秋月瑛二の「憂国」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

社会主義

歴史と感情と科学と-R・パイプス、そして笹倉秀夫。

 一 前回10/12の末尾に、「歴史に関する学者・研究者でも、<怒るべきときは怒る>、<涙すべときは涙する>という人間的『感性』を率直に示して、何ら問題がないはずだ」。 これは歴史叙述そのものに「感情」を明示してもよい、という趣旨ではない。
 このように書いたのは、何かを読んでその印象が残っていたからだ。
 R・パイプス・ロシア革命史の「訳者あとがき-解説にかえて」の西山克典の文章だったかもしれないと探してみたが、そうではなかった。別の本を捲ったりしているうちに、上記のR・パイプスの書物(邦訳書)の本文自体のほとんど末尾にある、「16章/ロシア革命への省察」の中の文章であることが分かった。
 ブレジンスキーと同様にR・パイプスは、日本共産党とは違って、レーニンとスターリンとがほとんど真反対のベクトル方向にあるとは見ていない。R・パイプスは、1917秋(10月革命時)と1922年の初めまで(レーニン時代だ)のソ同盟の人口減を1270万人(戦死、餓死=500万人以上、疫病死、海外逃亡等を含む)とし、自然状態では増大していたはずの人口を想定すると、実際の人的損失は「2300万に達する」などを指摘したのち、つぎのように記述する。
 R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(成文社、2000)p.404-5による。〔〕の英語は、原著(A Concise History of the Russian Revolution、p.403-4 )を直接に参照した。
 ・かかる「前例のない惨禍を、感情に動かされずに見ることができるであろうか、また、見るべきであろうか」。
 ・現代において「科学」の威光は強く、「道義的にも感情的にも超然とした科学者」の、全現象を「自然」で「中立的」と見なす気質を身につけてきた。彼らは「歴史」における「人間の自由意志」を考慮することを嫌い、「歴史」の「必然性」を語る。
 ・しかし、「科学の対象と歴史の対象」は「著しく異なる」。医師・会計士・調査技師・諜報局員の調査は「正しい決定に達するのを可能にする」ためで、「感情に絡みとられてはいけない」。
 ・「歴史家にとっては、決定はすでに他人によって為されており、超然と構えることで、認識に付け加えるものは何もない。実際には、それ〔超然と構えること〕は、認識を低下させることになる。というのは、激情のさなかに〔in the heat of passion〕生み出された出来事をどうやって、感情に動かされずに〔dispassionately〕、理解することができるというのであろうか」。
 ・19世紀ドイツの某歴史家は、「歴史は怒りと熱狂をもって書かれなければならない、と私は主張する」、と書いた。
 ・アリストテレスは「あらゆる問題について節度を説いた」が、「『憤りを欠くこと』が受け入れがたい状況がある、『怒るべきことに怒っていない人々は馬鹿と思われるからである』」と述べた。
 ・「関連する事実〔facts〕の収集整理は、確かに感情に動かされることなく、怒りも熱狂もなく行われなければならない。歴史家の技能のこの面は、科学者と何ら異なるものではない。しかし、これは、歴史家の任務の始まりにすぎない」。
 ・「どれが『関連している〔relevant〕』かの決定は、判断〔judgment〕を求めており、そして、判断は価値〔values〕に基づいているからである。事実は、それ自体としては無意味である。何故なら、それをどう選別し、序列化し、そしてどれを強調するかに関し、事実自体は何ら指針〔guide〕を提供しないからである。過去が『意味をなす〔make sense〕』ためには、歴史家は何らかの原則〔principle〕に従わなければならない」。
 ・「通常、歴史家はまさにそれをもって」おり、「最も『科学的な』歴史家でさえ、意識しようがしまいが、予見〔preconceptions〕から行動しているのである」。
 ・一般的にその予見は「経済的な決定論に根ざしている」。経済・社会のデータは「不遍性という幻想〔illusion of impartiality〕」を生んでいるからである。
 ・「歴史的な出来事への判断を拒むことはまた、道義的な価値観にも基づいている。すなわち、生起したことは、何であれ、自然〔natural〕なことであり、従って正しい〔right〕という暗黙の前提〔silent premice〕であり、それは、勝利を得ることになった人々の弁明〔apology〕に帰すことになる」。
 以上。
 二 歴史は怒り等の感情をもって書かれてよい、というふうの部分が印象に残っていたのだったが、きちんと読むと、それ以上の内容を含んでいる。
 ここでの「歴史」学には、<政治思想史>や<法思想史>、<政治史>や<法制史>などの学問分野も含まれうるものと考えられる。
 こうした分野の文献を、かついわゆる<アカデミズム>内の文献・論文も最近は読むことが多い。そうして、上にパイプスが書いていることも、相当によく分かる。
 基本的なから些細なまで、種々の「事実」があるに違いない。書き手はどうやってそれを<序列化>し<関連づけ>ているのだろう、と感じることもある。また、この人は何らかの<価値判断>に基づいている、あるいはさらには何らかの<政治的立場>に立っている、これで<学問的作業>なのか、と思うこともある。
 また、思い出すに、ソ連崩壊により「東・中欧での社会主義化は挫折」したことは事実として認めつつ、その原因としてマルクス主義自体やレーニン(またはレーニズム)には大きな注意は払わず、「スターリニズム」の「問題点」などをかなり詳しく叙述しつつ、「それらの運動」〔社会主義・共産主義運動 ?〕を「スターリニズムに解消させて、マイナス面だけを」論じて、「社会主義化の実践」の肯定面に「目を閉ざすのは、研究者の公正な姿勢ではない」と強弁(!)する日本の「研究者」の書物があった。
 笹倉秀夫・法思想史講義/下(東京大学出版会、2007)p.315-6。
笹倉は、「社会主義化の実践」が示した「ヒューマニズムや自由・民主主義・世界平和運動の面での貢献」に「目を閉ざすのは、研究者の公正な姿勢ではない」とし、「例えば」として三点を挙げる。
 その三点にはここでは立ち入らない。しかし、社会主義・共産主義運動(「社会主義化の実践」)が「ヒューマニズムや自由・民主主義・世界平和運動の面」で「貢献」した、という前提自体が、何ら実証されていない「暗黙の前提」であり、この<科学的と自認しているのかもしれない学者>の「原則、principle」なのだろうと推察される。マイナスだけではなく積極面も見るのが「研究者の公正な姿勢」だという表向きの言い方自体にすでに、(隠された)何らかの(おそらくは政治的な)<価値判断>が含まれているだろう。
 立ち入らないが、ファシズムと共産主義ではなくファシズムとスターリニズムを併せて<全体主義>と称するのは誤りだとの叙述(p.316注)も含めて(全体主義論はファシズムとレーニンを含む共産主義全体を包含するものだが、おそらく意識的にスターリンに限っている)、上のような叙述・説明は今日では日本共産党以外には珍しく、おそらくは、この人は、日本共産党員なのだろうと思われる。
 それは別として、これまでこの欄で「歴史学」なるものについて、坂本多加雄、山内昌之らのその性格や役割に関する議論を紹介したことがある。ひょっとすれば、人文・社会系学問のすべてに当てはまるかもしれないのだが、上のパイプスが述べるところも、充分に読むべきところがある。
 なお、パイプスのロシア革命に関する書物自体は、個別「事実」について相当に密度の濃いもので、<感情>的な文章で成り立っているわけでは全くない。諸事実の<解釈>あるいは<取り上げ方・並べ方>におそらくは、パイプスのロシア革命に対する何らかの(<価値>にもとづく)<判断>が働いているのだろう。
 三 忘れていた。上のパイプスの文章の最後の部分は、とくに意識・自覚される必要がある、と考えられる。
 パイプスによれば、歴史事象への<判断>を峻拒する歴史叙述は、公正で客観的な印象を与えるかもしれないが、じつはその歴史または歴史の結果としての現在の<勝利者>に味方している。生起した歴史事象、その結果としての現実が「自然」で「正しい」と思ってしまえば、それは<現実>(を支持する大勢 ?)を擁護していることになる
 この観点は忘れてはいけない、と思う。
 徳川家康は「正しかった」から長い江戸時代を拓いたわけではないし、明治維新が(薩長両藩等が)「正しかった」から、明治時代があったわけでもない、と思われる。
 「日本に生まれてまぁよかった」という題の本を出している人がいるが(平川祐弘)、この人が安倍戦後70年談話を擁護しているように、彼が生きた戦後日本は彼にとって「まぁよかった」のだろう。そして、この人の今年1月号の論考に明かなように、戦前・戦中の日本は<誤って>いた、と判断されることになる。それでもなお、この人(平川祐弘)は「保守」派論壇人らしいのではあるが。

日本共産党の大ペテン・大ウソ27-不破哲三・マルクス…(平凡社新書)01。

 前回に引用した日本共産党綱領の部分と同じ旨を不破哲三・マルクスは生きている(平凡社新書、2009)が述べている(p.196末尾~)ので、それも紹介しておこうと思った。
 だが、この欄で既述の第一の論点に関係するが、不破哲三の上の本は自分たちの過去についてつぎのように不正確なことを述べていることに気がついたので、批判的にコメントしておく。
 不破・上掲p.197は、こう書く。
 「…、日本共産党としても、私個人としても、ソ連への認識は大きく発展し、そのことが1991年のソ連解体のときには、『覇権主義という歴史的巨悪』の崩壊としてこれを歓迎するという声明となり、さらに3年後の94年の党大会での、ソ連社会は、覇権主義と専制主義を特質とする、社会主義とは無縁な人民抑圧型の社会であった、とする結論的な評価となって表明されたのでした。」
 日本共産党や不破哲三は、このように自分たちの1989/91~94年の言動をまとめておきたいのかもしれない。
 しかし、つぎの点で正確ではない。つまり、完全な誤りを含んでいる。
 第一。ソ連共産党の解体とソ連邦の解体とを、意図的にか混同させている。あるいは、この違いを、意図的にか、ごまかしている。
 不破は1991年に「『覇権主義という歴史的巨悪』の崩壊としてこれを歓迎するという声明」を出したとするが、日本共産党中央委員会常任幹部会が1991年9月1日付で出した声明は正確には「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する-ソ連共産党の解体にさいして」と題するもので、この表題でも明らかなようにソ連共産党の解体(解散)の際のものだ。したがって、上掲のように「1991年のソ連解体のとき」とするのは、大ウソ・大ゴマカシ。
 資料的に再度一部引用すれば、つぎのとおり。-「ソ連共産党の解体」、「長期にわたって…に巨大な害悪を流しつづけてきた大国主義、覇権主義の党が終焉をむかえたこと」は、「これと30年にわたって党の生死をかけてたたかってきた日本共産党として、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」。
 もちろんこの時点では、ソ連は社会主義国ではなかったとは一言も述べていない。
 第二。1991年12月末のソ連邦の解体(崩壊)の際の、同年12月23日付日本共産党中央委員会常任幹部会声明「ソ連邦の解体にあたって」は、「これを歓迎する」(上掲不破)という言葉をまったく用いていない
 不破哲三の上掲書は、上の二つのことを、おそらくは意図的にゴマカすものだ。つまり、こっそりと「大ウソ」をついて(そして「大ペテン」を仕掛けて)いる。
 なお、この時点でもソ連は社会主義国ではなかったとは一言も述べていない。「ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、…いかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」と述べるにとどまる。ソ連は社会主義国ではなかったと明言したのは、上に不破も書くように、2年半ほどあとの1994年7月の党大会での綱領改正によってだ。
 第三。つぎの宮本賢治発言の趣旨を不破は無視している。
 すなわち、1991年12月21日のソ連崩壊をほとんど予想できたとみられる、つまり「党の崩壊につづいてソ連邦が崩壊しつつある」、崩壊直前の12月17日にインタビューを受けた同党中央委員会議長・宮本賢治はつぎのように語っていた。
 「レーニンのいった自由な同盟の、自由な結合がソ連邦になかったんだから、たちとしてはもろ手をあげて歓迎とはいいませんが、これはこれとして悲しむべきことでもないし、また喜ぶべきでもない、きたるものがきたという、冷静な受け止めなのです」(日本共産党国際問題重要論文集24(1993)p.182)。
 以上につき、この欄の本年6/11~7/11「日本共産党の大ムペテン・大ウソ」18-21回を参照。
 当時、日本共産党指導部が<混乱>していたと見られることは、すでに書いた。党員たちは動揺していたに違いない。そして、不破哲三自身も含めて、幹部たちが手分けして、ほとんど同党党員が聴衆だったと推察される全国の<講演会>に出ていたのだ。
 ソ連共産党は解体してもソ連邦が崩壊しても、ソ連(・同共産党)の「覇権主義」等に原因があり、それ(当時は「大国主義」ともよく言っていた)と闘ってきた日本共産党は決して誤っていないと、-ソ連自体の「社会主義国家」性には触れることなく-同党の党員たちが党から離反しないように、必死の ?説得と強弁を続けていたのだ。
 不破哲三・上掲書の叙述は、このような過去をまつたく感じさせない。そして、なぜ1994年7月まで<ソ連のスターリン期の途中以降の「社会主義国」性否定>が遅れたのか、という理由にも触れていない。
 日本共産党・不破哲三は平然とウソをつき、語りたくない事実は平然と無視する。

兵本達吉・メドヴェージェフ・レーニン02-日本共産党の大ウソ24予。

 一 兵本達吉・日本共産党の戦後秘史(産経新聞社、2005)のp.443-4の論旨は、レーニンはネップ導入期に「社会主義に対する…見地全体が根本的に変化した」ことを認めており、これをまるで「社会主義の構想」自体を改めたかの如く理解する者もいるが、メドヴェージェフも述べるようにそのようなレーニン解釈は誤りだ、ということだ。メドヴェージェフはレーニンが「ネップにロシア革命の救いを求めようとした」との「馬鹿げた議論にクギをさし」た、というわけだ。
 しかし、兵本が言及するメドヴェージェフの、同・1917年のロシア革命(現代思潮社、1998)p.136-の叙述をそのように読むのは、相当に無理があるようだ。
 ・兵本がメドヴェージェフに言及する直前のメドヴェージェフの文章は、前回にも紹介のとおり「正統派マルクス主義の枠内でのネップの立案と、その根拠付け」はレーニンの「最も重要な理論的業績」だった、というものであり、つまりネップという経済政策を重要な理論的業績」と評価(?)するものだ。したがって、レーニンを(いかなる立場からであれ)擁護したい者・党派にとっては、その次のいわゆるレーニン引用文と併せて、スターリンとの違いを示す論述として、援用されてよい可能性があるだろう。
 ・兵本がメドヴェージェフから引用する「ネップへの移行はいうまでもなく、逸脱であった。しかし、ロシア共産党とソヴィエト・ロシアを破滅へとへと導きかねない誤った道からの逸脱であった」という部分は、つぎのようにも解釈できる。すなわち、「ネップへの移行」は「逸脱」ではあったが、「…破滅へとへと導きかねない誤った道からの逸脱」であって、<誤りからの逸脱>、つまり正しい(=適切な)選択だった、と。
 ・兵本がつぎに引用する、「ネップへの移行は1917年から1922年のロシア革命の終焉である」という部分は、つぎのようにも解釈できる。すなわち、たんに「ネップへの移行」期以降は、「1917年から1922年」までの時代とは区別されるべきである、という意味だと。換言すれば、「ネップ」期はレーニンらの権力掌握(憲法制定評議会選挙の無視も含む)と「戦時共産主義」の時期とは異なる新しい時期だ、という意味だと。
 「ロシア革命の終焉」とは社会主義(路線)の終焉を全く意味しておらず、「1917年から1922年のロシア革命」の時期が「終焉」したことを意味し、要するにロシア<社会主義>の歴史上の「1917年から1922年」が終わった(新しい時代に入った)ということを意味している、と十分に読める。
 ・兵本が引用していない、その直後のメドヴェージェフの文章は、「国家と党はまだきわめい慎重に、あまり自信なく改革の新しい道に足を踏み入れつつあった」(p.137)というものだ。ここでは、ネップについて「改革の新しい道」が語られている。
 以上のことからすると、メドヴェージェフの叙述を、ネップに「ロシア革命の救いを求め」る議論に「グギをさし」たものと理解・解釈するのはかなり無理があると思われる。
 もちろん、メドヴェージェフはレーニンはネップ導入によって「市場社会主義」とか「市場経済」とかの従来とは質的に全く異なる路線を選択した、などとは書いていない。
 だが、メドヴェージェフは、ロシア「社会主義」の歴史を淡々と叙述したもので、ソ連崩壊後に来日したという彼が日本共産党のネップ理解や主張を知っていたのかどうかは知らないが、日本共産党のような議論を意識して、ネップやレーニンに論及しているわけではないように読める。
 二 メドヴェージェフは、兵本引用部分のあとで、つぎのようにも叙述している。
 レーニン/ネップを、どのような立場からであれ、全面的に擁護しているわけでも、全面的に非難しているわけでもないことは明らかだろう。
 兵本達吉から離れるが、彼なりに、レーニン/ネップの意味を理解・総括しようしているのだと思われる。
 ・レーニンは「社会主義について、社会的関心と個人的関心を、また大規模産業と小規模産業とを調和させる社会として述べ」はじめた。彼にとって、「あらゆる種類や形態の協同組合の発展は資本主義の発達ではなく、社会主義の発達」だった(p.137-8)。
 ・レーニンは「ロシアを社会主義的に発展させる新しい戦略的計画」を「より綿密に練り上げる」ことができなかった。レーニンが書いたのは「草案」で、独仏の社会民主主義者が自国について示した道よりも「はるかに複雑なものになる」ことが予想できた。
 ・ネップは「相対的後進国」でかつ「資本主義に包囲された条件の下で資本主義と社会主義を同時に発展させようとする計画」だったので、「最大限の慎重さ、用意周到さを必要」とした。しかし、それが「現実的計画」だった。この計画は「1927年まで基本的に遂行され。明確にされた」。
 ・「1920年代の現実的条件の下では、ネップこそがソヴィエト・ロシアにとって容易ではないが最良の繁栄への道を開くもの」だった。
「1920年代末」にスターリンはこれを放棄した(以上、p.139)。
 抜粋引用の紹介終わり。
 メドヴェージェフは旧ソ連国家内部での「反体制知識人」だったらしい。かつて「反体制」的だったとしても実際のソ連共産党支配に反発していただけのことで、社会主義・共産主義(理論)一般を批判・否定していたと即断することはできない。
 また、監訳者の一人・沼野充義によると、ソ連崩壊の前後を通じてメドヴェージェフの「理想主義と批判精神」は変わっていないという(p.214-217)。
 沼野充義自身の「立場」・考え方に言及するのは避けるが、こうしたことも併せて考えると、メドヴェージェフが上のようにレーニン/ネップについて語っていることは、レーニン/ネップを肯定的に評価しすぎている、あまりにも「美化」しすぎている、と感じられる。だが、そのことは、ここでのテーマではまだない。
 三 では、いわゆるレーニン引用文はいかなる意味のものだったのか。あまり生産的・建設的な問題ではなさそうだが、行きがかり上、次の回で扱う。

兵本達吉・メドヴェージェフ・レーニン01-日本共産党の大ウソ24予。

 一 2016年6/08の「日本共産党の大ペテン・大ウソ17」で、「気になること」をつぎのように記した。
 「兵本達吉・日本共産党の戦後秘史(産経新聞出版、2005)も関係文献で「28項」の「ロシア革命は何であったか?」はネップにも分かりやすく言及している。
 しかし、p.443には、レーニンは「1922年秋頃」になるとトーンに「明らかな変化」を見せ、「我々は、社会主義に対する我々の根本的見地全体が根本的に変化したことを、認めなければならない」と書いた、としている。この発言または文章は、不破哲三の上掲書にも(進んで紹介しそうなものだが)引用・紹介されていない。レーニンのいつの、(全集掲載ならば)レーニン全集各巻のどこに載っているのだろうか」。
 兵本はメドヴェージェフの名を挙げているが、この当時はメドヴェージェフのどの文献であるかが分からなかったし、兵本の引用するレーニンの文章がメドヴェージェフからの再引用であることも知らなかった。
 日本共産党の「大ペテン・大ウソ」と直接の関係はまだないので、その予備編として、上の「気になること」を解消しておく。
 二 ロイ・A・メドヴェージェフ(1925~)には、所持しているものに限ると、次の三冊の邦訳著がある。最初の二つはタイトルも似ている。
 ①1917年のロシア革命〔石井規衛=沼野充美監訳、北川和美=横山陽子訳〕(現代思潮社、1998〔原著1997〕)。
 ②10月革命〔石井規衛訳〕(未来社、1989〔原英訳著1979〕)。
 ③スターリンと日本〔海野幸男訳、対談・訳注佐々木洋〕(現代思想新社、2007)。
 兵本達吉・上掲書が言及している書物は上の①で、かつ兵本が引用しているのと同じレーニンの文章が上の①のp.136-7にある。
 すなわち、「正統派マルクス主義の枠内でのネップの立案と、その根拠付け」はレーニンの「最も重要な理論的業績」だった。これについては「レーニン自身が『…われわれは、社会主義にたいするわれわれの見地全体が根本的に変化したことを、みとめないわけにはいかない』と記している」。
 また、このレーニンの言葉がレーニン全集第33巻のp.494に載っていることも、メドヴェージェフは(邦訳書のp.185の)注で記している。
 三 さっそく(といってもこの投稿文執筆からはだいぶ以前に)、レーニン全集の該当頁も読んでみた。兵本は引用の直前に「1922年秋頃」という時期を記しているのでこの頃のレーニンの文章かと誤解していたが、1923年1月に書かれた「協同組合について」と題するものの一部で、1923年5月に新聞「プラウダ」に掲載されている。1921年3月に「ネップ」導入が決定されており、翌年1924年1月にレーニンは死ぬ。
 このような時期の記述等も全く無駄ではないと思うが、困ってしまうのは、兵本達吉、メドヴェージェフにおいて、レーニンの文章の「解釈」あるいは理解の仕方が同じではないと見られることだ。また、私はロシア語版ではなく日本語版のレーニン全集33巻で読むしかないが、、ロシア語原文を見たのであろうメドヴェージェフの「解釈」が果たして全くの誤りがないのかも、そもそもは問題になりうる。
 これら三者の、日本語(または日本語に訳された)のテクストを見ても、日本語文の「解釈」あるいは「読み方」という問題が伏在することを感じざるえない。「言葉」を媒介とする意味理解とは、なかなか厄介なことだ。
 まずは、同じ日本語の書き手であるはずの兵本達吉が上のレーニンの文を引用しつつ述べていることの「趣旨」に私なりに論及してみよう。
 最後にはレーニンにたどりつく予定で、レーニンの「市場経済」の捉え方という、元来のテーマの検討に役立つかもしれない。
 四 兵本達吉(・日本共産党の戦後秘史のp.443-4)の文章を順次抜粋すれば、つぎのようなものになる。
 ①「1921年」には、レーニンはネップを「農民への一時的譲歩、一時的後退」だと考えていた。
 ②「1922年秋頃」になるとレーニンのトーンは「明らかな変化」を見せた。今度は「問題は、戦術ではなく戦略」で、「一時的譲歩」ではなく「本腰を入れた、長期にわたる」政策の問題であり、「革命的方法から『改革的方法』への移行」だった。
 ③「そしてレーニンは、『我々は、社会主義に対する我々の根本的見地全体が根本的に変化したことを、認めなければならない』と書いている」〔これがここでのいわゆるレーニンの引用文〕。
 ④今日、「レーニンのこの一言に社会主義最後の救いを求めようとする人たちが殺到している。日本にも大勢いる」。/「レーニンは、『戦後共産主義』に見られる統制(計画)経済を断念して、市場社会主義とも言うべきものに社会主義の構想を改めた、というわけである」。
 ⑤メドヴェージェフは以下のように書いた。「ネップへの移行はいうまでもなく、逸脱であった。しかし、ロシア共産党とソヴィエト・ロシアを破滅へとへと導きかねない誤った道からの逸脱であった」、「ネップへの移行は1917年から1922年のロシア革命の終焉である」
。〔秋月注記-メドヴェージェフの上記①のp.137。兵本の引用と微細な差異があるが、無視してよい程度だろう。〕
 ⑥こう書いてメドヴェージェフは、「レーニンがネップにロシア革命の救いを求めようとしたなどという馬鹿げた議論にクギをさしている」。
 ⑦レーニンは、「資本主義復活に対する警戒心」と「ネップがあくまでも一時的で。戦術的な後退であること」を隠さなかった。
 ⑧1921年党大会でレーニンは、「経済的ネップは、決して政治的ネップを意味するものではない」と語り、一方で党内分派禁止等の「民主集中制」を組織原則とする「一枚岩的党」の建設の基礎を築いた。/ネップは「市場経済への一歩後退」を意味したが、「政治的には」レーニン・スターリン移行期に、党は「軍隊的規律を持った強固な組織」に変わった。
 以上。ここですでに、日本共産党によるレーニンの経済政策や社会主義建設論の理解の仕方に触れたくはなる。兵本達吉は明らかに、日本共産党の考え方(<レーニンは正しく、スターリンが覆した>)を意識して、上のことを述べていると間違いなく推測できるからだ。
 だが、既述のように、日本共産党、正確にはおそらく不破哲三やその追随者・志位和夫らがレーニンが<市場経済を通じて社会主義へ>の道を明らかにしたとして論及する文献は、レーニン全集の上記部分ではない。
 ともあれ、兵本がレーニンにとってネップは<市場経済を通じて社会主義へ>の道を採用したものでは全くなく、「一時的な後退」にすぎない、というレーニン解釈を採っていることは明らかだ。
 この当否にはここでは触れない(むしろ結論は同じだとも言える)。
 但し、このレーニンの引用文を、およびこれへの論及を含むメドヴェージェフの文章を、兵本達吉の理解の仕方を基礎づけるものとして援用する、あるいはそのように「解釈」するのは、多少は無理があるようにも感じられる。
 <この部分、さらに続ける。>

日本共産党の大ペテン・大ウソ23。

 一 ようやく二つのうちの第一の論点を終える。
 1991年のソ連崩壊前後の日本共産党の文献を通じて(もちろん全てではないが)、①1994年第20回党大会による綱領改定に際して、(とっくに、1930年代に)ソ連は社会主義国ではなくなっていた、という同党の歴史理解を明らかにした、ということが分かり、②日本共産党は、ソ連崩壊後の一時期はソ連(・ソ連共産党)の「覇権主義」等を厳しく批判しながらも、ソ連が社会主義国だったのか、つまりは社会主義国をめざす国家や共産党に対していわば<(国際共産主義運動の)仲間うち>の問題として「覇権主義」等の誤りをしてきたのか、社会主義国ではもはやないソ連に対して「覇権主義」等を批判してきたのかを曖昧にしてきたことも分かった。そして、③上の②の答えは1991年以前は明らかに前者、つまり<(国際共産主義運動の)仲間うち>の問題としての指摘だったにもかかわらず、ソ連崩壊以後は何と、<30年にわたってソ連を批判し続けてきた>ということを、日本共産党は「正しい」(1994年7月以降は、崩壊したのは社会主義ではない)と言い張る根拠にする、という大ペテンを仕掛けたのだった。
 1994年に至って、このようなソ連の性格に関する見地の根本的な変更、従来とは全く反対の理解をすることについて、不破哲三は、1994年の党大会で日本共産党中央委員会幹部会委員長として、「旧ソ連社会にたいする私たちの認識は、多くの逸脱と否定的現象をともないつつも大局的にはなお歴史的な過渡期に属するという見方の上にたったもので、今日から見れば明確さを欠いていた」とだけ、反省(?)の言葉を述べたのだった(2016.05.23秋月「…の大ペテン・大ウソ09」参照)。
 二 第二の論点は、すでに少し立ちいっているのだが、ソ連の歴史について日本共産党がいう、スターリン以降に「誤った」(レーニンは「正し」かった)という旨の1994年以降の日本共産党による<歴史の評価>は適切なのか、だ。
 「…大ペテン・大ウソ」の第01回めでは、「日本共産党は、レーニンまでは正しく、つまりレーニン時代は「社会主義」の方向に向かっていたが、<大国主義・覇権主義>のスターリンによって誤った、と言っているようだ。/このような、レーニン時期とスターリン時期の大きな(質的に異なると言っているような)区分論は歴史把握として適切なのか。あるいはまた、この対比は、レーニン=「社会主義」、スターリン=<それ>からの逸脱、と単純化してよいのかどうか」、と書いた。
 この問題は第一の論点と異なり、関係文献をきちんと読んで分析すれば(客観的に把握すればよい)というものでは必ずしもない。なぜなら、レーニンとスターリンの異同そのものの問題として言えば、共通性もあれば異質性もあったということになるはずなのであり、問題は<社会主義>の方向に向かっているか(「正し」かったか)、逆(又はそうでない)方向に向かっている(「誤って」いたか)という、<評価・論評>の世界に入ってしまうからだ。
 しかし、<社会主義>にとっていずれが「正しい」(正しかった)かどうかは秋月の関心ではないし、そもそもが<社会主義(・共産主義)の方向>とは何かを論じるつもりも資格もない。
 厳密に論理的にいえば、かりにマルクスが理解し主張したのが<正しい>社会主義だったとすれば、第一に、レーニンもすでに「誤って」いた(=突き詰めれば、ロシアの1917年10月にあったのは「社会主義革命」ではなかった)、したがって「誤って」いた点ではレーニンもスターリンも同じだ、という理解・論評も成り立つだろう。
 一方、第二に、かりにマルクスが理解し主張したのが<正しい>社会主義だっとして、レーニンもスターリンもともに「正しく」社会主義の道を歩んだ、ソ連の崩壊(とソ連存続中に生じた事象)は、マルクス主義自体が含む歴史的な必然の表れだった、という理解・論評も成り立つはずだ。
 上の二つ捉え方は、マルクス・レーニン・スターリンの三者の基本的な異同に着目すれば、次のように図示できる。
 A 〇-×-×。 B 〇-〇-〇。
 これらと対比すれば、日本共産党の理解・評価の仕方は、次のようになる。
 C 〇-〇-×。
 また、実際に主張者があるどうかは知らないが、ロシアに「社会主義革命」が起こったにもかかわらず、レーニンはとくに「ネップ(新経済政策)」の導入によって市場経済・「資本主義」への方向へと道を切り換えて社会主義への道を踏み外した、これをスターリンが本来の社会主義への道へと戻した、という理解・論評もありうる、と考えられる。かりにマルクスの理解・主張は「正しい」ものだという前提に立てば、この理解・論評は次のように図式化できるはずだ。
 D 〇-×-〇。
 すでに論及し始めているここでの論点は、上のC(日本共産党の評価)の適否だ
 マルクスとの間の対応関係を捨象してしまえば、より正確には、あるいは厳密には、レーニンは「市場経済を通じて社会主義へ」という道を、ロシアに特有のかつ一時的戦略としてではなく、社会主義到達方法論の一つとして<理論的に>選び、少しは<現実に>も実施したのか(そして、スターリンはそれを覆したのか)、ということになる。
 はたして「市場経済を通じて社会主義へ」という道が(とりわけマルクスから見て)一部にせよ、あるいは一般論としても、ありうるのかどうか、という問題は関心対象ではない(<社会主義>社会を夢みている人々は真摯に議論していただきたい)。
 要するに、日本共産党の理解・主張の適否は、レーニンはロシアに特有のかつ一時的戦略としてではなく、社会主義建設方法論の一つとして「市場経済を通じて社会主義へ」という道を主張しかつ実践した、と評してよいのかを、とりわけレーニン関係文献を通じて検討することによって明らかになるはずだ、と言えるだろう。
 以下、あらためてこの作業を続けていく。
 <つづく>

日本共産党の大ペテン・大ウソ21。

 不破哲三・スターリンと大国主義(新日本新書、1982.03)は、1982年1-2月に「赤旗」に連載されたものを注を付してまとめたものだとされる。ソ連共産党およびソ連の解体前の書だ。
 新装版/不破哲三・スターリンと大国主義(新日本出版社、2007.05)というものもあり、これには不破の18頁にわたる「新装版の刊行にあたって」が目次前の冒頭に付いている。そして、この新装版はソ連共産党・ソ連解体後のものだが、上記の1982年の新書版と内容は変わっていない、らしい。逐一の確認はしていないが、どうやらそのとおりのようだ。
 興味深く、かつ厚かましいと感じ、かつまた不破哲三の面の皮はよほど厚いに違いないと思うのは、2007年の本のまえがきで、①「ソ連大国主義をめぐる歴史的追跡において、根本的な訂正が必要だと思われる点が見あたらない」、②「この二十五年の間に」新しい事実も明らかになったが、「ソ連覇権主義への告発に訂正をせまるものではない」等と不破は述べているが、元となった1982年の新書では、ソ連を「社会主義」国の一つと見なしたうえで、その大国主義等を批判していることだ。重大な変化を無視して、表面的な不変性(訂正・修正の不要性)を語っていることだ。  
 そしてその重大と思われる点については、2007年の本のまえがきで、1994年の第20回党大会でソ連は社会主義ではなくなっていたと明確にした、「ソ連で崩壊したのは、社会主義ではありません」、と釈明しかつ強弁している(p.17)。
 以下で紹介しておくように1982年にはソ連を「社会主義」国の一つと見なし、「国際共産主義運動内部」での「大国主義、覇権主義」と明記しながら、2007年には「根本的訂正」は必要なかったとしつつ、1994年に日本共産党はソ連は社会主義国でなかったという見地に立った、とまえがき部分でこっそりと?、いや公然と「訂正・修正」 しているのだ。
 どういう神経をもっているのだろう。どれほどに面の皮は厚いのだろうか。これを「知的傲慢」と言わずして何と言うのだろうか。
 ともあれ、1982年には不破哲三はこう書いていた。2007年の上の①や②と対比していただきたい。1982年新書版、p.240-242。
 ・「今日の社会主義」はまだ「生成期」にあるという「歴史的制約以上に重大なことは、ソ連などの大国主義、覇権主義をはじめ、社会主義の原則に反する誤りとその蓄積が、社会主義の事業が本来もっている…威信と優越性をはてしなく傷つけていることです」。
 ・「この大国主義」は、「社会主義の道にふみだした国ぐにの経済的政治的困難の最大の要因ともなってき」ており、「大国主義克服のための闘争は、世界と日本の社会主義の事業にとって、決定的といってよい重みをもっています」。
 ・「いっさいの大国主義、覇権主義、ヘゲモニー主義を国際共産主義運動と世界政治から根絶することをめざす」闘いはレーニンの継承発展という歴史的意義をもつ。
 ・日本共産党は1981年にソ連共産党中央委員会あて書簡で、「ソ連の現在の…大国主義、覇権主義のあらわれの一つひとつを事実に即して具体的に指摘し、きびしく批判するとともに、これを国際共産主義運動内部から一掃するために最後までたたかう」意思を表明した。
 ・ すなわち、「アメリカ帝国主義」や「日本の反動支配層」とたたかうと同時に「国際共産主義運動の内部における大国主義、覇権主義のいかなるあらわれにも反対して、その是正を求め、…奮闘するでしょう」、と書き送った。
 以上は、2007年の単行本のp.266-8頁にも、同文でそのまま掲載されている。
 このように「ソ連などの大国主義、覇権主義をはじめ、社会主義の原則に反する誤り」だとか、「国際共産主義運動の内部における大国主義、覇権主義」と闘うとか書いておきながら、2007のはしがき・序文では、何と、<訂正・修正>する必要はなかった、と不破哲三は<開き直って>いるわけだ。
 ここまで傲慢になられると、そしてソ連共産党・ソ連自体の解体の意味を全くかほとんど無視されると、巨大なカラクリに眩惑されてしまいそうだ。
 日本共産党は、ソ連と三〇年以上にわたって闘ってきたと、さも自慢そうに言い、そのついでに?、崩壊したのはソ連であって社会主義ではない、とも1994年以降は明確に言い始めたのだった。しかし、日本共産党は、「社会主義」国ソ連の「社会主義の原則」に反する「大国主義、覇権主義」を、「国際共産主義運動内部」の誤りとして三〇年以上闘ってきたのだった。もはや社会主義国ではないとしてソ連(の大国主義・覇権主義)と闘ってきたわけでは全くない。
 ソ連(・ソ連共産党)は誤ったが、日本共産党は「正しい」。落胆することなく、確信をもって前進しよう。-こう党員やシンパ(・同調者たち)を説得し、煽動するために、日本共産党幹部たちは<(わが党は)ソ連の(誤った)大国主義・覇権主義と三〇年にわたって闘ってきた>ということを持ち出す。これは<大ペテン>だ。
 追記-いったんレーニンとスターリンの異同の問題に立ちいって、稲子恒夫著にも言及した。それは、産経新聞政治部・日本共産党研究( 産経新聞出版、2016.05)が発売される予定であることがその当時分かっていたので、その前に稲子恒夫著を資料として用いていることを明らかにしておく意味が個人的にはあった。この産経新聞の本には結果としては稲子恒夫著への言及がなかったので、急ぐ必要はまったくなかったことになる(産経本には、「研究」と称しつつ、参考文献の参照頁の詳しい摘示が全くない)。

香西秀信・レトリックと詭弁(ちくま文庫)より。

 先日6/21に言及した福井義高の論考の中に香西秀信の著の一部の引用・紹介があったので、確認すべく捲っているとやはりなかなか面白いので、ここでもう少し詳しく引用・紹介しておく。本来の文脈=レトリック関連は無視する。
 香西秀信・レトリックと詭弁(ちくま文庫、2010/原著2002)p.105。
 以下、引用。「私」とは、著者・香西秀信。
 私も…、大学教師が「『進歩的』と思われる」ことの利益など何もなかったと思っています。その理由は、少なくとも社会主義諸国崩壊の前までは、社会科学や人文科学系の大学教師にとっては、「進歩的」ポーズをとることなどほとんど常態だったからです。皆がそうなのですから、「『進歩的』と思われる」ことに利益など生じるはずもありません。/ …。何よりも、社会科学や人文科学の分野では、「進歩的」でないと見なされたら、(国立)大学に職を得ることすら困難でした。誰もが「進歩的」であるように見せかけていた時代に「『進歩的』と思われる」ことなど何も利益はない…。…「進歩的」でないと思われることと比較して、初めて隠された「御利益」が見えてくるのです。
 以上、引用終わり。つぎは同上著p.106。直接の引用はしづらいので、筆者(秋月)がほんの少しは修正を加える。「私」は香西秀信。
 ①戦時中に「少年期にあった人たち」が戦後になって、戦時中に「鬼畜英米」・「一億火の玉」とか言っていた大人たちが突然に「民主的」になり「こんな馬鹿な戦争がうまくいくはずがないと思っていた」と「したり顔」で解説するのを聞いて、「その後の彼らの人生観、ものの見方」に大きな影響を受けた、という話を私はしばしば聞いた。
 ②私にも「似たような経験」がある。「ソ連、東欧の社会主義諸国が崩壊した」とき、かつては「社会主義を賛美していた、少なくともシンパシーを感じていたはずの人たち」が、「ショックで発狂すると思いきや」、「あんな体制が長生きするはずはない」と涼しい顔で傍観していた。その人たちは、かつて戦後すぐの大人たちの変節に大きな影響を受けたと話してくれたのと、同じ人たちだった。
 ③その人たちは、1960年代には「反革命」と評価していた同じものを、社会主義諸国崩壊直前の1990年頃には「民主化」と言い始めた。「『その後の彼らの人生観、ものの見方』に大きな影響を受けた」のは間違いないだろう。かつて軽蔑した大人たちと同じ年頃になって、まったく同様の振る舞いをし始めたのだから。
 以上。上の「民主化」とは、旧ソ連のペレストロイカ等を指しているのだろう。
 上のような、<非・コミュニスト的な左翼>は、現在の日本人、とくに60-65歳以上の者たちの中に、かなり多くいそうだ。なるほど。
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 いちいちメモをしてきていないのだが、6/23には、以下を(も)、たぶん15分くらいで読了。
 梶川伸一「レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか-十月革命後の現実を通して」上島武=村岡到編・レーニン/革命ロシアの光と影(社会評論社、2005)p.14-32。

日本共産党の大ペテン・大ウソ18

 少し元に戻る。
 1.日本共産党がソ連を<社会主義国ではなかった>と公式かつ明確に性格づけたのは、1994年7月の第20回党大会においてだった。
 既述だが、この1994年7月まで、ソ連は「社会主義」国ではなかった、と性格づけたことは、1991年12月のソ連(の公式)解体後も、一度もなかったと見られる。
1991年12月(ほぼ1992年1月)から1994年7月第20回党大会の直前まで、上の性格づけの明言はなく、まだ曖昧にであれ「社会主義」国の一種と見ていたと理解するほかはない文献上の根拠はすでに挙げたが(2016.05.19の「07」の3②)、いま一度、もう少し詳しく紹介しておく。
 2.上記第20回党大会の2月前の 1994年5月に発行された、日本共産党中央委員会・日本共産党の七十年/下は次のように、その時点からは過去の同党大会について、叙述している。かりにすでに<「社会主義」国理解>を放棄していたとすれば、以下のような叙述にはならない、と考えられる。
 ①p.238-9- 1985年の第17回党「大会は、党綱領の内容をいっそう充実させる一部改正をおこなった」。「第一に、覇権主義の克服を綱領上の課題としてとりあげた」。「また、綱領の一部改正は、…、社会主義諸国、国際労働者階級、…、社会の社会主義的変革のためにたたかっている勢力は、『内部にそれぞれの問題点をもちながらも、社会の歴史的発展にそう活動』によって、今日の時代における『…を決定する原動力となりうるものであり』と規定し、これらの勢力が世界平和、…、社会進歩をめざして『ただしい前進と連帯をはかることが重要』と明記した。この規定は覇権主義、官僚主義などをもつ『内部にそれぞれの問題点』をもつ社会主義諸国がその誤りのゆえに世界史の発展の原動力となりえない場合のあることを意味していた。旧ソ連・東欧の体制の劇的破たんは、これらの規定の歴史的先駆性をあざやかにしめすことになった」。/〔改行〕
 「第二に、『資本主義の全般的危機』という規定を削除した。『資本主義の全般的危機』論は、①……、②社会主義体制が世界史を決定し資本主義体制の危機をふかめることを一面的に強調し、社会主義国依存の傾向をうみ、主体的力を軽視する傾向をうみがちであること、③社会主義国の一部に覇権主義の誤りがつよまり、帝国主義の態勢立て直しと延命をたすけているという情勢の変化がうまれたこと、-以上から誤った理解をうむ不適切な規定をとりのぞいた」。/〔改行〕、<第三、第四、第五および「その他」は省略>
 引用終わり。
 上のうち『』内は1985年改定綱領の中に含まれる文であり、それ以外の「」内は、1994年5月発行の上掲書自体の文章だ。1985年時点の日本共産党のソ連理解を忠実に反映しているとも言えるが、1994年5月時点で、「社会主義(諸)国」の中にソ連を含めて叙述していることは明らかだろう。
 ②p.377-8-「『社会主義崩壊』論による異常な反共攻撃と…のなかで、党は1990年7月9日から…、第19回党大会を、…ひらいた」。<中略>
 「大会は、『現存の社会主義体制をみるさい、レーニンが指導したロシア革命の最初の時期と、スターリンによる逸脱が開始されて以後の時期を区別して分析する必要がある』と指摘して、レーニンの死後『ソ連の体制は対外的には大国主義、覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制へと転換させられていった』ことを解明し、そのうえで『日本共産党は、……』と強調した」。<以下、略>
 引用終わり。上のうち『』内は1990年の党大会決定(または不破哲三幹部会委員長報告)の中に含まれる文であり、1990年7月時点で(ソ連共産党やソ連の解体は1991年)日本共産党がソ連を「現存の社会主義体制」の一つと見ていたことが分かるが、今のここでの文脈では重要なのは、1994年5月の日本共産党の文献が、上のように1990年時点のソ連理解をそのまま引用して「党史」を叙述していることだ。
 なお、日本共産党中央委員会・日本共産党の八十年(2003、日本共産党中央委員会出版局)は、上のような詳しい?叙述を回避している。
 3.1.不破哲三・ソ連・中国・北朝鮮-三つの覇権主義(新日本出版社、1992.11)、2.不破哲三・日本共産党に対する干渉と内通の記録-ソ連共産党秘密文書から/上・下(新日本出版社、1993.09)はいずれも、1991年12月のソ連解体と1994年7月の第20回党大会の間に書かれ、出版されている。
 注目されてよいのは、かなり分厚い上の2冊(または3冊)において、ソ連またはソ連共産党の覇権主義等々を厳しくかつ詳しく批判しながらも、ソ連は<社会主義国ではなかった>という旨の叙述は、いっさい存在しないことだ。
 かりにソ連解体後にソ連は<社会主義国ではなかった>と不破哲三または日本共産党がすでに?理解していたとすれば、上に述べたような叙述には決してならなかっただろうと思われる。
 上の1.の最初の大きなタイトルは、「ソ連共産党とたたかって三十年」だ。
 この30年とは1961年綱領・宮本賢治体制確立以降のことだと考えられるが、日本共産党・不破哲三の1994年7月第20回党大会以降の説明・主張によれば、1961年の時点でソ連はとっくに<社会主義への道>を踏み外し、<社会主義(を目指している・生成途上の)国>ではなくなっている。にもかかわらず、ソ連は<社会主義(を目指している・生成途上の)国>ではなくなっていた、そのような国家又はソ連共産党と「三十年」にわたって「たたかって」きた、というのならば、その旨がはっきりと叙述されているはずだろう。
 この点もまた、1991年12月と1994年7月の間、日本共産党はまだソ連を<社会主義国>と見ていた、あるいは少なくとも(下記の文献の一部も斟酌すれば)、ソ連共産党解散につづくソ連解体に遭遇して明瞭な見地に立ち得ず、<混乱していた>、ということの証左になる、と解される。
 4.1990年8月(日本共産党の第19回党大会の翌月)、ソ連共産党は解体した。
 日本共産党中央委員会常任幹部会は、1990年9月1日付で「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する-ソ連共産党の解体にさいして」と題する声明を発表した。同声明は述べる。以下、日本共産党中央委員会出版局・日本共産党国際問題重要論文集23(1992.01)、p.283~による。<後日6/15に訂正ー上に記した二箇所の1990年は、いずれも正しくは1991年>
 「ソ連共産党の解体は、…を直接の契機としたものであったが、長期にわたって…に巨大な害悪を流しつづけてきた大国主義、覇権主義の党が終焉をむかえたことは、これと30年にわたって党の生死をかけてたたかってきた日本共産党として、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」。/〔改行〕
 「ソ連共産党が、スターリン・ブレジネフ時代から世界に及ぼしてきた大国主義、覇権主義の誤りが、二十世紀の世界史にもたらした重大な否定的影響は、はかりしれないものがあった。1940年の…、45年の…、56年の…、68年の…、79年のアフガニスタン侵略など、くりかえしおこなわれた野蛮な武力による民族自決権のじゅうりんは、ほんらい対外干渉と侵略には無縁である科学的社会主義の理念を傷つけ、平和と社会進歩のためのたたかいにおおきな混乱をもたらした」。<以下、省略>
 引用終わり。
 上のうち、まず、ソ連共産党の罪悪として「科学的社会主義の理念を傷つけ、平和と社会進歩のためのたたかいにおおきな混乱をもたらした」と(まず第一に、または基本的・総括的に)述べているにすぎないことが注目される。たんに「傷つけ」たにすぎず、「おおきな混乱」をもたらしたにすぎないのだ。
 つまりは、この声明の前提には、ソ連共産党も、(科学的)社会主義の理念を追求し、「平和と社会進歩のためのたたかい」をすべき政党だった、という見地があるものと理解して差し支えないだろう。
 したがってつぎに、この声明は(この時点ではまだ存在していた)ソ連邦は<社会主義(を目指している・生成途上の)国>ではなくなっている、という旨など、まったく述べていない、ということに注目しておかなければならない。
 1994年7月になってはじめて、上の旨を明確に述べたのだったから、上の点は当然かもしれない。しかし、ソ連共産党解体の時点で、ソ連を「(現存)社会主義国」の一つと見ていたことを、現在の日本共産党は正直に肯定しなければならない。
 なお、スターリン以後のソ連共産党およびソ連をどのように見ていたかということは、レーニンの時期との対比をどう説明していたかという、(ネップにもかかわる)第二の大きな論点に関係する。再び、上の叙述部分には言及することがあるだろう。
 5.<以下の叙述は、6/15に一部削除したうえでのもの>
 宮本顕治は、1991年1月1日付「赤旗」紙上で、年頭のインタビューに答えている。
 内容としてきわめて重大なのは、宮本のつぎの言葉だ。以下、宮本顕治・日本共産党の立場5(新日本文庫、1997.11)p.7以下の「情勢と科学的社会主義の本道」による。上記の、日本共産党国際問題重要問題集23にも収録されている。「ソ連の事態」についての質問を受けて語る中で、こう言う。
 「…残念ながら、ソ連の出口を科学的に解決できる勢力はいまのところ見あたらない。われわれはソ連の失敗は希望しないし、なんとかソ連も立ち直ってほしいと思うし、現在の経済危機も乗りこえてほといと思うわけですが、しかし、根は深いということです」(p.14)。
 以上、引用終わり。
 宮本顕治は、ソ連共産党という政党とソ連という国家をおそらくは確実に区別して、ソ連については「失敗は希望しないし、なんとか…立ち直ってほしいと思う」と明言し、1991年元旦の党の機関紙上で公にしていたのだ。
 このような言い方が、ソ連はすでに<社会主義の道から踏み外した>、<社会主義国ではもはやない>という理解から生じるはずがない。
 宮本顕治自身が、この時点で、きちんとまだ?、ソ連を「社会主義国」の一つと見ていたのだ。だからこそ、正しい姿へと「立ち直ってほしい」と明言していたわけだ。
 ここには、日本共産党の指導者の、科学的な?予見・予測能力の完璧な欠如も、示されている。宮本は、ソ連が(あるいは社会主義・ロシアが)正式に崩壊することを、全く見通せていなかった、ということになるだろう。
 また、日本共産党の常任幹部会は1991年9月にソ連共産党の解体を「もろ手をあげて歓迎」したのだったが、その一員であったはずの宮本顕治は1991年1月には、「ソ連の失敗は希望しない」と、ソ連邦については明言していたのだ。
 ところで、現在の日本共産党、あるいは不破哲三らは、1991年9月の<ソ連共産党解体歓迎声明>をもって、同党は<ソ連解体も歓迎した>というつもりでいるようだ。そのような趣旨の不破哲三らの文章に出くわすこともある。
 しかし、上の宮本顕治の言葉の論理的な延長は、<ソ連は解体(失敗)してほしくなかった。ソ連解体は残念だ>ということになるはずだ。
 だがしかし、「ソ連解体にさいして」日本共産党常任幹部会等が、上の宮本発言の論理的帰結であるような声明は出していないはずだし、また、逆に<(歴史的巨悪の?)ソ連邦の解体を歓迎する>という声明を出した痕跡もない。いったいどちらだったのだろう。
 日本共産党や同党幹部には知的または論理的な思考力や誠実さはまるでなく、もっぱら<政治的に>・<戦術的(・戦略的)に>、そのつど、無定見に、一見詳しくて、理論的?ふうの戯れ言を撒き散らしてきただけではないだろうか。
 -という、疑いをますます濃くさせる。
 もちろん、<ソ連と30年間にわたってたたかってきた>という言い分は、<大ペテン>だ。
 「社会主義国」ではないソ連や社会主義政党ではないソ連共産党と闘うのと、「社会主義国」の一つであるはずの、あるいは社会主義政党であるはずの、ソ連邦やソ連共産党と闘うのとでは、まるで意味が異なることは明白だろう。嗤ってしまう。

日本共産党の大ペテン・大ウソ13-稲子恒夫は批判する②

 二(つづき)
 稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)より。
 <スターリン主義の起源>との見出し-
 ・「誤りの全責任はスターリン一人とする説があるが、…、スターリンの個人崇拝と個人独裁は、レーニン時代の党組織と党文化を基盤に生まれた。//
 レーニンが『共産主義の左翼小児病』で認めたようにロシアを実際に統治していたのは、共産党中央委員会政治局という小さい寡頭集団だったし、彼は独裁が個人独裁を生む危険についても警告していた。//
 レーニンは首相を兼ね、常時クレムリンにいたから、政治局内で単なる同輩中の第一人者ではなかった。レーニンの党は彼を中心に高度に中央集権的に組織されていた。この状況は党中央の絶対化と官僚主義、党とレーニンの同一視、指導者個人の崇拝と礼賛を生み出していた。//
 スターリンは書記長、組織局員として党中央の実務と中央地方の党組織をにぎるから、党崇拝とレーニンの聖人化、個人崇拝を生みだして、レーニンの後継者である自分の大売り出しに成功した。」/〔改行〕
 以上、上掲書p.1009。//は原文では改行ではない。
 以下、簡単なコメント。
 <レーニンは正しく、スターリンが道を誤った>という理解はまったく示されていない。端的に抜き出せば、「スターリンの個人崇拝と個人独裁は、レーニン時代の党組織と党文化を基盤に生まれた」とされる(p.1009)。また、レーニン時代にすでに「党中央の絶対化と官僚主義、党とレーニンの同一視、指導者個人の崇拝と礼賛」があり、スターリンはさらに「党崇拝とレーニンの聖人化、個人崇拝」を生んで、自分のために利用した、とされる。
 とすれば、以上のかぎりでは、レーニンもスターリンもほとんど変わりはないのではないか。
 また、これまでこの欄ではほとんど言及していない論点だが、レーニンは<ネップ>に積極的ではなかった、という重要なことが指摘されている(p.1008)。
 この点は、また別に論及するが、レーニンが<市場経済を通じて社会主義へ>という「正しい」道を歩んでいたにもかかわらず、スターリンがこれを覆したとする、現在の日本共産党の公的な歴史理解と真っ向から対立するものであり、日本共産党の歴史理解を大きく疑問視させるものだ。
 少なくとも、ロシア・ソ連に関する専門家・学者たちのすべてが現在の日本共産党のように理解しているわけではない。日本共産党、不破哲三の主張・理解も、あくまで一つの「説」にすぎない。
 稲子恒夫は、上掲書の「はしがき」で、つぎのような旨を語っている。
 ソ連の末期にはスターリン時代の多くのことが明らかになったが、「レーニン時代はまだ霧につつまれていた」。1991年以降にレーニン時代を含む極秘文書を含む資料が多数出るようになった。(はしがきp.3-4)
 そして、つぎのように続ける。
 「公開の文書のなかには、レーニンの意外な真実を伝えるものがあり、レーニンは基本的に正しかったが、スターリンは重大な誤りをおかしたというたぐいの、レーニン論の根本的な見直しが必要になった」。(はしがきp.4)
 不破哲三は、「科学」と「真実」を追求するのならば、<スターリン秘史>だけではなく、<レーニン秘史>もまた著すべきだろう。
 <つづく>

日本共産党の大ペテン・大ウソ12-稲子恒夫は批判する①

 一 最初に設定した疑問の第二は、「日本共産党は、レーニンまでは正しく、つまりレーニン時代は「社会主義」の方向に向かっていたが、<大国主義・覇権主義>のスターリンによって誤った、と言っているようだ。このような、レーニン時期とスターリン時期の大きな(質的に異なると言っているような)区分論は歴史把握として適切なのか。あるいはまた、この対比は、レーニン=『社会主義』、スターリン=<それ>からの逸脱、と単純化してよいのかどうか」、というものだった。最後の<それ>にかかわる論点には、既に長らく言及した。
 さて、現在の2004年綱領は、レーニンとスターリンについてつぎのように明記している。「世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中で書かれている。
 「最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。『社会主義』の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。」 
 この綱領以前の段階で、1980年代後半には、レーニンの時期とスターリン(以降)の時期を区別する必要が、不破哲三らによって(そして日本共産党によって)語られてきた。
 「少なくない試行錯誤をともないながら」という限定はついているが、二つの時期を大きく簡単に区別することができるのか。
 この問題は<正・邪>の論評・評価にかかわるので、単純な<事実>認識の問題ではない。しかし、上のようにソ連の歴史を単純化できるのか、<ロシア革命>自体について、あるいは<新経済政策(ネップ)>等々について、これら等々とレーニンやスターリン等との関係について、種々の議論・歴史学上の検討成果がありうる。
 ロシア社会主義革命とレーニンを否定するということは、日本共産党を否定することに等しい。
 なぜなら、日本共産党は1922年に、ロシア「社会主義革命」を達成したボルシェビキ、のちのソ連共産党が中心として1921年に結成したコミンテルン(国際共産党、第三インター)の日本支部として創立されたからだ。
 日本共産党自体が、ロシア革命がなくコミンテルンもなければ、産まれていないのだ。 日本共産党が「共産党」と名乗り、創立年を(例えば1961年ではなく)1922年とするかぎり、ロシア「社会主義革命」と(かつての、少なくとも1922-35年の間の、コミンテルンの存在の正当性を絶対に否認することができない、という宿命にある。
 そして、ロシア「社会主義革命」とコミンテルン結成に主導的役割を果たしたのはレーニンだから、日本共産党はレーニンを(いまこの政党がスターリンについて行なっているようには)批判し否定することが絶対にできない。
 そのような日本共産党がレーニンとスターリンについて上のように現在主張している(認識している?)のは、そもそも身勝手な主張ではないのだろうか?
 ソ連の政治、法制、社会、歴史の専門家ではない秋月が、レーニン研究もスターリン研究も適切に行えるわけではないことは当然だ。
 しかし、いま日本共産党の主張しているように単純には言えないのではないか、と疑問視することはできるし、日本共産党が主張しているようには理解してはいないソ連(・ロシア)に関する学者・研究者もいる、という程度の指摘・紹介くらいはすることができる。そして、次のようにも言えるだろう。日本共産党は<大ウソ>をついているのではないか、と。
 二 さっそく、稲子恒夫編著・ロシアの20世紀/年表・資料・分析(2007、東洋書店)のうち、編著者自身の分析結果を示す文章の一部を引用・紹介する。
 稲子は、「日本共産党」と名指しはしないが、この党の「説」をこの著で批判していることが明らかだ。
 <レーニンの真実>との見出し-
 ・「スターリンの国家万能とレーニン無関係説は…、レーニンの革命前後の主張と『ウラーの国有化』とその結果の経済の混乱の実際にふれないで、彼〔レーニン〕の功績をもっぱら市場経済移行の新経済政策(ネップ)の開始から始める。//
 しかし、…というネップは…、クロンシュタートの反乱、エスエルが主張していたことであり、レーニンは乗り気でなかった。//
 しかも彼〔レーニン〕は生前最後の22.11.20の演説でネップを『後退のゼスチャー』と言い、新たな飛躍を宣言した。//
 このネップの中止を呼びかける演説は『レーニン全集』に新聞報道による要旨だけが載っており、全文はやっと1995年の…に公表された。//
 ネップは党の戦術(長期政策)ではなく、当面の戦略だからあいまいだった。」/〔改行〕
 ・「そのうえネップには政治の改革がなかった。//
 ネップとレーニン礼賛者はこの時期の…、報道の自由、出版の自由など政治的自由の否定、検閲の確立、教会の弾圧、多数の知識人の国外追放など、ネップにともなうプロレタリアート独裁の制度化にふれない。」/〔改行〕
 ・「さらにネップ時代の広範な政治犯罪と類推適用を認めた1922年刑法典へのレーニンの関与、流刑の復活、法律によらない都市からのネップの湯あか(ネップマン)の追放、彼らの財産没収というレーニンのいう経済的テロも無視できないだろう。」/〔改行〕
以上、稲子・上掲示書p.1008-9. //は原文では改行ではない。
 <稲子編著も含めて、つづく>

日本共産党の大ペテン・大ウソ11

 一 日本共産党は、ソ連の解体まで、1980年代後半にも複数回、ソ連またはソ連共産党を訪問していた。
 1987年は1917年10月「社会主義」革命70周年だったので、11月初旬のモスクワでの記念行事に出席し、記念集会で当時の書記局長・金子満広がメッセージを読み上げている(日本共産党の70年/党史年表(日本共産党中央委員会)による)。
 また、その前の10月に「日ソ両党関係を素描する-10月革命70周年」という論文を発表して10/22付けの機関紙・赤旗に掲載している。
 黒坂真「『構造改革論』と不破哲三」幻想と批評第8号(2008.04、はる書房)p.44-45によると、その内容の一部はつぎのとおり。
 ・「われわれはまた、十月革命70周年にあたり、70年前に遅れた資本主義国から出発した社会主義のソ連が、人民の生活、教育、医療などの分野で今日まで築きあげてきた大きな成果を土台に、政治的経済的文化的にいっそう前進、発展することへの期待を表明する。」
 ・「おおざっぱではあるが、これまでたどってきたように、65年間の日ソ両党間の関係のうち、主要な部分は友好と協力の関係である。」
 ソ連正式崩壊のわずか4年前にこのように語っていたことを、憶えておく必要がある。
 こう書いた7年足らずのちには、ソ連は「社会主義」国では全くなかった、と評価が反対になったのだった。そして、現在、スターリン下のソ連に対して、日本共産党はさんざんの悪罵を投げつけている。
 1922年日本共産党設立、1991年ソ連共産党解体だから「交流」期間はほぼ70年だが、1935-45年の10年は日本共産党としての活動はないから、実質はほぼ60年になる。
 上では「主要な部分は友好と協力の関係」だという。しかし、今日の日本共産党の見方では1936-37年にはソ連はすでに「社会主義」国ではなくなり、スターリンの継承者たちの指導下のソ連もそうだったとされているので、良好な関係というのは、じつは、1922-35年の10数年間にすぎない。65年のうち約14年間では「主要な部分は友好と協力の関係」だったとはとても言えないだろう。
 1994年7月20回党大会以前の日本共産党の文献のうちソ連関係部分はどのように訂正・修正・是正・削除することになるのか、現在の日本共産党には一覧表を作ってもらいたいものだ。
 二 1994年7月20回党大会の前に開かれた、19回大会第11回中央委員会総会で、予定の20回大会について不破哲三は、つぎのような「幹部会報告」を行なった(1994年3月、19回大会中央委員会総会決定集/下による)。
 「〔予定している〕綱領・規約の一部改定の趣旨について若干のべますと、党綱領の基本路線の正しさはもこの33年の歴史の検証を経て、いよいよ鮮明であります。…。さらに、85年の一部改定のさいには、覇権主義の歴史的克服を綱領的任務として規定しました。ソ連の解体は、この規定の先駆的な意義をあきらかにしました。/〔改行〕
 このように、綱領の基本路線の正しさは明白でありますが、…、今回の一部改定では、ソ連覇権主義の解体が現実のものとなった情勢のもとで、世界情勢の叙述をそれにふさわしく改定することを主眼にしたいと思います」。
 おそらくはすでに、綱領改定案はほとんど作成されていて、ソ連は「社会主義」国ではなかった、ソ連等の崩壊は「資本主義の優位を示すものではない」等の新綱領や不破報告は用意されていたのだろう。
 だが、ともあれ、ソ連の覇権主義批判の「先駆的な意義」が「ソ連の解体」によって明らかになったとは、何という倒錯であり、何という<大ペテン>だろう。
 本来、ソ連が覇権主義の誤りを<社会主義の復元力>でもって是正し<正しい社会主義>の路線に戻ることこそ、日本共産党は期待していたはずなのだ。それとは逆の事態が現実には生じたことについて、覇権主義批判は正しかったと喜んでいるのが、上の不破哲三の言葉だ。
 また、上では「ソ連覇権主義の解体が現実のものとなった情勢のもとで、世界情勢の叙述をそれにふさわしく改定する」と述べているが、実際に行なったことは「ソ連の解体」をふまえての、ソ連に関係する部分の「歴史」の修正、日本共産党にとって都合が悪くなった部分の削除や訂正に他ならない。もっとも、20回大会での改定だけでは不十分だと考えられたようで、その後も、とくにソ連関係部分の「歴史」の修正が綱領改定によりなされていった。
 不破哲三が、そして日本共産党が<反省>らしき言辞を全く述べなかったわけではないが、それは到底「自己批判」・「詫び」と言えるものではないことは、すでにこの欄で述べた。
 ところで、興味深いのは1991年末のソ連正式解体後の日本共産党幹部会メンバーたちの議論の中身だ。ソ連存在中の綱領や不破哲三報告等々が問題にされたに違いない。そして、ソ連が存在しなくなった新情勢にどのように<さりげなく、連続性があるように>綱領や報告を変えていくかが、おそらくは当時の幹部会委員長・不破哲三を中心に議論されたに違いない。
 幹部会委員の議論によったのか、それとも常任幹部会委員だけの議論と案作りだったのか、よくは分からない。明確なのはたぶん、少なくともこの時期は筆坂秀世や兵本達吉は幹部会メンバーではないので、元党員であっても、この辺りの事情にさほど詳しくはない、ということだろう。

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ10

 「共産主義読本」編集委員会編・共産主義読本(1966.12)という本がかつて刊行されていた。編者名だけでは明確でないが、奥付では、日本共産党中央委員会出版部発行で、日本共産党中央委員会機関紙経営局が発売元とされているので、少なくとも当時の、日本共産党の公式見解・主張が語られている、と理解してよい。
この本のp.327-8は、「社会主義社会」とは~ですという説明のあと、次のように述べる。
 「このような社会主義社会は、ロシアにおける1917年の十月社会主義革命の勝利のあと、長期にわたる闘争の結果、1936年ごろにソ連邦で基本的に実現されました。//
 その後、第二次世界大戦の末期から終戦後数年にかけての激動の時期に、チェコスロバキア、ポーランド、アルバニア、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、ドイツ民主共和国、中国、朝鮮民主主義人民共和国、ベトナム民主共和国およびキューバが資本主義世界体制から離脱して、社会主義建設の道にのりだしました。//
 これらの国のほかに、すでに第一次大戦後まもなく資本主義的発展の道をとおって社会主義社会をうちたてつつあったモンゴル人民共和国をくわえると、すでに基本的に社会主義を建設した国、および社会主義を建設しつつある国は、こんにちでは一三カ国をかぞうます。//
 つまり、いまではもう世界人口の三分の一以上をしめる9億50万人以上の人びとが、社会主義の道にふみだして新しい生活をきずきはじめているわけです。//
 いまでは資本主義世界体制とならんで、強大な社会主義世界体制が存在します。」
 以上。//は、原文では改行ではない。
 なかなか感慨、あるいは興趣?を覚える文章だ。こうした文章をたぶん1980年代までは、日本共産党は書いていたのだろう。
 上のうち、ソ連は「1936年ごろ」に「社会主義社会」が「基本的に実現」されていたという記述に、第一に驚かされる。
 一つは「1936年ごろ」という時期の特定だ。
 別により詳しく言及したいが、今日の日本共産党は、「1930年代」(の半ば)にスターリン指導のソ連は「社会主義」の道を踏み外した=「社会主義」とは縁もゆかりもない社会に変質した旨を言って(主張して?、理解して?)いるので、まったく真逆に、この1930年代半ば頃に「社会主義社会」が「基本的に実現」されていたと、1966年の時点では言って(主張して?、理解して?)いたわけだ。
 コメントの二つめに、とりあえず文献は省略するが、その後の日本共産党が社会主義化が「基本的に実現」されたなどとは言わず、<まだ生成期の(生成途上の)>「社会主義国」と言ってきたことを承知している。
 この点でも、日本共産党は<歴史認識>を変えている。1994年7月以降は、「社会主義」国でもなかった、と言っているのだが。
 第二に、いわゆる東欧の7国を「社会主義建設の道にのりだし」た国々と理解している。
 これらはすべて、今日ではいかなる意味でも「社会主義」国ではなくなった。
 1966年当時の真面目な日本共産党員、真面目な共産党シンパは、この「現実」をどう受けとめたのだろう。
 第三に、この当時、モンゴルや北朝鮮も含めて13カ国が「社会主義世界体制」に属する、と言っているが、今日の日本共産党の言っているところによると-文献省略-、今日の「社会主義」国は、中国、ベトナム、キューバの3国にすぎない。北朝鮮は、日本共産党にとって、今日では「社会主義」への道を歩んではいない。
 この激減の「現実」を、1966年当時の真面目な日本共産党員、真面目な共産党シンパは、どう受けとめるのだろう。
 最後に、上の叙述は1966年のものだが、<共産主義読本>などと称するタイトルの本で上のように書いた<責任>は、今日の日本共産党にはまったくないのだろうか。同じ日本共産党の、組織としては同じはずの中央委員会が了解していたはずの書物ではないか。
 こんなことを書いても虚しいのだろう。まだこの欄で言及してはいないが-もう省略するかもしれないが-、日本共産党の65年、日本共産党の70年という二つの「党史」の叙述は、丁寧に見ると、かなり変化している。
 「党史」という<歴史>をも平然と書き換える政党。それが日本共産党だ。

2008年4月に「日本共産教」・「科学的社会主義教」と言っていた(再掲)。

 2007/03/23付けで、次のように、日本共産党を「日本共産教」・「科学的社会主義教」という宗教団体と皮肉っていた。同じことを、つい最近も感じたわけだ。再掲する。最後の一段落は無関係なので、以下では省略。 
 --------------
 日本共産党ではなく「日本共産教」・「科学的社会主義教」という宗教団体。
 安い古本だからこそ店頭で買ったのだが、日本民青同盟中央委・なんによって青春は輝くか(初版1982.04)という本がある。中身は青年・若年層向けの宮本顕治・不破哲三等の講演を収めたもの。
 宮本顕治のものは四本ある。宮本は逝去まで日本共産党中央から非難されなかった珍しい人物なので、この本で宮本が語っていることを日本共産党は批判できず、「生きている」日本共産党の見解・主張と理解してよいだろう。
 全部を読んでいないし、その気もない。p.14を見ていて、こんな内容が少しだけ興味を惹いた。以下、宮本の講演録(1982年2月に民青新聞に掲載)の一部。
 <「社会主義」とは第一に「搾取をなくし、特権的な資本家をなくして、労働者の生活を守る」、第二に、「広範な働く人の民主主義を保障する」、第三に「民族独立を擁護する」。ポーランド問題で社会主義自体がダメだとの批判が起きているが、そうではない。社会主義そして「将来の共産主義社会」は「どんな暴力も強制も不要な」「すべての人びとの才能が花ひらく、才能が保障される社会」で「マルクス、エンゲルス、レーニンたちが一貫して主張してきた方向」だ。>
 ここまででも「搾取」・「特権的な資本家」といった概念がすでに気になるし、またこの党が「民族独立」=反米を強調していることも面白い(社会主義の三本柱の一つに宮本は挙げている。はたして、「社会主義」理論にとって「民族独立」はこれほどの比重を占めるものなのか)。
 だが、面白いと思い、さすがに日本共産党だと感じたのは、上に続く次の文だ-マルクスらの説は「ただ希望するからではなく、人類の歴史、いろんな発展が、そうならざるを得ない」。
 このあとの、マルクスらの説は「人類のつくったすべての学説のすぐれたものを集めたもの」だということが「共産主義、科学的社会主義のほんとうの立場」だ、という一文のあとに「(拍手)」とある。
 いろいろな事実認識、予測をするのは自由勝手だが、上の「いろんな発展が、そうならざるを得ない」とはいったい何だろうか。「そうならざるを得ない」ということの根拠は何も示されていない。共産党のいう<歴史的必然性>とやらのことなのだろうが、それはどのようにして、論証されているのか??
 たんなる「希望」であり、そして要するに「確信」・「信念」の類であり、<科学的>根拠などどこにもない。
 上のような内容を含む講演というのは、信者または信者候補者を前にした<教主さま>の<説教>・<おことば>に違いない。その宗教の名前は、<日本共産教>または<科学的社会主義教>が適切だろう。
 現在も、こんな(将来の確実な<救済>=仏教的には「浄土」の到来?を説く点で)基本的には新興宗教を含む「宗教」と異ならない「教え」を信じて信者になっていく青年たちもいるのだろう。1960年代後半から1970年前半頃までは、今よりももっと多かったはずだ。
 こんな民青同盟又は日本共産党の組織員になって「青春」が「輝く」はずもない。一度しかない人生なのに、日本共産党(・民青同盟)に囚われる若い人々がいるのは(この組織だけでもないが)本当に可哀想なことだ。
 ------------------
 以上。

2007年3月の秋月瑛二・日本共産党批判(再掲)。

 10年近くも経つと、かつて自分が何を書いていたか、自分のことながら分からなくなってくる。
 2007年3月に、「日本共産党よ、32年テーゼ・50年批判はスターリンの時代ではなかったのか」と題して、つぎのように書いていた。2007/03/23付け。
 現時点で見れば知識不足のところはあるし、当時は日本共産党文献やその他の関係文献を調べてみようという気は起きなかった。但し、最近は、きちんと実証的に正確な「事実」を確認しようと思っている。
 日本共産党が現在およびそれぞれの時期に何と主張していた(いる)かを知ること自体は、「事実」の認識の問題だ。
 問題関心だけは今でも共通するので、過去のものを再掲しておくことにする。
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 日本共産党よ、32年テーゼ・50年批判はスターリンの時代ではなかったのか。
 腑に落ちない、こと又はもの、は沢山あるが、ソ連崩壊に関係する日本共産党の言い分は最たるものの一つだ。
 同党のブックレット19「『社会主義の20世紀』の真実」(1990、党中央委)は90年04月のNHKスペシャル番組による「社会主義」の総括の仕方を批判したもので、一党独裁や自由の抑圧はスターリン以降のことでレーニンとは無関係だなどと、レーニン擁護に懸命だ。昨日に触れたが、2004年の本で不破哲三氏はスターリンがトップになって以降社会主義から逸脱した「覇権主義」になったと言う。そもそも社会主義国ではなかったので、崩壊したからといって社会主義の失敗・資本主義の勝利を全く意味しない、というわけだ。
 だが、後からなら何とでも言える。後出しジャンケンならいつでも勝てる。関幸夫・史的唯物論とは何か(1988)はソ連崩壊前に党の実質的下部機関と言ってよい新日本出版社から出た新書だが、p.180-1は「革命の灯は、ロシア、…さらに今日では十数カ国で社会主義の成立を見るにいたりました」と堂々と書いてある。「十数カ国」の中にソ連や東欧諸国を含めていることは明らかだ。ソ連は社会主義国(なお、めざしている国・向かっている国も含める)でないと言った3年前に、事実上の日本共産党の文献はソ連を社会主義国の一つに含めていたのだ。判断の誤りでした、スミマセン、で済むのか。
 また、レーニンの死は1924年、スターリンが実質的に権力を握るのは遅くても1928年だ。とすると、日本共産党によると、1928年以降のソ連は、そしてコミンテルン、コミンフォルムは、社会主義者ではなく「覇権主義」者に指導されていたことになる。そしてますます腑に落ちなくなるのだが、では、コミンテルンから日本共産党への32年テーゼはいったい何だったのか。非社会主義者が最終的に承認したインチキ文書だったのか。コミンフォルムの1950年01月の論文はいったい何だったのか。これによる日本共産党の所感派と国際派への分裂、少なくとも片方の地下潜行・武装闘争は非社会主義者・「覇権主義」者により承認された文書による、「革命」とは無関係の混乱だったのか。
 1990年頃以降、東欧ではレーニン像も倒された。しかし、日本共産党はレーニンだけは守り、悪・誤りをすべてスターリンに押しつけたいようだ。志位和夫・科学的社会主義とは何か(1992、新日本新書)p.161以下も参照。
 レーニンをも否定したのでは日本「共産党」の存立基盤が無になるからだろう。だが、虚妄に虚妄を重ねると、どこかに大きな綻びが必ず出るだろう。虚妄に騙される人ばかりではないのだ。
 なお、私的な思い出話を書くと、私はいっとき社会主義・東ドイツ(ドイツ民主共和国が正式名称だったね)に滞在したことがある。ベルリンではない中都市だったが、赤旗(色は付いてなかったがたぶん赤のつもりのはずだ)をもった兵士のやや前に立って、十数名の兵士を率いて前進しているレーニン(たち)の銅像(塑像)が、中央駅前の大通りに接して立っていた。
 数年前に再訪して少し探して見たのだが、レーニン(たち)の銅像が在った場所自体がよく分からなくなっていた。
 レーニンまでは正しくて、スターリンから誤ったなどとのたわけた主張をしているのは日本共産党(とトロツキスト?)だけではないのか。もともとはマルクスからすでに「間違って」いたのだが。
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 以上。
 旧東ドイツを訪れた当時、上に言及のレーニン像のほか、比較的大きい建造物の壁面上部に、<我々を解放してくれた「赤軍」に感謝する!>というような旨の大文字が書かれてあるのを見た記憶もある。50年も前のことではない、かつての「社会主義」国・東ドイツの「現実」だった。

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ09

 旧ソ連は社会主義国だったのか、そうでなかったのか、という問題を直接に話題にしているわけではない。それは「社会主義(国)」概念の理解によって異なりうるだろう。現実の歴史からすると、<国家によるテロル>はその概念要素の一つのようにも見えるが。
 ここで問題にしているのは、上の点についての日本共産党の見方の変化(という「事実」)だ。また、変化させることがありうるとしても、そのためのきちんとした理由づけ・根拠づけが日本共産党によってなされたのかどうかだ(これまた、基本的には「事実」の認識の範疇に入る)。
 一 日本共産党幹部会委員長・不破哲三は、1994年7月の第20回党大会で、旧ソ連の社会が「社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか」(不破「綱領一部改定についての報告」)とまで、言い切った。
 「まったく明白」だったにもかかわらず、その党大会の2カ月前刊行の日本共産党の文献がソ連を「社会主義国」として記述していたことは、すでに紹介した。
 不破哲三自身も、幹部会委員長として、1990年3月の時点で、いわゆる「現存社会主義」という言葉を使っていた。
 すなわち、「…、現存社会主義国が『歴史的制約や否定的傾向を克服』してゆく過程が前進することが避けられない、ということを指摘しました」(第18回党大会・日本共産党中央委員会総会決定集/下(1990.08)p.280 、<不破・第8回中央委員会総会「幹部会報告」>)。
 誤りをもつ「社会主義国」ソ連も<社会主義の復元力>によって正しい道に戻るのは不可避だ、という旨を述べていたわけだ。
 二 こうまで見通しが狂い、「社会主義国の一種」視から社会主義への「移行の過程にある過渡期の社会などでもありえない」へと理解・認識を変えてしまうのなら、何らかの反省が、より明確にいえば、かつては(1994年7月党大会以前は)<誤った>理解と見通しを持っていたことを認め、それについて<自己批判> しなければならないのではないか。
 党員たちの一部は、さざ波通信36号(2004年)で、「当時の日本共産党指導部は不破を筆頭に先見の明のない愚か者であったことを自己批判しなければならないはずだが、もちろん、ただの一度も不破指導部はそのような自己批判を行なっていない」、と批判していた。
 もっとも、不破哲三が<反省>とも見える言葉をいっさい述べていないわけではないようだ。上でも言及した1994年7月第20回党大会での不破哲三の報告の中の一部に、つぎの文章がある。
 ・「しかし、当時はまだ、旧ソ連社会にたいする私たちの認識は、多くの逸脱と否定的現象をともないつつも大局的にはなお歴史的な過渡期に属するという見方の上にたったもので、今日から見れば明確さを欠いていたことを、ここではっきり指摘しなければなりません」。
 この一文は、日本共産党中央委員会・日本共産党の八十年(2003)で、そのまま引用・紹介されている(p.287)。
 さて、「私たちの認識は、多くの逸脱と否定的現象をともないつつも大局的にはなお歴史的な過渡期に属するという見方の上にたったもの」だったという自己認識は誤っていない、と考えられる。
 しかし、そのあとの、「今日から見れば明確さを欠いていた」という表現しか使っていないことは、いかにも、不破哲三、そして日本共産党らしい。
 何度もここで記したソ連についての見方の変化・変質は、「明確さを欠いていた」で済ますことができるものなのか。20回党大会、そしてこの報告のソ連観が<正しい>のだとすれば、かつてのそれは明確に<誤っていた>と言わなければならないだろう。「明確さを欠いていた」などと形容できるものではないはずだ。
 すでに記したような日本共産党の<大ペテン>の前提には、このような自己欺瞞、知的不誠実さ、がある。
<こっそりと自己批判のないまま>重要な路線変更を行った可能性が高い。
 三 上記の不破報告の部分は、その後現在まで<生きて>いるのかどうかは疑わしくもある。少なくとも強調されてはおらず、また積極的に(不破哲三によっても)言及されてはいない。
 したがって、この部分は1994年7月段階での<歴史的な>文書の一部であり、今日時点で、「今日から見れば明確さを欠いていた」ということすら、認めてはいない、と日本共産党・同指導部は主張する可能性がないではない。
 そうだとすれば、日本共産党はまことに度し難い、最低の知性すら持ち合わせていない政党だということになるだろう。
 あるいは、現在の日本共産党にとっては、可能なかぎり触れてもらいたくない、そして思い出したくない、不破哲三報告の一部だったのだろうか。
そのように自己欺瞞・自己隠蔽することによってはじめて、<大ペテン>(=日本共産党は誤ったソ連と30年も闘ってきた)が、ある程度は成功したのかもしれない。
 <つづく>
 

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ08

 一 日本共産党がソ連を「社会主義ではなかった」と公式かつ明確に性格づけたのは、1994年7月の第20回党大会においてだった。繰り返しになるが、再度紹介すれば、以下。
 ①ソ連等の「崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産」だった。ソ連等は「社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会」として解体した。(1994年7月第20回党大会・改訂党綱領)
 ②旧ソ連の社会が「社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか」。「スターリンは、…社会主義とは無縁な社会への道をつきすすんだ」。「スターリン以後の転落は、…、反社会主義的な制度を特質として」いた。(1994年7月第20回党大会・不破哲三(幹部会委員長)「綱領一部改定についての報告」)
 このときまで、-党員たちには事前に改定綱領の「案」が知らされていたのだろうが-日本共産党はソ連についての上のような理解・認識を明らかにしていたことはなかった、とほぼ断じることができる。ソ連崩壊後の第19回党大会/日本共産党中央委員会総会決定集/上・下(日本共産党中央委員会出版局)がその根拠になる。
要するに、1991年12月のソ連解体後、2年半ほどあとになって(ようやく?)上の新しい性格づけに至っているわけだ。
  したがって、これもすでに紹介したが、上の党大会の直前(2カ月前)の1994年5月に刊行された日本共産党中央委員会・日本共産党の七十年/下が、少なくともソ連を含めて「社会主義国」という語を使っていたのも、自然ではある。日本共産党にとって、1994年7月の直前まで、ソ連(旧ソ連)はまぎれもなく「社会主義国」だったのだ。
 ・1985年綱領改定がソ連覇権主義との闘争の必要性を明記したのは、「覇権主義、官僚主義など『内部にそれぞれの問題点』をもつ社会主義諸国がその誤りのゆえに世界史の発展の原動力となりえない場合のあることを意味」した。また、「社会主義国の一部に覇権主義の誤りがつよま」ったという「情勢の変化」から「資本主義の全般的危機」規定を削除した。(1994年5月刊行の日本共産党中央委員会・日本共産党の七十年/下)
 二 1994月7月の第20回党大会後の第2回中央委員会総会での「幹部会報告」の中で、不破哲三は、「旧ソ連社会論」として次のように述べている。
 「わが党は、ソ連が解体される以前から、第19回党大会において、…、ソ連史の二つの時期、レーニンが指導した時期とスターリン以後の時期とを根本的に区別すべきことを指摘してきました。//
 第20回党大会では、そこにさらに新たな解明の光をあてました。すなわち、スターリン以後は、…、社会体制としても全面的な変質の道に引き込まれたのであり、崩壊した旧ソ連は、社会主義社会でなかったことはもちろん、それへの過渡期の社会でもなく、人民への抑圧と搾取を特質とする社会だったことを、あきらかにしたのであります」。
以上で引用終わり。//は原文では改行ではない。
 不破によると、「社会主義社会」でもそれへの「過渡期の社会」でもなかった等のことは、「さらに新たな解明の光をあて」たことによって得られた結論だ、という。
 ここにはゴマカシがあるだろう。ソ連解体という「厳然たる事実」を認識して、日本共産党は旧ソ連とともに「社会主義」の側にいたのだ、というこれまた明白な事実を隠蔽し、自己欺瞞をするために、旧ソ連の「社会主義国」性を否定するという、それまでの日本共産党のソ連社会理解とは根本的に異なる、全く反対の理解・認識を、1994年7月になって示したのだ。これを「さらに新たな解明の光をあて」たと表現するのは、本質を隠蔽するゴマカシであり、<大ウソ>だ。
 同じことは、2003年1月に刊行された、日本共産党中央委員会・日本共産党の80年(日本共産党中央委員会出版局)の中の、第20回党大会(1994.07)に関するつぎの叙述についてもいえる。
 ・「党は、1994年にひらいた第20回党大会で、党綱領を情勢にてらして現代的に発展、充実させる一部改定をおこないました。//
 とくに、旧ソ連社会の内実のたちいった研究にもとづいて、旧ソ連社会論を大きく発展させました。」
引用終わり。//は原文では改行ではない。
 旧ソ連を「社会主義国」の一つと理解することを「社会主義でなかった」へと<変更>させることは、上によると、「情勢にてらして現代的に発展、充実させる」ことであり、旧ソ連の見方を「大きく発展させ」たものなのだそうだ。
 これも大きなゴマカシであり、<大ウソ>だ。嗤ってしまう。
 三 上に言及した不破哲三の1994月7月第20回党大会・第2回中央委員会総会「幹部会報告」の中で、不破はつぎのように述べている。
 ・三大選挙にむかって党の政策文書案を作成したが、「日本共産党の存在意義」を語るのが第二の重視点で、その中では「5つの角度」から党の性格を述べている(中央委員会総会決定集p.33-34)。
 秋月の文章に戻せば、その5点のうちの一つは、つぎのようなものだ。
 ・「ソ連の干渉・横暴・謀略と30年間たたかいぬいた自主独立の党」(p.34)
ここに大ペテンがある。すでに解体・崩壊しているソ連と「30年間たたかいぬいた」というが、解体・崩壊後もなお「社会主義国」の一つと見ていたし、東欧の激動時の頃は「現存社会主義国」と称してもいた(この点は別に文献を紹介する予定だ)。解体後は「たたかう」相手がいないから、30年間というのは、1961年~1990年のつもりなのだろうか。
 厳密にいえば、日ソ共産党の間に対立が生じた(ソ連からの「干渉」があった)のは1964年のはずなので、30年には満たない。
 そんなことよりも、ソ連=社会主義国、ソ連崩壊=社会主義の失敗・社会主義国の消滅というふうに多くの国民が<感じて> いたなかで上のように<宣伝>することは、失敗した<ソ連社会主義>の側には日本共産党はいなかった、それと長らく「たたかって」きたのだ、ということをアピールしたいのだろう。日本共産党は、そのように2016年の今日まで宣伝している可能性はある。
 しかし、上のような<宣伝>は、日本共産党は(1994年7月まで)ソ連を(生成途上であれ)「社会主義国」の一つと見なしており、かつ日本共産党も「社会主義」をめざす政党である、という明白な事実を隠蔽して、より本質的ではない論点にかかるイメージを拡散しようとするものだ。
 <こっそりと自己批判のないまま>過去の言明と真逆の理解をもちこみ、かつ上のような<大ペテン>を仕掛ける。日本共産党とは、そのような政党だ。
 <つづく>

日本共産党は「本当は怖い」?、日本共産党の「正体」?-日本共産党こそ主敵。

 一 保守系雑誌の背表紙に「日本共産党」の文字があるのはきわめて珍しいと思うし、産経新聞ですら、日本共産党に直接に関係する連載記事を掲載したことがあるのか疑わしい。
 したがって、雑誌で日本共産党特集を組むのはよいが、背表紙タイトルが「日本共産党の正体」(月刊WiLL5月号(ワック))だったり、「本当は恐ろしい日本共産党」(月刊Hanada6月号)だったりするのは、あまりに旧態依然としていて新味がない。
 それに何より、「正体」と書けば実際とは違う別の「外形」?があるかのごとくだし、「本当は恐ろしい」と書けば、では「表面的には恐ろしくない」のか、と(皮肉家としては)思ってしまう。
 日本共産党についてわざわざ「正体」と書く必要はない。「正体」は批判できるが、その他は批判できない、などというものではない。
 また、日本共産党について「本当は恐ろしい」などと書くのは、上記のとおり、表面的・外形的には「恐ろしくない」 かのごときで、ミス・リーディング を誘導しかねない。
 秋月瑛二からすれば、日本共産党のそのままが、このような政党が存在していること自体が、日本と日本人にとって「恐ろしい」、と言うべきなのだ。
 二 日本共産党の現綱領(2004年1月)は、かつてのマルクス解釈としては通説?だった社会主義と共産主義(狭義)の二段階論を放棄して、「社会主義・共産主義の社会」と言っている。また、文献等は省略するが、日本共産党の党員は「科学的社会主義」を用いるべきだが、「マルクス主義」を用いることはまだ許され、「マルクス・レーニン主義」という言葉は使うべきではないのだそうだ。
 ともあれ、現綱領によると、「社会主義・共産主義の日本」では、「搾取の廃止によって、人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる道が開かれ、『国民が主人公』という民主主義の理念は、政治・経済・文化・社会の全体にわたって、社会的な現実となる」、のだそうだ。
 コメントすると、「搾取」とは何ぞや、綱領中には説明がない。そしてとりわけ、「人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる」という部分は「ほんとうの意味で」という限定が付いたりしているので、何が言いたいのかさっぱり分からない。「国民が主人公」とは、一時期、民主党がよく使っていた表現だ…。
 また、現綱領によると、「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる」。
 この部分はきわめて恐ろしいのだが、さらに現綱領、つまりは現在の日本共産党が言っていることによると、上の「本格的な展望が開かれ」ることによって、「本当の意味で人間的な生存と生活の諸条件をかちとり、人類史の新しい発展段階に足を踏み出すことになる」のだ、そうだ。
 つまり、「社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ」たのちに、「…共同社会への本格的な展望が開かれ」、そしてようやく「人類史の新しい発展段階」が始まる(足を踏み出す)、というわけだ。
 何とまぁ、高度な「社会主義・共産主義の社会」もまだ序の口で、まだ先があるのだ。
 以下は、コメント、論評。
 第一。日本共産党の綱領には、その他の重要決定類にもそのようなものあるが、もともと①たんなる<願望>なのか、②たんに将来こうなるだろう、という<推測>なのか、あるいは③将来こうなるはずだ、という<(客観的・合理的?)予測>なのかが判然としない部分が多い。
 上に紹介した部分はおそらく③だとみられる。そして、このようになるはずだから、これに向かって頑張ろう、と主張しているものと思われる。たんなる願望や、漠然とした推測ではないだろう。
 日本共産党は<理論・法則と実践の統一>だとか言うのかもしれないが、上の点ですでに<思考の方法論>の奇妙さを日本共産党については感じる。
 上の点は措くとしても、第二。将来の見通しを確たるものとして?持っていることについて、日本共産党は、他の(日本の)政党とは違うと言って自慢しているようだ(不破哲三が言っていたが、文献省略)。しかし、つぎに述べるように、<空想>・<妄想>ならば、何とでも書ける。
 第三。このような将来展望をかかげていること自体が、異様であって、恐ろしい。
 もともと抽象的概念が多くて厳密な意味は理解しにくいが、何となくのイメージで理解するとしても、「いっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」なるものの実現・達成は、そもそも不可能だと私には思われる。
 そもそもが「いっさいの強制のない」、「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」なるものの正確な意味は不明で、「真に平等で自由な人間関係」なるものも分かりにくいが、何となく分かったとして、このような社会は本当に実現されるのだろうか。日本共産党がそう考えている、あるいは(科学的に?)予測しているとすれば、それは<狂>の世界にいる人たちの<妄想・幻想>の類だと思われる。
 「平等」と「自由」が、あるいは「いっさいの強制のない」ということも、すべてが充足されるような社会はおそらくは到底実現されない、と思われる。
 なぜなら、人間自体が決して画一的には、全く「平等」には生まれてこないからだ。個体としての人間自体に生来の「制約」があるのであって、完全に「自由」な状態など生じるはずがないからだ。
 日本共産党が夢想しているような社会がくるとすれば、それは生殖も生育環境等々も統一的に<管理>された、ロボットのような人間ばかりの社会だろうと思われる。あるいは、すべてがメガ・コンピューターによって(いわゆる個人情報のすべても認識され)操作され、<管理>されるのだろうか。<管理>主体はいったい誰あるいはどこにあるのだろう。
 簡単に「真に平等で自由な」などと言ってしまわない方がよい。人間、社会について日本共産党は異常に傲慢すぎる。人間は、社会は、日本共産党の幹部・党員たちが想定しているよりははるかに複雑で、多様だ。かつ、人間は、死を免れない「生物」という自然(環境)の一つ・一要素でもあるのだ。
 日本の公的な政党の中に、上のような将来展望をもち将来予測している政党があること自体が気味が悪く、恐ろしい。さらにまた、「原則として」などという曖昧な限定を付けているのだから、まともに論評できるものではない。
 三 将来予測と実践と、と考えていくと、日本共産党は<日本共産教>または<(日本)科学的社会主義教>とでもいうべき「宗教」を奉じる「宗教団体」だと--本当の宗教団体には申し訳ないが--感じざるをえない。
 始祖があり中間教祖があり、教義があり、「信者」獲得運動があり、現在の最高指導者・最高指導部に対する「帰依」も要求される。そのように感じてしまう文章を、日本共産党の文献の中に、いくらでも見つけることができる。
 それで「科学的」とか語り、不破哲三は「科学で見た…」とかの書物を多数刊行しているのだから、「恐ろしい」。わざわざ詳細に立ち入らなくとも、その「正体」はじつははっきりしているのだ。

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ07

 第1回めに、いくつかの雑誌の日本共産党特集を見ても「疑問を払拭できない、いくつかの基本的と思われる論点・問題」の「第一」として、「日本共産党は、かつてのソ連=ソヴィエト「社会主義」共和国連邦は「社会主義」国ではなかった、と1991年以降は言っているようだが、1989-91年以前はどのように理解・主張していたのか」ということを挙げた。
 上のうち「1991年以降は言っているようだが」は、「1994年7月の第20回党大会による綱領改定以降は言っているようだが」、が正しい。
 一 さて、この論点・問題について日本共産党(・不破哲三)はどう書いてきた(いる)か、どう言ってきた(いる)か、の「事実」は、あらためて整理すれば、つぎのとおりだ。
 1-1994年7月の第20回党大会以降今日までの「理解」
 ①ソ連等の「崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産」だった。ソ連等は「社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会」として解体した。(1994年7月改定党綱領)
 ②旧ソ連の社会が「社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか」。「スターリンは、…社会主義とは無縁な社会への道をつきすすんだ」。「スターリン以後の転落は、…、反社会主義的な制度を特質として」いた。(1994年7月第20回党大会・不破哲三「綱領改定についての報告」)
 ③「ソ連型の経済・政治体制、社会体制」は「社会主義とは縁のない」ものだった。「『ソ連型社会主義』というのは、社会主義の典型でないことはもちろん、社会主義のロシア的な道でもない」(2000年8月の不破哲三・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕)
 ④「ソ連で崩壊したのは何だったのか。ソ連で崩壊したのは、社会主義ではありません」。「崩壊したのは、社会主義に背を向け、ソ連を反社会主義の軌道に引き込んだ覇権主義と専制主義」だ。「その覇権主義は社会主義の産物ではなく、スターリンとその後継者たちが社会主義の事業に背を向け、社会主義を目指す軌道を根本的にふみはずすことによって生み出したもの」だ。(2007年5月の不破哲三・スターリンと大国主義・新装版のまえがき)
 2-上のように「理解」した経緯
 ①「スターリン以後のソ連にたいするわれわれのこうした認識は、ソ連が解体してからにわかに生まれたものではありません。これは、三十年にわたるソ連の大国主義、覇権主義との闘争を通じて、私たちが到達した結論であります。」(2000年8月の不破・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕)
 ②「ソ連から覇権主義的な干渉を受け、それを打ち破る闘争」の中で、「私たちはつぎの点の認識を早くから確立してき」た。1.「覇権主義の干渉・侵略を平然とおこなう体制は、社会主義の体制ではありえない」。2.「国民への大量弾圧が日常化している恐怖政治は、社会主義とは両立しえない」。(2004年第23回党大会・不破哲三「綱領改定についての報告」)
 ③「私たちは、早くからこの認識をもってい」た。そして、「ソ連の体制崩壊のあと、その考察をさらに深め、94年の第20回党大会において、ソ連社会は何であったかの全面的な再検討をおこな」った。「その結論は、ソ連社会は経済体制においても、社会主義とは無縁の体制であったというもの」だった。(同上)
 3-ソ連解体直前・後にソ連を「社会主義」国と見ていた例
 ①「一部の社会主義国に生まれた覇権主義というのは、まさに、歴史の発展にそむき、『国際緊張の一定の要因』になるとともに、『対外干渉と侵略にほんらい無縁である科学的社会主義の理念』を傷つけ、…害悪である…」。(1991年12月-ソ連崩壊直前-の不破哲三・ソ連覇権主義の解体と日本共産党)
 ②1985年綱領改定の主要理由の一つはソ連覇権主義との闘争の必要性の明記で、「覇権主義、官僚主義など『内部にそれぞれの問題点』をもつ社会主義諸国がその誤りのゆえに世界史の発展の原動力となりえない場合のあることを意味」したが、「旧ソ連・東欧の劇的破たん」はこの明記の「歴史的先駆性をあざやかにしめすことになった」。もう一つは「資本主義の全般的危機」規定の削除で、「社会主義国の一部に覇権主義の誤りがつよまり、帝国主義の態勢立て直しと延命をたすけているという情勢の変化がうまれたこと」が背景の一つだった。(1994年5月-綱領改定した同年7月の党大会直前-の日本共産党中央委員会・日本共産党の七十年/下)
 4-じつは<ソ連は社会主義国でなくなった>論(完全変質論)を批判までしていた。
 ①誤りの「もう一つは、あれこれの社会主義大国が覇権主義の重大な誤りをおかしているということで、その国はもはや社会主義国ではなくなったとか、その存在は世界史のうえでいかなる積極的役割も果たさなくなったとかの結論をひきだす、いわゆる『社会主義完全変質論』」だ。「わが党は、社会主義大国の覇権主義にたいして」最も厳しく闘っているが、「その誤りがどんなに重大なものであっても」、「その国家や社会が社会主義でなくなったとするのは、『社会主義無謬論』を裏返しにした、根本的な誤り」だ。(1982年7月・第16回大会での不破哲三「中央委員会の報告」) 
 ②「社会主義国の党や政府の指導のうえで、あれこれの重要な誤りがあるからといって、その国が社会主義国でなくなったとするなどの結論を簡単にひきだす、いわゆる社会主義変質論も、われわれがとるところではないし、科学的な見地でもない」。「わが党が、それを社会主義の国におこった誤りとしてとらえるのにたいして」、中国側は「ソ連は社会主義国から資本主義国家-ブルジョア独裁の国家に変質してしまったという立場をと」ったので「明確な理論的批判をくわえ」た。「中国のこの非科学的なソ連変質論はその後さらに奇怪な発展をとげてい」る。(1979年の、不破哲三・現代前衛党論)
 ③「誤った見方のもう一つは、あれこれの社会主義大国がそうした重大な誤りをおかしているということを根拠に、『この国はもはや社会主義国ではなくなった』とか、『その存在は世界史のうえでいかなる積極的な役割も果たさなくなった』とかみなす、いわゆる『社会主義完全変質論』」だ。中国側とは違って、「わが党代表団は、ソ連の大国主義、干渉主義…は断固として批判するが、だからといって、その誤りを理由に、ソ連は社会主義国でなくなったとする見方は」とらなかった。(1984年の、不破哲三・講座/日本共産党の綱領路線)
 二 上の4を読んだあとで、1や2を読めば、ただちに一貫性がまるでないことが分かる。そして、4と2を対比させるならば(3と2でもよいのだが)、不破哲三、そして日本共産党は<大ウソ>をついていることが明白だ。
 日本共産党は、ソ連は「社会主義」国ではないとの「認識を早くから確立してき」た??、 「早くからこの認識をもってい」た??
 よくぞヌケヌケとこういう言葉を吐けるものだ。不破哲三とは、そしてそれを温和しく聴いて(読んで)承認している日本共産党の代議員や党員たちとは、まともな神経を持っている人間だとは到底思えない。
 過去にどう言っていたのかという簡単かつ基本的な「事実」 を無視して、あるいは忘れてしまって、矛盾することを平気で書ける(言える)、これを<大ウソ>つき、という。 何のためにこういう<大ウソ>をつくのか。それは、ソ連(・東欧)解体後に高まった「社会主義・共産主義」 批判を回避するために、それから逃げるために、ソ連(・東欧)は「社会主義」国ではなかった、解体・崩壊したのは「社会主義」国ではない、と強弁したかったからだろう。
 そう強弁したのは、ソ連の「覇権主義・大国主義」と「30年にわたって」闘ってきた、という<自負>があったからに違いない。
 しかし、その際に、ソ連の「覇権主義・大国主義」との闘いは「社会主義」国・同共産党と他の共産党間の「内部」での闘いであったはずなのに、つまり誤りを批判しつつもなおソ連を「社会主義」国の一つと見ていたはずなのに(完全変質論否定)、まるでソ連はすでに「社会主義」国ではなくなっていた、その「反社会主義」体制と闘ってきたのだという<大ウソ>による<大ペテン>を仕掛けたのだ。
 日本共産党の党員たちは表向き、このペテンに引っかかったままのようにも見える。しかし、すべての文献を見ることはできないが、日本共産党や同党幹部自身の文献を少しばかり丁寧に見ていけば、これが<大ペテン>であることが分かる。
 そしてまた、上の2のように近年では壮語?することができる不破哲三の<知的傲慢さ>も感じざるをえない。あのように述べて、党大会代議員たちを「騙せる」 と思っているのだろうか。「誤魔化した」つもりなのだろうか。そうだとすれば、あまりに<傲慢>すぎる。
 また、<自らの過去の言明と向き合う>ことができないのは、<知的怠惰>でもある。不破哲三のみならず、志位和夫も含めて、現在においてまだ日本共産党員である者は、すべて<知的緊張感>を失っているのだろう。
 このような、<知的誠実さ>がまるでない人々がなぜ、「科学的社会主義」を、「科学」を、語ることができるのか。
 <つづく>

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ06


 前回につづける。
 3. 第三に、さざ波通信36号が一部を引用している、不破哲三・講座/日本共産党の綱領路線(1984、新日本出版社)から。この著全体が1983.08の日本共産党全国地区委員長講習会での「講義」を整理して雑誌・前衛に載せたものをさらに「大幅に加筆」したものとされている。
 以下は、「第三章・国際情勢をどうとらえるか」の中の「大国主義問題での二つの誤った見方-『社会主義無謬論』と『完全変質論』-」という中タイトルの部分(p.111-)。
 ・日本共産党は「二つの誤った見方-『社会主義無謬論』と『完全変質論』とをしりぞけている」。/前者は「社会主義は民族自決権の侵犯などといった根本的な誤りをおかすはずはないという立場」。「まさに今日では、大国主義者とその追従者の現実に背を向けた観念論的イデオロギー以外のなにものでもありません」。<改行、以下中略>
 ・「誤った見方のもう一つは、あれこれの社会主義大国がそうした重大な誤りをおかしているということを根拠に、『この国はもはや社会主義国ではなくなった』とか、『その存在は世界史のうえでいかなる積極的な役割も果たさなくなった』とかみなす、いわゆる『社会主義完全変質論』です。//
 「…1966年の日中共産党会談で、わが党代表団と毛沢東その他中国側との論争の最大の焦点の一つは、この点にありました。//
 中国側は、ソ連のあれこれの誤りを社会主義国の党と政府が誤りをおかしているといった段階の問題ではなく、ソ連が経済的には国家独占資本主義、政治的にはファシズム独裁の国になり、アメリカ帝国主義と同列の帝国主義国に変質してしまったことのあらわれだという評価を前面におしだし、これを理由にアメリカのベトナム侵略戦争に反対する国際統一戦線の方針につよく反対しました。<改行>
 これにたいして、わが党代表団は、ソ連の大国主義、干渉主義やアメリカ帝国主義美化論は断固として批判するが、だからといって、その誤りを理由に、ソ連は社会主義国でなくなったとする見方はとりませんでした。//
 そのときの論争は、『日中両党会談始末記』(1980年、新日本出版社刊)に詳しく紹介されていますが、この論争の決着はすでに明確だといってよいでしょう。//
 中国自身、完全変質論を事実上捨ててしまい、現在では、ソ連の大国主義を批判するが、社会主義国でないとはいわなくなっていますから。」(p.115)<改行>
 ・「私たちはまた、中国にたいしても、…批判をくわえましたが、…、そのことを理由に中国が社会主義国でなくなったとか、もう誤りただす力がなくなったとかの見方はとりませんでした。」<以下、中略>
 ・「社会主義の復元力についての私たちのこの展望は、…最近の中国の動向によって実証されました。……復元力のあらわれ方は、まだ複雑で過渡的な状況にありますが、この過程の全体が『社会主義完全変質論』の誤りの事実による証明となっていることは、まちがいないところです。」<改行、以下省略>
 以上、紹介おわり。// は原文では改行ではない。
 <つづく>

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ05

 不破哲三、そして日本共産党は、「ソ連は社会主義でも、それへの過渡期でもなかった、…、人間抑圧型の体制だった」と、1994年7月の第20回党大会以降になって、主張し始めた。すでに<完全変質>していた、と認めるに至ったわけだ。
 しかし、不破哲三は、<いかにスターリンに問題・欠点があっても、ソ連はもはや社会主義国ではなくなった、などと言ってはいけない>という旨を、かつて明確に主張していた。いわば<完全変質否定論>だ。 
 <さざ波通信>36号(2004)は③不破哲三・講座/日本共産党の綱領路線(1984、新日本出版社)を典拠として挙げているが、秋月が知りえたかぎりで、他に、①不破・現代前衛党論(1979、新日本出版社)にも同旨の文章がある。また、②日本共産党第16回大会で中央委員会書記局長として行なった報告「第16回党大会にたいする中央委員会の報告」(前衛484号、1982.10)も同旨の部分を含んでいる。これらの中では、②が日本共産党の最も公的な見解を示していたものだろう。
 1. まず、この1982年16回大会・不破「報告」から引用・紹介する。
 「社会主義諸大国の大国主義、覇権主義の誤りを問題にする場合、…、科学的社会主義者として、つぎの二つの見地を原則的な誤りとしてしりぞけるものです。
 一つは、社会主義大国が…などの誤りをおかすことはありえないとする『社会主義無謬論』です。<以下、中略>」
 「もう一つは、あれこれの社会主義大国が覇権主義の重大な誤りをおかしているということで、その国はもはや社会主義国ではなくなったとか、その存在は世界史のうえでいかなる積極的役割も果たさなくなったとかの結論をひきだす、いわゆる『社会主義完全変質論』です。
 /一六年前、宮本委員長を団長とするわが党代表団が、中国で毛沢東その他と会談したさい、ソ連の評価をめぐって、もっともするどい論争点にの一つとなったのが、この問題でした。
 /わが党は、社会主義大国の覇権主義にたいして、…もっともきびしく批判し、…たたかっている党の一つですが、その誤りがどんなに重大なものであっても、指導部の対外政策上などの誤りを理由に、その国家や社会が社会主義でなくなったとするのは、『社会主義無謬論』を裏返しにした、根本的な誤りです。
 <中略> …過程は単純なものではなく、長期の複雑な経過をたどるでしょうが、社会主義の大義と道理に反する大国主義、覇権主義の誤りが、かりに現時点ではきわめて根深い支配力をもっているようにみえようとも、将来にわたって永続的な生命をもちえないことは確実であります。<中略-抜粋、中国の文化大革命が同共産党によって断罪され転換がすすめられていること>は、社会主義の事業と共産主義運動の復元力をしめした一例とみることができるでしょう。<以下、中略>」
 「社会主義のこの復元力は、自然現象のように、自動的に作用するものではなく、誤りや逸脱にたいする理論的・政治的な闘争をつうじて、はじめて力を発揮するものです。<以下、略>」
 以上、紹介終わり。/の部分は、原文では改行ではない。
 2.つぎに、不破・現代前衛党論(1979)p.70以降から引用・紹介する。
 「日本共産党の国際路線について」と題する論考の中の「社会主義の『生成期』とその前途について」で、全国地区委員長学習会議での講演をもとに整理して前衛1979.09号に掲載されたもの。
 ・レーニンは1916年の論文の一つで「社会主義政党が民族自決権の要求をかかげることに反対する議論」を批判した。レーニンは「社会主義になったら民族的抑圧が自動的になくなるかという根本問題を正面から提起して」、これを否定する結論を出していた。「レーニンは、上部構造での民主主義の徹底した確立と実行という条件を提起し」た。レーニンによれば、『民族的抑圧を排除するためには、土台-社会主義的生産-が必要であるが、しかし、この土台のうえで、さらに民主主義的な国家組織、民主主義的軍隊、その他が必要である』。」
 ・レーニンは1922-23年にスターリンの「大国排外主義の民族抑圧的傾向」と「闘争」したが、レーニンは「社会主義無謬論にけっしてたたず、社会主義の土台のうえでも、誤りの如何によっては他民族への抑圧という社会主義の大義に反する事態までおこりうることを理論的に予見し、実践的にも、…闘争に大きな精力をそそいだ」。
 ・「レーニンのこうした分析とも関連して、もう一つの重要な点は、社会主義国の党や政府の指導のうえで、あれこれの重要な誤りがあるからといって、その国が社会主義国でなくなったとするなどの結論を簡単にひきだす、いわゆる社会主義変質論も、われわれがとるところではないし、科学的な見地でもないということです。これは、レーニンの使った言葉を採用すれば、国家の上部構造のうえで誤りがおきたからといって、ただちに社会主義の土台がなくなったとみるわけにはゆかない、ということです。」<改行>
 ・「この問題は」、かつても中国共産党と「根本的に対立した問題の一つでした」。「…では、一定の共通点はありましたが、わが党が、それを社会主義の国におこった誤りとしてとらえるのにたいして、中国側が、…、ソ連は社会主義国から資本主義国家-ブルジョア独裁の国家に変質してしまったという立場をとり、それによって『反米反ソ統一戦線論』を根拠づけようとしました。わが党は、…、…この主張に明確な理論的批判をくわえて、その誤りを明らかにしています。」<改行>
 ・「中国のこの非科学的なソ連変質論はその後さらに奇怪な発展をとげています」。<中略> 「毛沢東やその追従者たちの非科学的な社会主義変質論は、中国を、…アメリカ帝国主義の同盟者の立場までに転落させた理論的な根拠の一つになったのです。」<改行>
 ・「中国の大国主義、覇権主義の問題でも、ことがらの性質は同じことです。わが党は、…中国の誤った路線について、社会帝国主義への二重の転落と特徴づけて批判しましたが、これは、中国が社会主義国家から帝国主義国家に変質したという、中国流の非難を中国にあびせかけたわけではありません」。<以下、略>
 以上、紹介終わり。
 <つづく>

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ04

 そこそこ大きい書斎につながっている、近所からは図書館と呼ばれている広大な書庫から、ソ連解体後の初の党大会資料である日本共産党第20回大会決定集(1994)等々々をとり出してきた(冗談だ)。
 日本共産党や幹部自体の諸文献を読んでチェックする速さと、この欄に関係部分を引用しつつコメント等をしていく作業の面倒くささが全く一致しない。
 最近の保守派の諸雑誌の日本共産党特集も含めて、これまでの保守派の日本共産党に関する知識や諸媒体の情報発信力は相当に不十分だ、とあらためて感じる。
 宮本顕治体制を確立した1961年綱領の採択が今日までの日本共産党の実質的出発点あるいは基盤だとは思うが(従って、それ以前の日本共産党の歴史を取り上げることは現在の同党に対する有効な批判になるとは必ずしも思えないが)、1985年綱領(17回大会)、1994年綱領(20回大会)、そして現在まで続く2004年綱領(23回大会)によってかなりの<修正・変更・変質?>が加えられていることも分かる。前二者の間にはソ連解体があるのである意味では当然だが、現在の綱領も、ある程度は(第二次大戦での役割など)ソ連を評価していた1994年綱領の一部を大幅に削除したりしている。
 こうしたことを調べて?いくと、いくつかコメント、論評したくなることも出てくるが、当初のイメージにほぼ従って、とりあえず書き進めよう。
 さて、ソ連共産党解体直前の1991年、ソ連自体の解体後の1994年(上記の20回大会の前)の日本共産党文献がソ連についてまだ「社会主義国の一部」とか書いているのだから、1989-91年以前のそれがソ連について「社会主義社会でないことはもちろん、それへの過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白」だ(1994、不破哲三・20回党大会「綱領一部改定についての報告」)、などと書いているはずはない。
 1961年綱領や宮本顕治の文章、そして1980年代後半に至るまでの諸文献からソ連を依然として「社会主義」国と見なしていた例証をいくつかここで挙げようと考えていたが、ほとんど自明だろうと思われるので、省略する。
 つぎに、不破哲三が<ソ連はもはや社会主義国ではなくなった、などと言ってはいけない>、という旨を明確に語っていた(「ソ連完全変質論批判」)、1980年頃の文章をそのまま転記するつもりだった。
 これは、予定どおり紹介はするが、すでに日本共産党の党員(個人名不明)によって、2004年1月13-17日の第23回党大会での不破哲三報告の「ソ連社会論をめぐる歴史の偽造」と題する部分が批判されていることを、ネット上で知った。
 おそらくよく知られているように、<さざ波通信>とは日本共産党の党員グループがネット上で発信しているもので、党中央は関与を禁止しているはずだ。だが、今日まで閉鎖はされていないようで、2004年のものもネット上にある。同上36号だ。 
 以下、「」を省略して転載する。**と**の間が不破哲三の報告からの引用。最後の一文はほとんど無意味なので省略した。
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 不破報告は、多数者革命に関するいつもの話を繰り返した後に、最後に第5章に話を移している。その中で不破はまずソ連社会論について議論を展開している。その中で、またしても不破は歴史の事実を大きく歪め、平然と嘘をついている。
 **「……スターリン以後のソ連社会の評価という問題は、わが党が、64年に、ソ連から覇権主義的な干渉を受け、それを打ち破る闘争に立って以来、取り組んできた問題でした。
 この闘争のなかで、私たちはつぎの点の認識を早くから確立してきました。
 (1)日本共産党への干渉・攻撃にとどまらず、68年のチェコスロバキア侵略、79年のアフガニスタン侵略と、覇権主義の干渉・侵略を平然とおこなう体制は、社会主義の体制ではありえない。
 (2)社会の主人公であるべき国民への大量弾圧が日常化している恐怖政治は、社会主義とは両立しえない。
 私たちは、早くからこの認識をもっていましたが、ソ連の体制崩壊のあと、その考察をさらに深め、94年の第20回党大会において、ソ連社会は何であったかの全面的な再検討をおこないました。その結論は、ソ連社会は経済体制においても、社会主義とは無縁の体制であったというものでした。」**
 これは、表現をきわめて大雑把にすることで、あるいは、問題や表現をずらしたりスリかえたりすることによって、読者を意図的にミスリーディングし、歴史を歪め偽造するいつもの手法である。
 実際には、90年代以前のわが党は、覇権主義や対外侵略は社会主義とは無縁であるとは言ってきたが、「覇権主義の干渉・侵略を平然とおこなう体制は、社会主義の体制ではありえない」というような言い方は一度もしたことがない。これは、ソ連の体制そのものが社会主義ではないという認識につながりかねないものであり、わが党は慎重にこのような言い方を避けてきたのである。
 それどころか逆に、1980年代にはソ連社会主義の完全変質論を厳しく批判し、「社会主義の復元力」論を『赤旗』を通じて大キャンペーンを展開したのである※注。あくまでも、1994年の第20回党大会ではじめてソ連の体制そのものが社会主義の体制ではない、と明言されたのである。
 ※注 +ちなみに、ここでの不破の発言には、ソ連社会の現実についても著しい誇張がある。不破は、「社会の主人公であるべき国民への大量弾圧が日常化している恐怖政治」とか、あるいは、その少し先で「ソ連には、長期にわたって、最初は農村から追放された数百万の農民、つづいて大量弾圧の犠牲者が絶え間ない人的供給源となって、大規模な囚人労働が存在していました。実際、毎年数百万の規模をもつ強制収容所の囚人労働が、ソ連経済、とくに巨大建設の基盤となり、また、社会全体を恐怖でしめつけて、専制支配を支えるという役割を果たしてきました」などと述べているが、これはスターリン時代の、とりわけ大粛清期の現象をそれ以降の全時代に不当に拡張したものである。
 フルシチョフ時代にはいわゆる「恐怖政治」的なものはなかったし(もちろん、反対派は厳しく抑圧されていたが)、逆に強制収容所は基本的にすべて解放されて、そこにいた数十万の政治犯はほぼ全員が家族のもとに帰った。スターリン時代に粛清されたほとんどの共産党員は名誉回復された。数百万の囚人労働が「社会主義」建設を支えるという事態は基本的にこのときに終わったのである。ブレジネフ時代には締めつけが強まったが、スターリン時代のような恐怖政治は再現されなかったし、数百万の囚人労働が工業化を支えることもなかった。その後のチェルネンコ、アンドロポフ、ゴルバチョフ時代のいずれも、ブレジネフ時代よりも締めつけは緩和したし、とくにゴルバチョフ時代にはフルシチョフ時代以上に自由化が進んだ。これはソ連史の常識であるが、不破はどうやらスターリン時代の恐怖政治と囚人労働がそのままソ連崩壊までずっと続いたと思っているらしい。+
 すでに過去の『さざ波通信』などで、第16回大会における不破の報告を何度か取り上げたが、ここでは、もう一つの材料として1984年に出版された不破の『講座 日本共産党の綱領路線』(新日本出版社)を取り上げよう。1994年の第ソ連完全変質論のわずか10年前に出版された本書で不破は、1960年代における中国のソ連社会主義完全変質論に対して当時のわが党が反対して闘った事実を誇らしげに紹介しつつ、次のように述べている。
 **「そのときの論争は、『日中両党会談始末記』(1980年、新日本出版社刊)に詳しく紹介されていますが、この論争の決着はすでに明確だといってよいでしょう。中国自身、完全変質論を事実上捨ててしまい、現在では、ソ連の大国主義を批判するが、社会主義国でないとはいわなくなっていますから」(115頁)。**
 1984年の時点ですでに決着がついていたはずなのに、その10年後には日本共産党は、かつての中国とまったく同じソ連社会主義完全変質論に転向したのである。とすれば、当然、当時の論争において正しかったのは中国で、当時の日本共産党指導部は不破を筆頭に先見の明のない愚か者であったことを自己批判しなければならないはずだが、もちろん、ただの一度も不破指導部はそのような自己批判を行なっていない。
 いずれにせよ、こうした歴史的経過は、少なくとも1990年代以前に入党した共産党員にとって常識である。つまり、不破がここで言っていることは、まったく見え透いた嘘なのである。不破哲三ほど、平然とさまざまな嘘をついてきた共産党指導者はおそらくいないだろう。<一文、略>
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 以上で、紹介終わり。
「1990年代以前に入党した共産党員」にとっては、日本共産党最高幹部たち(とくに不破哲三)の言うことの「ウソつき」ぶり、一貫性のなさ、無反省ぶりが明らかだ、というわけだ。
 上では全文が正確には紹介されていないので、不破哲三等が1989年以前に何と書いていたかを、<社会主義の復元力>部分も含めて、別にこの欄でそのまま引用・紹介する。
 なお、上の文章の書き手または当該サイトの設置者は、日本共産党中央に対しては批判的なようだが、少なくとも形式的にはまだ党員なのだろうし、上以外の書きぶりを見ると、なおも「左翼」の立場にはいるようだ。
 <つづく>

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ03

 日本共産党は1991-92年頃にはどう言っていたか。
 一 1994年の不破哲三によれば、「スターリン以後の転落は、政治的な上部構造における民主主義の否定、民族自決権の侵犯にとどまらず、経済的な土台においても、勤労人民への抑圧と経済管理からの人民のしめだしという、反社会主義的な制度を特質として」いた。
 ここでは、①「経済的な土台においても」ととくに挿入されていることに留意してよい。
 また、②「経済管理からの人民のしめだし」がなぜ「反社会主義的な制度」なのかという<理論>問題もある。社会主義において基本的な経済管理は国家が行なう(ことになっている)のではなかったのか。ここではとりあえず無視して、はしよる。
 また、不破哲三によれば、「三十年にわたるソ連の大国主義、覇権主義との闘争を通じて、私たちが到達した結論」は、「ソ連は社会主義でも、それへの過渡期でもなかった、抑圧型、人間抑圧型の体制だった」こと、「ソ連で崩壊したのは、社会主義では」なく、「社会主義に背を向け、ソ連を反社会主義の軌道に引き込んだ覇権主義と専制主義」だった。
 ここでは、「大国主義、覇権主義」とは諸国の各共産党間で(ソ連共産党と日本共産党の間で)見られたというもので、そのような「主義」はいかほどに「大国主義」国の<社会主義>国家性に関係するのか、上の最初の文章もいうように「政治的な上部構造」の問題にすぎないのでないかという疑問も生じる。だが、これも無視して、はしよる。
 二 さて、1989年11月09日・ベルリンの壁崩壊、1990年10年03日・東西ドイツ統一、1991年8月25日・ソ連共産党解体、、1991年12.月21日・ソ連邦解体。
 なお、日本共産党第19回大会が1990.07で、直後の第1回中央委員会で宮本顕治は(中央委員会)議長にしりぞき、不破哲三が(幹部会)委員長に、志位和夫が書記局長になった。1994年の第20回党大会まで党大会は開催されていない。
 この1990年半ばから、名目的にも不破哲三が日本共産党のトップに立った。
 1991年から既に紹介した1994年第20回党大会での綱領改定までの不破哲三らの文章を読むと、党員でも同党シンパでも全くないのに、なかなかに息苦しい。
ソ連・東欧での<混乱>が続き、ついにはソ連共産党が解散してまうという事態に遭遇して、以下は秋月の文章だが、<日本共産党だけは誤っていない、何とでもこの危機を乗り越えなければならない>、という日本共産党指導部の焦りや緊張感が伝わってくる。
 そして、1994年党大会以降のようにはまだ明確に、歯切れ良くは論じられておらず、日本共産党の論調にもまだ(ソ連共産党やソ連の解体「後」であっても)用語等の混乱が見受けられる。
 ソ連共産党解体後の1991年9月に、日本共産党は「中央の弁士」を全国の都道府県に派遣してソ連問題(と同党)に関する「特別の演説会」を開催した。聴衆総数は全国で6万人近くだった、という。
 委員長の不破哲三も1ケ月の間に、名古屋、東京、盛岡、新潟で「演説」している。
 以上は、不破哲三・ソ連覇権主義の解体と日本共産党(1991.12、新日本出版社)のまえがき等による。
 聴きに集まった者たちはおそらく、ほとんどが日本共産党員だっただろう。ソ連はどうなるのか、そして「わが党はこれからどうなるのか」と心配(?)していたに違いない。
 上の不破著の冒頭はそのときの演説内容を整理してまとめたもので「覇権主義の党の解体と日本共産党」と題されている。
 ソ連共産党はなくなっても(各邦の共産党がまだあるから?)ソ連はまだ残存しているから、という理由づけが成り立つのだろうか、上の論考の特徴は、ソ連の「覇権主義」に対する批判を内容のほとんどにしていて、ソ連国家自体の(新たな)性格づけについては何も語っていないことだ。
 ソ連国家自体について語っているのはむしろ、ソ連はまだ「社会主義」国だ、という理解だと読める。以下のとおり。
 不破哲三は、ソ連の覇権主義を「社会帝国主義」とも称しつつ批判・分析していることについて、1981年6月の宮本顕治(当時の委員長)のつぎの発言を引用している。もちろん、否定・批判しているのではない。
 ・ソ連の「アフガニスタンへの軍事的な浸入というのは、われわれは社会帝国主義的である、社会主義であるけれどもやっていることは帝国主義だという点では『社会帝国主義』という言葉もあえて使っているわけですが、これがやはり、…を仮借なく徹底的に分析しています」(不破・上掲p.21)
この部分はソ連は「社会主義である」ことを前提としているとしか読めない。かつ不破哲三は1991年12月刊行の本で、何の警戒?もなく肯定的に引用していたわけだ。
 つぎに、不破は、「ソ連の覇権主義者」による干渉の例として1963年頃の日本国内の大衆運動等の「分裂」を挙げ(日本社会党との友好化・「日本のこえ」等々)、次のように述べている。
 ・資本主義国の共産党に対して「これをつぶすためための全面攻撃をするなどということは、世界の共産主義運動に例のない、階級的な犯罪行為というべきものでした」(p.32-33)。
「世界の共産主義運動に例のない」ことだから「共産主義運動」ではないとの趣旨ではないだろう。上の文章の最後にある注記として、日本共産党がソ連共産党に対して1964年8月に送った「返書」のつぎのような一部が紹介されている。
 ・ 「あなたがたは、…。これは国際共産主義運動の歴史のなかでも、いまだかつて例のないものです」(p.33)。
 ところで、不破は「三十年にわたるソ連の大国主義、覇権主義との闘争…」と言っている。それは第8回党大会での1961年綱領採択後の日本共産党・宮本=不破体制において、という意味だろう。
 それほど重要な闘争であるならば綱領中に行動目標的に掲げられてもよかったはずだ。しかし、不破も言うように、「綱領に、覇権主義とのたたかいを、党のもっとも重要な任務の一つとして明記」したのは1985年の第十七回党大会での綱領一部改定によってだった。
 その改定綱領の内容を、不破哲三はつぎのように紹介している。『』内が綱領中の文章だろう。
 ・「一部の社会主義国に生まれた覇権主義というのは、まさに、歴史の発展にそむき、『国際緊張の一定の要因』になるとともに、『対外干渉と侵略にほんらい無縁である科学的社会主義の理念』を傷つけ、…害悪であること、これを克服することは、…、私たちが負っている大事な『国際主義的任務』であるということです」(p.40-41)。
 「一部の社会主義国」とはソ連に他ならず、明確に、ソ連は「社会主義国」だ、と理解していたことになる。
さらに、不破の同著中の「覇権主義の党の解体と日本共産党」は、ポーランド問題について1981年12月25日付赤旗に掲載された西沢富夫(当時、副委員長)の発言を「スターリン以来の官僚主義・命令主義が、社会主義からのいかに重大な逸脱であるかの、明確な分析をおこなった」と評価するが、そこで引用されている西沢発言の一部はつぎのようなものだ(p.83-84)。
 ・「今日の社会主義諸国と官僚主義の問題一般についてくわしく立ちいる」ことはしないが、「スターリンがソ連の最高指導者」だった時期に「根づき、強まった」。「ソ連のモデルは、戦後社会主義の道へふみだした他の東欧の社会主義国などにも」持ち込まれた。
 ・「あとから社会主義の道へふみだした国では、社会主義大国の覇権主義と国の指導部の自主性の欠如が結びついて。官僚主義の弊害が重大化するのです」。
 「社会主義大国」がソ連を意味するだろうことは明らかだ。
 なお、日本共産党は今日、スターリン時期以降のソ連のみならず、同時期以降の東欧諸国もまたソ連と同じ道を歩んだとしている。にもかかわらず、上では(日本共産党が今日ではもはや社会主義とは無縁だったとする戦後に!)東欧諸国も「社会主義の道へふみだした」としている。
ソ連が「社会主義」でもそれへの「過渡期」でもなく「人間抑圧型」体制になっていたはずの時期に、東欧諸国は「社会主義の道へふみだした」と言っているのだ!
 三 日本共産党中央委員会・日本共産党の七十年/下(新日本出版社)は1994年5月に、ソ連の性格づけを綱領で大きく<変更・修正>した1994年の第20回党大会が開催される前に、出版されている。
 執筆者名は不明だが(むろん中央委員会による正規の文章ではある)、1985年の第17回党大会での綱領改定にもこの党史は触れている。
 改定の主要点とされる第一は、先に言及したが、ソ連覇権主義との闘争の必要性の明記だとされている。そして、この明記は、つぎのことを意味するとされる。
 ・「覇権主義、官僚主義など『内部にそれぞれの問題点』をもつ社会主義諸国がその誤りのゆえに世界史の発展の原動力となりえない場合のあることを意味していた。旧ソ連・東欧の劇的破たん」は、この明記の「歴史的先駆性をあざやかにしめすことになった」(p.239)。
 この文章は「旧ソ連・東欧の劇的破たん」の後で書かれている。にもかかわらず、ソ連と東欧諸国は「社会主義諸国」だったことをも明瞭に認めている叙述になっている。
 改定の主要点の第二は「資本主義の全般的危機」規定の削除だとされるが、その削除の理由の一つはつぎのことだと書かれている。
 ・「社会主義国の一部に覇権主義の誤りがつよまり、帝国主義の態勢立て直しと延命をたすけているという情勢の変化がうまれたこと」
 ここでも、(少なくとも)ソ連は社会主義国だったという理解が前提とされていることは明らかだろう。
 四 以上は、1991年と1994年の、それぞれ一つずつの文献の一部の紹介にすぎない。それでも、ソ連を「社会主義」国の一つと見る理解がなおも示されていることは明らかだろう。
 日本共産党と同党員たちはおそらくは1990年末、あるいは1991年末のソ連解体まで、ソ連は社会主義国だと思っていただろう。しかるに、ソ連・東欧「社会主義」国の崩壊によって混乱してしまったのだ。
 そこで、生き延びるために想起したのは、幸か不幸か、日本共産党はソ連の覇権主義と闘ってきた<栄光>の歴史がある、ということだったに違いない。
 そこで、もともとは「社会主義」諸国または諸共産党の間での、「国際共産主義運動」内部での闘いだった日本共産党のソ連(ソ連共産党)との闘いを、社会主義ではなくなっていたソ連との闘いだったと強引に理解し直すことにし、かつまた、長きにわたって闘ってきたのだ、などと姑息にも言いつくろうことにした。
 これが、不破哲三の、そして日本共産党の大ペテン・大ウソの一つだ。
 「スターリン以後のソ連にたいするわれわれのこうした認識は、ソ連が解体してからにわかに生まれたものではありません。これは、三十年にわたるソ連の大国主義、覇権主義との闘争を通じて、私たちが到達した結論であります」(不破・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版(2000)〕p.63)とは、よくぞ言えたものだ。
 ソ連解体後またはソ連共産党の解体後の1994年や1991年12月にもまだちゃんと(?)、ソ連等は「社会主義」国である(だった)旨を書いているではないか。あるいは、その旨の1980年代の共産党指導者たちの発言等を、その時期になお肯定的に引用・紹介しているではないか。
 不破哲三、そして日本共産党は、「ソ連は社会主義でも、それへの過渡期でもなかった、…、人間抑圧型の体制だった」と、1989-91年の以前に、いつ、どの文献で述べていたのか。
 さらにだが、かりに不破が、いかにスターリンに問題・欠点があっても、ソ連はもはや社会主義国ではなくなった、などと言ってはいけない、という旨をかつて明確に主張していたとすれば、一体どうなるのだろう??
 文献上の(実証的な)根拠はある。<反共デマ宣伝>をしているのではない。日本共産党や不破哲三自身の文献をきちんと見て書いている。
 <つづく>

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ02

 現在の日本共産党は、かつてのソ連をどう見ているか。
 2004年改定の日本共産党綱領は、次のように述べる。
 「三〔章〕、世界情勢―二〇世紀から二一世紀へ」の中の「(八)」〔節〕(但し、この節番号は最初の一章からの通し)の一部を引用する。
 ・「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代は、一九一七年にロシアで起こった十月社会主義革命を画期として、過去のものとなった。第二次世界大戦後には、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出した。
 最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録された。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。」
  ・「ソ連とそれに従属してきた東ヨーロッパ諸国で一九八九~九一年に起こった支配体制の崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産であった。これらの国ぐにでは、革命の出発点においては、社会主義をめざすという目標が掲げられたが、指導部が誤った道を進んだ結果、社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた。」
 ・「ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の崩壊は、大局的な視野で見れば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった。」
 以上
 以下は同「(九)」の冒頭の一文。
 ・「ソ連などの解体は、資本主義の優位性を示すものとはならなかった。」
 上の最初の方からだけでは、ソ連は「社会主義」国だったのか否かについての回答は示されていないようにも読める。「社会主義の原則を投げ捨てて」とは厳密には何を意味するか、はっきりしないからだ。
 しかし、そのあとに、「社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会として、その解体を迎えた」とあることから、遅くとも「解体」の時点では、「社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会」だったと理解・認識しているようだ。
 このような理解に、党としては1994年の(綱領一部改定をした)第二十回大会で(1991年からは3年後になる)、達したとされる。 
 この大会の決定・報告集を所持していないが、綱領一部改定はソ連の認識を<修正または変更する>もので(このあたりが興味深いのだが)、当時日本共産党(幹部会)委員長だった不破哲三は、自らこう報告したと不破の2007年の著(スターリンと大国主義・新装版)のまえがきで紹介している(p.15)。
 ・「スターリン以後の転落は、政治的な上部構造における民主主義の否定、民族自決権の侵犯にとどまらず、経済的な土台においても、勤労人民への抑圧と経済管理からの人民のしめだしという、反社会主義的な制度を特質としていました。」
 以上。
 また、不破哲三の2000年8月刊行の本である、不破・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕(2000、新日本出版社)p.62-63によると、上の党大会で不破は以下のように述べた。
 ・「社会主義とは人間の解放を最大の理念とし、人民が主人公となる社会をめざす事業であります。人民が工業でも農業でも経済の管理からしめだされ、抑圧される存在となった社会、それを数百万という規模の囚人労働がささえている社会が、社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか。」
 以上。
 志位和夫・綱領教室第2巻(2013.04、新日本出版社)でも、上の(直近の)不破発言部分はそのまま引用されているので、現在の日本共産党の公式見解と言ってよいだろう。
 ちなみに、現在の党(幹部会)委員長・志位和夫は、この不破発言部分を聞いて「私自身も大きな感動を覚えたものでした」、らしい(上掲・志位著p.195-6参照)。
 また、不破哲三は、2000年の上記書物・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕によれば、同年7月20日の講演で自らの上記発言部分も引用しつつ改定綱領の重要点の一つとして次の「認識」を、やや異なる表現で、こう述べている(p.63-65)。
 ・「第一は、ソ連型の経済・政治体制、社会体制にたいする徹底した告発、これは、社会主義とは縁のない社会だったという認識であります。」
 ・「『ソ連型社会主義』というのは、社会主義の典型でないことはもちろん、社会主義のロシア的な道でもない、…と告発しました。」
 ・「そういうわれわれの批判的な認識の深まりが、ソ連解体後一挙に明るみに出た社会の内情についての材料の分析と結びついて、第二十大会でのあの結論--ソ連は社会主義でも、それへの過渡期でもなかった、抑圧型、人間抑圧型の体制だった、という結論になったのであります。」
 以上。
 さらに、不破哲三は、同・スターリンと大国主義・新装版(2007.05、新日本出版社)のまえがきで、次のようにも述べている。
 ・「ソ連で崩壊したのは何だったのか。/ソ連で崩壊したのは、社会主義ではありません。そこで崩壊したのは、社会主義に背を向け、ソ連を反社会主義の軌道に引き込んだ覇権主義と専制主義です。」
 ・「その覇権主義は社会主義の産物ではなく、スターリンとその後継者たちが社会主義の事業に背を向け、社会主義を目指す軌道を根本的にふみはずすことによって生み出したものです。」
 以上。
 このとおりで、1994年から現在までの日本共産党のソ連についての理解・認識を知ることはできる。
 だがしかし、秋月瑛二が不思議にまたは奇妙に感じるのは、不破哲三のつぎのような文章を目にしたときだ。
 上記の不破(2000)・日本共産党の歴史と綱領を語る〔ブックレット版〕p.63は言う。
 ・「スターリン以後のソ連にたいするわれわれのこうした認識は、ソ連が解体してからにわかに生まれたものではありません。これは、三十年にわたるソ連の大国主義、覇権主義との闘争を通じて、私たちが到達した結論であります。」
 以上。
 はたして、日本共産党の「ソ連の大国主義、覇権主義との闘争」というのは、ソ連の<反社会主義>・<人間抑圧社会>との闘いだったのだろうか。
 「ソ連が解体してから」ではなく、それ以前から現在のような認識に立っていた(少なくともその一端は明確に示していた)、というがごとき書き方だが、これは、大ペテン・大ウソだ。また、そもそも、「ソ連が解体してからにわか」の時点では、現在のような認識ではなかったようだ。文献上の(実証的な)根拠はある。
 <つづく> 
 

日本共産党(不破哲三ら)の大ペテン・大ウソ01

 日本共産党ウォッチャーではないので、少なくとも継続的な日本共産党ウォッチャーではないので、同党関係文献を多数所持しているわけではない。もちろん、日本共産党を研究する学者・研究者でもない。
 日本共産党特集をしている最近の諸雑誌を一瞥して不満だと思う、つまりはそれらを見ても疑問を払拭できない、いくつかの基本的と思われる論点・問題に、以下しばらく言及する。
 すでに日本共産党の外部で議論や指摘がなされているものかもしれないが、残念ながら、秋月瑛二はきちんと読んだことがない。
 現在の日本共産党を観察・評価する場合に基本的と(秋月が現在)思っている論点・問題とは、次のようなものだ。「暴力」革命問題でも(1950年頃の歴史問題でも)、憲法問題でも天皇問題でもない。
 第一。日本共産党は、かつてのソ連=ソヴィエト「社会主義」共和国連邦は「社会主義」国ではなかった、と1991年以降は言っているようだが、1989-91年以前はどのように理解・主張していたのか。
 これ以前に(生成途上であれ)「社会主義」国と理解していたとすれば、そのように理解していたことを自己批判し、反省し、国民に、少なくとも一般党員に詫びるべきだろう。
 関連して第二。日本共産党は、レーニンまでは正しく、つまりレーニン時代は「社会主義」の方向に向かっていたが、<大国主義・覇権主義>のスターリンによって誤った、と言っているようだ。
 このような、レーニン時期とスターリン時期の大きな(質的に異なると言っているような)区分論は歴史把握として適切なのか。あるいはまた、この対比は、レーニン=「社会主義」、スターリン=<それ>からの逸脱、と単純化してよいのかどうか。
 これにかかわって重要なのは、上の<それ>を現在の日本共産党は「社会主義」それ自体と認識・主張しているようだが、逸脱には<社会主義内部>あるいは<国際共産主義運動内部>でのそれまたは誤りもある、ということだ。現在の認識・理解のように、1989-91年以前の日本共産党も認識・理解していたのかどうか。
 兵本達吉・日本共産党戦後秘史(2005、産経新聞出版)にはこれらについての言及はない。
 雑誌・幻想と批評1~9号(はる書房、2004-2009)はすべて所持している。一瞥のかぎりで、黒坂真のいくつかの論考が関係している。のちに触れるかもしれない。
 それでも、黒坂が言及する不破哲三の前衛所収論考を見なくとも、ある程度丁寧に日本共産党の文献を見ていけば、上についてのいちおうの答は出てくる。
 <つづく>

1233/池田信夫の特定秘密保護法論の一端。

 池田信夫は、原発問題も含めて、相当に信頼のおける、穏当・妥当な(中立・中庸という意味ではない)主張・議論をする人物だと思っている。
 正確な月日を特定できないが、某メルマガ上での、特定秘密保護法に関する池田の文章を見つけたので、この欄の執筆者なりに要約して紹介しておくことにする。
 何事が起こったのかと驚くようなキャンペーンをはっていた朝日新聞等の社説子・記者や朝日新聞等に煽られたか又は逆に朝日新聞等を煽ったかの特定秘密保護法「反対」学者たちは、冷静に読むがよい。単独(多数)講和反対論、60年安保反対論と同様の(それらよりもアホらしいほど程度レベルだが)、すでに正否・適否の結論の出ている空想的・観念的・妄想的「反対」論であったことを知らなければならない。自分たちが恥ずかしいことをしたことを知らなければならない。
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 池田信夫「秘密保護法についてのまとめ」
 <マスコミが大騒ぎする割に何が問題かさっぱりわからないようなので、常識的な事項を簡単にまとめる。「特定秘密」は安全保障に関する情報で、「普通の人が軍事・外交機密に接触する機会はまずない」。この法律が「むしろ軍事・外交機密に範囲をせばめたことで、機密の対象は明確になった」。「『特定有害活動』とか『テロリズム』が拡大解釈されるおそれはある」としても、「普通の人にはまず関係ない」。「その種の人々に対する情報収集は今でも行なわれて」おり、「この法律で広がるわけではない」。この法律による変化の「最大のポイントは、今まで機密漏洩の罰則は国家公務員法と自衛隊法しかなかったのが、公務員の家族や友人、あるいは出入り業者など民間人にも処罰対象が広がることだ」。但し、「運用には注意が必要」だとしても、「これは当然で、国家公務員という身分より軍事機密という情報の属性で分類するのが正しい」。「特定秘密の基準が曖昧で民間人を巻き込むリスクはある」が、それは「主として運用の問題」で、「問題の本質」は「日本の安全保障にどういう影響を及ぼすか」だ。「最大の目的は米軍のもっている軍事機密の提供」で、在日米軍の将来の撤退に備えて、「自衛隊も『自立』して」ほしいというのがアメリカ政府の企図だろう。「臨時国会で成立させるほどの緊急性があるとは思わない」が、「法案が提出された以上は、成立させるしかない」。必要以上にもめれば、「中国に誤ったシグナルを送る結果になる」。「防空識別圏」は小さな問題のようにみえるが、戦争は小さなきっかけでも起こりうる。「日本人もそろそろ平和ボケから覚めるときだ」。>
 池田信夫「秘密保護法の本当の欠陥」
 <「空騒ぎもようやく終わった」。問題は秘密保護法だけでは「機密を守る役に立たないこと」だ。「中国の諜報機関」、中国の「1万人のサイバー攻撃部隊」による「攻撃が、世界の諜報機関を悩ませている」。特定秘密保護法の「大部分は『特定秘密の取扱者』の規制とその適性評価」にさかれおり、「古典的なHUMINTを想定しているので、サイバー攻撃には役に立たない」。安倍首相発言のごとく、、現在「『特別管理秘密』に指定されている42万件の情報の9割は衛星写真」で、「残りは暗号や潜水艦の位置情報などの軍事機密」であり、「マスコミとは関係のない、安全保障の問題」だ。「今の無防備な日本には、アメリカは戦略情報や軍事機密を出さない。だから国家公務員だけでなく、三菱重工のような防衛関連企業にも守秘義務を課してセキュリティを管理する秘密保護法は必要だが、不十分」。新聞などという業界の既得権より、「ハイテク諜報戦争の防護のほうがはるかに重要」だ。>
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. こんな池田の文章を読んでいると、すでに紹介したような、憲法の「平和主義」を持ち出したりしての、「反対」声明・意見の<空理・空論>さを強く感じる。立命館大学有志意見はこの法律は「一般的な秘密の保全というよりは、軍事的な防諜法の側面が強いものになってい」ると言い、「刑事法研究者の声明」は「この法案は、端的に言えば、軍事立法としての性格を色濃く有して」いると言うが、そそもなぜ、そのことがいけないのだろうか。
 この人たちは、「軍事」一般を「悪」と見ており、かつ「戦争」を起こす(又は起こしたい)のは日本かアメリカ(又はアメリカに追随しての日本)だと思い込んでいるようだ。従って、東アジアの現実をリアルに見ることができていない。日本よりも「軍事」を重視し、「軍国主義」化しており、日本に対して戦争を起こす(日本領土を「侵略」する)可能性・危険性を切実に意識しておくべきなのは、共産中国または北朝鮮ではないか。簡単に述べても理解できないのだろうが、今日でも、社会主義(国)=善、自由(資本)主義(国)=悪と見るという、そして危険なのは日本(の「保守・反動」派)だという、50年以上前にすでにあった古色蒼然たる観念を、愚かにも現在まで持ち続けている。こんな意識からは、日本と日本国民の「安全」を守るためには<防諜>や<インテリジェンス>が必要などという考え方はまるで出てこないか、まるで理解できないのだと思われる。そして、日本と日本国民の「安全」を本当にまたは現実に守らなければならないという意識・考え方がじつはきわめて薄いのだと思われる。日本と日本人から<距離を置く>ことが<ナショナリズム>に陥らない良いことだ、と考えているのかもしれない。
 何やら良心的・進歩的な言説を吐いているつもりかもしれないが、<空理・空論・妄想>に嵌まったままの、気の毒な人たちだ。そして、大学教授たちの中に少なからずそういう人たちがいるのだから、日本の大学教育(法学教育)の現在と将来には悲観的にならざるをえない。むろん、冷静で、正常で、まともな教授たちもいるに違いないが。

1171/<憲法は国民が国家を縛るもの>考。

 〇現憲法9条の「アクロバット」な解釈(読売4/17)を用いて、政府により自衛隊は「軍その他の戦力」に該当しない合憲の存在とされ、「自衛戦争」はできないが(国際法上または国家の自然権として認められる)「自衛権の行使」は(集団的自衛権のそれでなければ)許される、そのための核兵器の保有も禁止されていない、とされた。
 この常識的には苦しい解釈を政府が採ってこざるをえなかった大きな理由の一つは、正規の憲法改正・9条2項の改定が、国会内の1/3以上の「護憲」=少なくともかつては明確な親コミュニズム・親社会主義勢力の存在によってずっと不可能だったことによる。

 〇さて、<憲法は国民が国家を縛るもの>という正しそうな命題を肝心のわが日本国憲法にあてはめると、まずは、「国民」がこの憲法を制定したのか、という問題にぶちあたる。そして制定時の衆議院・貴族院は当時の国民を代表していたのか、前者の衆議院に限っても、実際には「制憲議会」となった衆議院議員選挙において国民や議員立候補者は「新憲法」案の内容をいかほどに知っており、いかほどの知識にもとづいて選挙運動や投票行動をしたのか等の疑問が生じる。結果として支持され、定着した、というだけでは、国民または国民代表が憲法を制定したことにはならないはずだ。
 現憲法が明治憲法(大日本帝国憲法)の改正手続にのっとり、新憲法施行と同時に廃止された貴族院での議論も経て、天皇(昭和天皇)により公布されたこと、そのかぎりで天皇が旧憲法を「改正」したといっても決して誤りではないことをどう見るか、という問題もある。
 日本国民でも昭和天皇でもなく、GHQが作った、という理解が、実態には最も近いように見える。たしかに一院制から参議院を含む二院制への変更など日本側の意見も採用されてはいるが、より基本的なところは<マッカ-サ-が1週間で作った>、憲法には素人のベア-テ・シロタや、法学部を出ていても憲法の専門家では決してないGHQの軍人たちが、応急的かつ大胆な原案を作ってそれが基本的にそのまま維持された、と言ってよいだろう。
 <憲法は国民が国家を縛るもの>というとき、日本国憲法のかかる出自に関する疑念・問題意識が湧かないようでは困る。
 上の諸論点には立ち入らない。「八月革命説」によるとその八月から新憲法施行までの期間はいかなる法状態だったのか、旧憲法は生きていたのか、少なくとも「非民主的」部分は失効していたのか等々の問題が生じる。学界では多数説になったらしいこの説の主唱者だった東京帝国大学教授・宮沢俊義は、この問題等々をじつに巧妙に説明または回避しているのだが、それの紹介も別の機会に譲る。
 そもそも「国民」は現憲法制定時に存在したのか、という大きな問題が、悲しくも、わが現憲法には付着している。
 つぎに、<国民が国家を縛る>というときの「国民」とは、上記の諸問題を一切捨象していうと、制定・施行時の「国民」に他ならない。日本についていうと、かつての、60年以上前に存在した国民が現在の国家を縛っていることになる。
 現在の「国家」のうち、最も意識されなければならないのは国民代表議会である国会だ。そうすると、憲法は国家を縛るとは、60年以上前の国民が現在(まで)の国会を拘束している、ということであり、国会が制定する法律を縛っている、ということを意味する。
 上のことは、憲法の決定的に重要な機能が、そのときどきの国民によって選出される議員によって構成される国会が制定する法律を「縛る」ことであることを意味している。要するに、法律は憲法に違反してはいけない、そのときどきの主権者国民の代表者でも超えられない、違反できない、枠あるいは基本的基準を憲法を定めている、ということだ。これをたんなる理念・理論で終わらせないために、司法部に法律に対する違憲審査権が与えられている(仕組みは憲法裁判所をもつドイツや韓国もあるなど種々だが、中国等とは異なる自由主義・三権分立国家では法律の合憲性が審査される)。
 ということは、さらにいえば、60年以上前の国民の意思が現在までの国民(および国民代表議会)を拘束してきたことになる、といえる。
 実際にも、法律を違憲とした(一部規定を無効とした)最高裁判決がいくつかある。

 <憲法は国民が国家を縛るもの>とは、平たくいえば、制定時の国民の意思がその後の国民(代表議会)の意思決定を制約するということだ。そして、前回書いたように、憲法を遵守している法律は、行政部や司法部を拘束する。そのようにして憲法は「国家」各部門を縛っていることになる。
 一般論としていうと上のとおりだが、問題ははたして60年以上前の国民の意思(とされているもの)がその後、そしてとくに現在においても絶対的なものなのか、だ。絶対的・永久的な拘束ではないことは、現憲法が(諸外国憲法と同様に)「憲法改正」に関する条項をもつことでも明らかだ。
 憲法改正は実際上困難だったが(96条の要件)、しかしつねに<よりマシな、よりよい憲法>を追求する姿勢を失ってはならなかった。だが、しかし、日本の憲法学の学者もマスメディアもほとんどと言ってよいほど、それを怠ってきた。まことに恥ずかしいことだ。

 いいかげんに目を覚まして、まともでふつうの国民に、あるいはまともでふつうの憲法学者やマスコミ等にならなければならない。
 以上、2013年4月時点での述懐。

1109/西部邁・佐伯啓思グループの「反共」性。

 佐伯啓思の昨年9月と今年4月の文章(産経新聞連載コラム)を読み返してみると、前者では「事実上は、日本には主権性は帰属しない」とも述べつつ、その前には「不完全な主権性」(「国家統治権限」はGHQの「制限のもとにおかれる」(subject to)こと)と明確に語ってもいる。
 後者では、日本国憲法は「本来は」無効である理由として、たんに「広義の戦争状態における占領である。日本には主権はない」、「憲法制定とは、主権の最高度の発動以外の何ものでもないから」、と記している。
 ニュアンスが少し違うようなのだが、こう指摘することは揚げ足取りになるのかもしれない。
 それよりも、講和条約・安保条約の締結・発効に関する問題を<日米関係>の視角でのみ見ているようであることが、大いに気になる。
 むろん佐伯啓思が指摘するように、これらは「主権」性をめぐる法的および実質的な論点を生じさせただろうが、これらの条約の背後には、1949年における東西ドイツの分裂・建国(社会主義・ドイツ民主共和国の成立)や毛沢東・中国共産党による社会主義中国(中華人民共和国)の成立等があり、1950年の朝鮮戦争勃発もあった。佐伯が知らないわけではもちろんないだろうが、東西対立を背景としての日本の<反共・自由主義>陣営への参加という決断があった。そこに米国の意思が働いてないとは言わないが、日本にとっては当然の、少なくともやむをえない「単独(実際は多数)講和」だった、と思われる。
 ソ連等をも含む「全面講和」条約を締結をして日米安保条約を締結しなければ、日本の主権は法的にも事実上も明確に「回復」したのだろうか。そのような選択の現実的可能性はあったのだろうか(むろん、立花隆等が敬愛する南原繁ら「進歩的文化人」、岩波・「世界」等の<全面講和>論もあったわけだが、この論が親社会主義・コミュニズム幻想を背景にしていたことは明らかだ)。
 こんな事情を抜きにして、アメリカとの関係のみに着目して、主権の「完全」性・「自立」性や「従属」性を現時点で語ることに、いかほどの生産的・建設的な意味があるのだろうか。全くないとは言わないし、むろん、「思想家」としての格好の思考素材にはなるのだろうが。
 なお、<西部邁・佐伯啓思グループ>が反米・自立の必要を強調はするが、中国・北朝鮮という「現存する」社会主義国に対する批判的視線はきわめて弱い、ということは何度か書いた。
 旧社会主義国・ロシアにより北方領土は実効支配され、社会主義国・中国は尖閣諸島を自らの領土と宣言し、実効支配をしようしているがごときだ。これらは「主権侵害」ではないのか? 北朝鮮による日本人拉致もそうだが、さらに、中国や北朝鮮の「工作員」による「間接的」な「侵略」、つまりは<主権侵害>は、多くの国民が考えている以上に、日常的に行われているのではないか。中国について、 ペマ・ギャルポの、中国の「日本解放工作」に関する書物・論考等参照。
 <西部邁・佐伯啓思グループ>は、これらについて、まともに議論し、その成果等を雑誌に発表したりしたことがあるのだろうか?

1078/西部邁=佐伯啓思ら編・「文明」の宿命(2012)の富岡幸一郎「はじめに」。

 西部邁=佐伯啓思=富岡幸一郎編・「文明」の宿命(NTT出版、2012.01)の、富岡幸一郎による「はじめに」だけを読了。
 中身についてものちに触れるかもしれないが、著者9人の一人は「雑菌」の中島岳志なので、読者はこの本がまともな「保守」主義による議論・論考をまとめたものだと誤解しない方がよい、と思われる。
 富岡による「はじめに」の前半は、素直に納得しながら読める。
 すでに一九世紀末・第一次大戦前に「西洋の没落」(シュペングラー)は語られていたのであり、「西洋近代を形成してきた進歩史観への警鐘」も発せられていた(はじめにp.2)。
 以下は私の言葉だが、しかるに、日本国憲法は<欧州近代>所産の法思想を疑問がないものとして、アメリカ独立宣言・フランス人権宣言等に遡及可能なものとして、継受してしまった。日本国憲法97条はつぎのように定めるのだが、私はこのような「お説教」を読んで、いつも苦笑を禁じ得ない。日本の今の憲法学者はどうなのかは知らないが。
 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

 富岡の文章に戻ると、こう述べられている。
 現代の「文明」社会を深く覆うのは「ニヒリズム」で、すでに一九世紀末にニーチェが語ったものだ。それによると、「人々が生きる意味と目標を失い、よるべない虚無の淵に立たされる危機」のことで、あるいは、<宗教・道徳・理性・精神といった価値が無意味なものと化してしまったあとに出現する「最も気味のわるいもの」>だ(はじめにp.3-4)。
 このあたりまではよいのだが、その後の富岡の叙述には大きな疑問を持たざるをえない。
 富岡は、そのような「最も気味のわるいもの」が二〇世紀以降に生みだしたものを、あれこれと列挙している。まず単語だけを取り出しておこう。
 ・第一次大戦という「全面戦争」、科学技術による大量殺戮兵器、欧州の「血の地獄」化、世界恐慌から第二次大戦へ、核エネルギーの使用(はじめにp.5)
 続いて次のように所産または結果を述べている。
 ・「一九八〇年代後半からの冷戦崩壊によって社会主義体制はついえ去り、資本主義はそのまま生き延び」、九〇年代以降はアメリカ中心の「強欲ともカジノ的ともいわれる金融資本主義へと展開された」(はじめにp.6)。
 ・ニーチェのリヒリズムは二〇世紀には「大量殺戮の悲劇」を生み、二一世紀の今日では「…資本主義のテーモンに体現されている」(p.6)。
 このような時代または「文明」史の叙述には―一瞬はすらっと読んでしまいそうだが―、疑問を禁じ得ない。
 細かなことを言えば、二つの大戦の「外的要因」は「帝国主義の政策による衝突」で「内的要因」は「世界恐慌という経済的危機」だったという叙述(上では省略。はじめにp.6)は教科書的・通俗的で、はたしてこんな理解でよいのか、と感じさせる。これは、「左翼」の描く歴史とまったく同じなのではないか。それに、第二次大戦の前のロシア革命・社会主義ソビエトの成立とその影響にはまったく!言及がないのだ。
 「社会主義」の無視・軽視、これこそが富岡の文章の致命的な欠陥だと思われる。
 富岡は八〇年代後半以降に「社会主義体制はついえ去り」と平気で書き、その前に「冷戦崩壊によって」と簡単に書いてしまっている。だが、冷戦は終わっていない、あるいは新しい冷戦にとって代わっている。また、そもそも、「社会主義体制はついえ去」っていないどころか、この東アジアにおいて、中国、北朝鮮等というれっきとした「社会主義」国家はあるではないか(両国の共産党・労働党の大会において誰の肖像画・写真が大きく掲げられているかを思い出すがよい)。

 また、この日本の現実の中に「社会主義」の(「体制」ではなくとも)<思想>は脈々と残存し続けている。
 富岡幸一郎の書いてきた文章をいっさい否定するつもりはないが、上の点はあまりにヒドい、と思われる。いったい、この人は何を考えているのか?
 さらには、上にも関連するが、富岡によると、現下の最大の「文明」問題は、「資本主義のデーモン」であるようだ。しかし、現在の資本主義に問題がないとは言わないが、アメリカ中心の「強欲ともカジノ的ともいわれる金融資本主義」を批判すること、そのようなものを「現代文明の全般的危機」として把握することともに、あるいはそれ以上に、覇権主義・軍国主義を伴う「社会主義」国家が現存し、かつ「社会主義」イデオロギーが(日本においてこそ顕著に)残存し続けていることを、きちんと、そして深刻に「現代文明」の重要な問題と把握すべきだ。
 このような「社会主義」に対する<甘さ>は、「大量殺戮(の悲劇)」に関する富岡の理解の仕方にも表れている。富岡は明らかに、これを近現代の「科学技術」の所産として(第一次大戦との関係で)語っている。
 しかし、富岡は知らないのだろうか。両大戦の死者(大量殺戮の被害者)の数よりも、ソビエト連邦や共産主義・中国等々における革命・内戦・「粛清」の犠牲者の数の方が多いのだ。
 「大量殺戮(の悲劇)」という語を使いながら、コミュニズムの犠牲者(大量殺戮被害者)をまったく思い浮かべていないようであるのは、少なくとも<保守>派の論者としては、致命的な欠陥がある、と考えざるをえない。
 佐伯啓思や西部邁について、<反米・自立>を説くのはよいが、<反共>または「反中国」の姿勢・文章をもっと示して欲しい旨を書いたことが何回かある。
 西部邁・佐伯啓思グループの一人のようである富岡幸一郎にも、同じような弊があるようだ。

0993/日本の「保守」は生き延びられるか-中川八洋と渡部昇一。

 敗戦・占領に伴うGHQによる日本国憲法の実質的な「押しつけ」とその憲法が今日まで一文も改正されることなく効力をもち続けていることは、日本国家と日本国民にとって屈辱的なことで、改正または実質的には新憲法の(当然に自主的な)制定は国家と国民のの基本課題とすら言えるだろう。

 だが、物事の見方は多様で、上のような見方よりもはるかに巨視的に判断している者もいる。

 中川八洋・山本五十六の大罪―亡国の帝国海軍と太平洋戦争の真像(弓立社、2008)の「まえがき/昭和天皇のご無念」がそれだ。

 中川によると、今日の日本<滅亡>の危機の元凶は昭和前期の「狂気」にあり、「GHQ七年間」の占領に原因があるのではない。それどころか、「マクロに考察すれば、GHQ占領こそ、天皇制度の温存にしろ、自由経済にしろ、政党政治の回帰にしろ、日本の国家蘇生に裨益した」。「憲法第九条など有害なものも多いが」、それは「ミクロに観察」した場合のこととされる(上掲書p.5)。

 これには驚いた。だが、なるほど中川八洋は戦争の継続と被害の増大・日本の焦土化のあとに「共産革命」がありえたと判断している、つまり「共産主義者」たちは日本の徹底的な破壊のあとの「革命」=<社会主義日本>の樹立を狙っていたと理解しているので、それに比べれば、昭和天皇の「御聖断」による終戦と「自由主義」国・米国による実質的な単独占領は、そのような「共産革命」を防いだ、<よりまし>なことだった、と捉えられることになる。

 こういう見方は、決して荒唐無稽ではない、と思われる。たしかに種々の大きな課題・禍根をGHQ「占領」は残したが、ソ連の影響力のもとでの日本全体または日本の半分の「社会主義」国化、ソ連の「傀儡」国家化は、東欧や北朝鮮に実際に生じたように、まったくありえなかったわけではない、と考えられる。もしも、戦争がさらに継続され、ソ連が先に、あるいは米国とソ連がほぼ同時に日本国土に上陸していたならば…、戦慄する事態になっていただろう(国内にはそれに迎合し、ソ連を歓迎する「共産主義」勢力が存在した)。

 だが、中川八洋とて、「日本国憲法」が現在のままでよいとは考えていないだろう。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)の基本的なコメントの第二のマクラのつもりで書き始めたが、すでに長くなった。

 方向を転換して、上掲書にさらに言及しよう。

 中川八洋は、次のようにも書いている。日独伊三国同盟締結という「大罪」を犯した松岡洋右らまで、「軍人でもなく戦死したわけでもないのに祀る」という「前代未聞の暴挙」を靖国神社は1978年に行った(p.6)。すでに言及したが、中川八洋によれば、大東亜戦争とは日本国内の「共産主義者」たちがコミンテルンらと結びついて、日本を大崩壊させ、のちに「共産」日本を樹立するための陰謀で、「国家反逆性」(p.6)をもつ。

 いつか述べたように、道徳的な「悪」とは言えない戦争と敗戦を出発点として考えたく、あの戦争にかかる開戦・敗戦の原因等々の詳細に立ち入って<復習>しようという関心はほとんどない。

 中川八洋の主張についても、論評する資格はない。ただ、ありうる、成り立ちうる議論で、そのうち触れるだろうように、中川のいう「民族派」の中にも、戦争の過程での「共産主義」勢力の関与・策略をきちんと指摘する論者も少なくない、とは感じている。

 だが、大東亜戦争=「(日本)国家反逆」という性格づけには、上の松岡ら靖国合祀批判も含めて、「民族派」あるいは<ナショナリスト保守>の多くの論者はおそらく納得できないだろう。

 しかしながら、奇異なことに、上掲書(中川八洋・山本五十六の大罪―亡国の帝国海軍と太平洋戦争の真像)のオビ(の表紙側)には、こんな言葉が印刷されている。

 「渡部昇一、大絶賛!! 大東亜戦争の真実が、帝国海軍についての初めての解剖的研究で、これほど迫真的に暴かれたことはかつてなかった。中川八洋氏のこの衝撃の新著は、現代史の超重要文献だ!」

 何と、渡部昇一は2008年刊の上掲書にこのような称賛・推薦の言葉を寄せている。個々の論点のすべてについて賛同するという趣旨ではなくとも基本的にまたは全体としては共感するからこそ、かかる称賛・推薦の言葉を書いた(または原文・素案を承認した)ものと思われる。のちに明確に「保守」ではない「民族派」と位置づける渡部昇一の称賛・推薦を受けた中川八洋もどうかと思うが、自分の名前がいろいろな所に出ればよいとでも考えたのか、渡部昇一の感覚もまた、異様に感じられる。

 渡部昇一の近年の日本歴史の何冊かの本は読む気はないが(購入の予定もない)、日支戦争・太平洋戦争(大東亜戦争)に対する見方・歴史観は、中川八洋と渡部昇一とは、まるで違う、むしろ真逆なのではないか。前回に書いたことと併せてみても、渡部昇一というのは、どうも信頼が置けない。そもそもきちんとゲラ刷りを概読でもしてから「大絶賛!!」の文章を書いたのか?。そうではない、いいかげんな人物だと思われる。こんな「保守」派論客が代表者の一人とされているようである<日本の保守>とは、いったい何か。「生き延びられる」未来はあるのだろうか。

0986/中川八洋・民主党大不況(2010)の「附記」を読む③。

 中川八洋・民主党大不況(清流出版、2010)p.351-「附記/たった一人の(日本人)保守主義者として」の引用・抜粋-その3、p.359~p.365-。
 ・「民族系」論者には「自由社会の存立」に必要な「反共」・「反社会主義」の知識が全く欠落している。「民族系」は南京事件・沖縄集団自決・従軍慰安婦強制連行・百人斬りなど、「左翼」の歴史捏造問題には反撃論陣を張る。これは正しいが、石井731部隊人体実験・シナでの毒ガス作戦などの他の歴史捏造には口を噤む。
 ・「民族系」には歴史の「真実」への関心がない。彼らは観客相手の「売文業者」で、観客のいない問題には関心がなく、知識もない。「観客」とは「旧軍の将兵(退役軍人)たち」だ。「民族系」論者の東京裁判批判は「意味不明な論旨」で、東京裁判史観の拡大宣伝をする日本共産党系学者の「狂説」を目に入れていない。「観客」=退役軍人たちは南京事件・従軍慰安婦等の問題は体験からすぐ分かるので、これらの捏造を糾弾すればすぐに反応がある。「民族系」論者は「花代」欲しさに、捏造歴史問題を一部に限定して声を大にしている。①ソ連軍の蛮行(満州でのレイプ・殺人・財産奪取)、②シベリア拉致日本人の悲惨さ、③南方作戦(餓死から奇跡的な一部が生還)には「何一つ語ろうとはしない」。その理由は、これらの被害はあまりに悲惨で「観客」が思い出したくない、つまり「民族系」の「金にならない」からだ。

 ・「民族系」は「保守主義者」ではなく「保守」か否かも疑問だ。「真正保守」ならば、反「極左イデオロギー」闘争を優先し、「国家の永続」を最重視する。「保守」は昭和天皇や吉田茂のように必ず「親米」だ。「反米」は「左翼」・「極左」の特性で、「日の丸」・「天皇」を戴くだけで彼らを「保守」と見なすのは不正確で「危険」だ。「真正保守」の再建には、彼等を「再教育」して「一部を選別するほかない」。

 ・「民族系」は過去20年間、「第二共産党」・民主党の政権奪取に貢献してきた。彼らは日本の国を挙げての「左傾化」を阻止しようとはせず、助長した。「民族系」は、「ソ連の脅威の一時的な凍結」を好機として、「反米→大東亜戦争美化論→東京裁判批判→A級戦犯靖国合祀の無謬」を「絶叫する狂愚」に酔い痴れてきた。「大東亜戦争美化論」は日本廃絶論・日本「亡国」待望論で、林房雄、保田與重郎・福田和也の系譜だ。
 ・民主党は「国家解体」に直結する「地方分権」、民族消滅に直結する「日本女性の売春婦化である性道徳の破壊」など、「日本滅亡の革命を嫡流的に後継する政党」だ。だが、「民族系」は、民主党が支持される「土壌づくり」に協力した。
 ・「民族系」が「正気に目覚める」のは「外国人参政権」と「夫婦別姓」の二つに限られ、これ以外では無知で無気力だ。「深刻な出生率低下をさらに低下させる法制度や日本の経済発展を阻む諸制度」に反対せず、関心もない。「財政破綻状態にも、日本人の能力の深刻な劣化問題にも」憂慮しない。「民族系」論客・団体の「知的水準」は低く、民主党批判を展開する「学的教養を完全に欠如」する。
 ・だが、「あきらめるのは、まだ早い」。「十八世紀のバークやハミルトン、二十世紀のレプケやハイエクなど、多くの碩学から」学んで、「日本国の永続」方策を探り、「悠久の日本」のための「国民の義務」に生きる道を「歩み続けるしかない」。

 以上で、終わり。

 若干のコメントは次に回したい。

ギャラリー
  • 1181/ベルリン・シュタージ博物館。
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  • 1180/プラハ市民は日本共産党のようにレーニンとスターリンを区別しているか。
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  • 0801/鳩山由紀夫は祖父やクーデカホフ・カレルギーの如く「左の」全体主義とも闘うのか。
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