秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

福島瑞穂

1236/安倍晋三内閣総理大臣靖国神社参拝。

 12/26の正午すぎに安倍首相の靖国参拝のテレビ報道があり、予期していなかったので驚くとともに、安倍首相の参拝後のインタビュ-回答を聞いていて、思わず涙がこぼれた。
 当然のことが当然のように行われ、当然のことが語られている。
 欺瞞と偽善に満ちた報道、発言や声明類に接することが多いだけに、久しぶりに清々しい気分になった。
 日本共産党・志位和夫は「侵略戦争を肯定、美化する立場に自らを置くことを、世界に宣言することにほかならない。第二次世界大戦後の国際秩序に対する挑戦であり、断じて許すわけにはいかない」とコメントしたらしい。①誰が先の戦争を「侵略」戦争だったと決めたのか、②万が一そうだったとして戦没者を慰霊することが、なぜそれを「肯定、美化する」ことになるのか、③いわゆるA級戦犯が合祀されていることを問題にしているとすれば、そのいわゆるA級戦犯とはいったい誰が決めたのか、いわゆるA級戦犯合祀が問題ならばB級戦犯、C級戦犯であればよいのか、④「第二次世界大戦後の国際秩序に対する挑戦」とは最近中国政府・中国共産党幹部が日本についてよく使う表現で(かつての仲間ではないかと米国をゆさぶる発言でもある)、日本共産党の親中国信情を示している、⑤戦没者への尊崇・慰霊行為が「戦後の国際秩序に対する挑戦」とは、何を血迷っているのだろう。神道式の参拝だが、もともと「死者」の追悼なるものに重きを置かない唯物論者に、「死者への尊崇」とか「慰霊」とかの意味が理解できるはずがない。日本の「カミ」ではなく、インタ-ナショナルな?<共産主義>を崇拝し続ければよいだろう。
 社民党・福島瑞穂は「アジアの国々との関係を極めて悪化させる。国益に明確に反している。強く抗議したい」とコメントしたらしい。NHKもさっそく中国・韓国政府の反応を丁寧に報道していたが、「アジアの国々」というのは大ウソ。タイ、カンボジア、マレ-シア、インド等々、西部のトルコまで含めなくとも、アジア諸国の中で内政干渉的または信仰の自由侵害的にいちゃもんをつけているのは中国、韓国(・北朝鮮)といういわゆる「特定アジア諸国」だけ。ウソをついてはいけない。あるいはひょっとして、福島にとっては、アジアとは中国・韓国(・北朝鮮)と日本だけから成り立っているのだうろか。
 ところで、特定秘密保護法に反対した大学教授たち、ジャ-ナリスト、映画人等々の多くは、例えばかつての有事立法反対運動にも参画していた人々で、先の戦争は「侵略戦争」で、日本は「悪いことをした」と、信じ込み、思い込んでいる人たちだろう。そして、かつての「悪」を繰り返させるな、<戦争をしたい保守・反動勢力>が「軍靴の音」を響かせつつあるので、戦後<平和主義>を守るためにも、保守・反動の先頭にいる安倍晋三(・自民党)をできるだけ早く首相の座から下ろさなければならない、と考えているのだろう。
 このような<基本設定・初期設定>自体が間違っている。
 先の戦争は民主主義対ファシズムの戦争で、日本は後者の側に立って「侵略戦争」をした、という歴史の認識は、戦後・とくに占領下において勝者の側・とくに米国(・GHQ)が報道規制・特定の報道の「奨励」、あるいは間接的に日本人教師が行う学校教育等を通じて日本人に事実上「押しつけた」ものであり、正しい「歴史」認識または把握であったかは大いに問題になる。ソ連や米国の戦時中の資料がまだすべて公開されていないので、今後により詳細な事実・真実が明らかになっていく可能性があるだろう。
 先の戦争はソ連共産党・コミンテルンと米国内にいたコミュニストたち(コミンテルンのスパイを含む)により影響を受けたル-ズベルト大統領がまともに国内を支配できていなかった(分裂していた)中国よりも日本を攻撃して潰しておくことがそれぞれ(ソ連・アメリカ)の国益に合致していると判断しての<日本攻撃・日本いじめ>だった可能性は十分にある。ソ連は日本敗戦後の日本での「共産革命」(コミュニスト・共産党中心の政権樹立。それが民主主義(ブルジョア)革命か社会主義革命かの理論的問題よりもコミュニストに権力を奪取させることが重要だった)を画策していたに違いない。
 毛沢東の中国共産党の拡大と1949年の政権奪取(中国人民共和国の成立)を予想できなかったアメリカにも大きな判断ミスがあった。こともあろうに日本よりもスタ-リンの「共産」ソ連と一時期は手を結んだのだから大きな歴史的誤りを冒したことは間違いない。ようやく対ソ連措置の必要を感じて、ソ連参戦の前にアメリカ主導で日本を敗戦させたかったのだと思うが、それは原爆製造とその「実験」成功によって対ソ連で戦後も優位に立つことが前提でなければならなかった(吉永小百合のように日本の二都市への原爆投下は終戦を遅らせた日本政府に第一次的責任があるかのごとき文章を書いている者もあるが、間違っている)。
 先の戦争について連合国側に全面的に「正義」があったなどと日本人まで考えてしまうのは-戦後の「洗脳」教育のためにやむをえないところはあるが-じつに尾かなことだ。
 大学教授、ジャ-ナリスト、映画人といえば、平均的な日本国民よりは少しは「賢い」のではなかろうか。そうだとすれば、自らの歴史の把握の仕方の基本設定・初期設定自体を疑ってみる必要がある。少なくとも、異なる考え方も十分に成り立つ、という程度のことは「賢い」人ならば理解できるはずだと思われる(但し、例えば50歳以上の日本共産党員または強い日本共産党シンパは、気の毒ながら今からではもう遅いかもしれない)。
 先の戦争についての(付随的に南京「大虐殺」問題、「百人斬り競争」問題、朝鮮「植民地支配」諸問題等々についての)理解が、今日まで、首相の靖国参拝問題を含む諸問題についての国内の議論の基本的な対立を生んできた、と考えられる。靖国参拝問題は戦後の「中国共産党王朝」成立以来一貫して問題されてきたわけではなく1980代になってからなのだが、しかし、日本や韓国(・北朝鮮)がかつての日本の「戦争責任」、という<歴史カ-ト゜>を使っているので、先の戦争についての正しい理解はやはり不可欠になる。
 繰り返すが、民主主義対ファシズム(・軍国主義)という単純二項対立、暗黒だった戦前と<平和と民主主義>国に再生した戦後という単純二項対立等による理解や思考は間違っている。戦前はいわれるほどに暗黒ではなかったし、戦後はいわれるほどに立派な国歌・社会になったわけではない。むしろ、<腐った個人主義>や日本の伝統無視の<政教分離>等々による弊害ははなはだしい、ともいえる。例えば、親の「個人尊重」のゆえの「子殺し」も少なからず見られ、珍しいことではなくなった。こうした各論に今後もつぶやいていこう。

1115/福島みずほ(社民党・弁護士)の暗愚と憲法改正。

 〇福島みずほ(社民党)は東京大学法学部出身でかつ弁護士(旧司法試験合格者)でもあるはずだが、政治活動をしているうちに、憲法や人権に関する基礎的なことも忘れてしまっているのではないか。
 憲法9条に関する、(アメリカとともに)「戦争をできる国」にするための改正反対という議論は、妄想のごときものなので、ここでは触れない(なお、「防衛戦争」もしてはいけないのか、というのが、「戦争」という語を使えば、基本的な論点になろう)。
 福島みずほは、月刊一個人6月号(KKベストセラーズ)の憲法特集の中で、「国家権力に対して『勝手に個人の権利を制限するな』と縛るのが憲法の本来の目的だった」と、いちおうは適切に書いている。G・イェリネックのいう国民の国家に対する「消極的地位」だ。
 これは国家に対する国民の「自由」(国家からの自由)の保障のことだが、福島はつづけて、「だからこそ」「『国家はしっかり我々の生存権を守りなさい』とも言える」と続けている(p.93)。
 生存権保障は自由権とは異なる社会権保障とも言われるように、国家に対して作為・給付を要求する権利の保障で、G・イェリネックは国民の国家に対する「積極的地位」と言っているように、「自由」(消極的地位)とは異なる。
 「だからこそ」などとの簡単な接続詞でつないでもらっては困る。
 それにまた、福島は東日本大震災で、憲法一三条の「幸福追及権」や憲法二五条の「生存権」が「著しく侵害されている状態」だというが(p.93)、第一に、憲法の人権条項は何よりも国家との関係で意味をもつはずなのに(これを福島も否定できないはずだろうが)、国家(日本政府等)のいかなる作為・不作為によって上記の「著しい」人権侵害状態が生じているのかを、ひとことも述べていない。困った状態=「国家による人権侵害」ではない。
 第二に、生存権にも「自由権」的側面があり、「幸福追求権」は自由権的性格を基礎にしつつ「給付(国務)請求権」性格ももちうることがありうるものだと思われるが(この二つを同種のものとし単純に並べてはいけない)、そのような自由権と給付請求権の区分けを何もしていない。
 ほとんど法学的議論・論述になっていないのだ。
 ついでにいえば、「生存権」にせよ「幸福追求権」にせよ、憲法上の人権であることの法的意味、正確には、それらの<具体的権利性>について議論があり疑問があり、最高裁判決もあることを、よもや弁護士資格取得者が知らないわけはないだろう。
 憲法に素人の読者に対して、震災は憲法上の「幸福追求権」や「生存権」と関係があるのよ、とだけ言いたいのだとすれば、ほとんどバカだ。
 〇阿比留瑠比ブログ5/04によると、福島みずほは、この月刊一個人6月号の文章とかなり似たことを、5/03にJR上野駅前で喋ったようだ。
 こちらを先に引用すると、上のようなことの他に、福島はこうも言っている(阿比留ブログより引用)。
 「先日発表された自民党の憲法改正案は、逆です。国民のみなさんの基本的人権をどのように、どのようにも剥奪できる中身になっています。国民は公益、公共の福祉に常にしたがわなければならない。そうなっています。」
 上記雑誌ではこう書いている。
 「自民党の憲法改正草案には、『この憲法が国民に保障する権利を乱用してはならない。常に公益及び公の秩序に反しない範囲で自由を享受せよ』と書かれています。つまり権力者が国民に対して自由や人権を制限するという意味で、ベクトルが完全に反対になってしまっています。これは、ある意味もう憲法ではないとさえわたしは思います」(p.93)。
 福島みずほの頭自体が「逆に」または「ベクトルが完全に反対に」できているからこそ、このような罵倒になるのだろう。
 自民党改正草案の当該条文は、以下のとおり。
 11条「国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である」。
 12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民はこれを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」
 現憲法の条文は、次のとおり。
 11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」。
 12条「
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」。
 このように、第一に、「常に公益及び公の秩序に反してはならない」等の制約も、前条による基本的人権の保障を前提としたものだ。
 第二に、福島らが護持しようとする現憲法においてすら、
「…濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と明記されている。
 いったい本質的にどこが違うのか。福島が自民党案を「逆」だ、国家権力による人権制限容認案だとののしるのならば、現憲法についても同様のことが言えるはずなのだ。現憲法においても基本的人権を「濫用してはならない」し、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」のだ。
 福島みずほの改憲案憎し、自民党憎しは、この人物の頭の中の「ベクトルを完全に反対に」してしまっているようだ。
 この人物に客観さとか冷静さを求めても無駄なのだろう。あらためて、呆れる。
 〇なお、自民党草案は、上に見られるように現憲法の微修正で、マッカーサー憲法ないしGHQ憲法の抜本的な見直しになってはいない。
 九条改正・新九条の二設定はこれらでとりあえずはよいとしても、全体としてはもっと本格的な改正案(新憲法制定と言えるもの)が出されることが本来は望ましいだろう(改正の現実的可能性・戦略等々にもよる)。
 そして、私は上のような二カ条は、とくに(現11条の後半と)12条は、なくともよいと考えている。自民党、立案担当者は、もっと思い切った改憲案をさらに検討してもよいのではないか。
 このあたりは、憲法改正手続法の内容にも関係し、現憲法の条文名(数)を基本的には変えない(加える場合には九条の二のような枝番号つきの新条文にする)という出発点に立っていることによるようだ。
 あらためて調べてみたいが、番号(条文名)も抜本的に並び替える、という抜本的・全面的な改正は全く不可能なのだろうか。このあたりの問題は、産経新聞社の新憲法起草委員たちはどう考えているのだろうか。

1036/8・15-追悼・参拝・松井石根。

 〇ちょうど一年前の8/15、佐伯啓思は産経新聞「正論」欄につぎのような文章を書いていた。悪くない文章なので、勝手に一部のみを再掲して紹介。
 「死者たちに思いを致すということは、別の言い方をすれば記憶するということである。そして記憶することは難しい。もっと正確にいえば、記憶したと思われるものを思いだすことは難しい。まして、戦後生まれの者にとっては、戦死者さえも想像裏のものでしかないのだから、〔…〕想像でしかないものを『うまく』思いだすことはたいへんに難しい。だから、思いだすことは、『うまく』想像することでもあるのだ。/私にとっては、あの戦争を象徴するものは、その多くが志願して死地へ赴いた若者の特攻である。〔……〕無数の若者がいる。地獄のごとき見知らぬ密林や海原に命を散らした無数の魂がある。/その魂の思いを想像することこそが、あの場違いな時間である黙祷が暗示しているものであった。特攻は、私にとっては、そのもっとも先鋭に想像力をかきたてる表出だった」。
 「あれから六十数年が経過して、戦後日本という時間と空間を眺めるとき、多くの者が、この『戦後』なるものに戸惑い、ある大きな違和感を覚えるのではなかろうか。〔……〕と報道される国が平和国家であるなどという欺瞞はもう通用しない。/基本になっていることは、戦後日本には、われわれの精神をささえる基本的な倫理観が失われてしまった、ということなのである。〔中略〕私には、もしも戦後日本において倫理の基盤があるとすれば、それは、あの戦死者たちへ思いをはせることだけであろうと思う。それは、特攻を美化するなどという批判とは無関係なことであり、また、靖国問題とも次元の異なったことである」。
 〇今年2011年の元旦の産経新聞は菅直人の動向につき、こんな記事を載せていた。
 「菅直人首相は31日深夜、東京都府中市の大国魂神社を訪れた。首相は午後10時20分に公邸を出発。同神社に到着するとスーツから、かみしも姿に着替えて、本殿に昇ると参拝した。/その後、元日午前0時になると、本殿前で太鼓を3回叩く『初太鼓打初式』に参加して、真剣な表情で太鼓を3回叩いた」。
 確認しないが、その後たぶん1/04あたりに伊勢神宮参拝もしたはずだ。
 ところで、社民党の福島瑞穂がこんなことを言うのをテレビで見聞きしたことがある。
 靖国神社への首相・閣僚の参拝は「政教分離の観点からも、好ましくない」。
 憲法上の「政教分離の観点から」(も)靖国神社首相参拝を批判するのならば、菅直人首相による府中市・大国魂神社参拝も伊勢神宮参拝も社民党・福島瑞穂は批判すべきだろう。
 靖国神社は他の神社とは違うと言うならば「政教分離」を持ち出すべきではなく、正面から<A級戦犯合祀>を堂々と批判すべきだ。
 しかして、<A級戦犯合祀>の神社だからダメだというならば、B級・C級「戦犯」としての刑死者を祀る神社もまたダメだ、ということになるはずだ(各地にある護国神社等を含む)。そのような、<B級・C級戦犯>問題に触れない靖国参拝批判論には、どこかに明らかな誤魔化しがある。
 〇早坂隆・松井石根と南京事件の真実(文春新書、2011)によると、松井石根にゆかりのある寺社等は以下のとおり(見落としがあるかもしれない)。
 ①金沢市・宗林寺(・聖徳堂)、②知立市・知立神社(・千人燈)、③熱海市・伊豆山興亜観音+「七士の碑」、④名古屋市中村区・椿神社、⑤名古屋市・日置神社、⑥愛知県三ケ根山々頂・「殉国七士廟」、⑦御殿場市・板妻駐屯地「資料館」(民営)、⑧愛知県・長福寺、⑨(⑧付近の)桶狭間古戦場公園「石碑」。

0971/中川八洋・民主党大不況―ハイパーインフレと大増税の到来(2010)を4割読む。

 中川八洋・近衛文麿の戦争責任―大東亜戦争のたった一つの真実(PHP、2010.08。原書1995)を先日に全読了。
 つづけて、中川八洋・民主党大不況―ハイパーインフレと大増税の到来(清流出版、2010)のp.146まで、序+全九章+附記のうち第四章まで、読了。タイトルからの印象のような、経済・財政政策のみに関する本ではない。
 第一章は「子ども手当」批判(家族(・母親)から切り離した国家による子育て→共産主義社会)、第二章は現代日本の民主政(衆愚政治)批判、第三章のタイトルは、「夫婦別姓、ラブ&ボディ、フェミニズム―『日本人絶滅』への三大スーパー高速道路」。
 その第三章の各節の表題は次のとおり。内容の概略は分かる。第二節以外には「款」もある。
 第一節・「ラブ&ボディ」―日教組が子供たちを”セックス・サイボーグ”に改造する隠語
 1.厚労省母子保健課の「大犯罪」
 2.「フーコー人類絶滅教」を頭に注入させられる日本の中学生
 第二節・「産んであげない」―国を脅迫する赤いフェミニストたち
 第三節・”レーニン教徒の狂信”「夫婦別姓」
 1.「ルソー→マルクス/エンゲルス→レーニン→”赤の巣窟”法務省民事局
 2.少年少女犯罪の急増、出生率のさらなる激減、民族文化の消滅―「夫婦別姓」後の、日本の荒涼と殺伐
 この第三章で中川八洋が批判している学者等の論者の個人名は以下のとおり(外国人、団体・組織を除く。注記を含む)。
 手塚治虫、福沢恵子、福島瑞穂、星野英一、鍛冶千鶴子、葉石かおり、井上治代、星野澄子、榊原富士子、二宮周平、吉岡睦子、我妻栄、中川善之助
 立ち入らないし、これ以上の紹介もしない。ただ、<少子化>(中川によると→日本人絶滅)の原因が<子育てしにくい社会>にあるのではない、ということだけは間違いなく、戦後日本の歪んだ男女「対等」主義(誤った<ジェンダー・フリー>とも関係)、将来世代への<責務>を放棄させる(とくに女性の)「個人」優先主義、自然的な「母性」を否定するフェミニズム等々にある、とだけコメントしておく。大筋、基本的なところでは中川は誤ってはいないだろう。

0191/夫婦別姓・家族-宮崎哲弥・石坂啓。

 フェミニズムは「家」における男による「女」の搾取を糾弾し子どもの利益よりも母親という「女」個人のそれを優先するもので、女性の立場からの戦後的「個人主義」の一つと見てよいだろう。
 宮崎哲弥・正義の見方(新潮OH文庫)p.25-26等は「父母のどっち側であれ、親の姓が終生つきまとう合理的な根拠とはいったい何か」と問いかけ、福島瑞穂を批判して夫婦別姓ではなく「家」と結びついた「姓氏全廃を叫ぶべき」と説いてる。
 「個人主義」を貫くならば、宮崎の言うとおり、なぜ「姓氏」又は「苗字」が必要なのか、という疑問が生じる筈だ。宮崎はさらに「個人主義の原則に立つ限り、人は、自ら決したただ一つの「名」で生きるべきではないか」とも書くが、この指摘は、とても鋭い。
 私は若かりし頃、親から引き継いだ又は与えられた氏名を18歳くらいで本人が変更する自由又は権利を認めることを「夢想」し、何かに書いたこともあった。「個人の尊厳」(憲法13条)というなら、個人の名前くらいは自分で選び又は決定できるべきだ、親が決めたものを一生名乗るべき合理的理由はない、と考えたからだ。いま再び構想すれば、18歳~20歳と期間を限って姓名の変更を認め、その旨を戸籍や住民基本台帳に反映させることとなる(中学卒業後の就職者は16歳まで下げてもよい)。
 だが、上のような主張は大勢の支持をおそらく得られないだろう。「個人主義」とは別に「家」又は「家族」という観念は-「戸主」を伴う戦前的家族制度と結合していなくとも-やはり残り続けているのだ(欧米でも、いやたぶんほぼ全世界でそうだ)。それは親-子という人間関係がある限り、永続する(すべき)ように思われる。
 話を変えるが、改正教育基本法は「家庭教育」にも言及している。昨年11月の某番組で、週刊金曜日編集者・九条の会賛同者の石坂啓(女性)は教育基本法改正前のタウンミーティング問題に関連して「家庭教育が大事だと思うと女性に言わせてましたね。これね、それもありだよなと一見異を唱える人はいらっしゃらないと思います。家も大事だし親御さんたちにも参加してもらって子供の教育を一生懸命にやりますよと見せかけていますが、私はその場にいると異を唱えると思います。というのは、そのように巧妙に(不明)ますが、結局は国が都合のよいように女性であったりお母さんであったり子供への役割というのをもっと色々と強いてくる法律なんです非常に危険だというか、根本から変わるんです、教育内容が。」とコメントしていた。  こんなことを平然とテレビでのたまうフェミニストがいるからこそ、日本の「教育」はおかしくなったのでないか、と思っている。

0181/福島瑞穂の憲法学の先生?小林直樹も常岡説と異なる。

 社民党の福島瑞穂は、誰から、又は誰の本を読んで憲法を勉強したのだろうか。
 この人は1955年生れ、1974年東京大学入学、1980年同卒業、1984年に司法試験合格、1987年弁護士登録、という経歴のようだ。
 東京大学の当時の憲法学の教授は、まず、小林直樹(1921-)かと思われる。福島が大学入学した年は、小林氏が53歳になる年の筈で、現役バリバリだっただろう。そしてこの人は日本社会党のブレインで、マスコミや雑誌類への露出度は(次の芦部に比べて)はるかに高かった。
 もう一人は、故芦部信喜(1923-99)だ。福島が大学入学した年、芦部もまた51歳になる現役教授だった。
 他にも助教授も含めていたかもしれないが、主としてはこの二人の憲法学を中心にして憲法を学んだのだろうと推測される。
 そして、小林直樹は上記のとおりだが、芦部信喜もまた、その憲法教科書の九条や制定過程あたりを読むと、日本の憲法学者としては別に珍しくもないのだろうが、明瞭に「左翼」だ。
 福島は、こうした「先生」たちの本や講義で日本国憲法を学んだ優秀な学生だったのだろう。そして九条の意味も「しっかりと」伝授されたのだろう。もっとも、29歳の年の司法試験合格は決して早くないし、「優秀な学生」だったことと、「優秀な政治家」又は「優秀な人間」かどうかは全く別のことだが。
 話題を変える。古書のため1972年刊とやや古いが、小林直樹・憲法講義〔改定版〕(東京大学出版会)の憲法改正権の限界に関する部分を見てみた(この本は、福島が勉強に使った可能性もある)。p.864は、次のように叙述している。
 「前文および第9条の平和主義そのものは、憲法の基本原則として確定しているかぎり、その削除や否認は許されないであろう。しかし、…非武装規定(9条2項)も、同様に考えるべきかどうか、問題になる。「…永久にこれを放棄する」という規定から、…改正することは「憲法の同一性を失わせることになる」(鵜飼・憲法、25頁)、と解する見解にも十分な理由があろう。しかし、平和主義とそれを実現するための手段(軍備の放棄もしくは禁止)とは、法理論上はいちおう別個であり、平和主義の立場を守りながら一定限度の軍隊をもつために後者を改正(削除)しても、民主憲法の同一性は失われない、と解してよいだろう。したがって、具体的にいえば、対外侵略の意図も能力ももちえない限度での自衛の軍備のための改定は-…-その政策的是非をまつたく別にすれば、法的に不可能なこととはいいがたい」。
 小さい活字の次の注記のような文が続いている。
 「…。再軍備は、たしかに徹底した平和主義をとろうとした日本国憲法に、大きな変更を加えることになるけれども、それが直ちに根本的な「憲法破壊」を意味するものではなく、憲法の同一性は、それによって失われない…。それはあくまでも、高次の憲法政策の問題であり、そのようなものとして、政治の場で徹底的に是非論が闘わさるべきだ、と思う」。
 憲法学者として朝日新聞に最近投書した常岡せつ子には不利な文献をまた一つ見つけたことになるようだ。
 1971年といえば、日本社会党の影響力はまだ強く、九条二項の改定の現実的可能性などなかった頃だが、芦部信喜とは別の東京大学教授によっても、上のようにきちんと、九条二項の改正は「憲法的に不可能なこととはいいがたい」と明記されていたのだ。
 但し、常岡せつ子(?)と同じと思われる考え方を説く憲法教科書もついに?見つけた。浦部法穂(1946-)・憲法学教室Ⅰ(日本評論社、1988)だ。p.25は改正できない規定に関する叙述だが、本文の中のカッコ書きでこんなふうに書いている。
 「九条二項の非武装規定については、…説と…説とに分かれている。けれども、日本国憲法の掲げる平和主義の画期的な意味は、まさに非武装規定にあるから、改正限界説に立ちながら、これを改正できるとするのは、おかしい」。
 さすがに、日本評論社出版の本だという感じもある。また、この人は東京大学出身で、この本の時点では神戸大学教授だが、のちに名古屋大学教授になっている。
 こう見ると、上で小林直樹が言及している鵜飼信成(この人の本は所持せず)とこの浦部法穂の二人は、いわば<九条二項憲法改正範囲外説>に立っていることになる。だが、この説がとても「通説」とは言えないことは、何回も述べた。<ゼロ人説>ではなく「ごく少数説」と言ってよいが、「通説によれば」と表現することは絶対にできず「大ウソ」だ。常岡せつ子には、失礼乍ら、何らかの<錯覚>があるようだ。

0179/現在国会議員を有する全政党が<改憲>政党。

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0062/今日も続くよ戯言(ざれごと)が-幼稚な「きっこの日記」4/11。

 「きっこの日記」4/11より。
 日本人が「イルカを食べてる」なんてデマがある。「もしも、韓国や中国などの反日の人たちが、こういった嫌がらせをやるんだとしたら、アベシンゾーの発言や石原慎太郎の発言など、ニポンには国際的に批難されちゃうようなネタがマウンテンなんだから、何もわざわざデマを流す必要なんかない。ホントのことを流すだけで、十分に批難されるからだ」。
 
このデマが「反日感情を持ってる英語圏の人たち」によるのだとしたら、「その原因として考えられるのは、どうしても、右翼カブレのお坊ちゃま、アベシンゾーの「従軍慰安婦が強制だったという証拠はない」って発言とか、「沖縄の集団自決に軍の強制はなかった」とする教科書の改ざん問題とかが、アメリカやイギリス、フランスやオーストラリアを始めとした多くの国で、厳しく批判されてる現状が考えられる」。
 「もちろん、欧米の反日感情のキッカケを作ったのは、他でもない、無知なアベシンゾーの大バカ発言が原因だけど…」。
 よくも(最近は)毎日のように幼稚な戯言を、もう成人している筈なのに続けられるものだ。
 またこんなことも書く。社民党の福島瑞穂のブログと全く同じ。同感して引用している、と言ってもよい。
 「自民党のポスターは、東京用と地方用とで、正反対のものが2種類作られてるそうです。/東京には「東京に活力」ってポスターが貼られてるのに、地方に行くと「地方に活力」ってのが貼られてるそうです。/「二枚舌」ならぬ「二枚ポスター」、サスガ、天下の自民党ですね(笑)
 これがどうして「二枚舌」(「二枚ポスター」)なのか東京にも活力、地方にも活力、というのは、論理的にも十分成り立ちうる。「きっこ」?氏には、日本語の論理構造を理解する能力がないようだ。

0056/本日も6万アクセスの「きっこの日記」の無惨さと異常さ。

 「さるさる日記」というサイトの中の「きっこの日記」は、4/09に「きっこの音楽日記」閲覧を勧めたあとで、以下のようなことを書いている。
 「引き続き、「核兵器の保有」を謳い、戦争ができるように憲法を変えようとしてる人間がつとめることになったってワケだ。
 「人間同士が殺し合う戦争を「感動的」だと賞賛し、「日本も優秀な戦闘機を作ってどんどん海外に輸出すればいい」なんて言ってる人でも、東京都知事を続けられる…」
 「多数決で勝ちさえすれば、「平和」よりも「戦争」が「正しい」ってことにもなっちゃうワケで、あたしたち「平和」を願う少数派は、また4年間もガマンしなきゃなんない…」
 この人は、福島瑞穂的、社民党的、「日本国憲法2.0開発部」的な、空想的・教条的・観念的な「平和」主義者のようだ。いや「…主義」なるものはない。「「核兵器の保有」を謳い、戦争ができるように憲法を変えようとしてる人間…」という表現には完全な事実誤認がある。事実をきちんと認識できていないのだ。
 また、「「平和」よりも「戦争」が…」という二項対立的発想は、まるで、戦後当初の社会科教科書を学んだ中学生のようで、おそらくは、水島朝穂、「日本国憲法2.0開発部」、福島瑞穂等と同様に、北朝鮮・中国の軍事的脅威は頭の中に入っておらず、米・日の軍備の危険性にばかり目が行っているのだろう。
 このような認識や感覚は、ふつうの生活をし、種々の新聞や雑誌を読んでいると通常は形成されないものだ、と思われる。ということは、「きっこ」?氏の精神・意識の環境(情報・意見形成のソース)は「ふつう」ではない「特殊」なものである可能性が十分にある。
 「きっこの日記」の4/09は、またこうも書く。「「石原さん、おめでとう!」ってメールも紹介したいんだけど、これまた不思議なことに、ただの1通も届いてない。でも、「残念だ」「理解できない」「都民の良識を疑う」ってメールは、この日記を書いてる時点で、すでに300通以上も届いてる。
 この4年間に石原がやって来たことに対してヘキエキとした人たちがそれだけいたってワケで、この東京にも、それだけ「良識」のある人がいたってワケだ」。
 この人が「特殊な」人々に取り囲まれていること、「良識」という言葉の意味を知らないほどの幼稚な人物であることを、これらは示している。

0049/阿比留瑠比の最近のブログ・エントリーの中で目を惹いたこと。

 阿比留瑠比氏のブログ・エントリーは熟読ではないにせよ、目は通しているつもりだ。近日のもののうちから、いくつか目を惹いたものを取り出して、何がしかの感想を記しておく。
 1 2007/03/26-「国会議員会館内で開かれた反日慰安婦問題集会」/2005年2月1日に、衆院第2議員会館で「女性国際戦犯法廷に対する冒涜と誹謗中傷を許さない日朝女性の緊急集会」という集会があった。その内容の紹介だが、当時すでに社民党委員長だったはずの次の福島瑞穂の発言が目を惹いた。
 「福島氏 (前略)この女性戦犯国際法廷につきましては、もともと私自身も、いわゆる従軍慰安婦とされた人たちの裁判を担当する弁護士で、この女性国際法廷にも、傍聴人として一般の市民として、あそこの会館のところに出席しておりました。今回、ものすごい危機感を持っております。ファシズムというのは、こういう形で起きていくのだということを痛感しております。(中略)/今回のケースは、もちろんNHKもしっかりしてほしいとか一杯思いもあります。ただ、政治権力によるメディアへの介入の問題である、政治家によるパワハラだと思っております。こういう形で恫喝をし、メディアの問題を私物化していくこと、安倍晋三さんがこれで何も問題はなかったと居直ることを許してはいけないと。(後略)
 上の発言のうち最もスゴいのは、「ファシズムというのは、こういう形で起きていくのだということを痛感…」だろう。仰々しいが、日本はファシズム・軍国主義へと向かっていっている、という時代認識が、この人やこの党(社民党)にはあるのだろう。「ファシズム」をどう定義しているかのかと突っ込みたくもなるが。
 次に、「
こういう形で恫喝をし、メディアの問題を私物化していくこと、安倍晋三さんがこれで何も問題はなかったと居直ることを許してはいけない…」。完全に朝日新聞と同じ認識ですなぁ。こういう認識から出発して、安倍氏や同内閣への見方が「真っ当な」ものになる筈がない。
 2 2007/03/31-「河野衆院議長のふざけた新「河野談話」と教科書検定」
 これは長くてとてもまともなしっかりした文章で、河野洋平という人物がますますいやになる。それはともかく、本来の主題ではないが、彼の次の文章が目を惹いた。
 「私も長年取材していますが、文部科学省は日教組などと馴れ合い、左派からの攻撃を恐れる一方で、保守派が大人しいのをいいことに、甘く見ているように感じます。
 これは見過ごせない情報だ。自社さ連立政権のおかげで文部省と日教組が仲良くなった旨の指摘も別の日にあったが、それよりも「保守派が大人しい」と見られていることも大問題だ。何が「保守派」かは難しいが、日本の「保守派」なるものが必ずしも強くはないこと、たしかに国民は自民党等を与党とする政権に政治を委ねているが、自民党に投票する国民の全員が「保守派」と意識しているかは疑わしいし、自民党の国会議員すら、全員が自らを「保守派」と自覚しているとは思えない。別言すれば、自民党の国会議員すら、全員が明確な「保守」理論=「保守」思想に支えられているとは思えないのだ(ただ政権与党だから、選挙区国民のために仕事がしやすい党だから程度の理由で自民党員である国会議員もいるのではないか)。
 中川八洋・正統の哲学/異端の思想(徳間、1998)p.55のグラフは、「思想」の分布・割合につき(私の目分量だが)、英米では保守(真性自由主義)が4:リベラル(左翼的自由主義)が5:社会主義(全体主義)が3なのに対して、日本では、保守(真性自由主義)が1:リベラル(左翼的自由主義)が4:社会主義(全体主義)が5だということを示している。
 ソ連等社会主義国崩壊後もかかる分析又は印象がなおある(そして私も相当程度現実でもあると感じている)ことについては別に論じる必要があるが、ともかく、日本にはきちんとした「保守主義」が強くは育っていないのではないか。これはむろん、「きっこ」?氏が出てくるような、戦後「平和・民主主義」教育と無関係ではない。阿比留氏の何気ない一文に、色々なことを考えさせられる。
 3 2007/04/07-「民主党の立派な「慰安婦議連」と岡田克也元代表」
 民主党は雑多な人たちの政党で、改憲が現実的争点になってくるときっと分裂する、と私は想定している。
 それはともかく、このブログ中では、「慰安婦問題で謝罪と反省を表明した平成5年の河野官房長官談話の見直しを求める動き」が民主党内にも出たという3/10の記事が引用されていて、その議員連盟「慰安婦問題と南京事件の真実を検証する会」の呼びかけ人メンバー全員の名が記載されているのが目を惹いた。次の16人だ(前原誠司の名はない)。
 衆議院-「石関貴史、市村浩一郎、河村たかし、北神圭朗、小宮山泰子、神風英男、鈴木克昌、田名部匡代、田村謙治、長島昭久、牧義夫、松原仁、三谷光男、吉田泉、笠浩史、鷲尾英一郎、渡辺周
 参議院-「大江康弘、芝博一、松下新平」。
 松原仁と河村たかし(+西村真悟)くらいしか名を憶えていなかった。自民党の某、某、等々よりもむしろ、こうした特定の民主党議員は、選挙でも当選させるべきではないか。
 岡崎トミ子、平岡秀夫らは落選させなければならない。

-0041/社会主義・マルクス主義(共産党等)からの離脱は正しい。

 昨日安倍晋三が自民党新総裁に決定。社民党の福島瑞穂が今までで「戦争に一番近い人」とかコメントしていた。それ自体厳密な議論が必要な日本人の無条件の「戦争」嫌い=絶対的「平和」選好の傾向を利用して、9条の会と同様に「戦争」という言葉を使って国民を脅迫しているわけだ。
 安倍を100%支持はしないが、相対的にマシな人だろう。人物も政党もいずれが・誰が「相対的にマシ」かで判断する他はなく、「小沢一郎の」民主党よりは安倍の自民党がまだマシに思える。小沢氏には「党派性」にからむ選挙戦略だけでなく、広く国益・公益を思慮していただきたい。
 何げなく有田芳生のサイトをまた見ていたら、0919付に日本共産党の上田耕一郎の対談本を買おうとして結局やめた、という超「個人的」話があった。
 有田は共産党系雑誌・経済の編集者として上田・小田実の対談を企画して「政治的に厳しく追及された」と書いている。彼は当時は党員だったかと思える。それにしても、小柴昌俊は別として対談相手3人のうち2人が小田と鶴見俊輔ではとても(買うのは勿論)見る気になれない。
 昨日言及した本の中で林道義は「私が犯した最大の間違いは、旧ソ連・中国などの社会主義国を本当に理想を追求している国だと思い込んだことである。…20歳前後…に気づくことができた。社会主義と言われる国々は、人間性を否定する最悪の独裁国だと気づいた」と率直に書いている。
 戦後70年代くらいまでにかかる幻想をもった(思い込んだ)人々は悪びれることなく正々堂々と誤っていたことを認めるべきだし、そのことこそ讃えられるべきだ。日本には「変節」という言葉もあって、いったん社会主義・マルクス主義にシンパシ-を持った(又は共産党・社会党に接近した)人がそれらから離れることについて本人が自らを精神的に苛むことがありうる。疑問をもちつつ社会主義・マルクス主義(共産党・社民党)から離れられない人こそ、勇気・正義感がないのだと悟るべきだ。社会主義・マルクス主義は「宗教的」だから、離脱に何らかの苦痛・葛藤が伴うことはありうるが多少はやむをえない。
 勝谷誠彦の小説よりも小池真理子の「望みは何かと訊かれたら」に魅かれてサンデー毎日でなく週刊新潮を4週連続で買った。もともと最も読みがいのある週刊誌だが、この小説は70年代前半の非代々木系(反共産党系)「学生運動」を、やや遅い1952年生れの作家にしては本当らしく描写している。

ギャラリー
  • 2679/神仏混淆の残存—岡山県真庭市・木山寺。
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  • 2422/F.フュレ、うそ・熱情・幻想(英訳2014)④。
  • 2400/L·コワコフスキ・Modernity—第一章④。
  • 2385/L・コワコフスキ「退屈について」(1999)②。
  • 2354/音・音楽・音響⑤—ロシアの歌「つる(Zhuravli)」。
  • 2333/Orlando Figes·人民の悲劇(1996)・第16章第1節③。
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  • 2320/レフとスヴェトラーナ27—第7章③。
  • 2317/J. Brahms, Hungarian Dances,No.4。
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  • 2309/Itzhak Perlman plays ‘A Jewish Mother’.
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  • 2305/レフとスヴェトラーナ24—第6章④。
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  • 2302/加地伸行・妄言録−月刊WiLL2016年6月号(再掲)。
  • 2293/レフとスヴェトラーナ18—第5章①。
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  • 2286/辻井伸行・EXILE ATSUSHI 「それでも、生きてゆく」。
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  • 2283/レフとスヴェトラーナ・序言(Orlando Figes 著)。
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  • 2222/L・Engelstein, Russia in Flames(2018)第6部第2章第1節。
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  • 2203/レフとスヴェトラーナ12-第3章④。
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  • 2152/新谷尚紀・神様に秘められた日本史の謎(2015)と櫻井よしこ。
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  • 2151/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史15①。
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  • 2098/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史08。
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