秋月瑛二の「自由」つぶやき日記

政治・社会・思想-反日本共産党・反共産主義

社会主義

2474/西尾幹二批判047—根本的間違い(続4-2)。

 (つづき)
 六 2 ソ連崩壊=「冷戦終了」により時代状況は変化したのであって、「反共」とともに、またはそれ以上に、「反米」を主張すべきだ、という西尾幹二の基本的論調の間違いの原因・背景の第二と考えられるものは、こうだ。
 西尾がA「文芸評論家」あがりで国際情勢や国際政治にまで「口を出す」評論者となったこと自体、そしてBいわゆる<保守論壇>の中で何らかの意味で「目立つ」、すなわち「特徴のある」・「角の立つ」文章執筆者であろうとしたこと。
 前者Aについて
 2017年の「つくる会」20周年会合への挨拶文にある<「反共」だけでなく最初に「反米」も掲げた>という部分に着目して叙述してきてはいるが、既述のように2002年頃の西部邁や小林よしのりとの関係では「反米」という<思想>自体の真摯さは疑わしい。
 だが、その後、引用はしないが自ら「親米でも反米でもない」と一方では明記しつつも、「反米」的主張を強く述べ続けているのも確かであり、その反面で「反共」性は弱くなっている。
 また、国際政治や中国に対する見方も、もともとは一介の「素人」だったらしく、懸命に「学習」したのかもしれないが、ブレがある。あるいは一貫していないところがある。
 例えば、2007年のつぎの文章は、どう理解されるべきなのだろうか。
 「ソ連の崩壊は第三次世界大戦の終焉であり、本来なら国際軍事法廷が開かれ、ソ連や中国の首脳の絞首刑が判決されるべき事件であった。…。
 かくて、ソ連と中国は『全体戦争』の敗北国家でありながら、ドイツや日本のような扱いを受けないで無罪放免となり、大きな顔をしてのうのうとしている。」
 月刊諸君!2007年7月号。
 明らかに、ソ連と中国を「敗北国家」として一括している。
 ソ連が崩壊し諸国に分解して、東欧諸国とともに「社会主義」国でなくなったとして、中国も「敗北」して「社会主義」でなくなったのか??
 日本共産党は<後出しジャンケン>をして1994年にスターリン施政下(たぶん1931-32年頃)以降のソ連は(じつは)<社会主義国でなかった>と認識を変更したが(何とソ連の期間全体の9/10!)、中国もそうだったとは言わなかった。1990年代末には友好関係を回復して「市場経済をつうじて社会主義へ」進んでいると認定した(現在では、「社会主義を目ざす国」性自体を否定している)。
 おそらく西尾幹二は、当時は「文学」・「文芸」か別のことに熱中していて、つぎのことにも無知なのだろう。上記と同様に時期等を確認しないままで書く。
 ソ連と中国は国境で「戦闘」をするなど、対立していた。米ソではなく米ソ中の三角関係があった時期があった(日本の対中外交にも当然に影響を与えた)。中国はソ連を「社会帝国主義国」と称し、「社会主義」国ではないと非難していた(日本共産党が間に入って宥めていた)。中国の首脳が、日米安保条約を容認すると明言したこともあった(対ソ連を考えてのことだ)。
 もっとも、同じ2007年に、つぎのようにも書いた。
 「今後日本人はアメリカに依頼心をもたないだけでなく、共産主義の枠組みの中にある中国に対してはより自由で、…一段と大きい距離を持っていなければならない。」
 月刊諸君!2007年11月号
 ここでは、「共産主義の枠組み」はなおも存在しており、中国はその中にある、とされている。
 また例えば、近年の2020年の書物の緒言の中に、一読しただけでは理解することのできない、つぎの一文がある(実際の執筆は2019年11月のようだ)。
 西尾・国家の行方(産経新聞出版、2020)、p.21-22。
 「1989年の『ベルリンの壁』の崩壊以来、なぜ東アジアに共産主義の清算というこの同じドラマが起こらないのか、アジアには主義思想の『壁』は存在しないせいなのか、と世界中の人が疑問の声を挙げてきたが、共産主義と資本主義を合体させて能率の良さを発揮した中国という国家資本主義政体の出現そのものが『ベルリンの壁』のアジア版だった、と、今にしてようやく得心の行く回答が得られた思いがする」。
 よく読むと、1989年の『ベルリンの壁』崩壊=「中国という国家資本主義政体の出現そのもの」と、ようやく納得した、ということのようだ。
 そもそも欧州とアジアは同じではないのだから、前者と「同じドラマ」が後者で起きると考えること自体が、西尾の本来の「思想」と矛盾しているだろう(「世界中の人が疑問の声を挙げてきた」かは全く疑わしい)。秋月はまだ「起きて」いない、と思っているけれども。 
 問題は「共産主義と資本主義を合体させて能率の良さを発揮した国家資本主義政体」(の出現)という理解の仕方だ。
 この部分の参照または依拠文献は何なのだろうか。
 中華人民共和国という国家の性格または本質について疑問が生じ、議論があることは分かる。だが、こんなふうに単純化し、かつそれで「得心」してもらっては困る。
 上の「出現」の時期について西尾がもう少し具体的にどこかで書いていたが、所在を失念した。
 だが、いずれにせよ特定のある年とすることはできないだろう。「社会主義(的)市場経済」の出現時期も私には特定できないが、鄧小平がいた1992-3年頃だろうか。そうだとすると、2019-20年になってようやく納得した、というのはあまりに遅すぎる。それとも、GDPが日本を追い抜いた頃なのか。しかし、そうなる前に、「政体」自体は出現しているはずだろう。
 西尾幹二の中国を含む国際政治・国際情勢に関する「評論家」としてのいいかげんさ・幼稚さを指摘している文脈なので、上の議論には立ち入らない。
 但し、つぎの諸点を簡単に記しておく。
 ①「国家資本主義」というタームの意味に、どれほどの一致があるのだろうか。
 レーニンのNEP政策のことを「国家資本主義」と称した時期や人物もあった。1949年の建国時にすでに「国家資本主義」という規定の仕方も中国自体にあった。そうであるとすると、今にしてようやく気づくことではない。
 ②西尾幹二によると、現在の中国は資本主義国でも社会主義国でもない、両者を「合体させて能率の良さを発揮した」国家らしいが、これは現在の中国を美化しすぎているだろう。
 ③上のような国家「政体」の出現が、なぜ「ベルリンの壁」崩壊と同じドラマであるのか、さっぱり分からない。「ベルリンの壁」崩壊→旧ソ連圏での「社会主義」諸国の消失だとすると、西尾によっても中国の半分は今でも「社会主義」国なのであって「同じ」ではない。
 ④1921年に中国共産党は設立されたとされ、昨2021年、現在もある中国共産党は創立100周年記念祝典を行った。
 ⑤結党の指導者で、かつ1949年に中華人民共和国を建国し国家主席となった毛沢東は現在もなお、「否定」されていない。
 共産党の歴史、戦後の中国の歴史は現在まで(法的にも)連続して続いている(この点、人々の感情や意識の次元は別として、旧ソ連を「否定」して現在のロシアは成立しており、両者の間に全体的な法的連続性はない)。
 ⑥テレビで見聞きした記憶によると、昨年の中国共産党100年記念式典で「共産主義実現に邁進する」旨が宣言され、同日に共産党に加入した一青年は「人生を共産主義に捧げる」、インタビューに答えて語った。
 以上。西尾幹二に見られる旧ソ連または「共産主義」に対する<甘さ>には、別に言及するだろう。
 ——
 後者Bから次回はつづける。

2429/F・フュレ、うそ・熱情、幻想⑨。

 François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012) 
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 第5章・革命の過去と未来②。
 (6)ソルボンヌの学生たちは、70年間、フランス革命はロシア革命のための控えの間(antechamber)だった、と教えられた。
 博識溢れる大学—Georges Lefebvre はフランス革命に関する素晴らしい学者なのだから—にいた世代は、ほとんど比較不能であるこれらの事件を、比較できたのだろう。
 フランス革命は社会を創設し、農民とブルジョアジーを豊かにし、ネイションの中にすぐに著しく堅固な社会的基盤を見出した。
 ロシア革命は、社会全体を粉砕し、農民層を破壊し、単一党を打ち立てた。
 ジャコバンを除いて、二つの革命に関して比較し得るものは何もない。//
 (7)これとの関係で、イギリス史とフランス史を比較してみよう。
 イギリス人は17世紀に革命をもち、彼らの王を処刑し、短期間の共和制のあと、正統な王朝の復古があった。この王朝はすみやかに1688年に、新しい王室の招聘によって遮られた。
 少なくとも部分的にフランス革命と比較することのできる一連の出来事。—これは、テルミドール9日から今日まで、行われてきた。
 それにもかかわらず、イギリスの歴史学の伝統は、マルクス主義者を除いて、イギリス革命を祝福しないで、それを抹消する傾向にあった。
 Tory であれLiberal であれ、歴史家が祝福するのは1688年、革命の終焉だ。これは、先行した大反乱(Great Rebellion)と名づけられたものと区別するために名誉革命(Glorious Revolution)と称されることになる。
 一方、フランスの歴史家は2世紀の間一貫して、フランス革命を創設的事件たる地位にまで昇らせてきた。
 フランス革命を呪詛するときですら、歴史家たちは、その例外的性格だけを強調する。
 そうして、右であれ左であれフランスの人々は、その時期のきわめてナショナルな冒険譚でもって、動じることなく過ごすことができ、フランスの文学で継続的に英雄視した。
 なぜ、こんなにも対照的なのか?//
 (8)いくつかの要因が、考慮されなければならない。
 17世紀のイギリス革命は、宗教に傾斜していた。
 それは、聖書文化が染み込んだ闘士によって起こされたもので、きわめて平等主義的な特徴をもつにまで至った。
 1789年のフランス革命とは異なり、イギリスの革命家たちは、伝統に直面した際に白紙(tabula rasa) を提示しようとはしなかった。そうではなく反対に、聖典の黄金時代への回帰を追求した。
 イギリスの歴史の中で、革命はノルマン人の侵略に先立つ時代からその方向を見出した。かくして、フランスの1789年とは違って、起源についての卓越した威厳がなかった。
 イギリス人は一つに、O・クロムウェル(Oliver Cromwell)以前の彼らの歴史を奪われなかった。
 二つに、彼らは国家プロテスタント教(state Protestantism)のかたちで自分たちの宗教的基盤を再確認し、更新してきた。
 さらに、1688年に彼らの革命は幸運な結末を迎え、その時代にあった暴力と内戦を消滅させた。
 1649年の国王殺しの記憶ですら、新しい王朝によるネイションの再統合によって抹消されたことだろう。
 イギリスは、革命を手段として、咎めるというよりもむしろ、その伝統を強固なものにすることができた。//
 (9)フランスの歴史では、革命思想は民主主義思想と不可分だ。
 これらを分離することはできない。
 民主主義思想、構築主義思想、人間の自己創造という思想。
 これらは全て、革命思想の中に刻み込まれている。
 我々が今日に不幸であるのは、もはや革命思想を有していないことが理由だ。
 まるで我々の政治的文明は切り取られたかのごとくだ。
 社会主義者たちは、革命を実現することができなかったために、20世紀のあいだずっと、共産主義者たちよりも劣っていると見なされた。
 第二次大戦が終わり、私が青年だったとき、改良主義者であり得るという考え方は、私には理解不能だった。我々が経験している諸事態と対比して、不適切だと思われたからだ。—あまりにも狭隘で、平凡で、魅力に欠ける考え方のように思えた。
 赤軍がベルリンを奪取してナツィズムを粉砕したとき、ボルシェヴィキの革命思想には比類のない、真に普遍的な輝きが、復活されなければならない想像力が、あった。それは、歴史家へも求められるべきものだろう。そのような想像力は、我々のソルジェニーツィン(Solzhenitsyn)後の時代には、もはや考え難いのだから。//
 ——
 第5章、終わり。

2329/Orlando Figes·人民の悲劇-ロシア革命(1996)・目次。

 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition-2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =オーランド·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命(London, 1996/2017)。
 この書物は(Richard Pipes の二つの大著より新しく)1996年に原書(英語)が出版された。
 しかし、これにも、邦訳書がない。2017年にロシア革命100年記念の新装版が出版されたが、日本の出版業界・関係学者たちは無視した。
 目次を見ると、つぎのような構成になっている。試訳してみる。章・節等の言葉は元々はない。第一部(PART ONE)については「節」を省略。
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 第一部/旧体制のロシア。
  第一章・専制王朝。
  第二章・不安定な支柱。
  第三章・聖像とゴキブリ。
  第四章・赤いインク。
 第二部/権威の危機(1891〜1917)。
  第五章・最初の流血。
   第一節—愛国者と自由派。
   第二節—「ツァーリはいない」。
   第三節—路線の分岐。
  第六章・最後の希望。
   第一節—議会と農民。
   第二節—政治家。
   第三節—強者への賭け。
   第四節—神よ、王よ、祖国よ。
  第七章・三つの前線での戦争。
   第一節—人に対する鉄。
   第二節—狂ったお抱え運転手。
   第三節—塹壕からバリケードへ。
 第三部/革命のロシア(1917年二月〜1918年三月)。
  第八章・栄光の二月。
   第一節—路上の権力。
   第二節—気乗りしない革命家たち。
   第三節—ニコライ・最後の皇帝。
  第九章・世界で最も自由な国。
   第一節—遠くの自由主義国家。
   第二節—期待。
   第三節—レーニンの激怒。
   第四節—ゴールキの絶望。
  第一〇章・臨時政府の苦悩。
   第一節—一つの国という幻想。
   第二節—赤の暗い側面。
   第三節—白馬に乗る男。
   第四節—民主主義的社会主義のハムレット。
  第一一章・レーニンの革命。
   第一節—蜂起の態様。
   第二節—スモルニュイの独裁者たち。
   第三節—強奪者から強奪する。
   第四節—一国社会主義。
 第四部/内戦とソヴェト・システムの形成(1918〜1924)。
  第一二章・旧世界の最後の夢。
   第一節—草原の上のサンクト・ペテルブルク。
   第二節—憲制会議という亡霊。
  第一三章・戦争に向かう革命。
   第一節—革命の軍事化。
   第二節—「富農」: 販売人と煙草ライター。
   第三節—血の色。
  第一四章・勝利する新体制。
   第一節—三つの決定的戦い。
   第二節—同志たちと人民委員たち。
   第三節—社会主義の祖国。
  第一五章・勝利の中の敗北。
   第一節—共産主義への近道。
   第二節—人間の精神の操縦者。
   第三節—退却するボルシェヴィキ。
  第一六章・死と離別。
   第一節—革命の孤児。
   第二節—征服されていない国。
   第三節—レーニンの最後の闘い。
 **
 以上

2250/L・コワコフスキ著第一巻第6章第3節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第一巻第6章の試訳のつづき。
 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
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 第3節・労働の疎外・非人間化される人間〔Die Entfremdung der Arbeit. Der entmenschte Mensch〕②。
 (4)しかし、労働者の解放はたんに私有財産〔私的所有〕の廃棄にもとづくのではない。
 共産主義は、ゆえに私有財産の否定も、多様な形態をとり得る。
 マルクスはとくに、古代の共産主義ユートピアの原始的な全的(totalitär)平等主義を考察した。
 マルクスからすると、これは、いかなる者の私有財産にもなり得ない物を全て、ゆえに諸個人を特徴づける点を全て、廃棄しようとする、一つの共産主義だ。
 この共産主義はまた、才能を消失させ、人間的個性の全てを消去しようとするもので、文明を摘み取ってしまう。
 このように理解される形態の共産主義は、疎外された世界を決して我が物にすることはなく、反対に、疎外を極端に増大させる。そこでは、労働者の現在の条件はかき乱されるだろう。
 かりに共産主義が私有財産〔私的所有〕の<完全な>(positive)廃棄を、そして自己疎外の廃棄を意味するのだとすれば、共産主義は<人間のために人間によって>人という種の固有の本性を獲得し、社会的存在として人間が回帰することになるはずだろう。
 このような共産主義は、人間と人間の、本質と存在の、個体と種の、自由と必然の間の矛盾を解消する。
 しかし、その言う私有財産の「完全な」廃棄とは、いったいどこに存在するのか?
 マルクスは、宗教の廃棄に喩えることを示唆している。
 人間を肯定するために神の否定にもはや依拠しないならば、無神論はその意義を一瞬にして失う。これと全く同様に、完全な意味での社会主義は人間性の直接的な肯定であり、私有財産の否定に依拠する必要はない。
 ゆえにまた、完全な意味での社会主義とは-確実に-、財産〔所有制度〕の問題が解消され、人々の意識に上ることがなくなる、そういう状態なのだ。
 社会主義は、長期間の残虐な歴史過程の結果としてのみ成立し得る。しかし、その完全な形態での社会主義は、全ての人間的本質の、全ての人間的特性と能力の全的(total)な解放なのだ。
 社会主義の新しい生産様式のもとでは、国民経済上の<富裕と困窮>に代わって、<豊かな>人間とそれと同時に豊かな<人間的>需要が生じるだろう。
 そして、「<豊かな>人間とは同時に、人間的な人生表現の全体性(Totalität)を<必要とする>人間のことだ」。(11)
 疎外された労働の条件のもとでの人間の需要の増大は疎外という現象の深化をもたらす。つまり、生産者は人為的な手段でもって需要を増加させようとし、人々を量的にますます多くの生産物に依存させようとする。この環境ではこうしたことは隷属状態を増加させる。これに対して、社会主義の条件のもとでは、需要の豊かさは、人間の本当の豊かさのうちに認められる。//
 (5)『経済学哲学草稿』(パリ草稿)はこのようにして、社会主義を人間性の本質を実現するものとして設定することを試みる。この論脈では社会主義は同時に、たんなる純粋で単純な理想だと叙述されるのではなく、歴史の必然的過程が進む自明の前提として想定されている。
 マルクスはこの理由で、私有財産も、労働の分割も、あるいは人間の疎外も、人間が自分自身の条件を適正に理解するに至るならばいつでも訂正することのできる『誤り』だとは考えない。そうではなく、マルクスはそれらを、将来の解放のための不可欠の条件だと考えている。
 『草稿』がかなり概括的にだけ述べている社会主義観(Sozialismus-Vision)では、それは人間相互、そして人間と自然の間の<全的で>かつ<完全な>調和だと考えられている。それは、人間の本質と人間の存在の完全な一体化は、すなわち人間の究極的宿命とその経験的存在の完全な調和は、将来に達成可能であることを前提にしている。
 このような意味での社会主義社会は、需要が完璧に充足される場所であるに違いない、ゆえにさらに発展する必要はなく、発展のための動機づけも必要がない究極的な社会に違いない、と想ってしまうだろう。
 マルクスは、このような言葉を用いてその社会主義観を表現してはいない。しかし、彼はこのような解釈を排除するように限定してもいない。そして、社会主義に関する彼の展望から明らかになるのは、社会主義は人間の対立の全ての根源が除去されている状態であり、経験的生活で『人間』(人間性の本質)が実現される状態だと把握されている、ということだ。
 マルクスが叙述するように、共産主義とは、「歴史の謎(Rätsel, riddle)を解くものであり、自らがその解決だと知っているものだ」。(12)。
 しかして、ここで生じる疑問は、歴史の謎の解決とは歴史の終焉と同じ意味ではないのか否か、だ。//
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 (11) MEW, Ergänzungsband(補巻), 1. Teil, S. 544を参照。
 (12) 同上, S. 536. <=マルクス・エンゲルス全集第40巻(大月書店、1975)、457頁。
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 第3節、終わり。次節の表題は、<フォイエルバハ批判>。

2231/L・コワコフスキ著第一巻第6章③・第2節②。

 レシェク・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第一巻。
 =Leszek Kolakowski, Die Hauptströmungen des Marxismus-Einleitung・Entwickliung・Zerfall. -Erster Band〔第一巻〕(P. Piper, München, Zürich, 1977).
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. -Vol. 1: The Founders(Oxford, 1978).
 第6章の試訳をつづける。
 ドイツ語訳書を第一に用いる。英訳書も参照する。注記はドイツ語訳書にのみ付いている。
 第6章・1844年の草稿(=パリ草稿)・疎外労働理論・青年エンゲルス。
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 第2節・認識の社会的性格と実践的性格②。
 (3)カントの二元論に代わってヘーゲルの観念論が提示した解決方法の恣意性と観想性(Spekulativität)をマルクスに最初に感得させた者は、フォイエルバハだったと思われる。
 ヘーゲルは全く単直に、現実の存在は疎外された自己意識であって、外部化した自己意識のために世界を回帰させるためのものにすぎない、ということから出発する。
 しかし、自己意識は、それを疎外することでは、現実の事物ではない、それの抽象的な見せかけ以上のものを生むことができない。
 そして、人間生活でこの自己疎外の産物が人間を支配するに至って、その支配に人間が服するときには、我々人間の任務は、それを本来の場所へと立ち戻らせて、実際の姿の抽象物だとそれを見分けることだ。
 人間はそれ自体が自然の一部であり、人間が自然のうちにある自らを認識するならば、それは、人間がそのうちに、絶対的に自然に優先する自己意識の働きを再認識するという意味でではない。そうではなく、労働を通じた人間の自己創出の過程で、自然は人間<のための>対象となるという意味でのみだ。これは人間的方法で知覚された対象であり、人間の必要という規準に従って認知的に構造化されており、種の実際的な働きかけと連結してのみ生じる。
 「しかし、自然もまた、人間と切り離されて固定され、抽象的に把握されると、人間にとっては<何ものでもない(nichts, nothing)>」。(5)
 人間という種と自然との間の能動的な対話が出発点だとすれば、また我々が認識する自然も自己意識も純粋に固有の意味でではなくこの対話によってのみ生まれるのならば、人間は、我々人間が知覚する自然を人間化された自然(vermenschlichte Natur)と称することができる。同様にまた、自己意識を自然の自己意識と称することもできる。
 人間は、自然の産物および自然の一部として、自然を自らの一部に変える。自然は、人間の実践の素材(主体的事項)であり、同時に、人間の物理的身体を延長したもの(Verlängerung, prolongation)だ。
 このような観点からすると、世界の創造者に関する問題を設定するのは無意味だ。そういう問題設定は、自然と世界は存在しない(Nicht-Seins)という、人間が本当は架空の出発点としてすら設定することのできない、非現実的な状況を想定しているのだから。
 「きみが自然と人間の創造に関して問うとき、人間と自然を抽象化している。
 きみは人間と自然は<存在しない>ものと考えつつ、私がそれを存在しているときみに証明することを望んでいる。
 そうなら、こう言おう。きみは抽象化を止めよ、そうすればきみはその問題も捨て去るだろう。」(6)
 「しかし、社会主義的人間にとって<いわゆる世界史全体>は人間の労働による人間の創出に他ならず、人間のための自然の生成に他ならないがゆえに、社会主義的人間は、自分の誕生それ自体に関する、つまり自分の<発生過程>に関する、直想的で異論の余地のない証拠を有していることになる。
 人間と自然の<本質性>が、つまり人間が人間のための自然の存在としてあり、自然が人間のための人間の存在としてあることが実践的、感覚的に直観することができるようになっていれば、<外部(fremd)の本質>に関する問題設定、自然と人間を超える本質に関する問題設定は、…実践的には不可能になっている。
 この非本質性を否認する<無神論(Atheismus)>は、もはや意味を有しない。なぜなら、無神論は<神の否定>であり、その否定によって<人間の存在>を設定するものだからだ。
 しかし、社会主義は社会主義として、そのような媒介物をもはや必要としない。
 社会主義は、人間と自然は<本質>だという<理論的かつ実践的に感覚的な意識>から出発するのだ。
 社会主義は、積極的な、宗教の止揚にもはや媒介されることのない人間の自己意識だ。<現実の生活>が、積極的な、私的所有権の止揚、つまり共産主義、に媒介されることのない人間の現実であるのと同様に。」(7)
 (4)ここから見て取れるように、マルクスにとって、認識論上の問題設定は、形而上学上の問題設定とともに、正当性を失う。
 人間は、自分がまるでその外にいるように世界を見ることはできないし、人間の行為の全体性から純粋に認識行為だけを取り出すことはできない。なぜなら、認識する主体は、自然への積極的な関与者である全的な統合的主体の一面だからだ。
 自然が人間についてそうであるように、人間の係数(Koeffizient, coefficient)は自然のうちに現存する。そして、他方では、人間は世界との交渉から人間自身に固有の受動性という要素を排除することはできない。
 この点で、マルクスの思考は、伝来的な唯物論の諸範型と対立するとともに、固有の外部化として対象を構成するヘーゲルの自己意識の理論とも同等に対立している。マルクスが衝突する伝来的な唯物論では、根源にある認識行為は対象の受動的な反応であり、対象を主観的な内容へと変形させる。
 マルクスは自分の立場を、「徹底した(durchgeführt, consistent)自然主義」、あるいは人間主義(humanism)と称した。これらは、彼が言うには、「観念論とも唯物論とも同等に区別され、両者を同時に統合した真実(Wahrheit, truth)だ」。(8)
 これは人類学的な立場であり、人間化された自然のうちに実践的な人間の意図の反対項(Gegenglied, counterpart)を見ている。人間の実践が社会的な性格をもつように、その認識上の効果、つまり自然に関する像は、社会的な人間が作り出した物なのだ。
 人間の意識はたんに自然との社会的関係に関する思考に表現された物であり、共同社会的な種の活動の所産だと、把握されなければならない。
 従って、意識の変形もまた、意識自体の逸脱または不備によるものとして説明されるべきではなく、その根源はより固有の過程のうちに、とくに労働の疎外のうちに探し求められなければならない。//
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 (5) MEW, Ergänzungsband, 1. Teil, S. 587
 =マルクス・エンゲルス全集第40巻/マルクス初期著作集(大月書店、1975)、510頁。
 (6) 同上, p.545. =同上、466-7頁。
 (7) 同上, p.546. =同上、467頁。
 (8) 同上, p.577参照。=同上、500頁。
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 第2節、終わり。第3節の表題は、<労働の疎外・脱人間化される人間>。

2199/L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」②。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial (The Univerity of Chicago Press, 1990).
 第三部・リベラル・革命家・夢想家について。
 第19章・保守リベラル社会主義者になる方法
 =How to Be Conservative-Liberal-Socialist. Credo.
 (原文/1978年10月-Encounter。著者による修正あり。)
 B/、C/、は、原文にはない。
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 L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」②。
 ***
 B/あるリベラルはこう考える。
 1.国家の目的は安全確保(security)だという古代の思想は、依然として有効なままだ。
 「安全確保」という観念が法による人身や財産の保護のみならず、保険の多数の諸条項をも含むように拡張されてすら、有効なままだ。
 人々は失業しても、餓死すべきではない。貧困な人々は、医療の助けの不足で死亡しても、非難されるべきではない。子どもたちには、教育を自由に受ける機会が与えられるべきだ。-これらも全て、安全確保の問題だ。
 だが、安全確保を自由(liberty)と混同してはならない。
 国家は、積極的に行動したり生活の多様な領域を規整したりすることによってではなく、何もしないことによって、自由(freesom)を保障する。
 安全確保は実際には、自由(liberty)を犠牲にしてのみ拡張され得る。
 ともかくも、人々を幸福にするのは、国家の役割ではない。
 2.人間の共同社会は、不況によってのみ脅かされるのではない。人々が個人の主導性と創造性がなくなるまで組織されるときには、頽廃によっても脅かされる。
 人類の集団自殺は、考えられ得るものだ。しかし、我々はアリではないがゆえに、永続的な人間のアリ山は考えられ得ない。
 3.全ての形態の競争がなくなってしまう社会は、創造と進歩のために必要な刺激を持ち続けるだろう、というのは、ほとんどありそうにない。
 平等性の増大は、それ自体が目的なのではなく、手段にすぎない。
 換言すれば、かりに結果が豊かな人々の生活条件を下落させるだけで、恵まれない人々の生活向上にはならないとしても、平等性の増大を求める闘いには終わりがない。
 完璧な平等とは、自己を打ち負かす理想だ。//
 ***
 C/ある社会主義者はこう考える。
 1.利潤の追求が生産システムの唯一の調整者である社会は、利潤という動機が生産調整力から完全に排除される社会と同じく、悲しい-おそらくはより悲痛な-大災難に陥っている。
 経済活動の自由が安全確保のために制限されるべきであり、金銭が自動的により多額の金銭を生み出してはならないことには、十分な根拠がある。
 しかし、自由の制限は正確にそう称されるべきであり、より高次の形態の自由だと称されてはならない。
 2.完全な、対立なき社会は不可能であるという単純な理由で、全ての現存する形態の不平等は不可避であり、利潤獲得のための全ての方法が正当化される、と結論づけるのは、馬鹿げており、かつ偽善だ。
 進歩的所得税は非人間的で忌まわしいという驚くべき考えにいたる保守派の人間学的悲観論は、収容所列島がもとづく歴史的楽観論と全く同様に疑わしい。
 3.経済を大切な社会的統制に服せしめようとする志向は、かりに官僚機構の増大という対価を支払わなければならないとしても、奨励されるべきだ。
 しかしながら、この統制は、代表制民主主義の範囲内で加えられなければならない。
 かくして、まさにその統制の増大が自由に対する脅威を生じさせるのであるから、その脅威に対抗することのできる諸制度を構想することがきわめて重要だ。
 ****
 このように理解することができるかぎりで、制御に関するこれらの一セットの思想は、自己矛盾はしていない。
 そして、そのゆえに、保守・リベラル・社会主義者になることが可能だ。
 このことは、三つのそれぞれの主張はもはやお互いに排他的なものではない、と言うことと同じだ。//
 私が最初に言及した偉大で力強いインターナショナルについて言えば、-。
 幸福になるだろうと人々に約束することができないがゆえに、これは決して存在しないだろう。//
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 終わり。
 

2198/L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」①。

 Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial (The Univerity of Chicago Press, 1990).
 第三部・リベラル・革命家・夢想家について。
 第19章・「保守リベラル社会主義者になる方法-信条」。
 =How to Be Conservative-Liberal-Socialist. Credo.
 (原文/1978年10月-Encounter。著者による修正あり。)
 A/、B/、C/、は、原文にはない。
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 L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」①。
 標語・「後ろの方へ前進して下さい!」。
 これは、私がワルシャワの路面電車の中でかつて聞いたお願いを、ほぼ適切に翻訳したものだ。
 決して存在しないだろう力強いインターナショナルのスローガンとして、私はこれを提案する。
 ***
 A/ある保守派(Conservative)はこう考える。
 1.人間の生活には、堕落や邪悪という対価がないような改良はなかったし、今後もないだろう。
 そうだから、改革や改善を行ういずれの企てを考察する場合にも、その対価が必ず査定されなければならない。
 別の言い方はすれば、多数の邪悪は共存できるものだ(すなわち、我々は包括的に全てにかつ同時に、これらに苦しめられることがあり得る)。
 しかし、多数の善は、お互いに制限し合い、傷つけ合う。ゆえに、我々は決して、善を完全にかつ同時に享受することはないだろう。
 全ゆる種類の平等がなく全ゆる種類の自由(liberty)もない社会は、完璧に可能だ。
 しかし、全ての平等と全ての自由(freedom)を結合させている社会秩序は、可能ではない。
 同じことは、計画化と自律という原理の両立可能性、安全確保と技術の進歩、についても当てはまる。
 また別の言い方をすれば、人間の歴史には幸福な終わり方はない。
  2.かりにある社会における生活が耐えられるもので、あるいは可能ですらあるとすれば、我々は、社会生活上の多様な伝統的形態-家族、儀礼、民族、宗教的共同体-がいかなる程度に不可欠のものであるかを分かっていない。
 これら諸形態を破壊したり非合理的だと烙印を捺すときに、我々は幸福、平和、安全、あるいは自由を得る機会を増大させる、と考えるいかなる根拠もない。
 例えば、かりに一夫一婦制家族が廃止されるとすれば、あるいは死者を埋葬する際の古き良き慣習が産業目的のための死体の合理的再利用に取って代わられるとすれば、いったいどのようなことが起きるのか、我々は確実には分かっていない。
 しかし、我々はきっと、最悪のことを予期するだろう。
 3.啓蒙主義の固定観念(idée fixe)-嫉妬、虚栄、貪欲、および攻撃心は全て社会制度の欠陥によって惹起される、また、その制度がいったん改良されればこれらもまた一掃される-は、全く信じ難い、全ての経験に反するものであるのみならず、きわめて危険なものだ。
 人間の本性に反するものであるなら、それら諸制度は、いったいどのようにして発生したのか?
 我々は友情、愛、および利他心を制度化することができる、という希望を抱くのは、専制体制への信頼できる青写真をすでに持つ、ということだ。
 ***
 B/へとつづく。

2140/J・グレイの解剖学(2015)②-ホブスボームら01。

 Johh Gray, Grays's Anatomy: Selected Writings (2015, New Edition)
 試訳する。46の章に分かれていて、それぞれ独立している。一文ごとに改行。一段落ごとに、原書にはない数字番号を付ける。
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 第6部/第32章・二人のマルクス主義予言者-Eagleton とHobsbawm/02。
 (1)マルクス主義の知的な復活は、2007-8年の金融危機が生じさせた、予見し得る結果だ。
 この嵐が炸裂する20年前に、マルクス主義知識人たちは、政治や文化の世界でかつてそうだったよりも辺境に追い込まれていた。
 それは、マルクス主義の偽りが判明したのが理由ではなかった。
 マルクス主義が偽りであることの証明は、どの先進産業社会もマルクスが予言したようには発展しなかったことが明瞭になったとき、一世紀以上も前に起きていたことだ。
 マルクス主義知識人は流行ではなくなっていた。-このことは、ともかくも自分たちが気づいたり説明したりすることができなかった、彼らの理論に対する拒否感が生じたことよりも、彼らにはじつに腹立たしい経験だった。
 しかし、共産主義の崩壊は、そう易々と無視されたのではなかった。
 彼ら理論家たちは、「現存する社会主義」に対する厳格な批判者のふりをするのを好む一方で、ソヴィエト体制で生じた全ての変化はもっと人間的性格をもつ社会主義の方向につながるだろうと、つねに想定していた。。
 彼らは、いかにして共産主義後のロシアについて説明することができたのだろうか。そこでは、ナショナリズム、つまりは正統派であり改称されて私物化されたKGBの庇護のもとで、超(hyper-)現代版の権威主義的趨勢が大きくなっていた。
 あるいは、中国についてどう説明するのだろうか。そこでは、統治する共産党が、全ての西側諸国よりも容赦がない、先進的類型の資本主義を監督している。
 それ以来間違いなく冗長に語る世界の評論家たちは、何も言うことがなかった。そして、歴史が傍らを過ぎ去った者たちに対して割り当てた、屈辱的な無関心の状態を甘受せざるを得なかった。
 (2)しかし、周期的に襲う危機と資本主義が闘っているときに、マルクス主義者が蔭の背後から再び出現し、自分たちは結局は正しい(right)のだ、と世界に向かって語ることができるようになった。
 彼らは同時に、西側資本主義が混乱しているときに、かつて存在した社会主義を蘇生させる試みをすることができている。
 かつてのソヴィエト同盟での生活は、結局のところは、全てが悪くはなかったのだ。ともかくも、自由市場の過剰さでもって復讐されているリベラル民主主義諸国に比べて、より悪くはないのだ。
 ソヴィエト陣営諸国に抑圧があったとすれば、それは確実に、冷戦を闘う目的のために誇張されていたのだ。そして、抑圧が実際に存在した範囲についても、今や大部分は正当視することができる。
 新たな資本主義の危機でもって疑いを晴らしているように見えるが、今やマルクス主義知識人たちは、一世代前の現存社会主義に対する優しい郷愁(nostalgia)をもって、時代を回顧することができる。
 (3)上に述べたことは、滑稽画(caricature)なのか?
 そのように考える人々は、T・イーグルトン(Terry Eagleton)の新しいマルクス主義擁護本(注1)を読むとよいだろう。
 彼の<なぜマルクスは正しかったか>は、つぎの修辞的な疑問文で最後を結んでいる。-「一人の思想家が、かつてこれほどに戯画化〔travesty〕されたか?」。
 Eagleton がいたるところで使っている前提は、マルクスの思想に対する大きな異論は全て誤解かまたは悪意(malice)にもとづく、ということだ。
 彼は繰り返してマルクス思想に批判の対象にならないものはないと明言するけれども、実際に彼が真面目に認めている例外はほとんどない。
 この本は、弁明書だ。我々とって重要な何かをもつとあちこちでなおも言われる、ドイツの思想家に関する研究書ではない。
 読者は、うんざりするほどの反論書をゆっくりと捲らなければならない。Eagleton は、-彼以前の多数のマルクス主義仲間がそうしたように-マルクスは経済学者でも技術的決定論者でもなく、深遠な道徳思想家であり、残虐で異様な世界での異議申立て者だった、と釈明している。
 このような見方を支持する側面が、マルクス思想にあったかもしれない。しかし、マルクスが疑いなく行った、本来的に科学的な類型の社会主義を定式化したという主張とこれを調和させるのは困難だ。この主張はまた、Eagleton 自身の見方と一致させるのは困難な主張だ。
 (4)マルクス主義的思考を文学や芸術に適用する文化理論家であるEagleton はまた、ある程度は不明瞭な背教者的異端のある、ローマ・カトリック信者だ。
 彼の宗教に対する態度は、進歩的思索者に共通するものとは異なる。
 彼は、「新しい無神論」という合理的カルトに関する論評で、瞠目するほどに批判的だった。
 しかし、キリスト教の見方に対する共感によって、キリスト教やその他の宗教全てに対するマルクスの強烈な頑固さを言い繕い、マルクス主義とキリスト教は悲劇的な人間中心主義の類似の範型だと論じるに至っている。
 彼は、「いわゆる解放の神学を主導するキリスト教的マルクス主義者」は「マルクスの用語の意味での唯物論者」だと論述し、つぎのようにしてマルクス主義をキリスト教と融合させようとする。すなわち、マルクスは「悲劇の伝統的精神」でもって、激しい論争をして革命的闘争を称賛する「悲劇的見方」の代表者だ、と論じることによって。
 しかし、キリスト教は事物の悲劇的見方を説くというのは、明確なことでは全くない。
 また、かりにマルクスが歴史に関する悲劇的見方をしているとしても、それはアウグスティヌス(Augustine)に依っているからではない。
 (5)Eagleton は、マルクスは高次の性格の個人主義を擁護した、というよく見られる主張をして、その弁明を始めている。
 「マルクスの著作のいつもの滑稽画」によると、「マルクス主義は、人間の個人的生活を暴虐に踏みにじる、顔のない集合体にすぎない」。
 「実際には、これほどにマルクスの思想から離れたものはあり得ないだろう。
 個人の自由な発展は彼の政治方針の目的全体だ、と言えるかもしれない。諸個人は共同して発展する形態を見出さなければならない、ということを我々が想起するかぎりで」。
 結局は、誰もが、「全ての者の自由な自己発展」にもとづく社会を望んでいるのだ」。
 しかし、調和というこの夢想は、決して十分には実現され得ない。なぜなら、Eagleton が賢明につぎのように指摘しているとおりだ。
 「個人と社会の完璧な調和は決してあり得ない、ということを疑う十分な理由はない」。
 「私の成功とあなたの成功の間には、あるいは一市民としての私に要求されるものと私が悪がしくしたいことの間には、つねに矛盾対立が存在するだろう。
 このような公然たる矛盾は悲劇の素材であり、マルクス主義に反対する墓石たけが、こうした矛盾を超越した場所に我々を置くことができる」。
 確かに、個人と社会が一つとなる理想的な世界は、完全には達成し得るものではないかもしれない。しかし、この夢を放棄してはならない。
 「個人と社会の有機的統合体という夢は、寛大な精神が抱く幻想だ。<中略>
 最も繊細な理想の全てがそうであるように、それは、目指すべき目標であり、字義どおりに達成されるべき状態ではない」。
 (6)以上はありふれた陳腐なことの繰り返しであり、道徳的な衝動感情として価値があると想定されているものに訴えかけるがゆえに、ずっと人気がある。
 個人と社会が一つになる世界を憧れることのない者が存在するだろうか?
 だがしかし、少しばかり歴史的な考察をすれば、いくつかの疑いが出てくる。
 個人的自己開発へのマルクスの傾倒を叙述するEagleton のやり方からすると、彼はミル(J. S. Mill)について語っていると読者は考えるだろう。
 しかし、ミルもまたマルクスと違って、社会での調和はそれ自体の危険性をもつ、と認識していた。
 マルクスのみならず急進的右翼の運動をも魅了したドイツ・ロマン派の幻想、つまり有機的な社会的統合という夢想は、実際にはつねに抑圧的に機能した。
 そして、このことは、その理想が間違って解釈されたことが理由ではない。
 少数者に対する敵意は、有機主義イデオロギーのまさに論理的帰結だ。
 マルクスは、彼の理想社会を未来のことと位置づけた。
 しかし、空想的な民衆文化へと後を振り返るドイツのナショナリストのそれに似て、マルクスの共産主義という夢想へは、個々の人間の自己一体性(identity)を捨てることによってのみ入り込むことができる。
 (個人の自己一体性にはユダヤ人のそれを含む。彼らは、ユダヤ人であることをやめることで解放され、普遍的な人類の細片となるだろう。)
 マルクスが-Herder や彼の弟子たちとともに-夢想した社会では、社会的機構の中に吸収されることに抵抗する者は全て、幻惑されているか病気に罹患しているという烙印を捺されるだろう。
 **(注1)Terry Eagleton, Why Marx was right (Yale University Press, 2011)。
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 ホブズホームらの②へとつづく。

2138/L・コワコフスキ著第三巻第13章第4節①-フランス。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism.
 第三巻・最終第13章の試訳のつづき。この書には、邦訳書がない。
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 第4節・フランスにおける修正主義と正統派①。
 (1)1950年代後半から、フランスのマルクス主義者たちの間で活発な議論が続いた。修正主義の傾向は部分的には実存主義からの支持を受け、部分的には実存主義との対立でもって支持を獲得した。
 ハイデガーとサルトルの二人がいずれも説いた実存主義には、マルクス主義修正主義と共通する一つの重要な特質があった。すなわち、還元不能な人間の主体性と実存の物的(thing-like)様相との間の対立を強調する、ということだ。
 同時に、実存主義は、人間存在は主体的な、つまり自由で自立した実存から「物象化された」状態へと逃げる恒常的な性向をも持つ、と指摘した。
 ハイデガーは、「不真正さ」と匿名性への漂流および非人格的現実と一体化する切望を表現することのできる、そのような諸範疇から成る精妙な大系を作り出した。
 同じように、サルトルによる「即自(in-itself)存在」と「対自(for-iself)存在」の対立に関する分析や、我々から自由を隠して我々自身や世界への責任から回避せしめる<悪意>に対する熱心な弾劾は、主体性や自由の哲学としてマルクス主義を復活させようとする修正主義者たちの試みと十分に合致していた。
 マルクス、およびそれ相当にだがキルケゴール〔Kierkegaard〕はいずれも、非人格的な歴史的存在へと人間の主体性を溶解させるヘーゲルの試みだと見なしたものに対して、反対した。
 このような観点からすれば、実存主義の伝統は修正主義者たちがマルクスの基礎的な教理だと考えたものと一致していた。//
 (2)のちの段階では、サルトルは、マルクス主義とソヴィエト同盟やフランス・マルクス主義を同一視しなくなった。しかし、同時に、決然として周到に、自分自身とマルクス主義を同一視するに至った。
 彼は<弁証法的理性批判>(1960年)で、実存主義の修正版と自らのマルクス主義解釈をを提示した。
 この長くてとりとめのない著書が明確に示したのは、サルトルの従前の実存主義哲学の名残りをほとんどとどめていない、ということだった。
 彼はこの書の中で、マルクス主義は<優れた>(par excellence)現代哲学だ、マルクス主義以前に、つまり17世紀にロックやデカルトがスコラ派哲学の見地からのみ批判され得たのと全く同じように、反動的な見地からのみ純然たる歴史的な理由で批判することができる、と述べた。
 この理由からして、マルクス主義は無敵(invincible)のもので、その個々の主張は「内部から」のみ有効に批判することができる。//
 (3)マルクス主義の歴史的「無敵さ」に関する馬鹿げた主張はともかくとして(サルトルの議論によれば、Locke に対するLeibnitz の批判やデカルトに対するホッブズの批判は、スコラ派の立ち位置に基づいているに違いなかった!)、<批判>は、「自然弁証法」や歴史的決定論を放棄するが、人間の行動の社会的重要性を維持しながら、「創造性」や自発性を目的として、マルクス主義の内部に領域を見出そうとする試みとして興味深い。
 意識的な人間の行為は、たんに人間の「一時性」を生む自由の投射物として表現されるのではなく、「全体化」に向かう運動として表現される。人間の感覚は現存する社会条件によって決定されている。
 換言すれば、個人は絶対的に自由に自分の行為の意味を決定することはできないが、環境の隷従物になるのでもない。
 共産主義社会を構成する、多数の人間の企図が自由に協同し合う可能性がある。しかし、そのことはいかなる「客観的法則」によっても保障されていない。
 社会生活は自由に根ざした諸個人の行為でのみ成り立っているのではなく、我々を制限している歴史の堆積物でもある。
 加えるに、自然との闘いなのだ。自然は我々を妨害し、社会関係を稀少性(<rareté>)が支配する原因となり、そうして、欲求の充足の全てが、相互に対立し合う淵源になり、人間がそれとして相互に受容し合うことを困難にしている。
 人間は自由(free)だ。しかし、稀少性によって個別の選択の機会が剥奪され、そのかぎりで人間性が消滅する。 
 共産主義は稀少性を廃棄することで、個人の自由と他者の自由を認識する能力を回復させる。
 (サルトルは、共産主義がいかにして稀少性を廃棄するのかを説明しない。この点で彼は、マルクスによる保障をそのまま信頼している。)
 共産主義の可能性は、多数の個人の企図が単一の革命的目的へと自発的に結びついていく可能性のうちにある。
 <批判>は、関係する他者のいかなる自由も侵害することなく、共同で活動に従事するグループを描写する。-革命的組織のかかる展望は、共産党の紀律と階層性に代わり、個人の自由を有効な政治的行動と調和させることを意図するものだ。
 しかしながら、この説明は一般的すぎるもので、かかる調和にある現実的諸問題を無視している。
 理解することができるのは結局、サルトルは目的をこう想定している、ということだ。すなわち、官僚制と装置化を免れた共産主義の形態を工夫して作り上げること。あらゆる様式での装置化は自発性とは真逆のもので、「疎外」の原因となっている。
 (4)多数ある余計な新語作成についてはさて措き、知覚や認識の歴史的性格、および自然弁証法の否定に関して、<批判>は何らかの新しい解釈を含んでいるようには思えない。サルトルは、ルカチの歩みを追っている。
 自発性と歴史的条件による圧力の調和について言うと、この著作が我々に語っているのは、せいぜいつぎのことだけだ。つまり、自由は革命的組織によって保護されなければならず、共産主義が諸欠陥を無くしてしまえば完璧な自由が存在するだろう、ということ。
 このような考え方は、マルクス主義の論脈で特段新しいものではない。新しいかもしれないのは、このような効果がいかにして達成されるかに関する説明の仕方だろう。
 (5)共産主義の伝統にもとづく哲学者たちに期待されるような、厳格な意味での修正主義は、「サルトル主義」とは合致しなかった。
 だが、ある範囲では、それは実存主義的主張を示していた。
 (6)修正主義という目印は、いくつかの形態をとった。
 C. Lefort やC. Castoriadis らの若干の異端派トロツキストたちは、1940年代遅くに<社会主義または野蛮〔Socialisme ou barbarie〕> というグループを結成し、同名の雑誌を出版した。
 このグループは、ソヴィエト同盟は退廃してしまった労働者国家だというトロツキーの見方を拒否し、生産手段を集団的に所有する新しい階級の搾取者たちが支配している、と論じた。
 彼らはレーニンの党理論に搾取の新しい形態を跡づけて、社会主義的統治の真の形態としての労働者自己統治の考えを再生させようとした。党は、余計であるのみならず、社会主義を破滅にもたらすものだ。
 このグループは1950年代遅く以降に、フランスの思想家たちに、きわめて重要な思想をもち込んだ。労働者の自己統治、党なき社会主義、そして産業民主主義。
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 ②へとつづく。

2003/L・コワコフスキ・「社会主義」・日本会議。

 スターリニズム、トロツキー、マルクス主義、L・コワコフスキから日本会議、日本の天皇の陵墓や男系・女系論等まで、秋月瑛二の関心は幅広い。但し、別々に切り離されて存在しているのではなく、精神・論理・心理・心情の中では「統合」されていて、それなりの個所に位置を占めている。
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  L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 この書物および1973年4月のイギリス・レディング(Reading)会合について、「上の書物全体を読んだわけでは全くないが、『反共産主義・反社会主義』ないし『自由主義』」志向の団体・組織だろう」と先に書いた。これは、1972年4月の日本・東京での国際セミナーの性格をも実質的には含めるような趣旨だった。
 ここでのとくに「社会主義」・「反社会主義」という語の使い方が気になるので、少し厳密化ないし修正をしておく必要があると感じる。
 この欄では当初から、<社会主義>と<共産主義>という二つの語を似たようなものとして使ってきた。勉強不足ゆえの曖昧さだったかもしれないが、日本での概念用法はそんなものだろうと思ってきた。あるいは、無意識にせよ日本共産党ら日本の「左翼」もまたそのような言葉の使い方をしていると感じてきた。
 マルクスは正確にどう書いていたかは知らないが、かつて日本共産党は共産主義を社会主義の高次の段階だというような説明をしてきたものの、(不破哲三による指導の一撃により?)1990年代以降はマルクスは両者を厳密には区別していないという説明に変わり、現綱領上も「社会主義・共産主義」の社会、というような表現をしている(また、「マルクス=レーニン主義」という語は使わなくなり、<科学的社会主義>と称する)。
 1973年のレディング会合についてのL・コワコフスキによる注記でも頻繁に言及されているが、<社会主義思想>をテーマにしながら、「社会主義」概念の意味または意味の検討方法についてすら一致がなかった、とされる。
 この会合を離れると、L・コワコフスキの<マルクス主義の主要潮流>は「社会主義」と「共産主義」を明確に区別しているという印象が、試訳し始めて以降早々に生じた。
 この著にいう「共産主義」=communism は、あえて単純化すると、レーニン・スターリン主義、ボルシェヴィズム(あるいはソヴィエト・ロシア型の「社会主義」)のことだと思われる。マルクス主義=共産主義ではないが、共産主義は前者の系統上にある、と位置づけられているとみられる(なお、某はL・コワコフスキの「ソヴィエティズム」という観念について語っていたが、この「ソヴィエティズム」という語は今のところ見たことがない)。
 また、上の大著の第二巻は<黄金時代>と題されているが、たぶんトニー・ジャットの文章だっただろうか、L・コワコフスキはマルクス主義の<黄金時代>を第二インターナショナル(=社会主義インターナショナル)に見ている、という解説または言及があった。
 そして、第三巻の<瓦解(Breakdown、Zerfall)>はむろんソヴィエト連邦の崩壊ではなく、スターリニズムの説明から始まる(第二巻の末尾がレーニン)。
 つまり、L・コワコフスキにおいては(1973年のレディング会合の記録である1974年編著もおおよそそうだが)、「社会主義」と「共産主義」はおそらく完全にまたは大幅に異なる概念であって、同どものとして使っていないことは明瞭だ。
 むろん、マルクス主義と「共産主義」は、関連はあっても(その関連性の意味・内容・形態こそが問題だが)同一ではない。
 この上のような言葉の使い方は、トニー・ジャットにおいてもおそらくは近い。
 そして、推測になるが、フランス社会党・ドイツ社会民主党等とフランス共産党・イタリア共産党等を区別するために、欧米では「社会主義」と「共産主義」をきちんと分けておく必要があったのだろう(ドイツ社会民主党は戦後早くにいわゆる<マルクス=レーニン主義>からの離別を建前上は宣言している)。
  日本会議の設立宣言(1997年)は「冷戦構造の崩壊によってマルクシズムの誤謬は余すところなく暴露された」と書いているが、この団体が「余すところなく暴露された」とする「マルクシズムの誤謬」を多少具体的にでもどう理解しているかは、完全に疑わしい。
 それは、日本会議専任研究員だった江崎道朗の2017年著での社会主義・共産主義・レーニン・コミンテルン等に関するはなはだしい、悲惨な<無知>でも明らかだろう(この著には「社会主義」と「共産主義」の異同を思考するという問題意識すらない)。
 もちろん、櫻井よしこ、伊藤哲郎、椛島有三らの日本会議諸氏が「マルクス主義」にいかほど通暁しているかも全く疑わしい。
 さらにはついでに書けば、日本の「(いわゆる)保守」と自称しまたは多称されているような<産経文化人・知識人>たちのマルクス主義・共産主義等に関する知識・素養のなさも著しいだろう。
 そして、秋月瑛二は、「保守」とは第一に「反共主義」だと考え、それを最も単純には「自由主義」とも称してきた。第一にというより、「保守」=「反共主義」=「自由主義」とほぼ等号で結びたいつもりで書いてきたかもしれない。だからこそ、月刊正論(産経)等々に見られる<産経文化人・知識人>等々の<いわゆる保守派>による<反共産主義>意識の欠如や乏しさに我慢がならず、しばしば批判的なコメントを書いてきた(この点ではこの欄は一貫しているつもりだ)。
 しかし、<産経文化人・知識人>等々の<いわゆる保守派>の理解する「保守」が反米だったり「日本」・「天皇」だったりすると<反共>意識の乏しさも全く当然のことで、この人たちは、私の理解する意味での「保守」派では全くない、ということがこの数年間に分かった。
 馬鹿らしいほどだ。
 日本会議の活動員だろうか、<「反共」なら統一教会に任せておけばよい、大切なのは「天皇」だ>とかの書き込みがネット上にあった。
 「日本」・「天皇」に観念的に執着することは、「保守」でも何でもない。「愛国主義」・「民族主義」あるいは偏頗なナショナリズムだ。
 なお、日本共産党・しんぶん赤旗を見て見るとよいだろう。対米自立・対米従属批判で日本共産党は一貫している(一部の<いわゆる保守>と同じように)。
 さらについでに引用しておこう。レディング会合で1973年に早くもS. Hampshire は語った、という(試訳済み)。
 「民族的共同体への郷愁が、多数の左翼集団の中にきわめて強く感じられる」。
 上の「左翼」は「右翼」の訳し間違いまたは書き間違いではない。
 「日本」・「天皇」では、「右翼」でも「左翼」でもある。
 日本会議と日本共産党は、再三書くが、その方向は<45度も開いていない>。
  「社会主義」観念の捉え方の広さ・多義性を見ると、レディング会合の参加者は決して全員が<反社会主義>の立場の者ではなかったように見える。
 第一に、東欧(当時の「社会主義国」)からの参加者の中には、現実の「社会主義」には問題があっても「資本主義」からは離別しているという点では肯定的に評価していると感じられる人物もいる。
 第二に、驚いたことに、Eric Hobsbawm までが参加して、ソヴィエト型社会主義を擁護するかのごとき発言をしている。この人はイギリス共産党員だったはずなのだが。
 Edward P. Thompson が招聘されなかったと言ってL・コワコフスキに不満を述べていたらしいこともよく分かってきた。この人はマルクス主義者らしいが、L・コワコフスキは「新左翼」扱いをしていたようだ(試訳済みの「左翼の君へ」)。
 このような、試訳してみての、その内容についてのコメントはこれまでほとんど行ってきていない。
 その理由は要するに、そんなことをしているとキリがないし、いったん何となくでも意味を理解してしまうと、時間が惜しいからだ。
  1972年4月に東京での国際セミナーを開催した(または後援した)<日本文化フォーラム>の性格、あるいは石原萠記という人物の評価・位置づけを「社会主義」という語を使って記述するのも困難なところがある。
 だが、レディング会合とは少し違って(?)明確なのは、<反日本共産党>あるいはその意味で<反共産主義>だ、ということだろう。<日本文化フォーラム>の関係者あるいは石原萠記の交際範囲の中に日本共産党員(および社会党左派・向坂派・社会主義協会派)は全く存在しないとみられる。
 欧州的?社会民主主義の建前のように、「社会民主主義」と「反共産主義」は両立する。
 前者を「社会主義」の中に入れてしまって、「社会民主主義」=「左翼」=「容共」と簡単に把握することはできないし、そうしてはいけない。
 この辺りは、日本社会党右派、民社党、日本での<反共・社会民主主義>がなぜ勢力を大きくできなかったのか、という、日本の戦後政治史に深く関係するだろう。
 <日本文化フォーラム>とは別にあったらしい<日本文化会議>についても、遡って見ておく必要がある。
 そして、日本会議(1997年設立)は戦後日本の「保守」運動を継承しているのか?
 石原萌記の書物の中には(1999年刊行であっても)、日本会議も椛島有三も出てこない。
 この点は、別に記述しなければならない、最近の大きな関心事だ。
 なお、<日本文化フォーラム>というのは、とくにその中の「フォーラム」の採用は、林健太郎の提言によるらしい(石原萠記著による)。
 「フォーラム」と「アゴラ」の意味はきっと同じだろう。

2001/L・コワコフスキら編著(1974)⑥-討論③。

 L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(New York, 1974).
 L・コワコフスキの「序文」が彼自身の文章として記述する、報告(および副報告またはコメント)の後の「討論」の内容。つづき。p.14-p.17.
 以下の(12)のほとんどは会合・シンポジウムの最後にL・コワコフスキが述べた「結語」の引用だとされているので、その中の段落分けについて(-01)等の小番号を付した。
 ---
 討論③。 
 (12)レディング会合についての私の個人的な見方を示すために、勝手ながら討論のあとで私が行った結語的論評を引用したい。//
 (-01)我々の討議の狙いは、現存する政治体制、運動または政党、社会主義者または共産主義者を批判することではなかった。
 しかしながら、明らかなことだが、実現しようとする現存する試みがまるでこの討議と無関係であるかのごとく、今日に社会主義思想に関して討議することはできない。
 この会合を組織するに際して、我々は4つの範疇の人々、4種類の思考(mentality)を避けたかった。それらは、社会主義思想とそれが実際に具現化されたものとの関係についての議論でしばしば見出すものだ。//
 (-02)第一。社会主義思想にも社会主義社会で形成されている姿のいずれにも間違った(wrong)ものは何もない、と単純に考える人々がいる。
 思想はしっかりして首尾一貫した素晴らしいものであり、完璧にソヴィエト型諸国で具体化された。
 これはオーソドクスな共産主義者の見方の要点だ。//
 (-03)第二。現存する経験に照らして思想は完全に破綻していることが判った、ゆえにそれに関して語るものは何もない、と考える人々がいる。
 共産主義システムは、社会主義思想を永遠に葬ってしまった。
 (-04)第三。多数のトロツキストと批判的共産主義者たちに典型的な接近方法がある。
 それは、つぎのように要約することができる。
 共産主義諸国に、多数の過ちを冒した官僚主義的な歪曲があることを否定することはできない。
 しかし、原理または本質は健全なものだ。
 全く問題がない。-貴方たちが執拗に主張するなら、私〔トロツキストら〕は譲って、このシステムは、数億万人の犠牲のうえに、侵略のうえに、民族抑圧のうえに、際立つ不平等、搾取、文化的荒廃、政治的僭政体制のうえに築かれている、と認めよう。-
 しかし、貴方たちは、国家が工場を所有している!ことを否定することはできない。
 そして、共産主義諸国での国家所有工場は人類にとって無限の価値をもつので、この成果に直面するならば、他の全ての事情は些細で二次的なことだ。//
 (-05)第四。新左翼の間では全く共通の態度がある。それは、つぎのように表現することができる。
 全く問題がない。現存する社会主義諸国はガラクタであることに私〔新左翼〕は同意するが、我々はその諸国の歴史にも現実の条件にも関心がない。我々はもっと巧くやろうとしているからだ。
 どのようにして?
 ごく簡単だ。
 我々はまさに、地球的革命を起こして、疎外、人口過剰および交通渋滞を排除しなければならない。
 青写真の用意はある。我々が行うべき全ては、地球的革命を起こすことだ。//
 (-06)周りを見れば、これら4つの範疇のいずれかに入らない者はほとんどいないことを我々は知る。
 我々は、これらの態度はここにはなかった、ということを少なくとも達成した。
 これが意味するのは、我々は社会主義思想と社会主義諸国の現存する経験のいずれをも真摯に考察したということ、およびこの経験はこの思想の有効性と将来の見込みに関する討議にとってきわめて意味がある、ということだ。
 この事実それ自体が、「社会主義」という言葉がこの世に生まれた後のほとんど150年になっても、我々がなお最初に立ち戻らなければならないことを明らかにしている。
 しかしながら、これは落胆あるいは絶望の理由だ、と私は言おうはしない。
我々が人間の悲惨さをなくしてしまうのができないのは本当であっても、同時に、改善されるだろうと考える者が誰もいないとすれば、世界は現状よりももっと悪くなるだろうということも本当だろう。//
 (13)我々はいま、どこにいるのか?
 社会主義の観点からして社会に関する我々の思考に欠けているのは、我々が実体化されるのを見たいと欲する一般的諸価値ではない。そうではなく、実践に投入されればこれらの諸価値が相互に衝突し合うのを阻止する方法に関する知識であり、理想を達成するのを妨害している諸力に関するより十分な知識だ。
 我々は平等に<賛成>するが、経済の組織化は平等な賃金にもとづくことができないこと、いかなる制度的変化があっても急速には破壊されそうにない永続的メカニズムが文化的後進性にはあること、ある程度の不平等性は生来的要因でもって説明することができ、社会的過程へのその影響力についてはほとんど知られていないこと、等々を認識している。
 我々は経済民主主義に賛成するが、経済民主主義を有能な生産稼働と調和させる方法を知らない。
 我々は、官僚制に反対する多くの論拠をもち、生産手段に対する公的統制、換言すると官僚制の増大、を支持する同じく多くの論拠ももつ。
 我々は現代技術の破壊的影響を嘆くが、それに対する我々の知る唯一の防御策は、より進んだ技術だ。
 我々は小さな共同体の自律の増大を支持し、地球的規模での計画化の増大を支持する。-れら二つのスローガンには何の矛盾もないかのごとくに。
 我々は学校での学習の増大を支持し、生徒たちの自由の増加を支持する。-後者は実際には学習を少なくする。
 我々は技術の進歩と完全な安全とを支持する。-後者は動かないことだ。
 我々は人は自分の幸福追求について自由でなければならないと語りつつ、幸福についての誰にも適用できる絶対確実な規準を知っているふりをしている。
 我々は、誰もが民族的憎悪に反対する世界で民族的憎悪や民族的孤立主義に反対している。しかし、かつて人間の歴史には民族的憎悪に関するもっと多くのことがあった。
 我々は、人々は実体的存在だと考えられなければならないと主張する。しかし、人々は肉体をもつという考えほど衝撃を与えるものはない。これが意味するのは、人々は遺伝的に決定されており、生まれて死ぬ、若いまたは老いた、男または女だ、ということで、また、誰が生産手段を所有するかに関係なくこれら全ての要因が社会過程で一定の役割を果たすことができる、ということであり、さらに、いくつかの重要な社会的諸力は歴史的条件の産物ではなく、階級分化によるものでも決してない、ということだ。//
 (14)我々は数百年前には幸福だった。
 我々は、搾取者と被搾取者、富者と貧者がいることを知った。そして我々には、いかにして不公正を除去するかに関する完璧な思想がある。我々は所有者を搾取し、富を共通の善に変えるだろう。
 我々は所有者を搾取した、そして世界の歴史上で最も怪物的で抑圧的な社会システムの一つを創った。
 そして、我々は、全ては「原理的に」うまくいっていると繰り返して言い続ける。何らかの不運な事件だけが忍び込んできて、善なる思想を僅かに傷つける。
 さあ、再出発しよう。//
 (15)社会主義的用語で思考し続けるのは、愚かだろうか?
 私は、そうは考えない。
 正義、安全確保、教育の機会、あるいは福祉と貧者や無力者に対する国家の責任、これらをより大きくするために西側ヨーロッパでなされてきたことが何であれ、それらは、幼稚で幻想的なものであったとしても、社会主義イデオロギーの圧力と社会主義運動なくしては達成され得なかった。
 このことは、我々がこの幻想を多数の失敗の後でも無限に抱くことがあらかじめ保障されていて、許容されている、ということを意味していない。
 しかしながら、過去の経験は部分的には社会主義思想を支持し、部分的にはそれに反対している、ということを意味している。
 我々はたしかに、対立なき社会の秘訣または完璧さに向かう合鍵を有しているなどと、思い違いすることは許されない。
 予期され得なかった事件が起きなければ原理的には一緒に達成することのできた諸価値の系統的なセットを我々は持っているなどと、考えることもできない。人間の歴史のほとんどは予期し得ない偶発事件によって成り立っているのだから。
 我々は、伝統的な社会主義の諸価値のセット全体を信じつづけることはできないし、多数の些細な真実を憶えていないかぎりは、最小限の精神的な誠実さを保ちつづけることもできない。
 すなわち、これらの諸価値の中には、実行に移すならば相互に対立し合わないものは何もないのだ。
 我々が作動させた社会的変化の結末の全てを、我々が知ることは決してない。
 過去の歴史の堆積と永遠につづく人間という生物の特質の両者は、社会の計画化に制限を課した。
 そしてこの制限を、我々は曖昧にしか知っていない。
 多数の陳腐な真実が示唆して意味することに我々が強く抵抗するのは、何ら驚くべきことではない。
 こうしたことは、たんに人間の生活について自明のことはその不愉快さだという理由だけで、全ての知の領域で生じている。//
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 終わり。

2000/L・コワコフスキら編・社会主義思想(1974)⑤-討論②。

 L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(New York, 1974).
 L・コワコフスキの「序文」が彼自身の文章として記述する、報告(および副報告またはコメント)の後の「討論」の内容。つづき。p.10-14.
 討論②。
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 (5)社会主義の発展を評価する指標としての余暇(leisure)に関するHarrington の見解は、もう一つの理由で批判された。
 余暇の増大は自由時間を充足する物品への新しい需要の増大という意味を、そしてその結果生じる新しい生産物と新しい消費形態への動きという意味を内包しているので、余暇という観念自体が自己破壊的だ、と指摘された(Taylor)。
 Taylor は、先進産業国家がその経済成長による災厄的結果(相互に刺激し合う需要と生産の無限の螺旋構造)を免れるためにはきわめて緊急的な変化が必要だが、その変化に意味包含されているのは、精神的な方向づけの見直しだ、と主張した。
 技術を再生し人々の量的でない成長を達成するには、制度を改変するだけではなくて、個人的な要求の優先順位を再検討しなければならないだろう。
 (6)討論で明らかになった相違がいかほど重要なものだったとしても、社会主義という意味ある観念はいずれも、労働する社会の自分自身の運命を決定する能力をその意味に包含している、ということには合意があったように見えた。この能力の中にはとくに、生産手段を統制する力が含まれている。
 この論点は、異なる視覚から何度も提起された。
 Brus は、公的所有と社会的所有の区別を強く主張した。後者は、経済的民主主義を含むものだ(そして、これのない経済的民主主義は考え難いので、政治的民主主義も)。
 東ヨーロッパの経験から分かるのは、生産手段の公的所有を達成する体制は、社会的な所有制を採用しなければ、つまり労働する社会が経済の自己管理権を有しなければ、社会主義社会について伝統的には期待されたようには全く進まない、ということだ。
 Marek は、西側社会主義と人民民主主義諸国の両方に新しい展望を拓く新しい現象として、産業社会全体に広がる産業民主主義の必要性を強調した。
 工場の入口で停止する民主主義は、また工場の出口で停止する民主主義も、民主主義という名に値しない。
 Hirszowicz は、産業民主主義の多様な段階を区別した(技術、経営、社会)。但し、社会生活の全ての側面を包括する参加型民主主義の一部としてのみ、産業民主主義を把握することができる、と述べた。//
 (7)政治的民主主義を伴わない経済の自主管理が無意味であることに合意するのは、困難でなかった。
 しかし、討論を刺激したもっと特有の問題は、経済の自主管理の実行可能性およびその実際的内容に関するものだった。
 効率的な経営と産業民主主義の間の矛盾を解消する制度的な手段は開発されてきていない、と論じられた。
 かりに我々がこの両方を望むならば、全ての種類の妥協によってのみこれを考えることができる。
 そして、ユーゴスラヴィアの実験の多くの側面は、勇気を与えるものではないか?
 現実の経営と現実の決定権力は、労働者の形式的な権利がどうであれ、通常は専門家たちの手のうちにある。
 一方で、特定の産業単位の自律性が大きくなるほど、大きな破壊性を伴う資本主義的蓄積という正常な法則が無制限に作動する余地が、それだけ広くなる。
 他方で、高度に集中的な計画化は、ソヴィエト型社会の経験から判断すると非効率的であるとともに反民主主義的で、国の技術が精巧になるほど、中央的計画化の非効率性はそれだけ際立って明瞭になる。
 (Sirc がNuti に反駁して述べたように、)経済全体を作動させるのは不可能だ。
 しかし、西側ヨーロッパと北アメリカの現存する経済体制は漸次的であっても重要な変化が生じるのを受容すると我々は期待することができるか? 富の配分についてますます平等になり、産業管理についてますます民主主義的になり、生産の果実に全ての者がますます参加できる、そのような漸次的変化の受容を。
 資本主義社会での技術の巨大な進歩は余暇の増大を生み出したが、このことはこの目的のために用いることはできない、そして用いることはできなかった、と主張された(G. A. Cohen によって)。生産の増加と余暇の増大の間の選択を迫られて、資本主義はその本来の性格からして不可避的に前者を選ばなければならないからだ、と。
 労働時間についてのその帰結は、この〔資本主義〕システムの範囲内でこれまでは些細なものだった。
 進歩的な税制は理論上は社会的富のより平等な配分を誘導することになるが、現実にはそうではなかった、とも主張された(Nuti によって)。//
 (8)一般的に言って、社会主義諸国の経験は西側ヨーロッパの社会主義運動の展望と社会主義という思想そのものの有効性の両方にとっていかほどに適切(relevant)なものであるのか、に関する合意はなかった。
 この意味(relevance)を誰も否定しなかったが、それに限界があることは様々に明確に述べられていた。
 我々はこの〔社会主義諸国の〕システムの技術的および経済的非効率性は偶発的な歴史的諸事情によると説明すべきなのか、それとも、それはまさにその〔社会主義体制の〕基礎のうちに埋め込まれていたのだ、と説明すべきなのか?
 社会主義諸国の経験は、社会主義思想の実現可能性とそれがもつ全ての諸価値をひっくるめた達成可能性に、いかほどに疑問を抱かせているのか?
 社会主義の伝統のまさに中核にある諸価値のうちのいくつかは、実際に適用してみると相互に矛盾するように思えた。
 すなわち、自由の必要性と平等の必要性はほとんどつねに両立し難いことが分かった。
 完全な産業民主主義という理想は、有能な(competent)経営とは容易にはほとんど結びつき難い。
 我々は、余暇と消費用商品の両方の増大を求める。そして、どうすれば両方のいずれの増大をも獲得できるのかを知るのは困難だ。
 我々は、安全確保と技術進歩の両方を求める。しかし、完全な安全性は停滞(stagnation)を意味包含しているように見え、技術の進歩は不均衡(disequilibrium)を意味する(Sirc)。
 矛盾する諸価値を合理的に調整するシステムを与えることのできる理論は、諸矛盾を根絶させるシステムに関するそれはなおさらのことだが、存在していない。
 我々はますます総合的な計画化を必要とするが、それに関して信頼できる理論がない、社会に関する我々の知識は必ずや限定されており、社会的技術工学(social engineering)を用いても多数の予期していない事態を生み出さざるを得ないからだ(と、Hampshire は主張した)。
 ゆえに、社会の組織化に関する現存する可能性を試してみる方が安全で、より責任ある見解ではないか? 現在の状況よりもはるかに悪い結果をもたらさないという保障が全くない、そういう完璧さへと向かって偉大な跳躍をすると約束するよりは。//
 (9)西側諸国の社会主義者の意識に重要な変化が起こっているが、その原因はソヴィエト型社会主義の失敗にのみあるのではなく、資本主義社会が変容していくつかの社会主義に固有の価値を無意味な、重要でないまたは疑わしいものにしたことにも起因する、ということが、討論では繰り返して指摘された。
 マルクスの予見によれば、社会主義は資本主義生産様式が技術の進歩に負荷していた制限を打破すると考えられており、社会主義的組織化がその優越性を証明するのはまさにその点にある、とされた。
 現存する社会主義社会は、西側モデルを不器用に模倣する一方で「技術競争」を喪失していることが判明した。それだけではなく、技術の進歩というまさにその価値が、悪名高い破壊的な観点からする社会進歩の主要な標識としては、ますます魅力的なものではなくなっていることも分かった。//
 (10)新しい経験に照らすと19世紀の社会主義思想の最も弱点だと思える第二の重要な点は、社会主義運動での労働者階級の役割だ。
 Bottmore は、労働者階級の<ブルジョア化(embourgeoisement)>の理論を批判し、福祉国家体制と社会主義的発展の同一視の傾向に反対しつつ、社会主義運動は今日的変化に適用することのできる信頼し得る理論を何ら持っていない、と指摘した。
 多数の左翼グループの間には、マルクス主義の意味では労働者階級では全くない、最底辺のまたはたんに特権を持っていない集団(移住労働者、ルンペン・プロレタリアート、人種的または民族的少数者)に別の革命的前衛を探し求める政治傾向がよく知られている。しかしこれは、社会学的分析にもとづくものではなく、絶望が反射したものだと、討論では頻繁に論述された。
 他方で、高度発展社会での労働者階級の地位の変化は福祉上の利益に限定されておらず、多くの社会的経済的な重要問題について労働組合が発揮することのできる力の消極的な統制を含む、と指摘された(Kendall)。後者は、私的所有制の制限または部分的な搾取だと叙述することができる、と。//
 (11)その価値が危機に瀕している、社会主義に関する第三の様相は、国際主義の伝統だ。
 Lodzは討論で、ネイション(nation)の「階級」観念と対抗するものとしてのその「国家」という観念の分析を行った。
 民族主義(nationalist、国家主義)イデオロギーと社会主義イデオロギーの間の対立はその力のほとんどを喪失していることを示すために、多くの現象が叙述された。
 すなわち、左翼の運動がマルクス主義理論によると確実に「反動的」というレッテルに値する民族主義的な要求を支持するのは通常の(normal)のことで、例外的なものではない。そして、左翼が民族主義的信条を支持しないのは、多数の紛争の中でほとんど考え難い、と(Taylor)。
 種族的(tribal)な共同体への郷愁が、多数の左翼集団の中にきわめて強く感じられる(Hampshire)。
 他方で、民族主義は国家の経済的機能の増大によって助長されており、同じ理由で、それはしばしば社会主義者の綱領と合致してもいる(Brus)。
 大国である社会主義諸国では、社会主義イデオロギーは排外主義または帝国主義の願望と区別し難くなっている間に、いくつかの(とくに東ヨーロッパでの)民族主義の形態は、自立と参加を求める民主主義的要求と合致している(Kusin)。
 ある参加者たちは、社会主義運動の観点からして特有の価値を持たないものとしてネイションを過渡的な現象と把握する、伝統的なマルクス主義の基調の有効性を強調した(Eric Hobsbawm)。
 他の参加者は、国際主義的態度と民族的忠実さは何ら両立し得ないものではない、とした(Ludz)。
 少なくともつぎの二点は、疑問視されなかった。
 第一に、現存する社会主義諸国は、民族問題を解決するというかつての約束を実現することに、完全に失敗した。第二に、社会主義運動では、国際主義の理想は実際には滅び去った。
 大国の愛国主義と民族独立を求める要求の両者は、社会主義イデオロギーの中に頻繁に出現する。そして、誰ももはや、このことを異様だとは考えていない。//
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 ③へとつづく。

1998/L・コワコフスキら編・社会主義思想(1974)④-討論①。

 
 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(Basic Books, Inc. Publishers, New York, printed in Great Britain, 1974).
 L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 イギリス・レディングの会合での諸報告の記録である上の著には、報告(および副報告またはコメント)の後の「討論」の内容を記録してはいない。
 L・コワコフスキの「序文」が彼自身の文章として、「討論」内容の少なくとも一端を紹介しているので、参考になる。
 なお、当初に設定された論点・課題の一覧はこの紹介の項の①のとおりで、そうした設定の具体的内容や趣旨もL・コワコフスキは記している。その部分も訳出しておけば、意味の理解がより容易だってたかもしれない。
 <討論の内容をここで再現しはしない。しかし、討論で繰り返された主題のいくつかを指摘し、参加者で分かれた主要な論点に言及しておくことが有益かもしれない>と述べて、L・コワコフスキは「討論」を以下のように紹介する。試訳。段落番号は、最初からの通しではない。p.8~。
 討論①。
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 (1)予期されるだろうように、討論では継続して、社会主義の最も伝統的な諸価値の意味や有効性に立ち戻った議論が行われた。
 いくつかの場合には、参加者の相違と論議は、数十年間あるいは一世紀を超えてすら社会主義思想にはよく見られた様式に従うものだった。
 (2)社会主義という観念をどのように定義するかについて合意がなかったのみならず、その定義に向かう接近方法についてすら合意がなかつた。
 マルクス主義の伝統が、通常はこの議論の出発地点だった。
 しかしながら、つぎのことが指摘された。すなわち、マルクス主義自体が、いくつかの重要な諸点では、矛盾を除去したり内在的な首尾一貫性を完成させたりすることをしないで、異種の起源をもつものを結合しようとしたものだ、ということ。
 かくして、マルクス主義は、一方で啓蒙主義(Enlightenment)の遺産と一致して、至高の価値をもつ個人の自律と自由な発展を強調しつつ、他方では社会の完璧な統合へのロマン派的郷愁(romantic nostalgia)を継承した。
 この二つの傾向は(Taylor が述べたように)相互に対立し、社会主義社会はどのようなものであるべきかに関して、全く異なる二つの考え方の中に反映された。
 マルクス主義の理性主義および普遍主義の側は、個人の幸福、裕福、余暇、創造から成る社会主義の展望(vision)を生み出した。
 マルクス主義のロマン派の側は、有機的共同体へと回帰する必要性を強調した。そして、全体主義的な社会主義という夢想郷(utopia)を生み出す傾向にあっただろう-(Kolakowski が主張したように)完璧な統合という理想は全体主義的僭政体制以外のいかなる形態にも陥る傾向性はなかった、というのが本当のことならば。
 (Petrovic が強調した)もう一つの緊張関係は、マルクスの革命的人間中心主義と彼の経済的決定論の間にあったことが注目されるかもしれない。
 前者の観点からは、社会主義に向かう運動は、個人の精神的な発展と諸生活の物質的および制度的な条件の変化の間の相互依存的な永続的な過程だ、ということを意味包含(imply)する。
 これが意味するのは、社会主義への変容を制度の観点から定義することができない、ということだ。
 もう一つの後者の接近方法は、純粋に「客観的」な観点から歴史過程を叙述し、(Raddatz が指摘したように)個人の意識と個人的な価値がどのようにして制度の変容の影響を受けるか関して考察する余地を残さない。
 その結果としてこの接近方法によると、我々は、社会主義運動を、確かな制度上の企図を実行するよう定められた技術的な手段だと、かつ社会主義を、新しい社会を作り出す人間たちに何が生じるかとは関係なく、この企図を達成するための条件だと、と把握するすることになる。//
 (3)社会主義をたんに公的所有制と権力の観点からのみ定義するならば、社会主義のイデオロギー上の観念を無視することになる。-この点は、参加者たちの間で争いがなかった。
 また、社会的対立や不満の全てを除去する、普遍的な救済(salvation)のための青写真だと社会主義のことを考える者も、いなかった。
 しかしながら、このような一般的な一致はあっても、もっと特殊な諸論点の全てについて、論争を予め阻止することができたのではなかった。
 我々は社会主義を、社会関係の一定の望ましいセット(set)と定義すべきなのか、それとも(Hampshire が示唆するように)社会経済的な弱者の願望と要求に従って社会的諸問題を解決するための手段だと定義すべきなのか?
 討論では、この二つの傾向-つまり夢想的(utopian)と実際的(pragmatic)-はつねにお互いに衝突し合った。
 ある人々(Marek とPetrovic)は、我々は夢想郷(utopia)なしで、換言すれば人間の潜在的力の範囲内で描いた理想像(imaginary pictures)なしで、済ませることはできない、と何度も強調した。
 我々は達成され得る現実的目標よりも、一種の規整的観念(regulative idea)を必要とする、全ての実際的諸問題について従うべき一般的な方向を見出すのを助けてくれるものが必要だ、と。
 しかしながら、討論を支配したのは、より実際的な接近方法だったと思えた。
 19世紀の資本主義社会では達成の見込みがないように見えた多数の社会的要求が実際には満足されたがゆえに、社会制度についての過激な「二者択一的」見方(資本主義・社会主義)は説得力を失った(Walter Kendall の意見)。
 組織的な労働運動の圧力が証明したのは、労働者階級の分け前を改善するために現存する国家諸制度を利用するのに間違いなく成功した、ということだ。したがって、この圧力が有効であることには<先験的な>限界があるとする理由はない。
 他方で、現存する社会主義制度はそれ自体では、資本主義社会内部で解決できていない社会問題を解決する力はないことが、経験から判断して、分かった。
 社会主義制度は膨大な対価を払って、発展途上諸国での産業化の諸問題を解決した。そして、原始的蓄積の組織者としての役割を果たした。
 しかし、社会主義制度は、社会主義思想の伝統によれば社会組織の特殊に<社会主義的>な形態へと取りかかると想定された単一の任務を履行することができなかった。//
 (4)現存する社会主義社会は、マルクス主義の伝統が定義しているような生活の社会主義形態への乏しい準備的な歩みなのか、それとも資本主義発展の周縁にある諸国での急速な工業化の道具にすぎないのか。-これに対する回答は、社会主義世界をどう定義するかの標識に関する参加者の見方によって異なった。
 Harrington の見解は、こうだった。物質的な豊かさは社会主義発展の前提条件だ。我々が必要な作業の減少や余暇の増大で進歩を測らなければならないことは、社会主義革命はまだ起きていないとの明確な結論を導く。遠く離れてすら社会主義の名に値する社会は生み出されていない。社会主義発展はその原理上、発展途上社会では、とくに第三世界では、想定し難い。
 この見解は、満場一致で支持されたわけではなかった。
 他方には、現存する社会主義制度はいかに非効率で重苦しいものであっても、階級社会を超える決定的な歩みだと考えられなければならない、社会対立の根源の全てを破壊することはできていないけれども、階級分化から帰結するその一つを破壊することには成功したのだから、というむしろ孤立した見解があった(Nuti)。
 この問題は自動的に、別の問題へとつながっていった。
 ソヴィエト型社会は新しい階級分化を生み出したというのは、どの程度に本当のことなのか?
 もう一つの共有されたのではない見方は、社会主義制度の欠陥は支配する官僚機構の無能さによって説明することができ、官僚機構と社会の間の階級対立によるのではない、というものだった(Nuti)。
 参加者の多数(Hirszowicz、Walter Kendall、Kolakowski、Sirk)は、ソヴィエト型社会で装置化された特権のシステムは利益の新しい衝突を生み出した、いくつかの点で異なってはいるが基本的には階級分化と類似のものだ、と主張した(責任の所在なき権力、支配的グループによる生産手段の排他的統御、技術的および経済的進歩への趨勢と政治的官僚制の独占的地位の間の永続的な対立)。
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 ②につづく。

1990/L・コワコフスキら編・社会主義思想(1974)③。

 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(Basic Books, Inc. Publishers, New York, printed in Great Britain, 1974).
 この項の前回に意識的に割愛した、この書物のL・コワコフスキによる「序文」の一部は、英訳を試みると、つぎの一文だ。訳出上、二文に分ける。
 会合・シンポジウムの報告には種々の不備があったので、「会合では存在しなかった三論文を追加した」、に続けてこうある。
 「それらのうち二つは、Richard Lownthal およびGilles Martinet のもので、1972年4月に東京で開催された『変化する社会における社会主義』と題する国際セミナーで報告された。
 これは、文化的自由のための国際協会〔International Association for Cultural Freedom〕および二つの日本の雑誌と連携した日本文化フォーラム〔Japan Cultural Forum〕によって、後援(財政支援)された。」
 ***
 L・コワコフスキ編の1974年著のL・コワコフスキ執筆の文章の中に、その当時の日本の団体または組織が出てくる。
 これはいったいどの団体のことだろうか。現在でもあるのだろうか。
 上の書物全体を読んだわけでは全くないが、「反共産主義・反社会主義」ないし「自由主義」志向の団体・組織だろう。
 厳密には暫定的な結論だが、少なくとも現在ある、1997年設立の日本会議(事務総長・椛島有三)とは全く関係がない、と考えられる。L・コワコフスキと少なくとも間接的には関係または接触があった日本の<保守>=<反共・自由主義>の諸団体の性格または基本姿勢・基本思潮を、この日本会議は継承していない、と考えられる。
 日本会議は「保守」ではない。むしろ、強いていえば「右翼」だ。
 そして、この欄ですでに書いたことだが、日本共産党と日本会議は決して真反対の位置にいるのではなく、その方向は45度も開いてはいない。
 あるいは、これも記したように、櫻井よしこら日本会議派は「過去と伝統」に理想を、不破哲三ら日本共産党は「未来」に理想を求める。そして、その観念的思考ぶりには、十分に共通性がある。

1981/L・コワコフスキら編・社会主義思想(1974)②。

 Leszek Kolakowski & Suart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(Basic Books, Inc. Publishers, New York, printed in Great Britain, 1974).
 これの紹介のつづき。
  L・コワコフスキの序文は、さらに続けると、「日本」に触れる一文を除外すると、こう書く。p.7。
じかの邦訳にはしないでおく。
 種々の理由で、この企画は完全には実現されず、若干のテーマは報告を欠き、若干の報告は予定された定式に厳密には従っていなかった。
 そこで、この会合・シンポジウムでは報告されなかった三論文を、この書物で追加することとした。別の会合で報告されたものだ。
 また、一つの論文は、この書物のために執筆された。〔以下の○〕
 本書には、レディング会合・シンポジウムでの報告に対する、五つの論評・コメントも収録している。
  この書の構成・内容は、L・コワコフスキの「序文」(Introduction)とS・ハンプシャイアの「後記」(Epilogue)を含めて、仮訳すれば、つぎのとおり。<>内は報告者等の出身国。必ずしも「国籍」ではないかもしれない。
 上にいう(主)報告に対する論評の論考は、目次上では必ずしも明確でないので、コワコフスキの「序文」にもとづいて秋月が**を付記した。〔以下の**〕
 ----
 01 序文/L・コワコフスキ。
 02 人間の自己認識〔識別・一体性〕という神話-社会主義思想での市民社会と政治社会の統一/L・コワコフスキ。
 03 **市民社会と政治社会の統一-L・コワコフスキへの回答/S・ハンプシャイア。<英>
 04 社会主義と世界観/Charles Taylor.<カナダ>
 05 平等に関する省察/J. P. Mayer.<英>
 06 ○社会主義と平等/Steven Lukes.<英>
 07 社会主義、革命と暴力/Gajo Petrovic.<ユーゴ>
 08 精密さへと向かうマルクス主義の発展について/Fritz J. Raddatz.<独>
 09 社会主義と労働者階級/Tom Bottomore.<英>
 10 社会主義と民族/Peter C. Ludz.<独>
 11 **社会主義とナショナリズム/Vladimir V. Kusin.<チェコ>
 12 生産手段としての余暇/Michael Harrington.<米>
 13 **社会主義に対する現代技術の意味-Michael Harrington報告へのコメント/Wlodzimierz Brus.<ポーランド>
 14 社会主義と所有制/Ljubo Sirc.<ユーゴ>
 15 **社会主義と所有制/Domenico Mario Nuti.<伊>
 16 産業民主主義、自己管理と生産の社会的管理/Maria Hirszowicz.<ポーランド>
 17 **Maria Hirszowicz 報告へのコメント/Franz Marek.<墺>
 18 先進民主主義諸国での将来の社会主義/Richard Lowenthal.<独>
 19 **社会主義の理論とイデオロギー/Gilles Martinet.<仏>
 20 後記/S・ハンプシャイア。<英>
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1976/加藤哲郎著(1990)とL・コワコフスキ。

 いつぞや、加藤哲郎の本がL・コワコフスキの文章(・詩?)を引用・掲載していた、と書いたことがある。
 その加藤の本を、久しぶりに見つけた。
 加藤哲郎・東欧革命と社会主義(花伝社、1990年3月)。
 この本全体のハードカバーの中にある表紙のそのつぎの頁に、L・コワコフスキの文章(?)が二頁分で引用されて掲載されている。
 「東欧革命」の途上での既存?社会主義に対する鋭い批判を諧謔をもって表現したものとして、加藤は採用したのだろう。
 もっとも加藤が英語訳にせよ直接にL・コワコフスキの文章に接したのではないようで、以下からの再引用・掲載だとされている。
 全集/現代世界文学の発見・第11巻-社会主義の苦悩と新生 (学芸書林、1970)。
 これの原物はいま手元にないが、購入し所持していて、確認はしている。
 加藤哲郎は「ポーランドの哲学者・コラコフスキー」と執筆者を示している。
 これは私も最初はそのように読んだところで、L・コワコフスキの初期の作品の珍しい邦訳書である以下も、著者を「ココフコフスキ」と表記していた。
 小森潔=古田耕作訳/L・コラコフスキー・責任と歴史-知識人とマルクス主義(勁草書房、1967)。
 この著はL・コワコフスキがまだ完全にはマルクス主義者でなくなっておらず「修正主義者」とかマルクス主義正統派(スターリン派=ポーランド統一労働者党)から批判されていた時期のものだと見られる。そして、邦訳者たちもまた、反マルクス主義または反共産主義という観点からではなく、反スターリニズム(反日本共産党?)の観点から関心をもって、邦訳書を刊行したのだと推察している。
 その後、東欧の「お伽ばなし」・「怪談」とか哲学一般に関する書物の邦訳はあるが、L・コワコフスキの中心著作と評して欧米学界・論壇でも誤りはないと見られるつぎの著の邦訳書は決して?刊行されなかったことは何度も書いた。
 Leszek Kolakowski・マルクス主義の主要潮流(原語1976、英語訳1978)。
 さて、加藤哲郎が引用・掲載している文章(?)は「はしがき」のつぎの「目次」欄の右端にも、表題が「なにが社会主義でないか」と記されている。
 L・コワコフスキ自身の発表年は、1956年。この人が29歳の年。
 以下の中に収載されている。
 Leszek Kolakowski, Is God Happy ? -Selected Essays. (2012年)。p.20-p.24.
 レシェク・コワコフスキ・神は幸せか?-小論選集(2012)
 これによると表題は、What is Socialism ? で、「なにが社会主義でないか」ではなく「社会主義とは何か」だ。もっとも、原作時点以降に変更された可能性はあるし、その文章?自体は「なにが社会主義でないか」を語ることから始め、「社会主義とは何か」をこれから語ろうと書いて、ほとんど終わっている。
 これまで「文章?」とか「文章(詩?)」とか記したように、L・コワコフスキの1956年の「社会主義とは何か」は「社会主義でない」国家・政体のスローガンもどきの列挙であって、美しいものでも、じっくりと味わえる文章でもない。むしろ、乱雑だ。よって、ここに書き写すつもりもない。
 しかしそれでも、その内容が当時のポーランド当局には危険なものだったのだろう。
 ポーランド共産党(統一労働者党)の党員だった、ワルシャワ大学の研究者・教育者が書いたものだったのだから。
 上の2012年の著の原文のあとに、つぎのような注記がある(p.24)。一文ごとに改行する。
 「この小論(essay)は検閲に引っかかり、これが書かれた学生雑誌は閉鎖させられた。
 そして、すみやかに当局が除去するまで、ワルシャワ大学の告知板に貼り出された(pinned up)、。
 そのとき以降、地下で複写版が回覧された。
 共産主義が崩壊するまで、ポーランドでは公刊されないままだった。」
 この注記はかつてからL・コワコフスキが記していた可能性もあるが、2012時点でのAgnieszka Kolakwskaya (L・コワコフスキの娘)によるものかもしれない。少なくともこの選集では、L・コワコフスキが英語で執筆していないものは、この人が(原文を)英訳したとされている。
 最後に、加藤哲郎に戻らなければならない。
 加藤は1990年時点でポーランドに「コラコフスキー」という名の現存?社会主義に批判的な哲学者がいることを知った筈だが、その後にL・コワコフスキに対する関心をいかほど持ち続けたかは疑わしい。
 1990年前後に欧米に滞在していたとすれば、何かのおりに、とくにポーランド関連では、Leszek Kolakowski の名を重要な人物のそれとして知ったとしても、またマルクス主義・共産主義・社会主義との関連で彼のMain Currents of Marxism という大著の存在を知ったとしても不思議ではないが、そのようなことはなかったのかもしれない。
 いったい何が日本から<マルクス主義の主要潮流>を遠ざけたのか、関心を引き続けることだ。

1974/L・コワコフスキら編著(1974年)序文①。

 L・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)が二人の編者のうちの一人となっていた書物に以下がある。当然に?、邦訳書はない(はずだ)。
 Leszek Kolakowski & Stuart Hampshire, ed, The Socialist Idea - A Reappraisal.(Basic Books, Inc. Publishers, New York, printed in Great Britain, 1974).
 L・コワコフスキ=S. Hampshire 編・社会主義思想-再評価(New York、1974)。
 L・コワコフスキが前記または序文を書いていて、それによると、じかの邦訳にはしないが、途中までの原文の内容は、ほぼつぎのとおり。
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 1973年4月にイギリスのレディング(Reading)でレディング大学等々が支援する国際的な会合・シンポジウム(meeting)が開かれ、この書物はほぼその記録だ。
 上の編者二人とあと二人(Robert Cecil とG. Weidenfeld)の四人で構成した組織委員会が最初に企画したテーマは、つぎだった。
 <社会主義思想の何が間違っているのか?
 これでは実際に社会主義が間違っていることを前提にしていると見られるので、つぎの穏やかなものに変えた。
 <社会主義思想には何か間違っているものがあるか?
 しかし、明らかな全員一致ではないとしても、この会合の出席者たちは、圧倒的につぎのように考えていた。
 今日〔当時〕の社会主義思想と社会主義運動に両方に影響を与えている深刻な危機の原因は、元々の歴史的事情のみではない。そうではなく、不明瞭で矛盾している、社会主義思想が含む原理そのものに起因している。
 この会合の目的は現存する〔当時の〕社会主義国や社会主義運動を批判することではなく、第一に、社会主義思想を成り立たせている根本的で伝統的な観念や価値をあらためて分析すること、第二に、歴史上の経験と理論上の批判の双方に照らして、社会主義思想の有効性に疑問を投げかけること、だった。
 議論がいわゆる社会主義諸国の経験を無視することができないのは明らかだが、批判するとしてもそれは、直接に政治的態度を表明するためにでは全くなく、社会主義思想それ自体の分析を助けるためだった。
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 以下は一部の紹介になる。以下の各テーマ(topics)についてかなり詳しい内容または問題意識が書かれているが、テーマ名以外は省略する。
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 最初の企画案は<中略>というもので、大きくはつぎの12点をより具体的なテーマとした。
 ①経済の自主管理の観念と社会的な生産管理。
 ②社会主義に対する現代的技術の示唆(意味)。
 ③社会主義計画と市場経済。
 ④社会主義と所有制度。
 ⑤社会主義と民族(nation)。
 ⑥社会主義と労働者階級。
 ⑦性質(quality)の意味。
 ⑧社会主義、革命および暴力(violence)。
 ⑨市民社会と政治社会の統合という理想。
 ⑩社会主義と世界観(Weltanschauung)。
 ⑪教育と「社会主義的人間」。
 ⑫社会主義と伝統という価値。
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 以下は、原文を眺めながらの秋月の文章になる。
 このような企画の(趣旨・)具体的テーマは、全てが達成されたのではなかったようだ。
 いくつかについては発表(・報告)自体が欠落し、いくつかの報告は企画の趣旨・テーマと必ずしも合致しなかった。
 (「日本」が出てくるあたりのここで止めて、次回へとつづく。)
 ***
 なお、この書物の契機となった1973年のレディング(Reading)での会合というのは、つぎの会合を指しているように思われる。
 L・コワコフスキがこの欄では「左翼の君へ」と題してかつて試訳を紹介した、かなり長い、E・トムソンに対する反論・批判の公開書簡の中で、E・トムソンが招聘状が自分には送られてこなかったと不満を述べている(とL・コワコフスキが書いている)会合。
 My Correct Views on Everything, 1974, in: Leszek Kolakovski, Is God Happy ?(2012) 。
 本欄№1526/「左翼の君へ」-レシェク・コワコフスキの手紙①(2017/05/02付)参照。

1972/L・コワコフスキ著第三巻第五章・トロツキー/第5節。

 レシェク・コワコフスキ(Leszek Kolakowski)・マルクス主義の主要潮流(原書1976年、英訳書1978年)の第三巻・崩壊。試訳のつづき。
 第三巻分冊版は注記・索引等を含めて、計548頁。合冊本は注記・索引等を含めて、計1284頁。
 今回の試訳部分は、第三巻分冊版のp.206-p.212。合冊版では、p.952-p.957。
 なお、トロツキーに関するこの章は分冊版で37頁、合冊版で29頁を占める。この著の邦訳書はない。
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 第5章・トロツキー。
 第5節・ファシズム、民主主義および戦争。
 (1)トロツキーの思考がいかに教条的で非現実的だったかは、近づく戦争に関する1930年代の論評やファシストの脅威に直面しての行動をどう奨励したかによって判断することができるかもしれない。
 (2)彼は、戦争が勃発した数日後に、こう書いた。
 「レーニンの指導のもとで労働者運動の最良の代表者たちが考え出した世界戦争に関する原理的考え方を、些かなりとも変更する理由を認めない。
 どちら側の陣営が勝利しようとも、人類(humanity)は後方に投げ棄てられるだろう。」
 (<著作集, 1939-1940年>, p.85.)
 この文章-ドイツによるポーランド侵攻とイギリス・フランスの宣戦布告のあとで、かつ9月半ばのソヴィエトによる侵略の前に書かれていた-は、ナツィ・ドイツ、ファシスト・イタリア、ポーランド、フランス、イギリスおよびアメリカ合衆国のような資本主義諸国間の戦争という主題に関する、トロツキーの見方の典型だった。
 彼は長年にわたって、疲れを知らないがごとく、つぎのように想定するのは致命的な幻想で、資本主義者の策略だ、と繰り返した。すなわち、ファシズムに対抗する「民主主義」諸国間の戦争はあり、かつあり得る、また、勝利するのがヒトラーかそれとも西側民主主義諸国の連合かは何らかの違いを生み出す、と想定することだ。なぜなら、どちらの側も工場を国有化していないのだから、と。
 交戦諸国のプロレタリアートは、ヒトラーと闘う自国の反動的政府を助けるのではなく、レーニンが第一次大戦の間に強く主張したように、自国政府に反抗しなければならない。
 「国家(national)防衛」という呼びかけは、極度に反動的で、反マルクス主義的だ。
 問題とすべきはプロレタリア革命であって、あるブルジョアジーの別のそれによる敗北ではない。
 (3)トロツキーは、<戦争と第四インターナショナル>と題する1934年7月の小冊子で、こう書いた。
 「国家防衛といういかさまは、可能ならばどこでも、民主主義の防衛という追加的いかさまで覆い隠されている。
 マルクス主義者は帝国主義時代の今でも民主主義とファシズムを区別して、つねに民主主義に対するファシズムの浸食を拒否しようとするのか? そして、プロレタリアートは戦争が起きている場合に、ファシスト政府に対抗して民主主義的政府を支持しなければならないのか?
 芳香に充ちた詭弁だ!
 我々は、プロレタリアートの組織と手段でもって、ファシズムに反対して民主主義を防衛する。
 社会民主党とは反対に、我々はこの防衛をブルジョアジー国家に委ねはしない。<中略>
 このような条件のもとでは、労働者の党が脆弱な民主主義という外殻のために「その」民族的帝国主義を支持することは、自立した政策方針を放棄して、労働者の意気を排外主義でもって喪失させることを意味する。<中略>
 革命的前衛は、自国の「民主主義」政府に反抗し、労働者階級の諸組織との統一戦線を追求するだろう。決して、敵対する国と戦争を行う自国の政府との統合ではない。」
 (<著作集, 1933-1934年>, p.306-p.307.)
 (4)トロツキーは1935年の論文で、つぎのことを強調した。
 第三インターナショナルは、社会愛国主義とばかりではなく、つねに平和主義(pacifism)と闘ってきた。つねに、軍縮、調停、国際連盟等々と闘ってきたのだ。
 しかし今では、これら全てのブルジョアジーの政策を是認している。
 <ユマニテ〔L'Humanité〕>は「フランス文明」の防衛を呼びかけることによって、プロレタリアートを裏切り、民族の立場をとり、労働者がドイツ帝国主義と闘う自国の政府を助けるように誘導する、ということを明らかにした。
 戦争は、資本主義の産物だ。そして、現在の主要な危険はナツィズムから発生している、と主張するのは馬鹿げている。
 「この途はすみやかに、ヒトラー・ドイツに対抗するフランス民主主義の理想化に到達する」(G. Breitman & B Scott 編<レオン・トロツキー著作集, 1934-1935年>(1971年), p.293.)。
 (5)トロツキーは戦争の一年前に、民主主義とファシズムは搾取のために選択可能な二つの装置にすぎない、と宣告した。-残余は全て、欺瞞なのだ。
 「実際のところ、ヒトラーに対抗する帝国主義的民主主義諸国の軍事ブロックとは何を意味するのだろうか?
 ヴェルサイユ(Versailles)の鎖の新版だ。それよりもっと重く、血にまみれ、もっと耐え難いものだ。<中略>
 チェコスロヴァキアの危機はきわめて明瞭に、ファシズムは独立した要因としては存在していないことを暴露した。
 ファシズムは帝国主義の道具の一つにすぎない。
 『民主主義』は、それがもつもう一つの道具だ。
 帝国主義は、これら二つの上に立っている。
 帝国主義はこれらを必要に応じて作動させ、たまには相互に対向的に平衡させ、たまには友好的に宥和させる。
 帝国主義と同盟関係にあるファシズムと闘うことは、ファシズムの爪や角に対抗して悪魔と同盟して闘うのと同じことだ。」
 (<著作集, 1938-1939年>, p.21.)//
 (6)要するに、民主主義対ファシズムの闘いなるものは存在しない。
 国際的条約はこの偽りの対立を考慮していない。イギリスはイタリアと協定するかもしれないし、ポーランドはドイツとそうするかもしれない。
 競い合う当事者がどの国であれ、来たる戦争は国際的なプロレタリアート革命を生み出すだろう。-これこそが、歴史の法則だ。
 人類は数カ月以上は戦争に耐えることができないだろう。
 第四インターナショナルに指導されて、民族的諸政府に対する反乱が至るところで勃発するだろう。
 いずれにせよ戦争は、民主主義の全ての痕跡を一掃し、その結果として、民主主義的価値の防衛を語ることは馬鹿げたものになる。
 パレスチナのトロツキスト・グループは、ファシズムはその当時に抵抗しなければならない主要な脅威だ、そして、ファシズムと闘っている諸国で敗北主義を説くのは間違っている、と提案した。
 トロツキーはこれに答えて、こうした態度は社会愛国主義にすぎない、と書き送った。 全ての真の革命家にとって、主要な敵はつねに自国にある、と。
 彼は、1939年7月の別の手紙で、こう宣告した。
 「ファシズムに対する勝利は重要だが、もっと重要なのは、資本主義の断末魔的苦しみだ。
 ファシズムは新しい戦争を加速させ、そして戦争は、革命運動を著しく促進させるだろう。
 戦争が起きる場合、全ての小規模の革命的中核は、きわめて短期間に決定的な歴史的要素になることが可能だし、そうなるだろう。」
 (<著作集, 1938-1939年>, p.349.)
 第四インターナショナルは、1917年にボルシェヴィキが果たしたのと同じ役割を、来たる戦争で果たすだろう。しかし今度は、資本主義の崩壊が完全で最終的なものになるだろう。
 「そのとおり。新しい世界戦争は絶対的な不可避性をもって、世界革命と資本主義体制の崩壊を惹起させるだろう」(同上、p.232.)。
 (7)戦争が実際に始まったとき、こうした問題に関するトロツキーの見解は変わらなかったばかりか、むしろ強くなった。
 彼は1940年6月に発行された第四インターナショナルの宣言文で、つぎのように語った。
 「『祖国』の防衛のために出兵している社会主義者たちは、封建体制を、自分たち自身の鎖を防衛するために結集した〔フランスの〕ヴァンデ(Vendée)の農民たちと同じ反動的な役割を演じている」(<著作集, 1939-1940年>, p.190.)。
 ファシズムに対抗する民主主義の防衛について語るのは無意味だ。ファシズムはブルジョア民主主義の産物であり、防衛されなければならないのは決して「祖国」ではなく、世界のプロレタリアートの利益なのだ。
 「しかし、戦争で最初に打ち負かされるべきであるのは、完全に腐敗している民主主義体制だ。
 それが決定的に瓦解する際には、その支えとして役立った全ての労働者組織を引き摺り込むだろう。
 改良主義的労働組合に残された余地はないだろう。
 資本主義的反動は、それら労働組合を容赦なく破壊するだろう」。
 (同上、p.213.)
 「しかし、労働者階級は現在の条件では、ドイツ・ファシズムとの闘いで民主主義諸国を助けることを余儀なくさせられるのではないか? 」
 この態様は、広汎な小ブルジョア層によって提起される疑問だ。そうした層にとってプロレタリアートはつねにあれやこれのブルジョアジー諸党派の予備的な道具にすぎない。
 我々はこうした政策を、怒りをもって拒絶しなければならない。
 当然ながら、鉄道列車の多数の車両の間に快適さに違いが存在するように、ブルジョア社会での政治体制の間には違いが存在する。
 「しかし、列車全体が奈落の底へと飛び落ちているとき、衰亡する民主主義と凶悪なファシズムの区別は、資本主義体制全体の崩壊に直面している際には消失する。<中略>
 人類の究極的な運命にとって、イギリスとフランスという帝国主義国の勝利は、ヒトラーやムッソリーニのそれと同様に不愉快なものだろう。
 ブルジョア民主主義体制が救われることはあり得ない。
 労働者は、外国のファシズムに対抗する自国のブルジョアジーを助けることによっては、自分自身の国でのファシズムの勝利を促進することができるだけだ。」
 (同上、p.221.)//
 (8)ここで再び取り上げるが、ヒトラーによる侵攻の当時のノルウェイの労働者たちに対する、トロツキーの助言がある。
 「ノルウェイの労働者は、ファシストに反対して『民主主義』陣営を支援すべきだったのか? <中略>
 これは現実には、最も未熟な失態となっただろう。<中略>
 世界的な観点から、我々は連合側陣営もドイツ陣営も支持しない。
 従って、我々には、ノルウェイ自身が一時的な手段としてどちらか一つを支持することについて、些かなりとも正当化することのできる根拠がない。」
 (<マルクス主義の防衛>, p.172.)
 (9)こうしたことからすると、ポーランド、フランスあるいはノルウェイの労働者たちがトロツキーの宣言文を読んでそれに従っていたとすれば、彼らはナツィの侵略があった際に自国の政府に対して武器を向けていただろう。ヒトラーに支配されようと自国のブルジョアジーに支配されようと、違いはなかったのだから。
 ファシズムは、ブルジョアジーの一つの装置だ。ファシズムに反対する全ての階級の共同戦線の形成を語るのは馬鹿げている。
 第一次大戦の際にレーニンは同様に、敗北主義を説いた。そのようにして、革命が勃発したのだ。
 トロツキーはつぎのごとく考えていたと見られることは、看取しておく必要がある。すなわち、彼にとって、資本主義諸国は階級利益で結ばれているがゆえに、戦争とは全ての資本主義諸国のソヴィエト同盟に対する闘いだった。
 しかしながら、ソヴィエト同盟が一つの資本主義勢力に対抗している別の資本主義勢力と同盟するとすれば、その戦争はきわめて短期間のものでのみあり得るだろう。なぜなら、1917年のロシアでのように、敗北した資本主義国家でただちにプロレタリア革命が勃発するだろうから。そして、二つの敵対する勢力はそのときには、プロレタリアートの祖国に対抗して同盟するだろう。//
 (10)かくして、トロツキーにとっては、戦争に関する一般的結論は過去の結末だった。
 資本主義は最終的に崩壊し、スターリニズムとスターリンは一掃され、世界革命が勃発し、第四インターナショナルがただちに労働者の精神に対する優越性を獲得して最終的な勝利者として出現するのだ。
 これは、トロツキーがSerge、Souvarine、Thomas の批判に答えて、つぎのように書いたとおりだ。
 「資本主義社会の全政党、その全ての道徳家と全ての追従者たちは、差し迫る大厄災の瓦礫の下で滅びていくだろう。
 ただ一つ生き残るのは、世界的社会主義革命の党だ。たとえそれが、先の大戦中にレーニンやリープクネヒト(Liebknecht)の党が存在しないように見えたのとちょうど同じく、見識のない分別主義者たちには今は存在していないように見えるかもしれないとしても。」
 (<彼らの道徳と我々の道徳>, p.47.)
 追記すれば、トロツキーは、最大限の確信をもって、多数の具体的な予言を行った。
 例えば、スイスが戦争に巻き込まれるのを避けるのは絶対に不可能だ。
 民主主義政体はどの国でも残存することができず、「鉄の法則」により必ずやファシズムへと発展するに違いない。
 かりにイタリアの民主主義が復活するとしても、続くのはせいぜい数カ月で、プロレタリア革命がそれを一掃する。
 ヒトラーの軍隊は労働者と農民で成り立っているので、それは次第に被占領諸国の人民と同盟するに違いない。なぜなら、歴史の法則が、階級による紐帯は他の何よりも強いことを教えているからだ。
 (11)トロツキーは1933年8月に、ファシストの危険性に関する一般的性質に関して、きわめて興味深い分析を提示した。
 「理論上は、ファシズムの勝利が疑いなく証明するのは、民主主義政体は疲弊し切った、ということだ。
 しかし、政治的には、ファシスト体制は民主主義に関する歪んだ見方(prejudices)を維持し、再生させ、若者たちの中にそれを注入し、短い間はそれに最強の力を授けることができすらする。
 正確に見れば、このことの中にこそ、ファシズムの反動的な歴史的役割のうちの最も重要な表現行動の一つがある。」
 (<著作集, 1932-1933年>, p.294.)
 「『ファシスト』独裁体制による隷属的支配のもとで、民主主義の幻想は弱められることはなく、却って強くなった」(同上、p.296.)。
 換言すれば、ファシズムの脅威は、民衆が民主主義を求めて長くそれに従属し、そうして、民主主義に関する歪んだ見方が駆逐されるのではなくて維持される、ということにある。
 ヒトラーは、民主主義を破壊することを困難にするがゆえにこそ、危険なのだ。//
 (12)トロツキーはその死の直前に、戦争の進展に関する自分の予言を再確認し、同時に、修辞文的に、その予言類が実現しなかった場合に何が起きるだろうかという問題を設定した。
 彼は、マルクス主義の破産(bankruptcy)を意味するだろう、とそれに対してこう回答した。
 「我々が固く信じるようにこの戦争がプロレタリア革命を惹起させるならば、それは不可避的にソヴィエト連邦の官僚制度の打倒と、1918年よりもはるかに高い経済的かつ文化的基盤にもとづくソヴィエト民主主義の再生を、到来させるに違いない。<中略>
 しかしながら、現在の戦争が革命ではなくプロレタリアートの衰退を呼び起こすならば、それとは異なる選択肢が可能性として残る。すなわち、独占資本主義のいっそうの衰亡、それの国家との融合、まだ独占資本主義が存続している全てのところで、民主主義政体が全体主義(totalitarian)体制にとって代わられること。
 プロレタリアートが社会を指導する力を自らのものにすることができないならば、こうした条件のもとで現実には、ボナパルト主義者のファシスト官僚制から、新しい搾取階級が生成する可能性がある。
 全てが指し示していることによれば、これは、文明の消滅を意味する、衰亡の体制になるだろう。
 最終的には、つぎのことが証明されるという結果をすることができるかもしれない。すなわち、先進資本主義諸国のプロレタリアートはかりに権力を獲得したとしてもそれを維持する力を持たず、ソヴィエト連邦でのように特権をもつ官僚機構にそれを譲り渡してしまう、ということ。
 我々はそのときに、つぎのことを承認せざるをえないだろう。すなわち、官僚制への逆戻りは、国の後進性に由来するのでも帝国主義諸国という外環に起因するのでもなく、プロレタリアートには支配階級になることができる力がないという、その生来の性質に根ざしている。  そしてまた、その根本的な特性において、ソヴィエト連邦は世界的規模での新しい搾取体制の先駆者だ <中略>、ということが確定するのが、遡って必然的なものになるだろう。
 しかしながら、この第二の展望がいかに煩わしいものだったとしても、かりに世界のプロレタリアートには現実には、歴史の発展方向に設定されたその使命を達成する力がないということが証明されるならば、つぎのことを認めること以外には、いっさい何も残らないないだろう。
 つまり、資本主義社会の内部的矛盾にもとづいた、社会主義者たちの根本方針(programme)は、ユートピア(夢想郷、Utopoia)として結末を迎える。」
 (<マルクス主義の防衛>, p.8-p.9.)
 (13)これは、トロツキーの著作集の中に見い出すことのできる異様な論述だ。
 彼は当然に、悲観的な第二の選択肢は非現実的なものだと自信をもって述べ、一般的な命題としではなく進行中の戦争の結果として、世界革命は不可避だと考える、と続けている。
 しかし、もう一つの仮説を心に描いたという事実だけでも、彼が別の箇所で表明する絶対的な勝利の確信を述べている上のような文章と比較するならば、一定の歴史研究者の注目を向けさせるものだと思える。
 (14)トロツキーは、資本主義は自らを改良する力をもつという考えを受け入れなかった。
 彼には、ルーズヴェルトの「ニュー・ディール」は、絶望的で反動的な試みで、失敗するように運命づけられている、と思えていた。
 彼はさらに、技術発展の最高の地点にまで達しているアメリカ合衆国はすでに共産主義への条件を成熟させている、と考えた。
 (彼は1935年3月のある論文で、アメリカが共産主義になればその生産費用を80パーセント削減するだろうとアメリカ国民に約束した。また、その死の直前に書いた「戦時中のソヴィエト連邦」で、ソ連は計画経済によってすみやかに毎年200億ドルへと国家収入を高め、全国民のための繁栄を確保するだろう、と宣言した。)
 <裏切られた革命>にこう書かれているのを、我々は読む。
 誰かが資本主義は10年または20年以上長く成長することができると想定するとすれば、その者はさらには、つぎのことを信じなければならないことになる。
 ソヴィエト同盟の社会主義には意味がない(make no sense)、そして、マルクス主義者は自分たちの歴史的運動に関する判断を誤ってきていた(misjudge)。なぜなら、ロシア革命はパリ・コミューンのような偶発的実験にすぎなかった、と位置づけられるだろうからだ。//
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 つぎの第6節の表題は、<小括(conclusions)>。

1891/白井聡「『国家と革命』解説」(2011)。

 レーニン=角田安正訳・国家と革命(講談社学術文庫、2011)。
 この文庫本版のレーニン文献に翻訳者とは別の「解説」を書いているのが白井聡で、その表題は「解説-われわれにとっての『国家と革命』」。一年以上も前に、知ってはいた。
 レーニンとロシア革命の擁護という点で、目を剥く文章が見られる。以下に抜粋的に引用する。
 自らの『未完のレーニン』(講談社選書メチエ)の議論の要約らしきものを述べた後でこのように書く。p.274-。
 ・<国家と革命>またはレーニンの言説全般にかかる「理想主義」か「現実主義」かの問いの無意味さは「現存社会主義」の崩壊によって「現実」となつたが、それは「想像力の貧困の帰結」だ。レーニンの文章の「不可解さ」は彼の罪ではなく、「われわれの想像力の貧しさ」にある。「いかにしてこのような貧困状態にわれわれが落ち込んだのか」。
 ・レーニンが描いた共産主義建設の試みは①「国家の死滅」ではない「国家の異常な肥大」や「形式的な民主主義」の無視をもたらし、②「理想社会」という「嘘と欺瞞に対する怨嗟」が広まって「帝国を崩壊」にもたらす、という「二度」の「挫折」をした。
 ・上の帰結の原因につき、①マルクス=レーニン思想に「内在する独断性」による「硬直的なほとんど教権的」体制の構築、②ロシアの特殊性、が語られる。
 ・しかし、上の①と②には「何の違いもない」。なぜなら、「ロシア革命の失敗をわれわれがその責めを負うべき失敗としてとらえるという視点を一切欠いている点」で共通しているからだ。
 ・「われわれがロシア革命の理想にほんのわずかでも共感を寄せる者であるとするならば」、ロシア革命の失敗の原因をレーニン、スターリン、マルクスのずれかに求める談義をする「潔白」な立場は、「欺瞞に満ちたものにすぎない」。
 ・こう考えるべきだ。「ロシア革命の失敗は、われわれが責めを負うべき事柄なのではないか」。あるいは、「ロシア革命の失敗が失敗であるがままでとどまっているのは、ほかでもなくわれわれのせいなのではないか」。
 ・「ボルシェヴィキ政権が」「恐ろしく強権的なもの」になったのは「事実」だが、「仮に、当時ほかの先進諸国のどこかでボルシェヴィキ革命と同程度に決然とした反資本主義の革命が一つでも起こっていたとするなら、世界は果たしてどうなっていただろうか」。それが起きていたなら、「ソヴィエト政権がかくも強硬なものとならざるを得なくなった必然性」の原因の一つが除去される。
 ・革命政権を干渉軍と「社会主義者たち」は非難した。レーニンが「ボルシェヴィキ革命を批判したカウツキーを『背教者』とまで呼んで罵倒したことは、筆者にとって完全に納得できる」。「社会主義者」にある「根本的欺瞞がレーニンをして怒髪天を衡く怒りを発せしめた」のだ。
 ・われわれがロシア革命の失敗の原因を論じるときに「カウツキーと同じ過ちを犯す危険」に近づく。つまり、「われわれはわれわれ自身の義務を果たした上で、レーニンの革命を批判しているのか?
 ・レーニンの革命の理想を「救済」できるのは後代のわれわれだけだとすれば、「国家と革命」の中の「革命を汚辱のなかに捨て置かれたままにしているのは、われわれ自身の仕業にほかならない」。
 ・日本人の大多数は戦後にロシア革命から「多大の恩恵」を受けた。資本主義体制が「階級対立の緩和、労働者階級の富裕化、富の分配の平等化、社会福祉の実現」をかなり追求した必然性の原因の一つは「巨大な社会主義陣営の存在」だった。
 ・「歴史の皮肉」は、「現存社会主義の体制を大方冷ややかに見ていた諸国の大衆こそが、社会主義革命の果実を最も豊富に享受していた」ということだ。「自由主義先進諸国の勤労者階級は、階級闘争において代行的に勝利を収めることとなった」。
 ・レーニン「国家と革命」の中の「革命」に、「われわれは非常に多くを負ってきた」。「今日のわれわれの社会が背負っている痛みは、部分的には、この多くのものが失われたことに起因する」。「われわれはこの革命を救い出さなければならない。それは、ほかならぬわれわれ自身を救済するためである」。
 以下略。上は、p.283まで。
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 上で印象的なのは、第一に、ロシアでの「十月革命」を「社会主義革命」だったと完全に信じていることだ。
 そして第二に、「社会主義(革命)」の理想を未だに抱いているごとくであり、資本主義=「悪」という立場に当然のごとく立っている。
 第三に、レーニンの描いた十月革命後の「理想」が実現されず、かつむしろ悲惨な結果をもたらしたことの大きな原因をドイツ等での「革命」が後続しなかったことに求めている。かりに-だつたら、こんなことにならなかった、と嘆いている。
 第四に、ロシア革命の失敗とその理想の追求を「われわれ」の痛みと夢として抱き続ける必要があると論じている。
 印象的な文章の例を、くどいかもしれないが、再度引用しよう。
 ①「ロシア革命の失敗をわれわれがその責めを負うべき失敗としてとらえるという視点を一切欠いている…」。
 ②「われわれがロシア革命の理想にほんのわずかでも共感を寄せる者であるとするならば」、ロシア革命の失敗の原因をあれこれの他者に求めようとする「潔白」な立場は、「欺瞞に満ちたものにすぎない」。
 ③レーニンの革命の理想を「救済」できるのはわれわれだけであって、「革命を汚辱のなかに捨て置かれたままにしているのは、われわれ自身の仕業にほかならない」。
 ④「われわれはこの革命を救い出さなければならない。それは、ほかならぬわれわれ自身を救済するためである」。
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 なぜ、このように書く人物が生じたのか。
 すでに一度この欄で言及したが、白井聡が大学院学生または20歳台のときにもっぱら又はほとんど、レーニンの文献を読んでいたことの結果だと言えるだろう。
 加藤哲郎(元一橋大学)には、このような人物が生まれたことについての「責任」はないのだろうか(同じことは、長谷川三千子-小川榮太郎についても、感じる)。
 白井聡はもともと親社会主義・共産主義的心性は抱いていたのだろうが、レーニンを読み耽ることが、上のような文章を書くことにつながったと見られる。
 白井聡にとって、レーニンとそのロシア革命は「われわれ」という名の「自分」すなわち白井聡の「一部」であり「分身」なのだ。レーニンの屈辱も夢も、白井聡の同身者のものなのだ。
 このような、レーニン研究者としてはまだ研究業績があると言えるかもしれない者が戦後日本史あるいは現代日本について語り出すといったいどうなるのか。
 真面目に読む気がしないのだが、読まなくとも、この人の心底にある「怨念」めいた信条による歴史・現実の把握が尋常なものでなくなることが、容易に判るような気がする。
 それでも、雑文執筆を依頼し、書物の刊行までしてくれるマスコミや出版社が、日本にはある。かつまた、雇用してくれる大学も、日本にはある。
 白井聡は京都精華大学の教員らしい(教授ではない)。この大学はかつて、上野千鶴子が所属していた。また、この欄でレーニン幻想をもつ「左翼」としてとり上げた、理系・建築系の田中充子も(今を確認しないが)いた。
 これらは、京都精華大学という大学にとって名誉なことだろうか。

1862/松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済-(大月書店、2009)。

 「日本共産党の大ウソ・大ペテン」の連載?にそろそろ区切りを付けて終わっておかなければならない。
 大ウソ・大ペテンとして取り上げてきたのは、大きく、つぎの二つだった。
 第一。1994年党大会の直前まで、ソ連は「社会主義」国家だった(「現存」社会主義国という言い方もあった)と党の文献上も語ってきたにもかかわらず、さらには中国共産党がソ連を「社会帝国主義」国家だとして社会主義陣営ではないと主張していたときにいや「社会主義」国家で、ソ連を含む<社会主義の復元力>を信じる、等と主張していたにもかかわらず、1991年夏にソ連共産党が消滅し、同年1991年12月にソ連が解体したことについて、1994年党大会以降は、日本共産党は、ソ連はスターリンによって社会主義への途から踏み外した(ソ連はそれ以降社会主義国ではなかった)、そうしたソ連の大国主義・覇権主義、スターリン等と日本共産党は「正しく」闘ってきた、とのうのうと主張するという、大ウソ・大ペテン。
 第二。レーニンはネップ政策導入の時期に、<市場経済を通じて社会主義へ>という「普遍的」路線を明らかなものとして確立した(それをスターリンが継承しないで転落した)、という大ウソ・大ペテン。
 この第二について、不破哲三が画期的なものとして取り上げるレーニンの論文では、上のことは全く明らかではない、読み方がおかしいのではないか、というのが秋月に最後に残されている記述だ。
 ***
 その前に、つぎの書物に言及する。日本共産党の幹部以外では、-レーニン幻想をなお抱き、レーニンとスターリンを切り離してレーニンだけは擁護しようとする論者は多いが-ネップ期における<市場経済を通じて社会主義へ>の路線確立なるものを評価し擁護しているとみられる、稀有の文献だ。
 松竹伸幸・レーニン最後の模索-社会主義と市場経済-(大月書店、2009)。
 幹部というほどではない時期のもののようだが、この人物はかつて日本共産党(中央委員会?)政策委員会の長(・責任者)だったことをのちに知った。
 この本の「あとがき」はなかなか面白いので、紹介したくなって、今回の投稿になった。一行ごとにここでは改行する。
 社会主義について種々の否定的な要素が指摘されるが、としつつ、松竹はこう記す。
 「けれども、社会主義というものは、ほんらい、ソ連や中国などとは違うのではないかという思いは、〔1970年代の半ば以降〕少なくない若者が共通して感じていた。
 マルクスやエンゲルスが語る社会主義とは、『自由の王国』であり、国家権力は『死滅する』過程にあり、そこでは人びとはそれなりに充足し、余暇を楽しんでいるはずだったのだから」。//
 レーニンについても「行き過ぎや誤りはあっただろうが、社会主義らしさを感じさせる成果を挙げたことは、率直に評価すべきだと感じてきた」。
 例えば、第一次大戦からの離脱、周辺諸国の領土返還、労働時間等の規制。
 「だから、いつか社会主義が輝きを取り戻す時代が来るのではないか、いやそうしなければならないと、私は心から思ってきたのである。それはいまも変わらない」。
 「それまで社会主義の立場にたっていた研究者の動向」は残念だ。
 「いまこそ、研究者は、社会主義の可能性を大胆に提示すべき時ではないのだろうか」。
 この本では「素人なりに取り組んだ」。/「社会主義の再生を心から願う」。
 以上、紹介・要約。
 2009年に、1955年生まれの54歳になる人物が、このようなことを書いていた。
 なかなか興味深く、面白いだろう。
 いったん社会主義(・共産主義)の虜になった、または<囚われてしまった>者の発想というのは、社会主義(・共産主義)をめぐる現実も理論動向も、もはや冷静には見ることができなくなるのだろう。
 何と言っても、「マルクスやエンゲルスが語る社会主義とは、『自由の王国』であり、国家権力は『死滅する』過程にあり、…そこでは人びとはそれなりに充足し、……はずだったのだから」とか、「社会主義というものは、ほんらい、…」とかのように、「はずだ」、「ほんらいは」とかを持ち出すと何とでも言えるだろう。
 「本来」、こうなる「はずだ」というのは、いったいどういう意識なのだろうか。何ゆえにそんな規範論あるいは理念論が「現実に」なるという信念を持ち得るのだろうか、不思議だ。社会主義(・共産主義)というユートピアの到来を信じる強い「思い込み」があるのだろう。
 松竹伸幸、現在は、かもがわ書房の編集責任らしい。「文学部」出身ではなかった。

1860/笹倉秀夫・法思想史講義(下)(2007)②。

 笹倉秀夫・法思想史講義(下)(東京大学出版会、2007)
 この本の、14のマルクスの部分、15のマルクス・レーニン・スターリンの部分をしっかりと読んで、この人物の基本的な情念・前提命題と「論理」らしきものを分析してみたい。
 前提として、上に関する部分の注記に文献名が挙げられているので、以下にそのままその文献名だけを列挙する。
 執筆時に参照したのだろうから、この人物にはすでにこれら以外の諸文献を通じた「知識」や「感情」があるに違いないが、それでも「頭の中」をある程度は覗くことができるだろう。
 注記は元来は連番なので、ここでは14の(222)を(01)とし、15の(239)をあらためて(01)として紹介する。頁数や叙述内容は記載しない。前掲書と同じ趣旨の記載の場合も、あらためて同一文献名を記した。
 ***
 14注
 (01) 藤田勇「社会の発展法則と法」渡辺洋三ほか・現代法の学び方(岩波新書、1969)。林直道・史的唯物論と経済学/下(大月書店、1971)。
 (02)マルクス・経済学批判-マルクス・エンゲルス全集37巻(大月書店)。
 15注
 (01) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (02) レーニン・国家と革命(大月書店、国民文庫)。
 (03) マルクス・ゴータ綱領批判-マルクス・エンゲルス全集19巻(大月書店)。
 (04) 不破哲三・マルクスの未来社会論(新日本出版社、2004)。
 (05) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (06) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (07) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (08) 渓内謙・現代社会主義の省察(岩波書店、1978)。
 (09) 大江泰一郎・ロシア・社会主義・法文化(日本評論社、1992)。鳥山成人・ロシア・東欧の国家と社会(恒文堂、1985)。浅野明「君主と貴族と社会統合」小倉欣一編・近世ヨーロッパの東と西(山川出版社、2004)。
 (10) 渓内謙・現代社会主義を考える(岩波新書、1988)。
 (11) 丸山真男・現代政治の思想と行動(未来社、1964)。
 (12) 山口定・ファシズム(岩波現代文庫、2006)。
 以上。
 不破哲三はご存知、日本共産党の幹部(元最高指導者)、藤田勇・渡辺洋三は、前回に言及した二つの講座もの全集(日本評論社刊行)の編者、林直道はマルクス主義経済学者で日本共産党員と推察される人物(元大阪市立大学)、渓内謙は今日でも基本的な<レーニン幻想>を崩していない人物(元東京大学)。
 これらの諸文献も秋月も参照しながら、「読解」してみる。結論はすでに出ているし、この人物の主観的な「願望」が空想的社会主義のレベルまで戻るようなものであることも分かる。歴史的(史的)唯物論なるものを「観念的」・「主意的」に理解した、結局は政治・世俗優先の<日本の戦後教育の優等生>の一人が行った「作業」であることが判るだろう。
 ***
 なお、藤田勇(1925-)に、上と同年刊行の、つぎの著がある。第3段階とは1960年代~1990年前後を言うとされる。
 藤田勇・自由・民主主義と社会主義1917-1991-社会主義史の第2段階とその第3段階への移行(桜井書店、2007年10月)。
 ネップ期に関する叙述もあるが、日本の「共産主義政党」の基調の範囲内で行ってきた「自由」な研究の末路を見る想いもする。

1848/L・コワコフスキ・第一巻「序説」の試訳②。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流。
 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 前回とほぼ同様に、英語版から始めてドイツ語版に最終的には依った。段落の区切りも後者がやはり一つ多いが、段落数字も後者の区切りによる。
 (注1) はドイツ語版にのみある。そこでのThomas Mann の原文引用部分は、以下では割愛した。
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 第一巻/創設者たち(英/The Foundaders)・生成(独/Entstehung)。
 序説(Introduction/英語版1-7頁、Einleitung/ドイツ語版15-21頁)
 (7) 我々がイデーの歴史研究者としてイデオロギーの外側に立つとしても、そのことは、我々がその中で生きる文化の外側にいることを意味しない。
 全く逆だ。すなわち、諸イデーの歴史、とくに影響力がありかつ最も影響力をもち続けているイデーの歴史は、一定の程度で、自分たち自身の文化を自己批判する試みだ。
 私はこの書物で、Thomas Mannがナツィズムとドイツ文化との関係に向かいあって<ファウスト博士>で採用した立脚点から、マルクス主義を研究することを提案する。
 Thomas Mann は、ナツィズムはドイツ文化とは全く関係がない、そしてナツィズムはドイツ文化を恥知らずに否定して戯画化したものだ、と述べることができただろうし、そう述べる正当な資格ももっていただろう。
 彼はそう語ってよかった。だが実際には、彼はそう語らなかった。
 Thomas Mann はその代わりに、いかにしてヒトラーの運動やナツィのイデオロギーのような現象がドイツで発生したのか、そしてドイツ文化のうちの何がそれを可能にしたのか、という問題を設定した。
 彼は、こう書いた。ドイツ人は誰でも驚愕しつつ、ナツィズムの残忍さのうちに、最良の(これが重要な点だが、最良の)代表者たちが感知することのできた、グロテスクに歪曲された文化の特質を再認識するだろう、と (注1)。
 彼はまた、ナツィズムの精神的な起源に関する問題を簡単に回避してしまうことに反対し、ナツィズムはドイツ文化が生んだ何かに正当性を求める資格がない、とする説明に満足しなかった。
 Thomas Mann は、彼自身がその一部であり共作者である文化を、率直に自己批判した。
 実際に、ナツィ・イデオロギーはNietzsche を「戯画化したもの」だとする定式を語るだけでは十分ではない。戯画(caricature)の本質は、我々が原物を理解するのを助けることにあるのだから。
 ナツィスは彼らの超人たちに、<権力への意思>を読むように命じた。そして、彼らはこの本の代わりに<実践的理性批判>をも推薦することができたかのごとく、そのことは有らずもがなの偶然だった、とは言い難い。
 自明のことだが、ここで問題になっているのは、Nietzscheの「罪責(Schuld, guilt)」ではない。彼の書物が利用されたことについて個人として責任があるか否か、という問題ではない。
 だが、それでもなお、彼の著作が利用されたことは、不穏な気持ちの理由になければならならず、Nietzsche のテキストを理解するに際して、些末な偶然だとして単純に無視してしまうことはできない。
 聖パウロは個人的には、15世紀末のローマ教会や異端審問(Inquisition)について、責任はなかった。
 しかし、キリスト教徒も非キリスト教徒も、下劣な法王や司教たちの行為によってキリスト教が堕落して歪められた、という申述に満足することはできなかった。
 審問者はむしろ、犯罪や悪行だとする根拠として役立ったものを聖パウロの書簡は一切何も含んでいなかったのか否か、そして個々に見てそれはいったい何だったのか、を問うべきだっただろう。
 マルクスとマルクス主義の問題に対する我々の態度は、これと同じでなければならない。そして、この意味で、この著作での叙述は、たんに歴史的な記述をするものだけではなく、プロメテウス的人間中心主義(Humanismus, humanism)で始まり、スターリン専制の奇怪さで最高潮に達した、一つのイデーの稀有の歴史に関する省察を試みることでもある。
 -<原著、一行あけ>-
 (8) マルクス主義の年代記的叙述は、とりわけ次の理由によって錯綜している。すなわち、今日では最も重要だと考えられているマルクスの多数の文献は今世紀の20年代又は30年代またはその後でようやく印刷され、出版された。
 (例えば、<ドイツ・イデオロギー>、学位論文の<デモクリタンとエピキュリタンの自然哲学の違い>の全文、<ヘーゲル法哲学批判>、<1844年の経済哲学草稿>、<政治哲学批判綱要>。加えて、エンゲルスの<自然弁証法>も入る。)
 これらのテキストはまた、それらが執筆された時代には影響を与えることがなかった。しかし今日では、マルクス自身の精神的伝記の記述に寄与しているだけではない。それらは歴史的意味があるのみならず、それらのテキストなくしては理解することのできない教理の本質的な構成要素だという観点から、重要なものとして分析されている。
 とりわけ<資本論>に示されているマルクスのいわゆる成熟した思考は、内容的に見て、彼の青年時代の哲学的散策が自然に進展したものだったのか否か、およびどの程度にそうだったのかは、長らく議論され続けている。
 あるいはまた、若干の批判的解釈者が考えているように、それらは精神的な激変の結果であるのか否か、よってさらに、マルクスは1850年代や60年代に、主としてはヘーゲル主義と若きヘーゲル哲学に影響を受けた従前の思考や考究の様式を放棄したのか否か。
 ある者は、<資本論>の社会哲学は初期の著作物でいわば予め塑形されており、それらを発展させたもの又は詳論したものだ、とする。
 別の者は反対の見解で、資本主義社会の分析はマルクスの初期段階の夢想家的かつ規範的な修辞技法(レトリック)からの離脱を意味する、と主張する。
 これら二つの対立する見方は、マルクスの思想全体に関する異なる解釈と相互に関連している。
 (9) 私はこの著作で、哲学的人類学は年代学的にのみならず、論理的にも、マルクス主義の出発点だ、ということを前提とする。
 同時に、マルクスの哲学的思考から哲学の内容を独自の領域として切り分けるのはほとんど不可能だ、ということも意識しておかなければならない。。
 マルクスは学術分野での著作者ではなく、ルネサンスの言葉の意味での人間中心主義者だった。そして、彼の思考は人間がかかわる事象の全体を包括するものだった。このことは、社会の自由化という彼の展望が、人間が苦闘している重要な諸問題の総体に対する相関関係の中にある、ということと同様だった。
 (10) マルクス主義を三つの思考領域に分けるのが慣例になってきている。-哲学的人類学という基礎、社会主義の教理、および経済分析だ。
 そして、これらに対応させて、マルクスの教理が由来する三つの主要な源泉が注目されている。すなわち、ドイツ哲学(弁証法)、フランス社会主義思想、イギリス政治経済学。
 しかしながら、マルクス主義をこのように重要な構成部分へと画然と区別するのはマルクス自身の意図には反している、という強い主張も、広がってきている。マルクスの意図とは、人間の行動様式とその歴史に関して包括的な解釈を提示し、かつ、全体との関係でのみ個別の諸問題が意味をもち得る、そのような人間に関する包括的な理論を再構築しようとする、というものだ。
 マルクス主義の全ての構成要素の相互関連性やその内的な論理一貫性の態様をより詳しく性格づけるのは、ただ一つの文章で解答できるような容易な問題ではない。
 しかし、あたかも歴史過程の諸性質を把握しようとマルクスは実際に努めたかのように見える。その性質に関係して、認識論および経済の諸問題も、また最後に社会的理想も、初めて共通する意義をもち得る。
 すなわち、マルクスは、人間の全現象を理解可能なものするために十分に高い程度の一般性をもつ思考上の手段または認識の諸範疇を創出しようと考究した。高い程度の一般性をもつために、人間世界の全ての現象は、その助けを借りて理解できるものになる、そのようなものとして。
 これらの範疇とマルクスの思考の叙述とを彼の範疇構造に従って再構成し、マルクスの思想をそれらに合致させて提示しようと試みるのは、しかし、思想家自身の発展を無視する、という効果をもち得るだろう。そしてさらに、彼のテキストの全体が同質の、一度だけ組み立てられたブロックとして扱われてしまう危険を胚胎している。
 したがって、マルクス主義思考の展開の主要な軸を追求し、そのあとで、どのような主題が黙示的にであれこの発展の中で残存しているかという疑問を設定するのが望ましいように思われる。
 (11) この著作でのマルクス主義の歴史に関する概観では、マルクスの自立した思考の最初から考察の中心的な位置をずっとつねに占めてきたと思われる諸問題に焦点を当てことにする。
 すなわち、夢想郷論(utopianism)と歴史的運命論のディレンマを、いかにすれば回避することができるのか?
 換言すれば、想起された観念を恣意的に宣告するのでも、人間がかかわる物事が、全員が関与しているが誰も統御できない特徴なき歴史過程に従属しているという前提を諦念にみちて受容するのでもない観点を、いかにすれば明瞭にし、防衛することができるのか?
 マルクスのいわゆる歴史的決定論に関してマルクス主義者によって表明された驚くべき多様性は、20世紀のマルクス主義の動向を精確に提示し、図式化することを可能にする一つの要因だ。
 人間の意識と意思がもつ歴史過程での位置に関する問題に対する答え方は、社会主義諸観念が本来的にもつ、かつ革命と危機の理論と直接に連結する意味を少なからず明確にしている、ということも明らかだ。
 (12) しかしながら、マルクスの思考の出発空間を規定したのは、ヘーゲルから相続した資産の中に見出される哲学上の諸問題だった。
 そして、そのヘーゲルの遺産の解体は、マルクスの思考を叙述するいかなる試みも必ずそれから始めなければならない、当然の出発地点になっている。
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 (注1) vgl. Thomas Mann, "Doktor Faustus", in: Gesamte Werke, 6. Bd., Berlin-Ost 1956, S.652.
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 以上。

1843/L・コワコフスキ・1978年第三巻の「エピローグ」②。

 レシェク・コワコフスキがのちの『マルクス主義の主要潮流』を執筆し始めたのは彼が41歳のときだとされ、ポーランド語版と英独語版のPreface が同じ時期に書かれているとすると、その1976-78年は、彼が49-51歳のときだった。
 そのPreface (緒言、はしがき)は大著を公刊・公表するに際しての緊張に打ち震えているうな印象もあり、(自信があるためもか)細かな釈明的な言辞をあらかじめ記している。2004年にそれがどうなったかは別として、彼が50-51歳である1977-78年頃に執筆されたと見られるEpilogue (エピローグ、あとがき)は、全三巻の執筆を終えてすでに印刷にかかっている時期で一定の安堵感があるためなのかどうか、緒言(はしがき)に比べると、L・コワコフスキの「本音」的部分がかなり明らかにされているように感じる。
 むろん、学術研究的文章ではないので、正確で厳密な意味は把握し難い。やや感情的に、簡潔に言いたいことを書いておこうとしたような印象がないでもない。
 それでもしかし、この人物の<基本的な>姿勢を感じ取ることはかなりできそうに思える。
 それにしても、以下の文章は1978年頃のもので、今は2018年。40年が経過している。
 この40年間、私の知る限りでは、以下の文章の邦訳はなく、上の書物全体の翻訳書も日本では刊行されなかった(但し、英文等で読んだ「知識人」・「専門研究者」はきっといただろう)。
 この日本の40年間の「現実」は、もはや変えることができない。
 以下、試訳のつづき。原文にはない段落ごとの番号を付している。
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 エピローグ(あとがき、Epilogue)②。第三巻523-530頁のうちの527頁以下。
 (7) マルクスはさらに、そのロマン派的夢想を、全ての必要は地上の楽園で完全に充たされるという社会主義の予想と結びつけた。
 初期の社会主義者たちは、「各人にその必要に応じて」というスローガンを限られた意味で理解したように見える。人々は寒さや飢えで苦しんではならず、あるいは極貧の中で空腹で生活してはならない。
 しかしながら、マルクスおよび彼に倣ったマルクス主義者は、社会主義のもとでは全ての欠乏が存在しなくなると想定した。
 全ての人間は、魔法の指輪か従順な精霊をもつかのごとく、全ての欲求を充たすことができる。このようにきわめて楽観的に考えて、希望を思い抱くのは可能だった。
 しかし、これを真面目に受け取ることはほとんどできないため、問題を熟考したマルクス主義者たちは、相当程度はマルクスの著作に支えられて、共産主義は、人間の本性と合致する、気まぐれや願望では全くない「本当の」または「真正の」必要を充足させるのだと決着させた。
 しかしながら、これは誰も明確には回答できない問題を生じさせた。すなわち、いかなる必要が「真正」なのかを誰が決定するのか、いかなる規準によってそれを決定するのか?
誰もが自分でこれを判断するのならば、実際に主観的に感じている全ての必要は平等に正しく供給され、区別をつける余地はない。
 一方、決定するのが国家であれば、歴史上最大の解放事業は全世界的な配給(rationing)制度であることになる。
 (8) 一握りの新左翼(New Left)の未熟者以外の全ての者にとって、今日ではつぎのことが明白だ。すなわち、社会主義は文字通りには「全ての必要を充足する」ことができず、不十分な資源の公正(just)な配分を企図することができるにすぎない。-このことが我々に残す問題は、「公正」の意味を明瞭にし、いかなる社会的機構によって、個々の各事案についてその企図を実現すべきかを決定することだ。
 完全な平等という観念、換言すると全員に対する全ての物資の平等な分配は、経済的に実施不可能であるばかりか、それ自体が矛盾している。なぜならば、完全な平等は極度の専制システムのもとでのみ想定することができるものだが、専制それ自体が、少なくとも権力への関与や情報の入手のような根本的利益に関する不平等を前提にしているからだ。
 (同じ理由で、現在の<左翼(gauchistes)>が平等の増大と政府の縮小を要求するのは支持できない立場だ。現実の生活では、大きな平等は大きな政府を意味し、絶対的な平等は絶対的な政府を意味する。)
 (9) かりに社会主義が全体主義的牢獄ではない何かだとすれば、相互に制限し合う多様な価値を妥協させるシステムでのみありうる。
 全てを包括する経済計画は、達成するのが可能だとしてすら-不可能だとするほとんど一般的な合意があるが-、小生産者や地域単位の自治(autonomy)とは両立し難い。そして、この自治は、マルクス主義的社会主義のそれでなくとも、社会主義の伝統的な価値だ。
 全ての者の生活条件を完全に確保することと技術の進歩は、共存できない。
 自由と平等の間に、計画と自治の間に、経済民主主義と効率的経営の間に、不可避的に矛盾が発生する。そして、妥協と部分的解決によってのみこうした矛盾を解消することができる。
 (10) 産業発展諸国では、不平等を除去し最小限の安全を確保するための社会制度(累進課税、医療サービス、失業対策、価格統制等々)は全て、巨大に膨張する国家官僚機構という対価を払って作り出され、拡張されている。いかにすればこの対価の支払いを避けることができるのか、誰も提案できない。
 (11) このような諸問題は、マルクス主義とほとんど関係がない。かつまた、マルクス主義の教理は実際上、これらを解決するには何の助けにもならない。
 歴史の到達点での黙示録的(最終予言的)信念、社会主義の不可避性、および「社会構成」の自然の順序。「プロレタリアートの独裁」、暴力の称揚、国有化産業がもつ自動的な効率性への信仰、対立なき社会と金銭なき経済に関する幻想。-これら全てが、民主主義的社会主義の観念と共通するところが何もない。
 民主主義的社会主義の目的は、生産が利潤に従属するのを徐々に減少させ、貧困をなくし、不平等を廃絶し、教育を受ける機会への社会的障害を除去し、国家官僚機構による民主主義的自由に対する脅威と全体主義への誘惑を最小限にする、こうした諸制度を創出することだ。
 これらの尽力と試みは全て、自由という価値に深く根ざしていないかぎり失敗するよう運命づけられている。マルクス主義はこの自由を、「消極的」自由、社会が個人に許容する決定領域だと非難した。
 この非難は当たらない。自由とはそれ自体以外に正当化を必要としない本質的価値だからだ。また、自由なくしては社会は自らを改良することができないからだ。
 この自己を規整するメカニズムを欠く専制体制は、過誤によって災厄が発生したときにだけその過誤を修正することができる。
 (12) マルクス主義はこの数十年間、全体主義的政治運動のイデオロギー的上部構造としては凍結し、機能しなくなった。その結果として、知的発展と社会的現実から乖離してしまった。
 再生してもう一度実りを生むという希望は、すぐに幻想(illusion)だと判明した。
 説明の「システム」としては、マルクス主義は死んでいる。また、現代生活を解釈し、未来を予見し、あるいは理想郷(ユートピア)の企図を培養すべく有効に使うことのできるいかなる「方法」も、マルクス主義は提示していない。
 現在のマルクス主義文献は、量的には多いけれども、純粋に歴史に関係していないかぎりでも、無味乾燥さと見込みなさの、気の滅入るような雰囲気をもつ。
 (13) 政治的動員装置としてのマルクス主義の有効性は、全く別の問題だ。
 論述したように、マルクス主義の言葉遣いは、きわめて多彩な政治的利益を支えるために用いられている。
 マルクス主義が現存体制によって公式に正当化されているヨーロッパの共産主義諸国では、マルクス主義は全ての確信を失っている。一方、中国では、見分けがつかないほどに醜悪化した。
 共産主義が権力を握っている国ではどこでも、支配階級はマルクス主義を、ナショナリズム、人種主義あるいは帝国主義が本当の源であるイデオロギーへと変形している。
 共産主義は、マルクス主義を用いることで権力を掌握しそれを維持するために、ナショナリズム・イデオロギーを強化すべく多くのことをした。そのようにして、共産主義は自らの墓穴を掘っている。
 ナショナリズムは、憎悪(hate)、嫉妬および権力への渇望のイデオロギーとしてのみ生きている。ナショナリズムはそのようなものとして共産主義世界での破壊的な要素だ。そして、共産主義世界の首尾一貫性は、実力(force)にもとづく。
 世界全体が共産主義国であれば、単一の帝国主義によって支配されるか、異なる諸国の「マルクス主義者」たる支配者間での際限のない戦争の連続だろう。
 (14) 我々は、その結合した効果を予見することのできない、重大で複雑な知的かつ道徳的な過程の目撃者であり、関与者だ。
 一方で、19世紀の人間中心主義(humanism)の多数の楽観的想定は瓦解し、文化の多くの分野には破綻の感覚がある。
 他方で、情報のこれまでにない早さと拡散のおかげで、世界じゅうの人間の諸願望はそれらを充足する手段よりも早く増大している。
 こうして急速に、欲求不満とその結果としての攻撃的心理が大きくなっている。 
共産主義者たちは、このような心理状態を利用する、攻撃感情を状況に応じて多様な方向へと流し込む、目的に適合したマルクス主義の用語法の断片を用いる、こうした技巧に長けていることを示してきた。
 メシア的希望を生じさせた対応物は、絶望と自分の過ちを見た人類を途方に暮れさせている無力の感覚だ。
 全ての問題と災難について既成のかつ即時の回答があり、それを適用する際には敵の悪意だけが立ちはだかっている、という楽観的信念は、マルクス主義という名前ののもとで移ろいゆくイデオロギー・システムに頻繁にみられる構成要素だった。-マルクス主義は一つの状況から別の状況へと内容を変化させ、別のイデオロギー上の伝統と混じっている雑種のもの(cross-bred)だ、と言うことができる。
 現在ではマルクス主義は世界を解釈しないし、世界を変化させることもない。多様な利益を組織するのに役立つ、たんなるスローガンの目録(repertoire)だ。それらのほとんどは、マルクス主義の元来の姿だったものから完全に遠ざかっている。
 第一インターナショナルの崩壊ののち一世紀、世界じゅうの抑圧された人間性の利益を守ることのできる新しいインターナショナルの見込みは、かつて以上に、ほとんどありそうもない。
 (15) マルクス主義が哲学的表現を与えた人類の自己神格化は、個人であれ集団であれ、そのような全ての試みと同じようにして終焉した。それは、人間の隷従という茶番劇の実体を露わにしたのだ。
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 以上。

1842/L・コワコフスキ・1978年第三巻の「エピローグ」①。

 レシェク・コワコフスキの2004年の三巻合冊本は約1300頁余。1978年の英語版は、のちに出版されたPaperback版によっても、注記・文献指示を含めて第一巻434頁、第二巻542頁、第三巻548頁で、総計計1524頁になる。
 1978年の英語版第三巻には最後に<エピローグ(Epilogue)>(あとがき)が書かれている。第三巻に関する文献と後注の前にあるが三巻全体の「あとがき」または「エピローグ」と理解してよいだろう。
 以下、試訳を紹介する。原文にはない、段落の最初の番号((1)~)を付す。
 L・コワコフスキのレーニン等に関する個別の論述に関心をもって試訳してきたが、この Epilogue によって、L・コワコフスキのマルクスないし「マルクス主義」、「社会主義」、「共産主義」等の基礎概念の使い方がある程度は明瞭になる。また、この欄で(9/03に)私が用いた「レーニン・スターリン主義」という語をすでに彼はここで用いている
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 エピローグ(Epilogue)。 第三巻523頁~。
 (1) マルクス主義は、我々の世紀の最大の幻想(fantasy)だった。
 マルクス主義は、全ての人間的希望が実現され、全ての価値が調整される、完璧な共同性(unity)をもつ社会への展望を提示する夢想だった。
 マルクス主義がヘーゲルの「進歩の矛盾」理論とともに継承したのは、歴史の進展は「最終的には」必然的に良い方向へと動き、自然に対する人間の要求の増大は幕間のあとでは自由の増大と合致する、というリベラルな進化主義だった。
 マルクス主義が多くを負うのは、メシア的幻想を特殊で純粋な社会理論、貧困と搾取に対するヨーロッパ労働者階級の闘争と結合するのに成功したことだ。
 この結合は、馬鹿げた(プルードンに由来する)「科学的社会主義」という名前をもつ体系的な教理として表現された。-目的を達成する手段は科学的かもしれないが、目的それ自体の選択はそうではないがゆえに、馬鹿げていた。
 しかしながら、この名称は、マルクスが彼の世代の者たちと共有した、科学への信仰(cult of science)をたんに反映しているのではない。
 「科学的社会主義」という名称は、この著作で一度ならず批判的に論述したが、人間の認識と実践は意思に導かれて必ずや究極的には合致し、完璧に統一して分かち難いものになる、という信念を表現した。その結果として、目的の選択はじつに、それを達成する認識上および実践上の手段と同一のものになる。
 認識と実践の混同から当然に帰結するのは、特定の社会運動の成功はそれが科学的に「正しい(true)」ことの証拠だ、あるいは要するに、強者となった者は全て「科学」的であるに違いない、という観念(idea)だった。
 このような観念は、共産主義イデオロギーという特殊な装いをまとうマルクス主義の、全ての反科学的で反知性的な特質の大きな原因だ。
 (2) マルクス主義は幻想(fantasy)だというのは、それ以外の何かではない、ということを意味してはいない。
 過去の歴史解釈としてのマルクス主義は、政治イデオロギーとしてのマルクス主義と明瞭に区別されなければならない。
 理性的な人々は、史的唯物論の教理は我々の知的装備に価値ある有意義なものを追加し、過去に関する我々の理解を豊かにした、ということを否定しないだろう。
 たしかに、厳格な意味では史的唯物論の教理は馬鹿げているが、大雑把な意味では常識的なことだ、とこの著作で論述してきた。
 しかし、それが常識になったとすれば、マルクスの独創性のおかげだ。
 さらに加えて、かりにマルクス主義が経済学や過去の時代の文明に関するより十分な理解を与えたとすれば、そのことに関係があるのは疑いなく、マルクスが当時にその理論を極端に、教義的(dogmatic)にかつ受容し難いやり方で明瞭に述べた、ということだ。
 かりにマルクスの諸見解に、合理的な思索には通常のことである多数の限定や留保が付いていたとすれば、彼の諸見解はさほどの影響力をもたず、全く注目されないままだったかもしれない。
 だが実際には、人文社会上の理論にしばしば生じるように、馬鹿らしさという要因こそが、マルクスの諸見解がもつ合理的内容を伝えるには効果的だった。
こうした観点からすると、マルクス主義の役割は精神分析学または社会科学での行動主義に喩えられるかもしれない。
 Freud やWatson は、それらの諸理論を極端なかたちで表現することで、現実の諸問題に一般の注目を惹きつけ、学問研究の有意義な分野を切り拓くことに成功した。かりに彼らが慎重に留保を付けて諸見解を論述し、そのことで明確な輪郭と論駁力を失わせていれば、おそらく成功できなかっただろう。
 文明研究に関する社会学的接近方法は、マルクス以前にVico、HerderやMontesquieu のような学者によって、あるいはマルクスと同時代の、だがマルクスから自立していたMichelet、RenanやTaine のような学者によって深められていた。しかし、これらの学者は誰も、マルクス主義の力強さの構成要素である極端な一面的かつ教義的な方法では、その諸見解を表現しなかった。
 (3) 結果として、マルクスの知的遺産は、Freud のそれと同じ運命のごときものを経験した。
 正統派の信者たちはまだ存在するが、文化的勢力としては無視してよいほどのものだ。一方では、マルクス主義の人文社会学上の知識とくに歴史科学に対する貢献は、一般的でかつ基礎的な主題になってきており、全てを説明すると主張する「システム」とは連関関係がもはやない。
 今では誰も、例えば文学の歴史を研究したり、所与の時代の社会対立に光をあてて描写したりするために、マルクス主義者だと自分をみなす必要はなく、そうみなされる必要もない。そしてまた、人間の歴史全体が階級闘争の歴史だと考えることなく、あるいは、「上部構造」は「土台」から発生する等々のゆえに、「真の」歴史は技術と「生産関係」の歴史であるがゆえに文明の異なる段階にはそれ自体の歴史はない、と考えることなく、研究をすることができる。
 (4) 一定の範囲内で史的唯物論の有効性を認めることは、マルクス主義の真実性(the truth)を承認することと同義ではない。
 その理由はなかんずく、歴史発展の意味は過去を未来の光に照らして解釈してのみ把握することができる、というのが、マルクス主義の最初からの根本的な教理だからだ。
 換言すれば、将来のことに関する何らかの認識を得てのみ、過去と現在を理解することができる、という教理だ。
ほとんど議論の余地はないことだが、マルクス主義は、未来に関する「科学的認識」をもつというその主張がなければ、マルクス主義ではないだろう。そして問題は、そのような認識がどの程度に可能なのか、だ。
 もちろん、予見は多くの学問の構成要素であるばかりではなく、最も瑣末な行動についてすら、予見はその不可分の側面だ。全ての予見には不確実さという要素があるので、我々は過去と同じ方法では未来を「知る」ことはできないけれども。
 「未来」とは、つぎの瞬間に生起することか、100万年のうちに生起するだろうことかのいずれかだ。もちろん、隔たりや問題の複雑さに応じて予見することの困難性は増す。 我々が知るように、社会問題については、短期間に関することですら、また人口動態予測のように単一の定量化できる要素についてすら、予見はとくに当てにならない。
 一般的には、我々は現存する傾向から推定することで未来を予見し、一方ではそのような推定はつねにどこでもきわめて限られた価値しか持たないこと、いかなる分野の探求での発展曲線であっても同じ方程式と曖昧にしか合致しないで伸張すること、を悟っている。 世界規模の、かつ時間の限定のない予知は、もはや幻想であるしかない。提示する展望が善であれ悪であれ。
 長期間にわたる「人間社会の未来」を予見する、あるいは来るべき時代の「社会構成」の性質を予言する、合理的方法などは存在しない。
 このような予見を「科学的に」することができるという観念(idea)は、そしてそうしなければ過去を理解することすらできないという観念は、マルクス主義の「社会構成」理論に固有のものだ。
 これは、その理論が幻想であり、そして政治的には効果的であることの一つの理由だ。
 その科学的性格の結果または証拠であることとは遠くかけ離れたマルクス主義が獲得した影響は、ほとんど全体がその予見的、幻想的かつ非合理的な要素によっている。
 マルクス主義は、普遍的な充足のある理想郷はいままさに近づいてきているということを盲信する教理だ。
 マルクスと彼の支持者たちの全ての予見は、すでに虚偽であることが判った。しかし、このことは、信者たちの霊魂的な確信を掻き乱しはしない。それは、千年王国宗派(chiliastic sect)の場合以上のものだ。なぜなら、いかなる経験上の前提または想定される「歴史法則」にもとづいておらず、確信を求める心理上の必要にたんにもとづいているからだ。
 この意味で、マルクス主義は宗教の機能を果たし、その効用は宗教的な性格をもつ。
 しかし、マルクス主義は滑稽画であり、ニセの形態の宗教だ。宗教上の神話ならば主張することがない、科学的システムとしての一時的な終末論(eschatology)を提示しているのだから。
 (5) マルクス主義とそれを具現化した共産主義、すなわちレーニン・スターリン主義のイデオロギーと実践、の間の連続性について、論述した。
 マルクス主義は今日の共産主義のいわば有効な根本教条だったと主張するのは、馬鹿げているだろう。
他方で、共産主義はマルクス主義がたんに「退化(degeneration)」したものではなく、マルクス主義のありうる一つの解釈であり、ある面では幼稚で偏ってはいるが、根拠が十分にあるものだ。
 マルクス主義は、論理的理由ではなく経験的理由で両立し難いことが判る、その結果として他者を犠牲にしてのみ実現され得る、そのような諸々の価値を結合したものだった。 しかし、共産主義という観念全体は単一の定式で要約することができると宣言したのは、マルクスだった。-すなわち、私有財産の廃棄、未来の国家は中央による生産手段の管理を採用しなければならない。そして、資本の廃棄は賃労働の廃止を意味した。
ブルジョアジーの収奪および工業と農業の国営化は人類の全般的な解放をもたらすということをこのことから帰結させるのは、目に余るほど非論理的だ。
 生産手段を国有化して、その基礎の上に怪物的な虚偽、収奪および抑圧の宮殿を建することが可能だ、ということがやがて判明した。
 このことは、それ自体はマルクス主義の論理的帰結ではなかった。むしろ、共産主義は社会主義思想の粗悪な範型(version)であり、共産主義の起源は、マルクス主義がその一つである多くの歴史的事情と偶然によっている。
 しかし、マルクス主義は何らかの本質的な意味で「歪曲(falsify)」された 、と言うことはできない。
 「それはマルクスは意図しなかった」とは知的にも実践的にも実りのない言辞だということを示す論拠は、今日では加わった。
 マルクスの意図は、マルクス主義の歴史的評価における決定的な要素ではない。そして、子細に見るならば、マルクスは一見そう感じられるかもしれないほどには自由や民主主義といった価値に対して敵対的ではなかったということばかりではなくて、これらの価値に関するもっと重要な議論がある。
 (6) マルクスは、社会の共同性に関するロマン派的理想を継承した。そして共産主義は、産業社会ではあり得そうな唯一のやり方で、すなわち、統治の専制的なシステムによって、それを実現した。
 彼の夢想の起源は、Winckelmann や18世紀のその他の者、のちにはドイツの哲学者たちが一般化したギリシャの都市国家の理想化したイメージのうちに見い出すことができる。
 マルクスは、資本主義がいったん打倒されれば世界全体が一種のアテネの<アゴラ(agora :公共広場)>になることができると想像したように見える。そこでは、機械類や土地の私的所有だけは禁止しなければならず、まるで魔術によるがごとく、人間は利己的であることをやめ、その諸利害は完璧な調和に向けて合致するだろう、というのだ。
 マルクス主義は、いかにしてこの予見が実現されるか、あるいはいかなる理由で生産手段が国有化されれば人間の諸利益が衝突しなくなると考えるのか、に関する説明をしなかった。
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 ②へとつづく。

1830/L・コワコフスキ著-池田信夫による2017年秋紹介。

 昨年10月総選挙前後の同選挙に関する池田信夫のコメントを正確に記録しようと思って遡っていると、少なくとも一部、何らかの「会員」にならないとバックナンバーを読めないというブログ記事があった。
 秋月瑛二の文章とは違って、価値のあるものには「価格」がつくのだなあと、市場原理に納得した(?)。
 レシェク・コワコフスキ著・マルクス主義の主要潮流に言及していたものもあったはずなので、探してみると、これは全文が残っていて、読めた。
 池田信夫のブログの文章には、全文が①メール・マガジン(有料)、②たぶんアゴラ?の会員むけ(有料)、③フリーの三種があるようだ。
 L・コワコフスキの本の一部を試訳してきていながら、以下をきちんと読んだのは半年も遅れてだから、どうかしている。
 少しだけコメントを記して、ネット上から元が消失する前に、この欄にコピーしておく。
 1.「1978年にポーランド語で書かれた」は不正確で、ポーランド語の原書3冊は、パリで1976年に出版された。1978年というのは、英語版3冊がロンドン(Oxford)で刊行された年。
 1977年にドイツ語版の第一巻がドイツで刊行され、1978年、1979年で第三巻まで完結発行された。
 その後2008年に、三巻合冊本(1200頁以上)がたぶんアメリカとイギリスで(要するに英米語で)刊行された。L・コワコフスキは、New Preface と New Epilogue を元々のそれらを残しつつ、書き加えた。文献、注等は1978年版と同じと見られる。
 日本では、いっさい邦訳されていない。1978年からでも、なんと40年。
 2.一日4頁ずつ黙読しても300日、40頁ずつ読んでも30日かかる。忙しいはずの池田信夫は、全書を読んだのだろうか。要点読解にしても、以下のようにまとめることのできるのは卓抜した英語力と理解力だ。
 秋月瑛二はまだ一部試訳したのみでNew Preface とNew Epilogueを含む各巻の序文等もきちんと見ていないので、以下の読解の当否は判断しかねる。
 一部にとどまっているのはレーニンにとくに関心があったからだが、いずれ冥途話として、レーニンに関する叙述よりも大分量のマルクスに関する論述もきちんと読んでおきたいものだ、と考えている。
 なぜ、かくも、マルクス(主義)は今日まで影響力を残しているのか、という強い関心からだ。
 3. 池田は最後にこう書く。「今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない」。
 「マルクス主義には思想としての価値はない」とL・コワコフスキが考えていた、というのは大いにありうる。
 しかし、L・コワコフスキ個人の評価・「思想としての価値」の判断とは別に、マルクス主義の<現実的な力>の存在は別に語ることができる。秋月は、その「魅力」は「途上国などではまだある」という程度のものではない、と感じている。その本来の「価値」とは別に、Tony Judt の言った<時宜にかなった幻想>は十分に残り得る。
 以下、引用。  
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  2017年10月29日17:29
 マルクス主義はなぜ成功したのか
 最近の「立憲主義」は社会主義の劣化版だが、今では彼らさえ社会主義という言葉を使わないぐらいその失敗は明らかだ。しかしそれがなぜ100年近くにわたって全世界の労働者と知識人を魅惑したのかは自明ではない。本書は1978年にポーランド語で書かれたマルクス主義の総括だが、40年後の今もこの分野の古典として読み継がれている。
 マルクス主義は「20世紀最大のファンタジー」だったが、彼の思想は高度なものだった。それを社会主義という異質な運動と結びつけて「科学的社会主義」を提唱したのが、間違いのもとだった。目的を実現する手段が科学的だということはありうるが、目的が科学的だということはありえない。
 マルクスがその思想を『資本論』のように学問的な形で書いただけなら、今ごろはヘーゲル左派の一人として歴史に残る程度だろう。ところが彼はその思想を単純化して『共産党宣言』などのパンフレットを出し、その運動が成功することで彼の理論の「科学性」が証明されると主張した。このように独特な形で共産主義の理論と実践を結びつけたことが、その成功の一つの原因だった。
 ロシア革命という脱線
 しかもマルクスは自分の理論を私有財産の廃止という誤解をまねく言葉で要約した。これは『資本論』全体を読めば間違っていないが、のちには「生産手段の国有化」と同義に使われるようになり、マルクスの考えていた「労働者管理」のイメージは失われてしまった。
 それでも社会主義が強い影響力をもったのは、その平等主義が多くの貧しい人々を救うものと思われたためだろうが、これは本書も指摘するようにマルクスの思想ではない。彼は経済学の言葉でいうと「コントロール権」だけを問題にし、どう配分するかは労働者が決めればよいと考えていた。
 このようにマルクスの歴史観と社会主義運動とは論理的に関係ないが、マルクスの歴史観は社会科学に大きな影響を与えて知識人を魅惑し、平等主義は労働者を魅惑し、両者は「実践」を重視する党が知識人に君臨するという形で、日本の戦後にも大きな影響を与えた。
 本書が強調しているもう一つのポイントは、レーニン的な前衛党はマルクスの思想からの逸脱だったということだ。マルクスは『フランスの内乱』でパリ・コミューンを高く評価し、プロレタリア独裁を主張したが、これはあくまでも運動論であり、議会を通じて政権を取ることが本筋だった。
 彼の想定していたのはドイツ革命であり、この点で正統的な後継者はカウツキーなどの創立した第2インターナショナル(エンゲルスが名誉会長)だった。ところがドイツ革命は1918年に起こったが鎮圧されてしまい、成功したのは、マルクスもエンゲルスも想定していなかったロシアだった。
 このため科学的社会主義を「実証」したロシアが優位に立ち、スターリンはカウツキーやベルンシュタインなどの社会民主主義を「修正主義」と批判した。マルクス主義が大きくゆがんだのはこの時期からで、第3インター(コミンテルン)はソ連を頂点とする暴力革命の機関になり、各国に共産党ができて非公然活動を行った。
 日本共産党もこの時期にできたコミンテルン直轄の組織で、知的な正統性も大衆的な支持もなかったが、戦争に抵抗したという栄光で戦後も続いてきた。今はマルクス主義には思想としての価値はない、というのが著者の結論だが、それを成功に導いたマルクス主義の魅力は途上国などではまだあるので、それが死んだわけではない。
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 以上、引用終わり。

1828/不破哲三の2017年11月・朝日新聞での妄言①。

 日本共産党前議長・現常任幹部会委員の不破哲三が、朝日新聞2017年11月17日朝刊の紙面に登場して、<ホラ話>を述べている。
 ロシア革命100年ということでこんなインタビュー記事を掲載する堂々とした全国紙があるのだから、日本の<左翼的>状況の程度をよく知らせてくれている。
 聞き手は「三浦俊章、池田伸壹」とされる。編集部の手が入っているだろうが、本人・不破哲三の不服・不満があるかたちで紙面になっているとは考え難い。したがって、不破哲三自身の言葉・表現だと理解して、以下、この<妄言>についてコメントする。
 最初に語られているテーマは、ロシア革命の意味・意義だ。
 最近に岩波書店のロシア革命・講座の「編集代表一同」の「刊行の言葉」に言及したが、そこで書かれていた三点のうち二点は、この朝日新聞での不破哲三発言と同じだ。
 似たようなデマゴギーが溢れている。
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 さて、不破は、つぎの三点を挙げていると読める。
 第一。「資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した」。
 第二。「ロシア革命が起点となって、民主主義の原則が新たな形で世界に定着した」。
 これのコロラリーのようなかたちで、つぎもある。
 「社会的権利と呼ばれる労働者の権利が、革命後の人民の権利宣言で初めてうたわれた」。
 第三。「革命政権は、〔第一次大戦〕大戦終結の条件として、民族自決権の世界的確立を求めた。…。世界の民主的国際秩序の先駆けとなる原則を打ち立てました」。
 以上の三点全てが<ホラ話>だ。<妄想>だ。つまり現実・事実に反する。あるいは、論証されていない命題にもとづいて何らかのことを「政治的に」主張している。あるいは、「観念・言葉」と「現実」の混同がある。
 たぶん一回ではすまない。
 第一。「資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した」。
 資本主義からの離脱に初めて成功した、と不破哲三は理解する。
 かりにそうだとして、それが<良かった>、<進歩的だった>のかはもちろん別の問題だ。
 この人は、そしておそらく日本共産党員の全てが、資本主義→社会主義(・共産主義)という道筋を「人類」はたどる「はず」だと想定しているのだろう。そうだとすれば、ロシア革命は歴史上「初めて」の積極的な意義があることになる。ちなみに、何となくそう理解している、あるいはロシアの現実は別として、資本主義→社会主義(・共産主義)という方向自体は少なくとも理念として正しいのではないかと考えている、<容共>者もいるかもしれない。
 しかし、そもそも上の想定・前提は<正しい>、<適切な>ものなのか。
 一定の観念・想念・幻想があってはじめて、「資本主義に代わる新しい社会を目指す」のは良かったことだ、という評価が成り立つ。
 不破によると、「マルクスの理論の中でしかなかった社会主義が現実化し、世界に大きな衝撃を与えた」。
 そのとおりかもしれず、「マルクスの理論」が現在でもなお影響力をもつのは「ロシア革命」が成功したこと、つまりは<理論が現実化>して、<理論の正しさ>が現実で証明された、と少なくとも「受け止められた」ことにあっただろう。
 その意味で、マルクス→レーニンによってこそ、マルクスは現にあるような形で歴史に残っているのだとも言える。
 それは、ルソー(ら)→フランス革命、吉田松陰→明治維新、という関係とも似ている
 しかし、レーニンによる「ロシア革命」は本当に<社会主義(を目指す)革命>だったのか。
 そのようにレーニンらボルシェヴィキ派が<宣伝>した、<言葉・概念で訴えた>だけかもしれず、本当に<マルクスの理論を現実化した>ものかどうかは別途の検討が必要だ。
 かりにレーニンらが「マルクスの理論」を現実化したもの、または現実化しようとしたものであったとしても、1917年~1922年の現実は、かりに「社会主義が現実化」したものだったとすれば、悲惨な現実だったと私には思われる。
 国家・行政の運営の仕方を知らない<しろうと>たちが、マルクスが簡単かつ抽象的に描く「共産主義」をさっそく実施しようとしたがゆえの悲惨な現実だった、と十分に理解することができる。
 不破哲三による<市場経済をつうじて社会主義へ>というレーニンの考えの確立という発見(?)の特徴は、この人はおそらくレーニン全集等で読むことのできるレーニンの<言葉・文章>だけでロシア革命等を、また十月革命直後の歴史を理解しようとしていることだ、と論評することができる。
 この人はいったい、どこまで、1917年~1922年くらい、要するに<レーニン時代>のロシアの現実を知っているのだろうか。
 かりに現実にしたのだったとしても、そこでの「社会主義」とは人間の本性には反した絵空事を描いたものではなかっただろうか。
 さらにもともと、マルクスらのいう封建主義→資本主義→社会主義(・共産主義) という「歴史的法則」自体の<正しさ・適切さ>も、何ら証明されていないものだ。
 <最初に資本主義から離脱した>。これがなぜ積極的意義・意味を持つのか、さっぱり分からない。
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 若い頃からマルクス、レーニン、(1980年くらいまでは)スターリンを読み、かつ日本共産党の幹部だった(である)人物の<思考・意識形態>というのは、ヒト・人間観察としても、すこぶる興味がある。
 続けざるを得ないだろう。

1823/岩波書店のロシア革命・ソ連<講座>(2017-)。

 ロシア革命とソ連の世紀(岩波書店、2017~)という<講座もの>が出版されていることは知っている。その第1巻冒頭にある「編集委員一同」による「刊行にあたって」という二頁ぶんの文書を読んで、昨秋にすでに、個々の論考をまじめに熟読する気持ちが失せている。
 ロシア革命とソ連の世紀/1・世界戦争から革命へ(岩波、2017年6月)。
 おそらく各巻冒頭に掲載されているのだろう。
 「ソ連の『革命』は無意味ではなかった」と<意味>と<無意味>の違いを判別させないままで突如として断定して、つぎのように、<ロシア革命>または<社会主義(的近代化)>には<よい面もあった>と述べている。
 どうやら、三点を列挙しているようだ。以下、できるだけ直接に引用する。
 ①「少なくとも一時的にはソ連と東欧の生活水準を大きく向上させ、先進資本主義諸国の福祉国家化を促した」。〔正確には、「…促した面がある」。〕
 ② 「旧ソ連諸国に深い影響を残し」、「中国など新たに超大国・地域大国を目指す国々には参照材料を提供し続けている」。
 ③「ソヴィエト政権の『民族自決』『民族解放』の訴えとその実現への取り組みは、植民地下にあった諸民族を鼓舞し、…大戦後の旧植民地諸国の独立に大きな影響を及ぼした」。
 こう書いている「編集委員一同」とは、つぎの6人のようだ。
 
松戸清裕、浅岡善治、池田嘉郎、宇山智彦、中嶋毅、松井康浩
 上の三点には、強い疑問をもつ。
 第一に、上の②は果たして肯定的、積極的に評価できるものなのか自体が疑わしい。
 「超大国・地域大国を目指す国々」を肯定的に評価しないかぎりは、こんな文章にならないだろう。
 結局のところ、「編集委員一同」には中国(中華人民共和国、共産中国)は積極的・肯定的に捉えられているとしか思えない。
 そうでなければ、ここにいう「参照材料」の「提供」とは、悪い影響だろう。
 第二に、いずれまたこの点はこの欄で記述してみたいのだが、上の①は<真っ赤なウソ>だろう、と感じている。
「少なくとも一時的には」と書いているが、いつ、いったいどの時期・年代に「ソ連と東欧の生活水準」が「大きく向上」したことがあったのだろうか?
これを歴史的に統計的かつ実証的に明らかにできなければ、歴史学者としては失格だろう。
 上のようなことがしばしば言われてきた(現にこの講座の編集者もそう書いている)ことは承知している。
 しかし、これはソヴィエト体制側による<プロパガンダ>であったのであり、実態・実体・実際とは異なっていただろう、と想定している。
 ソ連の場合、「生活水準」が「大きく向上」したことはあったのだろうか。
 1917年の<十月革命>後にただちに<内戦>が始まり、そして<ネップ期>だ。
 一部の「ネップマン」および正確な意味での「プロレタリア-ト」階層の一部はある程度生活・経済状態が良くなったかもしれないが、国民または民衆全体を見ると決してそうではないだろう。
 では、スターリンによる農業の<強制的集団化>の時期かそれとも<大テロル>の時期かそれとも<第二次世界大戦>の時期か。
 あるいは、「ソ連と東欧の生活水準」が「大きく向上」したのは第二次大戦後だった、スターリン死後の「緩和期」だったとでも言いたいのだろうか。
 北朝鮮でも一般民衆・一般国民の「生活水準」など無関係に核兵器やミサイルの開発や建設をしているのだから、いかにソ連が<宇宙競争>でアメリカに先行した時期がかりにあったとしても、一般国民の「生活水準」とは直接の関係はない、と考えられる。
 それにもともと「生活水準」に関して、ソ連や東欧諸国が対外的に発表していた資料・統計数字等々は全くデタラメだった可能性が高い。
 「労働者・貧農の天国」などは真っ赤なウソ。プロパガンダの最たるものだろう。
 資本主義国に比べて失業がない(なかった)とよく言われる(言われた)が、少なくとも事実上<仕事を割り当てられる>のであれば、つまりそういう<強制労働>体制下では、「失業」など論理的にありえないのは当然だろう。
 また、<高福祉>などとも言われる(言われた)が、そもそも、何度にもわたる飢饉による厄災に体制側の責任はなかったのか。
また例えば、生存にギリギリの生活をしているふつうの庶民に子どもを学校に通わせる潤沢な経済的余裕があるはずはない。
また、幼少期から「共産主義」教育(ひとによれば<洗脳>とも言われる)を行いたい国家・体制側が、親や保護者から教育費用をまき上げるわけにもいかないだろう。
 かりに病気治療等々が「無料」だったとしても、それは現・旧の「社会主義」国の方が「福祉」が進んでいた(進んでいる)時期があったいうことの、何の論証にもなりはしない。まさに<治安>対策としての原始的<福祉>政策だったのではないか。
 上の③もおかしい。
 別にまた書くが、ソヴィエト連邦の解体して、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国、ジョージア、ウズベキスタン、カザフスタン等々が、ほとんど自然に、大した混乱もなく独立国家になったというのは、つまりは、ソヴィエト連邦時代に、これらの国家を形成する「民族」の自立性が抑制されていたことの明瞭な証拠だろう。
 レーニンらの言った「民族自決権」の意味については、すでにL・コワコフスキ、R・パイプス、S・フィツパトリクも論及している。
 レーニンらソ連の歴代指導者が「民族自決権」一般を承認し、それでもって第二次大戦後に独立国家が増加した、などというのは真っ赤なウソだ。
何とかロシア革命と「社会主義」の夢を守りたいという一心が、この「編集委員一同」の「刊行」の言葉にはあるようだ。
 こんなに簡単に<結論>が提示されている<講座もの>も珍しいのではないか。
 もちろん、編集委員全員が熟考し何度も検討して作成されたものではないだろう。
 日本共産党の党員かもしれない上の6名のうちの誰かが(複数でありうる)、年齢または地位を利用して他の編集代表に事実上「押しつけた」可能性はある。
 また各巻の個々の論考がこのような<所定の結論>とは関係がない、またはそのまま採用することはしていない内容になっていることはありうる。
 しかし、何といっても、岩波書店がロシア革命100周年に当たって発行した<講座>ものだ。さすがに、<岩波書店>的だ。
 あるいはそもそも、日本の<ソヴィエト学>自体が全体として<岩波的容共>だつた(である)可能性も否定できない。
 上で日本共産党という言葉を出したのは、同党はこんなことを言っているようだし、また日本共産党員らしき学者の中には、上の三点と似たようなことを「社会主義」について書いている者もいるからだ。いずれ、この点にも立ち入るつもりだ。

1800/言葉・概念というもののトリック。

 言葉あるいは概念はふつうは何らかの現実や現象を把握して何らかの意味があるものとして作られ、用いられるものであって、一定の現実や現象そのものを複雑な諸要素・諸側面を全て網羅したものとして意味させているのではない。
 当然のこととして、何らかの捨象と抽象化・単純化が行われているものとして、言葉あるいは概念は理解されるべきものだ。
 そうであるにもかかわらず、言葉・概念が一人歩きする、言葉・概念の正確な意味についての正確な合致がないままに(異なる意味を持たしていることを意識しないままに)議論が行われることもある。
 また、そもそも、重要で議論の多い言葉・概念であるにもかかわらず、その正確なまたは厳密な意味を明らかにしないままで、何らかの論述や評論等を行っている者も多い。
 以上だけでは足りないが、このような言葉・概念の特性を利用して、種々の政治的主張も行われてきている。
 「社会民主主義」という語の由来は知らないが、おそらくは「民主主義」または「民主政体」をいちおうは是とできるものであることを前提として、それに「社会的」または「社会主義的」という限定を付したものだろう。
 レーニンのボルシェヴィズムはのちに「レーニン主義」または「レーニン的マルクス主義」とも言われる。
 しかし、レーニン・ボルシェヴィキもまた一時期は(ロシア)「社会民主労働党」の一員だったのだから、むろんマルクス主義=社会主義ではないとしても、少なくとも広い意味での「社会民主主義」者だったことはあった、と言ってよいだろう。
 「社会民主労働党」から分派して(当時はレーニン自体が積極的な「分派」活動者だった)<ボルシェヴィキ>派と名乗ったのもロシア語での「多数派」・「少数派」にかかわる語感とその利用という興味深い点はある。
 それはともかく、この当時およびそれ以降のレーニンの「民主主義」・「民主政体」という言葉又は観念に対する態度も興味深い。
 資本主義をもたらす革命が「自由・民主主義」の革命だとすれば、そこでの「民主主義」はブルジョア的なものであって、究極的には(あるいは社会主義社会)では否定されるべきものであるかもしれない。
 そのような趣旨で、レーニンは「民主主義」・「民主政体」の欺瞞的なブルジョア性を厳しく批判したとされる。
 しかし一方で、「民主主義」・「民主政体」は良いものだとする広範な空気?をも、おそらく(政略的判断として)意識したのだろう。
 いつ頃か、どの論考からかは確認しないが、レーニンが目ざすのは「真の民主主義」、「プロレタリア-トの民主主義」、「民衆・人民の(people's)民主主義」だとも主張し始めた。
 この点以外にもレーニンの発言・記述には独特の一貫性のなさ、不整合性があるので、レーニン全体をその全集類等を通じて過不足なく理解するのはほとんど困難だろうと、私は感じている。そのつど、そのつどの、現実の情勢に応じた?「適当な」言い回しがあるのだ。
 さて、上により、「民主主義」・「民主政体」には、ブルジョア的・市民的なものと「プロレタリア-ト的」・「人民的」の二種があるとになる。
 これは、言葉・概念の大きな進展と「分化」だ。
 このことによって、かつての「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)、現在の「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)という国名もありうる(ありえた)ことになる。
 日本共産党の現在の立場は、<ブルジョア的・市民的>民主主義・民主的制度を最大限利用して「プロレタリア-トの」・「人民の」民主主義・民主政体へと移行させることだろう。同党が最初の段階として目ざすと綱領上明記するのは、そのような「民主主義革命」だ。つまり、直接の「社会主義革命」を標榜しているのではない。
 つぎに、「議会制」・「代表議会制」・「議会主義」についても似たようなことが言える。
 ロシアの1905年「革命」後に設立された<ドウーマ>(選挙による議員で成る)に対する態度についても、ボルシェヴィキ党内部で対立があった。レーニンは、参加する(ボルシェヴィキの議員を送り込む)こと自体を否定はしなかったはずだ。
 マルクス主義者を自認する者にとって、現存する「議会制」・「代表議会制」にどう対応するかは一つの重要論点だ。ブルジョア(・市民)のための<欺瞞>装置ではないのか。
 1960年代に日本共産党・不破哲三は<人民的議会主義>というのを主張した(論考類をまとめたものだろう、同名の著書がある)。
 これによって、<議会主義>には「人民的議会主義」とそうではない体制的な・ブルジョア的な?「議会主義」があることになった。
 これは言葉・観念の大きな意味をもつ<分化>だった。
 これによって当時以降の、1961年綱領以降の日本共産党は、<議会議員のための選挙>を安心して、かつ熱心に行うようになった。
 個々の日本共産党員に対してこそ、自分たちは「人民的議会主義」に立っているのであって、体制側の「議会主義」とは異質なのだという自信と誇り?をもつことは、あるいは釈明?が与えられていることは、少なくない意味をもっただろう。
 新しい言葉・概念を「作り出す」ということには少なくなく大きな政治的・社会的意味を持つことがある。それを意識して、つまりは意図して、新しい用語を使ったり、大々的に宣伝することもある(「新自由主義」という語にはその、つまり政治的・政略的な側面が少なくとも日本にはあったように思われる。より普遍的な概念ならば今日でももっと使われているだろう)。
 予期していなかった長さになった。
 「左翼」・「右翼」、「保守」・「リベラル」、「全体主義」、あるいは江藤道朗が何気なく使う「保守自由主義」、井上達夫が「リベラル」とは違うという「リベラリズム」、あるいは「真正保守」・「自称保守」、「反米」・「反米ポチ」等々、言葉・概念の意味(内包)・射程範囲(外延)は明確にしておく必要がある、ということ、そして言葉・概念の作成や使用もきわめて実践的で政治的であることがある、ということを書きたかったにすぎない。
 なお、冒頭に言葉・概念は何らかの現実や現象を意味するという趣旨のことを書いたが、言葉・概念そしてそれらが紡ぎ出す「論理」の中で、いわば下底の言葉・概念を基礎にして、言葉・観念の世界の中で、新しい概念や観念が生み出されることもある。これもまた、おそらくとくに思想家・哲学者(哲学学者ではない)・思弁的論述者といわれる者たちにはよくあることだ。冒頭に「ふつうは」と記しているように、このような形而上の?<現象>が<存在>することを否定しているのではない。

1791/旧西独で-「ベルリンを想え!」。

 この欄にたんなる紀行文、旅行記を書き記すつもりはない。
 以下の内容からして、まだドイツは再統一されていなかった頃だ。
 前日にローテンブルク(Rotenburg od. Tauber)に宿泊して、ニュルンベルクの市中見学を経てフュッセン(Füssen)まで鉄道で行き、翌朝にノイシュヴァンシュタイン(Neuschwanstein)城を見てみようと計画した。若さゆえの無理をした算段だが、実際にそのとおりになった。
 ローテンブルクには鉄道駅はなく30分ほどはバスに乗ってシュタイナハ(Steinach)という駅まで行く必要があった。この駅は都市の入口または中央駅というふうで全くなかったが、そこからニュルンベルクまで直接に進めるわけではなく、アンスバッハ(Ansbach)駅で別の電車(汽車?)に乗り換える必要があった。
 シュタイナハはもちろん、都市としてはローテンブルクよりも大きいのではないかと駅前まで出て感じた(よく知られているように「改札」というのはないので、切符を持って自由に構外に出ることができる)。
 アンスバッハの駅の北側で、現在でも明確な記憶として残っているものを見た。
 それは石碑だったのか、たんなる木版だったのか不明になってしまったが、「ベルリンを想え!」と刻まれるか、記されていた。-Denkt an Berlin !
 意味、趣旨は明確だと思われた。東西にドイツが分割され、ベルリンもむしろ枢要部は「東ベルリン」と呼ばれる社会主義ドイツ(東独、ドイツ民主共和国)の首都になっているという現実のもとで、社会主義国で生活しているベルリン市民を、そして東独の市民を想え、ということだっただろう。
 当時にヘルムート・コール(Helmut Kohl)が野党党首だったのかすでに首相だったのか、東ドイツ国民は「ソ連の人質として取られている」という趣旨のことを演説で言ったのを直接に聴いたことがある(但し、遠くに彼の姿を見たのは確かだが、H. Kohl の演説を聴き取れたのかは怪しいので、翌日あたりの新聞で内容を読んだのかもしれない)。
 そういう時代だから、アンスバッハ市民がまたはそこの公的団体が、ドイツは分断されていることを忘れるな、という趣旨で、「ベルリンを想え!」と駅前に記したのだろう(なお、アンスバッハはバイエルン州)。
ところで、余談になるが、ドイツ語に苦しんでいた頃だったから、denkt という語の文法上の位置づけもおそらく当時にすでに気になったに違いない。
 これは、<万国の労働者、団結せよ!>という場合の後段の vereinigt (euch) に相当する、敬称ではない場合の複数者に対する命令形だと思われる。
 この使い方は表向きの会話や新聞ではあまり出てこないので、印象に残ったのかもしれない。
 しかし、そうしたドイツの<言語、言葉>に関する記憶は山ほどある(理解不能だったり、恥ずかしかったり…。それでも当時(現在でもだが)、英米語よりはるかにドイツ語の方がマシだった)。
 この Denkt an Berlin ! を今でも憶えているのは、その内容によるだろう。
 のちに再訪はしなかったが、あの石版か木版は、おそらくとっくに除去されているに違いない。

1785/ネップと1920年代経済➀-L・コワコフスキ著3巻1章5節。

 L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流/第三巻(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。
 =Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. /Book 3, The Breakdown.
 試訳のつづき。第3巻第1章第5節の中の、 p.25~p.29。
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 第1章・ソヴィエト・マルクス主義の初期段階/スターリニズムの開始。
 第5節・ブハーリンとネップ思想・1920年代の経済論争①。
 1920年代のソヴィエト経済政策をめぐる論争は、「一国での社会主義」の問題よりもはるかに純粋だ。後者は、何らかの実践的または理論的な問題を解決するというよりも、党派のための外観上の偽装だった。
 しかしながら、工業化をめぐる有名な議論ですら、二つの対立する基本的考え方の衝突だとして述べるに値しない。
 ロシアを工業化しなければならないと、誰もが合意していた。議論の要点は、それを進行させる速度であり、破滅をはらんだ、ソヴィエト農業や農民と政府の関係という関連する問題だった。
 しかしながら、これらの問題は根本的に重要であり、異なる観点からの諸見解は、国家全体に対して大きな意味をもつ異なる政治決定をもたらした。//
 ブハーリン、(1921年に公式に開始された)ネップ〔新経済政策〕の主要なイデオロギストは、党内ではきわめてよく知られ、第一級の理論家だと見なされていた。
 ジノヴィエフとカーメネフの脱落の後、彼はスターリンに次ぐ党の最も重要な人物になった。//
 ニコライ・イワノヴィッチ・ブハーリン(Nikolay Ivanovich Bukharin)は、1905年革命の間又は直後に社会主義運動に入った世代に属する。
 モスクワで生まれて育ち、知的階層の一員で(両親は教師だった)、まだ在学中に社会主義集団に加入した。そして、その政治的経歴の最初からボルシェヴィキ党員だった。
 1906年の末に18歳になったばかりで入党し、モスクワでのプロパガンダ活動に従事した。
 1907年に大学の経済学の学生として登録したが、政治が彼の時間を奪い、その課程を修了しなかった。
 1908年にすでに、モスクワの小さなボルシェヴィキ組織の責任者になった。
 1910年秋に逮捕されて国外追放を宣告されたが、脱走して、つぎの6年間をエミグレの一人としてドイツ、オーストリアおよびスカンジナビア諸国で過ごした。そこで彼は著作を行って、政治経済の分野でのボルシェヴィキ理論家としての名声を獲得した。
 1914年に、<不労所得階級の経済学-オーストリア学派の価値と収益理論>と題する書物を書き終えた。これは、1919年にモスクワで最初に、全文が出版された。
 そしてその英語版である<余暇階層に関する経済理論>は、1927年に刊行された。
 この本はマルクス主義教理を防衛するもので、限界主義者(marginalists)、とくにベーム-バヴェルク(Böhm-Bawerk)を攻撃した。
 タイトルが示唆するように、ブハーリンは、オーストリア学派の経済理論は寄生性的に分けられたブルジョアジーの心性をイデオロギー的に表現したものだ、と主張した。
 マルクスの防衛に関しては、彼の著作はヒルファーデングの以前の批判に何も加えなかった。
 1914年に第一次大戦が勃発したとき、ブハーリンはウィーンからスイスへと追放され、そこで彼は、帝国主義の経済理論に関して研究した。
 彼はこのとき、民族および農民問題をめぐっては「ルクセンブルク主義者」的に過っていると批判するレーニンとの論争にかかわった。
  ブハーリンは、古典的なマルクス主義の図式に照らして、民族問題はますます重要でなくなっており、社会主義の階級政策の純粋さは民族自己決定権によって汚されるべきではない、と考えた。それは、夢想家的でありかつマルクス主義に反している、と。
 同じように彼は、党がその革命の政策で農民層の支持を求めることに同意しなかった。マルクス主義が教えるように、小農民階級はともかくも消失する運命にあり、農民層は歴史的に反動的な階級なのだから、と。
 (しかしながら、のちにはブハーリンは、主としてまさしく反対の「逸脱」の代表者だと記されることになる。)//
 スイスで、その後にはスウェーデンで、ブハーリンは<帝国主義と世界経済>を執筆した。これの全文は1918年にペトログラードで最初に出版された。
 レーニンは草稿を見て、自分の<帝国主義、資本主義の最高次の段階>のために自由に利用した。
 ブハーリン自体はヒルファーデングの分析を利用したが、資本主義が発展するにつれて国家経済の経済上の役割の重要性は大きくなる、そして、国家資本主義という新しい社会形態、つまり中央志向で計画されて国民国家の規模で統制される経済へと向かう、とも強調した。
 このことは、市民社会の広大な分野に対する国家統制の拡大と人間の奴隷化の強化を意味した。
 犠牲を必要とする国家というモレク(the Moloch)は、国内の危機のないままで機能し続けることができるが、私的な生活の諸側面をますます浸食することでのみ、そうできる。
 しかしながら、ブハーリンは、世界経済の中央集権的な組織化によって戦争の必然性は回避できる、そのような「超帝国主義」段階があることを期待するカウツキーやヒルファーデングに同意しなかった。
 彼が考えるに、国家資本主義は世界的な基盤のもとでではなく、一国の規模で作動が可能だ。
 ゆえに、競争、無秩序、そして危機は継続するだろうが、それらはますます国際的な形態をとるだろう。
 それはまた、-ここでブハーリンは少しばかり異なる理由でレーニンに同意する-プロレタリア-ト革命の根本原因は、今や国際的な情勢の文脈の中で予見しなければならない。//
 いく分かのちにレーニンは、プロレタリア-トは革命後には国家を必要としないという「アナキスト類似の」考えだとして若きブハーリンを批判した。-レーニンが1917年の<国家と革命>で詳述したのときわめてよく似た夢想家的考えだった。//
 1916年の終わりにかけてブハーリンはアメリカ合衆国へ行き、そこでトロツキーと議論し、アメリカ左翼に、戦争と平和の問題に関するボルシェヴィキの見方を説得する活動をした。 
 二月革命の後でロシアに帰還すると、すぐに党指導者の中での地位を獲得し、レーニンの「四月テーゼ」を全心から支持した。
 十月革命の前と後の重大な数ヶ月の間、彼は主としてモスクワで組織者かつ宣伝者として活動した。
 革命後に<プラウダ>の編集長になり、その地位に1929年までとどまった。
 ロシア革命の運命は西側に火をつけることができるかにかかっているとの一般的な考えを共有していて、ブハーリンは、レーニンのドイツとの分離講和に断固として反対した。
 1918年の最初の劇的な数ヶ月の間、革命戦争の継続を強く支持する「左翼共産主義者」の指導者の一人だった。レーニンは軍の技術的および道徳的状況を冷静に評価していたけれども。
 しかしながら、いったん講和の結論に至ると、彼は全ての重要な経済および行政の問題について、レーニンの側に立った。
 「ブルジョア」の専門家や工場での熟練者を採用することに、あるいは職業的能力や伝統的紀律にもとづいて軍隊を組織することに抵抗する左翼反対派を、彼は支持しなかった。//〔分冊書-p.27。合冊本-p.810。〕
 「戦時共産主義」(既述のとおり、誤解を招く言葉だ)の時期の間、ブハーリンは、強制、徴発、そして市場と貨幣制度なくして何とか新生国家を管理することができ、近いうちに社会主義的生産を組織するだろうとの希望、を唱道した主要な理論家だった。
 ネップ時期の前の数年間に、ここですぐに検討する<史的唯物論>に加えて、党の経済政策を詳論する二つの著書を刊行した。<移行期の経済学>(1920年)と、E・プレオブラジェンスキー(Preobrazhenski)との共著の<共産主義のイロハ(ABC)>(1919年。英語版、1922年)だ。
 これらは、当時のボルシェヴィキの政策を権威をもって説明する、準公式的な地位をもった。
 レーニンのようにブハーリンは、国家は革命ののちにすぐに消滅するとの夢想家的教理を投げ捨てたのみならず、プロレタリア-トによる政治的独裁はもちろんのこと経済的な独裁の必要性も強く主張した。
 彼もまた、発展諸国での「国家資本主義」の進化に関する見方を繰り返した。
 (レーニンはこの術語を用いて、社会主義ロシアでの私的産業を参照させた。
 ある程度の言葉上の誤解を生じさせたことだ。)
 「均衡」(equilibrium)という観念を、社会過程を理解するための鍵だとして強調した。
 生産に関する資本主義制度が均衡をいったん失えば-これは不可避の破壊的帰結を伴う革命の過程でもって証明されるが-、それは新しい国家の組織化された意思によってのみ復活することができる、と彼は論じた。
 国家装置はゆえに、生産、交換および配分のための社会組織と繋がっている全ての作用を奪い取らなければならない。
 これは実際には、全ての経済活動の「国家化」(statization)、労働の軍事化、および全般的な配給制度を、要するに、経済全般に対して強制力を用いること、を意味する。
  共産主義のもとでは、市場の自発的な活動は問題にならない。価値の法則は働くのを止める。全ての経済法則が人間の意欲とは無関係に働くように。
 全てが国家の計画権力に服従する。そして、従前の意味での政治経済は、存在しなくなる。
 そうして、社会の組織化は本質的に農民に対する(vis-a-vis)強制(強制的徴発)や労働者に対する強制(労働の軍事化)にもとづいてはいるけれども、労働者からの搾取(exploitation)は明らかに存在しない。定義上、その階級が自ら自身を搾取することは不可能なのだから。//
 レーニンのようにブハーリンは、大量テロルに経済生活をもとづかせるシステムを、過渡的な必要物ではなく社会主義的組織化の永遠の原理だと考えた。
 彼は強制のための全ての手法を正当化することを躊躇しなかった。また、同時期のトロツキーのように、新しいシステムを本質的に労働の軍事化だと考えた。-これは言い換えると、国家が宣告するいかなる場所といかなる条件でも全民衆が労働することを強制するために警察力と軍事力を用いる、ということだ。
 実際に、いったん市場が廃止されると、労働力の自由な取引や労働者間の競争はもはや存在しなかった。したがって、警察による強制は、「人的資源」を割りふるための唯一の方法だった。
 雇用労働が廃止されると、強制労働だけが残る。
 言い換えると、社会主義とは-この時期のトロツキーとブハーリンの二人がともに想定していたごとく-、永続する、国家全体に広がる労働強制収容所(labour camp)なのだ。
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 ②へとつづく。

1760/ヒトラーと社会主義②-R・パイプス別著5章4節。

 Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1995) の試訳のつづき。p.260-1。
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 第4節・ヒトラーと社会主義②。
 (冒頭の一部が前回と重複)
 この党は1918年に改称してドイツ国家社会主義労働党(DNSAP)と名乗り、政綱に反ユダヤ主義を追加し、退役軍人、個人店主、職業人を組織へと呼びよせた。
 (党名にある「労働」という言葉は「全ての働く者」を意味し、産業労働者のみではない。(61))
 ヒトラーが1919年に奪い取ったのは、この組織だった。
 ブラヒャー(Bracher)によると、こうだ。
 初期の党のイデオロギーは、『非理性的で暴力志向の政治イデオロギーの内部に、完全に革命的な中核部分を含んでいた。
 たんに反動的な体質を表現したものでは全くなかった。すなわち、労働者と労働組合主義者の世界が本源にあった。』(62)
 ナツィスは、労働者は共同体の柱石だと、そしてブルジョアジーは-伝統的貴族階級とともに-滅亡する階級だ、と宣言して、ドイツ労働者の社会主義的な伝統に訴えた。(63)
 同僚に自分は「社会主義者」だと語った(64)ヒトラーは、党に赤旗を採用させ、政権を取れば5月1日を国民の祝日にすると宣告した。
 ナツィ党の党員たちは、お互いに「同志」(Genossen)と呼び合うように命じられた。
 ヒトラーの党に関する考えは、レーニンのごとく、軍事組織、戦闘団(Kampfbund、「Combat League」)のそれだった。
 (「運動を支持する者は、運動の目標に合意することを宣言する者だ。
 党員は、その目標のために闘う者だけだ」。(65))   
 ヒトラーの究極の目的は、伝統的諸階層が廃止され、地位は個人的な英雄的資質(heroism)によって獲得されるような社会だった。(66)
 典型的に過激な流儀でもって、彼は、人間は彼自身を再生するものだと心に描いた。ラウシュニンクに、こう語った。
 「人は、神になりつつある。人は、作られつつある神だ」。(67)//
 ナツィスは当初は労働者を惹きつけるのにほとんど成功せず、党員たちの大多数は「プチ・ブル」〔小ブルジョアジー〕の出身だった。
 しかし、1920年代の終わり頃、その社会主義的な訴えが功を奏し始めた。
 1929-1930年に失業が発生したとき、労働者たちがひと塊になって(en masse、大量に)入党した。
 ナツィ党の記録文書によれば、1930年に、党員の28パーセントは産業労働者で成っていた。
 1934年に、その割合は32パーセントに達した。
 いずれの年にも、彼らはナツィ党の中で最大多数を占めるグループだった。(*)
 ナツィ党の党員たちがロシア共産党におけるそれと同じ責任を負うのではないとしても、誠実な(bona fide)労働者(全日勤務の党員となった元労働者は別)の割合は、ナツィ党(NSDAP)ではソヴィエト同盟の共産党におけるよりも、なんと予想に反して、高かった、と言える。//
 ヒトラーの全体主義政党のモデルは共産主義ロシアから借りたという証拠は、状況的な(circumstantial)ものだ。というのは、全く積極的に「マルクス主義者」への負い目を承認している一方で、彼は、共産主義ロシアから何ものかを借用したことを承認するのを完全に避けたからだ。
 一党国家という考えは、ヒトラーの心の中に、1920年代半ばには明らかに生じていた。1920年のカップ一揆(Kapp putsch)の失敗を省察し、戦術を変更して合法的に権力を掴もうと決心したときに。
 ヒトラー自身は、紀律ある階層的に組織された政党という考えは軍事組織から示唆された、と主張した。
 彼はまた、ムッソリーニから学んだことは積極的に認めることとなる。(68)
 しかし、その活動がドイツのプレスで広く知られていた共産党がヒトラーにも影響を与えなかった、というのはきわめて異様だ。明白な理由から、彼はその事実を認めるのは不可能だと分かっていたけれども。
 ヒトラーは、私的な会話では、つぎのことを認めることを厭わなかった。「レーニンとトロツキーおよび他のマルクス主義者の著作から革命の技巧を勉強(study)した」ということを。(+)
 彼によると、社会主義者から離脱して、「新しい」ものを始めた。社会主義者たちは-大胆な行動をすることのできない-「小者」だからとの理由で。
 これは、レーニンが社会民主党と決別してボルシェヴィキ党を設立した理由とは、大きく異なっている。//
 ローゼンベルクの支持者とゲッベルスやシュトラサーの支持者とが論争したとき、ヒトラーは最終的には前者の側に立った。
 ヒトラーにはドイツの投票者を怯えさせるユダヤ共産主義の脅威という妖怪が必要だったので、ソヴィエト・ロシアとの同盟はあるべくもなかった。
 しかし、このことは、彼自身の目的のために共産主義ロシアの中央志向の制度と実務を採用することを妨げはしなかった。//
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 (61) David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.17.
 (62) Bracher, Die deutsche Diktatur, p.59. 〔ドイツの独裁〕
 (63) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, p.48.
 (64) Alan Bullock, Hitler: A Study in Tyranny, rev. ed. (New York, 1974)、p.157.
 (65) The Impact of the Russian Revolution, 1917-1967 (London, 1967), p.340.
 (66) Rauschning, Hitler Speaks, p.48-p.49.
 (67) 同上、p.242.
 (*) Karl Bracher, Die deutsche Diktatur, 2ed. ed. (Cologne-Berlin〔ケルン・ベルリン〕, 1969), p.256.
 David Schoenbaum, Hitler's Social Revolution (New York & London, 1980)、p.28、p.36 は、少しばかり異なる様相を伝える。
 あるマルクス主義者の歴史家たちは、ナツィ党に加入したり投票したりする労働者を労働者階級の隊列から除外することによって、この厄介な事実を捨て去る。労働者たる地位は職業によってではなく「支配階級に対する闘争」によって決定される、との理由で。Timothy W. Mason, Sozialpolitik im Dritten Reich (Opladen, 1977), p.9. 〔第三帝国の社会政策〕
 (68) Schoenbaum, Hitler's Social Revolution, xiv.
 (+) Rauschning, Hitler Speaks (London, 1939), p.236.
 ヒトラーは1930年に、トロツキーが近年に出版した<わが人生>を読み、多くのことを学んだ、この著を「輝かしい(brilliant)」と称した、と驚く同僚に語った、と言われている。Konrad Heiden, Der Fuehrer (New York, 1944)、p.308。  
 しかしながら、ハイデン(Heiden)はこの情報の出所を記していない。
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 つぎの第5節の表題は、「三つの全体主義体制に共通する特質」。

1704/谷沢永一・正体見たり社会主義(1998)③など。

 谷沢永一・正体見たり社会主義(PHP文庫、1998/原1994)。
 メモ書きをつづける。マルクスについて要領のよいと思われる批判が並ぶ。
 「国家なき社会の運営のプラン」はマルクスになく、レーニンにも「何もなかった」。p.164。
 「レーニンは、プロレタリア-トの独裁によって過渡的な形でできる国家は、勝利獲得後、ただちに死滅しはじめると考えた」。
 レーニンは「マルクス主義とアナーキズムには類似性があると認めるところまでいっていた」。「国家の代わり」の「実務のみの社会」は「人間の善意のみで運営」される村役場あるいはバザールで、「極端な復古主義」だ。p.166-7。
 レーニンは当初は「プロレタリア-トの党については、考えていなかった。革命さえ起こせば、すべてが解決する」はずだった。<国家と革命>には「党のことはほとんど触れられていなかった。これは歴然たる事実なのである」。p.168-9。
 上の最後はほとんど同趣旨が、L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1974、英訳1976)の中にある。他の部分も、L・コワコフスキが叙述していることと似たようなことを書いている。
 谷沢はL・コワコフスキ著をある程度知っていたかとも思わせるが、党については、革命直前の<国家と革命>研究書・論評書は多かったりするので、常識的なことなのかもしれない。
 但し、革命前の運動期の<何をなすべきか>では独自の、職業家から成る意識的・純粋な党の像を語り、メンシェヴィキと対立した。革命後の党の役割、国家と党の関係等には熟考のないまま、「革命」=権力剥奪に進み切った(好機があれば逃さなかった)のだろう。権力奪取の後の政治・行政の<付け焼き刃>。
 何が根拠なのか、レーニンに「甘い」部分もある。
 「レーニンが考えた党の独裁とは、合議制による運営」で、「レーニン個人による独裁」でなかった。スターリンがこれを踏みにじった。p.192。
 「独裁」の意味にもよるが、ソヴェトの内部での一党支配、ソヴェト自体からの自立、を経ての国家=一党支配体制におけるレーニンの位置は、<立法・行政>権ともに持ちかつ<司法権>を下部に置く「人民委員会議の議長(首相とも紹介される)」かつ党中央委員会委員長だ。その人民委員会議や中央委員会が「合議制」というのは全くの建前で、レーニンの意思・意向に反することは決められていない。
 但し、スターリンは党内部の政敵・意見対立者を「殺した」が、レーニンはそこまではしなかった(反面では、党「外部」者、例えば左翼エスエル指導者、対しては行なった)。
 スターリンによる<大テロル>(1935-38年又はより短くは1936-38年)は、今日では日本共産党すらが大々的に批判している。
 谷沢p.203によると、1935-38年の4年間に、10月「革命」時の名のある指導者たちの「ほとんど全部が、トロツキストの汚名のもとに逮捕投獄された」。しかも「その多くが」「処刑されていった」。1934年党大会で選出された中央委員・同候補のうち「7割の98人」、同大会代議員の「過半数」が「処刑ないし追放された」。p.203。
 逮捕・拘束-「自白(強要)」-刑法典等による「処刑」もあれば、陰に陽にの「暗殺」=不意打ちの突然の殺戮もあった。スターリンの「意」をうけた殺戮者グループがいた。
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 ところで、この本については、10年以上前に、この欄の前のサイトで言及していた。
 2006年9月下旬にすでに。ぼんやりとある程度読んだ記憶があるだけで、書き込んだことまではすっかり失念していた。こんなことは他にもしばしばあるので、イヤになる。 №--0044・2006年09/23付でこうある。谷沢関係部分の全文。
 「谷沢永一・正体見たり社会主義(PHP文庫、1998)を2/3ほど読んだ。
 平易な語と文章で解りやすい。この本は同・『嘘ばっかり』で七十年(講談社、1994)の文庫化で、題名どおり日本共産党批判の書だ。
 今でいうと「…八十年」になるだろう。もっとも終戦前10数年は壊滅状態だったので、1945年か、実質的に現綱領・体制になった1961年を起点にするのが適切で、そうすると『嘘ばっかり』の年数は少なくなる。
 それにしても谷沢は日本近代文学専攻なのに社会主義や共産党問題をよく知っている。戦前か50年頃に党員かシンパだったと読んだ記憶があるが、『実体験』こそがかかる書物執筆の動機・エネルギ-ではなかろうか。」
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 谷沢永一の没後、昨年に、二巻選集が刊行された。
 浦安和彦編・谷沢永一・二巻選集/上・精撰文学論(言視舎、2016.01)。
 鷲田小弥太編・谷沢永一・二巻選集/下・精撰人間通(言視舎、2016.09)。
 とくに後者を一瞥したが、鷲田小弥太の解説・解読も読む価値がある。また、谷沢のすさまじい知識ぶりにも感心する。
 もっとも、誤っていると思われる事実認識や論評も散見される。
 こうした「知識人」が存在したことについて、種々、感じることもある。
 ①戦後日本の「大学」というもの、「大学教授」というものの存在。谷沢永一の生活を支え、こうした「自由」な言論ができたのも、「大学(教授)」という制度が存在したからだ。
 ②関西と東京(または首都圏)。中西輝政ですら、京都・関西と東京(首都圏)の言論人・論壇人(?)との<距離>について、何かで語っていた。
 東京集中のメディアと出版業界も関係する。京都よりさらに東京から「遠い」大阪にいたことも、<谷沢永一>を生んだに違いない。
 司馬遼太郎についてもまた、この観点を無視できないだろうと思われる。
 ③上に関係があるのかどうか、谷沢永一は<新しい歴史教科書をつくる会>の教科書を批判した。まだ生ぬるい、あるいは<左翼的・自虐的>だ、というのがおおよその理由だったかと思う。
 日本の<保守>論者、<保守>的言論の歴史も複雑だ。
 ④上の「下」に収載の<日本通史>(別に単行本になっていて、所持している可能性が高い)は、一人でここまで書ける<文学評論家>がいたのかと驚かせる。
 だが、反・非マルクス主義的であるものの、<天皇・皇室>を肯定的な意味で重視したり(なお、「天皇制」という語をマルクス主義概念だとして拒否する)、昭和天皇を称えたりと、ある意味では、1990年代までの(今もつづく?)「左翼・自虐史観」に反対するがゆえだと思われる、明治維新以降に関する歴史叙述があるのも印象的だ。
 この「知識人」もまた、時代の制約から全く「自由」ではなかった、と思われる。
 全く「自由」だった人、全く「自由」な人、はいるのか、と問われると、皆無と答えるしかないのかもしれない。
 個々の人間が、時代環境、所属する国家、思考するために使う言語、成長過程も含めて学校教育あるいは文献読書で入手した知識・情報から「自由」でないはずはない、ということだろう。
 上の③や④は別に触れるかもしれない。

1673/谷沢永一・正体見たり社会主義(1998)②。

 谷沢永一・正体見たり社会主義(PHP文庫、1998)
 ←原著、谷沢永一・「嘘ばっかり」で七十年(講談社、1994)。
 谷沢永一によるとレーニンの特徴は「徹底した現実主義、機会主義」で、「理論は否定しないが、即応もしない」というもの。そして、①既成理論に囚われず、②目的のためなら手段を選ばず、③「共産主義実現ためならすべてが許される」を方針とする。
 これはネップについても現れていて、「一時的に国内を鎮めるためなら、共産主義からの逸脱も厭わない」という考え方を象徴するものだ、とする。p.184-6。
 ネップ導入=「共産主義からの逸脱」との理解はおそらく適切なものだ。
 L・コワコフスキを参考にしていうと、ネップ導入は共産主義経済政策の失敗の是認だった。
 さらに言うと、「共産主義」経済自体が人間の本性に反するものであって、そもそもが成功する見込みがないものだった。
 食べて生きていく、そのために必要な物をまずは自分(・家族)のために得ようとする、という人間の本性を、「共産主義」は無視している。もともと、理論上・観念上の想定の失敗=非現実性がある。
 人間の本性を、イデオロギーや「独裁」あるいはテロルによって変えることができる、と考えること自体に欠陥があり、恐ろしさがある。
 元に戻ると、谷沢は、ネップについての日本共産党・不破哲三らの立論に言及していない。つまり、<市場経済を通じて社会主義へ>という路線の発見・明確化という(私に言わせれば)歴史の偽造に言及していない。
 また、この本の出版の前にあった1994年日本共産党大会での、<ソ連はスターリン以降は社会主義国ではなかった>論の珍奇極まりない登場についても、触れていない。
 広くよく知ってはいると思うが、継続的な、詳しい、日本共産党ウォッチャーではなかったようだ。マルクス、レーニン、スターリンを知ることも大切だ。日本共産党のときどきの主張や政策について知っておくことも重要だ。

1667/ロシア革命④-L・コワコフスキ著18章2節。

 ロシア10月革命は、「共産主義政党へと国家権力を移行させたという意味」ではなく、「マルクス主義者の予言を確認する、という意味」では、「共産主義革命ではなかった」。
 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism. =L・コワコフスキ・マルクス主義の主要潮流(1976、英訳1978、三巻合冊2008)。第2巻単行著・p.481、三巻合冊著・p.741。
 第18章・レーニン主義の運命-国家の理論から国家のイデオロギーへ。
 試訳、第2節の前回のつづき。
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 1917年の革命④(終)。
 こう言うことで、レーニンは、何が人民の利益であるのかを決めるのは人民の誰のすることでもない、というその持続的な信念を、ただ繰り返している。<この一文、前回と重複>
 彼は実際、『古い偏見への元戻り』をするつもりはなかった。
 しかし、しばらくの間は、独裁を農民層に対して、すなわちロシア人民(people)の大部分に対して、行使しなければならないとすれば、プロレタリア-トの圧倒的多数に支持される独裁はなおあり得るだろう、と考えた。
 この幻想(illusion)もまた、とっくに消え失せた。
 しかしながら、新しい国家は、最初から、労働者および農民の多数から支持されることを想定することができた。そうでなければ、レーニンが率直に認めたように、ソヴェト権力の将来が一度ならず脅威による縛り首に遭遇しかけた、戦慄するほどの内戦(国内戦争)の苦難を生き残ることができなかったはずだ。
 その年月の間にボルシェヴィキ党が示した超人間的な活力、そして党が労働者から絞り出すことのできた犠牲的行為が、経済的な破滅、甚大な人的被害、数百万の生命の損失および社会の野蛮化と引き換えに、ソヴェトの権力を救った。
 闘いの最後の局面では、革命はさらに、対ポーランド戦争の敗北にも遭遇した。これは、ソヴェト的体制を早い時期にヨーロッパへと移植することができるだろうとの望みを、最終的に打ち砕いた。//
 1919年4月23日に、レーニンはこう書いた。
 『ロシア人には、偉大なプロレタリア-ト革命を始めることは、まだ容易だった。
 しかし、彼らが革命を継続し、社会主義社会の完全な組織化という意味での最終的な勝利まで遂行するのは、より困難だろう。
 我々が始めるのは、まだ容易だった。その理由は、第一に、ツァーリ君主制という-20世紀の欧州にしては-通常ではない政治的な後進性が、大衆の革命的襲撃に通常ではない力強さを与えてくれたことだ。
 第二の理由は、ロシアの後進性が、ブルジョアジーに対するプロレタリア革命を、土地所有者に対する農民革命と独特なかたちで融合させてくれたことだ。』
 (『第三インターナショナルとその歴史上の地位』、全集29巻p.310〔=日本語版全集29巻308頁〕。)
 1921年7月1日、コミンテルン第三回大会で、レーニンは問題をより明快に述べた。
 『我々は、ロシアで勝利した。このように容易だったのは、帝国主義戦争の間に我々の革命を準備していたからだ。
 このことが、第一の条件だった。
 ロシアの数千万の労働者と農民が、戦闘をしていた。そして、我々のスローガンは、いかなる犠牲を払っても即時の講和を、というものだった。
 我々が勝利したのは、きわめて広範な農民大衆が大土地所有者に反抗する革命的な気持ちを持っていたからだ。』
 第二に、『我々が勝利したのは、持ち前のものではなく社会主義革命党〔エスエル〕の農業問題綱領を採用し、それを実践に移したからだ。
 我々の勝利は、社会主義革命党の綱領を実行したことにあった。』
 (全集32巻p.473, p.475〔=日本語版全集32巻504頁、506頁〕。)//
 レーニンは、実際、ロシアの共産主義者がヨーロッパの諸党のように『生産関係と生産力の間の矛盾』が必要な地点まで成熟するのを待たなければならなかったとすれば、プロレタリア革命の希望を捨て去るのを余儀なくされただろう、と認識していた。
 また、彼は、ロシアでの事態の推移は伝統的なマルクス主義の図式(schemata)と何の関係もない、とうことを十分に意識していた。その全ての関係にかかる理論上の問題を考察しなかったけれども。
 ロシア革命の圧倒的な力強さは、労働者とブルジョアジーの間の階級闘争にあったのではない。そうではなく、農民層の熱望、戦時中の大失敗、そして平和への渇望にあった。
 共産党(共産主義党)へと国家権力を移行させたという意味では、共産主義革命だった。
 しかし、資本主義社会の運命に関するマルクス主義者の予言を確認する、という意味での共産主義革命ではなかった。//
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 (+) 日本語版全集を参考にして、ある程度は訳を変更した。
 第2節、終わり。第3節の表題は、「社会主義経済の始まり」。<ネップ(新経済政策)>への論及が始まる。

1622/知識人の新傾向①-L・コワコフスキ著17章2節。

 Leszek Kolakowski, Main Currents of Marxism (1976, 英訳1978, 三巻合冊2008).
 第17章・ボルシェヴィキ運動の哲学と政治。試訳をつづけて、第2節に移る。
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 第2節・ロシア知識人の新傾向①。
 ロシアの知識階層は、世紀の変わり目に、長い間、支配的な思想の様式だった実証主義、科学主義、および唯物論を放棄する目覚ましい傾向を見せた。
 同じ傾向は、詩歌、絵画、戯曲にある哲学や社会思想において、ヨーロッパ全体で見られた。
 最後の四半世紀の、自由に思考する典型的なロシア知識人は、つぎのように、考えた。
 科学は、社会生活および個人生活に関する全ての問題への解答を用意する。
 宗教は、無知と欺瞞により維持される迷信の集合体だ。
 生物学者の解剖メスは、神と霊魂を消滅させた。
 人間の歴史は、抗しがたく、『進歩』へと強いられている。
 専政体制、宗教およびそのような全ての抑圧に反対して進歩を支援するのは、知識人階層の任務だ。
 歴史的楽観主義、合理主義、および科学のカルト(the cult)はスペンサー(Spencer)流の進化論的実証主義の主眼で、19世紀の唯物論の伝統によって強固なものになった。
 その初期の段階でのロシア・マルクス主義は、継承した世界観のこれらの要素に誇りの場所を譲った。
 確かに、19世紀の後半はチェルニュイシェフスキー(Chernyshevsky)およびドブロリュボフ(Dobrolyubov)の時代のみならず、ドストエフスキー(Dostoevsky)やソロヴィヨフ(Solovyov)の時代でもあった。
 しかし、知識人階層の最も活力に満ちた影響力のある部分、そして人民主義者(Populist)であれマルクス主義者であれ、大多数の革命家たちは、合理主義的かつ進化主義的な公教要理(catechism)を、ツァーリ体制や教会に反対する彼らの闘いの自然な付随物だと受け容れた。//
 しかしながら、このような見方は、1900年代初めには、前世紀の科学的、楽観的および集産主義(collectivist)的な理想を拒絶するという以外に共通する特質を見分けるのが困難な、多様な知的態度へと途を譲り始めた。
 カント(A. I. Vvedensky)あるいはヘーゲル(B. N. Chicherin)の様式の講壇哲学に加えて、非講壇哲学者による新しい著作が、宗教的、人格主義(personalist)的、非科学的な雰囲気を伝えた。
 多数の西側の哲学者が翻訳された。ヴント(Wund)やヴィンデルバント(Windelband)のみならず、ニーチェ(Nietzsche)、ベルクソン(Bergson)、ジェイムズ(James)、アヴェナリウス(Avenarius)、マッハ(Mach)、そして自己中心的無政府主義者のマックス・スティルナー(Max Stirner)とともに、フッサール(Husserl)ですら。
 詩歌の世界では象徴主義や『退廃』が花盛りで、ロシア文学は、メレジュコフスキー(Merezhkovsky)、ジナイダ・ギピウス(Zinaida Gippius)、ブロク(Blok)、ブリュソフ(Bryusov)、ブーニン(Bunin)、ヴャチェスラフ・イワノフ(Vyacheslav)およびビェリー(Byely)といった名前で豊かになった。。
 宗教、神秘主義、東方カルトおよび秘術信仰主義(occultism)は、ほとんど一般的になった。
 ソロヴィヨフ(Solovyov)の宗教哲学は、再生した。
 悲観主義、悪魔主義、終末論的予言、神秘や形而上的深さの探求、奇想天外嗜好、色情主義、心理学および自己分析-これら全てが一つの現代的な文化へと融合した。
 メレジュコフスキーは、ベルジャエフフ(Berdyaev)やロザノフ(Rozanov)とともに、性に関する隠喩で思い耽った。
 N・ミンスキー(Minsky)はニーチェを絶賛し、宗教的な詩歌を書き、そしてボルシェヴィキに協力した。
 元マルクス主義者は、彼らの祖であるキリスト教信仰へと戻った。宗教への関心を反啓蒙主義や政治的反動と同一視していた世代が、科学的無神論を純真で頑固な楽観主義の象徴だと見なす世代に、途を譲った。//
 1903年に、小論文を集めた、<観念論の諸問題(Problems of Idealism)>が出現した。執筆者の多くは、かつてマルクス主義者だったが、マルクス主義と唯物論を、道徳的虚無主義、人格軽視、決定主義、社会を作り上げる個人を無視する社会的価値の狂信的な追求だと、非難した。
 彼らはまた、マルクス主義を、進歩を崇拝しており、将来のために現在を犠牲にしていると攻撃した。
 ベルジャエフは、倫理的な制度は唯物論者の世界観にもとづいては設定することができない、倫理はカント的なあるものとあるべきものの区別を前提にしているのだから、と主張した。
 道徳規範は経験から演繹することができず、ゆえに経験科学は倫理に対して有用ではない。
 この規範が有効であるためには、経験の世界以外に、そうであることを知覚できる世界が存在しなければならない。その有効性はまた、人の自由な、『本態(noumeal)』的性質を前提とする。  
 かくして、道徳意識は自由、神の存在および霊魂の不滅性を前提とする。
 実証主義や功利主義(utilitarianism)は、価値に関する絶対的な規準を人に与えることができない。
 ブルガコフ(Bulgakov)は、唯物論と実証主義を、形而上の謎を解くことができない、世界と人間存在を偶然の働きだと見なす、自由を否定する、道徳価値に関する規準を提供しない、という理由で攻撃した。
 世界とそこでの人間存在は、神の和合への忠誠に照らしてのみ、知覚することができる。そして、社会への関与は、宗教上の義務の意識に他ならないものにもとづいてこそ行うことができる。
 我々の行為が聖なるものとの関係によって意味を持つときにのみ、我々は、真の自己認識と、至高の人の価値である人格の統合とについて語ることができる。//
 <観念論の諸問題>のほとんどは、つぎのことで合意していた。すなわち、法規範または道徳規範の有効性は、非経験的世界を前提とするということ。そして、人格は本来固有の絶対的価値であるがゆえに、自己認識は社会からの要求の犠牲になってはならないということ。
 ノヴゴロツェフ(Novgorodtsev)は、<先験的にある>正義の規範に法が基礎づけられる必要性を強調した。
 ストルーヴェ(Struve)は、世界的な水平化や人格の差違の除去という意味での平等性という理想を批判した。
 執筆者のほとんど、とくにS・L・フランク(Frank)は、彼ら人格主義者(personalist)の見方を支持するために、ニーチェを援用した。その際にニーチェの哲学を検討して、それは道徳的功利主義、幸福追求主義、奴隷道徳を批判している、かつ『大衆の福祉』のために人格的な創造性を犠牲にすることを批判している、とした。
 ストルーヴェ、ベルジャエフ、フランクおよびアスコルドフ(Askoldov)は全てが、ニーチェが社会主義を凡人の哲学であり群衆の価値だとして攻撃していることを支援して宣伝した。
 全ての者が社会主義の理想を、抽象観念としての人(Man)のために人格的価値を抑圧することを企図するものだと見なした。
 全ての者は、歴史的法則や、<先験的な>道徳規範の恩恵のない経験上の歴史に由来する進歩の規準について、懐疑的だった。そして、社会主義のうちに、人格に対して暴威を奮う、抽象的な『集産的な(collectiv)』価値への可能性を見た。//
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 ②へとつづく。

1616/社会主義・ドレスデン-若き日の。

 私的に喋ったことはあるが、文章で記したことはない。今のうちに書き残しておこう。
 1989年ベルリンの壁崩壊(開放)以前の旧東ドイツ。ドイツ民主共和国と日本で称された国家がかつてあった。その時代の、ドレスデン(Dresden)。 
 一、一人の「自由行動」のとき。
 ・たぶん強制的に国境で交換させられた東ドイツ・マルクと思っていたものが「インター・ショップ(Intershop)」の金券のようで、ふつうの店では通用しない。
 そこで銀行らしきものへ行ってふつうの東ドイツ・マルク(紙幣)に替えてもらおうと少し並んだあとで提示すると、中年から初老の係員・男性が、自分のたぶんズボンの中から紙幣を取り出して、交換してくれた。
 そのときは、何しろ言葉の問題もあり、よく分からなかった。その紙幣を使って、街の中でふつうに買い物をした。
 あとで考えると、あのオジさんは、自分の私的な金と「インター・ショップ」の金券とを替えている。「インター・ショップ」とは(いつ、きちんと理解したか怪しいが)、東ドイツから見ての外国人専用の店だ(少し割高なのだろうが、販売されている品物の種類が少なかった、と思う)。
 つまり、「インター・ショップ」で、外国人しか買えない商品を、彼は購入したかったのだ、と思われる。
 だから、おそらく、たまたま東洋人が交換するために来たのを好機に、個人の金と交換したのだ。きっと、職務違反だったのではないか。
 ・その金・紙幣を持って、入った一つが書籍店だった。
 ①ドレスデンの市街地図、②国家または共産党(社会主義統一党)発行の本を数冊、などを買った。
 ①は、勝手に持ち出してよいのか、とたぶん在東独中にすでに懸念した。しかし、出るときには入るときのような厳密な検査はなく、問題はなかった。しばらく日本でも持っていたが、のちに結果として再訪するときには、もう見失っていた。
 その地図には、たぶん、宿泊場所も自分でマークしていたように思うが、再訪時以降ずっと、いったいどの辺りに泊まったのか分からなくなった。
 個室の寝室と建物の印象だけは、少し記憶がある。
 ②は、たぶん今でも持っている。現在は古書でも入手し難いだろう、東独共産党の綱領を説明したような小冊子もある。あとは、かつての仕事に関係がある書物。紙質が、当時の西ドイツのものと比べて、はるかに悪い。
 ・帰りのバスの発車時刻・場所に早く行って立って待っていると、小ぎれいな少年がまとわりついて何か言うので、ゆっくり聞いてみると、「その腕時計を僕にプレゼントしてくれないか?」だった。
 プレゼントとは正確には、schenken で<贈る>というような意味だ。
 「くれないか?」、geben では失礼だと思ったのだろうか。
 年齢を訊くと、11歳だと答えた(数字なので、簡単に聴き取れる)。
 日本について何か知っている?、と尋ねると、答えは短くて、ほとんど「産業(・工業)」という言葉だった、と思う(たぶん)。Industrie, industry だ。
 使用中の腕時計を渡すわけにはいかないので、どうしようかと思っていると、ふと使い残しの<東ドイツ・マルク紙幣>があるのに気づいて、キリのよいところで数枚か、または紙幣全部かを与えた。西独で通用するはずはないので、記念にでも持って帰ろうと思っていたのだろう。
 腕時計の価格よりはだいぶ少ないが(おそらく)、彼にはきっと大きな臨時収入だっただろう。
 その場所も、今ではすっかり忘れてしまった。塀か建物に囲まれた広い敷地内を十台未満の、灰色の自動車が走っているのが見えた。あとで西独か日本で、<トラバンテ>という名前だと知った。その特定の種類の同じ型の車しか見なかった。
 二、つぎに、そのとき知り合った別の日本人一人(男性。以下、『彼』)と二人だけで「自由」に行動したとき。
 ・年長の彼は、はるかにドイツ語が流暢だった。
 二人でどこへ行こうかと迷っていたときに(私はたぶんほとんど彼に任せていた)、地図か何かを見たあとで、彼が、今思うとドレスデン中央駅の旅行案内所のような場所だったが、係の女性に尋ねた。
 「カール・マルクス・シュタット。これ、いい響きたけど、どう?」
 「シュタット」とは市・都市のことだ。その当時、じつに感慨深く思いもするが、「カール・マルクス・シュタット」という都市が、ドレスデンの西南方にぁった。今の、ケムニッツ(Chemnitz)だ<ツヴィカウ,Zwickau と書いていたのは誤りー後記>。
 彼の「いい響きだ」とは、たぶん単純に、klingt gut だった。
 褒められるとふつうは嬉しく思うようにも思うが(?)、こうして記憶に残っているのは、何とも不思議な、どう反応してよいか分からないふうの表情を、相手の東独女性がしたからだ。
 東洋人に「カール・マルクス」市って、よい響きだね(、行ってみる価値がある?)」と言われて、戸惑うのも理解できるような気もする。
 なお、余計かもしれないが、「彼」 はマルクス主義者でではない(はずだ)。しかし、カール・マルクスの名とそれが持つ東ドイツにとっての意味くらいは知っていたことになる。そして、東ドイツの真ん中で<カール・マルクス>市って<いい響き>の名だと東独の人に言うのは、かなりの勇気と根性のある人だったのではないかと、少しは面白く思い出す。彼は現在の私よりは、はるかに若かった。  
 ・ライプツィヒ(Leipzig)まで1時間くらい鉄道に乗って行った。彼と一緒だからこそ乗れて、行けた。
 西独は当時「ドイツ連邦鉄道」だったが、東独は「ドイツ・ライヒ鉄道」。「ライヒ」はつうは「帝国」と訳すのだが、東独が「帝国」というのは奇妙だろう。ドイツの現在は同じDBでも、民営化(または半民営化)されて、「ドイツ鉄道」になった。
 余計だが、ワイマール憲法は、正式には、「1919年…のドイツ・ライヒ憲法(Reichsverfassung)」という。
 ライプツィヒ中央駅からたぶん歩いて、バッハゆかりの教会まで行った。中に入った記憶はないが、近くの建物の地下にある、喫茶店かレストランに入って、喫茶したか、軽食を摂った。
 駅までの帰り途中で、屋外に作った長い幅広の廊下のごときものの上で、若い女性が(数人だったか)歩き回っていた。彼はすぐに分かったようで、彼によると、西独または外国から来たファッション・モデルで、本来は衣服の宣伝の催しのようだった。長居しなかったのは、ドレスデンまで帰る必要があったからだろう。
 ・途中で降りて、マイセン(Meissen)にも寄った。
 市役所か大きな建物の上の方の壁に、きっと彼が訳してくれたのだが、こう書いてあった(ようだ)。字数はもっと長かった気もする。
 「我々を解放してくれた、ソヴェト・赤軍に感謝する!!」。何と。
 夕食にしようと長い行列にくっついて待っていたが、なかなか順番にならない。いいかげんに疲れてきたところで、彼が「ダメだ、無視されている」とか言って、そこで食事にするのは諦めた。では、どこで食事したのだろうと思うが、記憶がない。
 ・明らかにもう一度鉄道に乗って(だが、記憶がない)、ドレスデンまで帰ってきた。
 と言っても中央駅ではなく、ベルリン寄りの一つ北の駅で降りた。エルベ川よりも北。
 直訳すると「ドレスデン・新都市」駅になる。新都市=Neustadt 。大阪、横浜に対する「新大阪」、「新横浜」といったところか。全く同じような位置関係・雰囲気でもないが。
 その駅を出て、休憩しようと、休憩・待合室に入った。広いホールのようだった。
 そこで、最も記憶に残る経験をした。
 座って、彼が「自動的に」タバコを取り出して吸おうとライターで火をつけようとした瞬間、前に座っていた(4人または6人掛けの大きな古い木テーブルだった)東独男性の1人が、<ダメ>と言った。さらに、<警察(Polizei)>という語も分かった。
 要するに、その部屋は禁煙で、喫煙などはもっての外、見つかると<警察>がくるぞ!、あるいは<警察>が来てやられるぞ!、とか言っていたのだ。大変な目つきだった。
 彼は、<座るとつい自動的に(automatisch)>とか言って、釈明した。
 そういう光景もなのだが、それ以上に印象に残ったのは、そのホール状の休憩・待合室の<異様な>雰囲気だ。
 ホールのようと書いたが、少なくとも20ほどはテーブルがあっただろう。
 そして、ほぼ満席だった。空いている箇所を見つけて二人は座った、と思われる。
 鉄道駅の駅舎の中にあったのだからきっと休憩・待合室のはずなのだが、鉄道を利用する雰囲気の人々では全くなかった。おそらく全員が男性、しかもほぼ40-55歳の中年男性だった。
 そういう人たちが、時間的には自宅で夕食を摂る直前の時間帯だっただろうか、何をするでも、何かを隣席の者と陽気に話すのでもなく、ただぼんやりと、じっと座って、何かを考えているふうだった。
 記憶に残るというのは、日本でも西独でも、かつ今までどの時間でもどの国・地域でも、あれだけの人数のほぼ同年代の(かつ似たような服装の)男たちが、じっとうずくまるように、あるいは疲れたふうに、気だるく、無気力でほとんど黙って座っているのを、見たことがないからだ。
 あれは一体何だったのだろうと、思い出す。
 失業中の人たちというのでもないだろう。たぶん、仕事が終わって、自宅に帰るまでの間(そういうものがあるという前提だが)、自由に(無料で)利用できる、自由に(無料で)座れる駅舎の中の広い部屋で<時間を潰して>いたのだ、と思われる。
 <社会主義・ドレスデン>というと、このイメージが強くある。
 灰色。黒に近い方の灰色。服装も、駅舎も、少しは茶系統の色が混じっていたはずだが(木製のテーブル等だったので)、そういうほぼ単色の記憶が残る。
 そこに、100人近い、少なくとも50人以上の男たちがじっと座っていた。陽気で愉しい会話らしきものは、何も聞こえなかった。
 慌ただしくそこを去って宿泊場所に戻り、かつ慌ただしく翌日には西ドイツに再びバスで戻ったはずだが、このときの記憶はずっと残り続けた。 
 --
 ドイツの再統一後、このドレスデンに合計で一週間ほど滞在するとは思ってもいなかった。
 というよりも、この経験があったからこそ、より自由に行ける時代になって、ドレスデンを再訪してみたかったのだと思われる。
 そしてまた、1992年以降に再訪したときの主な宿泊場所は、最寄りの鉄道駅が上記の「ドレスデン・新都市」駅だった。駅舎の建物自体のの大枠は変わっていないと思われた。旧時代もまた高架駅で、すぐ南に直角に下をくぐる通りがあった。
 休憩・待合室がかつてあったらしき場所も駅舎内にあった。
 だが、日本でいうコンビニ又はキオスク、花屋、等々に分割されていて、かつての雰囲気を思い出させるものは、何もなかった。しかし、同じ場所には立った。南北方向の駅舎の中央に東から入る、乗降に使う空間・通路があり、その空間と南側の一つの幹線道路らしき通りの間、つまり駅舎の南半分あたりに、かつての休憩・待合室はあった。
 夕方の賑わいぶりは、全く違う駅と街だと思わせるほどだった。しかし、駅の名前と駅舎の大枠は変わっていない。
 --
 この都市名、ドレスデンも、日本人には正確に発音しづらい。最初を強調して、レースデンと、「ド」を付けない方がむこうでは理解されやすいのではないか。
 ベルリンは当時も「西ベルリン」が「西側」諸国に開いていたので、ベルリンは訪れる機会が全くなくはないだろうと思っていた。だが、ドレスデンは、その機会に行かないとたぶん絶対にじかに見ることないだろうと当時は思っていた。
 だから、いくつかの「東ドイツ」訪問小旅行の企画のうちで、ドレスデン行きを選んだのだった。

1540/「左翼」の君へ⑧完-レシェク・コワコフスキの手紙。

 Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
 前回のつづき。⑧。
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 しばらくの間に、伝統的な社会主義の諸装置のいくぶんかが、予期しなかったやり方で資本主義社会にそっと這入り込んでいるように思える。
 最も近視眼的な政治家たちですら、全てを金で買うことができるわけではないと、大金を積んでも清浄な空気、水、広い土地その他の自然資源を買えないときがくるかもしれないと、分かっている。
 そしてそうだ、『使用価値』が徐々に経済の中に戻ってくる。
 人類が生ゴミの処理の仕方を知らないことから生じる、『社会主義』の逆説的な結論だ。
 この帰結は官僚制の増大であり、権力の中心にいる者たちの役割の増大だ。
 共産主義が考案した唯一の治療薬-国民資産に対する中央集中型の、抑制されない国家所有と一党支配-では、治癒されるべき病気はさらに悪くなる。経済的には効き目がないし、社会関係の官僚的性格を絶対的な原理にしてしまう。
 高い程度の自治権を小さな諸共同体のためにもつ、非中央集中的な社会という君の理想を、高く評価する。そして、こうした伝統への君の執着について、共感する。
 しかし、私的所有からではなくて技術の発展から生じる、中央集中的官僚制につながる力強い権力の存在を拒否するのは愚かだ。 
 この状況を見通す一つの方法でも知っているつもりなら、『平和的な革命を起こす、そうすればこの趨勢は逆転する』と言って解決策を見つけたと想うなら、君は自らを欺いているし、言葉の魔術の犠牲者になっている。
 複雑な技術的組織網に社会が依存すればするほど、それだけ多く諸問題は中央権力によって規制されければならない。国家官僚制が力強くなればなるほど、政治的な民主主義や『形式的』、『ブルジョア的』自由が支配機構を抑制する必要、個人の弱まりうる権利をそのままにして個人に保障する必要が、ますます大きくなる。
 全てを包含する、政治的な(『ブルジョア的』な)民主主義がなくして、いかなる経済民主主義も産業民主主義も、かつてなかったし、また存在することはできない。
 現代社会が課す相反する責務をどのようにして調和させるべきかを、我々は知らない。
 我々には矛盾のない安定した社会の青写真はないのだから、ただ、これら責務の間の不確定な平衡状態に到達するように努めることができるだけだ。
 どこか別の箇所で書いたことを、繰り返そう。
  『心配しないで、平穏にかつ安全に、その人生の余後を過ごせるだけの資金を一瞬で得る方法について考えている人々の心構えが、私的な生活にはある。
 そして、明日までどうやって生きようかと懸念しなければならない人々の心持ちもある。
 人間社会というのは、全体としては、かつて得た金銭のおかげで生涯にわたる保険金があったり株式配当金があったりする、年金受給者のような幸せな地位には決しておれないだろう、と私は思う。
 人間社会の地位は、翌日までの生活の仕方に困惑している日雇い職人のそれに似ているだろう。
 夢想家(ユートピアン)というのは、人類を年金生活者の地位に置こうと夢見る人々、そうした地位は素晴らしいもので、代償(とくに道徳的な代償)がそれを獲得するには大き過ぎはしないと確信している人々だ。』//
 こう書くのは、社会主義とは死滅した選択肢だと意味させてはいない。
 そうは考えていない。
 だが、この選択は、社会主義国家の経験によってのみならず、信奉者たちの自信を理由として、彼ら信奉者が行なう社会を変えようとする努力にも限界があること、および要求と信条となった価値とを両立させられないこと、の両方に直面して彼らが何もできないことを理由として、破滅した。
 簡単に言うと、社会主義を選択する意味は、完全に、そのまさしく根源から修正されなければならない。//
 『社会主義』と言うとき、私は完璧な国家を意味させず、平等、自由および効率性への要求を達成しようとする運動を想定している。どの価値のいずれにも別々に隠れている諸問題の複雑性だけではなくて、諸価値は相互に制限し合い、それらは妥協を通じてのみ充たされうるということに気づいているかぎりで、諸困惑に対処する資格があるような運動をだ。
 そう考えないなら(またはそう考えているふりをしなければ)、自分や他人を笑い物にしている。
 全ての諸制度の変更は、全体としてこれら三つの価値に奉仕する手段だと見なさなければならず、それら自体に目的があると考えてはいけない。
 そうした変更は、一つの価値を増大させるときに別の価値を犠牲にする対価を考慮に入れて、相応に判断されなければならない。
 諸価値のいずれかを絶対的なものと見なしたり、全てを犠牲にして諸価値を実現しようとする企ては、残る二つの価値を破滅させることに必然的になるだけではなく、その一つの価値をも結局は破滅させるに違いない。
 注意しなければならない(nota bene)。これは、貴重な過去から発見したことだ。
 絶対的な平等性は、特権を与えるがしかし換言すると平等性を破壊するのを意味する、独裁的な支配制度においてのみ達成されうる。
 完全な自由は、無政府状態を意味する。無政府状態は、肉体的な最強者が支配することに結果としてはなる。つまり、完全な自由は、その反対物に変わる。
 至高の価値としての効率性は、再び独裁制を呼び起す。そうして、技術が一定のレベル以上になると、独裁制は経済的には非効率だ。
 こうした古くて自明のことを繰り返すのは、彼らがまだ夢想家の思考方法に気づかないままで歩んでいるように見えるからだ。
 それはまた、ユートピアを描く以上に簡単なことは何もない、ということの理由だ。
 この点で、我々が合意できると望む。
 そうできるなら、寛容になってお互いを許し合いたい、若干の辛辣な意見を交換し合った後であっても、他の多くの点で合意できる。
 共産主義は原理的に優れた発明品だと、優れた応用について決していくぶんかも損なわれていないと、君がまだ思い続けているなら、この合意には達しそうにないだろう。
 長年にわたって君に説明してきた、と思う。
 何をって、私が何故、共産主義思想を修繕したり、刷新したり、浄化したり、是正したり〔mend, renovate, clean up, correct〕する試みに、いっさい何も期待しなくなったのか、だ。
 哀れむべき、気の毒な思想だ。私は知った、エドワード君よ。
 これは二度と微笑むことがないだろう。
  君に友情を込めて。/レシェク・コワコフスキ。
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 終わり。上掲書、p.115-140。

1538/「左翼」の君へ⑦-L・コワコフスキの手紙(1974年)。

 前回のつづき。
  Leszek Kolakowski, My Correct View on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012).
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 君の推論の中に…がこだまとなって鳴り響いているのが、少しは嫌だね。
 しかし、それ以外に多くのことがある。
 君は社会に関して範疇でまたは世界的『体制』-資本主義か社会主義か-で考えるので、つぎのように信じる。
 1) 社会主義は、今は不完全だが、本質的に人間発展の高次の段階だ。そして、『体制』としての優越性は、人間の生活にかかわる個別の事実に示されているか否かとは関係がなく、確かなこと(valid)だ。
 2) 非社会主義世界に見られる全ての否定的事実-南アフリカの人種差別、ブラジルの拷問、ナイジェリアの飢餓、あるいは英国の不適切な健康サービス-は『体制』に原因がある。
 一方、社会主義世界内部で生じている類似の事実も、『体制』に、しかし同じ資本主義体制に責任があり(旧社会の残存、孤立化の影響等)、社会主義体制にではない。
 3) この優越性または社会主義『体制』を信じない者は、『資本主義』は原理的に立派なものだと考えるように強いられており、またその怪物性を正当化したり隠蔽したりするように強いられている。換言すれば、南アフリカの人種差別やナイジェリアの飢餓等々を正当化することをだ。
 したがって、君の絶望的な気分は、言っていない何かを私に語らせようと試みている。
 (本当に、君の考えは私には全くあてはまらないから、君は私の良心を覚醒させようとするし、例えば、西側諸国にはスパイがいたり盗聴装置があると説明する。実際に ? 君は冗談を言っているのか ?)
 言う必要もないが、こうした独特の推論方法は、全ての経験的事実を重要ではないとして無視できるので、絶対的に反駁不可能なのだ。
 (『資本主義体制』内部で起きる何かの悪事は、定義上、資本主義の産物だ。『社会主義体制』で起きる何かの悪事は、同じ定義上、同じ資本主義の産物だ。)
 社会主義は、生産手段の全体的またはほとんど全体的な国家所有という『体制思考』の範囲内に限定されている。
 君は明らかに、雇用労働の廃止という意味では社会主義を定義できない。経験上の社会主義はこの点で資本主義と違っているとしても、囚人の直接の奴隷的労働、労働者の半奴隷的な労働(働く場所を変更する自由の廃止)および中世的な農民のglibae adscriptioを復活させていることのみで違っていると君は知っているからだ。
 そう、こうした推論構造の範囲内で、全ての現実の悪魔でなくとも、悪魔の根源は、私的所有の廃止でもってこの地上から根絶される、と信じることは首尾一貫性をもつ。
 しかし、私が論及したこれら三つの叙述は、経験上は論証も反証もいずれも不可能な、イデオロギー上の傾倒を表現したものに他ならない。
 君は、『体制』という言葉を使う思考は優れた結果をもたらす、と言う。
 全くそのとおりだが、優れているだけではなくて、奇跡的な結果だ。
 それは、一撃でもって平易に、人類の全ての諸問題を解決してしまう。
 これこそが、この次元の科学的意識に(私自身のように)到達しなかった人々が何故、世界の救済のためにこの簡単な道具を使うことを知らないのかの理由だ。
 ベルリンあるいはネブラスカのどの大学二年生でも、知っていることなのに。すなわち、社会主義世界革命。//
 <〔原文、一行空白〕>
 結語反復という消滅しつつある技法の権威を復活させるがごとき、君が書いた話題を全て尽くしたわけではない。
 しかし、ほとんどの論争点には触れたと思う。
 現時点で我々を分かつ深淵には、橋が架けられそうにない。
 君は自分をまだ、見解が異なる共産主義者または一種の修正主義者だと考えているように見える。
 そうは私は自分を見ていないし、長い間そう見なかった。
 1956年からの議論の間に君はその立場を明確にしているようだが、私は違う。
 あの年は重要で、かつ幻想も大きかった。
 しかし、出現したあとですぐに、幻想は打ち砕かれた。
 君はたぶん、人民民主主義国で『修正主義』とレッテルを貼られたものはほとんど(きっとユーゴスラヴィアを例外として)消失したと分かっている。この消失は、人民民主主義諸国の若者も老人も、自分たちの状況を『真正な社会主義』、『真正なマルクス主義』等の言葉で考えるのを止めたことを意味する。
 彼らは(しばしば受動的にではなく)より大きな国家の独立、より多大な政治的かつ社会的自由、そしてより良き生活条件を望んだのであり、決してそうした要求に社会主義に特有な何かがあったからではない。
 公式の国家イデオロギーは、逆説的な状況にある。
 支配する国家機関がその権力を法的に正当化できる唯一の方法だから、それは絶対に不可欠のものだ。そして誰も、それを信じてはいない。-支配者も被支配者も(両者ともに別の者および自分たちが信じていないことを十分に気づいていた)。
 西側諸国のほとんど全ての、社会主義者だと(ときには共産主義者だとすら)自認する知識人は、私的な会話では社会主義思想は深刻な危機にあると認める。だが、ほとんど誰も、それを活字上では認めようとしない。
 ここにある楽観的な陽気さは義務的なもので、我々は『一般大衆の間に』疑念や混乱の種を撒いたり、敵に役立つ論拠を与えたりしてはいけないのだ。
 これは自己防衛策だと君が考えるかどうかは、確実ではない。そう考えていないと思いたい。//
 しばらくの間に、伝統的な社会主義の諸装置のいくぶんかが、予期しなかったやり方で資本主義社会にそっと這入り込んでいるように思える。
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 ⑧につづく。

1532/「左翼」の君へ③-L・コワコフスキの手紙。

 Leszek Kolakowski, My Correct Views on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012). p.115-p.140.
 前回のつづき。
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 君が極楽に住み、我々は地獄にいると君に信じさせようとしているのではない。
 私の国のポーランドでは、飢えで苦しんでいないし、刑務所で拷問されているわけでもないし、集中強制収容所もない(ロシアと違って)。最近二年間は数人の政治犯がいただけだし(ロシアと違って)、多くの人が比較的容易に国外へ行ける(再び、ロシアと違って)。
 しかし、国家の主権は奪われている。これは、フット氏やパウェル氏が共通市場に入ればイギリスは主権を失うかもしれないと言っているのとは意味が違い、悲しくも直接的かつ明白な意味においてだ。
 軍事、外交、貿易、重要産業およびイデオロギーといった生活について鍵となる部門は、相当に几帳面に権力を行使する外国の帝国の硬い統制のもとにある、という意味だ。
 (例えば、特定の書物は発行できない、特定の情報は明らかにされない、深刻なことについて語ってはいけない。)
 まだ言えば、ウクライナ、リトアニアのような国々と我々を比べると自由の縁の部分をたくさん享受している。
 これら諸国は、自立の政府の権利に関するかぎりでは、イギリス帝国の昔の植民地よりも状況は数段悪い。
 この自由の縁は、重要なんだけれど(ハンガリー以外の『ルーブル』地域の他のどこより、重要なことを言ったり出版したりできる)、法的な保障に何ら支えられていなくて、全てが(かつてそうだったように)一夜のうちに、ワルシャワかモスクワにいる党支配者の決定によって消滅してしまう。これが、問題なのさ。
 これはたんに、権力の分化という詐欺的なブルジョア的装置がないことによる。単一性という社会主義者の夢を実現したのだが、これは同じ国家機関が立法権、執行権、司法権、さらに加えて全生産手段を支配する権力をもつことを意味する。
 同じ人間が法を作り、解釈し、実施する。国王で、議会で、軍司令官で、裁判官で、検察官で、警察官で、(新しく社会主義が生み出した)全ての国富の所有者で、唯一の雇用者で、全てが同じ机にいる-どんなに社会主義単一性が素晴らしいか、君は想像できるか ?。//
 君は政治的な理由でスペインに行かなかったことが誇りだ。
 私は原理的でないので、二度行った。
 抑圧的で非民主主義的だのに、あの体制は他のどの社会主義国よりも(たぶんユーゴスラビアを除いて)市民に自由を与えている、と言うのは不愉快だ。
 小気味よく(Shadenfreude)言っているのでなく、恥ずかしげに言っている。内心には内戦に関する哀感を持ち続けている。
 スペインの国境地帯は開かれていて(この場合に毎年300万人の観光客がいる理由を気に懸けるな)、その開かれた国境には全体主義的支配は働いていない。
 スペインでは、出版について事後検閲はあるが事前にはない(私の本は出版されて押収され、その後で数千部のコピーが売れた。ポーランドで同じ状態だったらよかったのだが)。
 スペインへ行くと、書店にはマルクス、トロツキー、フロイト、マルクーゼ等々がある。
 我々のように彼らには選挙がなく、政党がない。しかし、我々と違って、国家と支配政党から独立した多様な形態の組織がある。
 スペインは、国家として主権をもつ。//
 現存する社会主義国に理想など見ていないし、民主主義的社会主義のことを考えていると君は明言できるので、私は無駄のことを書いているようにたぶん思っているだろう。
 たしかにそうだ。そして私は、社会主義秘密警察の支持者だと君を責めはしない。
 それでも、私が言おうとしていることは、君の論考には二つの理由できわめて重要だ。
 第一に、現存する社会主義国を(確かに不完全な)新しくより良い社会秩序の始まりだと、資本主義を超えて進みユートピアを目指している過渡的な形態だと、考えている。
 この形態が新しいことを否定しないが、それがいかなる点でもヨーロッパの民主主義諸国よりも優れているというのは否定する。
 私は君の言うことを否認して、逆のことを論証する。言い換えると、民主主義制度を上回る(人々には厄介さは少なくても)全ての専制制度の悪名高き利点を除いて、現存社会主義が主張するのかもしれない優越性が根拠とする点を示す。
 第二の同じく重要なのは、民主主義的社会主義の意味を君が知っているふりをしているが、じつは知らない、ということだ。
 君は、つぎのように書く。『2000年先にある私自身のユートピアは、モリスのいう「残余時代」のようなものではない。それは(D・H・ローレンスならこう言うだろうように)「貨幣価値」が「生活価値」に、または(ブレイクならこう言うだろうように)「肉体」戦争が「精神」戦争に道を譲る世界だろう。
 ある男女は、力の源泉を容易に利用できるようになり、シトー派の修道院のように偉大な自然美の中心に位置する、単一化した諸共同体で生活するのを選べる。そこでは、農業、工業および精神的な仕事は、結びつき合っている。
 別の男女は、多様さを好んで、都市国家のいくつかの長所を再発見する都市生活の歩みを選ぶかもしれない。
 また別の人々は、隠遁の生活を選ぶだろう。
 これら三つうちをどれでも、みんなが選ぶことができる。
 学者は、パリで、ジャカルタで、ボゴタで、議論を続けることになる。』//
 これは、社会主義者の著述のきわめて良い例だ。
 世界は善良であって悪くないはずだ、と語るにまで至っている。
 この点については君の側に、完全に立つ。
 人々の心が際限のない金の追求に占められたり、需要が無限の成長をもたらす魔法の力をもったり、使用価値ではなく利益の動機が生産を支配する、といったことはきわめて嘆かわしいことだ。そのような結論をもたらす君の(マルクス、シェイクスピア、その他多数の)分析者たちと、私は無条件に、同じ立場だ。
 君が優秀なのは、こうしたことから抜け出す仕方を正確に知っていることだ。私は、知らない。//
 左翼のイデオロギストは簡単に無視しているが(よろしい。これは例外的事情でなされており、このやり方を真似しない。我々はもっと巧くやろう)、現存する唯一の共産主義の問題が社会主義思想にとって、なぜきわめて深刻なのかは、つぎに書くような理由でだ。
 すなわち、『新しい選択肢のある社会』の経験は、社会の害悪(生産手段の国家所有)に対して人々がもつ唯一の世界的な医療薬は資本主義世界の厄災、つまり搾取、帝国主義、環境汚染、貧困、経済的浪費、民族憎悪および民族対立、には完全に効かないだけでなく、その医療薬自体の一連の厄災、つまり非効率性、経済的誘導動機の欠如、とりわけ全能の官僚制や人類史がかつて知らなかった権力の集中がもつ制限なき役割、を資本主義世界に付け加える、ということをきわめて説得的に明らかにした。
 不運な一撃にすぎない ?
 いや、君は正確にはそうは言っていない。君はたんに問題を無視するのを選んでいるだけだ。そして、正当にそうしている。
 この経験を検討しようと少しでもしてみれば、偶発的な歴史的事情のみならず、社会主義のまさにその思想をも振り返ることになり、その思想に隠された両立しえない諸要求(少なくともその要求の両立性が証明されないまま残っていること)を発見することになる。
 我々は大きな自治権をもつ小さな諸共同体で成る社会を欲する。そうでないかい ?
 また、経済についての、中央集中的計画を欲する。
 この二つがどうやって両方ともに働くのかを、考えてみよう。
 我々は産業の民主主義を求め、かつ効率的な管理を求める。
 この二つはともにうまく機能するのか ?
 もちろん、そうだ。左翼のお花畑(天国)では全てが両立でき、解決できる。子羊とライオンは同じベッドで寝る。
 世界の恐怖を見よう。そうすれば、新しい社会主義の論理に向かう平和革命をいったん起こせばそれから免れることができるのが容易に分かる。
 中東戦争やパレスティナ人の不満は ?
 もちろん、これは資本主義の結果だ。
 革命を起こそう。そうすれば、問題は解決される。
 環境汚染 ? もちろん、少しも問題ではない。新しいプロレタリア国家に工場を奪わせよう。そうすれば、環境汚染はなくなる。
 交通渋滞 ? これの原因は、資本主義者が人間の快適さに関する不満を配慮しないことにある。力を与えてくれるだけでよい(実際、これは優れた点だ。社会主義では、車がずっと少ないので、従って、交通渋滞もずっと少ない)。
 インドの人々が飢えて死んでいる ? 
 もちろん、アメリカの帝国主義者が彼らの食糧を食べているからだ。
 だが、ひとたび革命を起こせば、等々。
 北アイルランドは ? メキシコの人口統計問題は ? 人種間憎悪 ? 種族間戦争 ? インフレ ? 犯罪 ? 汚職 ? 教育制度の悪化 ?
 これら全てに対して、ただ一つの同じ答えがある。全てについて同じ答えだ!//
 これは風刺画ではない。これっぽっちも、そうではない。
 これは、改革主義という悲惨な幻想を克服して人類の諸問題を解決する有益な装置を考案したとする人々の、標準的な思考方法だ。
 そしてこの有益な装置とは、反復されるだけでしばしば十分な数語で成り立ち、革命、選択肢ある社会、等々の内実があるかのごとく見え始めるものだ。
 そして追記すれば、我々には、恐怖を生み出すたくさんの消極的な言葉がある。
 例えば、『反共産主義』、『リベラル』。
 エドワード君、君はこれらを、説明なしでよく使う。その目的は多くの多様なことを混合させ、曖昧で消極的な連想を生じさせることにあると、きっと気づいていると思うのだけれど。
 実際のところ、反共産主義とは何だ。君は、表明できないか ?
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 ④につづく。

1528/「左翼」の君へ②-L・コワコフスキの手紙/1974。


 Leszek Kolakowski, My Correct Views on Everything (1974), in : Is God Happy ? -Selected Essays (2012). p.115-p.140.
 前回のつづき。
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 もちろん、そうではない〔類似性はない〕。『野獣』、『ヘンな年寄り』に満ちた、消費者資本主義だ(君の言葉だ)。
 どこを見ても、我々の血は沸き立つ。
 こちらで余裕をもって再び熱烈な道徳家でおれるかもしれないし、また我々は-君も-資本主義制度は改良をやめることができないそれ自身の『論理(logic)』をもつことを論証できる。
 君は言うのだろう、国家による健康サービスは民間の事業の存在によって困窮化しており、教育における平等は人々が民間産業によって訓練されるために損なわれている、等々。
 改革は失敗に終わる運命にある、とは君は言わない。ただ、改革が資本主義を破壊させないかぎりは資本主義は壊れない、と説明はする。それは確かに真実(true)だ。
 また君は、『もう一つの選択肢である社会主義の論理への平和革命による移行』を提唱する。
 君が言いたいことをこれが完全に明確にすると、確実に考える。
 私は逆に、完全に不明確だと考える。再び言うが、工場の完全な国家所有が一度認められると君の言うユートピアへとつながる道の上での小さな技術的問題しか残らない、と君が想像力を働かせないかぎりは。
 しかし、立証責任(onus probandi)は、社会主義社会を描く新しい青写真の制作者はこの(『歴史家にとっては』重要でない)50年の経験を放擲できる、と主張する人たちの側にある。
 (ロシアでは、『例外的な事情』というのがあった。なかったか ? だが、西側ヨーロッパに関しては例外的なものは何もない。)//
 この些細な50年(今や57年)を新しい選択可能な社会について解釈するという君のやり方は、1917年と1920年代初めの間およびスターリングラードと1946年の間の『最も人間的な顔をした共産主義』を折々に語ることでも明らかだ。
 前の第一の場合、君は『人間の顔』という言葉で何を言いたいのか ?
 警察と軍隊によって全ての経済を支配しようという企てだった。大衆の飢餓をもたらし、無数の犠牲者が出て、数百の農民反乱があった、そうしてみんな、血の海に溺れた(レーニンがのちに認めたように〔1921年10月<革命4周年>演説-試訳者〕、正確にそれを予見していた多数のメンシェヴィキやエスエル〔社会主義革命党〕の党員たちを殺したり、投獄したりしたあとで起こった、全体的な経済の災害だった)。
 それとも、七つの非ロシア人諸国の武装侵略のことを言っているのか ?
 その諸国は独立政府を形成した。あるものは社会主義的、あとは非社会主義的だ(ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャン、ウクライナ、リトアニア、ラトヴィア、エストニア。神はこれら全ての国の民族が生きる場所を知っている)。
 あるいは、ロシアの歴史上唯一つ民主主義的に選挙された議会を、それが一言も発しない前に、兵士によって解散させたこと〔1918年1月の憲法制定会議の解散-試訳者〕を言っているのか ?
 社会主義的政党も含む全ての政党への暴力的な弾圧、非ボルシェヴィキ出版の禁止、そして何よりも、望むがままに殺戮、拷問、投獄をして、党とその警察の絶対的権力へと法を置き換えたことか ?
 そして、1942-46年の最も人間的な顔とは何か ?
 君はソヴィエト同盟の八つの全民族の、80万の犠牲者を生んだ国外追放のことを言っているのか ?(八つではなく七つと言おう。一つはスターリングラードのほんの少し前に追放されたから。)
 君は同盟軍から受け取った数十万人のソヴィエトの捕虜を集中強制収容所に送り込んだことを言っているのか ?
 言葉の背後にある現実について何かを考えているならば、バルチック諸国のいわゆる『集産化(collectivization)』のことを言っているのか ?//
 君が書いていることを説明できる、三つの可能性がある。
 第一。こうした事実に関しての単純な無知。歴史家だという君の職業を考えると、信じ難い。
 第二。『人間の顔』という言葉を、私が把握できないトムソン主義者の意味で使っている。
 第三。正統派と批判派〔「修正主義」派-試訳者〕のいずれであれ、たいていの共産主義者のように、共産主義制度では党の指導者たちが殺されないかぎり全ては正当だ(right)、と信じている。
 新しい選択肢のある社会主義の論理を共産主義者たち自身と、およびとくに党の指導者たちと共有できないと悟ったとき、これこそが実際に、共産主義者が『批判的』になる標準的な方法なのだ。
 フルシチョフが1956年の(重要性を私は全く理解できない)演説でただ一人名前を出した被害者は pur sang のスターリニストだったと気づいているか ?
 彼らのたいていは(ポツィシェフのように)、自分が犯罪の犠牲者になる前に無数の犯罪を冒した罪人だった。
 共産主義者が殺戮されるのを見て突然に恐怖を催したたくさんの元共産党員(名前を挙げないけど、許せ)が、回想録や批判的分析書を書いた。その恐怖に君は気づいたか ?
 彼らはつねに、『だが、そのような人々は共産主義者だった』と言って、犠牲者についての無知を釈明している!
 (ついでに言うと、これは自虐的な防御だ。何故かというと、非共産主義者を殺戮することには何も過ち(wrong)はないことを意味する。
 このことは、共産主義者と非共産主義者を区別する権限をもつ国家機関があり、その国家機関は銃砲を持つ同じ支配者でのみありうる、ということを示唆する。
 したがって、被殺戮者は、その定義によって非共産主義者であり、そして全ての物事はみんな正当(right)なのだ。)//
 よし。トムソン君、私は本当に、このような思考方法を君の責任にするつもりはない。
 でも、評価に際して君が二重の規準を使っていることに、気づかざるをえない。
 そして『二重の規準』と言うとき、新しい諸問題を見渡す『新しい社会』には経験がないのを正当化してしまいたいことを意味させてはいない。
 類似の状況に対して、政治的規準と道徳的規準とを交替に使い分けている、と言いたいのだ。
 政治的な情勢いかんによって、ある場合には熱心な道徳家で、別の場合には現実政治家だったり世界歴史に関する哲学者だったりするようなことをしてはいけない。//
 我々が理解し合うべきだとすると、君に明確にしたいのは、まさにこのことだ。
 ブラジルでの拷問について語ったラテン・アメリカの革命家との会話内容を(憶えていることから)君に書いてみよう。
 『拷問は過ち(wrong)か ?』と尋ねた。『何が言いたいのだ ?』と彼は言った。
 全て正当だ(right)と言うのか ? 拷問を正当化しているのか ?
 私は言った、『逆だ。ただ、拷問は道徳的に受容できない奇怪物だと考えるかどうかを尋ねている』。彼は答えた、『もちろんだ』。
 『キューバでの拷問もそうか ?』と私は質した。
 彼は回答した、『うん。それは別のことだ。
 キューバは、アメリカ帝国主義の脅威のもとにつねにある小さな国家だ。
 彼らは、残念だけど、自己防衛のために全ての手段を使わなければならない』。
 私は言った、『そうか。貴方は、二つとも取ることはできない。
 私も同じだが、拷問は道徳的な理由で忌まわしくかつ受容できないと貴方は考えるのなら、定義上、いかなる事情があってもそうだ。
 しかし、拷問が受忍されうる事情があるのだとすれば、貴方は拷問をする体制を非難できない。拷問それ自体には本質的に過ち(wrong)であるものは全くないと仮定しているのだから。
 ブラジルについてと全く同様にキューバの拷問を非難するか、それとも、人々に対する拷問を理由としてブラジルの警察当局を非難するのをやめるか、どちらかだ。
 実際、貴方は政治的な理由では拷問を非難できない。それはたいていの場合は完全に有効で、欲しいものをもたらすからだ。
 道徳的な理由でのみ貴方は非難できる。そしてそうだとすれば、不可避的に、どこでも、バチスタのキューバでもカストロのキューバでも、北ベトナムでも南ベトナムでも、全く同じだ』。//
 これは、私が君に明快にしたい、陳腐だけど重要な点だ。
 アメリカ合衆国にある大小あれ何らかの不公正について聞くときには心臓が失血して死にそうになり、一方では、新しい選択肢ある社会のより酷い恐怖について聞かされると突然に賢い歴史修辞学者か冷静な合理主義者になる、そういう人々がいる。
 私はたんに、そういう人と一緒になるのを拒否している。//
 これは、東ヨーロッパ出身の者が西側の新左翼に対して抱く、自然発生的なかつほとんど一般的な不信感の理由の、唯一ではないが、一つだ。
 奇妙にも一致して、この恩知らずの人々の大半は、西欧または合衆国にいったん定住すると、革命家だと思われる。
 偏狭な経験主義者や利己主義者は、彼らのほんの僅か数十年のちっぽけな個人的体験から推論して(君が正当にも観察するように、これは論理的には受容できない)、その中に、光輝く社会主義の未来に対する懐疑を抱いていることの口実を見出す。その未来というのは、最良のマルクス・レーニン主義の基礎の上に、西側諸国の新左翼というイデオロギストが精巧に作り上げたものだ。//
 ある程度はもっと詳しく書きたい話題は、これだ。
 事実をそのままに受け取ることや、一般理論から演繹することで現存社会に関する知識を得ていないことでは、我々は異なっていない、と思う。
 今度はインド出身のマオ〔毛沢東〕主義者との会話を、再び引用しよう。
 彼は言った、『中国の文化革命は、貧農(peasants)の富農(kulaks)に対する階級闘争だった』。
 私は尋ねた、『どのようにして、それを知るのか ?』
 彼は答えた、『マルクス・レーニン主義理論からだ』。
 私はコメントした、『そう。予想していたことだ』。
 (彼は理解できなかった。君には分かる。)
 しかし、これでは十分ではない。というのは、君に分かるように、適当に漠然としたイデオロギーはどれもつねに、その重要な構成要素を放棄しなくとも全ての事実を吸収(absorb)する(古いものを捨て去る(discard)、との意味だ)ことができるからだ。
 そして、厄介なことは、たいていの人々は熱心なイデオロギストではないということだ。
 誰もかつて資本主義も社会主義も見たことがなく、彼らが理論的に解釈することのできない一揃いの小さな諸事実だけを見てきたと信じているかのごときやり方で、彼らの浅薄な気持ちは作動している。
 ある諸国の人々は他諸国の人々よりも良い状態にある、ある諸国での生産、配分、サービスは他諸国よりもかなり効率的だ、こちらの人々は公民権や人権そして自由を享有しており、あちらではそうでない、と彼らは単純に気づいている。
 (君がそうするように、西側ヨーロッパに当てはめる言葉を使うには、ここで『自由』と引用符を付けるべきだろう。
 それが絶対的に義務的な左翼の叙述方法だと、私は悟っている。
 じつに、何が『自由』か。この言葉は十分に、一方の側には大きな笑いを充満させる。
 そして我々、ユーモアのセンスの欠けた人間は、笑いはしない。)//
 君が極楽に住み、我々は地獄にいると君に信じさせようとしているのではない。
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 ③につづく。

1521/L・コワコフスキのいうマルクス主義と櫻井よしこ。

 レシェク・コワコフスキ(Lesek Kolakowski)は、ネット情報によらず、1967年刊行の下掲書の「訳者あとがき」によると、こう紹介されている。
 L・コワコフスキ(小森潔=古田耕作訳)・責任と歴史-知識人とマルクス主義(勁草書房、1967)
 1927年、ポーランド生まれ。
 第二次大戦後、ソ連・モスクワ大学留学。スターリン体制のもと。
 1954年以降、ワルシャワ大学などで教師。
 1955年、若い知識人党員(ポーランド統一労働者党)向け雑誌を編集。/28歳。
 1957年、ポーランド統一労働者党〔=共産党〔秋月〕〕の「官僚制を批判しすぎ」て、上の雑誌は廃刊。
 1957年~1年間、オランダとフランス・パリに留学。
 1964年、最初の出版(1957年完成、ワルシャワ「国立出版所」でおさえられていた。1965年、ドイツ語訳出版)。
 1966年、ポーランド統一労働者党から除名される。
 1967年の時点で、ポーランド・ワルシャワ大学教授(哲学)。/40歳。
 以上。
 Lesek Kolakowski, Main Currents of Marxism (初1976) -49歳に、この欄で少し言及した。
 この『マルクス主義の主要な潮流』には、なぜか、邦訳書がない。
 上掲邦訳書では自らを「マルクス主義者」の一人と位置づけている。例えば、p.228。
 しかしながら、上記の履歴でも一端は分かるが、この人は、現実にいた「マルクス主義者」-とくにスターリンだと思われる-を厳しく批判する。
 もちろん、スターリンからソ連・マルクス主義はダメになった、という(日本共産党・不破哲三的な)理解をしているわけでは全くないと思われる。W・ルーゲもそうだったように、レーニンについては実感がなくとも、この人もまた、スターリンが生きている間に、その同じソ連・モスクワで生きていたのだ。
 上掲邦訳書に収載されたコラコフスキーの満29歳のときの一論考(1957年1月)の一部は、つぎのように書いている。邦訳書から引用して紹介する。但し、一部、日本語の意味を変えないように、表現を変えた。/は本来の改行箇所ではない。
 ①「『マルクス主義』という概念は、その内容を知性が決定するのではなく機関が決定する概念となった-<略>。『マルクス主義』という言葉は、世界に関して、ある内容的に明確な見解を抱く人間を示さないで、特定の心構えの人間を示す。/
 この心構えの特徴は、最高決定機関の指示する見解を従順に受け入れることである。/ こういう視点に立てば、マルクス主義がどんな現実的内容を持っているかの問題は、意味がない。/
 最高決定機関が示す内容を、そのつどよろこんで受け入れます、と言明すればマルクス主義者になれる。//〔改行〕
 だから1956年2月〔フルシチョフによるスターリン批判・秘密報告。昭和31年-秋月〕までは実際に、社会主義を建設する手段は革命的暴力しかないという見解の持ち主だけがマルクス主義者(したがって改革主義者、形而上学論者、観念論者)であった。/
 ところが周知のように、1956年2月以来、話は逆になった。/
 つまり、いくつかの国における社会主義への平和的移行の可能性を認める人だけがマルクス主義者である。/
 こういう諸問題で誰が一年間マルクス主義者として通用し続けるのか-これを正確に予見するのはむつかしい。/
 とにかくー、それを決定するのは私たちの任務なのではなく、最高決定機関の任務なのである。//
 まさにこの理由から-これこそマルクス主義の機関決定的性格、その非知性的性格を示すものだが-、本物のマルクス主義者は、いろんな信条を公言しても、そういう見解の内容は理解しなくてもよい。<二文略>/
 マルクス主義の内容は、最高決定機関によって確定されていたのだから。」(p.5-6)
 ここまでの二倍以上の同旨が続いたのち、こうある。
 ②「科学の進歩によって、手元の諸概念と研究方法の数が、マルクスの著作で適用されているよりも、もっと増やす必要が生じただけでなく、マルクスの見解のいくつかを修正したり、疑ってみる必要も生じてきた。/
 ひところ『最高決定機関』みずからが、国家の発生に関するエンゲルスの幾つかのテーゼは誤りである、と告示した。/
 こういう修正の理由説明をこの機関は別段やろうとしなかったが、これはこの機関の活動の、一般原則どおりである。<一文略>/
 また最高決定機関は、孤立した一国における社会主義社会の建設は不可能だというマルクスのテーゼを否認した。/
 スターリンが『一国だけの社会主義』という国家観をもって登場したとき、トロツキーは正統な古典的マルクス主義者として、マルクス主義の根本原則からの逸脱だとして彼を非難し、その仕返しにスターリンから、反マルクス主義と宣告されたのである。//
 …、とにかく、こういうふうになされた論争のスコラ的不毛さは容易に認識できる。/
 国際状勢がマルクスの頃とは違ってきたし、マルクス自身が、社会主義の見通しを国際的規模での、そのつどの階級構造に依存させて考察するように奨めたのだと、-スターリンの言うがごとく-主張される場合、マルクスが用いた一つの思考方法がたしかに参照されてはいるが、あいにくこの一つの思考方法たるや、あまりにも一般論的であり、現実を合理的に考え抜こうとする人ならば誰でもしなければならないことなので、『マルクス主義的』思考の独特なところを少しも示していないのだ。」(p.9) 
 まだずっと続くが、この程度にする。
 1957年(昭和32年)初頭にこのように書いていた人が、ポーランドにはいた(ちなみに、Z・ブレジンスキーもR・パイプスも、もともとはポーランド人)。
 29歳のコワコフスキが「教条的」ではなく「自由」である(教条的でないという意味では)ことは明確だ。
 「最高決定機関」の歴史記述や理論・概念等を「従順に受け入れる」ことをしている日本共産党の党員がいるとすれば、そのような人々に読んでいただきたい。コラコフスキーの皮肉は相当に辛辣だ(反面、この程度の<自由>は、当時のポーランドにはあったとも言えるかもしれない)。
 また、マルクス主義者とは「特定の心構えの人間」を示す、という叙述は、日本の現在の<保守>の一部の人々・雑誌読者にも、読んでいただきたい。
 櫻井よしこのいう<保守の気概>をもち、<保守の真髄だ>という観念的主張部分を「従順に受け入れる」「心構え」をもった人たちが<保守>派なのでは全くない。むしろそういう、自分の主張する<保守>観念に従えふうの文章を書いている人物は、「教条的」共産主義者とともに(共産主義者とはたいてい観念主義者だが)、きわめて危険だ。

1480/ムッソリーニとレーニン④-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。[第5章第2節は、p.245-p.253。]
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源④。
 ムッソリーニが社会党から除名される原因になったこの転回について、さまざまな説明が提示されてきた。
 最も好意的でない見方によると、ムッソリーニは賄賂で動かされた。-彼は、その新聞< Il Popolo d'Italia >〔イタリア人民〕を発行するための資金を提供してくれたフランスの社会主義者から強い圧力をかけられていた。
 これが示唆するのは、実際に、ムッソリーニは破産状態にあったことだ。
 しかしながら、ムッソリーニの動機は政治的なものだったというのが、もっとありえそうだ。
 ほとんど全てのヨーロッパの社会主義政党が平和主義の公約を破って政府の参戦を支援したのちに、ムッソリーニは、ナショナリズムは社会主義よりも力強いと結論したように見える。
 1914年12月に、彼はつぎのように書いた。
 『国家は消失しなかった。われわれは、国家は絶滅すると思ってきた。
 そうではなく、われわれは目の前で、国家が立ち、生き、躍動しているのを見た。
 当たり前だが、そうなのだ。
 新しい現実は、真実を抑え込みはしない。すなわち、階級は国家を破壊できない。
 階級は利益の集合体であるが、国家は、情緒、伝統、言語、血統の歴史だ。
 国家の中に階級を挿入することはできるが、それらが互いに破壊し合うことはない。』(29)
 このことの帰結は、社会党はプロレタリアートだけではなくネイション全体(the entire nation)を指導しなければならない、ということだ。すなわち、『<ナショナルな社会主義(un socialismo nazionale)>』を生み出さなければならない。
 たしかに、世界的(インターナショナルな)社会主義から国家の(ナショナルな)社会主義への移行は、野心ある西側ヨーロッパのデマゴーグについてよく理解させる。(30)
 ムッソリーニは、一つのエリート政党が指導する暴力革命という考え方に忠実なままだった。しかし彼はこれ以降は、ナショナルな革命を目指すことになった。//
 ムッソリーニの転回はまた、戦略的な思考だったと説明することもできる。すなわち、革命には国際的な〔international=国家間の〕戦争が必要だとする確信からだ。
 こういう見解はイタリアの社会党創設者たちの間では共通していた。それは、極左のセルジオ・パヌンシオ(のちファシズムの主要な理論家)が戦争開始の二ヶ月後に新聞<前へ!>で書いた、つぎの考察文にも見られる。
 『<私は、現在の戦争だけが-かつより激しくて長引く戦争が-ヨーロッパ社会主義を革命的行動へと解き放つだろうと確信する。>(中略)
 国外での戦争には、国内での戦争が続かなければならない。前者は後者を準備しなければならない。そして、その二つが一緒になって、社会主義の偉大で輝かしい日を用意しなければなならない。(中略)
 われわれ全てが、社会主義の実現は<求められ>なければならないと確信している。
 今が、<求めて> そして<獲得する>ときだ。
 社会主義が緩慢でかつ…<中立的>であれば、明日には、歴史的状況は現在の状態と類似の情勢を再確認するだけにとどまるかもしれない。しかし、客観的には、社会主義からはより離れた、しかしかつ逆の意味での転換点でありうる。(中略)
 われわれは、われわれの全てが、<全ての>諸国家が-<いかなる程度>にブルジョア国家であろうと-勝者と敗者のいずれであろうと、戦争の<あと>では、粉砕された骨とともに衰弱して横たわっているだろう、と確信する。(中略)
 資本主義は深い損傷を受けるので、最後の一撃(< coup de grace >)には十分だろう。(中略)
 平和の教条を支持する者は、無意識に、資本主義を維持する教条を支持しているのだ。』(*)//
 戦争へのこのような肯定的態度は、ロシアの社会主義者たちに、とくに極左の立場の者たちに、もう少しは率直さを抑えて語られたが、知られていなかったわけではない。
 レーニンが第一次大戦の勃発を歓迎し、それが長く続いて、破滅的になることを望んだ、という証拠資料がある。
 世界の『ブルジョアジー』を大量殺戮者と攻撃する一方で、レーニンは個人的には、その自己破壊を称賛していた。
 バルカン危機の間の1913年1月に、レーニンはゴールキにあてて、つぎのように書いた。
 『オーストリアとロシアの戦争は、(東ヨーロッパ全体の)革命にとってきわめて有用だ。しかし、フランツ・ヨゼフとニコラシュカ(ニコライ二世)は、われわれにこの愉しみを与えてくれそうにない。』(31)
 レーニンは、大戦中ずっと、ロシアおよびインターの社会主義運動で、平和主義に関するいかなる宣明をすることも拒否した。社会主義者の使命は戦争を止めることではなく、戦争を内乱へと、つまり革命へと転化することだと主張しつつ。//
 ゆえに、つぎの旨のドメニーコ・セッテンブリーニ(Domenico Settenbrini)の叙述には賛同しなければならない。すなわち、ムッソリーニとレーニンの戦争への態度には、一方は自国の参戦に賛成し、他方はともかくも表向きは反対しているとしても、強い類似性がある。彼はこう書く。//
 『(レーニンとムッソリーニの二人は)以下のことを悟っていた。党は大衆を革命化し、その反応を形成するための道具ではありうる。しかし、党はそれ自身によっては、革命の根本的な前提条件-資本主義的社会秩序の崩壊-を生み出すことはできない。
 プロレタリアートの自己啓発によって自動的に出現する革命精神、その結果として弱体化する市場に資本主義者が商品を売れなくなること、についてマルクスがいったい何を語っていようが、プロレタリアートはますます貧窮化し、革命精神は欠如していることが判り、資本主義秩序は破滅に向かうどころか拡張している、というのが事実だ。
 したがって、マルクスによって自動的に起動すると想定されたメカニズムには、それを補完するものがなければならない。補完するものとは、-戦争だ。』(**)
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  (29) ムッソリーニ, オペラ・オムニエ, Ⅶ (1951), p.101。また、Gregor, ファシスト信条, p.171 も見よ。
  (30) ムッソリーニ, 同上。Gregor, ファシスト信条, p.168-171。
  (*) フェリーチェ, ムッソリーニ, p.245-6 から引用。この論考の正確な著者はムッソリーニ自身である可能性が指摘されてきた。
 1919年にムッソリーニは、イタリアの参戦に関して、『革命とその始まりの最初のエピソードだ。革命は戦争の名のもとで40ヶ月続いた』と語った。これは、A. Rossi, イタリアファシズムの成立, 1918-1922 (1938), Ⅱ に引用されている。
  (31) レーニン, PSS, 第48巻, P.155。
  (**) G. R. Urban 編, ユーロ・コミュニズム (1978), p.151。
 セッテンブリーニ(Settenbrini)は、つぎの興味深い疑問を提出している。
 『かりに1914年のイタリア政府のようにロシア帝制(ツァーリ)が中立のままにとどまっていたとすれば、レーニンはいったい何をしただろうか。レーニンが熱心な干渉主義者(Interventioist)にならなかったとは、確実に言えるのではないか?』
 Settenbrini, in : George L. Mosse 編, 国際的ファシズム (1979), p.107。
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 ⑤につづく。

1478/ムッソリーニとレーニン③-R・パイプス別著5章2節。

 前回のつづき。
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 第2節・ムッソリーニの『レーニン主義者』という根源③。
 労働者階級は生まれながらに改良主義者だ(『経済組織(労働組合)は経済の現実が改良主義的だから改良主義者だ』)と、そして全ての政治制度のもとで、支配しているのは少数者だといったん決定するや、ムッソリーニは、かりに労働者が革命化しなければ、労働者を指導する知性と意思をもつ特権階層が必要になる、と結論づけた。(21)
 彼は1904年には、このような考え方を信奉した。(22)//
 このような前提のもとで、彼は、イタリア社会党の再建へと進んだ。
 ムッソリーニが設立した< La Lotta di Classe > (階級闘争)〔新聞〕で、レーニンがメンシェヴィキに対してしたのと同じように彼は、改良主義多数派を放逐した。誹謗中傷はレーニンほどではなかったけれども。
 レーニンは、この新聞の創刊号の中のムッソリーニの論説に、自分の名前を署名するのを躊躇しなかっただろう。ムッソリーニは、こう書いていた。//
 『社会主義は到来しつつある。そして、社会主義を実現する手段は、政治的征服によってではなく-社会党に頻繁にみられる幻惑的な理屈だ-、将来の共産主義組織の中核をすでに今日に形成している労働者協同体の数、力および意識によって、現存する市民社会の胸中に与えられている。
 カール・マルクスが<哲学の貧困>で述べるように、労働者階級は、その発展の推移のうちに、古い市民社会を、階級とその間の矛盾を廃棄する協同体(association)に取って替えるだろう。(中略)
 このように予期するならば、プロレタリアートとブルジョアジーの間の闘争は、<階級の階級に対する戦い>、最高度に表現すれば、全体的(total)な革命となる戦いだ。(中略)
 ブルジョアジーの収奪は、この闘争の最終結果だろう。そして、労働者階級が共産主義を基盤にして生産を始めるのに困難はないだろう。この戦いと征圧のための武器、制度、人間を、彼らの労働組合の中に、今日すでに用意しているのだから。(中略)
 社会主義労働者は、前衛的で果断のないかつ戦闘的な組織を形成しなければならない。その組織は、刺激し鼓舞することで、理想的目標への展望を大衆に決して忘れさせないだろう。(中略)
 社会主義は商売人の戯れ事ではないし、政治家の遊びでもなく、恋愛小説家の夢でもない。ましてスポーツではない。
 社会主義とは、個人としても集団としても精神と物質の高揚へと努力することであり、そしておそらく、人間集団の感情を掻き乱す最強のドラマだ。また、確実に苦しみ無為に過ごさないで生きたい数百万の人々の、最も大切な希望だ。』(23)//
 ムッソリーニは、党員たちの挫折した過激主義を利用して、1912年の社会党大会で穏健派を指導層から排除することに成功した。
 『ムッソリーニ派』として知られる彼の支持者の中には、のちの著名なイタリア共産主義者の何人かがいた。とりわけ、アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)がいた。(24)
 ムッソリーニは党の執行委員会へと指名され、<前へ!(Avanti !)>の編集長職を託された。
 レーニンは<プラウダ>紙上で、ムッソリーニ党派の勝利を歓迎した。
 『分裂は、困難で苦痛の出来事だ。
 しかし、ときには必要だ。その状況では、弱さや感傷の全ては…犯罪だ。(中略)
 イタリアの社会主義プロレタリアートの党は、その真ん中からサンディカリストと右派改良主義者を放逐して、正しい途を進んだ。』(25)//
 1912年、30歳に1年足らないムッソリーニは、イタリアの革命的社会主義者の、または『非妥協者』たちの、指導者になることが運命づけられているように見えた。
 しかし、それは現実とはならなかった。イタリアの参戦問題に関する彼の考えの転回が理由だった。//
 レーニンのように、ムッソリーニは1914年の前に、政府が宣戦すれば社会主義者は内乱的暴力でもって答えるだろうと脅かした。
 1911年に政府がトリポリ(リビヤ)へ兵団を派遣したあとで、ムッソリーニは、社会主義者は『諸国間の戦争を階級間の戦争に』変える用意があると警告した。(26)
 この目的を達する手段は、一般的ストライキ〔ゼネ・スト〕だった。
 ムッソリーニは、第一次大戦の直前に、この警告を繰り返した。かりにイタリアが中立を放棄して連合国に抗する中央勢力に加わるならば、プロレタリアの蜂起に直面するだろう、と。(27)
 ファシズム歴史家のエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)は、何らかの理由でレーニンを無視して、ムッソリーニは戦争になれば反乱だと政府を威かしたヨーロッパのただ一人の重要な社会主義者だ、と主張している。(28)//
 戦闘が勃発して、全く予期しなかったことだが、ヨーロッパの社会主義者たちが進んで軍事借款に賛成票を投じたことは、ムッソリーニの自信を激しく動揺させた。
 彼の同僚が驚いたことに、ムッソリーニは1914年11月に、イタリアの連合国側への参戦に賛成することを明らかにした。
 この言葉と行動を合わせるために、彼は軍に歩兵として加入し、1917年2月まで戦闘に加わった。そのとき彼は、重傷を負って後方に送られた。//
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  (21) De Felice, ムッソリーニ, p.122-3。
  (22) Gregor, ファシスト信条, p.145。
  (23) 1910年1月9日付の論説, in : ムッソリーニ, オペラ・オムニア, Ⅲ, p.5-7。
  (24) Gregor, 若きムッソリーニ, p.135。
  (25) レーニン, PSS, 21巻, P.409。
  (26) < La Lotta di Classe >(階級闘争〔新聞〕)1911年8月5日号。De Felice, ムッソリーニ, p.104. に引用されている。
  (27) ムッソリーニ, オペラ・オムニア, Ⅳ (1953), p.311。
  (28) エルンスト・ノルテ, ファシズムの三つの顔 (1965), p.168。
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 ④につづく。

1473/全体主義の概念①-R・パイプス別著5章1節。

 Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)=リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)の訳を試みる。さしあたり、第5章のみ。
 原則として一文ごとに改行する。本来の改行箇所には「//」を付した。<『 』>は、原著では<" ">だ。
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 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義
 「ファシズムとは何か。それは民主主義から解放された社会主義だ。」- Charles Maurras (1)
  第1節・『全体主義』の観念
 国内および国外での共産主義者の活動の意味は、世界的革命を解き放つことではなく、逆説的ではあるが、彼らの精神性に類似した運動を生起させ、共産主義を闘う彼らの方法を模写することだ。
 この理由によって、第一次大戦後にヨーロッパに出現した、いわゆる右翼過激派の、または『ファシスト』の運動はしばしば、共産主義の正反対物だと見られている。
 しかし、宗教上のであれ世俗上のであれ相互に激烈に闘うイデオロギーにはよくあるように、それらは異なる原理や熱望をもつがゆえにではなく、同じ構成物を目指して競争するがゆえに、相互に激しく闘うのだ。//
 共産主義と『ファシズム』の関係は長らく、論争の対象だった。
 共産主義歴史家には義務的な、西側の社会主義者やリベラルたちには好まれた解釈によれば、この二つは決して一致しない現象体だ。
 保守的な理論家の側は、両者を『全体主義』という観念のもとに包括する。
 問題はきわめて微妙だ。『ファシズム』、とくにその最も悪性の表現であるナツィズムは、マルクス・レーニン主義と、したがって究極的には社会主義と、縁戚関係があるのか、それともそうではなく、『資本主義』から生まれてくるのか、という問題が生じるからだ。//
 以下の論述は、直接にはこの論争にかかわらない。この問題については、すでに多数の文献が存在する。(2)
 その代わりに、共産主義が、見習うべき模範かつ利用すべき脅威のいずれもとして西側の政治に与えた影響に、光を当てるつもりだ。
 大戦間のヨーロッパでの右翼過激派運動の起源を例にとれば、その運動はレーニンとスターリンという先行者なくして理解できないだろうことが、すぐに明らかになる。
 この問題は、不思議にも、ヨーロッパの全体主義独裁制がまるで自分で生まれてきたかのように扱う歴史家や政治学者によって無視されている。権力へのヒトラーの蜂起に関する標準的な説明をするカール・ブラヒャーですら、ほとんどレーニンに言及していない。ブラヒャーのあらゆる段階についての叙述は、この二人が採用した方法との類似性を明らかにしているにもかかわらず。(3)//
 なぜ、ソヴェトの実験は、ファシズムや全体主義に関する文献で大きく無視されているのか ?。
 左翼の歴史家にとっては、ソヴェト共産主義と『ファシズム』の親近性という問題を持ち出すことですら、両者間の因果関係を肯定するのと同じことなのだ。
 彼らにとって『ファシズム』とは、その定義上、社会主義と共産主義の正反対物であるために、このような親近性は承認されえないもので、『ファシズム』の根源は、もっぱら保守的思想と資本主義の実践の中に求められなければならないのだ。
 ソヴェト同盟ではこの傾向は進んで、レーニン、スターリンおよび彼らの直接の後継者たちのもとでは、『国家社会主義』という用語を使うことが禁じられた。//
 つぎに、『全体主義』および『ファシズム』という概念が現代性を獲得した1920年代には、西側の学者はボルシェヴィキとそれが生んだ一党独裁体制についてほとんど何も知らなかった。
 すでに記したように (4)、1917-18年、ヨーロッパが第一次大戦の最後の年にあり、ロシア内部の展開によりも注意を払うべき緊急の問題がたくさんあったときに、あの体制は、設定された。
 共産主義体制の真の本性は、その背後に独占的な党が立つ、新奇な民主主義紛いの諸制度によって、外国人の目からは長い間、隠されていたのだ。
 今日からすれば奇妙に思えるかもしれないことだが、『ファシスト運動が発展した1920年代には、共産主義はまだ全体主義的体制の一つであるとは分かっておらず…、制限のない自由の擁護者のように見えていた…。』(5)
 二つの大戦の間には、共産主義体制の起源を問題にするいかなる研究も、真剣な歴史的で理論的な分析を行わなかった。
 ほとんどが1930年代に、ソヴェト・ロシアに関する若干の研究書が出版され、スターリンが支配する国家について叙述した。それら研究書はしかし、一党国家体制の父祖であるのはレーニンではなくスターリンだという偽りの印象を生み出した。
 1951年になって、ハンナ・アレントは、レーニンが最初に権力をソヴェトに集中させることを企図し、内戦が勃発して『大敗北』を喫したのちに、『至高の権力を…党官僚の手へと移した』という衝撃的な主張をすることができた。(6)//
 全体主義現象に関する初期の分析は、彼ら自身の民族的体験にもとづいて、ほとんどもっぱらドイツの学者によって行われた。(7)
 ハンナ・アレントが全体主義の属性の一つであるとして反ユダヤ主義に与えた、誇張された重要性は、ドイツ人による多数の研究を説明するものだ。(*1)
 初期の別の(ジグムント・ノイマンのような)研究者は、ヨゼフ・スターリン、ベニート・ムッソリーニおよびアドルフ・ヒトラーの諸体制の類似性に注目した。しかし彼らですら、共産主義政治体制の作動に関してほとんど何も知らないという単純な理由で、ロシアが右翼過激派運動に与えた影響を無視した。
 1956年にカール・フリートリヒとズビグニュー・ブレジンスキーが発表した、左翼と右翼の独裁制の最初の体系的な比較もまた、歴史的分析というよりも静態的な分析を提示するものだった。(8)
 ファシズムと国家社会主義に対するボルシェヴィズムの影響について研究することには、第三の要素が内在していた。それは、全ての反共産主義の運動と体制を描写する『ファシスト』の利益になるように『全体主義的』という形容句を『進歩的』思想の語彙群から除外しようとする、モスクワの強固な主張だった。
 この問題に関する党の方針は1920年代に定められ、コミンテルンの決定で定式化されていた。
 ムッソリーニ・イタリアやヒトラー・ドイツを曖昧に包括する『ファシズム』は、ポルトガルのアントニオ・サラザールやポーランドのピルズドスキーのような比較的に穏健な反共産主義独裁制とともに、『金融資本主義』の所産であり、ブルジョアジーの道具だと宣告された。
 1920年代に、ソヴェトの公式原理は、全ての『資本主義』国家は共産主義(社会主義)にひざまづく前に『ファシスト』段階を通過することを余儀なくされている、と決定した。
 モスクワが『人民戦線』政策を採った1930年代半ばには、ソヴェトのこの問題に関する見地はいくぶんかは柔らかくなり、定義上は『ファシスト』の範囲内にある政府や運動との協力を許した。
 しかし、反共産主義をファシズムと同一視する考え方は、ミハイル・ゴルバチョフによる<グラスノスチ>が登場するまで、共産主義による検閲に服している諸国では拘束的なものであり続けた。
 この考え方は、外国の『進歩的』なサークルでも広く行き渡っていた。
 いかなる方法によっても無謀にもムッソリーニまたはヒトラーを共産主義と結びつける、あるいは共産主義体制を紛れもない大衆運動だと叙述する学者には、言葉によるまたはその他の形態による嫌がらせを受けるリスクがあった。(*2)//
  (2) 例えば、カール・J・フリートリヒ, 全体主義 (1954); エルンスト・ノルテ 編, ファシズムに関する諸理論 (1967); レンツォ・ディ・フェリーチェ, ファシズムの解釈 (1972); ブルーノ・ザイデル=ジークフリート・イェンカー 編, 全体主義研究の途 (1968); エルンスト・A・ミェンツェ 編, 全体主義再検討 (1981)。
  (3) カール・ブラヒャー, ドイツの独裁者, 2版 (1969)。
  (4) リチャード・パイプス, ロシア革命, 12章。
  (5) ハンス・ブーフハイム, 全体的支配 (1968), p.25。
  (6) ハンナ・アレント, 全体主義の起源 (1958), p.319。
  (7) ペーター・クリスツィアン・ルドツ, in :ザイデル=ジークフリート・イェンカー 編, 途, p.536。エルンスト・フレンケル, 二重国家 (1942), フランツ・ナウマン, ビヒモス (1943) といったパイオニア研究を見よ。最初の大戦間10年間には、全体主義に関する多数の研究がドイツ移民によっても、とくに、アレント, 起源 やフリートリヒ, 全体主義, によってなされた。
  (*1) 〔略〕
  (8) カール・J・フリートリヒ=ズビグニュー・K・ブレジンスキー, 全体的独裁〔Dictatorship〕と専制〔Autocracy〕 (1956)。
  (*2) 例えば、ファシズムの有名な非『ブルジョア』的根源を強調するイタリアの知識人界がレンツォ・ディ・フェリーチェ(Renzo de Felice) に対してとった処遇を見よ。マイケル・レディーン(Michael Ledeen), in: George Mosse 編, 国際的ファシズム (1979) , p. 125-40。
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 ②へとつづく。

1472/R・パイプス著『ボルシェヴィキ体制下のロシア』の内容・構成。

 既述のように、①Richard Pipes, The Russian Revolution (1990) <原著・大判でほぼ1000頁>とは別の、リチャード・パイプスの著に、② Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1994)<原著・大判で約600頁>がある。これら二つを併せて、「一般読者むけ」に「内容を調整し」「注を省き簡略に」一冊にまとめたものに、③Richard Pipes, A Concice History of the Russian Revolution (1995) <原著・中判で約450頁>がある。そして、この最後の③には、R・パイプス〔西山克典訳〕・ロシア革命史(成文社、2000)という邦訳書<約450頁>がある。
 上の①の構成・目次とそこに掲げられている年表はすでに紹介し、第9章にかぎって試訳を行った。上の②の、Richard Pipes, Russia under Bolshevik Regime (1995)〔パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア〕の目次・構成は、つぎのように成っている。章番号については「章」という語はなく数字だけだが、「章」を加えた。
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 リチャード・パイプス・ボルシェヴィキ体制下のロシア(1994)
 第1章/内戦-最初の戦闘(1918)
 第2章/内戦-頂点(1919-20)
 第3章/赤色帝国
 第4章/革命の輸出
 第5章/共産主義、ファシズムおよび国家社会主義
 第6章/プロパガンダとしての文化
 第7章/宗教に対する攻撃
 第8章/ネップ・偽りのテルミドール
 第9章/新体制の危機
 〔数字なし〕/ロシア革命に関する省察
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 以上のうち、第5章/共産主義、ファシズムおよび国家社会主義は、目次上では数字番号と「節」にあたる文字はないままに、つぎの節に分かたれている。但し、本文には見出し文章はなく、各節の間の区別は、一行の空白を挿入することによってなされている。
 National Socialism は、「国民社会主義」が定訳なのかもしれないが、「国家社会主義」と訳しておいた。
 第5章・共産主義、ファシズムおよび国家社会主義。
  第1節・「全体主義」の観念。
  第2節・「レーニン主義者」を源とするムッソリーニ。
  第3節・ナツィの反ユダヤ主義。
  第4節・ヒトラーと社会主義。
  第5節・全体主義三体制の共通性。
   1・支配政党。
   2・支配党と国家。
   大衆操作とイデオロギーの役割。
   3・党と社会。
  第6節・全体主義諸体制の差違。
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 以上。[注記、翌3/29に第5章内の節区分けの表示を改めた。]
  

1453/メンシェヴィキと決裂①-R・パイプス著9章6節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
 第6節・メンシェヴィキとの最終的な決裂 〔p.361-p.363.〕

 ボルシェヴィキとメンシェヴィキのいずれも、1905年の革命の過程にさしたる影響力を与えなかった、ともかくも、最終の局面までは。
 社会民主党は1905年の暴力に喫驚し、その年のたいていの活動を、声明文の発行と彼らの統制を超えて広がる不安の煽動に限定した。
 1905年10月にようやく、ペテログラード労働者代表者ソヴェトが設立されたことに伴い、メンシェヴィキは革命における積極的な役割をはたした。だが、それ〔首都のソヴェト〕がリベラルな者たちとリベラルな綱領によって支配されるまでだった。//
 レーニンは直接にはこの出来事に関係しなかった。というのは、トロツキーやパルヴスと違って、彼はスイスという安全な場所からその出来事を観察していることを選んでいたので。慎重に判断して、11月初めにようやくロシアに戻った。そのあと、政治犯の恩赦の発表があった。 
 レーニンは、1905年1月はロシアでの幅広い革命の開始の画期となるものだと考えた。
 リベラルな『ブルジョワジー』から最初の起動が生じているが、この階級は推移のどこかで確実に屈服し、帝制と取引きするだろう。
 したがって、社会民主党が完全な勝利にまで責任をもち、労働者を指導することがきわめて重要だ。//
 レーニンにはつねにマルトフのいう『アナクロ-ブランキズム』へと傾く嗜好はあったにもかかわらず (66)、彼は自分の行動綱領を理論的に正当化するものを持っておく必要があった。
 彼はこれを、パルヴスの小論に見出した。それは、血の日曜日に直接の影響をうけた1905年1月に書かれたものだった。
 パルヴスの『連続(uninterrupted)』(または『永久(permanent)』)革命理論は、社会主義に先行する『ブルジョア』の支配の別個の段階があるという、オーソドクスなロシア社会民主主義の二段階革命(two-phase revolution)の原理と、レーニンが一時的には選択したがマルクス主義と一致させることができなかった『直接の強襲』というアナーキストの理論との間に、幸福な妥協を提供するものだった。
 パルヴスは『ブルジョア』段階を認めたが、それは同時に進行するはずの社会主義の段階と時間的に区別することができないものだ、と主張した。(*1)
 このような見通しのもとでは、反専制体制の革命がひとたび勃発すれば、『プロレタリアート』(社会民主党のことを意味する)は権力掌握へとすぐに進むことになる。
 この理論が正当であるのは、ロシアには、西欧ではブルジョアジーを支援し鼓舞する過激な低中間階層が、存在していない、ということだ。
 裸の場所にいるロシアのブルジョアジーは、革命が達成されるのを許さず、それを途中で阻止するだろう。 
 社会主義者は、帝制崩壊につづくはずの内戦に向けて、大衆を組織する準備をしなければならない。 
 成功するための必須条件の一つは、党がその同盟者と区別される一体性を維持しつづけることだ。『ともに闘え、だが別々に進もう』。
 パルヴスの考え方はロシアの社会民主主義者に、とりわけレーニンとトロツキーに、大きな影響を与えた。『ロシアの運動の歴史上はじめて、プロレタリアートは、政治権力を掌握するのと同時に…臨時政府を形成する、という理論命題へと前進した。』(67)// 
 レーニンは、新しい考えや戦術を持ち出して運動における彼の優位性に挑戦するものが出てくればいつでもそうだったように、最初はパルヴス理論を拒否した。  
 だが彼は、すみやかに同調した。 
 1905年9月に、レーニンはパルヴスに賛同してつぎのように書いた。//
 『…民主主義革命のすぐあとに、さらに前進し始めるだろう、われわれの力が…社会主義革命に到達するのを認める地点まで。
 われわれは、連続革命を支持する。
 われわれは、中途で止まることはない。』(+) //
レーニンの見方によれば、社会主義革命は、ただ一つの形態でのみ生起しうる。すなわち、武装蜂起。
 彼は、都市圏域でのゲリラ行動の戦略と戦術を知るために、武装蜂起の歴史を懸命に研究した。きわめて役立ったのは、とくに、パリ・コミューンの軍事司令官、ギュスターヴ・クルセレットの回想録だった。 
 学んだことは、ロシアの支持者たちに伝えた。 
 1905年10月にレーニンは、革命軍の分遣隊を作るように彼らに助言した。その構成員は、つぎのような武装をするものだった。//
 『鉄砲、回転式連発拳銃、爆弾、ナイフ、真鍮製肘、棒、点火できるように灯油を染みこませた布きれ、ロープまたは縄はしご、バリケードを作るためのシャベル、綿火薬製の厚板、棘のある鉄線、(騎兵軍に対する)釘、およびその他…。
 武器がなくても、分遣隊はつぎのことにより、重要な仕事をすることができる。(1)群衆を指揮する、(2)一団から離脱したコサックを攻撃する(モスクワで起きたことのように)、(3)警察力がきわめて弱体であれば、拘束されたり負傷した者を救済する、(4)家屋の屋根や最上階に登る、など。そしてまた、兵団へと投石すること、彼らに熱湯を浴びせること、など。
 スパイ、警察官、憲兵の殺戮。警察署の爆破…。』(68)
 武装闘争の側面の一つは、テロリズムだった。
 ボルシェヴィキは名目上はテロルを否定する社会民主主義の基盤を支持していたが、実際には、自分たちで、および過激主義者(Maximalist)を含むエスエル(社会主義革命党)と共同での両方で、テロルをおこなっていた。
 原則として、この活動は秘密裏に組織された。しかし、場合によれば、ボルシェヴィキは支持者に対して公然と、テロルを奨励した。
 かくして、ワルシャワで警察官を射殺したポーランドの社会主義党の例を引用すれば、1906年8月に彼らは、『スパイ、黒い百(the Black Hundreds)の積極的支持者、警察官、陸海軍の武官、その他』に対する攻撃を命じた。(*2) //
  (*1) パルヴスは、トロツキーの冊子の前書きで、『連続』または『永久』革命の理論を最初に定式化した(但し、この両語を用いてはいない)。〔関係文献、省略〕
  (+) Wolfe も Schapiro も、この言明はレーニンの一面の異常性だ、その理由は、レーニンはその後には、多くの場合はロシアは『資本主義』と『民主主義』の段階を迂回することはできない、と語ったからだ、と考えている。しかし、1917年のレーニンの行動が明らかにするだろうように、彼は『民主主義』革命の考えに対して口先だけの支持を示しただけだ。すなわち、レーニンの真の戦略は、『ブルジョア』民主主義から『プロレタリアート独裁』への即時の移行を呼びかけることだった。
  (*2) その工作員たちがボルシェヴィキ問題に関する情報を維持した The Okhrana は、二月革命のすぐ前に、レーニンはテロルに反対していないが、エスエルはテロルに重要性を認めすぎていると考えている、と報告した。この報告の日付は、1916年12月24日、1917年1月6日。Hoover研究所のOkhrana 資料…。のちに記すように、彼の組織は、テロル活動のための爆発物をエスエルに提供した。  
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 ②へとつづく。

1440/レーニンと社会民主主義①-R・パイプス著9章2節。

 前回のつづき。
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 第9章・レーニンとボルシェヴィズムの起源
  第2節・レーニンと社会民主主義 〔p.345-p.348〕
 1920代に定式化されたレーニンの公式の<経歴>(vita)は、その本質的特徴において、キリストの一生をモデルにしている。
 キリスト学のように、変わらずまた変わりえないものとして、その宿命は生誕の日にあらかじめ決定されていたものとして、主人公を叙述している。
 レーニンの公式の伝記作者は、レーニンがその考えを一度でも変えたということを認めることを拒否する。 
 レーニンは政治に関与するようになった瞬間から、確固たる正統派マルキスト(マルクス主義者)だったとされる。
 このような主張は誤っていることは、容易に示すことができる。//
 まず、『マルクス主義者』という語は、レーニンが若いときには一義ではなく、少なくとも二つの異なる意味をもった。
 古典的マルクス主義原理は、成熟した資本主義経済の諸国家に適用された。 
 マルクスは、このような国のために、発展の科学的理論、つまり崩壊と革命という不可避的な結末、を提供すると称した。
 この原理は、それが科学的客観性をもつとされたこと、およびその予見の不可避性の二つの理由で、ロシアの過激な知識人に対して莫大な訴える力をもった。
 マルクスは、ロシアの社会民主主義運動が始まる前に、広く知られていた。すなわち、1880年にマルクスは、『資本論』は他のどの国でよりもロシアで多くの読者と崇拝者を獲得した、と誇ったほどだ。(10)
 しかし、ロシアは当時ほとんど資本主義が進展していなかったので、言葉を緩やかに定義することにはなるが、ロシアの初期のマルクス支持者は、マルクスの理論をロシアの地域的状況に適合するように再解釈した。  
 彼らは1870年代に、『分離した途』という原理を定式化した。それによると、ロシアは、農村共同体を基盤とする社会主義の独自の形態を発展させ、資本主義の段階を回避して、社会主義へと直接に飛躍するだろう、ということになる。(11)
 レーニンの兄は人民の意思組織の綱領にあるこの種のイデオロギーを採用したが、それは1880年代のロシアの過激派サークルではふつうのことだった。//
 レーニンが成長した知的な環境がもつ知識は、彼がイデオロギーを進展させるのに役立った。   
 マルクス主義の変種はロシアでまだ知られていなかったので、レーニンは1887-91年には、社会民主主義という意味でのマルクス主義者ではなかったし、またそうであるはずはなかった。
 実証的文書は、レーニンは1887年からおよそ1891年までの間、人民の意思の典型的な支持者だったことを示唆している。
 レーニンは、最初はカザンで、そしてサマラで、この組織の構成員と親密な交際をしていたと述べた。 
 彼は積極的に、その多くが刑務所や流刑から解放されたのちにヴォルガ地域に住みついた、人民の意思の老練活動家を探し出して、その運動の歴史ととくにその組織実務を学んだ。
 この知識を、レーニンは深く吸収した。ロシア社会民主党の指導者の一人になった後ですら、彼は、厳しく訓練された、策略を好みかつ職業的な革命党への信頼、および資本主義という長い中間段階を主張する綱領に対する苛立ちのために、同志たちから離れることがあった。 
 人民の意思(Narodnaia Volia)のように、レーニンは資本主義と『ブルジョアジー』を侮蔑した。それらに彼は、社会主義の同盟者ではなく、公然たる敵を見ていたのだ。
 注目する価値があるが、1880年代の遅くにレーニンは、『ドイツ』の-つまり社会民主主義の-精神でのマルクスとエンゲルスに接近し始めていた地域のグループ活動に加わらなかった。(12) //
 1890年6月にようやく、当局はレーニンが形式上の学生として法曹試験を受けることを許した。
 彼は1891年11月にそれに合格したが、法曹実務には就かず、経済文献の研究、とくに Zemstva が刊行した農業の統計調査のそれに没頭した。 
 レーニンの妹のアンナの語るところによれば、彼の目的は『ロシアにおける社会民主主義の実現可能性』を決定することだった。(13)//
 ときは、熟していた。
 ドイツでは、1890年に合法化された社会民主党が、選挙で驚くべき成功を収めていた。
 ドイツ社会民主党の優れた組織と労働者への政策主張を広汎なリベラル綱領に結びつける能力によって、いずれの連続する選挙でもより多くの議席数を獲得してきていた。
 ヨーロッパの最大の産業国家で暴力によってではなく民主主義手続を通じて社会主義が勝利することができることが、突如として想定できるように見えはじめた。
 エンゲルスはこのような展開に感動して、死ぬ少し前の1895年に、彼とマルクスが1948年に予言した革命的変革は決して起こらないかもしれない、だが社会主義はバリケードによってではなく投票箱でうまく勝利することができる、と認めた。(14)
 ドイツ社会民主党の例は、ロシアの社会主義者たちに強い影響力をもち、『分離した途』や革命的クー・デターという昔の理論は不評を招いた。// 
 このような考えの広がりと同時期に、ロシアは1890-1900年の10年間に産業労働者の数が二倍になり、経済成長率が他諸国よりも上回るという、劇的な産業発展の大波を体験していた。 
 示唆されたのはしたがって、ロシアはマルクスもありうると想定していた資本主義を回避して進む機会を見失い、西側の経験を繰り返す運命にある、ということだった。//
 このように雰囲気が変化し、社会民主主義の理論はロシアで支持者を獲得した。 
 ジュネーヴでゲオルク・プレハーノフやパウル・アクセルロッドが、ペテルスブルクでペーター・ストルーヴェが定式化したように、ロシアは二つの段階を経て社会主義に到達すべきだった。
 最初に、十分に成長した資本主義を通過しなければならない、それはプロレタリアートの地位を拡大し、かつ同時に、そのもとでドイツ人のようにロシアの社会主義者たちが政治的影響力を獲得できる、議会制度を含めた『ブルジョア的』自由という利益をもたらすだろう。 
 『ブルジョアジー』がひとたび専政政治とその『封建的』経済基盤を拭い去ってしまえば、段階はつぎの歴史発展の局面、社会主義への前進、へとセットされるだろう。
 1890年代の半ばには、このような考え方は多くの知識人(intelligentsia)の想像力を捉え、『分離した途』という昔のイデオロギーはほとんど見られなくなった。この旧式の考えのために、今やストルーヴェは『人民主義(Populism)』という新しい軽蔑語を使った。(15)//   
  (11) この主題は私の<ストルーヴェ>で長く扱われている。R. Pipes, Struve: Liberal on the Left, 1870-1905 (1970), p.28-51.
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 ②につづく。

1408/歴史と感情と科学と-R・パイプス、そして笹倉秀夫。

 一 前回10/12の末尾に、「歴史に関する学者・研究者でも、<怒るべきときは怒る>、<涙すべときは涙する>という人間的『感性』を率直に示して、何ら問題がないはずだ」。 これは歴史叙述そのものに「感情」を明示してもよい、という趣旨ではない。
 このように書いたのは、何かを読んでその印象が残っていたからだ。
 R・パイプス・ロシア革命史の「訳者あとがき-解説にかえて」の西山克典の文章だったかもしれないと探してみたが、そうではなかった。別の本を捲ったりしているうちに、上記のR・パイプスの書物(邦訳書)の本文自体のほとんど末尾にある、「16章/ロシア革命への省察」の中の文章であることが分かった。
 ブレジンスキーと同様にR・パイプスは、日本共産党とは違って、レーニンとスターリンとがほとんど真反対のベクトル方向にあるとは見ていない。R・パイプスは、1917秋(10月革命時)と1922年の初めまで(レーニン時代だ)のソ同盟の人口減を1270万人(戦死、餓死=500万人以上、疫病死、海外逃亡等を含む)とし、自然状態では増大していたはずの人口を想定すると、実際の人的損失は「2300万に達する」などを指摘したのち、つぎのように記述する。
 R・パイプス(西山克典訳)・ロシア革命史(成文社、2000)p.404-5による。〔〕の英語は、原著(A Concise History of the Russian Revolution、p.403-4 )を直接に参照した。
 ・かかる「前例のない惨禍を、感情に動かされずに見ることができるであろうか、また、見るべきであろうか」。
 ・現代において「科学」の威光は強く、「道義的にも感情的にも超然とした科学者」の、全現象を「自然」で「中立的」と見なす気質を身につけてきた。彼らは「歴史」における「人間の自由意志」を考慮することを嫌い、「歴史」の「必然性」を語る。
 ・しかし、「科学の対象と歴史の対象」は「著しく異なる」。医師・会計士・調査技師・諜報局員の調査は「正しい決定に達するのを可能にする」ためで、「感情に絡みとられてはいけない」。
 ・「歴史家にとっては、決定はすでに他人によって為されており、超然と構えることで、認識に付け加えるものは何もない。実際には、それ〔超然と構えること〕は、認識を低下させることになる。というのは、激情のさなかに〔in the heat of passion〕生み出された出来事をどうやって、感情に動かされずに〔dispassionately〕、理解することができるというのであろうか」。
 ・19世紀ドイツの某歴史家は、「歴史は怒りと熱狂をもって書かれなければならない、と私は主張する」、と書いた。
 ・アリストテレスは「あらゆる問題について節度を説いた」が、「『憤りを欠くこと』が受け入れがたい状況がある、『怒るべきことに怒っていない人々は馬鹿と思われるからである』」と述べた。
 ・「関連する事実〔facts〕の収集整理は、確かに感情に動かされることなく、怒りも熱狂もなく行われなければならない。歴史家の技能のこの面は、科学者と何ら異なるものではない。しかし、これは、歴史家の任務の始まりにすぎない」。
 ・「どれが『関連している〔relevant〕』かの決定は、判断〔judgment〕を求めており、そして、判断は価値〔values〕に基づいているからである。事実は、それ自体としては無意味である。何故なら、それをどう選別し、序列化し、そしてどれを強調するかに関し、事実自体は何ら指針〔guide〕を提供しないからである。過去が『意味をなす〔make sense〕』ためには、歴史家は何らかの原則〔principle〕に従わなければならない」。
 ・「通常、歴史家はまさにそれをもって」おり、「最も『科学的な』歴史家でさえ、意識しようがしまいが、予見〔preconceptions〕から行動しているのである」。
 ・一般的にその予見は「経済的な決定論に根ざしている」。経済・社会のデータは「不遍性という幻想〔illusion of impartiality〕」を生んでいるからである。
 ・「歴史的な出来事への判断を拒むことはまた、道義的な価値観にも基づいている。すなわち、生起したことは、何であれ、自然〔natural〕なことであり、従って正しい〔right〕という暗黙の前提〔silent premice〕であり、それは、勝利を得ることになった人々の弁明〔apology〕に帰すことになる」。
 以上。
 二 歴史は怒り等の感情をもって書かれてよい、というふうの部分が印象に残っていたのだったが、きちんと読むと、それ以上の内容を含んでいる。
 ここでの「歴史」学には、<政治思想史>や<法思想史>、<政治史>や<法制史>などの学問分野も含まれうるものと考えられる。
 こうした分野の文献を、かついわゆる<アカデミズム>内の文献・論文も最近は読むことが多い。そうして、上にパイプスが書いていることも、相当によく分かる。
 基本的なから些細なまで、種々の「事実」があるに違いない。書き手はどうやってそれを<序列化>し<関連づけ>ているのだろう、と感じることもある。また、この人は何らかの<価値判断>に基づいている、あるいはさらには何らかの<政治的立場>に立っている、これで<学問的作業>なのか、と思うこともある。
 また、思い出すに、ソ連崩壊により「東・中欧での社会主義化は挫折」したことは事実として認めつつ、その原因としてマルクス主義自体やレーニン(またはレーニズム)には大きな注意は払わず、「スターリニズム」の「問題点」などをかなり詳しく叙述しつつ、「それらの運動」〔社会主義・共産主義運動 ?〕を「スターリニズムに解消させて、マイナス面だけを」論じて、「社会主義化の実践」の肯定面に「目を閉ざすのは、研究者の公正な姿勢ではない」と強弁(!)する日本の「研究者」の書物があった。
 笹倉秀夫・法思想史講義/下(東京大学出版会、2007)p.315-6。
笹倉は、「社会主義化の実践」が示した「ヒューマニズムや自由・民主主義・世界平和運動の面での貢献」に「目を閉ざすのは、研究者の公正な姿勢ではない」とし、「例えば」として三点を挙げる。
 その三点にはここでは立ち入らない。しかし、社会主義・共産主義運動(「社会主義化の実践」)が「ヒューマニズムや自由・民主主義・世界平和運動の面」で「貢献」した、という前提自体が、何ら実証されていない「暗黙の前提」であり、この<科学的と自認しているのかもしれない学者>の「原則、principle」なのだろうと推察される。マイナスだけではなく積極面も見るのが「研究者の公正な姿勢」だという表向きの言い方自体にすでに、(隠された)何らかの(おそらくは政治的な)<価値判断>が含まれているだろう。
 立ち入らないが、ファシズムと共産主義ではなくファシズムとスターリニズムを併せて<全体主義>と称するのは誤りだとの叙述(p.316注)も含めて(全体主義論はファシズムとレーニンを含む共産主義全体を包含するものだが、おそらく意識的にスターリンに限っている)、上のような叙述・説明は今日では日本共産党以外には珍しく、おそらくは、この人は、日本共産党員なのだろうと思われる。
 それは別として、これまでこの欄で「歴史学」なるものについて、坂本多加雄、山内昌之らのその性格や役割に関する議論を紹介したことがある。ひょっとすれば、人文・社会系学問のすべてに当てはまるかもしれないのだが、上のパイプスが述べるところも、充分に読むべきところがある。
 なお、パイプスのロシア革命に関する書物自体は、個別「事実」について相当に密度の濃いもので、<感情>的な文章で成り立っているわけでは全くない。諸事実の<解釈>あるいは<取り上げ方・並べ方>におそらくは、パイプスのロシア革命に対する何らかの(<価値>にもとづく)<判断>が働いているのだろう。
 三 忘れていた。上のパイプスの文章の最後の部分は、とくに意識・自覚される必要がある、と考えられる。
 パイプスによれば、歴史事象への<判断>を峻拒する歴史叙述は、公正で客観的な印象を与えるかもしれないが、じつはその歴史または歴史の結果としての現在の<勝利者>に味方している。生起した歴史事象、その結果としての現実が「自然」で「正しい」と思ってしまえば、それは<現実>(を支持する大勢 ?)を擁護していることになる
 この観点は忘れてはいけない、と思う。
 徳川家康は「正しかった」から長い江戸時代を拓いたわけではないし、明治維新が(薩長両藩等が)「正しかった」から、明治時代があったわけでもない、と思われる。
 「日本に生まれてまぁよかった」という題の本を出している人がいるが(平川祐弘)、この人が安倍戦後70年談話を擁護しているように、彼が生きた戦後日本は彼にとって「まぁよかった」のだろう。そして、この人の今年1月号の論考に明かなように、戦前・戦中の日本は<誤って>いた、と判断されることになる。それでもなお、この人(平川祐弘)は「保守」派論壇人らしいのではあるが。

1402/日本共産党の大ペテン・大ウソ27-不破哲三・マルクス…(平凡社新書)01。

 前回に引用した日本共産党綱領の部分と同じ旨を不破哲三・マルクスは生きている(平凡社新書、2009)が述べている(p.196末尾~)ので、それも紹介しておこうと思った。
 だが、この欄で既述の第一の論点に関係するが、不破哲三の上の本は自分たちの過去についてつぎのように不正確なことを述べていることに気がついたので、批判的にコメントしておく。
 不破・上掲p.197は、こう書く。
 「…、日本共産党としても、私個人としても、ソ連への認識は大きく発展し、そのことが1991年のソ連解体のときには、『覇権主義という歴史的巨悪』の崩壊としてこれを歓迎するという声明となり、さらに3年後の94年の党大会での、ソ連社会は、覇権主義と専制主義を特質とする、社会主義とは無縁な人民抑圧型の社会であった、とする結論的な評価となって表明されたのでした。」
 日本共産党や不破哲三は、このように自分たちの1989/91~94年の言動をまとめておきたいのかもしれない。
 しかし、つぎの点で正確ではない。つまり、完全な誤りを含んでいる。
 第一。ソ連共産党の解体とソ連邦の解体とを、意図的にか混同させている。あるいは、この違いを、意図的にか、ごまかしている。
 不破は1991年に「『覇権主義という歴史的巨悪』の崩壊としてこれを歓迎するという声明」を出したとするが、日本共産党中央委員会常任幹部会が1991年9月1日付で出した声明は正確には「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する-ソ連共産党の解体にさいして」と題するもので、この表題でも明らかなようにソ連共産党の解体(解散)の際のものだ。したがって、上掲のように「1991年のソ連解体のとき」とするのは、大ウソ・大ゴマカシ。
 資料的に再度一部引用すれば、つぎのとおり。-「ソ連共産党の解体」、「長期にわたって…に巨大な害悪を流しつづけてきた大国主義、覇権主義の党が終焉をむかえたこと」は、「これと30年にわたって党の生死をかけてたたかってきた日本共産党として、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」。
 もちろんこの時点では、ソ連は社会主義国ではなかったとは一言も述べていない。
 第二。1991年12月末のソ連邦の解体(崩壊)の際の、同年12月23日付日本共産党中央委員会常任幹部会声明「ソ連邦の解体にあたって」は、「これを歓迎する」(上掲不破)という言葉をまったく用いていない
 不破哲三の上掲書は、上の二つのことを、おそらくは意図的にゴマカすものだ。つまり、こっそりと「大ウソ」をついて(そして「大ペテン」を仕掛けて)いる。
 なお、この時点でもソ連は社会主義国ではなかったとは一言も述べていない。「ソ連邦とともに解体したのは、科学的社会主義からの逸脱を特質としたゆがんだ体制であって、…いかなる意味でも、科学的社会主義の破綻をしめすものではない」と述べるにとどまる。ソ連は社会主義国ではなかったと明言したのは、上に不破も書くように、2年半ほどあとの1994年7月の党大会での綱領改正によってだ。
 第三。つぎの宮本賢治発言の趣旨を不破は無視している。
 すなわち、1991年12月21日のソ連崩壊をほとんど予想できたとみられる、つまり「党の崩壊につづいてソ連邦が崩壊しつつある」、崩壊直前の12月17日にインタビューを受けた同党中央委員会議長・宮本賢治はつぎのように語っていた。
 「レーニンのいった自由な同盟の、自由な結合がソ連邦になかったんだから、たちとしてはもろ手をあげて歓迎とはいいませんが、これはこれとして悲しむべきことでもないし、また喜ぶべきでもない、きたるものがきたという、冷静な受け止めなのです」(日本共産党国際問題重要論文集24(1993)p.182)。
 以上につき、この欄の本年6/11~7/11の「日本共産党の大ムペテン・大ウソ」18-21回を参照。
 当時、日本共産党指導部が<混乱>していたと見られることは、すでに書いた。党員たちは動揺していたに違いない。そして、不破哲三自身も含めて、幹部たちが手分けして、ほとんど同党党員が聴衆だったと推察される全国の<講演会>に出ていたのだ。
 ソ連共産党は解体してもソ連邦が崩壊しても、ソ連(・同共産党)の「覇権主義」等に原因があり、それ(当時は「大国主義」ともよく言っていた)と闘ってきた日本共産党は決して誤っていないと、-ソ連自体の「社会主義国家」性には触れることなく-同党の党員たちが党から離反しないように、必死の ?説得と強弁を続けていたのだ。
 不破哲三・上掲書の叙述は、このような過去をまつたく感じさせない。そして、なぜ1994年7月まで<ソ連のスターリン期の途中以降の「社会主義国」性否定>が遅れたのか、という理由にも触れていない。
 日本共産党・不破哲三は平然とウソをつき、語りたくない事実は平然と無視する。

1378/兵本達吉・メドヴェージェフ・レーニン02-日本共産党の大ウソ24予②。

 一 兵本達吉・日本共産党の戦後秘史(産経新聞社、2005)のp.443-4の論旨は、レーニンはネップ導入期に「社会主義に対する…見地全体が根本的に変化した」ことを認めており、これをまるで「社会主義の構想」自体を改めたかの如く理解する者もいるが、メドヴェージェフも述べるようにそのようなレーニン解釈は誤りだ、ということだ。メドヴェージェフはレーニンが「ネップにロシア革命の救いを求めようとした」との「馬鹿げた議論にクギをさし」た、というわけだ。
 しかし、兵本が言及するメドヴェージェフの、同・1917年のロシア革命(現代思潮社、1998)p.136-の叙述をそのように読むのは、相当に無理があるようだ。
 ・兵本がメドヴェージェフに言及する直前のメドヴェージェフの文章は、前回にも紹介のとおり「正統派マルクス主義の枠内でのネップの立案と、その根拠付け」はレーニンの「最も重要な理論的業績」だった、というものであり、つまりネップという経済政策を重要な理論的業績」と評価(?)するものだ。したがって、レーニンを(いかなる立場からであれ)擁護したい者・党派にとっては、その次のいわゆるレーニン引用文と併せて、スターリンとの違いを示す論述として、援用されてよい可能性があるだろう。
 ・兵本がメドヴェージェフから引用する「ネップへの移行はいうまでもなく、逸脱であった。しかし、ロシア共産党とソヴィエト・ロシアを破滅へとへと導きかねない誤った道からの逸脱であった」という部分は、つぎのようにも解釈できる。すなわち、「ネップへの移行」は「逸脱」ではあったが、「…破滅へとへと導きかねない誤った道からの逸脱」であって、<誤りからの逸脱>、つまり正しい(=適切な)選択だった、と。
 ・兵本がつぎに引用する、「ネップへの移行は1917年から1922年のロシア革命の終焉である」という部分は、つぎのようにも解釈できる。すなわち、たんに「ネップへの移行」期以降は、「1917年から1922年」までの時代とは区別されるべきである、という意味だと。換言すれば、「ネップ」期はレーニンらの権力掌握(憲法制定評議会選挙の無視も含む)と「戦時共産主義」の時期とは異なる新しい時期だ、という意味だと。
 「ロシア革命の終焉」とは社会主義(路線)の終焉を全く意味しておらず、「1917年から1922年のロシア革命」の時期が「終焉」したことを意味し、要するにロシア<社会主義>の歴史上の「1917年から1922年」が終わった(新しい時代に入った)ということを意味している、と十分に読める。
 ・兵本が引用していない、その直後のメドヴェージェフの文章は、「国家と党はまだきわめい慎重に、あまり自信なく改革の新しい道に足を踏み入れつつあった」(p.137)というものだ。ここでは、ネップについて「改革の新しい道」が語られている。
 以上のことからすると、メドヴェージェフの叙述を、ネップに「ロシア革命の救いを求め」る議論に「グギをさし」たものと理解・解釈するのはかなり無理があると思われる。
 もちろん、メドヴェージェフはレーニンはネップ導入によって「市場社会主義」とか「市場経済」とかの従来とは質的に全く異なる路線を選択した、などとは書いていない。
 だが、メドヴェージェフは、ロシア「社会主義」の歴史を淡々と叙述したもので、ソ連崩壊後に来日したという彼が日本共産党のネップ理解や主張を知っていたのかどうかは知らないが、日本共産党のような議論を意識して、ネップやレーニンに論及しているわけではないように読める。
 二 メドヴェージェフは、兵本引用部分のあとで、つぎのようにも叙述している。
 レーニン/ネップを、どのような立場からであれ、全面的に擁護しているわけでも、全面的に非難しているわけでもないことは明らかだろう。
 兵本達吉から離れるが、彼なりに、レーニン/ネップの意味を理解・総括しようしているのだと思われる。
 ・レーニンは「社会主義について、社会的関心と個人的関心を、また大規模産業と小規模産業とを調和させる社会として述べ」はじめた。彼にとって、「あらゆる種類や形態の協同組合の発展は資本主義の発達ではなく、社会主義の発達」だった(p.137-8)。
 ・レーニンは「ロシアを社会主義的に発展させる新しい戦略的計画」を「より綿密に練り上げる」ことができなかった。レーニンが書いたのは「草案」で、独仏の社会民主主義者が自国について示した道よりも「はるかに複雑なものになる」ことが予想できた。
 ・ネップは「相対的後進国」でかつ「資本主義に包囲された条件の下で資本主義と社会主義を同時に発展させようとする計画」だったので、「最大限の慎重さ、用意周到さを必要」とした。しかし、それが「現実的計画」だった。この計画は「1927年まで基本的に遂行され。明確にされた」。
 ・「1920年代の現実的条件の下では、ネップこそがソヴィエト・ロシアにとって容易ではないが最良の繁栄への道を開くもの」だった。
「1920年代末」にスターリンはこれを放棄した(以上、p.139)。
 抜粋引用の紹介終わり。
 メドヴェージェフは旧ソ連国家内部での「反体制知識人」だったらしい。かつて「反体制」的だったとしても実際のソ連共産党支配に反発していただけのことで、社会主義・共産主義(理論)一般を批判・否定していたと即断することはできない。
 また、監訳者の一人・沼野充義によると、ソ連崩壊の前後を通じてメドヴェージェフの「理想主義と批判精神」は変わっていないという(p.214-217)。
 沼野充義自身の「立場」・考え方に言及するのは避けるが、こうしたことも併せて考えると、メドヴェージェフが上のようにレーニン/ネップについて語っていることは、レーニン/ネップを肯定的に評価しすぎている、あまりにも「美化」しすぎている、と感じられる。だが、そのことは、ここでのテーマではまだない。
 三 では、いわゆるレーニン引用文はいかなる意味のものだったのか。あまり生産的・建設的な問題ではなさそうだが、行きがかり上、次の回で扱う。
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