秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

稲子恒夫

1403/日本共産党の大ウソ26追-宮地健一による項目別推計数。

 粛清とかテロルという語の正確な意味も問題だが、ソ連におけるとくに第二次大戦のこれらの犠牲者の正確な数も、細かく特定することは永遠にほとんど不可能なのかもしれない。
 第26回で引用した稲子恒夫が示す数字自体は正確だと思われる。しかし、それらは「国家保安委員会の(秘)保存文書によるが、実際は赤色テロではるかに多数の者が裁判なしで銃殺」とされているように、裁判手続を経ない殺戮もあるし、明らかに政策的な(明かな政策に原因があると見なしうる)飢餓による死者もある。
 いろいろな書物が-とくにソ連崩壊後に明らかになった資料による文献は-「共産主義」による犠牲者の数を推測している。稲子恒夫が示す数字も基礎になりうる。
 白井聡のように犠牲者数が<ナチズムのそれよりも多い>と言いたいだけだと<統計数>を馬鹿にするのは、自らの、多数の犠牲者に対する無感覚、人間的な「感情」のなさを暴露していると思われる。
 多数の知り得た文献による推計数を、一回だけで逐一紹介する余裕はない。
 今回は、宮地健一「『赤色テロル』型社会主義とレーニンが『殺した』自国民の推計」幻想と批評第1号(はる書房、2004)にもとづいて紹介する。
 日本共産党・不破哲三はレーニン期とスターリン以降の時代を明確に区別しなければならないと強調するが(なぜか、ブレジネフ以降とかゴルバチョフ期とかいった区分をしない)、宮地は上の論考で、この区別を意識して ?、レーニン期に<レーニンが殺した>犠牲者数を「推計」することを追究している。
 宮地健一はソ連崩壊後に発掘・公表された「レーニン秘密文書」の大量データを不十分かもしれないが見ているようだ。
 詳細は「宮地健一のHP」を見ていただく方が早い。
 88-89頁の表の引用・紹介も省略して、そのあとの各見出しを少し修正したものだけを、紹介しておく。説明・根拠等は本文内にある。推計数字は「肉体的殺人と政治的殺人」の両者を含んでおり、かついわゆる<白軍>との「内戦」による死者数を含んでいない、とされる。
 時期は、1917年12月の「チェカ」(政治秘密警察-KGB等の前身)創設~1922年12月のレーニンの政治活動の実質的停止、の間。
 ①反乱農民-「数十万人」殺害。
 ②兵役忌避の脱走兵・徴兵逃れ-「十数万人から数十万人」銃殺・殺害・人質。
 ③コサック身分農民-「三〇~五〇万人」殺戮・政策的餓死。
 ④ペトログラードのストライキ労働者-「五〇〇〇人」逮捕・「五〇〇人」即時殺害。
 ⑤クロンシュタットの水兵・住民-「五万五〇〇〇人」殺戮・銃殺・強制収容所送りによる殲滅。
 ⑥聖職者(ロシア正教等)-「数万人」銃殺/信徒-「数万人」殺害。
 ⑦反ソヴェト知識人-「数万人」肉体的排除。
 ⑧カデット・エスエル・左派エスエル・メンシェビキ・アナキスト-カッコ付き「数十万人」。
  *最終的に「スターリンは、粛清により、これら百数十万人の全員を、亡命した者以外、一人残らず殺害した」(p.101)。
 ⑨飢饉死亡者-「五〇〇万人」。
  *「飢饉死亡者500万人とウクライナの死者100万人」は定説で、「ランメルは…、意図的政策による餓死者数を250万人としている」(p.101)。
 以上によって、宮地は、レーニンが、「最低値として、数十万人を肉体的・政治的な国家テロルの手口で殺したことは間違いない」とする。
 これらの<最高値>は、秋月によると、数百万人になるだろう。
 かりに「最低値」によるとしてすら、レーニン期は5年余なので、単純に5で除して、総計20万人だと毎年平均4万人、総計30万人だと毎年平均6万人、総計50万人だとすると毎年平均10万人を<レーニンは殺した>ことになる(レーニンによる直接指示のほか、、レーニンをトップとする共産党政治局決定による指示を含むはずだ。上記のとおり「内戦」-そして「対外(干渉)戦争」-の戦死者を除く)。
 これは愕然とする数字に違いない。そして、スターリン期にはこれの何倍・何十倍かの規模で<粛清・テロル>が行われた(宮地p.75は論考冒頭で「スターリンは4000万人の大量粛清をした犯罪者だ。しかし、レーニンは偉大な革命家、愛情あふれる、人間味豊かなマルクス主義者で、大量殺人などしていない、と信ずる日本人はまだ大勢いる。ほんとうにそうだったのか」、と書き始めている)。

1401/日本共産党の大ウソ26-レーニン時代とは。

 一 「日本共産党の大ペテン・大ウソ」の第02回めに引用したが、あらためて日本共産党2004年綱領から、レーニン・スターリンに関する部分(「三〔章〕、世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中の「(八)」〔節〕)を掲載する。「・」は原文にはない。//は原文では非改行。
 「・資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。第二次世界大戦後には、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出した。
 ・最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。//
 しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げておこなわれただけに、これらりが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。
・ソ連とそれに従属してきた東ヨーロッパ諸国で一九八九~九一年に起こった支配体制の崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産であった。これらの国ぐにでは、革命の出発点においては、社会主義をめざすという目標が掲げられたが、指導部が誤った道を進んだ結果、社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた。
 ・ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の崩壊は、大局的な視野で見れば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった。
 ・今日、重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国ぐにで、政治上・経済上の未解決の問題を残しながらも、「市場経済を通じて社会主義へ」という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探究が開始され、人口が一三億を超える大きな地域での発展として、二一世紀の世界史の重要な流れの一つとなろうとしていることである。」
 二 日本共産党は「レーニンが指導した最初の段階においては、…、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された」と歴史認識する。これが、レーニンに関する事実に反する美文にすぎないことは、すでに多少とも触れてきた。
 「市場経済を通じて社会主義へ」以外の論点につき、以下の事実の指摘もある。もっとも、「真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力」が以下のような事実を指すのだとすれば、それはそれで一貫しているのかもしれない。数字の最後に「人」を追記した。
 「1918年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者5万8762人、勾留5万8762人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)1万4504人、死刑(銃殺)6185人。これらの数字は国家保安委員会の(秘)保存文書によるが、実際は赤色テロではるかに多数の者が裁判なしで銃殺。」p.135。
 「1919年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万9238人、勾留6万9238人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2万2202人、死刑(銃殺)3456人。」p.155。
 「1920年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万5751人、勾留6万5751人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)不明、死刑(銃殺)1万6068人。」p.178。
 「1921年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者9万6584人、勾留9万6584人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2万1724人、死刑(銃殺)9701人。」p.196。
 「1922年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者6万2887人、勾留6万2887人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2656人、死刑(銃殺)1962人。」p.214。
 「1923年の反革命罪/ 刑事責任を問われた者10万4520人、勾留10万4520人。判決: 自由剥奪(収容所などへの拘禁)2336人、死刑(銃殺)414人。」p.230。 
 以上、p.数とともに、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀-年表・資料・分析(東洋書店、2007)。 
 三 すでに上の稲子恒夫編著には触れている。記してはいないが、信頼してよい書物だと判断したうえでのことだ。とくに日本人の書物・文献は、日本共産党への「立場」によって信頼性が微妙でありうるので、何らかの評価をある程度は先行させざるをえないことがある。
 稲子恒夫(1927-)はかつて日本共産党員だったとみられる。名古屋大学法学部/ソ連法・社会主義法担当教授。したがって、ロシア語を読め、かつ1992年以降に「秘密資料」を読んだと思われる。
 しかし、既に引用したが「誤りの全責任はスターリン一人とする説があるが、…スターリンの個人崇拝と個人独裁は、レーニン時代の党組織と党文化を基礎に生まれた」(p.1009)等と書いているように、また別に紹介するが、1989-91年やその直後に田口富久治、加藤哲郎らと共著や対談書を出しているように、ソ連崩壊前後の時期に、日本共産党を離れた(党員ではなくなった)と推察される。
 したがって、上記の数字や文章など、日本共産党には都合が悪いはずの、または日本共産党の歴史理解とは異なる記述をすることもできているわけだ。上の編著はこの人の最後の著書になったのだろうか。

1342/日本共産党の大ペテン・大ウソ14ー稲子恒夫・山内昌之。

 二(さらにつづき)
 レーニン時代の「真実」が明らかになってきていることについて、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)はつぎのように書いている。
 不破哲三や日本共産党は、新情報を知っているのかどうか。あるいは知っていても無視しているのかどうか。
 「レーニンはソビエト政権初期の問題のほとんど全部に関係していたが、日本ではソ連の否定的なことは全部スターリンの『犯罪的誤り』であるとして、彼〔スターリン〕一人のせいにし、レーニンはこれと関係がなく、彼にも誤りがあったが、彼〔レーニン〕は基本的に正しかったとするレーニン無関係説が有力である。この説はレーニン時代の多くのことを不問にしている
./〔改行〕
 今は極秘文書が公開され、検閲がないロシアでは、レーニンについても…多くのことが語れるようになった。//
 たとえばスパイ・マリノーフスキーを弁護したレーニンの文書、臨時政府時代のドイツ資金関係の一件書類、レーニン時代の十月革命直後と戦時共産主義時代のプロレタリアート独裁と法、一連の人権侵害-報道、出版の自由の否定、宗教の迫害、数々の政治弾圧、赤色テロ、とくに…1921年8月の「ペトログラード戦闘組織団」事件の真実が明るみに出ている。/〔改行〕
 ボリシェヴィキーは中選挙区比例代表という民主的選挙法による憲法制定会議の選挙で大敗すると、1918年1月に憲法制定会議の初日にこれを武力で解散するクーデターをしたことが、今日非難されており、ニコラーイ二世一家の殺害も問題になっている。//
 ソ連時代は食糧などの徴発と食糧独裁、農民弾圧がまねいた飢饉と数多くの緑軍(農民反乱,…)など戦時共産主義時代の多くのことが秘密だった。この秘密が解除され,数多くの事実が判明した。その上戦時共産主義時代のペトログラードの労働者と一般市民の生活と動向が判明した。//
 ネップへの政策転換をうながしたのは、クロンシュタートの反乱だけでなく、…労働者農民の支持を失ったソビエト政権が存亡の危機にあったことである。党指導部はひそかに亡命の準備をしていたことまで明らかになった。//
 したがってレーニンの秘密が解けた今日、ロシア史研究は資料が豊富になった彼の時代の真実にあらためてせまる必要があるだろう。」
 以上、p.1006-7。//は原文では改行ではない。
 三 山内昌之は、ヴォルコゴーノフ(白須英子訳)・レーニンの秘密/下(1995、日本放送出版協会)の末尾に、この書物の「解説」ではなく「革命家と政治家との間-レーニンの死によせて」と題する文章を寄せている(p.377-)。 
その中に、つぎの一文がある。
 ・「もっと悲劇的なのは、レーニンの名において共産主義のユートピアが語られると同時に、二十世紀後半の世代にとっては、まるで信じがたい犯罪が正当化されたことであろう。//
 この点において、レーニンとスターリンは確実に太い線で結ばれている。//
 スターリンは、レーニンの意思を現実的な<イデオロギーの宗教>に変えたが、その起源はレーニンその人が国民に独裁への服従を説いた点に求められるからだ。」
以上。p.378、//は原文では改行ではない。
 他にも、山内は以下のことを書いている。
 ・「 …赤軍は、タンボフ地方の農民たちが飢餓や迫害からの救いを求めて決起した時、脆弱な自国民には毒ガスの使用さえためらわなかった。1921年4月にこの作戦を命じた指揮官は、後にスターリンに粛清されるトゥハチェフスキーであった。もちろんレーニンは、この措置を承知しており、認めてもいた」。
 ・「歴史が自分の使った手段の正しさを証明するだろうというレーニンの信仰は、狂信的な境地にまで達していた」。
 以上、p.378。
 山内は上掲書を当然に読んだうえで書いているのだろう。
 上掲書/上・下には、レーニンの「真実」が満載なので、のちにも一部は紹介する。
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 さて、日本共産党現綱領が「レーニンが指導した最初の段階においては、…、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、…、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ」と明記してしまっている歴史理解は、すでに<大ウソ>または自己の出生と存在を正当化するための<大ペテン>であるように見える。
 もう少し論点を整理して、レーニンとスターリンとの違い・同一性に関する諸文献を見ていこう。その際の諸論点とは、さしあたり、以下になる。
 ①ネップ(新経済政策)への態度。レーニンは<正しく>これを採用したが、スターリンは<誤って>これを放棄したのか。
 ②<テロル>。スターリンは1930代半ばに「大テロル」とか称される、粛清・殺戮等々を行なったとされる。では、レーニンはどうだったのか。この点でレーニンはスターリンとは<質的に>異なっていたのか。
 なお、日本共産党は、レーニンとスターリンの対立点は社会主義と民族(民族自決権)との関係についての見方にあった、ということを、少なくともかつては(覇権主義反対としきりに言っていた時期は)強調していたかに見える。但し、近年から今日では、この点を重視していないように見える。
 もっとも、レーニンはスターリンの危険性を見抜いていてそれと「病床でたたかった」という<物語>を、今日でも述べているようだ。以下では、この点にも言及することがあるだろう。
 <つづく>

1341/日本共産党の大ペテン・大ウソ13-稲子恒夫は批判する②。

 二(つづき)
 稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)より。
 <スターリン主義の起源>との見出し-
 ・「誤りの全責任はスターリン一人とする説があるが、…、スターリンの個人崇拝と個人独裁は、レーニン時代の党組織と党文化を基盤に生まれた。//
 レーニンが『共産主義の左翼小児病』で認めたようにロシアを実際に統治していたのは、共産党中央委員会政治局という小さい寡頭集団だったし、彼は独裁が個人独裁を生む危険についても警告していた。//
 レーニンは首相を兼ね、常時クレムリンにいたから、政治局内で単なる同輩中の第一人者ではなかった。レーニンの党は彼を中心に高度に中央集権的に組織されていた。この状況は党中央の絶対化と官僚主義、党とレーニンの同一視、指導者個人の崇拝と礼賛を生み出していた。//
 スターリンは書記長、組織局員として党中央の実務と中央地方の党組織をにぎるから、党崇拝とレーニンの聖人化、個人崇拝を生みだして、レーニンの後継者である自分の大売り出しに成功した。」/〔改行〕
 以上、上掲書p.1009。//は原文では改行ではない。
 以下、簡単なコメント。
 <レーニンは正しく、スターリンが道を誤った>という理解はまったく示されていない。端的に抜き出せば、「スターリンの個人崇拝と個人独裁は、レーニン時代の党組織と党文化を基盤に生まれた」とされる(p.1009)。また、レーニン時代にすでに「党中央の絶対化と官僚主義、党とレーニンの同一視、指導者個人の崇拝と礼賛」があり、スターリンはさらに「党崇拝とレーニンの聖人化、個人崇拝」を生んで、自分のために利用した、とされる。
 とすれば、以上のかぎりでは、レーニンもスターリンもほとんど変わりはないのではないか。
 また、これまでこの欄ではほとんど言及していない論点だが、レーニンは<ネップ>に積極的ではなかった、という重要なことが指摘されている(p.1008)。
 この点は、また別に論及するが、レーニンが<市場経済を通じて社会主義へ>という「正しい」道を歩んでいたにもかかわらず、スターリンがこれを覆したとする、現在の日本共産党の公的な歴史理解と真っ向から対立するものであり、日本共産党の歴史理解を大きく疑問視させるものだ。
 少なくとも、ロシア・ソ連に関する専門家・学者たちのすべてが現在の日本共産党のように理解しているわけではない。日本共産党、不破哲三の主張・理解も、あくまで一つの「説」にすぎない。
 稲子恒夫は、上掲書の「はしがき」で、つぎのような旨を語っている。
 ソ連の末期にはスターリン時代の多くのことが明らかになったが、「レーニン時代はまだ霧につつまれていた」。1991年以降にレーニン時代を含む極秘文書を含む資料が多数出るようになった。(はしがきp.3-4)
 そして、つぎのように続ける。
 「公開の文書のなかには、レーニンの意外な真実を伝えるものがあり、レーニンは基本的に正しかったが、スターリンは重大な誤りをおかしたというたぐいの、レーニン論の根本的な見直しが必要になった」。(はしがきp.4)
 不破哲三は、「科学」と「真実」を追求するのならば、<スターリン秘史>だけではなく、<レーニン秘史>もまた著すべきだろう。
 <つづく>

1340/日本共産党の大ペテン・大ウソ12-稲子恒夫は批判する①。

 一 最初に設定した疑問の第二は、「日本共産党は、レーニンまでは正しく、つまりレーニン時代は「社会主義」の方向に向かっていたが、<大国主義・覇権主義>のスターリンによって誤った、と言っているようだ。このような、レーニン時期とスターリン時期の大きな(質的に異なると言っているような)区分論は歴史把握として適切なのか。あるいはまた、この対比は、レーニン=『社会主義』、スターリン=<それ>からの逸脱、と単純化してよいのかどうか」、というものだった。最後の<それ>にかかわる論点には、既に長らく言及した。
 さて、現在の2004年綱領は、レーニンとスターリンについてつぎのように明記している。「世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中で書かれている。
 「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。『社会主義』の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。」 
 この綱領以前の段階で、1980年代後半には、レーニンの時期とスターリン(以降)の時期を区別する必要が、不破哲三らによって(そして日本共産党によって)語られてきた。
 「少なくない試行錯誤をともないながら」という限定はついているが、二つの時期を大きく簡単に区別することができるのか。
 この問題は<正・邪>の論評・評価にかかわるので、単純な<事実>認識の問題ではない。しかし、上のようにソ連の歴史を単純化できるのか、<ロシア革命>自体について、あるいは<新経済政策(ネップ)>等々について、これら等々とレーニンやスターリン等との関係について、種々の議論・歴史学上の検討成果がありうる。
 ロシア社会主義革命とレーニンを否定するということは、日本共産党を否定することに等しい。
 なぜなら、日本共産党は1922年に、ロシア「社会主義革命」を達成したボルシェビキ、のちのソ連共産党が中心として1921年に結成したコミンテルン(国際共産党、第三インター)の日本支部として創立されたからだ。
 日本共産党自体が、ロシア革命がなくコミンテルンもなければ、産まれていないのだ。 日本共産党が「共産党」と名乗り、創立年を(例えば1961年ではなく)1922年とするかぎり、ロシア「社会主義革命」と(かつての、少なくとも1922-35年の間の、コミンテルンの存在の正当性を絶対に否認することができない、という宿命にある。
 そして、ロシア「社会主義革命」とコミンテルン結成に主導的役割を果たしたのはレーニンだから、日本共産党はレーニンを(いまこの政党がスターリンについて行なっているようには)批判し否定することが絶対にできない。
 そのような日本共産党がレーニンとスターリンについて上のように現在主張している(認識している?)のは、そもそも身勝手な主張ではないのだろうか?
 ソ連の政治、法制、社会、歴史の専門家ではない秋月が、レーニン研究もスターリン研究も適切に行えるわけではないことは当然だ。
 しかし、いま日本共産党の主張しているように単純には言えないのではないか、と疑問視することはできるし、日本共産党が主張しているようには理解してはいないソ連(・ロシア)に関する学者・研究者もいる、という程度の指摘・紹介くらいはすることができる。そして、次のようにも言えるだろう。日本共産党は<大ウソ>をついているのではないか、と。
 二 さっそく、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)のうち、編著者自身の分析結果を示す文章の一部を引用・紹介する。
 稲子は、「日本共産党」と名指しはしないが、この党の「説」をこの著で批判していることが明らかだ。
 <レーニンの真実>との見出し-
 ・「スターリンの国家万能とレーニン無関係説は…、レーニンの革命前後の主張と『ウラーの国有化』とその結果の経済の混乱の実際にふれないで、彼〔レーニン〕の功績をもっぱら市場経済移行の新経済政策(ネップ)の開始から始める。//
 しかし、…というネップは…、クロンシュタートの反乱、エスエルが主張していたことであり、レーニンは乗り気でなかった。//
 しかも彼〔レーニン〕は生前最後の22.11.20の演説でネップを『後退のゼスチャー』と言い、新たな飛躍を宣言した。//
 このネップの中止を呼びかける演説は『レーニン全集』に新聞報道による要旨だけが載っており、全文はやっと1995年の…に公表された。//
 ネップは党の戦術(長期政策)ではなく、当面の戦略だからあいまいだった。」/〔改行〕
 ・「そのうえネップには政治の改革がなかった。//
 ネップとレーニン礼賛者はこの時期の…、報道の自由、出版の自由など政治的自由の否定、検閲の確立、教会の弾圧、多数の知識人の国外追放など、ネップにともなうプロレタリアート独裁の制度化にふれない。」/〔改行〕
 ・「さらにネップ時代の広範な政治犯罪と類推適用を認めた1922年刑法典へのレーニンの関与、流刑の復活、法律によらない都市からのネップの湯あか(ネップマン)の追放、彼らの財産没収というレーニンのいう経済的テロも無視できないだろう。」/〔改行〕
以上、稲子・上掲示書p.1008-9. //は原文では改行ではない。
 <稲子編著も含めて、つづく>

0195/有田芳生(構成)・短い20世紀の総括(1992)。

 外から見ていると、日本共産党の「奇妙さ」は、袴田里見・野坂参三という戦前から少なくとも1970年代までの最高幹部を簡単に除名したことでも十分に感得できる(宮本顕治の実質的な「独裁」。その前に除名された者に春日庄一や志賀某がいたが私には現実的記憶がない)。
 また、 チャウシェスク時代の在ルーマニア赤旗特派員某氏や北朝鮮元特派員萩原遼、拉致問題に取り組んだ兵本達吉らを党から切らざるを得なくなったことでも解る。
 有田芳生構成・短い20世紀の総括(1992.02、教育史料出版会)を座談会部分を残して読んでいるが、田口富久治、山川暁夫、加藤哲郎、稲子恒夫の各氏とも<スターリン時代になってからソ連は社会主義(を目指す)国でなくなった >なんてことは書いていない。むしろ「現存(していた)社会主義国」という語があるようだ。
 田口は言う(p.13)-「政治的・組織的思惑や防衛心理に由来する自己欺瞞や知的怯懦は、いっさい捨てなければならない」。ソ連等崩壊後の日本共産党の言動、すなわち<ソ連は社会主義国ではなかった>などと言うのは「自己欺瞞や知的怯懦」そのものではないのか。
 ところで、この本への執筆者は、日本共産党員でありつつ、党中央には批判的な学者たちであった可能性がある。少なくとも、田口富久治、加藤哲郎両氏はそのようだ(のちに除名又は除籍の可能性がある)。
 そしてこのような本を企画して「構成」した有田芳生自身も日本共産党から「睨まれた」可能性が高い。有田芳生の日本共産党<除籍>の原因となった本の一つかもしれない、という多少の興味も惹く本だ(但し、新日本出版社刊ではないので、除籍後の仕事かもしれない)。
  なお、かつて京都から有田某との共産党国会議員が出ていて有田芳生がその子息だとは知っていたが、芳生という名がヨシフ・・…・スターリンというスターリンの個人名に由来するとは!(p.210)
 有田芳生は現在は日本共産党とは一定の距離を保っているようだが「人間の自由や平等を求める社会主義の理念が、いまでも人類思想の大きな遺産であることを否定できるものはいないだろう」と述べるようでは、「社会主義の理念」の意味によるにせよ、まだ甘い。
 だが、マルクス主義を支持しいずれ日本も社会主義国になると考え発言していたはずの知識人・大学人等が1989-91年以降どのように「自己切開」・「自己省察」しているのかと厳しく問うているのは共感できる(p.199-)。とりわけ日本共産党員たる知識人・大学人には、有田とともに問い糾したいものだ。

ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
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  • 0840/有権者と朝日新聞が中川昭一を「殺し」、石川知裕を…。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
  • 0800/朝日新聞社説の「東京裁判」観と日本会議国際広報委員会編・再審「南京大虐殺」(明成社、2000)。
  • 0799/民主党・鳩山由紀夫、社民党・福島瑞穂は<アメリカの核の傘>の現実を直視しているか。