秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

福田内閣

0590/西尾幹二・国家と謝罪(徳間書店、2007.07)を読む-つづき。

 一 西尾幹二・国家と謝罪-対日戦争の跫音が聞こえる(徳間書店、2007.07)は「つくる会」問題でのみ八木秀次を批判しているわけではなく、安倍内閣の「教育再生会議」に対応した民間版応援団体?「教育再生機構」の理事長に八木秀次が就いたことについても、政治(家)と民間人(ブレイン)の関係等に注意を促し、「八木氏は知識人や言論人であるには余りに矜持がなさすぎ、独自性がなさすぎ、羞恥心がなさすぎる」(p.150)などと批判したりしている。
 そういえば、福田内閣になり<教育>が大きな政治的争点でなくなった後、この「日本教育再生機構」はいったい何をしているのだろう。
 月刊正論9月号(産経新聞社)によると、「日本教育再生機構」は某シンポの主催団体「教科書改善の会」の「事務局」を担当しているらしい(p.272の八木発言)。「教科書改善の会」という団体の「事務局」が「日本教育再生機構」という団体だというのは、わかりにくい。組織関係はどのように<透明>になっているのだろうか(ついでに、このシンポは、あの竹田恒泰とあの中西輝政・八木秀次が同席して「日本文明のこころとかたち」を仲よく?語っているのでそれだけでも興味深い)。
 二 西尾幹二対八木秀次等という問題よりも本質的で重要なのは、西尾が「あとがき」の副題としている「保守論壇は二つに割れた」ということだろう。
 何を争点・対立軸にして「割れた」かというと、小泉内閣が進めて安倍内閣も継承した<構造改革>の評価にあるようだ。これはむろん、アメリカの世界(経済)戦略をどう評価し、日本の経済政策をどう舵とるべきか、という問題と同じだ。この点で、小泉内閣等に対して厳しく、アメリカに批判的だったのが西尾幹二で、小泉内閣・安倍内閣、とくに後者にくっつき?、そのかぎりで<より親米的>でもあったのが八木秀次等だ、ということになる。
 西尾幹二と八木秀次はどうやら、西尾が小泉純一郎についての『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』を出版した頃から折り合いが悪くなったようだ(上掲書p.82-83)。
 西尾によると八木秀次は「権力筋に近いことをなにかと匂わせることの好きなタイプの知識人」で、八木は、安倍晋三が後継者として有力になっていた時期での小泉批判を気に食わなかった(戦略的に拙いと思った?)らしく思われる。
 個人的な対立はともあれ、上記の問題に関する議論は重要だ。「保守論壇は二つに割れ」て、<保守>派支持の一般国民が迷い、方向性を失いかけるのも当然だろう。
 八木秀次は<より親米>の筈なのだが、中西輝政との対談本では中西輝政の<反米>論に適当に相槌を打っている。もともと、佐伯啓思が論じてきたような<アメリカニズム>あるいは<グローバリズム>についての問題意識自体が、おそらくはきわめて乏しかった、と思われる(法学者とはそんなものだ)。
 今日の混迷、見通しの悪さも上記の問題について「保守論壇」に一致がないことを一因としている。はたして「保守」とは何か。あるいは<より適切な保守>とは、現実の政策判断(とくに経済・社会政策)について、<アメリカ>とどう向き合うべきなのか? 日本の<自主性・国益(ナショナリズム)>と対米同盟(友好)関係の維持(反中国・反北朝鮮というナショナリズムのためにも必要)はどのように調整されるべきなのか。

0495/総選挙→「政界再編」は必ずあるのか? それは<よい>方向なのか?

 〇保守新党論のある程度の具体化または萌芽はあるのだな、と知ったのは、遅れて読んだ、月刊ヴォイス1月号(PHP)の平沼赳夫櫻井よしこの座談会「政界大再編へ」(p.62~)によってだった。
 この中で、現在無所属で行動しやすいらしい平沼赳夫は新党名について、「保守」という言葉は外せない、「自由」という言葉とうまく組み合わせられないか、と考えている、という旨も発言している(p.73)。
 総選挙(衆議院議員選挙)を今年中にでも行い、結果によって(民主党が第一党になっても)<政界再編成>を、という期待あるいは予測を語る論考や記事をかなり頻繁に見るようになった。
 〇昨秋から<政界再編成>の必要を説いていた中西輝政の「第二段階に入った『日本の衰退』」(表紙上の予定?タイトルは「福田総理の自爆テロ解散」)(月刊WiLL6月号(ワック))。
 安倍前首相退陣以来、具体的な政局への関心を大きく喪失し、福田康夫や同内閣について殆ど何も書いてきていないのだが、この間に、中西によれば、日本は「衰退」への道の大きな第二段階に入った、という。政局の不安定・混迷等々を見ているとそうかもしれない、と思う。そして、解決方法がない問題については人間は「問題自体がない」かの如く目を瞑る、今や「日本が衰退していることは、口に出してはならない、というタブー感が横たわっている」(p.207)、と指摘されて、具体的な政局・政治情勢から目を離したい気分の自らが批判されたような気がした。
 だが、はたして、衆院解散・総選挙・誰かが首班の内閣成立・その後のいずれかの段階で、何か本当によいことは起こるのだろうか。ともかくもいったんガラガラポンして、新しい政治・政党の枠組みを作り直そうと言っても、その<新しい>ものが日本の国家・社会・国民にとって<よい>ものである保障はどこにあるのだろうか。八方塞がりというか、憂色だけは濃い、というか、心地よくない日々が続きそうな気がする(現下の政局・政治情勢の直接の又は最大の原因・背景は、昨年の参院選での、「政治謀略」新聞・朝日らが誘導し形成した<偽装の民意>にあるのだが)。
 たぶん、中西輝政と少なくとも気分だけは共通している点があると思う。但し、上の月刊WiLL6月号論考の最後の、「古い戦後体制そのものを清算する」しかなく、その「核心」は「やはり新憲法の制定にある」という主張は、今の時点では虚ろに響く。早くても2010年以降の話だし、参議院で改憲派(とくに憲法九条改正)が2/3以上を占めるのはいつなのか。それまで何とか、「政治謀略」新聞・朝日を快くさせるような出来事・変化ができるだけ生じないで、(別に「自民党」中心でなくてもよいのだが)新憲法制定(憲法改正)への途へと繋げることができるだろうか。市井の一人ながら心配だし、ひょっとして自分の生きている間は不可能かもしれない、という不安ももつ。ますます戦後(民主主義・個人主義・平和)教育だけを受けた者たちの割合が増えていく……。

0342/武田徹を使う産経新聞の将来を憂う。

 低レベルの、質の悪い文章を読んでしまった。
 産経新聞10/31夕刊に掲載された、武田徹(1958~)の、随筆もどきの、(小)論文とはとてもいえない、<複眼鏡>欄、「「市民」という言葉―安易な使用・自らの不遇招く」だ。
 「「市民」という言葉」は彼の記した原題で、あとは編集部で加えたのだろうか。おかげで、表向きは<立派そうな>コラムらしく見えてはいるが…。
 一 そもそも論旨・結論(主張したいこと)はいったい何か。自然人(市民)と国民、あるいは理想主義と現実主義の使い分けを日本国憲法草案はどう考え、戦後日本はどう受け入れたののかを「改めて検討してみる価値があるのではないか」、ということのようだ。
 せっかくの狭くはない紙面を使って、…との問題を「改めて検討してみる価値があるのではないか」、で終わらせることで原稿料を貰える(稼げる)とは、ラクな商売だ(いくら稼いだのかは知らないが)。
 そんな課題設定、問題提起をするヒマがあるくらいなら、自分の考えを正面から試論でもいいから述べ、主張したらどうか。こんな問題もあると思うよ、とだけ書いて「ジャーナリスト」と名乗れるのだろうか
 二 上記の問題設定(「改めて検討してみる価値があるのではないか」)に至る論述も論理関係が曖昧なところがあり、そもそもの事実認識または評価にも奇妙なところがある。アト・ランダムに書いておこう。
 1 ベアーテ・シロタの講演への言及で始めて、再び言及して原稿を終えている。いちいち典拠を確認しないが、ベアーテ・シロタは法学部出身でもないタイピスト(?)だが日本語能力のおかげでGHQ草案作りに<愛用>された、かつ親コミュニズムでソ連憲法の条文の字面だけを見て、その「家族」または「男女対等」に関する条項に憧れ、日本国憲法草案(の原案)の一部を書いた人物だ(現二四条等につながった)。
 武田はいう。彼女は「日本女性の地位確立の道を切り開いた」、と。どう評価しようと自由だが、日本国憲法の制定過程に詳しく、かつその内容に批判的な人々にとっては、ベアーテ・シロタとはマルクス主義的・「左翼的」人物で戦後日本に悪影響を与えたとの評価を受けている人物なのだ。
 武田徹は、上のことを知っていて、敢えて書いているのだろうか。だとすれば、そのようなフェミニストと同様の評価を「産経」に書くとは勇気があるし、そのようなことを書かせる産経の編集部の無知加減か又は「勇気」に驚く。
 武田が上のことを知らないとすれば、あまりに無知で、勉強不足だ。
 2 日本国憲法に「国民」を権利享有主体とする条項と「何ぴと」にも権利(人権)を認める条項があるのは、ほとんど自明の、常識的なことだ。
 だからどうだと武田はいいたいのだろうか。<使い分け>を問題にしつつ、具体的に自らの見解・主張を述べている論点はない。外国人の雇用問題について何やら述べているが、結局は、<ある程度の痛み分けをしつつ相互に納得できる解決策を…>と書くにとどまる。こんな程度なら誰でも(私でも)書ける。
 そもそもが、外国人の問題を、憲法一四条・平等原則レベルの問題として論じようとする感覚自体がおかしいと言うべきだろう。
 確認しないし、詳細な知識はないが、いったいどこの国の憲法が、自国民と自国籍を有しない者(外国人)をすべての点について<平等に>取扱うなどと宣言して(規定して)いるだろうか。そんな馬鹿な<国家>はないはずだ。
 武田はいったんまるで平等保障の対象に外国人を含める方が<進歩的>であるかのごとき書き方をしているが、その「いったん」の出発点自体に奇妙さがある。この人は、朝日新聞的<地球市民>感覚に染まっているのだろうか。
 かりに万が一上のような憲法条項があったとしても<合理的な区別>まで平等原則は禁止するものではないから、やはり外国人の権利の有無の問題は残り(選挙権問題も当然に含む)、よくても法律レベル、「立法政策」の問題になるのだ(「よくても」と書いたのは、外国人の選挙権付与は違憲で、法律レベルでも付与できない、との主張もありうるし、現にあるからだ)。
 3 武田は「市民」という言葉の問題性に言及しているが、そんなことはあえて書くまでもない。読まされるまでもない。この人は、佐伯啓思・「市民」とは誰か-戦後民主主義を問いなおす(PHP新書、1997)という本を、-専門書ではなく容易に入手できるものだが-読んだことがあるのだろうか。
 「「市民」という言葉」を問題にしようとして、上の佐伯著を知らない、読んでいないとすれば、あまりに無知で、勉強不足だろう。武田が書いていることくらいのことは、すでに多数の人が指摘している。また、武田は言及していないが、<左翼>団体(運動)が「市民」団体(運動)と朝日新聞等によって称されてきている、という奇妙さもすでに周知のことなのではないか。
 4 それにしても、<市民・自然人-国民>の対置と<理想主義-現実主義>の対置をまるで対応しているかのごとく(つまり市民・自然人→理想主義、国民→現実主義)書いているのは、いつたいどういう感覚のゆえだろうか。こうした対応関係がなぜ成り立つのか。<思い込み>で物事を叙述してほしくないものだ。
 5 武田はまた書く。「…抽象的なシンボルを多用した安倍政権」後の「福田政権は、今度こそ生活の実質に根を下ろした政策を打ち出して欲しいと願う」、とも。
 こんな程度のことしか書けない人物が「ジャーナリスト」と名乗って、産経新聞に登場しているのだ。いよいよ世も末かと思いたくなる。
 まさかと思うが、「毎月最終水曜日」掲載の「複眼鏡」の執筆者は当面、武田徹ってことはないだろうなぁ。読売と産経のどちらの定期購読を「切ろう」かと考えているところだが、10/31のような文章の武田の文を毎月見るのはご遠慮したいものだ。産経新聞編集局(文化部?)は武田徹のごときを使うべきではない。 
 三 石井政之編・文筆生活の現場(中公新書ラクレ、2004)に武田は登場しているが、武田は2003年に東京大学某センターの「特任教授」となり「ジャーナリスト養成講座」を担当しているらしい(p.46)。この程度の内容の文章しか書けない人物が「ジャーナリスト」を「養成」しているのだから、昨今の「ジャーナリスト」のレベルの高さ?が分かるような気がする。
 ついでに。上の中公新書ラクレで編者の石井政之は、「武田さんは、哲学者ミシェル・フーコーの言説を引用しており、私は無学を恥じた」と書いている(p.45)。石井は相変わらずの舶来・洋物思想(というだけで「優れて」いると思う)崇拝者なのだろうか。
 「ミシェル・フーコーの言説を引用」できなくて、何故、「無学を恥じ」る必要があるのか。同じことを、吉田松陰、福沢諭吉、徳富蘇峰等々の日本人についても、石井は語るのだろうか。
 なお、中川八洋・保守主義の思想(PHP、2004)によると、フーコーはサルトルやマルクーゼ等とともに「日本を害する人間憎悪・伝統否定・自由破壊の思想家たち」の一人とされている(同書p.385)。

0341/文藝春秋はなぜ加藤紘一の本を出版するのか。

 先月(九月)の自民党総裁選直後のNHKニュースで、最初にコメントを報道されたのは、「(福田選出で)よかったと思います」と答えた加藤紘一のそれだった。当然のことながらNHKはまともな報道機関性に疑問がある。
 2007年6月、文藝春秋社は、加藤紘一・強いリベラルを刊行した。最近読んだ何かによれば、文藝春秋の側から執筆・刊行を働きかけた本らしい。
 文藝春秋の諸君!たぶん今年8月号は表紙に大きく「安倍政権失墜」とだけ書いた。
 文藝春秋も営利企業。商売、商売…。空気を読むのがうまいようで、とでも評すればよいだろうか。
 既述だが、新潮社は、不破哲三の本を出版した。
 文藝春秋も新潮社もある程度以上売れれば「商売」になると思っており、実際にある程度売れているのだろう。
 だが、そのような出版社の出版物を買うことを控える=少なくしようとする者も発生することは知っておいた方がよい(いや、知った上で、「損得」をとっくに「計算」しているのだろう)。
ギャラリー
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  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
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  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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