秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

神仏混淆

1980/日本会議・「右翼」と日本・天皇の歴史05④。

  日本会議の役員の長谷川三千子・からごころ(中公叢書、1986)の「まえがき」を一瞥していると、何やら息苦しくなる。
 「日本」、「日本人」、「日本的なもの」とかへの拘泥あるいは偏執が強すぎ、かつ同時にこれれらを事実や経験からではなく<観念>的に理解しようとしているからだと思われる。
 こういう一文がある。「われわれ日本人のなかには、確かに、何か必然的に我々本来のあり方を見失わせる機構、といったものがある」。p.8-9。
 日本、日本人あるいは「日本的なもの」を想定してさまざまに論じるのは否定されるべきことではないし、この欄でもそうした作業に関連することは行っているだろう。
 しかし、「我々本来のあり方」という表現・観念には違和感が湧く。
 日本、日本人、「我々」についての「本来のあり方」とは何か?
 そんなものはあるのか? その存在を想定し、前提とすることから始めると、最終的結論も中間的結論も出ない、迷妄の闇の中に入ってしまうような気がする。
 日本会議は、「本来の」が好きだ。「天皇の…に関する、本来のあり方は、……だ」といったふうに語られる。
 だが<天皇の…本来のあの方>とは何か。誰が、どうやって決定するのか。
 日本会議が主張する、または認識するそれが決定的で、<正しい>ものである保障など、どこにもない。むしろ日本会議は、<本来のあり方>と称しつつ<ウソ>をばら撒いている可能性もある。
 なお、長谷川の上の著は全体を熟読しているわけではない。念のため。
  かつて一時期、天皇家の「菩提寺」だった泉涌寺に関連して、言及しておきたいことがまだある。
 大きな一つは、明治維新後の変化、神仏分離・判然政策にかかわる。
 前回も利用させてもらっている泉涌寺作成・頒布の小冊子は、月輪陵について、こう記述している。後月輪陵も含めてよいかと思われる。
 「ここに鎮まる方々の御葬儀は泉涌寺長老が御導師をお勤め申し上げ、御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされている」。
 こここで関心を惹くのは、幕末・明治維新以降、あるいは明治新政権の<宗教政策>上、「…御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされている」という状態が許容されたのか否か、許容されたとすればなぜか、ということだ。
 鵜飼秀徳・仏教抹殺-なぜ明治維新は寺院を破壊したのか-(文春新書、2018)は全国各地の事例に言及しているが、京都(市内)については、こんなことを書いている(第8章「破壊された古都-奈良・京都」)。
 ・「多くの仏教行事」、「例えば『五山の送り火』や地蔵盆、盆踊りも軒並み、『仏教的だ』という理由で禁止になっていた。
 ・1871年10月の京都府府令によるもので、この「府令は、京都市内の各町内の路傍における地蔵や大日如来像などは無益で、怪しく、人を惑わすものであるから、早々に撤去するよう命じた」。
 ・1872年7月にはつぎのような布令が出された(前のものとともに原文が引用されているが、ここでは略。なお、「府令」・「布令」は鵜飼著のママ)。
 「夏のむし暑いさなか、地蔵盆などで地域住民が集まって飲食しては、食中毒になりかねない。送り火と称して無駄な焚き火をし、ほかの仏事もまったく科学的根拠のない迷信だから今後は一切禁止する、という内容である」。
 ・愛宕神社はかつては神仏混淆で、700年代に役行者(修験道)が開いたとされ、781年に和気清麻呂が勅命により境内に白雲寺を建立した。
 だが1868年「神仏分離令」発布により、白雲寺等は「軒並み廃寺処分」となり、愛宕山麓での「鳥居形」の送り火も中止になった。
 ・四条大橋の鉄橋化に際して、寺院内の仏具・金属製什器類が「供出」された。p.209-p.210.
 ・五条大橋欄干の金属製装飾の「擬宝珠」が、「仏教的」であるとの理由で撤去・売却された。 
 ・「石塔婆などが道路の敷設に使われたり、…石仏が踏み石にされた事例は数多い」。p.211.
 ・1871年の「第一次上知令」により、寺領等が「国に取り上げられ」、大幅に縮小した。以下、単位は坪、一部は秋月が1000未満を四捨五入。
 高台寺9万5千→1万6千、平等寺3千→2千、清水寺15万6千→1万4千、東本願寺4万7千→1万9千、大徳寺6万9千→2万4千、鞍馬寺35万7千→2万4千、知恩院6万→4万4千、など。
 のちに「仏教式」ということの関係で触れることのほか、泉涌寺について、こうある。
 ・「泉涌寺における天皇陵の墓域がすべて上知され、官有地とされた」。p.233.
 なお、泉涌寺作成・頒布の小冊子の年表には、1878年(明治10年)のこととして、「御陵、宮内省の所管となる」、と書かれている。
 陵墓地の所有権は版籍奉還とは制度的に別の「上知」により早くに「国」に移り、1878年になって「管理」もまた国に移管した、という意味だろうか。
  現在の月輪陵・後月輪陵の様相は後述するとして、神仏判然、神仏分離の基本理念からすると、事もあろうに天皇の御陵が「仏教式」で供養されたり、その陵墓の築造様式が「仏教式」であってはならない、という発想が容易に出てきたはずだろう。
 二年前は今ほどの関心と問題意識はなかったが、この点についての興味深い史料を紹介して論評する文献を、この欄で取り上げていた。2017/05/03、№1527で、その文献は、以下。
 外池昇・幕末・明治期の陵墓(吉川弘文館、1997)。
 1968年6月の明治新政権「政体書」により律令上の「神祇官」が復活して太政官のもとに置かれて天皇陵の祭祀も担当するようになり(のちに1871年に神祇省に格下げ?)、その中の「諸陵寮」が陵墓地の管理を所管するようになった。
 上の外池著によると、祭祀の施行のほかに陵墓の維持・管理も含めるかどうかという議論があったようだが、陵墓は「穢れ」でないとの前提でこれの管理も含めて神祇官が所掌するとされ、陵墓(山陵)事務については独立の官署「諸陵寮」を設置すべきとの考え方がのちに政府・神祇官内でも出てきて、翌1869年9月に神祇官の「下部」機関として「諸陵寮」が置かれた、とされる。
 以下、二年前の投稿内容をそのまま再掲しないであらためて書き直す。
 1871年(明治3年)8月-御陵御改正案写/諸陵寮。上掲書、おおむねp.330以下。
 ***
 「諸陵寮」はとくに泉涌寺周辺の多数の陵墓の存在とそこでの祭祀について注目していたようだ。
 1870年(明治3年)8月の「諸陵寮」の一文書「御陵御改正案写」はつぎのように書く(p.332-4。漢字カナ候文、直接引用も混ぜる。厳格な正確さはない可能性はある)。
 ・「御一新復古」となり、「神仏混淆不相成旨」を先般布告し、「僧侶ども還俗復飾」等を「仰せ付け」た。
 ・「御陵御祭典」が全て「神祇道」でもって行われることになり誠に「恐悦至極」だ。
 ・しかるところ(「然処」)、御陵に関係している「泉涌寺其外」が依然として「巨刹を構え」「そのままに」されているのは(其儘被差置候者)、恐れ入ることだ(「何共恐入候次第」)。
 ・「皇国に来たりしより既に二千有余年」、「禍害は四隅に蔓延」していて「もとより一朝一夕の事」ではないが、「即今の御回復」は「重大」なことで、「僧侶ども生活の道」が相立たないこともあるだろうが「千緒万端」の手を尽くしたにもかかわらず、このような「重大の事件」は「御一新」のときにあってはならない。
 ・「御盛業」の「確然」相立っており、「諸国の神社の社坊社僧」に比べると「誠に瑣々たる」ことなので「容易に御成功」できないかもしれない。
 ・しかしながらそもそも、「神世以来の御一統」の「皇室御歴代」の「御追孝の御祭典御陵の御取扱」方法は「上親王華族より下億万の庶民まで」の「模範」であるべきで、「断然と浮屠混淆」をしてはならない旨を「神社」に「普く「御布告」した。
 ・「泉涌寺等全御陵に関係の寺院」は、一山残らず「還俗」すること(「一山還俗))人選の上で「相当の職務」に就かせることをを「仰せ付け」た。
 ・「寺院境内ニ御陵」がある寺院は「僧徒」から「還俗」の出願があればよいが、そうでなければ「塔中一院」であっても「還俗」しなければならない。
 -以下つづけるが、以下の諸項が興味深い(なお、原文が項立てしているのではない)。
 ・…。しかし、「九重石御塔あるいは法華堂杯」をそのままに「御建置」したままで「御祭典」をしているのは、「浮屠混淆の一端」なので、少しずつ是正される(「順々其辺御改正」))のは「理の当然」のことだ。
 ・「御陵」とはすなわち「御霊の所在」で、これが「御是正」されるべきは「自然」だ。「寺院ニモ往年格別」の「勅諚」は「叡慮」によって下されなかったけれども、その理由は…ということであった。
 ・「万民の方向」は「御定め」られているのに「肝要の御陵の御取扱」が「浮屠混淆」であっては、「寮官」にはじつに堪えざる懸念がとくに心を苦しめる(「不堪懸念殊更苦心」)。
 ・「先」ずは「泉涌寺御改正」を「別紙」のとおり行うように「寮儀」を差し出すので、すみやかに「御評決」していただきたい。
 -この「別紙」は全文が掲載されていないが、外池著p.334は、つぎの部分を引き、「泉涌寺における神仏分離と陵墓管理の徹底について、極めて具体的かつ厳しい見通しを述べている」と注釈している・
 ・(<別紙>)「御歴代御陵祭祀神典に被為依候上は、泉涌寺をも被廃候儀当然の御儀と奉存候
 =「御歴代御陵祭祀」は「神典」によるべきところ、「泉涌寺をも」「廃」=廃止するのは「当然の御儀」だと申し上げさせていただく。 
 以上、終わり。
 ***
 これは明治政府全体の1871年の政策方針でも、神祇官の見解でもない。しかし、その直下の「諸陵寮」の見解・意見の具申文書だ。
 「九重石御塔」等が存置されたままであるのを批判し、泉涌寺の「廃止」すら提案されている。その根拠は「ご一新」であり、「神仏混淆不相成」であり、「浮屠混淆」の禁止=仏教を含む汚らわしいものとの「混淆」の禁止、だ。
  しかし、現在、泉涌寺は残存しており、御陵もその直近に残っている。
 「九重石御塔」とは<九重石塔>とか<九重石仏塔>とか呼ばれるもので、どうやら仏教様式のものらしい。
 思い出すと、奈良県桜井市の談山神社の本殿の前に立って、ここは寺院だったか神社だったかと一瞬迷ってしまった理由の一つは、石製でなく木造ではあっても13重の、<九重仏塔>のようなものがきちんと存在していたことにあったようだ(神仏混淆の名残りだと思われる)。
 <九重石仏塔>ではなく、実際に多くあると思われるのは<十三重石塔>だ。
 清水寺(京都)、泉涌寺塔頭の新善光寺、長岡京市の乙訓寺、奈良県平群町の千光寺、京都・三十三間堂東の法住寺、神戸市北区の三田に近い鏑射寺には、間違いなく<十三重石塔>があり、京都市・東山の長楽寺には、建礼門院(安徳天皇の実母)の供養塔として、かなり古びた小ぶりの<十三重石塔>がある。但し、これらは御陵または陵墓とは直接の関係がないと見られる。つまり、墓碑の直近に立っているわけではないようだ。なお、建礼門院徳子は天皇ではないものの、その御陵はあって宮内庁が管理している。その位置からして、少なくともかつての「菩提寺」は京都・大原の寂光院だったと見られる。
 もっとも、(五重石塔もあるようなのだが)、これら<九重石塔>や<十三重石塔>の意味、9や13という数字の意味はよく分からない。関心をもって情報を探しているが、簡便な方法によっては手がかりが得られない。ひょっとすると、きちんと説明することのできる仏僧たちすら少ないのではないか、とすら感じている。
 四での前置きが長くなったが、上の1871年諸陵寮改正案が批判・攻撃の対象にしていた「九重石御塔」は、現在でもそのまま残っていると見られる。
 この一年以内に、ネット上で近年または最近の月輪陵(+後月輪陵)を撮影している写真を見つけた。一般人も撮影地点まで入れるかと思ってその後に(そのためだけでもないが)陵の告知板辺りから右上方につづく「道」を入りかけると、そこは立入禁止になっていた。ネット上の写真は特別の資格があるか特別の許可を得た人が掲載しているのだろう(あるいは禁を破った人か)。
 先日にこの陵を西北方向から撮った映像を数秒間流していたテレビ局があった。相当に珍しいフィルムなのではないかと思われる。
 これで泉涌寺関連が終わるのではない。
 各御陵の「向き」(泉涌寺自体の「向き」とほとんど同じ)や孝徳天皇(・英照皇太后)陵の、他陵との違いについて、さらに言及する。
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 以下、ネット上より。月輪陵。後月輪東山陵は写っていない。

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1859/井沢元彦・逆説の日本史23-廃仏毀釈。

 井沢元彦・逆説の日本史23/琉球処分と廃仏毀釈の謎(小学館、2017)。
 上の本の、とくにp.251以下。
 ***
 日本本土で先の大戦中に空襲を受けて被災した都市では、原子爆弾を投下された広島・長崎ではもちろん、その被災区域にあった神社・寺院はおそらく全てまたはほとんどが、火災・燃焼等によって破壊されたのではないかと思われる。もちろん、住職や神職者が存在しないような小さな祠や地蔵仏も同様だ。
 かつて福山市内の芦田川の堤防上の道を歩いていて、右岸(上流から見て左か右を分ける)のすぐ下に「地神」と大きく彫った石柱がたぶん三つほどほぼ同間隔で連続して並んで立っているのに気づいた。
 「地神」というのは珍しいと思ったのだが、神道系で、かつ戦災にも遭うことなく、かつてのまま立って残っていたのだろう。
 神社や仏閣あるいは上に触れたような小さな鳥居と祠・地蔵仏などで現在に残っていないのは戦争による被害がほとんどで、再建されたのは戦後だろうと考えてきた。もう70年以上経つので、戦前からのものか戦後の再建なのかは(しろうとには)不分明になっているものもあるに違いない。
 ところが、上の井沢元彦の本を読んで、明治期当初の「廃仏毀釈」による仏教寺院の破壊や消滅も相当にあることを(そういえばという感じで)想起することができた。
 井沢によると、いわゆる「廃仏毀釈」による影響は、つぎのとおりだ。
 ①鹿児島県には、国宝等クラスの寺院・仏像が残っていない。p.273。
 ②薩摩藩島津家の菩提寺だった「福昌寺」は「今は跡形も無い」。p.273-4。
 ③安徳天皇を葬って祀った下関阿弥陀寺は廃寺となり、新たに赤間神宮が建立された。p.272。
 ④奈良県天理市にあった「内山永久寺」は比叡山延暦寺・東叡山寛永寺とともに元号を名とする大寺院だったし、近くの石上神宮の神宮寺でもあったが、「今は跡形も無い」。「現在は本体の破片すら残っていない。徹底的に破壊されたに違いない」。幸いというべきか、現在の石上神宮の摂社の一つ建物は、かつてこの永久寺の鎮守社(寺院境内の神社)のものだった。p.277-8。
 ⑤現在の奈良公園のほとんどは興福寺の境内だった。(井沢は明記していないが、いわゆる明治維新期当初に新政府が「接収」または補償金のない「収用・収奪」をして奈良県庁・裁判所・師範学校等にしたものと見える。最近に再興・再建された「中金堂」の区画は、かつては県庁舎の一部の敷地だったようだ。西国観音札所の納経は「南円堂」)。p.279以下。
 他にもあるが、割愛する。
 (上の③については、この欄で櫻井よしこの「無知」を指摘する中で触れたことがある。②に対して、萩藩の毛利氏の菩提寺二つは現在もきちんと残っている。)
 井沢はまた、この政策の背景にある新政府の<宗教政策>およびその前提としての各「宗教」の内容や実態についても説き及んでいるが、逐一の紹介は避ける。
 ともあれ、考えさせられるのは、明治維新(あるいは一般的には「政治変革」)による宗教政策の変化とそれによる「現実の宗教施設・宗教運動」への影響の大きさ、というものだ。
 神道・神社と仏教・寺院および神道政治連盟(<日本会議)と全日本仏教会の違いというのも(後者は首相靖国公式参拝に組織として反対している)、少なくとも明治維新とその「廃仏毀釈」政策にまで遡らないと、理解することが困難であることも判明してくる。
 追記すれば、井沢元彦は、のちに「明治維新」の主役となった者たちの宗教は<神道+朱子学>であって、<神仏混淆>を否定して神道の純粋性を守るために仏教と切り離すことを意図した、とする(正確な引用ではない)。
 池田信夫によると福沢諭吉は「儒学」を捨てて「洋学」に向かった、というのだが、福沢諭吉は「明治維新の元勲たち」ではなく、明治維新より後の時代での彼に関する叙述だから、少なくとも明らかに矛盾しているとはいえないようだ。
 
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