秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

祭祀

1537/櫻井よしこ・天皇譲位問題-「観念保守」批判⑤03。

 櫻井よしこ「発言/有識者リアリング」2016年11月14日<天皇の公務負担軽減に関する有識者会議第4回>。
 平川祐弘もそうだが、櫻井よしこは、天皇の役割として「祭祀」を強調し、天皇の「祭祀」行為の位置づけを高くせよ、と主張する。
 上の発言でも、実質的には冒頭で、こう言う。
 ・「長い歴史の中で、皇室の役割は、国家の安寧と国民の幸福を守る、そのために祈るという形で定着してきました。歴代天皇は、まず何よりも祭祀を最重要事と位置づけて、国家・国民のために神事を行い、その後に初めてほかのもろもろのことを行われました。穏やかな文明を育んできた日本の中心に大祭主としての天皇がおられました」。
 ・「しかし、戦後作られました現行憲法とその価値観の下で、祭祀は皇室の私的行為と位置づけられました。皇室本来の最も重要なお役割であり、日本文明の粋である祭祀をこのように過小評価し続けて今日に至ったことは、戦後日本の大いなる間違いであると私はここで強調したい」。
 ・天皇陛下の「御負担を軽減するために、祭祀、次に国事行為、そのほかの御公務にそれぞれ優先順位を付けて、天皇様でなければ果たせないお役割を明確に」する必要がある。
 ・「現行の憲法、皇室典範では、祭祀の位置づけが国事行為、公的行為の次に来ています。この優先順位を実質的に祭祀を一番上に位置づける形で」整理し直すのが大事だ。
 似たような文章が、櫻井よしこ・月刊ボイス2016年10月号p.46にもある。
 すでに触れたことだが、このような櫻井よしこの文章を読むと、不思議な、奇怪な感じを禁じえない。
 あるいは、ひどく無知だと思う。自分が無知であることに無知であるのは、はなはだしく怖ろしいことだ、と思わざるをえない。
 なぜか。
 つぎのことは、まだ些細なことだ。
 「現行の憲法、皇室典範では、祭祀の位置づけが国事行為、公的行為の次に来ています」。
 憲法・皇室典範が「祭祀の位置づけ」を明記しているはずがない。あくまで現憲法の<解釈>でそうなっているのであり、皇室典範はそれを前提にして何も定めていないのだ。
 これだけでもすでに専門家ならば失格だが、他に致命的なことがあるので、まだ些細に感じてしまう。
 すなわち、櫻井よしこや平川祐弘は、「祭祀」をいかなる性格の行為だと、明確に記せば、<宗教>性を帯びている行為だと、とりわけ「神道」上の行為だと考えているのか、いないのか
 「祭祀」は宗教とは無関係だと理解しているならば、ある程度は筋がとおっている。
 しかし、本当に「祭祀」は無宗教の行為なのか。
 平川祐弘は天皇にとっての「まつりごと」とは「政」ではなく「祭」だと、さも知識ありげに書いていたが、「政治」が「まつりごと」ともされたことは多くの人が知っているだろう。
 さて、あらためて、櫻井よしこに問いたい
 自分の言う祭祀とは「宗教」、とくに「神道」と関係があるのか、ないのか。
 明治元年に(まだ安定・確定していない)新政府は「神武創業」期に<復古>しての「祭政一致」を謳ったのだったが、そこでの「祭政一致」が国家と「宗教」の関係にかかわるものだったことは明確で、だからこそその後に<神仏分離>の基本政策がとられた。実際にどの程度徹底したのかは別だったが。
 そうして逆説的に、 明治憲法の解釈上は(「皇室神道」を含むと解される)神社神道うんぬんは「信教の自由」の問題ではないとして、いわゆる<国家神道>制がとられたとされる。わずかに50年間程度だったと今からは感じるが、神社は国家機関又は準国家機関、神官は公務員又は準公務員だった。
 その(明治憲法後に)1900年頃に確立した時代が理想だと考えて、神社神道(・皇室神道)は「宗教」ではないと論じるのならば、まだ分かる。
 しかし、櫻井よしこは、この欄で批判的にすら取り上げているように、「神道は日本の宗教です」と明言しているのだ。
 天皇・皇室の「祭祀」が神道、正確には神社神道(なるもの)の性格を帯びていることはほとんど常識だろう(但し、<祭祀>の意味にもよるが、神仏の区別が必ずしも明瞭でない時代には「仏教」的なものも部分的にはあったに違いない。だがそれも今日的には<宗教>行為だ)。
 それを知ってあえて、「祭祀」を大切にとか、「祭祀」を最優先に、と主張する場合、そもそも日本国憲法上のつぎの条項は意識されているのか。とくに、第3項。
 この無意識、無知こそが、致命的だ。
 現憲法第20条「第1項第二文/いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」
 同第3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」。
 これら条項との関係でも、天皇・皇室の「祭祀」行為は、現憲法7条が定める「国事行為」のうちの「10号/儀式を行ふこと。」にも含まれないと、官民挙げて ?解釈されている。
 憲法学界はほぼ一致しているだろうし、戦後の政治・行政の現実は、この解釈を前提として動いているし、動いてきた。
 この解釈とは、天皇・皇室の祭祀行為は「宗教」行為に該当する、という解釈だ。
 天皇・皇族は「国」あるいは「国家の機関」ではないと櫻井は思うかもしれないが、「国事行為」は内閣の「助言と承認により」行うもので(7条本文)、そこでの行為は「国」ないし「国家」(この二つのしばしばの混同があるが立ち入らない)の行為に他ならない。
 だからこそ「国事行為」なのであり、そこに「祭祀」を含めてしまうと、「祭祀」が国家の行為になる。少なくとも、現20条との関係を厳密に整理・解釈しなければならなくなる。
 憲法20条の規定があるからこそ、国家と「宗教」との関係は、明治憲法のもとでと全く同じには解釈されていないのであり、「祭祀」が神道によるものであるかぎりは、おそらく間違いなく「公的(象徴的)行為」と位置づけることもできず、天皇等の「私的」行為と憲法解釈せざるをえないのだ。これを前提に、皇室経済法(法律)も「内廷費」等々の区分けをしている。
 櫻井よしこは、こうしたことの知識をまるでもっていないようだ。
 だからこそ平気で、「祭祀」を国事行為等よりも優先せよ、と無知ゆえの主張をすることができている(平川祐弘もおそらく同じ)。
 唖然とせざるをえない。
 櫻井よしこの主張・見解を満足させて現実化するためには、現憲法上の国家・「宗教」関係条項の抜本的な改正(憲法改正)か、または<革命的な>憲法解釈の見直しが必要だ。
 これをくぐり抜けるレトリックは、神社神道は「宗教」ではないと法解釈することだが、知ってか知らずか、櫻井よしこは「神道は日本の宗教です」と、堂々と言い切っている。
 櫻井よしこは、昭和天皇の葬礼の際に、どこまでが「国」の行事で、どこからが天皇家の「私的」行事なのかというきわめて(現憲法の解釈・運用にとっては)重要な問題が生じていたことを、まるで知らないようだ。これについては、この欄で触れたことがある。
 怖ろしいことだ。無知も怖ろしいが、無知であることの無知も、輪をかけて怖ろしい。
 櫻井よしこ・憲法とはなにか(小学館、2000)を見てみると、やはり、国家・「宗教」関係条項には、<保守>派にとっても重大な関心事のはずだが、いっさい言及していない。
 手元に、つぎの本もある。著者は「日本政策研究センター所長」。
 伊藤哲夫・憲法かく論ずべし(日本政策研究センター、2000)。
 この本もまた、<政教分離>裁判は多数起きているにもかかわらず、憲法20条または国家・「宗教」関係、天皇・皇室の「祭祀」の憲法問題にはいっさい言及していない。
 櫻井よしこは、この伊藤の書物に影響を受けているのだろうか。
 ついでに書くと、この伊藤哲夫・憲法かく論ずべし(2000)は、「五箇条の御誓文」擁護・解説にじつに40頁ほどを当てている。
 櫻井が最近に「五箇条の御誓文」にやたらと論及する、そのタネ本はこの伊藤著ではないか ?
 他人・第三者の文献・主張を参考文献の明記なくしても平気で援用・借用するのは櫻井よしこの「流儀」なので、同じ<保守派 ?>の伊藤哲夫著ならば、上のように「タネ本」にするのも十分にありうると思われる。
 さらに一つだけ、関連して指摘しておこう。櫻井は、こう発言した。他にも同旨のことを述べる者はいる。
 「天皇様は何をなさらずともいてくださるだけで有り難い存在であるということを強調したいと思います。その余のことを天皇であるための要件とする必要性も理由も本来ないのではないでしょうか」。
 <ご存在だけで有り難い>というのならば、「祭祀」も別になさらずともよろしいのでは ?
 揚げ足取りと言うなかれ。その隙を与えるような言辞を、大切な「国」の諮問・建議機関のメンバーの前で吐いてはいけない。
 国家・「宗教」との関係については、なおも基本的なことに触れたにすぎない。
 それでもなお、「所長」に代わって釈明・反論をしようというならば、どうぞ国家基本問題研究所の「役員」の方々はしていただきたい。櫻井よしこ「所長」では無理だから。
 時間があれば、所持している例えば以下の書物だけでもきちんと読み通してみたい。現憲法注釈書はたいてい持っている。
 ①山口輝臣・明治国家と宗教(東京大学出版会、1999)。
 ②平野武・宗教と法と裁判(晃洋書房、1996)。
 ③大石眞・憲法と宗教制度(有斐閣、1996)。
 あらためて、櫻井よしこという存在の悲惨さを感じつつ。

1209/五輪東京誘致とテレビ朝日、式年遷宮における「御治定」・「御聴許」。

 〇前回に触れた、五輪誘致東京「敗退」との誤報を放ったのは、当日のライブだったテレビ朝日池上彰の司会の番組もそうだったようだ。

 池上彰に非難が当たっているようでもあるが、池上個人の問題というより、当該番組制作者、つまりテレビ朝日の制作責任者に原因があるように思われる。氏名は明らかではない当該人物は自分の判断で、または朝日新聞社のツイッターを見て、すぐさま、その旨を書いた紙(カンペというのか?)を池上に見せたのではあるまいか。その誘導に乗って池上の発言になったのではなかろうか。
 池上彰を擁護する気持ちはなく、中途半端な人物だと思っているが、池上よりもテレビ朝日のミスならば十分に考えられる。なぜなら、テレビ「朝日」だからだ。上記の「朝日」関係の人物も、東京誘致が失敗すると面白い、と考えていたのではないか。

 ついでながら、NHKのテレビ放送を見ていて、決定後の座談会において、安倍首相の発言への言及がまったくかほとんどか、なかったのは印象的だった。安倍首相のプレゼン発言で決定的になった旨の外国の報道もあったようだが、わがNHKはそんな旨での報道をしなかった。逆に、安倍首相発言は「正確」なのか、という朝日新聞や毎日新聞等(系列テレビを含む)がのちに問題にしている論点にもまったくかほとんど触れていなかったのだが。

 〇9/11のエントリーで式年遷宮に言及した。その中で、つぎのように書いた。

 「遷宮の細かな準備日程は今上天皇の『許可』(正式用語ではない)にもとづいているように、伊伊勢神宮の式年遷宮とは実質的または本質的には天皇家の行事に他ならない。」

 前段の「許可」という用語および後半の意味について付け加える。
 最もあたらしい伊勢神宮のHPは、次のように知らせる。
 「天皇陛下には第62回神宮式年遷宮の遷御を執り行う日時を以下の通り御治定(ごじじょう・お定め)になられましたのでお知らせいたします。/遷御の儀は大御神様に新しい御殿へお遷り願う式年遷宮の中核となる祭典です。
  【 遷 御 】

 皇大神宮    10月2日(水)  午後8時

 豊受大神宮   10月5日(土)  午後8時」

 ここでは「御治定」という言葉が使われている。最終的な「遷御」の日時は今上天皇陛下が定めるのだ。

 また、同HPの2005年1月1日更新は次のように伝えていた。
 「神宮の最大の祭りである式年遷宮の本格的な準備が、平成16年4月5日、天皇陛下の「御聴許」(お聞き届けいただくこと)をいただき、進められています。/神宮における祭祀の主宰者は天皇陛下です。式年遷宮をおこなうにあたっても、その思し召しを体し、神宮大宮司の責任で遷宮の御準備が進められます。平成16年4月5日、陛下から正式にお許しを戴き、その後設置された各界の代表で構成する大宮司の諮問機関「遷宮準備委員会」の答申に基づいて本格的な御準備が進められています。一方、遷宮諸祭については今春(平成17年春)の山口祭(やまぐちさい)・木本祭(このもとさい)にはじまり、9年間に約30回にも及ぶ諸祭行事が行われ、主要な12のお祭りの日時は、天皇陛下のお定め(御治定・ごじじょう)を仰ぐことになっています。」

 遷宮の本格的準備が、ほぼ10年前の2004年4月の今上天皇の「御聴許」にもとづいて進められていた。この「聴許」という用語を先日は思い出せなかった。但し、「主要な12のお祭りの日時」は、「御聴許」ではなく、「御治定」によるようだ。厳密な違いは私は知らないが、対象からして、おおよその違いは分かる。
 より重要に思えたのは、神宮(伊勢神宮)自体が、「神宮における祭祀の主宰者は天皇陛下です」と明言・公言していることだ。
 これからすると、先日のように「実質的または本質的には」と限定を付す必要はなかったようだ。遷宮とは天皇陛下が「主宰」者として行われる神事なのだ。但し、後日に天皇・皇后両陛下が参拝されるが、当日は東京・皇居から定められた時刻に「御遙拝」される。直系で皇位継承第一位の皇太子殿下もそのはずだ。

 一方、その他の皇族の一部の方々は、当日に伊勢の現地で式典に参加されるか、見守る、ということをされるのではないか。曖昧なことは書けないので、より正確な情報ソースを参照していただきたい。
 ところで、天皇陛下のこのような伊勢神宮への強い関与は、<私事>・<私的行為>だからとして許容されていることになっている。このような説明は、先日に書いたように、奇妙だ。

 天皇陛下は憲法で明記された国家の一つの重要な「機関」のいわば担当者に他ならないが、そのような天皇陛下の伊勢神宮への強い関与を、誰も、朝日新聞も、「政教分離」違反とは言わない。「左翼」をけしかけているわけではない。じつに奇妙で不思議なことだと、常々感じているだけだ。 

0492/天皇の祭祀行為は宮中や宮中三殿に限られない。

 伊勢神宮式年遷宮広報本部・日本の源郷-伊勢神宮(2007.07)という計22頁の小冊子のp.3の冒頭の言葉は次のとおり。
 「神宮のおまつりは天皇陛下の祭祀です」。こうまで明記してあるのはむしろ珍しいように思う。
 既述だが、式年遷宮の準備に今上天皇陛下の「聴許」があったことを宮内庁長官が(伊勢)神宮に公文書で伝えたり、<勅祭社>という、天皇(・皇室)の「勅使」が祭祀者(祭祀主宰者)となるとみられる神社(・大社・神宮)があることも、少なくともいくつかの重要な祭祀は個々の神社(・大社・神宮)ではなく天皇(・皇室)自身の行為であることを示しているだろう。
 また、かりに天皇(・皇室)が形式的には祭祀者(祭祀主宰者)にならなくとも、皇祖・天照皇大神を祀り国家(・国民)の弥栄を祈る神社等の祭祀は、天皇(・皇室)に「代わって」行われている、という性格・位置づけのものも多くあると考えられる。
 以上で言いたいのは、天皇(・皇室)の祭祀は宮中でのみ行われるのではない、ということだ。
 また、皇居での祭祀は「宮中三殿」で行われるものに限らない。例えば、皇居内には稲を栽培・耕作する「御田」があるようであり、天皇陛下ご自身がそこでの稲作にかかわり、その「御初穂」は、伊勢神宮の「御正宮」の「玉垣」(唯一神明造の正殿を囲む板塀のことと推察される)に懸けられる(上記小冊子p.4-「懸税」というらしい)。
 ここで言いたいのは、皇居内での祭祀は「宮中三殿」という意味での「宮中」祭祀に限られない、ということだ。
 原武史は<宮中祭祀廃止>を(主観的には皇室のために?)主張しているようだが、天皇(・皇室)に関する本を数冊も書いているなら、以上のことくらいは知っているだろう。しかして、<宮中祭祀>の廃止だけで問題は解決するのか? 皇居以外で行われ続けている天皇(・皇室)主宰の祭祀はいったいどうなるのか? どのようにすべきと考えているのか? 東京=皇居で行われる祭祀は「宮中三殿」以外の場所で行われるものもあるが、<宮中祭祀廃止>論はそれらをどう考えているのか?
 簡単にあるいは単純に<宮中祭祀廃止>を主張できないのではないか。簡単・単純な<天皇制度>解体論者でないかぎりは。
 なお、伊勢神宮での祭祀が「天皇陛下の祭祀」だとして、そのような行為もまた、現行法制上は天皇の<私的行為>とされる。(神道も<宗教>だとかりにして、の話だが)宗教的性格を帯びている物・施設の所有権が天皇(・皇室)にある=天皇(・皇室)の「私有財産」とされているのと同じく、<宗教>性を帯びていれば全て<私的行為>とされているのだ。
 既述のように奇妙だと思うが、園部逸夫・皇室制度を考える(中央公論新社)等を素材にして、遅れているが別の回で、天皇(・皇室)の「行為」について整理しておくつもりだ。

0477/日本共産党系の藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書)-2。

 藤谷俊雄=直木孝次郎・伊勢神宮(新日本新書、1991)の藤谷執筆部分によると、1950年代末から、伊勢神宮の<国家的保護>を求める動きが「神宮関係者や神職を中心とする保守的勢力」から起こり、「〔伊勢〕神宮国有化論」まで出てきたという。
 藤谷自身が「伝えられている」とか「いわれている」とか書いているのだから、どの程度の信憑性があるのか疑えないこともないが、「神宮国有化論」者の論点は次の二点にあると「いわれている」、らしい。
 ①「伊勢神宮は天皇の祖先をまつる神社」で、「皇室・国家と不可分」だから、少なくとも「天皇祭祀に必要な神殿や、敷地は国有とすべき」。
 ②「天皇の神宮に対する祭祀は私事」とされているが、「国家の象徴としての天皇の行為」で、「国家の公事としてみとめるべき」。
 ここでの「天皇の神宮に対する祭祀」とは何を意味するのか必ずしも明瞭でないが、伊勢神宮による祭祀への援助や天皇(・皇室)又はその代理者(勅使)が主宰者となる伊勢神宮での祭祀のことだろう。
 以上の二点は、「国有化」に直結する論拠に当然になるかは別としても、しごく当然の問題提起だ、と考えられる。
 (皇居内の「天皇祭祀に必要な神殿」・「敷地」の所有者は誰かは、別の回に記述する。)
 この欄でいく度か書いたように、伊勢神宮が天皇(・皇室)(のとくに「祭祀」)と不可分で天皇もまた国家と不可分(少なくとも「日本国の象徴」)だとすれば、伊勢神宮という一宗教法人の「私産」や天皇の「私的」行為と位置づけるのは奇妙であり、政教分離原則を意識するがゆえの「大ウソ」ではないかと思われる。
 だが、上の①・②を藤谷俊雄はつぎのように一蹴する。
 「まったく時代逆行の意見であることは、本書の読者には明らかなことと思う」(p.212)。
 「時代逆行」性が「明らか」だとは読者の一人となった私には思えないが。
 以上を叙述のほぼ最終的な主張としつつ、藤谷は以下のことをさらに付記している。
 1.「全知全能の神」があるならそれは「ただ一つ」でなければならず、「すべての人間を公平無私に愛する神」でなければならないのに、「特定の国家」・「民族」(・「種族」)だけを守る「神」は「未開人の神と大差ない」。「文化国家」の人々は「いいかげんに利己的な神信心〔ママ〕から目覚めていい」(p.212-3)。
 これはのちに「日本」と呼ばれるに至った地域に発生した「八百万の神々」があるという神道に対する厭味・批判なのだろう。だが、私は熱心な神道信者では全くないが、それでもバカバカしくて、反論する気にもなれない。この藤谷という人は、<宗教>をまるで理解できていないのではないか。マルクス主義者=唯物論者なら当然かもしれない(なお、神道は本当に「宗教」の一つなのかという問題があることはすでに触れている)。
 2.「天皇がどのような宗教を信じようとも天皇の私事である」。だが、それを「公事として全国民におしつければ、国民の信教の自由が失われることは歴史のしめす」ところ。「明治以後の国家がおかした過誤」が再び「繰り返され」てはならない(p.213)。
 「天皇がどのような宗教を信じようとも天皇の私事である」とは、さすがに、かつての一時期には<天皇制打倒>を唱えた日本共産党の党員(又は少なくとも強い支持者)の言葉だ。天皇(・皇室)の<信仰の自由>という問題・論点も出てきそうだが、立ち入らない(歴史的・伝統的な諸種の祭祀が「神道」という<宗教>が付着したものならば、天皇(・皇室)には<信仰の自由>はない、<天皇制度>とはそもそもそういうもので、<基本的人権>の類の議論とは別次元の存在だ、と解するほかはないだろう、と考えられる)。
 上の点よりも、<神道>を「公事として全国民におしつけ」る、ということの正確な意味が解らないことの方が問題だ。<国家神道化>を意味するのだろうか。そして<神道>を「公事として全国民におしつけ」れば、「明治以後の国家がおかした過誤」を再び繰り返すことになる、という論理も随分と杜撰だ。
 <国家神道化>は必然的に、あるいは論理的に、<明治以後の国家の過誤>につながった、あるいは、その不可欠の原因になった、のだろうか。
 むろん「明治以後の国家がおかした過誤」というものの厳密な内容が書かれていないので、上の適否を正確に検証することは不可能だ。しかし、神道の(少なくとも)<公事>化が戦前日本の「過誤」につながるというという指摘は、歴史学者・研究者の認識・それにもとづく主張ではなく、<政治>活動家のアジ演説的叙述であることに間違いはなく、この書物は上の2.を書いて全体を終えている。
 以上、近日中の読書メモの一つ。 

0472/天皇(家)と神道・神社の関係、そして政教分離-つづき4。

 天皇・皇室による宮中での祭祀のための費用(および伊勢の神宮等の特定の神社への幣帛等のための費用若しくは幣帛料そのもの)は現行法令上は皇族の<私的>行為・活動のための「内廷費」から支出されている。これはいかにも奇妙であり、憲法上の<政教分離>原則と辻褄を合わせるための<大ウソ>ではないか、というのが当初に抱いた問題関心だった。
 政教分離に関する重要な最高裁判決がいくつかあり、関係下級審判決も出ていることは知っているが、判決例には立ち入らない。
 私がもったような問題関心は、しかし、当然だろうが誰かがすでに似たようなことを指摘しているもので、少なくとも一部の学識者によって共有されている。
 八木公生・天皇と日本の近代・下-「教育勅語」の思想(講談社現代新書、2001)は<天皇と日本の近代>二冊の最後の部分で(p.324~7)、天皇・祭祀・憲法の関連に言及して、締め括っている。論理展開(とくに敗戦前の状態の記述)を詳述することを得ないが、こんなふうに指摘する。
 <「政教分離の原則」のもとで「天皇の祭祀を宗教活動とみなして」憲法条項上の明記を排除したのは「明治国家に内在したあやまち」を逆の意味で繰り返している。「祭祀と宗教の混同」が、換言すれば、「祭祀行為」を「一定の教義の承認という意味での信仰」と見なす過ちがある。>
 そして、八木公生は実質的には憲法改正問題に、次のように論及する。
 <「日本国」のありようは「天皇の祭祀行為」を憲法に「いかに規定するか、あるいは逆に規定しないか」にかかっている。すなわち、「現憲法第一条の、さらにその前提として」、「天皇の祭祀行為」を「日本国」とのかかわりで「いかに規定するか」(いわば「憲法第0条」をどう表現するか)という「一点」に、「現在のわたしたちの課題がある」。>
 なかなか鋭い指摘だ。また、惜しくも故人となった坂本多加雄は<天皇制度>に関する大著ももっているが、亡くなる1年半ほど前の月刊ヴォイス2001年5月号(PHP)(憲法特集)にこんなことを書いていた。以下はごく簡単な要約。
 <九条・「平和主義」問題もあるが、「より立ち入った理論的検討が必要」なのは、「天皇とそれに関する国家の儀礼」をどう位置づけるか、さらに「国民主権」との関係をどう理解するか、にある。/「皇室行事は、天皇が天皇であることの証明」であり、とすれば天皇を「象徴」とする日本国の国民にとっても、それは「たんなる天皇家の私的行事ではないはず」で、「何らかの公的な意味づけが必要」だろう。/「国民主権」をフランス的に解釈する必要はないし、「君主」の存在と「国民主権」が矛盾なく並立している国は多数ある。/日本の「一般の国民」は「天皇のもとで議会政治が興隆した日本の近代史に対応」して今日の「天皇制度」を支持しつつ「議会政治」も支持しているだろう。/「生硬な政教分離や国民主権の観念」に振り回されることなく、「日本の歴史と国民の常識に即」して、考察する必要がある。>(坂本多加雄・同選集Ⅱ(藤原書店、2005.10)p.55~59に所収のものを参照した。他にもこの問題を論じた坂本の論稿はあると予想されるが未読。)
 坂本は上で「天皇とそれに関する国家の儀礼」と表現しているが、これがほぼ<天皇の祭祀行為>を意味していることは明らかだ。そして、それの<政教分離>や<国民主権>との関係を「日本の歴史と国民の常識」に即して議論すべきだ旨を説いている。
 もっとも、天皇に許容された行為を現憲法が列挙する「国事行為」に限定し、あとはすべて天皇が一個人・一人間として行う行為又は<趣味>的な行為等の<私的行為>と考えている、マルクス主義者らしき憲法学者(浦部法穂)もいることはすでに触れた。
 また、別の論者(歴史研究者)は日本共産党系の出版物で、さすがに(本音では)<天皇制>廃止をめざす論者らしきことを述べている。別の回に委ねる。

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