秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

神泉苑

2137/東大寺二月堂修二会と「御霊」。

 いつだったか、たぶん今年になってから、東大寺二月堂の法会の一つ、修二会に関する興味深い記述を読んだ。最初は下記ではなかったようにも思うが、この著の導入部分のp.10~p.24はほとんど東大寺修二会の話なので、関心をもった部分を要約して、まとめておく。
 吉川真司・聖武天皇と仏都平城京/天皇の歴史02(講談社、2011)。
  修二会という法会は他寺院でも行われるが、東大寺では752年開始。聖武天皇の時代。
 〔*長屋王の変/729年・藤原四兄弟疫病死/737年ー秋月〕
 「薬師悔過・阿弥陀悔過・吉祥悔過など」の本尊による「悔過会」の規模は東大寺修二会が最大で、「諸行事・諸作法」が全て出揃っていた。-今日に残るのは貴重。
 第5日・第12日には「過去帳の奉読」がある。東大寺や修二会に「ゆかりの深い」人物を読み上げる作法だ。
 「大伽藍聖武帝」に始まり「聖母皇大后宮」、「光明皇后」、「行基菩薩」、「本願孝謙天皇」、「不比等右大臣」、「諸兄左大臣」、「根本良弁僧正」、「当院本願実忠和尚」と続き、中世・近世そして現代に至る。
 平安期末までの歴代天皇を抜き出すと、<聖武・淳仁・光仁・桓武・嵯峨・淳和・仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・朱雀・村上・冷泉・円融・一条・三条・後一条・後朱雀・後冷泉・後三条・白河・堀河・鳥羽・近衛・後白河>の29人。「崇道天皇」=早良親王も出てくる。「なぜ数人の天皇だけが抜けているのか」。
  「過去帳」奉読の由来・起源の特定は困難だ。「呪術作法は明らかに真言密教の呪禁」で、「当院本願実忠和尚」の時代には存在しなかった。
  毎日読み上げられる「神名帳」(じんみょう-)も興味深い。
 日本全国から1万3700余の「神々」を勧請し、加護を祈る儀礼だ。
 「金峰大菩薩」・「八幡三所大菩薩」等の大菩薩号の「神々」→「廿五所大明神」・「飯道大明神」等の大明神。それぞれが大和の「神々」から全国に及んでいく。
 「過去帳」が時間軸で形成されているなら、「神名帳」は空間秩序を表現している。
  「神名帳」が最終段(全九段のうち)に入ると、「奉読にあたる練行衆は急に声をひそめ、重々しい声で『御霊』の名を唱え始める」。
 「八島御霊、霊安寺御霊、西寺御霊、普光御霊、天満御霊、先生御霊、氷室御霊、木辻御霊、大道御霊、塚上御霊、葛下郡御霊」。
 この11柱(「天満先生」を一つとすると10柱)のうち、①「八島御霊」=崇道天皇(早良親王)、②「霊安寺御霊」=井上内親王〔光仁天皇の廃后〕、③「天満天神」=菅原道真であることは「明瞭」だ。「あとはよくわからない」。
 863年(貞観5年)の「神泉苑御霊会」では、①早良親王、②伊予親王、③藤原吉子、④藤原仲成、⑤橘逸勢、⑥文屋宮田麻呂の6人が「疫病をもたら御霊として祀られた」。
 「八所御霊」と使用する場合には、a 「吉備真備・菅原道真」が加わったり、b 「伊予・仲成に代えて」、「井上内親王・他戸親王」が入れられる、ということもある。
 「これらが修二会神名帳の御霊とほとんど重複している可能性は高い」。
  「ともあれ、修二会には御霊信仰が含みこまれていた。敗残・憤懣のなかに死んだ王族や貴族が祟りをなす、それゆえ彼ら・彼女らを祀り慰撫しようとする信仰。その起源もまた、平城京の時代にあった」。
 「亡魂」信仰の初出史料は757年の「橘奈良麻呂の変」に見られるが、729年に「謀殺」された長屋王も、「その怨霊が深く恐れられたと推定されている。いずれも皇位継承をめぐる政争、もっと具体的に言えば、聖武天皇の後継者争いにおける敗北者が、怨霊として畏怖されていることになる」。
 仏都平城京は「御霊信仰の揺籃の地」で、「聖武天皇の存在が大きく関与していた」。
 「神仏習合と御霊信仰の発生は奈良時代の天皇に関わる問題として、深く追及される必要があるだろう」。
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 いつぞやこの欄で触れ、上でも吉川著が言及しているように、今は京都市の「御池通り」の北に接する、「池」をもつ神泉苑で、863年に初回の(公式の)御霊会が開かれた。
 この神泉苑という今では明確に仏教寺院は、<祇園祭>が有名になったためか、祇園祭の「発祥」の地だと宣伝?しているようだ。
 しかし、祇園祭に最も関係のある八坂神社(祇園社)は「神道」の「神社」なのではないか、とすぐに感じる。
 とはいえ、こう簡単ではないのが「ややこしい」ところで、「祇園」という語自体が仏典上の言葉だったこととともに、祇園社はもともとは「日本の神々」を祀った社ではない。前回の所功著によると、例えば、こう叙述されている。
 所功・京都の三大祭(角川ソフィア文庫、2014/原著1996)。
 p.112-八坂神社の呼称は新しく、1868年(慶応4年=明治1年)の神仏分離令にもとづき、「八坂郷」にある「感神院祇園社」を「八坂神社」と改称すると布告されたことによる。
 p.118-「もともと薬師如来を本尊としていた『観慶寺』」が「天神(午頭天王)」を祀る「祇園社(天神堂・感神院)」と称されるようになった。
 p.119-祇園社には「仏教と神道だけでなく、陰陽道などの要素も習合していた」。
 p.123-祇園社には創立まもない935年頃から、①「薬師本尊などを安置する本堂と礼堂」、②「午頭天王などを祀る神殿と礼堂(礼拝殿)」が並存していた。等々々。
 修二会というのは(諸種の習合した)「御霊信仰」の仏教寺院への発展形かもしれないのだが、このあたりにしよう。

1945/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史01。

 「保守」と「右翼」はきちんと区別しておいた方がよい。
 むろん秋月瑛二の概念の使い方で、一般的ではないことは承知している。この問題には別に触れる。
 日本・天皇の歴史やこれに関連して日本の「宗教」、したがって、神道や仏教、そして当然ながら「神仏混淆」・「神仏習合」等々に、気ままに言及する。
 立ち入らないが、最近に何かで、天皇の「代替わり」、つまり新天皇就位の際には(おそらく明治維新以前の「仏教伝来」したある時期以降は)、<仏教式の>儀礼も仏教寺院で執り行われていた、という文章を読んだ。
 江戸時代の幕末までは、強弱はあれ、またそれぞれの役割分担があったとはいえ「神仏混淆」だったとすると、それも当然だっただろう。
 大嘗祭は「神道」式だと言われているが、神道といっても、その中には「皇室(天皇家)神道」という一種の分類も把握できるのではないか(しかも時代によって儀式内容等は一定していない)、という「しろうと」考えを持っている。
 また、そもそも新天皇就位(・皇位継承)に際して、「仏教」が全く無関係だった、ということは(明治期以降よりも長い)日本の歴史からするとあり得ないだろう。
 日本会議派諸氏が「本来は」とか言いつつ、天皇関連のことを語ったり、主張していたりしても、<本来は>という日本の歴史・伝統が明治期以降に新たに形成されたものもあるのだから、十分に注意して、騙されないようにしないといけない。
 近年の類似した典型例は、天皇は「終身在位」だとする櫻井よしこ等々の主張で、櫻井よしこはこれを明治期以降だということくらいは知っていて、「明治の元勲たち」の知恵に学ぶべきだとした。その際に、明治天皇即位後にすみやかにそうになったかのごとく理解される書き方をしていたが、実際の旧皇室典範は旧明治憲法の施行とともに策定されたのだった。
 この櫻井よしこも、江崎道朗と同様に、なぜか「聖徳太子の憲法十七条」を重視して、1868年の「五箇条の御誓文」以前で最も大切なもののごとくこの聖徳太子のものに論及している。
 他の日本会議派の者の文章にも、同種のものがある。
 これはいったい何故なのだろうと感じ、これら二人が自分で考えたり「発見」 したりした筈はないので、彼らなりの「経典」・「教典」的な指導的文献があるのだろう、と想像している。
 こんなことも、この連載?を始めようかという気になった、ごく小さなきっかけだ。
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 京都市に現在でも二条城の南にある「神泉苑」という寺院は、そこが発行している小冊子内によると、平安京創建時より「洛中」に現存している、東寺(教王護国寺)とともに数少ない二つのうちの一つらしい。
 その小冊子内の地図・図面と説明にとりあえず従うと、かつて平安京造営時は内裏の東南に「神泉苑」の大きな一画があった。これは別の本でも見て、その古さと往時の広さに驚いたことがある。
 京都の街の(中心部の)「通り」は現在でもかなりの程度、平安時代(平安京造営時以降)の道路区画あるいは道路にかかる「都市計画」の影響を残している。8-9世紀以降、今で1000年以上経っているので、このこと自体も驚くべきことではある。
 上の小冊子によると、当初の神泉苑は、東西は「大宮」通りと「壬生」通りの間、南北は「三条」通りと「二条」通りにまで及ぶ。
 これは、現在でも(!)ほぼそのまま区画としては残っている東寺(教王護国寺)と全く同じだ。現在の東寺(教王護国寺)は東西は「大宮」通りと「壬生」通りの間で、上と同じ南北は「九条」通りと「八条」通りの間で(数字でほぼ推定できるように各「条」の間で)「三条」通りと「二条」通りの間の懸隔と同じ(洛南高校や塔頭寺院を含む)。但し、北端の八条通り沿い等は宅地化されていて、往事の90パーセントくらいか。
 現在の東寺の区域(境内)を想像すると、現在の神泉苑はそれに比べて大幅に狭くなっている。
 一般の地図を見ると、まず南北は「御池」通りと「押小路」通りとの間に狭くなっている。
 かつての「三条」と「二条」の間はまず二つに分かれ、それぞれがさらに二つに分けられて、間に三つの通りがあった(名称は現在と同じではない場合があるようだ)。上の二つの旧<大路>間は三つの通りによって四つの区画に分けられていたことになる。そして、南から(現在は)「姉小路」、「御池」、「押小路」各通りなので、現在の「御池」通りと「押小路」通りとの間というのは、かつての「三条」と「二条」の間の四分の一になる。
 つぎに東西はきちんとした現在の「基幹」道路にすら沿っていなくて、東は「大宮」通りよりも西、西は「壬生」通りよりも東に、区画の境界がある。
 かつての(平安京・「都市計画」図面による)「大路」は上に触れたように、東西・南北ともに四つの区画に(三つの「小路」等によって)分けられていた。
 それぞれを「一コマ」と言うとすると、かつては、神泉苑も東寺も、東西は2コマ、南北は4コマあった。
 こういう表現の仕方を採用すると、南北は現在の東寺はほぼ4×0.9コマであるのに対して、現在の神泉苑は(「御池」通りと「押小路」通りとの間の)1コマしかない。
 東西は、現在の東寺は2コマを維持しているのに対して、現在の神泉苑は1コマ分もなく、1×0.8コマくらいだろう。
 往時は南北×東西が4×2=8だったとすると、ほぼ、現在の東寺は3.6×2コマ、現在の神泉苑は1×0.8コマになる。つまり、7.2に対して0.8しかない。
 つまりかつては東寺とほぼ同じ広さを誇った?神泉苑は現在は前者の9分の1くらいの広さしか持っていないことになる。
 これはもともと、神泉苑はきちんとした独立の寺院等(いわば宗教法人)ではなくて東寺の「預かり」地とされたこと(正確な言葉ではたぶんない。この由緒からだろう、現在の神泉苑の宗派は「東寺真言宗」だ)、北に秀吉により<聚楽第>が造営され、さらに家康がその南に<二条城>を建造したことによって(聚楽第も破棄されたが)、神泉苑の区域も相当に減じられたこと、によるのではないか、と「しろうと」は推測している。
 なお、余計なことを書くと、聚楽第の建築物の一部が竹生島神社(滋賀県・琵琶湖内)で使われて、今でも残っているらしい。実際にこの神社で見たはずだが、そのときはこの知識がなく、説明書き・掲示もまともに読まなかった)。
 さらについでに。朱雀大路(現在の「千本」通りの位置だとされる)のほかに、大路とか小路で道路の横幅が異なっていたようなので、単純に計算できないのだが、「しろうと・歴史好き」の地図の検討によると、1コマ(基幹道路間の距離)は<約135メートル>だ。京都御所の広さもこれでおおよその見当はつく。そして、間違っていると思われる御所の南北・東西の距離を記載している書物もある(御所は、東西が「寺町」と「烏丸」の間の5コマ、南北が「丸太町」と「今出川」の間のおよそ10コマのように思える)。
 さて、このように古く、かつかつてよりは狭くなった神泉苑だが、「くろうと」には著名なことであるらしいのは、ここで(日本で)初めて<御霊会>(ごりょうえ)が催された、ということだ。
 これは<怨霊>に、あるいは<怨霊信仰>に関係する。<御霊会>とは、いわば<怨霊>封じ、<祟り>封じの儀礼・儀式、あるいは宗教的?行事だからだ。
 上の小冊子によると、863年(貞観5年)。今から1150年余前という、気の遠くなるような?前の話。
 この「怨霊」関係の話題には、かつてから関心がある。
 人間は、日本人も、「理性」、「理屈」だけでは動かない。<死後の霊魂>の「存在」を感じて、行動することもある。自分がそうだ、というのではない。ヒト・人間、そして日本人の「心」、「精神」あるいは「感性」というのは面白いものだ、と想うことの一つであるからだ。第1回は、ここまで。
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