秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

社会民主主義

1449/幻滅の社会民主主義②-R・パイプス著9章4節。

前回のつづき。
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 流刑の期間が終わろうとする頃、レーニンは郷里から穏やかならざるニュースを受け取った。収監中に成功を続けていた運動が危機の苦衷にあり、それは1870年代の革命家たちが経験したものに似ている、という。
 労働者が政治化することをレーニンが期待した煽動戦術は、大きな変化を遂げていた。労働者の政治意識を刺激する手段として役立つことが意図された経済的不安は、終わり始めていた。 
 労働者は、政治に関与することなく経済的利益のために闘争した。そして、『煽動」に従事した知識人は、自分たちが労働組合運動の始まりの添え物になっていることに気づいた。
 レーニンは1899年夏に、エカテリーナ・クスコワが書いた『クリード(Credo、信条)』と呼ばれる文書を受け取った。それは、社会主義者に対して、専制体制に対する闘争をやめてブルジョアジーに向かい、ロシア労働者が代わりにその経済的、社会的条件を改良するのを助けることを要求していた。
 クスコワは十分な経験がある社会民主主義者ではなかったが、彼女の小論は社会民主主義者の中に現れた傾向を反映していた。
 この新しい異説に、レーニンは経済主義というラベルを貼った。
 社会主義者の運動を、その性質からして『資本主義』に順応することを追求する労働組合の小間使いにしてしまうことほど、レーニンの気持ちから離れたものはなかった。
 ロシアから届いたその情報は、労働者運動が社会民主主義知識人から独立して成熟し、政治闘争-すなわち革命-から遠ざかっていることを示していた。//
 レーニンの不安は、運動上にまた別の異説、修正主義、が登場したことによって増大した。
 1899年早くに、エドゥアルト・ベルンシュタインに従う何人かのロシア社会民主主義の指導者たちは、近年の論拠に照らしたマルクスの社会理論の修正を要求した。
 ストルーヴェはその年に、一貫性の欠如を指摘する、マルクスの社会理論の分析書を発行した。マルクス自身の前提は、社会主義は革命(revolution)ではなく進化(evolution)の結果としてのみ実現される、ということを示唆するのだ。(49)
 ストルーヴェはそのうえで、マルクスの経済的かつ社会的原理の中心観念である価値理論の体系的批判へと進んだ。そして、『価値』とは科学的な観念ではなく形而上のそれだという結論に至った。(50)
 修正主義は経済主義ほどにはレーニンを困惑させなかった。というのは、修正主義には同じ実践上の影響力はなかったので。しかし、何かがひどく悪くなっているという恐怖が高まった。    
 クルプスカヤによると、レーニンは1899年の夏に、取り乱すようになり、痩せて、不眠症に罹った。
 彼は今や、ロシア社会民主主義の危機の原因を分析し、それを克服する手段を考案することにエネルギーを傾注した。//
 レーニンの直接の実践的な解決方法は、正統派マルクス主義に忠実なままの仲間たちとともに、運動上の逸脱、とくに経済主義と闘うために、ドイツの<社会民主主義者>を模範にした出版物を刊行することだった。  
 これが、<イスクラ>の起源だった。
 レーニンの思考はしかし、さらに深くなって、社会民主主義を人民の意思を範型とする結束した陰謀家エリートとして再組織すべきではないのかどうかを考え始めた。(51)
 このように思考するのは精神の危機の始まりだった。それは、1年あとで、彼自身の党を結成するという決断によって解消されることになる。//
 1900年早くに流刑から解き放たれた後のペテルスブルクでの短い期間、レーニンは、名義上はまだ社会民主主義者だがリベラルな見地へと移っていたストルーヴェをはじめとする同僚と、交渉して過ごした。
 ストルーヴェは、<イスクラ>と協力し、その財政のかなりの部分を支援することとされた。その年の遅く、レーニンはミュンヒェンに移り、そこで、ポトレゾフやユリウス・マルトフと一緒に、『正統な』-つまり、反経済主義かつ反修正主義の-マルクス主義の機関として<イスクラ>を設立した。//
 ロシア内外の労働者の行動を観察すればするほど、マルクス主義の根本的な前提とは全く違って、労働者(『プロレタリアート』)は決して革命的階級ではない、という結論がますます抑えられなくなった。労働者は放っておかれれば、資本主義を放逐することよりも資本主義者の利益の分け前をより多く取ることを選ぶだろう。
 ズバトフが警察組合主義 (*)という考えをまさにこの時に抱いたのは、同じ理由からだった。
 1900年に発表した影響力ある論文で、レーニンは考え難いことを主張した。『社会民主主義から離れた労働者運動は、…不可避的にブルジョア的になる。』 (52)
 この驚くべき論述が意味するのは、社会主義政党によって労働者の外からそして労働者とは独自に指導されないかぎり、労働者はその階級の利益を裏切るだろう、ということだ。
 非・労働者-つまり、知識人-だけが、この利益が何であるかを知っている。
 政治的エリートの理論が当時に流行していたモスカとパレートのように考えて、レーニンは、プロレタリアートは自分たち自身のために、選ばれた少数者に指導されなければならない、と主張した。// 
 『歴史上のいかなる階級も、政治的指導者、運動を組織して指導する能力のある指導的代表者…を持たないかぎりは、決して勝利しなかった。
 自由な夕方だけではなく、生活の全てを革命に捧げる人間を用意することが必要だ。』(+)
 労働者は生活の糧を稼がなければならないので、『彼らの生活の全て』を革命運動に捧げることができない。これは、労働者の教条のための指導権は社会主義知識人の肩で担われる、というレーニンの考え方から生じたものであることを意味する。 
 この考え方は、民主主義原理そのものを弱体化させる。人々の意思は生きている人々が欲するものではなく、上級者によって明確にされる彼らの『真の』利益がそれだとされることになる。//
 労働者の問題に関する社会民主主義から逸脱したので、レーニンがそれとの関係を断ってブルジョアジーの問題へと向かうのに、大した努力は必要なかった。 
 活発で独立したリベラルの運動が出現し、すみやかに自由化同盟(the Union of Liberation)へと統合していくのを見て、レーニンは、『ブルジョアジー』との同盟に対する『主導権』を行使するには影響力が貧相で少ない社会主義者の能力に、信頼を置かなくなった。 
 1900年12月に、<イスクラ>とのリベラルの協力関係の条件について、彼はストルーヴェと怒りに満ちた話し合いを行った。 
 レーニンは、リベラルたちが専制体制に対抗する闘争での社会主義者の指導性を承認するのを期待するのは無駄だと結論づけた。彼らリベラルたちは、自分たちのために、自分たちの非革命的目的のために、革命家を利用して闘うだろう。(53)
 『リベラル・ブルジョアジー』は君主制に対する虚偽の闘争を遂行しており、そして、だからこそ、『反革命』階級だ。(54)
 ブルジョアジーの進歩的役割を否認することによってレーニンは、以前の人民の意思の見地へと先祖返りすることを示し、社会民主主義と完全に絶縁した。//
  (*) 第1章を参照。
  (+) 10年後に、レーニンよりも10歳若い、指導的なイタリア社会主義者であったベニート・ムッソリーニは、これと無関係に、同じ結論に到達した。1912年にムッソリーニはつぎのように書いた。『組織されただけの労働者は利益の誘惑にのみ従うプチ・ブルジョアになった。いかなる理想への訴えも聴かれなかった。』 B. Mussolini, Opera omnia, Ⅳ, (1952), p.156。別の箇所でムッソリーニは、労働者は生まれながらに『平和的』だと語った。A. Rossi, イタリア・ファシズムの成立, 1918-1922 (1938), p.134。
  (53) この交渉の背景については私のつぎの著で叙述した。R. Pipes, Struve: Liberal on the Left, p.260-70。
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第5節につづく。

1447/幻滅の社会民主主義①-R・パイプス著9章4節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第4節・レーニンの社会民主主義への失望

 1893年秋にレーニンが表向きは専門法曹の仕事に就くべくペテルスブルクに移ったとき、実際は過激派サークルと接触して、革命家としての経歴を歩み始めた。(42)
 到着した彼と連絡をとった社会民主主義者には、レーニンは『赤すぎる』ように思えた-つまり、まだ人民の意思の信奉者でありすぎた。
 レーニンはすぐに自分の知り合い仲間を広げ、有名な社会民主主義知識人のグループに加入した。その指導的精神をもつ者は、23歳のペーター・ストルーヴェだった。-この人物は、レーニンに似て高級官僚の子息だったが、レーニンとは違って、西欧にいた国際人で、きわめて幅広い知識を習得していた。
 この二人は、頻繁に議論をした。
 二人の不一致は主として、レーニンの資本主義に関する単純な観念と、レーニンの『ブルジョアジー』への態度だった。
 ストルーヴェはレーニンに、一度自分の目で西欧を見れば納得するだろうように、ロシアは西欧タイプの資本主義経済を獲得しなかったので、資本主義的発展への途の最初の一歩をほとんど進んでいない、と説明した。
 また、社会民主主義は、産業労働者に励まされた中産階級が出版の自由や政党結成権のような公民的自由を生み出す場合にのみ、ロシアで花咲くことができる、とも説明した。
 レーニンは、納得しないままだった。//
 1895年の夏に国外に出て、レーニンはプレハーノフや他の社会民主主義運動の老練活動家に逢った。
 『ブルジョアジー』を拒絶するのは大きな誤りだと、彼は言われた。プレハーノフが語るには、『われわれはリべラルたちに顔を向けなければならない、しかるに君は、背を向けている』。(43)
 アクセルロッドは、『リベラル・ブルジョアジー』とのいかなる共同行動でも、社会民主主義者は支配を失なうことはない、なぜなら、自身の利益に最も寄与する方向での暫定的な同盟を指導しかつ操作することによって、共同闘争の『主導権(ヘゲモニー)』を維持し続けるだろうから、と強く言った。//
 プレハーノフを尊敬するレーニンは、影響を受けた。
 どの程度深く彼が納得したのかを、決定的に述べることはできない。しかし、つぎのことは明白な事実だ。すなわち、1895年秋にペテルスブルクに戻って正統な社会民主主義者としてデビューし、『リベラル・ブルジョアジー』と同じ先頭に立って専制体制に対抗する闘争へと労働者を組織したのだ。 
 この変化は驚くべきことだった。レーニンは1894年夏には、社会主義と民主主義は両立しえない、と書いた。今や、この二つは不可分だ、と主張する。(44)
 彼の目に映るロシアは、決して資本主義国ではなく、半封建的な国家だった。そして、プロレタリアートの主たる敵は、専制体制と同盟するブルジョアジーではなく、専制体制それ自体なのだった。
 ブルジョアジーは-ともかくもその進歩的要素は-、労働者階級の同盟者だった。//
 『社会民主党は、…専制的政府に対抗する闘争を行う全てのブルジョアジー層を支持することを宣言する。
 民主主義者の闘争は社会主義者のそれと不可分であり、完全な自由とロシアの政治的かつ社会的体制の民主化の獲得なくして、労働者の根本教条のための闘争に勝利することは不可能である。』(45)
 レーニンは今や、陰謀とクー・デタを、実践不可能なものとして拒否した。 
 しかしながら、『リベラル・ブルジョアジー』の役割に関する彼の心境の変化は、アクセルロッドによれば、つぎの前提と固く結びついている、ということに留意することが重要だ。すなわち、革命的社会主義者は、専制体制に対する組織的運動を指導し、ブルジョアジーはそれに従う、という前提だ。//
 帰国したあとレーニンは、首都で危なかしい団体を率いている労働者サークルとの不確定な接触を保った。 
 彼はマルクス主義理論の個人的指導をいくらか担当したが、教育活動に熱心にはなれず、<資本論>の初歩を教えていた労働者が彼の外套を盗んで歩き去ったあとで、それを止めた。(46)
 レーニンは、活動へと労働者を組織することを選んだ。
 その当時、ペテルスブルクでは社会民主主義知識人のサークルが、個々の労働者および労働者たち自身が相互支援と自己研修を目的として作った中央労働者団体と接触して活動していた。
 レーニンはその社会民主主義サークルに加入した。しかし、リトアニアのユダヤ人によって定式化された『煽動』戦術が1895年遅くに採用されたときになって、その団体の仕事に従事しはじめた。
 『煽動』戦術は、労働者の政治への嫌悪感を克服するために、経済的な(つまり非政治的な)不満をもとにして産業ストライキを行おうと呼びかけた。 
  いかに政府と秩序維持の力が、汚染した企業経営者に味方しているかをひとたび知れば、労働者は政治体制の変革なくして自らの経済的不満を満足させることはできないと悟るだろう、と考えられた。
 これを悟れば、労働者は政治化するだろう、と。 
 マルトフから『煽動』戦術を学んだレーニンは、ペテルスブルクの労働者たちに文書を配布する仕事に加わった。その文書資料は、法のもとでの労働者の諸権利を説明し、その諸権利がいかに使用者によって侵害されているかを示すものだった。
 その成果は微々たるもので、労働者への影響力は疑わしかった。しかし、1896年5月に3万人の首都の労働者が自発的にストライキを実施したのは、社会民主主義者たちには大きな歓びだった。//
 そのときまでレーニンとその仲間は、1895-96年の冬にストライキを誘発したとして収監されていた。
 にもかかわらずレーニンは、『煽動』戦術の正しさが立証されたと思った。そして、織物ストライキのあとで彼はこう書いた。『工場所有者に対する日常生活の必要のための労働者の闘争』は、『<それ自体で不可避的に>労働者に<国家と政治の問題>を連想させる。』(47)。
 レーニンは党の任務を、つぎのように定義した。//
 『ロシア社会民主党は、その任務が、労働者階級の意識を高め、その組織を支援し、闘争の真の到達点を示すことによって、ロシア労働者の闘争を助けることにある、と宣言する…。
 党の任務は、労働者のための当世風の方法を脳内に捏造することにではなく、労働者運動に<加入>すること、労働者を啓蒙すること、そして<すでに開始されている>闘争において労働者を<助ける>ことにある。』(48) //
 逮捕されたあとの審問中に、レーニンは、警察が間違ってP・K・ザポロヘツという名の仲間のものだとした原稿が自ら書いたものであることを否認した。 
 その結果としてザポロヘツは、追加して2年間の収監と流刑の罰を負うことになった。
 レーニンはシベリアでの3年間の流刑(1897-1900年)を比較的に快適に過ごし、同志たちと継続的に連絡し合ってもいた。
 彼は読書し、文章を書き、翻訳し、熱心に身体運動も行った。(*) //
  (*) シベリアに同行していたレーニンの内縁の妻、ナデジダ・クルプスカヤのために、彼女と正式に婚姻しなければならなかった。ロシア政府がこの結婚を承認しなかったので、婚礼が教会で催された(1898年7月10日)。Robert H. McNeal, 革命の花嫁: レーニンとクルプスカヤ (1972) p.65。レーニンもその妻も、彼らが書いたものの中でこの当惑した出来事に言及していない。
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 ②につづく。

1441/レーニンと社会民主主義②-R・パイプス著9章2節。

 前回のつづき。< >は原著のイタリック体の部分。これまでも同じ。
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 レーニンは、ゆっくりとこの変化を進んだ。その理由の一つは、地方に住んでいたので社会民主主義の文献を入手できなかったこと、もう一つは、社会民主主義の親資本主義、親ブルジョアジー観が、ストルーヴが『重要な<気質>』と書いたものまたは彼の心性の態度と衝突することだ。
 レーニンは1892-93年にプレハーノフを読んで、人民の意思のイデオロギーと社会民主主義のそれとの間の中間地点に到達したとみられる。これは、彼の兄が5年前に到達していた地点と似ていないこともない。
 レーニンは『分離した途』という考えを放棄し、誰もが見ている現実を承認した。ロシアは、彼が1889年に読んだ<資本論>で描かれた途を歩むように運命づけられている。
 しかし彼は、革命を準備する前に不確定の期間、『ブルジョアジー』が国を覆う主人である資本主義の段階をロシアが甘受しなければならないことを認めたくなかった。// 
 この問題に関するレーニンの解決は、ロシアはすでに資本主義国だ、ということだった
 ロシア経済を研究する他のどの学生も支持したとは知られていないこの奇矯な見解は、農業の統計データの独特な解釈に依拠していた。 
 レーニンは、ロシアの農村は『階級分化』の苦悶のうちにある、少数派の農民は『プチ・ブルジョアジー』へと変質し、多数派は土地のない農村プロレタリアートへと変化している、と考えた。
 エンゲルスがドイツの農民に関して行ったものに由来するこのような計算は、ロシアの諸事実とはほとんど関係がなかった。しかし、レーニンにとってそれは、資本主義が十分に成熟するまでロシアは革命を永遠に延期する必要はない、という主張を擁護するために役立った。
 ロシアのいくつかの地方の農村人口の十分に20パーセントは『ブルジョアジー』と性質づけられると論じて、また当時に進行中の産業ブームにも言及して、レーニンは1893-94年に、つぎのように大胆に宣言できると考えた。すなわち、『現時点において、資本主義はすでにロシアの経済生活の根本的な基盤を構成しており』、『われわれの秩序は本質的には西側ヨーロッパと異ならない』。(16) // 
 人口の五分の四が農民で成り立っており、その多くは自己充足的な、小規模の農民である国家を『資本主義国』だと宣言することによって、レーニンは、革命の期は熟していると強く主張することができた。
 さらに、『ブルジョアジー』はすでに権力を握っているので、彼らは同盟者を代表せず、階級敵だった。
 レーニンは1894年夏に、その政治哲学を要約するつぎの文章を書いた。短い中間期(1895-1900)を除いて、彼の残りの人生はこの内容に忠実なままだっただろう。
 『すべての民主主義的構成分子を指導するロシアの<労働者>は、(世界のプロレタリアートとともに)栄光ある共産主義革命に向かう公然たる闘争という直接の途を通じて、絶対制を廃し、<ロシアのプロレタリアート>を指導するだろう。』(17)
 語彙はマルクス主義的だが、この文章に横たわる感性は、人民の意思のものだ。実際、かなりのちにカール・ラデックに打ち明けようとしたように、レーニンはマルクスを人民の意思と調和させようと試みた。(18) 
 人民の意思が革命の前衛の役割を与えるロシア労働者は、専制体制に対して『直接の』攻撃を開始し、それを没落させ、そしてその廃墟の上に共産主義社会を打ち立てるべきだとされた。
 旧体制の経済的かつ政治的基盤を破壊するに際しての、資本主義やブルジョアジーの役割については、何も語られていない。 
 これは時代錯誤的なイデオロギーだ。というのは、このようにレーニンが定式化したとき、ロシアには急速に増大する社会民主主義運動があり、それはマルクスの理論を旧式で適用することを拒んだのだ。//
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第3節につづく。

1440/レーニンと社会民主主義①-R・パイプス著9章2節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第2節・レーニンと社会民主主義 〔p.345-p.348〕
 1920代に定式化されたレーニンの公式の<経歴>(vita)は、その本質的特徴において、キリストの一生をモデルにしている。
 キリスト学のように、変わらずまた変わりえないものとして、その宿命は生誕の日にあらかじめ決定されていたものとして、主人公を叙述している。
 レーニンの公式の伝記作者は、レーニンがその考えを一度でも変えたということを認めることを拒否する。 
 レーニンは政治に関与するようになった瞬間から、確固たる正統派マルキスト(マルクス主義者)だったとされる。
 このような主張は誤っていることは、容易に示すことができる。//
 まず、『マルクス主義者』という語は、レーニンが若いときには一義ではなく、少なくとも二つの異なる意味をもった。
 古典的マルクス主義原理は、成熟した資本主義経済の諸国家に適用された。 
 マルクスは、このような国のために、発展の科学的理論、つまり崩壊と革命という不可避的な結末、を提供すると称した。
 この原理は、それが科学的客観性をもつとされたこと、およびその予見の不可避性の二つの理由で、ロシアの過激な知識人に対して莫大な訴える力をもった。
 マルクスは、ロシアの社会民主主義運動が始まる前に、広く知られていた。すなわち、1880年にマルクスは、『資本論』は他のどの国でよりもロシアで多くの読者と崇拝者を獲得した、と誇ったほどだ。(10)
 しかし、ロシアは当時ほとんど資本主義が進展していなかったので、言葉を緩やかに定義することにはなるが、ロシアの初期のマルクス支持者は、マルクスの理論をロシアの地域的状況に適合するように再解釈した。  
 彼らは1870年代に、『分離した途』という原理を定式化した。それによると、ロシアは、農村共同体を基盤とする社会主義の独自の形態を発展させ、資本主義の段階を回避して、社会主義へと直接に飛躍するだろう、ということになる。(11)
 レーニンの兄は人民の意思組織の綱領にあるこの種のイデオロギーを採用したが、それは1880年代のロシアの過激派サークルではふつうのことだった。//
 レーニンが成長した知的な環境がもつ知識は、彼がイデオロギーを進展させるのに役立った。   
 マルクス主義の変種はロシアでまだ知られていなかったので、レーニンは1887-91年には、社会民主主義という意味でのマルクス主義者ではなかったし、またそうであるはずはなかった。
 実証的文書は、レーニンは1887年からおよそ1891年までの間、人民の意思の典型的な支持者だったことを示唆している。
 レーニンは、最初はカザンで、そしてサマラで、この組織の構成員と親密な交際をしていたと述べた。 
 彼は積極的に、その多くが刑務所や流刑から解放されたのちにヴォルガ地域に住みついた、人民の意思の老練活動家を探し出して、その運動の歴史ととくにその組織実務を学んだ。
 この知識を、レーニンは深く吸収した。ロシア社会民主党の指導者の一人になった後ですら、彼は、厳しく訓練された、策略を好みかつ職業的な革命党への信頼、および資本主義という長い中間段階を主張する綱領に対する苛立ちのために、同志たちから離れることがあった。 
 人民の意思(Narodnaia Volia)のように、レーニンは資本主義と『ブルジョアジー』を侮蔑した。それらに彼は、社会主義の同盟者ではなく、公然たる敵を見ていたのだ。
 注目する価値があるが、1880年代の遅くにレーニンは、『ドイツ』の-つまり社会民主主義の-精神でのマルクスとエンゲルスに接近し始めていた地域のグループ活動に加わらなかった。(12) //
 1890年6月にようやく、当局はレーニンが形式上の学生として法曹試験を受けることを許した。
 彼は1891年11月にそれに合格したが、法曹実務には就かず、経済文献の研究、とくに Zemstva が刊行した農業の統計調査のそれに没頭した。 
 レーニンの妹のアンナの語るところによれば、彼の目的は『ロシアにおける社会民主主義の実現可能性』を決定することだった。(13)//
 ときは、熟していた。
 ドイツでは、1890年に合法化された社会民主党が、選挙で驚くべき成功を収めていた。
 ドイツ社会民主党の優れた組織と労働者への政策主張を広汎なリベラル綱領に結びつける能力によって、いずれの連続する選挙でもより多くの議席数を獲得してきていた。
 ヨーロッパの最大の産業国家で暴力によってではなく民主主義手続を通じて社会主義が勝利することができることが、突如として想定できるように見えはじめた。
 エンゲルスはこのような展開に感動して、死ぬ少し前の1895年に、彼とマルクスが1948年に予言した革命的変革は決して起こらないかもしれない、だが社会主義はバリケードによってではなく投票箱でうまく勝利することができる、と認めた。(14)
 ドイツ社会民主党の例は、ロシアの社会主義者たちに強い影響力をもち、『分離した途』や革命的クー・デターという昔の理論は不評を招いた。// 
 このような考えの広がりと同時期に、ロシアは1890-1900年の10年間に産業労働者の数が二倍になり、経済成長率が他諸国よりも上回るという、劇的な産業発展の大波を体験していた。 
 示唆されたのはしたがって、ロシアはマルクスもありうると想定していた資本主義を回避して進む機会を見失い、西側の経験を繰り返す運命にある、ということだった。//
 このように雰囲気が変化し、社会民主主義の理論はロシアで支持者を獲得した。 
 ジュネーヴでゲオルク・プレハーノフやパウル・アクセルロッドが、ペテルスブルクでペーター・ストルーヴェが定式化したように、ロシアは二つの段階を経て社会主義に到達すべきだった。
 最初に、十分に成長した資本主義を通過しなければならない、それはプロレタリアートの地位を拡大し、かつ同時に、そのもとでドイツ人のようにロシアの社会主義者たちが政治的影響力を獲得できる、議会制度を含めた『ブルジョア的』自由という利益をもたらすだろう。 
 『ブルジョアジー』がひとたび専政政治とその『封建的』経済基盤を拭い去ってしまえば、段階はつぎの歴史発展の局面、社会主義への前進、へとセットされるだろう。
 1890年代の半ばには、このような考え方は多くの知識人(intelligentsia)の想像力を捉え、『分離した途』という昔のイデオロギーはほとんど見られなくなった。この旧式の考えのために、今やストルーヴェは『人民主義(Populism)』という新しい軽蔑語を使った。(15)//   
  (11) この主題は私の<ストルーヴェ>で長く扱われている。R. Pipes, Struve: Liberal on the Left, 1870-1905 (1970), p.28-51.
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 ②につづく。

1438/レーニンの青少年期①-R・パイプス著9章1節。

 Richard Pipes, The Russian Revolution (1990) の邦訳書は、刊行されていない。このことを意識して、(おそらく間違いなく一部の)邦訳を試みる。英語や英文読解の専門家ではなく、ロシア革命・ロシア史・ソ連史の専門家でもないので不正確又は不適切な訳があるのは当然だろうが、とりあえずはスピードも配慮する。
 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源、の第1節の最初から。
 読みやすさを考えて、原則としてすべての一文ごとに改行する。原書での改行(一段落の終わり)は、以下では、「//」を記すことにする。
 注の記号又は番号も付す。但し、注記の内容は、ロシア語文献等の場合は訳出しないこととする。
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第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第1節・レーニンの青少年期 〔p.341-p.345。〕
 レーニンは、ロシア革命とそれに続く体制にとって計り知れない重要な役割を果たした。こう論評するにあたって、歴史は『偉人』によって作られる、と考える必要はない。
 この重要性とは、権力が事態の推移に決定的な影響力をもつことを彼に許したということのみならず、1917年10月に彼が設定した体制は、いわばレーニンの個性を組織化したものだった、ということでもある。
 ボルシェヴィキ党はレーニンの創造物だった。すなわち、彼は創立者として、自分の心象に抱いたものを生み、内外からの反対者をすべて打倒することにより、彼が描いた路線上にこの党を維持し続けた。
 1917年10月に権力奪取した同じ党が、すみやかに対抗政党と組織を排除し、ロシアの政治権力の排他的な源泉になった。 
 ゆえに、共産主義ロシアは、最初から異様な程度にまで、一人の人物の精神と心理を反映したものだった。レーニンの伝記とロシアの歴史は、独特なかたちで融合しあっている。//
 歴史的な人間像についてこれほど多くのことが書かれている者はほとんどいないが、レーニンに関する真実の情報は散在している。
 レーニンは自分を自らの教条(cause)と区別することを好まなかったし、また、その教条から離れた存在だと認めようとすらしなかったので、自叙伝的な記録をほとんど何も残していない。彼の人生は、そう思い抱いたごとく、党の生命と同じなのだった。 
 自分自身の目や仲間の目からしても、レーニンだけが、唯一の公的な人格をもっていた。
 彼にある個人的特性は、共産主義者の文献では、偉人伝に共通する美徳になっている。すなわち、教条への自己犠牲的な献身、謙虚さ、自己規律、寛容さ。// 
 レーニンの成長期については、ほとんど知られていない。
 レーニンの最初の23年間について書かれたものには、ほんの20の事項があるにすぎない。そのうちのほとんどは、請願書、証明書、その他の公的な文書だ。(1)
 若きインテリに期待するかもしれない、手紙も、日記も、あるいは随筆類もない。
 このような資料は実存していないか、または、ありそうなことだが、ソヴェトの資料庫(archives)に秘密にして隠されている。それを開放すれば、公的な文献で描かれたのとはきわめて異なる青年レーニンの本性が明らかになるだろう。(*)
 伝記作者は、どの出来事についても、レーニンの知的かつ心理的な成長を再現しようとはほとんどしていない。いかなる政治的な関与も、狂信的な革命家への興味もすらないままで大きくなった、ふつうの青少年の成長の期間(およそ1887-93年)についてだ。
 われわれが持つ証拠資料は、ほとんどが雰囲気や状況に関するものだ。その多くは、否定的な知識-つまり、ひょっとすればレーニンが失敗したこと-に依拠している。
 若きレーニンを再現するためには、長年の組織的カルト生活によって彼の像に堆積した上塗りの層を、注意深く剥がしていく努力が必要だ。(+)//
 レーニンは、ウラジミール・イリィチ・ユリアノフとして、1870年4月にジンビルスクで、伝統的な、そして不自由のない裕福な官僚の家族の中に生まれてきた。
 学校監理官の父親は、1886年に死ぬまでに、将軍や世襲貴族と同等の地位のある国家評議会員の身分を獲得していた。
 父親は、アレクサンダー二世の改革に共感し、教育こそがロシアの進歩のための鍵だと考える、保守・リベラルの人物だった。
 彼はきわめて懸命に働き、監理官としての16年の間に数百の学校を設置したと言われている。 
 ブランクというレーニンの母親は、ドイツ人に祖をもつ医師の娘だった。彼女の写真を見ると、まるでウィスラーの肖像画から踏み出てきたかのように感じる。
 信心深く正教派教会の儀礼と休日とを遵守する、幸福なかつ緊密な家族だった。//
 1887年に、悲劇が家族を襲った。レーニンの兄、アレクサンダーが、友人たちと組んでツァーリ〔皇帝〕を暗殺すべくペテルスブルクで爆弾を運んでいたという咎で逮捕された。
 熱心な科学者のアレクサンダーは、ペテルスブルク大学で3年を終えるまでは、政治に対して何の関心も示さなかった。
 彼は大学で、プレハーノフやマルクスの書物に慣れ親しみ、そして人民の意思(People's Will = Narodnaia Volia)の綱領に一定の社会民主主義の要素を接ぎ木することを主張する、折衷派的政治イデオロギーを選択した。
 産業労働者に革命における主要な役割を与えることを認め、政治テロルは手段であり、社会主義への直接的移行が目的であると彼は考えていた。
 マルクス主義と人民の意思のこの特徴的な混合物は、レーニンが数年後に自ら発展させる綱領を予期させるものだった。
 アレクサンダー・ユリアノフは1887年3月1日、アレクサンダー二世暗殺の第6回記念日に逮捕され、公開の裁判にかけられ、仲間の陰謀者たちとともに処刑された。
 彼は、その間ずっと、模範的な威厳を保つ振る舞いをした。//
 父親の死後まもなくのちに行われたアレクサンダーの処刑は、彼の革命活動について何も知らなかった家族に強い影響を与えた。
 しかし、ウラジミールの行動を何らかのかたちで変えた、といういかなる証拠資料もない。
 レーニンの妹、マリアはだいぶのちに、レーニンは兄の運命を知って『いや、われわれはそう進まない。われわれはそう進んではならない』と叫んだと主張した。(2) 
 こう強く述べたときマリア・ユリアノフは当時ほんの9歳だったことを差し置いても、真実ではありえない。なぜなら、兄が処刑されたとき、レーニンは政治にはまったく無頓着だった。
 マリアが想像した目的は、17歳の高校生だったレーニンがすでにマルクス主義に傾倒していた、ということを示唆することだ。しかし、これは用いうる証拠資料と矛盾している。 
 さらに、家族が収集していたものから決定的に明らかになるのは、二人の兄弟は親密ではなかったこと、およびアレクサンダーはウラジミールの生意気な振る舞いや冷笑の癖をきわめて不快に感じていた、ということだ。//
  (*) ソヴェトの保管所に隠されたままだった若きレーニンに関する第一次および第二次の資料については、R. Pipes 編・Revolutionary Russia (1968), p.27, n.2 を参照。
  (+) 私はR. Pipes 編・Revolutionary Russia (1968) で、利用できる革命期ロシアの資料文書にもとづいて、レーニンの初期の知的および精神的な成長を描こうと試みた。この辺りの頁の情報のたいていは、この作業によるものだ。さらに補足して、私のつぎの二つの著作を挙げておく。R. Pipes, Struve: Liberal on the Left, 1870-1905 (1970)、および R. Pipes, Social Democracy and the St. Petersburg Labor Movement, 1885-1897 (1963) 。二次的情報源の中では、Nikolai Valentinov, The Early Years of Lenin (1969) が最も有益だ。
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 ②へとつづく。

1061/日本の異様さ-共産党の存在。

 産経新聞10/28に、ソ連崩壊20年・第5部「共産主義は今」の米国編が載っている(古森義久執筆)。それによると、「一連の世論調査」でアメリカ人のうち「保守主義者」と自認する者は40%前後、「リベラル派」は20%前後、「自分を公然と社会主義者だと認める人は統計上、ゼロに近い」。そして、アメリカでの「社会主義」は「西欧型の社会民主主義」を指すが、「共産主義は一党独裁、個人の抑圧、市場経済活動の禁止などマルクス主義としてまた別扱い」らしい。
 さすがに米国という感じだ(社会主義と社民主義との関係の説明と調査での支持率には少し疑問も湧くが)。これが日本だとどうなるか?
 「保守」自認は20%前後、「リベラル派」は20~40%、それより左の社会民主主義・共産主義は少なくとも10%はあるものと思われる。
 日本の世論調査では「無党派層」という「日和見」層・「無定見」層が多いのが特徴だが、上の<「リベラル派」は20~40%>とする根拠は、あれほど評判の悪かった菅直人内閣ですら、内閣支持率を最低でも20%前後を維持したこと、民主党支持者の率もその程度は(強固に)ありそうであることを根拠にしている。
 社民党や共産党(それぞれ日本の)の国会獲得議席は減少しており、そのことをもって日本の<保守化>を(誤って)語る者もいるようだが、しかし、合わせて10%程度の得票率は維持していると思われる。また、民主党という政権獲得可能性のある(自民党ではない)政党の登場によって、元来の共産党・社民党支持者の投票先が民主党へと(非自民党政権を誕生させかつ維持するために)流れている可能性が高い。したがって、民主党にあたる政党がなければ、政権「批判」票は元来の支持の共産党や社民党に戻る(そしてこれらの議席は増える)可能性はあるように思われる。
 ともあれ、あらためて刮目すべきなのは、アメリカと日本との間にある、国民または有権者の政治意識または「社会思想」意識の大きな違いだ。
 公然と「共産主義」社会の実現を最終目標として綱領に掲げる政党が国会に議席をもち、それなりの(当面は民主主義の徹底を掲げているにすぎないにせよ)支持者があること自体が、アメリカと、そしてイギリスやドイツとも決定的に異なることを―何度もこの欄で書いたことだが―知らなければならない。
 フランスやボルトガルあたりの事情は少し異なるかもしれないが、北欧も含めて、欧州では(米国とともに)共産党や共産主義者は<ほぼゼロ>と言ってよいだろう。
 日本における共産主義「思想」の残存は、広い「左翼」の存在の原因でもあり、結果でもある。
 例えば、日本共産党・「赤旗」が存在するがゆえにこそ(そして一方に産経新聞があるがために)、朝日新聞・毎日新聞でも<中庸>に感じさせてしまい、これらの読者も<共産党(共産主義)ではない>として安心して少なくとも「何となく左翼」にはなってしまう。
 また、日本共産党・「赤旗」が存在するがゆえにこそ、非(・反)共産党かつ非(・反)自民党という立場が<中庸>であるような気にさせてしまうところがある。「左翼」とは自覚していない、<リベラル派>はたくさんいるのだ。
 そのような、紛れもない「左翼」を、「中間」・「中庸」(そして公正中立?)だと感じさせる役割を、日本における共産党やマルクス主義は果たしているわけだ。
 さらに言うと、論壇・アカデミズム(大学等)の世界において、非(・反)「共産党・共産主義」かつ非(・反)「保守」というのは、最も安全な「思想的」立場になっているのではないか。
 そのようなかつての「進歩的知識人」の代表が、丸山真男だった。明確な「左翼」の大江健三郎も、おそらく非・共産党ではあるだろう(=共産党員ではないだろう)。
 これらの非(・反)「共産党・共産主義」かつ非(・反)「保守」という立場の知識人たちは(アメリカでいう「リベラル派」の一般国民も含めてもよいが)、反共(反共産主義)か反・反共(例えば=「反ファシズム」)の選択を迫られれば、どちらを選択するのか?
 これは近い将来にでも設定されうる大きな分岐点になると思われる(擬似的ミニチュア版はすでに大阪市長選挙で見られるようだ)。
 丸山真男は反・反共(=「反ファシズム」)を選好しただろうし、現在の大江健三郎もそうなのではないか。
 その他大勢の非・反共産党(・共産主義)で非・反「保守」の国民は、いったいどちらを選ぶだろうか。非・反共産党(・共産主義)を拒否しない可能性がある(つまり「容共」。これは日本と欧米との決定的な違いだ)、というのが、私が日本の行く末を深刻に懼れている根拠・理由でもある。

0570/小林よしのり・パール真論(小学館)の一部からの連想。

 小林よしのり・パール真論(小学館、2008)の主テーマ・主論旨とは無関係だが、次の言葉が印象に残った(初出、月刊正論2008年2月号(産経新聞社))。
 「『反日』を核として国家の正当性を維持するしかないという厄介な国が、ヨーロッパにではなく、アジアにあった、それがドイツの幸運であり、日本の不幸であった」(p.83)。
 小林よしのりはここで中国と韓国を指しているようだが、北朝鮮も含めてよいだろう。
 たとえばサルトル以降の「左翼」フランス思想等のヨーロッパからの「舶来」ものを囓っている者たちは強くは意識しないのだろうが、日本は欧州諸国とは異なる環境にある。ドイツにせよフランスにせよ、日本にとっての
中国、韓国や北朝鮮にあたる国はない。異なる環境にある日本を、現代欧州思想でもって(又は-を参考にして)分析しようとしても、大きな限界がある、ということを知るべきだ。
 やや離れるが、欧州に滞在するのは、ある意味でとてもリフレッシュできる体験だ。なぜなら、ドイツにもイギリスにもイタリアにも「…共産党」がない。フランス共産党は現在では日本における日本共産党よりも勢力が小さいといわれる。また、日本共産党的組織スタイルの共産党が残るのはポルトガルだけとも言われる。
 そういう地域を、つまり共産党員やそのシンパが全く又は殆どいない地域を旅すること、そういう国々に滞在することは何とも気持ちがよいことだ。むろん、デカルト以来の<理性主義>や欧州的<個人主義>の匂いを嗅ぎとれるような気がすることもあって、「異国」だとはつねに感じるが。
 <左翼>系新聞はあるだろう。しかし、多くはおそらく社会民主主義的<左翼>で、日本の朝日新聞のような<左翼政治謀略新聞>は日本のように大部数をもってはきっと発行されていない(たぶん全ての国で、日本のような毎日の「宅配」制度がない)。すべての言語をむろん理解できないにしても、これまた清々(すがすが)しい。
 というわけで、しばしば欧州に飛んでいきたい気分になる(アメリカにも共産党は存在しないか、勢力が無視できるほどごく微小なはずだが)。先進資本主義国中で、日本はある意味で(つまり元来は欧州産の共産党とマルクス主義勢力―正面から名乗ってはいなくとも―がかなりの比重をもって東アジアに滞留しているという意味で)きわめて異様な国だ、ということをもっと多くの日本の人びとが知ってよい。

0564/保守とは-御厨貴・「保守」の終わり(毎日新聞社)の中の「『保守』の終わり」。

 御厨貴・「保守」の終わり(毎日新聞社、2004)の中に「『保守』の終わり」という計8頁の小論がある(p.72~、初出2004.07)。
 これによると、<保守>(自民党)-「改憲、安保賛成、占領改革是正」と<革新>(社会党)-「護憲、安保反対、占領改革受容」という対立が55年体制の形成過程で明瞭になり、佐藤栄作政権終焉までは続いた。その後<保守>の側に革新・変革を唱える内閣も出現し、1993・94年の細川護煕内閣・羽田孜内閣は反自民「改革」を掲げ、つづく村山富市社会党(=<保革>連立)政権と日本社会党の崩壊によって「革新」イメージは喪失する。「革新」という対抗相手を失った<保守>も内実が曖昧になる。小泉純一郎内閣以降、「改革」対「抵抗」との枠組みができたかに見えるが、与野党において「改革」・「抵抗」の双方が顕在化して実態は<保革>対立よりも複雑だ。
 「改革」に対抗する「保守」のシンボル化はもはや困難で、その意味での「保守」は終わった。
 「改革」万能の状況下で、これに対抗する議論が語られている。第一は、「改革」の基準を「グローバル・スタンダード」ではなく「新たなジャパン・スタンダード」に求めること、第二は、「改革」への怨念をナショナリズムの地平に拡げること。この二つが出逢って<新たな保守>が誕生する可能性がある。
 その場合も二つの可能性がある。一つは、感情論ではない「明快な論理」をもつイデオロギーとして<保守>が構築される。二つは、感情論に包まれた、「破壊衝動を秘めたイデオロギー」として<保守>が蘇生する。
 以上が簡単な要約だ。
 思うに、かつての「安保賛成」対「安保反対」等の<保守>・<革新>の対立軸は、親自由主義(資本主義=市場経済主義)と親社会主義の対立でもあった。また、「改憲、占領改革是正」対「護憲、占領改革受容」で示されていたのは、基本的にはアメリカとの同盟を維持しつつも対米自立性の確保(対米従属からの脱却)を目指すかどうか、という対立でもあった。
 これらが、現在でも重要かつ有力な対抗理念であることは疑いえないと思われる。第一に、共産主義に厳しいか甘いか、第二に、アメリカへの従属性を現状でよいとするかどうかは、簡単に何という概念・シンボルで表現しようとも、対立理念であり続けている、と考えられる。ついで、第三以降が、経済政策における自由主義傾斜(「自由」志向)か社会民主主義傾斜(「平等」志向)か、ではないだろうか。
 さらにまた、御厨貴は何ら触れていないが、神道や日本的仏教に対する親しみの程度、天皇・皇室に対する態度もまた、日本に独特の大きな対立軸として存在している、と思う。
 計8頁の小論に多くを期待しても無理だが、<保守>とは何かについて、議論のタネは尽きないはずだ。八木秀次のいう<保守>思想の「理論化」・「体系化」など、たかが一人でできる筈がない。

0412/佐伯啓思における4種の「リベラリズム」=<市場経済>の見方。

 佐伯啓思・自由とは何か(講談社新書)からの確認的メモのつづき。
 「リベラリズム」は「自由主義」と言い換えてもよいが、前回紹介の「自由」や「現代のリベラリズム」は、佐伯が自ら述べるように、「拘束」・「抑圧」からの解放という「近代の入り口」での「自由」とはかなり性格を異にしている。かつ、あくまで「今日の代表的な立場」における「自由」観で、「アメリカ的」又は「アングロサクソン的」と限定をつけてもよい、とも言う(p.160)。
 また、佐伯によると、「拘束」・「抑圧」からの自由がおおよそ実現し、「自由」の内実が「多様な主観的価値の共存のための条件」になってしまった結果、「自由」には「それほどの切迫さも切実さも」なくなった(p.161)。
 上にも見られるように、佐伯は「現代のリベラリズム」を説明・分析しているだけで、それを自らの価値として主張しているわけではない。<価値相対主義>(「価値」に関する「主観主義」)についても、「価値」による行動は社会的「妥当性」を要求するので、「価値」は本質的に個人の「主観を超えた次元」にある(「嗜好」や「趣味」とは異なる)、と疑問視する。かかる立場からすると、例えば<援助交際>は「特定の行為に示された価値の問題」、「本質的に社会的な問題」、「社会的普遍化、妥当性要求をはらんだ問題」で、「主観の問題」ではなく、「それは個人の自由であり、自己責任だ」で済ますことはできない(p.162-163)。
 もともと予定していなかった部分の要約はこれくらいにする。確認的にメモしておきたかったのは以下だ。佐伯は、「市場経済」(「市場競争」)について四つのタイプの議論があり、それぞれに対応して、「四つのリベラリズム」がある、とする(p.187以下)。この部分はなかなか参考になる。
 第一、「市場中心主義」。共通の透明なルールのもとで人々が「自己利益を最大化」せんとするのは当然で、たとえ報酬格差が数百倍に開こうと受け容れるべきだ。
 第二、「能力主義」。人の「能力や努力」に対して報酬を付与するのは市場競争でも同じ。但し、例えば「莫大な遺産」による「不労所得」は市場の結果であっても修正されるべき。「投機的利益」への課税等も同旨。「古典的な」「プロテスタント風の倫理精神」やロックの「財産保有と労働」に基づく市場を擁護する。
 第三、「福祉主義」。市場競争により勝者・敗者が発生するが、敗者は「たまたま市場経済のなかでうまくいかなかっただけ」で、それで「彼の人格や生活のすべて」を左右すべきでない。競争が「結果としてもたらす不平等」を、敗者=弱者に対する福祉給付・所得再配分によって政府が是正すべき。敗者も「そこそこ幸福な人生を送る権利」をもつ。
 第四、「是正主義」。勝者・敗者という「不平等」は多くの場合は「ある種の人々が構造的に不利な立場」にあることから生じるので、彼らの救済には事後的な福祉給付では不適切で、「初期条件をできるだけ平等化」すべき。アファーマティブ・アクション、自立支援プログラム等によって。
 こうした分類を前提にすると、佐伯によると、第一の論者としてはミルトン・フリードマンハイエク、第二はロバート・ノージック(第一に近いかもとの注記あり)、第三は「いうまでもなく」ジョン・ロールズ、第四はロナルド・ドゥウォーキンアマルティア・センを想起できる。
 さらに佐伯はこう述べる。第一、第二は「個人主義的な側面を濃厚に持った自由主義」で、とくに第一は、しばしば「リバータリアニズム」と呼ばれる。これらは「最小国家観、夜警国家観」に立ち、国家は「特定の価値を含まない」(→中立的国家)。
 第三、第四は「どちらかといえば」、「平等性に傾いた平等主義的な自由主義」で、「狭い意味」ではこれらをとくに「リベラリズム」と呼ぶことが多い。これらは「介入主義的国家」観に立つともいえるが、介入は基本的には「個人の権利を保障するための平等化政策」で、それ以上のことを目指さない(→やはり中立的国家)。
 説明は続く。第一において、市場競争への「参加の権利」の付与が重要で、結果は特に問題視しない。第二も同じだが、「人の能力の帰結としての財産への権限」を決定的に重要視する。「能力と努力が権利を生み出す」のだ。
 第三では、福祉給付により実現される「人間として最低限の生活をなすという権利」が唱えられる。第四は弱者・構造的被差別者にも「平等な機会へアクセスする権利」が保障されるべきだとする。
 以上の論述を前提にして佐伯啓思自身による議論が続いていくが省略する。
 上にみたように、「リベラリズム」とはさしあたりは広義に、市場経済=資本主義(=広義の「自由主義」)に立つ、非・反社会主義(・共産主義)とほとんど同義に用いられているようだ(なお、佐伯は「コミュニズム」あるいは「マルクス主義」を殆ど無視している。議論の俎上に乗せる意味自体を否定しているように見える)。その上で、上記の如く「狭い意味」での、<社会民主主義>にかなり近いかもしれない「リベラリズム」概念も用いられている。
 さて、かりに上記の如き整理が適切だとして、われわれはいずれの立場・考え方を支持すべきか? こうした基底的?レベルでの思考と選択をひとまずは誰でもしておくべきではなかろうか。こうした思考と選択は、「人間」観や「人生」観にもかかわる、けっこう現実的で、その意味では<生臭い>、重要な問題だと思える。

0394/阪本昌成・法の支配(勁草、2006)-03。

 阪本昌成・法の支配(勁草、2006)を読む、のつづき。
 第1章・第1節
 2・統治の過剰
 (1)市場に介入する国家  公法的規制・管理が「ここまで来た」日本国家は異常。健全な市民が法令違反不可避、法令の詳細不知で国家機関の指示に依存、は「実に息苦しい」。こうした現状は「統治の過剰」と表現できる。/国民負担率40%は「自由な国家」からほど遠い。/個人・家族への公的給付に「国家の正当性」が「大きく依存」しているのも異常。
 「統治の過剰」は、マルクス主義・ケインジアン政策・社会民主主義等々の副産物だ。これは「現代立憲主義」への批判でもある。
 現代立憲主義のもとでの国家の新任務は<資本主義の歪みの是正>で、景気調整・社会保障・環境保護、中でも所得移転政策・経済政策(財政政策)が中心になる。/これらは自由・平等・豊かさへの善意で考案され、提唱者はリベラリストと自称した(阪本は「修正リベラリズム」と呼んだ)。/
この新種リベラリズムの立脚点は?、新任務は政治道徳上正当化可能か?、その任務の「終わり」はどこ?
 「統治の過剰」は「人々の自由を次第しだいに浸食」している。我々は、国家が我々の自由を管理し分与する現状に鈍感になっている。/「なぜ、こうなったのか」。/ハイエクの回答は以下。
 (2)ハイエクの回答  <1870年代以降の「自由の原則の退廃」は「自由をきわめて数多くの個別的な諸目的達成の手段として国家が指定するものとして、また、通常は、国家によって与えられるものとして、解釈し直したこと」と密接に関係している。>
 「国家による自由」・「実質的自由」への転換が自由を個別化・細分化し始めた。その自由概念への影響は本書の重要課題の一つ。
 大衆民主主義下での政治は、自由を細分化し個別的に「設計主義的に」実質化せんとする勢いをさらに加速させた。
 個々人の自由と市場のもたらすトータルな秩序を正確に予測するのは不可能。なのに大衆民主主義は「近い将来の見通しを人為的に設計して、これを国家の手によって実現しようとする」。景気調整、輸入制限、生産調整、価格統制等。
 大衆民主主義に歓迎される「平等主義は、富の分配の望ましいパターンをも人為的・設計主義的に作り上げようとする」(所得再配分政策)。
 ハイエク等の古典的リベラリストは民主主義と平等主義のもたらす負の効果を「長期的視点に立って、予測し、恐れつづけてきた」。
 以上、第1章・第1節が終わり。p.10~p.13。

0280/大嶽秀夫・日本政治の対立軸(中公新書、1999)を少し読む-その1。

 全て読了したわけではないが、大嶽秀夫・日本政治の対立軸-93年以降の政界再編の中で(中公新書、1999)を読むと、1999年時点での執筆だが、いろいろと興味深いことが書かれている。立花隆の駄文よりは遙かに大きな知的刺激も受ける。
 内容の私自身の文による紹介・要約はしない。大嶽氏は次のようなことを指摘、主張している。
 1.1993年まで、即ち所謂「55年体制」下では、経済政策・国家の経済への介入・福祉問題は、「保革」(「保守」と「革新」、「右」と「左」)を分ける政策の対立軸になっていなかった。両者を分けるのは、安保・防衛・憲法改正(+天皇)の問題だった(p.4-5)。「政党間対立に経済政策をめぐる争点が直接結びつくことにはならなかった」(p.17)。
 2.同じ時期において、平和主義=高学歴=若年=ホワイトカラー層=近代的、再軍備支持=低学歴=高年齢=自営業者(農業を含む)=伝統的、という社会的亀裂があり、革新・保守いずれも「この亀裂を集票に動員した」(p.9)。
 3.戦後の米国では「大きい政府」対「小さな政府」や社会道徳的争点が対立軸としてあったが、「日本の特殊性は、価値の対立が防衛問題にからみ、さらには…体制選択の問題に絡んだことによって、生まれた」(p.10)。
 4.1970年代半ばに登場した新自由クラブ、社会民主連合は一時的にある程度の支持を獲得したが右寄り中道・左寄り中道のライン上に結局は埋没した。
 5.「革新自治体」の広がりに危機感を覚えた自民党は環境・福祉問題の解決を自らの課題とし、政権交代によることなく1970年代には環境問題の大幅な改善・福祉制度の大幅な拡充が行われた。1970年代半ばには「社会民主主義」的合意が有権者に成立し、この(社会民主主義的政策に関する)争点は防衛問題に代わる「政党間の対立軸」にはならなかった(p.20-21)。
 6.自民党が農業・建設関係自営業の「地元利益」・「業界利益」を代表し社会党が官公労働者の「職業利益」を代表し、政党対立は政策によるそれではなく「分け前をめぐっての対立」に変質した。両党議員の役割は「既得権益」を守ることで、これらに対する、消費者・納税者等の利益のために政治改革を求める層との対立が潜在的には生じていた(p.21-23)。新自由クラブの躍進・社会党のマドンナブーム・93年の日本新党の躍進等は具体的な顕われだった(p.23)。
 以上をいちおうの一区切りとしておくが、別の観点からの次のような指摘は私には新鮮なところがある。
 1.既成政党・政党政治や官僚・政府等の「政治・行政のプロ」に対する「拒否反応」が上の6の前半叙述部分に対して起こった。新自由クラブ・日本新党はその象徴だった(p.27)。一種のアマチュアリズム、「政治のプロに厳しい姿勢をとり、アマチュアたる市民の立場を代表」することが好感を持たれ、また、マスコミも積極的にこれを支持したからこそ躍進できた(p.35)。但し、<新鮮さ>を失うと、新党は急速に衰退した(p.36)。
 2.既成の政治エリートへの反発という「反政治性」は「非政治性」を根本に持っており、<まじめな反対>よりも「政治を「あそび」の一つとみなす、ある意味で無責任な態度」を特徴としている。日本では50年代末からすでに新中間層も労働者も「革新から離れて保守化し」、「大都市の若者も都市の新中間層は、むしろ、私生活に関心を集中するという…私事化・私化に傾斜」したが、この「私生活中心化、私事化の延長上」に、「あそび志向への変化」がある。1995年の青島幸男東京都知事・横山ノック大阪府知事の当選は非既成政党との面に「あそび」としての投票という面が結びついた結果だ。細川護煕の一時的人気も、「いつでもやめる姿勢にみられる、無責任ともいえる」彼の「あそび感覚への共感」によるところが大きい(p.32)。
 ここでまた区切るが、上の二点の指摘は面白い。アマチュアリズムと「あそび」感覚への支持、そしてこれらを客観的には支持し煽ったマスコミの存在。外国ではどうなのかは分からないが、なるほど日本ではこういう側面もあったかと思わせる。
 但し、真面目に考えれば、そうしたアマチュアリズムや「あそび」感覚の投票が許容されたのも既成政党・官僚等の政治・行政のプロがきちんとまだ存在していたがゆえの余裕でもあったようにも思われる。
 アマチュアの政治・「あそび」感覚の投票を許容するほどに、日本の現在のエスタブリッシュメントは堅固だろうか。私はかなり危ういと感じている。上級官僚も、社会保険庁問題に見られる一般官僚もそうだ。政治家の質が従来よりも高まっているとはどうも思えない。どんなに無茶なことをして<遊んでも>日本の国家は大丈夫、などという余裕はとっくにないだろう。
 上の二点以外では、第一に、最初の番号の中の5、自民党が「社会民主主義」的政策を実施したという点が、私の記憶又は理解とも合致していて、興味深い。日本社会党は1/3程度の支持は獲得していたが政権奪取(第一党化)しそうにはなかった。それは、同党の安全保障政策に決定的な問題があったからだが、政権をとれない日本社会党に代わって自民党が、欧州ならば社会民主主義政党が主張するような政策を立案し実施したのだ。
 それは「革新自治体」のそれと同様に<バラマキ福祉>だった可能性もある。しかし、まだ1970年代は(オイルショックもあったが、それを乗り越えた)日本の経済力がまだ十分に大きく、財政的余裕があったのだ(但し、いずれ勉強・調査したいが、国債の-少なくとも大量の-発行=借金はこの時代に始まったと思われ、田中角栄・三木武夫両内閣等には日本の国家財政に対する歴史的責任があるのではないかという感覚を持っている)。
 第二に、最初の番号の中の2も興味深く、大嶽氏が「55年体制」下において見られたという、平和主義=高学歴(インテリ)=若年=モダン(進歩的)、再軍備支持=低学歴=高年齢=伝統的(復古的)、という、とっくに古びた、時代遅れのイメージになおすがりついている「自称インテリ」がまだまだ多いような気がする(とくにマスコミ界にはかかる「自称インテリ」がコゴロゴロしているのではないか。「自称インテリ」は朝日新聞の読者が多く、自民党でも共産党でもなく民主党に投票してしまう傾向にあると推測している)。こうした「思い込み」=「刷り込み」からは早く離脱しなければならない。 
 今回はこれくらいにして、大嶽秀夫の上の本のうち、小沢一郎が登場するあたりは別の機会に言及する。

0255/参院選の基本的な争点は何か。

 今月末の参院議員選挙では、いつの選挙でもそうだが、現時点の日本がどういう国際環境に置かれ、国内的にどういう経済的・社会的状況にあるのかをふまえたうえで、どの政党又は候補者に「政治」を任せるかが判断されなければならない。
 その場合、どうしても、巨視的かつ歴史的な今日という時代の位置づけ、そして安倍晋三政権の意味、に考えをめぐらすことも必要だ。
 巨視的かつ歴史的に見た場合、私は次のような変化の真っ只中にあるのが今日の状況だと考えている。
 第一は、経済政策的にみて、ケインズ主義的な国家介入とともに「社会民主主義」的とすら言えるような国家による経済(市場)への介入および「福祉」政策を展開してきた、かつそれが財政的にまだ可能であった時代から、国家の一種の「放漫」経営をやめた、「自由主義」的経済政策、スリムな国家づくり、国家の<役割・分限>をわきまえた政策運営へと舵を切りつつある重要な時代の転換点にある。
 こういう傾向、動向は不可避であり、進めるべきものと私は考える。
 米国にレーガン、英国にサッチャーという、「自由主義」者(「保守主義」復活者)が現れ、欧州における<冷戦>も終わったのだったが、日本は90年代に逆に、細川連立政権・村山連立政権という「社会民主主義者(+一部の本当の社会主義者)」が加わった政権ができたために、「自由主義」への回帰が決定的に遅れた。小泉内閣以降の<構造改革>とはこうした遅れを回復しようとするもので、ケインズ主義的又は社会民主主義的な国家の介入、言い換えれば国家への依存、に慣れた者にとっては<弱者に冷たい>・<格差が拡大する>等の批判になっているのだろうが、国家も<無い袖は振れない>場合があるという現実をまともに直視すべきだ。
 いったいいくらわが国家は国民から借金しているのか。国家の赤字は結局は国民の負担となる。できるだけ早く借金漬け国家財政から脱却しなければならない。
 国家財政を圧迫しているのが国家の被用者=公務員の人件費だとすれば、これも削らなければならない。余計な事務・仕事を国家(公務員)が引き受ける必要はないし、まじめに仕事せず、ましてや意識的・組織的にサボりミスをして国家運営をしている政権与党に不利になるようにと考えていたような公務員は、まず第一に放逐する必要がある。
 第二に、1980年以降だと思うが、特定アジア諸国に対しては、過去の贖罪意識からか、弱腰で、言いたいことも言えない、逆に相手の意向に合わせて、事実でないことも事実であるかの如く認めてしまうような<卑屈な>外交が行われてきたが、これを改めて真に対等に、堂々と是々非々を発言し、議論する外交等を毅然として特定アジア諸国に対して行うように変わりつつあるように思われる。
 明瞭に変化していない論点・問題もまだあるが、こうした方向は正しく、一層進めていかなければならない、と考える。北朝鮮の金正日が拉致犯罪を自ら認めたのは大きかった。<媚中>・<屈中>外交はいいかげんにやめるべきだ。歴史認識も、相手国のそれに追随する必要はもちろん全くない。
 教科書検定に<特定アジア考慮条項>を持ち込んだ当時の内閣総理大臣、<従軍慰安婦国家関与>を認めた官房大臣談話のときの内閣総理大臣、の責任ははなはだ大きい、と私は思っている。
 第一、第二の点のいずれについても、私は、宮沢喜一首相の責任は小さくない、と思っている。彼は、首相をやめた後で再度小淵内閣の蔵相だったとき、最高額の国債を発行したようだし、所謂河野談話のときの内閣総理大臣は宮沢喜一その人だった。
 いずれの点にも関係しているだろう、現在の内閣を「危ない」と言い、「リベラル」派の結集が必要などと自民党内で主張している旧宮沢派の加藤紘一は、巨視的な時代の流れを理解していない。<国家ができるだけいろいろなことに面倒を見てくれた>戦後体制のシッポを加藤紘一は引き摺っている。そして、朝日新聞には気に入られるようなことを発言して報道してもらって、とっくに政治生命は終わっているのに、それが分からないまま、自己満足しているようだ(自民党から脱党して貰って結構だ。ついでに谷垣某、曖昧な古賀某も)。
 日本共産党や社民党は主義として<弱者保護>・<格差是正>等と主張して<大きな国家><大きな財政>の維持を客観的には望んでいるに違いないが、その他の党派や国民はそう考えるべきではない。再述すれば、国家も<無い袖は振れない>のだ。何となく、国家はずっと存続するだろう、と考えていたら、甘い。
 第三に、まだ明瞭になっていないかもしれないが、日米関係が微妙に変化していく端緒的時代にいるような気がする。
 むろん両国の緊密な同盟関係は今後も(少なくとも表向きは)続くだろうし、続けるべきだとも思うが、しかし、日本の安全保障に関して本当に米国は信頼できるのか、という問題はでてくるだろう。いや、すでに一部では論じられているかもしれない。
 米国の日本に対する態度がどうであれ、ある程度は米国に頼ることなく自国だけで安全保障を達成するように少なくとも努力することは考えられてよい、と思う(日本の軍事的自立に、米国は自国は楽になったとは思わず、日本を警戒して反対するだろうと予想するのだが)。ちなみに、憲法九条二項の削除はそのための重要な手段だ。
 以上のいずれをとっても、重大な問題ばかりだ。だが、大まかにせよ、上のような基本的問題について各政党の基本的スタンスを知ったうえで選択し、投票すべきだ。
 日本共産党や社民党は勿論、民主党の中にも「社会民主主義」・<特定アジア諸国シンパ>の議員はいる。余計ながら、政党として、自民党が上の三点の方向に最も近いことは確かだ。
 ところで、上のように政治に素人の私でも一国民として考えるのだが、月刊・諸君!8月号(文藝春秋)の座談会、国正武重・田勢康弘・伊藤惇夫「安倍政権、墜落す!」は何だろう。
 巨視的・歴史的な今回の選挙の位置づけなどまるでない。政治家に対する政治屋という言葉があるようだが、この三人は、政治評論屋であり、「政治」に関する適当な雑談や雑文書きを生業としている政治屋だ。
 この三人全員に尋ねたいが、貴方たちは日本がいったいどのような国家・社会になれば望ましいと考えているのか。そのようなマクロな歴史観・国家観なくして、近視眼的にのみ「政局」を論じて(いや雑談して)もらっては困る。
 国正某は元朝日政治部次長等、田勢某は元日経編集局長等、伊藤某は元民主党事務局長。すべて、真摯に日本国家のことを考えてきた人たちとは思えない(私は日経も含めて新聞社の人を基本的に信頼しない、朝日新聞となれば尚更だ)。
 文藝春秋の月刊・諸君!編集部(編集人・内田博人)は、安倍政権を見放すような記事をメーンに持ってきた。これは編集方針の大きな変更とも感じられる。文藝春秋もつまるところは<世論迎合>の<儲け主義>の出版社だった、というところだろうか。
 むろん私は絶対的に信用できる出版社があるとは思っていない。すべて相対的な話なのだが、文藝春秋の月刊・諸君!は今後、販売部数を減らすだろう。

 

0150/阪本昌成・リベラリズム/デモクラシー(第二版)「まえがき」。

 4/30午前0時台のエントリーで紹介したように、阪本昌成・リベラリズム/デモクラシー(第二版/有信堂、2004)は「マルクス主義憲法学」批判を鮮明にしている。そのときに紹介しなかったマルクス主義批判の文に、次のようなものもある。
 「正義は、人間の知性によって積極的に作り上げうるものではなく、また、人間の情念を度外視して語れるものではない。二〇世紀最大の人類的規模の実験が失敗に終わった理由は、ここにある」(p.23)。
 デカルト以降の「理性」信仰(私流に言えば、人は、人間や社会を「合理的」に認識・説明でき、改革できる筈だとの、人知の及ばない領域があることを無視した「近代」の傲慢さ)への批判が上の文にも含められているだろう。
 5/13のやはり午前0時台のエントリーで述べたように、中川著の後の読書のベースは阪本昌成の上の本で、50頁くらいまでは進んだ。基礎概念の意味と論旨展開は重要なので、メモ書き代わりにここに記していこう。
 阪本にとってマルクス主義はもはや「論敵」ではないとされ(p.22)、既述程度の文章しかないのだが、マルクス主義批判の文のあとには「福祉国家」が「警戒すべき実験」として語られる(p.23)。
 先走ったが、阪本も自称ハイエキアンであり、ハイエクを(きわめて)肯定的・積極的に評価する中川八洋と同様の論調である所があるだろうことは容易に想像がつく。
 さて、最初から出発しよう。「まえがき」によれば、「リベラリスト」とは「統治の正当性・限界を、人びとの合意に求めることを避けて、すべての人に保護領域が与えられるべきことに求めようとする立場の人」だ(「保護領域」とはさしあたり「自由に行動できる生活空間」で十分)。
 一方、「デモクラット」とは「統治の正当性・限界、すなわち立憲主義の源泉は人びとの合意にある、と強調する人」だ(p.1)。
 書名でも明らかなのだが、リベラリズムとデモクラシーは矛盾しあう・対立しあうということが著者の議論の前提だ。あえて日本語を使えば、自由主義と民主主義自由と民主の差違・関係が阪本の関心事であり、かつこの問題が(マルクス主義うんぬんよりも)今日的・現実的な意味をもつ、と考えられているものと思われる。
 そして、阪本は自分は「ラディカル・リベララリスト」だと既に結論的に宣言している(p.2)。となると、未読の部分の方が多いが、デモクラシー(民主主義・民主政治)への批判が多いだろうと想像できる。
 つぎに言う。「リベラル」や「リベラリスト」は米国では「社会民主主義(者)」を指すため、「真のリベラリズム」のために「リバターリアニズム(リバターリアン)」という言葉が作られ、後者は、ア.個人主義徹底、イ.国家の強制力は反道徳的、ウ.国家・公共の利益に懐疑的、という態度だ。だが、阪本は「リバターリアニズム」と共通性があるかもしれないとしつつ、リベラル/リバターリアルの区別の論議に入らず、「リベラリズム」を次の共通性をもつものの意味で用いるとする。
 1.「自由を消極的に捉えること」(秋月注-「消極的」とは「否定的」の意ではない)、
 2.「ルールの源泉を人間の意思に求めないこと」、
 3.「ルールは社会のなかで自己増殖的にできあがり、そのルールは一定の属性をもつに至ると承認すること」等。
 但し、「リベラリズム」は社会民主主義を含む曖昧さを持つので、上の意味でのリベラリズムを「古典的リベラリズム」、「社会民主主義的な自由観」を「修正的リベラリズム」と称することもある、という(p.2)。
 その後、若干の主張が(結論示唆的に?)なされる。
 「法学でいう自由」とは「個人の人格的規律や意思の不可侵性」といった「個人の内面領域」ではなく「政治・統治の領域」での概念で、リベラリストは、「私たちの日常的な利害対立の調整または解決を政治過程にできるだけのせないことが望ましい」と考える。
 リベラリストはこう考える傾向にある。1.「個人の内心の自由」は「政治的自由」の「根源的な位置」にあるものではなく、「歴史的にみて最初のものでもない」。
 2.個人の「内面的自由は「政治的自由」を否定された人びとが「内面への退却」をしたときに気づかれたもので、「内面的自由は人間の尊厳にとって固有の領域」だとの「誇張された主張」は、自由の問題を「人格的自律や意思の不可侵性」を問う議論へと「再び誘導する」だろう。しかし、この筋道を避けて、「人と人との交わりのなかで世俗的な利害の調整のあり方に賢慮を」めぐらすべきだ。
 3.「「法の支配」を真剣に受けとめる」。「法の支配」とは「私たちの消極的自由を保障するための思想であり、制度だ」。一冊の本が必要なところを「あえて簡単にいえば」、「国家が法律を制定するにあたって、私たちを匿名の存在として扱うルールに従うこと」だ。(p.3-p.4)
 「まえがき」の僅か4頁のためにこれだけ費やしたとは先が思いやられる。
 だが、何らかの共通了解があって語られているようにも見える「自由」も「民主」も(そして「立憲主義」も「法の支配」も)じつは簡単に語りえない複雑な側面をもち、両者は単純な関係には立たない(ようだ)。
 若い頃から近年までの勉強不足、思考不足を嘆きつつ、読み終えてみよう(計230頁程度)。
 ところで、中川八洋の本を読んでおいたことはよかった。阪本著で外国人の名とその「思想」が出てきても殆ど全く、驚きはしないからだ。

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