秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

立憲会議

2214/R・パイプス・ロシア革命第12章第8節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 ----
 第8節・立憲会議(憲法制定会議)の解散②。
 (9)ボルシェヴィキは、単純な戦術をとった。
 実質的には立憲会議の正統性を否定する決議によって、会議に対決しようとする。
 ほとんど確実にそれがうまく行かなければ、退出する。そして、正式には解体することなく、立憲会議がそれ以上議事を進めるのを不可能にする。
 クロンシュタット選出のボルシェヴィキ軍人、F・F・ラスコルニコフ(Raskolnikov)は、この戦術に従って、動議を提出した。
 「勤労被搾取大衆の権利の宣言」と呼ばれたが、1789年の先例とは違って、権利よりも義務について多くを語るものだった。
 ボルシェヴィキが普遍的な労働の義務(obligation)を提示したのは、これだった。
 ロシアは「ソヴェトの共和国」だと宣言される。また、ボルシェヴィキがそれまでに通過させた多数の措置があらためて確認される。とりわけ、土地に関する布令、生産に対する労働者による統制、銀行の国有化。
 立憲会議に求められた重大な条項は、その立法(legislate)する権限を放棄することだった。-この権能のためにこそ、立憲会議は選出されていたのだが。
 こういう文章だ。「立憲会議は、社会主義にもとづく社会の再組織化のための基礎的な原理(fundamental base)を一般的に策定することに、その任務が限定されることを、承認する」。
 立憲会議は、ソヴナルコムが以前に発した全ての布令類を採択し、それらの効力を延長させるものとされた。(125)
 (10)ラスコルニコフの動議は、136対237で却下された。
 この票決が示すのは、ボルシェヴィキ代議員の全員が、そして彼らだけが賛成し、左翼エスエルは保留したと見られることだ。
 この時点でボルシェヴィキ議員団は、会議は「反革命者たち」に支配されていると宣告し、退出した。
 左翼エスエル代議員たちは、当分の間は座席にとどまっていた。//
 (11)レーニンは、午後10時までは彼の「政府席」にいたが、そのときに彼も退出した。
 彼は、いかなる正統性の外装も与えないように、会議に対して発言をしなかった。
 ボルシェヴィキ中央委員会がタウリダ宮の別の部屋で開かれ、立憲会議を解散する決議が採択された。
 しかしながら、左翼エスエルに敬意を表して、レーニンは、タウリダ宮護衛兵に対して、暴力を行使しないよう指令した。
 タウリダ宮から離れようとする代議員たちは全員が立ち去らされ、戻ってくるのを許されなかった。(126)
 午前2時、状況が統制されていることに満足して、レーニンはスモルニュイに帰った。//
 (12)ボルシェヴィキが立ち去ったあと、タウリダ宮には際限のない発言が飛び交った。それらを中断させたのはしばしば護衛兵たちで、彼らは、バルコニーから降りてきて、ボルシェヴィキが空にした座席を占めていた。
 彼ら護衛兵の多くは、酔っ払っていた。
 何人かの兵士たちは、発言者に銃砲の照準を定めて愉しんでいた。
 午前2時30分、左翼エスエルが退出した。そのときに、安全を保つ責任がある人民委員のP・E・ドゥィベンコは、護衛兵の指揮官である海兵でアナキストのA・G・ジェレズニャコフ(Zhelezniakov)に、会議を閉鎖(close)するよう命令した。
 午前4時少し過ぎ、議長のV・チェルノフが土地の私的所有権の廃棄を宣言しているとき、ジェレズニャコフは舞台の上に昇って、彼の背中を軽く叩いた。(*)
 つづく光景は、議事録につぎのように記録されている。
 「海兵、『護衛兵が疲れているので、今ここにいる者はみな会議ホールを去らなければならない、と指令されました』。
 議長、『どんな指令? 誰からの?』
 海兵、『私はタウリダ宮護衛兵の指揮官です。人民委員から指令を受けました』。
 議長、『立憲会議代議員たちも疲れている。だが、疲労があるからといって、ロシアの全てが待っている法を我々が宣言するのを、中断することはできない』。
 (騒がしい声。『もういい、もういい!』)
 議長、『立憲会議は、実力行使の脅迫のもとでのみ解散することができる』。
 (騒音。)
 議長、『貴方たちは宣言する』。
 (騒がしい声。『チェルノフ、降りろ!』)
 海兵、『会議ホールからただちに立ち退く(vocate)よう、要請します』。」(**)
 (13)このようなやり取りが行われている間に、多数のボルシェヴィキ兵団が群をなして、きわめて威嚇的に、会議ホールに入ってきた。
 チェルノフは何とか、もう20分間、会議を続行しつづけた。そして、その日(1月6日)の午後5時までの延会(adjourn)を宣言した。
 しかし、会議は二度と開かれなかった。午前中にスヴェルドロフが、ボルシェヴィキが提案した立憲会議を解散させる決議を、CEC〔ソヴェト中央執行委員会〕に採択させたからだった。(127)
 その日の<プラウダ>は、つぎの大きな見出しつきで発行された。
 「銀行家、資本家、そして地主、カレーディンとドゥトフ一派、アメリカ・ドルの奴隷たち、裏切り者たち-右翼社会革命党-が、立憲会議で自分たちとその主人-人民の敵-のために全ての権力を要求する。
 土地、平和、(労働者による)統制という人民の要求に口先だけで好意を示しつつ、しかし、彼らは実際には、社会主義権力と革命の首の周りを、縄で縛ろうとしている。
 しかし、労働者、農民、兵士たちは、社会主義の最も邪悪な敵がつくウソの罠に落ち入りはしない。
 社会主義革命と社会主義ソヴェト共和国の名のもとに、彼らは公然たるまたは隠然たる殺し屋どもを全て一掃するだろう。」(128)//
 (14)ボルシェヴィキは従前から、ロシアの民主主義勢力を「資本家」、「地主」および「反革命者」と結びつけてきた。だが、この見出しで、彼らは初めて、外国資本とも連結させた。
 (15)ボルシェヴィキは2日後に彼らの対抗集会を開き、「第三回ソヴェト大会」との名称を付けた。
 ボルシェヴィキと左翼エスエルで94パーセントの議席を占めたのだから、この名称に反対することのできる者はいなかっただろう。(129) この割合は、立憲会議選挙の結果で判断すれば、しかるべき資格者数よりも3倍の人数にあたる。
 残り僅かは、左翼反対派に割り当てた。-悪態をついて馬鹿にするにはちょうどよい数だった。
 その会議は予定通りに、政府代理人が提出した全ての議案を採択した。その中には、「権利の宣言」もあった。
 ロシアは、「ロシア・ソヴェト社会主義共和国」として知られる、「ソヴェト共和国連邦」になった。この名称は1924年まで維持されたが、その年に「ソヴェト社会主義共和国同盟」と改称された。
 会議はソヴナルコムを国の正統な政府として承認し、その名前から「臨時の」という形容詞を削除した。
 また、普遍的な労働の義務という基本的考え方(principle)も是認した。//
 ------------
 (125) Dekrety, I, p.321-3.
 (126) Lenin, Khronika, V, p.180-1.; Malcevskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.217.
 (*) ジェレズニャコフは前年にPeter Dunomovo 邸を占拠し、この人物の逮捕が1917年6月のクロンシュタット海兵たちの反乱を引き起こしていた。
 Revoliutiia, III, p.108.
 (**) I. S. Malchevskii, Vserossiiskoe Uchreditel'noe Sobranie(Moscow-Leningrad, 1930).
 ジェレズニャコフは翌年に、赤軍と戦闘をして、殺された。
 (127) Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.384-6.
 (128) Pravda, No. 4/232(1918年1月6日/19日), p.1.
 (129) NV, No. 7(1918年1月12日/25日), p.3. in Bunyan & Fisher, Bolshevik Revolution, p.389.
 ----
 第8節、終わり。次節の目次上の表題は、<影響と意義>。

2213/R・パイプス・ロシア革命第12章第8節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 ----
 第8節・立憲会議(憲法制定会議)の解散①。
 (1)1918年1月5日、金曜日。ペトログラード、そしてタウリダ宮周辺は、野戦場のようだった。
 社会革命党のM・ヴィスニャク(Mark Vishniak)は、代議員たちで行列してタウリダ宮に向かって歩いているとき、つぎのような光景を目にした。//
 「我々は、正午に、進み始めた。およそ数百人が広がった列をなして、通りの真ん中を歩いた。
 代議員たちに同行していたのは、報道者、友人、妻たちで、タウリダ宮への入館券をあらかじめ得ていた。
 タウリダ宮までの距離は、1キロメートルを超えていなかった。
 近づくほどに、見ることのできる歩行者の数は減り、兵士、つまり赤軍および海兵たちが増えた。
 彼らは、完全武装をしていた。肩に銃砲を結びつけ、爆弾、手榴弾、弾丸を持っていた。タウリダ宮の正面と両側の至る所に配置されるか、入り込んでいた。
 舗道を歩いていた一人の通りすがりの者は、見慣れない行列に遭遇した。そしてほとんど叫び声が上げられることなく、むしろしばしば同情的な目で迎えられ、急いで進んだ。
 誰が何処に行っているのかと尋ねたかったので武装兵士たちが接近したが、元の停留地に戻った…。」//
 「タウリダ宮の前の広場全体が、大砲、機銃および戦場用炊事車両でいっぱいになっていた。
 機銃用弾丸装着ベルトが、乱雑に積み上げられていた。
 タウリダ宮の全ての入口は閉鎖されていたが、最も左端にくぐり門があり、人々はそこを通って入館させられた。
 武装監視兵たちは、入場を許す前に注意深く顔を調べた。背後を探索し、背中に触った。…。
 左扉から入った後で、もっと厳しい検査があった。…。
 監視兵は代議員たちに、前室とカテリーヌ大広間を通って会議場に行くように指示した。
 至るところに武装した兵士たちがいて、そのほとんどは海兵かラトヴィア人だった。
 彼らは街頭の兵士たちと同様に武装していた。銃砲、手榴弾、軍隊袋、回転式連発銃。
 武装兵士や武器の数多さやガチャガチャという金属音のために、防衛するか攻撃するかをしようと準備している野戦地帯のごとき印象があった。」(116)//
 (2)レーニンが率いるボルシェヴィキ代議員団は、午後1時にタウリダ宮に着いた。
 レーニンは、状況が展開するのに応じてすみやかに決定を下せるよう、近くに居るのを望んだ。
 会議の間は「政府席」と呼ばれた場所に座って、つづく9時間のボルシェヴィキの行動を指揮した。
 ボンチ=ブリュエヴィチは、つぎのように彼を思い出す。
 「彼は緊張して、死体のように蒼白だった。…。
 顔と首は極端に青白かったが、大きくすら見え、目は拡がって、揺らがない火のごとく燃えていた。」(117)
 じつにそのときが、ボルシェヴィキの独裁が運命の岐路に立つ、決定的な瞬間だった。
 (3)会議は昼頃に始まった。しかし、レーニンは、ウリツキを通して、外で起きていることが分かるまでは手続を開始するのを許さなかった。外のペトログラードの街頭では、ボルシェヴィキの命令に果敢に抵抗して、午前中ずっと、大規模の示威行動が行われていたのだ。
 示威行進の組織者は、「平和的」行動であって対立は避けるべきだと訴えの中で強調していた。(118)
 しかし、レーニンは、大衆が抵抗する最初の兆候を示した場合に彼の実力部隊を発動させないとは、何ら保証しなかった。
 示威行動者たちが彼の実力部隊を圧倒する場合に備えての非常時対応策を、レーニンは用意していたに違いなかった。
 社会革命党のソコロフは、かりにそういう事態になれば、レーニンは立憲会議と妥協するつもりだろうと、考えている。(119)
 (4)立憲会議防衛同盟は参加者たちに、ペトログラードのいくつかの場所に9時までに集合するよう指令していた。そこから、中央集会場であるChamp de Mars〔シャン・ド・マルス公園〕へと進む。
 正午に、一団となって動きはじめることになっていた。「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかける旗のもとで、Panteleimon 通りに沿って。その後すぐに右に曲がってKirochnaia 通りに入り、つぎに左へPotemkin 通りをLiteinyui Prospectへと、さらに右に曲がってShpalernaia 通りを進む。そこはタウリダ宮正面に通じている。
 タウリダ宮を過ぎたあとで、右に曲がってタウリダ通りに入り、ネフスキー(Nevskii)へと向かう。ここで解散することになっていた。
 (5)午前中にペトログラード全域から集まった群衆は、相当のものだった(ある者は5万人ほどだと計算した)。しかし、その規模も、その熱狂感も、組織者が期待したほどではなかった。
 兵士たちは兵舎にとどまり、出てきた労働者たちは、予期したよりも少ない数だった。その結果として、参加者は主として、学生、公務員およびその他の知識人たちになった。彼らはみな、意気消沈していた。
 ボルシェヴィキの脅かしと実力部隊の顕示が、影響を与えていた。(120)//
 (6)示威行動組織者が広く喧伝していたため、ポドヴォイスキーは、隊列がとろうとしているルートを知っていた。そして、部下たちをその進行を妨げるよう配置した。
 弾丸を詰めた銃砲や機銃で武装したその兵団の先遣部隊は、各通りに、そしてPanteleimon 通りがLiteinyui に入る地点の屋根上に、配置についた。
 示威行進の隊列の先頭がこの交差点に近づいたとき、叫び声が上がった。
 「立憲会議、万歳!」
 このとき、兵団の火が噴いた。
 何人かが倒れ、何人かが遮蔽物を目指して走った。
 しかし、示威行進参加者は隊列を再び整えて、歩きつづけた。
 Kirochnaia 通りに接近するのをもっと数が多い兵団が妨害したため、示威行進はLiteinyui 通り沿いに進んだ。
 そのとき、Shpalernaia 通りへとまさに曲がろうとしていたときに、銃火による一斉射撃が始まった。そのの中に彼らは嵌まり込んだ。
 ここで混乱が発生した。
 ボルシェヴィキの兵士たちは示威行動者の後を追って、旗を奪い取り、それを細切れに引きちぎって、かがり火の中に放り込んだ。
 ペトログラードの別の箇所の隊列は、ほとんどが労働者たちだったが、やはり銃火を浴びた。
 もっと小さないくつかの示威行進も、同じ運命に遭った。(121)//
 (7)1917年の二月に、ロシアの兵士たちは公共的集会の禁止を無視する群衆を武力で解散させた。その運命的な日以降、ロシアの兵団は非武装の示威行進者に対して発砲することはなかった。
 暴力(violence)が暴動と反乱に火をつけ、それが革命の始まりになったのだった。
 それ以前には、血の日曜日と1905年に、暴力が用いられた。
 このような経験からして、〔1918年1月の〕示威行動の組織者が、そのような大量殺戮につながる暴力は再び全国民的な抗議を招来するだろうと想定したとしても、非合理ではなかった。
 犠牲となった死者たち-ある者たちによれば8名、別の者によれば21名(122)-は、血の日曜日の記念日の1月9日に、厳粛な葬儀を受け、プレオブラジェンスキ墓地の、その時代の犠牲者たちの傍らに埋葬された。
 労働者代議員たちが花輪を運んだ。そのうちの一つには、こう書かれていた。
 「スモルニュイ独裁者による専横の犠牲者たちのために」。(123)
 ゴールキは怒りの論説を書いて、血の日曜日の暴力になぞらえた。(*)
 (8)示威行進者は解散された、市の街路はボルシェヴィキの統制下にある-これらは午後4時頃に起きた-、という知らせが届くやいなや、レーニンは、会議の開会を命じた。
 選出された代議員のうち僅かに過半数の463名が在席していたが、そのうち社会革命党259名、ボルシェヴィキ136名、そして左翼エスエルが40名だった。(+)
 開会のベルが鳴ったときから、ボルシェヴィキ代議員と武装護衛兵たちは、非ボルシェヴィキの発言者たちに向かって野次り、ブーイングを浴びせた。
 通路とバルコニーを埋めていた武装兵の多くは、無理して騒ぎ立てる必要はなかった。食事棚に置かれていたウォッカを、勝手気侭に飲んでいたからだ。
 この立憲会議の議事録は、つぎのような光景から始まる。
 「社会革命党の立憲会議議員団の一人が、その座席から叫ぶ。
 『同志たち、もう午後4時だ。
 最長老の議員が立憲会議を開会するよう提案する。』
 (左側から大きな騒ぎ声、中央と右側から拍手、…。聴取不能。…。
 左側から口笛が続き、右側が拍手する。)
 立憲会議の最長老議員ミハイロフ(Mikhailov)、(壇上に)昇る。//
 ミハイロフ、鐘を鳴らす。
 (左側に騒ぎ声。『無権限者は、どけ!』
 騒ぎ声と口笛が継続し、右側からは拍手。)//
 ミハイロフ、『休憩(intermission)を宣告する』。」(124)
 --------------
 (116) M. V. Vishniak, Vserossiiskoe Uchredotel'noe Sobraine(Paris, 1932), p.99-p.100.
 (117) V. D. Bonch-Bruevich, Na boevykh postakh feural'skoi i oktiabr'skoi revoliutsii(Moscow, 1930), p.256.
 (118) DN, No. 2/247(1918年1月4日), p.2.
 (119) Sokolov in ARR, XIII, p.66.
 (120) A. S. Izgoev in ARR, X, p.24-p.25.; Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.340.
 (121) DN, No. 4(1918年1月7日), p.2.の叙述。Griaduiushchi den', No. 30(1918年1月6日), p.4.; Pravda, No. 5(1918年1月6日/19日), p.2.
 (122) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2. および、Sheibert, Lenin , p.19.
 (123) NZh, No. 7/23(1918年1月11日/24日), p.2.
 (*) NZh, No. 6/220(1918年1月9日/22日), p.1.
 ボルシェヴィキは、反発を怖れて、射撃に関する調査を命令した。
 リトアニア人連隊の兵士たちが示威行進者に発砲した、それはそのことで立憲会議を「妨害者」から防衛すると信じたからだった、ということが明らかになった(NZh, No. 15/229, 1918年2月3日、p.11)。
 調査委員会は、報告書を公刊することなく、1月末には仕事を停止した。
 (+) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.339.
 出席していた代議員の正確な人数は、知られていない。
 同上のp.340では410名とされているようだ。 
 (124) I. S. Marchevskii, ed., Vserossiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Moscow, 1930), p.3.
 ----
 第8節②へとつづく。

2212/R・パイプス・ロシア革命第12章第7節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 ----
 第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定②。
 (9)一部の社会主義者たちは、それでは十分でない、と考えた。
 その意見は社会革命党の下部から上がってきたもので、帝制に対抗するために用いた方法-テロルと街頭暴力-だけが民主主義を回復させるだろうと感じていた。
 そうした意見の代表者のF・M・オニプコ(Fedor Mikhailovich Onipko)は、スタヴロポル(Stavropol)選出の社会革命党代議員で、立憲会議防衛同盟執行委員会の一員だった。
 オニプコは、経験のある共謀者に助けられて、スモルニュイに入り込み、役人や運転手を偽装した4人の活動家をそこに撒いた。
 レーニンの動きを追跡し、妹を訪れるために頻繁にスモルニュイから抜け出していることに気づいて、その妹の家に用務員を装った工作員を置いた。
 オニプコは、レーニンを、そしてトロツキーを、殺したかった。
 行動は、クリスマスの日に予定された。
 しかし、オニプコが承認を求めた社会革命党中央委員会は、そのような行動を大目に見るのを断固として拒絶した。
 オニプコは、こう言われた。かりに社会革命党がレーニンとトロツキーを殺戮すれば、労働者たちのリンチに遭い、革命の敵だけが有利になるだろう、と。
 彼は、テロリスト集団を即座に解散させるよう命じられた。(108)
 オニプコは従った。しかし、社会革命党とは関係をもたない何人かの共謀者たちは(中には、ケレンスキーの親しい同僚だったネクラソフ(Nekrasov)もいた)、1月1日、レーニンの生命を狙って結果的には不ざまな試みを行った。
 その暗殺の試みは、レーニンと一緒に乗車していた、スイス急進派のF・プラッテン(Fritz Platten)に軽傷を負わせただけだった。(109)
 レーニンはこの事件のあと、スモルニュイからあえて外出する際にはいつでも、回転式連発銃を携帯した。
 (10)オニプコはつぎに、予期されるボルシェヴィキの立憲会議襲撃に対抗する、武装抵抗隊を組織しようとした。
 立憲会議防衛同盟とともに練り上げた計画は、親ボルシェヴィキ兵団を威嚇し、立憲会議が解散されないよう確実に守るために、1月5日にタウリダ宮の正面で、大衆的な武装示威行動を行うことを呼びかける、というものだった。
 彼は何とかして立派な後援を確保することができた。
 プレオブラジェンスキー(Preobrazhenskii)、ゼミョノフスキー(semenovskii)、およびイズマイロフスキー(Izmailovskii)の各護衛連隊で、およそ1万人の兵士たちが、武器を持って行進し、銃砲を放たれれば戦闘すると自発的に志願した。
 主としてはオブホフ(Obukhov)工場施設や国家印刷局からのおよそ2000人の労働者も、それに加わることに合意した。//
 (11)この計画を実施に移す前に、軍事委員会は社会革命党中央委員会に戻って、権威づけを求めた。
 同党中央委員会は、再び拒絶した。
 中央委員会はその消極的な姿勢を曖昧な説明でもって正当化した。しかし、結局は、最終的に分析するならば、理由は恐怖にあった。
 誰もかつて、議論はしたが、臨時政府を防衛しなかった。
 ボルシェヴィズムは大衆の病いなのであって、治癒するには時間がかかる。
 危険な「冒険」をしている余裕はない。(110)//
 (12)社会革命党中央委員会は、1月5日に平和的な示威行動を行うことを再確認した。諸兵団は歓迎されるが、非武装で参加しなければならない。
 同委員会は、新しい血の日曜日を惹起する怖れからボルシェヴィキが示威行動参加者に対してあえて銃火を放つことはないだろうと予測した。
 しかしながら、オニプコとその仲間たちが兵舎に戻って新しい知らせを伝え、武装しないで参加するよう兵士たちに求めたとき、オニプコたちは嘲弄された。//
 「兵士たちは信用できないで、こう反応した。
 『同志よ、我々を愚弄しているのか?
 貴方たちは示威行動に参加することを求め、かつ武器を持って来ないように言っている。
 では、ボルシェヴィキは?
 彼らは小さな子どもたちか?
 ボルシェヴィキはきっと、非武装の民衆に火を放つだろう。
 そして、我々は? 我々は口を開けて、頭が彼らの目標になるようにすると思っているのか?
 そうでなければ、ウサギのように早く走って逃げよと、命令するつもりか?』」(111)
 兵士たちは、素手でボルシェヴィキのライフル銃や機銃砲と対決するのを拒み、1月5日には兵舎の外で日向に座っている、と決定した。
 この活動に勢いを得たボルシェヴィキは、機会を逃さず、戦闘をする決定的な日の準備をした。
 レーニンが、個人的な指揮を執った。
 (13)最初の任務は、軍連隊に打ち勝つか、少なくとも中立化させることだった。
 兵舎に派遣されたボルシェヴィキの煽動者は、立憲会議には人気があるとを考慮して、あえて直接にそれを攻撃しようとはしなかった。
 その代わりにボルシェヴィキ煽動家たちは、「反革命の者たち」はソヴェトを廃絶するために立憲会議を利用しようとしている、と説いた。
 彼らは、このような論拠でもって、フィンランド歩兵連隊に対して「全ての権力を立憲会議へ」とのスローガンを拒否するよう、そして立憲会議がソヴェトと緊密に協力する場合にのみ立憲会議を支持することに同意するよう、説得した。
 ヴォルィーニ(Volhynian)連隊とリトアニア連隊は、類似の決議を採択した。(112)
 これが、ボルシェヴィキが達成した限度だった。
 どの規模のどの軍団も、立憲会議を「反革命」だと非難しなかっただろうと思われる。
 そのため、ボルシェヴィキは、急いで組織された赤衛軍と海兵たちの軍団に依存しなければならなかった。
 しかし、レーニンはロシア人を信頼せず、ラトヴィア人を取り込むよう、指令を発した。
 彼は、「<muzhik>〔農民〕は何かが起これば動揺する可能性がある」と語った。(113)
 このことは、ボルシェヴィキの側に立ったラトヴィア人ライフル銃部隊が革命に大きく関与したことを、さらに示した。//
 (14)1月4日、レーニンは、ペトログラードで十月のクーを実行したボルシェヴィキ軍事組織の前議長であるN・I・ポドヴォイスキー(Podvoiskii)を、非常軍事スタッフに任命した。(114)
 ポドヴォイスキーはペトログラードに再び戒厳令を施行し、公共的集会を禁止した。
 この趣旨の宣告文は、市内じゅうに貼りめぐらされた。
 ウリツキは1月5日の<プラウダ(Pravda)>で、タウリダ宮周辺での集会は必要とあれば実力でもって解散させる、と発表した。//
 (15)ボルシェヴィキはまた、工業の重要地点に煽動活動家を派遣した。
 そこで彼らは、敵意と無理解で迎えられた。
 最大の工場群-プティロフ、オブホフ、バルティック、ネフスキ造船所、およびレスナー-の労働者たちは、立憲会議防衛同盟の請願書に署名をしていた。そして、彼らの多数が共感をもつボルシェヴィキがなぜ、今や立憲会議に対する反対に回ったのかを理解できなかった。(*)//
 (16)決定的な日が接近するにつれて、ボルシェヴィキはプレスに、警告しかつ脅かす、定期的なドラム音を鳴らさせ続けた。
 1月3日、ボルシェヴィキは一般公衆に、1月5日に労働者は工場で、兵士は兵舎でじっとしている見込みだ、と知らせた。
 同じ日にウリツキは、ペトログラードにはケレンスキーとサヴィンコフが組織する反革命クーの危険がある、と発表した。この二人は、その目的でペトログラードに秘密裡に戻ってきている、とした。(*)(115)
 <プラウダ>の一面見出しは、こうだった。
 「本日、首都のハイエナと雇い人たちが、ソヴェトの手から権力を奪おうとする」。//
 -------------
 (108) B. F. Solokov in ARR, XIII(Berlin, 1924), p.48.; Fraiman, Forpost, p.201.
 (109) V. D. Bonch-Bruevich, Tri pokusheniia na V. I. Lenina(Moscow, 1930), p.3-p.77.
 (110) Solokov in ARR, XIII, p.50, p.60-p.61.
 (111) 同上, p.61.
 (112) Pravda, No.3/230(1918年1月5日/18日), p.4.
 (113) トロツキー, in 同上, No.91(1924年4月20日), p.3.
 (114) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobranie, p.334-5; Fraiman, Forpost, p.204.
 (*) E. Ignatov, in PR, No.5/76(1928年), p.37. この著者は、これら労働者の署名は捏造されたもので、証明力をもたない、と主張する。
 (*) ケレンスキーは実際、このときにペトログラードにいた。しかし、彼が反ソヴェト実力部隊を組織しようとした証拠はない。
 (115) Pravda, No. 2/229(1918年1月4日/17日), p.1, p.3.
 ----
 第7節、終わり。第8節の目次上の表題は、<立憲会議の解散>。

2210/R・パイプス・ロシア革命第12章第7節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 ----
 第7節・立憲会議から抜け出す(rid of)決定①。
 (1)嫌がらせと威嚇では、立憲会議に関して何をすべきかという悩ましい問題を解消することはできなかった。
 ある者は、実力行使に訴えることを望んだ。中央委員会委員のV・ヴォロダルスキ(Volodarskii)は立憲会議選挙の一週間前に、こう言った。-「とりわけロシアの民衆は議会病(- cretinism)に罹っていない」。そして彼は、立憲会議は解散されるべきかもしれない、と示唆した。(101)
 ニコライ・ブハーリンは、自分には別の考えがあると思った。
 11月29日、ブハーリンは中央委員会に対して、カデットは立憲会議から除外されるべきだ、そして、ボルシェヴィキと左翼エスエルの代議員たちは革命議会(Revolitionary Convention)設立を宣言する、と提案した。その際に参考にしていたのは1792年のフランス議会で、これは立法会議(Legistrative Assemly)に代わるものだった。
 「かりに敵対派たちが開会するならば、逮捕する」、と彼は説明した。
 スターリンは、この提案を、実行不可能だという理由で、軽くあしらった。(102)//
 (2)レーニンには、別の解決策があった。
 立憲会議を招集させて、左翼エスエルを宥める。そして、より従順な機関を獲得すべく、その党員たちを操作する。
 これは「リコール(解職請求)」、「本当(genuine)の民主主義の基本的で最も重要な条件」に訴えることによって、行われることとなる。(103)
 こうすることで、望ましくない代議員を選出した選挙区では、リコールするよう、そしてボルシェヴィキと左翼エスエルに置き代えるよう、催促されることとなる。
 しかし、これは良くても遅い手続であり、これか実行されている間に、立憲会議は、敵対的革命家たちの全ての提案を通過させるだろう。//
 (3)レーニンはこの問題について、12月12日に最終的に決意を固めた。左翼エスエルと協定に達した直後のことだった。
 レーニンの決定は、「立憲会議に関するテーゼ」という表題で、翌日の<Pravda>に掲載された。(104)
 これは、立憲会議に対する死刑判決だった。
 レーニンの議論の要点は、政党構成に生じた変化、とくに社会革命党の分裂、階級構造の転位、および「反革命」の勃発、だった。これら全てが、人民の意志を表明するものとしては選挙を無効のものにしている、とした。//
 「事態の進行と革命における階級戦争の展開は、『全ての権力を立憲会議へ』というスローガンを、…実際にはカデットとカレーディン一派、およびその支援者たちのスローガンに変える、という状況をもたらした。
 このスローガンが実際にはソヴェト権力を除去するための闘争を意味し、また立憲会議がソヴェト権力から分離されたものになれば、立憲会議は不可避的に政治的な死を宣告されることになる、ということが、ますます明瞭になっている。
 立憲会議に関する問題を形式的かつ法的な観点から考察しようとする試みは全て、直接的にであれ間接的にであれ、…プロレタリアートの根本教条に対する裏切りであり、ブルジョアの観点へと移行することを意味する。」<+++>//
 この議論には、理にかなったものは何もなかった。
 立憲会議選挙は10月26日の前にではなく、11月の後半に実施された。-わずか17日前のことだ。12月1日にレーニンが人民の意思の「完璧な」反映だと評価したものを無きにするものは〔12月12日までの〕その間には何も発生していなかった。
 立憲会議の第一の勝利者はカデットではなく、また確実にコサック将軍アレクセイ・カレーディンの支持者たちではなかった。カレーディンは軍事力によってボルシェヴィキ体制を覆そうとしていたが、社会革命党はそうではなかった。
 レーニンがそれを支持して語ろうとする「全人民」は、多数の民衆が投票所に出かけることによって、立憲会議は反ソヴェトだとは考えておらず、希望と期待をもって立憲会議を見つめている、ということを示した。
 そして、立憲会議はソヴェトによる統治に反対するものだとの主張について言えば、権力を掌握するわずか7週間前に、同じボルシェヴィキがソヴェトだけが立憲会議の招集を保証すると強く主張していたことを忘れることができたのは、記憶力がきわめて乏しい者たちだけだっただろう。
 だがここでは、いつものように、レーニンの議論は論定であって説得しようとするものではなかった。この論考の最後の辺りに出てくる鍵となる語句は、立憲会議をこれ以上支持することは裏切りに等しい、というものだ。//
 (4)レーニンはさらにこう書いた。立憲会議は代議員たちが「リコール」に従う場合にのみ-つまり、その構成が政府によって恣意的に変更されることに同意する場合にのみ-、開催されることができる。そして、立憲会議がさらに、無条件で「ソヴェト権力」を-つまり、ボルシェヴィキの独裁を-承認する場合にのみ。
 「これらの条件を度外視するならば、立憲会議に関係している危機は、革命的方法によってしか解決することができない。その革命的方法とは、ソヴェト権力の側による、最も活力があり、急速でかつ堅固な、決定的な方法だ。…。
 ソヴェト権力の手を縛ろうとする全ての試みは、反革命の共謀者であることを意味するだろう。<+++>
 (5)ボルシェヴィキは、このような趣旨の条件のもとで、少なくとも400名の代議員が現れた場合に、立憲会議が1918年1月5日/18日に開催されることに同意した。
 同時にボルシェヴィキは、その3日後(1月8日/21日)に第三回ソヴェト大会を招集するよう、指令を発した。
 (6)ボルシェヴィキは、騒々しいプロパガンダの運動を開始した。その主題について、ジノヴィエフは12月22日のCEC に対する演説で、こう述べた。
 「『全ての権力を立憲会議へ』という有名なスローガンのもとで立憲会議を招集するという口実の裏に、『ソヴェトよ、くたばれ』という重要なスローガンが隠されている、ということを我々は十分に知っている。」(105)
 ボルシェヴィキは、1918年1月3日にCECにこの提議を採択させて、公式のものとした。(106)//
 (7)立憲会議支持者たちは、力を再結集していた。
 彼らは、あらかじめ通告されていた。
 しかし、ボルシェヴィキの脅かしに対抗しようとする際、嘆かわしい、実に致命的な不利な条件(handicap)に置かれていた。
 彼らの目からすると、ボルシェヴィキは民主主義を破壊し、統治する権利を喪失していた。
 しかし、実力の行使によってではなく世論の圧力によって、ボルシェヴィキは排除されなければならなかった。なぜなら、社会主義諸党間の仲間うちの対立で利益を得るのは、ただ「反革命」だろうからだ。
 12月までに、ペトログラードにいる者たちは、ドン地域では将軍たちが兵を集めていることを知った。その目的は革命を転覆させ、全ての社会主義者を逮捕して、おそらくはリンチを加えることに他ならなかっただろう。
 これは彼ら社会主義者にとっては、ボルシェヴィキを選ぶよりもはるかに悪いことだった。ボルシェヴィキは純粋で、見当違いでなければ、革命家だった。確かに、衝動的すぎで、権力を欲しがりすぎで、乱暴でありすぎた。しかし、同じ方向への努力をする点では依然として「同志」だった。
 また、ボルシェヴィキには大衆の支持があることを無視できなかった。
 民主主義的左翼は、当時およびその後10年間、ボルシェヴィキは遅かれ早かれ、独りではロシアを統治できないことに気づくだろう、と確信していた。
 このことに彼らがいったん気づいて社会主義者たちと権力を共有するよう誘うならば、ロシアは再び民主主義に向かう進歩を取り戻すだろう。
 このような政治的成熟には時間がかかるだろう。しかし、そうなるに違いない。
 ボルシェヴィキに対する抵抗は、このような理由で、平和的なプロパガンダや煽動行為に限定されなければならなかった。
 ボルシェヴィキがおそらくは本当の反革命家たちになる可能性を想定したのは、主として旧世代の、数人の左翼知識人たちだけだった。
 社会革命党とメンシェヴィキの指導者たちは、ボルシェヴィキは隊列を組む異端の同志だと見なすことをやめなかった。
 彼らは自信をもって、事態が変わるときを待った。
 そうしている間、ボルシェヴィキは自分たちが外部から攻撃されるときはいつでも、彼らの側に寄って頼みとすることができた。//
 (8)立憲会議防衛同盟は、自分たちのプロパガンダ運動を開始した。
 数十万の新聞と冊子を印刷し、配布して、なぜ立憲会議は反ソヴェトではないのか、なぜ立憲会議だけが国の基本法制を策定する権利を持つのか、を説明した。(107)
 また、首都や地方諸都市で示威行動を展開して、「全ての権力を立憲会議へ」と呼びかけた。
 ボルシェヴィキに票を投じた者たちを含む兵士や労働者たちから、立憲会議を擁護する署名を得ようと、兵舎や工場へも活動家を派遣した。
 労働組合やストライキ中の公務員とともにこの活動を組織していた社会革命党とメンシェヴィキは、実証されている大衆的支援はボルシェヴィキが立憲会議に対して実力を行使するのを阻むだろうと、明らかに希望していた。//
 -------------
 (101) Znamenskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.231.
 (102) Protokoly TsK, p.149-p.150.
 (103) Lenin, PSS, XXXV, p.106.
 (104) 同上, p.164-5, p.166.〔=日本語版レーニン全集26巻「憲法制定会議についてのテーゼ」388頁以下〕
 <+++試訳者注記> 日本語版レーニン全集第26巻同上、391-2頁.
 (105) Protokoly TsK, p.175.
 (106) Znamia truda, No.111(1918年1月5/18日), p.3.
 (107) N. Rubinstein, Bol'sheviki i Uchreditel'noe Sobraine(Moscow 1938), p.76.
 ----
 第7節②へとつづく。

2207/R・パイプス・ロシア革命第12章第6節②。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 ----
 第6節・立憲会議〔憲法制定会議〕選挙②。
 (11)選挙結果を厳密に正しく確定することはできない。多くの地方で、諸政党やその分派が、ときには複雑な仕方で、連立を組んでいたからだ。ペトログラードだけでも、19政党が競い合った。
 さらに問題を大きくしているのは、選挙を所管する共産党当局〔政府・ボルシェヴィキ〕が生のデータを持っていて、諸政党や別々の候補者名簿上のグループを「ブルジョア」や「プチ・ブル」という範疇で一括りにしたことだ。
 可能なかぎりで最も正確には、選挙の最終結果(1000票単位)は、つぎのように決定することができる(この頁の表を参照)。(83)
 (12)全く予期しなかったというわけではないが、結果は、レーニンを失望させた。
 社会革命党〔エスエル〕の土地政策を採用して味方につけることを期待した農民たちは、ボルシェヴィキに投票しなかった。のみならず、左翼エスエルにも投票しなかった。
 選挙の有効性を疑問視するためにボルシェヴィキが使った論拠の一つは、社会革命党の分裂が遅すぎたので左翼エスエルに分離した別の投票が行われなかった、ということだった。
 しかし、この論拠には実体が存在しないことは、つぎの数字が明らかに示している。
 いくつかの選挙区(ヴォロネス〔Voronetz〕、ヴィヤトカ〔Viatka〕、およびトボルスク〔Tobolsk〕)では、左翼エスエルと社会革命党主流派は、別々の候補者名簿を立てて争った。
 いずれの選挙区でも、左翼エスエルは顕著な支持を獲得できなかった。総計のうち183万9000票は社会革命党に、そして左翼エスエルにはわずか2万6000票が投じられた。(84)//
 ***〔各1000票単位〕
 ロシア・社会主義諸政党        68.9%
  社会革命党〔エスエル〕   17,943 (40.4%)
  ボルシェヴィキ       10,661 (24.0%)
  メンシェヴィキ        1,144 ( 2.6%)
  左翼エスエル          451 ( 1.0%)
  その他             401 ( 0.9%)
 ロシア・リベラルほか=非社会主義政党  7.5%
  カデツト〔立憲民主党〕    2,088 ( 4.7%)
  その他            1,261 ( 2.8%)
 少数民族諸政党            13.4%
  ウクライナ社会革命党     3,433 ( 7.7%)
  ジョージア・メンシェヴィキ   662 ( 1.5%)
  Mussvat(アゼルバイジャン) 616 ( 1.4%)
  Dashnaktsutium(アルメニア)560 ( 1.3%)
  Alash Orda(カザフスタン)  262 ( 0.6%)
  その他             407 ( 0.9%)
 不明              4,543 10.2%
 ***
 ボルシェヴィキは、立憲会議の総議席715のうち175を、獲得した。
 これは、左翼だと自認する社会革命党代議員と合わせると、30%だ。(*)
 (13)ボルシェヴィキには、最も恐れた反対派政党であるカデット〔立憲民主党〕の強さも不愉快だった。
 カデットは全国票の5パーセント未満しか獲得しなかったけれども、ボルシェヴィキは彼らを最も恐るべき対敵だと見なしていた。
 カデットには、最多数の積極的支援者と新聞紙があった。
 彼らは社会革命党よりもはるかによく組織され、財力をもっていた。
 そして、ボルシェヴィキに対する社会主義対抗派とは違って、仲間意識、共通する社会的理想への奉仕感、および「反革命」とされることの怖れといったものに制約されていなかった。
 カデットは、1917年遅くまで活動し続ける唯一の大きな非社会主義政党として、君主制主義者を含む右翼・中道の有権者を惹き付けそうだった。
 選挙結果を総合的に見るならば、カデットは堤防が決壊したほどの大完敗を喫したわけではない、と実際に結論づけることができるかもしれない。(85)
 だがこれは、表面的な結論だろう。
 全国的な数字は、つぎの重要な政治的事実を覆い隠した。カデツトは、都市部できわめて健闘したのだ。その都市部は、ボルシェヴィキが農村地域での弱さを補うために必要で、かつ来たる内戦では決定的な戦闘地となると彼らが想定していた地域だった。
 ペトログラードとモスクワでは、カデットはボルシェヴィキに次ぐ強さで、前者では26.2パーセント、後者では34.2パーセントの票を獲得した。
 ボルシェヴィキのモスクワでの総数から消滅過程にあった軍隊の票を差し引けば、ボルシェヴィキの45.3パーセントに対して、カデットは総投票数の36.4パーセントを獲得していた。(86)
 さらには、38の州都のうち11都市でカデットはボルシェヴィキを上回り、その他の多くの都市でかなり接近した第二位だった。
 こうしてカデットは、全国的な獲得票数から結論づけるよりもはるかに手強い勢力を代表していた。//
 結果はこのように失望をもたらしたにもかかわらず、ボルシェヴィキには、ある程度の慰めも生じさせた。
 レーニンは、闘争の状態を調査している指揮者とは別に、数字を分析した。-彼は、多数の選挙区を「諸軍隊」と言いすらした。(87)
 そして、国の中心部では自らの党は最善を尽くしたという事実に、安心することができた。国の中心部とはすなわち、大都市、工業地域、および軍隊だ。(88)
 勝利した社会革命党の強さは、黒土(black-earth)地帯およびシベリアによっていた。
 レーニンがのちに観察することになるように、投票数のこの地理的な配分は、赤軍と白軍との間の内戦での前線地域を予兆するものだった。(89)その内戦では、ボルシェヴィキは中心部を制覇し、敵対者たちは辺縁部を支配することになるのだったから。//
 (14)ボルシェヴィキが満足したもう一つの根拠は、兵士と海兵、とくに都市部に駐在している軍団の支持だった。
 この諸兵団には、一つの望みしかなかった。可能なかぎり早く故郷に帰って、土地再配分の分け前を受け取ること。
 全政党の中でボルシェヴィキだけが、即時停戦交渉を開始すると約束していた。それは兵士ちに強く支持されるものだった。
 ペトログラードとモスクワの連隊は、それぞれボルシェヴィキ獲得票のうち71.3パーセントと74.3パーセントを投じていた。
 ペトログラード近くの北西にいる前線兵団もまた、ボルシェヴィキに最多票を与えた。
 反戦争のプロパガンダがさほどは響かなかった遠く離れた前線地域では、そのようにうまくはいかなかった。しかし、それでもなお、記録を利用することのできる4つの野戦軍では、ボルシェヴィキが投票数の56パーセントを獲得していた。(90)
 レーニンは、軍隊のこの支持がいかほどに固いものかについて、幻想を抱いてはいなかった。兵団が故郷に向って出発するときには、その支持は霧散してしまうだろう。
 しかし、当面の間は、軍隊の支援は決定的に重要だった。ボルシェヴィキ兵団は、かりに少数しかいなくとも、民主主義反対派を威嚇する実力を有していた。
 選挙結果を分析したレーニンは、満足げにこう記した。
 ボルシェヴィキが軍隊の中に持つのは、「決定的な瞬間に、決定的な場所で、実力の圧倒的な優勢を確保することのできる、政治的に際立つ力」だ。(91)
 (15)ソヴナルコムは11月20日に、立憲会議に関して議論した。
 いくつかの重要な決定が下された。(92)
 立憲会議の開会は、期間の限定なしで、延長された。
 その表向きの理由は、11月28日までに定足数以上が集合するのは困難だ、ということだった。(93)
 本当の理由は、ボルシェヴィキに時間稼ぎをさせることだった。
 地方ソヴェトに対して、選挙の「不正」を全て報告するようにとの指令が発せられた。
 その資料は、「再選挙」の理由として役立つはずだった。(94)
 海軍人民委員のP. E. ドィベンコ(Dybenko)は、ペトログラードに1万人と2万人の間の武装海兵を集合させよとの命令を受け取った。(95)
 そしておそらくはもっと重要なことだが、1月8日に第三回ソヴェト大会を招集することが決定された。ボルシェヴィキの支持者とエスエルが埋め尽くすその大会は、立憲会議に代わるものとされた。
 このような手段をとろうとすることは、ボルシェヴィキがあれこれの方法を使って立憲会議を骨抜き(abort)にしようと意図していることを、示していた。//
 (16)立憲会議の開会を漠然と延長するとの政府の声明は、社会主義諸党や農民大会代議員からの強い抗議を引き起こした。
 11月22日-23日、立憲会議防衛同盟が設立された。これは、ペトログラード・ソヴェト、労働組合、およびボルシェヴィキと左翼エスエル以外の全ての社会主義諸党で構成されていた。(96)
 (17)ボルシェヴィキは、立憲会議の選挙委員会(<Vsevybor>)を苦しめることで、立憲会議に対する攻撃を開始した。
 ソヴナルコムの命令にもとづいて、スターリンとG・ペトロフスキ(Grigorii Petrovskii)は11月23日、選挙委員会に対して、関係資料を調べ直すことを命じた。
 それが拒否されると、チェカは、委員会の委員等を勾留した。
 のちにペトログラード・チェカの長になるM. S. ウリツキが選挙委員会の委員長に任命され、誰が委員会に出席するかについて広い裁量権が与えられた。(97)
 (18)これに反応して、立憲会議防衛同盟は、ボルシェヴィキの命令を無視して、予定通りに立憲会議を開会すると決定した。(98)
 11月28日、牢獄から釈放されたばかりの選挙委員会の委員たちは、タウリダ宮で協議を開始した。
 ウリツキが姿を見せて、自分が同席してのみ会合することができる、と伝えた。しかし、ウリツキの言葉は無視された。
 立憲会議の擁護者たちは、示威的にタウリダ宮正面に集まった。学生、労働者、兵士、およびストライキ中の公務員たちで、「全ての権力を立憲会議へ」と書かれた旗をもっていた。
 ある新聞によると、その群衆の数は20万人とされている。しかし、この数字は誇張すぎだと思われる。共産党(ボルシェヴィキ)の報道官は、1万人だとした。(99)
 ウリツキの命令によって、ペトログラードで最も頼もしいボルシェヴィキ兵団であるラトヴィア人銃撃隊がタウリダ宮を包囲したが、介入まではしなかった。
 ある隊員たちは、自分たちは立憲会議を守るためにやって来た、と語った。
 タウリダ宮の内部では、ほとんどがペトログラードまたはその近郊出身の45人の代議員たちが、幹部会(Presidium)を選出した。//
 (18)その翌日、武装兵団がタウリダ宮の周囲を、厚く取り囲んだ。ラトヴィア人銃撃隊は退き、リトアニア人予備連隊、海兵派遣隊、機銃部隊によって増強されていた。
 彼らは群衆からは安全な距離を保ち、代議員と信頼の措ける報道者たちだけが建物に入るのを許した。
 夕方にかけて、海兵たちは代議員たちに、立ち去るよう命じた。
 その翌日、海兵たち包囲兵団は、誰が立ち入るのも拒んだ。
 この事件は、1月5日(旧暦)/18日(新暦)に現実に行われることとなる実力行使の強さを試す、リハーサルとなった。//
 (19)カデットの攻撃的姿勢を押さえつけようと、ボルシェヴィキはその党(カデット・立憲民主党, Constitutional-Democratic Party)を非合法化した。
 すでにペトログラードでの立憲会議選挙の最初の日に、ボルシェヴィキは武装した暴漢を派遣して、カデット機関紙<Rech'>の編集部を粉々に破壊していた。
 同じことが2週間後に、<Nah vek>について繰り返された。
 11月28日、レーニンは、典型的にプロパガンダ的な「革命に反対する内戦指導者たちの逮捕に関する布令」という名称をもつ命令を書いた。(100)
 カデット指導者たちは「人民の敵」と宣告され、拘禁が命じられた。
 その夜と翌日、ボルシェヴィキの派遣部隊は、捕らえることのできる著名なカデット党員全員の身柄を拘束した。その中には、何人かの立憲会議代議員もいた(A・I・シンガレフ(Shingarev)、P・D・ドルゴルコフ(Dorgorukov)、F・F・ココシキン(Kokoshkin)、S・V・パニナ(Panina)、A・I・ロジチェフ(Rodichev)等)。
 これらの者たちは、のちに釈放された(パニナは滑稽な裁判のあとで)。但し、シンガレフとココシキンの二人は、ボルシェヴィキ海兵たちによって収監所病院で殺戮された。
 カデットは、「人民の敵」だとされて、立憲会議の選挙運動に参加できなかった。
 彼らは、ボルシェヴィキ政府が初めて非合法化した政党だった。
 このことに対して、メンシェヴィキも社会革命党も、何ら憤慨しなかったように見える。//
 -------------
 (83) 以下にもとづく。L. M. Klassy i partii v grazhdanskoi voine v Rossi (1917-20 gg.)(Moscow, 1968)p.416-p.425、L. M. Spirin, Krushenie pomeshchich'ikh i burzhuaznyk partii v Rossi(Moscow, 1977), p.300-p.341。
 (84) DN, No. 2/247(1918年1月8日), p.1.
 (*) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), p.338.
 左翼エスエルへの支持の多くは、ペトログラードの労働者およびバルトや黒海海軍の急進的な海兵から来ていた。
 (85) Oliver Radkey, The Election to the Russian Constituent Assembly of 1917(Cambridge, Mass., 1950), p.15.
 (86) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), 表1と表2。
 (87) Lenin, PSS, XL, p.7.
 (88) Radkey, Election, p.38.
 (89) Lenin, PSS, XL, p.16-p.18.
 (90) Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.275, p.358.
 (91) Lenin, PSS, XL, p.10.
 (92) Fraiman, Forpost, p.163.
 (93) Dekrety, I, p.159.
 (94) Revoliutiia, VI, p.187.
 (95) Fraiman, Forpost, p.163.
 (96) Revoliutiia, VI, p.192.
 (97) 同上, p.199.
 (98) NV, No. 1(1917年11月30日), p.1-p.2, & No.2(1917年12月1日), p.2.; Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.; Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.309-p.310.
 (99) NV, No. 1(1917年11月30日), p.2,; Revoliutiia, VI, p.225.
 (100) Dekrety, I, p.162.
 ----
 終わり。次節へとつづく。

2206/R・パイプス・ロシア革命第12章第6節①。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 ----
 第6節・立憲会議〔憲法制定会議〕選挙①。
 (1)ボルシェヴィキが民主主義的統制から自由になるためには、もう一つ越えなければならないハードルがあった。すなわち、立憲会議(the Constituent Assembly)。当時のある論者によれば、立憲会議は、喉に「突き刺さった骨のような」ものだった。//
 (2)12月初めまでに、ボルシェヴィキは以下のことに成功した。
 (1) 正統な全ロシア・ソヴェト大会を無力にし、その執行委員会を奪い取る。
 (2) ソヴェトの執行諸機関から立法や上級官僚任命の権限を剥奪する。
 (3) 正統な農民大会を分裂させ、自ら選んだ兵士や海兵で置き代える。
 ボルシェヴィキは、このような破壊的行為を隠して逃げ去ることができなかった。国全体は容易には情報を得られず理解することもできない、そのようなペトログラードの遠く離れた諸組織を操作することに自分たちは打ち込んでいた、という理由では。
 立憲会議は、また一つ別の問題だったのだ。
 全国から選出されてくるこの会議は、ロシアの歴史上初めての真に代表者の集まりになるはずだった。
 開催を妨害したり解散したりすることは最も悪辣なクー・デタであり、全国民の意思に直接に挑戦して、数千万人の権利を剥脱することになるだろう。
 だがしかし、これがなされるまでは、またこれがなされないかぎり、ボルシェヴィキは自分たちは安全だと感じることができなかった。なぜなら、第二回ソヴェト大会の決議にもとづけば、ボルシェヴィキの正統性は立憲会議の是認という条件づきのものだったからだ。-この是認を、立憲会議は確実に拒否するだろう。
 (3)さらに悪いことに、ボルシェヴィキは何度も、立憲会議の招集に関与してきた。
 立憲会議は歴史的にみると社会革命党と一体化したもので、社会革命党はその政治綱領の中心に、これを掲げていた。そして、農民層の支持を獲得しつづけるならば、自分たちが立憲会議で圧倒的な多数派になるだろう、という自信をもっていた。
 社会革命党はこの立憲会議を、ロシアを「勤労者(toilers)」の共和国にするために用いるつもりだった。
 彼らがもっと政治的に明敏だったならば、可能なかぎり早く選挙を実施するよう、臨時政府に圧力を加えただろう。
 しかし、他の者たちと同様に、ぐずぐずと引き延ばした。このことが、立憲会議の擁護者だというふりをボルシェヴィキがする機会を与えることとなった。
 1917年の夏遅くから、ボルシェヴィキは、時が経てば民衆の革命的熱望は冷えるだろうと期待して選挙を故意に遅延させていると、臨時政府を非難した。
 「全ての権力をソヴェトへ!」というスローガンを打ち出すことで、ボルシェヴィキは、ソヴェトだけが立憲会議の開催を保障することができる、と主張した。
 1917年の9月と10月、ボルシェヴィキのプロパガンダは、ソヴェトへの権力移行だけが立憲会議を救出するだろうと、大々的にかつ明確に叫んだ。(75)
 権力を掌握しようと準備していたのだったが、このようなプロパガンダはしばしば、まるでボルシェヴィキの主要な目標は「ブルジョアジー」その他の「反革命」から立憲会議を守ることであるかのごとく聞こえた。
 10月27日、<プラウダ>は読者に対して、こう書いた。
 「新しい革命的権力は、ためらいを許しはしない。すなわち、広範な人民大衆の利益という社会的優越性がある条件のもとで、この権力だけが、この国を立憲会議へと導く力を有している。」(76)
 (4)したがって、レーニンとその党が選挙を実施し、招集し、そして立憲会議の意思に従うと明言していたことに、何ら疑問はあり得ない。
 しかし、この立憲会議はほとんど確実にボルシェヴィキを権力から排除するだろうがゆえに、ボルシェヴィキにはきわめて厄介な問題だった。
 結局は、彼らは勝負の賭けに出て、勝った。そして、立憲会議が廃墟となったこの勝利のあとでようやく、彼らは決して二度と民主主義勢力から挑戦されることはない、という自信を得ることができた。//
 (5)立憲会議を攻撃するにあたって、ボルシェヴィキは、社会民主党の理論に正当化を見出すことができた。
 1903年に採択された社会民主党綱領は、普遍的で平等な直接投票で選出された立法会議(Legislative Assembly)の開催を訴えていた。
 しかし、ボルシェヴィキもメンシェヴィキも、自由選挙を盲信してはいなかった。
 彼らは革命前には長らく、投票箱は人民の「真の」利益を示す最良の指針であるとは限らない、と主張する心構えだった。
 ロシア社会民主党の創立者であるプレハノフは1903年の第二回党大会で演説して、この問題について若干のことに論及した。のちにボルシェヴィキはこれに依拠して、反対派を嘲弄することになる。
 「全ての民主主義原理は、それ自体の長短について、抽象的にではなく、民主主義の根本原理を呼び起こす諸原理とそれとの関係において、評価されなければならない。<salus populi suprema lex>(人民の安寧が至高の法だ)。
 革命家の言葉に翻訳すると、これの意味は、革命の成功こそが、至高の法だ、ということになる。
 そして、革命のためにあれこれの民主主義原理による行動を制限する一時的な必要が生じたとすれば、制限しないのは犯罪的だ。
 個人的見解としては、普通選挙の原理ですら、民主主義に関する上述の基本的な観点から評価しなければならない、と言うべきだろう。 
 仮定としては、我々社会民主主義者が普通選挙に反対する状況を想定することはできる。<中略>
 革命的熱狂の嵐の中で人民がきわめて良い議会を選出するならば、…、我々はそれを永続的な議会にしようとすべきだ。
 そして、選挙が非革命的だということが分かれば、我々はそれを解散しようとすべきだ。二年以内にではなく、可能ならば、二週間以内に。」(*)
 レーニンはこのような感覚を共有しており、1918年には、明らかに気に入って、これを引用することになる。
 (6)臨時政府は、立憲会議選挙の予定を1917年11月12日と定めていた。その日はたまたま、臨時政府が権力から陥落した2週間後のことだった。
 ボルシェヴィキは最初はこの日程をそのまま維持するかどうかを躊躇したが、最終的にはそのように決定し、その趣旨の布令を発した。(78)
 しかし、つぎは何をするのか?
 ボルシェヴィキ内部でこの問題を議論する一方で、彼らは、対抗派たちの運動能力に干渉した。
 これはおそらく、プレス布令や軍事革命委員会が発したペトログラードを包囲された状態におく命令の背後にある、主要な意図だった。その条項の一つは、屋外での集会を禁止していた。(79)
 (7)ペトログラードでは、立憲会議選挙の投票は11月12日に始まり、3日間つづいた。
 モスクワでは11月19日~21日に、投票が実施された。
 残りの地方では、11月の後半だった。
 臨時政府が定めていた規準によれば、有権者は、20歳以上の男女市民だった。
 投票は、敵が占領している地域-すなわち、ポーランドと西側および北西の前線地帯-を除いて、かつてはロシア帝国だった全土で行われた。
 中央アジアでは、投票結果が算出されなかった。
 同様の間違いが、若干の遠方の地域で発生した。
 投票者数は、印象的な数字であることが分かった。
 ペトログラードとモスクワでは、有権者のおよそ70パーセントが投票所へ行き、いくつかの農村地域では、投票率が100パーセントに達した。農民たちはしばしば、単一の候補者名簿のために、通常は社会革命党に、一団となって投票した。
 最も信頼できる計算によると、総計4440万票が投じられた。
 観察者はあちこちで、少数の不正行為に気づいた。即時講和の公約のためにボルシェヴィキを支持する連隊兵士たちが、ときどきは他政党の候補者たちを脅かしたのだ。
 しかし、全体としては、国民がおかれている困難な条件を考慮するならば、選挙は期待を正当視するものだった。
 選挙を称賛することに関心がなかったレーニンは、12月1日にこう述べた。
 「内戦の縁にある階級闘争とは別個に立憲会議を評価するならば、今のところは、人民の意思を表現する手段としてもっと完全な仕組みを知らない。」(80)
 (8)投票はきわめて複雑だった。多数の細片政党が、ときには他政党と連合して、候補者を擁立していた。状況は地域ごとに異なっていて、とくにウクライナのような境界地帯では複雑になっていた。ウクライナには、ロシア諸政党と並んで、地方少数民族を代表する諸政党があったからだ。
 (9)社会主義政党のなかでボルシェヴィキだけは、公式の政策要綱をもたないままで選挙運動をした。
 ボルシェヴィキは、投票で勝利すると計算しているように見えた。彼らは、①「全ての権力をソヴェトへ」のスローガン、②即時停戦の約束、および③地主所有の土地の没収を中心に、労働者、兵士および農民に対して幅広く訴えた。
 ボルシェヴィキが選挙期間に追求したのは、自分たちを支持する有権者の階級的基盤を、社会革命党の非マルクス主義的言葉を借用すれば「勤労大衆」(the toiling mass)を、拡大することだった。
 したがって、選挙結果を評価するにあたっては、つぎのことにとくに留意しなければならない。すなわち、多数の国民は、あるいはおそらくボルシェヴィキに投票した者たちのほとんどですら、存在しないがゆえに何も知り得なかったボルシェヴィキの政策要綱を是認したのでは全くない、ということだ。ましてや、ボルシェヴィキの公表文書では決して言及されなかった一党独裁というボルシェヴィキの隠された目標(agenda)を是認したのではない。
 是認されたのは、ソヴェトによる統治、戦争の中止、および共同体への再配分のために行う私的土地所有の廃棄だった。これらのいずれの中にも、ボルシェヴィキの究極的な目標は含まれていない。//
 (10)レーニンは、しばらくの間は万が一の希望から、ボルシェヴィキが勝利するに至る程度にまで、左翼エスエルが社会革命党を分裂させるだろうと、勘違いをしていた。(81)
 左翼エスエルが11月にペトログラードで行ったことの強い印象が、この希望にある程度の内実を与えていた。(82)
 しかし、最終的には、根拠のないものだったことが分かった。ボルシェヴィキはとくに都市部や軍隊内で気を吐いたけれども、社会革命党の後を追いかける二番手となった。
 この選挙結果が、立憲会議〔憲法制定会議〕の運命を封じた。
 -------------
 (74) Steinberg, Als ich Volkskommissar war, p. 42.
 (75) 例えば、ペトログラード・ソヴェトでのトロツキーの演説を見よ。NZh, No.138/132(1917年9月27)日で報告されている。
 (76) Pravda, No. 170/101(1917年10月27日), p. 1.
 (*) Vtoroi S'ezd RSDSRP: Protokoly(Moscow, 1959), p.181-2.
 トロツキーは1903年に、これに似たことを言った。-「全ての民主主義諸原理は、もっぱら党の利益に従属しなければならない」(M. Vishniak, Bolshevism and Democracy, New York, 1914, p.67.)。
 (77) N. Krupskaia, Vospominaniia o Lenine(Moscow, 1957), p. 74.; Lenin, PSS, XXXV, p.185.
 (78) Dekrety, I, p. 25-p. 26.
 (79) Izvestiia, No. 213(1917年11月1日), p. 2.
 (80) Lenin, PSS, XXXV, p.135.
 (81) 同上, XXXIV, p.266.
 (82) Peter Scheibert, Lenin an der Macht(Weinheim, 1984), p.418.
 ++++++++
 試訳者注記。
 上の注(80)部分は、日本語版レーニン全集26巻(大月書店、1958)p.361によると、つぎのとおり。一段落をそのまま書き写す。-<全ロシア中央執行委員会の会議/1917年12月1日(14日)>の第一項「憲法制定会議の問題についての演説」の冒頭。一文ごとに改行。注(81)部分は、日付の特定がないこともあり今のところ探し出せない。
 「階級闘争が内乱に発展した情勢を度外視して、憲法制定会議をとってみるならば、われわれは、いまのところ人民の意志を表明するため、これ以上完全な機関を知らない。
 だが、幻想の世界に住むわけにはいかない。
 憲法制定会議は、内乱の情勢のもとで行動しなければならない。
 内乱を始めたのは、ブルジョア=カレージン派の分子である。」
 ----
 第6節②へとつづく。


2205/R・パイプス・ロシア革命第12章第5節。

 リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
 =Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
 第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
 第12章・一党国家の建設。
 ----
 第5節・左翼エスエルとの協定と農民大会の破壊。
 (1)レーニンとトロツキーは、政府加入に関する左翼エスエルとの交渉を継続すること、およびメンシェヴィキおよびエスエル〔社会革命党〕と調整する努力はもうしないことに同意した。これは中央委員会に生じていた危機を緩和するためだった、ということが想起されるだろう(既述)。
 彼らはメンシェヴィキ等にかかる後者を、真面目には追求しなかった。
 レーニンには、それら対抗する社会主義諸党と連携するのを受け容れる気持ちは全くなかった。
 しかし、左翼エスエルは、取り込みたかった。
 レーニンは、左翼エスエルの存在価値を知っていた。言葉に酔っていて、大衆の「自発性」という信条をもつがゆえに一致団結した行動をすることのできない、革命的な性急者たちが緩やかに組織した一団。
 左翼エスエルは脅威ではなく、利用すべきものだった。
 内閣に彼らが入っていれば、ボルシェヴィキが政府を独占しているという非難を回避できるだろう。また、「十月-ボルシェヴィキのクー-を受容する」全ての党は歓迎される、という主張が実証されるだろう。
 さらに価値があるのは、左翼エスエルの資質のおかげで、ボルシェヴィキ組織はこれまで接触をもってきていない農民層に入っていくことができる、ということだった。
 農民の代表者がいないままで「労働者と農民」の政府という地位を偽装するのは、馬鹿げていた。左翼エスエルが農民層と関係をもっていることは、彼らの相当大きい資産だったのだ。
 レーニンは、左翼エスエルが立憲会議選挙に際しての農民票を分裂させて、できうればボルシェヴィキとその同盟者たちに多数派を形成させることになる、という壮大な(のちの事態が示したように、非現実的な)希望を抱いていた。//
 (2)両政党は、秘密に交渉した。
 11月18日、<イズベスチア>が-早まっていたことがのちに判ったが-、ソヴナルコム加入について左翼エスエルとの間の合意が成立した、と発表した。
 しかし、会談はさらに3週間つづいた。その過程で両党は、緊密な作業をする関係を確立するに至った。
 今や左翼エスエルは、ボルシェヴィキ勢力に加わり、社会革命党が支配している自立した農民運動を破壊する助けをすることとなつた。//
 (3)ロシア民衆の5分の4を代表する農民代表者大会は、十月のクーを拒絶していた。
 第二回ソヴェト大会には代議員を派遣せず、その代わりに、祖国と革命救済委員会に加入した。
 この反対は、ボルシェヴィキにとつてはきわめて厄介なことだった。
 ボルシェヴィキは農民大会で勝利しなければならず、あるいはそれができないならば、ボルシェヴィキに友好的な別の団体で置き換える必要があった。
 この戦術は、続いてのちに立憲会議や他の民主主義的反ボルシェヴィキの代表団体に関しても繰り返された。そして、三段階を踏むものだった。
 第一には、出席者を決定するその団体の指名委員会(Mandate -)を支配しょうとした。
 これができれば、自由選挙で獲得するだろうよりは多数のボルシェヴィキや親ボルシェヴィキの代議員を送り込むことができる。
 〔第二に、〕ボルシェヴィキ支持者で充ちたこのような団体が、それでもボルシェヴィキが提案する決議を採択しなければ、騒ぎと暴力の脅かしでもって、その団体を混乱させる。
 〔第三に、〕これもまたできなければ、大会を非合法だと宣言し、退出し、自分たちの反対会合を設立する。//
 (4)11月後半に行われる立憲会議選挙が明確に示すことになるように、ボルシェヴィキには、農村地域での支持がなかった。
 このことは、11月末に予定されていた農民代表者大会の見込みを悪くするものだった。その大会では、社会革命党は確実に、ボルシェヴィキ独裁を非難する決議を通過させるだろう。
 これを阻止するためにボルシェヴィキは、左翼エスエルに助けられて、指名委員会を操作しようとした。すなわち、通常は地方と地区のソヴェトごとに選出される大会代議員たちが軍事部隊からの代議員よりも多くなるように、指名委員会に要求させようとした。
 軍隊はすでにソヴェトの兵士部門で代表されているのだから、これには正当性がなかった。
 しかし、指名委員会にいる社会革命党は、ボルシェヴィキを懐柔しようとして、これに同意した。結果として、社会革命党は農民大会を完全には支配することができず、辛うじて過半数を獲得した。
 農民大会に出席する代議員の最終的な人数は、総数789名のうち489名が、農村地帯で選出された善意の(bona fide)農民代表者たちで、294名がボルシェヴィキと左翼エスエルが選んだ制服を着た、ペトログラードとその周辺の連隊の男たちだった。
 党への帰属者数から言うと、社会革命党307名、ボルシェヴィキ91名だった。残りの391名については、明確にされていない。だが、その後の投票結果から判断すると、それらのうち最大の割合を、左翼エスエルが占めていた。(*)//
 (5)だがなお、もう一つ懐柔をする装いとして、社会革命党指導部は、左翼エスエルの指導者であるM・スピリドノーワ(Maria Spiridonova)を大会の議長とすることに、同意した。
 農民たちは実際に、革命前のテロリストたる偉業によって彼女を偶像視していたけれども、ボルシェヴィキが直情的なスピリドノーワを完全に操っていたために、これは全く考えの足りない譲歩だった。
 (6)11月26日、ペトログラード市議会のアレクサンダー大広間で、第二回農民代議員大会が開かれた。
 ボルシェヴィキ代議員たちは最初から、左翼エスエルの応援を受けて、破壊をする戦術を採った。野次り、鋭く叫び、反対党派の演説者を大声を上げて黙らせた。
 しばらくの間は、彼らが演壇を物理的に占拠した。
 こうした妨害によって、スピリドノーワは休会宣告をすることを余儀なくされた。//
 (7)重大な会議が、12月2日に行われた。
 その日、社会革命党の演説者は、立憲会議代議員たちの逮捕や嫌がらせに抗議した。立憲会議の代議員たちのある程度は、農民大会に選出された代議員でもあった。
 こうした演説の一つが行われている間に、レーニンが姿を現した。
 レーニンを指さして、ある社会革命党員がボルシェヴィキに対して叫んだ。
 「きみたちがロシアを連れて行こうとしているのは、レーニンがニコライに取って代わるという国家だ。
 我々は、僭政的な権力を必要としない。
 我々に必要なのは、『ソヴェトによる支配だ』!」
 レーニンは、国家の長としての資格で演説することを求めた。だが、誰もレーニンを選出していないのだから、ボルシェヴィキ党の長としてフロアにおれるにすぎない、と言われた。
 彼は挨拶して立憲会議を中傷し、その代議員に対するボルシェヴィキによる嫌がらせという抗議を斥けた。
 しかしながら、定足数の400名の代議員がペトログラードに集合すれば立憲会議が開催される、と約束した。//
 (8)レーニンが去ったとき、チェルノフが、立憲会議の権威を承認することはソヴェトを拒絶することと同じだ、というボルシェヴィキの主張を拒否する決議を下すよう、動議を提出した。
 「大会は、つぎのように考える。
 労働者、兵士および農民の代表ソヴェトは、大衆をイデオロギー的かつ政治的に指導するものとして、革命の強い戦闘力でなければならず、農民および労働者による征圧を監視して護衛しなければならない。
 立憲会議は、それがもつ立法的権能でもって、ソヴェトに表現されている大衆の要求を、現実のものに変えなければならない。
 よって、ソヴェトと立憲会議を相互に対抗させようとする、個別グループの試みに、断固として抗議する。」(+)
 (9)ボルシェヴィキと左翼エスエルは、反対動議を提出して、立憲会議は議員特権(parliamentary immunity)を享有していないという理由で、カデットやその他の立憲会議代議員に対するボルシェヴィキの措置を承認するよう大会に求めた。(69)
 (10)チェルノフが提案した決議は、360対321で通過した。
 ボルシェヴィキは議長のスピリドノーワに対して、この票決を無視するよう説得した。
 翌日に彼女は、この票決は拘束力がなく、たんに票決のための「基礎」にすぎない、と宣言した。
 この問題がこう処理される前に、トロツキーが姿を見せて、ブレスク=リトフスクでの講和交渉の進展について報告したいと、出席者たちに求めた。
 これに反対する動議が歓迎され、それに応じてトロツキーは立ち去り、ボルシェヴィキと左翼エスエルの代議員がつづいた。//
 (11)翌日の12月4日、ボルシェヴィキと左翼エスエルはアレクサンダー大広間に戻ってきて、再び破壊工作を始めた。
 騒ぎ声で、演説者の声は聞き取れなかった。この事態に反応して、社会革命党とその支持者たちは、「マルセイエーズ」を歌いながら、退出した。
 彼らは、農民大会の中央執行委員会が所在するFontanka の農業博物館で協議を行った。
 このときから、大会の「右翼」と「左翼」が分裂した。
 ボルシェヴィキが立憲会議の12月2日の票決の有効性を承認するのを拒んだために、再統一の試みは失敗した。
 12月6日、ボルシェヴィキ党と左翼エスエルは、市議会での会議が農民ソヴェトの唯一の合法的代表者だと宣言した。実際には、そこには農民ソヴェトの代議員たちはいなかったのだけれども。
 彼らは、農民大会中央執行委員会の全ての権能を否定し、中央執行委員会から技術的用具や人員を奪い取り、政府による農民大会代議員への日当の支払いを停止した。
 ついに12月8日、ボルシェヴィキと左翼エスエルの残留派会議は、ボルシェヴィキが支配する全ロシア〔農民大会〕中央執行委員会と同一視されるものになった。//
 (12)たしかに、ボルシェヴィキは農民大会を奪い取った。先ずは、自分たちが選んだ、農民でない代議員を送り込むことによって。次には、その代議員たちが農民層の正統な唯一の代表者だと宣言することによって。
 ボルシェヴィキは、左翼エスエルの協力なくしては、これを達成できなかっただろう。
 このような貢献、および予想される一層の貢献の褒賞として、ボルシェヴィキは、左翼エスエルを年下の同僚として政府に加入させるに際して、大きな譲歩を行った。//
 (13)両政党は、一緒に農民大会を破壊した直後の12月9-10日の夜に、合意に達した。(70)
 合意内容は一度も公表されなかった。そのため、のちに起こった事態から再構成されなければならない。
 左翼エスエルは、いくつかの条件を提示した。①プレス布令を解除(lift)すること、②政府に他の社会主義諸党を加えること、③チェカの廃止、④立憲会議のすみやかな招集。
 第一の要求について、ボルシェヴィキは、公式にプレス布令を廃止することなく、全ての敵対新聞紙の発行を許容することで、事実上はこれを認めた。
 第二の問題について、レーニンは宥和的だった。すなわち、左翼エスエルの例に他の社会主義諸党も倣つて十月の革命を承認することををたんに求めた。
 どの党もそうする気がなかったために、この譲歩はレーニンには、何の苦痛でもなかった。
 チェカについては、ボルシェヴィキは頑固だった。形式的に廃止しようとも、その権限を制限しようともしなかった-反革命が存在するために、そんな贅沢はできない-。
 しかし、左翼エスエルは、不必要なテロルが行われないという満足感を得るため、代表者をチェカに送り込むことができた。
 立憲会議については、しぶしぶながら、左翼エスエルの要求を受け入れた。
 ボルシェヴィキに立憲会議選挙を取消すという考えを放棄させ、立憲会議の開催を、短期間だけにしても、認めさせたのは左翼エスエルだ、というのは、事実上確実なことだ。
 トロツキーは、レーニンがこう言ったのを憶えている。
 「もちろん、立憲会議は解散させなければならない。だが、左翼エスエルについてはどうすべきだったのかね?」。(71)
 (14)このような妥協を基礎にして、左翼エスエルはソヴナルコムに加わった。5名の閣僚が与えられた。農業、司法、郵便通信、内務、および地方自治。
 また、チェカを含めて、他の国家組織のより下層の官署に入ることも認められた。左翼エスエルのA・ドミトリエフスキ(Aleksandrovich Dmitrievski)(アレクサンドロヴィチ)が、チェカの副長官となった。
 左翼エスエルは、このような配置に満足した。彼らは、ボルシェヴィキを少し短気だと思っていたとしても、ボルシェヴィキが好きで、その目標を是認した。
 左翼エスエルのV・ A・カレーリン(Karelin)は、「ボルシェヴィキの過剰な熱望を緩和させる調整者」だと自らの党を定義した。(72)//
 (15)ボルシェヴィキと左翼エスエルの共同行動による農民大会の分解は、ロシアの自立的農民組織の終焉を意味した。
 1918年1月半ば、ボルシェヴィキ=左翼エスエルの自称農民大会執行委員会は、完全な統制のもとで、農民代議員大会を招集した。
 それに合わせて、労働者兵士代議員ソヴェトの第三回大会を行うことが予定されていた。
 ここでこそ、これまでは別々だった二つの組織が「融合」して、労働者兵士ソヴェトの大会の構成の中に「農民」代議員が加えられた。
 ボルシェヴィキ歴史家によれば、この事態は、「ソヴェトという権威をもつ単一で至高の機関を創立する過程を完成させ」るもので、かつ「労働者兵士代議員の大会とは別に農民大会を活動させるという、右翼社会革命党の政策に終止符を打つ」ものだった。(73)
 しかしながら、つぎのように語る方が、より正確だろう。強引な〔二党の〕結合(shotgun marriage)が農民の自立的統治を終わらせ、農民層の権利剥奪(disenfranchisement)の過程を完成させたのだ。//
 --------------
 (*) DN, No.222(1917年12月2日), p.3.
 この大会の議事次第は、公刊されていない。社会革命党の日刊紙のDelo naroda, 1917年12月13日/第20号に、手続の完全な説明が掲載されており、以下の叙述がはこれをもとにしている。
 (+) DN, No.223(1917年12月3日/16日), p.3.
 共産主義者の革命編年史(Revoliutsiia, VI, p. 258)は、社会革命党はソヴェトから権力を奪い取って立憲会議に渡そうと主張したと書いて、この決議の意味を歪曲している。
 社会革命党は実際には、立憲会議とソヴェトが協力するのを望んでいた。
 (69) Izvestiia, No. 244(1917年12月6日), p. 6-p. 7.
 (70) 同上, No. 249(1917年12月12日), p. 6.
 (71) Pravda, No. 91(1924年4月28日), p. 3.
 (72) NZh, No. 206/200(1917年12月20日/1918年1月2日).Revoliutsiia, VI, p. 377が引用している。
 (73) Kh. A. Eritsian, Sovety krest'ianskikh deputatov v oktiabr'skoi revoliutsii(Moscow, 1960), p. 143.
 ----
 第5節、終わり。次節の目次上の表題は、<立憲会議〔憲法制定会議〕選挙>。

1809/S・フィツパトリク・ロシア革命(2017)⑧。

 シェイラ・フィツパトリク(Sheila Fitzpatrick)・ロシア革命
 =The Russian Revolution (Oxford, 4th. 2017). 試訳第8回。
 ----
 第4節・夏の政治危機
 6月半ば、今は臨時政府の戦時大臣であるケレンスキーはロシア軍に、ガリシアの前線での大規模な攻撃を命じた。
 それは二月革命以降の最初の、重大な軍事行動だった。ドイツ軍は自分たちがさらに東部へと侵入することなくしてロシア軍隊が解体していくのを見守っているので満足しており、ロシア軍の最高司令部は敗北を怖れ、主導性を発揮せよとの連盟諸国からの圧力に早くに抵抗していたときだったから。
 ロシアのガルシア攻撃は6月と7月初頭に行われ、積算で20万人の死傷者を出して失敗した。
 これは、あらゆる意味での厄災だった。
 軍隊の志気はいっそう低下し、ドイツ軍は反抗に成功し始めて、夏から秋の間じゅう続いた。
 土地略奪の報せに反応して農民兵士になっているロシア軍側の脱走兵は、異常な割合にまで達した。
 臨時政府の信用は地に落ち、政府と軍指導者の間の緊張が高まった。
 7月初め、政府の危機が、カデット(リベラル派)の全閣僚が去り、臨時政府の長のルヴォフ公が辞任したことで急に発生した。//
 この危機のさ中、ペテログラードで再び大衆の集団示威行動、街頭での暴力、そして七月事件(the July Days)として知られる民衆騒擾が突如として起こった。(15) //
 同時代の目撃者は50万人にまで達するとする群衆は、クロンシュタットの海兵の派遣団、兵士、ペテログラード工業施設からの労働者を含んでいた。
 臨時政府には、ボルシェヴィキによる蜂起の試みのようだった。
 ペテログラードに到着して騒擾を開始したクロンシュタットの海兵たちは、その指導者の中にボルシェヴィキがおり、「全ての権力をソヴェトへ」というボルシェヴィキのスローガンを記した旗を持った。そして、最初の目的地は、ボルシェヴィキ党の司令部があるクシェシンスカヤ宮(Kseshinskaya -)だつた。
 だが、示威行進者がクシェシンスカヤ宮に着いたとき、レーニンの挨拶は抑制的なもので、ほとんど無愛想だつた。
 レーニンは、臨時政府または現在のソヴェト指導部に対して暴力的活動をするように勇気づけはしなかった。
 そして、群衆はソヴェト〔の所在地〕へと動いて威嚇しつつ、暴力的活動を行わないで周りをうろつき回った。
 混乱し、指導部と特定の計画を持たず、示威行進者たちは市内を歩き回り、酔っ払って略奪し、そして最後に解散した。//
 七月事件は、ある意味では、4月以降のレーニンの揺るぎない立場を証明するものだった。臨時政府と二重権力に反対する民衆の強い感情、連立する社会主義者に耐えられないこと、そしてクロンシュタット海兵その他の一部にある暴力的対立意識およびおそらくは蜂起への熱意を示したものだったからだ。
 しかし、別の意味では、七月事件はボルシェヴィキにとっての災難だった。
 レーニンとボルシェヴィキ中央委員会は明らかに、動揺していた。
 彼らは蜂起について一般的には語り合ったが、それを企画することはなかった。
 海兵たちの革命的雰囲気に反応したクロンシュタットのボルシェヴィキは、実際にはボルシェヴィキ中央委員会が承認していない主導性を発揮した。
 事件全体は、ボルシェヴィキの志気と革命指導者としてのレーニンの信頼性を損なった。//
 指導者たちの躊躇と不確実な対応があったにもかかわらず、ボルシェヴィキは七月事件について臨時政府とソヴェトの穏健な社会主義者たちから非難されたため、損失はそれだけ大きかった。
 臨時政府は、二月革命以来全政党の政治家たちが享有してきた「議員免責特権」を撤回して、厳罰に処することを決定した。
 いく人かの著名なボルシェヴィキが逮捕された。その中には、5月にロシアに帰って以降はレーニンに近い極左の立場を採り、8月に正式にボルシェヴィキ党員になる予定のトロツキーもいた。
 レーニンとボルシェヴィキ指導部の中の彼の緊密な仲間であるジノヴィエフの逮捕状が発せられた。
 さらに、七月事件の間に臨時政府は、ある噂の信憑性を支持する証拠があるという示唆を握った。その噂とは、レーニンはドイツの工作員だというものだった。そして、ボルシェヴィキは、新聞の愛国主義的論調による非難にさらされ、一時的に軍隊や工場での人気を落とした。
 ボルシェヴィキ党中央委員会は(そして疑いなくレーニン自身も)、レーニンの身柄の安全を気遣った。
 レーニンは潜伏し、8月早くに作業員に変装して境界を越え、フィンランドに逃亡した。//
 しかしながら、ボルシェヴィキが困難な状況にあったとすれば、それは七月初めから首相になったケレンスキーが率いる臨時政府についてもそうだった。
 リベラル派と社会主義派の連立は恒常的な混乱に陥り、社会主義者はソヴィエトの支援者たちによって左へと動き、リベラルたちは実業家、土地所有者および軍事司令官たちの圧力をうけて右へと動いた。後者の者たちは、権威の崩壊と民衆騒擾でもってますます警戒心を強めていた。
 ロシアを救うという使命を気高く意識していたにもかかわらず、ケレンスキーは本質的には中庸を行く、政治的妥協への交渉者だった。大しては信頼もされず尊敬もされず、諸大政党のいずれにも政治的基盤がなかった。
 彼が悲しくも、こう愚痴をこぼしたように。
 「私は左翼のボルシェヴィキと右翼のボルシェヴィキの両方と闘っている。
 しかし、民衆はそのどちらかに凭り掛かれと要求する。<中略>
 私は真ん中の途を進みたい。しかし、誰も私を助けてくれようとしない」。(16)//
 臨時政府はますます、いずれかの方向に崩壊しそうに見えた。しかし、問題はどの方向にか?、だった。
 左翼からの脅威は、ペテログラードでの民衆蜂起および/またはボルシェヴィキのクーだった。
 このような挑戦は7月に失敗したが、北西前線でのドイツ軍の活動は、最も不吉な徴候としてペテログラードの周りの軍隊に対してきわめて強い緊張を強いていた。そして、憤慨し、武装した、働き場のない脱走兵たちの大量流入が、間違いなく市自体の中での街頭暴力を生じさせる危険を増大させた。
 臨時政府に対するもう一つの脅威は、法と秩序の独裁制を樹立しようとする右翼からのクーの可能性だった。
 夏までに、この方策は軍隊上層部で論議されており、ある範囲の実業家たちから支持を得ていた。
 徴候としては、このような動きに事前にかつ公共的言明によって明らかに反対しなければならなかっただろうカデットですら、少なからず安堵して既成事実を受け入れるかもしれなかった。//
 8月、ついに将軍コルニロフ(Lavr Kornilov)が右翼からのクーを試みた。ケレンスキーは最近に彼を、ロシア軍の秩序と紀律を回復させるという指示のもとで軍最高司令官に任命していた。
 コルニロフの動機は明らかに、個人的野心にではなく、国家の利益に関する意識にあった。
 実際、強力な政府を確立して騒ぎを起こす左翼に対処するために軍が干渉するのをケレンスキーは歓迎するだろうと、コルニロフは考えていたかもしれなかった。ケレンスキーはある程度はコルニロフの意図を知っていて、奇妙に迂回したやり方で彼を処遇したのだから。
 二人の主要な役者の間にあった誤解は事態を混乱させ、コルニロフが動く直前にドイツ軍がリガ(Riga)を掌握したという予期しなかったことも、狼狽に輪をかけた。そして、疑念と絶望の気分がロシアの民間および軍隊の指導者たちに広がっていた。
 8月の最終週、将軍コルニロフは、当惑しつつも決断して、表向きは首都の不安を鎮静化して共和国を救うために、兵団を前線からペテログラードへと派遣した。//
 クーの企図が挫折した理由の大部分は、兵団に信頼がなかったこととペテログラードの労働者の旺盛な行動だった。
 鉄道労働者たちは兵団列車の方向を変えて、妨害した。
 印刷工たちは、コルニロフの動きを支持する新聞の発行を止めた。
 金属労働者たちは近づく兵団を迎えるために外に飛び出し、ペテログラードは平穏で、兵団は将校たちに欺されているのだと説明した。
 このような圧力をうけて兵団の志気は減退し、大きな軍事的成功は何もないまま、ペテログラードの郊外でクーは終わった。そして、コルニロフの指令で行動していた指揮官の将軍クリモフ(Krymov)は臨時政府に降伏し、自殺した。
 コルニロフ自身は軍司令部に逮捕され、抵抗することなく、全責任を甘受した。//
 ペテログラードでは中央と右翼の政治家たちが、ケレンスキーが引き続き率いる臨時政府への忠誠を再確認した。
 しかし、ケレンスキーの立場はそのコルニロフ事件への対応の仕方のためにさらに傷つき、政府は弱体化した。
 ペテログラード・ソヴェトの執行委員会もまた、信頼を低下させた。コルニロフに対する抵抗は、多くは地方の組合や工場レベルのものにすぎなかったからだ。
 そして、これらによって、ボルシェヴィキへの支持は急上昇し、ボルシェヴィキがソヴェト内のメンシェヴィキ・エスエル指導部をすみやかに解任することが可能になった。
 軍司令部は最大の打撃を受けた。最高司令官の逮捕とクーの失敗によって、志気は喪失し、混乱に陥ったのだ。
 将校たちと兵士たちの間の関係は、明瞭に悪化した。そして、これだけでは不十分であるかのごとく、ペテログラードを明らかに目指して、ドイツ軍が前進し続けていた。
 9月半ば、コルニロフの後継者の将軍アレクセイエフが、コルニロフの高潔な動機を称える気持ちを言明して、突然に辞任した。
 アレクセイエフは、紀律が崩壊してしまい「我々の将校たちは殉教者である」軍隊についての責任をもう負うことはできない、と感じていた。//
 『現実に、この戦慄すべき危険があるときに、私は恐怖に脅えて、我々には軍は存在しない(この言葉の際に将軍の声は震え、彼は数滴の涙を零した)、一方でドイツ軍は、いつでも我々に最後のかつ最大の強力な一撃を放つように準備をしている、と言明する。』(17)//
 左翼が、コルニロフ事件によって最も多くを得た。この事件は右翼による反革命の脅威という以前は抽象的だった観念に実体を与え、労働者階級の強さを証明し、同時に多くの労働者たちに、自分たちの武装した警戒だけが革命をその敵から守ることがでるきと確信させた。
 まだ投獄されているか潜伏中の指導者が多くいるボルシェヴィキは、コルニロフに対する実際の抵抗には特別の役割を何ら果たさなかった。
 しかし、民衆の意見の新しい揺れの方向はボルシェヴィキであり、そのことはすでに8月初めには感知されていたが、コルニロフがクーに失敗した後で急速に明らかになった。
 そして、実際的な意味で言うと、コルニロフの脅威に対する反応として始まった労働者の軍団、あるいは「赤衛隊」(the Red Guards)、の設立により、将来の収穫を刈り取るのはボルシェヴィキであることになった。
 ボルシェヴィキの強さは、ブルジョアジーや二月体制との連携へと妥協しなかった唯一の政党だということだった。そしてこの党は、労働者の権力と武装蜂起という考え方と最も緊密に結びついていた。//
 --------
 (15) 七月事件につき、A. Rabinowitch, <革命への序曲-ペテログラード・ボルシェヴィキと1917年7月蜂起>(Bloomington, IN, 1968)を見よ。
 (16) A. Rabinowitch, <ボルシェヴィキが権力に至る>(New York, 1976).p.115. から引用した。
 (17) 将軍アレクセイエフへの新聞インタビュー(Rech', 1917年9月13日付、p.3)、Robert Paul Browder & Alexander Kerensky 編, <1917年のロシア臨時政府: 資料文書>Stanford, 1961), ⅲ, p.1622に収載。
 ----
 第5節・十月革命。
 4月から8月まで、ボルシェヴィキのスローガン「全ての権力をソヴェトへ」は本質的には挑発的なものだった。-ソヴェトを支配した穏健派に向けられた皮肉であって、全ての権力を奪うつもりはなかった。
 しかし、穏健派に支配権がなくなったコルニロフ事件の後では、状況は変わった。
 8月31日、ボルシェヴィキはペテログラード・ソヴェトの多数派を握った。9月5日、モスクワ・ソヴェトでもそうなった。
 かりに10月に予定されていた全国ソヴェト第二回大会で首都でと同じ政治的趨勢が続いていたとすれば、いったい何が意味されただろうか?
 ボルシェヴィキは、臨時政府はもはや支配する権能を持たないとするその大会の決定にもとづいて、法に準じた(quasi-legal)ソヴェトへの権力の移行を望んだだろうか?
 それとも、そのかつてのスローガンは、実際に暴力的蜂起への呼びかけだったのか、あるいはボルシェヴィキは(他とは違って)権力を奪取する勇気があることの宣言だったのか?//
 9月、レーニンはフィンランドの潜伏場所からボルシェヴィキ党に対して、武装蜂起の準備をするように迫る手紙を書き送った。
 革命のときは来た、遅くなる前に、奪取しなければならない、と彼は述べた。
 遅れるのは、致命的だろう。
 ボルシェヴィキは、ソヴェトの第二回〔全国〕大会の会合の<前に>行動を起こして、大会がするかもしれないいかなる決定をも阻止しなければならない、と。//
 レーニンによる即時の武装蜂起の主張は情熱的なものだったが、指導部にいる仲間たちの確信を完全には抱かせはしなかった。
 潮目が明らかに我々に向かっているときに、なぜボルシェヴィキは絶望的な賭けを冒す必要があるのか?
 さらに言えば、レーニン自身が帰ってきておらず、責任を取れなかった。レーニンが本当に真剣であるならば、確実に彼はこれをしたのか?
 夏にレーニン向けられた責任追及によって、疑いなくレーニンは過分に疲れていた。
 可能性としては、彼は七月事件の間の彼と中央委員会の躊躇について思い悩み、権力を奪取する希有の機会を失ったと考えていた。
 いずれにせよ、全ての大指導者たちと同じく、レーニンは気まぐれだった。
 この雰囲気は、過ぎ去るかもしれなかった。//
 この時点でのレーニンの行動は、確かに矛盾していた。
 一方では、ボルシェヴィキによる蜂起を強く主張した。
 他方では、臨時政府が7月に収監されていた左翼政治家を釈放し、今やボルシェヴィキはソヴェトを支配していて、レーニンに対する切迫した危険があった時期は確実に過ぎていたにもかかわらず、彼は数週間もフィンランドにとどまった。
 彼がペテログラードに戻ったとき、おそらくは10月の第一週の末、ボルシェヴィキすらから離れて潜伏し、怒りと激励の一連の手紙によってのみ党中央委員会に連絡通信をした。//
 10月10日、ボルシェヴィキ中央委員会は、蜂起は好ましいということに同意した。
 しかし、ボルシェヴィキたちの明らかに多くは、ソヴェトの自分たちの立場を使って法に準じた、非暴力的に権力を移行させることに傾斜していた。
 あるペテログラード・ボルシェヴィキ委員会の一員の、のちの回想録はつぎのように語る。//
 『ほとんど誰も、ある特定の時期での、統治の全装置を武装奪取することの始まりだとは考えていなかった。<中略>
 我々は、蜂起とはペテログラード・ソヴェトによる権力の掌握のことだと単直に考えていた。
 ソヴェトは、臨時政府の命令に従うことをやめ、ソヴェト自体に権力があると宣言し、これを妨害しようとする者は誰でも排除するだろう、と。』(18)
 監獄から最近に解放されてボルシェヴィキ党に加入していたトロツキーは、今やペテログラード・ソヴェト多数派の指導者の一人だった。
 トロツキーはまた、1905年のソヴェト指導者の一人でもあった。
 公然とはレーニンに反対しなかったけれども(のちには二人の見解は一致していたと主張した)、彼も蜂起を疑問視し、ソヴェトが臨時政府を除去する課題に対処することができるし、そうすべきだ、と考えたというのは、ありうるように思われる。(19)
 ボルシェヴィキが行う蜂起に対する強い反対が、レーニンの古くからのボルシェヴィキの同僚だった二人、ジノヴィエフ(Grigorii Zinoviev)とカーメネフ(Lev Kamenev)から挙がった。
 彼らはボルシェヴィキがクーによって権力を奪取するのは無責任であり、その権力を単独で保持できるとするのは非現実的だ、と考えた。
 ジノヴィエフとカーメネフがこうした主張を自分たちの名前を出して非ボルシェヴィキの日刊新聞紙(マクシム・ゴールキの<Novaya zhizn>)に公表したとき、レーニンの怒りと憤激は新しい次元へと高まった。
 これは理解できるものだった。二人の行為は果敢な抵抗だったのみならず、ボルシェヴィキは秘密裡に蜂起を計画しているということを公的に発表するものだったからだ。//
 このような状勢からすると、ボルシェヴィキの十月クーが巧くいったのは驚くべきことのように見える可能性がある。
 しかし、実際には、積極的な公表があったことは、レーニンの基本的考えを妨げたのではなく、むしろ助長した。
 そのことは、ボルシェヴィキたちが事前に逮捕されたり、ペテログラード地域の労働者、兵士・海兵がいかなる革命的行動をも非難するという強い徴候を知らされないかぎり、ボルシェヴィキが行動<しない>のは困難な立場へと、ボルシェヴィキを追い込んだ。
 しかし、ケレンスキーは、ボルシェヴィキに対する果敢な反抗措置を取らなかった。そして、ペテログラード・ソヴェトの革命軍事委員会(Military-Revolutionary Committee)をボルシェヴィキが支配していることは、クーを組織するのを比較的に容易にした。
 革命軍事委員会の基本的な目的は、コルニロフのような反革命に対する労働者の抵抗を組織することだった。そして、ケレンスキーは明らかに、そのことに干渉する立場にはいなかった。
 戦争の情勢もまた、重要な要因だった。すなわち、ドイツ軍は前進しており、ペテログラードは脅かされていた。
 労働者たちはすでに、大工業施設を引き渡して市から避難するようにとの臨時政府の命令を拒否していた。彼らは革命に対する政府の意向を信用しておらず、そのゆえにまた、政府のドイツ軍と戦う意思をも信用していなかった。
 (逆説的にだが、ボルシェヴィキの「平和」スローガンに労働者が賛同していたので、労働者たちもボルシェヴィキも、ドイツの脅威が切迫しかつ現実的になったときに戦闘的に反応した。かつての平和スローガンは、リガの陥落後の1917年の秋と冬にはほとんど聞かれなくなっいた)。
 ドイツ軍が接近してきたときにケレンスキーが労働者を武装解除していたならば、彼はおそらく、裏切り者で降伏主義者だとしてリンチを受けて殺されていただろう。//
 10月24日、第二回ソヴェト大会の会合の直前に、ソヴェトの軍事革命委員会の実力部隊が枢要な政府組織を占拠し始めて、蜂起が始まった。彼らは、電信施設と鉄道駅舎を奪い取り、市の橋梁で路上封鎖を開始し、臨時政府が会合をしている冬宮を取り囲んだ。//
 彼らは、ほとんど実力による抵抗に遭遇しなかった。
 街頭は平穏なままであり、市民は日常の仕事をし続けた。
 10月24-25日の夜、レーニンは潜伏場所から現れて、スモルニュイ(Smolny)研究所で同志たちに合流した。スモルニュイは、かつては若い女性たちの学校で、今はソヴェトの最高司令部があった。
 彼もまた静穏で、神経質な不安の状態から回復しているように見えた。そして、当然のこととして、かつての指導者としての地位を取り戻した。//
 10月25日の午後までに、クーはほとんど成功した。-刺激的なことに、中にいる臨時政府の構成員たちをまだ取り囲んでいる冬宮の制圧を除いては。
 その日の夕方遅く、冬宮は陥落した。徐々に減っていく防衛者の一団に対する、いくぶんは混乱した攻撃によって。
 これは、のちのソヴィエトの資料が示唆するよりも英雄的でない事態だった。ネヴァ川の冬宮の反対側に停泊していた戦艦<オーロラ>は、一発の実弾も撃たなかった。そして占拠した部隊はケレンスキーを脇の出入口から抜け出させ、車でうまく市から逃亡させた。
 政治ドラマの観点からすると、これもいくぶん不満足なものだった。ソヴェト大会-ボルシェヴィキの強い主張にもとづいて数時間も最初の会議を延期していた-は、冬宮の陥落の前についに手続を開始した。こうして、劇的な開会の宣言をしようとのボルシェヴィキの意向は打ち砕かれることとなった。
 だがなお、基本的な事実は残ったままだ。すなわち、二月体制は打倒され、権力は十月の勝利者の手に移った。//
 もちろん、このことも、一つの問題を未解明のまま残した。
 いったい誰が、十月の勝利者<だった>のか?
 ソヴェト大会よりも前の蜂起をボルシェヴィキに迫ることで、レーニンは明らかに、この資格がボルシェヴィキに与えられることを望んでいた。
 しかし、ボルシェヴィキは実際には、ペテログラード・ソヴェトの軍事革命委員会を通じて蜂起を組織した。
 そして、偶々なのか企図してか、軍事革命委員会はソヴェト全国大会の会合の直前まで、遅らせた。
 (トロツキーはのちに、これはボルシェヴィキの権力奪取を合法化するためにソヴェトを用いるという輝かしい-明らかにレーニンのそれではないので推測するに彼自身の-戦術だったと描写した。(20))
 報せが地域の外に伝わったとき、最も共通した見方は、ソヴェトが権力を奪取した、というものだった。//
 この問題は、10月25日にペテログラードで開かれたソヴェト大会で十分には明らかにされなかった。
 分かったとき、大会代議員の明確な多数派は、全ての権力のソヴェトへの移行を支持するよう委任(mandat)を受けて出席していた。 
 しかし、これはもっぱらボルシェヴィキ派だったのではなかった(670人の代議員のうち300人がボルシェヴィキで、最大の位置を占めていたが、多数派ではなかった)。そして、そのような委任は、必ずしもボルシェヴィキによる先立つ行動を是認することを意味しはしなかった。
 そのボルシェビキの行動は最初の会合で、メンシェヴィキとエスエルの大集団によって厳しく批判された。この両派は、そのあと、抗議するために大会に出席しなくなった。
 レーニンの古い友人であるマルトフが率いるメンシェヴィキの宥和的姿勢については疑問が出されている。しかし、トロツキーはこのような批判を、思い出しての文章の中で、「歴史のごみ函」に送ってしまった。//
 ソヴェト大会では、ボルシェヴィキは全国すべてについての権力の労働者、兵士、農民のソヴェトへの移行を呼びかけた。
 中央権力に関するかぎりで、論理的に意味するところは、確かに古い臨時政府の場所がソヴェトの常勤の中央執行委員会に奪われるだろう、ということだった。このソヴェト中央執行委員会はソヴェト大会によって選出され、多数の政党の代表者を含むものだった。
 しかし実際は、こうではなかった。
 多くの代議員が驚いたのだが、中央政府の機能は新しい人民委員会議(Council of People's Commissars)が獲得する、と発表された。ソヴェト大会のボルシェヴィキ派全員は、10月26日の大会でボルシェヴィキ党の報道員が読み上げたことによって知った。
 新政府の長はレーニンで、トロツキーは外務人民委員(大臣)だった。//
 ある歴史研究者たちは、ボルシェヴィキの一党支配は意図してではなく歴史的偶然の結果として出現した、と主張してきた。(21)-すなわち、ボルシェヴィキは自分たちだけで権力を奪うつもりはなかった、と。
 しかし、問題にしている意図がレーニンのものだとすれば、この論拠は怪しいように見える。
 そしてまた、レーニンは、党の他の指導者の反対を無視したのだ。
 9月と10月、レーニンは明らかに、複数政党のソヴェトではなくてボルシェヴィキが権力を奪うことを望んでいたと思われる。
 彼は、ソヴェトをカモフラージュとして用いることすら望まず、明確なボルシェヴィキのクーを演じることを選好していただろう。
 確かに、地方では十月革命の直接の結果はソヴェトが権力を掌握した、ということだった。そして、地方のソヴェトはつねにボルシェヴィキが支配していたわけではなかった。
 ボルシェヴィキの十月後のソヴェトに対する態度については異なる諸解釈に開かれているけれども、原理的には、ソヴェトがボルシェヴィキを信頼しているかぎりで地方レベルでソヴェトが権力を行使するのに反対しなかった、と言うのがおそらく公平だろう。
 しかし、この要件を他の政党と競い合う民主主義的選挙と一致させるのは困難だつた。//
 確かにレーニンは新しい中央政府、人民委員会議での連立問題については、全く頑固だった。
 1917年11月、全員がボルシェヴィキの政府からより広い社会主義者の連立へと移行する可能性についてボルシェヴィキ党中央委員会が討議したとき、レーニンは断固としてそれに反対した。異論を受けて若干のボルシェヴィキですら、政府から離れたのだったけれども。
 のちに数人の「左翼エスエル」〔左翼社会革命党、社会革命党左派〕(十月クーを受容したエスエル党の分裂集団の一員たち)が、人民委員会議に加わった。しかし、彼らは、強い党基盤をもたない政治家だった。
 彼らは1918年半ばに政府から除外された。そのとき左翼エスエルは、その最近にドイツと調印された講和条約に反対する暴動を起こしていた。
 ボルシェヴィキは、他政党と連立政府を形成する努力をもはやしなかった。//
 ボルシェヴィキが単独で支配すべきという民衆からの委任(mandate)を得ていたのか、それとも、ボルシェヴィキはそう信じていたのか?
 立憲会議の選挙で(十月のクー以前の予定だったが、1917年11月に実施された)、ボルシェヴィキは民衆による投票数の25パーセントを獲得した。
 これは投票総数の40パーセントを獲得したエスエル党に次ぐ多さだった(クーの問題ではボルシェヴィキを支持した左翼エスエルは、投票リストでは〔エスエル全体と〕区別されなかった)。
 ボルシェヴィキは、より良い結果を期待していた。そしてこれは、投票結果をもっと詳細に検証するならば、おそらく解明できる。(22)
 ボルシェヴィキはペテログラードとモスクワで、そしておそらく都市的ロシア全体では勝利した。
 500万の票をもつ軍隊では別々に計算され、ボシェヴィキは北部および西部の前線とバルト艦隊で絶対多数を獲得した。-ボルシェヴィキが最もよく知る支持者たちであり、ボルシェヴィキが最もよく知られている場所だった。
 南部戦線と黒海艦隊では、ボルシェヴィキはエスエルとウクライナ諸党に敗北した。
 エスエルの全体的な勝利は、農民層の票を村落で獲得したことの結果だった。
 しかし、これに関して一定の不明瞭さはあった。
 農民たちはおそらく単一争点の投票者であり、エスエルとボルシェヴィキの土地に関する基本政策は、ほとんど同じだった。
 しかしながら、エスエルは農民層にははるかによく知られていて、農民はエスエルの伝統的な支持層だった。
 農民がボルシェヴィキの基本政策を知っていたところでは(ふつうは、ボルシェヴィキがより多くの宣伝活動を行った、町、軍駐屯地または鉄道の近くである結果として)、彼らの票は、ボルシェヴィキとエスエルに割れた。//
 にもかかわらず、民主主義的選挙による政治では、敗北は敗北だ。
 ボルシェヴィキは、立憲会議についての選挙が示す見方を採用しなかった。つまり、選挙で勝利できなかったことを理由として権力を手放しはしなかった(そして、会議が招集されて敵だと分かったとき、ボルシェヴィキはそれを素っ気なく解散させた)。
 しかしながら、支配すべきとの委任(mandate)の観点からは、ボルシェヴィキは、自分たちが代表すると主張しているのは民衆全体ではない、と議論することができたし、そう議論した。
 ボルシェヴィキは、労働者階級の名前で権力を奪取した。
 第二回〔全国〕ソヴェト大会と立憲会議の二つの選挙から導き出すことのできる結論は、ボルシェヴィキは、1917年10月から11月にかけて、労働者階級については他のどの党よりも多くの票を獲得した、ということだった。//
 しかし、のちのある時期に、労働者がその支持を撤回することがあれば、いったいどうなるのか?
 プロレタリア-トの意思を代表するというボルシェヴィキの主張は、事実の観察はもとより信念にもとづいている。すなわち、レーニンの見方からすれば、つぎのことは全くあり得ることだ。将来のある時期に労働者プロレタリア-トの意識はボルシェヴィキ党のそれよりも劣っていると分かってしまうが、支配すべきとの党への委任を変更する必要は必ずしもない、ということ。
 おそらくはボルシェヴィキは、このようなことが起きるとは想定していなかった。
 しかし、1917年のボルシェヴィキに対する反対者の多くは想定し、そしてレーニンの党はかりに労働者階級の支持を失っても、権力を放棄することはないだろう、と考えた。
 エンゲルスは、未成熟のままで権力を奪う社会主義政党は、孤立して、抑圧的な独裁制へ向かうこと強いられる可能性があるという警告を発していた。
 明らかにボルシェヴィキの指導者たちは、とくにレーニンは、そうした危険を冒すのを厭わなかった。//
 --------
 (18) Robert V. Daniel, <赤い十月>(New York, 1967), p.82. から引用した。
 (19) 十月革命に関与した大物ボルシェヴィキの行動と意図は、のちに大量に自己に役立つ修正と政治神話の形成を行う主題になった。-公式のスターリニズム的歴史書でのみならず、トロツキーの古典的な<回顧録つき>歴史書である、<ロシア革命の歴史>でも。
 Daniels, <赤い十月>, Ch. 10. を見よ。
 (20) Leon Trotsky, <ロシア革命の歴史>, Max Eastmanによる訳書(Ann Arbor, MI, 1960), ⅲ, Chs. 4~6. 1976
 (21) 例えば、Roy Medvedev, <歴史に判断させよ: スターリニズムの起源と帰結>(1st ed.; New York, 1976), p.381-4. を見よ。
 (22) 以下の分析は、O. Radkey, <ロシアが投票箱に進む-全ロシア立憲会議・1917年>(Ithaca, NY, 1989)にもとづく。
 ----
 第二章の第4節(夏の政治危機)と第5節(十月革命)の試訳が終わり。
 ***
 この著の表紙/左-第4版、右-第3版。
 fitspatrick000

 
ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
  • 2564/O.ファイジズ・NEP/新経済政策④。
  • 2546/A.アプルボーム著(2017)-ウクライナのHolodomor③。
  • 2488/R・パイプスの自伝(2003年)④。
  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
  • 2277/「わたし」とは何か(10)。
  • 2230/L・コワコフスキ著第一巻第6章②・第2節①。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
  • 2179/R・パイプス・ロシア革命第12章第1節。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2136/京都の神社-所功・京都の三大祭(1996)。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2118/宝篋印塔・浅井氏三代の墓。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2102/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史11①。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2101/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史10。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
アーカイブ
記事検索
カテゴリー