秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

竹内洋

2257/池田信夫ブログ019-遺伝・環境・自己。

 池田信夫ブログマガジン8月24日号(先週)は①技術は遺伝するか、②国民全員PCR検査がもたらす「アウシュヴィッツ」、③新型コロナは「一類相当」の感染症に格上げされた、④名著再読:例外状態、のいずれも、関心を惹く主題で、密度が濃い。
 上の①の一部についてだけ「引っかかって」、それに関連する文章を書く。
 つぎの一文だ。すでになかなか刺激的だ。
 「獲得形質は遺伝しない、というのは中学生でも知っている進化論の鉄則である

  先祖が<偉い>からその子孫も<偉い>のかどうか。
 万世一系の天皇家の血は「尊い」という意識の適否に関する問題には触れないでおこう。
 だが、例えば源頼朝は伊豆に流されても「貴種」として大切にされた、といわれるように、かつては「親」がどういう一族・身分かは「子」にとって決定的に重要だった。
 そんな意識・感覚がまだ残っている例がある。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)は、重要人物として登場させる小田村寅次郎について、何と少なくとも四回も、小田村は<吉田松陰の妹の曾孫>だった、とわざわざ付記している。一度くらいは当該人物の係累紹介として言及してよいかもしれないが、四回は多すぎる。しかもまた、文章論理上、全く必要のない形容表現なのだ。
 これが、吉田松陰一族関係者だととくに書くことによって(小田村は吉田松陰ではなくその妹の「血」を直接には引いているのだが)、小田村寅次郎の評価または印象を高めるか良いものにしようという動機によるだろうことは明らかだ。
 なお、その影響を受けて、この書に好意的な結論的評価だけを与えた知識人・竹内洋(京都大学名誉教授)もまた、小田村について吉田松陰の係累者だとその書評の中でとくに書いている。
  獲得形質は遺伝しないのではなく遺伝し、かつまた生来(生得)形質も「子」に遺伝する、と多くの人が考えた国や時代もあった(ある)ようだ。
 北朝鮮では全国民が十数の「成分」に区別されている、という話を読んだことがある。あるいは、「成分」の違いによって、国民は十数に分類されている。
 日本帝国主義と戦った勇士の子孫から、旧日本協力者あるいは「資本家」の子孫まで。日本育ちか否かも考慮されるのかもしれない。これは、「親」の職業・地位・思考は「子」に遺伝する、という考えにもとづくものと思われる。
 かつてのソヴィエト連邦でも、少なくともスターリン時代、革命前の「親」の職業はその子の「思想」にも影響を与えると考えられたと見られる。
 ブルジョアジー・「資本家」(・富農)の「子」はその思想自体が<反社会主義>だと考えたのだとすると、「遺伝」を肯定していたと見てよいのではないか。
 上のことを側面から強く示唆する件が、自然科学・生物学・遺伝学の分野であった。<ルイセンコ事件>とも言われる。
 L・コワコフスキによると(2019/02/21、No.1921の試訳参照)、ルイセンコ(Lysenko)は「遺伝子」・「遺伝という不変の実体」は存在せず、「個々の生物がその生活を通じて獲得する特性はその子孫たちに継承される」と出張した。この考えは雑草のムギ化やムギの栽培方法の改革(「春化処理」)による増産、そして農業政策に具体的には関係するものだったが、1948年には党(・スターリン)の「公認」のものになった。
 参照、L・コワコフスキ著試訳/▶︎第三巻第四章第6節・マルクス=レーニン主義の遺伝学
 池田のいう「中学生でも知っている進化論の鉄則」をソ連共産党やスターリンは少なくともいっときは明確に否認していたわけだ。
 この否定論は、人間全改造肯定論であり、人間の改造、思想改造(・洗脳)は可能だ、そしてそれは子孫にも継承させうる、という考え方となる。
 「獲得形質」の強制的変更によって将来のヒト・人間も<変造>できる、というものだ。数世紀、数十世紀にわたっての自然淘汰、<変化>はありうるのだろうが、人間の、特定の「権力」の意思・意向による人間の「改造」論こそ、マルクス主義、あるいは少なくともスターリン主義の恐ろしさであり、このような<人間観>こそ、「暴力革命」容認とやら以上に恐ろしいイデオロギーではないだろうか。
 ルイセンコ説はソ連末期には否定されたが、フルチショフによる寛大な対応もあったとされ、かつまたこの説は、日本の生物学界にも影響を与えたらしい。
 戦後の民主主義科学者協会(民科)生物部会はルイセンコに好意的で、そのような説を説いた某京都大学教授もいた、とされる。ソ連の<権威>によるのだろうから、怖ろしいものだ。
 なお、ほとんど読んでいないが、つぎをいつか読みたい。
 中村禎里/米本昌平解説・日本のルイセンコ論争(新版)(みすず書房、2017)。計259頁。
  J・ヘンリック/今西康子訳・文化がヒトを進化させた-人類の繁栄と<文化・遺伝子革命>を取り上げての池田信夫の文章に少し戻る。
 リチャード・ドーキンス・利己的遺伝子(邦訳書、40周年版・2018)を読んでいないし、文化的遺伝子(ミーム)のこともよく分からない。但し、技術や文化をヒト・人間が生むととともに、そうした技術・文化自体がヒト・人間を「進化」させ、変化させたことも事実だろう。
 しかし、言葉や宗教・道徳の発生を含むそうした「進化」・変化はそれこそ数万年、数千年単位で起こったものだろう。それもまた「獲得形質の遺伝」と言えなくもないとしても、「技術は遺伝するか」(あるいは文化・宗教は遺伝するか)というように、「遺伝」という言葉・概念を用いるのは、やや紛らわしいのではないかと感じる。
 

2219/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨ー25・26の再掲。

 再掲するが(よって27ではない)、一部は割愛。
 26ーNo.2125/2020年01月18日。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。

 編集担当者はPHP研究所・川上達史。自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子が「助けて」いる。江崎道朗本人はもちろん、PHP研究所、川上達史、山内智恵子も、恥ずかしく感じなければならない。
 この書物(らしきもの)は「コミンテルン」を表題の重要な一部とするもので、「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」(p.95)と豪語している。
 「悲惨・無惨」、「ああ恥ずかしい」と書いてきたとおりだ。
 わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの間違いがある。ああ恥ずかしい。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 また、上は決定的、致命的なもので、誤り、勘違いは他にも多々ある。
 例えば、④コミンテルン設立時にすでに「共産党」が各国にあり、ボルシェヴィキ党の呼びかけのもとにそれらが集まってコミンテルン(国際共産党?、第三インターナショナル)が結成されたとでも勘違いしているとみられる叙述もある。
 ⑤レーニン時代も含めて、「粛清」という語をほとんど「殺戮」と同じ意味だと理解している、またはそう理解したがっている叙述もある」。
 また、1.上の書物(らしきもの)は<コミンテルンと日本の敗戦(第二次大戦)>を主題とするのだから、1939年~1945年の「コミンテルン」の資料を用いなければならないはずだ(但し、1943年に解散)。少なくとも1930年初頭以降~1940年代初頭までの活動が直接に関係しているはずだ。しかし、江崎道朗が「史料・資料」らしく利用しているのは、結成・設立時の1919-20年だけのコミンテルン文書で、しかも原史料(の邦訳)ではなく全く無名の英米の研究者(らしき人物)二人の書物の邦訳書(大月書店、1998)の「付録」として掲載された上の時期のレーニンまたはコミンテルン文書のうちの4件(かつ各々の一部)だけだ。日本共産党の27年・31年テーゼとの関係も出てこない。
 なお、上の邦訳書の訳者・「萩原直」は<プロレタリアート独裁>を<執権>に変えているので日本共産党関係者だと見られるが、言うまでもなく、そんなことは江崎道朗の関心内には入っていない。
 2. 加えて、のち1935年7回大会での<統一戦線(人民戦線)戦術>がコミンテルン設立の当初からまたは1920年頃にあったかのごとき叙述もしている。
 上のような誤りや決定的不備に気づかなかった推薦者・中西輝政(1947~)もまた、決定的に<知的に不誠実>だろう(おそらく本文内容を読まないままでオビに「名」を出している)。
 竹内洋(1942~)もまた<知的に不誠実>で、この欄で中休みしている主題部分での江崎道朗の決定的な誤りまたは不備を、産経新聞紙上での「書評」で、指摘することができず、素通りしている。
 「素通り」どころか、竹内洋はつぎのように、江崎道朗書(らしきもの)の「功績」を認める(産経新聞2017年9月17日、Web 上による)。
 「伝統にさおさし、戦争を短期決戦で終わらせようとした小田村寅二郎(吉田松陰の縁戚)などの思想と行動」を著者・江崎は「保守本流」の「保守自由主義」と称する。この語はすでにあったが、これを「左翼全体主義と右翼全体主義の中で位置づけたところが著者の功績」。
 以上、<犯罪>に加担する<保守派?知識人(?)>が、ここにもいる。
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 25ーNo.2060/2019年10月12日。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。

 江崎道朗が論及する十七条の憲法第10条の一部。
 「共に其れ凡夫のみ」=「共其凡夫耳」。
 坂本太郎・聖徳太子(吉川弘文館、1979/新装版1985)による第10条全体の読み下し文。適宜、改行する。<2020年5月に引用割愛>
 上のように江崎は聖徳太子・十七条の憲法の全体またはその第1~第3条のいずれにでもなく、第10条の、かつその一部に着目する。そして、そこから、五箇条の御誓文以降につながる<保守自由主義>を「感じ取る」。
 江崎は、第10条の全文に何ら言及しない。
 かつまた、多少立ち入って読むと判明する第三は、以下のことだ。
 第10条の上の部分=「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは、自分の判断・考えによってではなく、他人の著に依拠している。以下の書物だ。
 江崎は、この小田村寅二郎と山本勝市の二人を、戦前・戦中の<保守自由主義>者として高く評価する。二人に併せて言及する最初は、p.278。なお、江崎著には小田村のこの本からの直接引用や要約的紹介が多い。
 小田村寅二郎・昭和史に刻むわれらが道統(日本教文社、1978)。
 では、「共に其れ凡夫のみ」に着目するのは小田村のこの著かというと、そうではない。小田村がこの著の中で「紹介」する、小田村らが十七条憲法について講義を受けたという、黒上正一郎という人物だ。
 江崎は、小田村の上掲著の一部を、こう引用している。小田村の文章だ。p.346。
 ・黒上の「"聖徳太子研究"の勉学の方法……は、世の仏教家や歴史学者とは違って、聖徳太子御一代の政治・外交についての御事業を、独特の見方でみようとした」ことだ。
 ・「すなわち、聖徳太子が"この世の人はどんな人であろうとも、所詮は"十七条憲法の第10条"に書かれてあるように、『共に其れ凡夫のみ』と把えられたあの痛切極まりない宗教的な御人生論を、とくに凝視なさって、黒上氏ご自身の心魂を傾けつくして太子のお心を偲ばれ、そうした"追体験"の学問の中に自らを徹入されながら、以て太子の御思想を説き明かそうとなさった点である」。
 この引用文に見られるように、小田村は黒上の聖徳太子研究には「世の仏教家や歴史学者とは違」う「独特の見方」がある、と明記したうえで、「共に其れ凡夫のみ」が示す「宗教的な御人生論」に対する共感を述べている。
 この部分について、江崎は、つぎの諸点には注意を向けていないようだ。
 ①黒上正一郎の研究には「独特の見方」があったこと。
 ②小田村は「共に其れ凡夫のみ」を直接には「宗教的人生観」と見ていたこと。
 ③上の「宗教」とは、いかなる、またはいかなる意味での「宗教」なのか。
 ともあれ、江崎道朗が依拠しているのは小田村寅二郎であり、その小田村が依拠しているのは黒上正一郎による聖徳太子・十七条憲法10条の一部の読解の仕方なのだ。
 そうすると、江崎は、その脳内で、つぎの作業をしている。
 ①小田村の叙述を自分自身のものとする、②小田村が紹介する黒上の所説も自分自身のものとする。そして、③その部分=「共に其れ凡夫のみ」から<保守自由主義>なるものを導き、それは五箇条の御誓文等の「明治の日本」にも継承されている、とする。
 これは、読者を納得させ得る論理展開なのだろうか。
 ①と②の根拠または理由自体が、いっさい論述されていないのだ。
 聖徳太子に関する書物は、今日までに多数あるだろう。
 それにもかかわらず、なぜ、小田村寅次郎のみを参照するのか? なぜ、小田村が紹介する黒上正一郎の読解の仕方をそのまま支持するのか?
 また、③なぜ、それが<保守自由主義>と称される「日本の政治的伝統」とつながるのか?
 さっぱり分からない。異常であり、異様だ。
 <一部、割愛>…、、常識的には、つぎの問題だろう。
 そもそも第一に、聖徳太子・十七条の憲法の「思想」・「主義」・「考え方」を、その第10条の一部の句-「共に其れ凡夫のみ」-にのみ着目して理解することが適切なのか。
 江崎道朗は、小田村らを称揚したい気分が嵩じて、何か勘違いをしているのではないか。
 またそもそも第二に、小田村寅二郎の「思想と行動」において、聖徳太子・十七条憲法はいかほどの位置を占めていたのか。
 なお、小田村や黒上が「保守自由主義」という語を使っていたのでは全くなく、これは江崎道朗が2017年の時点で「新発明」した?造語だ。
 最後に記した諸点をさらに検討する。江崎道朗、<ああ恥ずかしい>
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 以上。

2165/<売文業者か思想家か>。

 竹内洋・メディアと知識人-清水幾太郎の覇権と忘却(中央公論新社、2012)。
 これの中身も、全部かつて読んだはずだ。清水幾太郎の言論活動を批判的にたどっているのだろう。
 読売・吉野作造賞受賞第一作。
 単行本に付いている上の紹介よりも興味深いのは、オビ上のつぎの言葉だ。
 <売文業者か思想家か>(オモテ)。
 <この私にしても、まあ、一種の芸人なのです。まあ、笑わないで下さい>(ウラ)。
 後者は、確認しないが、清水幾太郎が書いたか発した言葉なのだろう。
 しかし、竹内洋自身は、<売文業者か思想家か>。そのどちらでもない、大学教授なのか。少なくとも「思想家」だとは思えない。大学教授だとしても、江崎道朗の本のいい加減さを指摘できないようでは、頼まれ仕事を良心的に行っているとは思えない。
 故西部邁は、<売文業者か思想家か>。自分自身はきっと<思想家>だと思っていたのだろうが、しかし同時に<売文業者>でもあっただろう。
 西尾幹二は、<売文業者か思想家か>。自分自身はきっと<思想家>のつもりでいるだろう。そう自称はしなくても、そう思われていたい、と思っているに違いない。西部邁も江藤淳も、西尾幹二にとっては、「気になる」<保守派知識人>のライバルで、西尾の文章の中にはこの二人に対する<皮肉・嫌み>もある。そして、いかんせん、読者の反応や売れ行きを気にする<売文業者>でもある。
 江崎道朗、櫻井よしこ。明らかに「思想家」ではない。そして政治目的のための<売文業者>にすぎない。
 八幡和郎? 「思想家」ではないのはもちろん、「知識人」ですらない。
 ***
 なぜ<売文業>が成り立つか? 文章・知識・情報に関する「出版・情報産業」が「業」として成立し得るだけの<市場>が、日本にはあるからだ。
 そのような社会または国家は、世界のどこにでもあるのではない。
 たまたま人口や地域の規模、そしてほとんど「日本語」だけによる情報交換が成り立っている、日本は、そのような社会・国家だからだ。決して、世界に一般的でも、普遍的でもない。
 少なくとも江戸時代・幕末までの日本の「知識人」は、自分または所属団体(藩等)の「功名」のために文章を書き本を出版したかもしれないが、金儲け=生業としての「功利」のためには<思索・思想作業>をほとんど行わなかったように見える。相対的には純粋に、自分は<正しい>と考えていることを書いただろう。偽書、売らんがための面白物語の例が全くなかったとは言わないが。
 現在の日本の<評論・思想>界の低迷または堕落は、それがほぼ完全に「商業」の世界に組み込まれてしまっていることにあるだろう。
 その中でうごめいているのが、雑誌や書籍の「編集者」・「編集担当者」という、あまり広くは名前を知られていない、「情報・出版産業」の有力な従事者だ。
 テレビ番組を含めれば、(とくに報道・情報)番組製作の「ディレクター」類になる。
 雑誌・書籍の「編集者」・「編集担当者」(あるいはテレビ番組の「ディレクター」)。これらによって発注され、請け負っているのが、日本の現在の自営・文筆業者あるいは「評論家」たちだ。大学・研究所に所属して、それからいちおうの安定した収入があるか、江崎道朗、小川榮太郎等のように「独立」・「自営」しているかによっても、「売文」の程度とその中身は異なるに違いない。

2125/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨26。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017.08)。
 この書物(らしきもの)は「コミンテルン」を表題の重要な一部とするもので、「本書で使っているコミンテルンの資料はすべて公開されている情報だ。それをしっかり読み込んで理解するのがインテリジェンスの第一歩なのである」(p.95)と豪語している。
 「悲惨・無惨」、「ああ恥ずかしい」と書いてきたとおりだ。一昨年秋の指摘を、再度紹介しておこう。
 「わずか5頁の範囲内に、つぎの三つの間違いがある。ああ恥ずかしい。
 ①「民主集中制」と「プロレタリア独裁」を区別せず、同じものだと理解している(p.78)。
 ②「社会愛国主義」は「愛国心」を持つことだと理解している(p.75)。
 ③ソ連未設立時の「各ソヴェト共和国」を「ソヴィエト連邦」と理解している(p.79)。
 また、上は決定的、致命的なもので、誤り、勘違いは他にも多々ある。
 例えば、④コミンテルン設立時にすでに「共産党」が各国にあり、ボルシェヴィキ党の呼びかけのもとにそれらが集まってコミンテルン(国際共産党?、第三インターナショナル)が結成されたとでも勘違いしているとみられる叙述もある。
 ⑤レーニン時代も含めて、「粛清」という語をほとんど「殺戮」と同じ意味だと理解している、またはそう理解したがっている叙述もある」。
 また、思い出すと、上の書物(らしきもの)は<コミンテルンと日本の敗戦(第二次大戦)>を主題とするのだから、1939年~1945年の「コミンテルン」の資料を用いなければならないはずだが(但し、1943年に解散)、少なくとも1930年初頭以降~1940年代初頭までの活動が直接に関係しているはずだが、江崎道朗が「史料・資料」らしく利用しているのは、結成・設立時の1919-20年だけのコミンテルン文書で、しかも原史料(の邦訳)ではなく全く無名の英米の研究者(らしき人物)二人の書物の邦訳書(大月書店、1998)の「付録」として掲載された上の時期のレーニンまたはコミンテルン文書のうちの4件(かつ各々の一部)だけだ。日本共産党の27年・31年テーゼとの関係も出てこない。
 追記すれば、上の邦訳書の訳者・「萩原直」は<プロレタリアート独裁>を<執権>に変えているので日本共産党関係者だと見られるが、言うまでもなく、そんなことは江崎道朗の関心内には入っていない。
 加えて、のち1935年7回大会での<統一戦線(人民戦線)戦術>がコミンテルン設立の当初からまたは1920年頃にあったかのごとき叙述もしている。
 上のような誤りや決定的不備に気づかなかった推薦者・中西輝政(1947~)もまた、決定的に<知的に不誠実>だろう(おそらく本文内容を読まないままでオビに「名」を出している)。
 竹内洋(1942~)もまた<知的に不誠実>で、この欄で中休みしている主題部分での江崎道朗の決定的な誤りまたは不備を、産経新聞紙上での「書評」で、指摘することができず、素通りしている。
 「素通り」どころか、竹内洋はつぎのように、江崎道朗書(らしきもの)の「功績」を認める(産経新聞2017年9月17日、Web 上による)。
 「伝統にさおさし、戦争を短期決戦で終わらせようとした小田村寅二郎(吉田松陰の縁戚)などの思想と行動」を著者・江崎は「保守本流」の「保守自由主義」と称する。この語はすでにあったが、これを「左翼全体主義と右翼全体主義の中で位置づけたところが著者の功績」。
 以上、<犯罪>に加担する<保守派?知識人(?)>が、ここにもいる。
 (なお、秋月は、竹内洋の書物を清水幾太郎関連も含めて多数所持し、多数読了すらしている)。
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 上の著で江崎が高く評価する(五箇条の御誓文-明治憲法-昭和天皇につながるとする)聖徳太子・<十七条憲法>関係部分について、前回の一昨年秋(2019年10/12)でこう記した。
 ・「江崎道朗が依拠しているのは小田村寅二郎であり、その小田村が依拠しているのは黒上正一郎による聖徳太子・十七条憲法10条の一部の読解の仕方」だ。
 ・とすると、「江崎は、その脳内で、つぎの作業をしている。
 ①小田村の叙述を自分自身のものとする、②小田村が紹介する黒上の所説も自分自身のものとする。そして、③その部分=「共に其れ凡夫のみ」から<保守自由主義>なるものを導き、それは五箇条の御誓文等の「明治の日本」にも継承されている、とする」。(!!)
 ・「①と②の根拠または理由自体が、いっさい論述されていない」。「聖徳太子に関する書物は、今日までに多数あるだろう。/それにもかかわらず、なぜ、小田村寅次郎のみを参照するのか? なぜ、小田村が紹介する黒上正一郎の読解の仕方をそのまま支持するのか?
 また、③なぜ、それが<保守自由主義>と称される「日本の政治的伝統」とつながるのか?」
 ・「さっぱり分からない。異常であり、異様だ」。
 小田村寅二郎、1914~1999。
 竹内洋はきっと、この人物の詳細を知らないだろう。また、江崎書(らしきもの)が戦後の小田村寅二郎がどう生きたのかをいっさい書かないのは、なぜだろうか。
 「生長の家」という言葉を出さざるをえないと見られる。江崎も書名を明記しているが、江崎が依拠しているのは、小田村寅二郎・昭和史に刻むわれらが道統(日本教文社、1978)だ。
 次回へと続ける。

2058/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨23。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子
 江崎道朗本人はもちろんだが、PHP研究所、川上達史、山内智恵子は、恥ずかしく感じなければならない。学者・研究者としての良心があるならば、京都大学「名誉教授」・中西輝政も、同じく京都大学「名誉教授」・竹内洋も。
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 江崎は、上の著は最終文の直前の文でこう書いている。
 p.414(おわりに)-「われわれはいまこそ、五箇条の御誓文に連なる『保守自由主義』の系譜を再発見すべきなのである」。
 また、最終章の末尾には、こうある。
 p.406(第6章)-「われわれは、憲法改正によって取り戻すべきは『保守自由主義』であって『右翼全体主義』でも『左翼全体主義』でもないと明確に答えることができるようなっておくべきなのだ」。
 さらに、第5章の末尾には、こうある。
 p.354(第5章)-「われわれは、……小田村寅次郎ら『保守自由主義』の系譜を受け継ごうとするものだ」。
 これらでの「われわれ」とは誰なのか明記されていないが、江崎を含む仲間たち、要するに<現在の日本の「保守」派>であり、その仲間たちに呼びかけているのだろう。
 「われわれ」の意味・範囲は瑣末なことだ。
 上のようにこの著にとって重要な基礎概念である<保守自由主義>とは何かが、当然に問題にされなければならない。そして、これが曖昧なままだと、この書物の目的は達成されていないに、ほとんど等しいだろう。
 そして、多少立ち入れば、つぎのことが読み取れる。
 第一、<保守自由主義>とは、聖徳太子・十七条憲法と関係があり、そこに示されるとされる「日本の長い政治的伝統」だとされている。
 例えば、以下のとおり。
 p.13(はじめに)-日本のエリートたちは大正時代以降3つのグループに分かれたが、「第三は、聖徳太子以来の政治的伝統的を独学で学ぶ中で、…皇室のもとで秩序ある自由を守ろうとした『保守自由主義』のグループだ」。
 p.279(5章第4節)-小田村寅次郎らの一高昭信会のリーダーは「聖徳太子の十七条憲法や……を学ぶことを通じて、日本型の保守主義についての勉強を行っていた」。
 p.344(5章第27節)-見出し「聖徳太子以来の日本の伝統的政治思想に学ぶ」。
 同(5章第27節)-小田村らが「聖徳太子の十七条憲法歴代天皇の政治思想を学ぶことを通じて日本型の保守主義についての勉強や活動を行ってきたことはこの章の最初に、すでに述べた」。<なお、立ち入らないが、「歴代天皇の政治思想」を学んだとは章の最初に書かれておらず、「歴代天皇の政治思想」が出てくるのはここだけだ。>
 p.348(5章第28節)-見出し「保守自由主義の立脚点は聖徳太子、五箇条の御誓文、帝国憲法」。
 そして、聖徳太子(・十七条憲法)に関するやや立ち入った言及があった後のつぎの結論的叙述は、最も長い文章であるかもしれない。
 p.350(5章28節)-「日本の『保守主義者』が『保守』すべきものとは、聖徳太子が…で示した人生観であり、明治天皇が『五箇条の御誓文』で示した自由主義的な政治思想なのである。/
 小田村たち、「すなわち『若き保守自由主義者たち』の脚点は、まさに、聖徳太子から五箇条の御誓文、そして帝国憲法へと至る、日本の真の伝統であった」。 
 同様の趣旨は、この後にも現れる。
 p.352(5章29節)-「右翼全体主義者」は「聖徳太子以来の五箇条の御誓文、帝国憲法へと至る『本来の日本』などまったく顧慮せず、……帝国憲法体制を破壊すべく邁進していったのだ」。
 p.404(第6章15節)-彼らは「聖徳太子の十七条憲法以来のわが国の政治のあり方も、大日本帝国憲法に込められた叡慮も、…もきちんと学ばずに、…レーニンの帝国主義論など、最新の学問潮流に幻惑されていった」。
 この程度にするが、このように、何度も「聖徳太子」・「十七条憲法」や「五箇条の御誓文」を登場させている。
 しかしながら、決定的に不十分なのは、<これらがなぜ「保守自由主義」を示すものなのか>だ。
 江崎道朗は、これに全く言及していないわけではない。
 だが、おそるべきほどの杜撰さで、これらを叙述し、理解しようとしている。
 そこには決定的に不備・誤りがあるだろうが、上に引用した中では、聖徳太子以来の「政治的伝統」であるはずなのに、「聖徳太子が…で示した人生観」(p.350)なるものに遡ろうとする叙述にも<破綻>の一端が見られる。
 そして、江崎道朗は、十七条憲法にせよ、五箇条の御誓文にせよ(大日本帝国憲法は別に措くとして)、<保守自由主義>だということを示す何ら詳細で具体的な「研究」ないし「論証」も展開していない。
 皮を剥いていくと何もなかった、というのにほぼ等しい。言葉としては、聖徳太子・十七条憲法等が出てくる。しかし、これらに多少とも立ち入った叙述はない。そのような観のある叙述部分も、江崎自身の見解ではなく、他者の見解を紹介・引用することで済ませている。
 何と無惨だろうか。こんな叙述で、読者は納得するとでも考えていたのだろうか。
 怖ろしいことだ。こんな書物が日本では堂々と出版されている。<惨憺たる>出版物だ。
 次回には、聖徳太子の十七条憲法のどの部分が、江崎のいう<保守自由主義>なのか、という、奇妙な叙述を紹介し、論評する。

2038/江崎道朗2017年8月著の悲惨と無惨21。

 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)
 編集担当者はPHP研究所・川上達史。「助けて」いるのは、自分の<研究所>の一員らしい山内智恵子。
 聖徳太子関連は次回の22以降とする。
 江崎道朗は、日本の戦前史を扱う中で、北一輝に論及する。
 その場合に、参照・参考文献として少なくとも明示的に示しているのは、以下だけだ。
 渡辺京二・北一輝(朝日新聞社、1985 /ちくま学芸文庫、2007)。
 この渡辺京二はたぶん戦後に日本共産党に入党し、宮本・不破体制発足以前に離党してはいるようだ。戦前からイギリス共産党員だったCh. ヒルがハンガリー「動乱」の後で離党したのと同じ頃に。この、日本共産党員だった、ということはここでは問題にしないことにしよう。あるいは、全く問題がないのかもしれない。
 江崎はまた、明治の日本はエリートと庶民に二分されていた(これはある程度は、又はある意味では、明治以前も、戦後日本でも言えると思われるのだが)、と単純にかつ仰々しく述べる中でなぜかその論拠としている外国人の文献とその内容等についても、この渡辺京二のつぎの書物を重要なかつ唯一の参照・参考文献としている可能性が高い。
 渡辺京二・幻影の明治-名もなき人びとの肖像(平凡社、1998)。
 この点も、深くは立ち入らないことにしよう。
 参考・参照文献の使い方や処理の仕方の幼稚さ・単純さあるいは間違いはレーニン・コミンテルン等に関する叙述でしばしば見られたことで、日本に関する叙述でも、そのまま継承していることは確実だろう。そもそもは、参考にして「勉強」している文献がきわめて少ないというほぼ絶対的な欠点もあるのだが。
 可能なかぎり網羅的にとは決して思わずに、自分で適当にいくつか(または一つだけ)選択した、彼にとって<理解しやすい>文献にもとづいて(直接引用したり要約したりして)、最初から設定されている自分の<図式>に合わせてこれまた適当に散りばめていく、そして、複数の論点を扱うために対応する諸文献の間での矛盾・一貫性の欠如が生じても、何ら気にしない。または、気づかない。
 このような、大学生の一・二年生によく見られるような<レポート>であって、いくら書物の体裁をとっていても、いくら「活字」で埋まっていても、一定の簡単かつ幼稚な<図式>以外には、実質的な、この人自身の詳細な主張・見解の提示などはほとんどない、というのが、江崎道朗が執筆・刊行している書物だ。
 学界・アカデミズム内であれば、すぐに「アウト」だ。すぐさま排除され、もはや存在することができない。そもそもが、加わることができるレベルにない。しかし、なぜか、日本の出版産業界と月刊正論(産経)・文章情報産業界では、存在し、「生きて」いけるようだ。
 「オビ」に名を出して称賛した中西輝政にはすでに触れたが、好意的書評者となっていた「京都大学名誉教授」竹内洋のいいかげんさにも、別途触れる。
 さて、長々と書くのも勿体ない。
 江崎道朗は北一輝について、上の渡辺著のほかには、私でも所持するつぎの諸文献を、いっさい参照していないようであることを、まずは指摘しておく。北一輝に関係する「内容的」な問題には、別の回で触れる。
 ***
 G・M・ウィルソン/岡本幸治訳・北一輝と日本の近代(勁草書房、1971)。
 松本清張・北一輝論(講談社文庫、1979)。
 岡本幸治・北一輝-転換期の思想構造(ミネルヴァ書房、1996)。
 松本健一・北一輝論(講談社学術文庫、1996/原書、1972)。
 松本健一・評伝北一輝/Ⅰ~Ⅵ(中公文庫、2014/原書・岩波書店2004)。
 所持はしていないが、他にもあるだろう。
 松本清張のものを見ても迷路に入って混乱するばかりだが、岡本幸治著・本文計360頁を見ると、北一輝の思想と行動は、江崎道朗が渡辺京二の本に即して描くような単純なものではなかったことが、よく分かる。江崎道朗、<ああ恥ずかしい>。

1288/「進歩的文化人」は死滅したかー福田恆存、竹内洋らによる。

 福田恒存に、「進歩的文化人」と題する小稿がある。50年前の1965年に読売新聞に連載していた随筆ものの一つだ。そこに、こうある。
 「私がいつも疑問に思うことは、他国の事はいざ知らず、日本が共産主義体制になることを好まない人でも、結果としてはそうなる事に、少なくともそうなる可能性を助長する様なことに手を貸している事である。そういう人を『進歩的文化人』と呼ぶと定義しても良いくらいだ。その事を当人は意識しているのかどうか」(新字体等に改めている。福田恒存評論集第十八巻p.123(2010、麗澤大学出版会))。
 これによると、「進歩的文化人」とは、当人が「意識しているのかどうか」は別として、また「日本が共産主義体制になることを好まな」くとも、「結果としては」「日本が共産主義体制になる」「可能性を助長する様なことに手を貸している」人、ということになるだろう。
 福田恒存はこのあともいくつかの文章を挿んでいるが、-むろん「進歩的文化人」なるものに批判的なのだが-分量が少ないこともあって、正確な趣旨は必ずしも掴みがたい。ともあれ、「筋金入りの共産主義者は別」として、「進歩的文化人」の中の「その大部分の良識派」はつねに建前としての真実・正義(偽善?)を語っていて、読者もそれを好み、かくして「洗脳」は無意識に行われる、というようなことを書いている(p.124)。
 この福田恒存の文章は独自に発見したのではなく、竹内洋・革新幻想の戦後史(2011、中央公論新社)の中で言及されていたので原文を探してみたのだった。しかし、よくあることだが、この竹内著のどの箇所で言及されていたのかが今度は分からなくなってしまった。その代わりに、「進歩的文化人」にかかわるあれこれの面白い叙述や文章引用を見つけた。
 竹内の生年からすると1960年代初めだろう、<福田恒存はいいぞ>とか言ったら「この人右翼よ」と言われたとかの実体験(?)の記載があるなど、上記の竹内著は-学問的労作と随筆文の中間あたりの-、戦後史を知る上でも興味深い書物で、この欄でも何度かすでに触れたかもしれない(仔細を逐一確認しないままで、以下書く)。
 「進歩的文化人」の定義としては、古く1954年の雑誌上のものだが、高橋義孝のそれが詳しい(竹内の引用による。p.316)。
 それをさらに少し簡潔にすると、①「大学の教師をして」いる、②「共産党乃至は社会党左派の同調者」、③「新聞雑誌によくものを書」く、④「よく講演旅行」をする、⑤「本当の政党的政治活動をしているような口吻」をときに漏らすが実際は一度か二度「選挙の応援弁士」になった程度、⑥とくに若い人たちの「自分の人気を気にかけ」、いつも「寵をえていたい」と思っている。
 部分的には似たようなことを、「非常に左翼的なことを言って」いながら「党員」になったり「組織に足をいれ」ることなく、生活態度は「ブルジョア的で非現実的な人々が多い」、と言う論者もある(あった)らしい(p.319-320)。
 また、上の高橋義孝の定義の別の一部について、臼井吉見は1955年に、こう述べたらしい。
 「将来の世界は社会主義の方向に進むに違いないとの情勢判断に基づいて、すべての基準を、つねに将来の方向におき、そこから逆に現実を規定し、判断するという、一種独特の思考方式にすがって怪しまぬ」(p.317)。
 また、竹内は「進歩的文化人」と共産党との関係にも論及していて、「共産党神話の崩壊」によって「進歩的文化人」批判は勢いを増したが、一方で<非共産党的(進歩的)文化人>の存在感も大きくした、あるいは共産党「同伴」知識人だったものが、共産主義・共産党という中心のない「市民派」知識人が独自に出てきた(代表は丸山真男)、というようなことも書いている(p.317-320あたり)。
 そして、竹内によると、「進歩的文化人に引導を渡したのは」、保守派ではなく「ノンセクト・ラジカル」だった、ということになるらしい(p.323)。
 面白いが、しかし、「共産党神話の崩壊」とは1955年の共産党六全協での極左冒険主義批判、1956年のソ連でのスターリン批判によるものを意味するのだから、かなり古い。2015年の今日、「共産党神話」は完全になくなっているだろうか。
 また、「ノンセクト・ラジカル」とは1970年代初頭の「全共闘」またはその一部を指しているので、これまたかなり古い。「進歩的文化人」に対する<引導の渡し>は終わっているのだろうか。
 たしかに、「進歩的文化人」という言葉はもはや死滅していると言ってよいのかもしれない。清水幾太郎や丸山真男らが活躍(?)していた頃とは、時代がまったく異なる、と言える。但し、竹内も「悪いやつには怒り可哀想な人には同情する」テレビのキャスター・コメンテイターのうちに「進歩的文化人」の後裔または現代版を見ることを完全には否定していないようだ(p.306-310)。
 テレビのキャスター・コメンテイターにまで広げなくとも、上のように定義され、特徴をもつ「進歩的文化人」は、言葉はほぼ消失していても、今日でもなお存在し続けていると思われる。
 そこでの要素は、①大学の教師でなくてもよいが、一定の「知識人」層と俗世間的には見られているような人、②社会主義・共産主義を嫌悪せず、無意識的であれ<許容・容認>している人、これとほぼ同義だが歴史は一定の「進歩的」方向に進んでいると考える、又はそう進ませなければならないと考える人、③何らかの「声明」に加わることも含めて、見解・主張の発表媒体を持っている人、ということになろうかと思われる。
 最近にこの欄で取り上げた人々を例にとれば、集団的自衛権行使容認閣議決定に対する反対声明を出している憲法学者たち、特定秘密保護法に反対する声明を出していた憲法学者・刑事法学者等たちは、ずばりこれに該当するようだ。
 その場合に日本共産党との関係に興味がもたれてよい。かつては「左翼」には社会党系、共産党系、それ以外の<純粋「市民」派>とがあったと言えるだろうが、日本社会党の消滅とそれに代わる社民党の力不足もあって、相対的には日本共産党系の力が強くなっているように見える。旧社会党系の一部を吸収した非・反共産党の<民主党左派>系「左翼」もあるのだろうが、しかしかつての社会党系が日本共産党に対する独自性をまだ発揮できていたのと比べれば、今日では日本共産党との<共闘>に傾いているように見える。
 そして、上記の憲法学者・刑事法学者たち等は、日本共産党系「左翼」であり、<共産党系進歩的文化人>だと言ってよいだろう。
 日本共産党機関紙・前衛の巻頭あたりにしばしば登場している森英樹も含まれているし、逐一確認しないが、かつて紹介したことのある、日本共産党系法学者たちの集まりである「民主主義科学者協会(民科)法律部会」の会員である者が相当数を占めているものと思われる。ひょっとすれば、ほとんど全員がそうであるかもしれない。もっとも、樋口陽一のように、元来は非共産党的「左翼」知識人・学者ではないかと思われる者も声明に加わっているように、ゆるやかであれ<容共>=「左翼」の者が賛同者ではある。かつては、日本共産党又は同党系と協調・共闘することを潔しとはしない「左翼」も存在したと思うが、叙上のように、その割合は今日では相当に落ちているようだ。
 「九条を考える会」もまた、大江健三郎に見られるように、元来は日本共産党系とは言えない運動の団体だったかもしれないのだが、日本共産党の<積極的に中に入っていく>方針に添って、今日では実質的には日本共産党系の団体・運動になっていると言ってよいだろう。旧社会党系であれ「市民」派であれ、共産党との共闘を厭わなくなってきているのだと思われる(これはかつてと比べれば大きな違いかと思われる。それだけ、「左翼」全体の量が減っているのかもしれない)。
 というわけで、共産主義・社会主義「幻想」と「進歩」幻想を基本的には身につけたままの「進歩的文化人」はまだ死滅しておらず、この人たちとの「闘い」をまだ続けなければならない。
 むろんこのように言うことは、上に挙げたような人々が日本共産党員ではない「進歩的文化人」にとどまっている、ということを言っているのではない。「進歩的文化人」の中核にはしっかりと、かつ量的にも多く、「筋金入りの共産主義者」である日本共産党員が相当数座っている。本当に闘わなければならない対象は、この者たちだ。
 そして、「日本が共産主義体制になることを好まない」人で、かつ客観的には「そうなる可能性を助長する様なことに手を貸している事」に気づいていない「進歩的文化人」がいるとすれば(単純に、<戦争反対・民主主義>のためだと考えている人も中にはいるだろう)、その人たちには、できるだけ早くこのことに「気づいて」いただく必要がある。このあたりは、<民主主義・自由主義・平和主義>と<社会主義(・共産主義)>との関係にかかわってもっと論述する必要があるのだが、すでに何度も触れてきていることでもあり、とりあえず、このくらいにせざるをえない。

 

1267/丸山真男と現憲法九条・「軍事的国防力を持たない国家」論。

 〇 竹内洋・丸山真男の時代(中公新書、2005)は丸山真男に対して批判的であり、竹内・革新幻想の戦後史(中央公論社、2011)も同様だ。竹内の上の前者によると、1996年8月に丸山真男が逝去したのち朝日新聞はある一面のすべてを「丸山の業績と人をしのぶ」座談会で埋めたが、産経新聞は元慶応大学・中村勝範の「丸山政治学は思想的に日本人を混乱させた元凶でした。過去の分析も戦後の状況判断も完全に誤っていた」とのコメントも掲載した。
 水谷三公・丸山真男-ある時代の肖像(ちくま新書、2004)を、私は丸山真男(の思想)に対する訣別の書として読んだ。だが、長谷川宏・丸山真男をどう読むか(講談社現代新書、2001)のような、丸山真男を称揚する書物は今日でも新たに刊行され続けている。
 戦後「左翼」のなお強固な残存の源流の一つは、丸山真男にあるだろう。
 〇 ジャパニズム21号(青林堂、2014.10)によって気づかされたのだが、丸山真男は、亡くなる一年前以内の雑誌・世界(岩波)の1995年11月号に、「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・60年安保」と題する回顧談的文章を載せている。その中に、つぎの文章がある。丸山真男全集第15巻(岩波、1996)から直接に引用する(p.326)。
 平和問題談話会の法政部会で憲法第九条の問題を論じたときは、民法専攻の磯田〔進〕君のような左派は、『軍備のない国家はない。軍備がないというのはおかしい』と批判しました。正統左派ではない大内〔兵衛〕先生も、『国家である以上は、完全非武装というのはありえない』というのが、このときのお考えでした。そこで僕は、こうなったら国家観念自体を変革する以外にない、今日の言葉でいえば、…『普通の国家』論でいえば、軍備のない国家はないんだけれども、憲法第九条というものが契機の一つになって一つの新しい国家概念、つまり軍事的国防力を持たない国家ができた、ということも考え得るんじゃないかといって、磯田君と議論した。(ジャパニズム上掲p.118と引用の部分・仕方が少しだけ異なる)。
 ジャパニズム上掲号の「左翼アカデミズムを研究する会」という実質的には無署名の書き手は、上の文章から、大内兵衛ですら武装肯定の時代にすでに<非武装中立>を信念としていた、というまとめ方をしているが、私には、丸山真男が現憲法九条を「国家観念自体」の「変革」、「新しい国家概念」提示の契機と理解しようとしていた、ということが興味深い。
 いずれにしても、「丸山という知の権威がつくりあげた憲法九条イデオロギーは、さまざまな形で、今日の左翼アカデミズムに大きな影響を及ぼしている」(同上p.118)のはおそらく間違いない。ここにいう「憲法九条イデオロギー」は、たんに<反戦・平和>の気分に支えられているのではなく、「左翼」が夢想したい「新しい国家概念」の展望によっても基礎づけられているかに見える。
 憲法九条2項改正(・削除)論・論者に対する強固で執拗な、あるいは脊髄反射的な反発は、現実的・具体的な議論によって成り立つているというよりも、まさに「イデオロギー」に依拠するものだろうと考えられる。
 そうだとすると、やはり、それを打ち砕いておくために、憲法九条2項の改正(・削除)は日本にとって絶対になすべき課題だ、と感じられる。
 池田信夫はそのブログ2014.12.25付で「憲法改正は『大改革』ではない」と題して、憲法>「第九条を改正しても、自衛隊の名前を『国防軍』と変える以外の変化はほとんどない。大事なのは一院制にするとか衆議院の優越を明確化するなどの国会改革だが、自民党の改正案は参議院にまったく手をつけない。これでは改正する意味がない」等と書いている。
 後段の指摘には賛同したい部分があるが、九条改正による「変化はほとんどない」、したがってその改正に大きな意味はないというかのごとき主張には、賛同し難い。九条2項を「改正(・削除)」しなくとも、すでに自民党中心の政権による憲法解釈によれば合憲とされている自衛隊によって、かなりのことが可能になっていることは確かであり、改憲反対派・憲法九条2項護持派によるデマ宣伝が言うほどには実態は大きくは変わらず、これまでの変化・実態の蓄積の延長線上にあるものにすぎないかもしれない。その意味では「質的」・「革命的」変化を生じさせるものではないかもしれない。
 しかし、「軍その他の戦力」の保持が明確に禁止されているにもかかわらず自衛隊を合憲視するのは相当に苦しい解釈ではあり、その「おとなのウソ」を解消する必要はやはりある、正規に「軍」と認知することによって日本の安全保障に一層寄与する、という点をかりにさしおいても、丸山真男のいう「軍事的国防力を持たない国家」という「新しい国家」観を、そして「憲法九条イデオロギー」を、きちんと打ち砕いておく課題と必要はある、と考えられる。問題は安全保障に関する現実だけではなく、<精神>・<国家観>にもあるのだ。
 〇 なお、丸山真男の、上の1995年の文章は「平和問題談話会から憲法問題研究会へ」という副題をもっている。
 前者の「平和問題談話会」については戦後<進歩的文化人>生成の重要な場であるという関心からそのメンバーの探索・確定や、安倍能成らの「オールド・リベラリスト」の排除による<純化>の過程の叙述を、たぶん竹内洋等々の文献を手がかりに、この欄でメモしていったことがある。そこでも触れたことがあるような経緯・構成員の一端を当事者の一人だった丸山も語っていて興味深い。また、後者についても、宮沢俊義(憲法学者)、我妻榮(民法学者)が政府系の憲法調査会ではなく、「憲法問題研究会」に入会したことは社会的に、また東京大学法学部内部でも大きな話題になった、等が語られていて興味深い。機会(・余裕)があれば、また言及しよう。

1139/今谷明・天皇と戦争と歴史家(洋泉社、2012.07)から再び。

 〇先日の平泉澄とマルクス主義日本史学者・黒田俊雄への言及は、今谷明・天皇と戦争と歴史家(洋泉社、2012.07)p.125以下の「平泉澄と権門体制論」に依ったものだった。今谷著のp.40以下の「平泉澄の皇国史観とアジール論」の中でも、同旨のことが次のように、より簡潔に述べられていた。
 「戦後、黒田俊雄さんが『権門体制論』〔略〕で、平泉の説と同じことをのべています。ところが黒田さんは平泉ののことをぜんぜんいわないのです。自分が発見したように『権門体制論』を立てるわけですが。しかし…エッセンスはすでに…〔平泉の1922年の著〕のなかではっきりとのべられている…。公家・寺社・武家の鼎立、つまり『権門体制論』の萌芽をすでに平泉はいっていたわけです。/黒田さんは平泉のことを知っているはずなのに出さないのですね。論文にも著書にもまったく引用していない。ちょっとアンフェアではないかと思う。いくら平泉の思想なり人柄が気にくわんといっても、業績は業績で生きているわけだから、それを学説として紹介すべきなのにまったく無視している。平泉の業績が戦後忘却されていたことを考慮すると、ある意味で悪質な剽窃といってもいいすぎではないと思う」(p.56)。
 この今谷の論考の初出は1995年で、黒田俊雄の死後のことだ(黒田の逝去は1993年)。黒田の現役のときにまたは生前に、黒田も読めるように公にしてほしかったものだ、という感じもする。
 今谷明は1942年生まれで(今年に70歳)、実質的には中心的な活躍の時期を過ぎているだろうが、上と似たようなことは、元京都大学教授の竹内洋や、<保守派>として産経新聞によく登場している元大阪大学教授の加地伸行についても感じなくはない。
 現役の国公立大学の教授だった時代に、社会主義・マルクス主義あるいは「左翼」(・<進歩派>)の論者・学者たちを明確に(学術的に)批判してきたのだろうか、という疑問が湧くのだが、実際にどうだったかはよくは知らない。
 上の点はともあれ、「左翼」・マルクス主義学者の黒田俊雄が学説の内容よりも<人・名前>でもって引用等に「差別」を持ち込んでいたという旨の指摘は興味深いし、他の「左翼」・マルクス主義学者たちも、今日でも、かつ分野を問わず、似たような、<学問>と言われる作業をしているのだろう、ということは既に書いた。
 
〇上掲の今谷明著の最初にある樺山紘一との座談会「対話・戦後の歴史研究の潮流をふりかえる」(初出、1994年)もなかなか面白い。
 次の三点が印象に残った。
 第一。樺山が、とくにスターリン批判以降、欧米では「わりあい早くから切れて、マルクス主義に距離をおいて古典のひとつとして捉えている」にもかかわらず、「日本の場合、マルクス主義が非常に根強く残ったのはなぜなんでしょう」、「日本の場合はずっと教条として残」った、「日本だけはどうしてなんでしょう」と質問または問題提起して、今谷明が反応している。かかる疑問は、私もまたかねてより強く持ってきた。欧米では<反共>・反マルクス主義は(知識人・インテリも含めて)ほとんど<常識>であり<教養>の一つであるのに、日本だけはなぜ?、という疑問だ。
 厳密には答えになっていないようだが、今谷は次のように語っている。
 ・「経済学で講壇マルキシズムが非常に根強かった」ことと、「労働運動と連動」していて、「革命運動に影響された」ということがあった。
 ・「例えば文革の実情が明らかになるまではマルクス主義はひとつのモデルだった」。「日本の場合はスターリン批判やハンガリー事件があったにもかかわらず、日本のマルクス主義はびくともしなかった」。「日本の歴史学」は非常に不幸で、「昭和四〇年代くらいまで引きずってきた」、「ある意味では非常に遅れた」、「その間の停滞は惜しい」(p.20-21)。
 このあと、今谷は1989年のベルリンの壁の崩壊まで「気づかなかった」と述べ、樺山は「まだ気がついていないようなところもあるような気がしますけど」と反応している(p.22)。この部分は、樺山の感覚の方が当たっているのではないか。
 第二。今谷が、「アカデミズムに全共闘は残らなかったですね。民青系が大学院に残ったので、その後アカデミズムはマルキシズムが強い―特に歴史学は強い」と述べている(p.25)。
 全共闘系はすべてマルクス主義者ではなかったかのごときニュアンスの発言もあるが、全共闘系の中にはマルクス主義者もいたはずだ。従って、上の発言は、大学院に残り、その後大学教員になっていったのは、ほとんど「民青系」、つまり日本共産党系の者たちだ、というように理解できる。そして、その傾向は「特に歴史学は強い」ということになる。
 マルクス主義にも講座派・労農派、日本共産党系・社会党系等々とあったはずなのだが、日本共産党系のそれが「アカデミズム」(「特に歴史学」)を支配した、という指摘は重要だろう。
 上記の第一点、日本におけるマルクス主義の影響力の残存も、日本共産党の組織的な残存と無関係ではない、いやむしろほとんど同じことの別表現だ、と考えられるだろう。
 第三。今谷が、不思議なのは「マルクス主義歴史学がどうだったかという、マルクス主義内部での…学問的な検討・批判が歴史学で行われていない」ことだ、「歴史学の内部で例えばロシアの革命はいったいなんだったのかという再検討すらされていません」、と述べている(p.30)。
 怖ろしい実態だ。おそらく、日本共産党の歴史観を疑い、それに挑戦することは、学界、とくに日本史学界では、ほとんど<タブー>なのだろう。その点ではすでに、「学問の自由」はほとんど放棄されているわけだ。
 日本共産党はマルクス・レーニン主義のことを(正しい)「社会科学」と呼んでいるらしい。
 歴史学に限らないことだが、日本共産党の諸理論自体を対象とする<社会科学>的研究が大規模に行われるようにならないと、日本の人文・社会系の「学問」やそれを行う中心的組織らしき「大学」(の人文・社会系学部)は、それぞれの名に値しないままであり続けるのではないか。

1104/「B層」エセ哲学者・適菜収と重用する月刊正論(産経)②。

 〇前回に引用・紹介した丸山真男の文章は、昭和22年(1947年)06月に「東大で行った講演」を母体にしたもので、丸山真男自身の著では、最も古くは、丸山・現代政治の思想と行動/上巻(未来社)の第二論文「日本ファシズムの思想と運動」の一部として、1956年12月に刊行されている(p.25以下、注記はp.190)。
 この講演録の中で、丸山は「まず皆さん方」(東大での聴衆)は「第二の類型」(=「本来のインテリ」)に「入るでしょう」と臆面もなく、言っている(当然に丸山自らもその一員だ)。ここでの「東大」とは、時期からすると、まだ東京帝国大学だったに違いない。
 丸山真男は「インテリ」を「本来の」それと「似非」・「亜」インテリに分けて、後者が「日本ファシズム」の社会的基盤だったするのだが、「日本ファシズム」とともに「インテリ」(インテリゲンチャ)という言葉は昨今ではほとんど使われなくなった。
 適菜収は<A層とB層>あるいは<一流と二・三流>の区別がなくなったことを今日の問題だと捉えているようだ。たしかに、<リーダー>、「ノブレス・オブリージュ」意識のある<エリート>の不存在(または稀少さ)が日本の問題の一つではあろうが、「インテリ」と「一般大衆」の区別の相対化・不明確化は、問題視しても簡単に元に戻るわけがない、客観的な現実だろう。
 同世代の半分もが大学に進学する今日では、少なくとも半分程度は「インテリ」意識を持っているかもしれないし、間違いなく「インテリ」だと自任しているかもしれない者もまた、実際には相当に「大衆」化している。
 そのような時代背景の変化をふまえれば、丸山真男の「似非」・「亜」インテリが「日本ファシズム」の社会的基盤だったとする丸山真男の議論は、「比較的にIQ(知能指数)が低い人たち」=「B層」を問題視し、批判している適菜収の議論と類似性がある。
 適菜収は橋下徹を「ファシスト」とは形容してはいないが、「全体主義」者である旨、民主主義が生む「独裁者」である旨は語っている(月刊正論5月号p.49、p.50)。
 丸山真男については竹内洋水谷三公らによる批判的分析もあり、竹内は丸山「理論」は東京大学の直系の研究者にのみ継承されるだろう、とかどこかで書いていたとか思うが、長谷川宏のように今なお「左翼」知識人・「進歩的文化人」だった丸山真男を称揚する新書を書いている「左翼」もいる(この三人の各文献についてはこの欄で言及している)。
 適菜収はどうやら自らを「保守」派だと、あるいは少なくとも「左翼」ではないと位置づけているようだが、「左翼」・丸山真男の上記のごとき「似非」インテリ論、<相対的にバカな者たち>論の影響を受けているのではなかろうか。丸山真男の議論・「政治思想」論は哲学・思想界にも(少なくともかつては強い)影響力を持っていたのだから。
 〇さて、気は進まないが、行きがかり上、月刊正論5月号の適菜収「橋下徹は『保守』ではない!」に批判的にコメントする。
 すでに最近、橋下徹関係の(月刊正論上の)4つの論考のうち最も空虚で観念的な言葉が並んでいる、と書いた。
 橋下徹を離れて一般論で言うと、間違いではないだろうことを書いてはいる。
 フランス革命時の「ジャコバン派」と「ナチス」を同類視し、ルソーを「全体主義の理論家」と形容しているのもそれにあたる。ハンナ・アレントの議論に肯定的に言及しているのも、よいだろう。
 ついでながら、ジャコバン派はのちにレーニンも明示的に肯定的に論及しており、ルソー→ジャコバン派(・フランス革命)→マルクス→レーニン(・ロシア革命)という系譜を語ることができるものだ。
 しかし、適菜収がその一般的な議論を橋下徹に適用するとき、あるいは「B層」を巧妙に騙す政治家だと断じるとき、実証性や論理の緻密さなどはまるでない。
 この適菜収によれば、選挙を経て、つまり「民意」によって選ばれた者はすべて「デマゴーグ」であり、「独裁者」であるがごとくだ。そんなことはないだろう。
 「橋下はアナーキストなので、イデオロギーは飾りにすぎません」(p.52)、「橋下は天性のデマゴーグです」(p.52)、橋下は「B層の感情を動かす手法をよく知って」おり、「その底の浅さはB層の『連想の質』を計算した上で演出されています」(p.52-53)といった言葉が並んでいる。だが、悪罵の投げつけだけの印象で、橋下徹批判としての説得力はほとんどない。むしろ、「B層」であれ何であれ、有権者大衆の「感情」を捉えることができるのは、今日の政治家としての優れた資質の一つではないかと、いちゃもんをつけたくもなる。
 適菜収の大言壮語・罵詈雑言はさらに続く。-①「この二〇年にわたる政治の腐敗、あらゆる革命思想、反文明主義、国家解体のイデオロギーを寄せ集めたものが、橋下の大衆運動を支えているのです」(p.55)、②「水道民営化、カジノ誘致、普天間基地の県外移転、資産課税、小中学生の留年、市職員に対する強制アンケート…。これはB層を大衆運動に巻き込むための餌です」(同上)。
 呆れたものだ。こんな文章が並んでいるのが、天下の?産経新聞社発行の論壇?誌・月刊正論の巻頭論文なのだ。
 今気づいたが、適菜収は「大衆運動」という語を使っている。この語は、丸山真男が使っていた「ファシズム運動」に似ている。
 この点はともかく、①のようによくぞ大胆に言えたものだ。橋下徹は、それほどでもないよと、却って恐縮するのではないか? ②について言うと、すでに実現しそうなものもある、橋下徹・維新の会の政策・主張はすべて「餌」か? 橋下徹が主張している<敬老パス>(市営交通の老人無料)の見直しもまた「B層」に対する「餌」なのか?
 論文というよりも場末の?喫茶店での雑談レベルで語られるような指摘を、適菜収は行ってもいる。-橋下徹は首相公選を主張しているが、それは「テレビタレントの橋下を首相にするための制度」だ(p.50-51)。これには笑ってしまった。橋下徹はそのようなことを考えている可能性が全くないではないとは思うが、適菜収はこのように何故、断定できるのだろう。
 また、<アホ丸出し>では藤井聡に<優るとも劣らない>次のような叙述もある。
 「地方分権や道州制は一番わかりやすい国家解体の原理です」(p.51)。
 藤井聡の勉強不足・知識不足を指摘する中ですでに書いたことだが、「地方分権・道州制」=「国家解体」とは、アホ(・バカ)が書く命題だ。
 この議論でいくと、国家内に「邦」・「州」を設けている国(アメリカ、ドイツなど)は解体していないといけないのではないか。連邦制は道州制以上に「分権的」だ。
 また、書かなかったが、戦前の日本においてすら、「地方自治」・「地方分権」制度がなかったわけではない。幕藩体制という相当に分権的な国家から明治日本は中央集権的な国家に変わったのだったが、それでも旧憲法のもとでの「市制」・「町村制」といった法律によって、市町村の「自治」がある程度は認められていた。市町村長は(有権者は限定されていたが)選挙で選ばれ、(現行憲法・法令と同様に)法令の範囲内での「自由な」行政・活動もある程度は認められていた。現在の(現憲法上の)「地方自治」も「法律の範囲内」のものであることに変わりはない。「地方分権」の要素は戦前は法律レベルで、現在は憲法レベルで認められているもので、「原理」的に「国家解体」につながるわけではない。
 橋下徹自身も書いていたと思うが、問題は「分権」の程度・内容、国と地方の「役割・機能」の分担のあり方にある。
 法学部・政経学部の学生のレポートでも書かれていないだろうようなことを、適菜収は、恥ずかしげもなく書いている。そんな部分を含む論考を、月刊正論が巻頭論文とし、大々的に宣伝し、編集部員は「とってもいい論文です」とブログ上で明記する。適菜収も自らを恥ずかしいと感じるべきだと思うが、桑原聡や川瀬弘至もまた、赤面すべきなのではないか。
 楽しくもない作業なので、この程度にしておく。
 まことにイヤな時代だ。川瀬弘至が「真正保守」を自ら名乗り、ひょっとすれば月刊正論や産経新聞全体が自分たちは「真正保守」の雑誌・新聞と考えているのだとすれば、日本の「保守」の将来は惨憺たるものだろう。

1091/西部邁・佐伯啓思グループとは何者たちか?

 前回に、<西部邁・佐伯啓思グループ>または<(隔月刊)表現者グループ>について、「民族的左翼」、もしくは「合理主義的(近代主義的)保守」とでもいうような(同人誌的)カッコつき「思想家集団」であって…という疑念を捨て切れない、と書いた。
 分かりにくい、矛盾もしていそうな形容表現だが、示唆を得た叙述は、西部邁や佐伯啓思らを念頭に置いたものでは全くないものの、竹内洋・革新幻想の戦後史(中央公論新社、2011)の中にあった。一度は雑誌連載で読んでいたはずのものを、単行本で先月末あたりに読み終えていたのだ。
 竹内洋はおおむね1970年代(ないし1960年代半ば)以降の思想潮流に論及して、「左翼」側の<構造改革>論(江田三郎ら)、「保守」側の「モダニズム保守」または「ニューライト」の登場を語る。そして、後者に関して「マルクス主義と切断された進歩の思想である近代化論」の台頭が背景にあるとする。
 面白く感じたのは、上のことに触れつつ、「保守と革新の変容」と題する<図>(チャート)を示している、その内容だ(p.502)。
 それによると、思想潮流は「左派」対「右派」というかたちで(ヨコ軸で)示される対立のほかに、「近代主義」対「伝統主義」というタテ軸で示される対立もある。二つの軸によって四つの象限ができるが、竹内は左上の「左派・近代主義」を<構造改革派>にあて、右下の「右派・伝統主義」を「オールドライト」と総称する。さらに、以下が興味深いのだが、左下の「左派・伝統主義」を「土着主義左翼」とし、右上の「右派・近代主義」に<ニューライト>をあてている。
 西部邁・佐伯啓思グループとはいったいいかなる性格の、あるいはいかに位置づけられるべきグループなのかという関心をもっていたときに上の図・表を見たために、はたして西部邁・佐伯啓思らはどこに位置するのだろうと考えてしまった。
 反復するが、竹内洋は戦後「進歩的文化人」や近年の「幻想としての大衆」について語ることを主眼としていて、西部邁らに言及しているのではまったくない。
 だが、西部邁や佐伯啓思らは<強いていうと>、竹内のいう後二者の「土着主義左翼」か「ニューライト」に該当するのではないかと感じたのだった。
 「左派」と「右派」はそれぞれ、伝統的にいう「革新」または「左翼」と「保守」または「右翼」に相応するものと理解してよいだろう。この対立に加えて、竹内は<近代主義X伝統主義>という対立軸を加味して理解しようしているのだ。
 さて、西部邁・佐伯啓思グループは、反米を強調し、そのかぎりで「日本的なもの」または「民族性」を強調することになっている点では竹内のいう「伝統主義」の側に立っている、とも言える。
 佐伯啓思は「日本の愛国心」や「日本という価値」を論じており、かつ欧米流「近代」主義をかなり厳しく批判(または批判的に分析)してもいるのだ。竹内は「土着主義左翼」と称しているが、これを少し表現し直したのが、前回に使った、私の「民族的左翼」という言葉だった。<反米>は「保守」のようでもあるが、「左翼」でもありうる。
 日本共産党ら「左翼」も、ある意味では、むろん<反米>だ。
 それに、西部邁らの論考や発言には「左翼」臭を感じることがある。二つだけ、例を挙げておこう。
 ①西部邁=佐伯啓思=富岡幸一郎編・「文明」の宿命(NTT出版、2012)の富岡の「はじめに」が、共産主義・コミュニズム批判を見事に欠落させて「現代文明」を語っていることはすでにこの欄で触れた。
 それとともに、中島岳志や藤井聡も執筆しているこの本では、「現代文明の全般的危機」が一つのキーワードになっていて、西部邁の論考はこれを一節のタイトル(見出し)にまでしている(p.25)。しかして、「…の全般的危機」とは、どこかで聞いたことがあるような、「左翼」またはマルクス主義用語なのだ。
 詳細は知らないが、マルクスらは「資本主義の全般的危機」という用語または概念を使ってきた。現在の日本共産党はこれをそのままでは採用していないようだが、ともあれ「資本主義の全般的危機」とは<左翼>用語だ(った)。
 西部邁らが好んで?用いている「現代文明の全般的危機」とはマルクス主義的な「資本主義の全般的危機」概念・論の影響を受けたものであり、かつ少なくとも部分的には、マルクス主義によるこれに関する議論を参照し、または取り込んだものではないだろうか。
 ②西部邁=佐伯啓思編・危機の思想(NTT出版、2011)の中の西部邁の序論には、「反左翼メディア」あるいは「反左翼人士たち」を批判または揶揄する部分がある(例、p.27、p.36)。その内容には立ち入らないが、「反左翼」を批判・揶揄するということは、常識的または通常の理解からすれば、自らは「反左翼」の立場にいることを表明または示唆しているとも理解できる。
 むろん、西部邁は「私どもの保守思想」とも言っていて(はじめにp.4)、上の意味するところは、その他大勢のエセ「反左翼」=「保守」とは違って、自分たちこそが「真の(本来の)保守」だ、ということなのではあろう。
 だが、その他大勢の?多数派的「保守」とは自分たちは違うのだ、と自分たちを位置づけていることはほとんど間違いはない。
 このことは、多数派的?「保守」からすれば、西部邁らを自分たちとは異なる「左翼」(の少なくとも一派)だと論定しても一概に批判されることではないと、第三者的読み手からすれば、なるだろう。
 要するに、「保守」だとかりにしても、じつに奇妙な、不思議な「保守」であるのだ。
 とりあえず二点挙げただけだが、この西部邁・佐伯啓思グループが、反共・反中国・反北朝鮮の主張を全くかほとんどしていない、コミュニズムや中国等に対して「甘い」、ということは、これまでに何度か指摘してきた。
 さらに叙述し続け、「ニューライト」または私の使った「合理主義的(近代主義的)保守」とも位置づけられるのではないか、という点に及ぶつもりだったが、長くなったので、ここで切る。後者は、「理性主義的=反情緒的保守」、と称してもよいかもしれない。西部邁・佐伯啓思グループには、こうした面もあるようだ。別の回に述べる。

1085/橋下徹を単純かつ性急に批判する愚②―佐伯啓思ら。

 〇いよいよ「御大」の西部邁も橋下徹批判の立場を明確にするようで、隔月刊・表現者(ジョルダン)の41号(2012.03)は、ほぼ橋下徹批判一色のようだ(未入手、未読。産経2/20の広告による)。これで<西部邁・佐伯啓思グループ>は一体として橋下徹批判陣営に与することを明らかにしたことになる。
 それにしても不思議で、奇妙なものだ。相も変わらずの言い方になるが、他の「保守」論者を「自称保守」とか呼び、産経新聞も批判したりしている少なくとも<自称>保守主義者たちがそろって、その勝利を深刻な打撃と受けとめている上野千鶴子とともに、民主党のブレインと目されかつ厳しく批判していた山口二郎とともに、そして日本共産党、民主党や両党系公務員労働組合とともに、橋下徹たち(大阪維新の会)を攻撃しているのだ。
 明瞭な「左翼」による橋下徹警戒論・橋下徹批判といったいどこが違うのだろう。違いがあるとすれば、分かりやすく説明してほしいものだ。やや戯れ言を言えば、「左・右両翼」から批判される橋下徹らは大したもので、<中道>のまっとうな路線を歩もうとしているのではないか??
 〇ふと思い出したのだが、竹内洋・革新幻想の戦後史(中央公論新社、2011)は、戦後の「進歩的知識人」について「知識人の支配欲望」という言葉を使っている(p.104)。
 竹内洋の叙述から離れて言うと、毎日新聞に連載コラム欄をもち、(あの!)佐高信と対談本を出しもしている西部邁は、言論によって現実(世俗)を変えることをほとんど意図しておらず、それよりも関心をもっているのは、あれこれの機会や媒体を使って発言し続けることで、自分の存在が少しでも認められ、自分が少しでも「有名」になることではなかろうか。
 失礼な言い方かもしれないし、誰でも「名誉」願望はあるだろう。だが、知識人あるいは言論人なるものは、現実(世俗)との緊張関係のもとで、現実(世俗)をいささかなりとも「よりよく」したいという意識に支えられつつ発言しつつけなければならないのではなかろうか。
 現時点における橋下徹批判はいったいいかなる機能を現実的には持つのだろうか。
 自称「保守」ならば常識的には、<西部邁・佐伯啓思グループ>は反日本共産党・反民主党だろう。だが、このグループの人たちは自民党支持を明確にしているわけではなく、佐伯啓思がつい最近も産経新聞に書いているように「小泉改革」・「構造改革」等には批判的だ。それでは「立ちあがれ日本」あたりに軸足があるかというとそうでもなさそうで、「立ち日」立党を応援していた石原慎太郎が支援している橋下徹を攻撃している。まさか「反小泉」で国民新党を支持しているわけでもあるまい。
 <西部邁・佐伯啓思グループ>の知識人??たちも、書斎や研究会を離れれば一国民であり、一有権者であるはずなのだが、彼らはいったいどの政党を支持しているのだろうか。支持政党はなく、「政治(政党)ニヒリズム」に陥って参政権は行使していないのだろうか。それはそれでスジが通っているかもしれないが、そのようなグループに一般国民に対して「政治」を論じる資格はないだろう。
 好きなおしゃべりをし、活字に残し、「思想家」らしく振る舞っていたければそれでよいとも言えるのだが、佐伯啓思・反・幸福論(新潮新書、2011)の最後の章は、民主党政権樹立を煽った「知識人」たちの責任をかなり厳しく批判している。
 佐伯啓思ら自身にも「知識人」としての対社会的<責任>があるはずだ。橋下徹という40歳すぎの、まだ未完成の、発展途上の政治家をせめて<暖かく見守る>くらいの度量を示せないのだろうか。
 将来のいずれかの時点で、2012年初頭に橋下徹を攻撃していたことの「自称保守」
知識人・評論家としての<責任>が問題にされるにちがいない。
 〇佐伯啓思の最近の二つの文章については、さらに回を改める。

1065/竹内洋・大学の下流化(2011)を半分程度読む。

 竹内洋・革新幻想の戦後史(中央公論新社)は加筆・補筆があるようだが、雑誌上で一度は呼んでいるので、未読だった、竹内洋・大学の下流化(NTT出版、2011.04)を<ウシロから>読み始める。小文をまとめたものなので、これでも差し支えないはずだ。
 ・大学の「下流化」は、用語法はともあれ、間違いないだろう。50%ほどの大学進学率があり、「一八万四千人」も大学教授がいれば(p.251。准教授・講師は除いた数字か?)、かつてと比べて「落ちる」のは自然だ。
 竹内によると、たんにこれらだけではなく、現代日本の「大衆化」圧力(正確には「フラット化」圧力)と、「ポピュリズム」かつ「官僚主義的」大学改革がこれを加速している(p.252)。
 ・詳細な紹介はしないが、「あの戦争へののめりこみ」についてのp.218のような理解・感想は単純すぎるのではないか、と気になる。

 東条英機に関する書物の「読書日記」中だ。他に正規の「書評」欄に書かれた書評・感想も掲載されているが、たいていこの種の小文は、「持ち上げ」がほとんどで、かりに感じていても、消極的・批判的な論評・感想は書かないものだろう。この点は読者としても留意が必要だ(と思いながら読む)。
 ・竹内は、「一九八〇年代」の滞英中に、「封建制=諸悪の根源」との理解(思い込み)に疑問をもつようになった、という(p.205)。
 1942年生まれのこの人は1961年に京都大学に入学して「社会科学系の講義」や「たくさんの本」に接したらしい。
 とすると、1980年代というのは、ほぼ40歳代前半になる。この年代の頃までは「封建制は悪の元凶」というイメージをもち続けていたことになる。
 批判するつもりはないし、よくありそうなことだが、しかし、興味深い。それまではおそらく、専門の「教育学」または「教育社会学」の研究のために、広い?視野を持てなかったのだろう。
 関連して、「四十代半ばくらいから、新聞などに寄稿する機会が増えてき」て、「愉快になった」との文章もある(p.220)。
 ・菅直人民主党内閣の参与だった松本健一の本の書評中で、「民主」は西洋近代の理念だがアジアこそ「共生」理念を作り出せるとの指摘に「目から鱗が落ちる」、と書いている(p.202)。
 アジアこそ「共生」理念を作り出せるとは、いったいいかなる意味で、どの程度の現実性があるのだろう。欧米をモデルにする必要はない程度ならば理解できるが、「目から鱗が落ちる」とまで表現するのは、いささか甘いのではなかろうか。
 ・今のところp.136までしか遡っておらず、ほぼ半分の読了にすぎない。
 その範囲内では、清水幾太郎に関する文(p.153-158)のほか、「うけねらい」という表現(p.204)が面白い。
 「うけねらい」とはかなり一般的に使える表現だ。その点で、記憶に残った。
 学者の中にだって、「うけねらい」で、目新しい<概念>や<命題>や<理論>を考え出している者もいるのではなかろうか。
 ニュー・アカとか言われた連中や、最近の内田樹(「日本辺境論」)などは、これにあたりそうな気がする。ついでに、内田樹は、珍奇な憲法九条護持論者。
 マスメディアもつまるところは「うけねらい」産業ではなかろうか。
 テレビの「視聴率」とは、どれだけ「うけ」たか、の指標だろう。それと、善悪・正邪などはまったくの関係がない。
 週刊誌記者・新聞記者もまた、(「特オチ」怖れに次いで)どれだけ<話題>になったか、を競っているのではないか。
 話題になればなるほど嬉しいという心情は、換言すると「うけて」くれると嬉しいという感情でもあろうが、そこには、善悪や正邪や、そして日本の将来にとってどのような意味をもつか等の観点はほとんど欠落しがちだ。
 週刊誌記者にとっては、「話題」になること、そして「売れる」ことがおそらくは最大の喜びなのだろう。読者が善悪や正邪・日本の行く末とは無関係の関心または好奇心でもって週刊誌を読む(買う)とすれば、そんなこととは無関係に「うけ」るかどうかも決まってしまう。読者大衆の下劣なあるいは醜い(と言えなくもない)関心・好奇心に対応しようとしているのが週刊誌だとすると、週刊誌も、週刊誌記事執筆記者も、とても立派な雑誌・人物とは言えない。その程度の自覚は、ひょっとすれば、怖ろしいことに、ほとんどの週刊誌関係者がすでにもっているのかもしれない(同じことは「テレビ局」関係者についても、もちろん言える)。
 この本については、機会があればまた続ける。
 

1057/竹内洋・革新幻想の戦後史(2011)と「進歩的大衆」。

 〇二つの雑誌での連載をまとめた(大幅に加筆・補筆した-p.513)、竹内洋・革新幻想の戦後史(中央公論新社、2011.10)が刊行されている。
 その「はじめに」の中に以下。
 ・「『進歩的文化人』という用語は死語になったが、『進歩的大衆人』は増えているのではないか。や昔日の進歩的文化人はコメンテイターやニュースキャスターの姿で跋扈している」。
 「戦後」は終わったなどという妄言を吐いている東京大学の現役教授もいるようだが、<革新幻想の戦後史>は、現在もまだ続いている。著者・竹内もそのように理解していると思われる。
 親社会主義・<進歩>主義・<合理>主義を「知的」で「良心的」と感じる体制的雰囲気あるいは「空気」は、月刊WiLL(ワック)や月刊正論(産経)等の存在と奮闘?にもかかわらず、ましてや隔月刊・表現者(ジョルダン)という雑誌上でのおしゃべりにもかかわらず、決して弱くなっていないだろう。
 竹内洋の上掲書の終章の最後の文章は以下。
 ・「繁栄の極みにあった国が衰退し没落する例」をローマ帝国に見たが、「その再現がいま極東の涯のこの地で起こりかけていまいか。……『幻想としての大衆』に引きずられ劣化する大衆社会によって…。」(p.512)

 いかに問題があっても「日本」がなくなるわけがない、「日本」国家とその文化が消滅するわけがないと多くの人は無意識にでも感じているのだろう。しかし、歴史的には、消滅した国家、消滅した民族、消滅した文化というのはいくらでもある。緩慢にでも、そのような方向に紛れもなく向かっている、というのが筆者の決して明瞭で決定的な根拠があるわけでもない、近年の感覚だ。
 竹内によると、そのような「衰退と没落」は増大している<幻想としての・進歩的大衆>によって引き起こされる。
 〇最近、知人から、「在日」韓国・朝鮮人問題や日本のかつての歴史に関することを話題にしている、ある程度閉じられているらしい投稿サイトの関係部分のコピーを送ってもらった。
 元いわゆる「在日」で今は日本でも韓国でもない外国で仕事をしているらしき人物は、かつて(「併合」時代の)日本政府は「当時韓国でハングルの使用(読み書き話す)を禁止した」、という<歴史認識>を有している。
 この点もいつか問題にしてみたいが、とりあえず今回は省略する。
 興味深いのは、かつての朝鮮半島「併合」やかつての日本を当事者とする(大陸での)戦争に関するやりとりの中で、第三者にあたる人物が、つぎのように記していることだ。
 元「在日」の人物に対する純粋の?日本人をAをしておこう。女性らしき、「seko」または「せこ」をハンドル・ネームにしている人物は、次のように書いている。
 「A君の歴史的認識には納得できません。…。いろいろなブログで勉強しているそうですが、なんでも鵜呑みにしないで事実確認をして書き込んでほしいです。日本の歌は現在では韓国でも歌われていますし、韓国人のファンも多い…。日本で韓国の歌手が売れているのは、歌も上手だし踊りも素晴らしいアーティストが多いからで、日本でどんどんいい歌を聞かせてほしい…。友人は韓国が大好きで年に7,8回行っていますが、反日どころか親日の人が多くて親切だと言っています。私はまだ韓国には行ったことがありませんが、韓国ドラマは…好きでよく見ます。…親や目上の人に対して服従で尊敬し、家族の繋がりが深くて強くて、感心しながら見ています。最近、韓国ドラマが日本でもたくさん放映されていますので、A君もよかったら見てください。特に歴史ドラマは男性にはお薦めです。」 

 「私たちが生まれる前の出来事でしたが、日本が韓国や中国に侵略し、地元の人を苦しめたことは消すことができない事実です。反日感情が大きいのも納得できますし、私たちが謝ってすむ問題でもありません。でも謝りたいです。大好きな韓国と仲良くしたいから・・・申し訳ありません。」
 こんな内容の書き込みは、私は全くといってよいほど閲覧してしていないが、このイザ!のサイトにもいくらでもあるのだろう。
 ただ、より<大衆レベル>のサイトで、今日の日本の多数派を占めるようにも思われる<大衆>の意識が示されているようで、興味をもち、引用してしまった。
 この女性は(紹介・引用をしていないが)Aの「歴史的認識」は誤っている旨を断言し、ほぼ同じことだが、「日本が韓国や中国に侵略し、地元の人を苦しめたことは消すことができない事実」だと断言している。
 このような断定的叙述はいったいどこから生じているのか?
 村山談話(1995)、菅談話(2010)、NHKの戦争「歴史」番組等々からすると、これこそが体制的・公式的な、そして時代の「空気」を表現している見解・「歴史認識」なのだろう。
 そして、上に見られるように、生まれる前のことだが「謝りたい」とも明言している。
 これこそ、「左翼的」・「進歩的」な歴史認識そのものであり、そして過去の日本の「責任」を詫びて「謝る」のが「進歩的」で「良心的」な日本人だ(そして自分もその一人だ)、という言明がなされているわけである。いわゆる「贖罪」意識と「贖罪」史観が示されている、とも言える。
 そしてまたこれこそが、「進歩的文化人」はなくなったとしても増え続けている、竹内洋のいう「進歩的大衆人」の言葉に他ならない、と思われる。
 このような意識・認識・見解を持っている「進歩的大衆」は、どのようにすれば歴史に関する異なる見方へと<覚醒し>、<目覚める>ことができるのだろうか。
 上の人物が専門書や諸雑誌をしっかりと読んで、上のような「歴史的認識」と「謝り」の表明に至ったわけではないだろう。上で少しは触れたように、時代の「空気」、体制的な「雰囲気」なのだ。
 この人物とて、新聞広告や書店で、自らの「感覚」とは異なる見解・考え方をもつ者の本等もあることくらいは知っているだろう。
 しかし、<思い込んで>いる者は、<歴史に謙虚に向かい合わない>「右翼」がまだいる、日本人はもっともっと<反省>し、過去の「歴史」を繰り返してはならない、などと思って、そのような本や雑誌を手にしようとする気持ちを抱く可能性はまるでないのではあるまいか。
 月刊WiLL、月刊正論等々、あるいは産経新聞がいくら頑張っても届かない、<進歩的大衆人>が広汎に存在している。
 <保守>論壇や<保守>的マスコミの中にいて、仔細にわたると対立がないわけではないにしても、<閉鎖的>な世界の中であれこれと言論活動をしている人々は、<井の中の蛙>の中にならないようにしなければならない。自分たちは「進歩的大衆人」に囲まれた<少数派>であることをしかと認識しておく必要があるだろう。むろん、櫻井よしこに対しても、このことは言える。
 なお、上の女性(らしき、「seko」という人物)は「日本の歌は現在では韓国でも歌われていますし、韓国人のファンも多い…。日本で韓国の歌手が売れているのは、歌も上手だし踊りも素晴らしいアーティストが多いからで、日本でどんどんいい歌を聞かせてほしい…。友人は韓国が大好きで…反日どころか親日の人が多くて親切だと言っています。私はまだ韓国には行ったことがありませんが、韓国ドラマは…好きでよく見ます。…親や目上の人に対して服従で尊敬し、家族の繋がりが深くて強くて、感心しながら見てい」る、と書いて、自らの「歴史的認識」の妥当性を補強しているようでもある。
 だが、むろん、現在の韓国が、あるいは現在の日韓関係がどうであるかということの認識・見解と、かつての日本の行動の「歴史的」評価とはまるで関係がない。多少とも関連させているとすれば、「お笑い」だ。

1049/「教育」界の「左翼」支配。

 〇石原慎太郎だったか、岡崎久彦だったか、見知らぬ人からこのままで日本は大丈夫なのでしょうかと話しかけられることが多くなったというような旨を昨年あたりに書いていた。
 あえて主観的願望を抜きにした客観的な(と私には見える)状況判断をすると、すでに日本はダメになった、日本はダメになってしまっている、と思える。少なくとも、もはや元に戻れない限界点を超えている、と感じている。つまり、<保守>に勝利の見込みはもはやない。ゆるやかに(緩慢に)わが愛する日本は「日本」でなくなっていっており、その基本的な流れはもはや変えようがない。すでに41年前、三島由紀夫が予見したとおりになっている。
 但し、国内状況はそうだが、中国共産党による中華人民共和国の支配の終焉=社会主義中国の崩壊が辛うじてでも時間的に先にくることがあれば、少しは希望がある。これは、日本国民、日本の政治だけではもうダメだ、ということをも意味する。こんな思いをもって晩年を生きるのは、つらい。
 〇中西輝政のいう、教育・マスコミ・論壇という「三角地帯」のうちの「教育」が「左翼」に支配されていることは明らかで、むしろそれは自然のことかもしれない。
 高校以下の学校教育で教えられているのは、「個人」主義・「平等」(男女対等を含む)、「民主主義」・「平和(反軍事)」等々の基本理念だ。
 これらは日本国憲法の基本理念でもあり、大学教員以外の学校教育の担当者になるために必要な「教員」免許を取得するためには、「日本国憲法」は必修科目であり、実際にどの程度、どのような問題が出題されているのかは知らないが、当該免許を取得しようとする者の全員が「日本国憲法」を学習していることは間違いないだろう。
 しかして、「日本国憲法」の基本理念は何か。一口で言えば、上記の如き「左翼」的理念だ。

 かつまた、彼らが学習する日本国憲法に関する教科書・参考書類はいったいどのような者たちが執筆しているのか。日本共産党員を含む「左翼」的憲法学者に他ならない。日本の憲法学界は今日に至るまでずっと、圧倒的に「左翼」に支配されている、と言ってよいだろう。
 そのような「憲法教育」を受けた教師が、確信的「左翼」か、少なくとも「何となく左翼」になってしまうのは、自然の成り行きだ。そして、彼らは、自分たちが年少の頃に受けたような「左翼」的教育を、次の世代の子どもたちへと引き継いでいく。
 日教組・全教の組織率は低いなどと言って安心するのは愚かなことだ。あるいはまた<保守的>教科書の採択率が何倍増かしたといって喜ぶのもまだ愚かなことだ。その<保守的>教科書ですら、私には「自虐的」・「進歩的」と感じられる部分があるが、それは別としても、たかが5%程度の採択率になって喜んでいるようではダメで、まだ5%程度にすぎないと嘆く必要があるものと思われる。

 「日本国憲法」から離れて、教育学に目を向けても、この学問分野が「左翼」に支配されてきていることは、竹内洋が月刊諸君!(文藝春秋)や月刊正論(産経)の連載で示してきた。手元に置いて再確認はしないが、戦後当初の東京大学教育学部は「三M」とやらが支配し、日教組を指導した(研修集会等の講師陣を担当した等を含む)といったことも書かれてあった。
 かつて日本共産党系全学連委員長で民青同盟の幹部だった(かつ「新日和見主義」事件で査問を受けて党員権停止。その後かなり遅れて共産党を離脱した)川上徹は、東京大学教育学部出身だった。
 川上徹の自伝ふうの本は読んでいないが、彼が共産党の活動家になっていくことについて、彼が所属していた大学と学部の雰囲気は、容認的・促進的であったに違いない。
 大学を除く高校までの教員は圧倒的に教育学部系の学部出身で、「左翼」的教育学を学んでいる。彼らのほとんどが「左翼」あるいは少なくとも「何となく左翼」にならないわけがない。
 (高校・中学の)日本史の教師については、大学で学んだ「日本史」(国史)、とくに近現代史がどのようなものだったかが問われなければならず、そして、日本近現代史学は「左翼」、そして講座派マルクス主義の影響がきわめて強い。日本史の教師は、そのような「左翼」またはマルクス主義歴史学者のもとで勉強して教師になり、生徒たちに教えているのだ。
 <保守>派の教科書採択に現場教員たちの根強い抵抗があるらしいのもまったく不思議ではない。
 日本史を高校等での「必修」科目とすべきとする主張がある、あるいはすでにそれは一部では実現されているらしいが、いかなる内容の「日本史」教育、とくに明治以降の歴史教育、であるのかを問題にしないと、現状では、逆効果になる可能性もあると考えられる。「左翼」的、マルクス主義的教師担当の科目が「必修」になったのでは目も当てられない。
 政経・公民等の科目の教師については、主としては大学の法学部での教育内容および担当大学教員たちの性向が問題になる。憲法学については上記のとおりだが、全体としても、社会あるいは世間一般と較べれば、「左翼」、そしてマルクス主義の影響力が強いことは明らかだろう(「人権派」弁護士はなぜ生じてくるのかを思い浮かべれば、容易に理解できる)。
 
〇以上は、思いついた一端にすぎない。こうした「教育」現場の実態、「左翼」支配、を認識することなく、「保守」論壇・「保守的」団体という閉ざされた世界の中で、「そこそこに」有名になり、「そこそこに」収入を得て、いったいいかほどの価値があるのか、と問い糾したいものだ。<大河の一滴から>とか<塵も積もれば…>という意味・価値をむろん全否定するつもりはないが。
 例えば40万部売れたなどと自慢しているあるいは宣伝している「売文」家や出版社があるが、かりに倍の80万人に読まれたとしてもその全員が内容を支持したことにはならず、また、全員が支持したとしても、日本の選挙権者のわずか1%程度でしかない。
 雑誌や単行本の影響力は執筆者たち等がおそらく考えているよりはきわめて小さく、圧倒的多数の国民・有権者は日々の大手マスメディア、とくに大手テレビ局のニュースと一般新聞の「見出し」によって、現在の日本(・日本の政治)のイメージ・印象を形成している、と思われる。狭い世界の中で「自己満足」しているのは愚かしいことだ。

1015/別冊正論Extra.15号「中国共産党」特集を読む。

 〇別冊正論Extra.15号(産経、2011.06)は「中国共産党―野望と謀略の90年」特集。来年は日本共産党の90年になるわけだ。
 まじめに順序を考えたわけではないが、読み終えた順番に、伊藤隆=竹内洋「なぜ共産主義という『戦犯』を忘れたのか」、筆坂秀世「日共も怒った! 国交正常化の裏で日本暴力革命を煽り続けた毛沢東」、中西輝政「日本を騙し、利用しつづけてきた『人類の悪夢』」、藤岡信勝「日中戦争を始めたのは中国共産党とスターリンだ」、西尾幹二「仲小路彰がみたスペイン内戦から支那事変への潮流」。まだ、半分に満たないが、中国共産党・日中戦争、そしてコミンテルン・共産主義に関する有益な文献だ。西部邁らの<表現者>グループは、おそらく誰も執筆していない。
 しばしば、メモしておきたい事項や表現にぶつかる。
 〇・筆坂秀世がより詳しく書いているが、伊藤=竹内の対談の中にも、1950年頃の日本共産党の<暴力>路線が朝鮮戦争時の後方(在日米軍側)の攪乱目的で、コミンフォルム(スターリン、毛沢東)の指示・要請により選択されたことが、指摘されている(p.193)。逮捕され、「青春を返せ」と叫んだり、長期にわたる法廷「闘争」を余儀なくされた当時の若い日本共産党員たちは(裁判にかかわった党員弁護士等も含めて)、その後の人生をどう生きたのか。一度しかない、かつ短い人生にとって、「共産主義」に強く囚われてしまうとそれこそ取り返しがつかない、ということがありうる。
 ・伊藤隆が「インテリ」の多くについて「反・反共」という表現を用いている(p.194)。これは非常によく分かる。日本共産党等の組織員にならなくとも、「反共」(=保守・反動)とだけは言われたくない、思われたくない、というのは、かつてのものではなく、今も強く残る、人文社会系の、党員以外の、大学教授たちの<意識>だろう。その意識は当然に<容共>となり、思想信条の「自由」(学問の「自由」)、価値相対主義あるいは多様な見解に寛大なという意味での「リベラル」意識がそれをさらに支えている。
 唐突に名前を出せば、東京大学の佐々木毅(元学長)も長谷部恭男(現、憲法学)も、いろいろなことを言い、書いているが、この<反・反共>主義者であることだけは間違いないと思われる。
 ・竹内洋は明確に「反共」の立場で発言しているが(それは月刊正論の連載でも示されていたが)、少しだけ気になるのは、京都大学(教育学部)の現役教授時代に早くから、そのような立場を明確にしていたのだろうか、ということだ。
 今なお日本史(学)のほかに「教育史学」もレフト(左翼)だという発言もあるが(p.192)、そのような「左翼」アカデミズムと明瞭に闘っていた、京都大学の助教授・教授だったのかどうか。
 現在でもそうだが、国立大学だから「政治」的発言をしにくいということはないはずだ。制限されているのは現在の特定の内閣・政党への支持・不支持のための特定の活動であって、それに直接関係のない歴史研究・教育学研究にもとづく「政治」的発言に(法律上の)制限があるはずもないのだが…。
 〇筆坂論考は、日本共産党の関係文献を渉猟していない者にとっては、資料的価値もある。
 〇中西輝政論考は、詳しく、何回かに分けて紹介したいくらいだ。既読の他の論考も含めて、漠然として不明だったところに、明確なピースがきちんと嵌め込まれたという感じで、結局のところ、共産主義、コミンテルン・コミンフォルムの方針と実践を考慮しないと、かつての「戦争」等については何も語れない、ということがよく分かる。

 すでに書いたことがあるように、敗戦から自分の時代の総括は出発せざるをえず、戦争中のことの細かな事実関係にはあえて関心を持たないようにしてきたのだが、西尾幹二が言及しているように、日本陸軍の大陸での戦闘史、海軍の太平洋海戦史、国内の政党政治史、対米外交交渉史(p.200)といったものに強い関心を持てないだけのことで、南京「大虐殺」あるいは<国共合作>あるいは張作霖爆殺事件とコミンテルンまたは中国共産党といったテーマだと、俄然興味を覚える。
 〇西尾幹二論考は、仲小路彰長野朗らの、GHQにより「焚書」された文献を主として簡単に紹介している。
 こうした人物の名前をすら知らなかったが、時代は違うものの丸山真男大江健三郎らなんぞよりも、こうした人物の方が立派な日本人だったとして、後世で評価されるようになりたいものだ。
 丸山真男や大江健三郎は無視されるか、日本にとって<悪い>影響を与えた、特定の時代の<進歩的文化人>なるものの代表として、歴史には名を残してもらいたい。
 中途半端だが、とりあえず。

1013/竹内洋の「テレビ支配社会」と渡辺えり子・6/23NHKニュース。

 一 月刊正論7月号(産経)の竹内洋「(続)革新幻想の戦後史」は最終回。その最後の前の段落のタイトルは「幻想としての大衆とテレビクラシー」だ。そして、「エリート」・「知識人」は溶解しこれらの対概念の「大衆」も実体を喪失しているが、「想像された」・「幻想」としての大衆が猛威をふるっている、そのような大衆は「テレビカメラ」そのもので(「現代の大衆や知識人は…大衆幻想に媒介されたメディア大衆であり、メディア知識人」で)、「メタ大衆」を表象し代表する「テレビ文化人」によって「大衆的正当化」=「テレビ的正統性」の強化がなされ、「デレビクラシー」(テレビ支配)社会になる、等々と述べている。「滅びへの道」と題する最後の段落の最後の文章は、「幻想としての大衆にひきずられ劣化する大衆社会」によって日本は滅ぼうとしているのではないか、という旨だ。
 二 かつて大宅壮一はテレビによる<一億総白痴化>を予想したが、それを超えて、(日本のテレビ局は総体として日本の)社会と国家を解体しようとしている。
 戦後の悪弊の最大のものは、コマーシャル料で経営する民間放送会社かもしれない。この民放問題は別の機会にまた触れる。
 NHKも含めたテレビの影響力の大きさは、有権者の政治(・投票)行動への誘導力を見ても明らかで、それはほとんどのテレビ局が大手新聞社と(資本的・経営的にも)密接な関係にある、ということによって拡幅されている。
 NHK・全国的民間放送会社・大手全国紙の<政治>関係番組・記事に関与しているのはいったいどのような(政治的)素養・見識をもった者たちなのか。よくも悪くも、日本のこれまでの戦後・現在・将来はこの点にかかっているとすら感じる。
 むろん新聞社と結びついたテレビ局の違いは多少ともある。大まかにいって、テレビ朝日・朝日新聞やTBS・毎日新聞と、フジ・産経、日テレ・読売とでは傾向が同じでないことは、少しは見比べて(読み比べて)いると、分かってしまう。
 出てくる「テレビ文化人」にも違いかある。例えば、TBS系の日曜夜10時頃の報道系番組には、現在でも、渡辺えり子という女優(・劇作家?)が出ている。
 この渡辺えり子は、まだ鳩山由紀夫内閣の頃、<民主党政権は「国民」が作ったのだから、「国民」は暖かく見守り、育てていくようにしなければならないのではないか>とか(正確には記憶していないが)の旨を単純に(浅はかにも?)堂々と語っていた。

 なぜこんな人物を数人しかいないコメンテイター・「テレビ文化人」の一人にしたのかと訝ったものだが、のちに知ったところでは、渡辺えり子とは、吉永小百合等とともに、岩波ブックレット・憲法を変えて…という世の中にしないための18人の発言(岩波、2005)に出ている18人の一人(吉永小百合の他に、姜尚中・井上ひさし・井筒和幸・香山リカ等々)で、「憲法が最後の砦」、「戦争をしないという憲法を守れなかったら、もう世界共倒れです」ということを、浅はかにも?「反戦活動家じゃなくたって誰でも思う普通のこと」と付記しつつ書いているような人物だった(上掲ブックレットp.55)。日本共産党系の<九条の会>呼びかけ賛同者だろう。
 このような<思想(ないし信条)あるいは憲法観>を持っている人物だからこそ、おそらくはTBSの担当者はコメンテイターに起用したのだろう。
 最近はメインが北野たけしに代わったようで、「渡辺」色は強くは出ていないようにも見えるが(毎回観るヒマはない)、上のような人物を平気であえて起用するという<政治傾向>を持っているのがTBSだ、という印象に間違いはないと思われる(いちいち触れないが、土曜6時からの金平茂紀もじつはかなり露骨な(じっくりとニュアンスを感知しないと分かりにくいが)「左翼」信条の持ち主(政治活動家)だ)。
 あらためて述べるのも新鮮味はないが、このように、GHQ史観に基本的に立つ<日本国憲法体制>の擁護者、戦後<平和と民主主義>イデオロギーの信奉者、そして親中国・親「社会主義」・反国家・「反日」心情者が支配する放送局・新聞社が強い力をもって<体制化>し、多数派を形成していると見られることを、深刻かつ悲痛な思いで、<戦後レジーム>解体派=<保守>は認識しておく必要があろう。
 三 こと歴史認識に関するかぎり、あるいは「戦争」に関連するかぎり、NHKもまた、明瞭に「左翼」だ。田母神俊雄論文事件の際に<左翼ファシズム>の形成・存在を感じたが、NHKも、その一角を担っている。
 6/23の夜9時からのNHKニュースもひどかった。
 かつての沖縄での戦争(地上戦)による被害・戦没者問題と、現在の米軍基地の存在とをつなげて、まるで米軍基地の存在が「平和」=善ではなく「戦争」=悪に接近するものだということを前提とするような報道ぶりだった。それは、かつて1945年に姉を失い、戦後は米軍基地によって苦労させられたという話を、特定の同じ一人の人物に長々と語らせていた(または紹介していた)ことでも明瞭だ。NHKがあえて取材対象として一人だけ選択したその人物は、姉を殺した(米軍との)戦争を憎み、引き続いて、沖縄に駐留し続けている米軍をも嫌悪している。NHKはその人に<共感>を寄せて紹介し、そうした姿勢を前提として報道していたのが明らかだ。
 だが、言うまでもなく、現在の沖縄の米軍基地については多様な見方がある。「戦力」不保持の現憲法のもとでは、米軍基地がなかったら、沖縄はすでに中華人民共和国の一部になっていて(沖縄への侵攻を日本政府はオタオタして何もできなかったために)、現在よりも<悲惨な>状況に置かれていた可能性が高い、などということは、NHKのこの番組制作者の頭の中にはないのだろう。
 米軍基地を使ってアメリカが(アメリカのための)戦争をする、あるいは米軍基地の存在のゆえに<日本が戦争に巻き込まれる>というのは「左翼」の主張であり、デマだ。あるいは少なくともそういう批判的な見解・認識は成り立ちうるものだ。米軍基地の存在は沖縄、ひいては日本全体の「平和」のために寄与している、という見方は、少なくとも成り立ちうるものだ。
 NHKは(じつは菅内閣・日本政府の公式的見解でもある)そのような後者の見方をあえて排除し、それとは異なる考え方の持ち主一人だけを、意見表明者として長々と紹介した。NHKはとても、公正・客観的な報道機関ではない。
 原発問題についても、NHKだけを見ていたのでは、あるいは他のテレビ局を見てもそうだが、基本的・本質的なことはまるで分からない。NHKとの間の強制的な受信契約締結義務の規定(放送法)は削除し、民間放送(とくにその収益の方法)のあり方も含めて、抜本的な再検討をしないと、「テレビクラシー」によって本当に日本「国」は滅亡するに違いない。

0997/中川八洋・国が滅びる(徳間書店、1997)の「教育」篇。

 一 たしか西尾幹二が書いていたところによると、日本の「社会学」は圧倒的にマルクス主義の影響下にあるらしい。歴史学(とくに日本近現代史)も同様と見られるが、「教育学」もまた<左翼>・マルクス主義によって強く支配されていることは、月刊諸君!、月刊正論に<革新幻想の…>を連載している竹内洋によっても指摘されている。戦後当初の東京大学教育学部の「赤い」3Mとかにも論及があったが振りかえらない。狭義の「文学畑」ではない<文学部>分野および<教育学部>分野には(にも?)、広くマルクス主義(とその亜流)は浸透しているわけだ。
 二 中川八洋・国が滅びる―教育・家族・国家の自壊(徳間書店、1997)p.48-によると、日本の「狂った学校教育」は、①「反日」教育、②「人権」教育(「人間の高貴性や道徳」の否定)、③「平等」教育(「勤勉や努力」の否定・「卑しい嫉妬心」の正当化)、を意味する。

 生存・労働権を中核とする「人権」のドグマは人間を「動物視」・「奴隷視」する考えを基底にもち、ロシア革命後にも人間の「ロボット」改造化が処刑の恐怖(テロル)のもとで進められた。さらに、「人権」のドグマは、①地球上の人間を平等に扱うがゆえに「民族固有の歴史・伝統・祖先」をもつことを否定し、②「善悪(正邪)の峻別を原点とする道徳律や自生的な社会規範」を否定する(p.50-52)。

 ①の魔毒は「反日キャンペーン」となり、日本国民ではなく「地球人」・「地球市民」に子供たちを改造しようとする。②の魔毒は「生存」の絶対視を前提として「どんな悪逆な殺人者に対する死刑の制度」も許さず、殺された被害者は「すでに生存していない」ので「人権」の対象から除外される。「人権」派弁護士とは生存する犯罪者に動物的「生存」を享受させようとする「人格破綻者」だ(p.52-53)。

 かかる「教育」論に影響を与えている第一はルソーの、とくに『エミール』だ。日本の教育学部で50年以上もこれを必読文献としている狂気は「日本共産化革命」を目的としている。ルソーは、『社会契約論』により目指した全体主義体制を支える人間を改造人間=ロボットにせんとするマニュアルを示すためにこれを執筆した。ルソーは『人間不平等起源論』に見られるように「動物や未開人」を人間の理想とするので、『エミール』を学んだ教師は生徒を精神の「高貴性」・高い「道徳観」をもたない「動物並み」に降下させる(p.55-59)。

 第二はスペンサーで、その著『教育論』は「人間と動物に共通する」普遍の教育原理を追求し、人間を野生化させる「自然主義・放任主義」を是とし、「道徳律の鍛錬」や「倫理的人間のへ陶冶」を徹底的に排除した(p.59-60)。

 第三は戦後日本教育を攪乱したデューイで、スペンサーの熱烈な継承者、実際の実験者だった。

 これら三大「悪の教育論」を排斥しないと、日本の教育は健全化しない(p.60)。

 以上は、中川八洋の上掲書の「Ⅰ・教育」のごく一部。
 三 八木秀次「骨抜きにされる教育基本法改正」(月刊正論3月号(産経)p.40-41)は安倍内閣時の教育基本法改正にもかかわらず、教育実態は変わらないか却って悪くなっていると嘆いているが、教育「再生」のためには、多数の教師が学んできた戦後日本の「教育学」・「教育」理論そのもの、そしてそれを支えた(中川八洋の指摘が正しいとすれば)ルソー、デューイらの教育「理論」にさかのぼって、批判的に検討する必要もあると強く感じられる。教育基本法という法律の改正程度で「左翼」・「反日」(<「国際」化)教育が死に絶えることはありえない。 

0964/「ミニ・インテリ」層=高学歴・ホワイトカラー・都市居住勤労者の政治責任。

 月刊正論(2011年)2月号(2010.12、産経新聞社)の連載、竹内洋「続・革新幻想の戦後史」は引き続いて石坂洋次郎に言及しているが、その中で、藤原弘達の1958年の著にある一農村青年の言葉を引用している。

 ・社会党支持の方が「何だかスマートでハイカラなような」気がする。保守党は「古さ」を連想させて「ツマラナイ」気がする。都会の若者たちは「皆社会党を支持しているそうですね」。

 竹内洋はこの発言こそ「草の根革新幻想の正体」を示したものだとする(p.278)。あえて佐伯啓思・日本の「思想」(NTT出版)の二分(p.164)を借りれば、戦後の「公式的価値」となった「顕教としての普遍的価値」を「古い」「日本的」観念=「密教としての日本的習慣」よりも愛好しようとするメンタリティが「革新幻想」でもあろう。

 (なお、竹内も意識しているだろうように、「革新幻想」の中核は、「社会主義幻想」だ。あるいは、「革新幻想」は「社会主義幻想」につながっていく性質をもつ。)

 竹内洋は、綿貫譲治の論文(1976年著に所収)の、データにもとづく次のような知見も引用している(p.278-9)。

 ・「ホワイト・カラー層」の「左翼政党(とくに日本社会党)」支持の高さは「顕著」。欧米の「ホワイト・カラー層」は大半が「右派社会党」を支持し、「保守党や自由党」支持率がもっと高いのと異なる。

 ・所得階層と政党支持の間に明確な関係はない。「教育程度と政党選択」の間には「ほぼ明瞭な相関関係」がある

 ・1930年~1940年に生まれた者(調査当時は二十歳台)や「戦後教育を受けた」者の間には日本社会党の支持率が高い。

 以上の諸指摘は、感じてきたこととも合致しており、きわめて興味深い。

 1930年以降に生まれ、「戦後教育」も受け、「教育程度」が高く、「ホワイト・カラー層」には日本社会党支持率が高い、というわけだ。

 戦後に「顕教としての普遍的価値」となったものは日本国憲法が示しているような諸原理だが、この<新憲法>教育を受けた者は、それ以前の者たちよりも「左翼的」になった、というのは傾向としては間違いないだろう。<新憲法>教育を受けたということは(とりわけそれが占領期であれば)、日本はかつて悪いことをした(日本軍国主義は<侵略戦争>をした)ということを客観的な事実として<信じ込まされた>ということを意味する。このような人々が、<護憲>の(日本軍国主義復活阻止の)社会党の支持に傾斜するのは自然だったともいえる。

 もちろん、今日的に見れば、日本国憲法は必ずしも日本の伝統・歴史につながらない「借り物」で、非武装条項も米国の占領初期の政策による「押しつけ」であることは明らかになってはきている。

 しかし、いわば<ミニ・インテリ>たち、農漁村というよりも都市在在の、「教養・学歴」があるとの自意識をもつ者たち、が社会党を支持するという形で示した「革新幻想」(>社会主義幻想)は、今日まで続いてきている、と思われる。
 いわゆる<団塊世代>(狭くは1947-49年生)よりもそのすぐ上の世代において社会党(または日本共産党を含む「革新」政党)支持率は一貫して高かった、というのが何回も新聞で見てきた世論調査の結果だった。この世代には、この欄で何回か用いた、1930年代前半=昭和一桁後半生まれ(1930-1935生)という、感受性の豊かな青少年期に<過去の日本=悪>との占領期教育にどっぷりと浸った<特殊な世代>の者たちが含まれる(典型として、大江健三郎)。小林よしのりは(教科書スミ塗りを経験した)「<小国民>世代」と言っているが、「国民学校」生徒経験者という意味では、こちらの方が厳密かもしれない。

 さて、今日まで日本国憲法の改正が行われていないのは、日本社会党等の改憲反対政党(日本共産党を含む)が国会で1/3以上の議席を占め続けたからであり、ひいては、上記の<ミニ・インテリ>たち、戦前に比べれば飛躍的に量を増した都市勤労大衆のうちの、学歴が相対的に高い「ホワイト・カラー層」等、が日本社会党等を支持したからだ。

 日本国憲法改正ができなかったのは、上のような<ミニ・インテリ>たちの選好政党に基本的原因があった、と言って過言ではない。彼らは、高度経済成長のもとで、自分と自分の家族のための物質的豊かさの向上を享受しつつ、その<安逸>(および努力すれば報いられるとの達成感)を守るために、<戦争・軍事>に関する問題については真摯に考えることなく思考停止させ、<戦争・軍事>問題を活性化させそうな、キナくさく「古い」と感じられた保守党=自民党には投票しなかったのだ。

 そのような<ミニ・インテリ>たちの購読する新聞はたいていは朝日新聞で、朝日ジャーナルがあった頃はそれも読み、かりに自分の勤務・仕事とは無関係であっても、少なくとも頭の中だけでは(観念的には)「進歩的」気分に浸り、意識の中だけでは<ミニ・エリート>たることができた。

 そのような世代または「層」は<団塊世代>をもまたいで、なお広範に存在するように見える。「古い」自民党政治からの訣別に拍手を送り、「新しい」民主党政権を大歓迎したの国民たちの中に、このようなかつての<ミニ・インテリ>たち(および彼らの影響を受けた者たち)は多かったように見える。

 民主党政権の成立とその後の成りゆきの責任を負うのはむろん最終的には有権者国民であり、民主党に投票した者たちだが、その民主党支持者(投票者)の中にはオールド「社会党支持者」たちも少なくなかったと見られる。

 戦後日本の歴史を概括しようとするとき、日本が<衰亡>に向かっているとすれば、上記のような<ミニ・インテリ>たち=オールド「社会党支持者」たちの<責任>はきわめて大きい。このことは特筆しておきたい。

 もちろん、そのような<ミニ・インテリ>たちを生んだ、学校教育(=教師)、マスメディア、そしてこれらをも指導した(一時期はGHQの占領政策に「迎合した」)本来の「知識人」たち、あるいは学者・文化人の類の<責任>は厳しく指弾されなければならない。

 <責任>が追及されるべきいわゆる<進歩的文化人>の特定と言動内容、GHQや「社会主義」諸国との関係等を明らかにしておくことは、「戦後日本」の総括にとっての重要な課題の一つに他ならないと思われる。

0904/「共産党ではないが左翼」の社会・人文系学者たちの多さ-月刊正論11月号・竹内洋を読む。

 月刊正論(産経新聞社)連載の竹内洋「革新幻想の戦後史」は月刊諸君!(文藝春秋)から「続」となって月刊正論に移ってしばらくはもたもたしている感もあったが、先月号あたりから再び(私には)面白くなった。
 1.月刊正論11月号の竹内洋・同上は丸山真男批判(の一部。竹内には丸山真男に関する新書一冊がすでにある)。その基本的趣旨自体も興味深く、1970年代以降の丸山真男の「衰え」を再確認させる。
 丸山真男については著書・全集の一部をじかに読んだことがあり、この欄でも言及した。
 このブログサイトでの「丸山真男」を検索してみると、なんと最初から13個までが「秋月瑛二」によるこの欄がヒットした!。もう忘れたが、丸山真男を主題としたものを20回は書いただろう。

 そして、丸山真男を積極的・好意的に評価する本が今日でも新たになお出ていることも思い出して、あらゆる戦線(?)での<左翼の執拗さ>をあらためて感じる。
 2.さて、p.282-3のデータ(資料)はきわめて興味深いもので、私の推測ともほとんど合致している。
 p.282の表は、ごく大まかに一言でいうと、1973年時点の支持政党調査では、「日本人平均」では自民党が一位で二位・社会党の1.5倍ほどの支持率があるのに対して、「大学教師」の支持政党の一位は社会党、二位は民社党、三位は自民党で(「特になし」を除く)、社会党支持が自民党支持の二倍以上ある、ということだ。
 竹内の関心に即して言うと、「大学」の世界では、(1980年代前半の丸山真男による叙述とは異なり)「進歩的文化人」は「多数派」だった、ということが明瞭に判る。

 これは1973年の数字だが、現在でも、「大学」教員の世界では(「進歩的文化人」という語は今日的用語としてはあまり使われなくなっていると見られるが)、「左翼」または「何となく左翼」が(とくに社会・人文系では)<圧倒的多数派>を形成しているのではないか。
 p.283の表が示す数字の方がさらに興味深い。
 1983年時点での「保守・中間・革新」意識の調査結果によると(出典の再引用は上ととともに省略)、「中間」を割愛して「保守」対「革新」の数字だけ示せば、「一般国民」が34対24、「財界」が74対10、「官僚」が56対23であるのに対して、「マスコミ」(人)は34対46、「学者・文化人」は31対51、ついでに「市民運動」(家)は14対81、「学生」は42対46だった、という。
 27年前の数字だが、「マスコミ」(人)や「学者・文化人」における「革新」または<左翼>性向が明瞭に数字化されている。
 そしてまた、今日でも、その傾向は変わらないものと思われる。

 70年代(とくに前半または初頭までの)「革新」ムードは全体としては80年代には消滅または弱体化していたはずだが、「マスコミ」(人)や「学者・文化人」においては異なることが上の資料からは明らかだ。そしてまた、ソ連が解体し北朝鮮や中国の実態がより明らかになってきている現在でもまた、「マスコミ」(人)や「学者・文化人」の<政治意識>=<左翼・なんとなく左翼>性は(驚くべきことに、また執拗にも)大して変化していないのではなかろうか。
 ここでの「左翼」とは、いつかも書いたように、<容共>志向、換言すると、<反共>の立場に立たない(立てない)政治的意識・主張・見解のことを意味させている。
 3.そういう「左翼」的雰囲気の「学者・文化人」や「マスコミ」(人)の世界において、日本共産党支持またはコミュニズム支持を少なくとも明確に示しはせず、むしろそれとは距離を置きつつも、「保守(・反動)」、ましてや「右翼」と評されないことが最も<安全で・安心な>態度=処世術なのだろう。
 p.283に引用されている、2009年の某雑誌での伊藤隆(東京大学名誉教授)の次の言葉は、十分に納得がいく。
 竹内洋が使った「共産党員ではないけど、いつも共産党員に気兼ねをしている学者」という表現につなげて、伊藤隆は言う。
 「気兼ね学者は大学の人事を握っていて、リベラルということで良心が満たされる気分になると同時に利益もある…。(一文略-秋月) 学者にとって一番理想なのは、東大教授で、共産党ではないが左翼である。そして、ジャーナリズムにどんどん登場するということでしょう」。

 日本共産党を支持はしないが決して「保守(・反動)」、ましてや「右翼」と呼ばれたくはない、という気分の多数の(とくに社会・人文系)「学者・文化人」さまには、上のような言葉も傾聴していただきたいものだ。
 また、「共産党ではないが左翼」で、「ジャーナリズムにどんどん登場」して(世間的)知名度も獲得したいという「東大教授」は、現に多数存在するのではないか(それを現実化している「東大教授」の名を具体的に何人かは挙げることができる)。
 くり返せば、「共産党ではないが左翼」で、学界内部でも、共産党そのものに<染まっている>わけではないが決して<反共>の立場に立たない(少なくともそれを明言しない=日本共産党に「気兼ね」する)大学教員たち、そして東京大学教授たちは、世間一般の相場に比べれば著しく多い、と想定される。現在の日本の<異常さ>はこんなところにもある。あるいは、こんなところにも起因している。 

0873/山内昌之・歴史の作法(文春新書、2003)中の「アカデミズム」。

 山内昌之・歴史の作法-人間・社会・国家(文春新書、2003)を何となく捲っていると、面白い叙述に出くわした。
 「一般(純粋)歴史学」・<歴史学者>の存在意義にかかわるような文章だが、社会・人文系の<学>・<学者(研究者)>にも一般にあてはまりそうだ。
 「アカデミズムとは、職人的な『掘鑿』に頼りながら『専門家』であることを根拠に、現在と過去から超然とし、人びとや社会に向かって客観的な評価を下せると妙な自信をもたせる制度といえるかもしれません。『権力』の場とは別に『権威』の場ができたわけです。反『権力』を自負する学者たちが専門家としての『権威』を自明のものとし、自分たちの閉ざされた世界で『権力』を誇示する現状に無自覚なのは、あまりにもアカデミズムの環境にどっぷりと浸っているからでしょう。/…によれば、『専門家』であることは『公平』であるという事実を意味せず『仕事に対して報酬を受けている』だけの事実を意味するとのことです」(p.164-5)。
 アカデミズムとは耳慣れない言葉だが、要するに、<学問・学者の世界>またはそれを<世俗(俗世間)>よりも貴重で、超然として優越したものとする考え方(「主義」)もしくはそのような考え方にもとづく「制度」を指すものと思われる。
 そのような<アカデミズム>からの「人びとや社会」に対する影響力は、かつてと比べると格段に落ちているだろう。だが、それにもかかわらず、上に使われている表現を借りれば、「『専門家』であることを根拠に、現在と過去から超然とし、人びとや社会に向かって客観的な評価を下せると妙な自信」をもっている学者・研究者(要するに、大学教授たち。但し、社会・人文系を念頭に置いている)はなおも多いのではないか。
 また、閉ざされた<アカデミズム>内部での「権威」が「権力」をもちうることは、教育学の分野に関する竹内洋の(生々しい?)叙述でも明らかだろうと思われるが、その「権威」・「権力」は必ずしも一般社会(俗世間)の、または<客観的>な評価にもとづくわけではないことを知らず、その「権威」・「権力」的なものに(無意識にではあれ)追従し、依存して生きて(学問研究なるものをして)いる学者・研究者も少なくはないと思われる。
 やはり指摘しておくべき第一は、日本の<アカデミズム>(社会・人文系)内部での「権威」・「権力」は(現在でもなお)コミュニズム・マルクス主義または親コミュニズム・親マルクス主義、あるいは少なくとも反コミュニズム・反マルクス主義=<反共>ではないという意味で「左翼的」な彩りをもっていることが多いと想定されることで、意識的・自覚的にではなくとも、学界内部に入った者は自然に少なくとも「左翼的」になってしまうという仕組み・制度があるのではないか、ということだろう。
 そして、そのような「左翼的」学者・研究者(大学教授たち)によって教育され指導を受けた少なくない者たちが例えば高校・中学等の教師になり、官僚になり、マスメディア等へと輩出されてきている、ということに思いを馳せる必要があろう。
 現在の民主党政権の誕生とその後の愚劣さ(または現実感覚から奇妙に遊離していること)は、戦後のそのような「左翼的」学問・研究にもとづく教育の<なれの果て>でもあるように考えられる。
 第二に、かつてほどの影響力はなくとも、マスメディアあるいは政治の世界は何らかの目的をもって「学者・研究者(大学教授たち)」を利用しようとすることがあり、現にそうしている。そして、上に書かれている(または示唆されている)ように、「学者・研究者(大学教授たち)」・「専門家」たちの発言・コメント類は決して「公平」でも「中立的」でもない、ということだ。言うまでもなく、朝日新聞に多用されているような<識者コメント>は信頼できない。そうでなくとも、大学教授・何らかの専門家(社会系・人文系)というだけで社会的な権威があるものと見なしてはいけない。
 以上のとくに第二は、当たり前のことを書いてしまったようだ。

0860/月刊正論5月号(産経新聞社)を一部読む。

 1.月刊正論5月号(産経新聞社)が表紙に掲げる「総力特集」は「民主党よ、どこまで日本を壊したいのか」。「日本」と「壊」だけは赤文字になっている。
 上の文の意味は私は解るが、少なくとも民主党・代表(首相)の鳩山由紀夫(その他の民主党の主流派の面々)には理解不可能ではなかろうか。
 「日本を壊」そうなどとしていない、とムキになって反論してくるのならまだマシだが、「日本」などという(偏狭な・排他的な)国家意識をこそ民主党は破壊して、「国民」ではない「(地球)市民」による共生の社会を目指そうしているのだから、「日本を壊し」てどこが悪いのか、むしろ「日本を壊したい」のだ、と開き直るのではないか。
 そういう人物には、月刊正論の表紙の言葉は、馬に念仏、蛙のツラに何とか、とやらで、何ら心に響かないと思われる。編集者を批判しているのでは(必ずしも)ない。言葉・文章でもって議論なり説得なりをしても、決して判らない、納得しない人々もいる、ということだ(判り、納得して<反省>する人が皆無ではない、ということを否定はしないが)。
 2.さて、最近の各号についての通例として、まず、竹内洋「続・革新幻想の戦後史」を読む(p.254~)。
 小田実が「新手の右」と思われていた時期もあった(またはそう思っていた人も一部にはいた)こと、石原慎太郎は60年安保の頃、「江藤淳や大江健三郎などと『若い日本の会』をつくって安保改定反対の行動をしていた」こと(p.256)などは、初めて知った。
 全体としては、竹内の小田実との接触(?)体験の叙述等が生々しく記憶に残る一方で、「小田実」は「鬱と躁」をかけめぐった、というまとめ方(p.254、p.263)はあまり面白くない。個人の「心理」・「情緒」の揺れに焦点を当てて、「戦後史」全体につなげられるのだろうか、と思いもする。
 ともあれ、いずれ単行本になるだろう。まとめて読んでみたい。

 3.いくつかを一部ずつ読んだあと、石川水穂「マスコミ走査線」の連載(p.162~)。多数の新聞等をすべて読むことはできないので、こういう記事(?)は重宝する。
 これによると、高校授業料無償化につき朝鮮学校も対象とするかという問題については、全国紙社説等で朝日・毎日・読売は賛成、産経のみが反対または疑問視らしい。

 これでは全国紙レベルでは(そしておそらく地方紙も)、<世論>の勝敗はほとんど明らかだろう。青木理は週刊現代4/10号で、「日本ではまたぞろ憂鬱極まりないニュースが飛び交っていた」などと述べて産経新聞(だけ?)の主張を大きく受け止めて、感情的に反発する文章を書く必要はないのではないか。
 4.前回言及した筆坂英世の本には、日本共産党機関紙「赤旗」(日刊)の発行部数は<約130万に落ちた>旨の文章がある。
 週刊現代4/10号p.54、p.56によると、「大手」新聞各社の2009年下半期の発行部数は以下のとおり(()内は前年比?)。

 ①読売1001万(+)、②朝日801万(-14000)、③毎日373万(-96000)、④産経166万(-460000)(日経の数字は紹介されていないようだ)。
 これを信じるとすると、産経新聞の166万は、日本共産党「赤旗」130万と、あまり変わらないではないか。
 新聞では産経新聞、月刊政治(総合)雑誌では月刊正論、だけを読んでいたのでは、<KY>になりそうだ(日本国民全体の<空気は読めない>)。
 もちろん、その<空気>に、産経新聞社記者・山本雄史のかつての見解のように、<従う>必要はまったくないのだが。
 今回の文章は産経新聞(社)に対する嫌味に満ちていると感じられるかもしれない。

 5.次いで、竹田恒泰「政治家が『大御心』を語る危うさ」(p.208~)。

 これに書かれている天皇陛下等の「お考え」はおそらくは事実に相違ない、と私は感じた(つまり<女系容認>というご意向を「忖度」できない)。
 タイトルでは「政治家」になっているが、この文章の最後は、「政治家や官僚、そして学者や言論人までもが自由に天皇の大御心を語り、…を正当たらしめようとすることを、国民は許してはいけない」、だ。
 小林よしのりの名は一言も出てきていないが、最近の小林よしのりの論に対する明確な批判になっている(と感じた)。

0714/諸君!最終・6月号(文藝春秋)-徳岡孝夫、佐伯啓思、竹内洋、八木秀次、西尾幹二等々。

 諸君!6月号(文藝春秋)と月刊正論6月号(産経)を手にする。
 最終号なので先に前者を開いて巻頭を追っていると、「紳士と淑女」欄筆者は徳岡孝夫だったと明らかにされている。この人は三島由紀夫が自決した際、直前に文章(檄文)を預かった者で(これはたぶん間違いない)、かつ当時は毎日新聞の記者ではなかっただろうか。後段も記憶が正しいとかりにすると、毎日新聞と諸君!は結びつき難いので少しは驚きがある。
 好みに従い、佐伯啓思「アメリカ型改革から<桂離宮の精神>を守れ」竹内洋「革新幻想の戦後史・最終回」を読む。後者は全体が戦後<進歩的文化人>の分析・批判だった気がする。いずれ単著になるだろう。<進歩的文化人>とはもはや死語のようでもあるが、しかし、そのDNAを継承する者は学界・法曹界・官界・マスコミ等にうんざりとするほどいて、まだ<多数派>かもしれない(「進歩的」・「文化人」の理解の仕方にもよる)。
 続いて、「リベラル右派」と自称している(p.242)宮崎哲哉の司会による彼も含めて八名の座談会。仕切っている宮崎はなかなか賢いと思うが、八木秀次は宮崎からツッこまれている(p.239)ほどに発言がやや少なく、精彩を欠く。とくに、自衛隊を律令制下の「令外の官」に譬える説を紹介して、宮崎に「立憲主義」の重要性を説かれ、現状では「憲法ニヒリズム」に堕すと指摘されている辺りは(p.216-7)、八木の自説でもなく十分な言及をする時機を失っているとしても、どちらが憲法学者なのかが分からないくらいだ。
 「立憲主義」そのものは、それが欧州近代の所産だとしても、法律制定者を拘束・制約する「メタ・ルール」の存在を肯定するという意味で日本でも妥当すると見てよいだろう。問題は「憲法」=「メタ・ルール」の具体的内容、それが<日本(人)>の歴史・伝統等をふまえた適切なものかどうか、だ。
 この座談会でも西尾幹二はよく発言しているし、注意・興味を惹く内容もある。
 順番としてはもっと後で読んだが、月刊正論6月号の連載コラム欄で八木秀次は、「ある雑誌の座談会」に「違和感を持ちながら」いた、「保守」はイデオロギーではなく生活・生き方等と「言う人に限って、人を押し退けてしゃべり続ける。その姿勢が他人との協調や謙虚さを重んずる日本の良き伝統に反する」と感じたからだ、と書いている(p.44)。
 「ある雑誌の座談会」とは諸君!6月号のそれで、「人を押し退けてしゃべり続ける」人とは西尾幹二なのだろう。西尾の発言内容を全面的に支持するつもりはないが、また八木が「違和感を持」ち温和しかった(?)理由らしきものに同情するとしても、別の雑誌でこんな私憤(?)を活字にするとはいかがなものか。または、どうせ書くなら雑誌名・人物名もきちんと書くべきではないのか。さらに、「人を押し退けてしゃべり続ける」と感じるか否かは人によって異なることで、それを根拠として「保守」ではないとか「日本の良き伝統に反する」、と断じることもできないのではないか。
 西尾と八木の<個人的>確執は一読者・一国民としては全く些細なことだ。むしろ、八木は上のコラムで天皇・皇后両陛下のご成婚五〇年の記者会見でのご発言を完全にそのまま肯定的に理解しているのに対して、月刊正論6月号の方の西尾幹二「日本の分水嶺-危機に立つ保守」は(是非はともあれ)<深い>理解を示しており、天皇制度の今後のあり方に関して重要とも思われる問題提起をしている、ということの方が大切だと考えられる。但し、今回はこれ以上は触れない。
 元の諸君!6月号の座談会に戻ると、村田晃嗣が田母神俊雄(論文)を何回か<親米>すぎる・切り貼り等と批判しているのが目についた。しかし、村田の少なくとも後者の批判は厳しすぎる。田母神は長い<研究論文>を紙数の制限を受けずに書いたのではない。新聞や雑誌が全文を登載したり、結果としては自著の一部として活字になることなど想定していなかっただろう。せいぜい(かりに入選すれば)論文募集会社の何らかの会報類に掲載されることくらいを予想していたにすぎないのではないか。この欄でも既述のとおり、あの程度の字数で詳細・厳密に論じるのは不可能だ。
 田野神にとっての<不注意・不用意>は、その論文が内局のトップ・増田好平事務次官に<悪用>される可能性を考えていなかったことだろう。
 もっとも、田母神俊雄論文への反応につき昨秋に<左翼ファシズム>成立又はその怖れを指摘したことがあるが、それに向かってのもっと深く広い<策略・陰謀>が背景があるのかもしれない(よく分からない。西尾・月刊正論6月号論考はその旨を指摘している)。
 西尾幹二が座談会で、竹中平蔵と野口悠紀夫を名指しして、アメリカ帰りの親米(「新自由主義」)経済学者と批判しているのも目についた(p.223)。別の何かでは、郵政民営化議論に関して問題は財投資金だと選挙直前に正しく指摘していたと、「勇気」ある経済学者として野口悠紀夫を褒めていたからだ。
 宮崎哲哉はなかなかの人物・論者だとあらためて思う。論壇又は議論・思想状況全体を広い観点から掴んでいるように見える(例えば、p.229)。
 このあと、たぶん月刊正論の方に移った。次回に。
 諸君!についてのあれこれの賛辞(p.155-。渡辺恒雄、立花隆、井上章一まで書いている)を多少は読んで思うのだが、この雑誌はそれほど立派な<保守>系雑誌だったのだろうか。「左翼」・保阪正康が最終回まで43回も連載しているのは何故なのか。不思議だ。 

0681/中西輝政「歴史は誰のものか」(月刊WiLL別冊・歴史通№1、2009)・その2。

 一 月刊WiLL別冊の歴史通№1(ワック、2009春)の中西輝政「歴史は誰のものか」p.62以下は、「歴史家利権」に触れたあと、つぎのように書く。
 ・「日本の歴史学界では歴史家がいわゆる一つの史観(とくに東京裁判史観)に異を唱えると、ものすごい社会的制裁が待っている」。
 ・その「制裁」の「強さ」は「まさに想像を絶するほどのもので」、「強烈な形でその人に不利益を与える『パージの構造』が今も厳としてある」。
 ・「大学に講師・助教授として就職したいという若い研究者がいても、彼らがある歴史観、つまり東京裁判史観から乖離してしまうと、三十代でほとんどは抹殺されてしま」う
 ・「決して誇張ではなく、集団間に『手配書』みたいなものが廻るような世界がある」。「この世界の広がりは、出版界やマスコミにもつながっている」。
 ・「だから若いうちは…、自分の本当の史観や思想を隠して『就職用論文』を書き続ける学者が大勢います。そして、大半はいつしか『習い性』となる」。
 ・「歴史家が、ある歴史観に異を唱えることが、日本では…大きな勇気が必要」で、「人生の上でも大きな社会的損失を覚悟しないとできない」。「学者や作家としての個人的な栄達や利益、そういうものを犠牲にしないといけない」。
 ・「歴史家」にとっての<三つの敵>はつぎだ。①「自己の栄達」。これを求めすぎると「学問や知的探求心をいつ頃からか犠牲にしてしまう」。②「政治的考慮」。例えば「日米の友好」への影響を恐れて、研究の「姿勢や結論を大きく自己規制する人がとても多いように思う」。欧米の歴史家は「愛国心」をもち「自国にとって悪い事」を言わないようにしないと「黒い羊」になることを恐れている。日本では逆だ。③「大勢に順応しようという諦念」あるいは「勇気の欠如」。
 以上が、「すさまじい」ことを書いている、と感じた部分だ。最後の三点は、結局は同じことに帰一しそうだ。
 二 日本には「学問の自由」も「表現・出版の自由」もあるはずだが、特定の史観=「東京裁判史観」から乖離すると歴史学者(研究者)として大学等で生きていくことがむつかしい、それに異を唱えるには「大きな勇気」が要ることがあからさまに語られている。ある程度は感じ、ある程度は知ってもいたことだが、「東京裁判史観」が日本の歴史(とくに近現代史)学界を支配してしまっているわけだ。田母神俊雄論文「事件」に際して田母神を擁護した学者(研究者)はいったい誰々だったのか(いたのか?)を思い出しても、納得するし、また慄然とする。
 誰でも自分の<生活>、ついで<名誉>を大切にしたいと思うだろう。だが、それらを大切にしようとすることと<真実(・事実)の追究>・<真実・事実の表現>が矛盾し、後者をねじ曲げなければならないようでは、いったいそれは「学問(研究)」の名に値するのか。
 「学問(研究)」を本当はしているつもりはなく広くは「社会貢献」つもりで、「学問」の名を騙りつつ(「大学教授」の肩書きを利用して)特定の事実や特定の主張に拘泥し続けることを自己の「政治活動」、「政治」的使命と考えている日本共産党員その他の「組織」員たる「学者」(大学教授)もいるに違いない。また、そのような「組織」員でなくとも、やはり特定の史観を維持し、<復古的・反動的・軍国主義>史観に反対することが自己の「良心」だと考えている(かつての「進歩的」知識人のような)学者も多いのだろう。
 慄然とする思いに駆られるし、<左翼ファシズム>への恐怖を感じる。
 ところで、中西輝政は上のことを「歴史」学(者)について語っているが、一部に「出版界やマスコミ」も同様だ旨の指摘もしている。
 さらに、「歴史」学に限らず広く社会系・人文系学問分野で上記のようなことは、ある程度は(その程度は「圧倒的に」から「多少は」までの広がりがありうるが)あてはまっているように思われる。これこそがさらに輪をかけて、怖ろしいことだ。
 「教育学」の分野については竹内洋に上のことを示唆する文章がある。「政治学」について中西輝政は同旨を含むことを語っていた。
 三 明確な文章を読んだことはないが、他の社会学、法学等々についてもあてはまるのではないか。法学のうちとくに<憲法学>はそうではないだろうか。
 憲法学の場合は、「東京裁判史観」というよりも、その史観にもとづいて制定された日本国憲法(その「前文」は東京裁判史観が色濃い)への<信奉>の有無が「羊」たちを「白」か「黒」かに分けているのだろう。日本国憲法の「進歩的・民主的・平和的」理念に反対して(と護憲者は理解し)改憲を唱えるような「黒い羊」は、学界のごく少数派で、居心地がきわめて悪いのではなかろうか。
 日本国憲法が最良・至上のものではないことは誰が考えても明かなことで、<よりよい憲法>を目指す議論がまともに展開されてよい筈だ。<平等>原則を普遍化し、天皇・皇族にも「人権」を、とか言って、天皇条項の削除を正面から提案する憲法学者が現れても本来は不思議ではないと思われる。だが、現憲法を少しでも改めようとする議論は(どのようなものであれ)敵=<改憲勢力>に「利用される」とか考えて、まともに憲法改正に関する議論(「憲法政策論」と言ってよいだろう)を展開していないのだとすれば、<憲法学界>は「政治的考慮」を優先した、「政治活動家」の集団と言っても過言ではないことになるだろう(最近の種々の問題でも、憲法学者の発言がきわめて乏しいと思われるのはいったいなぜだろう)。
 大学の教師たちは学生に(とくに新入生に対して?)「自分の頭で(批判的に)考えよ」とか言って「教育」しているのだろう。だが、そう言っている大学の教授・准教授たちは(社会系・人文系にいちおう限っておくが)、本人自らが「自分の頭で(批判的に)考え」ているか否かを厳しく<自己評価>してほしいものだ。指導教授の「学説」を墨守したり、関係学界の<雰囲気(空気)>を「読ん」で黙従したりしていては、楽に(安全に)生きてはいけても、刺激と緊張に充ちた「自由で闊達な」学問活動にはならない筈だが。

0672/諸君!(文藝春秋)が廃刊。6月号(5月初旬発売)で終わり。

 (株)文藝春秋の月刊諸君!が6月号(5月初旬発売)で廃刊になることが決まったようだ。
 前回・前々回に言及した櫻田淳論考は諸君!4月号のもの。
 2月号を買って竹内洋の連載ものにあらためて興味をもち、数号を古書で買い求めた(従って文藝春秋の利益になっていない)のは諸君!だった。それ以前の諸君!は昨年初めくらいまではほぼ毎号新規購入して読んでいたが、昨年途中からどうもおかしいと思い始めた。
 記憶するかぎりでは、①「左翼」・保阪正康の連載を延々と続けさせている、②皇室問題につき<興味>を優先させる(対立を煽り立てるような)編集をしていると感じた、③文藝春秋本誌(月刊文藝春秋)もそうだが、田母神俊雄論文問題につき、完全に<傍観者>の位置に立った
 文藝春秋本誌では「左翼」・保阪正康の「秋篠宮が天皇になる日」とやらの論考が最大の売りであるかの如き編集・宣伝をしていた(そんなこともあって昨年末以降、文藝春秋本誌も購入していない)。
 諸君!は最近部数が落ちていたらしい。昨年平均は6万数千部に落ちた、という。これが多いか少ないかは判断がつきかねるが、自分自身が昨年途中から定期的購入者でなくなったのだから、同様の人が少なからずいても不思議ではない。
 西尾幹二は何かの雑誌上で、左傾化(・朝日新聞化?)する「文藝春秋」を批判・分析する文章を書いていた。
 廃刊の理由は様々あるだろうし、(株)文藝春秋の経営的判断・分析の正確な内容は分からない。
 ただ、他の「保守」系月刊誌(論壇誌)とは異なり、上記の如く、<左にもウィングを拡げようとした>ように感じられることが本来の読者層をある程度は失ったのは確かだと思われる。
 田母神俊雄論文をバッシングするか擁護するか、この雑誌と(株)文藝春秋は、明確な立場を表明できなかったのだ。また、諸君!に限っての記憶によると、「左翼」・保阪正康の論考(連載ものでなかったかもしれない)が大変よかった旨の読者投稿をあえて掲載したこともあった。そうした編集方針が部数減につながったのだとすると(その可能性は十分にある-講談社・月刊現代の廃刊の原因の一つも(こちらの場合はより明瞭な)「左傾化」だと思う)、「編集人」・内田博人の責任は少なくないだろう。「左傾化」又は「大衆迎合」化に舵を切りつつ、中西輝政、西尾幹二(あるいは4月号では長谷川三千子)あたりで巻頭を飾ってもらえば「保守」層は離れないだろうと判断していたとすれば(仮定形をとらざるをえないが)、読者を馬鹿にしていたとしか言いようがないものと思われる。
 40年続いた雑誌が休刊という名前の廃刊。保阪正康の名を見る機会が減るのは嬉しいが、竹内洋らの優れた、連載ものの論考・文章はどうなるのだろう。6月号で無理にでも終焉させるのだろうが、その点は残念なことだ。

0671/福田恆存に関する二つの連載もの(竹内洋・遠藤浩一)と再び櫻田淳。

 一 偶然なのかどうか、福田恆存に論及する連載ものが二つの雑誌で数ヶ月続いている。月刊諸君!(文藝春秋)の竹内洋「革新幻想の戦後史」(4月号は17回「『解ってたまるか!』と福田恆存」)と月刊正論(産経新聞社)の遠藤浩一「福田恆存と三島由紀夫の『戦後』」(4月号で31回)だ。
 前者の4月号も面白い。①金嬉老事件(1968)にかかわっての、中嶋嶺雄、鈴木道彦、日高六郎、中野好夫、金達寿、伊藤成彦ら(当時の)「進歩的文化人」の<右往左往>も、その一つ。
 ②朝日新聞の顕著な<傾向>を示す次の叙述も。-福田恆存が発表した論文が朝日新聞「論断時評」欄でどう扱われたか。「昭和四一年まで」は比較的多く言及されたが、昭和26年~昭和55年の間での「肯定的言及」数は福田恆存は28位で肯定的言及数でいうと中野好夫・小田実・清水幾太郎の「半分にも達していない」。一方、総言及数のうち「否定的言及」数は福田恆存の場合31%で、林健太郎(21%)、清水幾太郎(15%)を上回り、三一名中のトップ。「昭和四二年あたりから」は、福田恆存論文への言及そのものが「ほとんどなくなる」(p.234。竹内は辻村明の論考を参考にして書いている)。朝日新聞「論断時評」欄のこの偏り・政治性は、今も続いているだろう。
 なお、月刊WiLL4月号(ワック)の深澤成壽「文藝春秋/福田恆存『剽窃疑惑』の怪」(p.236~)は「左傾」?メディアの一つ・文藝春秋批判という位置づけなのか、この竹内連載中の福田恆存・清水幾太郎「剽窃」問題のとり挙げ方を批判している。そうまで目くじらを立てるほどではあるまいと感じたが、当方の読みが浅いのかもしれない。
 一方、後者(月刊正論の遠藤浩一)の4月号では、文学座の杉村春子の暴走、「女の一生」の中国迎合改作(改演)の叙述(p.269-273)が興味深い。演劇界にも戦後<進歩主義・対中贖罪意識>は蔓延したようで、「札付きの左翼劇団」だった民芸や俳優座だけでなく、政治と一線を画してきた文学座も「昭和三十代」に入ると「反安保」・「日中友好」を通じて「左翼観念主義」・「左翼便宜主義」に取り憑かれた(p.269)。
 滝沢修も日本共産党員らしき者(少なくとも70年代に「支持者」以上)だったが、どの劇団だったか、すぐには思い出せない。仲代達矢もそうした傾向の劇団を経ていたのかもしれないが(「左翼」五味川原作の「人間の条件」の主役もした)、そうした<傾き>をほとんどか全く感じられないのは(実際にも<傾き>がないのかもしれないが)好印象をもつ。
 杉村春子(1906-97)といえば、意外に知られていないかもしれないが、大江健三郎が受賞を拒否した翌年に文化勲章受章をやはり拒否した人物でもある。こじつけ理由の差異はともあれ、少なくとも拒否の点では、大江健三郎のエピゴーネン。
 二 ところで、櫻田淳は福田恆存につき、戦前の「古き良き日本」を思慕した言説主だとの前提に立っているようだ(月刊諸君!4月号p.52-53)。そうした面はあっただろうが、はたしてそう単純に福田恆存を概括してよいのだろうか。杉村に対する福田恆存の「助言」を読んでも、<昔(戦前)は良かった>を骨子とする<保守・反動>ではないことは明らかだ。
 櫻田には三島由紀夫や福田恆存の世代とは異なるんだという意識が透いて見える。それはよいとしても、-前回に記し忘れているが「戦後の実績」を「明確に肯定する」ことを前提にしてこそ「保守・右翼」言説は「拡がりを持つ」だろうとの指摘(p.53)には唖然とした。これは、「保守・右翼」言説の<左傾化>を推奨しているようなものだ。<左傾化>すれば「拡がり」を持つだろうが、もはや「保守」言説でなくなっている可能性が大だ。
 むろん、何が「戦後の実績」かという問題はある。<日本国憲法体制>あるいはGHQ史観・東京裁判史観の(基本的に)肯定的な評価までも含意させているとすれば、この人は「真正保守」どころか、「保守」だとも思われない(なお<日本国憲法体制>=1947年体制への私の疑問・批判は、同憲法無効論を前提としてはいない)。
 三 さらに前回記し忘れたことだが、産経新聞2/26「正論」欄の櫻田淳「『現在進行形の努力』と保守」の中には、一部、大きな過ちがある。すなわち、櫻田は、「定額給付金」は減税の一種だと理解し、<定額か定率か>つまり<定額減税か定率減税か>が問題だったはず、等と述べている。
 「定額給付金」は減税ではなく、所得税・住民税の非課税者(減税があっても利益にはならない人たち)にも給付される。このことは常識だと思っていたが、櫻田は理解できていない。まさに「右か左かはどうでもいい」(月刊諸君!4月号、櫻田p.55)基礎的知識レベルの問題なのだが。この人は信頼してはいけないように思える。

0665/遅れて月刊諸君!2月号(文藝春秋)の一部。

 諸君!2月号(文藝春秋)を遅れて入手。
 一 田母神俊雄論文に関する編集の仕方は、さすがに(株)文藝春秋らしい(褒めているのではない)。
 二 竹内洋「革新幻想の戦後史15/『進歩的文化人』と『保守反動』」p.272以下を併せて読むと要するに、福田恆存「平和論の進め方についての疑問」(中央公論1954.12号)は清水幾太郎の剽窃(的)だと大熊信行は論評したが、事実は逆で、清水が福田の真似をした、ということのようだ。
 京都市立旭丘中学校事件のことをほとんど知らないので、興味深い。また遡って、未購入の1月号を入手しようか。
 同事件に関連して懲戒処分を受けた「左翼」教員側は、寺島洋之助、山本正行、北小路昴(北小路敏の父)ら。最高裁判決1974.12.10で懲戒免職処分は適法視された。これら教員側を応援した「進歩的」文化人・学者は、太田嶤(東京大学)、末川博(立命館)。市教委を支持して「左翼」側を批判したのは、臼井吉見(評論家)、坂田期雄(京都大学)。
 このあと、竹内洋はじつに興味深いことを書いている。
 坂田期雄が「進歩的」京都文化人等と対立したのは「かなり勇気のいる」ことだった。そして、この事件以来、坂田は「保守反動のレッテル」を貼られ、その「禍はその弟子」に及び、「有名国立大学」に転出する話が出ていた弟子(助手)の人事が「流れて」しまい、その弟子は結局は京都の某私立大学に就職した。坂田は、自分がレッテル貼りされたことは甘受するとしても、「弟子の就職の邪魔をした」ことになり慚愧に堪えないと語っていたとか(p.269-270)。
 政治学の分野で、<保守反動>の指導教授は大学院生たちを早く又はより有利に就職させられない状況にあったことを、中西輝政がたぶんほぼ2年前のやはり諸君!の座談会で語っていた(指導教授は高坂正嶤)。坂田期雄は当時京都大学人文研究所所属で専攻は日本史だが、広く思想史や政治学の「弟子」もいたようだ。
 中西輝政や竹内洋の証言?にかかる時代はだいぶ前だが、歴史学、教育学、政治学、法学、経済学等々の社会・人文系分野では、似たようなことが現在でも程度の差はあれあるのではないか。「左翼」的=学界<体制派>でないと、就職がむつかしいか、<よい>大学等には就職できないのではないか。逆に、平均的な業績があれば、例えば日本共産党員であるということは就職や転任にとって決定的に有利な要因になるような学問分野、科目、大学や特定の学部もあるのではないか。<大学の自治>、<学問の自由>の名のもとで、世間相場よりも多くの<左翼>たちが、そして日本共産党員を含む多くの左翼<組織員>たちが、大学には(社会系・人文系学部では)今なお棲息しているのではないかと思われる。そういう者たちの圧倒的な影響のもとで、学生たちは公務員(官僚)やマスコミ社員等となるべく卒業してきたことに、あらためて瞠目しておくべきだろう。
 三 中西輝政「日本自立元年」は巻頭の計13頁ぶん。ふつうならこの中西論考を読むだけでも購入するに値しただろうが、田母神俊雄論文に関する唯一の企画である対談の一人が保阪正康だと知って買わなかったのだった。
 2007年秋には中西はすでに「政界再編」への期待を語っていたと記憶する。この論考でも、最後の部分はこうだ。
 「日本生存のためには、どうしても劇的な政界再編を経て、真の保守勢力が結集されなければならない」。次の総選挙は「その第一歩となるはず」で、「そうならなければ、日本の明日はない」(p.36)。
 「真の保守勢力」の意味や核となるべき政治家集団が必ずしも明確になってはいないと思うが、かかる主張に反対するつもりはない。
 ただ、その現実的可能性を楽観視はできないと感じる。また、「そうならなければ」という条件つきの「日本の明日はない」との表現は、そうならないことがあれば文字通り「日本の明日はない」との意味で、じつはかなり悲壮な訴えかけなのではないか。

0662/月刊諸君!3月号(文藝春秋)を一部読む。

 久しぶりに月刊諸君!3月号(文藝春秋)を買う。以下、読んだもの。順不同。
 ・西尾幹二「米国覇権と『東京裁判史観』が崩れ去るとき」
 西尾幹二は皇室論以外では、至極まともだし、視野が広く、鋭い。
 ・佐伯啓思(聞き手・片山修)「<アメリカ型=自動車文明>の終焉」
 上の西尾論考と併せて、昨今に始まったことではないが、大きな変化の時期にあることを感じる。そこから何がしかの希望も出てくる筈なのだが、本質的・基礎的なところに立ち入らないマスメディア等に冒された人々が大多数では、日本の未来は決して明るくない。
 ・山村明義「いま、神社神道が危ない」
 由々しきことだ。中国による日本占領又は日本の中国の属国化により(「天皇」制度とともに)神道・神社が否定され、物的にも神社の施設が(チベットにおけるチベット仏教のように)破壊されるという<悪夢>を空想したことがある。それよりも先に、自壊してもらっては困る。
 ・山際澄夫「宮崎駿監督、どさくさ紛れの嘘八百はやめてください」
 宮崎駿が「左翼」らしいことはすでに他の何かで読んだ。この人の年齢くらいのインテリ又はインデリぶった人や芸術関係者には、新聞は朝日という人、そして単純素朴な「左翼」(・護憲主義者)が多いようだ。
 ・竹内洋「革新幻想の戦後史16/剽窃まがいは福田恆存か清水幾太郎か」
 標題の福田・清水問題は2月号を読んでいないため、やや分かりにくい。
 福田恆存は月刊・中央公論1954年12月号に「平和論の進め方についての疑問」を書いた。当時の<進歩主義>言説の「思考様式と行為様式をえぐった」もの(p.240)。これに対する批判的反応の大きさが興味深い。<論壇>がまだ成立していた時代なのだろう。
 福田論考を批判・攻撃したのは、竹内の言及によると、平野義太郎、新村猛、花田清輝、中島健蔵、佐々木甚一、(推測で)中野好夫。佐々木を除き、少なくとも氏名は知っている。また、この論考のあと、「民藝と俳優座」という二つの劇団との「交流も途絶えた」。福田恆存支持=「右翼」で、竹内ら当時の大学院生の間ではそれは「バカ」に近い意味だったとか。戦後いつまで、かかる<左翼・進歩主義>知識人・文化人の「論壇」支配は続いたのだろう。
 今日でもそうだろうが、月刊の<論壇>誌を読むような者がエラいとは限らない(私も含めて)。とくに月刊・世界(岩波)の読者であることを「インテリ」・「良心的知識人」の一つの証拠と思っているような者たちは、本当は<バカ>に違いない。
 その他は、余裕と気まぐれいかんによって読むかも(保阪正康の連載を除く)。

0637/竹内洋・学問の下流化(2008)、猪瀬直樹・作家の誕生(2007)、サピオの小林よしのり「天皇論」。

 〇12/16に竹内洋・学問の下流化(中央公論新社、2008)を全読了。気が向いたらいつか言及する。「下流化」とは「大衆社会の中での…ポピュリズム化」を言い、「ういてしまう学問のオタク化」に対する概念のようだ(p.13)。どちらに対しても憂いていると思われるが。
 〇途中まで読んでいたことに気づいた猪瀬直樹・作家の誕生(朝日新書、2007(古書))を、やはり一気に全読了。かなり前に太宰治や三島由紀夫らごとの著書(著作集2~4など)を読んでいたので、多分に重なっている感もある。
 この人は東京都副知事をしているようだが元来は政治・法律系ではなく文学・文芸系の素養の人だろう。道路公団民営化の議論もきちんとした基礎的「理論」があったとは思えない。もっとも、経済・政治(・行政)・法律、いずれの学者・専門家も、役立つ「理論」をいかほど提供したかはきわめて疑わしい。
 この本のp.120によると、大宅壮一は1955年(55歳のとき)にこう書いた。
 「平和主義などというものは、誰でもほしがるチョコレートみたいなもので『思想』でもなんでもない」。
 <日本の知識人は「デパートの食堂の前に立たされた子供」で、つぎつぎと輸入される舶来思想のどれを身に纏ったらよいか迷い、帽子の如くあれこれと被っては悩んでいる。外国の最新のカタログに眼を通していないと安心できない。……>
 次は、大宅壮一に好意的な猪瀬自身の言葉。
 「日本の近代は輸入思想の堆積物にあふれ、その断面の縞模様…〔には〕知識人の死骸が貝殻のように詰まっている。流行思想に帰依し自己喪失に陥る現象は、今後もずっとつづくのだろう。思想が帽子…〔ならば〕責任はともなわないのだから」(p.121)。
 〇サピオ・新年合併特別号(小学館、2008.12)。「輸入思想」によって「自己喪失」に陥ってはいないようである小林よしのり・ゴーマニズム宣言スペシャルは「天皇論」を開始している。
 p.71-元日の「午前5時30分、天皇は皇居内の神殿の前庭にお出ましになり、地面に敷いた畳にお座りになって、伊勢神宮をはじめ、四方の天神地祇、神武天皇陵、昭和天皇陵、ならびにいくつかの神社を遙拝される」。これが一年で最初の「宮中行事」。
 ほとんど毎号買ってきたが、当面は講読を欠かせそうにない。

0635/佐伯啓思・国家についての考察(2001)を読む-朝日新聞批判・その4。

 一 11月の半ば以降だったのだろうか、佐伯啓思・国家についての考察(2001、飛鳥新社)を再び読み出して、計320頁のうち、300頁を読み了えた。もう少しだ。
 先週金曜日あたりからの数日間で、竹内洋・学問の下流化(中央公論新社、2008.10)をほぼ2/3のp.196まで読んでしまった。小論を集めてまとめたもので読みやすいが、読後感の<軽さ>は、この人の他の本にも見られるわかりやすい文章のためだろうか。それとも、この人の思考・思想自体の<軽さ>によるのだろうか。けっこう面白い本であることは確かだが。
 二 さて、佐伯啓思の上掲書のメモのつづき。全体についての紹介的覚書を記すつもりはないが、佐伯が<朝日新聞>という名を明示して所謂<進歩派>を批判又は分析するのは珍しいと思われるので、もう少し続ける。
 朝日新聞らの<反ナショナリズム>の分析は前回までにも紹介した。佐伯は「『国益』とは何か」と節名を変えて、朝日新聞らの<反ナショナリズム>または<ナショナリズム批判>を、「他国への配慮」という点に着目して次のように批判する。
 6 ①<反ナショナリズム>に「裏返され、萎縮し、隠されたナショナリズムを見る思いがする」。
 国際関係は基本的には「国益」をめぐる対立の場だ。この対立は常に「力」のそれや「紛争」になりはしないが、1.「他国への配慮」は「国益の追求」のためにも不可欠で、前者は後者の「手段の一つ」となる、2.諸国家の利害調整のために国際ルール・国際機関が形成され、かかる「制約条件」のもとで「相互に国益を追求する複数国家のシステム」こそが「国際秩序」というものだ(p.71-72)。
 ②「国益」とは次の「二つの側面の適切な結合」だ。1.「国民生活の豊かさの追求や安定の確保という…物質的側面」、2.「比較的長期に」「歴史性に根ざし」て「共有している文化的価値を実現してゆくという…精神的次元にかかわる側面」。「国民の統合」を前提とする「近代国家」は何らかの「価値の共有」を必要とし、その「価値を実現」する「条件を作り出す」ことが「長期的な『国益』」になる。
 「国益」は「共有する価値の裏づけとその実現」という「理念的・精神的支え」を必要とする。しかもその価値は「歴史性」と「普遍性」をもつ必要がある。「国益」とは「少々おおげさ」には「その国の『正義』」、「他国に対する自国の正当な言い分」だ。「正義」なき「利益」追求は他国に正当化されないし、「利益」と結合しない「正義」は「宙に浮いた」もので国民に支持されない。要するに、「国益とは、国民の幸福や生活の向上という功利的な『利益』と、国際的に主張しうる自国の立場や価値という『正義』の結合」に他ならない(p.72-73)。
 ③従って、「国益」を議論するにはその国の「価値」・「正義」の議論が必要で、これは「広い意味でのナショナル・アイデンティティ」に関する議論となる。しかし、この議論が「今日の日本」では「きわめて困難」だ。その理由は、この議論が「戦後を疑う」ことから
出発せざるをえないことにある。「戦後を疑う」のは「否定する」と同義ではないにしても、「戦後の価値観の中で否定され隠されたものを再び明るみに出し、…日本にとっての『正義』とは何かを改めて問い直す作業」だ。これは「『戦後的なもの』の中でタブー視された価値をいったんはすべて解放する」という「困難な作業」を伴う(p.73-74)。
 ④「ナショナル・アイデンティティ」は「作り出された」ものだとしても、かかる「フィクション」を想定できないと「国益」観念は定義できず、国際社会での「確かな立場」は取れない。そうなれば、憲法前文にいう「国際社会で名誉ある地位を占める」ことも、そもそも「他国への配慮」とか「国際的に友好的」という観念さえも無意味になる(p.74)。
 ⑤「戦後的なもの」の擁護者は「自由主義、民主主義、平和主義、人権主義など」を「正義」とし、この点に「議論の余地はない」と考えるが、本当にそれが「国民の正義」で実際に「共有された価値」ならば「ナショナリズムの復興」を怖れる必要はない。
 「ナショナリズム」とは「国民の共有された価値の実現を図ろうとする運動」だ。「国民の共有された価値」が「自由主義、民主主義、平和主義、人権主義など」ならば、これらの実現を図る「国民運動」になる。
 にもかかわらず、「朝日新聞」社説等の「戦後的なもの」の擁護者は、「明らかにナショナリズムの高揚に恐怖し、それを復古主義だと唱える」。それは、「戦後的なもの」が「国民の正義」、「共有された価値」になっていないからだ。「彼ら自身がそれを認めている」。
 「ナショナル・アイデンティティ」、「正義」、「価値」に関する議論の余地は存在している。それは「戦後的なもの」という「枠を解除した」議論である必要がある(p.74-75)。
 ⑥「戦後的なもの」の擁護者-「戦後進歩主義者」-は「ナショナル・アイデンティティ」・「日本の国益」といった観念は「政治的に構成されたフィクションにすぎない」と言うかもしれない。「その通り」だが、「民主主義や人権主義という観念」も、「平和主義」も、同じく「政治的に構成されたフィクション」だろう(p.75)。<次の節へとつづく>

0603/<1947年憲法体制>の立役者・宮沢俊義。

 一 戦後日本は、1947年(憲法施行)、1952年(講和条約発効・占領終了)、1955年(自社体制)、1960年前後、1970年又は70年代前半、1985年頃、1990年頃(バブル・ピークと崩壊、ソ連解体)、1993年頃(細川政権、自社体制崩壊)、2001年頃(「構造改革」・規制緩和開始)等々によって時代を区分できるだろうが、これまでの全体を<日本国憲法体制>又は<47年憲法体制>の時代と、将来には呼ばれる可能性があるようにも思われる(いずれこれが別の新しい時代に変わることを私は想定するが、このままでよい、変えるのは<危険>という感覚の人々も多いのだろう)。

 なお、国際的には主として(1990年頃までは)<冷戦>の時代だったが、これまでの全体はほぼ<パックス・アメリカーナ>の時代だったと言えるかもしれない。

 <日本国憲法体制>又は<47年憲法体制>の時代とは、ほぼ<戦後民主主義>を<時代精神>とする時代だ。それは、「民主主義」・「平和主義」・「個人主義」といった「」付きの「主義」が支配した時代だったとも言えるだろう。
 その<日本国憲法体制>又は<47年憲法体制>の時代を形成するに際して戦後の<進歩的文化人・知識人>の力は大きかったのだが、肝心の日本国憲法について、基本的に現憲法賛美の<進歩的な>憲法学者の影響力もすこぶる大きかったと思われる。<進歩的な>憲法学者の多くは同時に<進歩的文化人・知識人>だった。
 そのような<進歩的な>憲法学者のうち、就中大きな力をもったのは東京大学法学部の憲法学の教授たちだった、と言えよう。

 憲法学(さらにそれを含む諸法学)の研究者(大学教授たち)の養成、国家試験を通じての専門法曹や上級官僚の意識・観念の形成、そしてまた国家試験を経なくとも戦後のマスコミ人の意識・観念の形成にとって、憲法学者は、就中東京大学の教授たちの説くところ・例えば教科書類は、客観的にはじつに大きな影響力をもったのではないか。

 敗戦・占領期、そしてその後の戦後前半の東京大学法学部の憲法の教授の一人は宮澤俊義だった。

 二 「八月革命」説でも知られるこの宮沢俊義についても、関心をもってみよう。

 竹内洋・大学という病(中公文庫、2007。原単行本は2001)は主として戦前を、かつ東京帝国大学経済学部の「騒擾」を対象としており、憲法学や東京大学法学部を対象とする本ではない。
 それでも、索引を手がかりにすると、宮沢俊義について、3箇所(3頁)に言及がある。内容はつぎのとおり。
 ①p.224-東京帝大教授に対する蓑田胸喜らの原理日本社による攻撃・批判の対象に経済学部よりも法学部教授がなっていることが多く、宮沢俊義は4回、「バッシングの対象として登場した」(原理日本という雑誌の記事等による言及の回数だと思われる-秋月)。横田喜三郎(国際法)は3回、牧野英一(刑法)も3回、南原繁(政治思想)は1回。

 ②p.227-原理日本社の東京帝大総長への進言書(1938年)の後半は「帝大教授批判」で、田中耕太郎・横田喜三郎・末広厳太郎(以上、法学部)、河合栄治郎(経済学部)のほか、「人民に憲法決定の権利ありとする宮沢俊義」も名指しされた。

 ③p.274-戦後1962年の朝日ジャーナル誌上で、文部大臣による学長拒否権等を構想した中教審答申批判の座談会が9回連載された。司会は東京大学元法学部長・宮沢俊義。他の出席者は田中耕太郎、末川博、我妻栄、大内兵衛の4名。
 一部だろうが、①・②のような戦前の経験が戦後の宮沢俊義の意識、そして憲法「学説」に影響を与えなかったはずはないだろうと推測される。当然に「反・右翼」になりそうだ。

 なお、すでに何回か触れたことのある丸山真男における戦前の拘留経験もそのようなものの「感覚的」契機になったに違いない。

0503/松本健一・丸山真男八・一五革命伝説(河出書房新社)は丸山真男批判、等。

 〇記していなかったが、たぶん3月から松本健一・丸山真男八・一五革命伝説(河出書房新社、2003)を読んでいて、5/11夜に少し増えてp.125まで、半分強を読了した。この本の帯には「…研究者の軌跡!」とか「丸山真男の軌跡!」とか(売らんがために?)書いているが、この本は、丸山真男批判の書物だ。
 丸山真男を<進歩的文化人>として尊敬している、又は<幻想>を持っている<左翼的>な人々は、この本や、たぶん既述の、竹内洋・丸山真男の時代(中公新書、2005)、水谷三公・丸山真男―ある時代の肖像(ちくま新書、1999)あたりを読むとよい。
 〇飯田経夫・日本の反省(PHP新書、1996)の第六章「『飽食のハードル』への挑戦」、第七章「真の『豊かさ』とは何か」(と「あとがき」)を5/11に読んだ。第三章と合わせて全体の1/3くらいを読了か。著者の意図はともかく、あまり元気が出てくる、将来展望が湧き出てくる話ではない。1996年の本だが、脈絡を無視して引用すれば、こんな言葉がある。
 ・「要するに人びとは、現状に満足し、『これでいい』と言っているのである。そして、現状を変更したくはないのではないか」(p.170)。
 ・「ある社会がピークに到達し、それを通りすぎた後には、『社会のレベル』の低下が、万人の予想を裏切るほどだという事実が、どうやらある…」(p.176)。
 ・「まさに戦争に敗れたという事実そのものが、日本人から魂を抜き去り、…私たちを腑抜けにしてしまったのかもしれない」(p.185-6)。
 以下は、「個人の解放」(個人の尊重)が<究極の価値>だと明言していた憲法学者・樋口陽一に読んでもらいたい。
 ・「それ〔日本的経営の人間関係〕は、…個人主義ではない。だが、はたして個人ないし『個』が、それほど絶対の存在であろうか。それを絶対と信じるアメリカ人は、はたして『よき社会』をつくることに成功しただろうか。また、はたして個人のひとりひとりが、とくに幸せであろうか」(p.179)。
 樋口陽一に限らず、殆どの憲法学者がいう「個人主義」・「個人的自由」は、戦前の<国家主義>又は「個人的自由」の制限に対する反省又は反発を、過度にかつ時代錯誤的に<引き摺り>すぎている、と思う。
 〇佐伯啓思・学問の力(NTT出版)はたぶん5/10にp.260まで読んで、あとわずか20頁ほどになった。この本についても、感想は多い。
 〇他に、まだ読みかけの本や、月刊雑誌を買ったが読んでいない収載論考があるはずだが、ただちに思い出せない。今、浅羽通明・昭和三十年代主義―もう成長しない日本(幻冬舎、2008)を思い出した。少しは頁数を延ばしている。
 阪本昌成・法の支配-オーストリア学派の自由論と国家論(勁草書房、2006)と佐伯啓思・隠された思考―市場経済のメタフィジックス(筑摩書房、1985)は、途中で止まったきりだ……。

0369/保阪正康は何故、諸君!に書けるのだろう。

 過去に書いたことの繰り返しがほとんどになるが、保阪正康について。
 保阪は首相の靖国参拝反対論者だ。朝日新聞の昨年8/26に登場してその旨を述べ、<靖国神社には「旧体制の歴史観」、超国家主義思想が温存され露出しているので参拝は「こうした歴史観を追認することになる」>と理由づけた。そして、この朝日上の一文を<「無機質なファシズム体制」が今年〔今から見ると昨年〕8月に宿っていたとは思われたくない、「ひたすらそう叫びたい」>との(趣旨不明の)情緒的表現で終えていた。
 また、保阪は文藝春秋の昨年9月号にも原稿を書いて、<講和条約までは戦闘中でそのさ中の東京裁判による処刑者は戦場の戦死者と同じ、と自らが紹介している松平永芳靖国神社宮司の見方を、占領軍の車にはねられて死んでも靖国に祀られるのか、「かなり倒錯した歴史観」だ>、と「かなり エキセントリックな」言葉遣いで批判していた。
 10/02に書いたように、今年の諸君!11月号(10月初旬発売)の一文はひどいものだった。呆れてほとんど引用しなかったのだが、いま少しは詳しく紹介してみよう。
 まずタイトルが「『安倍政権の歴史観』ここが間違っていた」で、「安倍政権の歴史観」なるものを俎上に上げて批判しようとする。そして、逐一の長い引用は避けるが、例えばつぎのような文章・表現で安倍内閣または安倍首相を批判していた。
 ①「丁寧に論じれば論じるほど、安倍首相が社会的現実や歴史的事実の一面しか見ていないことを世間に知らしめてしまったのだ。/とくに歴史観や歴史認識で、それが露骨にあらわれていた。」(p.58)
 ②「このような言葉の軽さは、安倍首相が社会的現実や歴史的事実を俯瞰する目をもっていないことを示している。そうした歴史を語るときの言葉の軽さが、国民に信頼されないという結果につながったのだ。」(p.59)
 ③「『政治とカネ』や『年金問題』、さらに『都市と地方の格差』といった生活に直結する問題だけで敗れたというより、安倍首相のもっている歴史認識、それにもとづいての言語感覚そのものが国民の信頼を勝ち〔ママ〕得なかったと分析する論の方が説得力を持っている。」(p.60)
 ④「つまり、安倍首相の言説はきわめてご都合主義の論であり、歴史的事実の側面だけをつぎはぎしただけの、あまりにも軽い歴史認識ということになってしまう。」(p.61)
 ⑤「安倍首相の片面しか見ない、いわば都合の悪い事実には目をつぶる、あるいは自らが酔う言語を口にし、それを他者に押しつけるという性格は、…」(p.61)
 ⑥「安倍首相は、現代社会の首相としての資質に欠けていただけでなく、その歴史認識そのものが歪みを伴っていたのである。にもかかわらず首相になれたところに、現代日本社会が内包しているブラックホールがある」(p.61~62)
 ⑦「だが安倍首相のように、常にある一面だけしか見つめず、そこからしか論を引き出せないとするなら、せめて…などといった大仰なスローガンを口走るべきではない。」(p.62)。
 ⑧「安倍首相には非礼な言い方」だが、「独裁者的な独りよがりの体質、そして反時代な言語感覚が世間にには受け容れられないことを証拠だてたという意味で、日本社会はある健全さを示したというのが、私の実感」だ。(p.62)
 上の⑧は最末尾の文章で、7月参院選の自民党敗北を喜んでいることを示している。
 さて、第一に、上の③は7月参院選・自民党敗北の原因分析だが、こんな分析をしていた新聞・論壇・評論家はいた(あった)のだろうか。そもそも「安倍首相の歴史認識(>それにもとづく言語感覚)」は、どの程度、選挙の争点になっていた、というのか。
 保阪は、自分が得意とする<歴史認識>・<歴史的事実>の分野で議論をしたいという目的のためにのみ、不得意な社保庁・年金問題、経済的「格差」問題等を避けて、上の③のようなことを言っているにすぎないのではないか。
 この人にかかると、「歴史」を語る又は「歴史」に関連する行動をするおそらくすべての首相が、小泉もそうだったように、<歴史認識>不十分・不正確とかの理由で批判されるのだろう。そんな自信をもてるほど、自分は<現実・将来を見据えての歴史的知識・歴史認識をもっている>と、保阪は鼻高々に言えるのだろうか。
 第二に、上以外に保阪が言っているアレコレも全然説得力がないのは何故だろうか。
 「社会的現実や歴史的事実の一面しか見ていない」、「社会的現実や歴史的事実を俯瞰する目をもっていない」、「きわめてご都合主義の論」・「歴史的事実の側面だけをつぎはぎしただけの、あまりにも軽い歴史認識」、「片面しか見ない、いわば都合の悪い事実には目をつぶる、あるいは自らが酔う言語を口にし、それを他者に押しつける」、「歴史認識そのものが歪みを伴っていた」、「常にある一面だけしか見つめず、そこからしか論を引き出せない」、「独裁者的な独りよがりの体質、そして反時代な言語感覚」。これらは当時の現役首相に向けられたものだが、言葉だけが浮いている感じがあり、少なくとも私の腑には全く落ちない。
 何故だろうと考えるに、要するに説明が足りない、あるいは、具体的・実証的な根拠・理由を説得的に示すことができていないからだ。
 例えば、詳細に論じるのは阿呆らしいので簡潔にするが、④の前には「戦後レジームからの脱却」という語を問題にする部分がある。だが、この言葉・概念の意味について<保守派>に一致がないだろうことは認めるとしても、保阪は特定の意味に理解して、自分が批判しやすいように対象を措定しておいてから「ご都合主義」等と批判する、という論理を採用している。
 これ以外の部分にはまるで又はほとんど、理由・根拠の提示が欠けている。少なくとも私には、いかなる理由・根拠が示されているとも読めない。
 この人は一定の結論を予めもって、歴史家又は歴史評論家らしくもなく、実証的・具体的・詳細な事実の提示を省略したまま、<政治評論家>ぶった文章を書いている。
 ついでながら、批判対象が安倍首相(当時)でなかったら、つまり、歴史・政治等に関する学者・研究者・評論家個人を批判する原稿であれば、保阪はこんな一面的で、実証性を欠く、杜撰な文章を書いただろうか。安倍が反論などしてこないだろうことに甘えて、適当に、感情混じりで、字数を埋めたとしか思えない。
 この保阪正康は諸君!に毎号昭和史に関する連載をしているようなのだが、新聞広告によると、現在発売中の諸君!では、それとは別の原稿をまた書いているらしい(「昭和天皇、秘められし『言語空間』」)。
 佐藤優、竹内洋、秦郁彦ら、読みたい人々の文章が多々あるようだ。しかし、保阪正康の文を掲載しているという一点で、諸君!2月号(文藝春秋、発行人・内田博人)を購入することを逡巡している(タダなら喜んで頂くが)。
 追記-アクセス数は12/27の木曜日に累計19万を超えた。14日間で10000余増えたことになる。

0227/竹内洋による立花隆批判-「レッテル貼り」だけ。

 月刊・諸君!7月号佐藤優=竹内洋「いまなぜ蓑田胸喜なのか-封印された昭和思想」という対談がある。佐藤優は名前はよく知っているがその本を読んだことはない。一方、竹内洋(京都大学教育学部→関西大学文学部)は、精読とまではいかないだろうが何冊か読んだことがあり、この人は<信用できる>と感じている。
 そういう先入観もあるからだろう、蓑田胸喜の評価又は読み方について、竹内洋が(佐藤優も)実質的に立花隆を批判しているのが興味深かった。
 立花隆・天皇と東大(文藝春秋)は簑田のパンフの文章を見て「真正の狂人」と書いているらしい。
 竹内洋はいわく-「たしかに簑田の文章は過剰で過激かもしれないけれど「狂人」とは思えませんね。だったらアジビラ作成者やアジ演説者はなべて「狂人」となります」。
 立花隆は上の本で蓑田を「精神障害者」と「断定」して「非常に低レベルの知識人であると断じている」らしい(竹内による)。
 竹内洋はいわく-「理論の方向はたしかに問題があるかもしれませんが、彼の知的水準はかなり高い」。
 これに佐藤優も応援して言う-「立花さんのように蓑田を「狂人」としてしまうと、すべての議論はそこで終わってしまう
」。
 
竹内洋が重ねていわく-「立花さんのやっていることは、蓑田はとんでもない奴だと言っているだけです。それだけでは、蓑田と蓑田的なるものにレッテルを貼って封印するだけになってしまう」。
 最後に、立花隆は蓑田の終戦直後の「自殺」は「精神がおかしくなったからだという書き方をしている」らしい(竹内による)。
 竹内洋はいわく-「私が思うに彼は縊死するかたちで責任を取ったんだと思います」(p.133)。
 立花隆・天皇と東大は文藝春秋に連載中に一部は読んだだろうが、本を買う気はないし、読む気もない。
 4/27に書いたが、同氏は
日経BPのサイト内の4/14付けコラムを、「9条を捨てて『普通の国』になろうなどという主張をする人は、ただのオロカモノである」と結んでいる。
 立花隆という人は気にくわない人や論調をかかる簡単な言葉で<切り捨てる>趣味があるようだ。それが進めば、<レッテル貼り>、しかも「精神障害者」・
「狂人」との<レッテル貼り>で済ませることにもなってくるのだろう。
 いずれにせよ、少なくとも近年の立花隆の議論の仕方は正常ではない。竹内洋等を通じて間接的に知ったのみだが、上の本もどうやら、冷静な分析・考察の本ではなさそうだ。
 立花隆なら、こう書いてもきっと許すだろう。-立花隆の大脳の中の知性・理性・論理を掌る脳細胞は、急速に劣化し、腐食してきているのではないか。

0050/丸山真男は職業差別者、まともな政治学者ではない。

 田原総一朗・日本の戦後上-私たちは間違っていたか(講談社、2003)の中で、田原は、60年頃、昔風にいうと「革新」勢力を支持した反政府・反自民の知識人として、「向坂逸郎、丸山真男、清水幾太郎、末川博、田畑忍」の5名を挙げている。そして、これらを含む500人以上の学者・文化人が1957.03には「安保条約再検討声明書」を発表して不平等条約改正等と主張していたのに、この5名は「後に反安保の理論的中軸」になった、という(p.243-4)。田畑忍は土井たか子の「師匠」だ。
 以上の5名の中では丸山真男が最も若そうだが、70年頃はすでに昔の人で、私は彼の本を1冊も20代には読んだことがなかった。
 丸山の指導教授は南原繁らしい。南原-丸山ラインだ。諸君!2007年2月号の「激論」によると、中国社会科学院近代史研究所々長が「若き日の大江(健三郎)氏は丸山真男氏や、その師の南原繁氏の戦争に関する反省の意に大きな影響を受けた、と告白…。このような戦後日本の知識人たちの考え方を、私は評価し尊敬します」といったらしいが(p.42)、彼らの考え方を日本人が「評価し尊敬」できるかは別問題だ。
 丸山真男については、再評価・再検討の本も出ているようだ。竹内洋・丸山真男の時代(中公新書、2005)は、確かな記憶はないが、決して丸山を賛美しておらず、皮肉っぽい見方をしていたのではなかっただろうか。また、そもそも、遅れて読んだ丸山の、「日本ファシズム」の「担い手」はこれこれの職業の人々だったという議論などは、これでも社会科学・政治学・政治思想史なのかと思った。きっと反発する関係者がいるだろうが、適当な「思いつき」を難しい言葉と論理で、さも「高尚ふう」に書いた人にすぎないのでないか。それでも社会的影響力を持ったのは、東京大学(助)教授という肩書、岩波「世界」等の発表媒体によるのだろう。
 もともと昭和戦前の日本を「ファシズム」と規定してよいのか、その意味の問題はある。
 かつて中学・高校の授業で又は歴史の教科書で、第二次大戦は民主主義対ファシズムの闘いだったと習った気がする。だが、「民主主義対ファシズムの闘い」という規定(・理解)の仕方は正しいのだろうか。まず、ソ連が「民主主義」陣営に含められていて、この国の本質を曖昧にし、又は美化すらしているのでないか。次に、日独伊は「ファシズム」というが、そして日本には「天皇制ファシズム」との表現も与えられたが、そのように単純に「ファシズム」と一括りできるのか。後者は無論、「ファシズム」とは何か、日独伊に共通する要素・要因はあったのか、あったとすれば何々か、という疑問に直ちにつながるわけだ。そして、上のような理解は占領期(少なくとも東京裁判「審理」中を含む初期)の米国によるもので、そうした「歴史観」が日本人の頭の中に注入されたように思える。
 こんな難しい問題がそもそもあるのだが、丸山の、「日本ファシズム」の「担い手」論をより正確に書くとこうだ。
 丸山真男の増補版・現代政治の思想と行動(1964)という有名な(らしい)本は所持しているのだが室内での行方不明で別の本から引用するが、この本の中には1947.06の講演をもとにした「日本ファシズムの思想と運動」も収められている。この中で、丸山は日本の「ファシズム運動も…中間層が社会的担い手になっている」と断じ、かつ中間層・「小市民階級」を二つの類型・範疇に分け、前者こそが「ファシズムの社会的基盤」だったと断じた。
 その前者とは、「たとえば、小工業者、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校職員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官」で、「疑似インテリゲンチャ」又は「亜インテリゲンチャ」とも称する。
 一方、「ファシズムの社会的基盤」でなかったとされる後者は「都市におけるサラリーマン階級、いわゆる文化人乃至ジャーナリスト、その他自由知識職業者(教授とか弁護士とか)及び学生層」で、「本来のインテリゲンチャ」とも称する。
 一瞬だけは真面目に言っているようにも感じるが、ふつうに読めば、上の如き職業・階層の二分と前者のみの悪玉視は、端的に言って<職業差別>ではないか。むろん自分の職業・自由知識職業者は除外だ。これは学問ではない。酒飲みの雑談、しかも質の悪いレベルのものだ。何故こんな男が多少は尊敬されてきたのか、馬鹿馬鹿しい思いがする。

ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
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  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
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  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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