阪本昌成・法の支配(勁草書房、2006)をメモしつつ読む。今年1/13以来の2回め(p.7~10)。とっくに読んでいた部分だが。以下の数字は原書どおり。
--------------
 第1章・何が問われるべきか―現代国家の病理
 第1節・政治哲学上の原理を欠いていた「福祉国家」
 社会科学の課題は人の行為の原因ではなく理由=当該行為の障害は何かを問うこと。障害には自然的、心理的・性格的なものもあるが、対象とすべきは「他者が意識的に作りだした障害」、とくに「国家が意識的に作りだした」それだ。憲法哲学上の「自由」論はこれに焦点を当てる。
 1 安寧か福祉か
 (1)安寧  自由は国家が作る障害から防御する基礎だったが、「人々のwell-being」(安寧)を配慮することも国家の正当な役割だった。ヘーゲルにおいても。もっとも、その配慮は国家の一般的責務で個々人の「自由や権利と対等の利益」ではなかった。
 (2)福祉  だが、well-beingはwelfareとの違いが明確にされることなく「人並みの生活」と理解され始め、主観的利益のごとき様相を呈しだした。さらにwelfare(福祉)は正義や自由、権利と結合され、「福祉国家」論の原型となった。
 「福祉国家」における「分配的正義」・「実質的正義」はwell-beingの微妙かつ重大な意味変化の表れだったが、この変化を支える「政治哲学上の原理(理論体系)」は十分用意されなかった。
 「福祉国家」論は一種の「功利主義」を基礎とする。/古典的哲学は「善」を「徳」と関連づけたが、これは「善」を「効用」と関連づけた。
 ベンサム的功利主義は<最大幸福をもたらす国家・法制度が正義に適う>とする傾向にあるが、この思考は「幸福の中身」に国家が関与しないという点で「リベラリズム」と「一時的に共鳴」はしたが、次第にそれから離脱する。功利主義は根本的に批判されるべきだった。以下はその理由。
 (2)福祉国家の理論的問題点  第一に、功利主義は私的な善の最大化をめざす点で古典的「善」観念からずれている。<功利主義は正義を善に、それも「私的な善」に依存させている>と批判されて当然だった。
 第二に、国家が個人の「自然的または私的な生への配慮」を担えば国家権力は「人びとの心身に浸透する権力」に変質する。現代人の国家依存性はこれと関連。
 第三に、某人の効用を大にすることは他の某人を「犠牲」にする可能性がある。福祉国家とは「ある人の私的所有よりも、別の人のニーズを上位におくことで」、「公正でない」・<税財源による市場外からの社会保障システムの提供は「所得再配分政策」となること必定で、それだけ「自由を削減」する>という批判が可能だ。
 「国家が善き生活を万人に保障しようとすることは、ある立場からみれば、正義にもとるのである」。
 福祉国家には実務的難点もある。/「社会的正義」の到達度に関する「客観的基準」がない。「最低限の」所得保障→「適正な」所得保障への歯止めがない。
 R・ノージックは、福祉国家を「功利主義に依拠する目的論的国家」と批判し、ハイエクは「福祉国家は結果の平等という目的のために人を手段として用いている」と批判し続けた。/「福祉国家論と批判論、どちらが現実を客観的に捉えて」いるか?
 現代国家は福祉国家のみならず「総需要の管理というマクロ経済政策に従事する国家」でもある。憲法学のいう「積極国家」・「行政国家」、さらには「現代立憲主義国家」だ。/この国家は我々のwell-beingにいかなる作用を及ぼしているか。/これは今日の社会科学の新たな課題だ。
 (以上、第1章の第1節の1まで。p.7~p.10)