秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

稲田朋美

1703/陸自「日報」問題・情報公開と古賀茂明・佐藤正久。

 陸上自衛隊日報にかかる情報開示問題につき、佐藤正久・現外務省副大臣、古賀茂明・元経済産業省官僚で元内閣審議官の二人の論評類をネット上で読んだ。
 テレビ、新聞等は、陸上自衛隊「日報」問題を、稲田朋美・安倍内閣問題にのみほとんど焦点をあてて<政治的に>報道してきた。産経新聞、フジ系テレビ局でも、事態はほとんど変わらない(かりに立場が正反対のようでも)。国の情報公開制度に関する基礎知識に曖昧な部分または誤りがあるのではないか、と思われる。
 ましてや、月刊正論(産経)等の「特定保守」系雑誌に稲田・安倍等に関して書いている人は、何も知らないだろうと思われる。
 現副大臣・佐藤正久、そして著名?評論家・古賀茂明。この人たちはだいじょうぶなのだろうか。
 曖昧さや明らかな誤りではないかと思う部分がある。なお、この二人を個人的に批判するのが、以下の目的ではない。
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 A「2016年7月の情報公開請求があったとき、陸自の現場は、日報の存在を隠す判断をしている。文書が物理的に存在するのに、情報公開請求に対して不存在と回答する場合の官僚の言い訳は、『物理的に存在しても、単なる個人のメモ、あるいは、ただの走り書きのようなもので正式なものではないから<行政文書>としては存在していない』という理屈である。加計学園問題で文部科学省でも同様の言い訳が使われたことは記憶に新しい。
 今回のケースでは、組織内のネット上で多数の職員が閲覧できる形で存在したものだから立派な行政文書なのだが、それを捻じ曲げて、不開示決定をしてしまった。/その時の陸自関係者の意識は、こういうものではないか。」
 以上、古賀茂明「官僚と稲田防衛相に“阿吽の呼吸”が成立しなかった本当のワケ」2017年7/31付・朝日新聞系のアエラ・ドットコム上。
 B「“日報”とは、現場の部隊から国内の大臣等に報告のため、作成されるものであり、文書の性質上、“行政文書”に属する。そのため、行政文書に係る法令等に従うことは当然であり、情報開示請求の対象となるのである。/これは、現状の法令に則った回答である。
 現在の報道では、日報の存在を組織ぐるみで隠蔽したとされ、“情報開示”の在り方に主にスポットが当てられている。/確かに、情報開示に関する防衛省の組織体制は再考する必要はあるだろう。//
 しかし根本の問題を見過ごしていないであろうか?/すなわち、“情報保全”である。
 日報には当然であるが、隊員の健康状態・装備品の状況の詳細といった、我が国の“手の内”が記載されている。/現場での任務遂行のための必要な情報の塊といっても良いであろう。/さらに、今回の対象となったのは、現在進行中の任務である。
 その様な状況の日報・レポートを開示請求されたならば開示するといった国は、おそらくどこにもない。開示するような国と共に行動する国も、おそらくないであろう。
 実行中の任務の日報については、不開示という判断も当然あり得る。
 “情報”の取り扱いの在り方について、引き続き考えて行きたい。」
 以上、佐藤正久ブログ7/31「“情報保全か?”それとも“情報開示か?”」
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 A・古賀は、日報という「文書が物理的に存在」する場合に「情報公開請求に対して不存在と回答する場合の官僚の言い訳は、『物理的に存在しても、単なる個人のメモ、あるいは、ただの走り書きのようなもので正式なものではないから<行政文書>としては存在していない』という理屈」だ。/今回のケースでも「組織内のネット上で多数の職員が閲覧できる形で存在したものだから立派な行政文書なのだが、それを捻じ曲げて、不開示決定をしてしまった」、と書く。
 しかし、「立派な行政文書」であっても、不開示決定にすることはできる。かつ、その判断に「裁量」が認められてよい、と考えられる。「裁量」性の問題を別にすると、上の「かつ」以前の文意は、法律上で<明記>されている、と言ってよい。
 もとより具体的事案に立ち入るつもりはないが、<行政文書なのに「捻じ曲げて」不開示決定した>という叙述はおかしい。どちらかと言うと、誤りだ。関係条文は、あとで以下に示す。
 B・佐藤の文章の趣旨は、必ずしも明晰でない。
 行政文書→開示請求の対象になる→不開示もあり得る、と明確に書いてくれないと困る。
 つまり、先ずは例えば、開示請求の対象になる=開示義務が発生する、ではない、ということを。
 Aの古賀の文章だと、行政文書→不開示決定は「捻じ曲げられ」たことになる。正しくは、上記のとおり、(文書・情報→)「行政文書」→開示請求の対象になる=審査・検討の義務が大臣等に発生する→開示決定または不開示決定、なのだ。
 もっとかみくだいて言うと、不開示決定には、つぎの二つのものが、厳密にはつぎの三つのものがある、ということを明確に知っておく必要があるだろう。
 新聞記者、メディア関係者は知ったうえで報道してきたのだろうか。
 「特定保守」雑誌への執筆者たちは、たぶん全く知らない。
 ①文書・情報そのものが不存在のとき。古賀のいう「物理的」な不存在の場合。
 ②文書・情報はあっても、法律上の「行政文書」に該当しないとき。つまり、<行政文書の不存在>のとき
 ③当該文書・情報は「行政文書」だが、法律が定める「不開示情報」に該当する(と認める)とき
 いずれの場合も、間違いなく同じく<開示しない旨の決定>がなされるはずだ。
 ①の場合は、存否の判断が正しいものならば、開示(公開)したくてもできない。
 ②、③には、「行政文書」か否か、「不開示情報」を含むか否か、という法律解釈または法律の適用・個別案件ごとの要件充足性の認定が伴う。
 以上のことを、佐藤正久は分かったうえで書いているのだろうか。どうも微妙だ。
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 ①と②で、「ある」(ない)・「存在」(不存在)と言っても、意味・レベルが違う
 ②の場合の「ある」・「存在」は、法律上の一定の概念に当てはまる経験上の現物たる「もの」がある(ない)とか存在する(存在しない)という意味で、<現実の客観的(・物理的)認識>上の「ある」・「存在」ではない。
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 関係法律と関係条文は以下。防衛省(・自衛隊)も同じ法律の適用をうけ(かつ適用除外されておらず)、開示に関する法的な決定権限者は防衛省でも事務次官でも自衛隊でもなく、一人の人間が担当する職としての防衛大臣であることの根拠・関連条項は省略。 
 行政機関の保有する情報の公開に関する法律(平成11年=1999年法律第42号、最近改正・2016.05)。
 いわゆる国の情報公開法(法律)。独立行政法人には直接の適用はなく別の法律があるので、<行政機関情報公開法>とも略称されている。
 同法2条項本文「この法律において「行政文書」とは、行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書、図画及び電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によっては認識することができない方式で作られた記録をいう。以下同じ。)であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう。ただし、次に掲げるものを除く。」(但書の各号省略)
 同法第5条本文「行政機関の長は、開示請求があったときは、開示請求に係る行政文書に次の各号に掲げる情報(以下「不開示情報」という。)のいずれかが記録されている場合を除き、開示請求者に対し、当該行政文書を開示しなければならない。」
 同第5条第3号「三 公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は他国若しくは国際機関との交渉上不利益を被るおそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」。
 シロウトにも、「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ…」が「あると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」は「不開示情報」として開示しないことができる、ということが分かる。
 佐藤正久は、このことをきちんと知って、意識して、上の文章を書いたのだろうか。
 怪しい。それとも、具体的に問題になった<陸自日報>が「公にすることにより、国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は…」のある情報かどうかに逡巡があって、上のような、「引き続き考えて行きたい」という、締めくくりの言葉になったのか。
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 天皇譲位問題も自衛隊憲法明記問題も、数ヶ月遅れてまともに書く気になった。天皇制度も憲法九条も、主要な関心対象ではなくなっているからだ。この回の情報公開制度は、さらにもっと同じ。
 だが、ネット上の諸発言・主張・見解等々をいつになく見ていると、気になることが山ほど出てくる。
 早く卒業して、本来の?L・コワコフスキ、R・パイプスの本の試訳作業、共産主義や「全体主義」・「ファシズム」の問題に戻りたい。

1296/月刊WiLL7月号(ワック)-読書メモ。田村重信、中西輝政ら。

 月刊WiLL7月号(ワック)を入手して、読んだもの。
 2013年、2014年と、かつてと比べれば投稿が大きく減ったが、かつてと同様に読書録・備忘録としても、この欄を利用していく。但し、ターゲット、対象、素材、要するにテーマをもう少し絞る方向で考えた方がよいかもしれない。さて…。
 ・田村重信「『安保法制』一問一答35」。全部、読了。時宜を得ている。体系的に現下の諸問題の位置づけが分かるようではないのが、残念といえば、残念。
 ・特集<戦後70年、私はこう考える>のうち、中西輝政「安倍演説で『歴史問題』は終わった」、稲田朋美「あの戦争を総括し歴史を取り戻せ」、平川祐弘「『マルクスが間違うはずはありません』」。
 安倍晋三グループ(?)の稲田朋美が-日本共産党・不破が言うような-単純な「戦争礼賛」派ではないことは、すべきことは「東京裁判の歴史認識をそのまま受け入れて思考停止するのではなく、自分たちの手で客観的事実に基づく不戦条約以降敗戦に至るまでの日本の歩みを総括し、歴史を取り戻す」ことと最後に述べている(p.63)ことでも分かる。もっとも、どう総括するかは、<保守>派において一致がないと見られるのだが…。
 平川の文章のタイトルになっているのは、東京大学学生だった19歳の不破哲三の言葉。
 中西輝政も触れている安倍米国議会演説について、金美麗、田久保忠衛の二つの論考があるが、読んでいない。おそらく少しは異なる内容で、私の理解の仕方をこの欄にいずれ書く。
 ・筆者インタビュー/池田信夫「戦後リベラルの終焉」。池田信夫は<保守派>とされていないと思うが、なかなか鋭く面白いことを発言する論客だと感じてきた。それに、いわゆる<保守派>ではないとしても、決して<容共>・親コミュニズムの人物でもない。
 このPHP新書はしかし、購入済みのままで未読だ。他にも、櫻井よしこ=花田紀凱・「正義」の嘘(産経)など、所持したまま未読のものは多い。<西尾幹二・再発見>も、試みてみたいし。池田著を読みおえてから、何かコメントしよう。/以上。

1261/月刊正論1月号・柳本卓治論考を読む。

 月刊正論(産経新聞社)2015年1月号に柳本卓治「世界最古の『憲法の国』日本の使命」がある(p.168-)。
 自民党議員で参議院の憲法審査会会長に就任したという人物が書いているもので、共感するところもむろんあるが、大いに気になることもある。
 この論考は大きく五つの柱を立てているが、その二は「国家や国民という歴史と文化・伝統を縦軸に、国民主権・基本的人権・平和主義の三大原理を横軸に据えた憲法を」だ。「国民主権・基本的人権・平和主義の三大原理」を基軸の一つにする、と言うのだが、より詳しくは次のように語られている(p.170)。
 「現行の日本国憲法は、占領下の翻訳憲法ではあるが、その根幹には、国民主権、基本的人権、そして平和主義(戦争の放棄)という三大原理が謳われてい」る。「国民主権(主権在民)も基本的人権も、自由と民主主義に立脚する近代国家には、普遍的な原理」だ。「また、戦争放棄と平和主義も、人類国家として実現していかなければならない理想でもあ」る。
 これはいけない。第一。すでにこの欄で述べたことがあるが、まず、現憲法が「国民主権・基本的人権・平和主義」を「三大原理」とするというのは、多くの高校までの教科書には採用されている説明かもしれないが、<左翼>憲法学者たちが説いてる一つの解釈または理解の仕方にすぎない。阪本昌成のように七つの<後日訂正-六つの>原理を挙げる憲法学者もあり、大学レベルでの憲法教科書類が一致して説いているわけでは全くない。少なくとも、権力分立原理と「象徴」天皇制度の維持・採用も、現憲法の重要な原理だろう。前者には、司法権により立憲主義を維持・確保しようとしていること(立法を含む国家行為の憲法適合性の審査)も含めてよい。
 ともあれ、素朴で、幼稚ともいえる「三大原理」の持ち出し方は、適切であるとは思えない。
 つぎに、その「三大原理」を「自由と民主主義に立脚する近代国家」に「普遍的な原理」だと語るのは、まさに<左翼>的な戦後教育の影響を受けすぎており、とても<保守>派の政党・論者が語るものとは思えない。そもそも、日本において、アメリカの独立革命やフランス革命とそれらが生んだ憲法をモデルとして「近代憲法」を語ることの意味が問われなければならないだろう。西欧+アメリカの「近代」原理を日本も現憲法で採用し、それは「普遍的原理」だ、というのは、典型的な<左翼>の主張であり、理解である、と考えられる。
 欧米を「普遍的」原理を提供しているモデルと見るのではなく、日本的な国政あるいは国家統治の原理を創出しなければならず、「自由と民主主義」といっても、それは日本的な「自由と民主主義」でなければならない。
 柳本のような論調だと、欧米的「近代」・「普遍的な原理」によって、「国家や国民という歴史と文化・伝統」は害され、決して両者は調整・調和されないことになるのではないか。
 柳本の教養・素養の基礎は経歴によると経済学にあるようだが、上のようなことを書く人が参議院憲法審査会会長であるというのは、かなり怖ろしい。
 さらにいえば、柳本・参議院憲法審査会会長は、「戦争の放棄」とか「平和主義」をどのような意味で用いているのだろうか。いっさいの「戦争の放棄」をしてはならず、正しい又は正義の戦争=自衛戦争はある、と私は考える。
 また、<左翼>が「平和憲法」などと称して主張する場合の「平和主義」とは、決して戦後および現在の世界諸国において一般的・普遍的なものではなく、「戦力の保持」をしないで他国を信頼して「平和」を確保しようとする、きわめて非常識かつ異常な「平和主義」に他ならない。
 にもかかわらず、柳本は次のように書く-「いま最も大切なことは、この憲法9条の精神を今後も高々と掲げると共に、同時に、…独立国としての自衛権と、自衛のための自衛軍の整備をきちんと明文化すること」だ。
 ここには現9条の1項と2項の規範内容の違いへの言及がまるでないし、「憲法9条の精神を今後も高々と掲げる」という部分は、実質的に日本共産党の別働団体になっている「九条の会」の主張と何ら異ならない。せめて、9条1項の精神、とでも書いてほしいところだ。
 柳本は「憲法9条とは、先の大戦を通して、国民が流し続けた血と涙の池に咲いた、大輪のハスの花である」とまで言い切る。憲法9条は、その2項も含めて全体として、このように美化されるべきものでは全くない、と私は考える。このような言い方も「九条の会」と何ら異ならない。
 繰り返すが、現憲法の文言から素直に読み取れる「平和主義」とは、「軍その他の戦力」の不保持・「交戦権」の否認を前提とする、それを重要な構成要素とする<世界でも稀な、異様な>「平和主義」だ。その点を強調しないままで、現9条は「大輪のハスの花」だとか、「戦争放棄と平和主義」は「人類国家として実現していかなければならない理想」だ、などと自民党かつ参議院の要職者に語られたのでは、げんなりするし、憲法改正・自主憲法制定への熱意も薄れそうだ。
 第二。五つめの柱の「日本人は世界初の『憲法の民』」も、そのまま同感はしかねるし、また議論のために不可欠の論点だとは思われない。
 柳本は、聖徳太子の「十七条の憲法」を持ち出して、「近代国家の憲法とは、一律には比較でき」ないと断りつつも、「日本人は、世界初の『憲法の民』なの」だ、という(p.175)。
 日本と日本人が<世界初>・<世界で一つ>のものを有することを否定はしない。しかし、日本の明治期に欧米の近代「憲法」の原語(Constitution, Verfassung)がなぜ「憲法」と訳されたのかという歴史問題にもかかわるが、柳本も留保を付けているように、日本が世界初の「憲法」を持った、というのはいささか牽強付会の感を否めない。これはむろん「憲法」という概念・用語をどう理解するかによる。今後の憲法改正にあたっては、この点の指摘または強調はほとんど不要だろう。
 憲法改正に向けての多少の戦術的な議論の仕方を一切否定しようとするつもりはないが、柳本の基本的論調はあまりに<左翼>の影響を受けた、あるいは、表現を変えると<左翼>に媚びたものではないか。稲田朋美ならば、このような文章にならないのではないか。
 問題は、現憲法の諸条項を、どのように、どのような順序で改正するか(新設も含む)、そのための勢力を国会両議院内および国民・有権者内でどのように構築していくか、にある。

1246/稲田朋美が語る日本の法曹界の「左翼」性。

 稲田朋美が、伝統と革新(たちばな出版)という雑誌の2013年秋号(9号)で、「自主憲法制定の大切さ」と題して、この雑誌の編集責任者である四宮正貴によるインタビューに答えている。この中で、わが国の法曹界について語っている部分には全面的に同意したい気分なので、以下引用しておく。
 ・<大学の法学部での憲法教育には>「非常に問題がある」、「現行憲法の…根本的な問題点、つまり押し付けられたものであるとか、主権が制限されているときにできたものであって正統性に疑義があるというようなことは、まったく教えないです」。
 ・「しかも、憲法は絶対に正しいものとして、…、また絶対に守らなくてはいけないものだというところから出発して学びます。法曹界が非常に左派なのは、”憲法教”という新興宗教が蔓延っているからだ…。法曹界は一般社会以上に、非常に左派、左翼的な人が多いようにも思います。それは、そうした憲法を大学時代に一所懸命に勉強して、正しいと思い込んで、そうして難しいと言われている司法試験に合格した人の集まりだから…」(p.54)
 日本共産党・社会民主党等の支持を得て今年の東京都知事選挙に立候補した宇都宮健児は、何と正式に日本の弁護士たちによって選挙で選出された日本弁護士連合会(日弁連)の元会長であったことは、記憶に新しい。個別弁護士会や日弁連の執行部にいる「活動家」の中には日本共産党員もいると思われるが、そうでなくとも親日本共産党であること、または少なくとも反日本共産党(反共)ではないこと、は容易に推測できる。
 現在の司法試験に合格するためには、日本になぜ<天皇制度>が長く続いてきたか等の日本に固有の歴史問題や日本を他国から防衛するためにはどうすればよいか等の国防・安全保障問題などに関する知識はゼロであってもかまわない。従って、象徴天皇制度についてすら、「世襲」制は平等原則と矛盾して合理的でないと潜在的には意識しているような暗黙の<共和制>支持者の方が、法曹界には多いように見える。
 なぜ、そうなったのか。稲田朋美も指摘しているように、大学における憲法教育に大きな原因があるのだろう。その憲法教育は大学の憲法担当の教授たち(憲法学者)が担っていて、かつ彼らが例えば高校の日本国憲法に関する記述を含む現代社会や政治経済の教科書を書いているのだから、日本国憲法を真面目に学べば学ぶほど高校生も大学生(法学部生)も<左傾>していくことになっている。あまり真面目に勉強しない方がよいかもしれないとすら思える。司法試験に合格するような優等生こそが、真面目に勉強して<左翼>として巣立っていくのだ。
 そうした影響は、じつは法曹界に限らず、外務省を含む上級国家公務員についてもある程度は言えるかもしれない。マスコミに入社する法学部生たちは、彼らほど法学を勉強していないが(官僚バッシングはある程度は<コンプレックス>によるのではないかと思っている)、日本国憲法についての、稲田朋美が上に簡単に述べているような程度のイメージは持っているはずだ。朝日新聞社説は何と<憲法は国家を縛り、法律は国民を縛る、ベクトルが違う>という珍論を吐いたのだったが、単純素朴な(立憲主義なるものについての)憲法観・法律観も、法学部出身者であるならば、大学における憲法・法学教育の(日本国憲法の制定経緯・背景をまるで教えないような)影響を受けているのだろう。
 憲法改正をめぐって護憲派として登場して有力な論者の一人になっている、司法試験予備校?も経営している弁護士・伊藤真もいる。護憲・「左翼」の憲法学者には、青井三帆や木村草太などの社会的にも名前を出してきた若手もいる。。法曹界が<まとも>になるのは、いつになるのだろう。憂うべきことの一つだ。

1202/小林よしのりと橋下徹慰安婦発言と安倍首相・自民党。

 〇久しぶりに、小林よしのりの言説をとり挙げよう。

 ①5/16に「ゴー宣道場」のブログでこう書いた。

 「橋下徹の慰安婦問題に対する認識は基本的に正しい。/微妙に間違ってる点もあるが、一歩も引かぬ態度は支持するから、頑張ってほしい。
 安倍晋三や、稲田朋美や、産経新聞は、慰安婦に対する見解を180度変えてしまっている。/『女性の尊厳損ね許されぬ』には呆れてしまった。
 まったく唾棄すべき奴ら、軽蔑すべき奴らだ!
 安倍政権も産経新聞も、結局、アメリカの顔色を見て怯え、慰安婦問題でもどんどん自虐史観に戻ってしまったのだ。/卑怯者とは、こういう奴らのことを言う。」

 これは産経新聞5/15社説も読んだ後のものに違いない。

 ②また、産経新聞5/26の「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」によると、小林よしのりは週刊ポスト(小学館)5/31号で次のように語った、という。

 「橋下徹は、まるで『王様は裸だ』と叫んでしまった子供のようである。どんな反応が起きるのかまったく考えず、愚直に“本当の話”をし始めている」。「橋下発言は、何ら間違っていない」。「強制連行」・「従軍」に関しては「議論はとっくに決着している」。

 ③小林の舌鋒の矛先は、自民党・安倍晋三政権に強く向けられている。6/04発行となっているメールマガジン「小林よしのりライジング」40回では、次のように言う。

 「『河野談話』を修正か破棄し、「慰安婦制度は、当時は必要だった』と唱えたら、どんな目に合うか橋下徹が身をもって示し、安倍自民党はそれを傍観して震え上がったわけだ。

 誰も国のために戦った祖父たちの名誉を守ろうとしない。/日本は「性奴隷」を使用したレイプ国家にされてしまっているのに、安倍政権は何のアクションも起こさない

 橋下徹と一線をひいて、『村山談話』、『河野談話』を引き継ぐ歴代政権と何ら変わりがないことを、国際会議の場で必死で強調し、『戦後レジーム』の洞穴に引き籠って出て来なくなった」。

 〇小林よしのりの上の③は当たっているかもしれない。

 安倍首相は5/15、参院予算委員会で、「過去の政権の姿勢を全体として受け継いでいく。歴代内閣(の談話)を安倍内閣としても引き継ぐ立場だ」と述べた。これは翌5/16の産経新聞の記事による。同時に、「日本が侵略しなかったと言ったことは一度もない」と述べたようだ。

 これは<村山談話>を引き継ぐ、という趣旨だろう。
 産経の同記事が書くように、安倍首相は4/22に<村山談話>について「安倍内閣として、そのまま継承しているわけではない」と述べ、翌4/23には「侵略の定義は定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかで違う」と述べていたにもかかわらず、である。

 いったい何があったのか。
 5/13が橋下徹慰安婦発言、橋下徹発言ほぼ全面批判の産経新聞社説は5/15だった。
 安倍首相は、橋下徹発言に対する反響に驚き、かつ産経新聞までが橋下発言を厳しく批判していることを知ったからこそ「軌道修正」(5/16産経記事)をしたのではなかっただろうか

 参院選挙まであと二月余という時期も関係していたかもしれない。
 だが、産経新聞5/15社説が<橋下徹発言は舌足らずだが、また一部に問題はあるが、おおむね(基本的には)正しい。河野談話の見直しを急ぐべきだ」という基本的な論調で書かれていたらどうなっていただろうか
 社説は場合によっては瞬時に基本的な主張内容を判断して数時間以内に文章化しなければならない場合もあるだろう。そういう場合にこそ、書き手のまたは論説委員グループの<政治的感覚>が問われ、試される。

 結果として、基本的には朝日新聞のそれと似たようなものになった産経新聞5/15社説は、安倍首相の感覚・判断をも狂わせた可能性がある、と感じられる。「女性の尊厳損ね許されぬ」を優先し、問題の「本質」、「より重要な問題」の指摘を数日あとに遅らせた5/15産経新聞社説は、基本的には<犯罪的な>役割を果たしたのではないか。怖ろしいことだ。

 最近にこの欄で<村山談話>の見直しはどうなっているのかと書いたばかりだが、安倍首相が国会で(少なくとも当面は、だろうが)「引き継ぐ」と明言しているとは、ガックリした。選挙対策、あるいは日本維新の会との差別化の意図によるとしたら、馬鹿馬鹿しいことだ。

1160/安倍新内閣発足翌朝の朝日新聞12/27社説の親中・「左翼」ぶり。

 安倍新内閣発足翌朝の朝日新聞12/27社説「安倍内閣発足―再登板への期待と不安」は、朝日らしく、意味不鮮明で、かつ自己陶酔に満ちている。
 後半になってとくに、何とかいちゃもんをつけておきたい気分が出てきている。しかも中国とまったく同じ立場から。
 朝日社説によると、歴史教科書に関する「近隣諸国条項」を引き継がないとなれば「中韓との関係はさらに悪化する」、らしい。
 それで?、とさらに突っ込みたいところだが、「中韓との関係」の悪化(と朝日が判断するもの)はこの新聞社にとっては、つねに、一般的に「悪」らしい。
 そのあと、「孤立招く歴史見直し」との見出しを掲げて、安倍首相や下村文相、稲田行革担当相の固有名詞を挙げ、歴史認識にかかる「戦後レジームからの脱却」を批判している。
 この点が最も言いたいところであり、朝日新聞は今後も絶えず、ぐちゃぐちゃと問題にし続けるのだろう。「戦後レジーム」の体現者であり、利得者でもあるのは、朝日新聞そのものに他ならないのだから、自己自身の存立基礎を脅かす論点であることを、当然によく理解している。
 そして、最後の一文は、「世界の中で孤立しては、日本の経済も外交も立ちゆかない」、になっている。
 果たして何が言いたいのか。「来夏の参院選までは憲法改正をはじめ『安倍カラー』は封印し、経済政策などに集中する」のが「現実的な選択である」と述べたあとで、「そのうえで、新政権に改めて指摘しておきたい」として、上の一文で締めくくっている。
 もともと改行の多い、「社説」という論説にはとてもなっていない文章なのだが、最後の一文の趣旨とその前段との関係もよく分からない。
 おそらくは、「安倍カラー」を出そうとすると「世界の中で孤立」するぞ、という脅かしであり、「安倍カラー」の中には憲法改正、河野談話・村山談話の見直し、「近隣諸国条項」の見直し等の、中国政府や韓国(の世論の大勢)のいう「右傾化」諸項目が含まれているのだろう。
 だが、その方向で動くことが、なぜ「世界の中で孤立」することになるのか。
 フィリピン政府は(正確には確認しないが)日本の軍事力強化を、東アジアの平和と安定のためにも支持した、らしい。
 朝日社説のいう「世界」とは、中国と韓国、そして北朝鮮だけなのではないか。
 むろん米国の中にも日本の正規の軍隊保持に反対するメディアや論者も存在するのだろうが、古森義久・憲法で日本は亡びる(海龍社、2012)が冒頭に書いているように、かつてほどの影響力はなくなっているようだ。
 朝日社説のいう「世界」とは、中国と韓国、北朝鮮、そしてその他の諸外国の一部「左傾」分子だけなのではないか。
 それを大げさにも「世界」と断じることのできる向こう見ずさとアホさ加減には、あらためて感心せざるをえない。中国共産党のエイジェント新聞ぶりを、見事に示している朝日新聞社説だ。-と朝日新聞について「改めて指摘しておきたい」。

1124/首相の伊勢神宮参拝は「政教分離」違反か。

 中西輝政が最近に読んだ何かの本の中で、情報=インテリジェンスの重要性に触れ、朝日新聞も重要な情報源として読んで(分析して)おく必要がある旨を述べていた。
 そのとおりではあるのだが、一私人にすぎない者にとって、資料として用いるために朝日新聞を定期購読する気にはなれない。無料で配達してくれるのならば、喜んで頂戴するのだが。
 従って、ネット上でこまめにフォローしていないと朝日新聞の重要な(面白い)社説すら見逃してしまう。産経新聞論説委員室編・社説の大研究(扶桑社文庫、2004)によると、朝日新聞は2001年に5度にわたって、小泉首相(当時)の靖国参拝に反対する社説を公にしたようだ。
 そのうちの二つめ(2001.07.05)は「総理、憲法を読んで下さい」と題し、近隣諸国への配慮「以上に心を砕くべきは」憲法20条との関係だとして、条文を引用し、「この認識が決定的に欠けているのではないか」とまで言っている。
 四つめ(2001.08.14)は「首相の靖国参拝はそもそも、憲法20条の政教分離原則に照らして疑義がある」と、ズバリ書いている(以上、p.305-6)。
 朝日新聞社発行のかつての月刊「論座」の編集長で、ときどきテレビ朝日の「サンデー・プロジェクト」に出ていた薬師寺克行も、朝日新聞社員だったから当然だろうが、「論座」編集部編・渡辺恒雄・若宮啓文(対談)/「靖国」と小泉首相(朝日新聞社、2006)の「あとがき」の中で、首相の靖国参拝は「政教分離」や「信教の自由」という「憲法問題も絡んで」いる、と書いている(p.109)。
 靖国神社との関係でのこのような憲法20条解釈論は、憲法学界の通説ではおそらくないだろう。
 しかし、このような議論は一定の影響力を持っているようで、おそらく合憲・違憲の結論は朝日新聞とは異なるだろうが、自民党の稲田朋美産経新聞4/17の「正論」欄で、次のように書いていた。
 「首相の靖国参拝は、対外(対中韓)的には、いわゆるA級戦犯の問題に、対内的には、憲法20条3項の政教分離問題に帰着する」。
 弁護士資格をもつ稲田にして、と言いたいところで、憲法20条・「政教分離」問題とは無関係だ、と<保守>派の論者は断言しておくべきだろう。
 なぜなら、歴代の内閣総理大臣は、民主党内閣のそれらも含めて、毎年1/04あたりに伊勢神宮に参拝しているが、朝日新聞も含めて、どのメディアもこれを批判的には報道していないし、批判する国民の声というのも読んだり、聞いたりしたことはない。
 それだけ、「定着した」、憲法上の問題は何もない慣例として受けとめられているわけだ。
 しかして、伊勢神宮(正式にはたんに「神宮」)は、戦前は別だが、神道という特定の宗教のいわば総本山に他ならない(但し、「教派神道」という神社本庁に属さない神道系神社もある)。
 靖国神社もその宗教は「神道」なのであり、伊勢神宮はよくて靖国神社はいけない、という議論は、その「宗教」性・神道系宗教施設であることを理由としては全く成り立たないものだ。
 余計ながら、最近、民主党の小沢一郎が、大阪・住吉大社、奈良・大神神社、伊勢神宮の三社を続けて参拝したとされる。
 一政治家の行為だからもともと憲法問題を生じさせないが、小沢と「宗教」(ここでは「神道」)との関係について疑念を表明するメディア(報道・記事)は全くなかったはずだ。
 靖国神社についてだけ「宗教」(「神道」)との関係を問題にするのは異様だ。
 もちろん別に理由があるからこそ、朝日新聞らは首相の靖国参拝に反対しているのだ。余計な憲法論議を靖国問題にくっつけるな、と言いたい。関連させるならば、毎年の伊勢神宮参拝についても憲法上疑義があると主張すべきだ。何という<ご都合主義>なのだろうと、あらためて指摘しておきたい。

1108/日本国憲法「無効・破棄」論について①。

 一 佐伯啓思産経新聞の昨年2011年の9/19、すなわち講和条約締結ほぼ60年後に、連載コラムの「日の蔭りの中で」で、①同条約によって主権を回復したと言っても、占領期に日本は「完全に」主権を喪失していたわけではなく、日本国政府は存在していたので、「主権はせいぜい『制限』され」ていた、②同条約締結(・発効)後も、日米安保条約により「国防という主権の最高の発動を『制限』されて」いるので、「いまだに日本は『不完全な主権国家』ということになる」のではないか、と述べる。相当に乱暴に要約したが、講和条約の前後でさほど大きな(質的な)変化はなかったのではないかと、(佐伯啓思らしく)辛口で?分析しているわけだ。
 また佐伯は最近4/16、講和条約発効ほぼ60年後の同連載でも、「同条約と同時に日米安全保障条約が締結された」ことにより、「形の上では日本は主権国家となり、実体の上では『不完全主権国家』となった」、と同旨を述べている。「戦後日本の繁栄であり発展であるとされるもの、すなわち日本が得た『利』は、実は、『完全な主権』をいまだに回復していないがゆえに可能だったということになる」とも書いている。
 翌日4/17の産経新聞「正論」欄では稲田朋美が「主権回復記念日を設ける意義は」と題し、自民党が4/28を「主権回復記念日として祝日に」する法案を国会に提出したことから書き始めていることと対比すると、本当に「主権回復」したのか?、そんなに喜んでよいのか?と佐伯啓思はあらかじめ言っているようで、なかなか面白い。
 この対立?について、ここでコメントしたいのではない。稲田朋美も、「主権回復記念日を祝うということは、安倍晋三首相が掲げた『戦後レジームからの脱却』を今一度わが党の旗にすること」だとか述べ、「今年の主権回復記念日を、日本が…真の主権国家になる始まりの一日に、そして保守政治再生の一歩にしたい」と結んでいるので(現状は「真の主権国家」ではないと言っているようであったりするので)、そもそも基本的な対立があるかどうかも疑わしい可能性がある。
 二 佐伯啓思の4/16の連載コラムで関心を惹いたのはむしろ、「サンフランシスコ条約締結以前の占領状態は、公式的にいえば、いまだ戦争継続中なのであり、広義の戦争状態における占領である。日本には主権はない。したがって、『本来』の意味でいえば、あの憲法は無効である。憲法制定とは、主権の最高度の発動以外の何ものでもないからだ」と書いていることだ。
 「本来」の意味では無効、ということの正確な意味はむろん問題になるが、なぜ関心を惹いたかというと、石原慎太郎が最近(も)、日本国憲法「無効」かつ<破棄>論を述べているからだ。
 産経新聞3/26の「新憲法起草/熱帯びる地方-石原、橋下氏が牽引」と題する記事は次のように伝える。
 「東京都の石原慎太郎知事は今年2月下旬、『占領軍が一方的に作った憲法を独立後もずっと守っている。こんなばかなことをしている国は日本しかない』と強調、憲法破棄と自主憲法制定を呼びかけた。/大阪市の橋下徹市長率いる『大阪維新の会』も3月上旬に公表した公約集『維新八策』の原案で憲法改正を明記。橋下氏は『平穏な生活を維持しようと思えば不断の努力が必要で、国民自身が汗をかかないといけない。それをすっかり忘れさせる条文だ』と憲法9条批判も展開している」。
 石原慎太郎は産経新聞3/05の連載コラムで「歴史的に無効な憲法の破棄を」と題して、たとえば次のように明言している。
 「憲法改正などという迂遠な策ではなしに、しっかりした内閣が憲法の破棄を宣言して即座に新しい憲法を作成したらいいのだ。憲法の改正にはいろいろ繁雑な手続きがいるが、破棄は指導者の決断で決まる。それを阻害する法的根拠はどこにもない。/敗戦まで続いていた明治憲法の七十三条、七十五条からしても占領軍が占領のための手立てとして押しつけた現憲法が無効なことは、美濃部達吉や清瀬一郎、そして共産党の野坂参三までが唱えていた」。
 佐伯啓思は「ではどうすべきか」を書いてはいないのだが、憲法が「本来」の意味では「無効」だと、あるいは、石原慎太郎とともに<センティメント(情緒・気分)>としては現憲法は「無効」だと、言いたいし、そういう情緒・気分も理解できる。しかし、現在における現実的かつ法的な議論としては、日本国憲法「無効」・<破棄>論は成り立たないし、成り立つべきでもない、と考える。
 さらに続けるつもりだったが、長くなったので、次回にする。
 なお、橋下徹の、憲法九条に限っての「国民投票」による(憲法九条改正問題の)決着、という意見にも、完全には同意しない。この点に、いつ言及できるだろうか。橋下徹のツイッターをすべてフォローすることはできないように、この欄のために費やせる時間が無限にあるわけでもないので、困ってはいる。

1064/渡部昇一の日本史年表には北朝鮮「拉致」がない。

 〇11/15は横田めぐみさんが北朝鮮当局に「拉致」された日だった。
 政府が認定しているかぎりでも、北朝鮮による「拉致」は1977年と1978年あたりに集中している。
 これらの「拉致」は、とりわけ最初のそれや重要なそれは、昭和史年表とか戦後史年表とかに、重要な歴史的事実として、きちんと記載されるべきだろう。
 渡部昇一は「保守」派らしく、かつあえて中川八洋によらずとも、<民族系保守>派のはずだ。
 しかし、書店で手にしてめくってみたかぎりでは、渡部昇一・読む年表/日本の歴史(ワック)には、北朝鮮による「拉致」実行の年月についてはいかなる記載もない。これが(かりに民族系でなくとも)<保守派>を自認しているはずの者の編む日本史年表なのだろうか。失望するし、やはり渡部昇一は信頼できないと感じる。
 信頼度が低いと思っているために、渡部昇一の日本歴史の全集もの(ワック)は一冊も、古書でも、購入していない。

 渡部昇一は月刊WiLL誌上に(立花隆ではなく)<渡部昇一はこんなものを読んできた>ふうの連載をしている(「書物ある人生」)。西尾幹二の少年時代の自叙伝ふうの本とは違い、<こんな本を読んでエラくなりました>という感じの、「保守」思想とはまるで関係のなさそうな内容なので、これまたまともに読む気にはなれない。

 〇信頼度の高い人の文章は、納得・同意するところが多いために、却って、この欄ではとり上げないこともある。
 遠藤浩一稲田朋美はそれらのうちに入り、この一年以内の産経新聞上での、衆議院解散要求や(民主党との)大連立反対などの文章は、その通りだと思って読み終えた。
 ジャパニズム第4号(青林堂、2011.10)の、稲田朋美=城内実(対談)「『詐術と裏切り』亡国の野田内閣」も、とくに大きな違和感なく読めてしまう。
 城内実の本はたぶん読んだことはないが、どのような人物かは経歴も含めて知っている。
 「頭」だけでっかちの、書くこと(語ること)だけは一人前の?<保守>派評論家・大学教授等よりは、石原慎太郎もそうだが、現実に「政治(・行政)」に直接関与している者の言葉の方に聞くに値するものが多いかもしれない。遠藤浩一はいちおう「評論家・大学教授」の肩書のようだが、経歴によるとふつうの「アカデミズム」の世界のみから生まれた人物ではなさそうだ。 

1024/物理的・事務的に可能ならば衆議院解散・総選挙を急げ。

 遠藤浩一稲田朋美が1カ月前あたりからすでに明確に主張しているように、また産経7/16の自民党・伊吹文明インタビュー記事も前提としているだろうように、総選挙実施が物理的・事務的に可能になった段階で、すみやかに総選挙(その前にいずれかの内閣による衆議院解散)を行えるように準備すべきだ。

 産経7/16社説が明言するように、菅直人の発言は「日本の最高指導者の発言として、あまりに軽く、国の統治を任せることはできない」。「閣僚とも調整せず、唐突にかつ独断で基本政策を変えることは、首相としての資質が欠落していると断じざるを得ない」。
 菅直人の地位の正当性(・正統性)の淵源は2009年総選挙の結果にあるが、それによる衆議院の構成(・民主党の占拠比率等)が現在の<民意>と乖離していることは明々白々だ。表面的・建前的な<民主主義>論を採用してすら、実質的には、すでに菅直人の地位の正統性(・正当性)はなくなっていると見るべきだ。
 朝日新聞の社説子は忘れているか、忘れているフリをしているだろうから、1年前頃の同紙の社説をあらためて引用または紹介しておこう。見事に、<(総選挙を通じた)民意>を重視していたのだ。
 2010年6/02(鳩山由紀夫辞任表明直前)―
 「昨年の政権交代の大義は、…首相の座を『たらい回し』してきた自民党政治との決別」だった。「政治の質を根本的に変える試みの意義は大きい」。「そうした政治の流れから誕生した首相を退陣させようというのなら、早期に衆院解散・総選挙を実施し、有権者に再び政権選択を求めるべきではないか。それなしに『たらい回し』に走るのは、民主党の自己否定に等しい」。
 翌日6/03の社説(鳩山辞任表明後)―
 「歴史的な政権交代の意義を無駄にはできない。今回のダブル辞任が『平成維新』の出直しに資するなら、必要な通過点だと考えるべきだろう。/問題はすべてこれからである」。新内閣は「…一定の判断材料を国民に示したうえ、なるべく早く解散・総選挙をし、信を問うのが筋である」。
 上の二つの間にある矛盾とそれを隠蔽しようとする姑息さには一年前に触れたので、もはや繰り返さない。
 上の二つで何とか共通しているのは、<解散・総選挙>の必要性の主張だ。

 上の6/03の社説にいう「なるべく早く」という朝日新聞の主張はその後いったいどうなったのか?という疑問は当然に湧く。いちおうは昨年6月3日にはこう言っておきながら、菅内閣の支持率が(とくに尖閣問題発生の昨秋以降)下落傾向にあったためか?、朝日新聞は再び<解散・総選挙>の必要性を説くことはなくなった。
 皮肉を込めて言うのだが、朝日新聞よ、昨年の6月初めの<原点>に戻って、あらためて<民主主義(民意=総選挙重視)の旗手>ぶりを示してみたらどうか。
 昨日に書いたことも併せてみて、あらためて、朝日新聞の<ご都合主義>、いいかげんさ、首尾一貫性のなさ(自分たちの望む政治情勢を実現するためにならば、論理的な一貫性などは無視する姿勢)を感じて、気持ち悪くなる。この、目的のためならば手段(>論理・主張・概念)はどのようにでも変え、どのようにでも選択する、という感覚は、「左翼」の、そしてコミュニスト(共産主義者)に独特のものでもある。

0992/もはや解散・総選挙以外にない+渡部昇一の妄論。

 〇「もはや解散・総選挙以外にない」-遠藤浩一・産経新聞3/02正論欄。なお、この人は法学部出身。

 〇とりあえずごく簡単に書いておく-渡部昇一監修・日本は憲法で滅びる(総和社、2011.02)の「はじめに」を渡部昇一が書いていて、日本国憲法は「占領対策基本法」で憲法としては「無効」なので「無効宣言」をすべし、というこれまでもいろいろな所で書いてきている妄論を主張している(「憲法改正」反対論の一種。p.3)。

 たんなる渡部個人の著・論考ならまだよいが、「憲法」をタイトルに打った本の監修者の「はじめに」となると、座視できない。

 日本国憲法「無効」論については渡部昇一以外の者の詳論も読んで検討したことがある(今回は急いでいるのでかつてのエントリーへのリンク省略)。結論は、「無効論」に値せず(「無効」概念の誤用がある)かつ<憲法改正>または<自主憲法の新制定>を遅らせるだけの、議論の混乱を招くだけの妄論だ、ということだった。

 「無効宣言」すべしとする一部の論者に尋ねたいが、その宣言主体はいったいどの国家機関なのか(あるいはどのような手続を経てどの国家機関が行うのか)? 「国会」とする論者もあるようだが、渡部昇一は上の「はじめに」で、「その手続は意外と簡単」だなどと空論を述べ、「日本政府」がとにかく一度でも「無効宣言」すればよい、と説く(p.3、p.5)。

 そこで渡部昇一に一つだけ尋ねる。「日本政府」とはいったい何か。国会も含めて広く統治機構を「政府」と称する語法もあるが、現憲法(および大日本帝国憲法)の概念だと「内閣」をおそらく想定しているのだろう。そうでないと、漠然と「日本政府」と言うだけでは国家機関を特定したことにはならない。あるいは渡部は緻密に思考していないので、内閣を代表する内閣総理大臣を念頭に置いているのだろうか。その場合でも以下の論旨は同じ。

 しかして、渡部昇一のいう「日本政府」=「内閣」(または内閣総理大臣)は旧憲法上のものか、渡部昇一のいう日本国憲法=「占領対策基本法」上のものか??

 前者はすでに存在していない、と認識するのが(規範論としても現実論としても)妥当だろうと思われる。

 後者だとして、渡部昇一のいう日本国憲法=「占領対策基本法」にもとづく、かつそのもとで制定されてきた法律(「内閣法」)によっても構成されてきた内閣(または代表・内閣総理大臣)に、自らを生んだ日本国憲法=「占領対策基本法」を「無効」と判断し「宣言する」権限はあるのか??。自らの祖先を殺すようなもので、こういうことを平気で述べる著名な<保守>論客が存在すること自体が、悲痛な想いにさせる。

 「国会」を「無効宣言」の主体と考えても、同じことがいえる。衆議院と参議院から成る国会は日本国憲法のもとでの国家機関で、日本国憲法が生み出したものだ(旧憲法では構成も異なる「帝国議会」)。

 渡部昇一は、「日本政府」なのものの意味をより明確にするとともに(日本国憲法には前文を除き「政府」概念はない。旧憲法でも同じ)、その国家機関を「法的に」生み出した出所を明らかにされたい。

 占領下において、日本国憲法を上回る超憲法的な「権力」があり、諸施策が行われたことを否定はしない。現憲法が禁止する「検閲」はあったし、超憲法・超法規的に公職追放等もなされた。

 だが、そのようなことは、現在における日本国憲法「無効」論の根拠にはならない。

 不思議に思うのだが、渡部昇一の「はじめに」以外は未読だが、各執筆者のうち南出喜久治を除いて、その他の者は、例えば西尾幹二も(現憲法下の法制のもとでの)「法曹」資格ある稲田朋美も法学部出身の遠藤浩一も、監修者・渡部昇一の日本国憲法「無効」論・「無効宣言」すべし論に与しているのだろうか??

 一見新鮮なようでいてじつは無駄な議論だと、南出以外の者は感じていないのだろうか?

 そのように一致しているとは思えない主張を、監修者たる資格で渡部昇一はよくも堂々と書けたものだと思う。

 このような者が、<保守>の代表的な論者とされているのかと思うと、日本の将来に、やはり暗澹たる思いがする。かかる妄論が一冊の初めに堂々と主張されているようでは、「九条の会」参集者も、渡部昇一のいう「憲法を食い物にする敗戦利得者」=現在の日本の憲法学者(憲法研究者)のほとんども、せせら嗤って、何ら痛痒を感じないだろう。

 百地章、西修、稲田朋美、ついでに八木秀次らは、渡部昇一という名前に怯む?ことなく、日本国憲法「無効」論・「無効宣言」すべし論を批判すべきだ。こんな「はじめに」をもつ、<憲法>をテーマとするがごとき書物が<保守>派によって刊行されてよいのか? 百地、西、八木に学者としての「良心」はあるのか?

 以上述べたことは、個別の各論考にかかわるものではない。

 これまでこの欄でほとんど渡部昇一の本・主張を採り上げなかったのは、渡部が日本国憲法「無効」論にだらしもなく影響をうけていることが明瞭だったからでもある。誰か、勇気のある者は、退場勧告をつき突けた方が(日本の将来のためにも)よい。

0717/月刊正論6月号(産経)・西尾幹二論考における天皇条項論、稲田朋美等。

 一 稲田朋美は、渡部昇一=稲田朋美=八木秀次・日本を弑する人々(PHP、2008)のp.207-8で、現憲法1条の「象徴天皇」は「成文憲法以前の不文の憲法として確立していると見なすべき」として、憲法改正の限界を超える(改正できない)と主張する(この本については、昨年に言及したことがある。但し、上の点には言及しなかった筈だ)。
 また、稲田は同書p.209で、現皇室典範(法律)1条が「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定めていることに注目し、ここでの「皇統に属する…」は2条以下の「皇族」に限られないとして、現在「皇族」でなくとも、「皇統に属」しているかぎりは皇位の継承資格がある(したがって、現在の法律上では「皇族」でなくとも「皇統に属する男系の男子」が存在するかぎりは皇位継承者も存在し、皇統断絶の懸念又は皇位継承者欠如の問題は生じない)旨を主張する。
 これらは憲法問題でもあるが、憲法学者であるはずの八木秀次は稲田朋美のこれらの主張に何ら反応していない。
 上の点はともかく、稲田朋美の主張(解釈)はいずれも成り立つ可能性がある。もっと議論されてよいだろう。
 だが、いずれも現在の通説・政府解釈ではないようだ。とくに皇位継承資格者の問題は、それが「皇族」に限られることを前提として、旧宮家一族の皇族籍復活等が論じられてもいる。
 かかる現在の通説・政府解釈を前提にすると、現皇太子・秋篠宮両殿下の下の世代の男子(親王)は悠仁親王しかおられないことをふまえて、「皇族」の範囲を拡大して、皇位継承者・「皇統」の安定的確保の途を早急に検討しなければならないと思われる。この問題は、現皇太子妃殿下に関するあれこれの議論よりもはるかに重要だ。
 二 さて、月刊正論6月号(産経)で八木秀次はご成婚50年記者会見(4/08)での天皇・皇后両陛下のご発言を「誰よりも保守主義を正確に理解されている」とそのままに全面的に尊重・尊敬するコメントを述べている(p.44)。
 結果的には大きな異存はないが、両陛下のご発言はある意味ではきわめて政治的で、あるいは非常によく準備されたものだ、という感想も私は持った。八木秀次ほどには私は単純・素朴ではないのかもしれない。
 また、美智子皇后陛下が「一方で、型のみで残った伝統が社会の発展を阻んだり、伝統という名の下で古い慣習が人々を苦しめていることもあり、この言葉が安易に使われることは好ましく思いません」等と「伝統」について述べられた内容はある意味で新鮮であり、ある意味では刺激的でもあった。<保守すべき伝統>というものがあるはずなのだが、<保守>派はどちらかというと日本の<伝統>を丸ごと維持・保守しようという言説・主張に傾きやすかったのではないか。その意味で、皇后陛下が「伝統」の消極的な面・弊害も明言されたことは、注目されてよいと思われる(その内容自体に反論するつもりはない。問題は「社会の進展を阻」む「型のみで残った伝統」とは具体的に何か、になる)。
 三 月刊正論同号西尾幹二論考は、両陛下、とくに天皇陛下の発言を(八木秀次は勿論)私よりも<深く>解釈しているようだ。西尾は、「陛下の…お言葉はじつは相当に政治的であり、政治的役割を果たしておられるとも思います」と書いている。
 天皇陛下のお言葉とは、簡単には、日本国憲法の「象徴」規定に「心を致」す、日本国憲法の天皇条項は「天皇の長い歴史で見た場合、天皇の伝統的な天皇のあり方に沿う」、というものだ。
 西尾幹二は、十分な展開は見られないと思われるが、こうしたご発言を手がかりにして、天皇制度の将来には次の二つの方向があると主張していると見られる(天皇条項改正論でもあると思われる)。この点にも安倍晋三・中曽根康弘による日本「再占領」政策加担・追随論とともに、斬新さがある。
 一つは、政治的責任をより負担する、その点を明文化した「元首」になっていただくことだ。
 いま一つは、「京都にお住居をお移し下さり」、一段と「非政治的存在に変わっていく方針をおとり下さる」ことだ。
 これらは天皇条項の憲法改正をほとんど不可避的に伴うものと思われる。もっとも、「国」と「日本国民の統合」の「象徴」である旨の現1条を改正する必要はない可能性はあるので、冒頭に記した稲田朋美説と完全に矛盾するわけではないかもしれない。
 憲法改正は必要ではないとしても、前者の方向をとる場合、例えば、天皇の<宮中祭祀>は正式の「国事行為」(現憲法だと7条10号「儀礼を行うこと」)か、少なくとも「公的行為」としてきちんと位置づけられる必要が出てくるだろう(憲法20条と皇室の「神道」の関係についての解釈論の整理も必要だ)。
 後者の方向をとる場合、西尾は言及していないが、現行憲法の大幅な改正が必要になるものと思われる。
 現憲法6条・7条によると、天皇に最終的・形式的な権能があるのは、次のように幅広く、かつ重要なものばかりだ。
 ①内閣総理大臣の任命、②最高裁長官の任命、③法律・政令・条約の公布、④国会の召集、⑤衆議院の解散、⑥総選挙施行の公示、⑦国務大臣等の任免、⑧「全権委任状及び大使及び公使の信任状」の「認証」、⑨外国の大使・公使の「接受」、等々。
 これらの行為は、天皇のお住まいが現在の皇居のように、国会・首相官邸・諸外国大使館等に近い場所にあるからこそ容易にかつ速やかに行うことが可能なものではないか。
 したがって、天皇(・皇后)陛下が京都にお戻りになるということは、まさしく西尾の言葉どおりに、上のような<政治(・外交)>に関わらない、「非政治的存在」に変わることを意味することにほとんどつながるものと考えられる。例えば首相が衆議院解散を決意し記者会見等で公にしても、天皇陛下による正式の(最終的・形式的な)衆議院解散は、かりに天皇陛下が京都におられれば、その後早くても6時間程度は要するのではないか。同じことは、多数あるはずの、法律・政令等の「公布」についても言える(「公布」にはさらに官報掲載が必要な筈だが、その前提として現行憲法上は天皇陛下の御名・御璽が不可欠なのだ)。
 こう見ると、天皇の明確な政治的「元首」化にしても純粋な「非政治的存在」化にしても、憲法条項の具体的内容にかかわるもので、本来、憲法改正論議のなかで丁寧に議論すべきものと思われる。
 そういう問題提起を含んでいるので、西尾幹二は憲法学者・八木秀次よりも<鋭い>し、よく考えていると思わざるをえない。かりに明確な「元首」化を想定せず、「象徴」規定を維持するとしても、憲法が天皇に認める国事行為又は「公的」行為の範囲いかんによって、天皇は現在よりもより政治的にもなりうるし、非政治的にもなりうる。憲法改正をゼロ・ベースから、すなわち「白紙」の出発点から考えるのなら、この点は留意されておくべきだ。
 とは言っても、今後いかほどの熱心な議論が上に示した論点について生じるかは、心もとない。ほとんど現九条二項問題だけに関心が集まる可能性は高い。また、西尾幹二のいう二つの方向(現状のままだと三つの方向)のいずれが適切かについて、既述のこと以外には、述べるほどの私見は現在のところは殆どないというのが率直なところだ。

0558/<言挙げ>したくはない、しかし。-八木秀次とは何者か・4。

 一 1 渡部昇一月刊Will7月号(ワック)の日下公人との対談(「『恋愛結婚制』と皇室伝統」)の中で、同誌上の「西尾論文を読んで非常によいと思ったのは、今の皇太子殿下が皇位を継承しなくてもよいという主旨のことが書かれていた」ことだ、と述べている(p.45)。次回に扱うが、<現皇太子皇位継承不可論>とでも称すべき<怖ろしい>主張を、八木秀次とともに明らかにしていることになる。
 上の点は、では誰が皇位を継承するのか、現皇太子殿下の皇太子たる地位はどのようにして否定(「廃太子」?)するのか、新しい皇太子はどのような根拠と手続でもって定めるのか、等の複雑な問題を生じさせるのだが、渡部昇一はそういった点には立ち入らず、いわば<思いつき>で発言しているようなところがある。
 2 そのような<思いつき>発言は、皇室典範にかかわって述べられる、次にも見られる、と思う。
 「あの〔占領〕時代に作られた法律はすべてご破算にして、一度、明治憲法に戻るべきです。その上で、日本国憲法のよい部分を入れ込めばよい」(上掲誌p.47)。
 上のことの厳密な意味、そしてそのために採るべき手続について、渡部昇一はきちんと考えているのだろうか。
 こんなことを書くのも、1年余り前に触れたことがあるが、渡部昇一は<日本国憲法無効論>の影響を受けていると見られるからだ。上では現憲法無効論のみならず、いわば<占領期制定法律無効論>も述べているようだ。  <日本国憲法無効論>は、①その正確な内容を理解するかぎりでは、「無効」概念の使い方を誤っている、②現国会による<無効決議(宣言)>を必要とする点で、将来の新憲法制定(現憲法改正)を却って遅らせる機能を果たす(また、現憲法を「無効」と考えている国会議員は現在一人もいないと思われる)、という大きな欠点をもつもので、とても採用できるものではない。
 なお、これを支持していると見られる者に、兵頭二十八(軍事評論家)、畠奈津子(漫画家)がいる。
 二 1 八木秀次・日本国憲法とは何か(PHP新書、2003)を全部は読んでいないが、八木秀次は<日本国憲法無効論>には立っておらず、問題点・限界を指摘しつつ「改憲すべきはどこか」(p.206-)等を論じていると見られる(p.180に<日本国憲法無効論>への言及があり、好意的ニュアンスもある。しかし、p.181には大日本帝国憲法「改正無限界論」に立てば現憲法は「有効に」成立している、「改正限界論」の帰結が<日本国憲法無効論>と所謂<八月革命説>だ、との叙述もある。何より、国会による<無効決議(宣言)>の必要性などには全く触れるところがない)。
 また、<日本国憲法無効論>の立場の者のブログの中で、八木秀次や百地章等は現憲法を有効視する(その上で改正を目指す)論者として厳しい批判(・攻撃)の俎上に乗せられていた記憶もある。
 2 そういう八木秀次ならば、渡部昇一が<日本国憲法無効論>者か、少なくともそれに影響を受けている者だくらいのことは知っているだろう。あるいは、むしろ、知っておくべきだろう。現実問題としては<日本国憲法無効論>の力は小さく、無視又は軽視をして、<小異を捨てて大同につく>のでよいのかもしれない。しかし、八木秀次は憲法学者(の筈)なのだ。渡部昇一について、<日本国憲法無効論>の少なくとも影響を受けている者だとの認識とそれにもとづく対応があっても何ら不思議ではないと思われる。
 3 渡部昇一=稲田朋美=八木秀次・日本を弑する人々(PHP、2008)には、渡部が現憲法無効を主張するような部分はなかったように思われる。だが、稲田朋美は「渡部先生が説明されたことへの反論ではないのですが」と述べつつ、講和条約11条についての渡部昇一とは異なる解釈を堂々と述べたりしている(p.139-140)のに対して、八木が渡部昇一の所説・議論に異を唱えている部分は全くなさそうだ(この点は、中西輝政=八木秀次・保守はいま何をすべきか(PHP、2008)での中西輝政に対する態度と同じ。なお、中西は<日本国憲法無効論>者ではない)。
 また、「鼎談を終えて」に見られる八木秀次の渡部昇一の評価はきわめて高いものがある。八木は次のように書く。
 「渡部先生はいつもながらの大旦那の風格で、泰然として」話に応じて「下さった」、「私は最近、渡部先生の若い頃の著作を読むことが多いが、その該博な知識と見識には敬服するばかりである」(p.266)。
 渡部昇一が「該博な知識」の持ち主であることを否定しないが、八木秀次は、渡部が<日本国憲法無効論>の少なくとも影響を受けている者だとの認識をもって、「見識には敬服するばかりである」などと書いたのだろうか。憲法学者にとっては、現憲法の有効・無効はその出発点的論点の筈だ。腑に落ちない。上のような認識がなかったのか、それとも、認識していながら、年輩の渡部に(儀礼的・表面的にのみ?)賛辞を送ったのか。
 ともあれ、八木秀次の書いている(語っている)ことに奇妙さ・不思議さを感じる点が、ここにもある。

0553/「言挙げ」したくはない、しかし。-八木秀次とは何者か・2。

 一 渡部昇一=稲田朋美=八木秀次・日本を弑する人々(PHP、2008)の中で、八木は、改正教育基本法が「我が国と郷土を愛する…態度を養う」ことを理念の一つと定めたにもかかわらず、今年(2008年)3月の学習指導要領改訂には法律改正の趣旨が反映されていないと批判的に指摘している(p.245-)。産経新聞の3/19「正論」欄でも、「わが国の伝統と文化を語る上で重要な天皇も、…中学校では社会科公民で『…〔略〕について理解させる』と記述するにとどまり、改善点はなく、天皇への敬愛の念についての言及もない」などと批判している。
 「日本教育再生機構」の理事長でもあるという八木は、きっと、日本という「国」の成り立ちや天皇(制度)の歴史-<古代史>ということになろう-についても該博な知識とそれらの「教育」に関する適切な見解をもっていそうだ、と言えそうだ。
 二 しかし、中西輝政=八木秀次・保守はいま何をなすべきか(PHP、2008)の中で、私には奇妙と思えることを述べている。
 「日本の神話を読んで『神武天皇は実在したのか』『百二十五歳まで生きるわけがない』と言っても意味がない」。「建国神話とは、建国の精神に立ち帰ることで国民がまとまればいいわけですから」(p.231)。この二つめの「」は度外視しよう。
 上の一つめの「」の、①「神武天皇は実在したのか」、②「百二十五歳まで生きるわけがない」、と言っても「意味がない」とは、いったいいかなる意味なのだろうか。ここで彼は、何を主張したいのだろうか。
 常識的には、日本(建国)神話の<真実性>を論じても(あるいはその<虚偽性>を指摘しても)「意味がない」、という意味であるように読める。「神話」は「神話」として<理解>すればよい(又は<物語>として「信じ」ておくべきだ)、というような意味だと思われる。
 八木は、①「神武天皇」の実在性と②初期の諸天皇の<生存年数>を論じても「意味がない」と発言している。そして、明言はないが、どうやら、①「神武天皇」は実在しない(つまりこの点の神話はウソだ)、②生存年数「百二十五歳」の天皇は存在しない(つまりこの点の神話はウソだ)と八木は理解しているものと推察される。少なくとも、このように解釈されてもやむをえない発言の仕方をしている。
 そうだとすると、重大な疑問が生じる。すなわち、①の「神武天皇」の実在性の問題と、②同天皇を含む初期の諸天皇の<生存年数>(又は<在位年数>)の問題とを、こうして同次元の問題として論じるべきではない、と思われるからだ。一括して議論している八木は誤っている。つまり、古代史に関する知識が十分ではない。
 ここで述べようとしていることについて、安本美典・日本神話120の謎-三種の神器が語る古代世界(勉誠出版、2006)の「はじめに」には、なかなか興味深いことが書かれている。あの、「左翼」の立花隆が、2005年に、安本美典の別の本、安本・大和朝廷の起源-邪馬台国の東遷と神武東征伝承(勉誠出版、2005)を読んでの感想を、次のように某週刊誌に書いた、というのだ。以下、上の第一の著のp.8-9の引用からさらに一部引用する。
 「この本〔上の第二の2005年の著-秋月〕を読むまでは、私も通説に従って、神武天皇などというものは、神話伝説上の人物にすぎず、リアルな存在では全くないと思っていた。/しかし、この本を読んだ後はちがう。神武天皇伝説の背景には、骨格において伝説に近い史実があったにちがいないと思っている。/…私はこの本によって、古代史にまつわる多くの謎のモヤモヤがきれいに整理され、取りのぞかれた思いがして、大筋これで結構と思っている」。
 八木秀次の古代史・日本神話・初期天皇に関する知識は、この2005年時点の立花隆以前の状態にあるのではないか。私が安本美典の諸説を知ったのはたぶんん20年程度以前のことだが(なお、安本美典・神武東遷(中公新書)は1968年刊)、神武天皇にあたる人物は実在しただろう、大和盆地への「東遷」伝承は相当に史実を反映しているだろう、と(安本美典の説得力ある議論の影響をうけて)思っている。
 従って、第一に、「神武天皇は実在したのか」と言っても「意味がない」ということは全くなく、<実在した>と断固として主張してよいのだ(もっとも、安本説ではないが「崇神天皇」等との同一人物説等もある。だが、この説も「神武天皇」にあたる人物の実在を否定することにならない)。
 一方、初期の天皇の「生存年数」(=寿命)が記紀において異様に長く書かれていることはよく知られている。神武天皇は日本書記によると127年(古事記によると137年)、その他、開化天皇115(63)、崇神天皇120(168)、垂仁天皇140(153)等々。
 なぜこのように(神武天皇の即位が紀元前660年となるように)長くしたのかには辛酉革命説等の諸説あるが、これらの常識的に見て長すぎる寿命(生年・没年)の記載は<信じられない>・<ウソだ>と言って何ら差し支えない、と考えられる。
 従って第二に、「百二十五歳まで生きるわけがない」と言っても「意味がない」ということは全くなく、むしろ「意味がある」。
 八木はこの生存年数について、ひょっとして「神話」として<理解>すればよい、又は<物語>として「信じ」てよい、と言うのかもしれないが、そのような<公教育>をしても、小学校も高学年くらいの生徒になれば<理解>も<信じる>こともできず、「建国神話」によって「国民がまとま」ることをむしろ妨げることになるものと思われる。
 以上のとおり、八木秀次の古代史・天皇の歴史に関する知識と見解は怪しいものだ、というのが私の感想だ。
 三 中西輝政=八木秀次・保守はいま何をなすべきか(PHP)に再び戻ると、もう一点、やや奇妙に感じたことがある。すなわち、中西輝政は日本史を学ぶ「最終目標」は「神話が体得できる」ことだと言っているが(p.228)、八木はこの指摘を「学ぶ」優先順序のごとく理解しているのではないだろうか、ということだ。
 もう少し詳しく紹介すると、八木は、「国のかたちがはっきり現れる時代」(「継体天皇から聖徳太子を経て天武天皇に行き着く流れ」)から「歴史を見て」、「学んでいった後で」、「最後は神話に行き着く」と述べている。渡部昇一・稲田朋美との上掲共著p.247では、日本の「国のかたち」が「ようやく固まった」「天武天皇・持統天皇」の時代の「建国の精神」の内容を述べており、この時期をまずは「学ぶ」ことが重要だと考えているようだ。
 「学ぶ」順序などは些細な問題かもしれないが、関心を惹くのは、「天武天皇・持統天皇」の時代又はそこまでに至った「継体天皇」の時代以前について、八木は何も語ろうとしていない、ということだ。「応神天皇」やその母とされている「神功(じんぐ)皇后」にも一切の言及がない。
 日本の「建国の精神」でもよいし、日本人の「精神」・「心持ち」でもよいが、それらを知るために、「継体天皇」の時代以前に関する記紀等の叙述をこのように軽視してよいのだろうか。仏教が伝来するまで日本(人)に特有の<心情・信条の体系>だったと思われる<神ながらの道>=<神道>に立ち入らないかぎり、日本人の「精神」・「心持ち」、そして「建国の精神」も理解できないのではないか。
 安本美典は反マルクス主義者であり、「津田左右吉流の文献批判学」の批判者であり、(私の造語だが)「反アカデミズム」者でもある。その安本・日本神話120の謎(上掲)p.21の表現によると、戦前に迫害された「津田の諸説は、第二次大戦後の、懐疑的風潮の中で、はなばなしくよみがえ」り、「わが国の史学界において、圧倒的な勢力をしめ」、そして「戦時中の、神話の全面肯定から、全面否定へと、はげしいうつりかわり」を見せた。
 八木秀次の精神世界は、今も戦後の神話「全面否定」論の影響を受けつづけているのではなかろうか。安本がいう、ギリシャ神話・旧約聖書物語よりも「日本神話へのなじみがすくない世代」(上掲書p.21)に属したままなのではないだろうか。
 ふつうの日本人、とくに若い世代であれば、上のことは珍しくもなく、批判するのは酷かもしれない。だが、「保守はいま何をすべきか」と大上段に振りかざし、「国…を愛する」態度や天皇に関する<教育>について発言している八木が、今回記した程度の「日本の神話」に関する知識と関心しか持っていないとすれば、ほとんど<詐欺>に等しいのではないか。
 なお、八木の、天皇の宮中祭祀に関する知識が不十分である(又は誤っている)と見られることについては、すでに述べた。

0551/あえて<言挙げ>はしたくないが、しかし。-八木秀次とは何者か。

  一 中西輝政=八木秀次・保守はいま何をなすべきか(PHP、2008)の中で、八木は「保守の思想戦略」にかかわってこう言っている。
 「孤高型の『俺が一番知っている、俺の言うことを聞け』という保守ではなく、一般の方々ともつながりながら、だいたいのところで一致するのであれば広く手を携えていこうというタイプの保守。それが…求められている…。…『とりあえずこの問題では一致できる』ということであれば、別の問題では一致できなくとも、今は手をつなごう、協力しようということもあっていい」(p.113-4)。
 だが、八木は、このような姿勢・感覚を一貫して維持しているのだろうか。次のようなことも語っている。
 1 「自称『保守』だらけ」で「保守のハブル化」がある(p.132-3)。こうした表現の仕方は、「『保守』と称する人」の増大を、歓迎している様子ではない。
 2 「ネット右翼」の一部を典型として「眉をひそめたくなるほど過激なことを、汚い言葉で言う人たち」も増えている(p.133)。
 3 「言論人の中にもその手の人たち」が出現している、「比較的、転向者が多いようですが」(p.133)。
 「その手の…」とは、前の文の「眉をひそめたくなるほど過激なことを、汚い言葉で言う」ということを指しているのだろうが、具体的にはいかなる人々を指しているのかは分からない。問題だと思うのは、<転向者>という言葉を使っていることだ。
 転向者という語はひょっとすれば<左翼用語>ではないかとも思うし、そうでなくとも好ましいニュアンスの語ではないだろう。新しく<保守派>になった、または新しく<保守>陣営に入ってきた者たちを、八木は「転向者」と表現しているのだ。そこには少なくとも暖かさはないように見える。
 4 「キャリアの浅い保守」には既成左翼に対する新左翼のような感覚があり、「ナショナリズム」については大丈夫だが、「日本の国体」問題になると「途端にものすごく怪しくなる」(p.133-4)。
 5 「バブルの保守言動」・「底の浅い保守思想」が「多少淘汰されて、本物が残っていく」との期待をもつ。
 とりあえず、以上の5点は、冒頭の八木の言葉と首尾一貫しているだろうか。これらはすべて、少なくとも<広い>意味での<保守>の一部に対する批判であり、<転向者>や「キャリアの浅い保守」や「底の浅い保守」に対する嫌悪感をむしろ示しているように思う。そして、自分は古くからの<保守>本流だとでもいうが如き、自らの<特権化>心情・<特権意識>を感じることもできる。
 <転向者>や「キャリアの浅い保守」や「底の浅い保守」の人たちとも、「だいたいのところで一致するのであれば広く手を携えていこうという」保守が「求められている」のではなかったのか? あるいは、「『とりあえずこの問題では一致できる』ということであれば、別の問題では一致できなくとも、今は手をつなごう、協力しようということもあっていい」のではなかったのか? 
 上の5では「協力」どころか、バブル化したという「保守」の一部の「淘汰」をすら語っている。内容的にも問題があると思うが、同時に、こんなことを語れる<傲慢さ>にも驚かされる。
 この本の中では八木の西部邁の名を挙げてのに対する批判的コメントがある(p.147)。ここの部分は、八木秀次のアメリカ観は一貫しているか?ともかかわるので、別の回でも触れるだろう。
 二 渡部昇一=稲田朋美=八木秀次(PHP、2008)の中で、八木は、通常は<保守>派と見なされている何人かの人々を、氏名を明示して批判している。
 槍玉に挙げているのは、岡崎久彦(p.43-44)、岡本行夫(p.51)、西部邁(p.88-89)、村田晃嗣(p.95-97)ら。
 八木による批判の当否をここで論じたいのではない。指摘したいのは、この人は、通常は<保守>派と見なされている人々であっても、簡単に名指しして批判できる人であり、かつその熱心さは、<左翼>又は<左派リベラル>を批判する場合の熱心さと変わらないようだ、ということだ。争点は何か、そして批判の当否こそが重要だろうことは分かっているが、八木秀次という人物を理解する上で、上の点は記憶されてよいものと思われる。
 そしてまた、今回の冒頭で引用した、「だいたいのところで一致するのであれば広く手を携えていこうというタイプの保守」をこの人は本当に希求しているのだろうか、という疑問も生じるのだ。
 
三 これまで、朝日新聞や同関係者、日本共産党や同関係者、あるいは<左翼>と見られる者については遠慮なく批判の文を書いたが、<保守派>の人たちへの配慮や遠慮は無用だ、と最近は感じてきた。なぜなら、―厳密には完璧な理由にはなっていないが―八木秀次だって、書店で販売される本の中で堂々と<保守派>の人たちを<言挙げ>しているからだ。こんなブログサイトで遠慮してもしようがない。従って、八木秀次を名指ししての<検討>は、まだ続ける。

0546/稲田朋美の二つの説に大賛成-同他・日本を弑する人びと(PHP)全読了。

 渡部昇一=稲田朋美=八木秀次・日本を弑する人びと(PHP、2008.06)を、全読了。中西輝政=八木秀次の対談本より面白い。
 何よりも、稲田朋美とはこんなに知識がありこんなに語れる人物なのか、と感心した。衆院福井一区の人たちは、この人をずっと当選させ続けなければならない。
 書いたことがあるように、司法試験合格者(従って弁護士・裁判官等の専門法曹)のたいていは日本の歴史、天皇制度の歴史、天皇・皇室の現況等などの知識をもっていない(軍事問題の知識も当然に、ない)。そんなことに関心をもっていれば、試験早期合格は覚束ないだろう、と思われる。にもかかわらず、稲田の知識・理解・見解はいったいいつ・どこから得たのか、不思議に思うほどだ。国会議員として現実感覚にも優れ、八木秀次よりも「上」の人だろう。
 必ずしも一般的ではないだろう私の見解と同じ理解を、稲田が示してくれている論点が少なくとも二つある。
 第一に、講和条約(1951。翌年4/28発効)11条の「-を受諾し…
」の「-」につき「(東京)裁判」ではなく「(諸)判決」の意味で、そう訳すべきという主張がかなり(<保守>派の中には)あるようだが、「裁判」でも「(諸)判決」でも本質的に変わりはない旨を書いたことがある。
 稲田朋美も、どちらに訳そうと「第11条の解釈に変わりはないと考えている」と明言している(p.140-1)。そして、なぜこの「受諾」条項が置かれたかというと、同条の全体から見て、戦犯とされ有罪(拘禁)判決を受けた者の現実の「拘禁」状態を維持することを(国際社会に復帰するために)対外的に<約束>しておくためだった、と理解しているが、稲田も殆ど同じことを述べている(p.141)。
 参考までに同条を掲げる。
 第11条「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷のjudgementsを受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。」
 そして、この条文にいう「…一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基」き、「拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる」ということが、1000名以上の「戦犯」について、後年に実際に行われたのだ。そしてその中から、のちに大臣になった者まで現れたのだ。
 上の「judgementsを受諾」は、基本的には上のような趣旨(=拘禁刑の執行の「約束」の論理的前提)しかない。諸判決の細かな事実認定・評価に日本国家が永久に拘束されるいわれは全くない。
 論じるとすれば、「judgements」とは判決主文だけなのか判決理由を含むのか、だと思うが、稲田によると、政府答弁(2005.6.02)は、判決理由も含むとしているようで(p.140)、かつ稲田もこれに異議を唱えてはない。判決主文だけなのか判決理由を含むのか、というのは論点ではないのかな、となお感じてはいるが。
 関連して思い出すのは、安倍内閣時代に、民主党の岡田克也が、条約の法的効力は(国内)法律に優先する、という学生時代か司法試験勉強中に憶えたのだろうことを持ち出して、だから(東京裁判遵守の)講和条約の方が国内法律による赦免や犯罪者扱いしない等の措置よりも重たい(優位に立つ)という旨を主張して安倍首相に対して質問していたことだ。一般論としての効力関係はそうだとしても、問題は、そもそもの講和条約11条の存在意義・意味の解釈に分かれがあることにあるのに、ズレた質問をしている、と感じたものだった(岡田は、当時の野党も含めて賛成した、東京裁判「戦犯」を犯罪者扱いしないことを前提とする法律制定・改廃は国際法違反で無効とでも主張するのか?)。
 第二は、これまで書いたことがなく、昨年に憲法九条が同条二項も含めて憲法改正権の限界の中に含まれるかにつき、常岡せつ子という憲法学者らしき者の「大ウソ」について何回か書いたあと、4月頃に天皇制度に関係のある書き込みをしていて考えたことだ。すなわち、日本(・天皇制度)の長い歴史から見て、<天皇制度>の廃止をするような憲法改正は許されない、つまり憲法改正権の限界を超えるのではないか。
 現憲法1条は「…この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定していて、立花隆をはじめとして、「日本国民の総意」でもって(憲法改正により)廃止(廃絶)できると解釈する者も多いようだ。憲法改正権の限界を論じる中で天皇条項におそらく全く言及していない憲法学説も、少なくとも通説又は圧倒的多数説は、そのように解釈しているのかもしれない。
 だが、稲田朋美は次のように明言している。-「憲法一条の象徴天皇を憲法改正の対象とすることは許されないと私は思っています」(p.207)。
 これには肯定的な意味で、驚いた。私もそのように主張したい。そして、憲法学界は、この論点もまともに論じるべきだ、と言いたい。
 「…この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という部分は、現憲法の制定者がそのように=日本国民の総意に基づくものだ、と理解して、天皇を国家と国民統合の「象徴」と位置づける、という意味だけのことで、「日本国民の総意」によって<どのようにでもなる>と解釈するのは、政治的に歪んだ、他国にはない日本国家の特性を完全に無視した議論(解釈)だ、と考えられる。
 稲田は上の見地から、自民党の憲法改正草案の「象徴天皇はこれを維持する」との文言も不適切だと指摘している(p.207-8)。その理由も含めて、尤もだと支持したい。
 だが、稲田朋美の発言のうち一つだけ違和感をもったのは、この人が「二千六百五十年以上」続く天皇制度・皇位継承等と、何度も強調していることだ(p.208-9)。
 中国の文献を信頼して日本の古代文献は信用しないというのでは全くないが、神武天皇即位が「二千六百五十年以上」前だったと<信じて>もよいが<事実>だったと認識はできないだろう、と思っている(但し、のちに神武天皇と称されたような人物の不存在までを主張するつもりはない)。この点はまた別の雑談の機会にでもさらに書くが、旧皇族の後裔・竹田恒泰も、同・旧皇族が語る天皇の日本史(PHP新書、2008)の例えばp.69-71で、神武天皇は「二千六百五十年以上」前に即位した、この頃に活躍した人物だった、とは一切書いておらず、むしろ三世紀前半(1750年余以前)説を有力な考え方の一つとして語っている、ということだけ記しておきたい。

0543/中西輝政=八木秀次・保守はいま何をすべきか(PHP)と諸君!7月号でのこの二人の文章。

 渡部昇一=稲田朋美=八木秀次・日本を弑する人びと(PHP、2008.06)につづいて中西輝政=八木秀次・保守はいま何をすべきか(PHP、2008.06)も入手して、読む時間が足りない。また、書く時間があればこれらを読んでしまいたい。だが、いずれも途中まで読んだだけだが(座談なので、すぱやく読めてしまう)、後者から一部抜き出して、関連するコメントを書いておこう。いちおう、後者についての第一回になる。
 上の中西輝政と八木秀次の対談本の大切なポイントではないかもしれないが、<進歩(革新)派>から<保守派>への「改宗派」や所謂「すべて派」〔説明省略〕に対する皮肉らしきものを述べたあと、中西輝政は言う-「非常に過度な攻撃性を示してしまうというのは、まだ本来の保守になりきれず、『反左翼』『反リベラル』にとどまっている」。また、八木秀次も続ける-「本来保守というものは、ふくよかなものであるはずです」(p.105)。
 別の箇所で、中西輝政はこうも言う-保守とは思想ではなく感覚・心。「だから賢(さか)しらに論(あげつら)うという試みを過度にすると、かえって保守から離れるという側面」がある(p.131)。そして、八木秀次は「保守思想」の「理論化、体系化をすべき時期」ではないか(p.131)、「底の浅い保守思想」の淘汰(p.134)、「保守思想」の整備(p.135)等と言及しつつ、本来は「保守から離れる」ことになるかもしれないが(p.131)、などとも言っている。
 これらのやりとりにとくに反対するつもりはない。却って、むろん二人が意識している筈もないが、このブログ欄が<反朝日新聞・反日本共産党>とのみ語って「保守」という語を使っていないことや、樋口陽一らを「賢(さか)しらに論(あげつら)う」ということをしてきたようで、やや耳に痛い気もする。
 だが、この二人が日本の<保守>主義界を代表している筈はないし、この二人がそのように自分たちを位置づけているとすれば、傲慢だろう、とも思う。また、八木秀次が発言していることの中には私には彼には荷が重すぎると感じることもあるが、この点は別の回に書く。
 思い出すのは、月刊・諸君!7月号の特集「われらの天皇家、かくあれかし」の中に計56あった文章の中の、中西輝政と八木秀次のものの内容だ。
 全員のものをまだ読み終えていないが、西尾幹二が別の雑誌で述べていた結論的なことと、表現は違っても、同趣旨のことを述べていたのがまさにこの二人だった。
 そして、竹田恒泰を信頼するかぎりは、この二人の文章は、現時点では、率直に言って<妄言だ>。よくぞ、「神道と皇室に対してどういう態度をとるのか」、この点を「素通りして日本の保守はない」(中西輝政。上の対談本p.135)と言えるものだ、という気がしている。
 この問題に前回に触れて述べたようなことに対して、<では皇室(の重要部分)が「左翼」に乗っ取られてよいのか、「左翼」の浸透を許してよいのか>という反論があるかもしれない。それを想定して、いちおう再反論しておこう。
 竹田恒泰の言を信じれば、皇太子妃が宮中祭祀に列席されようとされまいと宮中祭祀の本質に変化はない。天皇(と将来の天皇・皇太子)こそが大切なのだ天皇陛下が「左翼」に乗っ取られない限り、<天皇制度>はまだ生きており、「日本」も存続している
 私には事実関係の確定のための資料も能力もないが、―以下、本来は書きたくないことに入ってしまうが―万が一、皇太子妃が(祭祀の意義を認めることのできないような)「左翼」心情の持ち主なのだとすれば、もう遅いのではないか。それを阻止するためには、皇太子のご婚姻前の段階ですでに警告・警戒の発言を八木や中西は(西尾幹二も)しておくべきだった、と思う。今では、一国民としては(憂慮しつつも?)「静かに見守る」他はないのではないか。
 また、皇室の<外>からの<世論>(月刊雑誌上の意見も含む)の圧力で、皇太子妃たる地位の適格性を論じ、あまつさえ変更の趣旨を含む意見を述べるというのは、きわめて不謹慎なことだ、と思う。このことは、たんに皇室への敬意という心構えのみの問題ではなく、<世論>(月刊雑誌上の意見も含む)という圧力によって皇族の地位が変動されることがありうるという先例を作ってしまえば、逆に<左翼的世論>が皇室内の問題・皇族の地位に具体的に介入してくることは目に見えている、という趣旨の方をむしろ多く含んでいる。
 上のことくらい、中西輝政、八木秀次、西尾幹二は理解できないのだろうか。じつに嘆かわしいことだ、と私は感じている。「賢(さか)しらに論(あげつら)うという試みを過度に」行っていることにはならないのだろうか。
 
ということもあって、中西輝政と八木秀次が日本の<保守>主義界を代表している筈はないし、この二人がそのように自分たちを位置づけているとすれば、傲慢だろう、とも思っている。もっとも、彼らが上掲の本で語っていることの80%は理解できるし、かつそのうち90%くらいは支持できる(読んだ限りでは皇太子妃問題に言及していない)、ということも追記しておこう。

0520/月刊WiLL7月号(ワック)、有村治子論文と竹田恒泰論文を読む。

 月刊WiLL7月号(ワック)。読んだ順に感想的コメントを付す。
 第一。有村治子「映画『靖国』騒動で戦犯とされた私」(p.249-)。稲田朋美の論稿や産経新聞の報道で概略は知っていたことだが、「表現の自由」を圧迫する政治介入をしたかの如き報道をされた本人の弁で、より詳細も知り、納得もいく。
 ①今回の悪玉報道機関は朝日新聞ではなく、共同通信だったようだが、朝日新聞はマトモだったのか? そうとも思えないが。
 ②田原総一朗は、立花隆と違い、少なくともほぼ全面的に嫌いではない。しかし、今回は映画「靖国」の李監督とともに記者会見をしたりして、みっともなかったようだ。立花隆のように<晩節まで汚す>ことのないように。
 ③出演者・被撮影者の同意を得ていない等、手続的にもヒドい映画のようだ。だが、この「騒動」で知名度・関心度が高まって無「騒動」の場合よりも儲けたとすれば、「騒動」自体が(「反日」と示唆すること自体が)作戦だったのかもしれない、と思ったりする(とすると、週刊新潮は巧く利用されたことになる)。
 ④山田和夫高橋邦夫の名を忘れないようにしよう。とくに高橋は、あるときは映画人九条の会・事務局長、あるときは映画労働組合連合会委員長。有村治子に対しても使い分けているらしい。しかも、1998年には東映労連副執行委員長として、東条英機を描いた映画「プライド」の上映を阻止すべく(=「表現の自由」を封殺すべく)「直接行動を組織化していた」。社会的には著名ではないが、こういう<左翼>がゴロゴロといるんだよねぇ(嘆息)。
 ⑤高橋邦夫と同様に、日本弁護士連合会(日弁連)日本共産党も<ご都合主義>のようだ。後者は当然だが、前者の日弁連を政治的に中立・公正な団体だと誤解してはいけない。結局はどういう弁護士たちが執行部・種々の部会を握っているかだが、「表現の自由を守れ」とだけ言って、「出演者の人権を守れ」という声が上がってこないというのだから、想像はつく(いや、とっくに知っている)。
 第二。竹田恒泰「西尾幹二さんに敢えて注〔忠?〕告します/これでは『朝敵』といわれても…」(p.30-)。
 西尾幹二の同誌5月号・6月号のものも読んでいる。率直に言って、全体として、竹田恒泰の<勝ち(優勢)>だと感じた。
 ①西尾幹二が「天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない」(5月号p.43)とまで書いたのにはいつか記したように些か驚いたが、「天皇制度」や「廃棄」という言葉の問題は別として、「皇室がそうなった暁には」という条件付きであり、「そうなった」とは「…皇后陛下のご病気の名において皇室は何をしてもいいし何をしなくてもいい、という身勝手な、薄明に閉ざされた異様な事態が現出する」ということを意味している、と読める。従って、西尾による一種のレトリックで、「皇后陛下のご病気の名において皇室は何をしてもいいし何をしなくてもいい、という身勝手な、薄明に閉ざされた異様な事態」の現出を阻止する必要がある、というのがおそらく(どちらかというと)本意だろう。従って、最後の部分の「天皇制度の廃棄に賛成する…」だけを取り出して批判するのは当を得ていないと思われる。竹田の叙述には、そのような(やや単純な読み方をしている)気配がないではない。
 ②だが、竹田に最も共感するのは、西尾幹二が皇室のことを心配し、皇太子妃(ひいてはその父親等)の言動等を問題視したい気持ちは分からなくはないが、わざわざ月刊雑誌に<公表>することはないのではないか、ということだ。
 竹田は書く。-西尾論文を読んだ読者は皇室の将来を不安視し、マスコミは皇太子批判を乱発する可能性が大きくなるが、「不安と不信」を煽り立てても事態は「良い方向に動く」ことなく、「何も解決しない」。/西尾論文の内容が大方事実ならば「直接両殿下に申し上げるべき」だ。「東宮御所に投書する」ことも可能だし、「西尾氏ほどの言論人であれば、人脈を辿って両殿下のお手元に諫言書を届けることもできた」。「公の場」・「雑誌の記事」で非難されることは「取り返しのつかない打撃」だ。しかも、両殿下は個別の記事について「ご意見」を発する、「反論する」立場にない(以上、p.32-33)。
 以上は、そのとおりではないか。西尾幹二はいったい何を一番の目的として月刊WiLL5月号論文を公表したのだろうか。
 竹田によると、西尾は自らのブログ5/01付に「当事者が読んで心を入れ換えるなんてあり得ませんから、…もうすべてが遅すぎるのかもしれません」と書いているらしい(p.33)。また、おそらく同文が月刊WiLL6月号にもある(6月号p.77)この欄の上の方では、西尾幹二は皇室のことを心配し「…異様な事態が現出する」ことを阻止したいのが(どちらかというと)本意だろう、と書いたのだが、「もうすべてが遅すぎるのかもしれません」と言っているのなら、もはや諦めており、しかも「天皇制度の廃棄に賛成する」と主張しているのと殆ど同じではないか。そうだとすると、まさに「保守派を装った」「反日左翼」(p.30)と同然になってしまう。そして、西尾は、皇室・<天皇制度>の将来を気に懸けて、というよりも、<自分(の文章)が(世間に)目立つ>ために5月号論文を書いた、と指弾されても不思議ではないことになろう。だがはたして、西尾の本意はどうなのか。
 ③竹田の論考で教えられたのは、祭祀における天皇とそれ以外の皇族との違いだ。伊勢神宮・式年遷宮あたりのことから始まって、最近は比較的に天皇・皇室・政教分離に言及することが多かったのだが、祭祀行為における天皇と皇室の区別をしないで漠然と一括して書いてきた。この点、おそらくは正確な知識をもっているだろう竹田によると、次のとおりだ。
 「宮中祭祀は重要」だ。「天皇の本質は『祭り主』であり、祈る存在こそが本当の天皇のお姿」だ。しかし、「それは天皇の話」で「皇后や東宮妃の本質は『祭り主』ではない」。/皇后等の皇族が宮中祭祀に「陪席」することはあり「現在はそれが通例」だが、あくまでも「付き添い役」としてであり、新嘗祭等に内閣総理大臣が陪席するのと同様。「現在の宮中三殿」でもそのように祭祀はなされている。「大祭」に際して「全皇族方が…陪席」するのは「理想」かもしれないが、「天皇は『上御一人』であり、全ての宮中祭祀は天皇お一人で完成するのが本質」だ。「皇族の陪席を必要」とはしないし、「皇族の一方が陪席されない」からといって「完成しないものではない」。/「歴史的に宮中祭祀に携わらなかった皇后はいくらでも例がある。…幕末までは皇后が祭祀に参加しないことが通例だった。そもそも皇后の役割は宮中祭祀ではない、まして東宮妃であれば尚更」だ(p.41)。
 竹田はさらに、東宮妃(=雅子妃殿下)が皇后になられたときにまだご病気であれば「無理に宮中祭祀にお出ましいただく必要はない。またそれによって天皇の本質が変化することもない」、と言い切っている。
 ④竹田のものを読むと、立ち入らないが、たしかに西尾論文は<事実認定>が甘い。推測又は伝聞が多そうだ。「『適応障害』というのは…一種のわがまま病」といった文も、些か筆がスベり過ぎている感もある。
 また、竹田が現皇太子も立派な天皇になるだろう、と自信をもって書いているのも印象に残った。
 ⑤さて、月刊WiLL(花田紀凱編集長)、そしてワックは5月号、6月号でだいぶ売り上げを稼いだようだが、はたしてマスコミ・ジャーナリズムの一つとして西尾幹二論文の掲載はよかったのかどうか(とくに「保守派」の筈の雑誌・出版社として)。
 6月号では表紙には「総力特集・小和田一族と皇室」と打ちながら、中身を見ると「皇室」は話題にされていても「小和田一族」については全く又は殆ど言及されていない、という(私から見ると)<恥ずかしい>こともしている
 この<小和田一族>、とくに小和田恒を批判的に取り上げるくらいなら許されるし、私も関心をもつ。女系天皇となれば、その祖父となる人物だ。
 だが、朝日新聞社の「アエラ」がこの半年の間のいつかに「雅子さまへの公開質問状」という見出しで何やら書いていて(内容は見ていない)、「公開質問状」という表現自体が皇族の一人(かつ皇后になられる可能性のある方)に対してはやや非礼ではないか、と私は感じた。それ以上の「傲慢さ」・<非礼さ>を月刊WiLLの最近のいくつかの論文・座談発言には感じるのだが、花田紀凱編集長よ、いかがだろうか。売れればよい、というものではあるまい。
 これまでもそうだが今回のこのような私自身の叙述の中に、天皇・皇室に対する非礼な(丁重ではない)言葉遣いがあるだろうことは自覚している。また、ある時期以降、人名には現存の方も含めて「氏」・「さん」等を一切付けないことで統一したので、ひょっとして失礼な言い方になっているとすれば、ご海容を乞うしかない。

0483/映画「靖国」と稲田朋美・朝日新聞・産経新聞・山田洋次ら。

 映画「靖国・Yasukuni」問題は、論点がほとんど明らかになった。
 第一は、この映画製作に対して文科省所管の日本芸術振興会(独立行政法人)から2006年度助成金として750万円が支出されているが、この支出が「公金」支出として、あるいは上記振興会の「助成金」交付基準に照らして適切(妥当)かどうか、だ。
 これについて週刊新潮昨年12/20号が批判的な記事を載せていたので、私は12/26に書いたことは、今でも主張できることだと思っている。
  「日本在住の中国人・李某が映画『靖国』というのを作ったが、この映画、「反日メッセージ」が「露骨なまでに強烈」らしい。しかるに、この映画製作に対して、文科省所管の日本芸術振興会(独立行政法人)から2006年度助成金として750万円が出ているらしい。p.147。
 同振興会は「専門委員会で、助成対象作品として採択され、完成確認でも疑義があったわけではない」等と釈明、又は<開き直り>とのこと。同頁による。
 所謂<審議会の先生方>(専門委員会)にかなりの程度は責任を預けて、振興会職員自身は<逃げて>いる感がする。
 本当に上のような類の映画だったのだとしたら、「助成対象作品として採択」した「専門委員会」のメンバー・委員は誰々だったのかを、きちんと明らかにすべきだし、明らかにしてほしい。/週刊新潮編集部は、この点をさらに<追っかける>つもりはないか?」<引用終わり>
 その後、国会議員等への<試写>、助成対象としたことへの疑問、上映中止<騒ぎ>、国会議員による<表現の自由への圧力>との一部マスコミによる批判、上映中止の取り止め(一部?)等の動きがあった。
 上の<「専門委員会」のメンバー・委員は誰々だったのか>を明らかにした報道はその後あったのだろうか。また、上に書いてはいないが、「専門委員会」のメンバー・委員は、それなりの専門家ならば、助成対象にした理由・根拠を(内部基準の具体的適用のそれも含めて)自ら積極的に語るべきだと思われるが、そのようなことは、あるいはマスコミが積極的に彼らを取材する(そして上のことを質問する)ことはあったのだろうか。文科省や上記振興会だけの取材は楽だろうが、それらだけで十分とは思えない。
 さて、
上にいう国会議員とは主として稲田朋美(自民党)。この人を批判した一部マスコミ(の代表?)はむろん朝日新聞
 月刊WiLL6月号(ワック)には相変わらず言及・紹介したい論稿が多くあるが、稲田朋美「映画『靖国』騒動/朝日新聞のダブル・スタンダード」(p.102~)をまず話題にしてみる。
 これの全体を紹介はしない。とくに印象に残ったのは(全てが初めて知ることでもないが)次の二点だ。
 ① 朝日新聞の石川智也(記者)が書いたと見られる3/09及び3/29の記事の一部には「虚報」=「捏造」があると思われるが(その根拠は稲田朋美の方を信頼して間違いないだろうと思っているから)、朝日新聞は4/11に稲田あて書面で「記事内容に訂正すべき誤りはないと判断しております」と返答した、ということ。
 朝日新聞の厚顔・腐敗ぶりを示す一例がまた増えた、と考えられる。稲田朋美(弁護士でもある)は、時間的余裕があるなら、朝日新聞に名誉毀損・損害賠償請求訴訟を起こしたらどうだろう。
 ② 朝日新聞の記事をきっかけに、稲田の表現によれば「萬犬虚にほえる」状態になったこと。稲田によれば、朝日新聞(等?)の「歪曲」報道・論調を信じての?稲田を「名指しした」抗議文・声明等が多数送られてきた。列挙されている、悪い意味で錚錚たる団体名の多さに驚いた(()は委員長名)。以下のとおりだが、一つだけ省略している。
 映画演劇労働組合連合会(高橋邦夫)、映画人九条の会、日本マスコミ文化情報労働会議、日本ジャーナリスト会議、日本新聞労働組合連合(嵯峨仁朗)、日本民間放送労働組合連合会(碓氷和哉)、日本出版労働組合連合会(津田清)、日本共産党福井県委員会
 これだけの団体から抗議文・声明を送られると、当然に心理的<圧力>になる。「表現の自由の名をかりて、私の政治活動の自由、言論活動の自由を制約しようとしているとしか思えない」と稲田が書くのもよく解る。
 それにしても、<映画演劇・映画人・マスコミ・ジャーナリスト・新聞・民間放送・出版>という名をそれぞれ冠した労働組合(連合会)等は、朝日新聞の記事のあとおそらくはすみやかに朝日新聞の記事を鵜呑みにしておそらくは類似の内容の抗議文を送ってきたのだろう。これら<表現・マスコミ>等の労働組合等が完全に「左翼」に牛耳られてしまっていることが、この列挙でもよく判る。そして、何とも怖ろしい状況だと思う。こうした組織に属している者たちが、映画・テレビ番組・新聞等を作成・製作しているのだ。唖然とし、恐怖に駆られる。
 なお、「映画人九条の会」は労働組合ではない。九条護持論者はこういう問題にも口を出してきているのだ、と教えられた。この会については、昨年6/12の以下を参照→ http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/194586/  
 呼びかけ人のうち私の知っている(又はたぶん聞いたことのある)名前は、山田洋次、小山内美江子、黒木和雄、山内久ら。
 映画「靖国・Yasukuni」問題の第二の論点は、この映画自体の作品としての評価だ。産経新聞4/25の上坂冬子「正論」欄や月刊WiLL6月号の水島総「映画『靖国』の巧妙なマスメディア利用」(p.134~9)等々によっておおよそのことは(自分が)観なくても分かる。製作過程・作り方自体にも看過できない問題があったようだが、評価は主観的でありうるので、この問題にはとりあえず立ち入らないでおこう。
 なお、稲田朋美自身の産経「正論」欄への寄稿、産経のこの問題の社説等々、産経新聞によってこの映画問題のおおよそはフォローしている(逐一この欄で取り上げては来なかったが)。もっとも、中国人も絡んで、精神衛生に悪い、溜め息をつきたくなる、本当は触れたくない話題だ。また、月刊WiLL6月号の本郷美則「今月の朝日新聞」によると、上に登場してきた日本新聞労働組合連合(「新聞労連」)は、朝日新聞の「新聞と戦争」シリーズと沖縄タイムス・琉球新報の「集団自決」関係「教科書報道」に<ジャーナリスト大賞>を贈った、とか(p.143)。上記の水島総の論稿の中に写真掲載されている朝日新聞紙上の映画「靖国」の全面広告(p.137)とともに、全くうんざりするね。

0429/週刊新潮の<新・「裁判官」がおかしい!>に感じる。

 週刊新潮が2/21号から<新・「裁判官」がおかしい!>との短期集中連載をしている。
 3/06号では「百人斬り」名誉毀損訴訟での東京高裁の裁判官・石川善則の<「言論封じ」の訴訟指揮>の異様さを、3/13号では住民基本台帳法上の「住所」が都市公園内にあることを認めた大阪地裁2006.01.27判決(裁判長・西川知一郎)の異様さ(但し、大阪高裁2007.01.23判決で逆転。「ホームレス」のテント生活者が敗訴)を問題にしている。
 これらに逐一コメントする能力も余裕もないが、今の日本の裁判官の資質・感性については、感じるところがある。
 すなわち、彼らは戦後教育・「戦後民主主義」の(最)優等生で、通常の又は細かな法律知識・法的論議は十分に持ちかつ可能なのかもしれないが、その<育ち>ゆえにある種の<偏向>を避けられていないのではないか、という<仮説>を抱いている。
 具体的には、彼らはおそらく日本の「歴史」を十分に知らず、司法試験の対象には実質的にはならないと言われているために日本の「天皇」制度に関する(憲法典に規定があること以外の)十分に正確な知見も持たず、信仰の自由・「政教分離」に関する条文解釈や関係判例を知っていても「神道」に関する関心も知識も十分になく、昭和に入っての「戦争」についても(日本史の、高校までの)歴史教科書に書いてあること以上の知識・知見は持っていない、と推測している。なぜなら、これらに関心を持って深く勉強しようとするなどしていれば、激烈な司法試験に合格することができなかった筈だからだ。そして、合格して裁判官になってからも、上に書いたようなこと(あくまで例示だが)について<教養>を身に付けるような勉強をする時間は殆どなかっただろう。
 このような平均的日本人(またはそれ以下の)レベルの知識・「教養」しかない裁判官は通常の、多数の事件に対応することはできても、次のような事件には何らかの<偏向>・<異様さ>が生じうる、というのが<仮説>だ。
 つまり、例えば、戦没者追悼・靖国神社関係等の宗教あるいは政教分離にかかわる事件、中国人・韓国人等が原告となるかつての<戦争被害(補償)>にかかわる事件だ。後者に関して、裁判官の中には、戦後教育が教えてきた<(昭和)戦争観>にもとづき、中国人・韓国人等の<「日本軍国主義」の被害者・犠牲者>に「甘く」なるような傾向に陥る者はいないだろうか。
 後者に類似しているのは、<沖縄問題>かもしれない。戦後教育の(最)優等生の裁判官たちは、高校までの歴史教科書の「知識」にもとづき、(最も「犠牲」となった)<沖縄>県民の感情といわれるものを不必要に配慮した(感情、そして客観的には「政治」に流れた)判決を書いてしまわないだろうか。
 思いは、沖縄住民集団自決にかかわる対岩波・対大江健三郎訴訟へとつながる(ちなみに、昨日言及した岩波ブックレット(2005.11)の後扉裏には、大江健三郎・沖縄ノート(岩波新書)の広告が堂々と載っている)。ふつうに考えれば、名誉毀損・不法行為責任の発生要件は十分に充たしていると思うが、裁判官たちが<沖縄>関係のために余計な<配慮>をしてしまわないか、と心配する。
 これは必ずしも杞憂ではなかろう。原告側代理人・弁護士(衆院議員)の稲田朋美が何度も書いており新書も刊行しているが(同・百人斬り裁判から南京へ(文春新書、2007))、対中国「戦争」にかかわる<百人斬り名誉毀損>訴訟で原告たちは勝てなかった。そして、判決理由にはかなり無理なところがある(と感じる)。また、原告外国人たちの「戦後左翼」と同様の歴史観(「占領史観」=「GHQ史観」にほぼ近いと言えるだろう)をそのままなぞったような長い文章を「理由」中に書いていた判決も現実にあったのだ。
 司法部・裁判官<批判>はなかなかむつかしいが(行政官僚に比べれば、なおも高い「権威」を持っているだろう)、全面的に信頼することはできない、そういう部分があることは間違いないと考える。

0409/高市早苗編・小沢民主党は信用できるか(PHP研究所)の中西輝政論文。

 たぶん3/01だったが、高市早苗編・小沢民主党は信用できるか(PHP研究所、2008.03)の中西輝政の論稿二つのみをとりあえず読んだ(p.94-116、p.150-173)。いずれも月刊雑誌・ヴォイス(PHP)に既発表のものだが、この雑誌は買っていない。
 小沢一郎はそもそも信用していないので(民主党もそうだ)新鮮味にはやや欠けるが、面白く読める。
 参院選後の日本の大きな三つの対立点を中西が示しており、かなり参考になる(p.165以下)。
 第一は、「改革」の是非。但し、これではじつは曖昧かつ誤解誘発的で、中西輝政によると正確には、「行き過ぎた改革を修正しつつ改革の第二段階に進むのか、それとも改革そのものを後退させるのか」
 第二は、改憲か護憲か
 第三は、親アメリカか親(東)アジアか
 これは相当に分かりやすい。第一点も正確な表現かつ妥当な分け方ではないか。中西は、「行き過ぎた改革」には反対しつつ、「改革の第二段階に進む」ことを主張していると読める。<小泉改革>とか一部自民党議員のいう「改革、改革」の意味はよく分からなかったが、(上にいったん書いたような)<「改革」の是非>という問題設定では無意味なわけだ。
 それにしても、あるべき「改革」の具体的内容に関する議論はむつかしい。単純な、<基本的思想>いかんの問題で決せられる問題ではないからだ。手元に置かずに書くが、関西空港会社への外資規制について、産経新聞の「正論」欄で屋山太郎(評論家)は反対論を稲田朋美(弁護士・自民党議員)は賛成論を主張していた。はてはて。
 上の第二点に関連してふと思い出して書けば、立花隆は月刊現代(講談社)誌上でまだ冗長な「私の護憲論」とやらを連載している。自ら別の(半年前の)文章で九条発案者が誰であったかは些細な問題だと書いておきながら、最近はこの点にこだわって、幣原喜重郎説を支持する主張をしている(立ち読みによる)。立花隆くらいになると、いかに冗長でも、いかなるテーマ展開でも許されるのだろう。講談社・現代編集部にも少し呆れている。
 上の第二、第三に関連して、後藤田正純に言及がある。この人の名を<日本国憲法のどこが悪いんだ>とか発言した自民党議員としてのみ記憶していたが、中西によると、「典型的な護憲リベラルの立場」の人物で、参院選後に「『構造改革の即刻中止、護憲、親中国』という反安倍路線を明確に打ち出している」(p.167)。
 この人のような自民党内勢力が「政界再編の端緒となる可能性」があるかは分からないが、後藤田正純から稲田朋美まで(?)、自民党も<幅広い>ものだ。
 もっとも、岡崎トミ子や(山梨県教組委員長だった)輿石東から(?)松原仁まで、民主党の方がもっと<幅広い>のは確かだろう。
 さて、福田康夫内閣は、上の三点につき、いかなる基本姿勢なのか。国会対策に忙しくて、考える余裕がない、ということはないだろう。

0225/サピオ6/27号の橋下徹・稲田朋美各弁護士の文を読む。

 弁護士・橋下徹が語るのは聞いたことがあるが、文章を読んだことはなかった。「「日本の裁判」亡国論」と表紙に大書してあるサピオ6/27号(小学館)で法曹改革・弁護士会等について書いているのを読んだ。
 ロースクール(法科大学院)制度につき、次のように言う。-この制度創設の趣旨は、旧来の司法試験では「マニュアル的法律家」、「特に人間的教養の身に付いていない受験技術だけを持った法律家」しか生まれないことを危惧して「素晴らしい人間的素養に溢れる法律家」を養成することだった。
 こういう面もあるだろうが、「人間的教養(素養)」の涵養のみがこの制度の趣旨ではないと想像している。例えば、法学部の大学教員に空理空論を研究し講義することを許さず、日本の司法実務や判例に即した研究・講義を促すとか、専門法曹の養成に法学部の大学教員を従来よりもはるかに関与させるとかの意味もあるだろう。
 しかし、次の言葉は適切だろうと推測する。-「ロースクールごときで、人間的素養など身に付くはずがない。ロースクールの教授を見れば一目瞭然。人間的に魅力のある教授など皆無。…ロースクールで、人間の幅が広がると考えているのは、自分たちは教養に溢れていると勘違いをしている傲慢な法学関係者のみ」(p.22-23)。
 日弁連の元会長・土屋公献弁護士が朝鮮総連の代理人になり、まずは日朝の国交回復などと公言していることもたぶん一つの証左だろうが、個々の弁護士会や日弁連の幹部又は役員はどうも「左翼的」臭い、という印象はあった。橋下徹も、日弁連のHPに<憲法改正手続法の抜本的見直し>・<共謀罪反対>等の「政治的主張が堂々と掲げられている」と、批判している。法律にもとづき設置される、いわば強制加入制の弁護士会とその連合体に許容される活動範囲についての法的定めは知らないが、たぶん、形式的には「民主主義」的に、<間接>が複数回続いて形成された<多数派>が特定の政治的主張をしているのだろう。
 裁判官も含む専門法曹は戦後教育の「優等生」だといつか書いたことがある。戦後教育の「優等生」だということは、歴史・政治そして例えば日本国憲法や国家・個人観について、高校までの教科書や大学教員の書いた本によって<戦後>的価値観を平均的日本人以上に、ふんだんに身に付けていることを意味する。少なくともある程度は<警戒>が必要な人たちでもあるのだ、たぶん。
 そうした懸念にも関係することを述べているのが、同じサピオ6/27号稲田朋美「「戦後補償裁判」で次々濫訴する市民団体・弁護団の「負けて勝つ」法廷戦術に躍らされるな」だ(p.15-20)。
 私自身が3/25に一審・土肥章大、田中寿生、古市文孝、二審・石川善則、井上繁規、河野泰義各裁判官による百人斬り虚偽報道謝罪広告請求事件判決に簡単に言及し、また、3/25と6/08に伊藤剛、本多知成、林潤の三裁判官による「南京大虐殺はあった」と判決理由中で明言した東京地裁平成11.09.22判決(南京事件被害者中国人による日本国相手の損害賠償請求訴訟)にやや詳しく論及したので(また、6/07には稲田氏の別の一文に言及した)、よく分かる。
 稲田が強調している一つは次のことで、同感だ。すなわち、一連の<戦後補償裁判>での国(法務省)の方針は誤っている。彼女は書く-「戦後補償裁判で事実関係を争わない国の訴訟方針は、国益を大きく損ねている」。「大竹たかし法務省大臣官房訴訟総括審議官」は「事実関係を確定するまでもなく請求が棄却されるべきもの」であり「国は事実関係については認否、主張、反対尋問をしない」と「答弁した」が、これは「法律家だけに通じる議論」だ。
 「国は事実関係については認否」もしないとは、原告の一定の事実(戦時中の被害の原因・背景を含む)の主張に対して肯定も否定もせず「知らない」と答え、誤った事実の主張に対して反論するための証人採用等の活動を一切していない、ということだろうか。
 これは肌が寒くなる方針だ。法務省官僚に一般に「政治的」になれとは言わない。しかし、<戦後補償裁判>では原告中国人・韓国人、そして支援する弁護士を含む日本人は、稲田の表現では
「負けて勝つ」法廷戦術を、すなわち、本案の結論では請求棄却でもよく、判決理由中の事実認定の中で国の加害行為によって被害が生じた等を明文で書かせること、さらにはそれを「違法」と評価させることを目的とする「政治的」戦術をとっていると見られる。そして、上のような訴訟方針だと、事実についてはほとんど原告側の言いっ放しによって認定されることになり兼ねない。戦時中の日本国家の行為がかりに誤って事実認定されるということは、歴史の改竄と国益の損失に司法判決が加担するということでもあり、国・法務省官僚は「政治的」意識を持って断固として反論し、判決による誤った事実認定を阻止すべきだ。
 稲田が強調しているいま一つは、かなり知られてきた、所謂<司法のしゃべりすぎ>だ。稲田はp.17で、「「余計なこと」をいいたがる裁判官がいる…」と表現している。
 上の法務省官僚の答弁の如く「事実関係を確定するまでもなく請求が棄却されるべきもの」だとしても、事実関係に立ち入り、原告に有利な事実認定と「違法」との評価を(上のような国の訴訟方針もあって)してしまう裁判所・裁判官がいるわけだ。
 すでに書いたことの反復になってきているが、戦後教育の「優等生」である裁判官がどのような<歴史認識>を持っているか、形成してきたかは、興味深い問題だ(明瞭になる資料もデータもないだろうが…)。大きな対立があることを知らないまま、又は知っていても贖罪的な、<日本は悪いことをした>史観に立つことが<良心的だ>と判断してしまう、無邪気な「良心的」裁判官が、余計な<おしゃべり>をしているかにも見える。
 なお、稲田のこの一文によると、尾山宏という弁護士は、百人斬り虚偽報道謝罪広告請求事件での元朝日新聞・本多勝一被告の弁護人で、かつ、日本に損害賠償を請求した「南京虐殺」被害者の一人・某の弁護人で、かつ<戦後補償裁判>の一つの「毒ガス訴訟」の原告側弁護士団長だった。そして、中国の中央電視台から2003年度の「中国を感激させた10人」の1人に選ばれた、という(p.17)。中国(の国営放送局)に褒められる奇特な?日本人弁護士がいるわけだ。

0202/稲田朋美・百人斬りから南京へ(文春新書)は未読だが。

 稲田朋美・百人斬りから南京へ(文春新書、2007.04)は出版されるとすみやかに購入したが、きちんとは読んではいない。というのは、きちんと読まなくとも、<百人斬り問題>・<南京事件>については殆ど知識がある、と思っているからだ。所謂<百人斬り報道名誉毀損訴訟>については櫻井よしこ・週刊新潮5/17号も扱っており、原告側訴訟代理人・稲田朋美にも触れている。
 月刊・正論7月号(産経新聞社)の目次にはテーマも氏名も出ていないが、<Book Lesson>というコーナーで、著者・稲田が4頁ほど喋っている。昨年12月に<百人斬り名誉毀損訴訟>の最高裁判決が出て原告敗訴で法的には確定したが、これについては3月中に言及した。

 また、驚くべきことに<南京虐殺はあった>旨の事実認定をしつつ損害賠償請求権なしとして棄却した判決について、たしか同じ日に、その裁判官名を挙げて批判・疑問視する長い文も書いたところだ。
 上の月刊・正論7月号の稲田氏の言葉で関心を惹いたのは、「戦後補償裁判では、請求が棄却される。それは当然ですが、判決理由のなかで個別の事実認定は全部認定されてしまっている。…これは訟務検事が法理論による請求棄却だけを求めて個別の事実認定を全く争わないからです」という部分だ。
 今年4月27日の最高裁判決(西松建設強制労働事件等)もそうだと思うのだが、事実認定は基本的に高裁までで終わりなので、高裁までの事実認定に最高裁すら依拠せざるをえない。そこで、まるで最高裁が積極的に「強制連行」等の事実を認定したかの如き印象を少なくとも一部には与えているようだ。今回は省略するが、高裁(原審)の事実認定によりかかって、井上薫・元裁判官のいう「司法のしゃべりすぎ」を最高裁すら行っているのではないか、と思える最高裁判決もある。
 稲田の指摘のとおり、由々しき自体だ。「この国には国家や日本人の名誉を守るという考えが欠落している」。
 私よりも若い、かつ早稲田大学法学部出身のわりにはよくも<単純平和左翼>の弁護士にならなかったものだと感心する稲田朋美だが、弁護士として、自民党衆議院議員としてますますの活躍を期待しておきたい。

0018/一審-土肥章大、田中寿生、古市文孝、二審-石川善則、井上繁規、河野泰義。

 百人斬り虚偽報道謝罪広告請求事件で最高裁でも原告敗訴だったことはネット情報で知ったが、月刊WiLL3月号でも稲田朋美自民党議員・弁護士がこれに触れている。たしかに高裁判決が「本件日日記事…の内容を信じることはできない…、…戦闘戦果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的」と述べつつ、「全くの虚偽であると認めることはできない」と結論づけるのは矛盾しているように見える。だが同氏も言うように、裁判所は、「全くの虚偽」と心証形成させるだけの厳しい立証を原告に課したのだろう。
 ネット上で一審・二審判決の全文が読めるが、先月に、煩わしくも理解しようと努めてみた。問題は「次の諸点に照らせば」と判決が言う「次の諸点」で、その中には「少なくとも、両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成されたことが認められる」、「少なくとも野田少尉は、本件日日記事の報道後、「百人斬り競争」を認める旨の発言を行っていたことが窺われる」などがある。
 これらを一読して感じたのは、一審・二審の裁判官は、「時代の空気」の差異を知らず、現在と当時の「歴史的状況の違い」を無視しているのでないか、ということだ。日日(現在の毎日)の他に朝日も、当時は戦意高揚の記事を書き、戦争を煽っていた。そのような雰囲気の中で両少尉が当時ならば自らを「軟弱兵」視させるような「真実」を当時に語れるだろうか。
 一審の裁判官は土肥章大、田中寿生、古市文孝、二審のそれは石川善則、井上繁規、河野泰義で、各々最初に記載の者が裁判長だ。関心をもつのは、この6名は何新聞を購読し、あの戦争に関する知識がどの程度あり、いかなる「歴史認識」をもっているか、だ。本多勝一・朝日と同じ<日本は悪いことをした>史観なら、こうした判決にもなるだろう。法律的議論を超えているつもりはない。心証形成の自由の中で微妙にであれ「歴史認識」が影響を与えなかったのか、という疑問が生じるのだ。
 周知のとおり、「百人斬り競争」の咎で向井敏明・野田毅両少尉(当時)はB・C級戦犯として南京郊外でまともな裁判もなく処刑死した。東京日日(現毎日)の報道記事が殆ど唯一の証拠だった。処刑直前の、無実を訴えつつ死の覚悟・肉親との別れれの言葉を綴る獄中日誌を読むと、遺族ならずとも表現し難い怒りの如き感情が湧いてくる。この件は東京裁判等とともに一般には忘れられていたが、これを掘り起こし死者に鞭打ったのが、朝日の本多勝一だった。彼は1971年の中国の旅(朝日文庫、現在でも売っている)で、当地の中国人の「証言」をそのまま書き写した。日本刀での「百人斬り競争」の不可能を山本七平氏が私の中の日本軍(のち文春文庫化)で書いたり、本多の本は「南京大虐殺」に触れるものであったため、鈴木明氏の「まぼろし」とする本も出たりした(現在、ワック文庫化)が、本多の本により苦痛と悲しみをさらに受けたのは向井・野田両氏の遺族だった。両氏の大きな写真が現在、南京の抗日(南京大虐殺)記念館に貼られているという。
 「百人斬り謝罪請求」訴訟の一審・二審判決は本多の書いたことが真実だと認定したわけでは全くない。ただ、例えば「真偽は定かでないというほかないが、これを直ちに虚偽であるとする客観的資料は存しない」と言うにすぎない。朝日の組織とその「権威」に屈したわけではないだろうが、判決は「全くの虚偽」とまでは認定しなかったわけだ。とすると、ただちには「全くの虚偽」と見抜かれない文書や証人を意識的に「でっちあげて」おけば、訴訟と学問的歴史研究は同一でないとは思うが、人の名誉毀損も歴史の改竄も「完全な反証」のできないかぎり可能となる。それでいいのか、大いに疑問だ。

-0024/大江健三郎は「事実」と「情念」・面子のどちらを選ぶ?

 拉致被害家族会等(増元氏等)との意見交換会を突然に中国当局が中止した。北京まで(おそらく家族会等の負担で)来させておいて、今更北朝鮮に配慮とは失礼だ。こういう国なのだが、これを伝えたNHKの午後9時からのニュースの男性アナは<日中の微妙な国家関係が影響かも>旨を最後にコメント。何を中国に遠慮しているのか。約束違反・予定背馳そのものに日本政府に責任があるのか。朝日某ほどは目立たないが、NHKも奇妙な所がある。
 春頃日付が変わった後のニュース解説をつけっ放しでPCに向かっていると、<国民投票は憲法を変えることを国民が阻止する最後の砦になる側面もある>と聞こえてきた。国民の意思で憲法改正する最終的手続たる側面、には何故言及しないのかと、そのとき不審に思ったものだ。
 大江健三郎につき、谷沢永一・こんな日本に誰がした(1995、クレスト社)があり少し読んだ。表紙にもある「戦後民主主義の代表者大江健三郎への告発状」との副題はスゴい。この本は20万部売れたらしい。
 大江は谷沢永一・悪魔の思想-「進歩的文化人」という名の国賊12人(1996、クレスト社)の対象の一人でもあるが、「悪魔の思想」とはこれまた勇気凛々のタイトルだ。類書に日本を貶める人々、日本を蝕む人々(各PHP)等もあるが、これらに比して谷沢のは鼎談でなく断片的でもない。
 大江につき今最も関心があるのは、第一審・大阪地裁段階のいわゆる沖縄自決命令訴訟の行方だ。大江と岩波が被告だが、沖縄タイムズ社の本に書いてあったから信用したというだけでは、沖縄ノート(1970、岩波新書)の記述を30年以上訂正しなかった過失を否定するのに十分ではないことは明らかだろう。ノーベル賞作家は、あるいは誰でも、原告の政治的背景をアレコレ言う(大江・朝日新聞2005.08.16)前に、真の「事実」は何だったかに関心をもつべきだ。
 曽野綾子・沖縄戦・渡嘉敷島-「集団自決」の真実(ワック、2006)も参照。上の岩波新書は持っていたはずだが所在不明で購入要かも。大江等擁護の意見も読んでみたが、事実よりも「自由主義史観」者たちに負けるなとの感情過多の印象だ。
 いわゆる百人斬り名誉毀損訴訟も気になる。稲田朋美月刊・WiLL8月号参照。南京事件、本多勝一等にも関係するが、下級審で勝てず最高裁に上告中。
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