1991年のソ連崩壊・東欧諸国「自由化」によって冷戦の終結が言われるなど、ソ連・欧州社会主義国の解体は歴史的に極めて大きな意味を持ったはずだが、日本の「知識人」たちにはどれほどの、又はどのような影響を与えたのだろう。
 竹内靖雄・正義と嫉妬の経済学(講談社、1992)p.333以下は、それまで社会主義(又は共産主義)を信奉していた「知識人」たちの対応(「段階的退却」の戦術)には、次の5つがあった(ある)、という。
 1.レーニンまでは正しかった、スターリンから間違った(社会主義自体の敗北ではない)。2.レーニンも間違っていてソ連型社会主義は真の社会主義ではなかった。だが、マルクスは依然として正しく、社会主義にはまだ未来がある(社会主義自体の敗北ではない)。3.そもそもマルクスから間違っていて、社会主義の実験は人類に大きな厄災をもたらした。4.マルクスの社会主義は間違っていたが、西欧・北欧の「民主的社会主義」は正しく、資本主義に代わりうる未来がある。5.いかなる名であっても自由より平等優先の社会主義は誤りだ。
 私は社会主義信奉者ではなかったが、これらのうち、上の3および5の理解だ。4のいう「民主的社会主義」は意味が判らない。フランス社会党、ドイツ社民党、イギリス労働党の理念を「社会民主主義」というとすれば、それは資本主義の枠内のものであって、社会主義の一種とは言えないからだ。
 ところで、日本の政治学者の中には、少なくとも欧州での冷戦終結の意味について、上のいずれの対応をも明示的には採らない、又は上のいずれの理解も明示はせず、実質的には1.又は2.を(おそらくは1.を)前提とし、かつ資本主義国側にも問題・原因があったと考えている人たちがいるようで、驚愕した。次に書くとおりだ。
 105円で買った加茂利男=大西仁=石田徹=伊藤恭彦・現代政治学(有斐閣、1998)という本がある。教養・基礎・専門・高度のうち2番目の「基礎」にあたる現代政治学の大学用教科書のようだ。これの「冷戦終結」の項は次のように書く(執筆は大西仁。同書によると、東京大学卒、東北大学法学部教授)。
 ―冷戦終結の原因はソ連・東欧諸国の「社会主義体制が、国民の経済的要求や政治的自由化を求める要求」に対応できなかったのが「大きい」が、次の「冷戦体制の限界」の「露呈」も「重要な原因」だった。
 1.核戦争の危険から東西対立解消の世論が強まり、東西間の諸交流も拡大した、
 2.米ソの支配体制への不満が高まり両国が抑制できなくなった、
 3.冷戦維持目的の軍事費が経済・技術発展阻害との各国民の不満が高まった(とくに東欧では各種統制への不満が劇的に高まった)(p.199)。
 所謂「冷戦集結」は、私の理解によれば、ソ連共産党が機能不全・国家制御不能の状態になったことにより(日本共産党のために全社会主義国とは言っておかないが)ソ連・東欧諸国が「共産党」一党支配体制から解放され、基本的には日欧米の如き複数政党制・「自由主義」又は「資本主義」体制へと移行を始めたことを意味する。社会主義対資本主義という前世紀の基本的な対立構図で言えば、少なくとも(と日本共産党のために限定をつけておくが)ソ連・東欧諸国において社会主義が敗北したことを紛れもなく意味する。知識人を含む全世界の9割の人々はこれを肯定するのでないか。
 しかるに上の本の書きぶりは何だろう。米国等の所謂西側にも問題があった旨の三点が冷戦集結の「重要な原因」として挙げられている。学者様には独特の見方があるのかもしれないが、これは客観的な認識ではなく、政治的主張だ。
 ソ連の数カ国への分裂、東独の西独による吸収、チェコとスロバキアの分離、これら東欧諸国の多数のEUやNATOへの加盟等は「社会主義の敗北」としてのみ理解できる。そして、喧嘩両成敗的に、西側の国民にも不満が高まった等を敢えて「重要な原因」とするのは、特定のイデオロギーによっているとしか思えない。
 ここでイデオロギーとは、マルクスのいう「空論」・「虚偽意識」という意味でよい(p.142参照)。そして日本でかかる特定のイデオロギーをなお持っている組織・団体の代表は日本共産党だ。上のような説明は、かなり同党の説明に近いし、社会主義一般が敗北したわけではない、資本主義・社会主義ともに危機にあった、との同党の見解にも沿うものだ。
 念のために追記しておくが、この本は冷戦集結につき「社会主義体制」の原因も「大きい」とは一応書くが僅か三行で、東西両陣営に共通する「冷戦体制の限界」が「重要な要因」とする叙述は三段落18行に及ぶ。その後にはこうある-「西側が東側に勝利して終わった」との主張もあるが、「冷戦体制そのものが自壊して冷戦が終わった、という面が強かった」(p.199)。
 この本に「社会主義の敗北」、「社会主義の実験の失敗」といった語が出てくるはずもない。こうした見方は、政治・社会現象を特定のイデオロギーに不利にならないように「認識」しようとするもので、20世紀に生じた世界史的、人類史的出来事の意義を意識的に見逃している。
 上の本は、日本共産党員その他の依然としてマルクス主義者である者によって書かれているのでないか。かかる本によって「現代(国際)政治」のイメージが大学生の脳中に浸み込んでいくとすれば、怖ろしいことだ
 昨日の産経に高校の社会(歴史)の教科書にはまだまだ問題が多い旨の記事がある。それは、教える教師にではなく、教科書の執筆者に問題があるからだ。そして、その教科書の執筆者は、殆どは、大学に所属する教授等の研究者だ。上では偶々政治学の書物を取り上げたが、歴史の教科書を執筆している大学教授らがなおもマルクス主義史観の影響を受けたままであったとすれば、「日本(帝国主義)は悪いことをした」という基調で歴史教科書が書かれることになるのは自然のことだ。教科書を問題にするならば、教科書を使って教える教員よりもむしろ、そのような教科書の執筆者はどういう者たちかを問題にしなければならない。