民〕を発行するための資金を提供してくれたフランスの社会主義者から強い圧力をかけられていた。
 これが示唆するのは、実際に、ムッソリーニは破産状態にあったことだ。
 しかしながら、ムッソリーニの動機は政治的なものだったというのが、もっとありえそうだ。
 ほとんど全てのヨーロッパの社会主義政党が平和主義の公約を破って政府の参戦を支援したのちに、ムッソリーニは、ナショナリズムは社会主義よりも力強いと結論したように見える。
 1914年12月に、彼はつぎのように書いた。
 『国家は消失しなかった。われわれは、国家は絶滅すると思ってきた。
 そうではなく、われわれは目の前で、国家が立ち、生き、躍動しているのを見た。
 当たり前だが、そうなのだ。
 新しい現実は、真実を抑え込みはしない。すなわち、階級は国家を破壊できない。
 階級は利益の集合体であるが、国家は、情緒、伝統、言語、血統の歴史だ。
 国家の中に階級を挿入することはできるが、それらが互いに破壊し合うことはない。』(29)
 このことの帰結は、社会党はプロレタリアートだけではなくネイション全体(the entire nation)を指導しなければならない、ということだ。すなわち、『<ナショナルな社会主義(un socialismo nazionale)>』を生み出さなければならない。
 たしかに、世界的(インターナショナルな)社会主義から国家の(ナショナルな)社会主義への移行は、野心ある西側ヨーロッパのデマゴーグについてよく理解させる。(30)
 ムッソリーニは、一つのエリート政党が指導する暴力革命という考え方に忠実なままだった。しかし彼はこれ以降は、ナショナルな革命を目指すことになった。//
 ムッソリーニの転回はまた、戦略的な思考だったと説明することもできる。すなわち、革命には国際的な〔international=国家間の〕戦争が必要だとする確信からだ。
 こういう見解はイタリアの社会党創設者たちの間では共通していた。それは、極左のセルジオ・パヌンシオ(のちファシズムの主要な理論家)が戦争開始の二ヶ月後に新聞<前へ!>で書いた、つぎの考察文にも見られる。
 『<私は、現在の戦争だけが-かつより激しくて長引く戦争が-ヨーロッパ社会主義を革命的行動へと解き放つだろうと確信する。>(中略)
 国外での戦争には、国内での戦争が続かなければならない。前者は後者を準備しなければならない。そして、その二つが一緒になって、社会主義の偉大で輝かしい日を用意しなければなならない。(中略)
 われわれ全てが、社会主義の実現は<求められ>なければならないと確信している。
 今が、<求めて> そして<獲得する>ときだ。
 社会主義が緩慢でかつ…<中立的>であれば、明日には、歴史的状況は現在の状態と類似の情勢を再確認するだけにとどまるかもしれない。しかし、客観的には、社会主義からはより離れた、しかしかつ逆の意味での転換点でありうる。(中略)
 われわれは、われわれの全てが、<全ての>諸国家が-<いかなる程度>にブルジョア国家であろうと-勝者と敗者のいずれであろうと、戦争の<あと>では、粉砕された骨とともに衰弱して横たわっているだろう、と確信する。(中略)
 資本主義は深い損傷を受けるので、最後の一撃(< coup de grace >)には十分だろう。(中略)
 平和の教条を支持する者は、無意識に、資本主義を維持する教条を支持しているのだ。』(*)//
 戦争へのこのような肯定的態度は、ロシアの社会主義者たちに、とくに極左の立場の者たちに、もう少しは率直さを抑えて語られたが、知られていなかったわけではない。
 レーニンが第一次大戦の勃発を歓迎し、それが長く続いて、破滅的になることを望んだ、という証拠資料がある。
 世界の『ブルジョアジー』を大量殺戮者と攻撃する一方で、レーニンは個人的には、その自己破壊を称賛していた。
 バルカン危機の間の1913年1月に、レーニンはゴールキにあてて、つぎのように書いた。
 『オーストリアとロシアの戦争は、(東ヨーロッパ全体の)革命にとってきわめて有用だ。しかし、フランツ・ヨゼフとニコラシュカ(ニコライ二世)は、われわれにこの愉しみを与えてくれそうにない。』(31)
 レーニンは、大戦中ずっと、ロシアおよびインターの社会主義運動で、平和主義に関するいかなる宣明をすることも拒否した。社会主義者の使命は戦争を止めることではなく、戦争を内乱へと、つまり革命へと転化することだと主張しつつ。//
 ゆえに、つぎの旨のドメニーコ・セッテンブリーニ(Domenico Settenbrini)の叙述には賛同しなければならない。すなわち、ムッソリーニとレーニンの戦争への態度には、一方は自国の参戦に賛成し、他方はともかくも表向きは反対しているとしても、強い類似性がある。彼はこう書く。//
 『(レーニンとムッソリーニの二人は)以下のことを悟っていた。党は大衆を革命化し、その反応を形成するための道具ではありうる。しかし、党はそれ自身によっては、革命の根本的な前提条件-資本主義的社会秩序の崩壊-を生み出すことはできない。
 プロレタリアートの自己啓発によって自動的に出現する革命精神、その結果として弱体化する市場に資本主義者が商品を売れなくなること、についてマルクスがいったい何を語っていようが、プロレタリアートはますます貧窮化し、革命精神は欠如していることが判り、資本主義秩序は破滅に向かうどころか拡張している、というのが事実だ。
 したがって、マルクスによって自動的に起動すると想定されたメカニズムには、それを補完するものがなければならない。補完するものとは、-戦争だ。』(**)
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  (29) ムッソリーニ, オペラ・オムニエ, Ⅶ (1951), p.101。また、Gregor, ファシスト信条, p.171 も見よ。
  (30) ムッソリーニ, 同上。Gregor, ファシスト信条, p.168-171。
  (*) フェリーチェ, ムッソリーニ, p.245-6 から引用。この論考の正確な著者はムッソリーニ自身である可能性が指摘されてきた。
 1919年にムッソリーニは、イタリアの参戦に関して、『革命とその始まりの最初のエピソードだ。革命は戦争の名のもとで40ヶ月続いた』と語った。これは、A. Rossi, イタリアファシズムの成立, 1918-1922 (1938), Ⅱ に引用されている。
  (31) レーニン, PSS, 第48巻, P.155。
  (**) G. R. Urban 編, ユーロ・コミュニズム (1978), p.151。
 セッテンブリーニ(Settenbrini)は、つぎの興味深い疑問を提出している。
 『かりに1914年のイタリア政府のようにロシア帝制(ツァーリ)が中立のままにとどまっていたとすれば、レーニンはいったい何をしただろうか。レーニンが熱心な干渉主義者(Interventioist)にならなかったとは、確実に言えるのではないか?』
 Settenbrini, in : George L. Mosse 編, 国際的ファシズム (1979), p.107。
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 ⑤につづく。

1478/ムッソリーニとレーニン③-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源③。
 労働者階級は生まれながらに改良主義者だ(『経済組織(労働組合)は経済の現実が改良主義的だから改良主義者だ』)と、そして全ての政治制度のもとで、支配しているのは少数者だといったん決定するや、ムッソリーニは、かりに労働者が革命化しなければ、労働者を指導する知性と意思をもつ特権階層が必要になる、と結論づけた。(21)
 彼は1904年には、このような考え方を信奉した。(22)//
 このような前提のもとで、彼は、イタリア社会党の再建へと進んだ。
 ムッソリーニが設立した< La Lotta di Classe > (階級闘争)〔新聞〕で、レーニンがメンシェヴィキに対してしたのと同じように彼は、改良主義多数派を放逐した。誹謗中傷はレーニンほどではなかったけれども。
 レーニンは、この新聞の創刊号の中のムッソリーニの論説に、自分の名前を署名するのを躊躇しなかっただろう。ムッソリーニは、こう書いていた。//
 『社会主義は到来しつつある。そして、社会主義を実現する手段は、政治的征服によってではなく-社会党に頻繁にみられる幻惑的な理屈だ-、将来の共産主義組織の中核をすでに今日に形成している労働者協同体の数、力および意識によって、現存する市民社会の胸中に与えられている。
 カール・マルクスが<哲学の貧困>で述べるように、労働者階級は、その発展の推移のうちに、古い市民社会を、階級とその間の矛盾を廃棄する協同体(association)に取って替えるだろう。(中略)
 このように予期するならば、プロレタリアートとブルジョアジーの間の闘争は、<階級の階級に対する戦い>、最高度に表現すれば、全体的(total)な革命となる戦いだ。(中略)
 ブルジョアジーの収奪は、この闘争の最終結果だろう。そして、労働者階級が共産主義を基盤にして生産を始めるのに困難はないだろう。この戦いと征圧のための武器、制度、人間を、彼らの労働組合の中に、今日すでに用意しているのだから。(中略)
 社会主義労働者は、前衛的で果断のないかつ戦闘的な組織を形成しなければならない。その組織は、刺激し鼓舞することで、理想的目標への展望を大衆に決して忘れさせないだろう。(中略)
 社会主義は商売人の戯れ事ではないし、政治家の遊びでもなく、恋愛小説家の夢でもない。ましてスポーツではない。
 社会主義とは、個人としても集団としても精神と物質の高揚へと努力することであり、そしておそらく、人間集団の感情を掻き乱す最強のドラマだ。また、確実に苦しみ無為に過ごさないで生きたい数百万の人々の、最も大切な希望だ。』(23)//
 ムッソリーニは、党員たちの挫折した過激主義を利用して、1912年の社会党大会で穏健派を指導層から排除することに成功した。
 『ムッソリーニ派』として知られる彼の支持者の中には、のちの著名なイタリア共産主義者の何人かがいた。とりわけ、アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)がいた。(24)
 ムッソリーニは党の執行委員会へと指名され、<前へ!(Avanti !)>の編集長職を託された。
 レーニンは<プラウダ>紙上で、ムッソリーニ党派の勝利を歓迎した。
 『分裂は、困難で苦痛の出来事だ。
 しかし、ときには必要だ。その状況では、弱さや感傷の全ては…犯罪だ。(中略)
 イタリアの社会主義プロレタリアートの党は、その真ん中からサンディカリストと右派改良主義者を放逐して、正しい途を進んだ。』(25)//
 1912年、30歳に1年足らないムッソリーニは、イタリアの革命的社会主義者の、または『非妥協者』たちの、指導者になることが運命づけられているように見えた。
 しかし、それは現実とはならなかった。イタリアの参戦問題に関する彼の考えの転回が理由だった。//
 レーニンのように、ムッソリーニは1914年の前に、政府が宣戦すれば社会主義者は内乱的暴力でもって答えるだろうと脅かした。
 1911年に政府がトリポリ(リビヤ)へ兵団を派遣したあとで、ムッソリーニは、社会主義者は『諸国間の戦争を階級間の戦争に』変える用意があると警告した。(26)
 この目的を達する手段は、一般的ストライキ〔ゼネ・スト〕だった。
 ムッソリーニは、第一次大戦の直前に、この警告を繰り返した。かりにイタリアが中立を放棄して連合国に抗する中央勢力に加わるならば、プロレタリアの蜂起に直面するだろう、と。(27)
 ファシズム歴史家のエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)は、何らかの理由でレーニンを無視して、ムッソリーニは戦争になれば反乱だと政府を威かしたヨーロッパのただ一人の重要な社会主義者だ、と主張している。(28)//
 戦闘が勃発して、全く予期しなかったことだが、ヨーロッパの社会主義者たちが進んで軍事借款に賛成票を投じたことは、ムッソリーニの自信を激しく動揺させた。
 彼の同僚が驚いたことに、ムッソリーニは1914年11月に、イタリアの連合国側への参戦に賛成することを明らかにした。
 この言葉と行動を合わせるために、彼は軍に歩兵として加入し、1917年2月まで戦闘に加わった。そのとき彼は、重傷を負って後方に送られた。//
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  (21) De Felice, ムッソリーニ, p.122-3。
  (22) Gregor, ファシスト信条, p.145。
  (23) 1910年1月9日付の論説, in : ムッソリーニ, オペラ・オムニア, Ⅲ, p.5-7。
  (24) Gregor, 若きムッソリーニ, p.135。
  (25) レーニン, PSS, 21巻, P.409。
  (26) < La Lotta di Classe >(階級闘争〔新聞〕)1911年8月5日号。De Felice, ムッソリーニ, p.104. に引用されている。
  (27) ムッソリーニ, オペラ・オムニア, Ⅳ (1953), p.311。
  (28) エルンスト・ノルテ, ファシズムの三つの顔 (1965), p.168。
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 ④につづく。

1475/ムッソリーニとレーニン①-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源①。
 第一次大戦前の著名な社会主義者の中で、ムッソリーニほどレーニンに似ている人物はいない。
 レーニンのように、ムッソリーニは、自国の社会主義政党の反修正主義派を率いた。
 レーニンのように彼は、労働者は生まれながらに革命的なのではなく、知識人エリートによって革命的行動へと突つかれなければならない、と考えた。
 しかし、ムッソリーニの考えにはより適した環境の中で仕事をした間、添え木となる党を形成する必要が彼にはなかった。
 少数党派の指導者だったレーニンは分離しなければならなかったが、一方のムッソリーニは、イタリア社会党(PSI)の多数派を獲得して、改良主義者を排除した。
 1914年にムッソリーニの戦争に関する考え方の転回が起こらなかったならば、彼は十分に、イタリアのレーニンになっているかもしれなかった。彼は、連合国側へのイタリアの参戦に賛成することを明らかにして、イタリア社会党から除名されたのだった。
 社会主義歴史家は、ムッソリーニの初期の伝記にあるこのような事実を恥ずかしく感じて、それらを抑えて公表しなかったか、社会主義との一時的な戯れとして叙述した。その戯れをした人物の知性の師は、マルクスではなく、ニーチェとソレルだとされた。(*)
 しかしながら、このような主張は、つぎの事実と一致させることが困難だ。すなわち、イタリアの社会主義者たちは、十分に将来のファシズム指導者について考慮して、1912年に党機関である新聞 <前へ!(Avanti !)>の編集長に指名した、ということだ。(14)
 社会主義との一時的なロマンスとは全く違って、ムッソリーニは熱烈に社会主義に傾倒していた。
 1914年の10月まで、いくつかの点では初期の1920年まで、労働者階級の性質、党の構造と活動、社会主義革命の戦略に関する彼の考え方は、レーニンのそれに著しく似ていた。//
 ムッソリーニは、無政府主義的サンディカリストとマルクス主義者の信条をもつ、貧しい伝統工芸家の息子として、イタリアの最も過激な地方であるロマーニャ地方で生まれた。
 父親は彼に、人間は二つの階級に、被搾取者と搾取者とに分けられる、と教えた。(これは社会主義指導者としてムッソリーニが用いた定式だった。『世界には二つの祖国がある。被搾取者の国と搾取者の国だ』。-sfruttatiと sfruttatori。)(15)
 ムッソリーニはボルシェヴィズムの創設者と比べれば低層の出自で、その過激主義はより多くプロレタリアの性質を帯びていた。
 彼は理論家ではなく、戦術家だった。暴力の重要視とともに無政府主義とマルクス主義の混合物である彼の知識人エリート主義は、ロシアの社会主義革命党のイデオロギーと似ていた。
 19歳のときの1902年に、ムッソリーニはスイスに移り、一時雇い労働者として働き、余暇には勉強して、きわめて貧乏な二年間をすごした。(*)
 彼はこの期間に、過激派知識人と交際した。
 確実ではないけれども、ムッソリーニがレーニンと会った、ということはありうる。(++)
 この期間に頻繁にムッソリーニを見たアンジェリカ・バラバノッフによれば、彼は虚栄心をもち自己中心的で、異様な興奮をしがちだった。また、その過激主義は、貧困と金持ちへの憎悪に根ざしていた。(16)
 この時期にムッソリーニは、長く続く改良主義者や進化論的社会主義に対する敵意を形成していった。
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  (+) ソレル(Sorel)はムッソリーニに対して大きな影響を与えたというのは、反ファシスト文献上の長く続く神話だ。彼の影響は小さく一時的なものであることを、証拠資料は示す。以下を見よ。Gaudens Megaro, 生成期のムッソリーニ (1938), p.228. ;エルンスト・ノルテ(Ernst Nolte), ファシズムとその時代 (1963), p.203。
 ムッソリーニの暴力カルトは、ソレルではなくて、マルクスに由来する。ソレルはたまたま、1919年9月に、レーニンへの賛辞を書いた(「レーニンのために」in :暴力に関する考察, 10版, (1946), p.437-54.〔仏語〕)。
 ソレルはそこで、「マルクス以後の社会主義の偉大な理論家であるとともにその天才ぶりはピエール大帝のそれを想起させる」ムッソリーニの知的発展に自分が寄与した、というのが、噂になっているように本当であれば、きわめて誇らしい、と書いた。
  (14) ムッソリーニの初期の社会主義やレーニンのボルシェヴィズムへの親近感についてきちんと取り扱った書物の中に、以下がある。Renzo de Felice, ムッソリーニと革命 1883-1920 (1965) ;Gaudens Megaro, 生成期のムッソリーニ (1938)。A. James Gregor のつぎの二つ, 若きムッソリーニとファシズムの知的淵源 (1979), ファシストの政治信念 (1974)。および、Domenico Settenbrini の二つの論文, 「ムッソリーニとレーニン」in :George R. Urban 編, ユーロ・コミュニズム (1978), p.146-178, 「ムッソリーニと革命的社会主義の遺産」in :George L. Mosse 編, 国際的ファシズム (1979), p.91-123。
  (15) ベニート・ムッソリーニ, オペラ・オムニア (1952), p.137。   
  (*) この移動は、徴兵を避けたい気持ちからだったと、ふつうは説明されている。しかし、James Gregor は、ムッソリーニは1904年にイタリアに戻ってきて翌二年間を軍役ですごしたので、原因とはなりえなかった、と指摘した。James Gregor, 若きムッソリーニとファシズムの知的起源 (1979), p.37。
  (++) Benzo de Felice, ムッソリーニと革命 1883-1920 (1965), p.35n は、この遭遇はあった、と考えている。
 ムッソリーニはレーニン(「ロシア移民は絶えず名前を変えていた」)と会ったか否かの質問に決して明確には答えなかったが、一度、謎めかしてつぎのように語った。『私が彼〔レーニン〕を知っているのより遙かに多く、彼は私について知っていた』、と。
 彼はいずれにせよ、この期間に、翻訳されたレーニンの著作物のいくつかを読んだ。そして、『レーニンに捕まった』と言った。Palazzo Venezia, ある体制の歴史 (1950), p.360。
  (16) アンジェリカ・バラバノッフ(Angelica Balabanoff), 反逆者としてのわが人生 (1938), p.44-52。
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 ②につづく。

1468/第一次大戦と敵国スパイ③-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵工作員との関係。③
 パルヴゥスの申し出を拒否はしたが、レーニンは、あるエストニア人、アレクサンダー・ケスキュラを通してドイツ政府との政治的かつ金銭的な関係を維持した。(*1)
 ケスキュラは1905-7年に、エストニアのボルシェヴィキの指導者だった。 
 彼はのちに、エストニアの熱心な愛国者となり、母国の独立を目指そうと決心していた。
 帝制ロシアの打倒はドイツ軍によってのみ達成されるとパルヴゥスのように考えて、ケスキュラは大戦の勃発の際に、ドイツ政府にその身を委ね、その諜報機関に加わった。
 ドイツの援助を受けて、彼はスイスやスゥェーデンの外からロシア移民からロシア内部の状況に関する情報を確保したり、ボルシェヴィキの戦争反対文献をそれらの国へとこっそり輸入したりする活動をした。
 1914年10月にケスキュラはレーニンと逢った。ケスキュラは、帝制体制の敵およびエストニアの潜在的な解放者として彼〔レーニン〕に関心をもっていた。
 かなりの年月を経てケスキュラは、自分はボルシェヴィキを直接には財政支援しなかった、そうではなく間接的にその金庫に寄付をして、出版物の刊行を援助したのだ、と主張した。
 これらはいつでも、困窮化しているボルシェヴィキ党を支援する重要な財源だった。しかし、ケスキュラは、レーニンに直接に援助したかもしれない。
 明らかにケスキュラの要請に応えて、レーニンは1915年9月に、彼に奇妙な七点の綱領的な文書を与えた。それは、革命的ロシアがドイツとの講和を準備する条件を概述するものだった。
 この文書は第二次大戦のあとで、ドイツ外務省の建物の文書庫で発見された。(++)
 この存在は、レーニンがケスキュラをたんなるエストニアの愛国者ではなくてドイツ政府の工作員(agent、代理人)だと見ていたことを示している。
 ロシアの内部事情に関係がある点(共和制の宣言、大財産の没収、八時間労働の導入、少数民族の自治)は別として、レーニンは、ドイツがすべての併合と援助を放棄した場合に分離講和の可能性があると確言した。
 レーニンはさらに、ロシア軍のトルコ領域からの撤退とインドへの攻撃を提案した。
 ドイツは確実にこれらの提案を心に留め、一年半後に、レーニンがその領土を縦断してロシアへと帰るのを許した。//
 ベルリン〔ドイツ政府〕から渡された資金を使って、ケスキュラは、レーニンとブハーリンの著作物をスウェーデンで発行すべく手配した。ボルシェヴィキ党員たちは、これらの本をロシアへとこっそり持ち込もうとした。
 このような援助金の一つを、あるボルシェヴィキ工作員が盗んだ。(129)
 レーニンは返礼として、ロシアにいる彼の工作員から送られたロシアの内部状況に関する報告書をケスキュラに進呈した。ドイツは、明白な理由で、この報告書に鋭敏な関心を寄せた。
 1916年5月8日付の配達便で、ドイツ軍参謀部の官僚は、東方面の破壊活動に責任をもつ外務省部局の職員に、以下のように報告した。
 『最近数ヶ月に、ケスキュラはロシアとの多くの関係を新しく開設した…。
 彼はきわめて有用なレーニンとの関係も維持しており、ロシアにいるレーニンの秘密工作員から送られた状勢報告の内容をわれわれに伝えた。
 ゆえにケスキュラには、引き続いて今後の必要な生活手段が与えられなければならない
 異常に不利な交換条件を考慮すれば、一月あたり2万マルクでちょうど十分だろう。』(*2)
 レーニンは、パルヴゥスの場合と同じく、ケスキュラとの関係について、生涯の沈黙を守った。そしてそれは、理解できる。その関係は、ほとんど大逆罪(high treason)に該当するからだ。//
 1915年9月に、スイスのベルン近くの村、ツィンマーヴァルトで、イタリアの社会主義者が発案した、インターナショナルの秘密会合が開かれた。
 ロシア人は、出席した二つの党派の社会民主党とエスエル党により、強い代表者を持った。
 集団は、すぐに二派に分裂した。より穏健派は、戦争を支持する社会主義者との連携を維持することを求めた。左翼派は、きつぱりと離別することを主張した。
 38代議員のうちの8名から成る後者を率いるのは、レーニンだった。
 多数派は、『帝国主義者(imperialist)』の戦争を内乱(civil war)に転化せよとのレーニンが提起した草案を拒絶した。危険であるとともに実現不能だ、という理由で。
 代議員の一人が指摘したように、そのような宣言に署名することは、母国に帰ったときに彼らを死に直面させることになるだろう。その間、レーニンはスイスでの安全を享受するとしても。
 レーニンの、国を愛する社会主義者が支配するインターナショナル委員会からの分裂要求も、却下された。
 そうであっても、レーニンはツィンマーヴァルトで敗北はしなかった (130) 。というのは、会議の公式な宣言文書はいくらかの言葉上の譲歩をレーニンにしており、各政府の継戦努力を支援する社会主義者を非難し、全諸国の労働者たちに『階級闘争』に加わるよう呼びかけていたからだ。(131)
 ツィンマーヴァルトの左派は、自分たちの声明文を発表した。それはより激しかったが、レーニンが欲したように、ヨーロッパの大衆に反乱へと立ち上がることを呼びかけるまでには至らなかった。(132)
 両派間の不一致の基礎にあるのは、愛国主義(patriotism)に対する異なる態度だった。ヨーロッパの多くの社会主義者は強烈にその感情をもっていたが、ロシアの多くの社会主義者は、そうでなかった。//
  (*1) ケスキュラについて、Michael Futrell in St. Antony's Papers, Nr.12, ソヴェト事情, 3号 (1962) , p.23-52。著者はこのエストニア人にインタビューする貴重な機会を得た。しかし、不運にも、いくぶん無批判に彼の証言を受け止めた。
  (+) Futrell, ソヴェト事情, p.47は、これはボルシェヴィキ指導者との唯一の出会いだと述べる。しかしそれは、ほとんどありえそうにないと思われる。
  (++) 1915年9月30日付、ベルンのドイツ大臣からベルリンの首相あて電信で再現されている[人名省略]。Werner Hahlweg, レーニンのロシア帰還 1917〔独語〕(1957) p. 40-43 (英訳、Zeman, ドイツ, p.6-7。)
  (130) 以下で主張されているように。J. Braunthal, 第二インターの歴史 (1967) , p.47。
  (*2) ドイツ参謀・政治局の Hans Steinwachs から外務部の Diego von Bergen 大臣あて。Zeman 編, ドイツ, p.17。スウェーデンに浸透していたレーニン組織の報告書から得たことを〔ケスキュラが〕仄めかしたとき、ケスキュラは Futrell に誤った情報を伝えた、ということをこの文書の言葉遣いは示している。Futrell, ソヴェト事情, p.24。
 ---   
 ④につづく。

1467/第一次大戦と敵国スパイ②-R・パイプス著9章10節。

 前回のつづき。
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 第10節・ツィンマーヴァルト・キーンタールおよび敵工作員との関係。
 戦争が勃発するや、連合国〔仏、英ら〕および中央諸国〔ドイツ、オーストリアら〕のいずれの社会主義議会人も、公約に背いた。
 1914年夏に、彼らは情熱的に平和について語り、戦争継続に抗議して集団示威行進をする大衆を街路へと送り込んだ。
 しかし、交戦が始まったとき、彼らは列に並んで戦争予算に対して賛成票を投じた。
 とくに痛ましかったのは、ヨーロッパで最強の党組織を持ち、第二インターの背骨になっていたドイツ社会民主党の裏切りだった。
 戦争借款に対して彼らの議員団の全員が一致して賛成したのは驚くべきことで、かつ、分かったことだが、社会主義インターナショナルに対するほとんど致命的な一撃だった。//
 ロシアの社会主義者は、西側にいる同志たちよりも、インターの公約を真面目に考えていた。一つは、母国での社会主義の源が浅く、母国を愛する誇りがほとんどなかったこと、もう一つは、シュトゥットガルトの決定が想定した『戦争によって生じる経済的かつ政治的な危機』を利用すること以外に権力へと到達する機会はないことを知っていたこと、による。
 プレハーノフやL・G・ダイヒのごとき社会民主主義運動の長老者および軍事衝突で愛国的感情に目覚めた多くの社会主義革命党員(ザヴィンコ、ブルツェフ)から離れて、ロシア社会主義の著名人の多くは、インターナショナルの戦争反対決定に忠実なままだった。
 第四ドゥーマの社会民主党および Trudovik(エスエル)議員団は、全員一致して戦争借款に反対票を投じて、このことを証明した。-これは、セルビアの社会民主党を除けば、ヨーロッパでただ一つの議会人の行動だった。//
 スイスに到着したレーニンは、『ヨーロッパ戦争における革命的社会民主主義者の任務』と呼ばれる綱領的声明を起草した。(124)
 ドイツ、フランスおよびベルギーの指導者を裏切りだと非難したあとで、レーニンは、非妥協的にラディカルな立場を概述した。
 『任務』の第6条には、つぎの提案が含まれていた。//
 『労働者階級および全ロシア人民の被搾取大衆の視座から見ると、最も害悪ではないことは、ポーランド、ウクライナ、および多数のロシア人民…を抑圧している皇帝君主制とその軍の敗北である。』(*1)
 その他のいかなる主要なヨーロッパの社会主義者も、自分の国が戦争で敗北することに賛成だとは公言しなかった。
 ロシアの敗北を支持するレーニンの驚くべき主張は不可避的に、彼はドイツ政府の工作員だという非難をもたらした。(+) 
 戦争に関するレーニンの言明の実際上の結論は、このテーゼの第7条と最後の条で述べられていた。その内容は、『全ての国家の反動的でブルジョア的な政府と政党』に対する内戦を解き放つために、戦争をしている諸国の民間人や軍人の間で精力的な扇動と組織的な宣伝活動を行う、というものだった。
 この文書の模写物はこっそりとロシアに持ち込まれ、帝国政府が<プラウダ>を廃刊させ、ドゥーマのボルシェヴィキ議員たちを逮捕する根拠になった。 
 この事件でボルシェヴィキを弁護した法律家の一人は、アレクサンダー・ケレンスキーだった。 
 生命を落とす可能性がある大逆(treason)という罪で審問され、ボルシェヴィキたちは判決により追放された。これは、二月革命まで、党をほとんど舞台の外に追い出した。//
 レーニンの綱領の重点は、社会主義者は戦争を終わらせるためにではなく、自分たち自身の目的で戦争を利用するために奮闘すべきだ、ということにあった。レーニンは1914年10月に、つぎのように書いた。
 『「平和」というスローガンは、この瞬間では、誤っている。
 このスローガンは、ペリシテ人と聖職者のスローガンだ。 
 プロレタリアートのスローガンは、こうでなければならない。内戦(civil war、内乱)、だ。』//
 レーニンは、戦争の間ずっと、この定式に忠実であろうとした。
 もちろん中立国スイスでは、戦闘中のロシアにいる彼の支持者たちに比べれば、レーニンの身はかなり安全に守られた。//
 レーニンの戦争に関する綱領を知ると、ドイツは熱心に彼を自らのために利用しようとした。ロシア帝国軍の敗北を主張することは、結局のところ、ドイツの勝利を支持するのと全く同じことだ。
 ドイツの主要な媒介者は、パルヴゥスだった。このパルヴゥスは、1905年のペテルスブルク・ソヴェトの指導者の一人で、『連続革命』理論の創始者だったが、最近はウクライナ解放同盟の協力者だった。
 パルヴゥスは、きわめて腐敗した個性をもつとともに、ロシアの革命運動上、最も大きな知性をもつ知識人の一人だった。
 1905年の革命が失敗したあとで彼は、ロシアでの革命の成功はドイツ軍の助けを必要とする、という結論に達した。ドイツ軍だけが、帝制を打倒することができる。(*2) 
 パルヴゥスは、その政治的関係を使って相当の財産を蓄え、ドイツ政府に身を任せた。
 戦争勃発の際、彼はコンスタンチノープルに住んでいた。 
 パルヴゥスは、その地のドイツ大使と接触し、ドイツの利益を促進するためにロシアの革命家を利用するときだと、概述した。
 その論拠は、ロシアの過激派は、帝制が倒れてロシア帝国が破滅する場合にのみその目的を達成することができる、ということだった。この目的は偶然にだが、ドイツにとっても都合がよい。『ドイツ政府の利益は、ロシアの革命家たちのそれと一致している』。
 パルヴゥスは、金を求め、かつ左派のロシア移民と連絡をとることの承認を求めた。(126)
 ベルリン〔ドイツ政府〕に奨められて、彼は1915年5月に、ツューリヒにいるレーニンと接触した。パルヴゥスは、ロシア移民の政界に通暁していたので、レーニンが左翼の鍵となる人間であることを知り、もしも自分がレーニンを獲得すればロシアの残りの戦争反対左翼は一線に並ぶだろうことが分かった。(127)
 この企図は、さしあたりは、失敗した。
 レーニンがドイツと取引きすることに反対したというのでも、ドイツから金をもらうことが不安だったわけでもない。-この失敗は、レーニンが、社会主義の教条に対する裏切り者、変節者、『社会主義狂信愛国者(socialist chauvinist)』と交渉しようと思わなかったことによるだけだ。
 パルヴゥスの伝記作者は、その個人的な嫌悪感に加えて、レーニンはつぎのように考えたのではないかと示唆している。すなわち、レーニンは、もしもパルヴゥスと交渉すれば彼〔パルヴゥス〕が『そのうちにロシアの社会主義組織の支配権を獲得し、その財産資源と知的能力を使って他の全ての政党指導者を打ち負かしてしまう』ことを恐れた、と。(128) 
 レーニンは、このパルヴゥスとの出会いについて、公にはいっさい言及しなかった。//
  (*1) レーニンはロシアのウクライナに対する『抑圧』と強調して当惑させているが、それは少なくとも部分的には、レーニンのオーストリア政府との金銭上の協定によって説明されるものでなければならない。レーニンは、ウクライナもオーストリアの支配から解放されるべきだと要求しはしなかった。
  (+) この点についての告発は、警察官僚について日常的によく知っているスピリドヴィッチ将軍によってなされた。彼は、証拠を提出しないでつぎのように主張する。
 1914年の6月と7月にレーニンは二度ベルリンへと旅行したが、ドイツ人とともにロシア軍背後での反ロシア的活動計画を作るためで、その対価として7000万マルクがレーニンに支払われることになっていた、と。
 Spiridovich, ボルシェヴィズムの歴史, p.263-5。
  (*2) パルヴゥスは事態を見て自分の正しさが分かったと感じた。彼は1918年に、1917年の革命に言及して、以下のように書いた。
 『プロシア〔ドイツ〕の銃砲は、ボルシェヴィキのビラよりも大きな役割を果たした。とりわけ思うのは、もしもドイツ軍がヴィステュラ(Vistula〔ポーランドの河〕)に達していなかったら、ロシアの移民たちはまだ放浪し、自分で苦しんでいただろう、ということだ。』
  (126) Zeman 編, ドイツとロシアでの革命, 1915-18 (1958), 1915年1月の配達便, p.1-2。
  (127) パルヴゥスのレーニンとの出会いについて、Zeman and Scharlau, 商人, p.157-9。
 ---
 ③につづく。

1433/ロシア革命史年表②-R・パイプス著(1990)による。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990)の「年表」より。p.849-p.850。
 /の左右に日付(月日)がある場合、左は旧暦、右は新暦。
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 1906年
  3月 4日 集会と結社の権利を保障する法令発布。
   4月16日 ウィッテが閣僚会議議長を退任、ゴレミュイキンと交代。
  4月26日 新基本法(憲法)公布される。ストルイピン、内務大臣に。
  4月27日 ドゥーマ、開会。
  7月 8日 ドゥーマ、閉会。ストルイピン、閣僚会議議長に指名される。
  8月12日 社会主義革命党原理主義者、ストルイピンの生命を狙う。
  8月12日・27日 ストルイピンの第一次農業改革。
  8月19日 民間人対象の軍法会議の提案。
 11月 9日 ストルイピンの共同体的土地所有に関する改革。
 1907年
  2月20日 第二ドゥーマ、開会。
  3月    ストルイピン、改革綱領を発表。
  6月 2日 第二ドゥーマ、閉会。新選挙法。
 11月 7日 第三ドゥーマ、開会。1912年までの会期。
 1911年
  1月-3月 西部のZemstvo の危機。
  9月 1日 ストルイピン、射撃され、4日後に死亡。ココフツォフが後継者。
 1912年
 11月15日 第四(そして最後の)ドゥーマ、開会。
 ボルシェヴィキとメンシェヴィキの最終的な分裂。
 1914年
  1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長に。
  7月15日/28日 ニコライ、部分的な戦争動員を命令。
  7月17日/30日 ロシア総動員令。
  7月18日/31日 ドイツ、ロシアに対する最後通告。
  7月19日/8月1日 ドイツ、ロシアに戦争を宣言(宣戦布告)。
  7月27日 ロシア、ルーブルの交換を停止。
  8月    ロシア軍、東プロシャおよびオーストリア・ガリシアへと侵攻。
  8月末   ロシア軍、東プロシャで敗退。
  9月 3日 ロシア軍、オーストリア・ガリシアの首都、レンベルク(ルヴォウ)を奪取。
 1915年
  4月15日/28日 ドイツ、ポーランドでの攻撃に着手。
  6月11日 スコムリノフ、戦争大臣を解任され、ポリワノフに交替。
  6月    さらに内閣人事の変更。
  6月-7月 進歩的ブロックの形成。
  7月    国家防衛特別会議の創設。軍需産業委員会を含むその他の会議・委員会が、戦争行動の助力のため従う。
  7月9日/22日 ロシア軍、ポーランドからの撤収を開始。
  7月19日 ドウーマが6週間、再開される。ロシア兵団、ワルシャワから逃亡。
  8月21日 ほとんどの大臣、ニコライにドゥーマによる内閣の形成を要望。
  8月22日 ニコライ、個人的にロシア軍団司令権を握り、モギレフの総司令部へと出発。
  8月25日 進歩的ブロック、9項目綱領を公表。
  8月    政府、全国Zemstvo と地方会議組織の設立を承認。
  9月 3日 ドゥーマ、閉会。
  9月    戦争反対社会主義者のツィンマーヴァルト(Zimmerwald)会議。
 10月    中央労働者集団の設立。
 11月    Zemstvoの全国統一委員会(Zemgor)が創設される。
 1916年
  1月20日 ゴレミュイキン、閣僚会議議長を、ステュルマーと交代。
  3月13日 ポリワノフ、戦争大臣を解任され、シュヴァエフと交代。
  4月    戦争反対社会主義者のキーンタール(Kiental)会議。    
  5月22日/6月4日 ブルシロフの攻撃、開始。
  9月18日 プロトポポフ、内務大臣代行に。12月に内務大臣に昇格。
 10月22-24日 カデット党大会、来るドゥーマ会期での論争戦術を決定。
 11月 1日 ドゥーマ、再開会。ミリュコフ、政府中枢での裏切りを示唆。
 11月8-10日 ステュルマー、解任される。
 11月19日 A・F・トレポフ、閣僚会議議長に。ドゥーマに協力要請。
 12月17日 ラスプーチンの殺害。
 12月18日 ニコライ、マギレフを離れ、ツァールスコエ・セロに向かう。
 12月27日 トレポフ、解任され、ゴリツィンと交代。」
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 *1917年以降につづく。

1416/国家・共産党・コミンテルン03。

 一 前回の最後の方で自らの文章として書いたのは、やや先走りすぎている。
 国家と共産党の分離は、有利なことがあった、と言われる。
 つまり、とくに欧州諸国内でのロシア(・ソ連)共産党の活動を、ロシア・ソ連国家(・政府)の活動ではない、<私的な>活動だと言い張れた、又は言い張ろうとした、ということだ。
 その延長が1919年のコミンテルンの結成で、当時の<社会主義国>はソ連一国だつたはずなので社会主義諸国家の連合体又は協議機関だったはずはなく、諸国家の共産党の連合体、実質的にはロシア(・ソ連)共産党を指導者とする、ロシア防衛と<社会主義革命>の輸出のための機関だった。この最後の部分は世界(欧州)同時革命か一国革命か、という論点にかかわるが、立ち入らない。
 二 さて、「10月革命」以前は「臨時政府」系統外の<私的>機構・組織だったソヴィエトは、ボルシェヴィキ派が形成した(と思われる)「軍事革命委員会」の実力行使の結果として国家系統の、国家「権力」の淵源である機構・組織に変わった。
 (ソヴィエト総会)-(代議員による)ソヴェト大会-CEC(元イスパルコム)、そしてさらに、CEC(元イスパルコム)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)、という一つの=国家・政府系統の「ライン」がある。
 だが、一方には、共産党中央委員会(「首領」はレーニン)-ソヴナルコム(人民委員会議=政府)という党系統の「ライン」もある。ソヴナルコムの議長(首相)はレーニン。
 もう一つの可能性として、憲法制定会議-議会設立-政府成立、というラインもありえたはずだったが、この点は先送りする。
 三 「10月革命」成功・ソヴナルコム成立の翌日1917年10月27日、教育人民委員(文部大臣)・ルナチャルスキーは、<ボルシェヴィキと左派エスエルの機関誌>以外の出版物発行を禁止する布告を発表する(レーニンの署名あり)。
 ボルシェヴィキはソヴナルコムの「立法」権を認める。
 これに対して、「社会主義者たち」は、CEC(元イスパルコム)こそが「社会主義者の一種の国会」だと考えていた。
 11月4日、「最初にして最後に」、レーニンとトロツキーが姿を現したCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)で、左派エスエルはソヴナルコム(政府)の布告による統治をやめるように求め、レーニン(ソヴナルコム議長)の説明には納得できない旨の動議を提出し、ボルシェヴィキは「全ロシア・ソヴェト大会の全体的な政綱の枠内」でのソヴナルコムによる布告発令を「ソヴェト」側は「拒絶」できない旨の反対動議を提出した。
 ボルシェヴィキ選出委員のうち9名が「変節」してレーニン側を支持したため、左派エスエルの動議は25対20で敗れた。9名のうち4名はもともとはレーニンによる<連立政府の形成の拒絶>に反対していた(つまり左派エスエルと協力し、その支持をえて「統治」しようとする見解だった)。
 一方、ボルシェヴィキ側の反対動議を明確に支持するか否かの票決の予想は23対23だったので、レーニンとトロツキーが採決に加わることを宣言して、25対23でボルシェヴィキが勝った。ソヴナルコムは同日夜、その布告(Decree)が「臨時労農政府通報」に掲載されれば「法としての効力」(Force of Law)をもつと表明(announce)した。「10月革命」後、わずか1週間ほど後。
 その後1918年6-7月までにCEC(ソヴィエト・中央執行委員会)からボルシェヴィキ以外の党派は放逐され、CECは、ボルシェヴィキの委員がソヴナルコムの決定を、したがってボルシェヴィキ中央(共産党中央委員会)の意向を「機械的に裁可」する機関に完全変質する。
 パイプスによれば、1921年には、CECは「わずかに三回」だけ招集された。
 CEC内部での「党争」にもっと言及する必要はあるが、それに勝利しCECを完全に掌握することによって、共産党の意思はソヴナルコム(政府)の意思と同じになった。<一党独裁>制度の完成だ。「10月革命」後、わずか7カ月程度。
 パイプスによれば、ロシアは1905年以前の帝制時代と同じ「布令(布告)」による統治の時代に戻り、ボルシェヴィキ・共産党は「11年間の立憲主義(constitutionalism)を、全く拭い去った(wiped)」。
 11年間とは、日ロ戦争敗北後の「1905年革命」の所産として、「国会(下院・ドゥーマ)(The State Duma)」が開設されていた1906年以降のことをいう。この国会とは、皇帝(ツァーリ)の権能をある程度制限する力をもっており、ロシアはある程度は<立憲君主制>だったとも言える。但し、日本の明治憲法下の国制・法制と同じはない(これについて長い論文が書けるだけの論点があるだろう)。
 以上、紹介者自身の表現を除いて、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)p.163-5、p.59-61。原書では、p.153-6、p.45。
 このような経緯の背後には、重要な事象も発生し、又は継続していた。
 「10月革命」勃発は第一次大戦の途上で、ドイツ帝国軍等と戦闘しており、臨時政府およびソヴェトの大勢は<継戦>を支持していた。ボルシェヴィキのさらに一部が休戦・和平を主張した。翌1918年3月に、ドイツとの講和条約(英仏ら連合国から見ると「戦線離脱」)。
 全ロシア全域に<新しい秩序>が形成されていた、つまりボルシェヴィキ・共産党が全域を<平穏に支配・統治>していた、というわけでは全くなかった。
 憲法制定評議会がどうなったかも触れておかないと、国家と共産党の問題に言及したことにならないだろう。
 戦時中だったロシア帝国軍(兵士)をどうやってボルシェヴィキ・共産党は制御し、「10月革命」時の<反革命軍>にしなったか、という問題もあり、パイプスも論及しているが、この点は省略する。

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